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2019/01/31

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(13) 「河童ノ詫證文」(4)

 

《原文》

 元來詫證文ナルモノハ勝チタル方ノ言分ヲ何處マデモ通シ得ルモノナレバ、右ノ如ク至極念入ナルモ別ニ不思議トスルニ足ラザレドモ、苟クモ仁賀保金七郞ノ名ヲ揭グルニ於テハ、其眞僞ヲモ問フコト無ク、常ニ疫病神總員ノ營業ヲ禁止シ得ト云フニ至ツテハ、聊カ過酷ノ嫌無キニ非ザルナリ。唯舊來ノ緣故如何ニ拘ラズ勝チタル者ヲ以テ保護者ト賴ムハ、言ハヾ封建時代ノ餘風ナリ。「ヒヤウスヘ」ノ社、又ハ「エンコウ」ノ宮ノ御札ノ如キモ、要スルニ近世海船ノ國旗ト同ジク、一種庇護ノ權力ヲ標識スル徽章ニ他ナラズ。而シテ又相手ガ文字ニ疎キ河童ナルコトヲ考慮シ、今一段簡單ナル方法ヲ以テ之ヲ表示シタル例アリ。昔三河ノ某地、淸水權之助ナル人ノ領内ニ於テ、河童馬ヲ襲ハントシテ亦大ニ失敗シ、助命ノ條件トシテ約束ヲ爲ス。【紅手拭】卽チ手拭ノ端ヲ紅ク染メタルヲ持ツ人ニ對シテハ害ヲ加フマジト云フコトナリ。是ヨリ以後此附近ノ人民ハ我モ我モト紅手拭ヲ携帶スルコトヽナレリト云ヘバ〔水虎考略後篇二所引〕、此モ亦稍濫用セラレタリト見エタリ。又一アリ。此話ノ異傳ナルカ否カヲ知ラザルモ、同ジ三河國ニ設樂(シダラ)某ト云フ強力ノ勇者アリ。「カハツパ」ト組合ヒ取ツテ押ヘ突殺サントシケル時、「カハツパ」下ヨリ言ヒケルハ、命ヲ御宥シ候ハヾ御子孫竝ニ御一家ノ分殘ラズ水ノ難ヲ遁レシメ申スべシ。【河童一黨】日本國中ノ「カハツパ」ハ皆我等ガ一類ニテ候間、何方ニテモ我等ガ御約束申シタリト聞キ候ハヾ、川ニテ守護仕ルべシト言ヒケル故、然ラバ宥ス、證據ハ如何トアリシカバ、乃チ歌ヲ教ヘタリ。

  「ヒヤウスヘ」ハ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

 【設樂氏】設樂氏元ハ菅原氏ナリ。之ニ因ツテ設樂氏ノ人ハ川ノ難無シ。又此歌ヲ唱フレバ他氏ノ者モ難ヲ遁ルト云ヘリ〔落穗餘談四〕。此河童ハ別ニ馬盜人ニテモ無カリシ如クナルニ、兎ニ角ニ大ナル言質ヲ取ラレタリ。右ノ「氏ハ菅原」ノ歌ノ如キハ、河童自筆ノ手形ヲ眼ノ前ニ突附ケタルニ比ブレバ、幾分證據力ニ乏シキモノナリシナランモ、若シ律義ナル河童ナラバ夫ノミニテモ以前ノ約束ヲ思出サシムルニハ十分ナリシナリ。世間尋常ノ疱瘡神ノ如キハ、居ル筈モ無キ昔ノ勇士ノ名ヲ署シテ人ノ門ニ張リ置ケバ、【サヽラ三八】サテハ此家ハ鎭西八郞爲朝閣下ノ御宿ナルカト言ヒテ通リ過ギ、又ハ此家ニモ「サヽラ」三八殿ガ同居シテゴザルノカト、碌々家ノ内ヲ覗キモセズニ歸リ去ルヲ常トセリ。之ヲ思ヘバ人ノ方ガ遙カニ人惡シ。如何ニ相手ガ害敵ナリトハ言ヒナガラ、每回此手段ヲ以テ彼ヲ欺クナリ。但シ印刷シタル降參狀又ハ謝罪ノ口供ハ決シテ此類ノ陰險ナル策ニ非ズ。汝ノ一類ニハ曾テ此ノ如ク敗北ノ恥ヲ晒セシ者アル也。人間ハ決シテ侮リ得べカラザル動物ナルゾ。馬モ亦然リ。心得違ヒヲスルコトナカレト豫戒スル迄ノ事ナリ。河童ニシテ若シ文字アリトセバ、馬屋、牛小舍ノ守護トシテ、此ホド穩當且ツ適切ナル警備手段ハ、決シテ他ニ求ムルコトヲ得べカラザルナリ。

 

《訓読》

 元來、詫證文なるものは、勝ちたる方(かた)の言分(いひぶん)を何處(どこ)までも通し得るものなれば、右のごとく、至極、念入りなるも、別に不思議とするに足らざれども、苟(いやし)くも仁賀保金七郞の名を揭ぐるに於ては、其の眞僞をも問ふこと無く、常に疫病神(やくびやうがみ)總員の營業を禁止し得(う)と云ふに至つては、聊(いささ)か過酷の嫌(きらひ)無きに非ざるなり。唯(ただ)、舊來の緣故如何(いかん)に拘(かかは)らず、勝ちたる者を以つて保護者と賴むは、言はゞ、封建時代の餘風なり。「ヒヤウスヘ」の社、又は「エンコウ」の宮の御札のごときも、要するに、近世海船の國旗と同じく、一種庇護の權力を標識する徽章(きしよう)に他ならず。而して又、相手が文字に疎(うと)き河童なることを考慮し、今一段、簡單なる方法を以つて、之れを表示したる例あり。昔、三河の某地、淸水權之助なる人の領内に於いて、河童、馬を襲はんとして、亦。大いに失敗し、助命の條件として約束を爲(な)す。【紅手拭(あかてぬぐひ)】卽ち、手拭の端を紅(あか)く染めたるを持つ人に對しては、害を加ふまじ、と云ふことなり。是より以後、此の附近の人民は、我も我もと、紅手拭を携帶することゝなれり、と云へば〔「水虎考略」後篇二・所引〕、此れも亦、稍(やや)濫用せられたりと見えたり。又、一あり。此の話の異傳なるか否かを知らざるも、同じ三河國に設樂(しだら)某と云ふ強力(ごうりき)の勇者あり。「カハツパ」と組み合ひ、取つて押へ、突き殺さんとしける時、「カハツパ」、下(した)より言ひけるは、「命を御宥(おゆる)し候はゞ、御子孫竝びに御一家の分(ぶん)殘らず、水の難を遁(のが)れしめ申すべし。【河童一黨】日本國中の「カハツパ」は、皆、我等が一類にて候間(さふらふあひだ)、何方(いづかた)にても、我等が御約束申したりと聞き候はゞ、川にて守護仕(つかまつ)るべし」と言ひける故、「然(しか)らば宥(ゆる)す、證據は如何(いかん)」とありしかば、乃(すなは)ち、歌を教へたり。

  「ヒヤウスヘ」は約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原

 【設樂氏】設樂氏、元は菅原氏なり。之れに因つて、設樂氏の人は川の難、無し。又、此の歌を唱(とな)ふれば、他氏の者も難を遁る、と云へり〔「落穗餘談」四〕。此の河童は、別に馬盜人(うまぬすびと)にても無かりしごとくなるに、兎に角に大いなる言質(げんち)を取られたり[やぶちゃん注:事前の確認・取り決め・契約・交渉などに於いて、後で証拠となるような言葉や証書を相手から引き出すこと。]。右の「氏は菅原」の歌のごときは、河童自筆の手形を眼の前に突き附けたるに比ぶれば、幾分、證據力に乏しきものなりしならんも、若(も)し、律義なる河童ならば、夫(それ)のみにても、以前の約束を思ひ出さしむるには、十分なりしなり。世間尋常の疱瘡神(はうさうがみ)[やぶちゃん注:疱瘡を齎(みたら)すとされた悪神。]のごときは、居(を)る筈も無き昔の勇士の名を署(しよ)して、人の門に張り置けば、【さゝら三八(さんぱち)】「さては此の家は鎭西八郞爲朝閣下の御宿なるか」と言ひて通り過ぎ、又は「此の家にも「さゝら」三八殿が同居してござるのか」と、碌々(ろくろく)、家の内を覗きもせずに、歸り去るを常とせり。之れを思へば、人の方が、遙かに、人惡(ひとわる)し。如何に相手が害敵なりとは言ひながら、每回、此の手段を以つて彼(かれ)を欺(あざむ)くなり。但し、印刷したる降參狀、又は、謝罪の口供(こうきよう)は、決して、此の類の陰險なる策に非ず。「汝の一類には、曾て、此(か)くのごとく、敗北の恥を晒(さら)せし者あるなり。人間は決して侮り得べからざる動物なるぞ。馬も亦、然り。心得違ひをすることなかれ」と豫戒(よかい)するまでの事なり。河童にして、若(も)し、文字ありとせば、馬屋・牛小舍の守護として、此れほど、穩當、且つ、適切なる警備手段は、決して、他に求むることを得べからざるなり。

[やぶちゃん注:「近世海船の國旗と同じく」この「近世」は近代の意。船首旗・艦首旗に於ける国籍を示す国籍旗。

「手拭の端を紅(あか)く染めたるを持つ人に對しては、害を加ふまじ」と河童が誓約したとならば、赤は決して元来は河童が忌避する色なのではないということになる(考えて見れば、しばしば河童の顔は赤いともされる)。謂わば、水中で目立つ色という、観察する河童側から見て、極めてプラグマティクな理由が最初であったものとここでは推察される。

『「ヒヤウスヘ」は約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原』殆んど変わらぬ形で既出

「設樂氏」「元は菅原氏なり」三河国の武士であるが、これは近世以降の自称と思われる。平凡社「世界大百科事典」によれば、『近世の所伝では菅原氏末裔とするが,在庁官人三河伴氏一族とみられる。設楽郡中設楽郷』(現在の東栄町)『を名字の地とする説もあるが』、『不明。源義家に従って』、「後三年の役」に『出陣した資兼が系図以外での初見』で、「保元の乱」の『義朝方に設楽兵藤武者がある。鎌倉時代には一族富永氏とともに三河守護足利氏の被官で』、『足利氏所領奉行番文に太郎兵衛入道がみえる。室町前期には将軍近習の一員として諸記録に散見し』、伯耆・周防『などで所領給付をうけた』とある。

さゝら三八(さんぱち)」ブログ戦国ちょっといい話・悪い話まとめに、『佐々良三八は戦国の武士で名護屋九右衛門の家来の一人で』、『福岡に赴いた時、犬に囲まれて困っている男を助けた』ところ、『助けた男が疱瘡神(天然痘や水疱瘡の神様)で、犬から助けて下さったお礼にあなたの家には二度と出入りしませんといった事から』、『各地で「佐々良三八の宿」や「三八の家」と紙や木に彫り吊り下げる』ようになったとあり、『三八は疱瘡除け伝説になるほどの美肌の持ち主で在ったと伝わるが』、『この時代、風土病や流行病がすぐに治療できないので』、『年齢性別問わず』、『流行病の痕で多少アバタ顔であった。大名家の娘ともなると』、『嫁ぎ先に支障をきたすので』、『大名家では特に娘の肌に気を使った』。『この三八の噂を聞きつけた森忠政が娘(九右衛門の娘とも)のために佐々良三八の家の看板を譲ってほしいと三八を家に招いた』。『三八は家宝にしていた家の札をなぜか譲ってしまい』、その『祟りで』、『人前では出歩けないほど』、『酷い荒れ肌になってしまったとい』い、一方、『その後、忠政の娘はとても肌がきれいな女に育った』という。『伝説の類だが』、『戦国後期』の『妖怪、怪談話』としては、『割合と有名なまじない伝説』で、『疫病、難病の魔除けに佐々良三八の宿だったり』、『住処と書いてまじないにする風習が元禄頃から全国各地に広がった』とある。研」怪異・妖怪伝承データベースにも、須田元一郎氏の「九州北部の伝説玩具」(『旅と伝説』昭和一〇(一九三五)年八月発行所収)に、福岡県での採話として要約で、『名護屋山三郎の家来に、佐々良三八という美男がいた。ある時』、『路上で』一『人の男が多くの犬に囲まれて弱っているのを助けた。この男が疱瘡神で、お礼にあなたの名前の出ている家には決して這い入りませんと誓った。だから』、七『穴のあわび貝に「佐々良三八様御宿」と書いておけば、疱瘡にかからない』とある。

「鎭西八郞爲朝」言わずと知れた剛弓引きの源鎮西八郎為朝(保延五(一一三九)年~嘉応二(一一七〇)年?)は源為義の八男で、「保元の乱」(保元元(一一五六)年七月)に敗れ、逃亡したが、捕縛、但し、武勇を惜しまれて助命され、八月二十六日、肘を外し、自慢の弓を射ることが出来ないようにされて、伊豆大島に流刑となったが、伊豆七島を支配するに至った。前注のリンク先によれば、後、『八丈島では疱瘡が全く流行らなかった』ことから、『源為朝が疱瘡神を倒したとして三八同様』、『この時代』、『疱瘡除けの札として人気があった』とある。

口供(こうきよう)」罪人の口から罪状を述べること。また、その筆記録。「口書き」とも言う。

「豫戒(よかい)」前以って警戒すること。予(か)ねてより用心すること。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 木客鳥(もつかくちやう) (不詳)

 

Mokkakudoru

 

もつかくちやう[やぶちゃん注:ママ。]

 

木客鳥

 

モツ ケツ ニヤウ

 

本綱異物志云廬陵郡東有之大如鵲千百爲群飛來有

度俗呼曰木客鳥黃白色有翼有綬飛獨高者爲君長居

前正赤者爲五伯正黑者爲鈴下緗色雜赤者爲功曹左

脇有白帶者爲主簿各有章色

 

 

もつかくちやう

 

木客鳥

 

モツ ケツ ニヤウ

 

「本綱」、「異物志」に云はく、廬陵郡の東に、之れ、有り。大いさ、鵲〔(かささぎ)〕のごとく、千、百、群れを爲し飛び來たる。度〔(わた〕り、有り。俗に呼びて、「木客鳥」と曰ふ。黃白色にして、翼、有り、綬〔(じゆ)〕、有り。飛ぶに、獨り高き者を「君長〔(くんちやう)〕」と爲し、前に居て、正赤なる者は「五伯〔(ごはく)〕」と爲し、正黑なる者、「鈴下〔(れいか)〕」と爲す。緗(もへぎ)色〔に〕赤を雜(まじ)ふる者を「功曹〔(こうさう)〕」と爲す。左の脇に白〔き〕帶有る者を「主簿〔(しゆぼ)〕」と爲す。各々、章〔(しるし)〕の色、有り。

[やぶちゃん注:この引用記載には、特に妖鳥の雰囲気はないのであるが、日中ともに諸家は中国神話上の妖鳥とし、実在種への同定やモデル比定をした記載は見当たらない。これも先に語注を施す

「異物志」東洋文庫書名注に、『一巻。漢の楊孚(ようふ)撰。清の伍元薇編輯『嶺南遺書』の中に収められている。嶺南地方の珍奇な生物などについて書いたもの』とある。

「廬陵郡」廬陵郡は後漢末から唐代にかけて、現在の江西省吉安市一帯に設置された郡。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea

「度〔(わた〕り、有り」所謂、渡りをすることを意味しているようである。即ち、「木客鳥」は渡り鳥なのである。

「綬〔(じゆ)〕」古代中国に於いては、官職を表わす印を身に付けるのに用いた組み紐。官位によって色を異にした。ここはまるでそのような特徴の羽の模様を、それぞれの個体が、別々にそれを持っているということを指しているようだ。挿絵をよく見ると、右の前胸部に白い妙なマークのような模様が見てとれる(右翼の根元の羽のそれとは全く反対方向に向いている妙なものでる)、これがここで言う「綬」なのではないかと私は読む。その中でも「君長」「五伯」「鈴下」「功曹」「主簿」は特別扱いで、別にそれぞれの特殊マークを有するというのであろう。

「君長」君主。

『前に居て、正赤なる者は「五伯」と爲し……「主簿」と爲す」東洋文庫はここの訳に、『伯は諸侯。五伯とは春秋時代の斉(さい)の桓公など五人の霸者(諸侯)になぞらえたものであろう。鈴下は随従する護衛の武官。功曹は書史を司る官吏。郡の属吏。主簿とは書記のことである』という注を附している。

「各々、章色、有り」それぞれに地位があって、その印として、色の違いがある。

 

 さて。ところが、この「木客」(「鳥」は附かない)は、別に「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」に載るのである。しかも、中国の本草書も良安もこれを先の「冶鳥」・「山都」・「山蕭鳥(かたあしどり)」と併置して《同じ仲間の妖鳥・妖怪・妖獣》(「冶鳥」が人に化けたりする以上、これは妖怪或いは妖獣である)として記すのである。但し、良安は最終的には「木客」と「木客鳥」を全くの別なものとして取り扱ってはいる。原文はリンク先を見て戴くとして、私の訓読と注を示す(古い仕儀なので、今回、一部に別資料で手を加えてリニューアルした。従ってリンク先のそれとは異なる)。

   *

 

Mokkaku

 

もつかく

木客

      【別に「木客鳥」有り。

       禽(とり)の部に見ゆ。】

モツ ケツ

 

「本綱」に、『「幽明録」に載せて云はく、『南方の山中に生〔(せい)〕す。頭〔(かしら)〕・面〔(おもて)〕・語言〔(ことば)〕、全く、人に異〔(こと)〕ならず。但〔(ただ)〕、手脚〔(てあし)〕の爪、鈎〔(かぎ)〕のごとく利〔(と)〕し。絶岩の閒〔(あひだ)〕に居〔(を)〕り、死するも亦、殯〔(ひんれん)〕す。能く人と交易して〔するも〕、其の形〔(かた)〕ちを見せず。今、『南方に「鬼市(きいち)」有る』と云ふ〔も〕亦、此れに類す。』〔と〕。』〔と〕。

[やぶちゃん注:「殮」の字を良安は「」=「歹」+「隻」という字体で書いているのだが、こんな漢字は見当たらず、調べて見たところ、「本草綱目」では「殮」となっており、これだと読みも意味もすんなり通るので、それで示した。

 さて、前の「冶鳥」(治鳥)で引用した多田克己氏の「渡来妖怪について」の「山都」にもある通り、この木客は、先に示した山都・治鳥の仲間、魑魅の一種とされ、漢の楊孚(ようふ)の「異物志」には『江西省の東部に鵲(かささぎ)ほどの大きさの木客鳥という鳥がいて、千、百と群れをなし編隊を組んで飛ぶという。この鳥は治鳥の仲間といわれる。巣をつくるという山都も、あるいは鳥の性質をもつことを暗示しているかもしれない』とされているが、ここの叙述を読む限り、これは「木客鳥」とは全く異なったもので、鳥ではなく、「木客」と呼んだ、一種の少数民族、若しくは、特殊な風俗風習を固持している人々の誤認或いは蔑称なのではないかという確信に近いものがあるのである。それは死者を断崖絶壁に埋葬するという習俗が、四川省の崖墓(がいぼ)を容易に連想させるからである。これは懸棺葬・懸崖葬などと呼ばれる葬送民俗で、NHKが「地球に乾杯 中国 天空の棺〜断崖に消えた民族の謎〜」で二〇〇四年に紹介したものを、私も見た。これについては、H.G.Nicol氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「懸棺葬・懸崖葬・崖墓」を是非、参照されたい。懸棺葬や地図の写真・リンクも充実した素晴らしい記載である。思うに、彼等は、埋葬の際、また、日常生活にあって、断崖や山上の菌類・山野草を採取する道具として、四肢に鈎状の器具を装着していたのではあるまいか? それがこの長い爪の正体なのではないか? という可能性である。識者の御教授を乞うものである。

・「幽明録」南北朝時代の南朝の一つである宋王朝(劉宋 四二〇年~四七九年)の武帝の甥で、鮑照などの優れた文学者をそのサロンに招いたことで知られ、名著「世説新語」の作者とされる文人劉義慶(四〇三年~四四四年)が撰した志怪小説集。但し、現行の同書には、ここに書かれた内容を現認出来なかった

・「殯殮」「殯斂」とも書き、死者を納棺し、暫く安置して祀ること。仮殯(かりもがり)。

・「能く人と交易するも、其の形ちを見せず」巷間の人間と物の売買を行うが、容易にはその姿を見せない、という意味で、めったに実体を見せない、ごく稀にしか直接の交易はしない、という意味であろう。東洋文庫版のように『よく人と交易もするが、その姿は見せない』という訳では如何にも不満である。第一、姿を見せずに商売をすることなど不可能である。特殊な仲買人を通してしか接触しないとか、近くの木や崖上にでも隠れて物々交換をするとか、無人販売を装うとでもいうのであれば、そのような推測した補注を施すべきである、というのが、私の判らないことをはっきりさせるのが注の役割と心得るからである。

・「鬼市」私が最初にこの語を見たのは、諸星大二郎の漫画「諸怪志異」の「鬼市」であったが、そこでは異界の化物や霊が立てる市であった。ここで言うのは、公的な行政許可を得た市ではなく、山岳部の少数民族や僻村の者達が、町へ下りてきて非公式に開く市のことを言うか。また、狭義には、諸星の作品でも暗に示されていたかと思われるが、中国で飢饉があった際、食人するにしても自分の子供を食うに忍びず、夜陰に紛れて人身売買の市を開き、子を交換して食ったという食人習俗での人肉市の呼称であったという伝承も耳にしたことがあるので、参考までにここに記しおくこととする。

   *

 正直、以上の民族「木客」を語ってしまうと妖に、基! 妙に熱くなってしまい、木客鳥の鳥のモデル比定をする意志が減衰してしまった。取り敢えず、木客鳥の属性を掲げておく。

カササギぐらいの大きさカササギは全長約四十五センチメートル。

百や千の大群を成して飛ぶことがある。カササギほど大きさの種で、「千」の数で群れ飛ばれたら、ヒッチコックの「鳥」なみにキョワいし、異様に目立って、実在する鳥なら、誰かが絶対、同定比定しているはずだから、やっぱり実在しないのかなぁ?

渡り鳥である。

目立つ印章(バッジ)風(挿絵に拠る。本文は「綬」で組紐模様とする)のものが前胸部にある

隊列を組んで群飛している際、その群れの位置より有意に高く一羽高く飛んでいる個体がいるそれを人は「君長」(君主)と呼ぶ。

同じく、そうした群れの前の方を先導するように飛ぶ個体(複数或いは五羽かも知れない)がいる。それを人は「五伯」(五大諸侯)と呼ぶ。

沢山いる中に、特に真っ黒な個体がいる(複数であろう)。それを人は「鈴下」(近衛兵)と呼ぶ。

沢山いる中に、左肩の部分に白い帯状の模様が入っている個体がいる(複数であろう)。それを人は「主簿」(書記)と呼ぶ。

あとは、「日本野鳥の会」の方(妻は嘗て会員で、私はその金魚の糞の家族会員ではありました)にでも比定候補を挙げて貰いましょう! では、これにて。

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 山蕭鳥(かたあしどり) (妖鳥・モデル種同定失敗)

 

Kataasidori

 

かたあしとり 獨足鳥

山蕭鳥

 

本綱獨足鳥閩廣有之大如鵠其色蒼其聲自呼一足文

身赤口晝伏夜飛或時晝出群鳥譟之惟食蟲豸不食稻

粱聲如人嘯將雨轉鳴

[やぶちゃん注:「轉」は「囀」の誤字と思われる。訓読では「囀」にした。]

――――――――――――――――――――――

槖蜚 山海經云羭次之山有鳥狀如梟人面而一足冬

 則蟄服之不畏雷

邑 三才圖會云大次山有鳥狀如梟而人面一足冬

 出而夏蟄人以羽毛置諸衣中則不畏雷霆

△按二書所謂槖蜚蠹邑恐此一物矣但出蟄時大異耳

 

 

かたあしどり 獨足鳥

山蕭鳥

 

「本綱」、獨足鳥、閩(びん)・廣(こう)に、之れ、有り。大いさ、鵠〔(くぐひ)〕のごとく、其の色、蒼。其の聲、自〔(みづか)〕ら呼ぶ。一足にして文身〔(もんしん)あり〕[やぶちゃん注:身体全体に紋様がある。]。赤き口。晝(〔ひ〕る)は伏して、夜(〔よ〕る)は飛ぶ。或る時は、晝、出づ。〔さすれば、〕群鳥、之れを譟(さは)ぐ。惟だ、蟲〔(むし)〕・豸〔(ながむし)〕を食ひ、稻・粱〔(あは)〕を食はず。聲、人の嘯(うそぶ)くごとし。將に雨〔(あめふ)〕らんとすと、囀〔(さへづ)〕り、鳴く。

――――――――――――――――――――――

槖蜚(たくひ) 「山海經」に云はく、『羭次〔(ゆじ)〕の山に、鳥、有り。狀、梟のごとく、人面にして一足。冬、則ち、蟄す。之れを服〔(ふく)〕すれば、雷を畏れず』〔と〕。

邑(たくゆう) 「三才圖會」に云はく、『大次山に、鳥、有り。狀、梟のごとくして、人面・一足。冬は出でて、夏、蟄す。人、羽毛を以つて、諸衣の中に置け〔ば〕、則ち、雷霆を畏れず』〔と〕。

△按ずるに、二書〔の〕所謂〔(いはゆ)〕る、「槖蜚」・「蠹邑」、恐らく、此れ、一物〔ならん〕。但〔(ただ)〕、出蟄の時、大〔いに〕異〔(こと)〕なるのみ。

[やぶちゃん注:今回は先に語注を施す。

「山蕭鳥」この場合の「蕭」は、夜行性・一本足・他の鳥と馴れない・摂餌が侘しい・人が口を尖らせて詩を吟ずる時のような淋しい声(「嘯(うそぶ)く」とはそういう意味。なお、これは隠者・仙人のポーズでもある)を出す・雨が降る前に囀るといったネガティヴな属性から、「蕭蕭・蕭条・蕭然」等の「山中に住む、もの寂しげな鳥」の謂いであろう。

「閩(びん)・廣(こう)」「閩」は、もと、中国五代十国時代の十国の一つ(九〇九年~九四五年)現在の福建省を中心に立国していた。ここは福建地方の意で、かなり近世まで「閩」の広域地名としての呼称は行われた。「廣」は広東と広西。現在の広東省と広西チワン族自治区(中華民国までの旧広西省)に概ね相当する。因みに、広州・広東・広西などの「広」はネットのQ&Aサイト等の回答によれば、「広信県」(現在の広西チワン族自治区梧州市。ここ(グーグル・マップ・データ))の「広」で、元来、現在の広州附近は交州(漢から唐にかけて置かれた行政区域で、漢代には広州は交州に所属し、呉代に大部分が広州として分割されたが、唐代には広西と併せて嶺南道となったりした。このように現在のベトナム北部及び中国の広東省及び広西チワン族自治区の一部が含まれた。前漢の武帝が置いた十三刺史部の一つである「交阯」(こうし/こうち)に由来する。)の一部と見做され、州都が置かれていたのが広信県で、現在の広西自治区チワン族自治区の東端にあり、凡そ両広の中央にある(後に交州の都は広信から現在の広州市附近に移されたが、前に書いた通り、後に広州は交州と分離してしまう)。「広州市」公式見解も「広信県が由来」とされる。さても、この「山蕭鳥(獨足鳥)」グーグル・マップ・データの地図の東から西の大陸に沿った広域の中国沿岸地方とベベトナム社会主義共和国の北部までを棲息域とするというのだから、えらく広域で、夜行性とは言え、片足しかないというのなら、誰もが見知っていていいはずだが?

「鵠〔(くぐひ)〕」広義の白鳥の意としてよく用いるが、ここはそれでは同定候補探しが困る。ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus cygnus を指しているとしておく。「オオハクチョウ」の中文ウィキ「大天には『又名』とあるからであり、添えられた挿絵も、まあ、がたいはそれらしくはある。

「其の色、蒼」派手に見えるが、黒味を帯びた青か。

「其の聲、自〔(みづか)〕ら呼ぶ」その声は、自分の名を呼ぶようである、というのである。「本草綱目」の標題は「獨足鳥」で『一名山蕭鳥』とするから、標題名「独足鳥」なら現代中国語では「dú zú niǎo」(ドゥー・ヅゥー・ニィアォ)、「山蕭鳥」だと、「shān xiāo niǎo」(シァン・シィアォー・ニィアォ)となる。これが「かたあしどり」の鳴き声のオノマトペイアとなる。後者は鳥より猫っぽいくて、この鳥のブラッキーな感じと合わない気がする。

「一足にして文身〔(もんしん)あり〕」挿絵では頸部にはない。

「晝(〔ひ〕る)は伏して、夜(〔よ〕る)は飛ぶ。或る時は、晝、出づ。〔さすれば、〕群鳥、之れを譟(さは)ぐ」通常は夜行性で、昼は隠れていて、夜、飛ぶ。但し、時には、昼に出てくることがあるが、そうすると、他の鳥は群れて激しく騒ぎ立てる。

「蟲〔(むし)〕」ここは昆虫でよかろう。

「豸〔(ながむし)〕」ここは並列する「蟲」から、「ながむし(長虫)・はいむし(這い虫)」で、足のない蠕動して動く動物、ミミズ(環形動物門 Annelida 貧毛綱 Oligochaeta)やヒル(環形動物門ヒル綱 Hirudinea)のようなものを指すと採っておく。蛇は含めないと考えた方がよい。蛇を食うのであれば、取り立ててそれを示すはずだと私は思うからである。

「粱〔(あは)〕」単子葉植物綱イネイネ科エノコログサ属アワ Setaria italica

『槖蜚(たくひ) 「山海經」に云はく、『羭次〔(ゆじ)〕の山に、鳥、有り。狀、梟のごとく、人面にして一足。冬、則ち、蟄す。之れを服〔(ふく)〕すれば、雷を畏れず』〔と〕』「槖」は「袋」の意で「鞴(ふいご)」の意がある。「蜚」はこの場合、「飛ぶ」の意。「蜚禽」は「飛ぶ鳥」の意である。「羭次の山」はトンデモ幻想地誌「山海経」の「西山経」に、

   *

又西七十里、曰羭次之山、漆水出焉、北流注于渭。其上多棫橿、其下多竹箭、其陰多赤銅、其陽多嬰垣之玉。有獸焉、其狀如禺而長臂、善投、其名曰囂。有鳥焉、其狀如梟、人面而一足、曰橐𩇯、冬見夏蟄、服之不畏雷。

   *

とは出る。

『蠧邕(たくよう) 「三才圖會」に云はく、『大次山に、鳥、有り。狀、梟のごとくして、人面・一足。冬は出でて、夏、蟄す。人、羽毛を以つて、諸衣の中に置け〔ば〕、則ち、雷霆を畏れず』〔と〕』良安ばかりか、東洋文庫訳も「蠹邕」に『たくゆう』とルビするが、「蠹」は音「ト・ツ」のみ、「邕」は音「ヨウ・ユ」しかないんだよ! だからこれは「蠧邕(とよう)」が正しいのだよ! 「蠧」は「蠹」と同字で「きくいむし」(木食虫。狭義には昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類)・「紙魚」(昆虫綱 シミ目シミ亜目シミ科ヤマトシミ属ヤマトシミ Ctenolepisma villos)・「すくもむし(テントウムシの幼虫)」・「毛虫」・「物を損ない破るもの」等の意がある。「邕」は「四方を水が巡っている土地」・「載せる」・「和らぐ」・「塞ぐ」の意。「大次山」は、やはり「山海経」の「西山経」の前注で出した部分の少し後に、

   *

又西三百里、曰大次之山、其陽多堊、其陰多碧、其獸多牛、羊。

   *

とはある。さて! ここで、おたちあい! 「三才圖會」に載る人面一足の「蠹邕」の図を見ようではないか! ヒエーッツ! 強烈! 原本では「一足」と「冬出而」の間に「曰蠹」(「」=(上)「非」+(下)「巴」)とある(画像は国立国会図書館デジタルコレクションの三才図会」当該の画像から)。あれぇ? これって前の「蜚」に似てねえかぁ? だいたいからして、「槖蜚」と「蠹邕」の「槖」と「蠹」からしてが、手書きではごちゃついて判別し難かろう。良安の言う通り、記載も巣籠りから出てくるのが冬と夏の違いなだけやしなぁ。こりゃもう同一の妖鳥種だわ。

Toyou

 なお、中国の本草書では、この鳥の別名として他に「商羊」(しょうよう)を挙げるが、これは「孔子家語」(「論語」に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書で、魏の王粛(一九五年~二五六年)が再発見したものに注釈を加えたと称する四十四篇が現存する。王粛の偽書ともされるが、今は散佚した古文献から再録した可能性もあり、必ずしも価値のないものではない)「辯政」で、

   *

齊有一足之鳥、飛習於公朝、下止於殿前、舒翅而跳。齊侯大怪之、使使聘魯問孔子。孔子曰、「此鳥名曰商羊、水祥也。昔童兒有屈其一、振訊兩眉而跳且謠曰、『天將大雨、商羊鼓儛。』。今齊有之、其應至矣。急告民趨治溝渠、脩隄防、將有大水爲災。」。頃之、大霖雨、水溢泛諸國、傷害民人、唯齊有備不敗。景公曰、「聖人之言、信而有徵矣。」。

   *

自然流で訓読すると、

   *

 齊(せい)に一足の鳥、有り。公朝(おほやけ)[やぶちゃん注:王宮の内。]に飛び習(あつ)まり、下りては殿前に止どまり、翅を舒(ひろ)げて跳ねたり。齊侯、大いに之れを怪しみ、魯に使ひして孔子を聘(まね)きて問はしむ。孔子曰はく、

「此の鳥、名を『商羊』と曰ひ、水の祥(きざし)なり。昔、童兒、有りて、其の一[やぶちゃん注:「脚」に同じ。]を屈し、兩眉を振-訊(つりあ)げて跳り、且つ、謠ひて曰はく、『天、將に大雨ふらんとし、商羊、鼓儛(こぶ)せり[やぶちゃん注:脚を踏み鳴らして舞った。]。』と。今、齊に之れ有りて、其れに應じ至らんとす。急ぎ、民に告げて、趨(すみや)かに溝渠[やぶちゃん注:水路。]を治し、隄防[やぶちゃん注:「堤防」に同じ。]を脩(ととの)ふべし。將に大水有りて災ひを爲さんとす。」と。頃-之(しばらく)して、大霖雨(だいりんう)[やぶちゃん注:「霖雨」は長雨。]あり、水、諸國に溢泛(いつはん)し[やぶちゃん注:氾濫し。]、民人(たみびと)を傷害するも、唯だ、齊のみ、備へ有りて、敗れず。景公曰はく、「聖人の言、信にして徵(しるし)有り。」と。

   *

に基づくものである。

 さても。「山蕭鳥」の属性を並べる。

一本足である。生物学的にはあり得ないが、遠目に一本に見えるのかも知れない

白鳥ほどの大きさがある。この場合の「白鳥」は単に比較的大きな鳥だの意味と採れる。

羽毛は青黒い。そもそも次に出るように夜行性であるから、この羽毛の色は信用出来ない。もっと明るい色かも知れない

基本的には夜行性である。も参照。

「どぅーづぅーにぃあぉ」と人が詩を口ずさむ、口笛を吹くような声で鳴く。この、不気味な声で、夜に、鳴くのである。

全体的に有意な斑紋或いは模様を有する。「文身」(もんしん)は刺青(いれずみ)のような模様と読み換えることが出来る。

嘴は赤い。夜行性の鳥は多くは肉食である。或いは、獲物の血が嘴に付着しいていたのかも知れない。

夜行性()ではあるが、時に昼に現われることがあり、そうすると、他の鳥が群れを成してパニックを起こす。即ち、通常の鳥にとっては脅威の鳥である。これは明らかに所謂、猛禽の類いであることを強く意味するように私には思われる。

昆虫や環形動物を摂餌し、穀類は一切、食べない。夜行性だから、この観察が十全とは思われない。但し、ヨタカ(夜鷹。ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ(夜鷹)亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus)のように飛翔する昆虫類を摂餌する特殊な種もおり、夜行性でも小・中型哺乳類等を摂餌しない種群もいる。

雨が降ることを事前に察して囀る。これはある種の鳥に見られる。但し、私は寧ろ雨が止みそうになると鳴くものの方が親しい。

以上のうち、の「遠目に一本に見える」可能性は、木にとまっているいて、足を揃えている場合、夜行性の鳥で視認が難しい場合に有り得る。而してのやや大きな鳥で、夜行性()で、不気味な声で夜鳴き()、全身に斑紋があり()、肉食の可能性があり()、猛禽或いはかつては猛禽類に含まれていた鳥()となれば、これはもう、私は

フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群

が当て嵌まるとしか思えないのであるが、残念なことにフクロウ類は北方系で、中国南部やベトナム北部には分布しない。しかし、時珍が分布域をちゃんと示しているということは、モデル種が必ずいるはずである。今、暫く、探索してみたい。

 なお、この鳥は中国の本草書では、前の鳥」(鳥)や、そこで出した「山都」、この後の「木客鳥」(もっかくちょう)と合わせて、同類群の妖鳥として併記されている。而して、一本足である。さらに、前の注で私が傍線太字にしたように「槖蜚(たくひ)」の「槖」には「鞴(ふいご)」の意がある。或いは、前の鳥」(鳥)の注の最後で言い添えたように、この妖鳥も「いっぽんだたら」(一本踏鞴)、冶金製錬の古い文化技術と何らかの関係を持った象徴的鳥なのかも知れないという気がした。]

2019/01/30

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(12) 「河童ノ詫證文」(3)

 《原文》

 此ノ如ク論ジ來レバ長門ノ一村ニ於テ、「エンコウ」ノ手形ヲ印刷シテ望ミノ者ニ分與スト云フハ非常ニ意味ノアルコトナリ。蓋シ河童ニシテ村ノ祭ヲ享クル程ノ靈物ナリトセバ、斷然トシテ詫證文ノ作成ヲ拒シ、「イヤ僞ハ人間ニコソアレ」ト高ク止リテアリ得べキ筈ナレドモ、既ニ手モ無キ術策ニ馬脚ヲ露ハシ、内甲(ウチカブト)ヲ見透カサレシ以上ハサウモナラズ、ヲメヲメト昔ナラバ大恥辱ノ一札之事ヲ差出シテ引下リシハ、誠ニ器量ノ惡キ次第ナリ。併シナガラ是レ決シテ河童バカリノ身ノ上ニ非ズ。【四國無狐】例ヘバ本朝故事因緣集卷四ニハ、四國ニ狐ノ住マザル理由ヲ明シテ左ノ一話ヲ載ス。伊豫ノ河野家ニテ不意ニ同ジ奧方二人トナリ、其何レカ一方ハ狐ニ相違ナカリシ時、僅カナル擧動ニテ狐ノ奧方看破セラレ既ニ打殺サレントセシヲ、散々ニ詫ヲシテ命ヲ助ケラル。其折ノ謝リ證文ニハ將來四國ニハ一狐モ住ムマジキ由ノ誓言アリ。乃チ數艘ノ船ヲ借用シテ悉ク本土ニ押渡ル云々〔以上〕。上陸地點ハ中國ノ何レノ海岸ナリシカ、如何ニモ迷惑ナルコトナリシナラン。【狐崎】備後靹(トモ)町ノ狐崎ハ寶曆年間迄狐ノ形シタル赤石アリキト云ヒ、又狐多ク群レ居ルトモ言ヘド、一ニハ昔四國ニ狐狩アリシ時狐多ク浪ニ浮ビテ此崎ニ著キシヨリノ地名トモ謂リ〔沼名前神社由來記附錄〕。或ハ其樣ナル事モアリシカモ知レズ。而シテ右ノ證文ハ今モ必ズ河野氏ニ於テ之ヲ保存シテアルコトヽ信ズ。何トナレバ若シ此文書ニシテ亡失セバ、狐ハ再ビ四國ノ島ニ來リ住スルコトヲ得ル約束ナリケレバナリ。【疫病神】近クハ文政三年ノ秋ノコトナリ。江愛宕下田村小路ナル仁賀保(ニカホ)大膳ト云フ武家ノ屋敷へ、疫病神アリテ窃ニ入込マントセシヲ、同家ノ次男金七郞之ヲ見咎メ、右樣ノ者我ガ方へハ何シニ入來ルゾ、打殺スべシト怒リシニ、疫病神何トゾ一命ヲ宥シタマハレト申ス。然ラバ書附ニテモ差出スべシト云ヘバ、早速別紙ノ如キ證文ヲ認メ置キテ立チ去ルト云フ〔竹抓子二〕。

[やぶちゃん注:底本ではここに一行空けで、引用の証文は全体が二字下げ、「疫病神」の署名は下五字上げインデントである。「兩人」は証文の頭書であるが、如何にも格好が悪くなるので、前の以上の位置に配した。上付きにした「江」「而」は実際には前後の活字の三分の二ほどあるが、かく示した。また、クレジットの「文政三辰九月廿二日」も実際には全体のポイントがやや小さくなっている。] 

 

【兩人】

    差上申一札之事

私共兩人心得違ヲ以御屋敷入込段々被仰出候趣奉恐入候以來御屋敷内竝金七郞樣御名前有之候處決而入込間敷候私共ハ申不及仲ケ間之者共迄モ右之趣申聞候依一命御助被下難有仕合奉存候爲念一札如件

    文政三辰九月廿二日  疫 病 神

   仁賀保金七郞樣

 疫病神ノ方デハ無論ゴク内々ノツモリナリシナランモ、當時ハ疫病大流行ノ折柄トテ、爲ニスル者ノ手ニ由ツテ此證文ハ意外ニ弘ク流布シタリト覺シク、隱居老人ナドノ隨筆ニモ採錄セラルヽニ至レリ。或ハ此モ亦長門ノ「エンコウ」ノ手形ト同ジク、板行シテ信者ニ施シタリシカモ測リ難シ。

 

《訓読》

 此くのごとく論じ來たれば、長門(ながと)の一村に於いて、「エンコウ」の手形を印刷して望みの者に分與すと云ふは、非常に意味のあることなり。蓋し、河童にして、村の祭(まつり)を享(う)くる程の靈物なりとせば、斷然として、詫證文の作成を拒し、「いや。僞(いつはり)人間にこそあれ」と高く止(とま)りてあり得べき筈なれども、既に手も無き術策に馬脚を露はし、内甲(うちかぶと)[やぶちゃん注:「兜に隠された額の部分」の意から、転じて「隠している内情・内心」の譬え。]を見透かされし以上は、さうもならず、をめをめと、昔ならば、大恥辱の、「一札之事(いつさつのこと)」[やぶちゃん注:この場合の「一札」は「証文」の意。証文の一件。]を差し出して引き下(さが)りしは、誠に器量の惡(あし)き次第なり。併しながら、是れ、決して河童ばかりの身の上に非ず。【四國無狐】例へば、「本朝故事因緣集」卷四には、四國に狐の住まざる理由を明して左の一話を載す。伊豫の河野家にて不意に同じ奧方、二人となり、其の何れか一方は狐に相違なかりし時、僅かなる擧動にて、狐の奧方、看破せられ、既に打ち殺されんとせしを、散々に詫をして命を助けらる。其の折の「謝り證文」には、將來、四國には一狐も住むまじき由の誓言あり。乃(すなは)ち、數艘の船を借用して、悉く、本土に押し渡る云々〔以上〕。上陸地點は中國の何れの海岸なりしか、如何にも迷惑なることなりしならん。【狐崎】備後靹(とも)町の狐崎は寶曆年間[やぶちゃん注:一七五一年~一七六四年。]まで、狐の形したる赤石ありきと云ひ、又、狐多く群れ居るとも言へど、一には、昔、四國に狐狩りありし時、狐、多く浪に浮びて、此の崎に著(つ)きしよりの地名とも謂へり〔「沼名前(ぬなくま)神社由來記」附錄〕。或いは、其の樣なり事も、ありしかも知れず。而して、右の證文は、今も必ず河野氏に於いて、之れを保存してあることゝ信ず。何となれば若(も)し、此の文書にして、亡失せば、狐は、再び、四國の島に來たり、住することを得る約束なりければなり。【疫病神】近くは文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋のことなり。江愛宕下田村小路なる仁賀保(にかほ)大膳と云ふ武家の屋敷へ、疫病神(やくびやうがみ)ありて、窃(ひそか)に入り込まんとせしを、同家の次男金七郞、之れを見咎(みとが)め、「右樣(みぎやう)の者、我が方へは何しに入り來たるぞ、打ち殺すべし」と怒りしに、疫病神、「何とぞ、一命を宥(ゆる)したまはれ」と申す。「然らば、書附(かきつけ)にても差し出すべし」と云へば、早速、別紙のごとき證文を認(したた)め置きて、立ち去ると云ふ〔「竹抓子(たけさうし)」二〕。

[やぶちゃん注:原文は前に示した通りで、一切の訓点はない。推定で私が訓読したものを以下に示す。「」は「え」で古文書では、「江」或は「え」のままで出すのが常識だが、ここは読み易さ第一として、本文同ポイントで正しい「へ」に直して出しておいた。「候」「趣」等も同様に送り仮名を振った。

【兩人】[やぶちゃん注:この場合は、当該事件に関わった疫病神と、それに対する当事者である相手(仁賀保大膳家の次男金七郞)がいることを意味するだけの「兩人」であり、「二人」と訳す意味は全くないし、正直、ここに柳田國男がこれを頭書としたことの意味が判らない。柳田が暗に人も同罪とする意識の中でこれを掲げたとならば、古文書読解の初歩的間違いとしか私には思えない。

    差し上げ申す一札の事

私共(ども)兩人、心得違ひを以つて、御屋敷へ入り込み、段々、仰せ出だされ候ふ趣き、恐れ入り奉り候ふ。以來、御屋敷内、竝びに、金七郞樣御名前之れ有り候ふ處へ、決して入(い)り込む間敷(まじ)く候ふ。私共は申すに及ばず、仲ケ間(なかま)の者共(ども)までも、右の趣き申し聞かせ候ふ依りして、一命、御助け下され、有り難き仕合(しあは)せ、存じ奉り候ふ。念の爲め、一札、件(くだん)のごとし。

    文政三辰九月廿二日  疫 病 神

   仁賀保金七郞樣

 疫病神の方では、無論、ごく内々のつもりなりしならんも、當時は疫病大流行の折柄とて、爲(ため)にする者の手に由つて、此の證文は意外に弘(ひろ)く流布したりと覺しく、隱居老人などの隨筆にも採錄せらるゝに至れり。或いは此れも亦、長門(ながと)の「エンコウ」の手形と同じく、板行(はんぎやう)して信者に施したりしかも測り難し。

[やぶちゃん注:『「本朝故事因緣集」卷四には、四國に狐の住まざる理由を明して左の一話を載す』「本朝故事因緣集」(本朝の故事逸話を集めたもの。作者未詳。元禄二(一六八九)年板行)「国文研データセット」のこちらで全篇が読め、原典の「八十七 四國狐不住由來」(四國に狐住まざる由來)の画像も読める。ここここ。記された事件は、享禄年中(一五二八年~一五三一年。戦国前期)のことで、河野通直(こうのみちなお)の妻とある。河野通直(明応九(一五〇〇)年~元亀三(一五七二)年)は伊予国の戦国大名河野氏の当主で、ウィキの「河野通直」によれば、『河野通宣の嫡男で』、永正一六(一五一九)年に『父の死去にともない』、『家督を継いだ』。天文九(一五四〇)年には、『室町幕府御相伴衆に加えられる。自身に嗣子がなかったため、娘婿で水軍の頭領として有能であった村上通康を後継者に迎えようとしたが、家臣団の反発と、予州家の当主・通存(みちまさ、河野通春の孫)と家督継承問題で争ったため、通康とともに湯築城から来島城へと退去することになる。その後、家督を通存の子通政に譲って権力を失うが、通政の早世後には河野家の実質的な当主の座に復帰する。なお、その後』、『天文末期には通政の弟である通宣とも家督を巡って争い、最終的には村上通康にも見捨てられる形で失脚したとする見方もある』とある。さて、二人の妻女を見て、医師は離婚病と診断し、祈禱等も行うが効果がないため、二人とも捕えて籠居(監禁)させ、数日経るうち(食物を絶ったか、ごく少量しか与えなかったもののようである)、食物を与えたところ、一人が異様な勢いで喰らいだしたことから、それを拷問したところ、狐となった。さても殺そうとしたところが、門前に僧俗男女が四、五千人も群衆している。誰何したところが、「吾ら、四国中の狐にて訴訟に来て御座る。この度、不慮の事を致いたその者は貴狐(きこ)明神の末稲荷の使者の「長狐(ちょうこ)」と申す日本国の狐の王であって、これを害されるならば、国に大災害が起こることになりましょう。この長狐は吾等の師匠なれば、さても向後、変身の術はこれを、皆、封印断絶致します。どうか願わくはお助け下さい」と訴えた。河野はこれに、「何とまあ、名誉の狐であることよ。殺すのも不憫なことじゃ。さすれば、向後、四国中に一匹の狐も住まぬことを誓約した書き物を致し、皆、舟に乗りて中国(本邦の瀬戸内海の北の中国地方)に渡るとならば、長狐を助けて後、渡るがよかろう」と応えた。群狐は皆畏まって誓紙を捧げ、舟を借り、数艘で以って本州へ渡った。これより、四国には狐はいないとあり、最後に柳田が言うように、『此誓紙、子孫ニ至リ(タヘ)タル時ハ可住(すむべき)國ナリト云(いふ)トナリ。今ニ河野(かふの)ノ家ニアリ』と書かれてある。但し、最後に『評ニ曰(いはく)、今ノ世マデ一疋モ不住(すまず)と云(いへ)リ。奇妙ナリ』とダメ押しがある。なお、この四国からの狐追放伝承には、ずる賢い狐よりも愛嬌のある狸を人々が愛したため、弘法大師がその意を汲んで追放したとする説もある(ただ、この追放も条件附きで、大師は「四国と本州との間に橋が架かったら帰ってよい」としたというから、こちらの追放は既に解除されていることになる。なお、弘法伝承には別に「四国と本州に橋が架かると邪悪な気が四国を襲う」と予言したという伝承も別にあるらしいことを、架橋前後に聴いたことがある)。ネットではこの四国にキツネはいないという話を信じている人が意想外に多く、ネット上にもそこら中に「四国には狐はいない」と真顔で記しておられるが、残念ながら、食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica 四国にちゃんと棲息している(但し、本州・九州に比して個体数は有意に少ない)。恐らくは「四国自然史科学研究センター」主催で「高知大学」・「四国森林管理局」・「環境の杜こうち」が共催して「高知大学朝倉キャンパス」の総合研究棟で催された「特別展 豊かな森の住人たち」の「ワークシート」の正答版(PDFに、四国にキツネは棲息しているとして、二十『年ほど前の調査によると、四国ではキツネの確認地点は高知県と愛媛県の境に集中し、他の地域での情報はとても少なかった』のですが、『ところが、ここ最近は徳島県や香川県でもキツネの情報が多くなってきていまして、全体的に数が増えてきている傾向があります。その原因は、まだわかっていません』とある。江戸時代にいなかったのでは? と主張されると、私は答えようがない。但し、そう言われるのであれば、近代以降に移入されたとする確実な記録・資料が示されなければならない。リンク元のような専門的機関の資料にさえ、近代以降に移入された事実が記されないのは、そうではないからだ、と考えた方が自然であろう。私は、昔から限定された地域でホンドギツネが棲息していたのではなかったかとは思っている。

「備後靹(とも)町の狐崎」広島県福山市鞆町(ともちょう)後地(うしろじ)にある岬狐崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。かの「鞆の浦」の南西二キロメートル圏内にあり、最も近い四国の香川県三豊市三崎の半島先端までは直線で二十一キロメートルである。

「沼名前(ぬなくま)神社」鞆町後地の鞆の浦の北直近にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「疫病神」疫病神が人体(じんてい)の形(なり)で出現することは珍しい。しかも、その書付というのも、これまた、珍しい。

「江愛宕下田村小路」江戸切絵図で同小路に「仁賀保内記」を確認した。現在の港区新橋丁目のこの附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。彼は江戸初期に出羽国由利郡塩越(現在の秋田県にかほ市象潟町字二ノ丸)の塩越城に政庁を置いた仁賀保藩の藩主家仁賀保氏の家筋から出た、所領千石の旗本で、その五代目が仁賀保大膳である。

「私共(ども)」この「共」は一人称単数。謙譲を示す場合に複数でなくても用いる。

「段々、仰せ出だされ候ふ趣き」順序立てて、意見なされたその趣旨には。実際には、一気に打ち殺そうとしたわけだが、遜っているわけである。

『爲(ため)にする者の手に由つて、此の證文は意外に弘(ひろ)く流布したりと覺しく、隱居老人などの隨筆にも採錄せらるゝに至れり。或いは此れも亦、長門(ながと)の「エンコウ」の手形と同じく、板行(はんぎやう)して信者に施したりしかも測り難し』「爲(ため)にする」とは、ある目的に役立てようとする下心を持って(しかもそれが目的であることを周囲になるべく知られぬようにして)事を行うを言う。私は常に「卑劣な」のニュアンスを含んで表向き誠実・正当に見せてする厭らしい行為にしか使わない。閑話休題。さても! すこぶる嬉しいことに、この守り札(しかも「板行」(印刷)ではなくて書写したもの)を国分寺市立図書館」の「デジタル博物館 」の「疫病神の詫び証文」(三で現物画像を見ることが出来る! 解説には、『江戸時代に厄災が家に入り込まないように戸口などに貼ったと思われるまじない札の一種です』。』この詫び証文は江戸時代の随筆』「竹抓子(ちくそうし)」巻二(小林渓舎著。天明六(一七八六)年自序)や「梅の塵」(梅之舎主人(長橋亦次郎)著。天保一五(一八四四)年自序)に『紹介されています』。『内容は、文政』三(一八二〇)年、『旗本仁賀保大善(にかほだいぜん)の屋敷に入り込んだ疫病神が捕まり、助けてもらうかわりに』、『仁賀保家や仁賀保金七郎の名がある場所には入り込まないという内容の詫び証文です』。『随筆で紹介されているにもかかわらず、現存するものは少なく、川島家の』三『点、他の都内の』三『点、栃木県で』二『点、群馬県で』二『点、埼玉県で』四『点、神奈川県で』六『点、静岡県で』一『点の』、計二十一点のみとし、『いずれにしても本文に大差なく、書き写されて伝わったと思われ、戸口に貼っていたという事例もあります。江戸時代の民族史料です』とある。これを見ると、三枚とも、宛名は「仁賀保金七郞樣」の前に連名で父「仁賀保金大膳樣」とあることが判り、本文の最後も「爲念一札如件」ではなく、「爲念差申上一札如件」(念の爲め、差し上げ申す、一札、件(くだん)のごとし)で、柳田の記すものよりも正式で正しい。なお、別に、あきる野市乙津軍道の高明神社(元熊野三社大権現)の神官鈴木家に伝わった同類のものが、こちらで活字起こしと訳がなされてあるPDF。しかし『私ども二人』って、一体誰やねん? 訳がおかしいと思わんかねぇ? 因みに、「梅の塵」は所持するので、以下に示す。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を正字化して示す。

   *

    ○疫病神一札の事

御簱本仁賀保公の先君は、英雄の賢君にておはしけるが、近年(ちかごろ)、疫病神を手捕[やぶちゃん注:「てどり」。]にせさせ賜し[やぶちゃん注:「たまひし」。]よし、疫神、恐れて、一通の証書を呈して、一命を乞によつて、免助[やぶちゃん注:免じて助けてやること。]ありしと也。右公の家は、一切(たえて)疫神流行と云事なし。又仁賀保金七郎と認め[やぶちゃん注:「したため」。入口へ張置時は、疫病いらずと云傳ふ。証書は、寶藏に納めあるよし。得たるまゝをしるす。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が下げてあり、頭の「一」は一マス頭抜けている。署名も下四字上げインデント。「奉恐」の間には中央に熟語を示す「-」が入っている。]

        差上ケ申一札之事

一私共兩人、心得違ヲ以、御屋敷入込、段々、被仰出候趣、奉恐入候。以來、御屋鋪内、幷金七郞樣御名前有ㇾ之候處、決、入込間鋪候。私共申不ㇾ及、仲間之者共迄、右之通リ申聞候。依、一命御助被ㇾ下、難ㇾ有仕合奉ㇾ存候。爲ㇾ念一札如ㇾ件

  文政三年九月二十二日  疫 病 神

     仁
賀 保 金 七 郞 樣

   *

「文政三辰九月廿二日」文政三年は確かに庚辰(かのえたつ)。グレゴリオ暦では一八二〇年十月二十八日。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(11) 「河童ノ詫證文」(2)

 

《原文》

 河童敗衄ノ記錄ハ右ノ外ニモ猶多シ。【水邊ノ牧】例ヘバ同ジ長門ノ大津郡向津具(ムカツグ)村ハ出島ナリ。村ニ杉谷池ト云フ池アリ。每年領主ノ馬ヲ預リテ此池ノ堤ニ野飼スルヲ例トス。又河童アリ。手續ハ型ノ通リニシテ馬ニ引摺ラレテ厩ノ中ニ轉ゲ込ム。【手印】隣人等集リ來リ、後代ニ至ルマデ向津具一庄ノ中ニ住ムマジキ由ノ券文(ケンモン)ヲ代書シ、彼ガ手ニ墨ヲ塗リテ之ヲ押サシメテ放シ還ス。此ガ爲ニ庄内ニ河童永ク跡ヲツト云フ。貞享年中ノ出來事ニシテ、其證文ハ少クトモ寬政ノ頃マデ村ノ産土(ウブスナ)ノ社ニ之ヲ藏メタリキ〔蒼柴園隨筆〕。河童ガ無筆ニシテ代書ヲ必要トセシコトハ無理モ無キ話ナリ。【河童自筆】然ルニ或地方ニテハ其證書ヲ以テ彼ガ自筆ニ成ルモノヽ如ク傳フ。現ニ江戸深川入船町ニ於テモ斯ル例アリ。安永年間ノコト也。或男水ヲ泳ギ居タルニ、河童來リテ害ヲ加ヘントシ、亦捉ヘラレテ陸ニ引上ゲラル。三十三間堂ノ前ニテ打殺サントセシヲ、見物ノ中ニ仲裁ヲ試ミタル人アリ。河童詫證文ヲ出シテ宥サル。其一札ニハ以來此邊ニテ一切害ヲ爲スマジキ由ノ文言アリ。【手印】且ツ河童ノ手判ヲ墨ヲ以テ押シタルモノナリキト云フ〔津村氏譚海〕。【河童角力】九州ハ肥前佐賀ノ藩士大須賀道健ガ被官、佐賀鄕百石村ノ某ト云フ者、東淵ト云フ處ヨリノ歸途ニ、一人ノ小僧來リ逢ヒ強ヒテ角力ヲ取ランコトヲ求ム。某之ヲ諾シテ取組ミシニ、負ケナガラ段々ト水ノ方ニ近ヨル。サテハ河童ト心ニ悟リ、此物人間ノ齒ヲ怖ルヽコトヲ豫テ知リタレバ、早速ニ其肩ノアタリニ嚙附ケバ、聲ヲ立テヽ水底ニ遁レ去ル。其夜河童ノ來リテ家ヲ繞リテ哀號スルコト、他國ニテ腕ヲ斬ラレタル場合ト同ジク、何トゾ此傷ヲ治シテ下サレヨト云フ。其仔細ヲ聞クニ、嚙ミタル人ガ手ヲ以テ其疵ヲ摩ルニ非ザレバ到底癒ヘヌモノト見エタリ。汝若シ此近邊ノ人ヲ取ラズト誓フナラバ其請ヲ允スべシト云ヘバ、河童欣々トシテ敬諾シ、終ニ紙ヲ乞ヒテ券ヲ作リ手印ヲ押シテ之ヲ差出ス。汝ガ如キ者ニハ手ヲ汚スヲ欲セズ、足デ澤山ナリト威張リ足ヲ展バセバ、ヌルリトシテ觸ルヽ所アリト云フ話ナリ。此券文モ永ク勇者ガ家ニ傳ハレリ。其體略文字ノ如クナレドモ讀ミ難シトナリ〔水虎考略後篇〕。【化物文書】此話ナドハ取分ケ虛誕ラシケレド、天狗ノ書ト云ヒ狸ノ自筆ナド稱スルモノ諸國ニ例多ケレバマダ何トモ申シ難シ。播州佐用郡ノ某地ニ一種ノ骨繼藥ヲ出ス舊家アリ。此家ト緣故アル河童ノ如キハ、前者ニ比シテハ稍正直ニ見ユ。【野飼】此ハ寶永中ノコトト稱ス。七月下旬ノ殘暑ノ勞ヲイタハルトテ、愛馬ヲ野飼ノ爲ニ川邊ニ出シ置キシニ、此亦綱ノ端ニ河童ヲ引摺リテ厩ニ走リ入ル。【猿】仲間怪シミテ往キ見ルニ、厩ノ片隅ニ猿ノヤウナル物手綱ヲ身ニ搦メテ居リ、駒ハ向ウ[やぶちゃん注:ママ。]ノ方ニテ息ヲ繼ギ居タリ。其物ヲ熟視スレバ猿ニ似テ猿ニ非ズ、頭上ニ窪ミアリテ髮ハ赤松葉ノ如ク也。【河童ノ手】旦那歸リテ此始末ヲ聽キ大ニ怒リ、此川原ニテ折々人ヲ取ルハ必定汝ナルべシト、忽チ脇差ヲ拔キテ河童ノ手ヲ切落ス。河童シホシホトシテ、ドウカ命ヲ助ケ給へ、今ヨリ此村ノ衆ニハ指モ差シ申スマジト言ヘバ旦那、其方ヲ殺シタリトテ手柄ニモ非ズ、宥シ遣ハスべシ詫證文ヲ書ケトアリ。【河童藥】私ハ元來物書クコトモナラヌ上ニ、手ヲ御切リ成サレタレバ愈以テ書ケマセヌ。御慈悲ニ免シ給ヒ其手モ返シテ下サレ、持ツテ還ツテ藥デ繼ギマスト云フ。旦那思慮ヲ廻ラシ其藥ハ己ガ調合スルノカト問ヘバ、ナル程拵ヘ申スト答フ。然ラバ手ヲ戾シ助クルニヨリ其藥方ヲ我ニ傳ヘヨ。命ノ代リナレバ安キ御事ト、人ヲ拂ハセテ備ニ祕法ヲ口授シテ去ル。其法甚ダ奇ニシテ子孫勿論之ヲ相續スト云ヘリ〔西播怪談實記〕。【河童ノ手】此一條ニ由ツテ察スルニ、詫證文ト藥方ト片腕トハ、河童ノ主觀ニ在リテハ兎モ角モ、人間ニ取ツテハ其價値略同等ナリキトオボシ。證文ガ書ケズバ祕傳ヲ、片手ガ欲シケレバ藥方ヲト云フ中ニモ、手ハ河童ニハ最モ大切ニシテ人間ニハ比較的無用ナリ。渡邊綱ニシテ強情ヲ張ラザリシナラバ、何カ有利ナル「コンミツシヨン」位ハ得ラレシ筈ナリ。其證據ト云フモ妙ナレドモ、近世ニモサル例アリ。山城伏見ノ和田某ナル者、曾テ淀川ノ堤ニ道ビシニ、河童出デテ足ヲ取リ引入レントス。和田強氣ノ男ニシテ其手ヲ捉ヘ腰刀ヲ以テ之ヲ切レバ、キヤツト叫ビ水中ニ入レリ。歸リテ其手ヲ人ニ示スニ、何レモ彼ガ剛勇ヲ感ゼザルハ無シ。此河童モ夜深ク出直シテ來リ、切ニ片手ノ返却ヲ求ムルコト既ニ六夜ニ及ブ。【河童ノ祟】七日目ノ夜ハ殆ド閉口シテ、今夜御返シ下サレズバ最早接グコトモ相成ラズト、打明ケテ懇願ニ及ビタルニモ拘ラズ、頑トシテ之ニ應ゼザリシカバ、茲ニ至ツテカ河童大ニ恨ミ、此報ニハ七代ノ間家貧窮ナルべシト咀[やぶちゃん注:ママ。「詛」の誤字であろう。特異的に訓読では訂した。「ちくま文庫」版全集も「詛」とする。]ヒテ去ル。而モ其手ハ永ク和田ガ家ニ傳ハルト云フ〔諸國便覽〕。和田氏貧乏ノ言譯トシテハ、目先ノ變リタル思附ナレドモ、而モ天下ノ勇士ハ多クハ河童ノ豫言ヲ待タズシテ貧乏ナリ。殊ニ干涸ビタル河童ノ手ヲ家寶トスルガ如キ氣紛レ者ハ、金持ニナレヌ性分トモ云フべシ。但シ河童ノ手ノ評判、如何ニシテ世ニ傳ハルニ至リシカハ、考ヘテ見ル値アリ。今ハ如何ニナリシカヲ知ラズ、以前筑後ノ柳河藩ノ家老某氏ノ家ニモ一本ノ河童ノ手ヲ藏セリキ。此家ノ側ニ近ク大ナル池アリテ、家人時トシテ四五歳ノ小兒ノ猿ニ似テ猿ニ非ザル者ガ水ノ滸ニ立ツヲ見タリ。【足洗】或時家來ノ者足ヲ洗ヒニ行キテ河童ニ引込マレントシ、之ト鬪ヒテ其腕ヲ斬リテ持歸ル。其河童ハ如何ナル仔細アリテカ手ノ返却ヲ求メニ來ラズ、故ニ今モ此家ノ寶物ナリ。每年夏ノ始ニナレバ取出シテ之ヲ水ニ浸シ、親族朋友ノ家ノ子供ヲ集メテ其水ヲ飮マシム。斯クスレバ永ク河童ノ災ニカヽルコト無シトノコト也〔水虎錄話〕。伏見ノ和田氏ナドモ子孫貧苦ニ迫リ、此一物ヲ筐底ヨリ取出シテ世ノ中ニ吹聽シタリトスレバ、其動機必ズシモ初代ノ武功ヲ誇ルニ止ラザリシナランカ。此モ亦有リ得べカラザル推測ニハ非ズ。

 

《訓読》

 河童敗衄(はいぢく)[やぶちゃん注:敗北。]の記錄は右の外にも、猶ほ多し。【水邊(みづべ)の牧】例へば、同じ長門の大津郡向津具(むかつぐ)村は出島(でじま)なり。村に杉谷池と云ふ池あり。每年、領主の馬を預りて、此の池の堤に野飼するを例(ためし)とす。又、河童あり。手續きは型の通りにして、馬に引き摺られて、厩の中に轉げ込む。【手印(しゆいん)】隣人等、集まり來たり、後代に至るまで向津具一庄(しやう)の中に住むまじき由の券文(けんもん)を代書し、彼(かれ)が手に墨を塗りて、之れを押さしめて、放し還す。此れが爲に、庄内に、河童、永く跡をつ、と云ふ。貞享(ぢやうきやう)年中[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。]の出來事にして、其の證文は少くとも、寬政の頃まで[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、村の産土(うぶすな)の社(やしろ)に之れを藏(をさ)めたりき〔「蒼柴園(さうさいえん)隨筆」〕。河童が無筆にして、代書を必要とせしことは、無理も無き話なり。【河童自筆】然るに、或る地方にては、其の證書を以つて、彼(かれ)が自筆に成るものゝごとく傳ふ。現に江戸深川入船町(いりふねちやう)に於いて斯かる例あり。安永年間[やぶちゃん注:一七七二年~一七八一年。]のことなり。或る男、水を泳ぎ居たるに、河童來たりて害を加へんとし、亦、捉へられて陸(をか)に引き上げらる。三十三間堂の前にて打ち殺さんとせしを、見物の中に仲裁を試みたる人あり。河童、詫證文を出だして宥(ゆる)さる。其の一札(いつさつ)には、以來、此の邊りにて、一切、害を爲すまじき由の文言あり。【手印(しゆいん)】且つ、河童の手判(しゆはん)を墨(すみ)を以つて押したるものなりき、と云ふ〔津村氏「譚海」〕。【河童角力(すまふ)】九州は肥前佐賀の藩士大須賀道健が被官(ひかん)、佐賀鄕百石(ももいし)村の某と云ふ者、東淵と云ふ處よりの歸途に、一人の小僧、來たり逢ひ、強ひて角力を取らんことを求む。某、之を諾(だく)して取り組みしに、負けながら、段々と、水の方に、近よる。『さては河童』と心に悟り、此の物、人間の齒を怖(おそ)るゝことを豫(かね)て知りたれば、早速に其の肩のあたりに嚙み附けば、聲を立てゝ、水底(みなそこ)に遁(のが)れ去る。其の夜、河童の來たりて、家を繞(めぐ)りて哀號すること、他國にて腕を斬られたる場合と同じく、「何とぞ、此の傷を治(なほ)して下されよ」と云ふ。其の仔細を聞くに、嚙みたる人が手を以つて其の疵を摩(す)る[やぶちゃん注:さする。]に非ざれば、到底、癒へぬものと見えたり。「汝、若(も)し、此の近邊の人を取らずと誓ふならば、其の請(せい)を允(ゆる)すべし」と云へば、河童、欣々(きんきん)として敬諾(けいだく)し、終(つひ)に紙を乞ひて券(けん)を作り、手印を押して、之れを差し出だす。「汝がごとき者には手を汚(けが)すを欲せず、足で澤山なり」と威張(いば)り、足を展(の)ばせば、ぬるりとして觸るく所ありと云ふ話なり。此の券文も永く勇者が家に傳はれり。其の體(てい)、略(ほぼ)文字のごとくなれども、讀み難し、となり〔「水虎考略」後篇〕。【化物文書】此の話などは、取り分け、虛-誕(うそ)らしけれど、天狗の書と云ひ、狸の自筆など稱するもの、諸國に例多ければ、まだ何とも申し難し。播州佐用郡の某地に一種の骨繼藥(ほねつぎやく)を出す舊家あり。此の家と緣故ある河童のごときは、前者に比しては稍(やや)正直に見ゆ。【野飼】此れは寶永中[やぶちゃん注:一七〇四年~一七一一年。]のことと稱す。七月下旬の殘暑の勞(らう)をいたはるとて、愛馬を野飼の爲に川邊に出だし置きしに、此れ亦、綱の端に河童を引き摺りて、厩に走り入る。【猿】仲間、怪しみて往き見るに、厩の片隅に、猿のやうなる物、手綱(たづな)を身に搦(から)めて居(を)り、駒は向うの方(かた)にて息を繼ぎ居(ゐ)たり。其の物を熟視すれば、猿に似て、猿に非ず、頭上に窪みありて、髮は赤松葉のごとくなり。【河童の手】旦那、歸りて此の始末を聽き、大いに怒り、「此の川原にて、折々、人を取るは、必定(ひつじやう)、汝なるべし」と、忽ち、脇差を拔きて、河童の手を切り落とす。河童、しほしほとして、「どうか、命を助け給へ、今より、此の村の衆には指(ゆび)も差し申すまじ」と言へば、旦那、「其の方を殺したりとて、手柄にも非ず、宥し遣はすべし。詫證文を書け」とあり。【河童藥】「私は、元來、物書くこともならぬ上に、手を御切り成されたれば愈(いよいよ)以つて、書けませぬ。御慈悲に免(ゆる)し給ひ、其の手も返して下され、持つて還つて藥で繼ぎます」と云ふ。旦那、思慮を廻らし、「其の藥は己(おのれ)が調合するのか」と問へば、「なる程、拵へ申す」と答ふ。「然(しか)らば、手を戾し。助くるにより、其の藥方を我に傳へよ。命の代はりなれば安き御事」と、人を拂(はら)はせて[やぶちゃん注:人払いをして、河童と二人きりで。]、備(つぶさ)に祕法を口授(くじゆ)して去る。其の法、甚だ奇にして、子孫、勿論、之れを相續す、と云へり〔「西播怪談實記」〕。【河童の手】此の一條に由つて察するに、詫證文と藥方と片腕とは、河童の主觀に在りては兎も角も、人間に取つては、其の價値、略(ほぼ)同等なりきとおぼし。證文が書けずば祕傳を、片手が欲しければ藥方をと云ふ中にも、手は、河童には、最も大切にして、人間には、比較的、無用なり。渡邊綱にして[やぶちゃん注:のように。]強情を張らざりしならば、何か有利なる「コンミツシヨン」[やぶちゃん注:commission。権限移譲。手数料。歩合。]位(ぐらゐ)は得られし筈なり。其の證據と云ふも妙なれども、近世にもさる例あり。山城伏見の和田某なる者、曾て淀川の堤に道びしに、河童、出でて、足を取り引き入れんとす。和田、強氣(がうき)の男にして、其の手を捉へ、腰刀を以つて之れを切れば、「キヤツ」と叫び、水中に入れり。歸りて、其の手を人に示すに、何(いす)れも彼が剛勇を感ぜざるは無し。此の河童も、夜深く、出直して來たり、切(せつ)に片手の返却を求むること、既に六夜に及ぶ。【河童の祟(たたり)】七日目の夜は、殆んど閉口して、「今夜御返し下されずば、最早、接(つ)ぐことも相ひ成らず」と、打ち明けて、懇願に及びたるにも拘らず、頑(がん)として之れに應ぜざりしかば、茲(ここ)に至つてか、河童、大いに恨み、「此の報(むくひ)には七代の間、家、貧窮なるべし」と咀(のろ)ひて去る。而(しか)も其の手は、永く、和田が家に傳はる、と云ふ〔「諸國便覽」〕。和田氏、貧乏の言譯(いひわけ)としては、目先の變りたる思ひ附きなれども、而も天下の勇士は多くは河童の豫言を待たずして貧乏なり。殊に干涸(ひから)びたる河童の手を家寶とするがごとき氣紛(きまぐ)れ者は、金持になれぬ性分(しやうぶん)とも云ふべし。但し、河童の手の評判、如何にして世に傳はるに至りしかは、考へて見る値(ねうち)[やぶちゃん注:私の当て訓。]あり。今は如何になりしかを知らず、以前、筑後の柳河藩の家老某氏の家にも一本の河童の手を藏(ざう)せりき。此の家の側に近く、大なる池ありて、家人、時として、四、五歳の小兒の、猿に似て、猿に非ざる者が、水の滸(ほとり)に立つを見たり。【足洗(あしあらひ)】或る時、家來の者、足を洗ひに行きて、河童に引き込まれんとし、之れと鬪ひて、其の腕を斬りて、持ち歸る。其の河童は如何なる仔細ありてか、手の返却を求めに來たらず、故に、今も此の家の寶物なり。每年、夏の始めになれば、取り出だして、之れを水に浸し、親族・朋友の家の子供を集めて、其の水を飮ましむ。斯(か)くすれば、永く、河童の災(わざはひ)にかゝること無し、とのことなり〔「水虎錄話」〕。伏見の和田氏なども、子孫、貧苦に迫り、此の一物(いちもつ)を筐底(きやうてい)より取り出だして、世の中に吹聽(ふいちやう)したりとすれば、其の動機、必ずしも初代の武功を誇るに止(とどま)らざりしならんか。此れも亦、有り得べからざる推測には非ず。

[やぶちゃん注:ここは柳田先生、なかなか余裕を持ってユーモアに富んで書いておられる。

「敗衄(はいぢく)」「衄」(音は現代仮名遣「ジク」)は「挫(くじ)ける・敗れる」の意で「敗北」に同じ。

「長門の大津郡向津具(むかつぐ)村は出島(でじま)なり」現在の長門市油谷の北西端の半島部に当たる山口県長門市油谷(ゆや)向津具上(むかつくかみ)向津具下(むかつくしも)(国土地理院図)。現行では表記した通り、「むかつく」と清音である。ここは航空写真(グーグル・マップ・データ)で見て分かる通り、同地区の油谷島が陸繋島であるだけでなく、向津具地区全体が東で有意に縊れて出島風になっている半島であることから、かく言ったものであろう。因みにここは驚きの伝楊貴妃の墓(山口県長門市油谷向津具下のここ(グーグル・マップ・データ)があることで知られる地である。

「杉谷池」この向津具地区は国土地理院図で見ても、大きな池が十数箇所、小さな池沼に至っては数え切れぬほどあり(さればこそ河童にとっては本来なら、よき棲息環境とは思われる)、この名称の池は同定出来なかった。話柄から推して相応に大きな池とは思われるものの、それでも複数あり、同定出来ない。

「向津具一庄(しやう)」この「庄」は単に「村里」の意。

「券文(けんもん)」本来は律令制下に於いて、土地・牛馬・家屋等の売買にあって必要な交感約定書類を指す。「券契」とも言う。ここは単に誓約文書の意。

「貞享(ぢやうきやう)年中」これは徳川綱吉の治世だ。ああ、そうか! ここで他と違って打ち殺されそうになるシーンが挟まれないのは(原典に当たっていないのであるのかも知れぬが)「生類憐れみの令」(貞享四(一六八七)年十月に始まるとされる)絡みかな?

「村の産土(うぶすな)の社」当地の旧郷社である油谷向津具下にある向津具八幡宮か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「江戸深川入船町」現在の中央区明石町の聖路加病院附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに「河童」(リンク先は私の電子テクスト)を書いた芥川龍之介の生地である。

「三十三間堂」江戸三十三間堂。江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目附近。ここ(グーグル・マップ・データ))にあった仏堂で本尊は千手観音であった。現在の入船町とは隅田川挟んで東へ二キロメートルほど行った位置であるが、隅田川の中で格闘して東へ流れて行って、ここで陸へ上がったものと思えば、不審なロケーションではない。ウィキの「江戸三十三間堂」によれば、『京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて』、寛永一九(一六四二)年に『弓師備後という者が幕府より』、『浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる』。翌寛永二十年四月の『落成では、将軍徳川家光の命により』、『旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った』。その後、元禄一一(一六九八)年の『勅額火事により焼失したが』、三年後の元禄十四年に『富岡八幡宮の東側』『に再建された。しかし』、明治五(一八七二)年、悪名高き神仏分離と廃仏毀釈によって、『廃されて堂宇は破却された』。『京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行した。記録達成者は「江戸一」を称した』とあり、寧ろ、剛腕の主人公が河童を平伏させ、詫び請文を書かせるに相応しいロケーションと言うべきであろう。

『津村氏「譚海」』私は遅筆ながら、同書の電子化注を行っており、幸いにしてこれは「譚海 卷之二 江戸深川にて川太郎を捕へし事」で電子化注を終わっている。見られたい(直前の注はそれを援用した)。

「河童角力」河童が習性として相撲をとることを好むというのは知られた話であるが、このケースを見るに、相撲は口実で、川に引き込んで尻子玉を抜くことが真の目的であるように見えてくる。

「肥前佐賀ノ藩士大須賀道健」『佐賀医学史研究会報』第百十(二〇一八年二月発行・PDF)の「緒方洪庵の大坂適塾と肥前門人」のリストの中に、佐賀藩の大須賀道貞なる者が万延元年六月九日に緒方洪庵の大坂適塾に入門したという記載があるから、この人物の先祖の一人かとは思われる。「道健」という名は如何にも後代に医師となりそうな感じではある。但し、彼の「被官」(近世に於いては町家の下男・下女をかく称したから、ここも藩士大須賀道健家に雇われた中間(ちゅうげん)等であろうと思われる)の「佐賀鄕百石(ももいし)村」(国土地理院図で発見した。ここ。グーグル・マップ・データではこの中央辺りで、現在の佐賀県佐賀市高木瀬町大字長瀬で、ネット記事を見ると、小字地区名で「百石」は生きているようである)出身の「の某」が主人公なので、ご注意あれ。

「東淵」百石から巨勢川を跨いだ東の、現在の佐賀市金立町(きんりゅうまち)大字薬師丸のここの中央位置(国土地理院図であるが、あまり大きくすると、「東渕」の地名が消えてしまうので注意されたい)「東渕」の地名(地区名か)が現存する。

「人間の齒を怖る」これは私は初めて聴いたのだが、サイト「カッパ研究会」のこちらに、『日本の各地に、河童が子どもの尻小玉を抜いたとの話が伝わっています』。『確かに、河童はキュウリだけでなく生肝も好きです。最初は口から手を入れて肝を抜いていたのですが、人の歯が強いことを知ってからは、歯のないお尻から手を入れて生肝を抜くようになりました』。『でも、肝も好きになったのは、明治以降のことで、最初の頃は肝が好きなわけではなかったのですよ』。『生肝を好む由来は、中国の「竜宮の乙姫様の病気に猿の生肝がよいので、亀やクラゲが猿を連れてくるが、猿が途中で逃げる」伝承から来ているのだと思います。この話は江戸時代は、亀が生肝と抜きに行く小咄のネタになっていますから、本当に肝がすきなのは亀です。この肝が薬になる伝承と、「川に捨てられた河童が、食べるものがないと答えると、尻でも食べろ」と言われる、話が重なりあったのではないでしょうか』。『河童族にとっては迷惑な話です。最初は口から生肝を抜いていたが、尻から抜くようになる伝承は、佐賀県や福岡県などに伝わっています』とあったので、これはもう、納得!!!

「允(ゆる)すべし」「允」(音「イン」)には原義に「認めて許す」の意があり、訓で「ゆるす」と読む。熟語として「允可」「允許」「承允」等がある。

「欣々(きんきん)」非常に楽しげにするさま。にこにこ微笑んで喜ぶさま。

「敬諾(けいだく)」謹んで承知すること。

「券(けん)」先の「券文(けんもん)」に同じ。広く各種の証明手形や割符(わりふ)等もかく言う。

「狸の自筆」私の電子化した類話の中でも、特に忘れ難いしみじみとした話は、「想山著聞奇集 卷の四 狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」である。筆ではないけれど、「形見の手形」が出る(挿絵有り)。未読の方は、是非読まれたい。

「播州佐用郡」概ね、現在の兵庫県佐用町(さようちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「柳河藩」有明海湾奧の筑後国柳河(現在の福岡県柳川市。ここ(グーグル・マップ・データ))に居城を置いた外様藩。]

2019/01/29

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 治鳥(ぢちやう) (実は妖鳥「冶鳥(やちょう)」だ!)

 

Jityou

 

ぢちやう   附

        天狗

        天魔雄

治鳥

 

ツウニヤ◦ウ

 

本綱越地深山有之大如鳩青色穿樹作窠大如五六升

噐口徑數寸餝以土堊赤白相間狀如射侯伐木者見此

樹卽避之犯之則能役虎害人燒人廬舎白日見之鳥形

也夜聞其鳴鳥聲也或作人形長三尺入澗中取蟹就人

間火炙食山人謂之越祀祖

△按先輩僉云治鳥乃本朝所謂天狗之類矣羅山文集

 云日光山有天狗好棲息于長杉猶是愛宕山大杉榮

 術太郞之所居之類也歟蓋指鬼魔而言也夫天狗者

 星名也我朝浮修驗者欲恐怕世俗扇惑庸愚而使

 己術售之故唱天狗名以訇之歟但深山幽谷其氣之

 所及則山都木客亦有之乎猶如大海有鯨鯢又奚疑

△或書云服狹雄尊猛氣滿胸腹而餘成吐物化成天狗

 神姫神而軀者人身頭獸首也鼻高耳長牙長左右不

 隨意則太怒甚荒雖大力神乃懸于鼻挑千里雖强堅

 刀戈輙咋掛於牙壞以作叚叚毎事不能穩止以在左

 者早逆謂爲右又在前者卽謂爲後自推名兮名

 毎姫吞天之逆氣獨身而生兒名天魔雄神不順 天

 尊命諸事造爲不成順善八百萬神等悉方便矣

 祖赦使天魔雄神王九虛而荒神逆神皆屬之託心腑

 變意令敏者高之使愚者迷之【此乃俗云天狗及天乃佐古之類乎非爲正

 記之備考】

 北國能登海濱有天狗爪往往拾取之大二寸許末尖

 微反色潤白如小猪牙而非牙全爪之類也疑此北海

 大蟹之爪也歟若夫天狗之爪者可有處處深山中何

 有海邊耶

 

 

ぢちやう   附〔(つけた)〕り

        天狗

        天魔雄(あまのざこ)

治鳥

 

ツウニヤ

 

「本綱」、越〔の〕地の深山に、之れ、有り。大いさ、鳩のごとく、青色。樹を穿(うが)ち、窠を作る。大いさ、五、六升の噐、口徑、數寸。餝〔(かざ)〕るに土〔(あかつち)と〕堊〔(しつくい[やぶちゃん注:歴史的仮名遣はこうである。「漆喰」は当て字で「しつくひ」ではない。])〕を以つてす。赤・白、相ひ間(まじ)はる。狀、射-侯(まと)[やぶちゃん注:弓の的。]のごとし。木を伐る者も、此の樹を見れば、卽ち、之を避く。之れを犯すときは、則ち、能く役-虎(たゝ)り[やぶちゃん注:「祟り」。]、人を害す。〔その〕人の廬-舎〔(いへ)〕を燒き、〔→く。〕白日、之れを見れば、鳥の形なり。夜、其の鳴くを聞くも、鳥の聲なり。〔しかれども、〕或いは人の形と作〔(な)〕る。長〔(た)〕け〔は〕三尺〔にして〕、澗(たに)の中に入りて、蟹を取りて、人間の火に就〔(つ)き〕て[やぶちゃん注:人の熾(おこ)している焚火の傍にやってきて。]、炙りて食ふ。山人、之れを「越〔の〕祀〔(かみ)〕の祖」と謂ふ。

△按ずるに、先輩[やぶちゃん注:良安の先輩の学者たち。]、僉(みな)[やぶちゃん注:「皆」。]、云はく、「治鳥、乃〔(すなは)ち〕、本朝の所謂〔(いはゆる)〕、天狗の類か」と。「羅山文集」に云はく、日光山に、天狗、有り。好んで長〔(たか)〕き杉に棲-息(す)む。猶ほ、是れ、愛宕(あたご)山の大杉は榮術太郞〔(えいじゆつたらう)〕の居する所といふの類ひのごとくなるか。蓋し、鬼魔[やぶちゃん注:超自然のやや魔性に傾いた存在、鬼神・魔神・荒ぶる神ほどの意味か。]を指して、言ふなり。夫〔(そ)〕れ、天狗〔(てんこう)〕は星の名なり。我が朝、浮屠〔(ふと)〕[やぶちゃん注:僧侶。]・修驗者、世俗を恐-怕(をど)し、庸愚(ようぐ)[やぶちゃん注:平凡でおろかな一般人。]を扇-惑(まどは)し、己〔(おの)〕が術をして、之れを售(う)らん[やぶちゃん注:「賣らん」に同じ。]と欲するの故、天狗の名を唱へ、以つて之れを訇(のゝし)るか。但し、深山幽谷には、其の氣の及ぶ所、則ち、山都〔(さんと)〕・木客〔(もつかく)〕も亦、之れ、有るか。猶ほ、大海に鯨-鯢(くじら)有るがごときも、又、奚(なん)ぞ疑はん。

△或る書に云はく、服狹雄尊(そさのをのみこと)[やぶちゃん注:「素戔嗚命(すさのをのみこと)」に同じ。]猛〔き〕氣、胸・腹に滿ちて、〔その〕餘り、吐物と成る。〔それ、〕化して天狗神と成る。姫神[やぶちゃん注:女神。]にして、軀は人の身、頭は獸の首なり。鼻、高くして、耳、長く、牙、長し。左-右(ともかく)も、〔他の〕意に隨はず、則ち、太(にへざま)に[やぶちゃん注:不詳。「煮え樣に」で。煮え立つように、激しくの意か。東洋文庫訳は『大へんに』と訳している。]怒り、甚だ荒(すさ)む。大力の神と雖も、乃〔(すなは)〕ち、鼻に懸け、〔即座に〕千里へ挑(はね)る。强堅の刀戈〔(とうくわ)〕[やぶちゃん注:刀や矛。]と雖も輙〔(すなは)〕ち咋(か)みて牙に掛けて壞して、以つて叚叚(づたづた)と作〔(な)〕す。毎〔(つね)〕に、事、穩止(をんとうにす)ること能はず[やぶちゃん注:穏当にすることが出来ず。]、左に在〔(あ)〕る者を以つて、早〔(はや)〕逆〔(さから)ひ〕て「右爲(た)り」と謂ひ、又、前に在る者は、卽ち、「後(しりへ)爲〔(た)〕り」と謂ふ。自〔(みづか)〕ら推〔(お)〕して名づけて、「天逆毎姫(〔あま〕のさこの〔ひめ〕」と名づく。天〔(てん)〕の逆氣〔(さかき)〕を吞みて、獨り〔にて〕身(はら)みて兒を生む。「天魔雄神(〔あま〕のさかをの〔かみ〕」と名づく。天尊の命に順はず、諸事の造-爲(しわざ)に〔も〕、順-善(よきこと)〔を〕成さず、八百萬神〔(やほよろづのかみ)〕等〔(ら)〕、悉く、--便(もてあつか)ふ[やぶちゃん注:持て余してしまった。]。天祖、赦〔(ゆる)〕して、天魔雄神(〔あまのさかを〕の〔かみ〕」をして、九虛に王たらしめ、荒(あらぶ)る神、逆(さらふ)る神〔は〕皆、之れに屬す。〔かの神どもは〕心腑〔(しんぷ)〕に託〔(たく)〕し[やぶちゃん注:憑依し。]、意〔(おもひ)〕を變じ、令敏(さと)き者をして之れを高ぶらしめ、愚かなる者をして之れを迷はしむ【此れ、乃〔(すなは)〕ち、俗に云ふ、天狗及び「天(あま)の佐古(ざこ)」の類ひか。正と爲るに非ざるに、〔→非ざれども、〕之れを記して考ふるに備ふ〔るものなり〕。】。

北國〔の〕能登の海濱〔に〕「天狗の爪」有り、往往〔にして〕之れを拾ひ取る。大いさ、二寸許り、末、尖り、微かに反(そ)り、色、潤白〔にして〕小さき猪(ゐ)の牙(き〔ば〕)のごとくにして、牙に非ず。全く、爪の類いなり。疑ふらくは、此れ、北海〔の〕大蟹〔(おほがに)〕の爪か。若〔(も)〕し、夫〔(そ)〕れ、「天狗の爪」ならば、處處の深山の中に有るべし。何ぞ海邊に有らんや。

[やぶちゃん注:私は実は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」(サイト一括版)の「野女」で、本項を既に電子化注している。しかし、今回は全くゼロから再度、電子化し、注も新たに施した。しかし、はっきり言って、狭義の妖鳥治鳥については四世紀に東晋の干宝が著した志怪小説集「捜神記」の巻十二の以下以外には、ロクな記載がない。

但し! ここに重大な発見があった!

