佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)始動 序・目次・一~八 遠野地誌・異形の山人・サムトの婆
[やぶちゃん注:本書は明治四三(一九一〇)年六月十四日、『著者兼發行者』を『柳田國男』として東京の聚精堂より刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認し、不審箇所は「ちくま文庫」版全集第四巻(一九八九年刊)の「遠野物語」で校合した。
「遠野物語」は『柳田民俗学の出発を告げる記念碑的作品』(「ちくま文庫」第四巻帯コピー)等と謳われ、現行の「遠野物語」は、皆、柳田國(国)男著となっている。しかし、私は「遠野物語」は佐々木喜善(「鏡石」はペン・ネーム。一九九四年筑摩書房刊内藤正敏「遠野物語の原風景」によれば、敬愛していた泉鏡花に由来するとある)の存在なくして存在も成立しなかったし、その民俗学へ与えた多大な功績の核心部分は佐々木喜善の採話収集と語りにこそあると考える人間であり、柳田國男の著作として、佐々木喜善の名が退いていることを最初に本書を読んだ中学時代から強く不満に思い続けてきた。ここにその最も最初のものを、初出で示すのは、本書に於ける佐々木喜善の復権を求める意味が第一にある。その点で、この国立国会図書館デジタルコレクションの書誌情報に、ただ序の柳田の『この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり』とあるだけにも拘わらず、『佐々木(鏡石)喜善 述』『柳田國男 著』とされた国立国会図書館の図書館司書の方に私は快哉を叫んだ。私は本書を手にして以来ずっと――「遠野物語」の書誌は佐々木喜善・述/柳田國男編とすべきものである――と思い続けてきた。それを実に凡そ四十八年後に実行に移すことが出来ることをすこぶる嬉しく思うのである。
佐々木喜善(ささききぜん 明治一九(一八八六)年十月五日~昭和八(一九三三)年九月二十九日:名は「繁」とも称した)は民俗学者で作家。ウィキの「佐々木喜善」によれば、『一般には学者として扱われるが』、『佐々木自身は、資料収集者であり』、『学者ではないと述べている』。『オシラサマやザシキワラシなどの研究と』、四百『編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される』。『岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。祖父は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、上京して哲学館(現在の東洋大学)に入学するが、文学を志し』、『早稲田大学文学科に転じ』、明治三八(一九〇五)年頃より、『佐々木鏡石(きょうせき)の筆名で小説を発表し始め』た。明治四一(一九〇八)年頃、『柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。このとき、喜善は学者とばかり思っていた柳田の役人然とした立ち振る舞いに大いに面食らったという。晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている』。明治四三(一九一〇)年に『病気で大学を休学し、岩手病院へ入院後、郷里に帰る。その後も作家活動と民話の収集・研究を続ける傍ら、土淵村村会議員・村長』(在任期間は大正一四(一九二五)年九月二十七日から昭和四(一九二九)年四月四日)『を務め』たが、『慣れない重責に対しての心労が重なり』、『職を辞』した。『同時に』、『多額の負債を負った喜善は』、『家財を整理し』、『仙台に移住』、『以後』、『生来の病弱に加え』、生活も困窮、満四十六歳で病没した。『神棚の前で「ウッ」と一声唸っての大往生だったという。「日本のグリム」の名は、喜善病没の報を聞いた言語学者の金田一京助によるもの』大正八(一九一九)年、『「ザシキワラシ」の調査のために照会状を出して以来』二年ほど、「アイヌ物語」『の著者である武隈徳三郎と文通があ』り、また、かの宮沢賢治(つい先日、私はリンク先で宮澤賢治「心象スケツチ 春と修羅」正規表現版・附全注釈を完遂している)『とも交友があった』。昭和三(一九二八)年、賢治の童話「ざしき童子のはなし」(詩人尾形龜之助(私はリンク先その他で彼の多くの電子化を手掛けている)主宰の雑誌『月曜』(大正一五(一九二六)年二月号掲載)の『内容を自著に紹介するために手紙を送ったことがそのきっかけで』、その後、昭和七(一九三二)年には喜善が『賢治の実家を訪れて数回面談し』ている。