 「搜神記」のそれは

「治鳥」(じちょう)ではなく、「冶鳥」(やちょう)

ということである! しかも、そこでは、より豊かにして詳細な、奇体なる習性が語られてあるのだ。

   *

越地深山中有鳥、大如鳩、靑色。名曰「冶鳥」。穿大樹、作巢、如五六升器、口逕數寸、周飾以土埡、赤白相分、狀如射侯。伐木者見此樹、卽避之去。或夜冥不見鳥、鳥亦知人不見、便鳴喚曰、「咄咄上去」。明日便宜急上。「咄咄下去」、明日便宜急下。若不使去、但言笑而不已者、人可止伐也。若有穢惡及其所止者、則有虎通夕來守、人不去、便傷害人。此鳥、白日見其形、是鳥也。夜聽其鳴、亦鳥也。時有觀樂者、便作人形、長三尺、至澗中取石蟹、就人炙之。人不可犯也。越人謂此鳥「是越祝之祖」也。

   *

勝手自然流で私の理解を当て訓しながら訓読すると(但し東洋文庫の竹田晃氏の訳文を参考にした)、

   *

 越の地の深山の中に、鳥、有り、大いさ、鳩のごとく、靑色。名づけて「冶鳥(やてう)」と曰ふ。

 大樹を穿ち、巢を作り、五、六升の器(うつは)のごとく、口、逕(さしわたし)數寸、周(まは)り、土(あかつち)と埡(しつくい)を以つて飾り、赤・白、相ひ分け、狀(かたち)、射侯(しやこう)のごとし。

 木を伐る者、此の樹を見れば、卽ち、之れを避けて去る。

 或いは、夜冥(やめい)、鳥、見えず、鳥も亦、人の見えざるを知れば、便(すなは)ち、鳴き喚(わめ)きて曰はく、

「咄咄上去(とつとつじやうきよ)。」[やぶちゃん注:現代中国語では、「duō duō shàng qù」(ドゥオ・ドゥオ・シァン・チュィー)。]

とならば、明日(みやうじつ)、便ち、宜しく、急ぎ上(のぼ)るべし。

「咄咄下去(とつとつげきよ)。」[やぶちゃん注:現代中国語では、「duō duō xià qù」(ドゥオ・ドゥオ・シィア・チュィー)。]

とならば、明日、便ち、宜しく、急ぎ下るべし。若(も)し、去らしめず、但(た)だ、言ふに、笑ひて已(や)まざるのみならば、人、止(とど)まりて伐るべし。若し、其の止まる所に穢惡(あいあく)有るに及びては、則ち、虎、有りて、夕べを通して守りに來たれば、人、去らざれば、便ち、人を傷害す。

 此の鳥、白日、其の形を見るに、是れ、鳥なり。夜、其の鳴くを聽くも亦(また)、鳥なり。時に、觀樂せる者、有り、便ち、人の形(なり)を作(な)し、長(たけ)三尺にして、澗(たに)の中に至り、石蟹(いしがに)を取り、人に就(したが)ひて、之れを炙(あぶ)れり。人、犯すべからず。

 越人(えつひと)、此の鳥を「是れ、『越祝(えつのはふり)の祖』なり」と謂ふなり。

   *

この文章を見ると、「治鳥」ではない、「冶鳥」の意が判然としてくるのだ!

「冶」は「冶金(やきん)」で知れる通り、「ある対象を練り上げ、捏ね上げて作る」の意である。「土」(この場合は「赤土(あかつち)」と採る)と「埡」(「堊」に同じく、「白土(しろつち)・石灰・漆喰」。但し、建築材料としてのそれは、石灰に麻の繊維・草本類・海藻等から得られた糊様の物質と水などを加え、練り上げて作られた白色の人工素材である。ここでの「土堊」はそうした人為的な建築材料ではなく、ほぼ石灰から成る天然の漆喰を指していよう。顔料としてのそれは既に高松塚古墳壁画等にも既に用いられている)の二色の土を捏ね上げて巣を作るから「冶」

なのであり、しかも、

「冶」には別に「艶(なま)めく・艶めかしい・美しく飾る」の意があるのだ! そうだ! 彼は巣を「土(あかつち)と埡(しつくい)を以つて」「赤・白、相ひ分け」て「飾り」、その「狀(かたち)」はあたかも、描かれた、きっちりとデザインされた、「射侯」(しゃこう)弓の的のように素晴らしく、目立つもので、だから、木樵にもよく判る

というのである!(こんなに論理的に明解に腑に落ちる志怪小説は珍しい!) 貧弱なちゃちなミイラみたようになった良安の引く「本草綱目」よりずっといい。但し、「本草綱目」には良安の引用した後に(実は時珍はちゃんと頭で『時珍曰、按干寳「搜神記」云』と添えている)、以下が続いている。

   *

又、段成式「酉陽雜俎」云、俗、昔有人遇洪水、食都樹皮、餓死化爲此物。居樹根者爲猪都、居樹中者爲人都、居樹尾者爲鳥都。都、左脇下有鏡印、闊一寸一分。南人食其窠、味如木芝也。竊謂、獸有山都・山𤢖・木客、而鳥亦有治鳥、山蕭・木客鳥。此皆戾氣所賦、同受而異形者與。今附于左。[やぶちゃん注:として以下に「附錄」として「木客鳥」を載せるが、これは次の次の項に独立項として出るのでそちらで示すこととして略す。]

   *

この際、これも力技で訓読しておくと(但し、東洋文庫の今村与志雄氏の「酉陽雜俎」の巻十五の「諾皐記(だくこうき)下」の元の文の訳文を参考にしたが、時珍は原文を有意に省略してしまっている)、

   *

又、段成式が「酉陽雜俎」に云はく、俗にくに、『昔、人の洪水に遇ふ有りて、都樹(とじゆ)の皮を食ひ、餓死し、化(か)して此の物と爲(な)る。樹の根に居る者、「猪都」と爲し、樹の中に居る者を「人都」と爲し、樹の尾[やぶちゃん注:頂きの意か。]に居る者を「鳥都」と爲す。「鳥都」は、左の脇の下に鏡(かがみ)の印(しるし)、有り、闊(ひろ)さ[やぶちゃん注:直径。]一寸一分[やぶちゃん注:段成式は唐代(中晩唐期)で当時のそれは三・四二センチメートル。]。南人、其の窠を食ひ、味、木芝(もくし)[やぶちゃん注:菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ(霊芝)Ganoderma lucidum 或いはその仲間。]のごとくなりと』〔と〕。竊(ひそか)に謂はく、『獸に、「山都」・「山𤢖」・「木客」、有り。而して鳥にも亦、「治鳥(ぢてう)」・「山蕭(さんせう)」・「木客鳥」、有り。此れ皆、戾氣(れいき)所賦(しよふ)[やぶちゃん注:極めて悪性の邪気を生まれつき与えられていることの意であろう。]にして、同じく受くも、異形をなせる者か。今、左に附す。

   *

実在する鳥より、やっぱ、幻想の鳥はええなあ! 超惹かれるわ!

 

「五、六升の噐」「捜神記」は四世紀の東晋の干宝の著で、当時の一升はぐっと少なく〇・二リットルであるから、一~一・二リットルにしかならない(因みに、明の時珍の頃は一・七リットルだからエラい読み違いをしていたに違いない)。

「口徑」直径。

「數寸」六掛けで十八センチメートルだが、一・二リットルからはちと大き過ぎる。絵を良く見るに、「きんかくし」型で底が長円形をしているから。これを長径とっておけば、辻褄は合いそうだ。

「〔(あかつち)と〕堊〔(しつくい)〕」東洋文庫訳は「土堊」で『しつくい』のルビを振っている。白い漆喰だけでどうやって「赤・白、相ひ間(まじ)はる」「射-侯(まと)」のようなデザインが作れるんですかっつーうの!!!

「役-虎(たゝ)り」当初、この訓を不審に思っていたのであるが、これは「捜神記」の「則有虎通夕來守、人不去、便傷害人」の部分を圧縮したもので、「能く虎を役(えき)し、人を害す」(よく虎を使役して、人を害する)だがね! 良安先生、こりゃ誤訓読でっせ! でもね、東洋文庫訳は誤魔化して漢字を出さずに『これを犯すとたたり危害を加え』ってなっている。これは掟破りでショウ!!!

「或いは人の形と作〔(な)〕る」ある時は、人の姿に変ずる。

「長〔(た)〕け〔は〕三尺」背丈は(東晋のそれ(一尺は二十四・二四センチメートル)で換算)七十三センチメートルに足りない小人である。

「澗(たに)」渓谷。

「蟹」「捜神記」は「石蟹」であるが、山中の渓谷であり、竹田氏も『沢蟹』と訳す。「石」の下にいる「蟹」ほどの意味で、確かにそれでよいが、ただ、甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani 日本固有種で、実は中国にはいない。従ってサワガニ科 Potamidae のサワガニの仲間で、調べてみると、中文サイトでは近溪蟹亞科 Potamiscinaeの属群が相当するようである。

『山人、之れを「越〔の〕祀〔(かみ)〕の祖」と謂ふ』昔の越(春秋戦国時代に遡る古代の国の旧名。ここはそれに相当する浙江省杭県以南の東海に至る地方を指す)の内陸の山間部の人々は土地神の化身としていたのである。

「本朝の所謂〔(いはゆる)〕、天狗」ウィキの嫌いのアカデミストのために、ウィキの「天狗」は引かずに(かなりマニアックにいい線いってるんだけどねぇ)小学館「日本大百科全書」の「天狗」を引く(井之口章次氏の解説。読みは一部を省略した)。『山中に住むといわれる妖怪。中国では、流星または彗星が尾を引いて流れるようすを、天のイヌまたはキツネに例え、仏教では夜叉や悪魔のように考えられていた。日本では仏教を、当初は山岳仏教として受け入れ、在来の信仰と結び付いた修験道を発達させたが、日本の天狗には修験道の修行者=山伏の姿が色濃く投影している。一般に考えられている天狗の姿は、赤ら顔で鼻が高く、眼光鋭く、鳥のような嘴をもっているか、あるいは山伏姿で羽根をつけていたり、羽団扇(はうちわ)を持っていて自由に空を飛べるといったりする。手足の爪が長く、金剛杖や太刀を持っていて神通力があるともいう。これらの姿は、深山で修行する山伏に、ワシ、タカ、トビなど猛禽の印象を重ね合わせたものである。また天狗の性格は、感情の起伏が激しく、自信に満ちてときに増上慢であるが、一方では清浄を求めてきわめて潔癖である。天狗に大天狗と、烏天狗や木(こ)っ葉(ぱ)天狗などとよばれる小天狗との別があるというのも、山伏が先達(せんだつ)に導かれながら修行するようすを投影したものであろう』。『人が突然行方不明になることを、神隠しにあったという。中世以前はワシや鬼に連れ去られたといったが、近世以後は天狗にさらわれたという事例が急増する。天狗にさらわれた子供が数日たって家に戻ってきたり、空中を飛んだ経験を話して聞かせたなどの記録が残っている。近代の天狗のイメージには、近世に形成されたものが多いようである。妖怪を御霊(ごりょう)信仰系のものと祖霊信仰系のものとに大別すると、天狗は後者に属する。中国伝来の諸要素を多く残しながら、祖霊信仰に組み入れることによって山の神の性格を吸収したのであろう。そのため群馬県沼田市の迦葉山弥勒寺(かしょうざんみろくじ)、栃木県古峯原(こぶがはら)の古峯(ふるみね)神社、そのほか修験道系統の社寺において、天狗を御神体もしくは使令(つかわしめ)(神様のお使い)として信仰する例が多い』。『天狗がまったく妖怪化した段階では、種々の霊威・怪異の話が伝承されている。子供をさらって行くというのもその一つであるが、各地の深山で天狗倒し・天狗囃子(ばやし)などの話がある。天狗倒しは、夜中に木を伐る音、やがて大木の倒れる音がするが、翌朝行ってみるとどこにも倒れた木がないという怪異現象であり、天狗囃子は、どこからともなく祭囃子の音が聞こえてくるというものである。村祭りの強烈な印象や、祭りの鋪設(ほせつ)のための伐木から祭りへの期待感が、天狗と結び付いて怪異話に転じたものであろう。そのほか、山中で天狗に「おいおい」と呼ばれるとか、どこからともなく石の飛んでくるのを天狗のつぶてということがある。昔話では、かなり笑話化されているが「隠れ蓑笠」というのがある。むかし、ある子供が「めんぱ」[やぶちゃん注:「面桶(めんつう:「ツウ」は「桶」の唐音)一人前ずつの飯を盛った曲げ物の弁当箱。破子(わりこ)に同じい。]に弁当を入れて山へ行く。天狗がいるので「めんぱ」でのぞき、京が見える、五重塔が見えると欺く。天狗が貸せというので隠れ蓑笠と交換する。天狗はのぞいてみたが何も見えないので、だまされたと気づいて子供を探すが、隠れ蓑笠を着ているのでみつからない。子供は隠れ蓑笠を使って盗み食いする。あるとき母親が蓑笠を焼いてしまう。灰を体に塗り付けて酒屋で盗み飲みすると、口の周りの灰がとれて発見され、川へ飛び込んで正体が現れるといった類の話である。伝説には天狗松(天狗の住む木)などがあり、民家建築の棟上げのとき、棟の中ほどに御幣を立ててテンゴウサマ(天狗様)を祭る所もある』とある。う~ん、やっぱ、ウィキの「天狗」の方が、本邦での天狗の進化については、遙かに合点がいきますがねぇ(実は引かないのは、あまりに叙述が長いからである)

「羅山文集」江戸初期の朱子学派儒学者で、幕府ブレーンとなる林家の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の死後(寛文二(一六六二)年)に編された著作大成。全七十五巻。約二千篇に及ぶ考証随想。他の資料を参考に原文を国立国会図書館デジタルコレクションの画像から探そうとしたが、上手くいかなかった。そのため、どこまでが羅山の文なのか不明である。

「日光山」現在は栃木県日光市にある輪王寺(日光東照宮の東隣り。の附近一体。グーグル・マップ・データ)の山号。江戸時代には日光寺社群を総称して日光山と呼んだ。『日光山は勝道上人(奈良時代後期から平安時代初期の人物)が開いた現日光の山岳群』、『特にその主峰である男体山を信仰対象とする山岳信仰の御神体』乃至『修験道の霊場であった』。『日光が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し』、『国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期』乃至『鎌倉時代以降である。下野薬師寺の修行僧であった勝道一派が日光菩薩に因んで現日光の山々を「日光山」と命名した可能性も含め、遅くても鎌倉時代頃には現日光の御神体が「日光権現」と呼ばれ』、『また「日光山」や「日光」の呼称が一般的に定着していたものと考えられる』(以上はウィキの「日光山」による)。因みに、この天狗は日光山東光坊といい、平田篤胤の「仙境異聞」には、この山には数万の天狗がいたと記している。

「愛宕山」(あたごやま/あたごさん)は現在の京都府京都市右京区の北西部、旧山城国及び丹波国国境にある山。標高九百二十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。山頂は京都市にあるが、約一・五キロメートル西には市境があり、山体は亀岡市に跨る。京都盆地の西北に聳え、東北の比叡山と並び、古くから信仰の山とされた。神護寺などの寺社が愛宕山系の高雄山にある。山頂に愛宕神社があり、古来より「火伏せの神」として信仰を集める、全国の愛宕社の総本社である。

「榮術太郞〔(えいじゆつたらう)〕」の読みは「日文研」の「怪異・妖怪画像データベース」の「愛宕栄術太郎;アタゴエイジュツタロウ」に拠った。ウィキの「太郎坊によれば、彼は京都の愛宕山に祀られる天狗の頭目である「愛宕太郎坊天狗」の別名で、多くの眷族を従える、「日本一の大天狗」の異名を持つ、全国代表四十八天狗及び八天狗の一人である。また、江戸中期に書かれた「天狗経」によれば、本邦には四十八種、十二万五千五百もの天狗が数え挙げられてあるが、その中でも有力な八大天狗の一人で、東の富士山頂に棲む富士太郎に対する、西国を代表する天狗とし、伝承では、この太郎坊は、仏の命によって「大魔王」となったのであり、衆生利益を目的として愛宕山を護持しているとする。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の京都市図書館の「愛宕山の太郎坊天狗について」の事例回答によれば、『愛宕山の天狗は古くから文献に登場しますが』、『固有名がありませんでした。『源平盛衰記』の巻』八『「法皇三井灌頂の事」における後白河法皇と住吉明神の問答の中で』、『初めて「太郎坊」の名が出てきたようです』が、「源平盛衰記」の『成立年代は不明です。また』久寿二(一一五五)年の『藤原頼長の日記には愛宕山の天狗とあるのみで』、二十『年ほど後の』安元三(一一七七)年の『京都大火は愛宕山の天狗が引き起こしたとして「太郎焼亡」と呼ばれ』、『当時の検非違使の記録にも火事名「太郎」が記されています』とあり、知切光歳著の「天狗の研究」による以下の根拠が挙げられてある(一部に私が追記・表現の変更を施ししているので引用符は振らない)。

・平安末期に成立した「今昔物語集」に於いて、異国の天狗が、まず頼ってきたのが、愛宕の天狗であったこと。

・左大臣藤原頼長(保安元(一一二〇)年~保元元(一一五六)年)が近衛帝調伏の釘を打ち付けたのが、愛宕の天狗像であること。

・王朝期の天狗といえば、事あるごとに、愛宕の天狗が介入していること。

・日本の天狗名第一号が愛宕山の「太郎坊」であること。

・「太郎坊」は古書に最もよく名前の出てくる天狗であること。

そうして、その下方の「回答プロセス」の中に、「山城名勝志」(大島武好(元は山城国の菓子屋で、早くから京に出て、野々宮家に仕えた)が三十余年を費やして宝永二(一七〇五)年刊行した、史料を引用して成しあげた山城国地誌。全二十一巻)に載る「白雲寺縁起」(ここの鎮守神であったと思われるものが阿多古(あたご)神社で、現在の愛宕神社)に始めて(少なくともこの調査者にとっては)「太郎坊一名栄術太郎」と出るとある。

「天狗〔(てんこう)〕は星の名なり」本邦の「天狗」(てんぐ)と差別化するために、東洋文庫訳のルビを採用した。「天狗星」「天狗流星」とも。本来、中国では流星・彗星の内、大気圏内に突入し、火と音を発するものをかく言った。良安が初め、如何にも不信感を以って書いている通り、現在、我々が知る鼻の長い「天狗」なるものは実は純国産の妖怪なのである。「史記」の「天官書 第五」には以下のように記載される(原文はネット上の中文サイトのものを参考にし、書き下し・語注及び訳には明治書院の新釈漢文体系四十一「史記 四 八書」を参考にした)。

   *

天狗、狀如大奔星、有聲、其下止地、類狗。所墮及望之如火光炎炎沖天。其下、圜如數頃田處、上兌者則有黃色。千里、千里破軍殺將。

   *

 天狗は、狀(かたち)、大奔星(だいほんせい)のごとく、聲、有り。其れ、下りて地に止(とど)まらば、狗(いぬ)に類(に)たり。堕(お)つる所、之れを望むに、火光(くわこう)のごとく、炎炎として天に沖(のぼ)る。其の下は圜(まろ)きこと、數項(すうけい)の田處(でんしよ)のごとくにして、上兌(じやうえい)は、則ち、黃色、有り。軍を破り、將を殺す。

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語注すると、「大奔星」は大きな流星。「狗」は「犬」或いは「小さい犬」の他、「熊や虎の子」の意もある。「沖」諸本の多くは「衝」で「つく」と訓じているが、この字の方が私にはしっくりくる。「項」面積単位。「一項」は「百畝」で約百八十二アール(前漢期の単位換算)で、これは一万八千二百平方メートルであるから、「數」を六掛けとして、一千九十二アール、約十一ヘクタールで、東京ドームの二倍強に当たる。「上兌」「兌」は「尖っている様」であるから、落下した隕石の尖った上部のこと。以下、訳す。

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 天狗星は、その形状は、巨大な流星のようで、飛ぶ際には、はっきり聞き取れる音がするほどのものである。

 落下して地上に落ちた場合は、小犬に似て見える。

 落下する際に観察すると、それは火と光の柱のように見え、その立ち上る火炎は、まさに天を衝(つ)くように高く伸びている。

 その落下地点は完全な円形を成しており、凡そのその広さたるや、数項(けい)の田畑に等しく、落下物の上部は鋭く尖っていて、黄色を呈している。

 これが天空に出現したり、落下したりした国は、大きな戦争の敗北と、無数の将兵の死が齎される。

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「浮屠」は、本来はサンスクリット語の「ブッダ(仏陀)」のことであるが、そこから広義に僧侶や仏教徒をも指す語となった。ここ以降は、次のように訳せる(私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」(サイト一括版)の「野女」で示した旧訳に少し手を加えた)。

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(「天狗(てんぐ)」とは、本来は「天狗(てんこう)」であって、妖怪ではなく、星の名前であるのにも関わらず、)本邦の僧侶や修験者らが、「天狗(てんぐ)」なる妖怪変化をでっち上げたのは、布教教化のためと称して、世俗の者たちを必要以上に怖がらせ、愚鈍なる衆生という蔑視の目線で以って、わざわざ彼らを惑わせるという、巧妙にして卑劣な方便・手段によって、その不完全な教えや妖しげな術を彼らに信じ込ませて、何やかやと売り込もうと欲しているのではないか? それ故にこそ「天狗」なる存在せぬ架空のものの名を唱えては、これを声高(こわだか)に叫ぶのではなかろうか? 但し、深山幽谷といった場所は、そのような人智を越えた妖気の及ぶ所ででもあろうからして、「山都」・「木客」といった妖怪変化や異人のようなものも、また、ない、とは言えぬのかも知れぬ。また、そうした観点から見れば、大洋に信じられないほど巨大なる鯨が、事実、棲息しているといったようなことも、何ら、不思議なことには当るまい。

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「訇」は「のゝしる」と訓じてはいるが、これは古語の「ののしる」であるから、「大声で叫ぶ」の意であり、批難の意はない。東洋文庫はそのまま『ののしる』と訳しており、誤訳である。

「山都〔(さんと)〕」良安は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」で、この「山都」を独立項で挙げ、本邦の「みこし入道」を一見、強引に当てているように見える(しかし、これは正当。後述する)。図と訓読文を示すと(原文はリンク先を見られたい)、

   *

 

Mikosi

 

みこし入道

山都
 

       
【長〔(た)〕け高く、

        髮無き者。俗に云ふ、

        「見越入道」。『後ろより、

        人の顏を見る」と云云。

        蓋し、此れ、山都の類か。】

サン トウ

「述異記」に云ふ、『南康に神有り、「山都」と曰ふ。形、人のごとく、長け、二丈餘り。黑色・赤目・黃髪。深山の樹の中に窠を作〔(な)〕す。狀〔(かた)〕ち、鳥の卵のごとく、高〔(た)〕け、三尺餘り。内、甚だ光采〔(くわうさい)〕たり。體質、輕虚〔たり〕。鳥〔の〕毛を以つて褥〔(しとね)〕と爲し、二枚、相ひ連なる。上は雄、下は雌。能く變化して形を隠(〔(か)〕く)し、覩〔(み)〕ること、罕(まれ)なり。』と。

   *

「述異記」は南斉の祖沖之が撰したとされる志怪小説集。その時代の一丈は二・四四メートルであるから、「二丈」は約五メートル弱、「三尺」(当時の一尺二十四・二四センチメートル)は七十三センチメートル弱。この叙述は、判り難いが、普段、木の巣の中にいる時は巨大な鳥の卵(世界最大の単細胞体であるダチョウの卵の長径が約二十センチメートルだから、その三・六倍以上もある)みたような形をしている生物で、時に五メートルほどの巨人に化けるというのである。「冶鳥(やちょう)」の生態と、大小の違いや鳥・卵の違いはあるものの、妙に類似しており、同類の化鳥であることが判然とするではないか。「酉陽雜俎」の記載を時珍が「本草綱目」に引いた意図もこれで判る。多田克己氏は「渡来妖怪について」の「山都」では(かつてネット上で読めたが、現在は消失)、やはり多田氏も山都を、治鳥の仲間、また、後に良安が掲げるところの木客(もっかく)の仲間とされてきたことを記し、山都を魑魅の一種と規定、漢の楊孚(ようふ)の「異物志」には『江西省の東部に鵲(かささぎ)ほどの大きさの木客鳥という鳥がいて、千、百と群れをなし編隊を組んで飛ぶという。この鳥は治鳥の仲間といわれる。巣をつくるという山都も、あるいは鳥の性質をもつことを暗示しているかもしれない』とされる。『この山都の伝承が日本に伝えられたのは、宋(十一~十二世紀)時代以降であると思われる。中国の浙江省、江蘇省、福建省、江西省などは、ちょうど日中間の交通の要衝にあたっていた。そうした理由から山都の伝承が伝わったらしい。日本では愛知県で山都の妖怪が出ている。日本ではこの類をミコシとよび、見越もしくは御輿と書く。これは背の高いこの妖怪が、物陰(ヤブや竹林もしくは屏風など)から現れて、後ろからのぞきこむからだという』。『入道とは仏道に入った人、頭をそって坊主頭にした人をさした呼称である。おそらく山都の伝承と、華南(中国南部)から訪れた仏教徒(室町時代以降日本に伝来した宗派であろう)とに関係があるのであろう。入道といえば坊主頭の大男を連想することになる。大坊主もまた同じような意味で、見越し入道を大坊主とよぶ地方もある。この妖怪がムクムクと巨大化するという伝承があり、そうしたありさまから入道雲などの名称が生まれている。その巨大化するというイメージから見上げ入道伸上がり高坊主などとよばれるようにな』ったのだと推定されている。また、『長崎県五島列島ではゴンドウクジラを入道海豚とよぶそうであるが、これは身体が巨大で坊主頭、そして体が黒いことによるようである。こうしたことから体が黒くて坊主頭の巨人を海坊主とか海入道などとよぶようになったと思われる。海坊主の類もまた山都の系譜の中にあると思われ』、『海坊主との関係を暗示させるものに愛媛県の伸上がりやカワソがあり、その正体は川獺(かわうそ)であるという。川獺は水辺(海岸や河川)に棲む肉食動物で、河童に仮託された獣であり、河童の性質である相撲(すもう)好きが、この伸び上がりやカワソなどにも語られている。因幡(鳥取県)の相撲の祖神野見宿禰を祀る社がある徳尾の森に、大坊主が出現するのはとくに興味深い』とされ、最後に『岡山県では便所をのぞきこむ見越し入道の話があり、加牟波理入道と同じ雪隠(便所)で唱える「見越し入道ホトトギス」という呪文がある。江戸ではこれを眼張入道(がんばりにゅうどう)もしくは雁婆利入道とよび、見越し入道と加牟波理入道は同じものであったことがわかる』。江戸前期、貞享三(一六八六)年刊になる山岡元隣の怪談集「古今百物語評判」には『見越し入道を高坊主とよぶとある』(「古今百物語評判卷之一 第六 見こし入道幷和泉屋介太郞事」。リンク先はごく最近に私が行った電子化注)。『高坊主は人家を訪れ、見た者は熱病となり死に至る場合もあった。こうしたことから疫病神の一種であろうといわれている。便所神もまた祇園信仰と関係し、疫病除けの民間信仰と関連があった。やはり疫神の一種とされた一つ目小僧と見越し入道は合体し、一つ目入道や三つ目入道などの妖怪が誕生したらしい。もともと山都と一つ目小僧』『は同種の精で、中国では五通七郎諸神とよんで、人家を訪れて疫病をもたらす疫鬼でもあった』という目から鱗の考証をなさっておられる。これで「見越し入道」が綺麗に「山都」にリンクしたと言えると私は判断する。

「木客〔(もつかく)〕」これも「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」に「木客」として独立項で出る。その注で私は、まず、先の多田克己氏の「渡来妖怪について」から引き、この木客は、先に示した山都・治鳥の仲間、魑魅の一種とされ、漢の楊孚(ようふ)の「異物志」には『江西省の東部に鵲(かささぎ)ほどの大きさの木客鳥という鳥がいて、千、百と群れをなし編隊を組んで飛ぶという。この鳥は治鳥の仲間といわれる。巣をつくるという山都も、あるいは鳥の性質をもつことを暗示しているかもしれない』とあるとした。但し、私はその「木客」の図(手足の爪が長いが、全く、人としか思えない絵が附されてある)や叙述を読むに、一種の少数民族若しくは特殊な風俗を有する人々の誤認、或いは強烈な差別意識によってでっち上げられたヘイト系モンスターではないかという確信に近いものを今も持っているのである。但し、これは次の次の独立項「木客鳥」で詳述したいと思っているので、ここはこれまでとしておく。待ちきれない方は、上記のリンク先の私の旧注をどうぞ!

「鯨-鯢(くじら)」音「ゲイゲイ」。「鯨」はクジラ、「鯢」はクジラ。古くは「ケイゲイ」とも読んだ。脊索動物門脊椎動物亜門顎口上綱哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 鯨偶蹄目クジラ亜目 Cetacea)。因みに「大魚」の譬えにも用い、有り難くない意味として「大悪人・悪党の首領」の譬えにも用いる。

「奚(なん)ぞ疑はん」前の注で訳した通り、反語。但し、「鯨」がいるから、「山都(鳥)」も「木客鳥」もいる、というのは論理の飛躍ではある。

「或る書」これは今回、ツイッターの天狗関連の記事によって、「先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)」であることが判った聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典であるが、複数の研究者によって偽書とされている、とウィキの「先代旧事本紀大成経」にはあった。「先代旧事本紀」とは別物なので注意されたい。前者を略して「先代旧事本紀」と表記し、それをまた混同・誤認している記載も古くから見られる(なお、後者の「先代旧事本紀」は『蘇我馬子などによる序文を持つものの』、大同年間(八〇六年~八一〇年)『以後、延喜書紀講筵』(九〇四年~九〇六年)『以前の平安時代初期に成立したとされる』が、『江戸時代には』『伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた』。しかし、『近年』、『序文のみが後世に付け足された偽作であると反証され』ている、とウィキの「先代旧事本紀」にある)。井上円了の「天狗論」(明治三六(一九〇三)年哲学館刊・『妖怪叢書』第三編の「第一章 天狗の名称」の「三、日本説」(所持する二〇〇〇年柏書房刊「井上円了 妖怪学全集」第四巻に拠る。新字新仮名。〔 〕は編者の補記。下線は私が引いた)に、以下のようにある

   *

 天狗を解して雷獣となすときは、これを鳥名となす説も同時に解し得べし。『震雷記』には、加州白山に棲(す)める雷鳥なりとて、その図を出だせり。『鋸屑譚』にその鳥の考証あり。また、天狗を石となせるがごときは、天狗を流星と誤解せるより起こる。すなわち、流星の落ちて石となりしものに与えたるなり。その他、草名、仙名、竜名等に用うるは、種々の連想より名づけたるものにして、わが国にて将棋やタバコに用うるに同じく、深き意味あるにあらざるなり。

 以上解するがごとくなるときは、シナの天狗とわが国の天狗とは全く異なること、問わずして明らかなり。ゆえに『善庵随筆(ぜんあんずいひつ)』には、「こちらに天狗といえるもの、西土の天狗と同名異物なり。混称すべからず」といい、『居行子(きょこうし)』にも、「もとより漢土、天竺(てんじく)等には、今いう天狗というものはなし」といえり。しからばここに、天狗は日本に特殊なるものにして、その名も日本にて起こりしといえる日本説を考うるに、その主唱者は僧諦忍(たいにん)なり。諦忍の『天狗名義考(てんぐめいぎこう)』には、「天狗は、わが国にて神代より用いきたれる称号なり」となす。すなわち『〔先代(せんだい)〕旧事本紀(くじほんぎ)』を引き、「服狭雄尊(そさのおのみこと)の猛(たけ)き気が胸腹に満ち余りて吐物と化し、天狗神(あまのざこがみ)となる、云云(うんぬん)」とあるをもって証となし、かつ自ら評して曰く、「これ、日本天狗の元祖なり」と。また、『学海余滴』にも同様の説あり。しかるに『桂林漫録(けいりんまんろく)』には、「世に天狗というものの説は古書に見えず」とし、「『旧事紀(くじき)』は偽書なり」と注せり。ただ、「後の書にて『続古事談(ぞくきじだん)』『沙石集(しゃせきしゅう)』『太平記(たいへいき)』などに見えたり」といい、「諦忍の『天狗名義考』は俗にして見るにたえず」と評せり。されば、『旧事紀』に天狗の語あるも、天狗の由来を証するに足らざるなり。つぎに天狗の名称の見えたるは『日本書紀』なり。すなわち、舒明(じょめい)天皇九年に、

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では全体が二字下げ。]

 大星、東より西に流る。すなわち音ありて雷に似たり。時の人は流星の音といい、また地雷ともいえり。ここにおいて、僧旻(びん)曰く、「流星にあらずして、これ天狗なり。その吠ゆる声、雷に似たるのみなり」(漢文和訳)

とあり。これ、もとより流星なり。僧旻がこれを名づけて天狗となしたるは、『史記』の天狗を流星と誤解せるによる。しかるに『〔日本〕書紀』には、天狗の字に邦訓を施してアマツキツネとなせり。ゆえに『平氏太子伝(へいしたいしでん)』には、舒明天皇の下に天狐(あまつきつね)と出でたり。また『壒囊鈔(あいのうしょう)』には、「天狗とも天狐とも通用す」といえり。余案ずるに、和訓にて狗(く)をキツネと訓ずることありしならんか。決して流星を狐の所為となせるにあらず。しかるに、朝川善庵はこの邦訓を引きて、「天狗は狐なり」との一証となせしは怪しむべし。けだし、『太子伝』の天狐はこの邦訓にもとづきしもののみ。もとより、シナのいわゆる天狐をいうにあらず。シナにては『広異記(こういき)』等に天狐の名目あれども、『〔日本〕書紀』の天狗と大いにその意を異にす。すなわち、『擬山海経(ぎさんがいきょう)』に引用せる天狐の談を見て知るべし。また、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』にも天狗星の現ぜしことを載せたるも、これみな通俗の天狗にあらざること明らかなり。しかして『保元物語(ほうげんものがたり)』『太平記』等に出ずる天狗は、今日一般に唱うるところの天狗に同じ。余がみるところによるに、わが国の古書には天狗の怪談なしといえども、その名称は、『日本〔書〕紀』もしくはシナの書に出でたる名目を慣用したるならん。そのゆえは、わが国の妖怪の名目は、大抵みなシナの名称を用いおればなり。しかしてその実、わが国の天狗はシナの天狗と同じからず。すなわち同名異体なり。ただ、シナにありて古代、雷獣のなんたるを解せざりしゆえに、これを真に天よりくだれるものと思い、これに与うるに天狗の名をもってしたりしに、その名漸々に相移りて、わが国のいわゆる天狗に慣用しきたれるは、あえて怪しむに足らず。もし人、深山に入りて火光を見、震響を聞くときは、これを一般に天狗の所業となす。されば、『史記』の天狗とわが国の天狗とは、全く関係なきにもあらざるなり。

    *

「服狹雄尊(そさのをのみこと)」素戔嗚命は「古事記」では「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」、「日本書紀」では「素戔男尊」「素戔嗚尊」などと表記する。以下はむちゃくちゃな説としか思えないが、「天狗神」との接点は、正しく祀らなければ災厄を齎す荒ぶる神としての共通性を持っているようには思われる。

「姫神」天狗を女体獣面の女神をルーツとするというのはブッ飛んでいる。なお且つ、既にこの女神、クレオパトラも羨むほどに鼻が高く、寿老人か福禄寿の如く耳が長く、鬼女よろしく牙が長く出ているとある。女神としての映像(イメージ)が一向に浮かんでこないのだが、こんな面体(めんてい)に生まれては、男は誰も近寄らん! さればこそか、以後の叙述を読むと、我儘にしてヒステリーとならざるを得ず、臂力ならず、微力でない鼻力(鼻息ではない。長い鼻で跳ね飛ばすのである)も強烈で、男根どころか、堅い鉄の刀剣・矛であろうと、ズタズタに嚙み千切ってこなごなにしてしまうという。しかも、何に対しても激して、穏当に振る舞うということを全く知らず、左にあるものは「右よ! 右!」と言い放ち、前にあるものでも「後に決まってるわよ! キキイイッツ!」というのだ。いやはや、これは、全く見たくも逢いたくもない女神(めがみ)さまではある。却って可哀想な気がしてくるではないか。

『左に在〔(あ)〕る者を以つて、早〔(はや)〕逆〔(さから)ひ〕て「右爲(た)り」と謂ひ、又、前に在る者は、卽ち、「後(しりへ)爲〔(た)〕り」と謂ふ』この辺り、近世の読本みたような、口語的な説明で、如何にもこの本、偽書臭いわ。

『自〔(みづか)〕ら推〔(お)〕して名づけて、「天逆毎姫(〔あま〕のさこの〔ひめ〕」と名づく』おや? 実は自分の異様な性格が判っている訳だぞ?! こりゃ! 自ら進んで「天逆毎姫」と名乗ったのだもの! 「天逆毎姫」とは「天」の下に於いて「毎」(つね)に「逆」のことをする「姫」だぞ! おいおい! 彼女はここに至って何とまあ、「天邪鬼」(あまんじゃく・あまのじゃく)と完全に通底しているではないか?! 天邪鬼は本来は中国仏教由来で四天王など踏みつけられる悪鬼(煩悩の象徴)であるが、本邦ではそれに記紀に出現するうっかり男天稚彦(あめのわかひこ)及び性悪の天探女(あまのさぐめ)に由来する天邪鬼が習合、そこに更に、ここに示されたような後付けの解釈が加わったもののようにも思われるが、これはもう、やっぱ、この本、後世も後世の落語だべ!!!

「天〔(てん)〕の逆氣〔(さかき)〕を吞みて、獨り〔にて〕身(はら)みて兒を生む」そのお顔とご気性では、単為生殖するしかありません。生物ははそれが出来ますし、ヒトもそのうちそうなるやも知れませぬ。何? 良安先生? そんなことはあり得ないって? いえいえ、両生類以下では普通に行われるのですよ。先生も仰っておられしょう、「猶ほ、大海に鯨鯢有るがごときも、又、奚ぞ疑はん」で御座いますよ。

「天魔雄神(〔あま〕のさかをの〔かみ〕」標題の別名より「天魔雄命(あまのざこのみこと)」とも称するわけであろう。

「九虚」「九天」に同じい。本義は、大地を中心に回転する九つの天体で、日天・月天・水星天・金星天・火星天・木星天・土星天・恒星天・宗動天を指すが、広義に神域である「全天上界」の意。

「心腑に託し」人の心(魂)や「心の臓」に憑依するの意と解釈した。

「意を變じ」心を乱れさせ。

「正と爲るに非ざれども、之れを記して考ふるに備ふるものなり。」まともな説とするに値すると思うわけではないが、ここに記録しおいて、後人の考証のための備えとしておくものである。

「天狗爪」先に引いた井上円了の「天狗論」の「第四章 天狗の形象」の最後に、以下のようにある(記号は前に同じ)。

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『周遊奇談(しゅうゆうきだん)』には、「北国若狭、越前の海浜にても、天狗魚を捕ることあり」と記せり。されば、天狗の髑髏はこの魚の頭骨なること疑いなし。また、天狗の爪と名づくるものあり。『夜光珠(やこうのたま)』と題する書中に、左のごとく記せり。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 世間にて天狗の爪というものあり。所々の深山幽谷にて、まれに拾い得るという。その状、小さきは一、二寸、大きなるは三、四寸、本(もと)厚く末とがり、両稜(かど)刃のごとく、極めて硬く重し。色白く、末は青黒くして光沢あり。また、鴉(からす)の觜(くちばし)に似てまだらなるもあり。表は甲高く〔裏は平らなり〕。本のとまりはこぐち陶器の薬をかけ残したるようにて、松茸(たけ)[やぶちゃん注:「茸」のみのルビ。]の根の色あいに似たり。これを天狗の爪とのみいい伝えて、なにの成れるものというを知らず。

 また『羅山文集』に、「北国能登の海浜に天狗の爪あり、往々これを拾い取る。大きさ二寸ばかり、末とがり、こまかく反れり。色潤白にして小猪(いのしし)[やぶちゃん注:「猪」のみのルビ。]〔の〕牙(きば)のごとし。しかして牙にあらず、全く爪の類なり。疑うらくは、これ北海大蟹(かに)[やぶちゃん注:「蟹」のみのルビ。]の爪ならんか」とあり。この爪のなんたるにつきて、『夜光珠』および『震雷記(しんらいき)』に説明を下せり。この二書の文は、毫(ごう)も異なるところなし。

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 ある人のいえるは、「この物、雷の落ちたる辺り、またはそこの地を掘りて得るものなるゆえに、西国にては雷の爪という」と。しからばすなわち、唐〔の〕陳蔵器(ちんぞうき)が『本草拾遺(ほんぞうしゅうい)』に、「霹靂碪(へきれきちん)[やぶちゃん注:江戸時代に発見された古代の石器の一種の名称。現在の台石・石斧・石環・石錐・石鏃などで、当時は落雷の跡から見つかったとされて、雷の物体化したものと誤解された。]の中に剉刀(ざとう)[やぶちゃん注:刻むための小刀か。]に似たるものあり。色青黒く、斑文にていたって硬く玉のごとし[やぶちゃん注:黒曜石の石鏃か。]」といえるもの、雷震の後によって得るとあれば、これなるべし。

 また『民生切要録(みんせいせつようろく)』に、「能州石動山の林中に、天狗〔の〕爪という物あり。色青黒にして、長さ五分ばかりにして石のごとく、先とがり後ろ広く、獣の爪に似たり、云云(うんぬん)」とあり。されば、俗間に伝うる天狗の爪は、雷斧(ふ)、雷楔(けつ)、雷碪(ちん)、雷鑚(さん)[やぶちゃん注:「鑚」はタガネ。]の類なること明らかなり。これみな、石器時代の遺物と知るべし。あるいはいう、「民間に伝わるところの天狗の爪は鮫(さめの歯なり」との説あり。その他、天狗火、天狗礫(つぶて)の話あれど、次章の天狗の作用を論ずる下において述ぶべし。

   *

とある。頭の「天狗魚」は、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera phantasma か、テングギンザメ科Rhinochimaeridae の一種に同定してよい。私の博物学古記録翻刻訳注 ■17 「蒹葭堂雑録」に表われたるギンザメの記載を見られたい。さて、現在、一般に知られている「天の狗の爪」なるものは、サメの歯の化石の俗称である。通常は三角錐様、青灰色の光沢を持つものが多く、新生代第三紀中新世半ばから鮮新世(約千八百万年前から約百五十万年前)にかけての、海が比較的暖かった時代に生息していたサメ類の歯の化石である。代表的なそれは、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属カルカロクレス・メガロドン(ムカシオオホホジロザメ(昔大頬白鮫)Carcharocles megalodon or Carcharodon megalodon(カルカロドン・メガロドンの方は、本種を現生のホホジロザメ Carchrodon carcharias の同属とする説に基づく学名)のそれが最も巨大で、歯高十五センチメートルにも及ぶ。しかし、私は、これを良安が言う「天狗爪」に同定するのに、躊躇を感ずるものである。以下、良安の記述を検討してみよう。――それは能登地方の海浜で容易にビーチ・コーミング出来るもので、長径約六センチメートル、末端が有意に細くなって尖っていて、微かに反っている。色は純白でやや光沢がある(「潤」は鮮やかな光沢というよりざらついた乳白色ではなく、濡れたやや透明度のある白の謂いであろう)。そして、それは譬えるなら、小さな猪の牙のようなものであるが、決して動物の――ここの記載からは陸上性の動物及び現代の生物学上の魚類も含むものと考えられる――牙ではない。しかし、全くある種の生物の爪の類いとしか思えないものである。そして彼は「思うにこれは北海の大蟹の爪であろうか」と推測し、「第一、もし、これが正真正銘の『天狗の爪』であるならば、天狗が棲息すると言われている各地の深山幽谷から齎されなければならぬはずである。どうして天狗の爪なんどというものが海辺にあろうものか!」――激して否定しているのである。ここで気付くことは、もし、この「天の狗爪」が「サメの歯の化石」であるとしたら、それこそ「處處の深山の中の有る」のである。そこから実際に出土するのである。私も小さな時に裏山から幾つも掘り出した。さすれば、これは「サメの歯の化石」では、ない。私は一読、これはもう「ツノガイ」しかない、と感じた。軟体動物門掘足綱のツノガイ目 Dentaliida 及びクチキレツノガイ目 Gadilida のツノガイである。以下、ウィキの「掘足綱」から引用する。『掘足綱全体に共通する形状として、殻は角を思わせる緩やかにカーブした筒状で、上端と下端は必ず開いている。この上端側の孔を後口、下端側の孔を殻口と呼ぶことが多い。また、カーブの外側を腹側、内側を背側と呼ぶ。殻表に輪脈と呼ばれる筋がある場合、ない場合』、『まちまちである。また』、『殻色も白色、薄黄色や赤紫色、など様々であるが白っぽい色をした種が多い。殻長は数』ミリメートル『の種から数十』センチメートル『程度で現生種の中では、マダガスカル近海に生息する Dentalium metivieri が最大とされ』、二十センチメートル『を超える。以上の様な細かい特徴は科や属、種などにより様々であるが、掘足綱全体の形状としては腹足綱や二枚貝綱と比べると統一感があるといえる』。その軟体部は『殻の後口側に肛門が、殻口側に頭、足がある。頭部は眼や触角など多くの感覚器官を欠くが平衡胞(statocysts)と呼ばれる感覚器官を持つほか、食物を捕食するための頭糸と呼ばれる触手状の器官がある。これらの器官を使用し、餌を捕らえ、歯舌で擦り取って食べるとされる。鰓は持たないため、外套膜が代わりとなり海水中の酸素を取り込む。また、以上の様な器官や殻などがすべて左右対称になっていることも掘足綱の最大の特徴のひとつである。なお、蓋は持たない』。生態は雌雄異体で、『浮遊性のトロコフォア幼生、ベリジャー幼生を経て着底する。通常、二枚貝綱と同様に足を用いて泥底や砂底などを掘り、埋没して生活する。この際、後口を砂や泥から出し、排泄や海水の交換を行う。上記の様に鰓を持たないため、外套膜で酸素の交換を行うが、この際、足を収縮させ海水を循環させる。また、平衡胞や頭糸を用いて餌を捕食し、歯舌で擦り取って食べる』。すべて海産で、分布域は世界各地の海に広く分布し、『生息深度も幅広く、潮間帯~深海まで広く分布するが、生息環境は比較的軟らかい海底に限られる』とある。種は多数あるものの(該当リンク先にもある)、研究が進められているとは言い難く、極めて流動的である。私自身、実は四十年程前、春の初めに旅した能登の海浜で、多量のツノガイ類の殻を採取した印象的な経験があるからである。それは確かに凄絶なほどに多量であったのを覚えている。ネット上の記載を検索すると、石川県能登九十九湾での採取品として、

シラサヤツノガイ科ロウソクツノガイ亜科ロウソクツノガイEpisiphon subrectum

ゾウゲツノガイ科ゾウゲツノガイ属ヤカドツノガイDentaliumParadentalium octangulatum

等が見つかる

 

 最後に今一つ気になることがある。この怪鳥の正式な元の名が「冶鳥」であることははっきりしたが、「冶」と言えば

――冶金=製錬

が真っ先に思い浮かぶ。この鳥は鉱脈のありそうな

――「深山」にしかいない

のだ。そうして、この鳥は《地面の中の特に》

――「赤」と「白」の土を捏(こね)ねて=練(ね)って=って巣を「造る」≒錬金

――「赤」を連想させ、それは赤色の硫化水銀であり、仙薬であり、錬金術で卑金属を金に変える霊薬「賢者の石」lapis philosophorum:ラピス・フィロソフィウム)に近似した不老不死の登仙薬の製造法練丹の際の主成分

ではなかろうか? しかも、その「錬」り上げた巣のデザインは

――弓の的⦿「一つ目」のようなランドマーク

だと言っている。これは容易に

――⦿=妖怪「一つ目小僧」≒山中の妖怪「いっぽんだたら(一本踏鞴)」

を連想させ、後の柳田國男の「一つ目小僧その他」(ブログカテゴリ「柳田國男」で完全電子化注済み)を出すまでもなく、「たたら」は「タタラ師」で「鍛冶師」であり、これは金属精錬をする彼らが、鞴を踏み続け、金属の溶融温度を常に一方の目で視認して確かめなくてはならぬために、片足が不自由となり、片目が悪くなることと連関し、

――⦿一つ目小僧いっぽんだたら一つ目の鍛冶神「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)」の零落したもの

ともされるのだ。一方、「冶鳥」は深山の渓谷に小人の人の姿として変ずるともあった。山中の足の悪い「たたら師」は背ぐくまって身長が低く見えるに違いない。そう考えると、山岳部の「越」の「山人」が、この鳥を「越の祝(ほうり)の祖」とするのは、遠い古代の越で鉱脈を探し、そこで冶金に勤しんだ踏鞴師たちをこそ指しているのではないか?! 語り序でに言い添えれば、偶然だが、素戔嗚命の娘が深山に住む天狗の親玉で、強く硬いの刀や矛であっても、忽ち、噛み砕いてづたづたにしてしまうのさえ、金属精錬の逆回しのように私には思えたのであった。

 

久し振りに楽しい注となった。有難う! 良安先生!

2019/01/28

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)

Ubumedori

 

うぶめどり    夜行遊女

         天帝少女

         乳母鳥 譩譆

姑獲鳥

         無辜鳥 隱飛

         鬼鳥  鉤星

タウフウニヤ◦ウ 

本綱鬼神類也能收人魂魄荊州多有之衣毛爲飛鳥

毛爲女人是産婦死後化作故胸前有兩乳喜取人子養

爲己子凡有小兒家不可夜露衣物此鳥夜飛以血

爲誌兒輙病驚癇及疳疾謂之無辜疳也蓋此鳥純雌無

雄七八月夜飛害人

△按姑獲鳥【俗云産婦鳥】相傳曰産後死婦所化也蓋此附會

 之中華荊州本朝西海海濵多有之則別此一種

 之鳥最陰毒所因生者矣九州人謂云小雨闇夜不時

 有出其所居必有燐火遙視之狀如鷗而大鳴聲亦似

 鷗能變爲婦攜子遇人則請負子於人怕之迯則有憎

 寒壯熱甚至死者剛者諾負之則無害將近人家乃

 背輕而無物未聞畿内近國狐狸之外如此者

うぶめどり    夜行遊女

         天帝少女

         乳母鳥 譩譆〔(いき)〕

姑獲鳥

         無辜鳥〔(むこてう)〕

         隱飛〔(いんひ)〕

         鬼鳥〔(きてう)〕

         鉤星〔(こうせい)〕

タウフウニヤ 

「本綱」、鬼神の類也。能く人の魂魄を收〔(をさ)〕む[やぶちゃん注:捕る。]。荊州[やぶちゃん注:湖北省。]に多く、之れ、有り。毛を衣〔(き)〕て飛鳥と爲り、毛を(ぬ)げば、女人と爲る。是れ、産婦、死して後(〔の〕ち)、化して作(な)る。故〔に〕胸の前に兩乳有り。喜〔(この)〕んで人の子を取り、養ひて己〔(わ)〕が子と爲す。凡そ小兒有る家には、夜(〔よ〕る)、〔兒の〕衣物〔(きもの)〕を露(あら)はにす〔る〕べからず。此の鳥、夜、飛び、血を以つて、之れにじ、誌(しるし)と爲す。兒、輙〔(すなは)〕ち、驚癇及び疳病を病む。之れを「無辜疳(むこかん)」と謂ふなり。蓋し、此の鳥、純(もつぱ)ら、雌なり。雄、無し。七、八月〔の〕夜、飛びて、人を害す。

△按ずるに、姑獲鳥は【俗に云ふ、「産--鳥(うぶめ)」。】、相ひ傳へて曰はく、「産後、死せば、婦、化する所なり」〔と〕。蓋し、此れ、附會のなり。中華にては荊州、本朝にては西海〔の〕海濵に多く、之れ、有りといふときは、則ち、別に、此れ、一種の鳥〔たり〕。最も陰毒〔の〕因りて生ずる所の者ならん。九州の人、謂ひて云はく、「小雨(こさめふ)り、闇(くら)き夜、不時に[やぶちゃん注:不意に。]出づること、有り。其の居〔(を)〕る所、必ず、燐火[やぶちゃん注:鬼火。青白い妖しい火。]あり。遙かに之れを視るに、狀(〔かた〕ち)、鷗(かもめ)のごとくにして、大きく、鳴く聲も亦、鷗に似る。能く變じて婦と爲り、子を攜〔(たづさ)へ〕て、人に遇ふときは、則ち、人に子を負(をは)せんことを請ふ。之れを怕(おそ)れて迯(に)ぐれば、則ち、憎(にく)み、寒・壯熱、甚〔だしく〕して死に至る者、有り。剛の者、諾して之れを負ふときは、則ち、害、無し。將に人家に近づくに、乃〔(すなは)〕ち、背、輕くして、物、無し。未だ畿内・近國には、狐狸の外、此くのごとき者を聞かず。

[やぶちゃん注:妖怪にして妖鳥の「姑獲鳥(うぶめ)」で「産女」「憂婦女鳥」等とも表記する。但し、鳥形象のそれは少なく、概ね、下半身が血だらけの赤子を連れた人形(ひとがた)の妖怪であることが多い。私のブログ記事では「怪奇談集」を中心に十数種の話を電子化している、最も馴染み深く、産婦の死して亡霊・妖怪となるという点で個人的には非常に哀れな印象を惹起させる話柄が多いように感ずる。まず、妖鳥の方はウィキの「姑獲鳥」によれば、『中国の伝承上の鳥。西晋代の博物誌』「「玄中記」や、ここで引いた「本草綱目」などの『古書に記述があり、日本でも』として、本「和漢三才図会」の記載を紹介して、まさに本条を抜粋現代語訳した感じで以下のように記す。『「夜行遊女」「天帝少女」「乳母鳥」「鬼鳥」ともいう』。『鬼神の一種であって、よく人間の生命を奪うとある。夜間に飛行して幼児を害する怪鳥で、鳴く声は幼児のよう。中国の荊州に多く棲息し、毛を着ると鳥に変身し、毛を脱ぐと女性の姿になるという』。『他人の子供を奪って自分の子とする習性があり、子供や夜干しされた子供の着物を発見すると血で印をつける。付けられた子供はたちまち魂を奪われ、ひきつけの一種である無辜疳(むこかん)という病気になるという』。『これらの特徴は、毛を着ると鳥、毛を脱ぐと女性になるという点で東晋の小説集』「捜神記」にある「羽衣女」と、また、『他人の子を奪う点で』では「楚辞」に『ある神女「女岐(じょき)」と共通しており、姑獲鳥の伝承は、これら中国の古典上の別々の伝承が統合されたものと見られている』、また、唐代の「酉陽雑俎」では、『姑獲鳥は出産で死んだ妊婦が化けたものとの説が述べられており』、「本草綱目」に於いても、『この説が支持されている』。『日本でも茨城県で似た伝承があり、夜に子供の着物を干すと、「ウバメトリ」という妖怪が自分の子供の着物だと思って、その着物に目印として自分の乳を搾り、その乳には毒があるといわれる』のであるが、『これは中国の姑獲鳥が由来とされ、かつて知識人によって中国の姑獲鳥の情報が茨城に持ち込まれたものと見られている』。『江戸時代初頭の日本では、日本の伝承上の妖怪「産女」が中国の妖怪である姑獲鳥と同一視され、「姑獲鳥」と書いて「うぶめ」と読むようになったが、これは産婦にまつわる伝承において、産女が姑獲鳥と混同され、同一視されたためと見られている』とある。

 さても、以上に言う「玄中記」のそれや「捜神記」にある「羽衣女」は、私の「古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事」の注で電子化してあるので見られたいし、「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」とあるのも「諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事」(但し、これは五位鷺を誤認した擬似お笑い怪談)で述べておいた。「楚辞」の「女岐」については、子を殺す或いは殺そうとする、奪おうとする妖怪「鬼車」として知られる、中国の「鬼車」のウィキの記載に、『また、鬼車とはまったく別の伝説として、人の子供を奪って養子にするといわれる神女「女岐(じょき)」がある』が、「楚辞」では『「女岐は夫もいないのになぜ』九『人もの子供がいるのか」とあり、この言い伝えが』、先に示した「捜神記」での『鬼車と子供にまつわる話と習合し、さらに「九子」が「九首」と誤って伝えられたことから、鬼車が』九『つの頭を持つ鳥として伝えられたものと見られている』とある。

 因みに、「鬼車」は同じくけったいな多頭妖鳥なので、仲間のよしみで、中国の「鬼車」の特徴をそこから引いておくと、「太平御覧」には、『斉の国(現・山東省)に頭を』九『つ持つ赤い鳥がおり、カモに似て』、九『つの頭が皆鳴くとあ』り、唐代の「嶺表録異」に』は、九つの『頭を持つ鳥で、嶺外(中国南部から北ベトナム北部かけて)に多くいるもので、人家に入り込んで人間の魂を奪う。あるとき』のこと、九つの『頭のうちの一つを犬に噛まれたため、常にその首から血を滴らせており、その血を浴びた家は不幸に苛まれるという』とし、「正字通」では、『「鶬虞(そうぐ)」の名で記述され』、『「九頭鳥(きゅうとうちょう)」ともいい、ミミズクの一種である鵂鶹(きゅうりゅう)に似たもので、大型のものでは』一『丈あまり(約』三『メートル)の翼を持ち、昼にはものが見えないが、夜には見え、火の光を見ると目がくらんで墜落してしまうという』。また、南宋代の「斉東野語」には、十個の『頭のうちの一つを犬に噛み切られ、人家に血を滴らせて害をなすという。そのために鬼車の鳴き声を聞いた者は、家の灯りを消し、犬をけしかけて吠えさせることで追い払ったという』とあるそうである。因みに、頭を数多く持つというのは中国の妖獣ではしばしば見かけるが、本邦では流行らない傾向があるように私は思う

 ウィキの「産女」も見ておく必要があろうが、これは最近では、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』で引いているので、そちらを見られたい。

「譩譆〔(いき)〕」これは実は経絡の一つ「譩譆穴(いきけつ)」(足の太陽膀胱経に属する第四十五番目の経穴)の名でもある。ウィキのそれによれば、この名の由来として、『譩と譆は』「言」と「意」、「言」と「喜」を『それぞれまとめて一字で書いたもので』、『この字は、おくび』(欠伸(あくび))『または吐息を表す擬声語で、アー・シー、またはウィー・シーと読む。ここを強く押すと、げっぷや吐息が出ることによる』とある。子を失い、自らも死に、妖鳥となってしまった鳥の哀れな鳴き声か。一方で、これは「姑獲鳥」のモデルとされる実在する鳥の鳴き声ともとれる。夜行性で、夜「あーしー」「うぃーしー」と鳴く鳥、凶鳥とされ、鳴き声も不気味ともされるフクロウやトラツグミを想起することは出来よう。

「無辜鳥〔(むこてう)〕」この異名は何かしみじみするではないか! これはこの姑獲鳥が哀れにも亡くなった妊婦の化した「何の罪もない鳥」だという意味ではないのか?!

「鉤星〔(こうせい)〕」これは中国では星座の名で、西洋の龍座に相当するようだ。彼女はヨタカが星となったように、星座となったのではなかったか? そうあってほしいと私は「收〔(をさ)〕む」東洋文庫訳は『食べる』とする。如何にもセンスのない厭な訳だ。

「胸の前に兩乳有り」旧暦「七、八月」の夜に飛ぶ、「西海」(「國」ではなく、わざわざ「海」を使っているのは、この鳥が海岸に近いところにいるからではなかろうか?)の「海濵に多く」棲息する、実在する鳥を捜索するに、最も特徴的な箇所だ! しかし、誰も真剣に「姑獲鳥」のモデルの鳥を探した形跡はない。ちょっと淋しい。もう一つ言い添えるなら、妖鳥の形状を良安は「遙かに之れを視るに」その形は「鷗(かもめ)のごとくにして、大きく、鳴く聲も亦、鷗に似る」と言ってるんだぜ? 両乳マークはないけど、海辺を棲息地とし、カモメ(チドリ目カモメ科カモメ属カモメ亜種カモメ Larus canus kamtschatschensis)に似ていて、それより大きく、夜に盛んに騒ぎ、本邦では西日本の暖地で夏秋に見られる鳥……いるじゃないか!

ミズナギドリ目ミズナギドリ科オオミズナギドリ属オオミズナギドリ Calonectris leucomelas

だよ! ウィキの「オオミズナギドリ」によれば(太字下線やぶちゃん)、本邦『では春から秋にかけて最も普通にみられるミズナギドリ類であり』『よく陸からも観察される』。『西太平洋北部の温帯域で』、『ミズナギドリ科』Procellariidae『のうち』で、『唯一繁殖し、夏鳥として日本近海、黄海、台湾周辺の島嶼に分布する』。『日本では、夏季に北海道(渡島大島)から八重山諸島(仲御神島)にかけての離島で繁殖し』、『韓国では、済州道の管轄となる泗水島に大繁殖地があり、他の島々でも少数が繁殖する』。『冬季になるとフィリピンやオーストラリア北部周辺へ南下し』、『越冬するが』、『日本の近海に残るものもある』全長は四十六~五十一センチメートル、翼開長は一メートル十から一メートル二十二センチメートルで(カモメは全長四十~四十六センチメートル。翼開長はオオミズナギドリと大差ない)、『体長や翼開長はウミネコと同じぐらいであるが、飛翔時には翼がカモメ類より細長く見える』(とわざわざ言っているのはカモメとよく似ているからに他ならない)『雌雄同色であり、上面は暗褐色の羽毛で覆われ、羽毛の外縁(羽縁)が淡色で、白い波状の斑紋が入っているように見える』。『大雨覆や次列風切は淡褐色で、飛翔時には不明瞭なアルファベットの「M」字状に見える』。『頭部は白い羽毛に不明瞭な褐色の斑紋や斑点が点在する』。『尾羽は黒または黒褐色』。『体下面は白い羽毛で覆われる』。『翼下面は白いが、初列下雨覆の外側(外弁)や風切羽下面は黒または黒褐色』。『嘴の色彩はピンク色がかった淡青色で』、『先端に黒みがある』。『足はピンク色』。『地表から飛翔することができず、斜面を使って助走したり』、『断崖』『や樹上から飛び降りたりしなければ』、『飛び立てないとされることもあるが』、『岩手県の三貫島や伊豆諸島の御蔵島の繁殖地では、地面から羽ばたいて飛び立つのが観察されている』。『飛び立てない理由として体重の重さや、翼の長さと足の短さなどが挙げられることもあるが』、『他のミズナギドリ目の鳥類と比べてとくに体形が大きく違うわけでもない』。『繁殖期のほかは海上で生活する』。『主に滑翔して、ゆっくりとした羽ばたきを交えながら、海面低くを左右に翼を傾けて飛びまわり』、『餌の群れを見つけると遠くからもたくさん集まる』。『食性は動物食で、魚類や軟体動物などを食べる』。『水面を泳ぎながら』、『水面近くにいる獲物を捕らえたり、浅く潜水して捕らえる』。『とくにカタクチイワシ』条鰭綱ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシEngraulis japonicus)『を多く利用することが報告されている』。『海面からは翼を広げて羽ばたきながら風上に向かい』、『助走して飛翔する』。『ほとんど海上で鳴くことはないが』、『夜間の営巣地では鳴き声や翼の音で騒がしくなる』。『鳴き声は、ピーウィーピーウィー(雄』『)、グワーェグワーェ(雌』『)など』。二~三月に『集団繁殖地に飛来して』『平地や斜面を問わず』、『森林に』九十センチメートルから一メートルほどの『横穴を掘り、奥を』二十~三十センチメートル × 十~二十センチメートル『に広げて』、『枯葉などを敷いた巣に』、六~七月に、一回に一個の『卵を産む』。『巣穴形状は「棒状型」「くの字型」「迷路型」など様々である』。『雌雄が昼夜交代で抱卵し、抱卵期間は』五十二~五十四日で、『雛は孵化してから』七十~九十『日で巣立つ』。『抱卵や抱雛をしないほうの親鳥は未明から海上に出て餌を探し、日没後に巣穴に戻って雛に給餌する』。『時速およそ』三十五キロメートルで『飛び、巣に戻るまでにかかる時間を考えて餌場から帰巣し、門限を守る習性がある』。十月(孵化後二ヶ月目)には、『雛は親鳥より体重が重くなり』、一・五倍にもなり、『やがて親鳥が雛を残して島を離れた後も、雛は約』三『週間にわたって蓄えた脂肪で成長し』、十一月下旬から十二月上旬には島から渡り去る。『太平洋戦争の戦前、戦中、戦後の期間、日本各地の繁殖地では』『羽毛が利用されたり、食用とされることもあった』。『沖縄県仲の神島では組織的な捕獲事業が行われ』、『生息数は大きく減少したが、御蔵島では住民らが厳しい自主規制のもと保護し捕獲を行った』。『池田真次郎の『森林と野鳥の生態』によると御蔵島では年に一度巣立ち前の雛を捕獲し、皮からは油を搾り、肉は塩漬、骨と内臓は挽いて塩辛にしたという。また、糞が堆積し化石化してできたグアノは肥料として利用された』。『御蔵島では本種を「カツオドリ」と呼びならわしている』『が、「カツオドリ」の標準和名を持つ鳥は別にあり、オオミズナギドリとは目レベルで異なる』(ペリカン目カツオドリ科カツオドリ属カツオドリ Sula leucogaster)『全くの別種である』とある。そうだ! 彼らは島の地面の中に巣を作るのだ! だから、彼らの巣を実際に見た者は少ないのだ! とすれば、「姑獲鳥」の巣の記載がないこと、雌しかいない、という変なことが書いてあるのが、ちょっと腑に落ちるじゃあないか?! 私は一つ、誰もやっていない「姑獲鳥」の実在モデル候補としてオオミズナギドリを挙げる!!!

「驚癇」幼児のひきつけを起こす病気を指す。現在は脳膜炎の類が比定されている。驚風(きょうふう)とも呼ぶ。

「疳病」東洋文庫割注は『小児の神経症。夜泣きををしたり』、『恐い夢におそわれたりする』とある。

「純(もつぱ)ら」「專ら」。

「西海」九州。

「攜〔(たづさ)へ〕て」「携へて」に同じ。連れて。

「寒・壯熱」異様な寒気(さむけ)と激しい高熱。

剛の者、諾して之れを負ふときは、則ち、害、無し。將に人家に近づくに、乃〔(すなは)〕ち、背、輕くして、物、無し」ここに無念と苦痛の中で亡くなった若き妊婦とその嬰児の霊の鎮魂(異界からたまさかに眺める現実界としての「村」)や、神道以前の産土神の零落した姿をさえ、私はここに見る思いがするのである。

「未だ畿内・近國には、狐狸の外、此くのごとき者を聞かず」「畿内」とその「近國」はまさに良安の生活フィールドを指す。即ち、良安は姑獲鳥が婦人や赤子に化けるというのを見聴きしたことが全くない、と不審を言い添えているのである。噂にさえ聴かない以上は「附會のなり」、牽強付会のコジツケの妄説に過ぎない、と断ずるのは、どうもこの妖鳥・妖怪を素直に受け入れられない私にはよく判るのである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(10) 「河童ノ詫證文」(1)

 

《原文》

河童ノ詫證文  其時代ノ河童ハ神代ノ草木ト同ジク能ク人語ヲ解シタリト見ユ。【詫證文】又人間ト同ジク或ハ泣キ或ハ叩頭シ、甚シキハ人間ト對等ニ不行爲ノ契約ヲ締結セリ。其契約モ單ニ口頭ノモノノミナラズ、時トシテハ書面ヲ以テ差出シタルヲ以テ察スレバ、約ニ背キ若シクハツイ失念シテ相濟マヌコトナドモ、ヤハリ人間竝ニテアリシカト思ハル。出雲八束郡川津村大字西川津ニモヨク似タル話アリ。昔此村水草川(ミクサガハ)ノ河童、馬ヲ引込マントシテ例ノ如ク失敗シ、色々ト村民ニ陳謝シ辛ウジテ助命ヲ得タリ。【氏神】此時ノ河童退治ハ全ク村ノ氏神宮尾明神ノ神德ニ因ルト云ヘリ。【エンコウ】雲陽志ニハ此顚末ヲ記載シ且ツ曰ク、ソレヨリ後此里ニテハ猿猴災ヲ爲スコトナシ。其故ニ世人ハ此社ヲ猿猴ノ宮ト稱ス。猿猴トハ俗ニ謂フ「カハコ」ノコト也。又「カハツパ」トモ「カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。]」トモ、國々ニテ名ノ相違アリ。水中ニ住ミテ人ノ害ヲ爲ス者ナリ云々(以上)[やぶちゃん注:丸括弧はママ。]。近代ノ傳承ハ之ト若干ノ變化アリ。猿猴トハ言ハズシテ河獺ト稱ス。河獺馬ノ綱ヲ身ニ纏ヒテ之ヲ引込マントシ、却ツテ馬ノ爲ニ引摺ラレテ棉畠ノ中ヲ轉ゲ廻ル。村ノ者之ヲ見ツケテ河子々々ト騷ギ立テ、終ニ之ヲ捕ヘタリ。河獺ガ手ヲ合セテ拜ムニヨリ、殺サントセシ命ヲ宥シ、河獺ハ其儘村ニ奉公シテ田畠ノ仕事ヲ爲セリ。然レドモ本來人間ノ生膽ヲ拔クヲ好ムヲ以テ、奉公中モ其ノ癖ヤマズ。【御尻用心】折モアレバ村ノ者ノ臀ノ邊ニ手ヲ出ス故、始ノ程ハ各自ニ瓦ヲ當テテ用心ヲセシモ、アマリ度々ノ事ニテ氣味ガ惡クナリ、相談ノ上河獺ニ證文ヲ入レサセテ之ヲ放ス。村ノ宮ニ祀レルハ實ニ此時ノ證文ナリ。【水難禁呪】今モ土地ノ人ハ水泳ノ時ニ雲州西川津ト唱フルヲ常トス。是レ河子除(カハゴヨケ)ノ呪文ナリ〔日本傳集〕。河童ト河獺トヲ混同スル例ハ他ニモ存ス。中國西部ノ諸縣ニ於テ今モ河童ヲ「エンコウ」ト呼ブハ、殊ニ我輩ノ肝要ト認ムル所ナリ。【手形】長門ノ萩ニ近キ阿武郡椿鄕西分村ニ於テハ、亦雲州ノ西川津ト同ジク、古クヨリ「エンコウ」ノ手形ナルモノヲ傳フル神社アリ。【守札】之ヲ板行シテ信心ノ徒ニ施ス、牛馬安全ノ護符トシテ有效ナリト云ヘリ。此手形ニ關シテモ同種ノ由來記アリ。寬永年間ト云ヘバイト古キコトナリ。「エンコウ」或家ノ馬ヲ水中ニ引入レントシテ相變ラズ失敗ス。手形ハ卽チ其河童ガ、再度此村ノ牛馬ニ對シテ非望ヲ抱カザルべシト云フ誓約書ナルガ故ニ、之ヲ寫セシ印刷物マデモ、牛馬ヲ保護スルノ效力アルモノト認メラレシ也〔長門風土記〕。

 

《訓読》

河童の詫證文(わびしやうもん)  其の時代の河童は神代(かみよ)の草木と同じく、能く人語を解したりと見ゆ。【詫證文】又、人間と同じく或いは泣き、或いは叩頭(ていとう)し、甚しきは、人間と對等に不行爲の契約を締結せり。其の契約も單に口頭のもののみならず、時としては、書面を以つて差し出したるを以つて察すれば、約に背(そむ)き若(も)しくは、つい、失念して相ひ濟まぬことなども、やはり、人間竝(なみ)にてありしかと思はる。出雲八束(やつか)郡川津村大字西川津にも、よく似たる話あり。昔、此の村水草川(みくさがは)の河童、馬を引き込まんとして、例のごとく、失敗し、色々と村民に陳謝し、辛(から)うじて助命を得たり。【氏神】此の時の河童退治は、全く村の氏神宮尾明神の神德に因る、と云へり。【エンコウ】「雲陽志」には此の顚末を記載し、且つ曰く、『それより後、此の里にては、猿猴(エンコウ)、災ひを爲すこと、なし。其れ故に、世人は此の社(やしろ)を「猿猴の宮」と稱す。猿猴とは俗に謂ふ「カハコ」のことなり。又、「カハツパ」とも「カハタロウ」とも、國々にて名の相違あり。水中に住みて、人の害を爲す者なり』云々(以上)。近代の傳承は之れと若干の變化あり。「猿猴」とは言はずして、「河獺(かはをそ)」と稱す。河獺、馬の綱を身に纏ひて、之れを引き込まんとし、却つて、馬の爲に引き摺られて棉畠(わたばたけ)の中を轉(ころ)げ廻(まは)る。村の者、之れを見つけて、「河子々々」と騷ぎ立て、終に之れを捕へたり。河獺が手を合せて拜むにより、殺さんとせし命(いのち)を宥(ゆる)し、河獺は其の儘、村に奉公して、田畠(でんぱた)の仕事を爲(な)せり。然れども、本來、人間の生膽(いきぎも)を拔くを好むを以つて、奉公中も、其の癖、やまず。【御尻用心】折もあれば、村の者の臀(しり)の邊りに手を出だす故、始めの程は、各自に瓦(かはらけ)を當てて用心をせしも、あまり度々の事にて氣味が惡くなり、相談の上、河獺に證文を入れさせて、之れを放す。村の宮に祀(まつ)れるは、實(じつ)の此の時の證文なり。【水難禁呪(きんじゆ)】今も土地の人は水泳の時に「雲州西川津」と唱ふるを常とす。是れ、「河子除(かはごよけ)」の呪文なり〔「日本傳集」〕。河童と河獺とを混同する例は他にも存す。中國西部の諸縣に於いて、今も「河童」を「エンコウ」と呼ぶは、殊に我輩(わがはい)[やぶちゃん注:柳田國男]の肝要と認むる所なり。【手形】長門(ながと)の萩に近き阿武(あぶ)郡椿鄕(つばきがう)西分村(にしぶんそん)に於いては、亦、雲州の西川津と同じく、古くより「エンコウの手形」なるものを傳ふる神社あり。【守札(まもりふだ)】之れを板行(はんぎやう)して信心の徒(と)に施す、「牛馬安全」の護符として有效なり、と云へり。此の「手形」に關しても同種の由來記あり。寬永年間[やぶちゃん注:一六二四年から一六四五年。第三代将軍徳川家光の治世。]と云へば、いと古きことなり。「エンコウ」、或る家の馬を水中に引き入れんとして、相ひ變らず、失敗す。手形は、卽ち、其の河童が、再度、此の村の牛馬に對して非望(ひばう)[やぶちゃん注:分不相応の大きな望み。]を抱かざるべし、と云ふ誓約書なるが故に、之れを寫せし印刷物までも、牛馬を保護するの效力あるものと認められしなり〔「長門風土記」〕。

[やぶちゃん注:「不行爲」法律用語としては「不作為」(為すべきことをしないこと)を指すが、ここはある種の行為を不法行為として指定することを指しているから、民事訴訟法のそれや、刑法上の不作為犯のそれとは異なるので、通常の用法ではない。

「出雲八束(やつか)郡川津村大字西川津」現在の島根県松江市西川津町(グーグル・マップ・データ)。松江市市街の北東部に当たる。ここに出る「水草川(みくさがは)」は現在、「朝酌川(あさくみがわ)」と呼称が変わっている。同町の準公式ガイドと思われる「川虎の郷(かわこのさと)かわつ まち歩きガイドマップ」(PDFを見ると、標題の通り、ここの「河童」、柳田が「カハコ」と書いているものは「川虎」と漢字表記するものであるらしいことが判明する。ところが、それを祀っていると柳田が記す「村の氏神宮尾明神」というのは、上記のガイド・マップにもグーグルの地図上や国土地理院図にも見当たらない。ガイド・ブックのほぼ中央位置に今尾橋とあるから、この辺りと思しいのだが、ない。ガイド・マップでは地区の氏神を解説の十一番の「住吉神社」としているから、或いは、合祀されてしまったものかも知れない、などとも思ったが、だったら、ガイドマップに書きそうなもんだ、とも思う。ガイド・マップを眺めていたら、ふと、今尾橋の南東に「若宮さん」とあるのに気づいた。さらに「松江市 宮尾神社」で検索すると、「こころの巡礼」というサイト内の『トピックス「西川津の河虎」 松江の宮尾神社のカッパ伝説』というページに「宮尾明神 (雲陽誌西川津の項より)」として、『大己貴命をまつる、本社五尺四方、拝殿九尺 梁に三間、境内皆山なり、祭禮正月三日九月廿五日、古老傳にいわく昔西川津村を西長田村といひし時、猿猴人民をなやまし人皆難儀のことにおもひ、明神へいのりしに或時猿猴馬を川へ引こまんとしたりしに神力にてやありけん彼馬猿猴を陸へ引上たり、折節俚民出合で猿猴をとらへ神前にて石に證文を書、即社内に納をきて今にあり夫より後此里にて猿猴わさわひをなすことなし、此故にこの宮を世人猿猴の宮といへり、猿猴とは俗にいふかわこの事なり、又かわつは又かわ太郎なんと國々にて名のかわりあり、水中にすみて人に害をなすものなり』とあるのを見出し(当該ページにはこれに基づく紙芝居の絵がある。絵をクリックすると大きくなり、語りが下にテロップで附されてある)、ここで「今尾神社」と記すからには現存するのではないかと確信し、さらに調べると、同地区の「笠無自治会」公式サイト内の「かわつ故郷かるた」の「て」に『天馬坂昔あそんだ通学路』とあって、解説に『天馬坂は、西川津町橋本地区にある石段が連なる坂道です。この道は、上東川津町へ通じる村道、宮尾神社の参道でもあり、天にも昇る坂道という意味から天馬坂と名がつきました。その昔冬は雪も多く、子どものスキーそり等の遊び場、普段は通学路として利用されていました』とあるのを発見した。今尾神社は現存するのである。一つの推理であるが、この解説の「橋本」から、この雑木林のような小さな丘のようなものがある附近(グーグル・マップ・データの航空写真)に今尾神社はあるのではなかろうか? 郷土史研究家の御教授を乞う。【15:30追記】いつものT氏より、個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「熊野神社(市成)」に(地図有り。私の想定した位置の南方に当たる)、『合祀神』『宮尾神社(大己貴命)』の記載があるとメールを戴いた。そっか、合祀されちゃってたんだなぁ、リンク先にも河童のことは書かれてない。ちょと淋しいなぁ。でも、T氏はそれだけでなく、「雲陽誌」の「宮尾明神」の載る画像をお送り下さった。以下に附す。またまた激しく感謝!!!

Miyao1
Miyao2

 

 

 

 

「エンコウ」「猿猴」は本来は中国で猿類(我々ヒト(真核生物ドメイン Eukaryota 動物界 Animalia真正後生動物亜界 Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia 真獣下綱 Eutheria 真主齧上目 Euarchontoglires 真主獣大目 Euarchonta 霊長目 Primate 直鼻猿亜目 Haplorrhini(真猿亜目 Simiiformes)狭鼻下目 Catarrhini ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae ヒト亜科 Homininae ヒト族 Hominini ヒト亜族 Hominina ヒト属 Homo ヒト Homo sapiensを含む霊長目は別称でサル目である)を総称する語で、古くは中でも「手長猿」(現在の霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科

Hylobatidae のテナガザル類)と「尾長猿」(狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ族マカク属 Macaca)指した。但し、現行の中国語漢名では前者は「長臂猿」で、後者を「猿猴」に当てる。本邦に於ける「猿猴」認識は私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類の「猨(ゑんこう)」(「俗に猿猴の二字を用ひて之れを称す」と注記有り)で詳注しているので、そちらを参照されたい。同巻では別に「川太郎(かはたらう)」(「一名川童(かはらう)」の注記有り)別項立てされているのでそちらも見られたいが、何故、河童が、本邦の一部地方(主に西日本中部の中国・四国地方)で「えんこう」(猿猴)と呼ばれるようになったかは、追々、柳田國男が明らかにして呉れるであろう。

 

 

 

「カハタロウ」「河太郎」であるから、歴史的仮名遣では「カハタラウ」でなくてはならない。

 

「河獺(かはをそ)」読みは古式の感じと人に悪さをする妖獣として、実在した「かわうそ」と差別化するために敢えてこれとした。因みに、「ちくま文庫」版全集も『カワオソ』とする。絶滅した哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。実在する彼らはかなり古くから妖怪化されており、河童と棲息域が重なり、生態や習性も類似点があることから、その混同も有意に見られる。ウィキの「カワウソ」によれば、彼らカワウソ類は日本では(中国・朝鮮にもある)『キツネやタヌキ同様に人を化かすとされていた。石川県能都地方で』、二十『歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰かと声をかけられると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから』加賀(現・石川県)で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある』(河童が人間に化ける話は本書で既に出たし(夫に化けて行為に及んでいる)、実際に他の伝承でも認められる)。『江戸時代には』「裏見寒話」「太平百物語」「四不語録」などの『怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある』。『広島県安佐郡沼田町(現・広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという』。『青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた』。『また、生首に化けて川の漁の網にかかって化かすともいわれた』。『石川県鹿島郡や羽咋郡ではかぶそまたはかわその名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり』、十八、十九『歳の美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという』。『石川や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。『室町時代の国語辞典』「下学集」には、『河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』。『アイヌの昔話では、ウラシベツ(北海道網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある』。『中国では、日本同様に美女に化けるカワウソの話が』「捜神記」などの『古書にある』。『朝鮮半島にはカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。李座首(イ・ザス)という土豪には娘がいたが、未婚のまま妊娠したので李座首が娘を問い詰めると、毎晩四つ足の動物が通ってくるという。そこで娘に絹の糸玉を渡し、獣の足に結びつけるよう命じた。翌朝糸を辿ってみると糸は池の中に向かっている。そこで村人に池の水を汲出させると糸はカワウソの足に結びついていたのでそれを殺した。やがて娘が生んだ子供は黄色(または赤)い髪の男の子で武勇と泳ぎに優れ』、三『人の子をもうけたが末の子が後の清朝太祖ヌルハチである』。『ベトナムにもカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。丁朝を建てた丁部領(ディン・ボ・リン)は、母親が水浴びをしているときにかわうそと交わって出来た子であり、父の丁公著はそれを知らずに育てたという伝承がある』とある。

 

「人間の生膽(いきぎも)を拔くを好む」河童と言えば、人間の尻小玉を抜き取ることがよく語られるが、ウィキの「河童」によれば、『水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、「尻子玉」(しりこだま。尻小玉とも書く)を抜いて殺したりするといった悪事を働く描写も多い』が、この『尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で』、『河童は、抜いた尻子玉を食べたり、竜王に税金として納めたりするという。ラムネ瓶に栓をするビー玉のようなものともされ』、『尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になると言われている。「河童が尻小玉を抜く」という伝承は、溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも尻から何かを抜かれたように見えたことに由来するとの説もある。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様に、溺死者の姿が、内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる』とある。

 

「瓦(かはらけ)」素焼きの皿のようなものであろう。それを着衣の下、肛門の辺りに仕込んだものであろう。

 

「日本傳集」高木敏雄著。大正二(一九一三)年郷土研究社刊。以上はここに出る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像の当該部)。

 

「エンコウ」「猿猴」。本来は猿(手長猿。以下の引用を参照)を指す漢語であるが、やはり、本邦で河童と混同されたもので、川に棲む猿としての妖怪名である。本邦のそれはウィキの「猿猴」によれば、『猿猴(えんこう)は広島県及び中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種』。『一般的にいう河童と異なるのは、姿が毛むくじゃらで猿に似ている点である。金属を嫌う性質があり、海又は川に住み、泳いでいる人間を襲い、肛門から手を入れて生き胆を抜き取るとされている。女性に化けるという伝承もある』。「土佐近世妖怪資料」によると、三『歳ほどの子供のようで、手足は長く爪があり、体はナマズのようにぬめっているという』。文久三(一八六三)年に『土佐国(現・高知県)で生け捕りになったとされる猿猴は、顔は赤く、足は人に似ていたという。手は伸縮自在とされる』(中国の妖猿の通臂猴の特徴と一致する)。『ある男が川辺に馬を繋いでいたところ、猿猴が馬の脚を引いて悪戯をするので、懲らしめようと猿猴の腕を捻り上げたが、捻っても捻ってもきりがなく、一晩中捻り続ける羽目になったという』。『民俗学者・桂井和雄の著書』「土佐の山村の妖物と怪異」』『によれば、土佐の猿猴は市松人形に化けて夜の漁の場に現れ、突くと』、『にっこり笑うという』。『人間の女を犯すこともあるという。猿猴が人に産ませた子供は頭に皿があり、産まれながらにして歯が』一『枚生えているといい、その子供は焼き殺されたという』。『また河童に類する四国の妖怪にシバテンがいるが、このシバテンが旧暦』六月六日の『祇園の日になると川に入って猿猴になるといい、この日には好物のキュウリを川に流すという』。『山口県萩市大島や阿武郡では河童に類するタキワロという妖怪がおり、これが山に』三『年、川に』三『年住んで猿猴になるという』。『広島市南区を流れる猿猴川の名前の由来となっている。付近では伝承にちなみ「猿猴川河童まつり」が開催されている』。『ほんらい猿猴とは、猿(テナガザル)と猴(マカク)の総称で、サルのことである』。『この生き物のモデルは、日本の隣国、中国南西部に生息していたテナガザル』(霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae)『ではないかといわれている』とある。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「猨(ゑんこう)」も是非、参照されたい

 

「阿武(あぶ)郡椿鄕(つばきがう)西分村(にしぶんそん)」山口県萩市椿大字椿はここ(グーグル・マップ・データ)。読みはウィキの「椿村(山口県)」に拠ったが、本土で「村」を「そん」と読むのは、比較的珍しい。

 

『「エンコウの手形」なるものを傳ふる神社あり』山口県文書館製作になる書庫に棲む動物たちPDF)の「申」の項に、『萩長蔵寺の「猿猴の手形板」』とあり、『江戸時代はじめの頃の洪水のとき、近辺の牛馬を繋いでいたら猿猴が水中へ引き込もうとしたのを捕らえて、今後、牛馬の守護をするなら命を助けてやると言ったところ、猿猴は手を差し出して手形を押した。それを板に写し取り、牛馬の祈祷の時に用いるようになった。(「御国廻御行程記」、上写真)』とあり、『民俗学は、これらのカッパ(猿猴)は「水神の零落した姿」だととらえています。だとすると、これらの「猿猴退治」の伝承の背後には、「大蛇退治」の伝承と同様に、人々が治水・利水に苦労しつつ、用水をコントロールしていった歴史の断片が隠されているのかもしれません』とあるのは、神社ではないが、この長蔵寺(臨済宗)、椿にあ(グーグル・マップ・データ)「長門風土記」国立国会図書館デジタルコレクションにあが、膨大で、調べる気が起こらない。悪しからず。

 

「板行(はんぎやう)」「ちくま文庫」全集では『ハンコウ』とするが、私の好きな読みで附した。]

2019/01/27

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん) (本当にいないと思いますか? フフフ……)

Tinちん  同力鳥

    

【音朕】

チン

本綱鴆似鷹而大狀如鴞紫黑色赤喙黑目頸長七八寸

雄名運日雌名陰諧雄鳴則晴雌鳴則雨其聲如擊腰鼓

似云同力故名同力鳥巢於大木之顚巢下數十步皆草

木不生也食蛇及橡實知木石間有蛇卽爲禹步以禁之

須臾木倒石崩蛇出也蛇入口卽爛其屎溺着石石皆黃

爛飮水處百蟲吸之皆死人誤食其肉立死惟得犀角卽

解其毒也此鳥出商州州等南方山中

[やぶちゃん字注:「」{(つくり)は(くさかんむり)に「單」}+(へん)「斤」。訓読文では「本草綱目」の原文を確認、同じ字である「蘄」に代えた。]

ちん  同力鳥〔(とんりつてう〕[やぶちゃん注:本文参照。]
    
日〔(うんじつ)〕

【音、「朕」。】

チン

「本綱」、鴆、鷹に似て、大。狀、鴞〔(ふくろふ)〕のごとく、紫黑色。赤き喙、黑き目、頸の長さ、七、八寸。雄を「運日〔(うんじつ)〕」と名づく。雌を「陰諧〔(いんかい)〕」と名づく。雄、鳴くときは、則ち、晴れ、雌、鳴くときは、則ち、雨ふる。其の聲、腰鼓〔(こしつづみ)〕を擊〔(たた)〕くがごとく、「同力(とんりつ)」と云ふに似たり。故に「同力鳥」と名づく。大木の顚(いたゞき)に巢くふ。巢の下、數十步、皆、草木、生ぜず。蛇及び橡〔(とち)〕の實を食ふ。木石の間に蛇有るを知るときは、蛇、卽ち、禹步〔(うほ)〕を爲して、以つて之れを禁〔(ごん)〕す。須臾〔(しゆゆ)にして〕、木、倒れ、石、崩(くづ)れて、蛇、出づる。蛇、口に入らば、卽ち、爛る。其の屎〔(くそ)〕・溺〔(いばり)[やぶちゃん注:尿。]〕石に着けば、石、皆、黃〔に〕爛(たゞ)る。飮水〔(のみみづ)〕の處にて、百蟲、之れを吸ふに、皆、死す。人、誤りて其の肉を食へば、立ちどころに死す。惟〔(ただ)〕犀の角を得て、卽ち、其の毒を解すなり。此の鳥、商州・蘄州〔(きしう)〕等、南方の山中に出づ。

[やぶちゃん注:中国で古代から猛毒を持つとされる想像上の化鳥(けちょう)。但し、「鴆」の実在を否定は出来ないし、以下の注で示す通り、羽一枚でヒトが死ぬ毒を有する毒鳥は《実在する》。但し、その鳥がイコール「鴆」であるかどうかは判らないし、或いは、嘗ての中国に毒鳥「鴆」は実際に棲息していたのだが、今は絶滅してしまった種である可能性もないとは言えない。逆に一九九〇年に発見された毒鳥の存在は、ただの偶然の一致に過ぎず、実在する毒物(或いは複数の毒物の混合体)を「鴆」という架空の鳥由来としたのかも知れない。ともかくも、こうした幻獣となると、私は何時も以上に「力(りき)」が入ってしまうのを常とする。まずはこの際、良安の抜粋する「本草綱目」(明の李時珍よって編纂された薬学本草書。全五十二巻。一五七八年完成、一五九六年出版)と、やや遅れて出来た本書が倣ったところの「三才圖會」(王圻(おうき)と彼の次男王思義によって編纂された類書(百科事典)。全百六巻。明の一六〇七年完成、一六〇九年出版)の「鴆」の記載を完全に電子化して、比べてみることから始めようではないか。

 「本草綱目」の「鴆」は「巻四十九」の「禽之四」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの原本画像を元にし、句読点や記号を推定で補った。一部の記号は変えてある。漢字表記は原文に基づく。

   *

鴆【音「沈」、去聲。「別録」下品。】 校正【自外類移于此。】

 釋名日【與運日同。「別録」】。同力鳥【陶宏景】。

 集解【「別録」曰、『鴆生南海』。弘景曰、『鴆與日是兩種。鴆鳥、状如孔雀、五色雜斑、髙大、黒頸、赤喙、出廣之深山中。日、状如黒傖鷄、作聲似云同力、故江東人呼爲同力鳥。並啖蛇、人誤食其肉立死、並療蛇毒。昔人用鴆毛爲毒酒、故名鴆酒、頃不復爾。又海中有物赤色、状如龍、名海薑。亦有大毒、甚于鴆羽』。恭曰、『鴆鳥、出商州以南江嶺間大有、人皆諳識、其肉腥有毒不堪啖』。云、『羽畫酒殺人、亦是浪證』。郭璞云、『鴆大如鵰、長頸赤喙、食蛇』。「文」「廣雅」「淮南子」皆以鴆爲日。交廣人亦云、『日即鴆、一名同力鳥、更無如孔雀者。陶爲人所誑也』。時珍曰、『按「爾雅翼」云、鴆似鷹而大、状如鴞、紫黒色、赤喙黒目、頸長七八寸。雄名運日、雌名隂諧。運日鳴則晴、隂諧鳴則雨。食蛇及橡實。知木石有蛇、即爲禹歩以禁之、須臾木倒石崩而蛇出也。蛇入口即爛。其屎溺着石、石皆黄爛。飲水處、百蟲吸之皆死。惟得犀角即解其毒。又楊夫「鐵厓集」云、鴆出蘄州黄梅山中、状類訓狐、聲如擊腰鼓。巢於大木之顛、巢下數十歩皆草不生也』。】