『賢治は当時既に病床に伏していたが、賢治が居住していた花巻町(現:岩手県花巻市)と遠野市の地理的な近さもあり、晩年の賢治は病を押して積極的に喜善と会っていたことが伺われる』。『幼少期から怪奇譚への嗜好があり、哲学館へ入学したのは井上円了の妖怪学の講義を聞くためだったという。しかし、実際は臆病な性格だったらしく、幼少時、祖父から怪談話を聞いた夜は一人布団に包まってガタガタ震えていたこともあった。また、巫女や祈祷師にすがったり、村長をつとめていた際も自身の見た夢が悪かったため出勤しないなどの行動があった』。明治三六(一九〇三)年『にはキリスト教徒となるが』、後、昭和二(一九二七)年には『神主の資格を取得』、二年後の昭和四年には、『京都府亀岡町(現:亀岡市)の出口王仁三郎を訪問し、地元に大本教の支部を作っている。また、佐々木は一般に流布しているイメージのような「素朴な田舎の語り部」ではなく、モダン好みの作家志望者であり、彼が昔話の蒐集を始めるようになったのは、作家として挫折したためである』。主な著作に昔話集「紫波郡昔話」「江刺郡昔話」「東奥異聞」「農民俚譚」「聴耳草紙」「老媼夜譚」、研究及び随筆としては「奥州のザシキワラシの話」「オシラ神に就いての小報告」「遠野手帖」「鳥虫木石伝」他がある。以上の引用に出た、晩年の柳田が「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」というのは、「遠野物語」成立に就いて、しばしば語られるエピソードであるが、これ自体が、柳田が本書を自作の代表作と自負し、それを正当化するために述べた言い訳としか私には思われない。実際、後の佐々木の「聴耳草紙」や「老媼夜譚」を読むに、「遠野物語」などとても書けそうもない、方言丸出しでそれが直せそうもないレベルの人品をそこに見ることは全く不可能である。勿論、彼が聴き取りを整序するに、『漢文訓読体に近い独特の』『文語文体を採用した』ことが『他に類を見ない深い陰影に富んだ独特の文学的世界を獲得し』(「ちくま文庫」版全集の永池健二氏の「解説」より)得た事実は、認めよう。しかし、〈柳田國男は狭義の文学者・作家ではない〉。農務官僚・貴族院書記官長・枢密顧問官などを歴任した〈辛気臭くお上のご機嫌を伺うことままある官僚〉であり、民俗学なんたるやの右も左も判らない時代の多分に権威的な民俗学者の一人に過ぎない〉(彼と折口信夫の間には私は性的象徴問題を民俗学で扱うことについて制限しようというような密約があったのではないかとずっと疑っている。実際に南方熊楠は柳田國男のそうした偏頗を直に批判している。それほど本邦の民俗学は現在でも未だにどこか妙に一般的に非現実的に健全に過ぎ、嘘臭く、漂白剤臭い)。私は彼の一部の考察には面白さ(但し、都合の悪い事例を除いて論を構築するという学者としては許されない資料操作も多々ある)を感じ、「蝸牛考」や「一つ目小僧その他」等の電子化注もこのカテゴリ「柳田國男」で手掛けてきたが、柳田國男の文体や表現が〈文学的に洗練されているとは私は逆立ちしても思わない〉。
もう一度、言う。「遠野物語」はあくまで佐々木喜善の成果物である。
なお、ウィキの「遠野物語」には想像を絶する本書についての詳細な解説記載が載る。本電子化と突き合わせて詠まれるとよかろうと存ずる。それによれば、表紙に見る通り全発行部数は三百五十部で、『印刷者は今井甚太郎、印刷所は杏林舎で、発行所は無く自費出版として刊行された』(底本の奥附参照。ちゃっかり右ページに柳田國男の著作の広告が載っているのがいやらしい)『売捌所として聚精堂(田中増蔵)が挙げられ』、『販売されている』。『第』一『号は佐々木へ贈られ』、第二『号は柳田本人用であった』。『柳田の前著である』「石神問答」(明治四三(一九一〇)年刊。同じ聚精堂。これ(国立国会図書館デジタルコレクション))は、『難解だったためか』、『あまり売れ行きが芳しくなかったのに対し』、「遠野物語」は『僅か半年ほどで印刷費用をほぼ回収できた』。二百部は『柳田が買い取り』、『知人らに寄贈し、寄贈者では島崎藤村や田山花袋、泉鏡花が積極的な書評を書いた』。「遠野物語」を『購読した人たちには』、『作家に芥川龍之介や南方熊楠、水野葉舟らがおり、ニコライ・ネフスキー、柴田常恵、小田内通敏など学者にも購読者がいる』。『特に芥川は本著を購入した当時』、満十八『歳であったが、親友に宛てた書簡に「此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ大へん面白く感じ候」と書き綴っている』(推定明治四十三年で月不明の七日附。友人の山本喜譽司宛封書。旧全集書簡番号四三。正確には手紙本文では『遠野語』と脱字している。この年の三月に東京府立第三中学校を二番で卒業、八月五日に無試験で第一高等学校一部乙類(文科)に推薦で合格している。書簡内容から見て一高入学(九月十三日)後のものであるから、十~十二月の孰れかの七日であろう)。『当時はあくまで奇異な物語を、詩的散文で綴った文学作品として受け入れられた一方、田山花袋や島崎藤村などからは「粗野を気取った贅沢」あるいは「道楽に過ぎない作品」といった批判的な見方もみられた』。『民間伝承に焦点を当て、奇をてらうような改変はなく、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら』、『文学的な独特の文体であることが高く評価されている』とはある。
初版本原典の雰囲気を味わうというコンセプトから、標題漢数字や頭注内のカタカナをゴシックで示しており、本文は明朝であるので、それも再現することとする。但し、本文の頭書と橫罫、その下に本文という形式はブログ・ブラウザでは不能であるため、橫罫は無しとし、ポイント落ちの頭書は【 】で括って同ポイントで本文内の適切と思われる位置に附すこととし、連続している各話の間も行空けを施して見易くすることとした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。また、カタカナの「ネ」を「子」と表記しているのは読み難いので、「ネ」に変えた。
以上のような主旨が本電子化のそれであるからして、注は今までの柳田國男の電子化とは異なり、不審な箇所や意味不明の箇所にのみ、ストイックに附すこととする。読みは注では歴史的仮名遣で示す。「ちくま文庫」のそれを参考にはするが、その中には編者が勝手に附したものが含まれることから、必ずしも従っていない。迷うものは、複数出した。
なお、加工用電子データとして「青空文庫」のこちらのベタ・テクスト・データ(底本「遠野物語・山の人生」(平成一九(二〇〇七)年岩波書店岩波文庫刊・Nana ohbe氏入力・阿部哲也氏校正・二〇一二年十二月十六日作成版)を使用させて貰った。ここに謝意を表しておく。なお、私の底本としたものには地図が附帯しない。上記「青空文庫」版には「遠野物語増補版」(昭和一〇(一九三五)年郷土研究社刊)の画像が載り、見易く本文を読み解く際の良き資料となるので、そのまま加工せずに以下に示させて戴くこととする。
【二〇一八年十二月十八日曙始動 藪野直史】]
三百五十部ノ内 第 五二 號
遠 野 物 語
[やぶちゃん注:見開き。発行部数の記載の「五二」は手書き。]
此書を外國に在る人々に呈す
[やぶちゃん注:見開きの次の次の左ページ中央の柳田國男の献辞。
以下は、その次の次の左ページから始まる柳田國男の序。標題はない。底本では一行二十五字で全体が下インデントとなっている。]
此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年[やぶちゃん注:一九〇九年。]の二月ごろより始めて夜分おりおり訪ね來り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠實なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。思ふに遠野鄕には此類の物語猶數百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。國内の山村にして遠野より更に物深き所には又無數の山神山人の傳說あるべし。願はくは之を語りて平地人を戰慄せしめよ。此書の如きは陳勝呉廣のみ。
[やぶちゃん注:「此書の如きは陳勝呉廣のみ」厭らしい言い方である。ただ「先駆け」とすれば事足りる。秦を滅ぼすプレの反乱で鎮圧されてしまった陳勝呉広の乱に本作を擬え、これはちょっとした打ち上げ花火で終わるが、この本が契機となって地方の民話採集が燎原の火の如く広がらんことを切望すると表向きはいうのであろうが、「陳勝」とくれば、「燕雀安知鴻鵠之志哉」(燕雀安(いづくん)ぞ鴻鵠の志を知らんや)で、「遠野物語」を新興日本民俗学の金字塔と自負する柳田の底意が透いて見えると私は思う。だからいやらしい。]