 毛氣味有大毒。入五臓、爛殺人【「別録」。】。

 喙主治帶之、殺蝮蛇毒【「別録」。時珍曰、『蛇中人、刮末塗之、登時愈也』。】

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良安は「集解」の冒頭の陶弘景(四五六年~五三六年)六朝時代の医師・本草家で偉大な博物学者であった)の引用文の一部と末尾の時珍の引用部(私が下線を施した後半箇所)に基づいて抜粋していることが判る。しかし、それよりも私には非常に興味深い部分があるのである。則ち、弘景の引用文だ。始めの「鴆與日是兩種」とは「鴆と日とは、是れ兩種なり」で、彼は「鴆」と「日」を別種としている点も目が惹かれるが、さらに彼は「又海中有物赤色、状如龍、名海薑、亦有大毒、甚于鴆羽鴆毒海薑」と述べているのである。「又、海中、物、有り、赤色、状(かたち)、龍のごとく、「海薑(カイキヨウ)」と名づく。亦、大毒、有りて、鴆の羽よりも甚だし」と言っている点である。実は私はこの部分を六年前に「海産生物古記録集■8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載」で取り上げており、この鴆毒よりも激しい毒を持つ生物「海薑」(「薑」は生姜(ショウガ)のこと)を、私は、刺胞毒の激しい刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica に同定しているのである。私が何を言いたいかと言うと、弘景は実在する強い刺胞毒を持ったアカクラゲの毒の強さと、鴆の羽から浸出させた毒を比べると、遙かにアカクラゲの方が強毒であると彼が証言している点である。有毒鳥「鴆」が全くの架空の鳥であり、「鴆の羽の浸出液」とされる「鴆毒」なるシロモノも全然、荒唐無稽なもので存在しないとするならば、この毒性比較自体が初めから意味のないものとなること、優れた博物学者であった弘景が見もしない「鴆の羽の毒」を、実在するアカクラゲと比較検討するというのは私は考えにくいこと、実在する強毒生物の下手にわざわざランクするということが出来るということは、少なくとも「鴆の羽の浸出液とされた鴆毒」なるものは現に確かに存在した事実を物語っているからだと思うのである。なお、「交廣人亦云」(中国の南方の交趾や広州の人の意か)の箇所は、「鴆」や「鴆毒」の存在を否定するものではなく、単に「孔雀」より美しい五色のそんな鳥はその地方にはいないと批判しているだけであると読む。

 「三才圖會」の「鴆」は「鳥獸二卷」に載る。こちらの左頁に図こちら右頁に解説。孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの画像である。同前の仕儀で解説を電子化する。

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  鴆

鴆、毒鳥也。似鷹而大、如鴞也。紫黒色、長頸、赤喙、長、七、八寸。作銅聲。雄名運日、雌名陰諧。天晏静無雲、則、運日先鳴、天将陰雨、則、陰諧鳴。之故「淮南子」云、『運日、知晏陰諧知雨也』。食蝮蛇、蛇入口、即爛、屎溺、若石、石亦爲之爛。

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「鴆」の絵も寸詰りの首で幼稚園児の描いたような稚拙なもので、凡そ現物を見ていないことの見え見えのいい加減なものだ(線上のものは食っている毒蛇かどうかも判らぬ。「和漢三才圖會」はこの絵を元にしているが、まだマシだ)。十一年前の「本草綱目」の梗概というよりも、抜粋に引用を附してオリジナルに見せかけた、お茶濁しの感を免れぬ。しかも最後の「若石」は「着」の誤字だぜ! さて、茨城大学名誉教授東アジア医学史を専門とされる真柳誠氏の論文「鴆鳥-実在から伝説へ」(一九九四年四月朝日新聞社刊の山田慶兒編「物のイメージ-本草と博物学への招待」に所収。リンク先は「真柳研究室」公式サイト内のページ)は「鴆」について最も優れたネット上での記事の一つと思うが、そこで真柳氏も、『後世に誇る明代の『本草綱目』すら、宋以後の新知見は一切ない。また明の図説百科事典『三才図会』も鴆鳥を載せるが』、『説明は過去の記載からの作文にとどまる。そればかりか、説明文と合致しない絵図を掲げる』。『なぜか』。『理由は明らかだろう。鴆鳥は唐代の『新修本草』で薬物として否定され、宋代には毒物としてのインパクトもなくなってしまった。それで人々の関心もうせ、伝説の進化すら生じようがなかったのである。もちろん鴆鳥自体が唐宋間で、急速に姿を消していったらしいことも要因の一つに加えてよいだろう』。結局、『鴆鳥に与えられたみちは、ただ一つだった。空想的毒鳥として、過去の記録がみな伝説的とみなされたあげく、歴史の片隅に埋められたのである。伝説にしても、鴆鳥伝説はいわば忘れられた化石であった』と述べておられる。実は、「本草綱目」以前の「鴆」や「鴆毒」の古文献を掲げたいと思ったのだが、この真柳氏の論文のこの前の部分(「3 鴆鳥による毒殺」と「4 本草と鴆鳥」及び上記引用含まれる「5 実像から虚像へ、そして湮滅」)でそれは精緻に、しかも、判り易く纏められてあるので、とても私が新たな内容を附け加えることは出来そうもない。是非、そちらを参照されたい。本論文は実在する毒鳥(後述する)の発見を契機として起筆されたものであるが、少しだけ、引用させて戴くと、「鴆」のような毒鳥が近年、『出現したことで、鴆鳥に関する古い文献記載にも再検討すべき余地が生まれた。与えられた手がかりは多い』とされ、『(1)南国の密林に棲息する。(2)鳴き鳥で、声は二音節に近い。(3)皮膚・羽毛の毒性が強い。(4)毒性はヒトに経口でもすぐ発現する。(5)毒成分はエタノールに溶出する。(6)蛇・鷹が捕食を忌避する。以上の六点である』と既定される(太字は私が施した。以下同じ)。史書で最も古い「鴆毒」と同一と思われるものは、以下らしい。『酖という文字が、前六六二年にあたる『春秋左氏伝』荘公三十二年の話にでてくる』。『病にたおれた魯の荘公から世継ぎを相談された成季が、意見を異にする叔牙を殺すのに飲ませたのが酖である。すると酖は酒に関連した毒液に相違ない。この翌年にあたる同書閔公元年でも、「安楽の害は酖毒に同じ」、と管敬仲が斉公に説く』。『次の話からすれば、この酖とは鴆鳥をしこんだ毒酒とわかる』。『『国語』晋語二』『に記される前六五六年の策謀では鴆が使われるが、単純な毒殺ではない。すなわち、晋の献公は異族の驪戎を討って、美人の驪姫を得た。献公の寵愛をわがものとした驪姫は、わが子を世継ぎとするため、異腹の太子申生を廃する陰謀をはかる』。『「まず申生に亡き生母を祭らせてから、その祭祀の酒肉を献公に送らせた。次にすきをみて酒に鴆を、肉にトリカブトをしこんだのである。献公が酒を地にそそいで祭ると、土がもり上がった。そこで驪姫が肉を犬にやると、犬は死んだ。宦官に酒を飲ませたら、やはり死んだ」』。『こうして無実の罪をかぶせられた申生は、自殺へと追いやられてしまう』。『この猛毒トリカブトは「菫」の字で記され、中国でもっとも古いトリカブトの表現である』。『すると並記される鴆鳥の存在と毒性も、相当にはやくから知られていたことが示唆されよう。なお『穀梁伝』もほぼ同一の話を載せ、酖の字を使う。けっきょく酖は鴆酒なのである』とある。以下の史書渉猟はリンク先を読まれたい。以下は「4 本草と鴆鳥」の冒頭。『中国では本草と呼ばれる分野で、薬物に関する情報を集積してきた。現在、全体の内容が伝えられる最古の本草書は、後漢の一世紀頃に原型が編纂された『神農本草経』で、凡例部分と、三六五薬を上薬・中薬・下薬に分類した部分からなる。鴆鳥は、条文として本書に設けられていない。が、中薬の犀角条文に唯一の言及がみえる。すなわち「犀角は鉤吻・鴆羽・蛇の毒を殺(け)し」』『とあり、鉤吻つまり野葛や毒蛇の中毒とともに、鴆羽による中毒を犀角が解毒するという。ならば鴆鳥は羽毛に毒性があった。しかも羽毛は食用にならない。つまり鴆羽の用途はあくまでも毒用しかなく、それが毒酒にもされたのである』とされ、後の方で唐の「新修本草」(六五九年成立)の画像(仁和寺旧蔵の巻子本を幕末に模写した上海古籍出版社影印本のもの)が載る。そこには、

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鴆鳥毛有大毒入五藏爛殺人其口□□殺蝮蛇毒一名日生南海

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とある(「□□」は判読不能。ただ、この部分を真柳氏は『くちばし』と訳しておられる)。勝手に訓読すると、

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鴆鳥、毛、大毒、有り。五藏に入らば、爛れ、人を殺す。其の口□□(くちばし)、蝮蛇(ふくだ)を殺毒す。一名、「日(うんじつ)」、南海に生ず。

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「蝮蛇」は有鱗目クサリヘビ科マムシ亜科 Crotalinae に属する毒蛇類。真柳氏曰く、『ここで「くちばしは蝮蛇の毒を殺す」、という薬効が認められたので、鴆鳥はようやく本草の正式品目に立てられたのである』。『ところで『神農本草経』では、犀角が野葛・鴆羽の毒とともに蛇毒も消す、と記されていた。そして『本草集注』の墨字経文では、鴆鳥のくちばしに犀角と同様、蛇毒への薬効を認めたことになる。犀角・鴆鳥・毒蛇および野葛は、のちのちも関連して語られ、とりわけ鴆鳥と毒蛇の話は多い』。『その最初は後漢の応劭』(おうしょう)『が『漢書』斉恵王伝につけた注』『と思われ、「鴆鳥は黒身赤目で、蝮蛇・野葛を食う。その羽でひとかきした酒を飲むと、たちどころに死ぬ」と記す。蛇が小鳥を捕食するのは普通である。しかし鳥が蛇を、しかも毒鳥が毒蛇を捕食する、という話はよほど興味を引いたのであろう。『山海経』の郭璞(二七六~三二四)の注』『もこれを踏襲し、「鴆は鵰(ワシ)ほどの大きさで紫黒色。頸が長く、くちばしが赤く、蝮蛇の類を食う」という。はるか後代になるが一五九六年の『本草綱目』初版(金陵本)の絵』『も、郭璞の説にもとづくと思われる。後代』、『こうして鴆鳥の形状も敷衍されてゆく』とされ、「本草集注」の陶弘景の注(「本草綱目」の「鴆」「集解」の頭部分と前半は同じ)を訳され、真柳氏も「海薑」をアカクラゲと推測され、私が先に指摘した「鴆」と「日」を別種とした点にも着目されておられるが、ここで氏は弘景の記載を批判しておられる。『ここで新説が出た。鴆鳥と』『日鳥は別種という。さらに』『日鳥と同種らしい同力鳥は、肉に毒性があるという。しかし』『日鳥・同力鳥とも、羽毛の毒や薬効を記さない。他方、鴆鳥については羽毛の毒性だけをいい、酖酒も近ごろは使用されないと記す。さらに鴆鳥はくちばしのみならず、羽毛も蛇の毒消しとなり、くちばしは蛇よけにもなるという。この陶弘景の口吻には、『本草集注』の墨字経文で新出の{云+鳥}日を無益の毒鳥とする一方、先秦時代からの鴆鳥に、有用性を認めようとする意図が秘められていないだろうか』。『もしそうだとすると、理由はいくつか考えられる。『神農本草経』を校訂した陶弘景は、その凡例にある「有毒な下薬は、急性疾患に用いる」』、『という定義を十分承知している。また儒仏道に通じ、当代随一の学者と称された彼にとって、本草のテキスト作成に際し、古くから知られた毒薬を無視することができなかった。しかし斉・梁の皇帝とも親交のある彼は、毒薬の知識でいらぬ嫌疑を招きたくない。こう仮定すると、彼の注釈にみえる不自然さも、少しは納得できよう』とされる。なるほど! と私も膝を打った。『しかし疑問はまだある。なぜ毒鳥が蛇よけになり、蛇の毒消しになるのだろうか。大塚恭男氏はトリカブト毒とサソリ毒が相殺する記載を、東西の古文献に発見している』。『また数年前の殺人事件で、トリカブトの毒性発現がフグ毒の併用で遅延したことも記憶に新しい』と述べられ(以下、実在する毒鳥を蛇・鷹が捕食を忌避する事実を検証されておられるが、引用限界を越えると指摘されると厭なので現論文を参照されたい。なお、この記事の後に実在する毒鳥が出るが、その属名は後に修正変更されている(後述する)ので注意されたい)つつ、結局は『鴆鳥の作用は毒性だけに現実性があり』、「本草集注」『のいう薬効は相当にあやしいのである』と断じられておられる。その後、唐の政府の公定薬物書であった「新修本草」によって鴆鳥及び鴆毒は「有名無用」とされ、本草学の表舞台からは降ろされてしまったと真柳氏は言われる。実は我々が目にすることが多い、その後の本草書である「本草綱目」や「三才図会」、さらにそれらの影響を強く受けた日本の本草書等も、実は有名無実化されてしまった、ミイラのような解説だったのである。但し、勘違いしてはいけないのは、真柳氏は『鴆鳥がかつて実在したことを筆者は確信して』おられるのであり、幻想の産物になりかけていたそれ(「鴆」「鴆毒」)が、『ニューギニアの毒鳥発見により、化石的鴆鳥伝承にも再検討の必要性が生じた。記録中の虚像と実像を見分ける手がかりが提供されたからである。検討の結果、鴆鳥がほぼ七世紀まで実在したことは確実である。のち伝説化が進行し、さらに一転して伝説の伝承までとだえてしまった事情も知ることができた』とされ、『物のイメージは人との距離によって変化する。その距離は、人間にとっての有用性の質と程度で認識されることが多い。鴆鳥の消長は、はからずも如実にこれらを具現していたのであった』と擱筆しておられるのである。是非、原文を通して読まれたい。

 さても、最も優れた学術的記載を挙げた。これで、インキ臭いのがお好きな輩には文句は言わせない。では、やおら、「鴆」と「鴆毒」を判り易く鳥瞰するため、まず、ウィキの「鴆」を見ようか。因みに「鴆」は拼音(ピンイン)で「zhèn」(ヂェン)である。『中国の古文献に記述が現れている猛毒を持った鳥』で、『大きさは鷲ぐらいで緑色の羽毛、そして銅に似た色の』嘴『を持ち、毒蛇を常食としているため』、『その体内に猛毒を持っており、耕地の上を飛べば作物は全て枯死してしまうとされ』、『石の下に隠れた蛇を捕るのに、糞をかけると石が砕けたという記述もある』(「三才図会」)。「三才図会」の『記述では、紫黒色で、赤い』嘴、『黒い目、頸長』七、八『寸とある』(約二十一~二十四センチメートル)とある。「韓非子」や「史記」など、『紀元前の古文献では、この鳥の羽毛から採った毒は鴆毒と呼ばれ、古来より』、『しばしば暗殺に使われた。鴆毒は無味無臭』で、且つ、『水溶性であり、鴆の羽毛を一枚浸して作った毒酒で、気付かれることなく相手を毒殺できたという。春秋時代、魯の荘公の後継ぎ争いで、荘公の末弟の季友は兄の叔牙に鴆酒を飲ませて殺した』(「史記」の「魯周公世家」)。『また、秦の始皇帝による誅殺を恐れた呂不韋』(りょふい ?~紀元前二三五年:戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。荘襄王により文信侯に封ぜられた。始皇帝の本当の父親との説もある。「奇貨居くべし」は彼と荘襄王の故事に基づく。ウィキの「呂不韋」を参照されたい)『は鴆酒を仰いで自殺した』(「史記」の「呂不韋伝」)『など、古い文献に鴆による毒殺の例は数多い』。『紀元前の文献では、鴆の生息したとされる地域はおおむね江南(長江以南)であり、晋代、鴆を長江以北に持ち込んではならないとする禁令があった。宋代では取締りが厳しくなり、皇帝が駆除のため営巣した山ごと燃やせと命令を出したとか、ヒナを都に連れてきただけの男をヒナと共に処刑させたといった記述がある。南北朝時代を最後に文献上の記録が絶えることとなるが、その頃の記録は文献毎にバラバラで統一性がなく、すでに伝説上の存在になっていた様子が伺える。唐代になると』、『当時の政府も存在を認めず』、六五九『年刊行の医薬書である「新修本草」では『存否不詳とされてしまった。また鳥類学上、鳥に有毒種は全くないとされていた。それ故にいつか伝説化され、龍や鳳凰などと同様の単なる空想上の動物と考えられるようになった』。『だが』一九九二年に『なって、ニューギニアに生息し、原住民の猟師たちが昔から食べられない鳥として嫌っていたピトフーイ』(スズメ目スズメ亜目カラス上科コウライウグイス科ピトフーイ属ズグロモリモズ(頭黒森百舌)Pitohui dichrous:神経毒を有する。後述する)『という鳥が羽毛に毒を有していることがわかり、かつて鴆が実在していた可能性が現実味を帯びることとなってきた。ただし、ピトフーイの姿形と山海経等の古文献にある鴆の図はまるで似ていない』。『ピトフーイ以外にも』二〇〇〇年に『発見されたズアオチメドリ』(スズメ目 Ifritidae 科ズアオチメドリ属ズアオチメドリ(頭青)Ifrita
kowaldi
:ピトフーイと同じ神経毒を持つ。後述する)『を皮切りに複数の毒鳥類が新たに発見されており、当時の中国に未知の(既に絶滅した)毒鳥類が生息していた可能性は否定できない』。『鴆毒の毒消しには犀角(サイ』(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類。現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ・クロサイ)、インド北部からネパール南部(インドサイ)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(ジャワサイ・スマトラサイ)に分布している)『の角)が有効という迷信がいつの頃からか信じられ、毒酒による暗殺を恐れた中国歴代の皇帝や高位の貴族たちは、犀角でできた杯を競って求めた』。『この犀角の毒消し効果に関する迷信は、鴆が記録から消え去った後は「あらゆる毒の毒消しに有効である」とか、「劇的な精力剤である」という形に昇華され現在に至っている。ゆえに、今日でも世界各地の漢方薬局では犀角が非常な高価で取引されており、その影響でアジアやアフリカのサイは絶滅が危惧されるまでにその個体数を減らした』。『現在、サイは全種が絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)や、生息する地域に位置する国家から厳重に保護されているにもかかわらず、常に高価な角を狙う密猟者の手による射殺の危機に晒されている』。『さらにこの犀角にまつわる迷信は後に西洋に伝わり、ユニコーンの角は水を清めるという別の迷信を生んだ』とある。次はウィキの「鴆毒」といこう。この記載者は「鴆」の存在と「鴆毒」の実在は否定派らしい。その積りで読まれたい。冒頭から、『鴆と呼ばれる空想上の鳥の羽の毒』だ。『一説には、パプアニューギニアに住む』ピトフーイ『という毒鳥と同種の絶滅種の羽ともいう』『が、実際には亜ヒ酸』(亜砒酸・三酸化二砒素:arsenous acidAs(OH)3の無機化合物)『との説が有力である。あるいは酖毒とも書く』(太字下線は私が引いた)。『なお、経書『周礼』の中に鴆毒の作り方と思われる記述がある』。『まず、五毒と呼ばれる毒の材料を集める』。五毒は以下。

・「雄黄」(ゆうおう:orpiment:砒素硫化物。As2S3。強毒)

・「礜石」(よせき:硫砒鉄鉱。FeAsS。無毒)

・「石膽」(せきたん:硫酸銅()。 CuSO4。有毒)

・「丹砂」(たんしゃ:辰砂に同じ。硫化水銀()。HgS。有毒)

・「慈石」(じしゃく:磁鉄鉱。四酸化三鉄。Fe3O4 。無毒)

『この五毒を素焼きの壺に入れ、その後三日三晩かけて焼くと白い煙が立ち上がるので、この煙でニワトリの羽毛を燻すと鴆の羽となる。さらにこれを酒に浸せば鴆酒となるという』。『煙で羽毛を燻るのは、気化した砒素毒の結晶を成長させることで毒を集める、昇華生成方法の一種ではないかと思われる。日本でも、亜砒焼きと呼ばれた同様の三酸化二ヒ素の製造法が伝わっている』。『日本における記述として』、「続日本紀」天平神護元(七六五)年正月七日の『条に、「鴆毒のような災いを天下に浸み渡らせ」という表現が見られる』。原文を示す。

   *

○己亥。改元天平神護。敕曰。朕以眇身。忝承寶祚。無聞德化。屡見姦曲。又疫癘荐臻。頃年不稔。傷物失所。如納深隍。其賊臣仲麻呂、外戚近臣。先朝所用。得堪委寄。更不猜疑。何期、包藏禍逆之意。而鴆毒潛行於天下。犯怒人神之心。而怨氣感動於上玄。幸賴神靈護國、風雨助軍。不盈旬日。咸伏誅戮。今元惡已除。同歸遷善。洗滌舊穢。與物更新。宜改年號。

   *

(以下続けて引用するが、注記やその他の記載と組み合わせた)『軍記物である』「太平記」巻第三十には、足利直義は『鴆毒によって毒殺されたという説があると記されて』おり、「関八州古戦録」巻十には、下野国の戦国大名那須高資は天文二〇(一五五一)年に家臣にこれを『盛られて殺された』とする『記述があり』、土佐国の戦国大名長宗我部氏の興亡を描いた土佐藩馬廻り記録方吉田孝世(たかよ)作の江戸時代後期の軍記物「土佐物語」(宝永五(一七〇八)年)成立)『巻第六にも、永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『の事として、「潜(ひそか)に城中の井水に鴆毒を入れ」というくだりがあり、これにより気絶する者が続出したと記述されている(死者についての記述はない)』。さらに同書巻第十七では「文禄の役」に於いて長宗我部元親勢に捕えられ、土佐国へ渡った李氏朝鮮の医師経東(キントン 生没年不詳)は『鴆毒によって死んだと記す』とある。

 次は、発見された実在する毒鳥について記す。筋肉や羽に毒を有し、毒成分はヤドクガエル(両生綱無尾目カエル亜目ヤドクガエル科
Dendrobatidae
)と似た猛毒の神経毒であり、ヒトも羽一枚分で死亡してしまうという「鴆毒」と酷似した驚異の事実が最初に発見された種は、スズメ亜目カラス小目カラス上科コウライウグイス科ピトフーイ属ズグロモリモズ Pitohui dichrous である。ウィキの「ピトフーイ」により引く(太字・下線は私)。『ピトフーイ』『は、かつて同じ属に分類されていた ニューギニア島固有の鳥類』六『種(カワリモリモズ、ズグロモリモズ、ムナフモリモズ、サビイロモリモズ、クロモリモズ、カンムリモリモズ)』(他の五種の学名は後で示す)『を指す。ピトフーイの名は鳴き声に由来する』。実にわずか二十九年前の一九九〇年、同属の『ズグロモリモズが有毒であることがシカゴ大学において発見され、世界初の有毒鳥類と認定された』(ヨーロッパウズラ(キジ目キジ科ウズラ属ヨーロッパウズラ Coturnix coturnix: 同種が地中海地方で渡りをする秋、即ち、地中海地方で最も本種の狩猟が盛んな時期に、一部の個体の肉や脂肪に推定で有毒植物由来の毒が蓄積されるらしく,それらを食すことで「Coturnism」(コータニズム:(中国語訳)鶉肉中毒症)という横紋筋融解症が発症し、ミオグロビン尿症が見られ、最悪の場合は急性腎不全や多臓器不全が合併し、死に至ることもある)やツメバガン(カモ目カモ科 Plectropterus 属ツメバガン Plectropterus gambensis:有毒昆虫として知られるスパニッシュフライ(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科 Lyttini 族ミドリゲンセイ属スパニッシュフライ Lytta vesicatoria)やツチハンミョウ(ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae)といった甲虫が有する有毒物質カンタリジン(cantharidin)に対する耐性があるため、摂餌によりその毒性を一時的に肉に溜め込むため、こうした個体を食した場合にカンタリジン中毒を起こすことがある)『など、食餌の内容により』、『一時的に肉が毒性を有する例は知られていたが、羽毛にまで毒を含む種は伝説を除くと』、『世界初であった』)。『その後、同属のうち』、ムナフモリモズを除く五『種が毒を持つことが判明し』ている。『これにより、ピトフーイの名は有毒鳥類の代名詞として知られるようになったが、その後に分類が見直され、これら』六『種は』二〇一七『年現在では別の科・属に分類されている。また』、二〇〇〇『年にはやはりニューギニア固有の別属で』一属一種のズアオチメドリ(スズメ目 Ifritidae 科ズアオチメドリ属ズアオチメドリ(頭青)Ifrita kowaldi:本種のみでIfritidae科ズアオチメドリ属を構成する。ニューギニア固有種で、山間部にのみ棲息する小鳥で、鮮やかな青色の毛を頭冠に持つ可愛い鳥であるが、羽にピトフーイらと同じとされる神経毒を持つ有毒鳥類の一種である。サイト「世界の超危険生物データベース」の「ズアオチメドリの毒の危険性と生態!毒鳥には絶対に触れるなで写真と解説を見ることが出来る)『にピトフーイに類似した構造を有する毒成分が発見され』二〇一三『年にカワリモリモズの分類が見直されて』二『種増えたうえ、ニューギニアとオーストラリアにまたが』って『分布するチャイロモズツグミ(スズメ目スズメ亜目カラス小目カラス上科モズヒタキ科モズツグミ属チャイロモズツグミ Colluricincla megarhynchaウィキの「チャイロモズツグミ」によれば、インドネシアのパプア州・西パプア州・パプアニューギニア(ニューギニア島とその近海の諸島)及びオーストラリア北部に分布し、亜熱帯・熱帯域の低湿地林や熱帯の湿潤山林に棲息する。『ピトフーイ属の毒性の研究から,本種においても』二『標本を用いて調査が行われた。結果,そのうちの』一『体はからは中央・南アメリカ産のフキヤガエル属毒ガエルの分泌物に見られるバトラコトキシン』batrachotoxin:パリトキシン(palytoxin)に次ぐ世界最強の天然有毒物質とされる。パリトキシンは一九七一年にハワイに棲息する数腔腸動物イワスナギンチャク Palythoa toxica から初めて単離された)『に類似した構造を有する物質が見つかった』。『発見当初はサメビタキ属 Muscicapa 属に記載された。学者によっては Pinarolestes 属に分類することもある。』。『ニューギニア産チャイロモズツグミの遺伝子調査から』、一『つ以上の種から構成される可能性を示唆する,高いレベルの遺伝的隔離が見つかった』。『少なくとも』八『つの独立した系統群が存在し,別種に分類される可能性を秘めている。今後の研究により,本種は複数の新種に再分類されるかもしれない』とあり、以下に二十もの亜種記載があるから、向後、毒を持った鳥の種・亜種数が増す可能性は極めて高い『の標本からも毒性が発見されたので』、『現在では有毒鳥類はピトフーイに限らなくなり、種数も増えた』。

(以下、「系統と分類」の項。前注の関係上、ここはどうしても引きたい。興味のない方は「特徴」の項まで飛ばしてよろしい)

『かつて Pitohui 属には上記』六『種にモリモズ Pitohui tenebrosaMorningbird)を加えた』七『種が含まれ、モリモズ属と呼ばれていた。しかしすぐにモリモズ Morningbird Pitohui 属でなくモズツグミ属 Colluricincla へ分類するのが適当ではないかといった説が有力になり、やがて学名は Colluricincla tenebrosa と記されるようになった。また、学者によってはこの種を Malacolestes へ分類するなど、その扱いはまちまちであった』。二〇一三年に『なり、モリモズMorningbirdは、実は属の異なる』二『種から成ることがわかり、それを機に モズヒタキ属 Pachycephala に分類され、学名は Pachycephala tenebrosa となった。このとき、新たに分離された別種がモリモズ Morningbird に充てられていた学名 Colluricincla tenebrosa を引き継ぎ、この別種の英名はSooty shrikethrushとされた』。『このような経緯から、標準和名のモリモズはMorningbird, Sooty shrikethrush どちらに用いるのにも不適当となり、宙に浮いた状態となっている』。『もっとも、どちらの種も』二〇一七年『現在においては Pitohui 属ではないので、Pitohui 属をモリモズ属と呼ぶのは不適切である』。『モリモズを除いた』六『種は引き続き』、『モズヒタキ科 Pitohui 属に残された。しかし、これらもまた多系統であるとされ、改めて』四『属に分類し直された』。二〇一七年』『現在、これらはカラス上科内の』三『科に分散している』。コウライウグイス科 Oriolidae は『最も毒性が強いカワリモリモズとズグロモリモズがコウライウグイス科に移された Pitohui 属の模式種はカワリモリモズなので、Pitohui の属名はこの種を含むピトフーイ属が受け継いだ』。そこでは、コウライウグイス科 Oriolidaeカワリモリモズ Pitohui kirhocephalus・ズグロモリモズ Pitohui dichrous とされたのであるが、『その後』、二〇一三年に『カワリモリモズ Pitohui kirhocephalus の分類が見直され、新たにPitohui cerviniventris Pitohui uropygialis の』二『種が追加された』二〇一七年『現在では、以下の』四『種がピトフーイ属 Pitohui に含まれる』。

コウライウグイス科 Oriolidae

 カワリモリモズ Pitohui kirhocephalus

 
Pitohui cerviniventris(和名なし)

 
Pitohui uropygialis(和名なし)

 ズグロモリモズ Pitohui dichrous

『モズヒタキ科に残された Pseudorectes 属はモズツグミ属 Colluricincla に近縁であり、モズツグミ属に含める説もある』。『同じくモズヒタキ科に残されたクロモリモズはそれらとは系統的に離れており、別属とされた』。

モズヒタキ科 Pachycephalidae

 ムナフモリモズ Pseudorectes incertus本種のみ無毒》

 サビイロモリモズ Pseudorectes ferrugineus

 クロモリモズ Melanorectes nigrescens

『カンムリモリモズはモズヒタキ科の他の』二『属と共に新科のカンムリモズビタキ科に分離された』。

カンムリモズビタキ科 Oreoicidae

 
カンムリモリモズ Ornorectes cristatus

以下「特徴」の項。『ピトフーイは鮮やかな配色をした雑食性の鳥である。特にズグロモリモズの腹部は鮮やかなれんが色で、頭部は黒い。これはよく目立つ配色であり、警告色だと考えられる。カワリモリモズには多くの異なった姿のものがあり、羽毛のパターンの違いで全部で』二十の『亜種に分けられていた』。『そのうち』二『亜種はズグロモリモズによく似ており、ベイツ型擬態の一例となっている』。『いくつかの種、特にカワリモリモズとズグロモリモズの筋肉や羽毛には、強力な神経毒ステロイド系アルカロイドのホモバトラコトキシン』(homobatrachotoxinbatrachotoxinの同族塩基)『が含まれている。これは、ピトフーイから発見される以前はヤドクガエル科フキヤガエル属 Phyllobates の皮膚からのみ見つかっていた』。『この毒は寄生虫や蛇、猛禽類、人間からの防衛に役立っていると考えられている。ピトフーイは自分自身ではバトラコトキシンを生成しないので、おそらくはピトフーイが捕食する』鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目カッコウムシ上科『ジョウカイモドキ』(浄海擬)『科 Melyridae Choresine 属甲虫由来であると考えられる』とある。

 ここまで付き合ってくれた方にのみ、ご褒美をあげよう。サイト「Leisurego」のピトフーイは猛毒を持った鳥!人をも殺す毒とその生態・特徴に迫る!」は私が注した中の六種の鳥が写真・動画も含め、五ページも紹介されてある。終りには相応しく、清々しかろう。

「同力鳥〔(とんりつてう〕」現代中国語では「同」は「tóng(トォン)、「力」は「(リィー)。以下に記される通り、鳴き声のオノマトペイアに漢字を当てたものとする。もし「鳥」まで中国音にするなら「niǎoニィアォ)である。 

「鴆」形声文字で、(へん)は「沈める」の意で、水中に人を「沈」めるように息の根を止めてしまう「鳥」の意なのである。

『雄を「運日」と名づく。雌を「陰諧」と名づく。雄、鳴くときは、則ち、晴れ、雌、鳴くときは、則ち、雨ふる』判り易い名前。「日(太陽)を運び」来るから晴れるし、「陰」気を呼び込んで「諧」する(=慣れ親しみ戯れる)から雨が降る。

「腰鼓〔(こしつづみ)〕」古代中国から日本にも伝わったインド系の鼓(つづみ)の一種。西域を経て、六朝時代に中国に輸入され、「細腰鼓」と呼ばれたものの一種。本邦では伎楽などで用いた。胴の中央を細くし、両端に円形の革を張り、長い紐で首から腰のあたりに横に吊るして両手で素手で打って鳴らした。「呉鼓(くれつづみ)」とも呼ぶ。

「禹步〔(うほ)〕」歩き方による呪法(呪(まじな)い)。もともとは、古代中国の夏の聖王禹は治水で知られるが、その激務と廻国の結果、天下は収まったが、足を悪くして特殊な歩き方をするようになったが、その有り難い禹の歩き方を、後、占いや祭の際、巫者(ふしゃ)真似をすることで、聖なる呪術を呼び込む仕草となったもの。複数の説があるが、基本的には足を進める時、二歩めを一歩めより前に出さず、三歩めを二歩めの足で踏み出すような歩き方のパターンを基本とする。東晋の葛洪の「抱朴子」には、呪的なステップを表わすとして文献上、最も古い「禹步」が二種、記載されてある。一つは「仙藥篇」にあるもので、

   *

禹步法、前擧左、右過左、左就右、次擧右、左過右、右就左、次擧左、右過左、左就右、如此三步、當滿二丈一尺、後有九跡。

(禹步の法、前に左を擧げ、右左を過ぎり、左右に就く。次に右を擧げ、左右を過ぎり、右左に就く。次に左を擧げ、右左を過ぎり、左右に就く。此くのごとく三步せば、滿二丈一尺に當たり、後に九跡、有るべし。)

   *

東晋の「二丈一尺」は五メートル十三センチメートル。今一つは「登涉篇」にある以下。

   *

禹步法、立右足在前、左足在後、次復前左足、次前右足、以左足從右足倂。是一步也。次復前右足、次前左足、以右足從左足倂。是二步也。次復前左足、次前右足、以左足從右足倂。是三步也。如此、禹步之道畢。

(禹步の法は、正しく右足を立てて前に在らしめ、左足を後に在らしむ。次に復た、左足を前にし、次に右足を前にして、左足を以つて右足に從はしめて倂(あは)すべし。是れ、一步なり。次に復た、右足を前にし、次に左足を前にし、右足を以つて左足に從はしめて倂すべし。是れ、二步なり。次に復た、左足を前にし、次に右足を前にして、左足を以つて右足に從はしめて倂すべし。是れ、三步なり。此くのごとくにして、禹步の道、畢(をは)る。)

   *

(以上の訓読は昭和一七(一九四二)岩波文庫刊の石島快隆訳注「抱朴子」を参考にした)これらは孰れも「禹步」が実質の「三步」をやや迂遠な、一見、無駄な動きを以って完成するということを示している。所謂、日常のせこせこした能率的な歩き方のリズムを意図的に遅らせてずらし(はぐらかす)ことが、異界からの霊力を逆に呼び込むことになることが容易に想像されるものである。

「禁〔(ごん)〕す」「呪禁(じゅごん)」の意で採り、読んだ。まじないを唱えて物の怪 などの災いを払うことを「呪禁」と言い、律令制で、宮内省の典薬寮の職員にはそれによって病気の治療などを担当した呪禁師がいた(中務省の陰陽寮の陰陽師とは別)。

「須臾〔(しゆゆ)にして〕」忽ちにして。

「蛇、口に入らば、卽ち、爛る」言わずもがな、鴆が即座に嘴で突いて、その口に入った途端に、蛇は焼け爛れたようになって(溶けて)しまうというのである。

「其の屎〔(くそ)〕・溺〔(いばり)」無論、「鴆の糞や尿」である。

「石に着けば、石、皆、黃〔に〕爛(たゞ)る」熔岩カイ! マジ、草木も生えんのだから、んな感じ(溶岩流のシンボライズ)もしてくるわな!

「飮水〔(のみみづ)〕の處」水場。だから「百蟲」とは昆虫だけでなく、ヒトを除いたあらゆる異類、獣及び動物全般の意である。

「人、誤りて其の肉を食へば、立ちどころに死す」この謂いだと、ヒトは肉を食わないと死なない訳だ。羽一枚を浸した毒酒でコロリってえのと合わねえじゃねえかよ!

「犀の角」哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae の現生五種の内、インドサイ属は頭部に一本(インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus・インドサイRhinoceros unicornis の二種)を、クロサイ属クロサイ Diceros bicornis・シロサイ属 Ceratotherium simum・スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis の三種は二本の角を有する。ラテン語「リノケロス」の種名及び英名の rhinoceros(ライノォセラス)はこの角に由来し、古代ギリシャ語で「鼻」を指す「rhis」と、「角」を指す「ceras」を組み合わせたものとされる。参照したウィキの「サイによれば、『スマトラサイでは後方の角が瘤状にすぎない個体もいたり』、『ジャワサイのメスには角のない個体もいる』とあり、『角はケラチン』即ち、サイの角は、ヒトの爪・頭髪・体毛と同じものなのである『の繊維質の集合体で、骨質の芯はない(中実角』(水牛角や牛角の芯部分は骨質である))『何らかの要因により角がなくなっても、再び新しい角が伸びる』。『シロサイやクロサイでは最大』一・五メートル『にもなる』。『サイの角は肉食動物に抵抗するときなどに使われる。オスのほうがメスより角が大きい』とある。

「商州」現在の陝西省商洛市一帯。西安の東南。(グーグル・マップ・データ)。

「蘄州〔(きしう)〕」現在の湖北省と推測される(グーグル・マップ・データ)。]

2019/01/26

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)

 

Hukurohu_2

 

ふくろふ  梟鴟【音嬌】 流離

      鵩【音】   訓狐

 𩴂魂【𩴂字韻書無攷】

【音囂】

      【和名布

       久呂不

      一云佐介】

ヒヤ

 

本綱梟狀如母雞有斑文頭如鴝鵒目如猫目其名自呼

好食桑堪其少美好而長醜惡盛午不見物夜則飛行不

能遠飛長則食其母不孝鳥也故古人夏至𣩊之梟字従

鳥首在木上北方梟鳴人以爲恠南方晝夜飛鳴與烏鵲

無異家家羅取使捕鼠以爲勝猫也

肉【甘溫】可爲羹臛炙食古人多食之

孟康云梟食母破鏡食父破鏡者如貙而虎眼獸也【貙似獸狸】

                  寂蓮

 夫木物思へは木高き森にふくろふの苦しきかとも問人そなき

△按鴞形態皆似木兔但無毛角爾狀大於木兔小於鳶

 而尾短頭目如木兔而全體褐黒色有褐彪或白彪亦

 有脚脛色及傅毛亦如木兔晝伏夜出摯食小鳥

 似木兔而長如曰方伊方伊將霽如曰乃利須里於介

 將雨如曰乃里止利於介占以雨晴初若呼後若笑者

 是也雌者稍小而彪亦麤其聲如曰久伊久伊

 

 

ふくろふ  梟鴟〔(けうし)〕【音、「嬌」。】

      流離

      鵩【音[やぶちゃん注:欠字。]】

      訓狐

 𩴂魂〔(じゆうこん)〕

      【「𩴂」の字、韻書に攷〔(かう)〕無し。】

鴞【音、「囂〔(ガウ)〕」。】

      【和名、「布久呂不」。一に云ふ、「佐介〔(さけ)〕」。】

ヒヤ

 

「本綱」、梟、狀、母雞〔(めんどり)〕のごとく、斑文有り。頭、鴝鵒(ひよどり)のごとく、目、猫の目のごとし。其の名、自ら呼びて、好んで桑堪〔(くはのみ)〕を食ふ。其の少〔(わか)〕きときは美好にして、長ずと、醜-惡(みにく)きなり。盛-午(ひる)は物を見ず、夜は、則ち、飛行す〔れども〕遠く飛ぶこと、能はず。長ずれば、則ち、其の母を食ふ不孝の鳥なり。故に、古人、夏至に之れを𣩊(はりつけ)にす。「梟」の字、鳥の首、木の上に在るに従ふ〔はこの故なり〕。北方に〔て〕は、梟、鳴けば、人、以つて恠〔(あや)し〕と爲す〔も〕、南方に〔て〕は、晝夜、飛び鳴きて、烏-鵲〔(かささぎ)〕異なること無し。家家、羅(あみ)にて取りて、鼠を捕らしむ。以つて猫に勝〔(すぐ)〕ることを爲すなり〔と〕。

肉【甘、溫。】羹-臛(にもの)・炙(やきもの)に爲〔(な)〕して可なり。古人、多く、之れを食ふ。

孟康が云はく、『梟、母を食ふ。破鏡は、父を食ふ』〔と〕、破鏡とは貙〔(ちゆう)〕のごとくにして、虎の眼の獸〔(けもの)〕なり【貙は狸に似たる獸〔なり〕。】。

                  寂蓮

 「夫木」

   物思へば木高〔(こだか)〕き森にふくろふの

      苦しきかとも問ふ人ぞなき

△按ずるに、鴞、形(なり)も態(わざ)も、皆、木兔(みゝづく)に似たり。但〔(ただ)〕、毛角〔(うかく)〕無きのみ。狀、木兔よりも大きく、鳶より小〔さく〕して、尾、短く、頭・目、木兔のごとくにして、全體、褐黒色、褐(きぐろ)の彪(ふ)有り。或いは、白き彪も亦、有り。脚・脛の色、及び、傅(つ)いたる毛も亦、木兔のごとく、晝、伏し、夜、出でて、小鳥を摯(と)り食ふ。〔(よるな)〕く聲、木兔に似て、長し。「方伊方伊〔(ほいほい)〕」と曰ふがごとし。將に霽(はれ)んとすると〔き〕、「乃利須里於介(のりすりおけ)」と曰ふがごとし。將に雨〔(あめふ)ら〕んと〔するときは〕、「乃里止利於介(のりとりおけ)」と曰ふがごとし。〔されば〕以つて雨・晴を占ふ。初めは、呼ぶがごとく、後は、笑ふがごとしといふは、是れなり。雌は稍〔(やや)〕小さくして、彪も亦、麤(あら)く[やぶちゃん注:「粗く」。]、其の〔(よるな)〕く聲、「久伊久伊〔(くいくい)〕」と曰ふがごとし。

[やぶちゃん注:フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群、或いは種としては、フクロウ属フクロウ Strix uralensis がいる。まず、ウィキの「フクロウ目」から引く。『ミミズクと呼ばれるものも同じ仲間で、はっきりとした区別(分類学上の区別)はない。頭部の上方に突き出た耳のように見えるものを羽角(うかく)というが、羽角のない種をフクロウ、羽角のある種をミミズクと呼んでいる』。『南極を除く世界中に分布し、グリーンランドにまで生息している。日本には』十『種ほどが生息している』。フクロウは頭部を百八十度以上回転させることが出来ることが大きな特徴で、『両目が頭部の前面に位置しており、上下にも僅かにずれている』。『フクロウは遠目が利くが、逆に数十センチ以内の近い範囲ははっきりと見ることができない。瞳孔が大きく、弱い光に敏感な桿体細胞が網膜に多いため、夜目がきく(ただし』、『その代償として昼間は眩しすぎるため、目を細めていることが多い)』。フクロウの目の感度はヒトの百倍もあり、『他の多くの鳥類と異なり、両目が正面にあるため』、『立体視が可能で、静止していても』、『対象までの正確な距離を把握できる』。『両耳は、耳穴が左右でずれた位置に存在し、奥行きも違っている。左右非対称であることにより、音源の方向を立体的に認識することが可能になっている。また、パラボラ型の顔面の羽毛が対象の発するわずかな音を集め、聴覚を助ける役目をする』。『暗所に強い目と、驚異的な聴力がフクロウ目の夜間ハンティングを可能にしている』。『ワシのような形をしたくちばしをもつ』。『目の周囲を縁取るようにはっきりとした顔盤という羽毛が生えた部位がある。耳角と呼ばれる耳のように見える羽は耳ではなく、耳は顔盤のすぐ後ろに位置している。耳の位置は左右で異なっている』。『フクロウ目の羽毛は柔らかく、風切羽の周囲には綿毛が生え、はばたきの音を和らげる効果があるため、ほとんど音を立てることなく飛行できる』。『趾(あしゆび)のうち、いちばん外側の第』四『趾の関節が非常に柔軟で、多くの鳥類のような三前趾足(第』一『趾のみが後ろで前』三『本後』一『本)から対趾足(前』二『本後』二『本)に切り替えることができる』。『多くの種が夜行性で、フクロウ目は数少ない夜行性の鳥類(鳥類全体の約』三%『)の中で大きな割合を占める。肉食で小型の哺乳類や他の鳥類、昆虫などを鋭い爪で捕獲し』、『捕食する。一部には魚を捕食する種もみられる』。『単独またはつがいで生活する』。『種類によっては、刺激を受けると、外見上の体の大きさを変えるものもいる』。『フクロウ目は古くは、猛禽類として分類されてきた。カール・フォン・リンネは、タカ類・ハヤブサ類・モズ類と共にタカ目 Accipitres に分類した』。一九九〇『代のSibley分類では、現在のフクロウ目』Strigiformes『・ヨタカ目』Caprimulgiformes『・アマツバメ目ズクヨタカ科』Aegothelidae『の構成種を含めていた。彼らは狭義のフクロウ目とヨタカ目(ズクヨタカ科を含む)は姉妹群だとしており』、『それらを合わせた群の名称がフクロウ目となったのは命名規則のためである』。『フクロウ目とヨタカ目は夜行性・捕食性という生態が共通しており、頭骨にも共通点が発見された(』但し、『アマツバメ目』Apodiformes『とも共通である)』。二〇〇〇『年代前半までは、これらが近縁であるという説は、同じ目に分類するかどうかは別として』、『ある程度の支持を得ていた』が、二〇〇四年に、『夜行性に関連したAanat遺伝子の分析により、両目の夜行性は収斂進化』(convergent evolution:複数の異なるグループの生物が同様の生態的地位についた際、系統に関わらず、身体的特徴が似通った姿に進化する現象)『によるものだとされ』、『さらにそれに続く包括的な分子系統により現生鳥類全体の系統が明らかになると、両目の類縁性は否定された』。以下、「神話や伝承」の項。『カラスやミヤマガラスのほうが知能は高いが、フクロウは古代ギリシャでは女神アテナの従者であり、「森の賢者」と称されるなど知恵の象徴とされている』。『古代エジプトではヒエログリフの「m」の文字をフクロウを表すものとしたが、しばしばこのヒエログリフを復活と攻撃のために足の折れたいけにえのフクロウとして記述した』。『日本ではフクロウは死の象徴とされ、フクロウを見かけることは不吉なこととされていた。現在では、「不苦労」、「福郎」のゴロ合わせから福を呼ぶものとも言われている』。『青森県北津軽郡嘉瀬村(現・五所川原市)では、死んだ嬰児の死霊を「タタリモッケ」といって、その霊魂がフクロウに宿るといわれた』。『岩手県和賀郡東和町北成島(現・花巻市)ではフクロウを「しまこぶんざ」といい、子供が夜更かししていると「しまこぶんざ来んど」(フクロウが来て連れて行かれる、の意)といって威す風習があった』。『アイヌの人々は、シマフクロウを守護神コタンコロカムイとして、エゾフクロウ(フクロウの北海道産亜種)を猟運の神として崇めている』。『ホピ族(北アメリカの先住民)でもフクロウは不潔で不気味な生き物とされている』。二〇〇三『年にアメリカの教育委員会が多文化への対応のために児童の教科書のフィクションの項目を再調査したとき、北アメリカの先住民の文化によって従来の蛇やサソリに対するそれのように、フクロウに関する記述や問題を子供たちが怖がってテストが混乱しないように、フクロウについてのこれらの物語や問題を新しい教科書やカリキュラムから取り除かなければならないとの結論に達した』。『ヨーロッパでは学問の神、英知の象徴とされる』。『近年、アジアなどで食用や飼育、様々な用途で密輸され、摘発されるケースがある』。次にウィキの「フクロウ」から引く。これは種としてのフクロウ属フクロウ Strix uralensis について記載している。『学名の属名(Strix)はフクロウを意味し、種小名の(uralensis)はウラル地方を意味する』。『夜行性であるため人目に触れる機会は少ないが、その知名度は高く』、『「森の物知り博士」、「森の哲学者」などとして人間に親しまれている』。『木の枝で待ち伏せて音もなく飛び、獲物に飛び掛かることから「森の忍者」と称されることがある』。『スカンジナビア半島から日本にかけてユーラシア大陸北部に帯状に広く分布する』。『温帯から亜寒帯にかけての針葉樹林、混交林、湿地、牧草地、農耕地などに生息し、留鳥として定住性が強い』。『日本では、九州以北から、四国、本州、北海道にかけて分布する留鳥で、平地から低山、亜高山帯にかけての森林、農耕地、草原、里山』『などに生息する』。『大木がある社寺林や公園で見られることがある』。全長は五十~六十二センチメートル、翼開長は九十四センチメートルから一メートル十センチメートル、尾長は二十二~二十五センチメートル。『日本のフクロウ類ではシマフクロウ』(フクロウ科シマフクロウ属シマフクロウ Ketupa blakistoni:全長約七十一センチメートル)・ワシミミズク(ワシミミズク属ワシミミズクBubo bubo)・シロフクロウ(ワシミミズク属シロフクロウ Bubo scandiacus:全長約五十八センチメートル。繁殖期には北極圏に広く分布するが、冬は多くの個体がユーラシア大陸や北アメリカ大陸などの亜寒帯まで南下し、日本でも北海道でまれに見られる。鳥取県や広島県などや、さらに南でも記録されたこともある。日本での記録はほとんど冬だが、北海道の大雪山系では夏に記録されたこともある)『に次いで大きく』、お馴染みの『ハシボソガラス』(スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone:全長約五十センチメートル)『と同じ程の大きさ』である。『体重は』で五百~九百五十グラム、で五百七十~千三百グラム。尾羽は十二枚あり、『褐色の横斑があり』、『やや長く扇形』を成す。『上面は褐色の羽毛で覆われ、濃褐色や灰色、白い斑紋が入る。下面は白い羽毛で被われ、褐色の縦縞が入る。顔は灰褐色の羽毛で被われ、顔を縁取る羽毛(顔盤)はハート型。翼は短く、幅広い』。『翼下面は淡褐色の羽毛で被われ、黒い横縞が入る。雌雄同色』。『平たいお面のような顔で』、『頭は丸くて大きい』。『目は大きく』、『暗闇でも物がよく見えるように眼球が大きく発達し、眼球とまぶたの間に半透明の瞬膜があり、日中は眼球を覆い網膜を保護する』。『角膜は大きく盛り上がり、網膜細胞が発達している』。『目は、他の種類の鳥が頭部の側面にあるのに対して、人間と同じように頭部の前面に横に並んでいる』。『虹彩は黒や暗褐色』。『嘴は先端が鋭く、視野の邪魔にならないように短く折れ曲がっていて』、『色彩は緑がかった黄褐色。趾は羽毛で被われ』、『指が前後』二『本ずつに分かれていて』、『大きな指の先に鋭いかぎ状の爪が付いている』。『ミミズクにある羽角はなく』、『耳は目の横にあり、顔盤の羽毛で隠れている』。『幼鳥は全身が白い羽毛で被われる』。本邦には、

エゾフクロウStrix uralensis japonica(北海道・千島列島南部)

フクロウStrix uralensis hondoensis(本州北部。以前は「トウホクフクロウ」と和名呼称されていた)

モミヤマフクロウStrix uralensis momiyamae(本州中部)

キュウシュウフクロウStrix uralensis fuscescens(本州南部・四国・九州)

の四亜種が棲息する。『北の亜種ほど』、『体色が白っぽく、南の亜種ほど暗色である』。『単独またはつがいで行動』する。『夜行性で昼間は樹洞や木の横枝などで』、『ほとんど動かず目を閉じて休息している』。『夕方から活動を始めるが、日中に行動することもある』。『冬場の獲物が少ない時』『や強風や雨天が続いた場合は』、『昼間でも狩りを行ったり、保存した獲物を食べる。日中木の枝でじっとしている時にカケスなどの他の鳥に騒ぎ立てられて、他の場所へ逃げ出すこともある』。『森林内の比較的開けた空間や林縁部などの樹上で獲物を待ち伏せて』、『首を回しながら』、『小動物の立てる物音を察知し獲物を見つけると』、『羽音を立てずに』(『フクロウ類は羽毛が非常に柔らかく』、『初列風切羽の先が細かく裂けていることから』、『羽音を立てずに飛行することができる』)『軽やかにふわふわと直飛し獲物に近づく』。『足の指を広げて獲物の背中に突き立て、獲物を押さえつけて締め殺す』。目はヒトの十倍から百倍ほどの感度があると考えられており、『目で遠近感をつかめる範囲は』六十度から七十『度と広いが、視野は約』百十『度と狭く』(『他の種類の鳥は視野は約』三百四十『度と広いが、遠近感をつかめる範囲は約』二十四『度と狭い』)、『これを補うために首は上下左右約』百八十『度回り』、『真後ろを見ることができる』。『体を動かさずに首だけで約』二百七十『度回すことができる』。『発達した顔盤は小さな音を聞くアンテナとしての機能があり』、『左右の耳は大きさが異なり』、『位置も上下にずれているため、音源の位置の方向と距離を立体的に認識することができる』。『聴覚が発達しており、音により獲物の位置を特定し、雪の下にいる』野鼠『や地上付近のトンネル内を移動しているモグラやミミズを仕留めることができる』(但し、以上の「森林内の比較的開けた空間や……」からここまでは要検証が掛けられている)。『ヨーロッパ北部でのペレット』(pellet:猛禽類などが消化できないもの(羽・骨など)を吐き出した塊)『の内容物調査では主に小型哺乳類、鳥類、両生類が検出され、昆虫が含まれることは』二%『未満でまれという報告例がある』。二〇〇〇年に『発表された北海道での同一個体のペレットの内容物調査では主にタイリクヤチネズミ』齧歯(ネズミ)目ネズミ上科ネズミ下科ネズミ科ミズハタネズミ亜科ヤチネズミ属タイリクヤチネズミ Myodes rufocanus)『が検出され(81%)、次いでアカネズミ』(ネズミ科アカネズミ属アカネズミ Apodemus speciosus)『6.8%、ヒメネズミ』(アカネズミ属ヒメネズミ Apodemus argenteus)『4%、鳥類3.6%、シマリス』(齧歯目リス亜目リス科 Xerinae 亜科 Marmotini 族シマリス属シベリアシマリス Tamias sibiricus)『1.4%、ハントウアカネズミ』(アカネズミ属ハントウアカネズミApodemus peninsulae)『・ドブネズミ』(ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus)『・ヒメヤチネズミ』(ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ(ミズハタネズミ)亜科ヤチネズミ族ヤチネズミ属ヒメヤチネズミ『Clethrionomys rutius0.4%ずつという報告例がある』。『日本でも昆虫を食べることはまれとされていたが』二〇〇九『年に発表された上賀茂試験地での調査では』六~八『月にかけて本種の周辺にカブトムシの成虫の死骸が多く散乱し、実際に飛翔中のカブトムシを本種が捕える様子が確認されたという報告例もある』。『この報告例ではメスの死骸の発見率が高く、卵を持ち』、『高栄養価のメスを選択的に捕食していた可能性が示唆されている』。二〇〇七『年に発表された富士河口湖町での人工巣内でのビデオ撮影および獲物の残骸から主にアカネズミ・ヒメネズミ・スミスネズミ』(ネズミ科ビロードネズミ属スミスネズミEothenomys smithii)『といったネズミ類(約79.7 %)、ヤマネ』(齧歯目ヤマネ科ヤマネ属ヤマネ Glirulus japonicus)、や『アズマモグラ』(食虫(トガリネズミ形)目モグラ科 Talpinae 亜科モグラ属アズマモグラ Mogera imaizumii)・『ヒミズ』(日不見:モグラ科ヒミズ属ヒミズ Urotrichus talpoides)・『ジネズミ』(トガリネズミ科ジネズミ亜科ジネズミ属ジネズミ Crocidura dsinezumi)『といった無盲腸類(トガリネズミ目』(食虫目 Soricomorpha))、『ニホンノウサギ』(ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus)『(哺乳類全体で約87.9%)、昆虫(約7.8%)、コガラ』(スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科コガラ属コガラ Poecile montanus)『・コジュケイ』(キジ目キジ科コジュケイ属コジュケイ Bambusicola thoracicus)『・コルリ』(スズメ亜目ツグミ科 Luscinia 属コルリ Luscinia cyane)『などの鳥類(約1.7%)を捕食したという報告例があり、鳥類の比率が小さいのは夜行性の本種とは活動する時間帯が重複しないためだと考えられている』。『食性は動物食で、主にネズミや小型の鳥類』『を食べるが、モグラやヒミズなどのトガリネズミ目』、『モモンガ』(リス亜科モモンガ族モモンガ属モモンガ Pteromys momonga)や『リスといった小型の哺乳類』、『カエルなどの両生類、爬虫類、カブトムシやセミなどの昆虫なども食べる』。『最も多く捕食しているものが、丸呑みし易いハタネズミ』(ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ(ミズハタネズミ)亜科 Arvicolinae)『の仲間の野』鼠類で、『ハタネズミ』類『は体長が約』十センチメートル、体重が三十~四十グラム『程度で、アカネズミやヒメネズミなどと比較して敏捷性が劣る』からであろう。『日齢が』二~四十五『日の巣立ち前のヒナの』一『日当たりの食餌量は』五十~二百グラム、続く日齢四十六~六十六『日の巣立ち後の幼鳥の食餌量は約』二百グラム、日齢六十六日『以上の若鳥を含む成鳥の食餌量は約』百グラムである。『捕獲した獲物を丸呑みし消化し、骨や羽毛などの消化できないものを塊(ペリット)として吐き出す』。『市街地近くの森林の少ない場所で巣営するものは、周辺をねぐらとするカワラバト』(我々が普通に「ハト」と呼んでいるハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia のこと)『やスズメ』(スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus)『を捕食したり、民家の屋根裏をねぐらとするアブラコウモリ』(哺乳綱翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属 Pipistrellus亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus)『、飲食店付近ではドブネズミ、夜間に電灯や自動販売機の照明に集まる大型の昆虫などを捕食することもある』。『秋にはたくさんの』野鼠『を捕獲して皮下脂肪に蓄えて冬に備える』。『主に大木の樹洞に巣を作るが、木の根元の地上、地上の穴、屋根裏、神社の軒下や巣箱、他の鳥類の古巣などを利用することもある』。『フクロウが利用した巣穴には獣毛が混じったペリットが残っていることが多い』。二~四『月頃に、巣営地付近で夜になると』、『雌雄で盛んに鳴き交わす』。三~四『月頃に、巣穴に巣材を使わず』、『直接産卵を行う』。『白色の卵を』一~三日おきに二~四個産み、二十八~三十五『日の期間』、『メスが胸の羽根を開いて』四十『度の体温で抱卵する』。『卵は長径約』五・一センチメートル、短径四・二センチメートル、重さは五十グラムほどで、『白色無斑』。『卵が転がりやすい形状であるため、巣に小さな窪みを彫って産座を設ける』。『抱卵の期間に、オスは』一『日に』一、二『個体の獲物を捕獲し』、『鳴きながら巣の近くまで来て』、『メスに獲物を受け渡す』。『メスは獲物を丸呑みしてすぐに巣に戻る』。『雛へはオスとメスの両方がネズミなどを給餌する。メスは雛へ丁寧に餌を給餌し、雛たちは温厚で互いに争うことなく』、三十五~四十『日ほどで巣立つ』。『雛は孵化して』二『週間ほどで羽毛が生えそろって体温調整ができるようになり、餌を丸呑みできるようになる』。『この期間にオスが巣へ運ぶ餌の量が急激に多くなり、メスも巣内に留まり、餌を食いちぎって雛へ給餌を行い、巣内のヒナの糞を食べる』。『孵化して約』二『週間後には雛の餌の量が増えるため、メスも巣を離れて獲物を捕獲するようになる』。『孵化して』一ヶ『月ほどで巣立ち』、二~三ヶ月の間、『両親から狩りの訓練と受けたり』、『飛ぶ練習などを行い、その年の』、九~十一『月頃』、『親から離れて独り立ちする』。『雛は一度巣から出ると、もう巣には戻らない』。『雛に餌をちぎって与えるのはメスが行い、オスは獲物をメスに渡すと』、『また獲物を捕りに出かける』。『巣立ち後約』五十『日ごろに羽毛が生え揃い』、『若鳥となる』、『通常』、『一夫一妻制で』、『繁殖に成功したつがいは翌年』、『同じ巣を利用する傾向が強い』。『メスの平均寿命は約』八『年』(但し、二十年若しくは『それ以上生きるフクロウの個体がいることが知られている』)、三~四『年目から繁殖を始めることが多く』、五『年ほど繁殖を続ける』。「鳴き声」の項。鳴き声には成鳥で十四種類、幼鳥が四種類が『存在し、鳴き声は数キロメートル先まで届くことがある。 オスは十数秒おきに』、『犬が吠えるような低い音で』『で物悲しく鳴くことから、不吉な鳥とされることもある』「さえずり」は、『オスは「ゴッホウ ゴロッケ ゴゥホウ」と透き通った良く通る声でと鳴き、メスは低くかすれた』、『あまり響かない同様な声で鳴く』。『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)としては「五郎助奉公」』『や「ボロ着て奉公」』『「糊付け干せ」などがあるが、「糊付け干せ」に関しては「フクロウの染め物屋」という昔話が存在する』(以下、要約)。『昔々、あるところにフクロウが経営する染め物屋がありました』。『そこにカラスが目立つ色に着物を染めて欲しいとやってきたので』、『全身を真っ黒に染めてあげたところ、予想外の色にカラスは激怒し』、『以降』、『フクロウを見るなり』、『追いかけまわすようになりました』。『平地で暮らしていたフクロウは』、『カラスを避けるため、誰にも見られないよう』、『夜の森の奥深くで』、『ひっそりと「ホーホ、糊付け干せ」と鳴きながら営業をしているそうです』。「地鳴き」は『オスは「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ……」、メスは「ギャーッ!、ギャーッ!」と鋭く濁った鳴き声で鳴く』。『和名は、毛が膨れた鳥であることに由来する、鳴き声に由来する』「昼隠居(ひるかくろふ)」(動詞ということか)『から転じたなどの説がある』。『異名として、不幸鳥、猫鳥、ごろすけ、ほろすけ、ほーほーどり、ぼんどりなどがある』。『古語で飯豊(いひとよ)と呼ばれていた。日本と中国では、梟は母親を食べて成長すると考えられていた』ため、『「不孝鳥」と呼ばれる』。『日蓮は著作において何度もこの点を挙げている』。『譬へば』、『幼稚の父母をのる、父母これをすつるや。梟鳥が母を食、母これをすてず。破鏡父をがいす、父これにしたがふ。畜生すら猶かくのごとし』(「 日蓮開目抄」)と言った感じである。『「梟雄」という古くからの言葉も、親殺しを下克上の例えから転じたものに由来する。あるいは「フクロウ」の名称が「不苦労」または「福老」に通じるため』、『縁起物とされることもある。広義にフクロウ目の仲間全体もフクロウと呼ばれている』。『繁殖に適した洞穴がある森林伐採により、個体数が減少している』。西洋では、専ら、ローマ神話の女神の手にとまる「ミネルヴァのフクロウ」で知恵の象徴とされ、「森の哲人」などとも呼ばれるが(私の妻は大のフクロウ好きで世界から集めたフクロウの飾りがそこら中にある)、『東洋では、フクロウは成長した雛が母鳥を食べるという言い伝えがあり、転じて「親不孝者」の象徴とされている。唐朝の武則天は政敵を貶める目的から』、『政敵の遺族の姓を「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)と「梟」に変えさせている。「梟帥(たける)」は地域の長を意味する。「梟雄(きょうゆう)」は荒々しい人、盗賊の頭を意味する。獄門の別名を梟首(きょうしゅ)と言う。『その一方で』、『前述のように縁起物と』も『され、フクロウの置物も存在する。また、『ことわざの一つに「フクロウの宵鳴き、糊すって待て」というものがある。宵にフクロウが鳴くと明日は晴れるので洗濯物を干せという意味』だとある(「要検証」がかけられているが、少なくとも、良安の記載した「將に霽(はれ)んとすると〔き〕、「乃利須里於介(のりすりおけ)」と曰ふがごとし。將に雨〔(あめふ)ら〕んと〔するときは〕、「乃里止利於介(のりとりおけ)」と曰ふがごとし。〔されば〕以つて雨・晴を占ふ」とこの諺は一致する。『普段は穏やかでおとなしい気質であるため』、『人間から非常に親しまれている鳥であるが、繁殖期には雛を守るため』、『巣に近づく人間に対して攻撃的になる』。『巣に近づく人間に向かって飛びかかり、鋭い爪で目を攻撃して失明させたり、耳を引きちぎったりする事例がヨーロッパでは』(要検証がかけられてある)あるとある。『フクロウの主食がノネズミであることから、日本では江戸時代から畑に杭を打ってフクロウの止まり木を提供し』、『ノネズミの駆除に利用し、東南アジアでは田畑や果樹園の横に巣営場所を提供しノネズミ駆除に利用してい』ともあり(要検証がかけられてある)、『初列風切羽の外弁の縁ギザギザの鋸歯状の構造には消音効果があ』るともある(要検証がかけられてある)。なお、前項でも引いた、個人と思われるフクロウの総合サイト内の「古典」(よく渉猟されていて必見)」も是非、参照されたい。

 

「梟鴟〔(けうし)〕」「鴟梟」「鴟鴞」とも書き、「けうし(きょうし)」と読み、フクロウの別称であるが、以下に述べられている中国の母を喰らうという伝承から、「凶悪な者」を譬えて言う語としても生きている。

「流離」個人ブログ「tatage21’s diary」の「語源を考える〜『フクロウ(梟)』」に、堀井令以知編「語源大辞典」(一九八八年東京堂出版刊)の「フクロウ」を引いておられ、そこに、『ふくろ【梟】大言海──ふくろふノ約。日本釈名「梟、其毛フクルル鳥ナル故也」。るハろト通ズ。一説、ははくらふ也。梟は悪鳥ニテ、其母ヲクラフモノ也。ふハはは也、はトふト通ズ。らトろト通ズ。大言海ふくろふ──其鳴ク声ヲ名トスト云フ。浜名寛祐氏はいう──詩経の邶風の「流離之子」の毛伝に「流離は鳥也」とあり、爾雅の釈詁に「流は求也」とあるから、「流離」はクロと読める。陸機の詩疏に「関より而西は梟を謂って流離と為す」とあり、その流離(クロ)は集韻に「鵂鶹(クロ)は鳥也」とある鵂鶹(クロ)で、すなわちフクロである』とある(上記サイトは資料書誌もしっかりしており、必見)。母を食う悪鳥は永遠に流離せねばならない、漂泊の鳥だとでも言うのか。

「鵩【音[やぶちゃん注:欠字。]】」音「ホウ」。「本草綱目」によれば、「漢書」に基づく。呉音「ブク」、漢音「フク」であるが、現行ではこの訓読みは「みみずく」である。「文選」の賈誼「鵩鳥賦」が知られるが、そこにも「鵩似鴞、不祥鳥也」とあるから、これはもう、フクロウではなく、羽角のあるミミズクで前項に置くべき異名である。但し、次注も参照。

「訓狐」「本草綱目」によれば、唐の陳蔵器の薬物本草書「本草拾遺」(七四一 年成立)に基づく。しかし、「本草綱目」を見ると、

   *

時珍曰、鴞・鵩・鵂・鶹・梟、皆、惡鳥也。者、往往混註。賈誼謂鵩似鴞、藏器謂、鴞與訓狐爲二物、許慎・張華謂鴞鵩鵂鶹爲一物、王逸謂鵩即訓狐、陳正敏謂梟爲伯勞、宗謂土梟爲鴝鵒、各執一。今通攷據、幷咨詢野人、則、鴞・梟・鵩・訓狐、一物也。鵂・鶹、一物也。藏器所謂訓狐之狀者鵂鶹也。鴞卽今俗所呼幸胡者是也。

   *

面白くなるくらい、トンデモ大混戦となっている。則ち、陳蔵器は「鴞」(フクロウ」)と「訓狐」は別種であると言っているが、李時珍は「鴞」も「梟」も「鵩」も「訓狐」も全部、同一の種類であると結論しているのである。そうなると、「鵩」はミミズクなんだから、この「訓狐」もミミヅクということになるのだが、ここは実はミミズクが鳥類学的にフクロウ類であることを考えれば、分類至上主義の古典的本草家の言としては、この時珍のそれは現在の鳥類学レベルで科学的に正しいことを言っていることになることに気づくべきであろう。なお、本邦ではこの「訓狐」は古く「このはづく」の訓を当てており、そうなると、コノハズク属コノハズク Otus scops で、やはり「ミミズク」ということにはなるのである。

𩴂魂〔(じゆうこん)〕【「𩴂」の字、韻書に攷〔(かう)〕無し。】」割注は『「𩴂」という漢字につていは韻書には考察が施されていない』の意。中文サイトでも発音も意味もよく判らない。魑魅魍魎に習って、「重」の音で読んでおいただけのことである。しかし、何やら、まがまがしい雰囲気のある熟語で、いいね。

「佐介〔(さけ)〕」フクロウの古名。「日本国語大辞典」には「和訓栞」が「サケブの意か」とするとある。「叫ぶ」か。なるほどね。

「鴝鵒(ひよどり)」既に何遍も述べた通り、良安はこれを、

スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis

のつもりで、かくルビを振っているのだが、これは「本草綱目」の引用である以上、その場合はヒヨドリではなく、

スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ(八哥鳥)属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus

を指すと考えねばならないというのが私の結論なのである。因みに、東洋文庫版は独自の見解を持っており、これに『くろつぐみ』とルビする。則ち、

スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis

とするのであるが、私は受け入れられない

「其の名、自ら呼びて」あたかも自分の名前を呼ぶかのように鳴いて、の意。「鴞」に良安が附した中国音なら「ヒヤウ」(実はこの「」の意味が私はよく判っていない。識者の御教授を乞うものである)だが、現代中国音ではこの「鴞」は「chī」(チィー)或いは「xiāo」(シィアォ)である。

「好んで桑堪〔(くはのみ)〕を食ふ」以上の通り、肉食で誤り

「美好」人好きのする美しい容姿。

「烏-鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica

「羅(あみ)」鳥を獲るカスミ網。

「羹-臛(にもの)」野菜を或いは野菜を主として煮込んだスープは「羹」(音「コウ・カン」)、肉を或いは肉を主として野菜を加えたそれを「臛」(音「コク」)と呼ぶ。私はどうしても「あつもの」と読みたくなる。

「炙(やきもの)」「燒き物」。炙ったもの。

「孟康」生没年未詳(生年は二二〇年から二二六年の間)。三国時代の魏の人。「漢書」の注釈書「漢書音義」を書いた。

「貙〔(ちゆう)〕」「虎の眼の獸〔(けもの)〕」「狸に似たる獸」現代仮名遣で「チュウ」獣の名で、大きさは狗(く:イヌ・クマ・トラなどの小形種のものの子)ほどで貍(り:ヤマネコやベンガルヤマネコの類)のような紋様があるとする、「貙虎(ちゅうこ)」とも。「爾雅注疏」の「釋獸」に「貙似貍【疏:字林云貙似貍而大一名郭云今山民呼貙虎之大者爲貙豻……」と出、また「説文解字注」の「犬部の「」には「郭云今貙虎也大如狗文似貍」とある。以上は「K'sBookshelf 辞典・用語 漢字林」に拠った。

「寂蓮」「夫木」「物思へば木高〔(こだか)〕き森にふくろふの苦しきかとも問ふ人ぞなき」「夫木和歌抄」の「巻二七 雑九」に所収。校合済み。

「態(わざ)」仕草。

「木兔(みゝづく)」項「鴟鵂(みみづく)参照。

「毛角」同前。所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれるているが、鳥類には耳介はない。

「鳶」タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus既出独立

「褐(きぐろ)」ルビは「黄黒」の意。良安は暗くくすんだ黄褐色をこう呼ぶのを好む。

「乃利須里於介(のりすりおけ)」晴れるから、服を洗って糊を張って乾かすに十分だから、今晩から糊を擦って作っておけ、の意。前のウィキの「フクロウ」からの引用を参照。

「乃里止利於介(のりとりおけ)」雨が降って糊り張り干しは出来ないから、糊擦りは止めておけ、の意。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)

 Mimiduku

みゝつく  雚【音丸】 恠鴟

      呼鷹   角鴟

      夜食鷹   鉤鵅

      轂轆鷹   老兔

鴟鵂

ツウヒユウ 鵋䳢【俗云美美豆久】

本綱鴟鵂大如鴟鷹黃黑斑色頭目如猫又如老兔有毛

角兩耳【故名雚也雚字象形】晝伏夜出鳴則雌雄相喚其聲如老人

初如呼後若笑所至多不祥夜能拾蚤虱【或云拾人手爪者妄蚤虱之蚤字誤以爲爪甲之蚤矣】鴟鵂之小者爲鵂鶹

△按木兎【日本紀用此二字】大如兄鷂而全體褐黑色有白彪似

 豆者臆胸亦同色橫有白彪相亂似蛇腹文頭目如猫

 眼外作白圈眼中黃赤而能旋轉毛角有小彪似胡

 麻其下有耳穴怒則毛角竪起一寸許脚黃赤脛短有

 毛謂之傳毛似矮雞之脛爪勾利其啄下短上長勾黑

 不能遠飛夜出摯小鳥聲似梟而短連聲如曰甫伊

 甫伊其尾短十二枚表文幽微裏文鮮明畜之爲囮縫

 閉目繫架頭側設羅擌則諸鳥來集噪噪猶笑木兔盲

 形而罹羅擌者不知數以不勞捕鳥人賞之

 周伯溫曰鴟雚頭上角曰觜【字從角】俗用作鳥喙之

 也

みゝづく  雚【音、「丸〔グハン〕」。】

      恠鴟〔(かいし)〕

      呼鷹〔(こかよう)〕

      角鴟〔(かくし)〕

      夜食鷹〔(やしよくよう)〕

      鉤鵅〔(こうかく)〕

      轂轆鷹〔(こくろくよう)〕

      老兔〔(らうと)〕

 鵋䳢〔(きき)〕

鴟鵂

ツウヒユウ 【俗に云ふ、「美美豆久」。】

「本綱」、鴟鵂、大いさ、鴟〔(とび)〕・鷹のごとく、黃黑〔の〕斑〔(まだら)〕色、頭・目、猫のごとく、又、老〔ひたる〕兔〔(うさぎ)〕のごとし。毛の角〔の〕兩耳、有り【故に「雚」と名づくなり。「雚」の字、象形。】。晝(ひる)、伏し、夜、出づる。鳴くときは、則ち、雌雄、相ひ喚〔(よ)〕ぶ。其の聲、老人のごとし。初めは呼ぶがごとく、後は笑ふがごとし。至る所、不祥、多し。夜(〔よ〕る)、能く蚤(のみ)・虱(しらみ)を拾(ひろ)ふ【或いは云ひて、「人の手の爪を拾ふ」といふは妄なり。「蚤・虱」の「蚤」の字を、以-爲〔(おもへら)〕く、爪-甲(つめ)の「蚤」と誤りて〔のことならん〕。】鴟鵂の小さき者、「鵂鶹〔いひとよ〕」と爲す。

△按ずるに、木兎(みゝづく)【「日本紀」此の二字を用ふ。】、大いさ、兄鷂(このり)のごとく、全體、褐黑色、豆〔(まめ)〕に似たる白き彪、有る者〔なり〕。臆-胸〔むね)〕も亦、同色、橫に白き彪〔(とらふ)〕、有り。相ひ亂れて、蛇腹の文に似たり。頭・目、猫のごとく、眼の外に白き圈を作〔(な)〕す。眼中、黃赤にして、能く旋轉(くるくる)とす。毛の角に小さき〔の〕彪〔(とらふ)〕有り、胡麻〔(ごま)〕に似たり。其の下に耳の穴、有り。怒るときは、則ち、毛角、竪〔(た)〕つに、起こりこと、一寸許り。脚、黃赤、脛、短く、毛、有り〔て〕、之れを「傳毛(つたいげ[やぶちゃん注:ママ。])」と謂ひ、矮雞(ちやぼ)の脛に似たり。爪、勾(まが)りて利〔(と)〕く、其の啄(くちばし)、下は短く、上は長く、勾(とが)りて黑し。遠く飛ぶこと能はず、夜、出でて、小鳥を摯〔(と)〕る。(〔よる〕な)く聲、梟(ふくろふ)に似て、短く、連聲〔して〕「甫伊甫伊〔(ほいほい)〕」と曰ふがごとし。其の尾、短く、十二枚、表の文、幽-微(かすか)に〔して〕、裏の文は鮮明なり。之れを畜〔(か)〕ひて、囮(をとり)と爲し、目を縫〔ひ〕閉〔じ〕、架の頭に繫(つな)ぎ、側〔(かたはら)〕に羅-擌(あみばこ)を設〔(まう)〕く。則ち、諸鳥、來〔り〕集〔(つど)ひ〕、噪噪〔(さは)ぎ〕、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、木兔(みゝづく)の盲(めくら)の形を笑ふがごとく〔しつつ〕、羅-擌〔(あみばこ)〕に罹(かゝ)る者、數を知らず、以つて勞せずして、鳥を捕るを、人、之れを賞す。

 周伯溫が曰はく、『鴟雚(みゝづく)が頭の上の角を「觜」と曰ふ【字、「角」に從ふ。】俗、用ひて鳥の喙(くちばし)の「」〔に〕作〔(な)〕す〔は〕、非なり。

[やぶちゃん注:フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、古名は「ツク」で「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)ウィキの「ミミズク」によれば、『ミミズクの種の和名は「〜ズク」で終わるが、「〜ズク」で終わっていても』、アオバズク属 Ninox(代表種アオバズク Ninox scutulata には『羽角はな』いから、俗総称の絶対的属性からは、『ミミズクとは』言えないし、『また、シマフクロウ』(島梟:シマフクロウ属シマフクロウ Ketupa blakistoni)『のように「ミミズク」と呼ばれなくとも羽角があるフクロウもいる』ので、如何にいい加減な和名命名であるかは理解しておく必要がある(太字やぶちゃん)。なお、英語には「ミミズク」に相当する語は存在せず、羽角の有無に拘わらず、フクロウ類は「owlである。但し、中国では良安の抜粋する「本草綱目」で判る通り、本邦と同じく形態分類に基づく区分をしている(「角鴟〔(かくし)〕」(頭に角(つの)のあるトビ)。また、後の私の「雚」も参照されたい)。『ミミズクの語源には諸説あり、以下のようなものがある』。

・『「耳付く」もしくは「耳突く」の意味。ツクはミミヅク(ミミズク)の略で、実際はより新しい表現』。

・『ツクは「角毛」の意味。原義が忘れられた後、さらに「ミミ」をつけて呼ぶようになった』。

・「ツクは「鳴く」の意味で本来フクロウ・ミミズク類の総称(現にアオバズクに羽角はない)。耳のあるツクがミミヅク(ミミズク)』。

といったものである。『漢名木菟・木兎(ぼくと)は、樹上性のウサギの意味(菟は兎に同じ)で、羽角をウサギの長い耳になぞらえたもの。鵩(ふく)・鶹(りゅう)・鵂(きゅう)は』一『文字でミミズクを表す。角鴟(かくし)・鴟鵂(しきゅう)の鴟はトビ』(タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus)『・フクロウ類の総称』(フクロウは嘗ては猛禽類に分類されていたし、捕食行動も猛禽類と同じいから、この二種を合わせた漢字が存在することは少しもおかしくない。フクロウの一部が印象的に可愛いと認識されて、「フクロウ・カフェ」などで弄ばれたり(私はあれは立派な動物虐待であると思う)するが、肉食性鳥類であるという認識がない、昨今のペット感覚の輩の方が遙かに非分類学的・非生物学的なのであり、「本草綱目」でもちゃんと『鴟〔(とび)〕・鷹のごとく』と言っている)『耳木菟・耳木兎は漢名ではなく、ミミヅク(ミミズク)のミミとツクにそれぞれ漢字を当てたもの』。『羽角がある以外はフクロウ科に同じ』で、『羽角は、長く伸びたものから、コミミズク』(トラフズク属コミミズク Asio flammeus)『のようにほとんど判別できないものまであり、形もさまざまである』。世界的な主な「~ズク」系の和名種は、コノハズク属 Otus・コミミズク属 Asio・ジャマイカズク属 Pseudoscops・ワシミミズク属 Bubo・シマフクロウ属Ketupa(ウオミミズク Ketupa flavipes・マレーウオミミズク Ketupa ketupu がいる)に属する種の中に含まれる。

 しかし、ここでの良安の評言部は、明らかに特定の種を「みみづく」と呼んで記載していると捉えなければならない。複数の、それもミミズクに含まれないフクロウ類を混同している可能性が濃厚(特に鳴き声の「甫伊甫伊〔(ほいほい)〕」は明らかにミミズク類ではないフクロウ類の「ホウホウ」である)であるものの、一つ、羽角の特徴、「其の下に耳の穴、有り。怒るときは、則ち、毛角、竪〔(た)〕つに、起こりこと、一寸許り」という、実は羽角が普段は全然目立たないという辺りからは、これは、本邦に冬鳥として飛来する、

フクロウ科トラフズク属コミミズク Asio flammeus

ではないか(但し、鳴き声は「ギャーウー」)とも踏んでいる。但し、挿絵の方は、同じ仲間で羽角がよく発達した本邦の留鳥である、

トラフズク属トラフズク Asio otus

(鳴き声は「ウーウー」であるから、音写的には近似はする)か、

Otus 属オオコノハズク Otus lempiji

(繁殖期には「ウォッウォ」「ポ ポ ポ」と連続して鳴く点で「連聲〔して〕「甫伊甫伊〔(ほいほい)〕」と曰ふがごとし」と極めて一致する)のように思われる(しかし、これでは脚と尾羽を隠したら全く以って猫でげすなぁ)。(なお、蛇足であるが、和名には「ミミズク」「コミミズク」という標準和名の、セミ類に近いヨコバイ科 Cicadellidaeの昆虫がいる。一種は節足動物門昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅亜目ヨコバイ科ミミズク亜科 Ledra 属ミミズク Ledra auditura であるが、漢字表記は「耳蝉」で異なる。本種は体長(翅端まで)が一・四センチメートル、で一・八センチメートル内外で、全体は暗褐色乃至赤褐色で、樹皮によく似る(擬態と思われる)。頭部は扁平で幅広く、前方に突出する。複眼は後側方にあり、小さいが、突出する。前胸背は大きく、その後部に一対の耳状突起があり、では小さく、上方に突出するが,では大きく、前上方に向くことがある。クヌギやナラなどにつくが、その数は多くない。本州・四国・九州・琉球列島・朝鮮・台湾・中国に分布する。同亜科 Ledropsis 属コミミズク(小耳蟬)Ledropsis discolor は小型で細長く、前胸背上に耳状突起はない)。フクロウ類については次項「鴞」の注で、また、詳述する。

「鴟鵂」音「テイキフ(テイキュウ)」。

『「雚」の字、象形』「雚」はコウノトリ(コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属 Ciconia のコウノトリ類或いは同属コウノトリ Ciconia boyciana)の意で、頭部の白い毛とそこに目立つ両眼を象形した漢字である。コウノトリには左右に立つような冠毛のようなものはないが、要は頭部の眼球が白い羽毛によって目立つことから、それを耳に擬えて、この字が当てられたものと私は推定する。

「至る所、不祥、多し」西洋では、専ら、ローマ神話の女神の手にとまる「ミネルヴァのフクロウ」で知恵の象徴とされ、「森の哲人」などとも呼ばれるが(私の妻は大のフクロウ好きで世界から集めたフクロウの飾りがそこら中にある)、中国ではフクロウ類は、夜行性であること、その鳴き声の不気味さに加え、次項の「鴞(ふるろふ)(フクロウ)」の「本草綱目」の引用部にも記されてある通り、成長すると母鳥を喰らうという俗説があり、それがために古代に於いては夏至になるとその非道残虐を罰し知らしめるために、フクロウを磔(はりつけ)にしたものであり、「梟」の字が「鳥」が「木」の上に磔にされている様子を表しているのはそのためである、等と書かれているように、凶鳥・悪鳥とされてきた。そうした綜合的ネガティヴ・イメージに、さらに鳥の癖に、人や哺乳類と同じような「耳」を持つミミズクが擬人的で薄気味悪くも感じられたのではないかと思われ、そこから「この鳥が出没するところでは不祥事・凶事が多い」という謂いとなったものであろう。

「夜(〔よ〕る)、能く蚤(のみ)・虱(しらみ)を拾(ひろ)ふ」これ自体が妄説でしょう! 鼠・兎の誤りでしょう! 夜中にちまちまとノミやシラミを食っておられまへんて!