昨年八月の末自分は遠野鄕に遊びたり。花卷(はなまき)より十餘里の路上には町場三ケ所あり。其他は唯靑き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。或は新道なるが故に民居の來り就ける者少なきか。遠野の城下は則ち煙花の街なり。馬を驛亭の主人に借りて獨り郊外の村々を巡りたり。其馬は黔き[やぶちゃん注:「くろき」。]海草を以て作りたる厚總[やぶちゃん注:「あつぶさ」。馬具の面繋(おもがい)・胸繋(むながい)・尻繋(しりがい)の各部に附けた糸の総を特に厚く束にして垂らしたもの。]を掛けたり。虻多き爲なり。猿ケ石[やぶちゃん注:本文に出る河童の棲み家とされる川。]の溪谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸國其比を知らず。高處より展望すれば早稻正に熟し晚稻は花盛にて水は悉く落ちて川に在り。稻の色合は種類によりて樣々なり。三つ四つ五つの田を續けて稻の色の同じきは卽ち一家に屬する田にして所謂名處(ミヤウシヨ)[やぶちゃん注:公称地名。]の同じきなるべし。小字(こあざ)よりさらに小さき區域の地名は持主に非ざれば之を知らず。古き賣買讓與の證文には常に見ゆる所なり。附馬牛[やぶちゃん注:村名。本文「一」に出、そこでは「つくもうし」と振る。なお、その後の行政地名では「つきもうし」。]の谷へ越ゆれば早地峯[やぶちゃん注:「はやちね」。早池峰山。現行では「池」だが、本文でも「地」となっている。後注参照。]の山は淡く霞み山の形は菅笠の如く又片假名のへの字に似たり。此谷は稻熟すること更に遲く滿目一色に靑し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて橫ぎりたり。雛の色は黑に白き羽まじりたり。始は小さき雞かと思ひしが溝の草に隱れて見えざれば乃ち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊あり。玆にのみは輕く塵たち紅(あか)き物聊かひらめきて一村の綠に映じたり。獅子踊と云ふは鹿の舞なり。鹿の角を附けたる面を被り童子五六人劍を拔きて之と共に舞ふなり。笛の調子高く歌は低くして側[やぶちゃん注:「かたはら」。]にあれども聞き難し。日は傾きて風吹き醉ひて人呼ぶ者の聲も淋しく女は笑ひ兒[やぶちゃん注:「こ」。]は走れども猶旅愁を奈何ともする能はざりき。盂蘭盆に新しき佛ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上に於て東西を指點するに此旗十數所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人と又かの悠々たる靈山とを黃昏[やぶちゃん注:「たそがれ」。]は徐に來りて包容し盡したり。遠野鄕には八ケ所の觀音堂あり。一木を以て作りしなり。此日報賽[やぶちゃん注:「ほうさい」。狭義には祈願が成就したお礼に神仏に参拝すること、お礼参りを指す。ここは秋の例大祭であろう。]の徒多く岡の上に燈火見え伏鉦[やぶちゃん注:「ふせがね」。鉦の縁に小さな三つ足のついたもので、通常、伏せて上から柳撞木(やなぎしゅもく)で打つ。主に念仏講で打つもので、念仏鉦とも呼ばれる。]の音聞えたり。道ちがへ[やぶちゃん注:辻。]の叢の中には雨風祭の藁人形あり。恰もくたびれたる人の如く仰臥してありたり。以上は自分が遠野鄕にて得たる印象なり。
[やぶちゃん注:ウィキの「遠野物語」によれば、柳田國男の遠野訪問は、明治四二(一九〇九)年)八月二十三日で、前日二十二日日曜日の午後十一時上野発海岸回り青森行きの夜行列車に乗り、翌二十三日に花巻駅で下車し、『人力車に乗り換え、矢沢村、土沢、宮守、と経て』、『鱒沢の沢田橋のたもとにあった木造三階建ての宿屋で食事と人力車を乗り継ぎ、遠野に到着したのは夜の』八『時で』、『遠野では高善旅館に宿をと』ったとある。
「早地峯」「花巻市」公式サイト内の「早池峰山について」の由来の一説に『「開慶水(かいけいすい」の伝説』というのがあり、『山頂に開慶水』『という小さな池があって、この池はどんなに暑くても水が枯(か)れる事がなく、またどんなに大雨になっても水があふれることがありませんでした』。『しかし、手を入れたり、水を飲んだり、人の影が池に映ると水が枯』『れてしまいます。水が枯』『れてしまった時は、修験者』『に頼んで祈願』『してもらうと、すぐ元に戻』『ります。このことから、「早地(はやち)の泉」(水が枯』『れたり、湧』『いたりするのが早いという意味です)と呼』『ばれました。この事が山の名前になったのではないかといわれていて、この言い伝えが一番有名です』とあるので、この「地」は誤りではないのである。
「雨風祭」「あめかぜまつり」。本書の「一〇九」話に出る。風雨の害を避けるための呪術的な行事。通常は男女二体の形代(かたしろ)の人形を村境まで送って行き、捨てたり、焼いたりする。東北地方で言う。]
思ふに此類の書物は少なくも現代の流行に非ず。如何に印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狹隘なる趣味を以て他人に强ひんとするは無作法の仕業なりと云ふ人あらん。されど敢て答ふ。斯る[やぶちゃん注:「かかる」。]話を聞き斯る處を見て來て後之を人に語りたがらざる者果してありや。其樣な沈默にして且つ愼深き[やぶちゃん注:「つつしみふかき」。]人は少なくも自分の友人の中にはある事なし。況や我が九百年前の先輩今昔物語[やぶちゃん注:「今昔物語集」。]の如きは其當時に在りて既に今は昔の話なりしに反し此は是[やぶちゃん注:「これはこれ」。]目前の出來事なり。假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]敬虔)の意と誠實の態度とに於ては敢て彼を凌ぐことを得といふ能はざらんも人の耳を經ること多からず人の口と筆とを倩ひたる[やぶちゃん注:「やとひたる」。ここは「雇うことが出来る」の意。]こと甚だ僅(わずか)なりし點に於ては彼[やぶちゃん注:「か」。指示語。]の淡泊無邪氣なる大納言殿[やぶちゃん注:後注参照。]却つて來たり聽くに値せり。近代の御伽百物語の徒に至りては其志や既に陋且つ決してその談の妄誕に非ざることを誓ひ得ず。窃に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]以て之と鄰を比するを恥とせり。要するに此書は現在の事實なり。單に此のみを以てするも立派なる存在理由ありと信ず。唯鏡石子は年僅に二十四五[やぶちゃん注:出版時は満二十四歳。]自分も之に十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも辨へず、其力を用ゐる所當[やぶちゃん注:「たう」。]を失へりと言ふ人あらば如何。明神の山の木兎[やぶちゃん注:「みみづく」。]の如くあまりに其耳を尖らしあまりに其眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非も無し。此責任のみは自分が負はねばならぬなり。
おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの
森のふくろふ笑ふらんかも
柳 田 國 男
[やぶちゃん注:「大納言殿」平安中期の公卿で文学者であった源隆国(寛弘元(一〇〇四)年~承保四(一〇七七)年)。藤原道長子藤原頼通の知遇を得た。治暦三(一〇六七)年、権大納言。宇治に別荘を営み、宇治大納言と呼ばれた。宇治で行人から聞いた説話を集めて「宇治大納言物語」 (散逸) を著わしたと伝えられ、「今昔物語集」以下の後代の説話集に大きな影響を与えた。嘗ては「今昔物語集」の作者とも比定されていた。ここはその説或いは説話蒐集好きとされた彼を引き合いに出したもの。
最後の和歌は底本では「笑ふらんかも」で改行されており、署名も下二字上げのインデント。
以下、目次。底本は前の序と同じ版組。引き上げた。話柄番号の漢数字と読点は底本では明朝半角。]
題 目
(下の數字は話の番號なり、頁數には非ず)
地勢 一、五、六七、一一一
神の始 二、六九、七四
里の神 九八
カクラサマ 七二-七四
ゴンゲサマ 一一〇
家の神 一六
オクナイサマ 一四、一五、七〇
オシラサマ 六九
ザシキワラシ 一七、一八
山の神 八九-九一、九三、一〇一、一〇七、一〇八
[やぶちゃん注:「一〇一」は「一〇二」の誤り。全集では補正されてある。]
神女 二七、五四
天狗 二九、六二
[やぶちゃん注:「九〇」が脱落。全集では補正されてある。]
山男 五、六、七、九、二八、三〇、三一、九二
山女 三、四、三四、三五、七五
山の靈異 三二、三三、六一、九五
仙人堂 四九
蝦夷の跡 一一二
塚と森と 六六、一一一、一一三、一一四
姥(ウバ)神 六五、七一
館(タテ)の址 六七、六八、七六
昔の人 八、一〇、一一、一二、二一、二六、八四
家のさま 八〇、八三
家の盛衰 一三、一八、一九、二四、二五、三八、六三
マヨイガ 六三、六四
前兆 二〇、五二、七八、九六
魂の行方 二二、八六-八八、九五、九七、九九、一〇〇
まぼろし 二三、七七、七九、八一、八二
雪女 一〇三
河童 五五-五九
猿の經立(フツタチ) 四五、四六
猿 四七、四八
狼(オイヌ) 三六-四二
熊 四三
狐 六〇、九四、一〇一
色々の鳥 五一-五三
花 三三、五〇
小正月の行事 一四、一〇二-一〇五
雨風祭 一〇九
昔々 一一五-一一八
歌謠 一一九
遠野物語