『「蚤・虱」の「蚤」の字を、以-爲〔(おもへら)〕く爪-甲(つめ)の「蚤」と誤りて〔のことならん〕』「蚤」(音「サウ(ソウ)」)という漢字には別に「礼記」以来の、「手足の爪」の意がちゃんとあり、この「蚤」の字の中の「」の部分は「爪」の古字なのである。大修館書店「廣漢和辭典」の次の「鵂鶹」を調べていたところ、「鵂」の使用例に「一切経音義」唐初(七世紀中頃)に玄応が記した音義書。全二十五巻。四百五十部余の経典についてその音義を示したもの)。本来の題は「大唐衆経音義」)十八巻に「鵂鶹、纂文云、夜卽拾人爪也」とあった

「鵂鶹〔いひとよ〕」(音「キウリユウ(キョウリュウ)」)小学館「日本国語大辞典」に「いいとよ」(歴史的仮名遣「いひとよ」)の項を設け、この「鵂鶹」の漢字を当て、『「いいどよ」とも』(こちらの濁音形が古形)とした上で『「ふくろう(梟)」の古名』とし、「日本書紀」の皇極天皇三(六四四)年三月の条を引き、「岩崎本」訓読で『休留(イヒトヨ)<休留は茅鴟なり>子を豊浦大臣の大津の宅の倉に産めり』と出すのに従ってルビを振った。但し、「本草綱目」はこれを、「ミミズクの小型種」の名としていると読めるが、前注で出した大修館書店「廣漢和辭典」の「鵂」の使用例を見ても、「鶹」の字を単独で調べてみても、孰れもミミズクのことを指すだけで、特別な小型の限定種を指しているようには思われない。

『木兎(みゝづく)【「日本紀」此の二字を用ふ。】』「日本書紀」には「平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)」という人名の中に用いられて複数箇所に出現する。彼は武内宿禰の子で、平群氏及びその同族の伝説上の祖とされる。ウィキの「平群木菟」によれば、「日本書紀」仁徳天皇元(三一三)年正月三日の即位の条の附文によれば、『大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれたという。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ』(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes)『)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたという』(原文「初天皇生日。木菟入于産殿。明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰。語之曰。是何瑞也。大臣對言。吉祥也。復當昨日、臣妻産時。鷦鷯入于産屋。是亦異焉。爰天皇曰。今朕之子与大臣之子、同日共産。並有瑞。是天之表焉。以爲、取其鳥名。各相易名子。爲後葉之契也。則取鷦鷯名。以名太子。曰大鷦鷯皇子。取木菟名號大臣之子。曰木菟宿禰。是平群臣之始祖也。是年也。太歳癸酉」)とある。

「兄鷂(このり)」既出タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus の、よりも小型で、体色も異なるの呼称(一説に「小鳥に乘り懸くる」で「小乗(このり)」とも)。

「怒るときは、則ち、毛角、竪〔(た)〕つに、起こりこと、一寸許り」冒頭注の終りを参照。「怒る」は注意・緊張・昂奮と読み換える。

「傳毛(つたいげ[やぶちゃん注:ママ。])」この呼称は現在、確認出来ない。フクロウ類は鳥類の中では実は脚が有意に長い

「矮雞(ちやぼ)」ニワトリの品種チャボ(矮鶏)。独立項で既出

「連聲」連続して啼き続けること。

「其の尾、短く、十二枚」フクロウ類の本邦の代表種であるフクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis の尾羽は十二枚で、これはフクロウ類の基本のようで、良安の言うように一様に尾羽は短い。夜間の低空滑走では長い尾は不要というのは、何となく腑に落ちる気がする。

「之れを畜〔(か)〕ひて、囮(をとり)と爲し、目を縫〔ひ〕閉〔じ〕、架の頭に繫(つな)ぎ、側〔(かたはら)〕に羅-擌(あみばこ)を設〔(まう)〕く。則ち、諸鳥、來〔り〕集〔(つど)ひ〕、噪噪〔(さは)ぎ〕、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、木兔(みゝづく)の盲(めくら)の形を笑ふがごとく〔しつつ〕、羅-擌〔(あみばこ)〕に罹(かゝ)る者、數を知らず、以つて勞せずして、鳥を捕る」「木菟(づく)びき」という。個人と思われるフクロウの総合サイト内の「古典」(よく渉猟されており、本書も東洋文庫版現代語訳が「みみずく」「ふくろう」ともに載る)の「木菟びき(ずくびき)」に以下のようにある(行空けを詰めた)。

   《引用開始》

 木菟びき(ずくびき)は、ミミズクを囮にして、小鳥を捕る猟法です。

 武器を持たない小鳥たちは、天敵である鷲や鷹やフクロウの仲間を見付けると、集団で囃し立てる習性があります。「わー怖い怖い、ここにこんな奴がいるぞー」とばかり何十羽もの群で抗議行動をするのです。

 これをモビング[やぶちゃん注:mobbing。小鳥が捕食者であるフクロウやタカなどに対して集団で行う行動。喧しく鳴き立て、突撃するような仕草で飛び回ることを指す。「擬攻」「擬攻撃」等とも訳す。]と呼びます。バードウォッチングでは、「モビングしたら鷲鷹疑え」という格言があるほどです。

 フクロウに限らず、鷲や鷹にも、いつもカラスが付いています。

 こうして囮のミミズクを見付けた小鳥たちが騒ぎ立て寄ってくる木の枝にトリモチを置いておくのですから、そこにとまった小鳥はトリモチにくっついてしまうというわけです。

 木菟びきは江戸時代からやっている猟法で、記録があるのが上記の本(本朝食鑑)[やぶちゃん注:リンク先参照。本電子化でも複数回既出既注。]で、これの出版が元禄十年[やぶちゃん注:一六九七年。]ですから綱吉の時代です。といえば云わずと知れた生類憐れみ令です。元禄九年には大坂の与力、同心十一人が鳥を捕らえて町人に売ったかどで切腹になっていますし、旗本の息子が吹き矢でツバメを撃ったというので斬罪になっています。

 ですから元禄時代に、命がけで木菟びきをやっていたかどうかは判りませんが、当然猟法そのものはもっと以前からあったと考えられます。

 近代になると、昭和十七年[やぶちゃん注:一九四二年。]発行の「日本鳥類狩猟法」に、この頃、大坂の弁護士で木菟牽びきの名人がいて、一度に200羽の小鳥を集めていたとありますし、著者は木菟牽に同行しています。

 木菟びきは、戦後もしばらくやる人がいましたが、もちろん今はいません。今は、木菟牽よりも綱吉が必要な時代です。

 アメリカでは現在もモビングの習性を利用したクローシューティング(カラス猟)があります。デコイのフクロウとカラスを使い、カラス笛を吹いて集まってくるカラスを撃つ猟法です。

 実物はコレクションでご覧下さい[やぶちゃん注:引用元通りにリンクを張った。]

 参考までに「狩猟図説」という本から江戸時代の木菟びきの詳しい方法を紹介します。

 木菟牽(ずくびき)は、籤黐(ひごもち-竹ひごにとりもちをつけたもの)を多く作り、大なる竹筒に入れ、宿木(とまりぎ)になすべき樹枝とコノハズクとを携えて山に至れり、樹木茂りて小鳥多く集まるところを選んで設くべし。但しコノハズクを最良とすれどもオヅク(オオコノハズク)[やぶちゃん注:コノハズク属コノハズク Otus scops。後の狩猟対象の鳥の学名は略す。総て本電子化で既出。]にても可なり。その法山麓その他樹木の生茂したる地を撰み、宿木を建て、これにオヅクを繋ぎ、足皮に細き絲を附け、籤黐をその近傍の樹枝に配置し、而して数十歩を隔てて身を叢間に潜匿し、雀笛(ことり笛)を吹けば、たちどころに小鳥は群をなし、ヒヨドリ、カシドリ、シジュウカラ、ホオジロ、ヒタキ、アカハラ、アトリ、メジロ、ウグイスの類皆来たりてオヅクを取り囲み、喃喃[やぶちゃん注:「なんなん」で「口数が多く、喋り続けるさま。]喧叫す。その状夜間の恨みを報いんとするものの如し。この時猟者は絲を牽き適宜に緩急をなすときはオヅクは宿木の揺動に驚き、羽翼を張り目を開き、頗る恐怖の態をなす。是に於いて諸鳥は愈(いよいよ)之を侮り狂へる如く酔へるが如く、オヅクの傍に飛翔して終には黐にかかるものなり。之を捕へ又処を転じて前法の如くして捕ふ可[やぶちゃん注:べし。]。但し竹宿木[やぶちゃん注:「たけやどりぎ」か。竹作りの仮小屋であろう。]を造り、篠、小枝等を以てオヅクの周辺を囲い、絲を宿木に結びつけ之を牽けばオヅクその篠中に隠れ、之を緩めれば、オヅク篠上に顕出するよう装置し、猟者そのところを離れ絲を以てオヅクを篠中より出没せしむれば諸鳥はオヅクを侮翫[やぶちゃん注:「ぶがん」。侮(あなど)り馬鹿にすること。この場合の「翫」も「あなどる」の意。]する殊に甚だしくして多く黐にかかるものなり。

   《引用終了》

「人、之れを賞す」この謂い方は気に食わぬ。眼を縫われた哀れなミミヅクを褒めるとなら、お門違い、そうした卑劣で残酷な「木菟(づく)びき」をする鳥師を称賛などするのも、遙かにおぞましい。

「周伯溫」東洋文庫の注に『周伯琦(はくき)。元の人。官は参知政事。博学で文章をよくした。著に『説文(せつもん)字源』『六書正譌(せいぎ)』などがある』とある。

「觜」「廣漢和辭典」には確かに大きな一番目の最初に『けづの。みみづくの頭上にあるけづの』として、「説文」を引き、『觜、鴟舊[やぶちゃん注:二字で「鴟鵂」に同じく「ミミズク」のこと。]頭上角觜也』とある。大きな二番目で『くちばし。くちさき』とし、「廣韻」から、『觜、喙也』と引く。

「喙(くちばし)」「廣漢和辭典」では、の㋐で『口。くちさき』、㋑で『獣の口』、㋒でやっと『鳥のくちばし』する(「喙」(音「クワイ(カイ)」)の字は「猪の口」の意を意味するものである)。但し、実は良安は本書で「くちばし」とルビしたり、その意味で引用したり、使用したりする場合に、有意に「啄」の字に誤記しているのを何度も経験しているので注意されたい。

」「廣漢和辭典」に不載中文サイトに最初から番号が振られた順に「識」・「藏」・「口;鳥嘴」・「石針」と意義が記されてあり、三番目に「鳥のくちばし」の意が示されてある。]

2019/01/24

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(9) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(3)

 《原文》

Kappanotokuri

[やぶちゃん注:途中に挿入される『河童ノ德利 寶曆現來集卷廿一ヨリ』の挿絵をここに掲げておく。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して示した。]

 【和尚慈悲】東京近傍ニ於テハ武藏北足立郡志木町、舊稱ヲ館村(タテムラ)ト稱スル地ニ於テ、引又(ヒキマタ)川ノ河童寶幢院ノ飼馬ヲ引カントシテ失敗ス。馬ノ綱ニ搦メラレテ厩ノ隅ニ倒レ馬ニ蹴ラレテ居リ、和尚ノ顏ヲ見テ手ヲ合ハス故ニ、同ジ誓言ヲサセテ後之ヲ宥ス。此河童モ甲斐飛驒其他ノ同類ノ如ク、翌日ノ夜明ニ大ナル鮒ヲ二枚和尚ノ枕元ニ持來リ、當座ノ謝意ヲ表シタリト云ヘリ〔寓意草上〕。僧侶ニ魚ヲ贈ルガ如キ、無意味ナル因習ニ拘束セラルヽヲ見テモ、河童ガ決シテ新奇ナル妖怪ニ非ザリシヲ察シ得べシ。相模ノ大山街道間角(マカド)川ノ河童ハ、馬ニ對スル惡計露顯シテ打殺サレントセシヲ、間角村ノ三輪堀五郞左衞門ノ先祖、例ノ如ク命乞ヲシテ放還ス。鎌倉時代ノ出來事ナリト傳フ。【德利】【打出小槌】此時ノ禮物モ鱸ガ二本ト酒德利ニシテ、其德利ノ酒ハ酌メドモ盡クルコト無カリシ由。今ハ既ニ空德利トナリ、魚ノ圖ト共ニ永ク家ニ傳ヘタリシヲ、天保二年四月ニ至リ、江戸本所ノ彫物師猪之助ナルモノ、實見シ來タリテ人ニ語ルトイフ〔寶曆現來集廿一〕。【養老酒】其末孫三輪堀啓助君ハ今高坐郡茅ケ崎町ニ居住シ、家寶ノ河童ノ德利ヲ縣ノ民政資料展覽會ニ出品シ、先祖孝行ノ賞トシテ酒ヲ入レテ河童ノ贈リシモノト稱ス。此ハ大正二年ノ傳ナリ〔神奈川縣民政資料小鑑〕。【四十九】東海道ハ駿州ノ吉原ガ未ダ今ノ地ニ移ラザル前、瀧川ノ押出シト稱スル物凄キ落合ノ淵ニ河童四十九匹住ス。【厩ノ柱】或大名此宿ニ一泊シ乘馬ノ足ヲ川水ニ冷サシム。河童其馬ノ尾ヲ搦メテ之ヲ水底ニ引入レントセシガ、馬恐レテ往還マデ馳セ出シ、河童ハ尻尾ニ纏ハレテ引出サレ、土地ノ者之ヲ捕ヘテ厩ノ柱ニ一夜縛リ附ク。此河童ノ謝罪條件ハ不明ナリ。翌日大將立(タイシヤウダテ)ヲサセ之ヲ放ツトアリ〔田子乃古道〕。三河ノ河童ノ話ハ後ニ之ヲ述ブべシ。近江ノ河童ハ犯情異ナレドモ刑罰ハヨク似タリ。【葛ノ葉】此國野洲郡北里村江頭ニテ、或百姓ノ留守宅へ河童亭主ニ化ケ來リテ其妻ト合宿ス。後ニ眞ノ夫還リ爭ヒテ化ケタルコト現ハレ打殺サントセシヲ、色々ト詫言シテ宥シテ貰ヒ、其恩報ジニ德附ケ得サセント、大鮒ヲ二枚ヅツ二日目三日目ニ持來リ、被害者此ガ爲ニ身上良クナレリ。十年ホドノ後、河童來リテ曰ク、近頃ハ新田多クナリ魚ヲ捕ルコト殊ノ外不自由ナリ。モハヤ宥シ給ヘト言ヒ其後ハ持來タラズ〔觀惠交話下〕。【野飼】山城宇治ノ龜ノ茶屋ハ最初ハ幸齋ト云フ百姓ノ家ナリ。或夕馬ヲ川端ニ野飼シテ置キシニ、河童之ヲ水中ニ引入レントシテ綱ヲ幾重ニモ身ニ卷附ケ、惣身ノ力ヲ以テ曳キケレドモ、却ツテ馬ニ曳キ勝タレテ幸齋ガ家ノ厩ニ轉ガリ込ミテ遁グルコトナラズ。【河童怠狀】近所ノ人々モ出合ヒテ打殺サントセシガ、或者仲ニ立チテ幸齋ニ詫言シ、以來此家ノ者ハ申スニ及バズ、宇治中ノ者ニ仇ヲスマジキ由ノ怠狀立(タイジヤウタテ)ヲ、自問自答ノヤウニサセテ宥スト云ヘリ。之ヲ以テ推セバ、元吉原ノ河童ノ大將立ト云フハ此ニ謂フ怠狀立卽チ宣誓ヲ爲サシムルコトナランカ。サテ右ノ宇治川ノ河童モ他國ノ例ト同ジク、其翌朝ヨリ三箇年ノ間每朝未明ニ魚ヲ二ツ三ツヅツ幸齋ガ口へ持來リ置キテ恩報ジヲ爲セシガ、其後ハモハヤ來ラズ。或時幸齋大阪へ下ラントテ夜船ニ乘リ鵜殿ノ邊ヲ過ギシニ、幸齋々々ト喚ブ者アリ。夜中不思議ナリト思ヒツヽ篷ヲ擧ゲテ見レバ、川除(カハヨケ)ノ上ニ五六歳ノ小兒ホドノ者アリ、【河童引越】彼ニ向ヒテ言フニハ、何時ゾヤ命ヲ御宥シアリシ恩ヲ三年ハ報ジ候ヘドモ、宇治邊ニ居リ候テハ水早クテ魚ヲ捕ルコト易カラズ、我身ノ養ヒサヘナリ難ク候故、此處へ住居ヲ換へ候、此ヨリ宇治へハ程遠ク候程ニ心ナラズ無沙汰ニナリ候、モハヤ御宥シ候ヘト斷リヲ言ヒテ川へ入リケルト也〔落穗餘談四〕。【ガタラウ】阿波那賀郡平島村大字赤池ノ庄屋ニ勝瀨某ト云フ者アリ。二百年ホド以前、此家ノ奴僕馬ヲ那珂川ノ滸(ホトリ)ニ飮(ミヅカ)ヒ川端ニ繋ギテ家ニ還ル。【馬駿足】此川ノ河太郞其綱ヲ解キテ身ニ纏ヒ引込マントセシガ、馬ガ駿足ナリシカ却ツテ河童ヲ引摺リテ厩ニ歸ル。人々集リテ殺サントスルヲ、主人制止シテ之ヲ解キ放チ去ラシム。其夜主人ノ夢ニ河太郞來テ言フニハ、命ノ恩ニハ每朝井ノ側ラノ竹棚ニ鮮魚ヲ捧ゲ置キ申スべシ。【刃物ノ忌】但シ刃物ヲ忌メバ決シテ之ヲ棚ニ置キ給フナ云々。ソレヨリ久シク言フ所ノ如クナリシヲ、二三年ノ後新參ノ下女アリテ菜刀ヲソコニ置キ忘レシヨリ、終ニ河童ノ貢物ハエタリ。【水難禁呪】サレド河邊ノ者川ヲ渡リ水ヲ泳グニ、自ラ勝瀨氏ノ子孫ナリト名乘レバ河太郞害ヲ爲スコトナカリシト云ヘリ〔阿州奇事雜話二〕。土佐ニハ予ガ知ル限リニ於テ此話三アリ。其一ハ元祿年中ノ出來事ナリ。長岡郡五臺山ノ麓ナル下田ト云フ所ノ百姓、野飼ノ爲馬ニ三十尋バカリノ繩ヲ附ケテ川ノ岸ニ放シ置キシニ、四邊ニ人ノ居ラヌヲ見スマシ、河童其繩ヲ端ノ方ヨリ身ニ卷キ、殘リ六尺ホドニナリシ時之ヲ川ノ中へ曳ク。最初ハ馬モ之ニ附キテ行キシガ、深ミニナリテ驚キテ跳リ上リ、河童ハ川原ノ上ニ投出サル。百姓等之ヲ發見シ多勢打寄リテ散々打擲シ既ニ殺スバカリナリシヲ、老人タチ先ヅ了簡ヲ爲シ、將來コノ下田村ニ於テ人ニハ勿論牛馬鷄犬ニ至ル迄決シテ害ヲ加ヘヌカト、十分ニ念ヲ押シテ放シ遣リ、【河童ノ祭】其代リニ每年六月十五日ニ河童ノ祭ヲ村ニテ營ムコトニ定メ、愈以テ此地ニハ河童ノ害ヲ見ヌコトヽナレリ〔土州淵岳志〕。河童ヲ祭ルト云フ一段ハ外ノ地方ニハ見エザルモ注意スべキコト也。此ト略同ジ時代ニ、土佐ノ西部幡多郡津大村大字川ノ今城八兵衞方ニ於テモ、川端ニ繫ギ置キシ飼馬同樣ノ厄ニ遭ヘリ。此河童ハ兩三日ノ間厩ノ前ニ繫ギ捨テタル後、以來人馬ヲ傷フべカラザル由ヲ固ク戒メテ川へ放ス。其翌朝ヨリ何人ノスルトモ知ラズ軒ニ釣リタル手水桶ノ鍵ニ每日魚ヲ持來リ引掛ケ置ク者アリ。【鹿ノ角】年月ヲ經テ此鍵損ジ鹿ノ角ヲ以テ之ニ換ヘタルニ、河童ハ性トシテ鹿角ヲ畏ルル故ニ、之ヲ見テ遁ゲ去リシモノカ、其邊ニ魚ヲ棄テヽ行キシマヽ以後其事止ミタリト云フ〔土佐海〕。又吾川郡御疊瀨(ミマセ)村ノ千屋(チヤ)惣之進ガ家ニハ、先代ガ河童ノ命ヲ助ケ還セシ時彼ガ報謝トシテ持來レリト云フ一ノ珍器ヲ傳フ。越後島崎ノ桑原氏ノトハ異ナリ、此ハ皿ノ如キ一物ナリ。【疱瘡除】水難除ノ外ニ疱瘡平癒ノ厭勝(マジナヒ)トモナルト稱シ非常ニ有名ナル物ナリキ〔同上〕。【河童ノ皿】右ノ河童ノ皿ハ些シク我々ガ聞ク所ノ物ト異ナリ、通例皿ト云フハ彼ガ頭ノ頂ノ窪ミノコトナリ。河童ニ取リテハ大切ノ物ナルハ同ジケレド、引放シテ人ニルルコト能ハズ。此窪ミニ水溜レル間ハ強力人ニ數十倍スルコト「サムソン」ノ髮毛ノ如シ。【駒繫木】曾テ肥前佐賀郡ノ三溝(ミツミゾ)ト云フ地ニ於テ、農民其馬ヲ樹ニ繫ギ置キシニ、河童水ヨリ出デ其綱ヲ解キテ身ニ絆(マト)ヒ之ヲ水際マデ引行キケレバ、馬驚キテ大ニ跳ネ、乃チ河童ノ皿ノ水ヲ覆(コボ)ス。河童忽チ力弱リ却ツテ馬ニ引摺ラレテ厩ニ至ル。【厩ノ柱】主之ヲ厩ノ柱ニ繫ギ其由ヲ母ニ語ル。母ハ洗濯ヲシテアリシガ、大ニ罵リテ盥ノ水ヲ河童ニ打掛ケタレバ、其水少シク皿ノ中ニ入リ、河童力ヲ復シテ馬ノ綱ヲ引切リテ逸シ去リ、終ニ片手ヲ失フニモ及バズ、又詫狀モシクハ藥ノ祕傳ノ沙汰ニモ立チ至ラズ〔水虎考略後篇三〕。從ツテ此地方ニハ河童ノ侵害後世ニ至ルマデ中々多カリキ。九州ノ河童ハ一般ニ智巧進ミタリト見エテ、人間ノ逆襲ヲ受ケタリト云フ記錄アマリ多カラザルモ、古キ昔ノ物語トシテハ同種ノ事蹟ヲ傳フルモノナキニ非ズ。【女ノ被害】例ヘバ薩州川邊(カハナベ)郡川邊村大字淸水(キヨミヅ)ノ一部落モ、亦河童トノ約束アリテ水ノ災ニ罹ル者決シテ無シ。昔此村淸水川ノ櫻淵ノ上ニ川邊(カハナベ)家ノ館アリシ時代ニ、河童此家ノ女ヲ引込ミタルコトアリ。【河童頭目】主人大ニ怒リ早速其淵ヲ埋メテ水ヲ涸シ之ヲ退治セントセシカバ、河童ノ頭目閉口シテ謝罪ニ來リ、永ク邑人ニ害ヲ爲スマジキ旨ヲ誓ヒテ漸ク宥サルヽコトヲ得タリシ也〔三國名勝圖會〕。肥後ノ加藤モ小姓ヲ河童ニ取ラレテ大討伐ヲ企テシコトアリ。後段ニ之ヲ述べントス。淸正ホドノ鬼將軍ニ瞰マレテハ勿論河童ハ之ニ楯突クコトノ出來ル者ニ非ザル也。

《訓読》

 【和尚慈悲】東京近傍に於いては、武藏北足立郡志木町、舊稱を館村(たてむら)と稱する地に於いて、引又(ひきまた)川の河童、寶幢院(ほうどうゐん)の飼馬(かひば)を引かんとして、失敗す。馬の綱に搦められて、厩の隅に倒れ、馬に蹴られて居り、和尚の顏を見て手を合はす故に、同じ誓言(せいげん)をさせて後、之れを宥(ゆる)す。此の河童も甲斐・飛驒其の他の同類のごとく、翌日の夜明けに、大なる鮒を二枚、和尚の枕元に持ち來たり、當座の謝意を表したりと云へり〔「寓意草」上〕。僧侶に魚を贈るがごとき、無意味なる因習に拘束せらるゝを見ても、河童が決して新奇なる妖怪に非ざりしを察し得べし。相模の大山街道間角(まかど)川の河童は、馬に對する惡計、露顯して、打ち殺されんとせしを、間角村の三輪堀(みわぼり)五郞左衞門の先祖、例のごとく、命乞ひをして放ち還へす。鎌倉時代の出來事なりと傳ふ。【德利】【打出小槌】此の時の禮物も、鱸(すずき)二本と酒德利(さかどつくり)にして、其の德利(とつくり)、酒は酌(く)めども、盡くること、無かりし由(よし)。今は既に空德利(からどつくり)となり、魚の圖と共に、永く家に傳へたりしを、天保二年四月[やぶちゃん注:一八三二年五月。]に至り、江戸本所の彫物師猪之助(ゐのすけ)なるもの、實見し來たりて人に語るといふ〔「寶曆現來集(ほうれきげんらいしふ)」廿一[やぶちゃん注:冒頭の図を参照。なお、宝暦は一七五一年から一七六四年に相当。]〕。【養老酒】其の末孫(ばつそん)三輪堀啓助君は、今、高坐郡茅ケ崎町に居住し、家寶の河童の德利を縣(けん)の民政資料展覽會に出品し、先祖孝行の賞として、酒を入れて、「河童の贈りしもの」と稱す。此れは大正二年[やぶちゃん注:一九一三年。]の傳なり〔「神奈川縣民政資料小鑑(しやうかん)」〕。【四十九】東海道は駿州の吉原が、未だ今の地に移らざる前、「瀧川の押出(おしだ)し」と稱する、物凄き落合(おちあひ)の淵に、河童、四十九匹、住す。【厩の柱】或る大名、此の宿に一泊し、乘馬の足を川水に冷さしむ。河童、其の馬の尾を搦めて、之れを水底(みなそこ)に引き入れんとせしが、馬、恐れて、往還まで馳せ出だし、河童は、尻尾に纏(まと)はれて引き出だされ、土地の者、之れを捕へて、厩の柱に、一夜、縛り附く。此の河童の謝罪條件は不明なり。翌日、「大將立(たいしやうだて)」をさせ、之れを放つ、とあり〔「田子乃古道」〕。三河の河童の話は、後に之れを述ぶべし。【「葛の葉」。】近江の河童は、犯情、異なれども、刑罰は、よく似たり。此の國、野洲(やす)郡北里村江頭(えがしら)にて、或る百姓の留守宅へ、河童、亭主に化け來たりて、其の妻と合宿(あひやど)す[やぶちゃん注:共寝した。]。後に眞(まこと)の夫、還り、爭ひて、化けたること、現はれ、打ち殺さんとせしを、色々と詫言して宥して貰ひ、其の恩報(おんほう)じに、「德(とく)附け得させん」と、大鮒を二枚づつ、二日目、三日目に持ち來たり、被害者、此れが爲に身上(しんしやう)良くなれり。十年ほどの後、河童、來たりて曰はく、「近頃は新田多くなり、魚を捕ること、殊の外、不自由なり。もはや、宥し給へ」と言ひ、其の後は持ち來たらず〔「觀惠交話(くわんけいこうわ)」下〕。【野飼】山城宇治の「龜の茶屋」は、最初は幸齋(こうさい)と云ふ百姓の家なり。或る夕べ、馬を川端に野飼して置きしに、河童、之れを水中に引き入れんとして、綱を幾重(いくへ)にも身に卷き附け、惣身(そうしん)の力を以つて曳きけれども、却つて馬に曳き勝たれて、幸齋が家の厩に轉がり込みて、遁(に)ぐること、ならず。【河童怠狀(たいじやう)】近所の人々も出で合ひて、打ち殺さんとせしが、或る者、仲に立ちて、幸齋に詫言し、以來、此の家の者は申すに及ばず、宇治中の者に仇(あだ)をすまじき由の「怠狀立(たいじやうたて)」を、自問自答のやうにさせて、宥す、と云へり。之れを以つて推(お)せば、元吉原の河童の「大將立」と云ふは、此(ここ)に謂ふ「怠狀立」、卽ち、宣誓を爲さしむることならんか。さて、右の宇治川の河童も他國の例と同じく、其の翌朝より三箇年の間、每朝、未明に魚を二つ、三つづつ、幸齋が口へ持ち來たり置きて、恩報じを爲せしが、其の後は、もはや、來らず。【河童引越】或る時、幸齋、大阪へ下らんとて、夜船に乘り、鵜殿(うどの)の邊りを過ぎしに、「幸齋々々」と、喚(よ)ぶ者、あり。『夜中、不思議なり』と思ひつゝ、篷(とま)を擧げて見れば、川除(かはよけ)の上に、五、六歳の小兒ほどの者あり、彼に向ひて言ふには、「何時(いつ)ぞや、命を御宥(おゆる)しありし恩を、三年は報じ候へども、宇治邊りに居り候ては、水、早くて、魚を捕ること、易(やす)からず、我が身の養ひさへ、なり難く候故、此處(ここ)へ住居を換へ候、此れより宇治へは程遠く候程に、心ならず、無沙汰(ぶさた)になり候、もはや、御宥し候へ」と斷(ことわ)りを言ひて、川へ入りけるとなり〔「落穗餘談」四〕。【ガタラウ】阿波那賀(なか)郡平島村大字赤池の庄屋に勝瀨某と云ふ者あり。二百年ほど以前、此の家の奴僕(ぬぼく)、馬を那珂川の滸(ほとり)に飮(みづか)ひ、川端に繋ぎて、家に還る。【馬(うま)駿足(しゆんそく)】此の川の河太郞(ガタラウ)、其の綱を解きて、身に纏(まと)ひ引き込まんとせしが、馬が駿足なりしか、却つて河童を引き摺りて、厩に歸る。人々、集りて、殺さんとするを、主人、制止して、之れを解き放ち、去らしむ。其の夜、主人の夢に、河太郞來て言ふには、「命の恩には、每朝、井の側(かたは)らの竹棚(たけだな)に鮮魚を捧げ置き申すべし。【刃物の忌(いみ)】但し、刃物を忌めば、決して、之れを棚に置き給ふな」云々。それより久しく、言ふ所のごとくなりしを、二、三年の後、新參の下女ありて、菜刀(ながたな)[やぶちゃん注:菜切包丁。]をそこに置き忘れしより、終(つひ)に河童の貢物(みつぎもの)はえたり。【水難禁呪】されど、河邊の者、川を渡り、水を泳ぐに、自(おのづか)ら「勝瀨氏の子孫なり」と名乘れば、河太郞、害を爲すことなかりし、と云へり〔「阿州奇事雜話」二〕。土佐には、予は知る限りに於いて、此の話、三(みつつ)あり。其の一(ひとつ)は元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の出來事なり。長岡郡五臺山(ごだいさん)の麓なる、下田と云ふ所の百姓、野飼の爲、馬に三十尋(ひろ)[やぶちゃん注:通常、一尋は六尺(約一メートル八十二センチメートル弱)とされたから、五十四メートル半強となる。]ばかりの繩を附けて、川の岸に放し置きしに、四邊に人の居らぬを見すまし、河童、其の繩を端の方(かた)より身に卷き、殘り六尺ほどになりし時、之れを川の中へ、曳く。最初は、馬も之れに附きて行きしが、深みになりて、驚きて跳(をど)り上り、河童は川原の上に投げ出さる。百姓等(ら)、之れを發見し、多勢、打ち寄りて、散々、打擲(ちやうちやく)[やぶちゃん注:打ち殴り、叩くこと。]し、既に殺すばかりなりしを、老人、たち、先づ、了簡(りようけん)を爲(な)し[やぶちゃん注:許してやり。]、「將來、この下田村に於いて、人には勿論、牛・馬・鷄・犬に至るまで、決して、害を加へぬか」と、十分に念を押して、放し遣り、【河童の祭】其の代りに、每年、六月十五日に「河童の祭」を村にて營むことに定め、愈(いよいよ)以つて、此の地には、河童の害を見ぬことゝなれり〔「土州淵岳志」〕。河童を祭ると云ふ一段は、外の地方には見えざるも[やぶちゃん注:誤り。本電子化の(4)で示した通り、現在の茨城県小美玉市与沢に死んだ河童を祀ったとされる稀有の手接神社が存在する。]、注意すべきことなり。此れと略(ほぼ)同じ時代に、土佐の西部、幡多(はた)郡津大(つだい)村大字川の今城[やぶちゃん注:高知に多い姓では「いまじやう」の可能性が高いか。]八兵衞方に於いても、川端に繫ぎ置きし飼馬、同樣の厄(やく)に遭へり。此の河童は、兩三日(りさうさんにち)[やぶちゃん注:二、三日。]の間、厩の前に繫ぎ捨てたる後、以來、人馬を傷(そこな)ふべからざる由を固く戒めて、川へ放す。其の翌朝より、何人(なんぴと)のするとも知らず、軒(のき)に釣りたる手水桶(てうづをけ)の鍵(かぎ)[やぶちゃん注:河童は金属をも忌むので、この「かぎ」(鉤)は木製でなくてはならない。]に、每日、魚を持ち來たり、引つ掛け置く者、あり。【鹿の角(つの)】年月を經て、此の鍵、損じ、鹿の角を以つて之れに換へたるに、河童は性(しやう)として鹿角(しかづの)を畏るる故に、之れを見て遁げ去りしものか、其の邊りに魚を棄てゝ行きしまゝ、以後、其の事、止みたり、と云ふ〔「土佐海(とさのうみ)」〕。又、吾川(あがは)郡御疊瀨(みませ)村の千屋(ちや)惣之進が家には、先代が河童の命を助け還(かへ)せし時、彼(かれ)が報謝として持ち來たれりと云ふ一(ひとつ)の珍器を傳ふ。越後島崎の桑原氏のと[やぶちゃん注:「(8)」参照。双六の駒状の白黒の小石で血止め・骨接(ほねつぎ)の能力を持っていた。]は異なり、此れは、皿のごとき一物(いちもつ)なり。【疱瘡除(はうさうよけ)】水難除の外に疱瘡平癒の厭勝(まじなひ)ともなると稱し、非常に有名なる物なりき〔同上〕。【河童の皿】右の「河童の皿」は些(すこ)しく我々が聞く所の物と異なり、通例、皿と云ふは、彼(かれ)が頭の頂きの窪みのことなり。河童に取りては大切の物なるは同じけれど、引き放して人に(く)るること、能はず。此の窪みに、水、溜(たま)れる間は、強力(ごうりき)、人に數十倍すること、「サムソン」の髮毛のごとし。【駒繫木(こまつなぎのき)】曾て肥前佐賀郡の三溝(みつみぞ)と云ふ地に於いて、農民、其の馬を樹に繫ぎ置きしに河童、水より出で、其の綱を解きて身に絆(まと)ひ、之れを水際(みづぎは)まで引き行きければ、馬、驚きて大いに跳(は)ね、乃(すなは)ち、河童の皿の水を覆(こぼ)す。河童、忽ち、力(ちから)弱り、却つて馬に引き摺られて、厩に至る。【厩の柱】主(あるじ)、之れを厩の柱に繫ぎ、其の由(よし)を母に語る。母は洗濯をしてありしが、大いに罵(ののし)りて、盥(たらひ)の水を河童に打ち掛けたれば、其の水、少しく皿の中に入り、河童、力を復して、馬の綱を引き切りて、逸(いつ)し去り、終に片手を失ふにも及ばず、又、詫狀もしくは藥の祕傳の沙汰にも立ち至らず〔「水虎考略」後篇三〕。從つて、此の地方には河童の侵害、後世に至るまで、中々、多かりき。九州の河童は一般に、智巧(ちかう)[やぶちゃん注:物事を成す才知に優れていること。]、進みたりと見えて、人間の逆襲を受けたりと云ふ記錄、あまり多からざるも、古き昔の物語としては、同種の事蹟を傳ふるもの、なきに非ず。【女の被害】例へば、薩州川邊(かはなべ)郡川邊村大字淸水(きよみづ)の一部落も、亦(また)、河童との約束ありて水の災(わざはひ)に罹(かか)る者、決して、無し。昔、此の村、淸水川の櫻淵の上の川邊(かはなべ)家の館(たち)ありし時代に、河童、此の家の女を引き込みたることあり。【河童頭目】主人、大いに怒り、早速、其の淵を埋(うづ)めて水を涸し、之れを退治せんとせしかば、河童の頭目、閉口して謝罪に來たり、永く邑人(むらびと)に害を爲すまじき旨を誓ひて、漸(やうや)く、宥さるゝことを得たりしなり〔「三國名勝圖會」〕。肥後の加藤も、小姓を河童に取られて、大討伐を企(くはだ)てしことあり。後段に之れを述べんとす。淸正ほどの鬼將軍に瞰(にら)まれては、勿論、河童は之れに楯突(たてつ)くことの出來る者に非ざるなり。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡志木町、舊稱を館村(たてむら)と稱する地」地名としては現在の埼玉県志木市館(たて)(グーグル・マップ・データ)が残る。

「引又(ひきまた)川」現在の新河岸川、或いは、その支流で先の「館村」の北を流れる柳瀬川の別称であろう。ここ(両河川の分岐点)に引又観音堂(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があり、この辺りは江戸時代には「引又河岸」と呼ばれる水運拠点であった。さらに地図上を調べると、綾瀬川沿いの、の川岸の水の中に「柳瀬川かっぱ流ちゃん」という像があることが判り、画像もある。今もここの河童が人々に親しまれているのは嬉しい。

「寶幢院(ほうどうゐん)」地王山地蔵院宝幢寺。志木市柏町のここに現存する。現在は新義真言宗。祐円上人が建武元(一三三四)年に創建したとも伝えるが、創建年代は不詳。永禄四(一五六一)年に現在地へ移転し、慶安元(一六四八)年には第三代将軍家光から寺領十石の御朱印状を拝領、末寺を三ヶ寺を擁していたとされる。私が非常にお世話になってきている東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「宝幢寺」を参照した。リンク先にはより詳しい寺蹟が記されてある。そこには『この寺には「お地蔵さんとカッパ」という伝説』(志木市教育委員会掲示より)があるとも記されてある。位置的にも「館村」と「引又河岸」との間(後者寄り)に当たる。

「僧侶に魚を贈るがごとき、無意味なる因習に拘束せらるゝを見ても、河童が決して新奇なる妖怪に非ざりしを察し得べし」これが近世以降に創作された比較的新しい噂話であるならば、仏教の殺生禁忌に拘らずに話柄を作ることはよほど迂闊な者でない限り、有り得ず、聴いた者は馬鹿げた嘘の後日談とし、話柄全体を一笑に附して後世へ伝承しないかも知れぬ(そういうオチを確信犯で創るというのは実は信仰を失った我々のような現代人の仕儀ということなのかも知れぬ)。ということは、ここの新河岸川を始めとする河川に古来より河童が棲息していると考えられていたこと、河童が駒引きに失敗し、その罪を許された恩返しに魚を捧げた、という内容の核心部分は、かなり古形に属するものであることを柳田國男は言っているのである。

「相模の大山街道間角(まかど)川」現在の神奈川県茅ケ崎市西久保の北のこの辺り。「門角川」は「間門川」が正しいらしいが、現存しない。この地図の小出川の支流でその左岸に南西方向に並行して流れており、池があったらしい。以上は、ブログ「あなたは読者から著者になる」のエッセイスト佐藤繁氏の「間門川(まかどがわ)の河童伝説《茅ケ崎市西久保》」に拠ったもので、現地の池跡の写真もある。同記事では、以下に記される「河童の德利」のリアル・タイムの追跡談が載る! これはもう、引用させて戴くしかない! だって、凄いリアルなんだもん! 筆者佐藤氏の友達が「三輪堀(みわぼり)五郞左衞門」の後裔なんだもん!(行空けは詰め、改行の一部を繫げ、一部の行頭を一字下げ、一部の記号を代えた)

   《引用開始》

2】伝説の河童徳利はどうなっているのであろうか。

 河童徳利の伝説は、小学校のころより村の人より聞いて知っていた。

西久保の河童徳利の発祥地が、同級生の三堀良一君の家が伝えていることを同君からも聞いた。

 その徳利が、後に茅ケ崎市の展示会に出品されていたのを見た。

ひび割れたごく普通の形の徳利であった。

 その徳利がどこにあるのかと言えば、『茅ケ崎市史』(5・概説編)によれば、静岡の個人の所有となっている。

写真を見ると、口細で細長いウスキーのリザーブのボトルに似ている。

 私が見た河童徳利と現有する静岡の人の所有するものとは全く別物ある。西久保の三堀家から流れ出た河童徳利は、どうなったのであろうか。

 茅ケ崎市役所の文化財保護課で、三堀家のものと静岡の個人所有のものとの違いを聞いたら、

「伝説ですからねえ~」

と、笑っていて相手にしてくれない。

 西久保の河童徳利の伝説は、江戸末期の天保年間から始まったが、その時代にウイスキイーのびんのような徳利を日本では作っていたであろうか。

 伝説の徳利は壊れてしまったとも言われているし、三堀家から流れ出た経過も三堀君に聞いても分からない。

3】西久保の河童徳利伝説の話。

 西久保の河童徳利の元になっている話は、『宝暦現来集』(巻21・近世風俗見聞集に第3集、大正2年図書刊行会編)にあり、天保2年4月、江戸本所に住む彫刻師の猪之助が大山参詣のの時、間門村(西久保)の百姓、三輪堀(後の三堀)五郎左衛門方に立ち寄り、とっくりの絵を見て尋ねたという。

 話の内容を要約すれば

「西久保の小さい川で、河童が馬を引き込む所を大勢で打ち殺そうとした時、三輪堀五郎左衛門が助けたるその夜、河童が礼にとっくりに酒を入れたのを持ってくる。少しずつ残しておけばいつまでも絶えることはないのに、その意を知らない者が残らず飲んでしまった。それ以来、一滴も出なくなってしまった」。

 これは鎌倉時代ころの話という。

 現在に伝えられている話は、昭和の初期、地元の鶴嶺小学校の佐藤万吉先生によるものである。西久保の二人の古老から伝説を聞き取り、「郷土伝説紙芝居河童徳利」としてまとめられている。

 「今は昔、西久保の間門に五郎兵衛というおじいさんがいた。馬の青を引いては仕事に出掛け、夕方、間門川に連れてきてはいたわっていた。

 ある夜、かやの茂みから怪物が躍り出て馬の尻にしがみついた。村の人々が寄ってたかって打ちのめし、生け捕りにした。大木の根元にくくりつけられた怪物は、間門川に古くからすむ河童だった。

 情け深い五郎兵衛さんは、なわを解いてやったのでした。その夜、お礼にとっくりを持ってきた。いくらでも酒は出るが、とっくりのお尻をたたくと出なくなる。

 それからは五郎兵衛は酒びたりの毎日となってしまった。

 ある日のこと、これではいけないと悟った。馬小屋の青はすっかりやせてしまった。とっくりのお尻を、二つ三つたたいたら、もう一滴も出ない。また青と一緒に働く、元の五郎兵衛さんになった」。

 紙芝居として作られたので、元の話とはかなり違って脚色され、教訓化されている。この話が、「間門川の河童伝説」として知られている。河童の話は全国的であり、至る所に残されていて、柳田国男の著作にも西久保の河童の話は出てくる。

   《引用終了》

ああ、この最後の教訓化されたヴァージョンは暗澹となるなぁ。「フジパン」公式サイト内の「民話の部屋」の「河童徳利」は(語り・井上瑤氏/再話・六渡邦昭氏)、これはまた、エンディングが優等生化されており、これもまた「何だかな~」と呟きたくなる代物であった。

「鱸(すずき)」条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。海水魚であるが、春から秋の水温の高い時期は、浸透圧調整能力が高いことから、内湾河口や河川の中・上流域まで、かなり自由に回遊する。個体が現在のように堰やダムのなかった時代には、淀川から琵琶湖に遡上した個体もいたと言われる。現在でも河口から百キロメートル以上溯った利根川でも観察される。私は春三月の戸塚駅そばの柏尾川で、数十匹の多量の三十センチメートル超えた成魚のスズキの群れが水しぶきを上げて遡上するのを見たことがある。

「【打出小槌】」「【養老酒】」という頭書は生ぬるいロマン主義風の、やや誇大広告的なもので、私は気に入らない。

「東海道は駿州の吉原」ウィキの「吉原宿によれば、最初の東海道五十三次第十四番目の宿場であった「吉原宿」は当初、田子の浦湾奧の、現在のJR吉原駅付近にあった(「元吉原」。ここ)が、寛永一六(一六三九)年の高潮により、壊滅的『被害を受けたことから、再発を防ぐため』、『内陸部の現在の富士市依田原』(よだはら)『付近に移転した』(「中吉原」。ここ)。しかし延宝八(一六八〇)年八月六日、また、高潮により、再度、『壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町』(「吉原商店街」。ここ『に移転した。このため原宿吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから』「左富士」と『呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は』一『本の松の木が残るのみである』とある。二年前の秋、私はそこを始めてバスで通った。

「瀧川の押出(おしだ)し」国土地理院地図で「元吉原」の北を西に流れる沼川の右岸の直近に北から合流する滝川があることが判る。グーグル・マップ・データではここで、ここは地図上から見ても、「物凄き落合(おちあひ)の淵」が出来そうであるから、この合流部分を、かく言っているものと私は判断する。

「大將立(たいしやうだて)」不詳だが、柳田が後で推理するように、古くからある詫び状である「怠状(たいじやう)」の訛ったものか、ここでは被害対象者が大名であることから、権威ある「大將」に対して特定の内容を絶対誓約して詫びることと採ってよいであろう。

「野洲(やす)郡北里村江頭(えがしら)」現在の滋賀県近江八幡市江頭町(ちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「德(とく)附け得させん」「経済的に豊かにしてやろう」の意。

「大鮒を二枚づつ、二日目、三日目に持ち來たり、被害者、此れが爲に身上(しんしやう)良くなれり」たった二回の四尾の大きなフナで金持ちになったものとは思われないので、間を省略して述べたものであろう。

『山城宇治の「龜の茶屋」』不詳。この当時、宇治で知られた茶屋らしいが、引用元の「落穗餘談」が不詳(但し、「続国史大系」第九巻の引用書目中に書名は見出せ、国立国会図書館の書誌データにも三巻本とは出る)なので、その時期も特定出来ない。

「幸齋(こうさい)と云ふ百姓の家なり」百姓らしからぬ名であるから、庄屋・名主クラスか。

「怠狀(たいじやう)」古くは、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。「過状(かじょう)」とも言った。後に、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡す文書を指すようになった。「詫び状」。「謝り証文」。

「仇(あだ)」危害。

「鵜殿(うどの)」現在の大阪府高槻鵜殿(グーグル・マップ・データ)。ここの淀川右岸河川敷は「鵜殿の葭(よしはら)」(単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis の群生地)で知られる。

「川除(かはよけ)」人工堤防。

「阿波那賀(なか)郡平島村大字赤池」現在の徳島県阿南市那賀川町西原地区の南部に相当する(グーグル・マップ・データ)。那賀川左岸。

「長岡郡五臺山(ごだいさん)」高知県高知市五台山にある標高百四十六メートルの山。高知市のここ(グーグル・マップ・データ)。

「下田」地名としては見出せないが、五台山の南麓を下田川が流れる。

「河童の祭」上記の下田川を溯った、高知市の隣りの南国市稲生(いなぶ)に、河泊(かはく)神社が現存する。サイト「Web高知」の「稲生のエンコウ祭河泊様の解説によれば、旧暦六月十二日に「エンコウ祭り」が今も行われている。位置はサイトの別ページで、ここ。判り難い方のために。正規のグーグル・マップ・データのこの中央辺りである。サイト「日本伝承大鑑」の「河泊神社」によれば、『この神社の来歴は未詳であるが、かつてこの地にあった円福寺の境内に漂須部(ひょうすべ)明神という社があり、それが改称されて存続したのではないかとも考えられる』(「ひょうすべ」『も河童の異称である)』。『毎年』七『月に河泊祭りがおこなわれており、地元の人も「河泊様(かあくさま)」と呼んで崇敬しているという。祭りでは、近くの小学生による奉納相撲がおこなわれ』る、とある。但し、ここで柳田が言っている「下田」村で行われていたという「河童の祭」と同一のものかどうかは定かではない。

「土佐の西部、幡多(はた)郡津大(つだい)村大字川」現在の高知県四万十市の北部山間で、西土佐橘に四万十川に架かる「津大橋」(グーグル・マップ・データ)を確認出来る。

「河童は性(しやう)として鹿角(しかづの)を畏るる」それが何故なのか? 一説に本邦では古来、神使として鹿が挙げられていたからだともっともらしく書いたものがある。しかしであれば、猪・狐・蛇と挙げたらキリがないが、河童がそれらを嫌うというのは聴かない。都合のいいところだけを採ったいい加減な説だと私は思う。

「吾川(あがは)郡御疊瀨(みませ)村」現在の高知県高知市御畳瀬(みませ)(グーグル・マップ・データ)。瀬戸大橋の内側、浦戸湾に面した海岸地区だが(別に河童は淡水産ばかりではなく、北九州では海棲例の伝承もある)、南端が東流してきた新川川の河口に当たるので、淡水好きならば、ここから上流に棲める。

「疱瘡」天然痘。私のの耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照されたい。

「厭勝(まじなひ)」意味からの当て訓。「あつしよう(あっしょう)」とも読むが、この音も当て読みで、「厭」が「壓(圧)」に通じるところから出た読み方。「えんしよう(えんしょう)」種々の呪(まじな)いによって、対象からの邪気をを抑え鎮め、破ること。

『「サムソン」の髮毛』「サムソン」(ラテン語:Samson)は、「旧約聖書」の「士師(しし)記」十三章から十六章に登場する古代イスラエルの士師(王制以前の古代イスラエル民族の指導者や英雄の総称)の一人で、怪力の持ち主として有名。名前には「太陽の(人)」、「(神に)仕えるもの」という意味があるとされる。ペリシテ人を撃ったイスラエル民族の英雄。サムソンの個人的な英雄物語には、ただ単に、イスラエルとその敵のペリシテ人とのさし迫った闘争の予告が示されているだけではなく、初期のイスラエル人の諸慣習やペリシテ人の生活についてのさまざまな資料が含まれている。彼はペリシテ人の娘との計略的結婚を契機として、多くのペリシテ人を殺し、のち、おそらくペリシテの女であるデリラに欺かれ、奇跡的怪力の源であった髪を切られて囚われの身となったが、やがて、頭髪も伸び、力を回復した彼は、多くのペリシテ人を殺し、自らも死んだとされる。私は小学生の時に見たアメリカ映画「サムソンとデリラ」(Samson
and Delilah
:セシル・B・デミル(Cecil Blount DeMille)監督・一九四九年公開)の彼を演じたヴィクター・マチュア(Victor Mature 一九一三年~一九九九年)のエンディングのシーンが忘れ難い。

「肥前佐賀郡の三溝(みつみぞ)」古地図などから見て、佐賀市内のこの辺広域と思われる(グーグル・マップ・データ)。西に田布瀨川が流れており、拡大して見ると、水路も非常に多いことが判るので、河童が棲むにはもってこいの一帯である。

「薩州川邊(かはなべ)郡川邊村大字淸水(きよみづ)」現在の鹿児島県南九州市川辺町(かわなべちょう)水(きよみず)(グーグル・マップ・データ)。

「淸水川の櫻淵」同地区を東北から南西に貫流している現在の万之瀬(まのせ)川(昭和初期までは上流部は清水川と呼ばれていた)のどこかであることは確か。但し、上流に川辺ダムが出来ているので、流域には変化が起こっている可能性が大きい。この川の途中には「清魂水(せいこんすい)」(グーグル・マップ・データのここ)という名水もあり、河童には住み易そうだ。

「川邊(かはなべ)家」現在の南九州市附近を支配した薩摩平氏の一族。南西直近の川辺町平山には平安末頃に川辺道房が築いたとされる平山城址がある。鎌倉初期の「承久の乱」で川辺氏は没落したが、その後、室町時代に入って島津氏に討伐されるまでは、ここを本拠としたらしいから、この話柄は、史実に基づくなら、その閉区間の中世に設定は出来よう(ここは、なお氏のブログ「なぽのブログ」の「平山城/鹿児島県南九州市」を参考にさせて戴いた)。

「肥後の加藤」「淸正」加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)。史実に則るなら、清正の晩年の出来事なろう。

「瞰(にら)まれては」「俯瞰」の「瞰」で「高い位置から下を見おろす」の意。「にらむ」は柳田國男の当て読みである。]

2019/01/23

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)

 

Kusotobi

 

くそとび  馬糞鷹【俗稱】

      長元坊【同】

【音狂】

      【和名久曾止比】

グハ

 

△按鵟狀似鳶而羽毛疎飛翔不能鷙鳥但攫牛馬枯糞

 或魚物鳥雛食之漢語抄云鵟喜食鼠而大目者是也

 

 

くそとび  馬糞鷹(まぐそだか)【俗稱。】

      長元坊〔(ちやうげんぼう)〕【同。】

【音、「狂」。】

      【和名、「久曾止比」。】

グハ

 

△按ずるに、鵟の狀〔(かたち)〕、鳶に似て、羽毛、疎(あら)く、飛び翔る〔→ては〕鳥を鷙(と)ること、能はず。但〔(ただ)〕、牛馬の枯糞、或いは魚物〔(うをもの)〕・鳥の雛(ひな)を攫(つか)みて、之れを食ふ。「漢語抄」に云はく、『鵟、喜んで鼠を食ひ、而して大目〔(だいもく)〕なり[やぶちゃん注:眼が大きい。]』とは、是れなり。

[やぶちゃん注:種々の点で記載に問題があるものの、直前の「鷸子(つぶり・つぐり)(チョウヒ・ハイイイロチョウヒ)」の注で比較対象として出、現行も「鵟」の漢字を本邦で当てている(中国では「東方鵟」)、タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus に取り敢えず同定する。「糞鳶」という蔑称は恐らくは「鷹狩り」に使えない鷲鷹類であったためかと思われる(但し、後注で出すハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus も含んでいるか、或いはノスリでなく、チョウゲンボウである可能性も充分にあるので注意されたい)ウィキの「ノスリ」によれば、中央シベリア・南シベリア・モンゴル・中国・日本に棲息し、『夏季は亜寒帯や温帯域で繁殖し、冬季は熱帯や温帯への渡りを経て』、『越冬する』。『日本では亜種ノスリ』Buteo japonicus japonicus・『亜種ダイトウノスリ』Buteo japonicus oshiroi(大東諸島固有亜種。但し、絶滅したとされる)・『亜種オガサワラノスリ』Buteo japonicus toyoshimai(小笠原諸島固有亜種)『が生息する。亜種ノスリは、北海道、本州中部以北、四国の山地で繁殖し、繁殖地では留鳥である。この他南西諸島を除く全国に冬鳥として飛来する』。『亜種オガサワラノスリは小笠原諸島に留鳥として周年』、『生息する』。全長五十~六十センチメートルで、翼開長は一メートルから一メートル四十センチメートル。体重は五百~千三百グラム。例によって『オスよりもメスの方が大型になる。背面は褐色、腹面は淡褐色の羽毛に覆われる。喉の羽毛は黒い』。『虹彩は褐色』。『平地から山地の森林に生息する。群れは形成せず、単独もしくはペアで生活する』。『食性は動物食で、昆虫類、節足動物、陸棲の貝類、ミミズ、両生類、爬虫類、鳥類、小型哺乳類等を食べる』。『繁殖期には縄張りを形成する。樹上や断崖の上に木の枝を組み合わせた巣を作り、日本では』五『月に』二~四『個の卵を産む。主にメスが抱卵(雌雄とも抱卵することもある)し、抱卵期間は』三十三~三十五『日。雛は孵化後』五十~五十五『日で飛翔できるようになり、その』四十~五十五『日後に独立する。生後』二~三『年で性成熟する』とある。

 

「くそとび」「糞鳶」であるが、この異名自体が問題で、本邦ではこのノスリの他に、ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus の別名としても広く昔から使われている。さらに面倒臭いことに「鵟」の漢字は「のすり」以外に「よたか」とも読ませるのである。しかし、記載とは食性が全く異なる(ヨタカは動物食であるが、特に昆虫を好み、彼らは口を大きく開けながら飛翔しつつ、そのまま獲物を捕食する飛翔型を得意とする)ので、これはヨタカではない

「長元坊〔(ちやうげんぼう)〕」この和名(漢字表記も同じ)では、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus がいる。ノスリとともに鷹狩りに使えない猛禽類として「糞鳶」の名を冠せらていたようであるウィキの「チョウゲンボウ」によれば(下線太字はやぶちゃん)、『語源は不明だが、吉田金彦は、蜻蛉(トンボ)の方言の一つである「ゲンザンボー」が由来ではないかと提唱している』。『チョウゲンボウが滑空している姿は、下から見るとトンボが飛んでいる姿を彷彿とさせることがあると言われ』、『それゆえ、「鳥ゲンザンボー」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「チョウゲンボウ」という呼称になったと考えられている』。『ユーラシア大陸とアフリカ大陸に広く分布する。寒冷地で繁殖した個体は、冬季に南方へ渡り越冬する。北米には亜種のアメリカチョウゲンボウ American Kestrel 学名』Falco sparverius が広く分布する。小型である』。『日本では、夏季に本州の北部から中部で繁殖する。北海道や四国、九州でも夏季に観察されたことがあり、繁殖している可能性もある。冬季は繁殖地に残る個体と暖地に移動する個体に分かれる。また、日本全国各地に冬鳥として渡来する』。『ハトくらいの大きさで全長』三十~四十センチメートル、翼開長は六十五~八十センチメートルとなり、体重はで百五十グラム、で百九十グラム『程度である。雌の方が大型である。羽毛は赤褐色で黒斑がある。雄の頭と尾は青灰色。雌は褐色で翼の先が尖っている』。『「キィキィキィキィ」と聞こえる声で鳴く』。『農耕地、原野、川原、干拓地、丘陵地帯、山林など低地、低山帯から高山帯までの広い範囲に生息する。単独かつがいで生活する。立ち枯れ木の洞に巣をつくる』。『齧歯類や小型の鳥類、昆虫、ミミズ、カエルなどを捕食する。素早く羽ばたいて、体を斜めにしながらホバリングを行った後』、『急降下して地上で獲物を捕らえることが多いのが特徴。ハヤブサ類だが、飛翔速度は速くない』。しかし、『その視力は紫外線を識別することが可能で、この能力は主食である齧歯類の尿が反射する紫外線を捕捉し、捕食を容易にさせていると推測されている。ハヤブサと異なり、捕らえた獲物は周囲が安全ならばその場で食べる』。『日本では』四~五『月に断崖の横穴や岩棚、樹洞などに小枝を作って営巣するか直接卵を産む。カラス類の古巣を流用することもある。産卵数は』一『腹』四~六『個である。抱卵日数は』二十七~二十九『日で、主に雌が抱卵する。雛は』二十七~三十二『日で巣立つが、親から独立するにはさらに』一『ヶ月以上かかる』。一『年で成熟する』。『近年、市街地でもよく見かけるようになった。これは、獲物となる小鳥類が豊富なこと、天敵が少ないこと、ビルなどの構築物がねぐらや繁殖場である断崖の代わりになっていることなどが理由とされている』とあり、食性の点でノスリとタメ張りの最大有力候補の一鳥である。特に主摂餌対象として鼠を始めとする齧歯類(哺乳綱真主齧上目グリレス大目 Glires 齧歯(ネズミ)目 Rodentia)となると、実はこっちの方が分(ぶ)がいい。特に「漢語抄」「(東洋文庫版の「書名注」に『『楊氏漢語抄』十巻。楊梅(やまもも)大納言顕直撰。源順の『和名抄』の中に多く引用されている書であるが、いまは佚して伝わらない。漢語を和訳したもの。『桑家(そうか)漢語抄』とは別本』とある)の『鵟、喜んで鼠を食ひ』というのはノスリよりチョウゲンボウである。なお、『大目〔(だいもく)〕なり』で張り合うと、ノスリの方が図体がデカい分、チョウゲンボウは分が悪いかとは思う。]

「羽毛、疎(あら)く」ばさばさしていて、如何にもみすぼらしいのは、圧倒的にノスリであると私は思う。チョウゲンボウは、汚れていなければ、翼の赤褐色に黒斑するそれは私は美しいと言ってもよいと思っている。

「飛び翔る〔ては〕鳥を鷙(と)ること、能はず」「る」の送り仮名では続きが悪い。「飛び翔(かけ)ては、鳥を鷙(と)ること、能(あた)はず」で、飛びながら同時に捕食のために他の小鳥を捕獲することは出来ない、の意。ノスリもチョウゲンボウも地上表面の獲物を狙うが、飛びながらの狩りが出来ないなどとは孰れも書いてない。また、孰れも小鳥が摂餌対象の中に入っている。

「魚物〔(うをもの)〕」広義の水産動物類を指していよう。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷸子(つぶり・つぐり) (チョウヒ・ハイイイロチョウヒ)

 

Tuburi

 

つぶり

つぐり

鷸子

    【和名都布利

     俗云都具利】

 

△按鷸子鷂之屬也形色似鳶而小有白彪

白鷸子 狀稍小而頭背灰色有白彪腹白翮本白末黒

 尾灰色有白黑斑彪共造箭羽

於乃宇倍【正字未勘】 鷸子之屬狀似鳶而翮有白彪尾淡赤

 有黑彪

 

 

つぶり

つぐり

鷸子

    【和名、「都布利」。

     俗に云ふ、「都具利」。】

 

△按ずるに、鷸子〔(つぶり)〕は鷂(はいたか)の屬なり。形・色、鳶に似て、小さく、白彪(しらふ)有り。

白鷸子〔(しろつぶり)〕 狀〔(かた)〕ち、稍〔(やや)〕小にして、頭・背、灰色、白彪有り。腹、白く、翮〔(はねくき)〕の本〔(もと)は〕白、末〔(さき)は〕黒。尾〔は〕灰色〔にして〕白黑斑〔(しろくろまだら)〕の彪〔(ふ)〕有り。共に箭羽〔(やばね)〕に造る。

於乃宇倍〔(おのうへ)〕【正字、未だ勘〔(かんが)へず〕。】 鷸子の屬。狀、鳶に似て、翮〔(はねくき)〕に白き彪〔(ふ)〕有り。尾、淡赤〔にして〕、黑き彪、有り。

[やぶちゃん注:幾つかの事項を綜合すると、これは、主文部分はタカ目タカ科チュウヒ属チュウヒ Circus spilonotus ではないかと推定する。属名「キルクス」はラテン語由来のギリシャ語でタカの一種を指すが、これは「circus」(「輪」)の意で、円を描いて飛ぶことに由来している。ウィキの「チュウヒ」によれば、漢字表記は「沢鵟」、和名は『「宙飛」が由来とされているが、実際は低空飛行を得意とし、一方』、『「野擦」が由来とされているノスリ』((タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus)『)『はチュウヒよりも高空を飛翔することが多いため、この両者は名前が入れ替わって記録されているという説がある』。『主な繁殖地は北アメリカ大陸北部やユーラシア大陸北部。冬になると』、『越冬のために南下する』。『日本には越冬のために飛来する冬鳥。かつては北海道や本州北部で繁殖していたが、現在では中部地方・近畿地方・中国地方でも繁殖が確認されている』。オスは全長四十八センチメートル、メスは五十八センチメートルで、他の鷲鷹類と同様に『メスの方が大型になる』(タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus の全長は六十~六十五センチメートルで明らかにトビよりもチュウヒは遙かに小さい)。『体色は地域や個体による変異が大きい』(太字下線やぶちゃん。以下同じ)。『オスは頭部、背面、雨覆、初列風切羽の先端は黒い。腹部の羽毛は白い。尾羽の背面(上尾筒)には白い斑紋がある。メスや幼鳥は全身が褐色の羽毛に覆われる。腹面は淡褐色で褐色の斑紋が入る』。『草原や湿地、ヨシ原等に生息する』。『食性は肉食性で、魚類、両生類、爬虫類、鳥類やその卵、小型哺乳類等を捕食する。地上付近を低空飛行し、獲物を探す』。『ヨシ原等の地上に枯れ草を積み重ねた巣を作り』五~六月に四~六『個の卵を産む。抱卵日数は約』三十五『日で、主にメスが抱卵する。雛は孵化後、約』三十七『日で巣立つ』。『なお、冒頭でチュウヒとノスリの名が入れ替わっている可能性の説がある旨』を述べたが、『一方で』、『以下の理由から』、『それぞれ生態通りの名の可能性も高い。まず』、『チュウヒは、狩りの際にはV字翼で低空を低速で飛行する事が多いが、繁殖期のペアリングの際に中空を舞うように飛行する(宙飛)事が知られている。 一方でノスリは、通常の際にはチュウヒより高空を飛ぶが、狩りの際には野を擦る様に地表すれすれを匍匐飛行して攻撃する(野擦)事が知られている』。『チュウヒは、垂直離着陸可能な唯一の猛禽であるともされている。イギリスのBAE(旧ホーカーシドレー)製の、ハリアーVTOL(垂直離着陸)戦闘爆撃機の名前は、このチュウヒの能力から名づけられたと思われる』とある。チュウヒは高くなく、低空でもない高度を飛ぶ「中飛」かも知れない。

 

「鷂(はいたか)」タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus既に独立項で出た。しかし、面倒なことに(同種は古くは「はしたか」と呼んだ)、ハイタカには「つぶり」の異名があった。これは小学館の「日本国語大辞典」で確認した(なお、「つぶり」は御察しの通り、全くの別種であるカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei の別称ともする)。

「白鷸子〔(しろつぶり)〕」これはタカ目タカ科チュウヒ属ハイイロチュウヒ亜種ハイイロチュウヒ Circus cyaneus cyaneusである(種小名「キュアネウス」は「青色の」の意)。サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「ハイイロチュウヒ」を見ると、体長は♂で四十三センチメートル、♀で五十三センチメートルで、『ヨーロッパ・アジア北部・北アメリカ北部で繁殖し、冬季は南方へ渡る』。『日本では、亜種ハイイロチュウヒ』『が冬鳥として全国に渡来するが』、『局地的で、個体数はチュウヒより少ない。特に雄の成鳥は少ない。平地から山地の草原、農耕地、芦原、干拓地に生息し、翼をV字型に保って、羽ばたきと滑翔(グライディング)を繰り返し、草や葦の上を低く飛ぶことが多い。停空飛翔(ホバリング)もよく行う。主に齧歯類などを捕食するが、小鳥類も捕食する。時に上昇気流にのって高く飛ぶことがあり、そのときは尾を広げている』。『亜種ハイイロチュウヒの他、亜種キタアメリカハイイロチュウヒ』Circus cyaneus hudsonius『の記録がある』とされ、声は『「ピイヨピイヨ」「ケッケッ」などと鳴く』とある。そして、異名として「コシジロタカ」「ヲノウヘ」「オジロ」を掲げられた最後に「シロツブリ」とあるのである。『ハシボソガラス』(スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone)『と同大かやや小さい』。♂の成鳥は『頭部からの上面と顔から胸までが灰色で、体下面は白い。翼下面は外側初列風切が黒く、翼後縁は帯状に灰黒色。それ以外は白いため、飛翔時はコントラストがあり』、『特徴的』で、♀の成鳥は『全体に暗灰褐色で、頭頸部、腹に褐色の縦斑がある。眉斑と頬は白く、顔盤にそって白線がある。風切と尾は灰褐色で、明瞭な暗褐色の横帯が』三~五『本ある。体下面はバフ色で、暗褐色の縦斑がある』。『♀♂とも』に『上尾筒が白色で虹彩が黄色』。幼鳥は♀の『成鳥に酷似するが、上面がより暗色で体下面や下雨覆などは橙色味を帯びる。翼下面の横帯は不明瞭で、虹彩が暗褐色』とある。この記載から見るに、良安が記載しているのはハイイロチョウヒの♂の成鳥ではないかと私は思う。なお、同サイト主もここで「チュウヒ」を「中飛」としておられる。

「於乃宇倍〔(おのうへ)〕」前注参照。ハイイロチュウヒの異名である。ここは大きさと色からみて、ハイイロチュウヒの♀の成鳥ではなかろうか。

「正字、未だ勘〔(かんが)へず」ハイイロチュウヒは上尾筒が白色であることから、この和名はその色を指した「尾上」ではなかろうか(但し、その場合は「をのうへ」になるから、漢字は「於」では誤りとなるから違うか)。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)

 

Tobi

 

とび     鴟【音笞】

【音員】

      【俗云止比】

       阿黎耶【梵書】

ユヱ

 

本綱鴟似鷹而稍小也其尾如舵極善高翔專捉雞雀其

攫物如射

三才圖會云鳶鳴則將風朝鳴卽大雨暮鳴卽小雨

酉陽續集云相傳鴟不飮泉及井水惟遇雨濡翮得水

△按鴟狀似鷹而赤黃色羽毛婆娑而尾如披扇其尾羽

 亦造箭羽名之礒鷲羽最下品也脚灰青色爪黑風吹

 則高飛舞毎捉鳥雛猫兒等或攫人所提擕魚物豆腐

 等總鳶鴉有害無益而多有之鳥爲人所憎也然俗傳

 曰愛宕之鳶熊野之烏以爲神使未知其據也鳴聲如

 曰比伊與呂與呂朝鳴卽雨暮鳴即晴【三才圖會之異】

                  仲正

  夫木鳶のゐる井杭の柳なはへしてめくみにけりな春を忘れす

 或書云天人熊命化成三軍幡而後神武天皇與長髓

 彦戰不勝于時金色鳶飛來止皇弓弭狀如流電光由

 敵軍皆迷眩天皇悅問何神也奏曰奉勅 天照大神

 化鳶來吾住此國護軍戰業又問曰欲住何處卽奏曰

 山背國怨兒山可住仍住其山領天狗神【雖小説附會記之】

 

 

とび     鴟〔(し)〕【音、「笞〔(シ)〕」。】

【音、「員」。】

      【俗に云ふ、「止比」。】

       阿黎耶〔(あれいや)〕【梵書。】

ユヱン

 

「本綱」、鴟は鷹に似て、稍〔(やや)〕小なり。其の尾、舵(かぢ)のごとし。極めて善く高く翔〔(か)〕ける。專ら雞〔(にはとり)〕・雀を捉ふる。其の物を攫(つか)むこと、射(ゆみゐる[やぶちゃん注:ママ。])がごとし。

「三才圖會」に云はく、『鳶、鳴くときは、則ち、將に風(かぜふ)かんとす。朝、鳴くは、卽ち、大雨、ふる。暮れに鳴くときは、卽、小雨、ふる』〔と〕。

「酉陽續集」に云はく、『相ひ傳ふ、鴟、泉及び井の水を飮まず、惟だ雨に遇ひて、翮〔(つばさ)〕を濡らし、水〔を〕飮〔むこと〕を得』〔と〕。

△按ずるに、鴟、狀〔(かたち)〕、鷹に似て赤黃色、羽毛、婆娑(ばしや)として、尾、扇を披〔(ひら)〕くがごとし。其の尾羽〔も〕亦、箭羽〔(やばね)〕に造り、之れを「礒鷲羽(いそわしの(は)」と名づく。〔しかれども〕最も下品なり。脚、灰青色、爪、黑し。風、吹けば、則ち、高く飛び舞ふ。毎〔(つね)〕に鳥の雛(ひな)・猫の兒〔(こ)〕等〔(など)〕を捉(と)る。或いは、人、提(ひつさ)げ擕(たづさ)へる所の魚物〔(うをもの)〕・豆腐等〔(など)〕を攫(つか)む。總(すべ)て鳶・鴉は、害、有りて、益、無し。而(しか)も、多く、之の鳥、有り。人の爲めに、憎(にく)まる[やぶちゃん注:ママ。]所(〔とこ〕ろ)なり。然るに、俗傳に曰はく、「愛宕(あたご)の鳶」・「熊野の烏」、以つて神使と爲す。未だ、其の據〔(よるところ)〕を知らざるなり。鳴く聲、「比伊與呂與呂(ひいよろよろ)」と曰ふがごとし。朝、鳴けば、卽ち、雨、ふり、暮、鳴けば、即ち、晴る【「三才圖會」のと少し異〔なれり〕。】。

                  仲正

 「夫木」鳶のゐる井杭(ゐぐひ)の柳なばへして

        めぐみにけりな春を忘れず

 或る書に云はく、『天人熊命(〔あま〕の〔ひとくま〕のみこと)、化〔(け)〕して、「三軍(〔みむろ)〕の幡〔(はた)〕」と成る。而して後〔(のち)〕、神武天皇、長髓彦(〔なが〕すね〔ひこ〕)と戰ひて、勝たず。時に、金色の鳶、飛び來たりて、皇〔(わう)〕の弓弭(つのゆみ)[やぶちゃん注:通常は「弭」一字で「ゆはず」と読む。弓の両端の弦をかけるところ。ここは無論、その上に上げた部分。]に止まり、狀〔(かたち)〕、流〔るる〕電光〔(いなびかり)〕のごとし。由〔(より)〕て、敵軍、皆、迷-眩〔(めくら)み〕、天皇、悅びて問〔(のたま)〕はく、「何れの神や」〔と〕。奏して曰はく、「天照大神〔より〕勅を奉り、鳶に化して來たる。吾、此の國に住みて、軍戰の業(わざ)を護〔(まも)〕らん」〔と〕。又、問〔(のたま)ひ〕て曰はく、「何くの處に住まんと欲す」〔と〕。卽ち、奏して曰はく、「山背國〔(やましろのくに)〕怨兒(あたごの)山に住むべし」と。仍りて、其の山に住む。天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむ』〔と〕【小説と雖も、附會〔なれども〕、之〔(ここ)〕に記す。】。

[やぶちゃん注:声も姿も小さな時から私のお気に入りの「トンビ」、タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus。属名の「ミルウス」は「猛禽」の意のラテン語で、和名は、一説では「遠く高く飛ぶ」の意の古語「遠(とほ)く沖(ひひ)る」(とおくひいる:「沖」(「冲」とも書く)は「広々とした海や田畑・野原の遠い所」の転訛とも言う。)ウィキの「トビ」より引く。『ほとんど羽ばたかずに尾羽で巧みに舵をとり、上昇気流に乗って輪を描きながら上空へ舞い上がる様や、「ピーヒョロロロロ」』(リンク先に音声データがあるが、雑音が多い)『という鳴き声はよく知られており、日本ではもっとも身近な猛禽類である』(本邦では全国に分布する)。『タカ科の中では比較的大型であり、全長は』六十~六十五センチメートル『ほどで、カラスより一回り大きい。翼開長は』一メートル五十から一メートル六十センチメートル『ほどになる。体色は褐色と白のまだら模様で、眼の周囲が黒褐色になっている。地上や樹上にいるときは尾羽の中央部が三角形に切れ込んでいるが、飛んでいるときは尾羽の先端が真っ直ぐに揃う個体もいる。また、飛んでいる時は翼下面の先端近くに白い模様が見える』。『主に上昇気流を利用して輪を描くように滑空し、羽ばたくことは少ない。視力が非常に優れていると言われ、上空を飛翔しながら餌を探し、餌を見つけると』、『その場所に急降下して捕らえる』。『飛翔中、カラスと争う光景をよく見かけるが、これは、トビとカラスは食物が似ており』、『競合関係にあるためと考えられている。特にカラスは近くにトビがいるだけで集団でちょっかいを出したり、追い出したりすることもある』。『郊外に生息する個体の餌は主に動物の死骸やカエル、トカゲ、ネズミ、ヘビ、魚などの小動物を捕食する。都市部では生ゴミなども食べ、公園などで弁当の中身をさらうこともある』。『餌を確保しやすい場所や上昇気流の発生しやすい場所では』、『多くの個体が飛ぶ姿が見られることがあるが、編隊飛行を行うことは少ない。ねぐらなどでは集団で群れを作って寝ることもある。海沿いに生息するものは、カモメの群れに混じって餌を取り合うこともある』。『通常、樹上に営巣するが、まれに断崖の地上に営巣することもある』。『ユーラシア大陸からアフリカ大陸、オーストラリアにかけて広く分布しているが、寒冷地のものは冬には暖地に移動する。生息地は高山から都市部までほとんど場所を選ばず、漁港の周辺などは特に生息数が多い。アフリカ大陸に生息するものは、ニシトビとして別種とする見解もある』全六亜種で、本邦に棲息するそれは、『留鳥で』『中央アジア』『亜種』『で、冬季は南へ渡りを行う』。『警戒心が強いので、人間には近寄らないことが多いのがトビの本来の生態である。しかし、古来から「鳶に油揚げをさらわれる」のことわざがある通り、人間に慣れた場合、隙を狙って人間が手に持っている食べ物などまで飛びかかって奪うことがあり、最近このような事例が増えて問題となっている』。我が家からも近い江ノ島周辺や由比ガ浜などでよく観光客がやられている。『トビは日本においてはごく身近な猛禽であり、大柄で目立つ上、その鳴き声がよく響くことから親しまれている』。『他方、他のタカ類に比べ、残飯や死骸をあさるなど狩猟に頼らない面があることから、勇猛な鳥との印象が少なく、いわばタカ類の中では一段低い印象もある。ことわざの「鳶が鷹を産む」はこのような印象に基づき、平凡な親から優れた子が生まれることをこう言う』。『トビに関する日本の伝説としては、『日本書紀』の金鵄がある。金色のトビが神武天皇の前に降り立ち、その身から発する光で長髄彦率いる敵軍の目を眩ませ、神武天皇の軍勢に勝利をもたらしたという伝説である』(本文にある話)。以下、「トビに関係する語」の項。

   《引用開始》

・鳶色(トビの羽の色に似た暗い茶褐色)

・鳶職(建設業において、高所での作業を専門とする職人)

・鳶口(トビのくちばしの様な形状の鉤を棒の先に取り付けた器具)

・鳶が鷹を産む(平凡な親が優れた子が生む事を指すことわざ)

・鳶に油揚げをさらわれる(大切なものや、本来自分のものになる筈のものを突然横取りされ、呆気にとられる様子を指すことわざ)

・鳶も居ずまいから鷹に見える(立ち居振舞いが上品であれば、どんな人間でも立派に見・えるという意味のことわざ)

・とんび(和装用の外套の一種。インバネスコートのケープ部分の形状からこのように呼ばれた)

   《引用終了》

なお、トビ亜科 Milvinaeには世界的に見ると、トビ属 Milvus の他に、ハバシトビ属 Harpagus(系統的には別系統で、より基底群に近い種とされる)にハバシトビHarpagus bidentatus・モモアカトビHarpagus diodon・アカトビMilvus milvus、ハリアストゥル属 Haliastur にフエナキトビHaliastur sphenurus・シロガシラトビHaliastur indus 等がおり、また、別種ながら、ノスリ亜科 Buteoninae Rostrhamus 属のタニシトビ Rostrhamus sociabilis Helicolestes 属にハシボソトビ Helicolestes hamatus、ムシクイトビ属 Ictinia のミシシッピートビ Ictinia mississippiensis・ムシクイトビIctinia plumbea 等の和名に「トビ」がつく

 

「阿黎耶〔(あれいや)〕」東洋文庫訳は『ありや』と振るが、「黎」は呉音が「ライ」、漢音が「レイ」で、中国語原音に近い「リ」の音もあるにはあるが、本邦の古来の読みは圧倒的に「レイ」であり、二〇一二年科学書院刊の堀田正敦「近世植物・動物・鉱物図譜集成」の「観文禽譜 索引篇・解篇」でも、「アレイヤ」と読んでいるので、そちらを採用した。

「梵書」この場合は、広義の漢訳したインドの仏典の意。

「射(ゆみゐる)」弓矢を射る。

『「三才圖會」に云はく……」「鳥獸二巻」の「鳶」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(左ページ)。

「酉陽續集」中唐の詩人段成式(八〇三年?~八六三年?)の膨大な随筆「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」(正篇二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の「続集」の「巻八 支動 動植物纂拾遺」にある以下。

   *

世俗相賣、落鴟不飮泉及幷水惟遇南濡翮方得水飮。

   *

「翮〔(つばさ)〕」私の推定訓。を濡らし、水〔を〕飮〔むこと〕を得』〔と〕。

「婆娑(ばしや)」良安のルビ。通常は「ばさ」で一種のオノマトペイアであろう。原義は「舞う人の衣の袖が翻るさま」で、そこから「物の影などが揺れ動くさま」が生まれたが、ここは原義で比喩したと読む。だからこそ「尾、扇を披〔(ひら)〕くがごとし」が生きるからである。

「礒鷲羽(いそわしの(は)」「礒」は「磯」に同じで、餌を確保し易い海岸でよく見かけるから「磯鷲」で、トビの異名である。「やまぐち弓具」のサイト内の「羽根の柄一覧」の一番下を見られたい。このページ、スゴ! 但し、希少になったワシタカ類の実際の羽ではなく、冒頭にもある通り、これらは七面鳥(キジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo)の羽を黒色・茶色に染色して、古式のそれらの鷲・鷹類の羽根に似せて作ったものである(弓道家の中には実際のものを使っていて、飛びが違うなどと自慢しているのを読んだが、何だかな、と思った。弓術の基本精神からしたら、私は数少ないワシタカ類の羽根を使うなんて風上にも置けぬという気がしたのである)。そういった輩の会話を覗くと、デザインとしては磯鷲の方が良いとかのたもうていた。良安先生は、最下級の矢羽と言ってますがね?

「魚物〔(うをもの)〕」広義の水産動物類を指していよう。

「豆腐」硬めに制した豆腐は縄で縛ってぶら下げて運ぶ。私は実際に、岐阜の山の中の妻の父の実家で、そうした強烈に硬くしかも美味い豆腐を食ったことがある。まあ、油揚げの方がトビにとってはよかろうが。

「愛宕(あたご)の鳶」愛宕神社は全国に約九百社ほどあるが、その総本社は京都府京都市右京区嵯峨愛宕町にある愛宕神社(旧称は阿多古神社)。サイト「神使の館」の鳶~トビ() 愛宕社(大豊神社内)と鳶によれば(大豊神社は京都市左京区鹿ヶ谷宮ノ前にある)、総社である愛宕神社は『迦遇土槌命(カグツチノミコト)を主祭神として、広く全国に火伏せ(防火)の神として知られている』。この『大豊神社の末社「愛宕社」には「鳶」の像がある』が、『元来、愛宕神社(本社)の神使は、神社の創建者である和気清麻呂が猪に助けられたとの故事などに因んで、「猪」とされている』。『しかし、この大豊神社では、先代の宮司が境内の末社「愛宕社」に、愛宕山の天狗がかぶる鳶帽子から、鳶を神使として像を建てたとされる』(写真有り。但し、そのキャプションによれば、昭和四七(一九七二)年と恐ろしく新しい)『すなわち、鳶像は、新しい由縁が創られて、それに基づいて建てられた』。『それなら、『愛宕社が防火鎮火にご利益のある社であることに因んで、「火消し衆」のことを「とび」ともいうので、防火を祈って鳶像が奉納された』としても勘弁してもらえるかもしれない』とある。同サイトの「鳶~トビ(2) 神武天皇の金鵄(キンシ~金色の鳶)」には、『神武天皇が東征の折、弓の先に金色の鳶(金鵄)が飛来して勝利をもたらした』とし、福岡県福岡市博多区月隈にある八幡神社の『境内に、「神武天皇」と彫られた石柱上に鳥がとまっている碑があ』り、『この鳥は、日本書紀に載る「金鵄(キンシ)」と呼ばれる「金色の鳶(トビ)」』とあって、『神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)が日向(宮崎県)から東征の途次、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで苦戦していると、金鵄が天皇の弓の上端に飛来し、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして勝利をもたらしたという』。『神武天皇は、その後、大和を平定して橿原(かしはら)で初代天皇として即位されたとされる』。『現在は廃止されているが』、明治二三(一八九〇)年に(引用元は一年誤っている)『制定された軍人の最高位の勲章、「金鵄勲章」(キンシクンショウ)はこの伝承に由来する』とし、『この碑は、皇紀』二千六百『年を記念して昭和』一五(一九四〇)『年に建てられたものと思われる』とはある。しかし中村和夫氏のサイト「鳥のことわざ」の「鳶(トビ)」によれば、「愛宕殿鳶となるれば鳶の心あり」「太郎坊も鳶となりては鳶だけの知惠」という二つの諺が紹介されており、『京都市上嵯峨北部の愛宕山の山頂には愛宕神社があり、雷神を祭られ、防火の神として信仰されている。ここには愛宕太郎坊と云う大天狗に率いられた天狗たちが住んでいるとされた』が、『「愛宕殿」とはこの天狗を指して、これがトビになってしまえば、それなりの心』しか持たない、『つまらぬものなってしまうという意で、いずれもトビを軽蔑している』ともあるのだ。愛宕と鳶の関係は良安の言う(前半は「日本書紀」の記載に基づく)の俗伝に基づくとは考えられるが、「金鵄」がトビに同定比定されて種としてのトビが「愛宕の神の使い」とされるようになったのが、いつの時代からなのかが、よく判らぬ(「とび」という呼称自体(但し、本当に本種に限定していたかどうかは私は怪しいとは思う)は奈良時代に既にある)。江戸時代よりも前の、どこまで溯れるのか、御存じの方は御教授願いたい。

「熊野の烏」日本神話に於いて、神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国橿原への道案内をしたとされる「八咫烏(やたがらす)」がそれで、「導きの神」として信仰され、また、中国神話の影響か、「太陽の化身」ともされるのがルーツ。一般的に「三本足のカラス」として知られ、古くよりその姿絵が伝わる。後は「林禽類 慈烏(からす)(ハシボソガラス)」の「烏は熊野の神使なり」の私の注(但し、ウィキの「八咫烏」の引用)を参照されたい。

「未だ、其の據〔(よるところ)〕を知らざるなり」良安先生、どうもこの手の伝承には触手が動かぬらしい(というか、良安は自身、現実のトビやカラスを、とんでもない害鳥として捉えており、好きでもなかったのであろう。『「神使」などとんでもない!』といった感情的な口吻が珍しく伝わってくる文章となっているのがその証左である)。後の俗伝でさえ、最後の割注で「小説と雖も、附會〔なれども〕之〔(ここ)〕に記す」(下らぬ信ずるに値しない世間話の牽強付会であるけれども、話し序でに書き添えておく)と言っているぐらいだから。

「朝、鳴けば、卽ち、雨、ふり、暮、鳴けば、即ち、晴る【「三才圖會」のと少し異〔なれり〕。】」先に示した、中村和夫氏のサイト「鳥のことわざ」の「鳶(トビ)」によれば、「鳶が空に輪を描けば晴天の兆し」は『各地で広くいわれる民間気象予知の俗説』とされ、「鳶の朝鳴きは雨」、「朝鳶に蓑を着よ、夕鳶に笠をぬげ」は『朝、鳶が鳴くのは雨になるしるし、夕方鳶が鳴くのは晴れになるしるしだということ』で(これが良安のそれ)、「昼鳶は日笠着る、朝鳶は蓑を着る」は『昼間にトビが鳴くのは晴れるしるし、朝鳴くのは雨になるしるし』とある。因みに、このページの冒頭で中村氏は『西洋や中国では古くから意地汚い鳥・物忘れの象徴と悪いイメージで考えられて』おり、『日本でも、ことわざなどに登場する鳶は良いイメージのものは上記以外ほとんどない』とされ、末尾では、『中国の粛宗の皇后は』、『帝にこっそりトビの脳を混ぜた酒を飲ませていたという。この酒を飲むと、長く酔いが覚めず物忘れがひどくなると信じられたようである。この結果、皇后は好きなように帝を操っていたという』。『このことから、鳶は中国では「物忘れの象徴」とされたようだ』とされた後、まさに本書をヤリ玉に挙げられて、『江戸時代の図解入りの百科事典「和漢三才図会」の中でトビについて、こう書かれている。「鳶の尾羽で矢羽を造りこれを磯鷲羽(いそわしは)というが、もっとも下級品である。風が吹けば高く飛び舞い、つねに鳥の雛、猫の児などを捉え、あるいは人が手に持っている魚物や豆腐などを掴む。すべて鳶、鴉は害あって益なく、しかも多くいる鳥で、人に憎まれるものである」と』。『こんなに悪く書かれると、何かかわいそうになる』(私も個人的にはそう思った)。『スカベンチャー(掃除屋)』(scavenger:生物学用語の「腐肉食性動物」のこと)『は嫌われるかも知れぬが、リサイクルシステムの担い手として環境の浄化復元に果たす役割をクールに評価してやりたいものだ』。『なによりも、のどかな、いかにものんびりと独特な鳴き声で、空を舞いやさしい顔つきをした鳶は、きぜわしい今の世の癒しのような気がして、私は好きだ』と擱筆しておられる。私も同感!

「仲正」「夫木」「鳶のゐる井杭(ゐぐひ)の柳なばへしてめぐみにけりな春を忘れず」「仲正」は源仲正(生没年不詳)平安末期の武士で歌人。清和源氏。三河守源頼綱と中納言君(小一条院敦明親王の娘)の子。六位の蔵人より下総、下野の国司を経て、兵庫頭に至った。父より歌才を受け継ぎ、「金葉和歌集」以下の勅撰集に十五首が入集している。しかしこの一首、「日文研」の「和歌データベース」で見ると、「夫木和歌抄」の「巻三 春三」に載るものの、

 そひのゐるゐくひのやなきなはへしてめくみにけりなはるをわすれす

となっている。「そひ」は「とび」ではない。これは「鴗」で「そにどり」、ここでは「そび」と読んで、「翡翠(かわせみ)」(ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis)の別名である。だいたいからして、井戸の目印或いは井桁の柱である杭にとまっている鳥と柳の様子が春らしいという主題からして、トビでは相応しいとは思えぬ(飛んで鳴いているならまだしも)。これは「鳶」ではなく「鴗(そび)」でカワセミの誤りである。ただ、「なはへして」の意味が判らぬ。「名映え」ならば「なはえ」でなくてはいけない。識者の御教授を乞う。

「或る書に云はく」出典不詳。識者の御教授を乞う。なお、ここから全文が後の(四十六年後)大朏東華(おおでとうか:人物不詳)の「斉諧俗談(せいかいぞくだん)」(宝暦八(一七五八)年刊)の「巻之一」の終りの方にある、「愛宕山鳶(あたごやまのとび)」にほぼ丸ごと引用されている。以下に引く(吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。〔 〕は私が読みを補った部分)。

   *

   ○愛宕山鳶(あたごやまのとび)

或書に云。天人熊命(あまのひとくまのみこと)、化(け)して、三軍の幡と成る。その後神武天皇、長髓彦と戰ひて、勝〔(かち)〕たまはず。時に金色の鳶飛來〔(きたり)〕て、天皇の弭〔(ゆはず)〕に止〔(とま)〕る。其かたち流電の如し。因〔(より)〕て敵軍みな迷眩〔(めくらみ)〕す。天皇よろこびたまひて曰〔(のたまはく)〕、いづれの神ぞ。奏して云〔(いはく)〕、「天照大神の勅を奉り、鳶に化〔(け)〕して來〔(きた)〕る。吾此國に住〔(すみ)〕て、軍戰を守らんと、また問〔(とひ)〕たまふは、何くの所に住むと思ふ。奏して云、「山背國怨兒(やましろのくにあたご)の山に住むべし」と。因て、其山に住せしめ、天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむと。

   *

「天人熊命(〔あめ〕の〔ひとくま〕のみこと)」「日本書紀」の「巻第一 神代上」に出る天熊人命(あめのくまひとのみこと)。天照大神の命を受けて、葦原中国の保食神(うけもちいのかみ:女神)の死を確認した人物(この前段で、彼女は月読命(つくよみのみこと)に保食神の支配の様子を見てくるよう命じ、月読が保食神の所へ行くと、彼女は陸を向いて口から米飯を吐き、海を向いて口から魚を吐き、山を向いて口から獣を吐いて、それらを料理して彼を饗応したのだが、月読命はその生み出す様子を見てしまい、「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒って保食神を斬ってしまう。それを聞いた天照大神は怒り、「もう月夜見尊とは会わぬ」と言ったため、太陽と月が昼と夜とに別れて出るようになったとする(所謂、星系運行神話の元))。彼女の遺体の頭頂部から牛馬が生まれ、額の上から粟が、眉の上から繭が、目の中から稗が、腹の中から稲が、陰部からは麦・大豆・小豆が生まれており、彼はこれら総て取って、持ち帰って進上し、天照大神は大いに喜んだとする。所謂、食物起源神話である。

「三軍(〔みむろ)〕の幡〔(はた)〕」「三軍」(さんぐん)は古兵法の先陣・中堅・後拒、または左翼・中軍・右翼を指すが、ここは転じて「全体の軍隊・全軍」の意で、「幡」は上り旗で軍隊のシンボル。しかし、天熊人命がそれに変じたとは「日本書紀」には、ない。

「神武天皇」第一代に数えられる天皇。名は「神日本磐余彦(かんやまといわれひこのみこと)」で「神武」は諡号。「記紀」によれば「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の曾孫、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の子で母は妃玉依姫(たまよりひめ)。日向を出発して瀬戸内海を東進し、難波に上陸したが、長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ,迂回して吉野を経て、大和に攻め入り、遂に大和一帯を平定し、紀元前六六〇年(機械的換算)に大和畝傍橿原宮に都して元旦に即位、「媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)」を立てて皇后とし、百二十七歳で没したと伝えられる。これは「日本書紀」の紀年法の誤りからきたもので、考古学的にみれば、原始社会の段階に於ける大和の一土豪として喧伝されてきた話を、このような形で描いたものであろうとされ、その東征説話も大和朝廷の発展期に於ける皇室の淵源を恣意的に悠遠の彼方に置き、九州と大和との連係の必然性を謳おうとしたものであろうとされる。また、崇神天皇こそが第一代天皇であり、神武天皇はその投影に過ぎないとする説もある(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。以下、この部分に用いられている「日本書紀」の神武記の部分を示す。私は「日本書紀」を所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一四(一九三九)岩波文庫刊黒板勝美訓読 日本書紀を参考にしつつ、一部を読み易く変更した

   *

皇師(みいくさ)[やぶちゃん注:神武天皇。]、遂に長髓彦を擊ちて、連(しきり)に戰へども、取-勝(か)つこと、能(あた)はず。時に忽然(たちまち)に、天(ひ)、陰(し)けて、雨氷(ひさめ)ふる。乃(すなは)ち、金色(こがねいろ)の靈(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び來たりて、皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止まれり。其の鵄(とび)、光り曄-煜(てりかかや)きて、狀(かたち)、流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髓彦が軍卒(いくさびとども)、皆、迷--之(まどまきて)、復(ま)た力(きは)め戰はず。長髓は、是れ、邑(むら)の本(もと)の號(な)なり。因りて亦、以つて人の名と爲す。皇軍(みいくさ)の、鵄(とび)の瑞(みづ)を得るに乃(よ)りて、時の人、仍りて鵄邑(とびのむら)と號(なづ)く。今、鳥見(とみ)と云ふは、是れ、訛れるなり。

   *

「長髓彦(〔なが〕すね〔ひこ〕)」ウィキの「長髄彦より引く。『神武天皇に抵抗した大和の指導者』。『神武天皇に降伏しようとするも、ニギハヤヒ(物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神)に殺されたという』。「古事記」『では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(アビヒコ)という兄弟がいるとされる』。『饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある』。『旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている』。『登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる』。『神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している』。『その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった』。『ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された』とある。

「流〔るる〕電光〔(いなびかり)〕のごとし」東洋文庫訳は『流電のように光りかがやいた』とするが、如何にも生硬で熟れていない。原文そのままの方が遙かに判り易い。訳を見た瞬間、私しゃ、長髄彦が東宝の殺獣兵器メーサー光線車によって撃たれたのかと思いましたワン!