一 遠野鄕は今の陸中上閉伊(カミヘイ)郡の西の半分、山々にて取り圍まれたる平地なり。新町村(シンチヤウソン)にては、遠野、土淵(ツチブチ)、附馬牛(ツクモウシ)、松崎、靑笹、上鄕(カミゴウ[やぶちゃん注:ママ。])、小友(ヲトモ)、綾織(アヤオリ)、鱒澤(マスザハ)、宮守(ミヤモリ)、達曾部(タツソベ)の一町十ケ村に分つ。近代或は西閉伊郡とも稱し、中古にはまた遠野保(トホノホ)とも呼べり。今日郡役所の在る遠野町は卽ち一鄕の町場(マチバ)にして、南部家(ナンブケ)一萬石の城下なり。城を橫田城(ヨコタジヤウ)とも云ふ。此地へ行くには花卷(ハナマキ)の停車場にて汽車を下(オ)り、北上川(キタカミガハ)を渡り、其川の支流猿ケ石川(サルガイシガハ)の溪(タニ)を傳(ツタ)ひて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奧には珍しき繁華の地なり。傳へ言ふ、遠野鄕の地大昔はすべて一圓の湖水なりしに、其水猿ケ石川(サルガイシガハ)と爲りて人界に流れ出でしより、自然に此の如き邑落をなせしなりと。されば谷川のこの猿ケ石に落合ふもの甚だ多く、俗に七内八崎(ナヽナイヤサキ)ありと稱す。内(ナイ)は澤又は谷のことにて、奧州の地名には多くあり。
【○遠野鄕のトーはもとアイヌ語の湖といふ語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり】
[やぶちゃん注:ウィキの「遠野物語」によれば、遠野郷は、『近代までは西閉伊郡とも称され、さらに遡れば遠野保とも呼ばれた。役所の存在する遠野町は、鍋倉山にある横田城とも称される要害屋敷を中心に小さくも城下町としての外観を有し、山奥としては珍しい繁華の地として賑わいをみせていた。伝説では太古遠野の地は一円の湖であったとされており、またアイヌ語の「To(湖)」+「Nup(丘原)」に遠野の語源があるという由来譚も存在している』とある。]
二 遠野の町は南北の川の落合(オチアヒ)にあり。以前は七七十里(シチシチジウリ)とて【○この一里は小道卽ち坂東道なり、一里が五丁又は六丁なり[やぶちゃん注:「坂東道」(ばんどうみち)とは「坂東路」「田舎道」を意味する語で、通常の一里とは異なる特殊な路程単位である。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったのである。「五丁」(=五町)は五百四十五メートル半。]】、七つの溪谷各々七十里の奧より賣買(バイバイ)の貨物を聚(アツ)め、其市(イチ)の日は馬千匹、人千人の賑(ニギ)はしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早地峯(ハヤチネ)という、北の方附馬牛(ツクモウシ)の奧にあり。東の方には六角牛(ロツコウシ)山立てり。石神(イシガミ)と云ふ山は附馬牛と達曾部(タツソベ)【○タツソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字あり】との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に來たり、今の來内(ライナイ)村【○上鄕村大字來内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは澤なり、水の靜かたるよりの名か】の伊豆權現の社ある處に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を與ふべしと母の神の語りて寢たりしに、夜深く天より靈華降(フ)りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覺(サ)めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に[やぶちゃん注:「つひに」。]最も美しき早地峰の山を得、姊たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬[やぶちゃん注:「ねたみ」。]を畏れて今も此山には遊ばずと云へり。
[やぶちゃん注:ウィキの「遠野物語」によれば、『草稿版には夢の中でそれぞれの娘にそれぞれの山が宛がわれたという記載は無く、姉から奪うことで利益を得たという妹の行為に対して柳田の手が加えられたと考えられている』(そんなことしていいの? 柳田先生?)。『早池峰山はその経緯より、盗みを働いた者がその発覚を免れるよう願掛けをする、といったことでも霊験を得られると考えられ、早地峰信仰の普及に一役買ったとされている。また、これら』三『つの山は女神が住まう山である為、遠野の人たちは神罰を恐れ、戦前までこの山には女性が入ることが禁じられていた。かつて神職であるため差支えがないと石上山に入った巫女はその琴線にふれ、大雨風が起こり、姥石と牛石になってしまったという逸話も残されている』とある。]
三 山々の奧には山人住めり。栃内(トチナイ)村【○土淵村大字栃内】和野(ワノ)の佐々木嘉兵衞と云ふ人は今も七十餘にて生存せり。此翁若かりし頃獵をして山奧に入りしに、遙かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黑髮を梳(クシケヅ)りて居たり。顏の色極めて白し。不敵の男なれば直に銃(ツヽ)を差し向けて打ち放せしに彈(タマ)に應じて倒れたり。其處に馳け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黑髮は又そのたけよりも長かりき。後の驗(シルシ)にせばやと思ひて其髮をいさゝか切り取り、之を綰(ワガ)ねて[やぶちゃん注:束ねて。]懷(フトコロ)に入れ、やがて家路に向ひしに、道の程にて耐(タ)へ難く睡眠を催しければ、暫く物陰に立寄りてまどろみたり。其間夢(ユメ)と現(ウツヽ)との境のやうなる時に、是も丈(タケ)の高き男一人近よりて懷中に手を差し入れ、かの綰ねたる黑髮を取り返し立去ると見れば忽ち睡[やぶちゃん注:「ねむり」。]は覺めたり。山男なるべしと云へり。
四 山口村の吉兵衞と云ふ家の主人【○土淵村大字山口、吉兵衞は代々の通稱なれば此主人も亦吉兵衞ならん】、根子立(ネツコダチ)と云ふ山に入り、笹を苅りて束(タバ)と爲し擔(カツ)ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奧の方なる林の中より若き女の穉兒(ヲサナゴ)を負ひたるが笹原の上を步みて此方[やぶちゃん注:「こちら」。]へ來るなり。極めてあでやかなる女にて、これも長き黑髮を垂れたり。兒を結(ユ)ひ付けたる紐(ヒモ)は藤の蔓にて、著たる[やぶちゃん注:「きたる」。]衣類は世の常の縞物[やぶちゃん注:「しまもの」。]なれど、裾のあたりぼろぼろに破れたるを、色々の木の葉などを添へて綴(ツヾ)りたり。足は地に著(ツ)くとも覺えず。事も無(ナ)げに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方へか行き過ぎたり。此人はその折の怖ろしさより煩(ワヅラ)ひ始(ハジ)めて、久しく病みてありしが、近き頃亡(ウ)せたり。
五 遠野鄕より海岸の田ノ濱(タノハマ)、吉利吉里(キリキリ)などへ越ゆるには、昔より笛吹峠(フエフキタウゲ)と云ふ山路あり。山口村【○山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり】より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年此峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢ふより、誰も皆怖ろしがりて次第に往來も稀になりしかば、終に別の路を境木峠(サカヒゲタウゲ[やぶちゃん注:ママ。「サカヒギタウゲ」の誤植であろう。])と云ふ方に開き、和山(ワヤマ)を馬次場(ウマツギバ)として今は此方ばかりを越ゆるやうになれり。二里以上の迂路なり。
[やぶちゃん注:「笛吹峠」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「境木峠」ここ(グーグル・マップ・データ)。笛吹峠の北約四キロメートル。当該地図内に佐々木喜善の生家の表示がある。]
六 遠野鄕にては豪農のことを今でも長者と云ふ。靑笹村大字糠前(ヌカノマヘ)の長者の娘、ふと物に取り隱されて[やぶちゃん注:所謂、世間で言う神隠しに遇って。]年久しくなりしに、同じ村の何某と云ふ獵師、或日山に入りて一人の女に遭(ア)ふ。怖ろしくなりて之を擊たんとせしに、何おぢでは無いか、ぶつな[やぶちゃん注:撃つな。]と云ふ。驚きてよく見れば彼の長者がまな娘なり。何故にこんな處にはおるぞと問へば、或物に取られて今は其妻となれり。子もあまた生(ウ)みたれど、すべて夫(ヲツト)が食ひ盡して一人此の如く在り。おのれは此地に一生涯を送ることなるべし。人にも言ふな。御身も危ふければ疾(ト)く歸れと云ふまゝに、其在所をも問ひ明らめずして遁げ還れりと云ふ。
[やぶちゃん注:私が「遠野物語」を最初に読んで、まず深く哀れを感じた一条である。]
【○糠の前は糠の森の前に在る村なり糠の森は諸國の糠塚と同じ遠野鄕にも糠森糠塚多くあり】
[やぶちゃん注:「糠塚」「糠森」は全国の古墳特に円墳や前方後円墳に対して用いられた伝承名で、「糠」については、例えば、福島県大沼郡金山町大字川口字谷地にある、「糠塚古墳」については、『川口村と大志村の境争い(山論)で奉行による調停の際、川口村の名手が奉行を怒らせ死罪(糠をかけ生き埋め)にした墓であると言う伝説がある』と、「金山町」公式サイト内のこちらにある。]