「迷-眩〔(めくら)み〕」この読みは東洋文庫版のそれを援用した。

「軍戰の業(わざ)を護〔(まも)〕らん」「戦さの際に於ける守護神となりましょう」。

 

「山背國〔(やましろのくに)〕」山城国の古称はこう書いた。

「怨兒(あたごの)山」愛宕山。

「天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむ」当山に棲息する天狗らの神・眷属を支配させた。「天狗」という語は中国では「凶事を知らせる流星」を指した。ウィキの「天狗」によれば、本邦に於ける初出は、「日本書紀」の舒明天皇九(六三七)年二月二十三日の条の、『都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻』(みん)『が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」』であるとする。原文は以下。

   *

九年春二月丙辰朔戊寅。大星從東流西。便有音似雷。時人曰。流星之音。亦曰。地雷。於是。僧旻僧曰。非流星。是天狗也。其吠聲似雷耳。

   *

『飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる』とあるから、この良安が引く怪しげな書物は古くても平安中後期より前には溯れないと考えてよかろう。]

2019/01/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(8) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(2)

 《原文》

 先ヅ舊日本ノ北端ヨリ始ムべシ。【山伏】羽後仙北郡神宮寺町ノ花藏院(カザウヰン)神宮密寺ハ八幡宮ノ別當寺ナリ。京ヨリ快絲法師一名ヲ咽(ノド)法印ト云フ山伏下リテ此寺ニ住ム。或時河童ヲ生捕ニシテ嚴シク之ヲ戒メシニ、手ヲ合セ淚ヲ流シテ詫ヲスル故ニ放シ遣ル。其德ニ因ツテ以來此一鄕ニハ決シテ河童ノ災ナシ〔月乃出羽路六〕。此話ニハ馬ハ出デ來ラズ、又何故ニ捕ヘ且ツ戒メラレタルカハ舊記ニハ見エズ。岩代河沼郡ノ繩澤ハ不動川ノ岸ニ在ル村ナリ。昔喜四郞ト云フ農夫、此川ノ盲淵(メクラブチ)ト云フ處ニ於テ馬ヲ引込マントシタル河童ヲ捕ヘシガ、他日再ビ惡戲ヲセザルコトヲ誓ハシメテ一命ヲ宥シ放シタリ。ソレヨリ後ハ村ニ水ノ災ニ死ヌ者一人モ無シト云フ〔新編會津風土記〕。【水死】此邊ニテハ人ノ水ニ死スヲ悉ク河童ノ所業ト考ヘタリシガ如シ。【野飼】越後三島郡桐島村大字島崎ノ農家ニテ、馬ヲ野ニ放シ置キタルニ、例ナラズ馳セ還リテ厩ニ飛ビ込ミ大ニ嘶キケレバ、家ノ者怪シミテ近ヨリ見ルニ、馬槽伏セアリテ口取綱ノ端ヲ其下へ引入レタリ。馬槽ヲ引起セバ河童アリ、馬ノ綱ヲ身ニ卷附ケテ小サクナリテ居ル。【桑原】村ニ桑原嘉右衞門ト云フ剛膽ナル男アリ、之ヲ引捉ヘテ直ニ其腕ヲ拔ク。河童悲シミテ曰ク、命ヲ助ケ腕ヲ返シ給ハルナラバ、今後ハ永ク此里ノ人ヲ取リ申スマジキ上ニ、血止骨接ノ妙術ヲ御傳ヘ申サント。因ツテ其願ヒニ任セテ拔キタル腕ヲ返却シ、桑原ハ勇氣ノ獲物トシテ件ノ妙術ヲ以テ代々ノ家ノ寶ト爲スコトヲ得タリ。【如意石】此ハ藥劑ニハ非ズ、何カ雙六石ノ如キ七八分ノ一物ナリ。金創ノ血ガ止ラズ百計盡キタル際ニ桑原ヲ招ケバ、彼ノ物ヲ懷中シ來タリテ席ニ著クヤ否ヤ血ノ出ヅルコトヲ止ム。多クノ場合ニハ取出シテ示スニモ及バヌ位ナレバ、從ツテ現物ヲ見タリト云フ人モ無シ。此村ノ者ガ其後決シテ河童ニ取ラレザリシハ勿論ノコト也〔越後名寄三十一〕。【ハヾ】信濃上伊那郡ノ天龍川端ニ羽場(ハバ)ト云フ村アリキ。今ノ何村ノ中ナルカ知ラズ。「ハバ」トハ川ノ岸ノ如キ傾斜地ヲ意味スル地名ナリ。天正ノ頃此村ニ柴河内ト稱スル地侍住居ス。【名馬】或時此家祕藏ノ名馬ニ害ヲ加ヘントシタル不心得ノ河童アリ。此モ結局失敗ニ終リ大イニ詫言シテ他所ニ立退キタリト云フ〔小平物語〕。【池】飛驒大野郡淸見村大字池本ノ農家ニテ、或日今ノ鬼淵ト云フ處ノ邊ニ馬ヲ繫ギ置キシニ、暫クシテ其馬一散ニ走リテ家ニ歸ル。【河童赤シ】何故ゾト見レバ馬ノ綱ノ先ニ身體赤キ異樣ノ物、腰ニ其綱ヲ卷附ケタルマヽ引カレ來ル。【ガオロ】大ニ驚キテ之ヲ捉ヘ何物ゾト問ヘバ、我ハ「ガオロ」ト云フ物ナリ。馬ヲ捕ヘントシテ却リテ捕ヘラル。速カニ助ケタマヘ、助ケ給ハヾ其禮トシテ每朝川魚ヲ持來ルべシ。【鐡器ノ忌】但シ其處ニ刄物ヲ置キ給ハヾ我來ルコト能ハズト云フ。此約束ニテ之ヲ赦シテ後、每朝川魚ノ貢ユルコトナカリシガ、或時農夫誤リテ鎌ヲ其處ニ置キケレバソレヨリ其事止ミタリ。其「ガオロ」ノ住ミシ所ヲ鬼淵ト名ヅケ今モ金屬ヲ忌ムト云フ〔日本宗教風俗志補遺〕。【鬼】「ガオロ」ハ河童ノ事ナルニ、此ニテハ之ヲ鬼ト恐レシガ如シ。少々ノ魚ヲ貰フヨリハ寧ロ刄物ヲ置クヲ以テ安全ナリト考ヘシ者アリシヤモ測ラレズ。【葦毛馬】美濃惠那郡付知(ツケチ)町ノ豪農田口氏ノ祖先ハ遠山玄蕃ト云フ武士ナリ。曾テ飼フ所ノ葦毛ノ駒ヲ、夏ノ日川ノ淵ノ邊ニ放シ置キシニ、俄ニ走リテ厩ニ歸リ入ル。下人等出デテ見レバ、一人ノ小兒其馬ノ側ニ踞リ居タリ。ヨク見レバ則チ河童ナリ。水中ヨリ手ヲ延バシテ馬ノ足ヲ摑ミシニ、馬驚キテ一目散ニ馳セ歸リ之ニ引摺ラレシモノト見エタリ。下人等ノ打殺サント云フヲ制止シ、他日重ネテ人畜ヲ害セザルコトヲ約セシメテ玄蕃之ヲ宥ス。其淵ノ名ヲソレヨリ驄馬淵(アシゲノフチ)ト云フ。葦毛ノ馬ガ高名シタル場處ナレバ其名譽ヲ表彰スル爲ノ地名カト思ハル〔濃陽志略〕。口綱ナラバ兎ニ角、馬ノ脚ナラバ直ニ手ヲ放セバ可ナランニ、思ヘバ不細工ナル河童ナリ。シカシ此モ足ハ誤傳ニシテ、他ノ多クノ例ト共ニ手綱ノ端ヲ以テ自縛セシモノカモ知レズ。 

 

《訓読》

 先づ、舊日本の北端より始むべし。【山伏】羽後仙北郡神宮寺町の花藏院(かざうゐん)神宮密寺は八幡宮の別當寺なり。京より、快絲(かいし)法師、一名を咽(のど)法印と云ふ山伏、下りて此の寺に住む。或る時、河童を生け捕りにして、嚴しく之れを戒めしに、手を合せ、淚を流して詫びをする故に、放し遣る。其の德に因つて、以來、此の一鄕には決して河童の災(わざはひ)なし〔「月乃出羽路」六〕。此の話には、馬は出で來らず、又、何故に捕へ、且つ、戒(いまし)められたるかは、舊記には見えず。岩代河沼郡の繩澤は不動川の岸に在る村なり。昔、喜四郞と云ふ農夫、此の川の盲淵(めくらぶち)と云ふ處に於いて馬を引き込まんとしたる河童を捕へしが、他日再び惡戲(いたづら)をせざることを誓はしめて、一命を宥(ゆる)し、放したり。それより後は村に水の災に死ぬ者、一人も無しと云ふ〔「新編會津風土記」〕。【水死】此の邊りにては、人の水に死すを、悉く、河童の所業と考へたりしがごとし。【野飼】越後三島郡桐島村大字島崎の農家にて、馬を野に放し置きたるに、例ならず馳せ還りて、厩(うまや)に飛び込み、大いに嘶(いなな)きければ、家の者、怪しみて、近より見るに、馬槽(うまふね)、伏せありて、口取綱(きちとりなは)の端を其の下へ引き入れたり。馬槽を引き起せば、河童あり、馬の綱を身に卷き附けて、小さくなりて居(を)る。【桑原】村に桑原嘉右衞門と云ふ剛膽(がうたん)なる男あり、之れを引き捉(とら)へて、直(ただち)に、其の腕を、拔く。河童、悲しみて曰はく、「命を助け、腕を返し給はるならば、今後は永く、此の里の人を取り申すまじき上に、血止(ちどめ)・骨接(ほねつぎ)の妙術を御傳へ申さん」と。因つて、其の願ひに任せて、拔きたる腕を返却し、桑原は勇氣の獲物(えもの)として、件(くだん)の妙術を、以つて、代々の家の寶(たから)と爲(な)すことを得たり。【如意石(によいせき)】此れは藥劑には非ず、何か、雙六石(すごろくいし)のごとき、七、八分[やぶちゃん注:二~二・五センチメートル弱。]の一物(いちもつ)なり。金創(きんさう)の、血が止まらず、百計盡きたる際に、桑原を招けば、彼(か)の物を懷中し來たりて、席に著(つ)くや否や、血の出づることを止(とど)む。多くの場合には、取り出だして示すにも及ばぬ位(くらゐ)なれば、從つて、現物を見たりと云ふ人も無し。此の村の者が、其の後(のち)、決して河童に取られざりしは、勿論のことなり〔「越後名寄」三十一〕。【はゞ】信濃上伊那郡の天龍川端に羽場(はば)と云ふ村ありき。今の何村の中なるか知らず。「ハバ」とは川の岸のごとき傾斜地を意味する地名なり。天正[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年)。]の頃、此の村に柴河内と稱する地侍(ぢざむらひ)、住居す。【名馬】或る時、此の家祕藏の名馬に害を加へんとしたる不心得の河童あり。此れも、結局、失敗に終り、大いに詫言(わびごと)して、他所(よそ)に立ち退(の)きたりと云ふ〔「小平物語」〕。【池】飛驒大野郡淸見村大字池本の農家にて、或る日、今の「鬼淵(おにふち)」と云ふ處の邊りに馬を繫ぎ置きしに、暫くして其の馬、一散に走りて、家に歸る。【河童赤し】「何故(なにゆゑ)ぞ」と見れば、馬の綱の先に、身體赤き、異樣の物、腰に其の綱を卷き附けたるまゝ、引かれ來(く)る。【「ガオロ」】大いに驚きて、之れを捉(とら)へ、「何物ぞ」と問へば、『我は「ガオロ」と云ふ物なり。馬を捕(とら)へんとして却りて捕へらる。速かに助けたまへ、助け給はゞ、其の禮として、每朝、川魚を持ち來たるべし。【鐡器の忌(いみ)】但し、其の處に刄物を置き給はゞ、我、來(く)ること能はず」と云ふ。此の約束にて、之れを赦(ゆる)して後(のち)、每朝、川魚の貢(みつぎ)、ゆることなかりしが、或る時、農夫、誤りて、鎌を其處(そこ)に置きければ、それより、其の事、止みたり。其の「ガオロ」の住みし所を「鬼淵」と名づけ、今も金屬を忌むと云ふ〔「日本宗教風俗志」補遺〕。【鬼】「ガオロ」は河童の事なるに、此(ここ)にては之れを鬼と恐れしがごとし。『少々の魚を貰ふよりは、寧(むし)ろ、刄物を置くを以つて安全なり』と考へし者、ありしやも測られず。【葦毛馬(あしげのうま)】美濃惠那郡付知(つけち)町の豪農田口氏の祖先は遠山玄蕃(げんば)と云ふ武士なり。曾つて飼ふ所の葦毛の駒(こま)を、夏の日、川の淵の邊りに放し置きしに、俄かに走りて、厩に歸り入る。下人等、出でて、見れば、一人の小兒、其の馬の側(そば)に踞(うづくま)り居(ゐ)たり。よく見れば、則ち、河童なり。水中より、手を延ばして、馬の足を摑みしに、馬、驚きて、一目散に馳せ歸り、之れに引き摺(ず)られしものと見えたり。下人等の「打ち殺さん」と云ふを、制止し、「他日重ねて人畜を害せざること」を約せしめて、玄蕃、之れを宥(ゆる)す。其の淵の名を、それより「驄馬淵(あしげのふち)」と云ふ。葦毛の馬が高名(こうみやう)したる場處なれば、其の名譽を表彰する爲の地名かと思はる〔「濃陽志略」〕。口綱(くちづな)ならば兎に角、馬の脚ならば、直(ただち)に手を放せば可ならんに、思へば、不細工なる河童なり。しかし、此れも足は誤傳にして、他の多くの例と共に手綱(たづな)の端を以つて自縛せしものかも知れず。

[やぶちゃん注:「羽後仙北郡神宮寺町の花藏院(かざうゐん)神宮密寺」恐らくは、現在の秋田県大仙市神宮寺神宮寺三十三にある八幡神社の近辺か、それを里宮とする雄物川を挟んだ南東に位置する神宮寺岳山頂(神宮寺落貝七)にある嶽六所(だけろくしょ)神社の近くに存在したものと推測される(グーグル・マップ・データ)。「秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム」の「半道寺と神宮寺」には、『神岡町神宮寺は楢岡の莊副川の郷といったところで、神宮寺という村名は、華蔵院という寺の寺号よりきたものという。華蔵院は平鹿郡の八沢木村より移ってきた三輪宗の寺である。(神岡町神宮寺)』とある(『三輪宗』は「三論宗」の誤りかと思う。インド「中観」派の龍樹の「中論」と「十二門論」及び彼の弟子提婆の「百論」を合わせた「三論」を典拠とする仏教宗派。「空」の思想を説き、鳩摩羅什(くまらじゅう)によって中国に伝えられ、隋末・唐初の頃に僧吉蔵が中国十三宗の一つとして完成。日本には推古天皇三三(六二五)年に吉蔵の弟子慧灌(えかん)によって伝えられ、智蔵・道慈が入唐帰朝して南都六宗の一つとなった。実践より思弁的要素が強く、平安時代以後は衰退した。別に「空(くう)宗」「中観宗」とも呼ぶ)。但し、現存しない(少し西南西に離れた神宮寺地区内に曹洞宗宝蔵寺(グーグル・マップ・データ)はあるが、ここではあるまい)。諸記事を見ると、八幡神社境内に付属して模様である。

「快絲(かいし)法師、一名を咽(のど)法印と云ふ山伏」不詳。山伏で法印を名乗る奴は胡散臭い。

「岩代河沼郡の繩澤」現在の福島県耶麻(やま)郡西会津町(まち)睦合(むつあい)縄沢つなざわこう)(グーグル・マップ・データ)と思われる。この南を流れる川が「不動川」であることは確認出来た。次注参照。

「盲淵(めくらぶち)」個人サイト「時空散歩」の「西会津 会津街道散歩 その;上野尻から野澤宿を抜け、束松峠を越え片門に(西会津町縄沢・束松峠)」によって判明。いちは同ページのこの地図の左で、先に示したグーグル・マップ・データの直ぐ東側に当たる。この地図には、この差別地名と非難されかねない「盲淵」が普通に記されてある。「盲淵」の解説には、『道すがら、ガイドの先生より「盲淵」のお話』とあって、『縄沢村の民が不動川の「盲淵」の辺りで馬に水を呑ます。そのとき、何故か』は『知らねど、河童も掬い上げ、胡乱な姿に』、『打ち殺そうとする。が、命乞いを聞き届け、河童を淵に返すと、それ以降水難に遭うことはなくなった、と』。『伝説は伝説でいいのだが、気になったのは、淵で馬に水を呑ませた、という件(くだり)。現在国道は不動川から少し離れたところを進んでいるが、かつての道・街道は、現在よりずっと川寄りの地を通っていた、ということだろう。地図を見ても、両岸に岩壁、間隔の狭い等高線が谷筋に迫る。土木技術が進めば道もできようが、それ以前は、ほとんど沢筋を進む、または大きく尾根を進むしか術(すべ)はない。実際、国道と不動川の間には会津三方道路の痕跡も残るという』とある。

「越後三島郡桐島村大字島崎」現在の新潟県長岡市島崎(グーグル・マップ・データ)。

「桑原嘉右衞門」不詳。ただ、現在、嫌なことや災難を避けようとして唱える呪(まじな)いに「くわばらくわばら」があるが、これは一説に、死後に雷神となったとされる菅原道真の領地であった桑原には落雷がなかったところからこの呪いが出来たとされるのは、かなり知られた話であり、道真が九州の河童を鎮圧したとする伝承との親和性のある姓であり、柳田が頭書でこれを出したのは、それを意識してのことのように私には思われる。

「其の腕を、拔く」この話柄では素手で引き千切ったことになる。河童は一説に通臂であった(左右の手が繋がっている)という話譚もあり、或いは、関節部分で、自切的に部分的或いは全部がすっぽ抜け易いようになっていた可能性が考えられる。なお、次の次の注も参照のこと。

「雙六石(すごろくいし)」平安期に中国から移入された賭博ゲームの「双六」に用いた駒。白黒二種であるが、碁石よりも大きく、かつ厚く上下は平たいのが普通。

『「越後名寄」三十一』ここのところ、柳田國男の図書の巻数には何度も煮え湯を飲まされきたので、用心したところ、頭に当たった。これは「二十九巻」の誤りである。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の「越後名寄」の、ここの「血止」(ちどめ)の見出し部分と、ここそこでは「嘉右衞門」ではなく「喜右衞門」とする)に出る。写本であるが、非常に読み易い字体である。

「信濃上伊那郡の天龍川端に羽場(はば)と云ふ村ありき」「今の何村の中なるか知らず」と言っているが、現在の長野県上伊那郡辰野町大字伊那富羽場である。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

『「ハバ」とは川の岸のごとき傾斜地を意味する地名なり』所持する松永美吉「民俗地名語彙事典」(一九九四年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」版)によれば、「羽場」は『美濃で高地と低地の境というべき傾斜地で、樹木または芝草の生じている所』を意味する地名で、『幅と書くものが多く、高地を幅上、低地を幅下とい』い、『羽場とも書く』。『信濃、越中でも使われる』。『ハバは崖を指すが、濃尾地方およびそれ以東に多い。能美平野周辺の山麓台地のへりにつづく崖地などによく見うけられ、それからずっと東北地方へ連続している』とある。

「柴河内」読み不詳。暫く「しばかわち」(現代仮名遣)と読んでおく。以下の記載からこれが「河内守」由来と思われるからである。サイト「Local History Archive Project 新蕗原拾葉」の「柴氏」に、『伊那十三騎』の『柴氏』とし、その『本拠地』をまさに『辰野町羽場』とする。以下、篠田徳登著「伊那の古城」(昭和三九(一九六四)年から昭和四四(一九六九)年執筆)によれば、『郡記などに依ると、甲州源氏の小笠原が、伊那の地頭になり貞宗の時、貞和年間』(一三四五年~-一三四九年)『(北朝、尊氏のころ)松本の井川に移って信濃の守護となった』。『その貞宗の四男にあたる重次郎というのが、羽場に移り、ここに築城して羽場姓を名のり、代々この地を相続してきたが、弘治二年』(一五五六年)『のころ、武田軍の侵入にあって』、『没落してしまった。そのあとは柴河内守が入っていたが、天正十年』(一五八二)、『織田氏の侵入にあって没収された』。『また、沢の門屋大槻氏方に伝わっていた「大出沢村根元記」によると、(略)この城(羽場城)の北、北丿沢をへだてて柴河内守の居城の跡がある。弘治年中』(一五五五年~一五五七年)『まで、ここに居住していたが、その子孫は保科氏に属し、物頭格となり、五百石を賜り』、『今もそのまま残って居る』(リンク先には以下に詳細な史実が編年で記されてある)。ところが、このサイト、彼と「河童」のことも豊富に資料が示されてあり、「街道物語5 伊那街道」(一九八八年三昧堂刊木村幸治ほか)より、「しくじった河童」という話をまず引用して、『伊那谷を流れくだる天竜川は、名のとおりの暴れ川で、雨期になるとかならず氾濫して川ぞいの家や畑をおし流し、村に多くのわざわいをもたらしたものだった』。『そんな暴れ天竜だが、ところどころには淵もあり、またそれがかえって村びとに不気味を思わせる場所でもあった。天竜川のほとりに、柴河内という一介の百姓がすんでいた。河内は、畑でとれた作物を納屋へ運んだり、市へだしたりするときのために、一匹の馬を飼っていたが、用のないときはたいてい馬は野に遊ばせておいた』。『馬もこころえたもので、河内のおよびがかからないかぎり、かってに野にでて草をはみ、日が暮れるとまた小屋にもどってくるのだった』。『ある日、河内がひと仕事すませて家へもどると、なにやら馬小屋のほうがさわがしい。はて?』 『と河内がいってみると、ふだんはおとなしい馬が興奮してはねている。河内がみると、藁のなかで河童が死んでいた』(「仮死状態」「気絶していた」の意)。『「ははん」河内がとびこんで河童をつかみあげると、河童は目をあけた。が、あとのまつり』で、『「煮てくうぞ、焼いてくうぞ、日干しにして柿の木につるしておくぞ」』と『河内がおどすと、河童は目になみだをためてぺこぺこと頭をさげる。河内は、腹の中で大笑いしながらさんざんおどかしたすえに、河童を天竜川の淵にはなしてやった』。『その後、河内の家の門口に、ときどき魚がおいてあったという』とある。次に「かわらんべ」(「天竜川総合学習館」の「天竜川 川の旅」の「第十三回 懐かしい遊び場羽場下(はばした) 広報誌『かわらんべ』百三十三号掲載分より)として、昭和三十『年代後半、羽場淵辺りは子供たちの遊び場でした』。『戦国時代に築かれた羽場城址が淵直上にあり、その縁に立つ巨木の根元の空洞を秘密基地にしていました。羽場淵に注ぐ北の沢川は、伊那谷最北の田切地形をつくり、旧国道』百五十三『号(三州街道)が渡る煉瓦造りの眼鏡橋を抜けて淵へと行きました』。『この淵は深くて渦を巻き、気をつけないと河童に引き込まれるぞ』、『と親によく言われたものでしたが、昭和』五七(一九八二)年の『災害後の改修工事により、その姿は大きく変わりました。河童伝説(蕗原拾葉「柴太兵衛 河童を捕まえること」)は遠い昔のこととなりました』。『下流の河原では、花崗岩の礫を割って水晶をとり、その大きさや形を自慢し合いました。また、洪水後に出現したワンドに魚がたくさん泳いでいたことを今も鮮明に覚えています』(NPO法人「川の自然と文化研究所」松井一晃氏)とある。最後にサイトの管理人の方の考察として、「小平物語」(柳田の引用元。サイト主によれば小平向右門尉正清入道常慶の著で貞享三(一六八六)年刊とし、何と、同サイト内に読み易くした梗概(?)がに電子化されてある。但し、河童と柴河内の部分は見つけられなかった)『にも柴河内守と河童の物語が収録されているが、「街道物語」の同エピソードはさらに物語調に脚色されている。柴河内守が百姓だったり、河童が死んだ様な状態で見つかったり』というのは、『他にはない要素なので、やはり他地域の同様な河童伝説が混じっているような気がしてならない』。『また羽場柴氏が羽場にいたのは何年までか。保科氏の配下であったので』、天正一八(一五九〇)『年の関東移封=多胡への移住には従ったのではないか?』 その十年後の慶長五(一六〇〇)『年に保科は高遠に復帰するのだが、そのとき柴氏は再び羽場に戻ったのか、それとも高遠城下に屋敷を作ってそこに住まったか』。『これから調査が必要である』とされて、

・河童伝説は関東移封の一五九〇年まで。

・もし、保科高遠復帰後も羽場に戻ったのなら、一六〇〇年以降も候補に。

・一五九〇年以降、羽場の墓守として残った柴一族、または柴氏関係の別系統が羽場に存在したとしたら、彼等の事かもしれない。

・柴河内という名があるが、「河内守」という記録が正確であるとすれば、人物は二名程に絞られる(柴家家系図参照)。

と纏めておられる。もの凄い厳密な考証!!!

「飛驒大野郡淸見村大字池本」現在の岐阜県高山市清見町池本Yahoo!地図)。以下の話は、飛騨の忍者 ぼぼ影ブログ飛騨のかっぺたん飛騨の民話 藤蔵渕(とうぞうぶち)とガオロ 飛騨の民話が、かなり詳しい近くの類話(但し、ここの河童は赤くはない)を紹介されておられるので、必見! 最後に『清見町には、これと同類の伝説として、池本の鬼渕(おにふち)、楢谷の椀貸岩(わんかせいわ)、上小鳥直井彦三郎とガオロ、福寄入り川のカッパ、大原の水屋渕などがあり順にご紹介していきます』とあって、柳田國男が涎を流しそうなラインナップなのだが、『池本の鬼渕』未だはアップされておっれるようだ。因みに、この方のルビで、本文は「おにふち」と清音にした

「ガオロ」私は似非の生物和名表記、学術ぶったカタカナ表記には実は激しい違和感を持つのであるが、ひらがなに直すと、これはどうも迫力を欠くように思われた。向後は河童の異名表記は原則、カタカナとするしかないか。「河郎」の訛りと思ったが、研」妖怪伝承データベースによると、『河童のことをガオロという。キュウリが好きなので、キュウリを食べてすぐに川で遊ぶと、引っ張られるという。ガオロと河童は別のものだともいう。尻の穴から腸などを引っ張り出してしまうともいう』(国学院大学民俗学研究会『民俗採訪』昭和五五(一九八〇)年十月発行から梗概)ともあった。

「鐡器の忌(いみ)」先にも出たが、河童の嫌う物として鉄や金属はよく語られ、他に鹿の角や猿が挙げられる。サイト「不思議チカラ」の「好き嫌いがはっきりしている妖怪・河童(2)金属・猿・鹿の角によれば、『河童が嫌う物のなかでも一番は「金属(金物)」です。金属のなかでも特に鉄を嫌うとされています』。『どうしてかというとこれも諸説あるようなのですが、まず一般的に水に棲む妖怪・妖物は概ね金属を嫌うと言われます。これは世界各地でも共通した話のようで、古代より産鉄(製鉄)は水や燃料の木材を大量に必要とすることから、農耕にとって最も大切である水を汚し森林の消失によって洪水を起こすとされ、金属=鉄と農耕の水や治水とは対立するものと言われています』。『実際に古代から中国や朝鮮半島では、製鉄による伐採で森林が消失していきました。水神は農耕の神ですから、その眷属(けんぞく=その神の配下または関係するモノ・動物)やしもべである水の妖怪や妖物も、鉄などの金属を嫌うということのようです。水神として代表的な龍蛇も鉄を嫌いますし、龍の棲むと言われる泉や池などの水場で鉄製品を水に浸すのは禁忌とされています』。『河童には全国各地に「駒引き伝説」というものがあって、これは馬を水の中に引込もうとする河童を人間がこらしめ、もう決してそういうことはしないという証文を河童が人間に渡すといった話ですが、このとき河童をこらしめるために連れて行くのが金属のたくさんある鍛冶屋だという話があります』。『また河童は人家の戸口にある鋤や鎌、軒下から吊るされた鉤(かぎ)を見て姿を消すとも言われていますから、よほど鉄製品が嫌いなのでしょう。鋤や鎌など、農耕には鉄製品が欠くことのできないものとなりますが、水の妖怪である河童はいつまでたっても鉄が苦手ということのようです』。『鉄などの金属のほかに河童が苦手なものといえば、「猿」と「鹿の角」です』。『江戸中期の百科事典である「和漢三才図』会『」では、河童はサルの類いの未確認動物に分類されているのに、なぜ同類かも知れない猿が嫌いなのでしょうか』。『はっきりとはわかっていませんが、猿を操る「猿曳き(猿回し)」が馬や馬主に祝いを述べて猿を舞わすことから、猿が馬の守り神と考えられ、先ほどの「駒引き伝説」のように水中に馬を引込もうとする河童と対立したという説があります。犬猿の仲ならぬ、河童と猿の仲になったというわけですね。河童はいつも相撲で猿に負けるから嫌いになった、という説もあるようです』。『鹿の角がなぜ嫌いなのかについては、その由来がどうもよくわかりません。鹿は神の使いであり、そのことから鹿の角を苦手とするといった説があるようですが、理由としてはざっくりしすぎてもうひとつです』。『そのほか、瓢箪やヘチマは水の中に引込もうとしてもすぐに浮いてしまうので嫌いです。主に東北地方などの東日本では河童を「みずち」と呼ぶことから』、「日本書紀」の仁徳六十七年(機械的計算では三七九年)の条の『ヒサゴ(瓢=ひょうたん)を水に投げ入れて「ミズチ(蛟)」を退治したという記述がその根拠とされることがありますが』「日本書紀」の『「ミズチ(蛟)」は龍蛇のことで直接的には河童とは関係がないと思われます』。『そのほかにも河童が嫌いな物としては、これを食べれば河童との相撲に勝てるという仏様に供える「仏飯」、盂蘭盆(うらぼん)の門火(かどび)を焚くときに用いる「おがら」という皮を剥いだ麻の茎など、仏教に関わる物も嫌います。人間の「唾」も嫌いで、唾を吐きかけると逃げるとも言われています』とある。本書でもこれらは追々語られることになるので、サイト主には失礼ながら、冒頭を除き、ほぼ全文を引用させて戴いた。問題があれば削除する。

「葦毛馬(あしげのうま)」「葦毛」は馬を区別する最大の指標である毛色の名。栗毛(地色が黒みを帯びた褐色で、鬣(たてがみ)と尾が赤褐色のもの)・青毛(濃い青みを帯びた黒色のもの)・鹿毛(かげ:体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いもの)の毛色に、年齢につれて、白い毛が混じってきたもの。さらに白葦毛・黒葦毛・連銭(れんぜん)葦毛(葦毛に灰色の丸い斑点の混じっているもので、「虎葦毛」「星葦毛」とも呼ぶ)などに分ける。

「美濃惠那郡付知(つけち)町」現在の岐阜県中津川市付知町(グーグル・マップ・データ)。

「遠山玄蕃(げんば)」記載に、戦国から安土桃山時代の美濃国飯羽間城(飯場城)及び苗木城城主であった武将遠山友忠(生年不詳:正室は織田信長の姪)の一族とある。]

さっき見た夢

私は高校国語教師最後の私の、理系クラスの試験の回答用紙を抱えて職員室に戻って来た。
[やぶちゃん注:私の見知らぬ学校である。]

私の出題は変わっていた。論文試験で、その問題は以下であった。
[やぶちゃん注:これは異様に覚えている。]

   *

 ある時空間で、君は、一見、君と全く同じ姿・顔形・音声をした生命体「x」と遭遇した。
 しかし、君が「x」と会話し、観察し、非破壊の諸検査装置を用いて(非破壊であれば、如何なる機器を使用しても構わない)、「x」の体内構造・生態・習性及び思考方法等を可能な限り、観察してみたところ、その結果は総てが、鏡像のような反転を示していることが判明した。体内の脳を含む臓器の総てが、左右反対であり(「内臓逆位」(Situs inversus:サイタス・インヴァーサス)といい、実際の人体の変異として存在する)、それだけでなく、運動も思考方法までも明らかに自分とは反転していることが次々と判ってきた。
 それは言わば、何か存在や観念全体の現象自体が、位相数学で言う「メビウスの帯」(Möbiusband)か「クライン管」(Kleinsche Fläche)のような印象を与えるのである(例えば、我々の外皮と消化管は一続きであることを想起せよ)。
 君はその自分そっくりのしかし鏡像体である生命体「x」を記述して、後世に資料として残したいと考えた。

問題:そうした生命体「x」の存在様態を、最も正確に表現し得ると考える方式で自由に記録をせよ。解説の途中、或いは、総てを、論理式又は数式で表記して構わない(但し、改行せず、五百字以上。五百字に満たないものは採点対象としない)。

   *

見ると、生徒たちは一人残らず、論理式と数式のみで、みっちり回答用紙の裏まで書いている。

それを覗いたそのクラスの担任の物理教師が、「何だか、一杯、書いてますねぇ。」と揶揄した。

私はそれに応えず、しかし『これを私は二週間後の退職までに読み解いて返却出来るだろうか?』と不安に思いながらも、生徒全員が真剣に挑んでくれたことを嬉しく思うのでああった…………

[やぶちゃん注:私は遠い昔、一度だけ、総てを横書で、似非物の論理式を挟んで無謀な授業したことがある。私の好きな三木清「旅について」で、その「授業ノート」も公開している。覚醒した時、そんな昔を思い出していた。]

2019/01/21

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご) (ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))

 Misago

 

みさご   魚鷹 鵰鷄

      雎鳩 沸波

𪀝

      下窟鳥 王雎

      【和名美佐古】

      覺賀鳥【日本紀】

クワァヽ

 

本綱鶚乃鵰類也似鷹而土黃色深目好峙雄雌相得鷙

而有別交則雙翔別則異處能翔水上扇魚令出捕之

食禽經鳩生三子一爲鶚鳩乃此也其尾上白者名白

  後京極

  鶚ゐる汀の風にゆられ來て鳰のうきすは旅ねしてけり

△按雎鳩毎捕魚食之飽則潜置于石間密處而經宿入

 穴食之謂之鶚鮓人知其所在取食

 日本紀云景行天皇至上總從海路渡淡水門聞覺賀

 鳥聲覺賀之字義未詳

――――――――――――――――――――――

天翁 不能捕魚立沙灘上俟魚鷹所得偶墜則拾食

 之

 

 

 

みさご   魚鷹〔(ぎよよう)〕

      鵰鷄〔(てうけい)〕

      雎鳩〔(しよきう)〕

      沸波〔(ひは)〕

【「𪀝」、同じ。】

      下窟鳥〔(かくつてう)〕

      王雎〔(わうしよ)〕

      【和名、「美佐古」。】

      覺賀鳥〔(かくかのとり/みさご)〕【「日本紀」。】

クワァヽ 

 

「本綱」、鶚は乃〔(すなは)〕ち鵰〔(わし)〕の類なり。鷹に似て土黃色、深き目〔にして〕好みて峙〔(そばだ)〕つ。雄雌、相ひ得て、鷙〔(しふ)なれども〕、別、有り。交はるとき、則ち、雙〔(なら)び〕翔〔び〕、別るるときは、則ち、處を異にす。能く水上を翔〔(こうしよう)〕し、魚を扇(あふ)ぎて、出ださしめ、之れを捕へて食ふ。「禽經〔(きんけい)〕」に、『鳩、三子を生む。一〔(いつ)〕は鶚鳩〔(がくきう)〕と爲る』とは、乃ち、此れなり。其の尾の上、白き者を「白〔(はくけつ)〕」と名づく。

                後京極

  鶚〔(みさご)〕ゐる汀〔(なぎさ)〕の風にゆられ來て

     鳰〔(にほ)〕のうきすは旅ねしてけり

△按ずるに、雎鳩〔(みさご)〕は毎〔(つね)〕に魚を捕へて之れを食ふ。飽くときは、則ち、潜〔(ひそか)〕に石間〔(せきかん)〕の密處〔(みつしよ)〕に置きて、宿を經て[やぶちゃん注:何日かしてから。]、穴に入りて、之れを食ふ。之れを「鶚〔(みさご)〕の鮓〔(すし)〕」」と謂ふ。人、其の所在を知りて、取りて食ふ。

「日本紀」に云はく、『景行天皇、上總に至り、海路より淡水門(あはのみなと)を渡り、覺賀(みさご)鳥の聲を聞く云云〔(うんぬん)〕』〔と〕。「覺賀」の字義、未だ詳かならず。

――――――――――――――――――――――

信天翁(あほうどり) 魚を捕ること、能はず。沙-灘〔(さす)[やぶちゃん注:私の「砂洲」の当て読み。]〕の上(ほとり)に立ちて、俟〔(ま)〕つ。魚鷹(みさご)、得る所を、偶(たまたま)墜つるときは、則ち拾(ひろ)いて[やぶちゃん注:ママ。]、之れを食ふ。

 

[やぶちゃん注:タカ目タカ亜目タカ上科ミサゴ科ミサゴ属ミサゴ Pandion haliaetusウィキの「ミサゴ」によれば、『極地を除くほぼ全世界に分布する。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸の亜寒帯から温帯地域とオーストラリアの沿岸部で繁殖し、北方の個体はアフリカ大陸中部以南と南アメリカに渡って越冬する』。『日本では留鳥として全国に分布するが、北日本では冬季に少なく、南西諸島では夏に少ない。西日本では冬季普通に見られる鳥だったが、近年やや数が減少している。北海道ではほとんどの個体が夏鳥として渡来している』。全長は五十四~六十四センチメートル、翼開長は一メートル五十から一メートル八十センチメートル、体重は一・二~二キログラム。『雄雌ほぼ同じ色彩で、背中と翼の上面は黒褐色、腹部と翼の下面は白色で、顔も白く、眼を通って首に達する太い黒褐色の線が走る。後頭部に小さな冠羽がある。嘴は黒く、脚は青灰色』。『タカ科と区別される特徴として、spicule』(スピキュール)『と呼ばれる足の外側にある魚を捕らえるための棘、反転する第』一『趾(猛禽類ではミサゴだけである)、鼻孔の弁、密生し』、『油で耐水された羽毛があげられる』。『主に海岸に生息するが、内陸部の湖沼、広い河川、河口等にも生息する。水面をゆっくりと低空飛行し獲物を探す。春・秋の渡りの季節には長野県などの内陸部を移動する個体が観察される。単独かつがいで生活する』。『食性は肉食性で主に魚類を食べるが、爬虫類、鳥類、貝類を食べることもある。獲物を見つけると』、『素早く翼を羽ばたかせて空中に静止するホバリング飛行を行った後』、『急降下し、水面近くで脚を伸ばし』、『両足で獲物を捕らえる。和名の由来は様々な説があり』、『水を探るが転じたとする説や、獲物を捕らえる時の水音が由来とする説(西日本では水面に突入する音から、本種のことを「ビシャ」、または「ビシャゴ」と呼んでいる地域がある)等がある』。五~七月に『水辺の岩や樹上に木の枝を組んだ巣を作り』、二、三『個の卵を産む。抱卵日数は約』三十五『日。抱卵は主にメスが行い、オスはメスに獲物を運ぶ。雛は孵化後』五十二~五十三『日で巣立ちし、その後』一~二『ヶ月後に親から独立する。成熟するのに』三『年かかる』。『単型のミサゴ科を作り、姉妹群はタカ科 Accipitridae である。合わせてタカ上科 Accipitroidea とすることもある』。『タカ科に含めることもあり、それでも単系統性からは問題ない。しかし、形態、核型、遺伝子距離、化石記録の古さから、科レベルに相当する差異があるとされる』。『タカ科に含める場合、ミサゴ亜科 Pandioninae とし、タカ科の』二『つまたはより多くの亜科の』一『つとする』。『ミサゴ属には』一種 Pandion haliaetus (Linnaeus, 1758) 『のみを置く説と』、Pandion cristatus (Vieillot, 1816) 『を分離する説とがある』。Pandion cristatus『はスラウェシ島以東のオーストラリア区に分布』し、Pandion haliaetus よりも『小型で、渡りはしない』。『日本において、ミサゴは魚を捕るタカとして古来より知られ』、「日本書紀」では『覺賀鳥』と記されているほか、「太平記」・「看聞日記」(かんもんにっき:、室町時代の皇族伏見宮貞成(さだふさ)親王の日記。一部は散逸しているが、応永二三(一四一六)年)から文安五(一四四八)年までの三十三年間に渡る部分が現存する)・「古今著聞集」など、『様々な文献で記述が確認できる』。以下、「ミサゴ鮨」の項。「本草綱目啓蒙」に於いて、『ミサゴは捕らえた魚を貯蔵し、漁が出来ない際にそれを食すという習性が掲載され、貯蔵された魚が自然発酵(腐敗でもある)することによりミサゴ鮨となると伝えられていた。ミサゴ鮨については』、他にも松浦静山の「甲子夜話」、滝澤馬琴の「椿説弓張月」、大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた料理人秋山徳蔵(明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)の「味」(昭和三〇(一九五五)年東西文明社刊・序文・吉川英治)『などにも登場』し、『ミサゴが貯蔵したことにより発酵し、うまみが増した魚を人間が食したのが寿司の起源であると伝承される』が、『この逸話に対して反論者もいる。動物研究家實吉達郎は自著』「動物故事物語」で、『ミサゴにそのような習性もなければ十分な魚を確保する能力もないとし、この話を否定している』。『なお、類似した伝説としては、サルがサルナシなどの果実を巣穴に貯めて「製造した」猿酒や養老の滝がある』と記す。少なくとも、ウィキのこの項を書いた人物は「猿酒や養老の滝」伝承を最後に引っ張る以上、本説を否定しているものと考えられる。どうもこれは現在、肯定派には分(ぶ)が悪そうな気がする。何故かって? そういう保存状態にしたものをどんな鳥類学者も報告していないし、そうした貯蔵場所の実例も語られていない。山の方に遙かに運ぶのを見たという記載がネット上にあったが、これは寧ろ、抱卵しているへ運ぶため、或いは少し大きくなった雛に、餌の味を覚えさせるためと考える方が、私は自然な気がした。私は「みさご鮓」は、ない、と思う。それにさ……いやいや、何より……ミサゴの英名は“Osprey”……今や悪名高き、米軍のVTOL機なんだから、ねぇ…………

「雎鳩〔(しよきう)〕」因みに「詩経」の「周南」には「関雎(かんしょ)」という詩があり、「関」は「関関」の略で、和らいだ鳴き声の意、「雎」は「雎鳩(しょきゅう)」の略で古来、雌雄の仲の良いとされる本種ミサゴで、そこから「関雎」は「夫婦仲が良く、礼儀正しいこと」の謂いとなった。

「沸波〔(ひは)〕」「沸」を「フツ」とするのは慣用音で、呉音も漢音も「ヒ」である。

「下窟鳥〔(かくつてう)〕」「みさご鮓」からの命名っぽい。

「日本紀」「日本書紀」。

「深き目〔にして〕好みて峙〔(そばだ)〕つ」頭部の黒褐色の羽の線色が強いアイライン効果を齎して、眼球を殊更に目立たせ、そのラインに従って、眼が峙つ、強く引き攣ったような強烈さを与えることからの謂いであろう。

「雄雌、相ひ得て、鷙〔(しふ)なれども〕、別、有り」雌雄ともに獰猛な性質を所持しているが、自然、雌雄の別はちゃんとある、の意。

「交はるとき、則ち、雙〔(なら)び〕翔〔び〕、別るるときは、則ち、處を異にす」この謂いだと、交尾をする際には並んで飛びかいながら交尾を行い、それがすむと、別々な塒(ねぐら)へ戻って居所は異にする、としか読めないが、ウィキにあるように、それは事実ではない。

翔〔(こうしよう)〕」高く広くあちこちと飛び翔けること。

「魚を扇(あふ)ぎて、出ださしめ」急降下で水面直下の魚を捕獲する生態から、こう表現した気持ちは確かに腑に落ちる。

「禽經」春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「後京極」「鶚〔(みさご)〕ゐる汀〔(なぎさ)〕の風にゆられ來て鳰〔(にほ)〕のうきすは旅ねしてけり」「後京極」は九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)で、彼の「秋篠月清集」の「巻一 十題百首」で確認した。「鳰〔(にほ)〕」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei「水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照。流石に、良経、いい一首である。

『「日本紀」に云はく……』「日本書紀」景行天皇五十三年(単純換算で紀元一二三年)の十月の条に、

   *

冬十月。至上總國。從海路渡淡水門。是時聞覺賀鳥之聲。欲見其鳥形。尋而出海中。仍得白蛤。於是。膳臣遠祖。名磐鹿六鴈。以蒲爲手繦。白蛤爲膾而進之。故美六鴈臣之功。而賜膳大伴部。

   *

と出る。

「信天翁(あほうどり)」ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus。ロケーションからも名前からもそれしかないが、「山禽類」に附録するのは、お門違いも甚だしいと言わざるを得ないウィキの「アホウドリ」によれば、『信天翁の漢字を音読みにして、「しんてんおう」とも呼ばれる。尖閣諸島の久場島にはこの名にちなんだ「信天山」という山がある。長崎県で古くから呼ばれているオキノタユウ(沖の太夫、沖にすむ大きくて美しい鳥)に改名しようとする動きもある』。『北太平洋に分布』し、『夏季はベーリング海やアラスカ湾、アリューシャン列島周辺で暮らし、冬季になると』、『繁殖のため』、『日本近海への渡りをおこない』、『南下する』。『鳥島と尖閣諸島北小島、南小島でのみ繁殖が確認されていた』。全長は八十四センチメートルから一メートル、翼開長は一メートル九十から二メートル四十センチメートル、体重三・三~五・三キログラム。『全身の羽衣は白い』。『後頭から後頸にかけての羽衣は黄色い』。『尾羽の先端が黒い』。『翼上面の大雨覆の一部、初列風切、次列風切の一部は黒く、三列風切の先端も黒い』。『翼下面の色彩は白いが外縁は黒い』。『嘴は淡赤色で』、『先端は青灰色』、『後肢は淡赤色』・『青灰色で』『水かきの色彩は黒い』。『雛の綿羽は黒や暗褐色、灰色。幼鳥は全身の羽衣が黒褐色や暗褐色で、成長に伴い白色部が大きくなる』。『以前はDiomedea属に分類されていたが、ミトコンドリアDNAのシトクロムbの分子解析からPhoebastria属に分割された』。『種内ではミトコンドリアDNAの分子解析から、鳥島の繁殖個体群のうち』、『大部分を占める系統と、鳥島の一部(約』七%『)と尖閣諸島で繁殖する系統の』二『系統があると推定され』ている。『約』一千『年前の礼文島の遺跡から発掘された本種の骨でも同様の解析を行ったところ、同じ』二『系統が確認されたため』、『少なくとも』一千『年以上前には分化していたと推定されている』。この二『系統の遺伝的距離はアホウドリ科』Diomedeidae『の別属の姉妹種間の遺伝的距離と同程度なため、将来的には別種として分割される可能性もある』。『尖閣諸島で繁殖する系統は手根骨が短いため』、『翼長も短く、鳥島の系統と比較して巣立ちが』二『週間早いとされる』。『海洋に生息』し、『魚類、甲殻類、軟体動物、動物の死骸を食べる』。『集団繁殖地(コロニー)を形成する』。『頸部を伸ばしながら嘴を打ち鳴らして(クラッタリング』:clattering)『求愛する』。『斜面に窪みを掘った巣に』、十~十一月に一個の『卵を産む』。『巣を作るのは、通常、雄の役目であるが、雌が作る様子も確認されている』。『雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は』六十四~六十五日。生後十年『以上で成鳥羽に生え換わる』。『羽毛目的の乱獲、リン資源採取による繁殖地の破壊などにより』、『生息数は激減した』。『和名は』、『人間が接近しても地表での動きが緩怠で、捕殺が容易だったことに由来する』。明治二〇(一八八七)年から『羽毛採取が始まり』、昭和八(一九三三)年に鳥島、諸和二一(一九三六)年に聟島(むこじま)列島が『禁猟区に指定されるまで乱獲は続けられた』、『当初は主に輸出用だったが』、明治四三(一九一〇)年に、『羽毛の貿易が禁止されてからも』、『日本国内での流通目的のために採取され』、実に六百三十万羽ものアホウドリが『捕殺されたと推定されている』。『以前は小笠原諸島・大東諸島・澎湖諸島でも繁殖していたとされるが、繁殖地は壊滅している』。昭和一四(一九三九)年には『残存していた繁殖地である鳥島が噴火し』、昭和二四(一九四九)年の『調査でも発見されなかったため絶滅したと考えられていた』が、昭和二六(一九五一)年に『鳥島で繁殖している個体が再発見された』。その後、一九七六年から『調査や保護活動が再開し』、『繁殖地の整備』や『崩落の危険性が少ない斜面に模型(デコイ)を設置し』て『鳴き声を流す事で新しい繁殖地を形成する試みが進められ』、『繁殖数および繁殖成功率は増加している』現在、特別天然記念物及び国内希少野生動植物種に指定されている。一九九九年に於ける生息数は約千二百羽と推定され、二〇〇六年から二〇〇七年度に於ける繁殖個体数は約二千三百六十羽(鳥島で八十%、尖閣諸島で二十%)と推定されており、二〇一八年の『調査では鳥島集団の総個体数は』五千百六十五『羽と推定され』ている。絶滅危惧 VU)。『鳥島で火山活動が活発化する兆しがあるため、小笠原諸島の聟島に繁殖地を移す計画が』二〇〇六『年から進められている』(その結果的経緯はリンク先を見られたい)。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(7) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(1)

 

《原文》

馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童  明治四十三年ニ出版セシ遠野物語ノ中ニ左ノ如キ一話アリ。【姥子】陸中遠野ノ町ニ近キ小烏瀨(コガラセ)川ノ姥子(ウバコ)淵ノ邊ニ新屋ノ家ト云フ家アリ。【厩】或日馬ヲ淵へ冷シニ行キ馬曳ノ兒ハ外へ遊ビニ行キテアリシ間ニ、河童川ヨリ出デテ其馬ヲ引込マントシ、却ツテ馬ニ引キズラレテ家ノ厩ノ前ニ來リ馬槽ニ覆ハレテアリキ。家ノ者馬槽ノ伏セテアルヲ怪シミ、些シク之ヲモタゲ見ルニ河童ノ手見エタリ。村中ノ者寄集マリ殺サンカ宥サンカト評議セシガ、結局今後ハ村ノ馬ニ惡戲ヲセヌト云フ堅キ約束ヲサセテ之ヲ放シタリ。其河童今ハ村ヲ去リテ相澤ノ瀧壺ニ行キテ住メリ〔以上〕。此ノ話ノ中ニテ新シキ部分ハ河童ノ引キタルハ馬ノ尻尾ニ非ズシテ口綱ナリシコト、及ビ途中ニテ手ヲ切ラレシ代リニ厩ノ口ニ於テ不覺ノ生恥ヲ晒セシコトナリ。【口碑ノ爭】此類ノ話ハ諸國ノ村里ニ何程モ傳ハリ、而モ何レノ村ニ於テモ皆之ヲ我ガ處ノ歷史ナリト信ジ居リ、偶同ジ傳ノ他地方ニ存スルヲ聞ケバ、互ニソレハ我村ノヲ持去リシナラント言フ。多クノ中ニハ旅人ナドガ他國ニテ聞キ歸リテ話シタルヲ、子孫ノ者之ヲ村内某地ノ出來事ナリト誤リタルモ無シトハ言ヒ難ケレド、元來此傳ノ如キハ實ハ夙クヨリ全國ノ共有物タリシナリ。仍テ茲ニハ如何ナル程度ニマデ此話ノ分布シテアルカヲ明白ニセント欲ス。

 

《訓読》

馬に惡戲(いたづら)して失敗したる河童  明治四十三年に出版せし「遠野物語」の中に左のごとき一話あり。【姥子(をばこ)】陸中遠野の町に近き小烏瀨川(こがらせがは)の姥子淵(をばこふち)の邊りに「新屋(しんや)の家」と云ふ家あり。【厩(うまや)】或る日、馬を淵へ冷しに行き、馬曳(うまひき)の兒は外へ遊びに行きてありし間に、河童、川より出でて、其の馬を引き込まんとし、却つて馬に引きずられて、家の厩の前に來たり、馬槽(うまふね)に覆はれてありき。家の者、馬槽の伏せてあるを怪しみ、些(すこ)しく之をもたげ見るに、河童の手、見えたり。村中の者、寄り集まり、「殺さんか、宥(ゆる)さんか」と評議せしが、結局、「今後は村の馬に惡戲をせぬ」と云ふ堅き約束をさせて、之れを放したり。其の河童、今は村を去りて、相澤の瀧壺に行きて、住めり〔以上〕。此の話の中にて新しき部分は、河童の引きたるは馬の尻尾に非ずして口綱(くちづな)なりしこと、及び、途中にて手を切られし代りに、厩の口に於いて不覺の生恥(いきはぢ)を晒(さら)せしことなり。【口碑の爭(あらそひ)】此の類の話は、諸國の村里に何程(いかほど)も傳なり、而も、何れの村に於いても、皆、之れを「我が處の歷史なり」と信じ居り、偶々(たまたま)同じ傳の、他地方に存するを聞けば、互に、「それは我が村のを持ち去りしならん」と言ふ。多くの中には、旅人などが、他國にて聞き歸りて、話したるを、子孫の者、之れを「村内某地の出來事なり」と誤りたるも、無しとは言ひ難(がた)けれど、元來、此の傳のごときは、實は夙(はや)くより、全國の共有物(きよういうぶつ)たりしなり。仍(より)て、茲(ここ)には如何なる程度にまで此の話ノ分布してあるかを明白にせんと欲す。

[やぶちゃん注:「明治四十三年」一九一〇年。「遠野物語」は同年六月十四日に『著者兼發行者』を『柳田國男』として東京の聚精堂より刊行された。本書刊行の四年前。

『「遠野物語」の中に左のごとき一話あり』私は本年元旦に、本ブログ・カテゴリ「柳田國男」で『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版)』の全電子化を終わっている。ここで柳田國男が引いているのは、その「五八」である。

「小烏瀨川(こがらせがは)の姥子淵(をばこふち)」サイト「川の地図」のこちらで位置情報を確認出来る。東方聖地@ ウィキの「カッパ淵もよく、解説や資料提示が後者は豊富である。画像は「遠野物語」の強力な個人サイトである dostoev氏の『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『遠野不思議 第三百九十三話「姥子淵」』がよく、その解説によれば、『この姥子淵には道は無いので、密林とまではいかないけれど、藪を掻き分け進まないと辿り着けない。また湿地帯でもあるので、足元には気を付けないといけない』し、蛇もいるとあり、しかし、『遠野にある河童淵の中において、一番』、『佇まいは美しいかもしれない』と評されておられる。]

2019/01/20

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版)附錄「自由詩のリズムに就て」~靑猫(初版・正規表現版)~完遂

 

  附  錄 

 

[やぶちゃん注:。以上の「附錄」は前の「詩集 靑猫 完」(この注では字配・ポイントは無視した)とあったページの見開き左ページ(ノンブル無し。中央に一行で配されてある。なお、以下の「自由詩のリズムに就て」はノンブルを新たに「1」から起こして振ってある。附録とは言うものの、この標題「附錄」を含めて全五十一ページにも亙る長大な代物である。詩集本文が内表紙を含めて二百二十ページ、その前に扉「序」「凡例」「目次」で二十九ページ分があるから、全部で三百ページ(挿絵四葉を除く)となるから、実に詩集の六分の一がこの「自由詩のリズムに就て」というくだくだしい評論で占められていることになる。 

 

自由詩のリズムに就て 

 

    自由詩のリズム

 歷史の近い頃まで、詩に關する一般の觀念はかうであつた。「詩とは言葉の拍節正しき調律卽ち韻律を踏んだ文章である」と。この觀念から文學に於ける二大形式、「韻文」と「散文」とが相對的に考へられて來た。最近文學史上に於ける一つの不思議は、我々の中の或る者によつて、散文で書いた詩――それは「自由詩」「無韻詩」又は「散文詩」の名で呼ばれる――が發表されたことである。この大膽にして新奇な試みは、詩に關する從來の常識を根本からくつがへしてしまつた。詩に就いて、世界は新らしい槪念を構成せねばならぬ。」

[やぶちゃん注:・「拍節」音楽理論用語。音楽のリズム構造に於いて、何度も繰り返される等時的な最小単位、つまり「拍」が存在し、しかもその拍が二個以上結合して纏まりを有する際の性質を「拍節」と称し、その音楽を「拍節的である」とか「拍節が明確である」などと表現する。言い換えれば、拍節とは継起する固定的なリズム・パターンであり、リズムそのものと混同してはならない。リズムの中には非拍節的なものも存在する(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・最後の鍵括弧閉じるはママ。萩原朔太郎の誤記或いは誤植。]

 勿論、そこでは多くの議論と宿題とが豫期される。我我の詩の新しき槪念は、それが構成され得る前に、先づ以て十分に吟味せねばならぬ。果して自由詩は「詩」であるかどうか。今日一派の有力なる詩論は、毅然として「自由詩は詩に非ず」と主張してゐる。彼等の哲學は言ふ。「散文で書いたもの」は、それ自ら既に散文ではないか。散文であつて、同時にまたそれが詩であるといふのは矛盾である。散文詩又は無韻詩の名は、言語それ自身の中に矛盾を含んで居る。かやうな槪念は成立し得ない。元來、詩の詩たる由所――よつて以てそれが散文から類別される由所――は、主として全く韻律の有無にある。韻律を離れて尚詩有りと考ふるは一つの妄想である。けだし韻律(リズム)と詩との關係は、詩の起元に於てさへ明白ではないか。世界の人文史上に於て、原始民族の詩はすべて明白に規則正しき拍節を踏んでゐる。言語發生以前、彼等は韻律によつて相互の意志を交換した。韻律は、その「規則正しき拍節の形式」によつて我等の美感を高翔させる。詩の母音は此所から生れた。見よ、詩の本然性はどこにあるか。原始の純樸なる自然的歌謠――牧歌や、俚謠や、情歌や――の中に、一つとして無韻詩や自由詩の類が有るか。

[やぶちゃん注:・二箇所の「由所」は「由緖」の誤記であろうから、「ゆいしよ(ゆいしょ)」と読んでおく。なお「所由」で「しよいう(しょゆう)」と読み、「基づくところ・物事の由って来たるところ・所以」の意があり、妙な熟語には見えるが、意味は通る。筑摩書房版全集校訂本文(ここでは向後は「筑摩版」と略す)は否応なしに二箇所とも『所以』と消毒している。

・「起元」ママ。筑摩版は『起原』と消毒。]

 我我の子供は、我我の中での原始人である。彼等の生活はすべて本然と自然とにしたがつて居る。されば子供たちは如何に歌ふか。彼等の無邪氣な卽興詩をみよ。子供等の詩的發想は、常に必ず一定の拍節正しき韻律の形式で歌はれる。自然の狀態に於て子供等の作る詩に自由詩はない

[やぶちゃん注:・太字は底本では傍点「・」(少しだけ大きめの黒点)。以下、この「自由詩のリズム」の章内では最後まで同じなのでこの注は略す

 そもそも如何にして韻律(リズム)がこの世に生れたか。何故に詩が、韻律(リズム)と密接不離の關係にあるか。何故に我等が――特に我等の子供たちが――韻律(リズム)の心像を離れて詩を考へ得ないか。すべて此等の理窟はどうでも好い。ただ我等の知る限り、此所に示されたる事實は前述の如き者である。詩の發想は本然的に音樂の拍節と一致する。そして恐らく、そこに人間の美的本能の唯一な傾向が語られてあるだらう。宇宙の眞理はかうである。「原始(はじめ)に韻律があり後に言葉がある。」この故に、韻律を離れて詩があり得ない。自由詩とは何ぞや、無韻詩とは何ぞや、不定形律の詩とは何ぞや。韻律の定まれる拍節を破却すれば、そは卽ち無韻の散文である。何で此等を「詩」と呼ぶことができやうぞ。

[やぶちゃん注:・最後の「できやうぞ」はママ。]

 かくの如きものは、自由詩に對する最も手(てごは)い拒である。けれどもその論旨の一部は、單なる言語上の空理を爭ふにすぎない。そもそも自由詩が「散文で書いたもの」である故に、同時にそれが詩であり得ないといふ如き理窟は、理窟それ自身の詭辯的興味を除いて、何の實際的根據も現在しない。なぜといつて我等の知る如く、實際「散文で書いたもの」が、しばしば十分に詩としての魅惑をあたへるから。そしていやしくも詩としての魅惑をあたへるものは、それ自ら詩と呼んで差支へないであらう。もし我等にして、尚この上この點に關して爭ふならば、そは全く「詩」といふ言葉の文字を論議するにすぎない。暫らく我等をして、かかる槪念上の空論を避けしめよ。今、我等の正に反省すべき論旨は別にある。

 しばしば淺薄な思想は言ふ。「自由詩は韻律の形式に拘束されない。故に自由であり、自然である。」と。この程度の稚氣は一笑に價する。反對に、自由詩に對する非難の根柢はそれが詩として不自然な表現であるといふ一事にある。この論旨のために、我我の反對者が提出した前述の引例は、すべて皆眞實である。實際、上古の純樸な自然詩や、人間情緖の純眞な發露である多くの民謠俗歌の類は、すべて皆一定の拍節正しき格調を以て歌はれて居る。人間本然の純樸な詩的發想は、歸せずして拍節の形式と一致して居る。不定形律の詩は決して本然の狀態に見出せない。ばかりでなく、我我自身の場合を顧みてもさうである。我我の情緖が昂進して、何かのい詩的感動に打たれる時、自然我々の言葉には抑揚がついてくる。そしてこの抑揚は、心理的必然の傾向として、常に音樂的拍節の快美な進行と一致する故に、知らず知らず一定の韻律がそこに形成されてくる。一方、詩興はまたこの韻律の快感によつて刺激され、リズムと情想とは、此所に互に相待ち相助けて、いよいよ益々詩的感興の高潮せる頂に我等を運んで行くのである。かくて我等の言葉はいよいよ滑らかに、いよいよ口調よく、そしていよいよ無意識に「韻律の周期的なる拍節」の形式を構成して行く。思ふにかくの如き事態は、すべての原始的な詩歌の發生の起因を明する。詩と韻律の關係は、けだし心理的にも必然の因果である如く思はれる。

[やぶちゃん注:・「見出せない。ばかりでなく」の句点はママで、一種の強調形である。ここは流石に筑摩版もママである。]

 然るに我等の自由詩からは、かうした詩の本然の形式が見出せない。音樂的拍節の一定の進行は、自由詩に於て全く缺けてゐる者である。ばかりでなく、自由詩は却つてその「規則正しき拍節の進行」を忌み、俗語の所謂「調子づく」や「口調のよさ」やを淺薄幼稚なものとして擯斥する。それ故に我等は、自由詩の創作に際して、しばしば不自然の抑壓を自らの情緖に加へねばならぬ。でないならば、我等の詩興は感興に乘じて高翔し、ややもすれば「韻律の甘美な誘惑」に乘せられて、不知不覺の中に「口調の好い定律詩」に變化してしまふ恐れがある。

[やぶちゃん注:・「擯斥」「ひんせき」と読み、「しりぞけること・のけものにすること」で、「排斥」に同じい。]

 元來、詩の情操は、散文の情操と性質を別にする。詩を思ふ心は、一つの高翔せる浪のやうなものである。それは常に現實的實感の上位を跳躍して、高く天空に向つて押しあげる意志であり、一つの甘美にして醱酵せる情緖である。かかる種類の情操は、決して普通の散文的情操と同じでない。したがつて詩の情操は、自然また特種な詩的表現の形式を要求する。言ひ換へれば、詩の韻律形式は、詩の發想に於て最も必然自由なる自然の表現である。然り、詩は韻律の形式に於てこそ自由である。無韻律の不定形律――卽ち散文形式――は、詩のために自由を許すものでなくして、却つて不自由をゐるものである。然らば「自由詩」とは何の謂ぞ。所謂自由詩はその實「不自由詩」の謂ではないか。けだし、「散文で詩を書く」ことの不自然なのは、「韻文で小を書く」ことの不自然なのと同じく、何人(なんぴと)にも明白な事實に屬する。

[やぶちゃん注:・「ゐる」はママ。]

 自由詩に對するかくの如き論難は、彼等が自由詩を「散文で書いたもの」と見る限りに於て正當である。そしてまた此所に彼等の誤謬の發端がある。なぜならば眞實なる事實として、自由詩は決して「散文で書いたもの」でないからである。しかしながらその辯明は後に讓らう。此所では彼等の言にしたがひ、また一般の常識的觀念にしたがひ、暫らくこの假を許しておかう。然り、一般の觀念にしたがふ限り、自由詩は確かに散文で書いた「韻律のない詩」である。故にこの見識に立脚して、自由詩を不自然な表現だと罵るのは當を得て居る。我等はあへてそれに抗辯しない。よしたとへ彼等の見る如く、自由詩が眞に不自然な者であるとした所で、尚且つあへて反駁すべき理由を認めない、なぜならばこの「自然的でない」といふ事實は、この場合に於て「原始的でない」を意味する。しかして文明の意義はすべての「原始的なもの」を「人文的なもの」に向上させるにある。されば大人が子供よりも、文明人が野蠻人よりも、より價値の高い人間として買はれるやうに、そのやうにまた我等の成長した叙情詩も、それが自然的でない理由によつてすら、原始の素樸な民謠や俗歌よりも高價に買はるべきではないか。けだし自由詩は、近世紀の文明が生んだ世界の最も進步した詩形である。そして此所に自由詩の唯一の價値がある。

 世界の叙情詩の歷史は、最近佛蘭西に起つた象徵主義の運動を紀元として、明白に前後の二期に區分された。前派の叙情詩と後派の叙情詩とは、殆んど本質的に異つて居る。新時代の叙情詩は、單なる「純情の素朴な咏嘆」でなく、また「觀念の平面的なる叙述」でもなく、實に驚くべき複雜なる睿智的の内容と表現とを示すに至つた。(但し此所に注意すべきは、所謂「象徵詩」と「象徵主義」との別である。かつてボトレエルやマラルメによつて代表さられた一種の頽廢氣分の詩風、卽ち所謂「象徵詩」なるものは、その特色ある名稱として用ゐられる限り、今日既に廢つてしまつた。しかしながら象徵主義そのものの根本哲學は今日尚依然として多くの詩派――表現派、印象派、感情派等――の主調となつて流れてゐる。自由詩形もまた此の哲學から胎出された。)

[やぶちゃん注:・「睿智的」(えいちてき)の「睿」は「叡」の異体字。

・「ボトレエル」はママ。「序」でも彼はこの表記であるから、確信犯。英語発音では明白に「ド」であるが、フランス語では「トゥ」にも聴こえるので、おかしくはない。

・「代表さられた」はママ。筑摩版は「代表された」と消毒。]

 象徵主義が唱へた第一のモツトオは、「何よりも先づ音樂へ」であつた。しかしこの標語は、かつて昔から詩の常識として考へられて居た類似の觀念と別である。ずつと昔から、詩と音樂の密接な關係が認められて居た。「詩は言葉の音樂である」といふ思想は、早くから一般の常識となつて居た。しかしこの關係は、專ら詩と音樂との外面形式に就いて言はれたのである。卽ち詩の表現が、それ自ら音樂の拍節と一致し、それ自ら音樂と同じ韻律形式の上に立脚する事實を指したのであつた。然るに今日の新しい意味はさうでない。今日言ふ意味での「詩と音樂の一致」は、何等形式上での接近や相似を意識して居ない。詩に於ける外形の音樂的要素――拍節の明晣や、格調の正しき形式や、音韻の節律ある反覆や――はむしろ象徵主義が正面から排斥した者であり、爾後の詩壇に於て一般に閑却されてしまつた。故にもしこの方面から觀察するならば、或る音樂家の論じた如く、今日の詩は確かに「非音樂的なもの」になつて來た。けれどもさうでなく、我々の詩に求めてゐるものは實に「内容としての音樂」である。

[やぶちゃん注:・「明晣」「めいせつ」或いは「めいせい」。現行では「明晰」であるが、誤字ではない。「晣」は音「セツ・セイ」、訓で「かしこい・あきらか」と読むように、「晰」と同義の別字である。筑摩版は無論、容赦なく消毒してしまっている。以下でも出るが、特に注さない。

 我々は外觀の類似から音樂に接近するのでなく、直接「音樂そのもの」の縹渺するいめえぢの世界へ、我々自身を飛び込ませやうといふのである。かくの如き詩は、もはや「形の上での「音樂」でなくして「感じの上での音樂」である。そこで奏される韻律(リズム)は、形體ある拍節でなくして、形體のない拍節である。詩の讀者等は、このふしぎなる言葉の樂器から流れてくる所の、一つの「耳に聽えない韻律」を聽き得るであらう。

[やぶちゃん注:・「縹渺する」「縹渺」は「へうべう(ひょうびょう)。ここは「果てしなく広がる」の意。

・「いめえぢ」の「い」には傍点がないのはママ。朔太郎の傍点し忘れか、植字工・校正者のミス。

・「飛び込ませやう」の「やう」はママ。

・『「形の上での「音樂」』の「音」の前の鍵括弧はママ。朔太郎の誤記か誤植。恐らくは前者。]

「耳に聽えない韻律(リズム)」それは卽ち言葉の氣韻の中に包まれた「感じとしての韻律(リズム)」である。そして實に、此所に自由詩の詩學が立脚する。過去の詩學で言はれる韻律とは、言葉の音韻の拍節正しき一定の配列を意味して居る。たとへば支那の詩の平仄律、西洋の詩の押韻律、日本の詩の語數律等す、べて皆韻律の原則によつた表現である。けれども我々の自由詩は、さういふ韻律の觀念から超越してゐる。我々の詩では、音韻が平仄や語格のために選定されない。さうでなく、我々は詩想それ自身の抑揚のために音韻を使用する。卽ち詩の情想が高潮する所には、表現に於てもまた高潮した音韻を用ゐ、それが低迷する所には、言葉の韻もまた靜かにさびしく沈んでくる。故にこの類の詩には、形體に現はれたる韻律の節奏がない。しかしながら情想の抑揚する氣分の上で、明らかに感じ得られる所の拍節があるだらう。

[やぶちゃん注:「す、べて」はママ。誤植。]

 定律詩と自由詩との特異なる相違を一言でいへば、實に「拍子本位」と「旋律本位」との音樂的異別である。我々が定律詩を捨てて自由詩へ走つた理由は、理論上では象徵主義の詩學に立脚してゐるが、趣味の上から言ふと、正直のところ、定律詩の韻律に退屈したのである。定律詩の音樂的効果は、主としてその明晣にして固なる拍節にある。然るに我々の時代の趣味は、かかる固なる拍節を悅ばない。我々の神經にまで、そはむしろ單調にして不快なる者の如く聽えてきた。我々の音樂的嗜好は、遙かに「より軟らかい拍節」と「より高調されたる旋律」とを欲してきた。卽ち我々は「拍節本位」「拍子本位」の音樂を捨てゝ、新しく「感情本位」「旋律本位」の音樂を創造すべく要求したのである。かゝる趣味の變化は、明らかに古典的ゴシツク派の藝術が近代に於て衰退せる原因と、一方に於て自由主義や浪漫主義の興隆せる原因を語つてゐる。しかして自由詩は、實にこの時代的の趣味から胚胎された。

 それ故に自由詩には、定律詩に見る如き音韻の明晣なる拍節がない。或る人人は次の如き假――詩の本質は韻律以外にない。自由詩がもし詩であるならば必然そこに何かの韻律がなければならない。――を證明する目的から、しばしば自由詩の詩語を分解して、そこから一定の拍節律を發見すべく骨を折つてゐる。しかしこの努力はいつも必ず失敗である。自由詩の拍節は常に不規則であつて且つ散漫してゐる。定韻律に見る如き、一定の形式ある周期的のい拍節は、到底どの自由詩からも聽くことはできない。所詮、自由詩の拍節は、極めて不鮮明で薄弱なものにすぎないのである。けだし自由詩の高唱する所は拍節にない。我々は詩の拍節よりも、むしろ詩の感情それ自身――卽ち旋律――を重視する。我々の詩語はそれ自ら情操の抑揚であり、それ自ら一つの美しい旋律である。されば我々の讀者は、我々の詩から「拍節的(リズミカル)な美」を味ふことができないだらうけれども「旋律的(メロヂル)な美」を享樂することができる。「旋律的(メロヂカル)な美」それは言葉の美しい抑揚であり、且つそれ自らが内容の呼動である所の、最も肉感的な、限りなく艶めかしい誘惑である。思ふにかくの如き美は獨り自由詩の境地である。かの軍隊の步調の如く、確然明晣なる拍節を踏む定律詩は、到底この種の縹渺たる、音韻の艶めかしい黃昏曲を奏することができない。

[やぶちゃん注:・最初の「旋律的(メロヂル)な美」はママ。朔太郎の脱字か誤植。

・「呼動」はママ。筑摩版は「鼓動」とするが、本当にそれは正統にして正統な唯一絶対の訂正であろうか? 実は後にも登場するが、萩原朔太郎は「鼓動」ではなく、「呼動」、「呼べば生き生きと動き出てくるもの」という意味で確信犯でこの字(造語)を用いているいるのではないかと私は思う部分があるのである。

・「黃昏曲」「こうこんきよく(こうこんきょく)」で「夜想曲」(ノクターンnocturne):フランス語・ノクチュルヌ(nocturne))よりも前、まだ黄昏(たそがれ)の余光のあるような「トワイライト・ミュージック」(twilight music)、「夕暮れの曲」といった謂いであろう。]

 されば此の限りに於て、自由詩は勿論また音樂的である。そは「拍子本位の音樂」でない。けれども「旋律本位の音樂」である。しかしながら注意すべきは、詩語に於ける韻律は、拍節の如く外部に「形」として現はれるものでないことである。詩の拍節は――平仄律であつても、語數律であつても――明白に形體に示されてゐる。我々は耳により、眼により、指を折つて數へることより、詩のすべての拍節を一々指摘することができる。之れに反して旋律は形式をもたない。旋律は詩の情操の吐息であり、感情それ自身の美しき抑揚である故に、空間上の限られたる形體を持たない。尚この事實を具體的に明しやう。

[やぶちゃん注:・「指を折つて數へることより」の「ことより」はママ。筑摩版は「ことにより」と訂正する。末尾「しやう」はママ。]

 たとへば此所に一聯の美しい自由詩がある。その詩句の或る者は我等を限りなく魅惑する。そもそもこの魅惑はどこからくるか。指摘されたる拍節は、極めて不規則にして薄弱なものにすぎない。さらばこの美感の性質は、拍節的(リズミカル)の者であるよりは、むしろより多く旋律的(メロヂカル)の者であることが推測される。具體的に言へば、この詩句の異常なる魅力は、主として言葉の音韻の旋律的な抑揚――必しも拍節的な抑揚ではない――にある。勿論またそればかりでない。詩句の各々の言葉の傳へる氣分が、情操の肉感とぴつたり一致し、そこに一種の「氣分としての抑揚」が感じられることにある。(勿論この場合の考察では詩想の槪念的觀念を除外する)此等の要素の集つて構成されたものが、我等の所謂「旋律」である。そは拍節の如く詩の形體の上で指摘することができない。どこにその美しい音樂があるか、我等は之れを分晣的に明記することができない。ただ詩句の全體から、直覺として「感じられる」にすぎないのだ。

[やぶちゃん注:・「分晣的」筑摩版は「分析」に消毒。]

 ここで再度「韻律」といふ語の意義を考へて見やう。韻律の觀念は、その最も一般的な場合に於て、常に音その他の現象の「周期的な運動」卽ち「拍子」「拍節」を意味してゐる。思ふにこの觀念の本質的出所は音韻であり、したがつてまた詩の音韻であるが、その擴大されたる場合では、廣く時間と空間とに於ける一般の現象に適用されて居る。たとへば人間の呼吸、時計の振子運動、光のスペクトラム、野菜畠の整然たる畝の列、大洋に於ける浪の搖動、體操及び音樂遊戲の動作、舞踏、特に建築物の美的意匠に於ける一切の樣式、機關車のピストン、四季の順序正しき推移、衣裝の特種の縞柄、および定規の反覆律を示す一切の者。此等はすべて皆「周期的の運動」を示すものであり、畢竟「拍子の樣々なる樣式」に於ける現象である所から、普通にリズミカルの者と呼ばれて居る。かの定律詩の詩學で定められた韻律の種々なる方則、卽ち平仄律、語格律、語數律、反覆律、同韻重疊律、押韻頭脚律、押韻尾脚律、行數比聯律、重聯對比律等の煩瑣なる押韻方程式も、畢竟「拍子の樣樣なる樣式」卽ち音韻や詩形の周期的な反覆運動を原則としたる者に外ならぬ。

[やぶちゃん注:・「平仄律……」以下、総て漢詩に於ける詩法・詩体・格律用語。サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「詩法・詩体・格律用語集」で概ね理解出来るのでそちらを参照されたい。]

 かく以前の詩學に於ては、拍子が韻律のすべての内容であつた。「拍子卽韻律」「韻律卽拍子」として觀念されて居た。しかしながらこの觀念は未だ原始的である。より進步した韻律の觀念には、一層もつと複雜にして本質的なものがあるだらう。勿論、拍子は韻律の本體である。けれども吾人にして、更にこの拍子の觀念を一層徹底的に押し進めて行くならば、遂には所謂「拍子」の形式を超越した所の別種の韻律――拍子でない拍子――を認識するであらう。たとへば水盤の中で遊泳して居る金魚、不規則に動搖する衣裝のヒダに見る陰影の類はリズムでないか。そは一つの拍節から一つの拍節へ、明白に、機械的に、形式的に進行して居ない。部分的に、我等はその拍節の形式を明示することができない。けれども全體から、直覺として感じられるリズムがある。より複雜にして、より微妙なる、一つの旋律的なリズムがある、然り、水盤の中で遊泳して居る魚の美しい運動は、明らかに一つの音樂的樣式を語つてゐる。そは幾何學的の周期律を示さない。けれども旋律的な周期律を示して居る。外部からの形式でなく、内部からの樣式による自由な拍節を示してゐる。卽ちそれは「形式律としてのリズム」でなく「自由律としてのリズム」である。かくの如きものは、よしたとへ「拍節的(リズミカル)のもの」でないとしても、確實に言つて「旋律的(メロヂカル)のもの」である。

 ここに我等は、所謂「拍子」と「旋律」との關係を知らねばならぬ。先づ之れを音樂に問へ。音樂上で言はれる韻律の觀念は、狹義の場合には勿論拍子を指すのであるが、廣義の語意では拍子と旋律との兩屬性を包容する。卽ちこの場合のリズムは「音樂それ自體 を指すのである。この事實は、勿論「言葉の音樂」である詩に於ても同樣である。元來、旋律は拍節の一層部分的にして複雜なものである。そは拍子の如く幾何學的圖式を構成しない。しかも一つの「自由なる周期律」を有するリズムである。しかしてそれ自らが音樂の情想であり内容である。それ故「韻律」の觀念を徹底すれば、詩の旋律もまた明白にリズムの一種である。卽ち音樂と同じく「詩それ自體」が既に全景的にリズムである。然るに過去の詩人等は、リズムの觀念を拍子の一分景に限り、他に旋律といふリズムの在ることを忘れて居た。自由詩以後我等のリズムに關する槪念は擴大された。今日我等の言ふリズムはもはや單なる拍節の形式的周期を意味しない。我等の新しい觀念では、更により内容的なる言葉の旋律が重視されてゐる。言葉の旋律! それは一つの形相なき拍節であり、一つの「感じられるリズム」である。かの魚の遊泳に於ける音樂的樣式の如く、部分としては拍節のリズムを指示することができない。けれど全曲を通じて流れてゆく言葉の抑揚や氣分やは、直感的に明白なリズムの形式――形式なき形式――を感じさせる。しかしてかくの如きは、實に「旋律そのもの」の特質である。

[やぶちゃん注:・「音樂それ自體 を」の半角空白はママ。印字痕もないので、記号『」』の半角活字であろう。]

 かくて詩に於けるリズムの觀念は、形體的の者から内在的のものへ移つて行つた。拍節の觀念は、過去に於て必然的な形式を要求した。然るに今日の詩人等は、必しも外形の規約に拘束されない。なぜならば我等の求めるものは、形の拍節でなくして氣分の拍節、卽ち「感じられるリズム」であるから。この新しき詩學からして、自由詩人の所謂「色調韻律(ユニアンスリズム)」「音のない韻律」の觀念が發育した。元來、我等のすべての言葉は――單語であると綴り語であるとを問はず――各個に皆特種な音調とアクセントとを持つて居る。この言葉の音響的特性が、卽ち所謂「音韻」である。過去の詩のリズムは、すべて皆この音韻によつて構成された。勿論、今日の自由詩に於ても、音韻はリズムの最も重要なる一大要素であるが、しかも我等の言ふリズムは、必しも此の一面の要素にのみ制約されない。なぜならばそこには、音韻以外、尚他に言葉の「氣分としての韻」があるべきだ。たとへば日本語の「太陽」と言ふ言葉は、音韻上から言つて一聯四音格であるが、かうした語格の特種性を除いて考へても、尚他にこの言葉獨特の情趣がある。その證證は、これを他の同じ語義で同じ一聯四音格の言葉「日輪」や「てんとう」に比較する時、各の語の間に於ける著しい氣分の差を感ずることによつて明白である。實際日本語の詩歌に於て「太陽が空に輝やく」と「日輪が天に輝やく」では全然表現の効果が同じでない。されば我等の自由詩に於て、よし全然音韻上のリズムを發見し得ないとしても、尚そこにこの種の隱れたる氣分の韻律が内在し得ないといふ道理はない。しかしながら、かくの如き色調韻律は。決して最近自由詩の詩人が發見したのではない。勿論それは昔から、すべての定律詩人によつて普通に認められて居た色調、卽ち語の漂渺する特種の心像が、詩の表現の最も重大なる要素であることは、むしろ詩人の常識的事項に屬して居る。ただしかし彼等は、かつて之れに色調韻律(ユニアンスリズム)の名をあたへなかつた。彼等はそれを韻律以外の別條件と見て居た。獨り最近自由詩が之れに韻律の名をあたへ、リズムの一要素として認定した。そして之れが肝心のことである。何となればこの兩者の態度こそ、實に兩者のリズムに對する觀念の根本的な相違を示すものであるから。すくなくとも自由詩のリズム觀は、前者に比してより徹底的であり、且つより本質的である。そこでは詩の表現に於ける一切の要素が、すべて皆リズムの觀念の中に包括されて居る。言ひ換へれば「詩それ自體」が既に全景的にリズムである。故に自由詩の批判に於て「この詩にはリズムがない」と言はれる時、それは、勿論「一定の格調や平仄律がない」を意味しない。また必しも拍節の樣式に於ける「形體上の音樂がない」を意味しない。この場合の意味は、詩全體から直覺的に感じられる所の「氣分としての音樂」が聽えない。卽ち「感じられるリズムが無い」を言ふのである。之れによつて今日の文壇では、しばしばまた次の如きことが言はれて居る。「この詩には作者のリズムがよく現れてる」「彼のリズムには純眞性がある」「この藝術は私のリズムと共鳴する」此等の場合に於ける「作者のリズム」「彼のリズム」「私のリズム」は何を意味するか。從來の詩學の見地よりすれば、かかる用語に於けるリズムの意味は、全然奇怪にして不可解と言ふの外はない。けだしこの場合に言ふリズムは、全く別趣な觀念に屬してゐる。それは藝術の表現に現はれた樣式の節奏を指すのでない。さうでなく、よつて以てそれが表現の節奏を生むであろう所の、我々自身の心の中に内在する節奏(リズム)、卽ち自由詩人の所謂「心内の節奏(インナアリズム)」「内部の韻律(インナアリズム)」を指すのである。さらばこの「心内の節奏」卽ち内在韻律(インナアリズム)とは何であるか。之れ實に自由詩の哲學である。今や我等は、自由詩の根本問題に觸れねばならぬ。

[やぶちゃん注:・二箇所のルビ「色調韻律(ユニアンスリズム)」はママ。無論、「ニユアンスリズム」の誤り。「nuance rhythm」であろう。「微妙な雰囲気の相異・移相を持った韻律」の意であろう。朔太郎の確信犯の表記(「nuance」はフラン語で、音写すると「ニユォンス」で「ユニアンス」でとんでもない感じはしないからである)か誤記か植字ミスかは不明。筑摩は二箇所とも「ユニアンスリズム」とする。

・「證證」はママ。「證據」の誤記か誤植。

・「各」は「おのおの」。

・「てんとう」はママ。「太陽」を意味する「てんとう」は「天道」であるから、歴史的仮名遣では「てんたう」。

・「かくの如き色調韻律は。」はママ。読点の誤り。

・「漂渺」はママ。「縹渺」の誤り。前の十三段落目では正しく「縹渺」とある。誤字か誤植か不明。実は本書の詩篇「夢」の初出でも同じ誤りがあるので、或いは朔太郎自身の誤記の可能性が高いようにも思われる。

・「よつて以てそれが表現の節奏を生むであろう所の」の「あろう」はママ。

・『「心内の節奏(インナアリズム)」「内部の韻律(インナアリズム)」』孰れも前の五字へのルビ。]

 原始(はじめ)、自然民族に於て、歌(うた)は同時に唄(うた)であり、詩と音樂とは同一の言葉で同一の觀念に表象された。彼等が詩を思ふとき、その言葉は自然に音樂の拍節と一致し、自然に音樂の旋律――勿論それは單調で抑揚のすくないものであつたことが想像される――を以て唄歌された。この時代に於て、詩人は同時に音樂家であり、音樂家は同時に詩人であつた。然るにその後、言葉の槪念の發育により、次第に詩と音樂とは分離してきた。歌詞の作者と曲譜の作者とは、後世に於て全く同人でない。かくて詩は全然音樂の旋律から獨立してしまつた。ただしかし拍節だけが殘された。なぜならば拍節は、旋律に比して一層線の太いリズムであり、實に韻律の骨格とも言ふべきものであるから。そして詩が、本來音樂と同じ情想の上に表現されるものである限り、この一つの骨格だけは失ふことができないから。

[やぶちゃん注:「唄歌」はママ。筑摩版は「唱歌」と訂正する。]

 かくして最近に至るまで、詩の表現はこの骨格――言葉の拍節――の上に形式づけられた。所謂「韻律」「韻文」の觀念が之によつて構成されたのである。然るに我々の進步した詩壇は、更にこの骨格の上に肉づけすべく要求した。骨格だけでは未だ單調で生硬である。我々の文明的な神經は、更に之れを包む豐麗な肉體と、微妙で復雜な影をもつた柔らかい線とを欲求した。言ひ換へれば、我々は「肉づけのある拍節」をさがしたのである。「肉づけのある拍節」それは卽ち「旋律」ではないか。かくして一旦失はれたる詩(うた)の旋律は、再度また此所に歸つて來た。しかしながらこの旋律は、かつて原始に在つたそれと全く性質を別にする。原始の旋律は、それ自ら歌詞の節づけとして唄はれたものである。思ふに我等の遠き先祖は、詩と音樂とを常に錯覺混同してゐた。彼等の心像に詩が浮んだことは、同時にいつも音樂のメロヂイが浮んだことである。故にこの場合の方程式は「歌詞十旋律==詩」であつて兩者を心像的に分離することができない。歌詞を切り離せばその旋律に意味がなく、旋律を抽象してしまへば殘りの歌詞に價値ない。(この事態は今日我等の中での原始人である子供に就いて實見することができる)。今や我々の自由詩は、それと全くちがつた別の新しい仕方に於て、それと同じ不思議なる心像――詩と音樂との錯覺――を表象しやうといふのである。

[やぶちゃん注:実は、この「自由詩のリズムに就て」という文章全体について言えるのであるが、例えば、「――言葉の拍節――」の部分は実際には、明らかに前のダッシュが太く、後のダッシュは細い。最後の「――詩と音樂との錯覺――」は前後とも太く見えたりと、実は使用されているダッシュの太さが全体に亙ってまちまちなのである。ただ、それを再現するのは思ったようには出来ないことが判明したし、それを再現する意味自体もないと判断し、総て通常の「――」で統一してある。

・「歌詞十旋律==詩」は方程式「歌詞+旋律=詩」の意味であるが、普通に見ても「+」ではなく、漢数字の「十」であることが判然とする。誤植である。なお、表記出来ないので「==」としたが、断裂していない二本のかなり細い直線で、その長さは二字+半角分ほどもあるもので、とてものことに「=」には見えない。前の「方程式」(但し、これは不定対象が入っていないから、厳密には単に「等式」というべきである)という語がなかったら、これが「歌詞+旋律=詩」の意味だと理解するのにちょっと時間がかかるほどに、「+」にも「=」にも見えない代物である。

・「復雜」はママ。「複雜」の誤字か誤植。

・「表象しよう」はママ。]

 明白なる事實として、詩を思ふ心は音樂を思ふ心である。我等の心像に浮んだ詩は、それ自ら一種のメロヂイをもつてゐる。もし我等にして原始人の如く、また子供等の如く單純素樸であつたならば、必ずや聲をあげて詠誦し、この同一心像に屬する詩と旋律とを同時に一時に發想するであろう。けれども不幸にして我々は近代の複雜した社會に住んでゐる。我々は一人にして詩人と音樂の作曲家とを兼ねることができない。我々は、我々の投影する旋律を知つてゐる、そは一種の氣分として、耳に聽えない音樂として感知される。けれども我々の音樂的無能は、之れを音の形式に再現することができない。そしてその故に、我々は詩人であつて音樂家でないのである。卽ち我々の仕事は、この感知されたる旋律を詩の言葉それ自身のリズムに彫みつけることにある。如何にしてか? ここに我我の自由詩を見よ! 自由詩の表現は實に之れである。

[やぶちゃん注:・「發想するであろう」はママ。

・「我我」「我々」でないのは一字目が行末、二字目が行頭であるため。]

 自由詩にあつては、音樂が單なる拍節によつて語られない。拍節は音樂の骨格にすぎないだらう。さうでなく、我々は音樂のより部分的なるリズム全體、卽ち旋律と和聲とをそつくりそのまま表現しようとする。そしてこの目的のためには、言葉のあらゆる特性が利用されねばならぬ。第一に先づ言葉の音韻的効果が使用される。しかもそれは定律詩の場合の如く、單に拍節上の目的から、平仄を合せたり、同韻を押したり、語數を調べたりするのでない。我々の目的は、それとはもつと遙かに複雜なリズムを彈奏するにある。しかし單に音韻ばかりでは、到底この奇蹟的な仕事を完全に果すべくもない。よつてまた音韻以外、およそ言葉のもつありとあらゆる屬性――調子(トーン)や、拍節(テンポ)や、色調(ユニアンス)や、氣分(ムード)や、觀念(イデム)――を綜合的に利用する。卽ちかくの如きものは、實に言葉の一大シムホニイである。それは單なる形體上の音樂でなくして、それ自らが内容であるところの「音樂それ自身」である。(故に今日の高級な自由詩は、音樂家への作曲を拒する。我々の詩は、それ自らの中に旋律と和聲を語つてゐる。この上別に外部からの音樂を要しないのである。「外部からの音樂」は却つて詩の「實際の音樂」を破壞してしまふ。)

[やぶちゃん注:・「觀念(イデム)」のルビはママ。「イデア」(ギリシャ語由来:idea)の誤植であろう。

・「色調(ユニアンス)」のルビはママ。以前の同様。]

「詩は言葉の音樂である」といふ詩壇の標語は、今や我々の自由詩によつて、その眞に徹底せる意味を貫通した。げに我々の表現は、詩を完全にまで音樂と同化させた。否、しかしこの「同化させた」といふ言葉は間ちがへである。なぜならば、始から詩と音樂とは本質的に同一である。詩の心像と音樂の心像とは原始人に於ける如く我々に於ても常にまた同一の心像である。たとへば次の如き詩想――「心は望に陷り、悲しみの深い沼の底をさまよつて居る。」――が心像として浮んだ時、それは常に一つの抑揚ある氣分として感じられる。そこには或る一つの情緖的な、耳に聽えないメロヂイが低迷してゐる。我々は明らかにそのメロヂイ――氣分の抑揚――を感じ得る。そして此所に詩のリズムが生れるのである。さればこの「音樂の心像」は、それ自ら「詩の心像」であつて、兩者は互に重なり合つた同一觀念に外ならぬ。この限りに於て、我々の言葉でも亦「歌」は「唄」である。言ひ換へれば「詩卽リズム」である。リズムの心像を離れて詩の觀念はなく、詩の觀念を離れてリズムの心像はない。リズムと詩とは必竟同一物の別な名稱にすぎないのだ。それ故我々の詩が、我々の音樂の直接な表現であるといふ上述の明は、之れを一面から言へば、詩想それ自身の直接な表現を意味してゐる。自由詩の表現は、實にこの詩想の抑揚の高調されたる肉感性を捕捉する。情想の呼動は、それ自ら表現の呼動となつて現はれる。表現それ自體が作家の内的節奏となつて響いてくる。詩のリズムは卽ち詩の V I S I O N である。かくて心内の節奏と言葉の節奏とは一致する。内部の韻律と外部の韻律とが符節する。之れ實に自由詩の本領である。

[やぶちゃん注:・「間ちがへ」はママ。「間ちがひ」の間違い。

・「必竟」「ひつきやう(ひっきょう)」を筑摩版は「畢竟」とするが、訳が判らない。「畢竟」は「必竟」とも書く。しかもこの語は元は仏教用語で、サンスクリット語の「究極・至極・最終」などの意を表わす語を漢訳したものなのであるから、何も「畢竟」が唯一正統にして正当な漢字表記なわけではさらさら、ない。近代作家でも「必竟」と書く作家は多いが、それを全集で「畢竟」に書き換えたら、普通、おかしいと思うの正常であり、こんな消毒はあり得ない。

・「情想の呼動は、それ自ら表現の呼動となつて現はれる」の「呼動」はママ。これを総て「鼓動」に直した筑摩版への私の疑義は既に述べた。

・「V I S I O N」は底本では右横転で記されてある。前後の字空けはもう少し広く、二つの「I」が有意に高く組まれていて、がたがたして見えてしまい、アルファベット文字が単品で並べられているような、間抜けた感じになってしまっている。] 

 かく自由詩は、表現としての最高級のものである。そのリズムは、より單純な拍子本位から、より複雜な旋律本位へ進步した。之れ既に驚くべき發展である。(尤も之れに就いては一方の側からの非難がある。それに就いては後に自由詩の價値を論ずる場合に述べやう。とにかく自由詩が、そのすべての缺點を置いても、より進步した詩形であるといふことだけは否定できない。)それにも關はらず、通俗の見解は自由詩を甚だ見くびつて居る。甚だしきは、自由詩にリズムがないといふ人さへある。然り、自由詩には形體上のリズムがない。七五調や平仄律や――卽ち通俗に言ふ意味でのリズム――は自由詩にない。しかも自由詩にはより複雜な、よりデリケートのリズムがある。それ自らが詩人の「心内の節奏」を節づけする所の「旋律としてのリズム」がある。人々は自由詩を以て、安易な自然的なもの、原始的なものと誤解して居る。事實は反對である。自由詩こそは最も「文明的のもの」である。同時にまたそれは、容易に何人にも自由に作り得られる所の「民衆的のもの」でない。そはただ極めて希有の作家にだけ許されたる「天才的のもの」である。この如何に自由詩が特種な天才的のものであるかといふことは、今日外國の詩壇に於て、自由詩の大家が極めて少數であることによつて見ても明白である。この點に關して、世俗の臆見ほど誤謬の甚だしいものはない。俗見は言ふ。自由詩の如く容易に何人にも作り得られる藝術はない。そこには何等の韻律もなく形式もない。單に心に浮んだ觀念を、心に浮んだ「出來合ひの言葉」で綴ればそれが詩である。――何と造作もないことであるよ。――自由詩の詩人であるべく、何の詩學も必要がなく、何の特種な詩人的天分も必要がない。我等のだれもが、すべて皆容易に一かどの詩人で有ることができると。然り、それは或ひはさうかも知れない。しかしながら彼等の中の幾人が、果して之れによつて成功し得るか。換言すれば、さういふ工合にして書かれた文章の中の幾篇が、讀者にまで、果して芳烈な詩的魅惑をあたへ得るか。恐らくは數百篇中の一が、僅かに辛うじて――しかも偶然の成功によつて――多少の詩的効果を贏ち得るだろう。その他の者は、すべて讀者にまで何の著しい詩的感興をもあたへない。なぜならばそこには何の高調されたるリズムも表白されて居ないから、卽ち普通の退屈な散文として讀過されてしまふから。かく既に詩としての効果を缺いたものは、勿論本質的に言つて詩ではない。故にまたそれは自由詩でない。

[やぶちゃん注:・「それに就いては後に自由詩の價値を論ずる場合に述べやう。」の「述べやう」はママ。

・「或ひは」はママ。

・「贏ち得るだろう」の「だろう」はママ。「贏ち得る」は「かちうる」と読み、「努力の結果として獲得する」の意。

・「讀過されてしまふ」「よみすごされてしまふ」と訓じておく。]

 けだし自由詩の創作は、特種の天才に非ずば不可能である。天才に非ずば、いかでその「心内の節奏」を「言葉の節奏」に作曲することができやうぞ。天才は何物にも束縛されず、自由に大膽に彼の情緖を歌ひ、しかもそれが期せずして美しき音樂の調律となるであろう。ただかくの如きは希有である。通常の詩人の學び得る所でない。之れに反して普通の定律詩は、槪して何人にも學び易く堂に入り易い。なぜならばそこでは、始から既に一定の調律がある。始から既に音樂の拍節がある。最初まづ我等は之れに慣れ、十分よくそのリズムの心像を把持するであらう。さらば我等の詩想は、それが意識されると同時に、常にこの音樂の心像と結びつけられ、互に融合して自然と外部に流出する。ここでは既に「韻律の軌道」が出來て居る。我等の爲すべき仕事は、單に情想をして軌道をすべらせるにすぎぬ。そは極めて安易であり自由である。然るに自由詩には、この便利なる「韻律の軌道」がない。我等の詩想の進行では、我等自ら軌道を作り、同時に我等自ら車を押して走らねばならぬ。之れ實に二重の困難である。言はば我等は、樂典の心像を持たずして音樂の作曲をせんとするが如し。眞に之れ「創造の創造」である。自由詩の「天才の詩形」と呼ばれる由所が此所にある。

[やぶちゃん注:・「作曲することができやうぞ。」の「やうぞ」はママ。

・「調律となるであろう。」の「あろう」はママ。

・「由所」はママ。既注。筑摩版は前の通り、「所以」と消毒。]

 定律詩の安易なる最大の理由は、たとへそれが失敗したものと雖も、尚相當に詩としての價値をもち得らることである。けだし定律詩には既成の必然的韻律がある故に、いかに内容の低劣な者と雖も、尚多少の韻律的美感を讀者にあたへることができる。しかして韻律的美感をあたへるものは、それ自ら既に詩である。實際、近世以前に於ては叙事詩といふ者があつた。叙事詩は、内容から言ふと明白に今日の散文であつて、歷史上の傳や、小的な戀物語やを、單に平面的に叙述した者にすぎないのであるが、その拍節の整然たる調律によつて、讀者をいつしか韻律の恍惚たる醉心地に導いてしまふ。したがつてその散文的な内容すらが、實體鏡で見る寫眞の如く空中に浮びあがり、一つの立體的な情調――卽ち「詩」――として印象されるのである。之れに反して自由詩の低劣な者には、全然どこにも韻律的な魅惑がない、卽ち純然たる散文として印象される。故に定律詩の失敗したものは尚且つ最低價値に於てのであることができるが自由詩の失敗したものは本質的に全くでない。定律詩の困難は、最初に押韻の方則を覺え、その格調の心像を意識に把持する、卽ち所謂「調子に慣れる」迄である。然るに自由詩の困難は無限である。我等は一篇每に新しき韻律の軌道を設計せねばならぬ。永久に、最後まで、調子に慣れるといふことがない。

[やぶちゃん注:・「もち得らる」はママ。筑摩版は「もち得られる」とする。

・「把持」(はぢ(はじ))は「しっかりと持つこと・固く握り持つこと」。]

 定律詩の形式に於ては、本質的の詩人でない人すら、尚よく技巧の學習によつて相應の階段に昇ることができる。人の知る如く、定律詩の中には教訓詩や警句詩や諷刺詩やの如き者すらある。此等の者は、情想の本質に於て詩と言ふべきでない。なぜならばそは一つの理智的な「槪念」を叙したものである。そこには何等の「感情」がない。よつて以てそれが詩のリズムを生む所の内部節奏――心の中の音樂――がない。しかも彼等は、之れに外部からの音樂――詩の定まれる韻律形式――をあたへ、それの節づけによつて歌はうとする。かくて本來音樂でないものが、拍節の故に音樂として聽えてくる。本來詩でないものが、形式の故に詩として批判される。勿論こは極端の例にすぎない。けれどもこれに類した者が、一般の場合にも想像されるだろう。實際多くの定律詩人の中には、何等その心の中に詩情の醱酵せる音樂を感ずることなく、單にその手慣れたる格調上の技巧によつて、容易に低調な思想を詩に作りあげてしまふ。性來全く詩人的天質を缺いて居たと想像される所の、或る日本の老學者は、自ら「古今集を讀むこと一千遍」にして詩人に成り得たと言つて居る。かくの如く定韻詩に於ては、詩の格調を會得し、その「外部からの音樂の作曲法」に熟達することによつて、とにかくにも一通りの作家となることができる。その價値の優劣を論じない限り、必しも「内部の音樂」の實在を必要としないのである。

[やぶちゃん注:「一般の場合にも想像されるだろう。」の「だろう」はママ。]

 之れに反して自由詩には、何等練習すべき樂典がなく、規範づけられたるリズムがない。自由詩の作曲に於ては、心の中の音樂がそれ自ら形體の音樂であつて、心内のリズムが同時に表現されたるリズムである。故にその心に明白なる音樂を聽き、詩的情操の醱酵せる抑揚を感知するに非ずば、自由詩の創作は全く不可能である。もし我等の感情に節奏がなく、高翔せる詩的氣分の抑揚――卽ち心内の音樂――を感知せずば、どうしてそこに再現さるべき音樂があろう。卽ちかかる場合の表現は何の快美なるリズムもない平旦の言葉となつてしまふ。世には自由詩の本領を誤解して居る人がある。彼等は自由詩の標語たる「心内の節奏(リズム)と言葉の節奏(リズム)との一致」を以て、單に「實感の如實的な再現」と解してゐる。これ實に驚くべき誤謬である。もしかくの如くば、すべての文學や小は皆自由詩である。詩の詩たる特色は、リズムの高翔的美感を離れて他に存しない。「心内の節奏」とは、換言すれば「節奏のある心像」の謂である。節奏のない、卽ち何等の音樂的抑揚なき普通の低調な實感を、いかに肉感的に再現した所でそれは詩ではない。なぜならばこの類の者は、既にその心像に快美なリズムがない。どうしてその再現にリズムがあり得やう。リズムとは單なる「感じ」を言ふのでなく、節奏のある「音樂的の感じ」を言ふのである。それ故に自由詩は、その心に眞の高翔せる詩的情熱をもつ所の、眞の「生れたる詩人」に非ずば作り得ない。心に眞の音樂を持たない人々にして、もしあへて自由詩の創作を試みるならば、そは單に「實感の如實的な表現」卽ち普通の散文となつてしまふであらう。そこでは「感じ」が出てゐる。しかも「リズム」が出ない。そしてその故に、そは詩としての効果――韻律の誘惑する陶醉的魅惑――を持つことができない。けだし自由詩の如きは、全く「選ばれたる人」にのみ許された藝術である。

[やぶちゃん注:・「再現さるべき音樂があろう。」の「あろう」はママ。

・「平旦」はママ。「平坦」の誤記か誤植。

・「リズムがあり得やう。」の「やう」はママ。]

 さて、今や我等は、文學史上に於ける一つの新しき槪念を構成しやう。そもそも所謂「韻文」と「散文」との對照は何を意味するか。韻文とは、言ふ迄もなく韻律を踏んだ文章である。しかしながらこの「韻律」といふ言葉は、舊來の意味と今日大に面目を一新した。したがつてまた「韻文」なる語の觀念も、今日に於て新しく改造されねばならぬ。從來の意味で言はれる限り、韻文は既に時代遲れである。ゲーテのフアウストやミルトンの失樂園やは、今日に於て既に詩の範圍に屬さない。韻文といふ言葉は、それ自身の響に於て古雅なクラシツクな感じをあたへる。そは時代の背後に榮えた前世紀の文學である。今日我等の新しき地球上に於て、もし現に「韻文」なる觀念がありとすれば、そは從來と全く別の心像を取るであらう。したがつてまた之れが對照たる「散文」も、一つの別な新しい觀念に立脚せねばならぬ。

[やぶちゃん注:・「構成しやう。」はママ。

・『「散文」との對照』筑摩版は「對照」を「對稱」に消毒している。]

 しばしば今日の文壇では、自由詩に對する小の類が散文と呼ばれる。この意味での「散文」とは何を意味するか。自由詩は舊來の意味での韻文でない。在來の觀念よりすれば自由詩は散文である。さらば自由詩に對して言ふ散文とは何の謂か。かかる稱呼は全く笑止なる沒見識と言はねばならぬ。しかしながら今日、韻文對散文の觀念はもはや舊來の如き者でない。自由詩以後、我々の韻律に對する定義は一變した。かつて韻律は拍子(拍節の周期律)を意味した。然るに新しき認識は、拍子がリズムの一内景に過ぎないことを觀破した。拍子以外、尚一つの旋律といふリズムがあるではないか。旋律こそは廣義の意味でのリズムである。かくて我々の「韻律」の槪念は擴大された。今日我々のいふ韻律の語意は實に「拍子(テンポ)」と「旋律(メロヂイ)」の兩屬性を包括する槪念、卽ち「言葉の音樂それ自體」を指すのであるしかも此等の拍子や旋律やが、單に言葉の音韻的配列によつてのみ構成されないことは前に述べた。この點に於ても、我々の韻律の觀念は昔と遙かに進步した。昔の詩人は單に言葉の形體に現はれた數學的拍節のみを考へた。然るに我々は一層徹底的なる心理上の考察から、形體の拍節を捨てて實際の拍節を選んだ、そしてこの目的から、我等の自由詩の詩學に於ては、單に言葉の音韻ばかりでなく、他の色調や味覺の如き「耳に聽えない拍節」さへも、同樣にリズムの一屬性として認識されて居る。

[やぶちゃん注:●「リズムの一内景」筑摩版初版はこれを「リズムの一分景」と誤植している。後の差し込みで訂正している。

『卽ち「言葉の音樂それ自體」を指すのであるしかも此等の拍子や旋律やが、』はママ。「指すのである」の後の句点落ち。しかし、これは『卽ち「言葉の音樂それ自體」を指すのである』で一行末となっており、当時の組版技術ではその外に禁則処理で句読点を打つことが物理的に不可能であったのかも知れず、こういう場合に、かく処理するのが一般的に行われていたものかも知れない。

 かくの如く、今日「韻律」の觀念は變化した。したがつてまた「韻文」の觀念も變化すべきである。今日言ふ「韻文」とは、單に拍子の樣々なる樣式に於て試みられる押韻律の文章を指すのでない。同樣にまた今日言ふ「散文」とは、その對象としての表現を言ふのでない。今日「韻文」と「散文」との相對的識別は、その外觀の形式になくして、主として全く内容の表現的實質に存するのである。たとへば今此所に二つの文學がある。その一方の表現に於ては、言葉が極めて有機的に使用され、その一つ一つの表象する心像、假名づかひや綴り語の美しい抑揚やが、あだかも影日向ある建築のリズムのやうに、不思議に生き生きとした魅惑を以て迫つてくる。一言にして言はば、作者の心内の節奏が、それ自ら言葉の節奏となつて音樂のやうに聽えてくる。之れに反して一方の文學では、しかく肉感性の高調された表現がない。ここでは全體に節奏の浪が低い。言葉はしかく音樂的でなくむしろ觀念の明に使用されてゐる。卽ち言語の字義が抽象する槪念のみが重要であつて、言葉の人格とも言ふべき感情的の要素――音律や、拍節や、氣分や、色調や、――が閑却されて居る。今此等二種の文學の比較に於て、前者は卽ち我等の言ふ「韻文」であり、後者は卽ち眞の「散文」である。そしてまた此の文體の故に、前者は明らかに「詩」と呼ばれ、後者は「小」もしくは「論文」もしくは「感想」と呼ばるべきである。

[やぶちゃん注:・『今日言ふ「散文」とは、その對象としての表現を言ふのでない』の「對象」を筑摩版は「對照」とする。この訂正はよかろう。

・「しかく」「然く・爾く」(副詞「しか」+副詞語尾「く」)で「そのように・そんなに」の意であろう。朔太郎の好んだ表現のようだ。]

 かく我等は、我等の新しき定義にしたがつて韻文と散文とを認別し、同時にまた詩と他の文學とを差別する。詩と他の文學との差別は、何等外觀に於ける形式上の文體に關係しない。(行を別けて橫に書いた者必しも詩ではない、のべつに書き下したもの必しも散文ではない。)兩者の區別は、全く感じ得られる内在律の有無にある。一言にして定義すれば「詩とはリズム(内的音樂)を明白に感じさせるもの」であり、散文とはそれの感じられないもの、もしくは甚だ不鮮明の者である。(故に詩と他の文學との識域はぼかしである。既に表現に於ける形式上の區別がない。さらば何を以て内容上の本質的定規とすることができやうぞ。詩の情想と散文の情想との間に、何かの本質的異別ある如く考ふるは妄想である。詩も小も、本質は同一の「美」の心像にすぎない。要はただその浪の高翔と低迷である。詩は實感の上位に跳躍し散文は實感の下位に沈滯する。必竟、此等の語の意味を有する範圍は相對上の比較に止まる。對を言へばすべて空語である。我等の言葉は對を避けやう。)

[やぶちゃん注:・「本質的定規とすることができやうぞ。」の「やうぞ」はママ

・「空語」(くうご)は「根も葉もない言葉・嘘・空言」の意。

・文末の「避けやう。」はママ。]

 さてそれ故に、今日自由詩に對して言はれる一般の通義は適當でない。一般の通義は、自由詩をさして「散文で書いた詩」と稱して居る。けだしこの意味で言ふ散文とは、過去の韻文に對して名稱した散文である。かかる意味での「散文」は、今日既に意味を持たない。自由詩以後、我等の新しき文壇で言はれる「散文」對「韻文」の觀念は上述の如くである。そしてこの改造されたる名稱にしたがへば、自由詩は決して「散文」で書いたものでなく、また「散文的」の態度で書いたものでもない。自由詩の表現は、明白に高調されたる「韻文」である。新しき意味での韻文である。この同じ理由によつて、自由詩の別名たる「散文詩」「無韻詩」の名稱は廢棄さるべきである。かかる言葉は本質的に矛盾してゐる。散文であつて無韻律であつて、しかも同時に詩であるといふことは不合理である。自由詩は決して「散文で書いた詩」でもなく、また「リズムの無い詩」でもない。(今日の詩壇で言ふ「散文詩」の別稱は、高調叙情詩に對する低調叙情詩を指すこともある。この場合はそれで好い。それが「より散文に近い」の語意を示すから)

 およそ上述の如きものは、實に自由詩の具體的本質である。しかしながら次の章にく如く、自由詩は必しも完全至美の詩形でない。自由詩の多くの特色と長所とは、同時にまたその缺陷と短所である。されば近き未來に於て、或は萬一自由詩の詩壇から廢棄される運命に𢌞するなきやを保しがたい。しかも我等の確く信ずる所は、この場合に於てすら、自由詩の哲學そのもの――リズムに關する新しき解――は、永遠に不滅の眞理として傳統され得ることである。けだし自由詩の詩壇にあたへた唯一の功績は、その韻律の新奇にして徹底せる見識にある。

[やぶちゃん注:「詩壇から廢棄される運命に𢌞するなきや」の「𢌞」は筑摩版では「會」の訂正されてある。ここはその訂正がよかろう。]

 

 

    

 自由詩のリズムとその本質に就いては、既に前章で大要をきつくした。しかしながら「自由詩の價値」に就いては尚多くの疑問と宿題とが殘されて居る。最後の問題として、簡單に一言しやう。

[やぶちゃん注:・文末「しやう。」はママ。]

 本來、自由詩の動機は、文藝上に於ける自由主義の精神から流出してゐる。自由主義の精神! それは言ふ迄もなく形式主義に對する叛逆である。「形式よりも内容を」と、かく自由主義の標語は叫ぶ。しかしながら元來、藝術にあつては形式と内容とが不二である。形式と内容とは、しかく抽象的に離して考へらるべきものでない。形式は外殼であり、内容は生命であると考ふる如きは、肉體と靈魂を二元的に見た古代人の生命觀の如く、最も笑ふべき幼稚な妄想に屬する。文藝上に於ける形式主義と自由主義とは、もとよりその本質的價値に於て何等の優劣もない。なぜならば彼等の意識する美は――卽ち彼等の趣味は――始から互にその特色を別にする。そしてこの趣味の相異が、各々の主義の分派となつて現はれた。事實はかうである。形式主義とは、空間的、繪畫的の美を愛する一派の趣味である。この趣味の表現にあつては、必然的に形式が重大な要素となる。否、形式の完美が卽ち内容それ自身である、之れに對して自由主義とは、時間的、音樂的の美を愛溺する主觀派である。この趣味の表現では何等形式上の美を必要としない。彼等の求めるものは感情や氣分の肉感的發想である。そしてこの要求の故に、彼等は形式美を排斥して所謂内容(感情や氣分)の自由發想を主張する。

 近代に於ける藝術の潮流は、實に形式主義――それは古代の希臘藝術やゴシツク建築やによつて高調された――の衰退から、次いで新興した自由主義の優勢を示してゐる。あらゆる藝術の傾向は、すべて「眼で見る美」よりは「心で聽く美」、「形式の完美」よりは「感情の充實、卽ち一言にして言へば「繪畫より音樂へ」の潮流に向つて流れて居る。かのあらゆる一切の形相を假象として排斥し、ひたすら時間上の實在性を捕捉しやうとした象徵主義、藝術上に於ける音樂至上主義を主張した象徵主義の如きも、實にこの時流的自由主義の精神を極端に高調したものに外ならぬ。

[やぶちゃん注:・『「形式の完美」よりは「感情の充實、卽ち』はママ。『「形式の完美」よりは「感情の充實」、卽ち』の鍵括弧閉じるの脱落。

・「捕捉しやうとした」はママ。

 自由詩は實にかくの如き精神によつて胎出された。したがつて自由詩は、本質的に主觀的、感情的、象徵的、音樂的である。自由詩の趣味は、根本的に古典派や高踏派と一致しない。此等の詩派が形式の美を尊重するのは、彼等の内容から見て必然である。彼等にとつて「形式の美」は卽ち「内容の美」である。然るに自由詩は、何等空間的の形式美を必要としない。なぜならば自由主義の美は、空間的の繪畫美でなくして時間的の音樂美であり、その形式は「眼に映る形式」でなく「感じられる形式」を意味するから。

 以上の如き精神は、實に自由詩の根本哲學である。この哲學によつて、自由詩は定律詩に戰を挑んだ。これによつて定律詩のあらゆる形式を破壞しやうと試みた。確かに、この戰爭は――その優勢なる時代的潮流に乘じて居る限り――自由詩のために有利であつた。一時殆んど定形詩派は蟄伏されてしまつた。しかしながら最近、歐羅巴の詩壇に於てその猛烈な反動が現はれた。かの新古典派や新定律詩派の花々しい運動が之れである。最も致命的な逆襲は、象徵主義そのものに對する一派の著しい反感である。象徵主義にして否定されんか、自由詩の唯一の城塞は根柢から覆されてしまふ。

[やぶちゃん注:・「破壞しやうと試みた」はママ。

・「蟄伏」(ちつぷく(ちっぷく))は「蛇・蛙・虫などが、冬の間、地中に籠っていること」から転じて、「表に出ずに籠っていること。潜んでいること」の意。]

 自由詩に對する定律派の非難は、それが不完全なる未成品の藝術にすぎないと言ふにある。實例としても、自由詩の多くは散文的惰氣に類して、その眞に成功し、詩としての十分な魅惑を贏ち得たものは、僅かに少數を數へるに過ぎない。しかもその少數の成功も多くは偶然の結果である。これによつて見ても、自由詩は藝術的未成品であると彼等は言ふ。特に新定律詩派の如きは、自由詩を目して明かに過度期の者と稱して居る。彼等のに依れば、詩の發育の歷史は、原始の單純素樸なる自然定律の時代から、未來の複雜にして高遠なる新定律の形式に移るべきで、自由詩はこの中間に於ける過度期の不定形律にすぎない。それは過去の幼稚なる詩形の破壞を目的とする限りに於て啓蒙時代の産物である。それ自身に於ては獨立せる創造的價値を持たないと。もし自由詩にして、單に定律詩形の破壞を目的とし、その意味での自由を叫ぶ以外、それ自身の獨立した詩學を持たないならば確かに彼等の言ふ如き無價値のものであらう。けだし藝術に於ける「型」の破壞は、多くの場合、次いで現はるべき「型」への創造を豫備するからである。

[やぶちゃん注:・二箇所の「過度期」はママ。筑摩版は「過渡期」と訂正する。最終段落に「過渡期」と出る。]

 しかしながら自由詩に對する、一つの最も恐るべき毒牙は、直接我々の急所に向つて嚙みついてくる。既に述べた如く、自由詩の特色はその「旋律的な音樂」にある。心内の節奏と言葉の節奏との一致、情操に於ける肉感性の高調的表現、これが自由詩の本領である。故に自由詩のリズムは、自然に旋律的なものになつてくる。旋律本位になつてくる。したがつてまた非拍節的なものになつてくる。卽ち格調の曖昧な、拍子の不規則な、タクトの散漫で響の弱いものとして現はれる。しかしてかくの如きは、一面自由詩の長所であると同時に、一面實にその著しい缺點である。およそ自由詩を好まない所の人――自由詩は音樂的でないといふやうな人――は、すべて皆この短所に向つて反感を抱くのである。

 拍節の不規則からくる、このタクトの薄弱な結果は、詩をして甚だしく力のない弱弱しいものにしてしまふ。「自由詩は何となく散文的で薄寢ぼけてゐる」といふ一般の非難は正當である。自由詩にはこの「力」がない。したがつてそれは多く散文的な薄弱な感じをあたへる。之に反して定律詩の味は、その拍節の明確な響からくる力い躍動にある。多くの場合、定律詩の感情は、自由詩に比してはつきりと響いてくる。勿論そこには自由詩のやうな情感の複雜性がない。けれども單純に、衝動的に、一つの逞ましい筋肉の力を以て迫つてくる。この事實は、最も幼稚な定律詩である民謠や牧歌の類を取つて見ても明らかである。そのリズムは單純であるけれども「力」がある。く、逞ましく、直接まつすぐにぶつかつてくる力がある。然るに自由詩にはそれがない。何と自由詩のリズムが薄弱であることよ、殆んどそれは散文的なかつたるい感じしかあたへない。これ皆自由詩が旋律本位であつて拍節本位でないためである。既に述べた如く、旋律は拍節の部分的なもの、言はば「より細かいリズム」である故に、しぜんその感じは纖細軟弱となり、スケールの豪壯雄大な情趣を缺いてくる。この點から見ても、自由詩は全然民衆的のものでない。民衆のもつ粗野で原始的なリズムは、牧歌や民謠の中に現はれた、あの拍節の明晣な、力のい、筋肉の健な、あの太くがつしりとしたリズムである。自由詩のリズムは、むしろ貴族者流の薄弱で元氣のない生活を思はせる。民衆は決して自由詩を悅ばず、また自由詩に親しまうともしないのである。

[やぶちゃん注:この「自由詩の價値」の章内では傍点に変化がある。太字は底本では傍点「ヽ」で、下線を施した部分は前章で用いられた「・」(少しだけ大きめの黒点)である。以下、同じなのでこの注は略す。]

 自由詩に對する、最も忌憚なき憎惡者は新古典派である。彼等のによれば、象徵主義は「肉體のない靈魂の幽靈」であり、自由詩はその幽靈の落し兒である。古典派の尊ぶものは、莊重、典雅、明晣、均齊、端正等の美であるのに、すべて此等は自由詩の缺くところである。彼等の趣味にまで、自由詩の如く軟體動物の醜惡を感じさせるものはない。そこには何等の確乎たる骨格がない。何等の明晣なタクトがない。何等の力あるリズムがない全體に漠然と水ぶくれがして居る。ふわふわしてしまりがなく、薄弱で、微溫的で、ぬらぬらして、そして要するに全く散文的である。けだし自由詩のリズムは主として「心像としての音樂」である故に、いつも幽靈の如く意識の背後を彷徨し、定律詩の如き壯にして確乎たる魅力を示すことがない。すべてに於て自由詩は不健康であり病弱である。そは世紀末の文明が生んだ一種の頽廢的詩形に屬すると。

[やぶちゃん注:「何等の力あるリズムがない全體に漠然と水ぶくれがして居る。」はママ。「何等の力あるリズムがない。全體に漠然と水ぶくれがして居る。」の句点脱落。やはり、ここも「何等の力あるリズムがない」で行末であるから、先に私が推測した仕儀の可能性がある。]

 およそ前述の如きものは、自由詩に對する最も根本的の非難である。そこには最も毒々しい敵意と反感とが示されて居る。しかしこの類の議論は、結局言つて「趣味の爭ひ」にすぎぬ。定律詩と自由詩、古典主義と自由主義とは、本質的にその「美」の對象を別にする。自由詩の求める美は、始より既に「旋律本位の美」である。この趣味に同感する限り、自由詩のリズムは限りなく美しい。しかしてその同じことが、一方の定律詩に就いても言へるだろう。もし我等の趣味が「拍子本位の美」に共鳴しないならば、そは全然單調にして風情なき無價値のものと考へられる。かくの如き論議は、必竟趣味の相違を爭ふ水かけ論にすぎないだろう。ただ上述のことは、自由詩の特色が一方から見て長所であると同時に、一方から見て短所であるといふ事實を示したにすぎぬ。しかしてこの限りに於ては、別に論議すべき何の問題もない。

[やぶちゃん注:・「一方の定律詩に就いても言へるだろう。」水かけ論にすぎないだろう。」の「だろう」は孰れもママ。]

 そもそもまた自由詩が「過渡期のもの」であつて、未來詩形への假橋にすぎないと言ふ如きに對しては、此所に全く論ずべき限りでない、新定律詩派の所謂「未來詩形」とは如何なるものか。今日我等の聞くところによれば、そは未だ一つの學にすぎない。實證なき机上の理論にすぎない。しかして藝術の自由なる創作が、文典や詩形の後に生れると云ふ如き怪事は、未來に於ても容易に想像を許さないところである、よしそれが實現された所で、かかる種類の細工物は眞の藝術と言ひがたい。さらば今日に於て我等の選ぶべき唯一の詩形はどこにあるか。けだし我等の自由詩に對する興味は、むしろそれが一つの「宿題」であり「疑問」であり、且つまた「未成品」でさへある所にある。あへて我等は、自由詩の價値そのものを問はないのである。

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥付。画像のみで示す。] 

 

Aonekookuduke

 

 

2019/01/19

遠い昔の少女

遠い、昔の教え子の少女と、電話で話した――涙が落ちそうになった――僕は――「もうお仕舞いだ」――と思った…………

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 軍隊

 

 

 

 ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿

 

[やぶちゃん注:上記は二一一ページ(左ページ)中央にこれのみある前パート「艶めける靈魂」との遮断を意味する奇体な記号である。底本の「⦿」は中の黒丸が大きく、外側の円との間がもっと狭い。

 

 

 

  軍  隊

      通行する軍隊の印象

この重量のある機械は

地面をどつしりと壓へつける

地面はく踏みつけられ

反動し

濛濛とする埃をたてる。

この日中を通つてゐる

巨重の逞ましい機械をみよ

黝鐵の油ぎつた

ものすごい頑固な巨體だ

地面をどつしりと壓へつける

巨きな集團の動力機械だ。

 づしり、づしり、ばたり、ばたり

 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

 

この兇逞な機械の行くところ

どこでも風景は褪色し

黃色くなり

日は空に沈鬱して

意志は重たく壓倒される。

 づしり、づしり、ばたり、ばたり

 お一、二、お一、二。

お この重壓する

おほきなまつ黑の集團

浪の押しかへしてくるやうに

重油の濁つた流れの中を

熱した銃身の列が通る

無數の疲れた顏が通る。

 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく

 お一、二、お一、二。

 

暗澹とした空の下を

重たい鋼鐵の機械が通る

無數の擴大した瞳孔(ひとみ)が通る

それらの瞳孔(ひとみ)は熱にひらいて

黃色い風景の恐怖のかげに

空しく力なく彷徨する。

疲勞し

困憊(ぱい)し

幻惑する。

 お一、二、お一、二

 步調取れえ!

 

お このおびただしい瞳孔(どうこう)

埃の低迷する道路の上に

かれらは憂鬱の日ざしをみる

ま白い幻像の市街をみる

感情の暗く幽囚された。

 づしり、づしり、づたり、づたり

 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

 

いま日中を通行する

黝鐵の凄く油ぎつた

巨重の逞ましい機械をみよ

この兇逞な機械の踏み行くところ

どこでも風景は褪色し

空氣は黃ばみ

意志は重たく壓倒される。

 づしり、づしり、づたり、づたり

 づしり、どたり、ばたり、ばたり。

 お一、二、お一、二。

 

[やぶちゃん注:これも一箇所、問題がある。二一四ページと二一五ページは見開きであるが、その版組は二一四ページ(右ページ)が明らかに物理的に一行空けて、

   *

 

この兇逞な機械の行くところ

どこでも風景は褪色し

黃色くなり

日は空に沈鬱して

意志は重たく壓倒される。

 づしり、づしり、ばたり、ばたり

 お一、二、お一、二。

   *

であるが、その左ページの二一五ページは明らかに一行目から、

   *

お この重壓する

おほきなまつ黑の集團

浪の押しかへしてくるやうに

重油の濁つた流れの中を

熱した銃身の列が通る

無數の疲れた顏が通る。

 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく

 お一、二、お一、二。

   *

と印字されている。即ち、版組上は、この二つのパートは続いたものとして印刷されているのである。本「靑猫」初版の一ページ行数は八行であるから、これは続いた一連を成しているとしか読めないのである。従って、上記のように電子化した。しかし、筑摩書房はここに行空けを施しており、現行の本長詩「軍隊」は総てここに行空けがある(再録された三種の詩集でも行空けがある。なお、「定本靑猫」には再録されていない)。確かに、これは全体の構成上は行空けを施して自然ではあるし、初出でも行空けがある。或いはまた、朔太郎は初刷り見本で、見開き部分で行空きがあるように感じられるから、これでよしとしたものとも思われる。それでも――正規表現版としては行空けはなし――なのである。これは――ただの拘り――されど拘り――である。朔太郎の亡霊に聴かない限りは永久に判らぬ。

 さても、初出は大正一一(一九二二)年三月号『日本詩人』であるが、有意な異同も以上のケースと絡んだような怪しげなもので、冒頭、

   *

この重量のある機械は

地面をどつしりと壓へつける

地面はく踏みつけられ

反動し

濛濛とする埃をたてる。

   *

の後に一行空けがあって、「この日中を通つてゐる」以下が第二連となっているのだが、本詩集「靑猫」では、その間は、またしても見開き改ページなのである。……「にやり」と笑って……何も語らぬ萩原朔太郎が……そこにも……居るのかも知れぬ……

 初出は他には「 づしり、づしり、ばたり、ばたり」の読点がなく、「 づしり づしり ばたり ばたり」と字空けとなっている他、「お 」が逆に「お、」と読点になっている以外には、私は有意な異同を認めない。

「黝鐵」後の複数の再録詩集で萩原朔太郎は「くろがね」とルビしている。

「兇逞」は「きようてい」(新潮文庫版で正しくルビする)で、朔太郎の造語であろう。「恐ろしまでに或いは凶悪なまでに逞(たくま)しいこと」であろう。

 なお、昭和五四(一九七九)年講談社(学術文庫)刊の那珂太郎氏の「名詩鑑賞 萩原朔太郎」の「軍隊」の鑑賞文「軍隊批判のリズム」には(太字は底本では傍点「ヽ」)、

   《引用開始》

 六つの章にまとめられた詩集『青猫』の、どの章にも入れるにふさわしい所を得ぬふうに、この作品は、⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿という奇怪な見出しのもとに一篇だけ孤立して、末尾に置かれています。たしかにこれは、「青猫」ばかりでなく彼の全作品中でも例外的なものとの印象を人に与えます。彼自身もまた詩集刊行後に書いています。「最後の一篇「軍隊」は、私として不愉快だつたから削るつもりだつたが室生犀星氏と佐藤春夫氏に激賞されたので出す気になつた。自分で嫌ひな作は人に讃(ほ)められ、自分で好きな作は人から認められない。奇体なものである。」(『青猫』追記)「不愉快」といい「嫌ひな作」というのは、この作の異質性に対する作者自身のいつわりない気持ちだったでしょう。そして「室生犀星氏と佐藤春夫氏」がどういう理由でこの作を「激賞」したかはよくわかりませんが、いずれにしろ、これを朔太郎の特異な作品として注目するのは、今日のぼくらの自由です。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

とある。この朔太郎の言葉はネット上のサイト「恩田世界」の「『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』の創作のモティーフの中にも、

   《引用開始》

この「軍隊」という詩は、『青猫』の最後に一編だけ浮き上がったような形で置かれている。これをのぞくすべての詩が浪漫的・叙情的な色合いをもっているので、詩集全体としてとらえると奇異な感じを抱かざるを得ない。さらにこの詩は、他の詩の「片恋」「夢」「春宵」といった浪漫的な題名とは大きく異なっているばかりでなく、題名の前に「◎◎◎」というような意味不明の記号が九つも醜く並んで置かれているのである[やぶちゃん注:ママ。]。この記号の意味するものが果たして軍隊なのか、それとも別の意味合いを持っているのかはわからないが、朔太郎自身はこの詩をあまり気に入っていなかったようだ。彼は、『青猫』の追記の中で、「最後の一編『軍隊』は、私として不愉快だったから削るつもりだったが、室生犀星氏と佐藤春夫氏に激賞されたので出す気になった。自分で嫌いな作は人に誉められ、自分の好きな作は人から認められない。奇体なものである」と書いている。この場合、朔太郎がこう述べたのは、おそらく一冊の詩集としては統一性に欠けるという意味であったろう。他の作品がすべて先に述べたように浪漫的で非現実的な美しい世界をあらわしているのに対して、この作品はきわめて現実的な醜い世界を恐ろしいまでのリアリティーを備えて表現されている。

   《引用終了》

と引かれてあるのであるが、不思議なことに、「『靑猫』追記」「『靑猫』の追記」という文章は、筑摩書房版「萩原朔太郎全集」(全巻所持)の昭和五三(一九七八)年刊の第十五巻の「索引」にも、後の一九八九年の二月に刊行された「補卷」(この一書のみを所持)の「索引」にも、載らないし、これが記されていてもいいような題名の文章をつまびらいて見ても、ない、のである。どなたかご存じの方は正式な標題か、以上の二氏が引いている元を御存じの方は御教授願いたい。

 なお、私は、本詩篇が〈軍隊の持つ非人間的機関性〉を痛烈に揶揄している、広義の「反戦詩」であるという大方の捉え方に異存はない。だからと言って、この詩を以って萩原朔太郎を「反戦詩人」であったとも全く思わないことは言い添えておく。そもそも「反戦詩人」というのは「境涯の俳人」などと同じく、胡散臭いニュアンスをさえ感ずる。金子光晴の「落下傘」を以って金子を「反戦詩人」と称賛するような輩とは私は天を同じうしない者である。]

 

 

 

詩 集 靑  猫  

 

[やぶちゃん注:上記は二二〇ページ(右ページ)に最終行(前は空白で、長詩「軍隊」は二一九ページで終わっている)にただ一行配されてある。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 春宵

 

  春   宵

 

嫋(なま)めかしくも媚ある風情を

しつとりとした襦袢につつむ

くびれたごむの 跳ねかへす若い肉體(からだ)を

こんなに近く抱いてるうれしさ

あなたの胸は鼓動にたかまり

その手足は肌にふれ

ほのかにつめたく やさしい感觸の匂ひをつたふ。

 

ああこの溶けてゆく春夜の灯かげに

厚くしつとりと化粧されたる

ひとつの白い額をみる

ちひさな可愛いくちびるをみる

まぼろしの夢に浮んだ顏をながめる。

 

春夜のただよふ靄の中で

わたしはあなたの思ひをかぐ

あなたの思ひは愛にめざめて

ぱつちりとひらいた黑い瞳(ひとみ)は

夢におどろき

みしらぬ歡樂をあやしむやうだ。

しづかな情緖のながれを通つて

ふたりの心にしみゆくもの

ああこのやすらかな やすらかな

すべてを愛に 希望(のぞみ)にまかせた心はどうだ。

 

人生(らいふ)の春のまたたく灯かげに

嫋めかしくも媚ある肉體(からだ)を

こんなに近く抱いてるうれしさ

處女(をとめ)のやはらかな肌のにほひは

花園にそよげるばらのやうで

情愁のなやましい性のきざしは

櫻のはなの咲いたやうだ。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年一月号『日本詩人』初出。初出では「みしらぬ歡樂をあやしむやうだ。」と「しづかな情緖のながれを通つて」の間に行空けがある他は(ここは底本では見開きの左右ページに分断される版組であるが、後のページ冒頭に物理的に行空けは見られない)、表記の違いや誤字と思われるものを除いて、有意な差を認めない。本篇は「定本靑猫」には再録されていない。本篇を以って最終パート「艶めける靈魂」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 夢

 

  

 

あかるい屛風のかげにすわつて

あなたのしづかな寢息をきく。

香爐のかなしいけむりのやうに

そこはかとたちまよふ

女性のやさしい匂ひをかんずる。

 

かみの毛ながきあなたのそばに

睡魔のしぜんな言葉をきく

あなたはふかい眠りにおち

わたしはあなたの夢をかんがふ

このふしぎなる情緖

影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

薄暮のほの白いうれひのやうに

はるかに幽かな湖水をながめ

はるばるさみしい麓をたどつて

見しらぬ遠見の山の峠に

あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

 

ああ なににあこがれもとめて

あなたはいづこへ行かうとするか

いづこへ いづこへ 行かうとするか

あなたの感傷は夢魔に饐えて

白菊の花のくさつたやうに

ほのかに神祕なにほひをたたふ。

         
(とりとめもない夢の氣分とその抒情)

 

[やぶちゃん注:驚くべきことに、本詩篇の筑摩書房版校訂本文は前の戀」で犯した過ちと全く同じことをやっているのである! そこでは、第二連が、

   *

かみの毛ながきあなたのそばに

睡魔のしぜんな言葉をきく

あなたはふかい眠りにおち

わたしはあなたの夢をかんがふ

このふしぎなる情緖

影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

 

薄暮のほの白いうれひのやうに

はるかに幽かな湖水をながめ

はるばるさみしい麓をたどつて

見しらぬ遠見の山の峠に

あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

   *

と二連に分かれているからである。

 確かに初出である大正一一(一九二二)年一月号『日本詩人』では二連になってはいる。

 ところが、底本である初版本は、この箇所で改ページとなっているが、二〇三の左ページ通常版組の最終行で「影なきふかい想ひはどこへ行くのか。」となり、次の二〇四の右ページは通常版組の第一行から「薄暮のほの白いうれひのやうに」と印字されているのである。物理的に計測してみたが、疑問の余地は全くない。敢えて言えば、句点があるから改行となるのであろうが、後者にはその空行はないのである。

 即ち、「靑猫」の「夢」には、ここに空行はない、のである。

 筑摩版全集はこの行空き操作を校異で述べていない

 即ち、筑摩版全集編者は、初版「靑猫」の行空き無しを見落とし、初出に従って行空きを施してしまったのであると考えざるを得ない。

 ところが、校異を見ると、朔太郎は後の昭和三(一九二八)年第一書房版「萩原朔太郎詩集」では、ここを行空き無しとしている、のである。これは「片戀」の場合と同じである(但し、この詩篇は他に第一書房版の前の大正一二(一九二三)年刊の詩集「蝶を夢む」と、第一書房版の後の昭和一一(一九三六)年新潮文庫刊「萩原朔太郎集」に再録されているが、校異を見る限りでは、行空けは、ある、ようである)

 ただ、詩篇の流れからは、この詩篇の場合は、前の戀」と異なり、ここには空行があってよいとは思う。

 しかしながら、詩集「靑猫」としては、前の「片戀」と同じく、向後、全集が改訂される時は、この行空けを除去するべきであり、選集に選ぶ際も、行空き無しで示されねばならないと私は思う。

 初出は以下。細部や終りの添え辞に異同が認められる。

   *

 

  

 

あかるい屛風のかげにすわつて

あなたのしづかな寢息をきく。

香爐のかなしいけぶりのやうに

そこはかとたちまよふ

女性のやさしい匂ひをかんずる。

 

かみの毛ながきあなたのそばに

睡魔のしぜんな言葉をきく

あなたはふかい眠りにおち

わたしはあなたの夢をかんがふ

このふしぎなる情緖

影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

 

薄暮のほの白いうれひのやうに

はるかに幽かな湖水をながめ

はるばるさみしい麓をたどつて

みしらぬ遠見の上の峠に

あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

 

ああ なにゝあこがれもとめて

あなたはいづこへ行かうとするか

いづこへいづこへ行かうとするか

あなたの感傷は夢魔に酢えて

白菊の花のくさつたやうに

ほのかな神祕なにほひをたたふ。

    
 (とりとめもなき仄かな夢の氣分を、
      
私はこの詩で漂渺させやうと試みた。)

 

   *

「みしらぬ遠見の上の峠に」の「上」及び添え辞の「漂」(正しくは「縹」)や「させやう」はママ。

 なお、本篇は「定本靑猫」には再録されていない。本篇を以って最終パート「艶めける靈魂」は終わっている。]


 

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 片戀

 

  片  戀

 

市街を遠くはなれて行つて

僕等は山頂の草に坐つた

空に風景はふきながされ

ぎぼし ゆきしだ わらびの類

ほそくさよさよと草地に生えてる。

君よ辨當をひらき

はやくその卵を割つてください。

私の食慾は光にかつえ

あなたの白い指にまつはる

果物の皮の甘味にこがれる。

 

君よ なぜ早く籠をひらいて

鷄肉の 腸詰の 砂糖煮の 乾酪(はむ)のご馳走をくれないのか

ぼくは飢ゑ

ぼくの情慾は身をもだえる。

 

君よ

君よ

疲れて草に投げ出してゐる

むつちりとした手足のあたり

ふらんねるをきた胸のあたり

ぼくの愛着は熱奮して 高潮して

ああこの苦しさ 壓迫にはたへられない。

 

高原の草に坐つて

あなたはなにを眺めてゐるのか

あなたの思ひは風にながれ

はるかの市街は空にうかべる

ああ ぼくのみひとり焦燥して

この靑靑とした草原の上

かなしい願望に身をもだえる。

 

[やぶちゃん注:「かつえ」はママ(正しい歴史的仮名遣「かつゑ」(餓(飢)ゑ))。

 本詩篇の筑摩書房版校訂本文には大きな問題がある。そこでは、第一連が、

   *

市街を遠くはなれて行つて

僕等は山頂の草に坐つた

空に風景はふきながされ

ぎぼし ゆきしだ わらびの類

ほそくさよさよと草地に生えてる。

 

君よ辨當をひらき

はやくその卵を割つてください。

私の食慾は光にかつゑ

あなたの白い指にまつはる

果物の皮の甘味にこがれる。

   *

と二連に分かれているからである。

 確かに初出である大正一一(一九二二)年五月号『婦人公論』では二連になってはいる。

 ところが、底本である初版本は、この箇所で改ページとなっているが、一九七の左ページ通常版組の最終行で「ほそくさよさよと草地に生えてる。」となり、次の一九八の右ページは通常版組の第一行から「君よ辨當をひらき」と印字されているのである。物理的に計測してみたが、疑問の余地は全くない。敢えて言えば、句点があるから改行となるのであろうが、後者にはその空行は、ない、のである。さらにに句点を問題とするのであれば、「はやくその卵を割つてください。」の後はどうなるのか? というイチャモンをつけたくなるのは正当な反論であると言えるのではないか?

 ともかく、「靑猫」の「片戀」には、ここに空行はない、のである。

 筑摩版全集は後に示すように、校異では「乾酪(はむ)」のルビについて神経症的とも言える細密な注を附しているにも拘わらず、この行空き操作を校異で述べていない

 即ち、筑摩版全集編者は、初版「靑猫」の行空き無しを見落とし、初出に従って行空きを施してしまったのであると考えざるを得ない。

 ところが、校異を見ると、朔太郎は後の昭和三(一九二八)年第一書房版「萩原朔太郎詩集」では、ここを行空き無しとしている、のである(この詩篇はそれ以外には再録されていない)。

 詩篇の主題や主情の高まりの流れから見ても、私はここに空行はいらないと考える。朗読してみれば、判る。ここにブレイクは、いらない。

 向後、全集が改訂される時は、詩集「靑猫」本文としては、この行空けを除去するべきであり、選集に選ぶ際も、行空き無しで示されねばならないと私は思う。

 初出は総ルビ。表記違いや誤り以外は有意な相違を認めない。

「片戀」「かたこひ」と読んでおく。片思いと同義。

「ぎぼし」「擬寶珠」。単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ Hosta のギボウシ類で本邦には二十種ほどが自生するが、特に東北から中部地方の一部で「ウルイ」、西日本で「ギボウシ」「タキナ」などの名で「山菜」として若芽・若葉などが食用とされる、オオバギボウシ Hosta sieboldiana が最も人口に膾炙する。

「ゆきしだ」「雪羊齒」のつもりだろうが、そんなシダ類は私は知らない。思うに、前後の植物が食用になることを考えると、これは、双子葉植物綱ユキノシタ目ユキノシタ科ユキノシタ属ユキノシタ Saxifraga stolonifera であろうと推定する(本種は「生物」の授業の葉裏の気孔の顕微鏡観察でよく知られるが、天ぷらにすると美味い)。

「わらび」「蕨」。既出既注。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinum

「乾酪(はむ)」ルビは「ハム」で、言わずもがな、英語の「ham」、豚肉・猪肉の腿肉を塊のまま塩漬けした或いは燻製にしたあれであるが、漢字表記「乾酪」はそれではなく、正真正銘の「チーズ」である。筑摩版全集「校異」には以下の注が附されてある。

   《引用開始》

「乾酪」は、その漢字を生かすならばルビは「ちいず」と振らねばならず、ルビを生かそうとすれば漢字を改めねばならない。しかしこの詩の初出は大正十一年五月號の

「婦人公論」に發表された總ルビのものであるため、「はむ」というルビが作者自身の振ったルビかどうか、はっきりしない。作者の意向がルビの方にあったと判断したためか、これを生かして漢字を「燻肉(はむ)」と改めた諸本もあるが、作者がチーズを考えていたのではないかという見方も捨てるわけにいかない。また、この詩には草稿が残っていないので、それを参考にすることができない。作者の生存中に發行された諸刊本も、すべて「乾酪(はむ)」のままである。したがって本全集としては、例外的措置として、この諸に関する限りはあえて校訂を加えず、原形のままにとどめることにした。

   《引用終了》

しかし、ここでの問題は、萩原朔太郎自身が本詩集「靑猫」に採るに際し、「乾酪」に「はむ」とわざわざ振ったのか? という一点に収斂する。総ルビは何度も言った通り、高い確率で作者が原稿に振ったものではない。しかし、本詩集の本詩篇に於いて、ここでここにのみ「乾酪(はむ)」としたのは、萩原朔太郎の確信犯であると読まねばならないということである。即ち、朔太郎は初出でも例外的に「乾酪(はむ)」にのみルビを振って原稿を出したのではないか? と私は考える。即ち、これは朔太郎にしばしば見られる誤った語の意味や読みに対する難治性の思い込みであると捉えるのである。これは例えば、彼は、広く干し肉を表わす「乾脯」「乾腊」と「燻肉」或いは「はむ(ハム)」を、まず、ごっちゃにしてイメージ誤認のままに記憶しており、さらにそこから、「チーズ」と読むべき「乾酪」という熟語の「乾」に、思わず、先の誤記憶のイメージが侵略してきてしまい、「ちいず」「チーズ」を示す――「乾酪」という熟語を「はむ」「ハム」と読むのだ――と思い込んでいた可能性を示唆していると私は考えるのである。大方の御叱正を俟つ。

「熱奮」「ねつふん」或いは「ねつぷん(ねっぷん)」か。前者で読んでおく。見かけない。反転した「奮熱(ふんねつ)」なら、「奮(ふる)い立って、夢中になること」の意がある。

 なお、本篇は「定本靑猫」には再録されていない。

2019/01/18

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 花やかなる情緖

 

  花やかなる情緖

 

深夜のしづかな野道のほとりで

さびしい電燈が光つてゐる

さびしい風が吹きながれる

このあたりの山には樹木が多く

楢(なら)、檜(ひのき)、山毛欅(ぶな)、樫(かし)、欅(けやき)の類

枝葉もしげく鬱蒼とこもつてゐる。

 

そこやかしこの暗い森から

また遙かなる山山の麓の方から

さびしい孤燈をめあてとして

むらがりつどへる蛾をみる。

蝗(いなご)のおそろしい群のやうに

光にうづまき くるめき 押しあひ死にあふ小蟲の群團。

 

人里はなれた山の奧にも

夜ふけてかがやく孤燈をゆめむ。

さびしい花やかな情緖をゆめむ。

さびしい花やかな燈火(あかり)の奧に

ふしぎな性の悶えをかんじて

重たい翼(つばさ)をばたばたさせる

かすてらのやうな蛾をみる

あはれな 孤獨の あこがれきつたいのちをみる。

 

いのちは光をさして飛びかひ

光の周圍にむらがり死ぬ

ああこの賑はしく 艶めかしげなる春夜の動靜

露つぽい空氣の中で

花やかな孤燈は眠り 燈火はあたりの自然にながれてゐる。

ながれてゐる哀傷の夢の影のふかいところで

私はときがたい神祕をおもふ

萬有の 生命の 本能の 孤獨なる

永遠に永遠に孤獨なる 情緖のあまりに花やかなる。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十月号『日本詩人』初出。初出では、

第三連の二箇所の「さびしい」の後に字空け(これは朗読時には有意に異なる)

かすてら」が傍点無しで「かすていら」(これも当然の如く朗読時には大きく異なる)

詩篇末に下方インデントポイント落ちで、『――情緖の神秘性に就いて――』(「秘」はママ)

となっている以外は(句点・漢字表記・ルビ等の違いを除く)、有意な異同は認めない。

 ところが、またしても筑摩書房版全集はとんでもないことをしているのである。校訂本文は総ての「孤燈」を「弧燈」と〈校訂〉しているのである。「弧燈」(ことう)はアーク灯のことで、アーク放電の際の発光を光源とする照明灯を指し、通常は炭素棒を電極として空中放電させた炭素アーク灯を指す。嘗ては街灯に用いられた。確かに第四連の「山の奥にも」「ゆめむ」「花やかな孤燈」というのは、アーク灯かも知れないとは感じさせはする。が、しかしまた、そうではないかも知れないし、この前段の実景の中の「さびしい電燈」は「電燈」で「弧燈」ではないという可能性も同程度に充分にある。否、この前段の電燈は如何にも誘蛾灯然としており、大正十年当時の農村のそれは幾つか調べてみたが、既に白熱電球が使用されていたようでもある。されば、私は、この校訂をやはり肯んじ得ない。何故なら、朔太郎は初出から一貫して「孤燈」と記しており、後の生前の三種の詩集再録(「定本靑猫」には本篇は不再録)でも、総て「孤燈」のままなである。「孤燈」は熟語として無論、存在し、「暗い中に一つだけともっている灯火」のことで、そのように読んで、詩篇に不都合があるとは私は思わないからである。如何なる理由に於いて、これらを総てアーク灯としての「弧燈」にすることが唯一絶対の正当にして正統な校訂行為なのか、私には分らないからである

「楢(なら)」被子植物門双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の多様な種、或いは、コナラ Quercus serrata を指す。多様な種はィキの「ナラを見られたい。

「檜(ひのき)」: 球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa

「山毛欅(ぶな)」ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata

「樫(かし)」ブナ科 Fagaceaeの常緑高木の一群の総称。狭義にはコナラ属 Quercus 中の常緑性の種を「カシ」と呼ぶが、同じブナ科のマテバシイ属 Lithocarpus のシリブカガシ(尻深樫)Lithocarpus glaber も「カシ」と呼ばれるし、シイ属 Castanopsis も別名で「クリガシ属」と呼ばれており、またクスノキ目クスノキ科 Lauraceaeの一部にも、葉の感じが似ていることから、「カシ」と呼ばれる種がある。ここはウィキの「カシ等に拠った。詳しくはそちらを見られたい。

「欅(けやき)」バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)

 

Wasi

 

わし     鵰

       【和名於保和之】

       鷲【音就】 𪆃【音團】

       【和名古和之】

【音凋】

       揭羅闍【梵書】

チュウ

 

本綱鵰似鷹而大尾長翅短土黃色鷙悍多力盤旋空中

無細不覩鷹鵰雖鷙畏燕子物無大小也【鵰翮可爲箭羽】

皂鵰 卽鷲也出北地色皂青西域記有皂鵰一産三卵

 者内有一卵化犬短毛灰色與犬無異但尾背有羽毛

 數莖耳隨母影而走所逐無不獲者謂之鷹背狗

羗鷲 出西南夷黄頭赤目五色皆備鵰類能搏鴻鵠獐

 鹿犬豕

虎鷹 翼廣丈餘能摶虎也

鵰骨 主治折傷斷骨【燒灰毎服二錢酒下】。骨卽接如初也鷹鶚鵰

 骨皆能接骨蓋鷙鳥之力在骨故以骨治骨從其類也

                  信實

  新六又はよもはねをならふる鳥もあらし上見ぬわしの雲の通路

△按鵰鷲有大小之異非老少之謂也狀似鷹而大於角

 鷹也腹背皂青色觜蒼黄脛爪黃其尾白黑斑文

大鳥 頸以上黃褐色如黃雄雞之頸其尾十四枚

小鳥 全體皂青色其尾十二枚

 奧州及松前深山中多有之捕之畜於樊中取尾羽造

 箭羽其羽潔白中間黑者號中黑上下有黑斑文而中

 間白者號中白下一寸許黑而上皆白者號薄標上一

 寸許白而下皆黑者號裙黑其餘有數品悉不記之時

 珍謂翅尾土黃色者不當

狗鷲 遍身似鷲而尾本白末黑其力稍劣焉老則頭至

 尾灰白與灰黑駁斑也呼號熊鷲

 

 

わし     鵰〔(テウ)〕

       【和名、「於保和之〔(おほわし)〕」。】

       鷲【音、「就」。】

 𪆃〔(ダン)〕【音、「團」。】

       【和名、「古和之〔(こわし)〕。」】

【音、「凋〔(テウ)〕」。】

       揭羅闍〔(ケイラシヤ)〕【梵書。】

チュウ

 

「本綱」、鵰、鷹に似て、大きく、尾、長く、翅、短く、土黃色。鷙悍〔(しつかん)にして〕多力、空中を盤-旋(めぐ)りて、細かく覩(み)ざるといふこと無し。鷹・鵰、鷙(とりと)ると雖も、燕-子〔(つばめ)〕を畏る。物に大小無きものなり【鵰〔の〕翮〔(つばさ)〕、箭羽〔(やばね)〕と爲すに可なり。】。

皂鵰〔(くろわし)〕 卽ち、鷲なり。北地に出づ。色、皂〔くろ)き〕青なり。「西域記〔(さいいきき)〕」に、『皂鵰、一産に三卵の者有り、内、一卵は犬に化し、短毛、灰色、犬と異なること無し。但し、尾・背、羽毛、數莖、有るのみ。母の影に隨ひて走る。逐ふ所、獲へざるといふこと無き者、之れを「鷹背狗〔(ようはいく)〕」と謂ふ』〔と〕。

羗鷲〔(きやうしう)〕 西南夷に出づ。黄なる頭、赤き目、五色、皆、備〔(そな)〕ふ。鵰の類にして、能く鴻〔(ひしくひ)〕・鵠〔(くぐひ)〕・獐〔(のろ)〕・鹿・犬・豕〔(ゐのこ)〕を搏〔(う)〕つ。

虎鷹〔(とらわし)〕 翼の廣さ丈餘。能く虎を摶つなり。

鵰骨〔(てうこつ)〕 折傷・斷骨を治することを主〔(つかさど)〕る【灰に燒きて毎服二錢、酒にて下〔(くだ)〕す。】。骨、卽ち、接(つ)ぎて、初めのごとくなるなり。鷹・鶚〔(みさご)〕・鵰の骨、皆、能く骨を接ぐ。蓋し、鷙鳥〔(してう)〕[やぶちゃん注:ワシ・タカなどの猛禽類。]の力、骨に在る故、骨を以つて、骨を治す〔なり〕。其の類に從ふなり。

                  信實

  「新六」

    又はよもはねをならぶる鳥もあらじ

       上〔(うへ)〕見ぬわしの雲の通ひ路

△按ずるに、鵰〔と〕鷲〔と〕、大小の異有りて、老少の謂ひに非ざるなり。狀〔(かた)〕ち、鷹に似て、角鷹(くま〔たか〕)より大きく、腹・背は皂青色(くろ〔あをいろ〕)、觜は蒼黄〔(あをき)〕、脛・爪は黃。其の尾は、白黑〔の〕斑文〔(はんもん)〕あり。

大鳥〔(だいてう)〕 頸以上は黃褐色、「黃雄雞(かしはどり)」の頸〔(くび)〕のごとく、其の尾、十四枚。

小鳥〔(せうてう)〕 全體、皂〔(くろ)き〕青色。其の尾、十二枚。

 奧州及び松前の深山の中に、多く之れ有り。之れを捕へて樊〔(かご)〕の中に畜〔(か)〕ふ。尾羽を取りて、箭羽を造る。其の羽、潔白にして中間の黑き者を「中黑〔(なかぐろ)〕」と號す。上下〔に〕黑き斑文有りて中間の白き者、「中白〔(なかじろ)〕」と號す。下、一寸許〔(ばか)〕り黑くして、上、皆、白き者を「薄標(うすびやう[やぶちゃん注:ママ。正しくは「うすべう」。])」と號す。上〔(う)〕へ[やぶちゃん注:ママ。]一寸許り白くして、下、皆、黑き者を「裙黑(つまぐろ)」と號す。其の餘、數品〔(すひん)〕有り、悉くは之れを記さず。時珍が謂ふ、『翅・尾、土黃色』といふは、當らず。

狗鷲〔(いぬわし)〕 遍身、鷲に似て、尾の本〔(もと)〕、白く末、黑くして、其の力、稍〔(やや)〕劣れり。老〔(らう)〕するときは、則ち、頭〔より〕尾に至〔るまで〕灰白と灰黑との駁斑(ぶち〔まだら〕)〔となる〕なり。呼んで、「熊鷲〔(くまたか)〕」と號す。

[やぶちゃん注:「鷲(わし)」はタカ目 Accipitriformes タカ亜目 Accipitres タカ上科 Accipitroidea タカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、オオワシ(タカ科オジロワシ属オオワシ Haliaeetus pelagicus)・オジロワシ(タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla)・イヌワシ(タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos)・ハクトウワシ(タカ科ウミワシ属ハクトウワシ Haliaeetus leucocephalus)等のように、比較的大きめの種群を漠然と指す通俗通称である。一般に分類上のタカ科 Accipitridae の種群の中で比較的大きいものを「ワシ」(鷲)、小さめのものを「タカ」(鷹)と呼ぶ傾向はあるものの、無論、明確な鳥類学上の分類学的区別があるわけではなく、本邦に於いては(恐らく中国でも)古来からの慣習に従って便宜上、呼び分けているに過ぎない(主文はウィキの「ワシ」を用いたが、かなりいじってある)。いい加減な例はタカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae で、同類は同時にハゲタカ類とも呼ばれる(彼らには、かの鳥類では明らかに大型種に属するタカ目コンドル亜目コンドル科 Cathartidae のコンドル類さえ含まれるのである)のを考えて見れば一目瞭然である。既に「山禽類 角鷹(くまたか)(クマタカ)」の項の注で述べたが、これは英語でも(というより、魚の固有名詞も極度に少ない英語は私は博物学的には頗る貧困な言語であると考えている)同じである。本文にも出る「角鷹」(くまたか)=タカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis は、英名を「Mountain hawk-eagle」或いは単に「hawk eagle」である。即ち、「hawk」(「鷹」・タカ)であると同時に、「eagle」(鷲・ワシ)であるという奇体な(中間型という謂いではあろう)もので、中央・南アメリカに棲息するタカ目タカ科セグロクマタカ属 Spizaetus の「スピザエトゥス」に至っては、荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「タカ」の項によれば、『ギリシャ語の〈ハイタカ spizas〉と〈ワシ aetos〉』の合成であるとある。如何に「ホークとイーグル」「鷹と鷲」の民俗的分類が、致命的にいい加減かが露呈するのである。

 

「鵰〔(テウ)〕」現代仮名遣では「チョウ」。

「於保和之〔(おほわし)〕」この場合、種名とは思われない。「大きな鷹(たか)」である。寧ろ、後で良安が「大鳥」(私は「ダイチョウ」と音読みした)として箇条するそれは種としての「オオワシ」である。それはそこで後述する。

「古和之〔(こわし)〕」同前で「小さな鷲(わし)」。同じく後で良安が「小鳥」(私は「コチョウ」と音読みした)として箇条するそれは種としての「オジロワシ」ではないかと思っている。それはそこで後述する。

「梵書」この場合は、広義の漢訳したインドの仏典の意。

「鷙悍〔(しつかん)にして〕」「鷙」は猛禽類を指す語で、「悍」は「精悍」のそれで「気が強く荒い。猛々(たけだけ)しい」の意。東洋文庫訳はこの熟語のまま出して、ルビで『鷙悍(つよくあらあらし)く』としてある。

「細かく覩(み)ざるといふこと無し」地上や飛翔している周辺空間の細部に至るまでの観察を怠らないの意。

「鷙(とりと)ると雖も」東洋文庫は、ここを『鷙(あらとり)』(猛禽)『とはいえ』と訳している。従えない。私の採用している原本にははっきりと『トリトルト』のルビが添えられており、その方が、以下の「燕-子〔(つばめ)〕」(スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica)「を畏る」にすんなりと繋がる。「鷹が燕を食うと死ぬ」「燕は角鷹(くまたか)を制する」「鷲や鷹は燕を畏れる」と、この「本草綱目」を始めとして中国の本草書にはよく語られているようなのであるが、その理由を知りたいと思っていろいろ調べて見ても、今のところ、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「皂鵰〔(くろわし)〕」不詳。日文研の「近世期絵入百科事典データベース」の「訓蒙圖彙」の「皂鵰(さうしう)」(現代仮名遣「そうしゅう」)には異名キャプションとして「くまたか」とある。タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis なのであるが、ここで「北地に出づ」というのが当てはまらない。既に述べた通り、日本は実はクマタカの最北の分布域で、北海道から九州に留鳥として棲息し、森林生態系の頂点に位置して「森の王者」とも呼ばれるが、その分布はユーラシア大陸南東部・インドネシア・スリランカ・台湾で、中国の北方に本種は棲息しないからである。ただ、後の叙述がトンデモ系なので、熱心に同定比定する気が、今一つ、起こらない。但し、後注するように、この犬「鷹背狗」は実在する犬である(後注参照)。後に出すタカ科オジロワシ属オオワシ亜種(基亜種)オオワシ Haliaeetus pelagicus pelagicus は翼が黒や黒褐色を呈するので、名にし負うのだが、如何せん、オオワシは中國北東部にしか分布しないので痛し痒しである。

「西域記」玄奘(げんじょう)の「大唐西域記」六四六年成立。

「母の影に隨ひて走る」飛翔する母鳥の落す影を慕って地上を走り廻る。

「逐ふ所、獲へざるといふこと無き」(普通の犬のようであるが、)獲物を追うと、捕獲に失敗するということがない、というのである。出自である黒鷹の血が脈々と生きているというのである。

「鷹背狗〔(ようはいく)〕」元の陶宗儀の「輟耕録」の中に「鷹背狗」として、

   *

北方凡卑脂作巢所在官司必今人窮巢深卵挾其多寡如川果而三卯老置卒守葭囘況視之反其成穀一乃狗耳取以銅蔡進之於朝其狀與狗無異但耳尼土多毛羽數根而己田獵之際鴟則戾天狗則走陸所涿同至名曰鷹背狗

   *

とあり、中文サイトを調べてゆくと、こちらに、鷹の産んだ卵から生まれた犬という迷信を、その犬が猟犬として描かれた絵図を掲げながら、その考証を紹介した優れもののページを発見した。そこではこの犬を狩猟犬の一犬種である「Salukiと同定している。ウィキの「サルーキ」(英名「Saluki」)を引く。『サルーキは。飼育犬中でおそらく最も古い犬種として知られ』、純血種としての「サルーキ」の歴史は、凡そ七千年も溯る『ことが出来る。イラクの古代遺跡であるテペ・ガウラに残る彫刻のサルーキが最も古い記録とされている』。『サイエンス誌の』二〇〇四年五月二十一日号に、『DNA鑑定の結果』、『サルーキが最も早くオオカミから別れた犬種の一つであると確認されたという論文が掲載された』(太字下線やぶちゃん、以下、同じ)。『容姿の美しさ、スピード、忍耐力において広く賞賛され、サハラ砂漠からカスピ海まで、数千年の間砂漠の遊牧民とともに中東全域を旅した歴史がある。その結果様々な色の被毛を持ったサルーキが中東全域で見られることとなった。外観は、アフリカ原産のアザワクやモロッコ原産のスルーギに似ており、エジプト王家の犬 Royal dog of Egypt)として知られていた。スルーギが独立犬種として公認されるまでは、イギリスやヨーロッパ諸国ではスルーギと交配されることが普通に行われていた』。『サルーキは美しさとスピードを追求して改良繁殖されたサイトハウンド(視覚ハウンド、視覚が優れた狩猟犬)として知られる。全犬種中最速であると一般的に思われているグレイハウンドが時速』七十二キロメートル『であるのに対し、サルーキはさらに速く』、時速七十七キロメートル『の最高速度で走ることが出来ると言われている。グレイハウンドのドッグレースで使用する電動ネズミ(これを追いかけさせることにより、レースを行う)にサルーキが関心を示さないこともあって、実際に競争させるのは困難なため』、『サルーキの方が速いということが証明されているわけではない。しかしながら』、『本犬種がもともと時速』七十キロメートル『以上で走るガゼルを狩る目的に使われたことから、この意見は正しいといえるかも知れない』(以下、「外観」であるが、前半はだらだらした箇条書きなのでカットする。リンク先を見られたい)。『全体的に優美でバランスが取れており、優れた身体能力を感じさせる。サルーキは「サイト(視覚)」ハウンドに分類され、それは獲物を発見、追跡し、捕らえて飼い主のところに運んできたり、見張りを行う能力があることを意味する。非常に狩猟に有能であるという外観をしている。サルーキが狩猟をしているときに見られる強い狩猟欲求、獲物を狩り立てる本能、集中力はとても印象的なものである』。『サルーキは遺伝子にスムース(直毛の短毛)とフェザード(羽根飾りのような長毛)の二種類の被毛タイプを有する。スムースは身体全体を覆い、耳、背中、脚、尾はフェザードである。フェザードの長さや密度には個体差がある』。『優れたサルーキは狩猟犬としての能力を保ってはいるが、その外見上はまったく異なって見えるかも知れない。学習能力は高いが』、『単純な反復訓練には飽きやすいため、トレーニングには』、『短時間に様々なバラエティを取り入れる必要がある。敏感かつ知的であり、力ずくあるいは手荒く訓練してはならない』。『サルーキには定期的な訓練が必要であるが』、『屋内でも静かに訓練することが可能である。普段はおとなしく理由もなく吠えたりすることはないが、不満を感じたとき、長い間飼育者やその家族と離れていたときなどには、震えるような高音で「歌う」。この「歌」は家族(群れ)のきずなを求めるときに使われるものであり、訓練次第で「歌」を教えることができる。サルーキは子供ともよい関係を築き』、『その守護者となることもできるが、飼育者はこの犬種がもの静かな時間を必要とすることを理解しなければならない』。『全米獣医師学会によれば、散歩の際にリード(繋ぎ紐)が必須とされている。サルーキの歴史は』七千『年に渡る古代遺産ともいえるようなサイトハウンドで、強い狩猟本能を持っているためである。しかしながら』、『このことは他の小型犬、猫などの小さなペットとともに過ごせないということを意味しているわけではない。よく訓練され、穏和なサルーキは様々なペットとともに家族として暮らすことができる。また、サルーキは跳躍力に優れているため、アメリカのサルーキのクラブである「The Saluki Club of America」では、少なくとも』一・五メートル『以上のフェンスで庭を囲むことを推奨している』。『サルーキは非常に頑健な犬種である。気をつけなければならないことは、非常に身体が細いため麻酔薬に対して敏感なことくらいである』。『「サルーキ(saluki)」という名前は古代アラビアの都市である「サルク(Saluq)」からきており、群れで狩りをする俊敏な狩猟犬として使役されてきた歴史を持つ。獲物の居場所を突き止める役割のハヤブサとともに狩りを行うこともあった古代に埋葬されたサルーキを紀元前』二一〇〇『年頃のエジプトの墳墓で見ることが出来る。この犬は非常に尊重されていたため、ファラオのようにミイラにされることさえあった。他にも多くのサルーキがナイル川上流域の古代墳墓から発見されている』。『イスラム文化において、犬は不浄な生物であるとされることがあるが、サルーキはアラビアの文化では他の犬種とは異なった地位を占めている。ベドウィンはサルーキを大切に扱い、その美しさと狩猟犬としての能力を落とさないように飼育繁殖をしている。サルーキは不浄な生物とはみなされず、日中の暑さや夜の寒さを避けるために飼い主とともにテントで眠ることさえある』とある(以下、省略)。

「羗鷲〔(きやうしう)〕」まず、中文サイトで「羗鷲」を「sea eagle」とするのを発見したので、ウミワシ類を一種ずづ検討した。名前からはタカ科ウミワシ属キガシラウミワシ Haliaeetus leucoryphus だが、本種は動物食ながら、種に魚類を摂餌するから、ここは分布域と摂餌対象からは、タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla が相応しい。タカ科オジロワシ属オオワシ Haliaeetus pelagicus もいるが、この種は中国の北東沿岸部にしにしか分布しないので外れる。但し、どれも赤い眼ではない。赤い眼というのは特異点であるが、概ね黄色で、赤目はなかなかいない模様である。

「西南夷」中国西南部の漢民族が殆んど根づかなかった異民族の住む地域。中国古代に於いては現在の四川省南部から雲南・貴州両省を中心に居住していた非漢民族の総称として用いられた。知られるチベット(蔵)族・タイ(傣)族・ミヤオ(苗)等の他、滇(てん)・雟(すい)・哀郎・冉駹(ぜんもう)・邛(きよう)・筰(さく)等の数多く諸民族に属し、それぞれがまた、幾つもの部族や集団に分かれ、習俗・言語を異にした。四川省から西南夷を介しては、ビルマからインド、南越の番禺(現在の広州市)へと古くから交通路が開けており、文物交流に大きな役割を果たした(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠ったが、少しいじってある)。西南夷に出づ。

「鴻〔(ひしくひ)〕」カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis

「鵠〔(くぐひ)〕」広義の白鳥。

「獐〔(のろ)〕」シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。「ノロジカ」は「麕鹿」「麞鹿」麇鹿」「獐鹿」であるが、単に「ノロ」とも呼び、その場合は以上の「鹿」を除去した一字で通用する。ウィキの「ノロジカ」によれば、『ヨーロッパから朝鮮半島にかけてのユーラシア大陸中高緯度に分布する。中国では子』(パァォヅゥ:或いは単に「」)『と呼ばれる』。体長は約一~一・三メートル、尾長約五センチメートルと、『小型のシカ。体毛は、夏毛は赤褐色で、冬毛は淡黄色である。吻に黒い帯状の斑があり、下顎端は白い。喉元には多彩な模様を持つのがこの種の特徴である。臀部に白い模様があるが、雌雄で形は異なる。角はオスのみが持ち、表面はざらついており、先端が三つに分岐している。生え変わる時期は冬』。『夜行性で、夕暮れや夜明けに活発に行動する。食性は植物食で、灌木や草、果実などを食べる』とある。

「豕〔(ゐのこ)〕」猪。

「虎鷹〔(とらわし)〕」不詳。中国のタカ科 Accipitridae の最大種なんだろうが、判らぬ。《委細面談。但「翼の廣さ丈餘」(三メートル越)にして虎と闘える方に限る》

「鵰骨〔(てうこつ)〕」ワシ類の骨。

「折傷」(せっしょう)は「折れて傷つくこと・折って傷つけること・挫(くじ)き痛めること」で、後「斷骨」(だんこつ)が「単純骨折及び開放性複雑骨折」とすれば、この「折傷」は剥離骨折か脱臼及び重度の打撲を指すと考えるのがよかろう。

「二錢」重量単位の一銭(せん)は約三・七五グラムであるから、七・五グラム。

「下〔(くだ)〕す」飲み下す。服用する。

「骨、卽ち、接(つ)ぎて、初めのごとくなるなり。鷹・鶚〔(みさご)〕・鵰の骨、皆、能く骨を接ぐ。蓋し、鷙鳥〔(してう)〕の力、骨に在る故、骨を以つて、骨を治す〔なり〕。其の類に從ふなり」飲んだだけでぴたりと骨が接合するというのを、まんず、類感呪術的にもっともらしく説明したもの。

「信實」「新六」「又はよもはねをならぶる鳥もあらじ上〔(うへ)〕見ぬわしの雲の通ひ路」

藤原信実(安元二(一一七六)年?~文永三(一二六六)年以降)の「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし。新三十六歌仙の一人)・為家(定家の子)・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする。以上は東洋文庫版の書名注を参考にした)の「第二 野」に載る一首。上空空間でも生物ピラミッドの頂点にいるワシを上手くリアルに表現しているではないか。

「鵰〔と〕鷲〔と〕、大小の異有りて、老少の謂ひに非ざるなり」これに拠れば、良安の考える「鵰(たか)」=「鷹」と、「鷲(わし)」の違いは、種としての大小の違いで呼称しているのであって、成鳥・老成鳥と若鳥・壮年期の鳥の年齢別呼称ではないというのである。これは現行のそれと同じである。

「大鳥〔(だいてう)〕」タカ科オジロワシ属オオワシ亜種(基亜種)オオワシ Haliaeetus pelagicus pelagicusウィキの「オオワシ」によれば、朝鮮半島・中国北東部・日本・ロシア東部に分布し、『夏季にロシア東部(カムチャツカ半島、樺太北部など)で繁殖し、冬季になると越冬のため朝鮮半島、沿海州、カムチャツカ半島南部などへ南下する』。『オホーツク海沿岸部では冬季に南下する個体が多いが、一方でカムチャツカ半島では千島列島以南へ南下せずに留まる個体も多い』『日本では基亜種が冬季に越冬のため』、『北海道や本州北部に飛来(冬鳥)する』。日本で一番大きな鷲『ともいわれ、全長』はが八十八センチメートル、が一メートル二センチメートル、全長はで五十六~六十五センチメートル、は六十~六十五センチメートル、翼開長で二メートル二十から二メートル五十センチメートルにも達する。『尾羽は長い楔形』で尾羽の枚数は十四枚。『全身の羽衣は黒や黒褐色で』、『頭頂から頸部を被う羽毛は羽軸に沿って白い斑紋(軸斑)が入る』。『尾羽は白い』。『飛翔時には翼後縁部が膨らんで見える』。『翼は黒や黒褐色』。『虹彩は黄色』。『嘴は大型』。『嘴や後肢は黄色や橙色』。『幼鳥は全身の羽衣が淡褐色で、下面や翼に白い斑紋が入る』。『尾羽の外縁(羽縁)や先端に褐色の斑紋が入る』。基亜種オオワシ Haliaeetus pelagicus pelagicus は『額や腰、脛の羽衣が白』く、『小雨覆や人間でいう手首を被う羽毛(小翼羽)、一部の下雨覆は白い』。亜種オオワシ Haliaeetus pelagicus niger がおり、こちらは『尾羽基部と尾羽を除いて全身の羽衣が黒い』。同亜種は『朝鮮半島や沿海州で採集例があり』、『朝鮮半島で繁殖する亜種とされるが、標本が少なく』、『現在も繁殖しているかは不明』で、しかもこれについては、基亜種の『単なる暗色型として亜種と認めない説もある』とある。オオワシは『海岸や河川、湖沼などに生息する』。『種小名pelagicusは「海の、外洋の」の意。越冬地では水辺の樹上で休む』。『食性は動物食で、主に魚類(カラフトマス、サケ、スケトウダラなど)を食べるが鳥類(カモ類)、小型から中型の哺乳類、動物の死骸(魚類、アザラシ、クジラなど)なども食べる』。『アムール川下流域やカムチャツカ半島では』四『月までに海辺や水辺にある大木の樹上(ダケカンバ、ドロノキなど)や断崖に巣を作る』。『ロシア極東部では』四~五月一~三個(主に二個)の『卵を産む』。『抱卵期間は』一ヶ月から一ヶ月半で、雛は五~六月に孵化し、八月に巣立つ。『尾羽が矢羽として利用されることもあった』。『ロシアでは毛皮用のテンが罠にかかった際に食害することもあり、害鳥とみなされることもある』。『捕殺されたエゾシカ、刺し網や氷下待網漁などの漁業や陸揚げの際に生じるおこぼれに集まって食べる事もあり、水産加工場の廃棄物やゴミ捨て場を漁ることもある』。『開発による生息地の破壊や獲物の減少、羽目的の狩猟、害鳥としての駆除、鉛散弾によって狩猟された動物の死骸を食べたことによる鉛中毒などにより生息数は減少して』おり、『日本では』一九七〇年に『国の天然記念物』に指定され、一九九三年には、「種の保存法」『施行に伴い』、『国内希少野生動植物種に指定されている』。一九八五年現在の『生息数は約』五千二百『羽と推定されて』おり、絶滅危惧類(VU)に指定されてしまった。

「黃雄雞(かしはどり)」古く、羽根の色が茶色いニワトリ(キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus )の品種を指す語であった。名古屋コーチンのようなものを想起すればよいか。首の形がということなら、まあ、納得出来る。

「小鳥〔(せうてう)〕」「其の尾、十二枚」という点と、本邦で見かけ、「オオワシ」より「小鳥」であるという意味なら、タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla となるが、全体の色は「皂〔(くろ)き〕青色」ではなく、褐色であるのが不審。取り敢えずウィキの「オジロワシ」を引いておく。分布はユーラシア大陸・デンマーク(グリーンランド南部)・日本で、『ユーラシア大陸北部で繁殖し、冬季になると中華人民共和国東部、ペルシャ湾周辺に南下し越冬する。東ヨーロッパや西アジア、中華人民共和国北東部などでは周年生息する。日本では主に基亜種』オジロワシHaliaeetus albicilla albicilla(ハリアエエトゥス・アルビキルラ・アルビキラ)『が冬季に北日本に飛来(冬鳥)するが、北海道北部および東部では周年生息する個体もいる(留鳥)』。二〇一〇年一月に『開催された環境省の保護増殖分科会では、北海道内で越冬する個体数は約』千七百『羽(うち、つがい約』百四十『組)という数を示している。また、かつては対馬に定期的に飛来する個体がいた』。全長は七十~九十八センチメートル、翼開長は一メートル八十から二メートル四十センチメートルで、体重は三~七キログラム。『全身は褐色の羽毛で覆われている。頭部は淡褐色や淡黄色の羽毛で被われる』。尾羽は十二枚であるが短く、やや楔形を呈する。『尾羽の色彩は白い。種小名albicillaは「白い尾の」の意で、和名や英名(white-tailed)と同義。翼の後縁は直線的で飛翔時には長方形に見える』。但し、実際には『同属のオオワシの方が白い部分が多い』。『虹彩は淡黄色。嘴や後肢の色彩は淡黄色』。『幼鳥は全身が褐色や黒褐色の羽毛で被われ、上面や下雨覆に白い斑紋、尾羽に褐色の斑紋が入る。また』、『虹彩が褐色で、嘴の色彩が黒い。成長に伴い』、『全身の斑紋は消失し、虹彩や嘴の色彩は黄色みを帯びる』。基亜種オジロワシは、『上記の分布のうち』、『グリーンランドを除く』地域に分布し、『日本では北海道で周年生息する(留鳥)』。『冬季にロシアから主に北海道に飛来し、本州北部から中部に飛来することもあり、まれに九州や南西諸島に飛来することもある(冬鳥)』。『海岸、河川、湖沼などに生息する。単独もしくはペアで生活するが、冬季になると』、『集団で休む事もある』。『食性は動物食で、魚類、鳥類、哺乳類、動物の死骸などを食べる。ヒツジの幼獣、タンチョウの雛を襲い食べることもある。水面付近にいる獲物は急降下して捕らえる』。『高木の樹上や断崖に木の枝を組み合わせた巣を作り』、三~四月に、一回に二個の『卵を産む。主にメスが抱卵し、抱卵期間は約』三十八『日。雛は孵化してから』七十~七十五『日で飛翔できるようになり、さらに』三十五~四十『日後に独立する。生後』五~六『年で性成熟し、生後』六~七『年で成鳥羽に生え換わる。ヨーロッパでの平均寿命は』二十『年以上とされる』。『日本では』一九九〇『年以降は確認数は増加傾向にあるが、一方で近年は繁殖率が低下傾向にある』。『森林伐採・土地造成・道路建設による営巣地の破壊、湖沼・河川・海岸開発による採食場所および獲物の減少、工事やカメラマンによる繁殖の攪乱、狩猟用の銃弾による鉛中毒、電線による感電死、風力発電による衝突事故、人工の繁殖地への依存および過密化などが懸念されている』。『スコットランドでは絶滅したが、再導入された。日本では』一九七〇『年に国の天然記念物に指定され』、一九九三年の「種の保存法」『施行に伴い』、『国内希少野生動植物種に指定されている』。『北海道では』一九五四『年に初めて繁殖が確認され』、一九九八年には五十六ペア、二〇〇八年には約百五十ペアの『繁殖が確認されている』。絶滅危惧類(VU)指定。

「薄標」「標」は「目印(じる)し」の意。薄い紋をかく言ったもの。

「時珍が謂ふ、『翅・尾、土黃色かい』といふは、當らず」良安が「本草綱目」の記載を完全否定するのは珍しい。但し、時珍の指すそれはオオワシやオジロワシでない可能性もあるの俄かには賛同は出来ない。

「狗鷲〔(いぬわし)〕」タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos。本邦のそれは亜種イヌワシ Aquila chrysaetos japonica で、朝鮮半島及び日本(北海道・本州・四国・九州。周年棲息する留鳥)に分布する。ウィキの「イヌワシ」によれば、全長は七十五~九十五センチメートル、翼開張は一メートル六十八から二メートル二十センチメートル『近くになる』。『全身の羽衣は黒褐色や暗褐色』。『後頭の羽衣は光沢のある黄色で』、『英名(golden=金色の)の由来になっている』。『尾羽基部を被う羽毛(上尾筒、下尾筒)は淡褐色。中雨覆や風切羽基部の色彩は淡褐色』。『虹彩は黄褐色や淡橙色』。『嘴基部や嘴基部を覆う肉質』(蠟膜(ろうまく))や『後肢は黄色で、嘴の先端は黒い』。『幼鳥は後頭から後頸にかけて淡褐色の縦縞が入る』。『尾羽の基部や初列風切、外側次列風切基部の色彩が白い』。『虹彩は暗褐色』。『開けた森林や草原などに生息する』。『食性は動物食で、哺乳類、鳥類、爬虫類、動物の死骸などを食べる』。『日本ではノウサギ、ヤマドリ、ヘビ類が主で、とりわけ』、『ノウサギがもっとも重要な餌である』。『上空から獲物を発見すると、翼をすぼめ』、『急降下して捕らえる』。『通常は単独で獲物を捕らえるが』、一『羽が獲物の注意を引きつけ』、『もう』一『羽が獲物の後方から襲い掛かる事もある』。『珍しいケースでは』小鹿を襲うこともあるという。『断崖や大木の樹上に木の枝や枯草などを組み合わせた巣を作る』。『営巣場所が限られるため』、『毎年同じ巣を使うことが多い』。『日本では』二~三月に、一回に一、二個の『卵を産む』。『主にメスが抱卵を行い、抱卵日数は』四十三~四十七日で、『育雛も主にメスが行い、育雛期間は』七十~九十四『日で通常は』一『羽のみ育つ』。『雛は孵化してから』六十五~八十『日で飛翔できるようになり』、三『か月で独立する』。生後』三~四『年で性成熟し』、『生後』五『年で成鳥羽に生え換わる』。『ヒツジの幼獣を捕食する害鳥とみなされることもある』。『和名のイヌは「劣っている、下級の」の意で、クマタカなどにくらべ』、『本種の尾羽が矢羽としての価値が低かった事に由来する』。『漢字表記の狗は本種が天狗を連想させることに由来する』。『開発による生息地の破壊、害鳥としての駆除』、『人間による繁殖の妨害などにより生息数は減少し、農薬汚染も懸念されている』。『日本のイヌワシは』、一九九〇『年代から繁殖成功率が低下している』。『イヌワシの採餌にとっては、視界と飛行に適した開けた草地が適しており、森林で覆われると子育てのための餌の量が不足する。かつて伐採、放牧、そして採草のための火入れで維持されていた開けた場所が、林業・畜産の衰退で森林に変わったことがその原因ではないかと考えられている』。二十一『世紀に入って、日本の各地で間伐などによるイヌワシの餌場作りが試行されている』本邦では一九六五年に『種として国の天然記念物』に指定され、一九七六年には岩手県下閉伊郡の岩泉町と宮城県石巻市『北上町が「イヌワシ繁殖地」として国の天然記念物に指定されている』。一九九三年には「種の保存法」『施行に伴い』、『国内希少野生動植物種に指定』され、また、「動物愛護管理法」の『特定動物に指定されている』とある(太字下線はやぶちゃん)。

『呼んで、「熊鷲〔(くまたか)〕」と號す』これは現行では別種の「角鷹」(くまたか)=タカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis と混同するのでよろしくない。但し、当時はクマタカは「角鷹」と書いていたから、混同せずに認識はしていたものと思われる。

2019/01/17

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 艶めける靈魂

 

 

 

  

 

 

 

  艶めける靈魂

 

そよげる

やはらかい草の影から

花やかに いきいきと目をさましてくる情慾

燃えあがるやうに

たのしく

うれしく

こころ春めく春の感情。

 

つかれた生涯(らいふ)のあぢない晝にも

孤獨の暗い部屋の中にも

しぜんとやはらかく そよげる窓の光はきたる

いきほひたかぶる機能の昂進

そは世に艶めけるおもひのかぎりだ

勇氣にあふれる希望のすべてだ。

 

ああこのわかやげる思ひこそは

春日にとける雪のやうだ

やさしく芽ぐみ

しぜんに感ずるぬくみのやうだ

たのしく

うれしく

こころときめく性の躍動。

 

とざせる思想の底を割つて

しづかにながれるいのちをかんずる

あまりに憂鬱のなやみふかい沼の底から

わづかに水のぬくめるやうに

さしぐみ

はぢらひ

ためらひきたれる春をかんずる。

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「艶めける靈魂」の「艶めける」は当然の如く今までと同様、「なまめける」である。大正一〇(一九一一)年二月新潮社刊「現代詩人選集」初出。初出は私は有意な異同を感じない。但し、最後に下方インデントのポイント落ちで『――島崎藤村氏に呈す――』という謹呈辞が附されてある。「定本靑猫」は再録しない。

「あじない」は近世から使われ出した語で「味無い」で「あじけない」と同義。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 自然の背後に隱れて居る

 

  自然の背後に隱れて居る

 

僕等が藪のかげを通つたとき

まつくらの地面におよいでゐる

およおよとする象像(かたち)をみた

僕等は月の影をみたのだ。

僕等が草叢をすぎたとき

さびしい葉ずれの隙間から鳴る

そわそわといふ小笛をきいた。

僕等は風の聲をみたのだ。

 

僕等はたよりない子供だから

僕等のあはれな感觸では

わづかな現はれた物しか見えはしない。

僕等は遙かの丘の向ふで

ひろびろとした自然に住んでる

かくれた萬象の密語をきき

見えない生き物の動作をかんじた。

 

僕等は電光の森かげから

夕闇のくる地平の方から

烟の淡じろい影のやうで

しだいにちかづく巨像をおぼえた

なにかの妖しい相貌(すがた)に見える

魔物の迫れる恐れをかんじた。

 

おとなの知らない希有(けう)の言葉で

自然は僕等をおびやかした

僕等は葦のやうにふるへながら

さびしい曠野に泣きさけんだ。

「お母ああさん! お母ああさん!」

 

[やぶちゃん注:「僕等は遙かの丘の向ふで」の「向ふ」はママ。萩原朔太郎の癖である。大正一一(一九二二)年二月号『婦人公論』初出。初出は総ルビで、

「象像(かたち)」が「形像(かたち)」

「僕等は月の影をみたのだ。」は句点がなく、さらに次が一行空けとなっている(都合、全篇は四連れはなく五連構成となっている

「密語」には「密語(さゝやき)」のルビがある(これは個人的には欲しいルビだった。「みつご」は響きが生硬で生理的に厭だ)

「夕闇のくる地平の方から」は「夕闇(ゆふやみ)のくる地方(ぢかた)の方(はう)から」とルビする高い確率で「方」は誤植であろうし、以前から繰り返し言っているようにこの時代の総ルビはまず校正者が勝手に附したものであるから「ぢかた」で真剣に考えるのは馬鹿馬鹿しい

「烟の淡じろい影のやうで」は「烟(けむり)の淡(うす)じろい影(かげ)のやうで」とルビする(近代文学では比較的普通にお目にかかるが、現代人が「うすじろい」をこう書くのは滅多に見ない。さればこそこれも個人的には向後は必ず欲しいルビである。「あはじろい」が変な読みだと感じなくなる日本人が私は怖ろしい)

「曠野」には「曠野(あらの)」のルビがある(これは私もこう読む。今までの日本人なら、圧倒的に「こうや」ではなく、「あらの」と読む。未来の日本人の読者は「あらの」と読めなくなる者が有意に増えるだろうが、それは語彙力の病的疾患と言わざるを得ない)

以外は、歴史的仮名遣の誤用と誤植を除けば、他には有意な違いはないと判断する。

 「定本靑猫」には再録されていない。

 私は個人的に、中学時代にこの詩篇を読んで以来、忘れられない一篇である。自然とはそういうものであり、我々はその「ささやき」を少しだけ聴き取るだけの「たよりない子供」である(否、自負のある大人にはその「ささやき」はもっと聴こえなくなる)。だから恐くなって叫ぶのだ! お母ああさん! お母ああさん!