七 上鄕村の民家の娘、栗を拾ひに山に入りたるまゝ歸り來らず。家の者は死したるならんと思ひ、女のしたる枕を形代(カタシロ)として葬式を執行(トリオコナ)ひ、さて二三年を過ぎたり。然るに其村の者獵をして五葉山(ゴエウザン)の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽ひかゝりて岩窟のやうになれる所にて、圖(ハカ)らず此女に逢ひたり。互に打驚き、如何にしてかゝる山には居るかと問へば、女の曰く、山に入りて恐ろしき人にさらはれ、こんな所に來たるなり。遁げて歸らんと思へど些(イサヽカ)の隙(スキ)も無しとのことなり。其人はいかなる人かと問ふに、自分には竝(ナミ)の人間と見ゆれど、ただ丈(タケ)極めて高く眼の色少し凄(スゴ)しと思はる。子共も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子には非ずと云ひて食(クラ)ふにや殺すにや、皆何れへか持ち去りてしまふ也と云ふ。まことに我々と同じ人間かと押し返して問へば、衣類なども世の常なれど、たゞ眼の色少しちがへり。一市間(ヒトイチアヒ)【○一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり月六度の市なれば一市間は卽ち五日のことなり】に一度か二度、同じやうなる人四五人集り來て、何事か話を爲し、やがて何方(ドチラ)へか出て行くなり。食物など外より持ち來るを見れば町へも出ることならん。かく言う中(ウチ)にも今にそこへ歸つて來るかも知れずと云ふ故、獵師も怖ろしくなりて歸りたりと云へり。二十年ばかりも以前のことかと思はる。
八 黃昏(タソガレ)に女や子共の家の外に出て居る者はよく神隱しにあふことは他(ヨソ)の國々と同じ。松崎村の寒戶(サムト)と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履(ザウリ)を脫(ヌ)ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集まりてありし處へ、極めて老いさらぼいて其女歸り來れり。如何にして歸つて來たかと問へば、人々に逢ひたかりし故歸りしなり。さらば又行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。其日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野鄕の人は、今でも風の騷がしき日には、けふはサムトの婆(バヾ)が歸つて來さうな日なりと云ふ。
[やぶちゃん注:強烈な印象を残す一話である。神隠しの対象者が「サムトの婆」という妖怪的存在に成り、しかもそれは恐ろしいというよりは、やはり何か深い哀れを催させるものである。現実的な解釈をするならば、何らかの精神疾患によって狂走し、山中に入ったものとも思われ、一読、忘れ難い。サイト「日本鑑定」の「第2話 寒戸(サムト)の婆(ばあ)」が、佐々木喜善が後に『民俗文芸特輯』第二号(昭和五(一九三〇)年三月発行)の「縁女綺聞」で語った類話を載せ、総合的に分析を試みておられる。必見。ウィキの「寒戸の婆」では佐々木の類話を示した上で、『「登戸(のぼと)」という地名は松崎村に実在することから、こちらの佐々木の話が原話であり、「寒戸」は「登戸」の誤記、または柳田の聞き間違いとの指摘があるが』、『「のぼと」と「さむと」の聞き間違えや、「寒」を「登」と誤植する可能性は低く、さらに佐々木の話では』、『老婆がその後も何度も村を訪れたなどの差異が認められることから、柳田が意図的に話を改変したものと見る向きもある』。『また、登戸のある旧家では、明治初期に茂助という当主の娘が消息を絶ち、数十年後に山姥のような姿に成り果てて村に現れたと伝えられており、これが伝説のモデルともいわれる』。『この伝説は現地では「モンスケ婆」などと呼ばれて恐れられ、強風の日にはモンスケ婆が村に姿を現すといわれたり、上閉伊郡土淵村(現・遠野市)では泣き喚く子供を「モンスケ婆様来るぞ」と言って叱りつけたりもしていた。しかし『遠野物語』が有名になり、『遠野物語』の多くの語り手が「寒戸の婆」を語ることで、「登戸の婆」が「寒戸の婆」の名で、遠野の伝承として定着する結果となっている』。『なお』、『伝承を示す史跡は現地には特になく、遠野市松崎町の登戸橋付近に伝説内容を記した案内碑が建てられているのみである』とある。]
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