 以上を以ってパート「意志と無明」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 白い牡鷄

 

  

 

わたしは田舍の鷄(にはとり)です

まづしい農家の庭に羽ばたきし

垣根をこえて

わたしは乾(ひ)からびた小蟲をついばむ。

ああ この冬の日の陽ざしのかげに

さびしく乾地の草をついばむ

わたしは白つぽい病氣の牡鷄(をんどり)

あはれな かなしい 羽ばたきをする生物(いきもの)です。

 

私はかなしい田舍の鷄(にはとり)

家根をこえ

垣根をこえ

墓場をこえて

はるかの野末にふるへさけぶ

ああ私はこはれた日時計 田舍の白つぽい牡鷄(をんどり)です。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『婦人公論』。初出は標題が「白い雄鳥」で、第一連が有意に長い。以下に示す。但し、総ルビであるが、必要と思われる部分のみのパラルビとした。

   *

 

  白

 

わたしは田舍の鷄(にはとり)です

まづしい農家の庭に羽ばたきをし

垣根をこえて

私はひからびた小蟲(こむし)をついばむ

ああ この冬の日の陽ざしの影に

さびしく乾地(かんち)の草をついばむ

私は白つぽい病氣の雄鳥(をんどり)

あはれな かなしい 羽ばたきをする生物(いきもの)です。

ああ だれかこの嘆きをしるか

庭にの野菊のしほれて[やぶちゃん注:「しほれて」はママ。]

日(ひ)は遠く海の向(むかふ)へかたむきさり[やぶちゃん注:ルビ「むかふ」はママ。朔太郎のよくやる癖ではある。]

ひとり戀人は島(しま)の上にさすらひたまふ

夕風にゆられ ゆられて

はや暮れる日ざしのかげにこの幻(まぼろし)もかげりゆく。

 

私はかなしい田舍の鷄(にはとり)

家根をこえ

垣根をこえ

墓場をこえ

はるかの野末(のずゑ)にふるえさけぶ[やぶちゃん注:ルビの「のずゑ」、本文「ふるえ」はママ。]

ああ私はこわれた日時計 田舍の白つぽい雄鳥(をんどり)です。[やぶちゃん注:「こわれた」はママ。

 

   *

「定本靑猫」では標題から本文まで三箇所の「牡鷄」を「雄鷄」とする以外は有意な異同を認めない。

 なお、不思議なことに、筑摩版全集校異はこの初版を「さびしく乾地(かんち)の草をついはむ」として濁点を打って訂したことになっている。私のも初版なのだ。或いは印刷途中に、「は」が清音であることに気がついた印刷工が「ば」に差し替えたものか?

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(6) 「羅城門」

 

《原文》

羅城門 肥前ト甲斐常陸トノ河童談ヲ比較シテ、最初ニ注意シ置クべキコトハ、【馬】後者ニハ馬ト云フ第三ノ役者ノ加ハリテアルコト也。但シ釜無川ノ川原、又ハ手奪川(テバヒガハ)ノ橋ノ上ニ在リテハ、馬ハマダ單純ナル「ツレ」ノ役ヲ勤ムルニ過ギザレドモ、追々硏究ノ步ヲ進メ行クトキハ、此系統ノ物語ニ於テハ、馬ガ極メテ重要ナル「ワキ」ノ役ヲ勤ムべキモノナルコトヲ知ル。ソレニハ先ヅ順序トシテ羅城門ノ昔話ヲ想ヒ起ス必要アリ。昔々源氏ノ大將軍攝津守殿賴光ノ家人ニ、渡邊綱通稱ヲ箕田源二ト云フ勇士アリ。武藏ノ國ヨリ出タル人ナリ。或夜主人ニ命ゼラレテ羅城門ニ赴キ、鬼ト鬪ヒテ其片腕ヲ切取リテ歸リ來ル。【伯母】其腕ヲ大事ニ保存シ置キタルニ、前持主ノ鬼ハ攝津ノ田舍ニ住ム綱ノ伯母ニ化ケテ訪問シ來リ、見セヌト云フ腕ヲ強ヒテ出サシメ之ヲ奪ヒ還シテ去ル。事ハ既ニ赤本乃至ハ凧ノ繪ニ詳カナリ。【鬼】羅城門ニハ古クヨリ樓上ニ住ム鬼アリテ惡キ事バカリヲ爲シ居タリシガ、一旦其毛ダラケノ腕ヲ箕田源ニ切ラレシ頃ヨリ、頓ニ其勢力ヲ失ヒシガ如クナレバ、多分ハ夫ト同ジ鬼ナランカ。而シテ其取戾シタル腕ハ歸リテ後之ヲ接ギ合セタリヤ否ヤ、後日譚ハ此世ニ傳ハラズト雖、兎ニモ角ニモ近代ノ河童冒險談ト頗ル手筋ノ相似タルモノアルハ爭フべカラズ。羅城門及ビ腕切丸ノ寶劍ノ話ハ、予ノ如キハ四歳ノ時ヨリ之ヲ知レリ。賴光サント太閤サントヲ同ジ人カト思ヒシ頃ヨリ之ヲ聞キ居タリ。全國ニ於テ之ヲ知ラヌ者ハアルマジト思ヘリ。然ルニ、海ヲ越エテ佐渡島ニ行ケバ、此話ハ忽チ變ジテ駄栗毛(ダクリゲ)左京ノ武勇談トナリテ傳ヘラル。左京ハ佐渡ノ本間殿ノ臣下ナリ。或年八月十三日ノ夜、河原田ノ館ヨリノ歸リニ、諏訪大明神ノ社ノ傍ヲ通ルトキ俄ノ雨風ニ遭フ。乘リタル馬ノ些シモ進マザルニ不審シテ後ノ方ヲ見レバ、雨雲ノ中カラ熊ノ如キ毛ノ腕ヲ延バシテ馬ノ尾ヲ摑ム者アリ。大刀ヲ拔キテ之ヲ斬拂ヘバ鬼女ノ形ヲ現ジテ遁レ行キ、其跡ニ一本ノ逞シキ腕ヲ落シテ在リ。之ヲ拾ヒテ我家ニ藏シ置キタルニ、其後每晚ノヤウニ彼ノ處ニ來テヲ叩キ哀願スル者アリ。【老女】九月モ中旬ニ及ビテ終ニ對面ヲ承諾シタル處、這奴ハ又化ケズトモ既ニ本物ノ老婆ナリキ。羅城門ノ鬼ノ如ク詐欺拐帶ヲモセズ、又何等ノ禮物ヲモ進上セザリシ代リニハ、散々ニ油ヲ取ラレテ閉口シ、悉ク其身上ヲ白狀シタル後、イトヾ萎ビタル右ノ古腕ヲ貰ヒ受ケテ歸リタリ。彼女ノ言ニ依レバ、以前ハ越後國彌彦山(イヤヒコサン)附近ノ農夫彌三郞ナル者ノ母ナリ。惡念增長シテ生キナガラ鬼女トナリシ者ナルガ、駄栗毛氏トノ固キ約束モアリテ、再ビ此島ニハ渡ラヌ筈ニテ國元へ還リ、後ニ名僧ノ教化ヲ受ケテ神樣トナル。【妙虎天】今ノ彌彦山ノ妙虎天(ミヤウトラテン)ト云フ祠ハコノ彌三郞ガ老母ナリ〔佐渡風土記〕。越後方面ニ傳ヘタル噂ニ依レバ、神ノ名ハ妙多羅天(ミヤウタラテン)トアリ。【姥神脇侍】岩瀨ノ聖了寺ノ眞言法印之ヲ濟度シ、今ハ柔和ナル老女ノ木像ト成ツテ[やぶちゃん注:ママ。]阿彌陀堂ノ本尊ノ脇ニ安置セラル。但シ話ノ少シク相違スルハ、腕ハ我子ノ爲ニ斬ラレタリト云フコト也。越後三島郡中島村ニ彌三郞屋敷ト云フ故迹アリ。鬼女ハ此地ノ出身ナリト云フ。彌三郞或夜鴨網ニ出掛ケテ鳥ヲ待チ居タルニ、不意ニ空中ヨリ彼ノ頭ノ毛ヲ摑ム者アリ。【鎌】持ツタル[やぶちゃん注:ママ。]鎌ヲ振ヒテ其腕ヲ斬取リ家ニ歸リシガ、母親ハ腹ガ痛ムト言ヒテ納ニ臥シ起キ出デズ。翌朝ノ外ヲ見レバ鮮血滴リテ母ノ窻ニ入レリ。老婆ハ片腕無キ爲ニ鬼女ナルコト露顯シ、終ニ家ヲ飛出シテ公然ト惡行ヲ營ムコトヽナリタリト云フ〔越後名寄四〕。此話ニハ言フ迄モ無ク前型アリ。今昔物語ノ中ニモ之ト似タル鬼婆ノ腕ノ話アリテ、忰ガ「スハ此カ」ト切リタル片腕ヲ母ノ寢處ニ擲ゲ込ミタリトアル話ナリ。而モ彌三郞婆ノ話ハ越後ニハ甚ダ多シ。【狼】刈羽郡中鯖石村大字善根(ゼコン)ニテハ、狼ニ成ツテ[やぶちゃん注:ママ。]漆山ト云フ處ニテ人ヲ食ヒ、後ニ我子ノ爲ニ退治セラレテ八石山(ハチコクサン)ニ入ルト傳フ。赤キ日傘ニ赤キ法衣ノ和尚ガ葬式ニ立ツトキハ、サテサテ有難イトムライヂヤト云ヒテ棺ヲ奪ヒ中ノ屍骸ヲ食フ故ニ、飛岡ノ淨廣寺ノ上人ノ代ヨリ靑キ日傘ニ靑キ法衣ト改メタリ〔日本傳説集〕。或ハ又妙太郞婆ノ話トナリテモ傳ヘラル。妙虎妙多羅妙太郞ノ名ノ由來ハ未ダ之ヲ明カニスルコト能ハズ。【火車】從ツテ[やぶちゃん注:ママ。]鬼カ火車カ、本體ヲ究ムルコト難ケレドモ、狼ノ老女トナル話ハ古クシテ且ツ弘シ〔鄕土硏究一ノ十二〕。【犬】越中婦負(ネヒ)郡櫻谷村大字駒見ノ古傳ニ依レバ、昔此里ニ「ユウユウ」ト云フ老尼アリ。【山伏】夜ハ犬トナリテ樣々ノ妖怪ヲ爲シケルガ、或時山伏ニ足ヲ斫ラレ、ソレヨリ此里ニ住マズ。【手紙】其後三年ホド經テ射水(イミヅ)郡ノ荒山ト云フ所ヨリ駒見ノ八右衞門ナル者ノ家へ書面ヲオコセタリ。犬ノ手跡トテ、人皆之ヲ見タリト云フ〔越中舊事記〕。然ルニ此話ニハ又一異傳アリ。此ヨリモ時代稍古ク且ツ土地ノ人ノ手ニ成リシ著書ニハ、之ヲ狼ナリト云ヘリ。昔駒見村ノ「ヨウユウ」ナル者ノ家ニ年久シク召使ヒシ姥ハ、狼ノ化ケテ人トナリシ者ナリキ。或山伏夜更ケテ呉服山(クレハヤマ)ノ古阪ヲ通リシニ、狼群レ來ツテ[やぶちゃん注:ママ。]附キ纏フ。山伏怖レテ喬木ニ攀上リケレバ、狼アマタ打重ナリ其上ニ姥跨ガリテ彼ヲ引下サントス。【片腕】山伏短刀ヲ拔キ其姥ノ肘ヲ打落セバ、下ノ狼モ散々ニナリテ遁去リタリ。夜明ケテ山伏樹ヨリ降リ、駒見村ヲ見掛ケテ暫ク憩ハント、カノ「ヨウユウ」ガ家ニ立寄リシニ、姥ハ傷痛ミテ叫キ號ビ打臥シ居タリシ處ニテ、山伏ノ姿ヲ見ルヤ否、逃ゲ出シソレヨリ行方ヲ知ラズ。此事御郡ノ舊記ニ出デタリトアリ〔肯構泉達錄十五〕。【赤岩一角】サレバカノ八犬傳ノ赤岩一角ノ如キモ、不運ナル化物ニハ相違ナキモ、其決シテ天下唯一ノ例ニ非ザリシコトハ、此等ノ話ニ由リテ十分ニ明白ニテアルナリ。

 右ノ駄栗毛左京ノ話ハ、妻鹿(メガ)孫三郞ノ話又ハ大森彦七ノ話ナドト同樣ニ、勿論羅城門或ハ一條戾橋(モドリバシ)ノ怪談ノ一變形ナルべキモ、二箇ノ極メテ肝要ナル點ニ於テ、甲州下條及ビ常州芹澤ノ河童ノ話ト相接近シ、二種類ノ昔話ノ中間ニ立ツ者トシテ大ナル價値アリ。其二點ト言フハ、一ハ鬼ガ馬ニ向ツテ惡戲ヲ試ミ失敗シタルコトナリ。【化物謝罪】二ニハ閉口謝罪ノ後腕ノ平穩ナル還付ヲ受ケテ退散シタルコトナリ。此二點ハ共ニ羅城門系統ノ話ニハ見ル所ナクシテ、多數ノ河童談ニハ皆之ヲ具フ。【鬼】但シ河童ト鬼トハ如何ニモ緣遠キノミナラズ、此等ノ話ニ在リテハ、馬ハ未ダ重大ナラザル端役ヲ勤ムルニ過ギズ。猶追々ト話ノ筋ノ進ムニ從ヒテ、始メテ其關係ニ非ザルヲ知リ得ルナリ。

《訓読》

羅城門 肥前と甲斐・常陸との河童談を比較して、最初に注意し置くべきことは、【馬】後者には馬と云ふ、第三の役者の加はりてあることなり。但し、釜無川の川原、又は手奪川(てばひがは)の橋の上に在りては、馬は、まだ、單純なる「ツレ」の役を勤むるに過ぎざれども、追々、硏究の步(あゆみ)を進め行くときは、此の系統の物語に於ては、馬が極めて重要なる「ワキ」の役を勤むべきものなることを知る。それには先づ、順序として、羅城門の昔話を想ひ起こす必要あり。昔々、源氏の大將軍攝津守殿賴光の家人(けにん)に、渡邊綱、通稱を箕田(みだ)源二と云ふ勇士あり。武藏の國より出でたる人なり。或る夜、主人に命ぜられて羅城門に赴き、鬼と鬪ひて、其の片腕を切り取りて歸り來たる。【伯母】其の腕を大事に保存し置きたるに、前(さきの)持主の鬼は攝津の田舍に住む綱の伯母に化けて訪問し來り、「見せぬ」と云ふ腕を、強ひて出さしめ、之れを奪ひ還して、去る。事は既に赤本乃至(ないし)は凧(たこ)の繪に詳かなり。【鬼】羅城門には古くより樓上に住む鬼ありて惡(あし)き事ばかりを爲し居(ゐ)たりしが、一旦、其の毛だらけの腕を箕田源二に切られし頃より、頓(とみ)に其の勢力を失ひしがごとくなれば、多分は夫(それ)と同じ鬼ならんか。而して其の取り戾したる腕は、歸りて後、之れを接(つ)ぎ合はせたりや否や、後日譚は此の世に傳はらずと雖、兎にも角にも近代の河童冒險談と頗る手筋の相似たるものあるは爭ふべからず。羅城門及び「腕切丸(うできりまる)」の寶劍の話は、予のごときは四歳の時より、之れを知れり。「賴光さん」と「太閤さん」とを同じ人かと思ひし頃より、之れを聞き居たり。全國に於いて之れを知らぬ者はあるまじと思へり。然るに、海を越えて佐渡島に行けば、此の話は忽ち變じて駄栗毛(だくりげ)左京の武勇談となりて傳へらる。左京は佐渡の本間殿の臣下なり。或る年、八月十三日の夜、河原田(かはらだ)の館(たち)よりの歸りに、諏訪大明神の社の傍を通るとき、俄かの雨風に遭ふ。乘りたる馬の、些(すこ)しも進まざるに不審して、後ろの方を見れば、雨雲の中から、熊のごとき毛の腕を延ばして、馬の尾を摑む者、あり。大刀(たち)を拔きて之れを斬り拂へば、鬼女の形を現じて、遁れ行き、其跡に一本の逞(たくま)しき腕を落して在り。之れを拾ひて、我が家に藏(かく)し置きたるに、其の後、每晚のやうに、彼(かれ)の處に來て、を叩(たた)き哀願する者、あり。【老女】九月も中旬に及びて、終に對面を承諾したる處、這奴(しやつ)[やぶちゃん注:「きやつ」「こやつ」でもよい(「ちくま文庫」版全集は「こやつ」。通常は第三者の者を罵って言う「そ奴」の変形した武士言葉。]は、又、化けずとも、既に本物も老婆なりき。羅城門の鬼のごとく詐欺・拐帶(かいたい)[やぶちゃん注:預けられた或いは他人の所有にある金品を持って行方を眩ますこと。持ち逃げ。]をもせず、又、何等の禮物をも進上せざりし代りには、散々に油を取られて閉口し、悉く其の身の上を白狀したる後、いとゞ萎(しな)びたる右の古(ふる)腕を貰ひ受けて歸りたり。彼女の言に依れば、以前は越後國彌彦山(いやひこさん)附近の農夫彌三郞なる者の母なり。惡念增長して、生きながら鬼女となりし者なるが、駄栗毛氏との固き約束もありて、再び此の島には渡らぬ筈(はず)[やぶちゃん注:向後の決め。]にて國元へ還り、後に名僧の教化を受けて、神樣となる。【妙虎天】今の彌彦山の「妙虎天(みやうとらてん)」と云ふ祠(ほこら)はこの彌三郞は老母なり〔「佐渡風土記」〕。越後方面に傳へたる噂に依れば、神の名は「妙多羅天(みやうたらてん)」とあり。【姥神脇侍(うばがみわきじ)】岩瀨の聖了寺の眞言法印、之れを濟度し、今は柔和なる老女の木像と成つて阿彌陀堂の本尊の脇に安置せらる。但し、話の少しく相違するは、腕は我が子の爲に斬られたりと云ふことなり。越後三島郡中島村に「彌三郞屋敷」と云ふ故迹(こせき)あり。鬼女は此の地の出身なりと云ふ。彌三郞、或る夜、鴨網(かもあみ)に出掛けて鳥を待ち居たるに、不意に、空中より、彼(かれ)の頭の毛を摑む者、あり。【鎌】持つたる鎌を振るひ、其の腕を斬り取り、家に歸りしが、母親は、「腹が痛む」と言ひて納(なんど)に臥し、起き出でず。翌朝、の外を見れば、鮮血、滴りて、母の窻(まど)に入(い)れり。老婆は、片腕無き爲に、鬼女なること、露顯し、終に家を飛び出(だ)して、公然と惡行を營むことゝなりたり、と云ふ〔「越後名寄(なよせ)」四〕。此の話には言ふまでも無く、前型(ぜんけい)あり。「今昔物語」の中にも、之れと似たる、鬼婆の腕の話ありて、忰(せがれ)が「すは。此れか」と切りたる片腕を母の寢處(ねどころ)に擲(な)げ込みたりとある話なり。而も「彌三郞婆(やさぶらうばば)」の話は、越後には甚だ多し。【狼(おほかみ)】刈羽(かりは)郡中鯖石(なかさばいし)村大字善根(ぜこん)にては、狼に成つて漆山(うるしやま)と云ふ處にて、人を食ひ、後に我が子の爲に退治せられて八石山(はちこくさん)に入ると傳ふ。赤き日傘に赤き法衣(はふえ)の和尚が葬式に立つときは、「さてさて有難いとむらいぢや」と云ひて、棺を奪ひ、中の屍骸を食ふ故に、飛岡(とびおか)の淨廣寺の上人の代より、靑き日傘に靑き法衣と改めたり〔「日本傳説集」〕。或いは又、「妙太郞婆」の話となりとも傳へらる。「妙虎」・「妙多羅」・「妙太郞」の名の由來は未だ之れを明らかにすること能はず。【火車】從つて「鬼」か「火車」か、本體を究むること難(かた)けれども、狼の老女となる話は古くして、且つ、弘(ひろ)し〔『鄕土硏究』一ノ十二〕。【犬】越中婦負(ねひ)郡櫻谷村大字駒見の古傳に依れば、昔、此の里に「ゆうゆう」と云ふ老尼あり。【山伏】夜は犬となりて、樣々の妖怪[やぶちゃん注:妖しい怪異。]を爲しけるが、或る時、山伏に足を斫(き)られ、それより、此の里に、住まず。【手紙】其の後(のち)三年ほそ經て、射水(いみづ)郡の荒山と云ふ所より、駒見の八右衞門なる者の家へ、書面を、おこせたり[やぶちゃん注:「おこす」は「遣(おこ)す・致(おこ)す」で「先方からこちらへ送ってくる・寄(よ)こす」の意。]。「犬の手跡」とて、人、皆、之れを見たり、云ふ〔「越中舊事記(くじき)」〕。然るに、此の話には、又、一(いち)異傳あり。此れよりも、時代、稍(やや)古く、且つ、土地の人の手に成りし著書には、之れを「狼なり」と云ヘり。昔、駒見村の「ようゆう」なる者の家に、年久しく召使ひし姥(うば)は、狼の化けて、人となりし者なりき。或る山伏、夜更けて呉服山(くれはやま)の古阪(ふるざか)[やぶちゃん注:地名かも知れぬが、確認出来ないので「旧道の坂」の意で採っておく。]を通りしに、狼、群れ來つて附き纏(まと)ふ。山伏、怖れて、喬木(けうぼく)[やぶちゃん注:高い樹。]に攀ぢ上りければ、狼、あまた打ち重なり、其の上に、姥、跨(また)がりて、彼(かれ)を引き下(おろ)さんとす。【片腕】山伏、短刀を拔き、其の姥の肘を打ち落せば、下の狼も、散々(ちりじり)になりて遁げ去りたり。夜明けて、山伏、樹より降り、駒見村を見掛(みか)けて、「暫く憩(いこ)はん」と、かの「ようゆう」が家に立ち寄りしに、姥は、傷、痛みて、叫(をめ)き號(さけ)び、打ち臥し居(ゐ)たりし處にて、山伏の姿を見るか否(いな)、逃げ出し、それより、行方(ゆくへ)を知らず。此の事、御郡(みこほり)[やぶちゃん注:引用原本で読みを確認した。]の舊記に出でたり、とあり〔「肯構泉達錄(こうこうせんたつろく)」十五〕。【赤岩一角】されば、かの「八犬傳」の「赤岩一角」のこごときも、不運なる化物には相違なきも、其の決して天下唯一の例(ためし)に非ざりしことは、此れ等の話に由りて、十分に明白にてあるなり。

 右の駄栗毛左京の話は、妻鹿(めが)孫三郞の話、又は、大森彦七の話などと同樣に、勿論、羅城門、或いは、一條戾橋(もどりばし)の怪談の一變形なるべきも、二箇の極めて肝要なる點に於いて、甲州下條(げでう[やぶちゃん注:柳田國男は「しもでう」であるが、現行の読みを歴史的仮名遣で示した。])及び常州芹澤の河童の話と相ひ接近し、二種類の昔話の中間に立つ者として大なる價値あり。其の二點と言ふは、一(いつ)は鬼が馬に向つて惡戲(いたづら)を試み、失敗したることなり。【化物謝罪】二には閉口・謝罪の後(のち)、腕の平穩なる還付を受けて、退散したることなり。此の二點は共に羅城門系統の話には見る所なくして、多數の河童談には、皆、之れを具ふ。【鬼】但し、河童と鬼とは、如何にも緣遠きのみならず、此れ等の話に在りては、馬は、未だ、重大ならざる端役(はやく)を勤むるに過ぎず。猶、追々と話の筋の進むに從ひて、始めて其の關係に非ざるを知り得るなり。

[やぶちゃん注:「ツレ」「ワキ」能楽用語。ツレとは、主人公(シテ)や脇役(ワキ)に連れられる形で登場する人物で、「シテ」に連れられている場合は単に「ツレ」或いは「シテツレ」、「ワキ」に連れられている場合は「ワキツレ」と呼ぶ。一般には「シテ」「ワキ」に比して格の下がる補助的な脇役である(但し、「高砂」のように「シテ」が夫で、その妻として「ツレ」が登場する場合等は重要なキャラクターとなる)。「ワキ」は文字通りの「脇役」であるが、能では極めて重要な役回りを演ずる。人間の男の役が殆んどで、舞台の状況を観客に告げたり、「シテ」とは展開上の重要な会話を行い、主題への開口部を切り開く。複式夢幻能等の役柄によっては、「シテ」を諫めたり、祈禱・修法(ずほう)を行ったりして、鎮魂・調伏等といったアクロバティクな展開を自ら行う。

「源氏の大將軍攝津守殿賴光の家人(けにん)に、渡邊綱、通稱を箕田(みだ)源二と云ふ勇士あり……」渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)四天王(他に坂田金時・碓井貞光・卜部季武)の筆頭とされる武人。嵯峨源氏で光源氏のモデルの一人である源融(みなもとのとおる)の子孫。だから、本名は源綱(みのもとのつな)である。通称は渡辺源次或いは源二とも。「箕田」は彼の生まれが武蔵国足立郡箕田(みだ)郷(現在の埼玉県鴻巣市箕田地区周辺)であったことに由る(但し、彼は摂津源氏の源満仲の娘婿であった源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に住んだ)。彼が鬼を退治した話は「平家物語」剣の巻や「源平盛衰記」「御伽草子」「太平記」「前太平記」及び歌舞伎「茨木」「戻橋」等に散見するが(そこには無名の鬼と「茨木童子」という名の別な鬼の話が誤って(というか確信犯で)混同されてもいる)、彼が羅城門(羅生門は後世の当て字)で鬼を退治した設定として人口に膾炙するのは、観世信光(永享七(一四三五)年又は宝徳二(一四五〇)年~永正一三(一五一六)年)作の能「羅生門」で、知られた「平家物語」では腕を斬り落とすのは「一条戻り橋」がロケーションで、羅城門ではないし、そもそも能ではここで肝心の腕を取り戻すシーンはなく、腕を斬り落とされた鬼は虚空に消え去る間際、『「時節をまちて又取るべし」と。呼ばはる聲もかすかに聞ゆる鬼神よりも恐ろしかりし。綱は名をこそ。あげにけれ』で終わるものなのである。後に鬼が綱の養母(伯母に当たるとする)に化けて腕を奪い去るのはである。少々長いが、示さないのも癪に障る(癪に障る理由はこの注の最後に示す)ので、当該パートのみを明治四三(一九一〇)年有朋堂書店刊の万治二(一六五九)年板行の流布本「平家物語」を参考にして引く(一部表記や読みは別本を用い、読み易さを考え、改行を施した)。「剣巻」は父満仲から源頼光に伝わった名剣二振り「鬚切」「膝丸」の奇異伝承譚で、同時に「宇治の橋姫」の後発系由来譚の一ヴァージョンとしても知られる。

   *

 かくて、嫡子攝津守賴光の代となりて、不思議、樣々多かりけり。

 中にも一つの不思議には、天下に人多く失する事あり。中にも一つの不思議には、天下に、人、多く失する事あり。死しても失せず。座敷に連なりて集り居たる中に、立つとも見えず、出づるとも見えずして、掻き消す樣にぞ、失せにける。行末も知らず、在所も聞えずありければ、怖しといふばかりなし。

 上一人(かみいちじん)より下萬民に至るまで、騷ぎ恐るる事、申すに及ばず。

 これを委しく尋ぬれば、嵯峨天皇[やぶちゃん注:在位は大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年。]の御宇に、或る公卿の娘、餘りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す樣、「歸命頂禮貴船大明神、願はくは七日籠もりたる驗(しるし)には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬(ねた)しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覺しけん、「誠に申す所、不便(ふびん)なり。實(まこと)に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀨に行きて三七日(みなぬか)[やぶちゃん注:二十一日。]漬(した)れ」と示現あり。女房、悅びて都に歸り、人なき處にたて籠りて、長(たけ)なる髮をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顏には朱を指(さ)し、身には丹を塗り、鐵輪(かなわ)を戴きて三つの足には松を燃やし、續松(たいまつ)を拵へて、兩方に火を付けて、口にくはへ、夜更け、人定(しづ)まりて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鐵漿(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形(きぎやう)に異ならず。これを見る人、肝魂(きもたましひ)を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀨に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類・境界(きやうがい)、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ樣(さま)にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に變じ、女を取らんとては男に變じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下(さがり)[やぶちゃん注:午後五時以後。]になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける。

 その頃、攝津守賴光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の隨一なり。武藏國の美田(みた)といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。

 一條大宮なる所に、賴光、聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帶(は)かせ、馬に乘せてぞ遣はしける。

 彼處(そこ)に行きて尋ね、問答して歸りけるに、一條堀川の戾橋を渡りける時、東の爪[やぶちゃん注:「詰(つめ)」に同じい。]に齡(よはひ)二十餘りと見えたる女の、膚(はだへ)は雪の如くにて、誠に、姿、幽(いう)なり[やぶちゃん注:至って静かでそこはかとなく雅びな雰囲気であるさま。]けるが、紅梅の打着(うちき)に守(まもり)懸け、佩帶(はいたい)の袖に經(きやう)持ちて、人も具せず、只獨り南へ向いてぞ行きける。

 綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、

「やや、何地(いづち)へおはする人ぞ。我らは五條わたりに侍り、頻りに夜深けて怖ろし。送りて給ひなんや。」

と馴々しげに申しければ、綱は、急ぎ、馬より飛び下り、

「御馬に召され候へ。」

と言ひければ、

「悅(うれ)しくこそ。」

と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乘らせて、堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町(おほぎまち)へ、今、一、二段(たん)[やぶちゃん注:距離単位。「反」とも書く。凡そ一段は六間で約十一メートル。]が程、打ちも出でぬ所にて、この女房、後ろへ見向きて申しけるは、

「誠には、五條わたりにはさしたる用も候はず。我が住所(すみか)は都の外にて候ふなり。それ迄、送りて給ひなんや。」

と申しければ、

「承り候ひぬ。何處(いづく)迄も御座所へ送り進(まひ)らせ候べし。」

と言ふを聞きて、やがて、嚴(いかめ)しかりし姿を變へて、怖しげなる鬼になりて、

「いざ、我が行く處は愛宕(あたご)山ぞ。」

と言ふままに、綱が髻(もとどり)を摑みて提げて、乾(いぬゐ)[やぶちゃん注:北西。]の方(かた)へぞ飛び行きける。

 綱は少しも騷がず、件(くだん)の鬚切をさつと拔き、空樣(そらざま)に、鬼が手を、

「ふつ。」

と切る。

 綱は、北野の社の𢌞廊の星の上に、

「どう。」

と落つ。

 鬼は、手を切られながら、愛宕へぞ飛び行く。

 さて、綱は𢌞廊より跳り下りて、髻に附きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌(すがた)に引き替へて、黑き事、限りなし。白毛(しらが)隙(すき)なく生ひ繁り、銀の針を立てたるが如くなり。

 これを持ちて參りたりければ、賴光、大きに驚き給ひ、『不思議の事なり』と思ひ給ひ、「晴明を召せ。」

とて、播磨守安倍晴明を召して、

「如何あるべき。」

と問ひければ、

「綱は七日の暇を賜りて愼むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈禱には仁王經(にんわうきやう)を講讀せらるべし。」

と申しければ、そのままにぞ行なはれける。

 既に六日と申しけるたそがれ時に、綱が宿所の門を敲く。

「何處(いづく)より。」

と尋ぬれば、

「綱が養母、渡邊にありけるが、上(のぼ)りたり。」

とぞ答へける。彼の養母と申すは、綱が爲には伯母なり。『人して言ふは、惡しき樣に心得給ふ事もや』とて、門の際(きは)まで立ち出でて、

「適々(たまたま)の御上りにて候へども、七日の物忌みにて候ふが、今日は六日になりぬ。明日ばかりは[やぶちゃん注:明日までは。]、如何なる事候ふとも、叶ふまじ。宿を召され候ふべし。明後日になりなば、入れ參らせ候ふべし。」

と申しければ、母はこれを聞きて、さめざめと打ち泣きて、

「力及ばぬ事どもなり。さりながら、和殿(わどの)を母が生み落ししより請け取りて、養ひそだてし志(こころざし)、如何(いか)ばかりと思ふらん、夜とて安く寢(い)ねもせず、濡れたる所に我は臥し、乾ける所に和殿を置き、四つや五つになるまでは、『荒き風にも當てじ』として、『いつか我が子の成長して、人に勝れて好からん事を見ばや聞かばや』と思ひつつ、夜晝、願ひし甲斐ありて、攝津守殿御内(みうち)には、美田源次といひつれば、肩を雙(なら)ぶる者もなし。上にも下にも譽められぬれば、『悅(よろこび)』とのみこそ思ひつれ、都鄙遼遠(とひれうゑん)の路なれば、常に上る事もなし。『見ばや見えばや』と、『戀し』と思ふこそ、親子の中の歎きなれ。この程、打ち續き、夢見も惡しく侍れば、覺束なく思はれて、渡邊より上りたれども、門の内へも入れられず。親とも思はれぬ我が身の、子と戀しきこそ、はかなけれ。」

 綱は道理に責められて門を開きて入れにけり。

 母は悅びて來し方行く末の物語し、

「さて七日の齋(ものいみ)と言ひつるは、何事にてありけるぞ。」

と問ひければ、隱すべき事ならねば、ありの儘にぞ語りける。

 母、これを聞き、

「扨は重き愼みにてありけるぞや。左程の事とも知らず、恨みけるこそ悔しけれ。さりながら、親は守りにてあるなれば、別の事は、よもあらじ。鬼の手といふなるは、何なる物にてあるやらん、見ばや」

とこそ申されけれ。

 綱、答へて曰はく、

「安き事にて候へども、固く封じて侍れば、七日過ぎでは叶ふまじ、明日暮れて候はば、見參に入れ候ふべし。」

 母の曰く、

「よしよし、さては、見ずとても事の缺くべき事ならず、我は又、この曉は夜をこめて下(くだ)るべし。」

と恨み顏に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出だし、養母の前にぞ置きたりける。

 母、打返し、打返し、これを見て、

「あな、怖しや、鬼の手といふ物は、かかる物にてありけるや。」

と言ひて、さし置く樣(やう)にて、立ちざまに、

「これは、我が手なれば。取るぞよ。」

と言ふままに恐ろしげなる鬼になりて、空に上りて破風(はふ)の下を蹴破りて、虛(そら)に光りて、失せにけり。

 それよりして、渡邊黨の屋造りには破風を立てず、東屋(あづまや)作りにするとかや。

 綱は鬼に手を取り返されて、七日の齋(ものいみ)破るといふとも、「仁王經」の力に依て別の子細なかりけり。

 この鬚切をば、鬼の手切りて後、「鬼丸」と改名す。

   *

 最後に。観世信光のロケ地の迫力をワイド・アップする演出で勝手に変えられた「羅城門」を、ここで柳田が太字見出し標題に用いているのは、正直言って全くピンと来ないのだ。「斬られし腕を取返しに來たる鬼」ぐらいにしておいて欲しいと私は思う。さても、ここで私は、柳田が意識的に南方熊楠の記述法を下手に真似ようとしたと言う「再版序」に思い至るのである。それはしかし、全く以って決定的な誤りであった。それは柳田國男自身が実際にそう感じていたのだ。だからこそこの記載表現や方式を二度とは彼は採らなかったのだ。南方は生来の稀有の真正の博物学者であったし、その天馬空を翔るが如き自在な叙述は、頗る適正確実で、一貫した近代的な、否、現代的な科学者の本質をそこに持っていた。ところが、柳田國男の本書は、冒頭「小序」の小ロマン主義的な詩歌染みたそれからも判る通り、どこかで、この時、彼は、自身が、学者であるよりも文学者たらんとする色気を感じてさえいたのではないかとさえ思うのである(私は彼の晩年の「海上の道」の非科学的ロマン主義的発想にもそれを覚える)。その誤謬が、この見出しの「羅城門」にはよく現われていると感ずる。遙かに溯る古典文学の饐えた香気を、これ見よがしに少年期の思い出まで総動員して漂わせつつ、読者を煙(けむ)に巻き、迂遠に語りだすという、正直、かったるい書法は、南方熊楠の、自然現象(民俗もその中に当然の如く包括される)を強烈な速度と脱線を交えながらも、着実に解析して厳密に収斂させてゆく手法とは、実は、全く似て非なるものであると感ずる。もしかすると、柳田は本質的に詩人・作家である或いはそうであろうとした同輩折口信夫に秘かに嫉妬していたのかも知れない。私は今、そんなことをここでうだうだと思っているのである。

「腕切丸(うできりまる)」聴いたことがない。改名した「鬼『切』丸」と別な一名刀「『膝』丸」を混同し、鬼女の腕切り・河童の腕切り伝承譚がごちゃごちゃになって誤ったものだろう。「再版序」で細部に気を使う癖を自嘲風に述べているが、どうして、杜撰だ。

「海を越えて佐渡島に行けば、此の話は忽ち變じて駄栗毛(だくりげ)左京の武勇談となりて傳へらる……」実は「羅城門」のこの辺りまでは私は以前、『柴田宵曲 續妖異博物館「羅生門類話」』で電子化している。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」のこちら(妖怪(但し、これは特殊な人妖で精神疾患の一種の色彩が濃厚である)呼称名「弥三郎婆さん」「弥三郎の母」「鬼女」「老女」)によれば、昭和五四(一九八四)年新潟県刊「新潟県史 資料編二十三 民俗二」の要約によれば、佐渡郡佐和田町(現在の佐渡市の真野湾奧部沿岸の佐和田地区(グーグル・マップ・データ))の伝承として、『駄栗毛左京が主人の命で使いに行く。沢根まで来ると急に空がかき曇って風が出、諏訪社の森近くまで来ると雷が来て、何者かが馬をつかんで動かさないので後ざまに切ると手ごたえがある。そこに』一『丈余りもある鬼女が現れて黒雲に乗って逃げる。あとに腕が残されていたが、ある雨の晩老女が訪ね、自分は越後弥彦在の農夫弥三郎の母だといって許しを請い、以降悪事を改めると誓いを立てたので、腕を返す。それ以来弥三郎婆さんは二度と佐渡には姿をみせなかった』とある。また、主に新潟の鬼や妖怪を紹介している個人サイト「六華屋」の「弥三郎婆(やさぶろうばば)」には(これは新潟の伝承も一緒に全七篇を纏めておられ、ここを読解するに非常に重宝であり、ここに記されていない別ヴァージョンの興味深い伝承が載る。必読!)、「佐渡・佐和田に伝わる話」として以下のようなプレにヴァンパイア風の因縁が配されたものが載る(行空けを除去し、一部の行頭を一字下げ、読点・記号を追加した)。

   《引用開始》

 弥彦の弥三郎婆の子供が、佐渡に出稼ぎに行っていた。

 婆は子供に会うために、良く佐渡に渡って、そこでは姥ヶ沢という旧家の子守をしていた。

 ある時、その家の子供の足に膿ができ、手当てのために膿を吸い取り出してやった。

 その時に、血が混じり、血の味を忘れられなくなった。

 そのため、あちこちで子供を殺して血を吸ううちに、鬼になってしまった。

 さて、沢根には駄栗毛左京という武士がいて、用事で遠出したときに、帰りが遅くなってしまった。

 雷が鳴るような音とともに、体に何者かが触れたので、ただちに刀を抜き、斬りかかった。

 片腕を切り落としそれをそのまま家に持ち帰った。

 幾日か経って夜中、戸を叩く者がいる。

 出てみると老婆が立っていた。

 老婆は、礼儀正しく、「切られた腕は私のものなので返してほしい」と言った。

 左京が腕を返してやると、「以後は決して子供の血を吸う事はしない」と言って出て行った。

   《引用終了》

最後に、『佐和田では』九月二十日の『五十里(いかり)祭には弥三郎婆が雲に乗ってやって来るので』、『必ず雨が降るという』とある。サイト「福娘童話集」のこちらも参照されたい(ここでは「駄栗毛」を「たくも」と読んでいるが、以下に見る通り、後裔の方が「だくりげ」であられるから「だくりげ」が正しい)。

 実は、調べてみたところ、何と、この駄栗毛左京の後裔である駄栗毛寛氏がおられ、佐渡の新聞『島の新聞』の平成二二(一〇一〇)年十月二十八日附に小林祐玄氏の記事「佐渡金山と金銀山ロードの住人たち12」の「先祖は御林守 駄栗毛 寛さんがあったのである(PDF)。自身の先祖の史料を収集されており、この伝説は延享元(一七四四)年の「佐渡名勝志」には「駄栗毛左京太刀之事」、同じ延享三年の「佐渡風土記」には「駄栗毛左京鬼女を伐る事」という標題で載るとある。詳しくは記事を読まれたいが、地名と史実を綜合すると、この駄栗毛左京の鬼女の腕切伝承は江戸時代以前の話で、駄栗毛家は中世以来の家柄となるとある。

「佐渡の本間殿」ウィキの「本間氏」の「佐渡本間氏」によれば、『鎌倉時代から戦国時代まで佐渡国を支配した氏族。武蔵七党横山党海老名氏流。本間の名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来』。『鎌倉時代初期、佐渡国守護となった大佛氏(執権北条氏の支流)の守護代として佐渡に入った本間能久より始まる。雑太城(さわだじょう)を本拠として勢力を伸ばし、いくつかの分家に分かれた』。永正(えいしょう)六(一五〇九)年の「永正の乱」では『関東管領上杉顕定に敗れた越後守護代の長尾為景と守護上杉定実を匿い』、翌永正七(一五一〇)年には『羽茂本間家・雑太本間家が為景に援軍を出し』、『寺泊から越後へ上陸』、「長森原の戦い」で『顕定を敗死させた。その功により』、『為景から越後に領地を与えられている』。『戦国時代になると』、『分家の河原田本間家、羽茂本間家の力が強ま』って、『度々』、『争うようになり、惣領家の雑太本間家は没落』した。『為景の子長尾景虎(上杉謙信)の代に河原田、羽茂両家の争いはいったん収ま』ったが、天正六(一五七八)年の『謙信の死後に再燃』し、『後に上杉景勝の代になると、会津の蘆名氏、出羽国の最上義光と結び』、『反上杉の姿勢を取るようになる』。『豊臣秀吉から許しを得た景勝は』、天正一七(一五八九)年に『佐渡へ侵攻』、『本間氏を討伐。抵抗する佐渡側の本間氏と決別して上杉側に就いた一部の本間氏は、討伐後に佐渡を離れて上杉家と共に越後、会津、米沢へと移転した』とある(先の『島の新聞』の小林祐玄氏の記事の考証では、この最後の部分が絡んでいる)。

「河原田(かはらだ)」現在の新潟県佐渡市河原田本町や、その隣りの河原田諏訪町附近であろう(グーグル・マップ・データ)。先の佐和田地区内である。

「諏訪大明神」現在の新潟県佐渡市鍛冶町にある「諏訪大明神」(グーグル・マップ・データ)であろう。別に「諏訪神社」が河原田諏訪町にあるが、ここでは「河原田の館」に直近過ぎるので違うと私は思う。

「後に名僧の教化を受けて、神樣となる。【妙虎天】今の彌彦山の「妙虎天(みやうとらてん)」と云ふ祠(ほこら)はこの彌三郞は老母なり〔「佐渡風土記」〕」幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションに「佐渡風土記」の原典画像があった。当該箇所はここである。柳田のは勘所を押さえた梗概ではあるが、原話の方が遙かに堅実な(追記などは事実立証を添える)描写がなされていることが判る。是非、原典で読まれたい。但し、「妙虎天」に就いては詳しくは述べていない。

『越後方面に傳へたる噂に依れば、神の名は「妙多羅天(みやうたらてん)」とあり』先の「六華屋」「弥三郎婆」に「弥彦山の麓に伝わる話」があり、そこにこの神名が出る。先と同じ仕儀を施させて貰い、アラビア数字を漢数字に代えた。

   《引用開始》

 弥彦山の麓に里津という家があり、弥彦神社の鍛冶職を務めていた。

 一〇七九年[やぶちゃん注:承暦二年。]、弥彦神社造営の上棟式を催す事となり、工匠どちらが先に式を執り行うかで争いになった。

 里津一門の当主は弥三郎で、特にその母は、争いから一歩も引かなかった。

 結局、里津一門の主張は退けられ、数年間、深く恨み続けた母親は悪鬼となった。

 鬼女となった母親は天空を駆け巡って子供を攫い、墓を暴いては、屍を貪り食った。

 ある日、猟に出た弥三郎は、帰途、何者かに襲われたが、持っていた鎌で撃退し、その腕を切り落とした。

 その腕を持ち帰った晩、鬼と化した母親に息子の弥治郎を奪われそうになった。

 飛び掛って息子を取り戻したが、その隙に腕を取り返され、暗闇に消えてしまった。

 これ以来、弥三郎婆は家に寄り付かず、吹雪に乗って飛び回り、幼い子供を攫った。

 弥彦山・魚沼の権現堂山・加賀の白山・信濃の浅間山などを渡り歩いた。

 こうして七十八年間、悪事を続けたが、保元元(一一五六)年、弥彦の典海阿闍梨に呼び寄せられ、教えを受けた。

 改心し、「これまでの償いに」と、幼い子供を守り育てる誓いを立て、「妙多羅天女」の名を授けられた。

 いっそう変幻自在となり、天にあって、子供と神仏を守る鬼神となった。

   《引用終了》

なお、リンク先には弥彦に伝わる別な鬼婆系の話も載る(一番最後)ので参照されたい。また、ウィキの「妙多羅天」によれば、『妙多羅天(みょうたらてん)または妙多羅天女(みょうたらてんにょ)は、神仏、善人、子供の守護者、悪霊退散の神、縁結びの神とされる日本の神』で、『新潟県、山形県で祀られている』。『新潟県西蒲原郡弥彦村には、弥彦神社に隣接して妙多羅天が祀られており、以下のような伝承がある』。『佐渡国雑太郡(現・新潟県佐渡市)でのこと。ある夏の夕方、老婆が山で涼んでいると、老いたネコが現れた。ネコが地面に転がったので、老婆もそれを真似ると、なぜか急に体が涼しくなってとても気持ち良くなったので、毎日のように同じことを繰り返した。すると老婆の体がとても軽くなり、自在に空を飛ぶようになり、体に毛が生え、凄まじい形相となり、雷鳴を放ちながら空を舞い、海を渡って弥彦に至り、雨を降らせた。土地の者が困り、祠をもうけて老婆を崇めると、ようやくこの暴威はおさまった。ただし年に一度だけ、妙多羅天が佐渡に帰る際には、激しい雷鳴で国中を脅かすという』。『これは文化』(一八〇四年から一八一八年)年間の随筆「北国奇談巡杖記」に『あるもので、同書ではネコとの関連のためか、名称の「みょう」に「猫」の字を当てて「猫多羅天」と記述されている』これは明らかに先の「佐渡・佐和田に伝わる話」の別ヴァージョンである)。『ほかにも新潟の妙多羅天には、鬼または化け猫が弥三郎という者の母を喰って母に成り済ましたが、後に改心して妙多羅天として祀られた、など多くの異説がある』。『また、山形県東置賜郡高畠町一本柳にも「妙多羅天」という祠があり、これには以下の伝承がある』。『平安時代』、『源義家に敗れた安倍氏の武士の一子・弥三郎が、母と共に御家再興を願いつつ隠れ住んでいた。やがて弥三郎が修行の旅に出た後、母は悪病に侵されるが、悲願達成の想いの強さから死に切れずに鬼と化し、オオカミたちを率いて旅人を襲い、金品を奪って御家再興の資金を貯めていた。やがて帰って来た弥三郎も母に襲われるが、彼は母と知らずに鬼の手を斬り落とした。弥三郎が帰宅すると、家で寝込んでいた母は、弥三郎が持ち帰った鬼の手を奪い取るなり、弥彦山へと逃げ去った。弥三郎は家への想いのあまり鬼と化した母を哀れみ、母を妙多羅天として祀ったという』。『前述の新潟のような妙多羅天・弥三郎婆の伝承は、この山形の伝承がもととなり、化け猫やオオカミの怪異譚が混ざってできたものと考えられている』とあり、後の柳田の「狼」の話とリンクしている。

「姥神脇侍」この頭書はよろしくない。脇侍を言う場合、例えば、「阿彌陀如来脇侍は左脇侍(向かって右)が観世音菩薩、右脇侍(向かって左)が勢至菩薩。但し、真宗系では立像の阿弥陀如来一尊を本尊とし脇侍は配さない」とか「釈迦如来脇侍は左脇侍に獅子に乗る文殊菩薩、右脇侍に象に乗る普賢菩薩を配する例が多い」等と言うように、脇侍となる本尊を上に持ってくるのが常識で、「文殊脇侍」等とは絶対に言わないからである。ここは【(阿彌陀如來)脇侍姥神】とすべきところである。

「岩瀨の聖了寺」不詳。現在、新潟県十日町市岩瀬があるが、この寺は見当たらない。fumimalu takahashi氏のサイト「郁丸滄海拾珠」に二〇〇三年十月五日「日本民俗学会」第五十五回年会ポスターセッション参加発表とある『高橋郁子著「ヤサブロバサをめぐる一考察」』は、新潟を中心として全国の「弥三郎婆」或いは類似の伝承を総覧し、考証を加えた優れたものであるが、そこにもこの寺は出ない。ところが、あとの割注に示された「越後名寄」(寺泊出身の医師丸山元純(貞享四(一六八七)年~宝暦八(一七五八)年:京都で学び、郷里越後三島郡で開業、後に生地寺泊に移った)が医業の傍ら、越後の史料・口碑を蒐集した一種の百科全書。全三十一巻)の第四巻を調べていたところ、ここ(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」内の同書原本画像)に、蒲原郡に真言宗の聖了寺とあり、そこには石瀬村とあるのを見出した。そこには寺の事蹟だけで、この話は載らないが、どうみても偶然の一致ではあるまいという気がした。取り敢えず、識者の御教授を乞うておく。【2019年1月19日追記】T氏より、また情報を頂戴した。これは柳田の割注の誤りで、「越後名寄」の第四巻ではなく、第五巻で、上記の早稲田画像で、ここここに当たる部分(「彌三郞屋敷 中村村」の項)に「彌三郞屋敷」と「岩瀨ノ聖了寺」のことが記されてあることをお伝え下さった。さらに、この「岩瀨の聖了寺」については、「馬琴書簡集成」第一巻(寛政頃~天保元年)の文政元年十一月八日牧之宛書簡の中に(リンク先はグーグルブックス)、この「越後名寄五後の彌三郞屋敷」が出るものの、そこに「岩瀬村ノ聖了寺」は(頭書)「石瀬邨也。聖了寺誤也、靑龍寺是也。」とあって、これは、牧之が誤り指摘したものと推定される、とご連絡下さった。この「石瀬村」の「青龍寺」ならば、現在の新潟市西蒲区石瀬に真言宗青龍寺として現存するここ(グーグル・マップ・データ)。いつもながら、感謝申し上げる。なお、この追記に合わせて、後の注の不要になった一部を除去した。

「眞言法印」真言宗の法印(「法印大和尚位」の略。僧位の最上位で、旧来の僧綱(そうごう)の「僧正」に相当する。この下に法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)があった)という名を出さない一般名詞表現。

『越後三島郡中島村に「彌三郞屋敷」と云ふ故迹(こせき)あり』この表記に従って調べると、現在の新潟県長岡市越路地区(グーグル・マップ・データ)に相当する。ところが、個人ブログ「UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害をうけるだろう」の『「弥三郎」の名は、かつての集団的記憶の底では、近江の伊吹童子弥三郎や柏原弥三郎伝説のイメージと、まず重なって響いた。(1)』には、『西蒲原郡分水町中島や、新津市古津字椀田など数ヵ所に、弥三郎の屋敷跡と伝えられる土地があったのは確かである』とあり、また『これと並行するように、新潟県燕市(旧、分水町)の中島と同じ町内の砂子塚の田の中に、酒呑童子誕生の屋敷跡なるものがあるのをはじめ、岩室村和納にも童子屋敷、童子田という地名が残されていることである。酒呑童子が越後で生まれたとの説は』、十七『世紀後半に』「甲陽軍鑑」・「渋川板御伽草子」「金平浄瑠璃いぶき山」「前太平記」『などを通じ、次第に流布、近松の浄瑠璃『酒呑童子枕言葉』で決定的に広まったように思われる』とある中に、別名地区の「中島」の地名が散見するのは大いに気になる。なお、酒呑童子が越後で生まれたという伝承は、既に北越奇談 巻之六 人物 其二(酒呑童子・鬼女「ヤサブロウバサ」)で考証しているので、参照されたい。

「鴨網(かもあみ)」はカスミ網を用いた鴨猟。

『「今昔物語」の中にも、之れと似たる、鬼婆の腕の話ありて……』これは「今昔物語集」でもよく知られた一話で、「巻第二十七」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十二)である。但し、柳田の梗概は解説を端折り過ぎていて、「忰(せがれ)」(これでは一人息子がそうするようにしか見えない)は兄弟二人である。私は既に「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」の注で電子化しているので参照されたい。

「刈羽(かりは)郡中鯖石(なかさばいし)村大字善根(ぜこん)にては、狼に成つて漆山(うるしやま)と云ふ處にて、人を食ひ、後に我が子の爲に退治せられて八石山(はちこくさん)に入ると傳ふ」現在の新潟県柏崎市大字善根Yahoo!地図)。「漆山」は地名で善根の南西直近の中鯖石与板地区内に現存することが、「柏崎市」公式サイト内の『柏崎伝統野菜「与板菜」』で判明した。八石山は善根の東方にある(標高五百十八メートル)。このかなり強烈で興味深い鬼婆の話はその生臭さ故か、ネット記載が乏しいが、二〇一二年三月発行の『国立歴史民俗博物館研究報告』第百七十四集の、勝田至氏の論文「火車の誕生」(PDFでダウンロード可能)に見出せた。

   《引用開始》

新潟県などに伝わる弥三郎婆の伝説では死体を食ったとするものがある。新潟県柏崎市久木太(くきぶと)[やぶちゃん注:ここは善根の小字である。]では弥三郎の母が鬼婆になり、弥三郎が山で狼に襲われたとき狼が鬼婆を呼んできたので鉈で斬りつける。家に帰ると母は鉢巻をして寝ている。その後赤ん坊を食ったので弥三郎が斬りかかると鬼になって破風から飛び出し、弥彦山へ行った。一説では弥三郎婆はその後八石山の岩屋に住み、赤い長柄の傘に赤の衣を見ると葬式だと知って棺をさらい、死人を食った。飛岡の浄広寺の和尚が一計を案じ、青の日傘に青の衣に改めたら、棺を奪われることがなくなったという(『柏崎市伝説集』)。この話は火車説話の一種といえるが、弥三郎婆の伝説は弥彦山周辺など新潟県各地に伝わるのを含めて「鍛冶屋の婆」型の話に中心があるので、この土地ではそれに火車が取り入れられたと思われ、死体を食うのは火車の一般的性格とはいえないだろう。もともとの悪人を地獄に連れて行くという設定は失われたが、それを補うような死人を奪う理由は考え出されなかった。他の多くの妖怪もそうだろうが、火車は「葬送のさい雷雨になる」という実際の現象および「葬送のさい死体が奪われる」という噂の中の現象を妖怪化したものであり、弥三郎婆のような別の話を取り入れない限り、独自の生活などの奥行きは本来持っていない。

   《引用終了》

とある。文中の「鍛冶屋の婆」は狼系伝承の有名なものの一つで、柳田の本文の直後に出る狼に跨った婆の話もその典型的な変形の一つである。総称を時に「千疋(匹)狼(せんびきおおかみ)」と呼ぶものの代表的な一型で、「鍛冶が嬶(かか)「鍛冶が媼(ばば)」等と呼び、代表的なものでは、高知県室戸市に伝わる説話である。ウィキの「千疋狼」の「鍛冶が嬶」によれば、『ある身重の女が奈半利(現・安芸郡奈半利町』(『なはりちょう))へ向かうために峠を歩いていた。夜になる頃に陣痛が起き、運悪くオオカミが襲って来たが、そこへ通りかかった飛脚に助けられ、木の上へ逃げることができた。オオカミたちは木の上へは爪が届かないので、梯子状に肩車を組んで木の上へ襲いかかろうとし、飛脚は脇差で必死に応戦した』。『その内にオオカミたちは「佐喜浜の鍛冶嬶を呼べ」と言い出した。しばらくすると、白毛に覆われた一際大きいオオカミが鍋をかぶった姿で現れ、飛脚に襲い掛かった。飛脚は渾身の力で脇差しを振り下ろすと、鍋が割れると共に人の叫びのような声が響き、オオカミたちは一斉に姿を消した』。『夜が明けて峠に人通りが出始めたので、飛脚は女を通行人に任せ、自分は血痕を辿って佐喜浜の鍛冶屋へ辿り着いた。お宅に嬶はいないかと尋ねると、頭に傷を負って寝込んでいるということだった。飛脚は屋内に入り込み、中で寝ていた嬶を斬り倒した。嬶の姿をしていたのはあの白毛のオオカミであり、床下には多くの人骨、そして本物の嬶の骨も転がっていたという』。『佐喜浜には現在でも鍛冶が嬶の供養塔が残っている。また佐喜浜を訪れた郷土史家・寺石正路によると、明治時代には鍛冶が嬶の墓石もあったとされ、鍛冶屋の子孫といわれる人々には必ず逆毛が生えていたという』。江戸時代の奇談集「絵本百物語」では『「鍛冶が嬶」と題し、オオカミに食い殺された女の霊がオオカミに憑いて人を襲う話となっており』、『千疋狼のような特徴は見られないが、挿絵ではオオカミの群れが樹上に向かって梯子状に肩車を組む姿が描かれている』。『多くは、夜間にオオカミの大群に襲われた人間が木の上に登り、オオカミたちが梯子のように肩車を組んで樹上の人間を襲おうとするものの後一歩で届かず、オオカミが自分たちの親玉の化け物を呼びつける、というものである。動物学者・平岩米吉はこれらを、オオカミが夜に活動する習性、指揮をとる者のもとに集団で行動する習性を意味するとし、オオカミが肩車を組むのは、オオカミの高く飛び上がる身の軽さを表現したものと指摘している』とある。

「飛岡(とびおか)の淨廣寺」新潟県柏崎市大字善根に現存する曹洞宗瑞瀧山浄広寺。飛岡は小字。

「火車」ブログ・カテゴリ「怪奇談集」でもさんざん出て、注も何度もしてきたが、ここではもう、決定版として先の勝田至氏の論文「火車の誕生」(PDFでダウンロード可能)を読まれるに若(し)くはない。

「越中婦負(ねひ)郡櫻谷村大字駒見」現在の富山市桜谷(さくらだに)見(こまみ)(グーグル・マップ・データ)。呉羽山東麓の神通川左岸。

「射水(いみづ)郡の荒山」思うに私はこれは、石川県鹿島郡中能登町と富山県氷見市との境にある荒山峠(標高三百八十七メートル)のことではないかと私は踏む。ここは古くから越中と能登を結ぶ峠の一つで、茶屋があり、能登からの石動山(いするぎやま)参詣者や越中の商人や和倉温泉客が頻繁に通行した。約一キロメートル北東に能登守護畠山氏一統の荒山城跡がある。氷見市は元射水郡である(現行では富山県側は氷見市小滝)。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は富山県立伏木高等学校の出身であるが、この辺りはともかくも山奥で、老尼の妖しい野犬(のいぬ)に変じた者が姿を隠すには相応しいところと心得るのである。

『此れよりも、時代、稍(やや)古く、且つ、土地の人の手に成りし著書には、之れを「狼なり」と云ヘり……』これはまさに「千疋狼」の体裁を完全に具備しているものである。前の注でも引いたウィキの「千疋狼」の「小池婆(こいけばば)」によれば、『雲州松江(現・島根県松江市)に伝わる説話』。『松江の小池という武家に仕える男が、正月休みに里帰りし、主の登城日前日の朝、未明の内に家を発って主のもとへ向かった。檜山へ差し掛かった頃、オオカミの群れに出くわしてしまい、逃げ場を失って路傍の大木に登り、難を逃れようとした』。『すると』、『オオカミたちは梯子状に肩車を組んで男に近付いてきたが、あと少しのところで高さが足りない。一番上のオオカミが「小池婆を呼べ」と吠えたてた。それに応じて』、一『匹の巨大なネコがやって来て、オオカミの梯子を昇って来た。男はネコを待ち受け、腰の刀を抜いてネコの眉間を切りつけた。金属音が響き、ネコもオオカミの群も姿を眩ました』。『やがて夜が明けて人の声がするようになり、男は安心して木から降りると、足元に茶釜の蓋が落ちていた。良く見ると、それは見慣れた主の家の茶釜の蓋だった。不思議に思い、男はそれを持って主の家へ向かった』。『主の家へ着いたところ、主の母親が昨晩、厠で転んで額に大怪我をしたと大騒ぎになっていた。さらに家の茶釜の蓋がなくなり、探し回っているところだった。男は茶釜の蓋を主に見せて事情を話した。主が母の部屋を覗くと、母は布団をかぶって妙な声で呻いていた』。『主は母を怪しいと睨み、布団の上から刀で突き刺した。布団を剥いで見ると、そこには老いたネコの死骸があったという』。続いて「弥三郎婆」の項。『弥三郎婆(やさぶろうばば)は、新潟県弥彦山を始め、山形県』、『福島県、静岡県に伝わる説話』。『中でも、以下の弥彦山の伝説が知られている』。『弥彦山の麓に、弥三郎という男が老いた母親と共に暮していた。ある日、弥三郎は山の中でオオカミの群れに出くわしてしまい、大木に登って難を逃れようとした』。『すると』、『オオカミたちは梯子状に肩車を組んで男に近付いてきたが、あと少しのところで高さが足りない。一番上のオオカミが「弥三郎の婆を呼べ」と吠えたてた。すると空に暗雲が立ち込め、その中から毛むくじゃらの腕が現れて弥三郎を掴んだ。弥三郎は必死に刀でその上を斬りつけると、雲もオオカミも消えてしまった』。『弥三郎は、オオカミたちはなぜ自分の母を呼んだのだろうと不思議に思いつつ、斬り落とした腕を持って帰宅した。家では母が布団を被って妙な声で呻いていた。弥三郎が事情を話して件の腕を見せると、母は「これは俺の腕だ!」と叫び、肩口から血を滴らせつつ逃げ去った。この母の正体は鬼婆であり、本物の母は既に鬼婆に食べられてしまった後だったという』。『なおこの説話には、弥三郎婆は鬼ではなくオオカミたちを率いる老いたネコだった』とするものや、既に見たように、『鬼婆が後に改心して妙多羅天という神になったなどの多くの異説がある』。妙多羅天の名の祠は山形県東置賜郡高畠町にもあり、羽前国(現・山形県)の伝説では渡会弥三郎という者が母の変化した鬼女に襲われ、その腕を斬り落としたとされ』、『前述のような弥三郎婆の説話は、この弥三郎の話に小前述の「小池婆」のようなネコやオオカミの怪異が混ざって生まれたという説もある』とあり、これらには以上のように、鬼女とは別の異類変化譚との有意な混淆が見られる。これはリアルなカニバリストととしての鬼婆を民話としてソフトにする効果もあるのかも知れない。それは飢饉の際に実際に人肉を食った過去を持つ、或いはそうした伝承記憶を根の部分に持つ人々には、リアル過ぎる人食い婆の話はそう変化させようとする力学が働くものと私は考えている。

「呉服山(くれはやま)」現行の呉羽丘陵。

「肯構泉達錄(こうこうせんたつろく)」は富山藩第八代藩主前田利謙(としのり)及び第九代藩主利幹(としつよ)仕えた藩士・漢学者・藩校広徳館学正(教授)であった野崎雅明(宝暦七(一七五七)年~文化一三(一八一六)年)。祖父伝助及び父雅伯(まさのり)の成そうとした越中史の研究に努め、死去する前年の文化十二年に完成させた最初の越中通史。全十五巻。以上国立国会図書館デジタルコレクションの画像で引用元の本文を確認出来る。柳田國男はここで、わざと、中国にも同類の話があることを野崎が「諭愚隨筆」という書名まで挙げて附記しているのを、平然とカットしているのは実にイヤな感じである。

「八犬傳」「赤岩一角」滝澤馬琴の読本「南総里見八犬伝」の登場人物の一人である赤岩一角武遠(あかいわいっかくたけとお)。下野赤岩の郷士で八犬士の一人で、礼の珠を持つ犬村大角礼儀(いぬむらだいかくまさのり)の実父。武芸に秀で、庚申山の化け猫を退治しに出かけたが、逆に食い殺された。庚申山山頂の洞窟で八犬士の一人犬飼現八信道(いぬかいげんぱちのぶみち:信の珠を持つ)は一角の魂魄と出会い、妖猫を父と信じて疑わない大角に真実を知らせることと、その妖猫を退治することを託す。犬村大角は寛正元(一四六〇)年)生まれの設定で、上記の通り、父親を殺してなり代わった化猫(偽赤岩一角)に虐待されたため、母方の伯父犬村蟹守儀清(いぬむらかもりのりきよ)に引き取られた。犬村家の一人娘雛衣(ひなきぬ)と結婚するが、雛衣の腹部が妊娠したように膨らんだことを、自分以外の男と密通したためと誤解して離縁し、自らは返璧(たまかえし)の里の草庵に住まっている。犬飼現八が赤岩一角の霊の請託を受けて大角を訪問した時には、雛衣の弁解を聞きながら無言の行を続けていた。雛衣の腹部が膨らんだのは、大角の珠を飲み込んでしまったためであった。犬飼現八の助力と雛衣の犠牲により、父の仇である化猫を倒し、犬士の群れに加わる。八犬士中、最後に登場する犬士で、古今の書物に精通している。関東での大戦では「赤岩百中」と名乗り、敵地三浦に潜入して活躍した。後に里見義成の三女鄙木姫(ひなきひめ 文正二・応仁元(一四六七)年生まれの設定)と結婚した(大角にとっては再婚)。鄙木姫との間に二男二女を儲けた。私は「八犬伝」読んだことがないので(妻は大ファンで通して原本を三回も読んでいる!)、ウィキの「南総里見八犬伝の登場人物に拠った。

「妻鹿(めが)孫三郞」(生没年未詳)南北朝期の武将。播磨妻鹿の功山(こうやま)城主。「太平記」によれば、力が優れ、相撲では日本六十余州に無敵とし、正慶(しょうきょう)二/元弘三(一三三三)年の「元弘の乱」の際には、一族十七名とともに赤松則村方につき、北条勢と闘った。孫三郎は通称。

「大森彦七」(生没年未詳)南北朝期の北朝方の武士。名は盛長。足利尊氏が九州から都に攻め上ったとき、「湊川の戦い」で楠木正成を破った。「太平記」巻第二十三の「大森彦七の事」が唯一の記録で、『其の心飽まで不敵にして、力、尋常(よのつね)の人に勝れたり。誠に血氣の勇者と謂ひつべし』と称えられている。殊に、有名な「湊川の合戦」で足利方の細川定禅(じょうぜん)に従って活躍し、楠木正成を死地に追い込んだのは生涯の面目であった。彼が伝説的人物として後世に名を伝えることとなったのは、「太平記」に「湊川合戦」の直後、彦七の刀を奪い取ろうとする正成の亡霊たる鬼女に彼が遭遇し、錯乱状態に陥ったものの、「大般若経」の功徳によって救われたとする部分に拠るところが大きい。

「此の二點は共に羅城門系統の話には見る所なくして、多數の河童談には、皆、之れを具ふ」だからね、柳田先生! 見出しの「羅城門」はおかしいってえの!!!]

2019/01/16

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 顏

 

   

 

ねぼけた櫻の咲くころ

白いぼんやりした顏がうかんで

窓で見てゐる。

ふるいふるい記憶のかげで

どこかの波止場で逢つたやうだが

菫の病鬱の匂ひがする

外光のきらきらする硝子窓から

ああ遠く消えてしまつた 虹のやうに。 

 

私はひとつの憂ひを知る

生涯(らいふ)のうす暗い隅を通つて

ふたたび永遠にかへつて來ない。 

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二一)年一月号『日本詩人』初出。初出は以下。

   *

  顏

 

ねぼけた櫻のさくころ

白いぼんやりした顏がうかんで

窓で見てゐる。

ふるいふるい記憶のかげて[やぶちゃん注:ママ。]

どこかの波止場で逢つたやうだが

たいさう惱ましい顏のやうだが[やぶちゃん注:「たいさう」はママ。]

𦰌の病鬱の匂ひがする[やぶちゃん注:「𦰌」はママ。]

外光のきらきらする硝子窓から

あゝ遠く消えてしまつた。虹のやうに。 

 

私はひとつの憂ひを知る

生涯(らいふ)のうす暗い隅を通つて

ふたゝび永遠にかへつて來ない。

あゝ悔恨の酢えた淚は

殘像の頰にもながれてゐる。 

 

   *

初出の最後の二行はカットして良かった。「ふたゝび永遠にかへつて來ない」と感ずる「憂ひ」には「殘像の頰にもながれ」る「悔恨の酢えた淚」など、あろうはずがない、絶対の永遠の憂愁には、この二行は蛇足以外の何ものでもないからである。

 「定本靑猫」とは異同が全くなく、特異点の再録詩篇である。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 遺傳

 

  遺  傳

 

人家は地面にへたばつて

おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。

さびしいまつ暗な自然の中で

動物は恐れにふるへ

なにかの夢魔におびやかされ

かなしく靑ざめて吠えてゐます。

  のをあある とをあある やわあ

 

もろこしの葉は風に吹かれて

さわさわと闇に鳴つてる。

お聽き! しづかにして

道路の向ふで吠えてゐる

あれは犬の遠吠だよ。

  のをあある とをあある やわあ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢ゑてゐるのです。」

 

遠くの空の微光の方から

ふるへる物象のかげの方から

犬はかれらの敵を眺めた

遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに

あはれな先祖のすがたをかんじた。

 

犬のこころは恐れに靑ざめ

夜陰の道路にながく吠える。

  のをあある とをあある のをあある やわああ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢ゑてゐるのですよ。」

 

[やぶちゃん注:「向ふ」はママ。大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出では、オノマトペイア「のをあある とをあある のをあある やわああ」は総て一字下げで、「お聽き! しづかにして」は「お聽き、しづかにして」で迫力が減衰している。「こころ」は「心臟」に「こゝろ」とルビしている他は、有意な異同はない。「定本靑猫」には再録されていない。一見、「月に吠える」の猫の二番煎じ的印象を受けるが、こちらの方がオノマトペイアも詩篇の言わんとするところも、より深刻で、私はブラック・ユーモアを気取った「猫」よりも、こちらの方が遙かに好きだ。私の萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 猫と比較対照されたい。……ああっ! これは私の亡き母! 犬は亡き三女のアリス! そうして……少年は淋しい私そのものではないか!?!……

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 惡い季節

 

  惡 い 季 節

 

薄暮の疲勞した季節がきた

どこでも室房はうす暗く

慣習のながい疲れをかんずるやうだ

雨は往來にびしよびしよして

貧乏な長屋が並びてゐる。

 

こんな季節のながいあひだ

ぼくの生活は落魄して

ひどく窮乏になつてしまつた

家具は一隅に投げ倒され

冬の 埃の 薄命の日ざしのなかで

蠅はぶむぶむと窓に飛んでる。

 

こんな季節のつづく間

ぼくのさびしい訪問者は

老年の よぼよぼした いつも白粉くさい貴婦人です。

ああ彼女こそ僕の昔の戀人

古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影だ。

 

こんな白雨のふつてる間

どこにも新しい信仰はありはしない

詩人はありきたりの思想をうたひ

民衆のふるい傳統は疊の上になやんでゐる

ああこの厭やな天氣

日ざしの鈍い季節

 

ぼくの感情を燃え爛すやうな構想は

ああもう どこにだつてありはしない。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年一月号『日本詩人』初出。初出や「定本靑猫」に有意な異同は認めない。

「白雨」は「はくう」で、通常は「明るい空から降る雨・俄か雨・夏の夕立」を指すが、「冬」と「薄命の日ざし」と時制を示しており、冬の夕暮れのざっと降り出したそれである。減衰した夕暮れの日差しはあるが、そこに白っぽく見えるほどに俄かに降り出した雨を指している。

「古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影だ」「影の影」を中心に美事な一行である。]

2019/01/15

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 囀鳥

 

  囀  鳥 

 

軟風のふく日

暗鬱な思惟(しゐ)にしづみながら

しづかな木立の奧で落葉する路を步いてゐた。

天氣はさつぱりと晴れて

赤松の梢にたかく囀鳥の騷ぐをみた

愉快な小鳥は胸をはつて

ふたたび情緖の調子をかへた。

ああ 過去の私の鬱陶しい瞑想から 環境から

どうしてけふの情感をひるがへさう

かつてなにものすら失つてゐない

人生においてすら。

人生においてすら 私の失つたのは快適だけだ

ああしかし あまりにひさしく快適を失つてゐる。 

 

[やぶちゃん注:「囀鳥」は「てんてう(てんちょう)」と読ませるようである。「囀っている鳥」の意ではある。大正一〇(一九二一)年十月号『日本詩人』(創刊号)初出。初出では標題が「快適を失つてゐる」で、最終行「ああしかし あまりにひさしく快適を失つてゐる。」が「ああしかし あまりに久しく快適を失つてゐる。」で太字は傍点「●」(大きな黒丸)である以外は、有意な異同は認められないが以前、電子化した初出の正字不全を修正したので、こちらをお見られたい。「定本靑猫」でも有意な異同は認めない。]

南方熊楠と柳田國男の往復書簡三通(明治四五(一九一二)年四月二十九日~同年五月一日)

 

[やぶちゃん注:これは現在、ブログ・カテゴリ「柳田國男」で進行中の「山島民譚集」の「河童駒引」のこちらのパートの最後の注のために緊急電子化する。緊急なれば、必要最小限度の注に留めた。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠る。これは新字新仮名であるが、仕方がない。

 クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。]

 

 

 柳田国男より 南方熊楠宛

   明治四十五年四月二十九日

『雪の出羽路』巻十二、羽後平鹿郡栄村大字大屋寺内の条に、この国秋田、能代、横手、河口等に河童相伝という接骨の薬あり、その主剤はいずれも「扛板帰(こうはんき)」なり。この扛板帰を、地方によりては「河童の尻ぬぐい」といい、または河童草というと有之候が、この植物につきて何か御心当りは無之や伺い上げ候。

 また今西氏説に、朝鮮に「揚水尺」と称する一種の民種あり、妓生もとこれより出で、柳器を製して生を営みしもののよし。水尺とは水を探す杖かと考え候が如何。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月一日夜一時

 小生、四月三十日朝より今に眠らず、顕微鏡を捻し、はなはだ疲れたれどもこの状認め、明朝下女をして出さしむ。

 滕成裕の『中陵漫録』巻六に、川太郎のことをいうとて、奥州にこの害なけれども、西国には時々この害に遇う、云云、とあり。しかるに、貴書によれば羽後にある由なり。また『遠野物語』によるも、奥州にあるなり。ひとえに書を信ずべからざること、かくのごとし。

 さて同書(『中陵漫録』巻一三)に、万病回春に扛板帰あり、和名イシミカワという草に充つ、今時薬肆にもこの草を売る、よく折傷、打傷を治すこと妙なり、という。按ずるに、日向国より出づる河白(かっぱ)相伝正左衛門薬というあり、よく骨を接(つ)ぎ死肉を治す妙薬なり。この由来を尋ぬるに、日向国に古池あり、毎歳河白のために人命を失う。ある人、薄暮この池の辺を過ぐ、河白手を出して足踵を引く。この人鎌(かま)をもって河白の手を切り取って帰る。この人梁下に釣り置く。これより毎夜来て板戸を叩いてその手を請う。この人、大いに罵って追いちらす。およそ来ること一七(いちしち)夜、この人河白に請いていわく、この手乾枯して用に立つことなしと言えば、河白対えていわく、われに妙薬あり、妙薬をもって生活(いけいか)すという。これによって、この人戸を開きてその手を投じ去る。この夜のうちに一草を持ち来たり置く。この人考うるに、妙薬と言いしはこの草なるべしとて、乾し置き、人の金瘡および打傷の人に施すにはなはだ妙なり。これによって毎歳採って打傷の薬とす。これを名づけて河白相伝正左衛門薬という。はなはだ流行するに至って、その近隣の人々この草を知らんとすることを恐れて、今は黒霜となすなり。余案ずるに、毎夜来て板を扛いて帰るという、回春に扛板帰という意に暗に相合す。おそらくは、扛板帰の名はなはだ解しがたし、河白はすなわちカッパなり、この草湿草にして河白の住むべきところに多く生うる草なり、その理その自然に出づるなり。

 扛は『康熙字典』に「横関(かんぬき)を対拳(さしあ)ぐるなり、また挙ぐるなり」 とあり、成裕はたたくの意にこじつけたり。似たことながらはなはだ正しからず。板をかつぐもの筋ちがうて板を持つに堪えざりしに、この草の即効にてたちまちふたたび板を扛(あ)げかついで帰れりというような意、山帰来に似たことと察し侯。この草をイシミカワということ分かりがたし。『塩尻』(帝国書院刊本、巻六)に、イシミカワという草、河内国錦部郡石見村のみにあり、他所になしとその所の者の話、とあり。これは石見(いしみ)という名よりこじつけたる説と存じ候。なにか乱世のころ、この草を用い薬とし、威神膏とか一心膏とか名づけたるより、イシンコウ、イシミカワと転訛したるかと察し申し候。

 多紀安良(?)の『広急赤心済方』(今の『家庭漢一療類典』[やぶちゃん注:「一」の横に編者の不審を表わす記号が右に打たれてある。]ごときもの)にもこの事を図し、その神効を説きあり。扛板帰(いしみかわ)をカッパグサまたカッパノシリヌグイと言う由は今始めて承る。ただし、イシミカワと同じく蓼属中のもので、ママコノシリヌグイというものあり。未熟な採集家はよく間違うなり。田辺辺すべて熊野にはママコノシリヌグイ多きも、イシミカワは見当たらず、和歌山近在にはイシミカワ多く、ママコノシリヌグイ少なし。右『塩尻』に一村にしかなき由いうところを見ると、なにか薬用に使いしらしく候。全く無用のものなら、そんなことに気を付けぬはずなり。

Isimikawatomamakonosirinugui

[やぶちゃん注:南方熊楠直筆の挿絵。右側が「山島民譚集」の「河童駒引」「イシミカハ」(イシミカワ)で、上部に学名「Persicaria perfoliata L.」、左側が「マヽコノシリヌグヒ」(ママコノシリヌグイ)で、上部に学名「Polygonum senticosum Fr. et Sav.」(これは同種の現行の学名 Persicaria senticosa (Meisn.) H.Gross のシノニムである)。ナデシコ目タデ科イヌタデ属ママコノシリヌグイはウィキの「ママコノシリヌグイによれば、「継子の尻拭い」で、「トゲソバ」(棘蕎麦)の別名を持つ一年草で、『和名は、この草の棘だらけの茎や葉から、憎い継子の尻をこの草で拭くという想像から来ている。韓国では「嫁の尻拭き草」と呼ばれる。漢名は刺蓼(シリョウ)』。『他の草木などに寄りかかりながら』、『蔓性の枝を伸ばし、よく分岐して、しばしば藪状になる。蔓の長さは』一~二メートルで、『茎は赤みを帯びた部分が多く、四稜があり、稜に沿って逆向きの鋭い棘が並んでいる』。『柄のある三角形の葉が互生し、さらに茎を托葉が囲む。葉柄と葉の裏にも棘がある』。五~十月頃、『枝先に』十『個ほどの花が集まって咲く。花弁に見えるのは萼片で』、『深く』五『裂し、花被の基部が白色で、先端が桃色。花後には黒色の痩果がつく』。『東アジアの中国、朝鮮半島から日本の全土に分布』し、『やや湿り気のある林縁や道端などに生える』とある。南方熊楠のキャプションは右から、

「葉柄葉裏(ウラ)ニツク」

「花短キ穗ヲナス」

「花雄藥八」(「雄花を薬に入れる」の意かと思ったが、違う。「八」不詳)

「實南天ノ實ノ

 如ク開(「同」かも知れぬ)ク緑碧白

 紅紫黑■(「抔」か?)異色ニテ

 一寸見事ナリ。」

(以上が「イシミカワ」のキャプションで、以下は「ママコノシリヌグイ」)

「花球顆ヲナス

  花雄藥七」(「七」不詳)

「葉柄葉ノ端ニツク

 表ニツカズ」

「實ハソバノ乾果ノ如シ。」

「托葉莖ヲ抱キ込ムノミ莖托

         葉ノ中心

         ヲ貫カズ」

とある。]

 ウナギツカミ。これはこの辺の田間にはなはだ多き草なり。他に異品あり。アキノウナギツカミ、ナガバノウナギツカミ等なり。

Unagitukami

[やぶちゃん注:ウナギツカミの図。上に学名「Polygonum sagittatum L.」が記されてある。ウナギツカミは「鰻摑み」でシノニムに「Polygonum sieboldii Meisn.」がある、タデ科タデ亜科タデ属 Polygonum の一年草。異名に「ウナギヅル」がある。茎の下部は地を這って、節から根を下ろし、上部は分枝して立ち上がり、稜角と逆向きの刺(とげ)があって、他物に絡みつき、高さ一メートル余となる。葉は披針形で、先は鈍く時に鋭く、長さ四~八センチメートル、幅一・五~三センチメートルで、基部は心臓形を成し、並行する葉耳(ようじ:岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)サイトを参照されたい)がある。質は薄く、やや粉白を帯び、無毛。裏面の葉脈上に逆向きの刺がある。葉鞘の縁(へり)は斜めに切れる。花穂は頭状、花は上半部が帯紅色で長さ三ミリメートル、花被は五枚、雄しべは八本、花柱は三本。痩果は卵状三稜形、黒色で、光沢はない。水辺に生え、日本全土、朝鮮、中国、東シベリアに分布する。夏開花するものを「ウナギツカミ」といい、秋開花するものを「アキノウナギツカミ」として区別することがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 右三品いずれも蓼属に属する草なり。㈠㈡[やぶちゃん注:ここに編者注があり、イシミカワとママコノシリヌグイのこととする。]はやや蔓草の体あり、㈢[やぶちゃん注:同前。ウナギツカミのこととする。]はまず偃地[やぶちゃん注:「えんち」。地面に伏せて広がること。]し後に直上す。

 ウナギツカミはこれをもってウナギ、ナマズ等すべっこいものをつかむに、鈎刺(かぎばり)あるゆえ難なく摑み得るなり。ママコノシリヌグイ、イシミカワ、いずれも鈎刺一層強し、人を傷つけるなり。ママコを悪(にく)む継母、これをもってその尻を拭うて傷つくという意なり。イシミカワはカッパ人の尻ぬく返報に、人がその尻をこの草でぬぐい苦しめやるべしという義にて、カッパノシリヌグイというも同意と存じ候。河童身滑りて捕えがたきゆえ、この草をもって執え得[やぶちゃん注:「とらえう」。]と信ぜるより、カッパ草(ぐさ)ということと存じ候。

 さて支那の扛板帰に充てて薬効ありと信ぜるより、和俗の名にちなみてカッパよりこの薬法を伝えたと言い出せしことと存じ候。田辺辺の屠児[やぶちゃん注:差別用語。中世・近世に於いて家畜などの獣類を殺すことを業とした人。]、牛黄をゴインと申す。これは牛黄と熊野の牛王と同音なるゆえ、牛王=牛王印にちなんで牛黄を牛印というに似たることと存じ候。マタタビは、貝原の説に、真の実Matatabinomi と、御承知のごとく猫に食わす実(み)のごときもの実は寄生虫の巣Matatabinokiseityuuno と、二様の実を結ぶゆえ「再実(またたみ)」の義の由、真偽は知らず、とにかくマタタビという名古くよりありしなり。しかるに、牟婁・日高郡の山民の話に、むかし旅人あり、霍乱にて途上に死せんとす、たまたまマタタビを得てこれを舐(ねぶ)り霍乱愈(い)え、再びまた旅に上り行きしゆえ、復旅(またたび)というと言い伝え候は、一層似たることなり。(『和名抄』に、和名ワタタビとあれば、貝原の説ははなはだ疑わし。)

 前便申し上げ候『訓蒙図彙大成』に見え候、京の猿舞(まわ)し、伏見より出づるということ、黒川道祐の『遠碧軒記』上の三に、猿牽は京に六人あり、所々にありて外のは入らず。京にては因幡薬師町に住す、山本七郎右衛門という。子供あれども一人ずつはまた拵ゆ[やぶちゃん注:「こしらゆ」。室町時代から、ハ行下二段動詞「こしらふ」がヤ行に転じて使われた古語。]。伏見のも京へば入らず、他所のは入らざるはずなり。伏見のは装束をさせて舞わす。京のは内裏方へ行く時は急度(きっと)装束す。正月五日に内裏へ行き、その外は親王様誕生の時は内裏に行く、姫宮のときは参らず。常も町をありきて他処のは入らざるなり。この六人のもの猿を六疋使う、内裏にて官をあがる、銀一貫ほどずつなり。

 猿舞しのことは『嬉遊笑覧』に多くかきあり、御存知のことゆえ今ここに抄せず。

 北村季吟の『岩つつじ』という書、貴下見しことありや、承りたく候。『続門葉和歌集』ごとく男色に関する物語の歌を集めたるものの由、平田篤胤の『妖魅考』に見え申し候。小生多年捜せども見当たらず、今も存するものにや。

 オポのこと、Burtonの『メジナとメッカ記行[やぶちゃん注:ママ。]』によれば、アフリカおよびアラビアにも似たものある由なり。しかし、別に抄するほどのことなき略註なれば、ここに抄せず。

 すこぶる睡たきにつき擱筆す。以上

[やぶちゃん注:以下、追伸風で、全体が底本では二字下げとなっている。]

本書封せんとして『和漢三才図会』蔓草類を見るに、赤地利をイシミカワに充てたり(今はミゾソバに当つ)。「骨を接ぐこと膠(にかわ)のごとし(堅固にするゆえ)、石膠(いしみかわ)と名づく」、ミカワはニカワの訛りなり、と。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月二日夜十一時

 拝啓。小生、今午前三時貴方への状認めおわり眠たく、それより臥し今夕眼さめ、かれこれするうち一、二町内の当地第一の旅館失火全焼。かの毛利氏の妻の里方にて、毛利氏は今夜中村啓次郎等来たり、山口熊野の選挙運動大気焰最中の全焼ゆえ、大狼狽のことと存じ申し候。小生は近ごろ合祀一条は全く放棄し、顕微鏡学にのみかかりおり、目悪く、さりとて中止するわけにも行かず、一昨日来眠らず、今暁よりようやく今夕まで眠り候。そんなことゆえ精神弱り、考えも鈍り候ゆえか、「カッパの尻拭い」の義、今朝差し上げ候状のはちと考え過ぎた説と存じ申し候。すなわちこの名義は「カッパの尻をこの草の刺(はり)でぬぐいこまらせやり復讐することならん」と申せしは考え過ぎにて、「カッパの体は尻また糞までも滑るゆえ、尻の拭い料なきゆえ、かのウナギツカミでウナギをつかむごとく、この草の刺ありて物にひっかかるを利用してカッパがこの草もて自分の尻を拭う」という義と存じ申し候。右訂正候なり。故に、ママコノシリヌグイと鉤刺は等しくありあがら[やぶちゃん注:ママ。「ながら」か。]、カッパノシリヌグイのはその鈎刺を利用、ママコノシリヌグイのは害用することと存じ候。

[やぶちゃん注:底本、「旅館失火全焼」に注して、『明治四十五年五月二日夜、中屋敷町にありし旅館兼料亭五明楼焼く。建坪百十余坪(二階あり)焼失、損害一万余円。(『田辺町史』)』とある。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(5) 「河童家傳ノ金創藥」(3)

 

《原文》

 以上數箇所ノ接骨藥ハ本來其家ノ總領ト河童トノ外ニハ誰知ル者無キ祕密ナルべキ筈ナルニ、ポツポツト其噂ノ世ニ傳ハリタルハ此モ亦不思議ナリ。下條(シモデウ)ノ切疵藥ハ田野ニ生ズル所ノ蔓草ヲ以テ藥種トス。油類麺類ト差合アリト云フ迄ハ兎ニ角、魚類ヲ食フべカラズトアルハ河童ノ藥トシテハ少シク平仄ノ合ハヌ話也。日向國高鍋ノ庄左衞門ナル者、曾テ河童ト鬪ヒテ其一腕ヲ斬取リテ歸ル。河童哀求シテ其腕ヲ乞ヒ、此モ手繼ノ祕法ヲ祕シ去ルコト能ハズ、命ノマヽニ藥物ヲ臚列シテ見セタリ。然ルニ腕ヲ取返シ欣ビテ門ヲ出デ顧ミテ言フニハ、吾詳カニ藥劑ヲ述べタレドモワザト其一ヲ闕キタリト、終ニ水ニ沒シテ又追フべカラズ。【河童藥法】庄左衞門藥ハ後盛ニ世ニ行ハレ、用ヰテ金創打撲(ウチミ)ニ傅(ツ)クレバ神效アレドモ、全ク切レタル手足ノミハ繼ギ兼ヌルハ其一味ノ不足スル爲ト云フ〔水虎錄話〕。虛誕(ウソ)ヲ吐クホドナラバ丸々無用ノ草ヲ指示シテ可ナリ。半分約ヲ守ルト云フモ如何ナリ。博多ノ河童ハ鷹取氏ニ向ヒテ、イヤ僞ハ人間ノ器量ニコソアレ、化物ノ心ハ只一筋ニ行クモノニテ、命ヲ助ケラレ手ヲ求ムル間ハ、中々人ヲ欺クべキ餘裕ナシト言ヘリ。次ノ話ヲ考ヘ合ストキハ、此方ガ尤モラシク聞ユルナリ。河童ノ藥ト云フモノハ東ハ出羽ノ果ニモアリ。羽後平鹿(ヒラカ)郡榮村大屋寺内ノ某氏ニ於テ製スル河童相傳ト云フ接骨藥(ホネツギグスリ)ハ、黑燒ニシテ飮ミ藥トシ又傅藥(ツケグスリ)トス。此藥ヲ賣ル者秋田市ニモ能代町ニモ住シ、通名(トホリナ)ヲ又市ト云ヘリ。同ジク平鹿郡ノ橫手給人町(キフニンマチ)須田源六郞家傳ノ正骨藥、仙北郡長信田(ナガシタ)村川口ノ鷹嘴(タカノハシ)太右衞門ガ製スル飛龍散モ共ニ亦河童ノ相傳ニシテ、其家ハ兼ネテ骨接醫者ヲ業トセリ。此類ノ祕藥ニシテ河童ガ人間ヨリ夙ク知リ居タリト云フモノハ外ニモ多ク、何レモ其主劑ハ漢名ヲ扛板歸(コウハンキ)、和名ヲ「イシミカハ」【河童草】一名「カツパソウ」、又ハ「カツパノシリヌグヒ」ナドト稱スル植物ナリ〔雪之出羽路十二〕中陵漫錄卷十三ニ曰ク、萬病回春ニ扛板歸アリ。和名「イシミカハ」ト云フ草ニ當ツ。今時藥肆ニモ此ノ草ヲ賣ル。能ク折傷打傷ヲ治スルコト妙ナリト云フ。按ズルニ日向國ヨリ出ル河童相傳正左衞門藥ト云フアリ。能ク骨ヲ接ギ死肉ヲ活カス妙藥ナリ。【池】昔日向ニ古池アリ。每歳河童ノ爲ニ人命ヲ失フ。【鎌】或人薄暮此池ノ邊ヲ過グ。河童手ヲ出シテ足踵(カヽト)ヲ引ク。此人鎌ヲ以テ河童ノ手ヲ切リ取リテ歸リ、梁下ニ釣リ置ク。是ヨリ每夜來タリテ板ヲ扣イテ其手ヲ乞フ。其人大ニ罵リテ追ヒ散ラス。凡ソ來ルコト一七夜、此ノ人河童ニ謂ツテ[やぶちゃん注:ママ。]曰ク、此手乾枯シテ用ニ立ツコト無シト云ヘバ、河童對ヘテ曰ク、我ニ妙藥アリ之ヲ以テ活カスト。此人ヲ開キテ其手ヲ投ジ去ル。此夜ノ中ニ一草ヲ持チ來タリ置ク。考フルニ妙藥ト言ヒシハ此草ナルべシトテ、乾カシ置キテ金創及ビ打傷ノ人ニ施スニ甚ダ妙ナリ。之ニヨリテ每歳採リテ打傷ノ藥トス。甚ダ流行スルニ至ツテ近隣ノ人々此草ヲ知ラントスルヲ恐レ今ハ黑霜(クロヤキ)トス。按ズルニ每夜來タリテ板ヲ扛(タヽ)キテ歸ルト云フ、回春ニ扛板歸トアルト暗ニ相合ス云々〔以上〕。併シナガラ扛(コウ)ハ擧グル也、叩クコトニハ非ズ。此漢名ノ起原ハ、怪我人ガ即坐ニ本復シテ、歸ル時ニハ又板ヲ擔ギテ行カルルト云フ迄ノ意味ニテ、右ノ河童ノ因緣ニ結ビ附クルコトハ些シク難儀ナリ。但シ或地方ニテ之ヲ「河童ノ尻拭ヒ」ト呼ブハ、此草ガ水畔ニ生ジ莖ニ刺アリテ河童ノ滑ラカナル肌膚ヲモ擦リ得レバナランカ〔南方熊楠氏〕。

 

Isimikawagenten

[やぶちゃん注:当該パート内には『扛板歸・イシミカハ 草木圖卷七ヨリ』というキャプション(右から左)を持ったイシミカワの図が配されてある。「草木図説(そうもくずせつ)」は江戸後期の医師で植物学者であった飯沼慾斎(天明二(一七八二)年~慶応元(一八六五)年:本姓は西村、名は長順。伊勢出身。母方の親戚で漢方医の飯沼長顕の養子となった。江馬蘭斎・宇田川玄真に蘭方を学び、美濃大垣で開業、五十歳で隠居し、植物研究に専念した)。日本最初のリンネ分類法による植物分類図鑑。二十四綱目に分けて図解してある。全三十巻で草部二十巻は安政三(一八五六)年~文久二(一八六二)年に刊行されたものの、残りの木部十巻は未刊となった。後に牧野富太郎らが増訂版を刊行して補った。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、一部の黒い葉の表面の葉脈が潰れてしまって見えないので、「ちくま文庫」版全集の画像を撮り込もうと思ったが、『いやいや! この際、原典を引くに若(し)くはない!』と考え直した。国立国会図書館デジタルコレクションのにあったんだな! これが! 右ページの解説(柳田國男は左の図のみを引用している)も読み易い。ご覧あれ! 見易くするために少しだけハイライトをかけておいた。

 

《訓読》

 以上、數箇所の接骨藥(ほねつぎぐすり)は、本來、其の家の總領と河童との外(ほか)には誰(たれ)知る者無き祕密なるべき筈なるに、ぽつぽつと其の噂の世に傳はりたるは、此れも亦、不思議なり。下條(しもでう)の切疵藥(きりきずぐすり)は田野に生ずる所の蔓草(つるくさ)を以つて藥種(やくしゆ)とす。「油類・麺類と差合(さしあひ)[やぶちゃん注:差し障り。悪しき食い合わせ。]あり」と云ふまでは兎に角、「魚類を食ふべからず」とあるは、河童の藥としては、少しく平仄(ひやうそく)の合はぬ[やぶちゃん注:辻褄が合わない。]話なり。日向國(ひうがのくに)高鍋(たかなべ)の庄左衞門なる者、曾て河童と鬪ひて其の一腕を斬り取りて歸る。河童、哀求(あいぐ)して其の腕を乞ひ、此れも手繼(てつぎ)の祕法を祕し去ること能はず、命(めい)のまゝに藥物を臚列(ろれつ)[やぶちゃん注:連ね並べること。「羅列」に同じい。「臚」は「並べる」の意。]して見せたり。然るに、腕を取り返し、欣びて門を出で、顧みて言ふには、「吾(われ)、詳らかに藥劑を述べたれども、わざと、其の一(ひとつ)を闕(か)きたり[やぶちゃん注:取り除いておいたのだ。]」と。終に水に沒して、又、追ふべからず。【河童藥法】庄左衞門藥(くすり)は、後(のち)、盛んに世に行はれ、用ゐて、金創(きんそう)・打撲(うちみ)に傅(つ)くれば神效あれども、全く切れたる手足のみは、繼ぎ兼(か)ぬるは、其の一味の不足する爲と云ふ〔「水虎錄話」〕。虛誕(うそ)を吐くほどならば、丸々、無用の草を指示して可なり。半分、約を守ると云ふも、如何(いかが)なり。博多の河童は鷹取氏に向ひて、「いや、僞(いつはり)は人間の器量にこそあれ、化物の心は只一筋に行くものにて、命を助けられ、手を求むる間(あひだ)は、中々、人を欺(あざむ)くべき餘裕なし」と言へり。次の話を考へ合はすときは、此の方が、尤もらしく聞ゆるなり。河童の藥と云ふものは東は出羽の果(はて)にもあり。羽後平鹿(ひらか)郡榮村大屋寺内(おほやてらうち)」の某氏に於いて製する河童相傳と云ふ接骨藥(ほねつぎぐすり)は、黑燒にして飮み藥とし、又、傅藥(つけぐすり)とす。此の藥を賣る者、秋田市にも能代町(のしろまち)にも住し、通名(とほりな)を「又市(またいち)」と云へり。同じく平鹿郡の橫手給人町(きふにんまち)須田源六郞家傳の「正骨藥(せいこつやく)」[やぶちゃん注:推定訓。]、仙北郡長信田(ながした)村川口の鷹嘴(たかのはし)太右衞門が製する「飛龍散」も、共に亦、河童の相傳にして、其の家は兼ねて骨接(ほねつぎ)醫者を業とせり。此の類の祕藥にして河童が人間より夙(はや)く知り居(をり)たりと云ふものは外にも多く、何(いづ)れも其の主劑は、漢名を「扛板歸(コウハンキ)」、和名を「いしみかは」【河童草】一名「かつぱそう」、又ハ「かつぱのしりぬぐひ」などと稱する植物なり〔「雪之出羽路」十二〕「中陵漫錄」卷十三に曰く、萬病回春に「扛板歸」あり。和名「イシミカハ」と云ふ草に當つ。今時、藥肆(やくし)[やぶちゃん注:薬種屋。薬店。「くすりみせ」と訓じているかも知れない。]にも此の草を賣る。能く折傷(をれきず)・打傷(うちきず)を治すること、妙なりと云ふ。按ずるに、日向國より出(いづ)る「河童相傳正左衞門藥」と云ふあり。能く骨を接(つ)ぎ、死肉を活かす妙藥なり。【池】昔、日向に古池あり。每歳(まいとし)、河童の爲に人命を失ふ。【鎌】或る人、薄暮、此の池の邊(あたり)を過ぐ。河童、手を出(いだ)して足踵(かゝと)を引く。此の人、鎌を以つて河童の手を切り取りて歸り、梁下(はりした)に釣り置く。是れより、每夜、來たりて、板を扣(たた)いて其の手を乞ふ。其の人、大いに罵りて、追ひ散らす。凡そ來ること、一七夜(いちしちよ)[やぶちゃん注:七日目の夜。]、此の人、河童に謂つて曰はく、「此の手、乾枯(かんこ)して用に立つこと無し」と云へば、河童、對(こた)へて曰はく、「我に妙藥あり、之れを以つて活(い)かす」と。此の人、を開きて、其の手を投じ、去る。此の夜の中(うち)、一草を持ち來たり、置く。考ふるに、『妙藥と言ひしは此の草なるべし』とて、乾かし置きて、金創及び打傷の人に施すに、甚だ妙なり。之れによりて、每歳、採りて、打傷の藥とす。甚だ流行するに至つて、近隣の人々、此の草を知らんとするを恐れ、今は黑霜(くろやき)とす。按ずるに、每夜來たりて、「板」を「扛」(たゝ)きて「歸」ると云ふ。『回春に扛板歸』とあると暗(あん)に相合(さうがふ)す云々〔以上〕。併しながら、「扛」(コウ)は「擧(あ)ぐる」なり、「叩く」ことには非ず。此の漢名の起原は、「怪我人(けがにん)が即坐に本復(ほんぷく)して、歸る時には、又、板を擔ぎて行かるると云ふまでの意味にて、右の河童の因緣に結び附くることは、些(すこ)しく難儀なり。但し、或る地方にて、之れを「河童の尻拭(しりぬぐ)ひ」と呼ぶは、此の草が水畔に生じ、莖に刺(とげ)ありて、河童の滑らかなる肌膚をも擦り得ればならんか〔南方熊楠氏

[やぶちゃん注:「日向國(ひうがのくに)高鍋(たかなべ)」現在の宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋町(グーグル・マップ・データ)。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらによれば、『河童(ガタロウ)を高鍋ではひょうすんぼう、ひょうすぼという。ある春の雨の夜、高鍋の殿様が水源不足に悩んでいると、堀端の茂みから黒い影がヒュルル…ヒュルル…と鳴きながら出てきた。その夜、殿様の枕元に年を経たひょうすんぼうが』三『匹出て、夢に水源の場所を教えた。用水路が造られ、以来高鍋でも米が豊かに取れるようになった』(平成一一(一九九九)年宮崎県発行「宮崎県史 別編 民俗」の要約)とある。また、ここより北の内陸の日向市東郷町にも河童伝承があり、サイトmiyazaki ebooksの『日向に伝わる伝説。「ひょうすんぼ」(河童)について』に「ひょすぼ岩」の伝説が記されてある。この岩は残念ながら、現存しないが、何かしんみりするいい話である。必読。

「羽後平鹿(ひらか)郡榮村大屋寺内(おほやてらうち)」現在の秋田県横手市大屋寺内(グーグル・マップ・データ)。地図を拡大して見ると、如何にも河童が好きそうな池や沼が数多くある。

「橫手給人町(きふにんまち)」不詳。秋田県由利本荘市給人町(グーグル・マップ・データ)なら現存するが、ここは平鹿郡横手町(現在の横手市の前身)だったことはないし、横手の市街地から四十キロメートル以上も西である。識者の御教授を乞う。 なお、「給人」は江戸時代は幕府・大名から知行地、或いは、その格式を与えられた旗本や家臣を指す。正確には蔵米ではなく知行地を与えられた武士を指したが、全国的には後には「給人」格式を与えられながら、知行地を剝奪して蔵米知行に移行された者が有意に増えたが、東北・九州の外様では本来の知行制度が長く残った。【2019年1月16日追記】早速、いつものT氏より丁寧な情報提供があった。この「給人」は久保田藩の支城横手城に配置された武士を指し、その居住する屋敷町を言った。個人サイト「古い町並み」の「横手市の町並」に、慶長七(一六〇二)年、秋田藩への『佐竹氏の入部とともに、横手には伊達盛重が配置された。元和元』(一六一五)年『の一国一城令でも、取り壊しを免れ、領内支配の拠点として所領預りが置かれた。その後、須田氏』三『代、戸村氏が』八『代が横手城代として続き、藩政時代の県南地方の政治・軍事・経済の中心となって明治に至った』。『旭川以東の武家屋敷地区を内町、以西の町屋地区を外町と呼んでいた。内町は原則的に支配別・家格別に屋敷割りをされた。中期以降の居住形態を見ると、戸村組下の給人は本町・裏町・新町・御免町・上根岸・下根岸・嶋崎、向組下の給人は羽黒・羽黒新町・羽黒御免町となっている。また戸村支配の足軽は侍屋敷の北端に、向支配の足軽は侍屋敷の南端に屋敷割りされた』(太字は私が附した)とある。ウィキの「横手市」によれば、明治二二(一八八九)年四月一日の『町村制の施行により、横手』三十一町、『横手前郷村の区域をもって』、『鹿郡横手町が発足』『した』とあり、この「三十一町」の注釈に町名が並ぶが、上記の殆んどの町がそこに含まれていることが判る。秋田県公文書館の横手絵図」を見ると(「1」の左方向は北)、家臣の屋敷が横手城の南北、横手川東岸域に整然と配されてあるのが判る。「グーグル・マップ・データ」ではこの範囲相当となろう。柳田の言う「給人町」という町名を見出すことは出来ないが、拡大すると、上記の「羽黒町」が城跡の南に、本町が城跡直下西の横手川蛇行部に見られるから、これら全体を「橫手給人町」と呼んでいたものと考えられる。【2019年1月19日再追記】再びT氏より追加情報を頂戴した。T氏は引用元の「雪之出羽路」の第十二巻を国立国会図書館デジタルコレクションの「秋田叢書」で確認され、その「なごみのもり」「〇大屋寺内邑」(「邑」は「むら)の項の最後(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)の部分に、『『○接骨藥(ほねつぎぐすり)水虎(かつぱ)相傳』と見出しして、『此河童相傳てふ霜(くろやき)藥ところところに在り、みな飮くすりとし、傳(つけ)くすりとせり。また其正骨師を亦市と通號に呼ンで能代をはじめ、わきて秋田に多し。また橫手ノ給人町(うちまち)本ト町新町ノ須田源六郎家法に正骨ノ制藥あり、また仙北ノ郡河口村の鷹橋(たかのはし)太右衞門が制[やぶちゃん注:ママ。]ス飛龍散寄方[やぶちゃん注:「よるべ」頼りとするに足るもの。]也もとも正骨、接骨ノ醫術あり、尾張の淺井家の如し。此水虎と、いづこにも云ひて此藥多し。是をおもふに、此主藥といふは杠板皈[やぶちゃん注:「皈」は「歸」に同じ。後はそうなっている。]也、此杠板歸を河童の尻拭(しりぬぐひ)といふ處あり、こは河童草(さうでん)傳ををしかあやまり、あやしくも水虎にならひ、かつぱ相傳といへるもいかゞあらん。』とある。T氏はこの「橫手」の「給人町(うちまち)」(当時はこう読んでいたものらしい)「本」(もと)「町新町」という須田源六郎の住所表示から、先に私が示した秋田県公文書館の横手絵図」を閲覧され、『横手川沿いに新町があり、その屋敷名に須田らしき(草書でよく読めませんが)二軒あり、その中に名前に「六」らしき屋敷があります。二百坪以上の屋敷のようです』。『現在は、 秋田県横手市幸町で横手川沿いになります』と述べられた上で、グーグル・マップ・データのこの辺りと思われると指示して下さった。またまたお世話になった。感謝申し上げ、以下、不詳としていた須田の薬の注を除去した。

「仙北郡長信田(ながした)村川口」現在の秋田県大仙市太田町太田附近(グーグル・マップ・データ)。バスターミナル名に「長信田」があり、「長信田郵便局」もある。ウィキの「長信田村」によって「川口村」があったことが判るが、具体的な位置は不詳【2019年1月16日追記】私の探し方が悪かった。いつものT氏より御指摘があり、上記の長信田の南一キロ半程離れたところから川口川にかけて「太田町川口」(東北にも飛び地が有る)があり、ここ(グーグル・マップ・データ)であることが判明した。前の給人町とともにT氏に御礼申し上げる。

『鷹嘴(たかのはし)太右衞門が製する「飛龍散」』昭和三八(一九六三)年六月一日発行の『あきた』(通巻十三号)の宮崎進氏(当時、秋田市在住で日本民俗学会員のコラム記事「秋田の河童(かっぱ)伝説」によれば(原記事のPDFも有り!)、『さて、秋田におけるカッパ伝承を隅なく調べることは困難であるが「綜合郷土研究」(昭和十四年)によると、北秋の真中、早口、大阿仁、南秋の男鹿中、河辺の和田・由利の川内・北内越、仙北の角館・神宮寺、雄勝の東成瀬などのカッパ伝説が採録されている。しかしカッパが駒を川の中に引込もうとする形式をもって「河童駒引伝説」は男鹿中村の一つだけで、他はこの部分が忘失され、馬の尾について厩に入り、そこで人間に発見され、命乞いして助けられ、謝恩に人の命を取らぬこと、または物を献ずるという結末が多い』。『雄勝町西馬音内の大仁川や、「蛇の崎の河童コ雄河童コだ」という早口文句が残っていた横手市にも、カッパ伝説は多いのだが割愛して、その横手に合併した旧黒川村のカッパ殉難記を書き止めておこう』。『黒川村の百万刈はその名のように米どころであるが、ある年横手の戸村城代がこの土地で狩りをしたとき、城代の草履取りが百万刈を流れる百曲川のカッパに取られたというので、城代が怒って川を干しあげ、九十九の曲り淵に棲むカッパを皆殺しにした。そのため河水は濁り、別名を濁川と呼ぶようになったという残酷物語』。『害悪説も一面観だが、壱岐の島や長崎県の島々では、カッパを田の神・福の神としているそうだから受け取り方はさまざま、河川は灌漑水となりまた洪水となる。河伯神の両面の性格はカッパにも見られるわけだ』。『カッパの秘伝といわれる接骨薬は秋田にも多い。平鹿郡栄村大屋寺内(横手市)某氏の家伝薬、仙北郡長信田村川口(太田村)某家の飛竜散もカッパ直伝という伝説は、菅江真澄翁によって伝えられたが、その飛竜散は今日でも秋田市で売られている。まさに"生きている伝説"ではある。全国に多いカッパ相伝の接骨薬は、和漢三才図絵に「その手肱能く左右に通脱す」という故事に根源があるのではないか』。『土崎町では』、『むかし』、『河伯祭を行なったことが旧記に見える。川口に臨むため』、『毎年水死者が多いので、旧暦六月住吉神社に祈祷し、神供の一臼餅を夕暮れを待って川に流したという。同様の祭りは県内各地にも見られたが、カッパ祭りは要するに水神祭りの変化である』とあるのにびっくりして、検索してみたのだが、残念! 「飛龍(竜)散」は現存しないようだ。せめて写真でなりと、残っていないかなぁ……

『「扛板歸(コウハンキ)」、和名を「いしみかわ」【河童草】一名「かつぱそう」、又ハ「かつぱのしりぬぐひ」などと稱する植物』被子植物門双子葉植物綱タデ目タデ科イヌタデ属イシミカワ Persicaria perfoliataウィキの「イシミカワ」より引く。『和名には石見川・石実皮・石膠の字が当てられ、それぞれの謂われが伝えられるが、いずれが本来の語源かはっきりしない。漢名は杠板帰(コウバンキ)』(但し、同種の中文ウィキを見ると、「扛板歸」でも正しいことが判る)。『東アジアに広く分布し、日本では北海道から沖縄まで全国で見られる』一『年草。林縁・河原・道端・休耕田などの日当たりがよく』、『やや湿り気のある土地に生える』。『茎の長さは』一~二メートルに『達し、蔓状。葉は互生し』、『葉柄は長く』、『葉の裏側につく。葉の形は三角形で淡い緑色で、表面に白い粉を吹いたようになっている。さらに』、『丸い托葉が完全に茎を囲んでおり、まるでお皿の真ん中を茎が突き抜けたようになっているのがユニークである。他の種にも類似した托葉があるが、この種では特に大きいために』、『よく目立つ。茎と葉柄には多数の下向きの鋭いとげ(逆刺)が生える』。七~十月に『薄緑色の花が短穂状に咲く。花後につく』五ミリメートル『ほどの果実は熟して鮮やかな藍色となり、丸い皿状の苞葉に盛られたような外観となる』。『この藍色に見えるのは』、『実際には厚みを増し、多肉化した萼で、それに包まれて、中にはつやのある黒色の固い痩果がある。つまり、真の果実は痩果なのだが、付属する器官も含めた散布体全体としては、鳥などについばまれて種子散布が起こる漿果のような形態をとっていることになる』。『中国では全草を乾かして解熱・下痢止め・利尿などに効く生薬として利用する』。『蔓状の茎に生えた逆刺を引っ掛けながら、他の植物を乗り越えて葉を茂らせる雑草でもあり、特に東アジアから移入されて』、『近年』、『その分布が広がりつつある北アメリカでは、その生育旺盛な様子から』、「Mile-a-minute weed」(「一分で一マイル草」)、『あるいは葉の形の連想から』「Devil's tail tearthumb」(「悪魔の尻尾のティアトゥーム」。 tearthumb」はナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii に近縁な同じタデ科 Polygonaceae の草の英名)『などと呼ばれ、危険な外来植物として警戒されている』とある。さても、『この草、何だか、知ってる』と思ったら、「耳囊 卷之五 痔疾のたで藥妙法の事」に「石見川(いしみかは)といへる草に、白芷(しろひぐさ)を當分に煎じ用ゆれば奇妙のよし。吉原町の妓女常に用(もちゆ)る由、吉原町などの療治をせる眼科長兵衞物語也。」とあるのを遠い昔に注したのだったわ。

『「中陵漫錄」卷十三に曰く……』水戸藩の本草学者佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年:中陵は号)が文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記。ここに出るのは、巻之十三の「正左衞門藥」のかなり忠実な引用である(私は手元にある吉川弘文館随筆大成版で比較している)。但し、中陵は『和名「イシミカハ」』の部分を「イイトミカハ」と誤って記しているのを訂してある。また、中陵は「河童」を一貫して「河白」と書いており、初出の部分に「カツパ」とルビを振っている。これは、河童とは別な中国の水神「河伯」を本邦で誤って河童同一視したものの誤字であろう。但し、「相合(さうがふ)す」の後に原文では、

   *

恐らくは「扛板歸」の名、甚だ解しがたし。河白は乃(すなは)ちカツパなり。此草、濕草にして河白の住むべき所に多く生(おふ)る草なり。其(その)理(ことわり)、其(それ)、自然に出るなり。

   *

で終わっている。

「近隣の人々、此の草を知らんとするを恐れ、今は黑霜(くろやき)とす」「黑燒き」に同じい。民間薬の調法の一種で、通常は爬虫類・昆虫類などの主に動物を、土器の壺で原形をとどめたまま、蒸し焼きにし、真黒く焼いた(炭化させた)もの。薬研(やげん)などで粉末にして用いる。中国の本草学に起源を持つとする説もあるが、「神農本草」などにはカワウソの肝やウナギの頭の焼灰を使うことは見えているものの、黒焼きは見当たらない。恐らくは、南方熊楠が未発表稿「守宮もて女の貞を試む」で考察しているように(リンク先は私の古い電子テクスト注)、『古来日本に限った俗信』の所産かと思われる。「日葡辞書」に「Curoyaqi,Vno curoyaqi」が見られることから室町末期には一般化していたと思われ、後者の「鵜の黒焼き」というのは、咽喉に刺さった魚の骨などをとるのに用いる、と説明されている(ここは主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。なお、本来の黒焼きは原形をそのまま留めておいて炭化させるのであるが、イシミカワを壺に詰めて黒焼きにすれば、その時点で原型を留めなくなり、ただのクシャクシャした黒い塊りになるだけであろうから、その辺に生えているイシミカワだとは思われないということであろう。

「每夜來たりて、「板」を「扛」(たゝ)きて「歸」ると云ふ。『回春に扛板歸』とあると暗(あん)に相合(さうがふ)す云々」。『回春に扛板歸』は当時、「扛板歸」が回春剤(精力快復剤)となるという巷間の噂があったのであろう。それで、毎晩、閨の戸を叩いて、夜這いしてくるという、シークエンス上の類感呪術的効果を中陵は謂っているのである。

『「扛」(コウ)は「擧(あ)ぐる」なり、「叩く」ことには非ず』「扛」は確かに「持ち上げる・担ぐ・運ぶ」「(重いものを両手で)差し上げる」といった意味であるが、ウィキの表記の「杠」は全然違う意味で、「小さな橋」、「横木・旗竿」、「大型の竿秤(さおばかり)」の意である。

『此の漢名の起原は、「怪我人(けがにん)が即坐に本復(ほんぷく)して、歸る時には、又、板を擔ぎて行かるると云ふまでの意味』板に乗せられて瀕死の雰囲気で来た病人が、薬が強力に効いて、やって来る時に乗せられていたその担架を、ひょいと一人で担いで帰る、というそれこそ、温泉等でありがちな謳い文句である。

『或る地方にて、之れを「河童の尻拭(しりぬぐ)ひ」と呼ぶは、此の草が水畔に生じ、莖に刺(とげ)ありて、河童の滑らかなる肌膚をも擦り得ればならんか〔南方熊楠氏〕』これは明治四五(一九一二)年五月一日夜一時というクレジットを頭に記す(この三ヶ月後の七月三十日に明治天皇が崩御して大正元年に改元される)、南方熊楠から柳田國男宛の書簡に基づく。かなり分量があるので、別箇に電子化した。南方熊楠と柳田國男の往復書簡三通(明治四五(一九一二)年四月二十九日~同年五月一日)」を見られたい。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 厭やらしい景物

 

  厭やらしい景物

 

雨のふる間

眺めは白ぼけて

建物 建物 びたびたにぬれ

さみしい荒廢した田舍をみる

そこに感情をくさらして

かれらは馬のやうにくらしてゐた。

 

私は家の壁をめぐり

家の壁に生える苔をみた

かれらの食物は非常にわるく

精神さへも梅雨じみて居る。

 

雨のながくふる間

私は退屈な田舍に居て

退屈な自然に漂泊してゐる

薄ちやけた幽靈のやうな影をみた。

 

私は貧乏を見たのです

このびたびたする雨氣の中に

ずつくり濡れたる 孤獨の 非常に厭やらしいものを見たのです。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月号『表現』初出。初出には標題の後に全体が三字下げポイント落ちの以下の通りの会話体の長い添え辞が附されてある。改行は筑摩版全集に拠った。二十鍵括弧は初出にある。「てす」「仕末」はママ。太字は傍点「●」(大きな黒丸)である。

   *

『貧乏に對する恐れ。それは生活上に於て、最

も厭はしいものてす。

あなたはそれを感じませんか』

『すべての經濟學の良心が、貧乏の恐怖にある

といふ仕末ですか』

『いいえ、智識の詮索ではなく、むしろ人間本

能の傾向から、純一な趣味の上から、私共詩人

考へて居ることを、あなたも感じてご覽んな

さい。どんな經濟學よりも底深く。』

   *

詩篇本文は「精神さへも梅雨じみて居る。」が「精神さへも梅雨(つゆ)じみてゐる。」、「私は退屈な田舍に居て」が「私は退怠な田舍に居て」(誤植か?)、「私は貧乏を見たのです」が「私は貧乏を見たのです」(太字は傍点「●」(大きな黒丸))、「ずつくり濡れたる 孤獨の 非常に厭やらしいものを見たのです。」の「厭」に「いや」のルビを附している。「定本靑猫」では「精神さへも梅雨じみて居る。」と「雨のながくふる間」の間にある行空けが存在せず、全体が四連ではなく、三連構成となっており、他の再録詩集でもそうなっている他は、有意な異同を認めない。

 萩原朔太郎には病的な自然恐怖と貧乏恐怖がある。彼の都会趣味・ブルジョア感覚は生れ持っての、彼自身のあまり関わらぬ部分が多く、殊に指弾されるべきものではないが、しかし、彼のこの特異なフォビア(phobia:恐怖症。古代ギリシア語の「恐怖」の意「ポボス」(ラテン文字転写:phobos)が語源)は、特定のは病跡学的には掘り下げる価値があるものと思う。私はまた、彼の日常の行動の異常(食事の際に食物をこぼす・壁の特定の一箇所を触れる等の特殊なルーティン)を見るに、所謂、ADHDAttention-deficit hyperactivity disorder:注意欠陥・多動性障害)の注意欠陥型ではないかと疑っている。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 思想は一つの意匠であるか

 

  思想は一つの意匠であるか

 

鬱蒼としげつた森林の樹木のかげで

ひとつの思想を步ませながら

佛は蒼明の自然を感じた

どんな瞑想をもいきいきとさせ

どんな𣵀槃にも溶け入るやうな

そんな美しい月夜をみた。

 

「思想は一つの意匠であるか」

佛は月影を踏み行きながら

かれのやさしい心にたづねた。

 

[やぶちゃん注:「𣵀」は「涅」の異体字であり、誤りではない(筑摩版全集は強制校訂で「涅」とする)。大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出と殆んど(「𣵀槃」は「涅槃」)違わない点で、特異点である。「定本靑猫」では、「佛は蒼明の自然を感じた」の最後に句点を打つこと、「𣵀槃」を「涅槃」とすること、『「思想は一つの意匠であるか」』を『「思想は一つの意匠であるか?」』と疑問符を配する点で異なる。

「蒼明」見慣れない語であるが(小学館の「日本国語大辞典」にも収録されていない)、ごく最近はよく使われ、人名などにも用いられるらしい。そこでは「透明感のある蒼み掛かった白」を指すらしい。ここはやや緑の勝った生き生きとした自然総体の、そうした透明なイメージを色合いに表現したものではあろう。

『「思想は一つの意匠であるか」』ブッダよ、その通りだ。宗教も思想であり、思想はまた、ただ外見を美しく見せているだけの、装飾的考案、趣向に過ぎぬ。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蒼ざめた馬

 

 

 

  

        觀念(いでや)もしくは心像(いめえぢ)の世界に就いて

 

 

 

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな 因果の 宿命の 蒼ざめた馬の影です。

 

[やぶちゃん注:以上はパート標題「意志と無明」(左ページ)の裏(右ページ)に記された献辞。「無明」(むみやう(むみょう))とは、「真理を知らないという無知」を指す仏教用語。サンスクリット語で「アビドヤー」。原始仏教に於いては、四諦(したい:四つの真理(諦:サティヤ)のこと。釈迦はブッダガヤーの菩提樹下でこの四諦の真理を悟ったとされ、四つの真理とは「苦諦」・「集諦(じったい)」・「滅諦」・「道諦」の四つを指し、「苦」とは人間の生が苦しみであること、「集(じゅ)」とは煩悩による行為が集まって苦を生みだすこと、「滅」とは煩悩を絶滅することで涅槃に達すること、「道」とはそのために八正道(はっしょうどう:「正見」(正しい見解)・「正思」(正しい思惟)・「正語」(正しい言語行為)・「正業(しょうごう)」(正しい行為)・「正命(しょうみょう)」(正しい生活)・「正精進」(正しい努力)・「正念」(正しい想念)・「正定(しょうじょう)」(正しい精神統一)の八つの徳目)に励むことを指す)の理或いは縁起の理を知らないことが「無明」であると定義される。大乗仏教に於いては「真如の理を知らない」或いは「有を無と見、無を有と見る」誤りと定義される。「貪(とん)」・「瞋(しん)」・「癡(ち)」の三大煩悩の内の「癡」に相当し、「貪」と「瞋」とが情的煩悩であるのに対し、「無明」=「癡」は知的煩悩であり、煩悩の中でも最も根本的な煩悩とされる。

 

 

 

  蒼ざめた馬

 

冬の曇天の 凍りついた天氣の下で

そんなに憂鬱な自然の中で

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の 蒼ざめた馬の影です

わたしは影の方へうごいて行き

馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

 

ああはやく動いてそこを去れ

わたしの生涯(らいふ)の映畫幕(すくりん)から

すぐに すぐに外(づ)りさつてこんな幻像を消してしまへ

私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!

因果の 宿命の 定法の みじめなる

望の凍りついた風景の乾板から

蒼ざめた影を逃走しろ。

 

[やぶちゃん注:「外(づ)りさつて」のルビ「づ」はママ。「ず」が正しい。初出も「づ」であるから萩原朔太郎の誤りである。大正一〇(一九二一)年十月号『日本詩人』(創刊号)初出。初出では

「すくりん」のルビが「すくりーん」

『私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!』が「私の意志信じたいのだ。馬よ」(太字は傍点「●」(大きな黒丸)

となっており、詩篇の最後に、字下げポイント落ちで、

   ――宿命の不可抗力に就いて――

という添書きがある。「定本靑猫」は以下。

   *

 

  蒼ざめた馬

 

冬の曇天の 凍りついた天氣の下で

そんなに憂鬱な自然の中で

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です。

わたしは影の方へうごいて行き

馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

ああはやく動いてそこを去れ

わたしの生涯(らいふ)の映畫膜(すくりん)から

すぐに すぐに 外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ。

私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!

因果の 宿命の 定法の みじめなる

望の凍りついた風景の乾板から

蒼ざめた影を逃走しろ。

 

   *

筑摩書房版全集は例の消毒をして、「映畫膜」を「映畫幕」とし、そのルビ「すくりん」を「すくりーん」にし、「外(づ)りさつて」を「外(ず)りさつて」と直している。しかし、少なくとも「すくりん」は他の再録でも一貫して長音符を打っていないのだから、この校訂は絶対に不当であるし、「定本靑猫」でも「映畫膜」はママである。「定本靑猫」ではその「卷尾に」で、『この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、倂せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人人や、他の選集に拔粹しようとする人人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と述べている以上、「幕」の消毒も不当であると言える。

「定法」「ぢやうはふ(じょうほう)」と読む。「決まっている規則・決まった法式」或いは「いつものやりかた・しきたり」であるが、前者の意。

乾板」「かんぱん」は写真用語「dry plate」の訳語。透明なガラス板に写真乳剤を塗布し、乾燥させた写真感光材料の一種。最初期のゼラチン乾板は一八七一年にイギリスの医師で写真家でもあったリチャード・リーチ・マドックス(Richard Leach Maddox 一八一六年~一九〇二年) が発明した。乳剤の湿潤中に撮影し、乾燥すると感度を失ってしまう湿板に対し、乾燥後も撮影が可能なので「乾板」と呼んだ。現在では、特殊な精密科学分野等を除くと、殆んどがまずフィルムに置き換えられ、さらにそれも電荷結合素子(CCDCharge-Coupled Device)にとって代わった。ここは「生涯(らいふ)の映畫膜(すくりん)」の一コマ一コマを写真乾板に置き換えて比喩したものであるが、以上から、若い諸君には、こうした注が不可欠となってしまったのは、萩原朔太郎にはちょっと淋しい気がするであろう。

「蒼ざめた影を逃走しろ」いいコーダだ。にしても、これも如何にも、私の嫌いなフューチュアリスモ風ではあるなあ……]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 笛の音のする里へ行かうよ

 

  笛の音のする里へ行かうよ

 

俥に乘つてはしつて行くとき

野も 山も ばうばうとして霞んでみえる

柳は風にふきながされ

燕も 歌も ひよ鳥も かすみの中に消えさる

ああ 俥のはしる轍(わだち)を透して

ふしぎな ばうばくたる景色を行手にみる

その風光は遠くひらいて

さびしく憂鬱な笛の音を吹き鳴らす

ひとのしのびて耐へがたい情緖である。

 

このへんてこなる方角をさして行け

春の朧げなる柳のかげで 歌も燕もふきながされ

わたしの俥やさんはいつしんですよ。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。やはり表現主義のスピード・運動を主題としたものに、視聴覚をアレンジしたものと読む。初出及び「定本靑猫」は有意な異同を認めない。本篇を以ってパート「閑雅な食慾」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 天候と思想

 

  天候と思想

 

書生は陰氣な寢臺から

家畜のやうに這ひあがつた

書生は羽織をひつかけ

かれの見る自然へ出かけ突進した。

自然は明るく小綺麗でせいせいとして

そのうへにも匂ひがあつた

森にも 辻にも 賣店にも

どこにも靑空がひるがへりて美麗であつた

そんな輕快な天氣に

美麗な自働車(かあ)が 娘等がはしり𢌞つた。

 

わたくし思ふに

思想はなほ天候のやうなものであるか

書生は書物を日向にして

ながく幸福のにほひを嗅いだ。

 

[やぶちゃん注:「かあ」は「car」で「自働車」三字へのルビ。大正一〇(一九二一)年十二月号『表現』初出。前の「靑空」「最も原始的な情緖」と同時に書かれたもの(後者は初出誌も同じ)であり、一連の表現主義風の流れを受けているが、寧ろ、ここでは一九〇九年にイタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti 一八七六年~一九四四年)の「未来派宣言」(イタリア語:Manifesto del futurismo/フランス語:Manifeste du futurisme:フランスの日刊紙『ル・フィガロ』(Le Figaro)に発表。「共産主義者宣言」(Manifest der Kommunistischen Partei:一八四八年)を茶化したものである)に端を発したフューチュアリスモ(未来派)風の詩篇と読める。書生は室内から外界へと躊躇なく「突進し」、そこでは「靑空がひるがへ」って、「美麗な自働車(かあ)」や「娘等がはしり𢌞つ」ているのは、「速さ」に象徴される現代科学技術文明への呆けた手放しの讃美であって、それが美事にフューチュアリスモと一致する、何より、その代表選手としての「美麗な自働車(かあ)」が、確信犯の「未来派宣言」の剽窃だからである。同宣言の「四」には実際、「自動車」の「速度」の「美」を以下のようにぶち上げているからである(前者は森鷗外の明治四二(一九〇九)年五月発行の『スバル』第五号所収の訳文(恐らくはドイツ語か英語からの重訳であろう。ミクシィのコミュニティ「未来派」にあったものを恣意的に正字化し、別な信頼出来るデータで校合した)「未來主義の宣言十一箇條」のもの。後者はウィキの「未来派宣言の鈴木重吉訳。一九六五年紀伊國屋書店刊「悪について」より)。

『四 吾等は世界に一の美なるものの加はりたることを主張す。而してその美なるものの速なることを主張す。廣き噴出管の蛇のごとく毒氣を吐き行く競爭自働車、銃口を出でし彈丸の如くはためきつつ飛び行く自働車はsamothrakoの勝利女神より美なり。』

『四 われわれは、世界の栄光は、一つの新しい美、すなわち速度の美によって豊かにされたと宣言する。爆発的な息を吐く蛇にも似た太い管で飾られた自動車……霰弾に乗って駈るかのように咆哮する自動車は《サモトラのニーケ》よりも美しい。』

 また、末尾の「思想はなほ天候のやうなものであるか」という呟きは、フューチュアリスモが一九二〇年代に入って、イタリアのファシズムに大いに『受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美』(ウィキの「未来派に拠る)するに至るのを萩原朔太郎は嗅ぎ取っていたものとも読めないことはない。「書生は書物を日向にして」とは学生が過去の書物(文学)を旧態然とした無価値な智として、日向に投げ捨て、読もうとすることを止めるという〈過去だけでなく、前近代或いは既に古ぼけてしまった近代との鮮やかな絶縁〉を意味していることを示すものと読む。「未来派宣言」(訳は同前)は、

『一 吾等の歌はんと欲する所は危險を愛する情、威力と冒險とを當とする俗に外ならず。

二 吾等の詩の主なる要素は、膽力、無畏、反抗なり。

三 從來詩の尊重する所は思惟に富める不動、感奮及睡眠なりき。吾等は之に反して攻擊、熱ある不眠、奔馳、死を賭する跳躍、掌を以てすると拳を以てするとの歐打を、詩として取り扱はんとす。』

『一 われわれは危険を愛し、エネルギッシュで勇敢であることを歌う。

二 われわれの詩の原理は、勇気、大胆、反逆をモットーとする。

三 在来の文学の栄光は謙虚な不動性、恍惚感と眠りであった。われわれは攻撃的な運動、熱に浮かされた不眠、クイック・ステップ、とんぼ返り、平手打ち、なぐり合いを讃えよう。』

で始まっている。因みに、私は「サモトラケのニケ」(フランス語:Victoire de Samothrace):リンク先はウィキサモトラケのニケの画像)を幼い頃から偏愛しており、未来派の絵画や彫刻は凡そ児戯に類したものとしか捉えていないし、そのファッショな「思想」にも相容れず、大々々々大嫌いな芸術思潮であると言い添えておく。

「定本靑猫」では「
そんな輕快な天氣に」が「そんな輕快な天氣の日に」となっている以外は有意な異同を私は認めない。

2019/01/14

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(4) 「河童家傳ノ金創藥」(2)

 

《原文》

 併シ何レニシテモ右ノ河童藥ノ話ニハ少カラズ御伽噺的分子ヲ含メリ。如何ニ妙藥ナレバトテ切ラレシ手ノ繼ガルべキ道理アルコトナシ。但シ靈藥ノ靈藥タル所以トシテ、最初ノ程ハ先ヅ先ヅソレ位奇妙ナル效能アリシモノトシテ置クナリ。然ルニ此ノ如キ奇談モ九州以外ニヤハリ多クノ類例アリ。何事ニヨラズ天下一品ト云フ物ハ此ノ世ニ無シト言ヒテ可ナリ。試ミニ其一二例ヲ揭グレバ、【馬】甲斐北巨麻郡[やぶちゃん注:「巨摩」はかくも書いた。]下條(シモデウ)村ニ昔ハ下條ノ切疵藥トテ有名ナル妙藥アリ。此モ釜無川ノ河童ノ傳授ナリト稱ス。農夫アリ、或年ノ冬薪ヲ馬ニ附ケテ甲府ノ町へ賣リニ行キシ歸リニ、此川ノ川原ニシテ日暮レ霙降リ來ル。其時曳キタル馬ノ少シモ動カザルヲ怪シミテ振返リ見レバ、十二三歳ノ男ノ兒ガ馬ノ尾筒ニ縋リ居ル。如何ニ叱リテモ手ヲ放サズ、アマリ憎ラシケレバ年甲斐モ無ク少々腹ヲ立テ、腰差ノ刀ヲ拔キテ切拂フ眞似ヲシタルニ始メテ遁ゲ去レリ。【馬洗】然ルニ其ノ夜宅ニ歸リテ馬ヲ洗ハントスルニ、尻尾ノ根モトニ猿ノ手ノ如キ物一ツブラ下リテアリ。不思議ニ思ヒツツモ之ヲ藏ヒ置クニ、其ノ夜中ニ戸ノ外ニ來テ小兒ノ如キ聲ニテサモ悲シゲニ旦那旦那ト呼ブ者アリ。私ハ河童デアリマス、ドウゾアノ手ヲ返シテ下サレト言ヒ、且ツ切ラレテ萎ビタル手足ニテモ、元ノ通リニ繼ギ得ルコトヲ告ゲタリ。此河童モ性來好人物ノ河童ナリト思シク、主人ノ掛引ニ逢ヒテハタト當惑ハシタルモ、元々自分ノ方ガ理窟モ惡ク且ツ弱味モアルコト故、終ニ其ノ祕法ヲ傳授シテ腕ト交換シテ去リシノミナラズ、翌朝ハ別ニ澤山ノ鯉鮒ナドヲ戸口ノ盥ノ中ニ入レテ行キタリ。主人ハ慨然トシテ曰ク、我豈(アニ)獸類ヲシテ其ノ食ヲ分タシメンヤト、悉ク魚ヲ川ニ放ス。而モ一包二十四文ノ切疵藥ノミハ河童ノ餘德トシテ盛ニ賣レタルガ故ニ、結句一鄕ノ分限者ト成リスマシ、更ニ又河童退治ノ高名ハ國中ニ響キ渡リシ次第ナリ〔裏見寒話六〕。【橋ノ怪】常陸行方(ナメカタ)郡現原(アラハラ)村大字芹澤ト大字捻木(ネヂキ)トノ間ヲ流ルヽ手奪(テバヒ)川ハ梶無(カヂナシ)川ノ上流ナリ。橋アリ手奪橋(テバヒバシ)ト云フ。寬正六年夏ノ頃芹澤俊軒ト云フ人此ノ邊ヲ逍遙シ、日暮レテ此ノ橋ヲ過ギテ歸ラントスルニ馬前(スヽ)マズ。怪シミテ後ヲ顧ミレバ怪物アリテ馬ノ尾ヲ捉フルヲ見ル。乃チ刀ヲ拔キテ其ノ腕ヲ斫リ之ヲ携ヘ還ル。然レドモ其ノ何物タルヲ知ラズ。其ノ夜俊軒ガ寢所ニ入リ來タリ拜伏シテ訴フル者アリ。吾ハ前川(ゼンセン)ニ住メル河童ナリ。公ノ爲ニ一手ヲ斬ラル。願ハクハ腕ヲ返セ、吾ニ金創接骨ノ妙藥アリ、幸ニ以テ我ガ腕ヲ接ギ且ツ奇方ヲ君ニ傳ヘテ謝意ヲ表セント言フ。俊軒愍然トシテ腕ヲ返ス。河童大ニ悅ビテ其ノ祕傳ヲ授ケ且ツ曰ク、爾後日々魚ヲ獻ゼン。若シ魚ヲ獻ゼザルニ至ラバ吾命ノ終レルヲ知リタマヘ云々。明日果シテ魚一雙ヲ庭上ノ梅ノ枝ニ懸ケ、久シキヲ經テ斷スルコト無シ。數年ノ後一日魚ヲ見ズ。仍テ下男ヲシテ前川ヲ搜ラシムルニ、河童果シテ死シ其ノ屍ハ逆流シテ今ノ東茨城郡橘村與澤(ヨザハ)ノ地ニ止マル。【手接】乃チ其地ニ葬リ祠ヲ建テ手接明神ト謂フ。水旱疾疫ニ際シ之ニ禱ルニ驗アリ。手奪川(テバヒガハ)ノ名ハ此ニ起リ、芹澤氏金創藥家傳ノ妙方亦之ヲ祖トス。今遠孫芹澤潔ト云フ人此地ニ住シテ尚接骨ノ藥ヲ販ギツヽアリ〔茨城名勝誌〕。

 

《訓読》

 併(しか)し、何れにしても、右の河童藥(かつぱやく)の話には、少からず、御伽噺(おとぎばなし)的分子を含めり。如何に妙藥なればとて、切られし手の繼がるべき道理あることなし。但し、靈藥の靈藥たる所以として、最初の程は、先づ先づ、それ位(くらゐ)奇妙なる效能ありしものとして置くなり。然るに、此くのごとき奇談も、九州以外に、やはり多くの類例あり。何事によらず、天下一品と云ふ物は此の世に無しと言ひて可なり。試みに、其の一、二例を揭(あ)ぐれば、【馬】甲斐北巨麻(きたこま)郡下條(しもでう)村に、昔は「下條の切疵藥(きりきずやく)」とて有名なる妙藥あり。此れも、釜無川の河童の傳授なりと稱す。農夫あり、或る年の冬、薪を馬に附けて、甲府の町へ賣りに行きし歸りに、此の川の川原にして、日、暮れ、霙(みぞれ)降り來たる。其の時、曳きたる馬の少しも動かざるを怪しみて、振り返り見れば、十二、三歳の男の兒(こ)が、馬の尾筒(をづつ)[やぶちゃん注:獣の尾の付け根の丸く膨れた部分を指す。「ちくま文庫」版全集『ビトウ』と振るが、採らない。]に縋(すが)り居(を)る。如何に叱りても、手を放さず、あまり、憎らしければ、年甲斐も無く、少々、腹を立て、腰差(わきざし)の刀を拔きて、切り拂ふ眞似をしたるに、始めて、遁げ去れり。【馬洗(うまあらひ)】然るに、其の夜、宅に歸りて、馬を洗はんとするに、尻尾の根もとに猿の手のごとき物、一つ、ぶら下りてあり。不思議に思ひつつも、之れを藏(しま)ひ置くに、其の夜中に、戸の外に來て、小兒のごとき聲にて、さも悲しげに、「旦那、旦那」と呼ぶ者あり。「私は河童であります、どうぞ、あの手を返して下され」と言ひ、且つ、切られて萎(しな)びたる手足にても、元の通りに繼ぎ得ることを告げたり。此の河童も、性來(しやうらい)、好人物の河童なりと思(おぼ)しく、主人の掛引(かけひき)に逢ひて、はた、と當惑はしたるも、元々、自分の方が、理窟も惡く、且つ弱味もあること故、終に其の祕法を傳授して腕と交換して去りしのみならず、翌朝は別に澤山の鯉・鮒などを戸口の盥(たらひ)の中に入れて行きたり。主人は慨然(がいぜん)として曰はく、「我れ、豈(あ)に獸類をして其の食を分たしめんや」と、悉く、魚を川に放す。而(しかれど)も[やぶちゃん注:私の勝手訓。「ちくま文庫」版は『而(しか)も』。]、一包二十四文の切疵藥のみは河童の餘德として盛んに賣れたるが故に、結句、一鄕の分限者[やぶちゃん注:金持ち。]と成りすまし[やぶちゃん注:ここではフラットに「結果として成り果(おお)せた」の意。]、更に又、河童退治の高名は國中に響き渡りし次第なり〔「裏見寒話」六〕。【橋の怪】常陸行方(なめかた)郡現原(あらはら)村大字芹澤ト大字捻木(ねぢき)との間を流るゝ手奪(てばひ)川は梶無(かぢなし)川の上流なり。橋あり、手奪橋(てばひばし)と云ふ。寬正六年[やぶちゃん注:一四六五年。「応仁の乱」勃発の二年前。]夏の頃、芹澤俊軒と云ふ人、此の邊を逍遙し、日暮れて、此の橋を過ぎて歸らんとするに、馬、前(すゝ)まず。怪しみて、後ろを顧みれば、怪物ありて、馬の尾を捉(とら)ふるを見る。乃(すなは)ち、刀を拔きて、其の腕を斫(き)り、之れを携へ還る。然れども、其の何物たるを知らず。其の夜、俊軒が寢所に入り來たり、拜伏して訴ふる者、あり。「吾は前川(ぜんせん)[やぶちゃん注:家の真向かいを流れる川の意。]に住める河童なり。公の爲に一手を斬らる。願はくは、腕を返せ。吾に金創(きんさう)・接骨(ほねつぎ[やぶちゃん注:ずっと後の方でこの読みが振られている。])の妙藥あり、幸ひに以つて我が腕を接ぎ、且つ、奇方(きはう)を君に傳へて、謝意を表せん」と言ふ。俊軒、愍然(びんぜん)[やぶちゃん注:憐れむべきさま。]として、腕を返す。河童、大いに悅びて、其の祕傳を授(さづ)け、且つ曰はく、「爾後(じご)[やぶちゃん注:これより後。]、日々、魚(うを)を獻ぜん。若(も)し、魚を獻ぜざるに至らば、吾(わが)命の終れるを知りたまへ」云々(うんぬん)。明日(みやうじつ)、果して、魚一雙[やぶちゃん注:二尾。二つで一組のものを「雙」(双)と言う。]を庭上の梅の枝に懸け、久しきを經て、斷すること、無し。數年の後、一日、魚を見ず。仍(より)て、下男をして前川を搜らしむるに、河童、果して、死し、其の屍は逆流して、今の東茨城郡橘村與澤(よざは)の地に止(とど)まる。【手接(てつぎ)】乃(すなは)ち、其地に葬り、祠(ほこら)を建て、「手接明神(てつぎみやうじん)」と謂ふ。水旱(すいかん)[やぶちゃん注:洪水と干魃(かんばつ)。]・疾疫(しつえき)[やぶちゃん注:悪性の流行病(はやりやまい)。]に際し、之れに禱(いの)るに、驗(しるし)あり。「手奪川(てばひがは)」の名は此(ここ)に起り、「芹澤氏金創藥家傳の妙方」亦、之れを祖とす。今、遠孫・芹澤潔(せりざはきよし)と云ふ人、此の地に住して、尚(なほ)接骨(ほねつぎ)の藥を販(ひさ)ぎつゝあり〔「茨城名勝誌」。〕。

[やぶちゃん注:「甲斐北巨麻(きたこま)郡下條(しもでう)村」現在の韮崎市藤井町北下條げじょう・藤井町南下條(げじょう)に相当する地域(北下條はここで、南下條はここ。孰れもグーグル・マップ・データ)。西直近を釜無川が流れる。工夫の南西約十キロほどの位置にある。

「下條の切疵藥(きりきずやく)」現存はしない模様である。

「猿の手のごとき物」ここで「猿」が出て来たことは記憶しておく必要がある。ご存じの方も多いと思うが、ずっと後に出るように、永く、猿は厩を守る神として、その頭蓋骨が厩に祀られたりしてきた民俗習俗があるからである。

「慨然(がいぜん)」憤り嘆くさま。嘆き憂えるさま。

「我れ、豈(あ)に獸類をして其の食を分たしめんや」反語。「儂は、しがない農夫の身にてはあれど、畜生の上に、人として、生まれた身じゃて、どうして、異類たる獣どもの食い扶持までも割かさせて食うなどということが、出来ようか、いや、出来ぬ!」。これは人と畜生や異類(河童)との差別的認識ではなく、生きとし生けるもの(献上された魚のそれ及び生物としての河童)に対する素朴な仏教的な慈悲心の表われと読むべきである。而してその判り易い殺生戒の遵守を以ってしても、彼には分限者に成るべき資格が既にここで与えられてあるのである。

「而(しかれど)も」文中で注した通り、私が意図的に勝手に訓じたものであるが、かく読んでこそ、「結句」(結局)、「一鄕の分限者」成り果(おお)せたとする後日談が腑に落ちると考えるからである。

「常陸行方(なめかた)郡現原(あらはら)村大字芹澤ト大字捻木(ねぢき)との間を流るゝ手奪(てばひ)川は梶無(かぢなし)川の上流なり。橋あり、手奪橋(てばひばし)と云ふ。」現在の茨城県行方市芹沢と同捻木の間に架かる橋がここYahoo地図。二つの大字地名が確認出来る)。サイト「茨城妖怪探検隊」の「手奪橋の河童伝説で画像も見られ、痒いところに手が届くで、河童(リンク先では現地では「七郎河童」という名を持っていることが判る)の死後、それを祀ったとされる場所、本文の「手接明神(てつぎみやうじん)」、現在の手接神社(本文の「東茨城郡橘村與澤(よざは)」は現在の茨城県小美玉市与沢。先の手奪橋から直線で三・六キロメートル北西の梶無川の右岸(南側)にある。(グーグル・マップ・データ))を訪問した手接神社の河童伝説の別ページもある! 河童の神社!! 必見!!! また、Romanブログまほらにふく風に乗っての「手接神社(小美玉市)を見ると、つげ義春並みにドキッとくる手形の奉納写真もあるぞ!

「芹澤俊軒」上記のページ等を見ると、なんと! 「新撰組」の初代筆頭局長であった芹沢鴨の先祖であるらしく、この手接神社附近で城持ちの豪族であったともする。

「其の屍は逆流して」何故、逆流出来るのか? それは恐らく、妖怪としての河童が完全な陰気に基づく生物という認識があったからであろうと私は思う。

「芹澤潔」不詳。この片の製造した薬も現存はしない模様である。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 最も原始的な情緖

 

  最も原始的な情緖

 

この密林の奧ふかくに

おほきな護謨(ごむ)葉樹のしげれるさまは

ふしぎな象の耳のやうだ。

薄闇の濕地にかげをひいて

ぞくぞくと這へる羊齒(しだ)植物 爬蟲類

蛇 とかげ ゐもり 蛙 さんしようをの類。

 

白晝(まひる)のかなしい思慕から

なにをあだむが追憶したか

原始の情緖は雲のやうで

むげんにいとしい愛のやうで

はるかな記憶の彼岸にうかんで

とらへどころもありはしない。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月号『表現』初出。初出は以下。「あだむ」は傍点であるが、大きな「●」である。

   *

 

  最も原始的な情緖

 

この密林の奧ふかくに

巨大な護謨葉樹(ごむえふじゆ)のしげれるさまは

ふしぎな象の耳のやうだ。

薄やみの濕地に影をひいて

ぞくぞくと這へる羊齒(しだ)植物、爬蟲類

蛇、蜥蝪、蛙、蠑螈(ゐもり)、山椒魚(さんしようを)の類。

 

白晝(まひる)の悲しい思慕から

なにをあだむが追憶したか

原始の情緖は雲のやうで

無限にいとしい愛のやうで

はるかな記憶の彼岸にうかんで

捉へどころもありはしない。

 

   *

 「定本靑猫」は有意な異同は認めない。

 この一篇、直前の空」に続いて如何にも表現主義的な印象であるが、それ以上に、表現主義の「青騎士」第一回展に参加したこともある一人(但し、彼は「表現主義」という区分的思潮では到底、括りきれない)である、かのフランスの画家アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau 一八四四年~一九一〇年)の一連の優れた森林幻想の作品群、Le lion, ayant faim, se jette sur l’antilope(ライオンは、飢えていて、アンテロープに襲いかかる」一八九八年~一九〇五年)・La Charmeuse de serpents(「蛇使い」一九〇七年)・Le Rêve(「夢」一九一〇年)などが素材となっているのではないかと私は強く思う(リンク先は総て仏文のウィキの当該の絵の画像)。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 靑空

 

  靑 空

 

           表

 

このながい烟筒(えんとつ)は

をんなの圓い腕のやうで

空にによつきり

空は靑明な弧球ですが

どこにも重心の支へがない

この全景は象のやうで

妙に膨大の夢をかんじさせる。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出は標題と添え辞が全く異なり、細部に気になる異同があるので以下に示す。

   *

 

  印 象

       とある都會の上空にて

 

このながい煙突は

女の圓い腕のやうで

空にによつきり

空は靑明な球形ですが

どこにも重心の支へがない。

この全景は象(ざう)のやうで

妙に澎大の夢をかんじさせる。

 

   *

「澎」は「水の漲(みなぎ)るさま・水の湧き立つさま」であるから、誤字か誤植であろう。

 本篇は「定本靑猫」には再録されていない。

「表現詩派」「表現主義派の詩の感じで」「表現主義の詩のように」「表現主義詩風(ふう)に」の意であろう。「表現主義」(Expressionismus)は「ドイツ表現主義」とも呼ばれ、ウィキの「ドイツ表現主義」によれば、ドイツに於いて第一次世界大戦前に始まり、一九二〇年代に最盛となった芸術運動で、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした。建築・舞踊・絵画・彫刻・映画・音楽など各分野で流行し、「黄金の二十年代」と呼ばれ、ベルリンを中心に花開いた。『日本を含む世界各地の前衛芸術に影響を与え、現代芸術の先駆となった』。『日本においては、単なる「表現主義」(「表現派」)ではなく「ドイツ表現主義」(「ドイツ表現派」)という言い方がなされることがあるが、これがどのような経緯で使われるようになったかについて明確に記載している文献は存在しない。ただ、 第二次世界大戦前から日本で「ドイツ表現派」という呼び方が用いられていたことを示す、次のような文献が存在する』として、大正一一(一九二二)年十一月発行の雑誌『解放』に山岸光宣が発表した評論「独逸表現派の社会革命劇 トルレルの『転変』を中心として」があり、また、大正一二(一九二三)年一月三日及び二月二日附『東京朝日新聞』で田中總一郎が「独逸表現派戯曲家」という記事を書いている。本詩篇の初出は大正一〇(一九二一)年十二月であるが、上記の添え辞に変更された本書は、大正一二(一九二三)年一月発行であるから、時制的に「ドイツ表現主義」が持て囃された時期と、よく一致しており、本詩篇のイメージも、かの表現主義に拠った絵画グループ『青騎士』(ドイツ語:der Blaue Reiter:ブラウエ・ライター:元は一九一二年にロシア人画家ヴァシリー・カンディンスキー(Василий Васильевич Кандинский:ラテン文字転写:Wassily Kandinsky)と動物を好んで描いたドイツ人画家フランツ・マルク(Franz Marc)が創刊した綜合的な芸術年刊誌の誌名であり、また、ミュンヘンに於いて一九一一年十二月に集まった主として表現主義画家たちによる自由な芸術家サークル)に参加した画家たち(第一回展にはハンス・アルプ、パウル・クレー、アンリ・マティス、エミール・ノルデ、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーが、第二回展にはエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、カジミール・マレーヴィチ、ジョルジュ・ブラック、ロベール・ドローネーといった錚々たる面々が参加している。ここはウィキの「騎士を参考にした)に参加した画家たちの絵を確かに髣髴させ、短篇ながら、成功していると私は感じる。

「弧球」聴き慣れない熟語で朔太郎の造語の可能性が高いが、しかし「穹窿」や「蒼穹」のイメージに「天球」を合わせたものとして腑には落ちるし、詩語として悪くはない。また、この堅い造語(推定)の音「コキユウ(コキュウ)」を和らげるのにここにのみ特異的に「ですが」という敬体を敢えて用いたのも掟破り乍ら、成功していると言える。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 馬車の中で

 

  馬車の中で 

 

馬車の中で

私はすやすやと眠つてしまつた。

きれいな婦人よ

私をゆり起してくださるな

明るい街燈の巷(ちまた)をはしり

すずしい綠蔭の田舍をすぎ

いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。

ああ蹄(ひづめ)の音もかつかつとして

私はうつつにうつつを追ふ

きれいな婦人よ

旅館の花ざかりなる軒にくるまで

私をゆり起してくださるな。 

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月八日附『東京朝日新聞』初出。初出は総ルビ(以前に注した通り、それは特に新聞の場合、ほぼ確実に新聞社が勝手に附したもの。但し、不審なものはない)で、副題として「――敍情小曲――」と添える。表記に変更はあるが、有意な意味変動はない。但し、一つ気になることがあるので、ルビを総て除去して以下に示す

   * 

 

  馬車の中で

      ――敍情小曲――

 

馬車の中で

私はすやすやと眠つて了つた。

綺麗な婦人よ

私をゆり起してくださるな

明るい街燈の巷をはしり

すずしい綠蔭の田舍をすぎ

いつしか海の匂ひも

行手にちかくそよいでゐる。

ああ蹄の音もかつかつとして

私はうつつにうつつを追ふ

綺麗な婦人よ

旅館の花ざかりなる

軒にくるまで

私をゆり起してくださるな。 

 

   *

この「いつしか海の匂ひも」/「行手にちかくそよいでゐる。」と、「旅館の花ざかりなる」/「軒にくるまで」の部分は、新聞社に送った原稿でも一行であったのではないかと推測する。即ち、新聞の版組に於いて、横列の一行字数が制限されているため、新聞社がこの二つの部分を(前者は句点を含んで二十二字、後者は十五字で、他の行より有意に長い。他で長いのは「私はすやすやと眠つて了つた。」で十四字である)勝手に改行してしまったものと思われるからである。

 「定本靑猫」は有意な異同はない。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 閑雅な食慾

 

  閑雅な食慾 

 

松林の中を步いて

あかるい氣分の珈琲店(かふえ)をみた。

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店(かふえ)である。

をとめは戀戀の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取つて

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮んで

たいそう閑雅な食慾である。 

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出との異同は、

二行目「かふえ」のルビは「カフエ」とカタカナ

四行目「ひと」は「人」と漢字

五行目の方の「珈琲店」のルビは無し

六行目「をとめ」は「少女」に「をとめ」のルビを附したもの

八行目「取つて」は「とつて」と平仮名

十行目「空」は「堂」(これは誤植の可能性が高いと推定

最終行「たいそう」は「たいさう」と正しい歴史的仮名遣表記

である。

 「底本靑猫」は有意な異同を認めない。

「戀戀」(れんれん)は「思い切れずに執着すること」或いは「恋い慕って思い切れないさま」を言う。

「羞」昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集」第九巻では、「羞(はにかみ)とルビし、昭和一一(一九三六)年四月刊の新潮文庫「萩原朔太郎集」でも同じ仕儀をしているから、「はにかみ」と訓じてよかろうとは思うのだが、実は新潮文庫のそれが出る一ヶ月前の同年三月刊に「定本靑猫」は刊行されており、これを定本と自負して名打ったにも拘らず、この「はにかみ」のルビがないのは頗る不審であり、その点に於いて、この字を「はにかみ」と読むと断定することは私は微妙に留保したい気持ちがある。しかも、痙攣的に面倒臭いことに、最後の自選となった昭和一四(一九三九)年の詩集「宿命」では、「羞」を「羞恥」に変えてしまい、その二字に「はぢ」とルビしているのである。これは即ち、この「羞」で「はぢ」と読んでいた可能性を排除出来ないからでもある。

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)

 

Kumataka

 

くまたか

      【和名久万太加】

角鷹

 

△按角鷹乃鷹之類而大悍者也全體形色雌雄大小皆

 同于鷹大於鷹三倍焉本草綱目鷹與角鷹相混云頂

 有毛角故曰角鷹蓋毛角在耳穴上蔽耳毛宛如角然

 鷹毛角微而常不見怒則四五分竪爾此毛角常脹起

 如憤則四五寸竪故特立角鷹名性最猛悍多力能搏

 狐狸兔猿之類不劣於鷲奧州常州有之彼山人毎養

 之馴教以使搏鳥獸亦如鷹取其尾造箭羽其尾十二

 枚黑白文重重成列鮮明者爲上老則尾文斜而逆上

 謂之逆彪最爲貴珍

八角鷹 乃角鷹之屬小者大如鳶皁色尾羽黑與赤黃

 斑如畫間有如八字文此亦爲箭羽以爲奇珍

[やぶちゃん注:「畫」は「盡」であるが、ルビと送り仮名の「ヱカクカ」により、誤字と断じて特異的に訂した。]

 

 

くまたか

      【和名、「久万太加」。】

角鷹

 

△按ずるに、角鷹は乃〔(すなは)〕ち鷹の類にして、大いに悍(たけ)き者なり。全體の形・色、雌雄の大小、皆、鷹に同じく、鷹より大なること、三倍せり。「本草綱目」に、鷹と角鷹と、相ひ混じて云はく、『頂きに、毛角有り。故に「角鷹」と曰ふ』と。蓋し、「毛角」〔と〕は、耳の穴の上に在りて、耳を蔽ふ毛〔にして〕、宛(さなが)ら、角(つの)のごとく〔に〕然〔(しか)〕り。鷹の毛角は微〔(かすか)〕にして、常に〔は〕見へず[やぶちゃん注:ママ。]。怒(いか)るときは、則ち、四、五分〔(ぶ)〕竪(た)つのみ。此の〔角鷹の〕毛角は常に脹(ふく)れ起こる。如〔(も)〕し憤(いきどほ)るときは、則ち、四、五寸、竪つ。故に特に角鷹の名を立つ。性、最も猛悍、多力にして、能く狐・狸・兔〔(うさぎ)〕・猿の類を搏つこと、鷲に劣らず。奧州・常州に、之れ、有る。彼〔(か)〕の山人、毎〔(つね)〕に之れを養ひ、馴〔らし)〕教へて、以つて鳥獸を搏たしむ。亦、鷹のごとく、其の尾を取りて、箭(や)の羽を造る。其の尾、十二枚、黑白の文〔(もん)〕重重〔(ぢゆうぢゆう)として〕[やぶちゃん注:重なり合うように。]列を成す。鮮-明(あきら)かなる者、上と爲す。老〔(らう)〕すれば、則ち、尾の文、斜めにして、逆に上る。之れを「逆彪(さかふ)」と謂ひ、最も貴珍と爲す。

八角鷹(はちくま) 乃ち、角鷹の屬の小き者なり。大いさ、鳶のごとく、皁〔(くろ)〕色。尾羽(〔を〕ばね)、黑と赤黃と斑〔(まだら)〕にして畫(ゑが)くがごとし。間〔あひだ)〕に「八」の字のごとくなる文〔(もん)〕有り。此れも亦、箭の羽と爲して、以つて奇珍と爲す。

[やぶちゃん注:本邦産はタカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalisウィキの「クマタカ」によれば、『ユーラシア大陸南東部、インドネシア、スリランカ、台湾』に分布し、全長はで約七十五センチメートル、で約八十センチメートル。翼開長は約一メートル六十センチメートルから一メートル七十センチメートルに達し、『日本に分布するタカ科の構成種では大型であることが和名の由来(熊=大きく強い)。胸部から腹部にかけての羽毛は白く咽頭部から胸部にかけて縦縞や斑点、腹部には横斑がある。尾羽は長く幅があり、黒い横縞が入る』。但し、『翼は幅広く、日本に生息するタカ科の大型種に比べると』、実は『相対的に短い。これは障害物の多い森林内での飛翔に適している。翼の上部は灰褐色で、下部は白く黒い横縞が目立つ』。『頭部の羽毛は黒い。後頭部には白い羽毛が混じる冠羽をもつ。この冠羽が角のように見えることも和名の由来とされる。幼鳥の虹彩は褐色だが、成長に伴い黄色くなる』。『森林に生息する。飛翔の際にあまり羽ばたかず、大きく幅広い翼を生かして風を』捉らえて『旋回する(ソアリング)』(soaring:上昇気流を利用して長時間滞空すること。)『こともある。基本的には樹上で獲物が通りかかるのを待ち襲いかかる。獲物を捕らえる際には翼を畳み、目標をめがけて加速を付けて飛び込む。日本がクマタカの最北の分布域であり』、『北海道から九州に留鳥として生息し、森林生態系の頂点に位置している。そのため』、『「森の王者」とも呼ばれる。高木に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作る』。『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『繁殖は』一『年あるいは隔年に』一『回で、通常』一『回につき』一『卵を産むが』、『極稀に』二『卵産む。抱卵は主にメスが行い、オスは狩りを行う』。『従来、つがいはどちらかが死亡しない限り、一夫一妻が維持され続けると考えられてきたが』、二〇〇九『年に津軽ダムの工事に伴』って『設置された猛禽類検討委員会の観察により、それぞれ前年と別な個体と繁殖したつがいが確認され、離婚が生じることが知られるようになった』。『クマタカは森林性の猛禽類で調査が容易でないため、生態の詳細な報告は少ない。近年繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』という。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と』二『通りの漢字表記事例がある。歴史的・文学上では双方が使われてきており、近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。なお、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』とある。なお、クマタカの英名は「Mountain hawk-eagle」或いは単に「hawk eagle」である。即ち、「hawk」(「鷹」。タカ:俗にタカ目 Accipitriformes(ワシタカ目とも訳す)の中の大型種)であり、「eagle」(「鷲」ワシ:俗にタカ(ワシタカ)目の中の中・小型種)であるという奇体な(中間型という謂いであろう)もので、中央・南アメリカに棲息するタカ目タカ科セグロクマタカ属 Spizaetus の「スピザエトゥス」は、荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「タカ」の項によれば、『ギリシャ語の〈ハイタカ spizas〉と〈ワシ aetos〉』の合成であるとある。如何に「ホークとイーグル」「鷹と鷲」の民俗的分類がいい加減かが露呈する、いい例である。

 

「本草綱目」良安が本書名をフルで書くのは極めて珍しく、しかも鷹と角鷹を一緒くたに説明している、と正面切って批判的に述べているのも特異点である。「禽部」の巻四十九、「禽之四 山禽類」の「鷹」の「釋名」に以下のように出る(良安が一部を既に鷹」で引いている)。

   *

鷹【「本經中品」。】

釋名角鷹【「綱目」。】。鷞鳩。時珍曰、鷹以膺擊、故謂之鷹。其頂有毛角、故曰角鷹。其性爽猛、故曰鷞鳩。昔少皥氏以鳥官名。有祝鳩・鳲鳩・鶻鳩・睢鳩・鷞鳩五氏。蓋鷹與鳩同氣禪化、故得稱鳩也。「禽經」云、『小而鷙者皆曰隼、大而鷙者皆曰鳩』是矣。「爾雅翼」云、在北爲鷹、在南爲鷂』。一云、大爲鷹、小爲鷂。「梵書」謂之嘶那夜。

   *

「八角鷹(はちくま)」「乃ち、角鷹の屬の小き者なり」後者は誤りであるが、姿は確かによく似ている。「蜂熊」「八角鷹」「蜂角鷹」はクマタカとは属の異なる独立種、タカ科ハチクマ属ハチクマ Pernis ptilorhyncus であるウィキの「ハチクマ」を引く。『和名は同じ猛禽類のクマタカに似た姿で、ハチを主食とする性質を持つことに由来する』。『ユーラシア大陸東部の温帯から亜寒帯にかけての地域に広く分布する。ロシアのバイカル湖付近から極東地域、サハリン、中国東北部にかけての地域とインドから東南アジアで繁殖し、北方で繁殖した個体は冬季南下して、インドや東南アジア方面の地域に渡り越冬する』。『日本では初夏に夏鳥として渡来し、九州以北の各地で繁殖する』。『日本で繁殖した個体は、同様に東南アジアにわたるサシバ』(タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus。既注)『が沖縄・南西諸島を経由して渡りをおこなうのとは異なり、九州から五島列島を経て大陸に渡り、そこから南下する。鹿児島県下甑島を通過する個体もおり、年齢を判別できた個体のうち、幼鳥が』九十二%『であった』。『渡りの方向は西方向が中心で北や南への飛去も観察されている』。『春には秋とは異なる経路をとり、大陸を北上した後、朝鮮半島から南下することが』、『人工衛星を使った追跡調査から明らかになっている』。全長五十七~六十一センチメートルで、他種と同じく、『雌の方がやや大きい。体色は通常体の上面は暗褐色で、体の下面が淡色若しくは褐色であるが、特に羽の色は個体差が大きい。オスは風切先端に黒い帯があり、尾羽にも』二『本の黒い帯があり、瞳が黒い。メスは尾羽の黒い帯が雄よりも細く、瞳が黄色い』。六亜種に分類されている。本邦種『ユーラシア大陸西部に分布するヨーロッパハチクマ』(Pernis apivorus)『とは近縁種で、同種とする見解もある』。『丘陵地から山地にかけての森林に、単独かつがいで生活する。日本での産卵期は』六『月で、樹上に木の枝を束ね産座に松葉を敷いたお椀状の巣を作り』、一~三個(通常は二個)の『卵を産む。抱卵期間は』二十八~三十五『日で、主に雌が抱卵する。雛は孵化してから』三十五~四十五『日で巣立つ。巣立ち後』、三十~六十『日程度で親から独立する。冬になると』、『東南アジアに渡って越冬するが、毎年同じ縄張りに戻ってきて育雛をする。このとき』、『巣も毎年繰り返し再利用するため、年々新たに付け加えられる木の枝によってかなりの大きさとなる。その下部は排泄物がしみこんで富栄養の腐植質となるが、ここでハナムグリの一種である』アカマダラハナムグリ(昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科ハナムグリ亜科 Cetoniinae のマダラハナムグリ属アカマダラハナムグリ Poecilophilides rusticola)『の幼虫が発育する』。『食性は動物食で、夏と冬にはスズメバチ類やアシナガバチ類といった社会性の狩り蜂の巣に詰まった幼虫や蛹を主たる獲物とし、育雛に際してもばらばらの巣盤を巣に運んで雛に与える。コガタスズメバチのような樹上に営巣するハチのみならず、クロスズメバチやオオスズメバチなど、地中に巣を作るハチの巣であっても、ハチが出入りする場所などから見つけ出し、同じ大きさの猛禽類よりも大きい足で巣の真上から掘り起こし、捕食してしまう。また、時には養蜂場のハチの巣を狙うこともある』。『ハチの攻撃を受けても』、『ハチクマは滅多に刺されることがない。これは硬質の羽毛が全身に鱗のように厚く密生しており、毒針が貫通しないためと考えられている。また、ハチクマの攻撃を受けたハチは』、『やがて反撃をしなくなることがあるが、詳しい理由は判明していない。ハチの攻撃性を奪うフェロモン、もしくは嫌がる臭いを身体から出しているという説や、数週間にわたって、時には複数羽で連携してしつこく巣に波状攻撃を仕掛けることで、ハチに巣の防衛を諦めさせ、放棄して別の場所に移るように仕向けさせているという説がある』。『ハチ類の少なくなる秋から冬にかけては昆虫類や小鳥、カエル、ヘビ等の動物も捕食する』。『猛禽類では餌を独占する傾向が強いが、ハチクマは、餌を巡り滅多なことでは同種同士で争うことはない。これは上記のように集団で巣を襲うからと考えられる』とある。]

2019/01/13

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 怠惰の曆

 

  

 

      

 

いくつかの季節はすぎ

もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた

馬車はごろごろと遠くをはしり

海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる

なんといふ怠惰な日だらう

運命はあとからあとからとかげつてゆき

さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる

もう曆もない 記憶もない

わたしは燕のやうに巢立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。

むかしの戀よ 愛する猫よ

わたしはひとつの歌を知つてる

さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げやう

ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。 

 

[やぶちゃん注:「閑雅な食慾」はパート標題。初出は筑摩版全集初版の解題によれば、大正一一(一九二二)年六月号『嵐』であるが、採集不能のため、掲載されていない。「定本靑猫」では「むかしの戀よ 愛する猫よ」が「むかしの人よ 愛する猫よ」に改変されているが、その後の詩集「宿命」では「戀」に戻した上で感嘆符を附し、「むかしの戀よ 愛する猫よ!」としている。

 私は個人的にこの「さうして遠い海草の焚」(た)「けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げやう」! というコーダが好きだ。これはもう、万葉人の藻塩焼く、それ、である。その古代の侘しくも懐かしい夕暮れの焼けた空から、詩人は「爛れるやうな接吻』(キス)『を投げやう』! と言うのだ。「もう曆もない 記憶もない」遠い時代をドライヴしてきた「かなしい情熱」だけが支えである詩人の呼ぶ声が哀しくも素敵ではないか!
 

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) さびしい來歷

 

  さびしい來歷

 

むくむくと肥えふとつて

白くくびれてゐるふしぎな球形の幻像よ

それは耳もない 顏もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ

夏雲よ なんたるとりとめのない寂しさだらう

どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ戀人もありはしない。

わたしは駱駝のやうによろめきながら

椰子の實の日にやけた核(たね)を嚙みくだいた。

ああ こんな乞食みたいな生活から

もうなにもかもなくしてしまつた

たうとう風の死んでる野道へきて

もろこしの葉うらにからびてしまつた。

なんといふさびしい自分の來歷だらう。

 

[やぶちゃん注:「核」の字は底本では(つくり)が「亥」ではなく、「玄」の一画目と三画目を一本した奇体な字体で、表示出来ないため、筑摩書房版全集校訂本文の採用する「核」で示した。大正一一(一九二二)年六月号『日本詩人』初出。初出に有意な異同はない。「底本靑猫」は以下。

   *

 

  さびしい來曆

 

むくむくと肥えふとつて

白くくびれてゐるふしぎな球形(まり)の幻像(いめいぢ)よ

それは耳もない 顏もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ

夏雲よ。なんたるとりとめのない寂しさだらう!

どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ戀人もありはしない。

わたしは駱駝のやうによろめきながら

椰子の實の日にやけた核を嚙みくだいた。

ああ こんな乞食みたいな生活から

もうなにもかもなくしてしまつた。

たうとう風の死んでる野道へきて

もろこしの葉うらにからびてしまつた。

なんといふさびしい自分の來曆だらう。

   *

「來曆」は「來歷」の方が私などにはしっくりくるのだが、実は本書目次」詩篇標題事実、しい曆」っていのであった。

「野蔦」「のづた」。ブドウ目ブドウ科ツタ属 Parthenocissus に属する多様なツタ類を指すが、それに、全くの別種であるセリ目ウコギ科 Aralioideae亜科キヅタ属キヅタ Hedera rhombea をも含めて考えた方がよい。

「もろこし」「蜀黍」「唐黍」。老婆心乍ら、トウモロコシではない。単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolor である。熱帯アフリカ原産の一年草の穀物。丈が高くなるところから「高黍」(たかきび)とも呼び、或いは中国語の「高粱」(Gāoliang)の音写に成る外来語「コーリャン」や、種名の「ソルガム」が商品名として知られる。ウィキの「モロコオシによれば、『穀物としての生産面積ではコムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギに次いで世界』で第五位に位置する耕作穀物で、『乾燥に強く、イネ、コムギなどが育たない地域でも成長する』とある。

 なお、本篇を以ってパート「さびしい靑猫」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 輪廻と轉生

 

  輪廻と轉生

 

地獄の鬼がまはす車のやうに

冬の日はごろごろとさびしくまはつて

輪𢌞(りんね)の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。

ああ こんな陰鬱な季節がつづくあひだ

私は幻の駱駝にのつて

ふらふらとかなしげな旅行にでやうとする。

どこにこんな荒寥の地方があるのだらう

年をとつた乞食の群は

いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆさ

禿鷹の屍肉にむらがるやうに

きたない小蟲が燒地(やけち)の穢土(ゑど)にむらがつてゐる。

なんといふいたましい風物だらう

どこにもくびのながい花が咲いて

それがゆらゆらと動いてゐるのだ

考へることもない かうして暮れ方(がた)がちかづくのだらう

戀や孤獨やの一生から

はりあひのない心像も消えてしまつて ほのかに幽靈のやうに見えるばかりだ。

どこを風見の鷄(とり)が見てゐるのか

冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれてゐる。

 

[やぶちゃん注:標題の「廻」の字体はママ。本文内に二箇所で現れる「輪𢌞」と「𢌞る」の「𢌞」は実は底本では(えんにょう)の上に載る中の部分が「巳」ではなく「己」となっている字体(「グリフウィキ」のこれ)で表記が出来ないことから、最も近い字体として「𢌞」を配したものである。筑摩版全集校訂本文も当然の如く、標題を含めて総て「𢌞」となっている。

「ふらふらとかなしげな旅行にでやうとする」の「でやうとする」はママ(これまでにも萩原朔太郎しばしばやらかしている歴史的仮名遣の誤りであり、特に私は躓かない)。

九行目の「いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆさ」の「さ」は明らかにおかしいのであるが、「ママ」で、言わずもがな、「いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆき」の「き」の誤植であるが、正誤表があるわけでもないので、ここは特異的にママで出した

 大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』初出。

 初出は「禿鷹」(はげたか)が「禿鷲(はげわし)」(ルビ有り)である以外は有意な異同は認めない。

 「定本靑猫」では、

「どこにこんな荒寥の地方があるのだらう」が「どこにこんな荒寥の地方があるのだらう!」

となり、

「なんといふいたましい風物だらう」も「なんといふいたましい風物だらう!」

で、最終行の、

「冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれてゐる。」が「冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉つぱが吹かれてゐる。」

となっている以外は、有意な異同を認めない。但し、これらは朗読では有意に変化が起こる。

 老婆心乍ら、標題の「轉生」は「輪廻」(「輪𢌞」)と対になっているから「てんしやう」(てんしょう)以外の読みはあり得ない。

「心像」は「しんざう」で「image」の訳語で、過去の経験や記憶などをもととして具体的に心の中に思い浮かべたもの。「心象」と同じだから「しんしやう(しんしょう)」と読みたくなるし、「像」には「シヤウ(ショウ」の音はあるから、ここはちょっと自分勝手にそう読みたい。幸い、朔太郎は後の再録の孰れでも「いめいぢ」などというかったるいルビは振っていないから、「しんしやう」でよかろうかと勝手に合点させて貰う。

「瘠地」「やせち」。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 五月の死びと

 

  五月の死びと

 

この生(いき)づくりにされたからだは

きれいに しめやかに なまめかしくも彩色されてる

その胸も その脣(くち)も その顏も その腕も

ああ みなどこもしつとりと膏油や刷毛で塗られてゐる。

やさしい五月の死びとよ

わたしは綠金の蛇のやうにのたうちながら

ねばりけのあるものを感觸し

さうして「死」の絨氈に肌身をこすりねりつけた。

 

[やぶちゃん注:初出なし(確認されていない)。「底本靑猫」では再録せず。「絨氈」は「じゆうたん」で問題ない表記であるが、筑摩書房版全集校訂本文は、またしても過剰な消毒薬を散布せずにはおかぬ。「絨毯」に変えてしまっている。いいかね? 「じゆうたん」(現代仮名遣「じゅうたん」)は現行の辞書でも漢字表記を「絨緞」「絨毯」「絨氈」と載せているんだ! どこの誰が「じゆうたん」は「絨毯」でなくては誤りだと言ったんだ?!

 さても、この詩篇、エレナ幻想の一つであろう。エレナは洗礼名で、本名は馬場ナカ、朔太郎の妹ワカの友人であった。明治二三(一八九〇)年生まれの朔太郎より四つ歳下、朔太郎が十七歳の頃に出逢っている。吉永哲郎論文「さみしい男」の文学史―――朔太郎のエレナ憧憬をめぐって ―――(共愛学園前橋国際大学論集・二〇〇四年三月発行・PDF・分割発表の一篇)によれば、明治四二(一九〇九)年に、『高崎の医師佐藤清と結婚し』、『二子をもうけたが、結核を病み、転地療養を続けるうち』、大正六(一九一七)年五月五日、二十八歳の若さで亡くなっている。『高崎の柳川町のハリスト正教会(現・下小鳥町)の「教会銘度利加(洗礼名が記載されている大判本)」の「第二簡其の二」に』、「洗礼日大正三年五月十七日 洗礼名 エレナ」の『名が記載されていた』とある。

「綠金」「ろくきん」或いは「りよくきん」で、緑色を帯びた金色のこと。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 野鼠

 

  野  鼠

 

どこに私らの幸福があるのだらう

坭土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか。

春は幔幕のかげにゆらゆらとして

遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。

どこに私らの戀人があるのだらう

ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても

もう永遠に空想の娘らは來やしない。

なみだによごれためるとんのづぼんをはいて

私は日傭人(ひやうとり)のやうに步いてゐる

ああもう希望もない 名譽もない 未來もない。

さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが

野鼠のやうに走つて行つた。 

 

[やぶちゃん注:「坭」は「泥」に同じ。ルビ「ひやうとり」はママ(歴史的仮名遣は「ひようとり」でよい)。大正一二(一九二三)年五月発行の『日本詩集』初出。初出や「定本靑猫」には有意な異同は認めない。

「幔幕」「まんまく」昔の軍陣や屋内外での式典会場・遊覧の野天などで、周囲に張り巡らす、遮蔽と装飾を兼ねた横に長い幕。本来は「布を縦に縫い合わせたもの」が「幔」で、「横に縫い合わせたもの」を「幕」と称した。

「俥」「くるま」人力車。

めるとんmelton。布面が密に毛羽(けば)で覆われた、手触りの暖かい紡毛(ぼうもう)織物。柔軟で保温性に富み,やや厚手である。黒無地或いは縞柄や霜降りに染め、オーバー・マント・婦人子供服・制服などの防寒用服地として用いられる。

「づぼん」ズボン。

「日傭人(ひやうとり)」日雇人夫。「日傭取」が正字。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱な風景

 

  憂 鬱 な 風 景

 

猫のやうに憂鬱な景色である

さびしい風船はまつすぐに昇つてゆき

りんねるを着た人物がちらちらと居るではないか。

もうとつくにながい間(あひだ)

だれもこんな波止場を思つてみやしない。

さうして荷揚げ機械のばうぜんとしてゐる海角から

いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた。

そのうへ帆船には綿が積まれて

それが沖の方でむくむくと考へこんでゐるではないか。

なんと言ひやうもない

身の毛もよだち ぞつとするやうな思ひ出ばかりだ。

ああ神よ もうとりかへすすべもない

さうしてこんなむしばんだ囘想から いつも幼な兒のやうに泣いて居やう。

 

[やぶちゃん注:「居やう」はママ。大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』初出。初出や「定本靑猫」には有意な異同は認めない。

りんねるlinen。「リネン」とも呼ぶ。亜麻(あま:キントラノオ目アマ科アマ属アマ Linum usitatissimum)の繊維を原料とする織物。強くて水分の吸収発散が早く、涼感があるため、夏物の衣料などに用いられる。

「海角」「かいかく」で、通常は「海に突き出た陸地の先端部である岬とか鼻を言うが、ここは港の荷揚げ機械が配されてあるのであるから、港湾内に突き出た人口の突堤と読むべきである。

「生物意識」朔太郎は明らかに眼に見えない霊的な何ものかを考えている。そこを経て海陸に運ばれて行ったヒトを含む総ての動植物の、そこでの残留思念や感情を、かく言っているものと私は採る。

 この詩篇の後の左ページ(右ページには「ああ神よ もうとりかへすすべもない」(改行)「さうしてこんなむしばんだ囘想から いつも幼な兒の」(行末)「やうに泣いて居やう」の三行が配されてある)には、以下の「海岸通之圖」が配されてある。これは筑摩版全集解題によれば、「西洋之圖」と同じくサンフランシスコの絵葉書とある。これはこの詩篇の「波止場」のシークエンスと珍しく親和性が見られる配置となっているので、ここに掲げておくこととした。]

 

Kaigandoorinozu

 

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 猫柳

 

  猫  柳

 

つめたく靑ざめた顏のうへに

け高くにほふ優美の月をうかべてゐます

月のはづかしい面影

やさしい言葉であなたの死骸に話しかける。

ああ 露しげく

しつとりとぬれた猫柳 夜風のなかに動いてゐます。

ここをさまよひきたりて

うれしい情(なさけ)のかずかずを歌ひつくす

そは人の知らないさびしい情慾 さうして情慾です。

ながれるごとき淚にぬれ

私はくちびるに血潮をぬる

ああ なにといふ戀しさなるぞ

この靑ざめた死靈にすがりつきてもてあそぶ

夜風にふかれ

猫柳のかげを暗くさまよふよ そは墓場のやさしい歌ごゑです。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『詩聖』初出。初出は四行目の「死骸」が「死臘」(「屍蠟」の誤記か誤植)であるのが大きな異同で、「定本靑猫」は特に有意な異同はない。個人的には「屍蠟」が断然、いい。既出既注であるが、再掲しておくと、「屍蠟」(しろう)は死体が蠟状に変化したもの。死体が長時間、水中又は湿気の多い土中に置かれ、空気との接触が絶たれると、体内の脂肪が蠟化し、長く原形を保つ。そうした遺体現象を指す。

「猫柳」私の好きなキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gracilistyla。花期は三~四月。本種は雌雄異株で、雄株と雌株がそれぞれ雄花と雌花を咲かせ、銀白色の毛状の目立つ花穂を猫の尾に見立てたのが和名の由来である。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) かなしい囚人

 

  かなしい囚人

 

かれらは靑ざめたしやつぽをかぶり

うすぐらい尻尾(しつぽ)の先を曳きずつて步きまはる

そしてみよ そいつの陰鬱なしやべるが泥土(ねばつち)を掘るではないか。

ああ草の根株は掘つくりかへされ

どこもかしこも曇暗な日ざしがかげつてゐる。

なんといふ退屈な人生だらう

ふしぎな葬式のやうに列をつくつて 大きな建物の影へ出這入りする。

この幽靈のやうにさびしい影だ

硝子のぴかぴかするかなしい野外で

どれも靑ざめた紙のしやつぽをかぶり

ぞろぞろと蛇の卵のやうにつながつてくる さびしい囚人の群ではないか。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『日本詩人』初出。初出は有意な異同を認めない。「定本靑猫」では「どこもかしこも曇暗な日ざしがかげつてゐる。」を「どこもかしこも曇暗が日ざしがかげつてゐる」とする。聞き慣れぬ「曇暗」は「どんあん」で、どんよりと曇った翳りの謂いであろうから、後者が正当かとは思う。しかし、別にここにまた、筑摩版全集の異常な消毒校訂本文を見出すのである。そこでは、「ふしぎな葬式のやうに列をつくつて 大きな建物の影へ出這入りする。」の最後の句点を除去しているのである。しかも後の再録でも総て句点はないのに、だ! こんなことが許されていいものか?!

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 寄生蟹のうた

 

  寄生蟹のうた

 

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた

ああここにはもはや友だちもない 戀もない

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。

おぼろにみえる沖の方から

船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。

あやしくもここの磯邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。 

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。初出も「定本靑猫」も有意な異同を認めない。標題に「寄生蟹(やどかり)のうた」とルビして貰いたかった。本詩を見つけた中学生の時、「やった! カクレガニの現代詩があった!」(「カクレガニ」は節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵亜(エビ)目短尾下目カクレガニ科 Pinnotheridae に属するカニ類の中で、海綿動物・腔腸動物・棘皮動物・軟体動物(斧足類(二枚貝類)・腹足類(巻貝類)・腕足類)などの体壁や体腔及び外套腔・排泄腔などに入り込んで寄生するカニ類,科名を略した「ピンノ」の愛称で知られる)と空喜びして、読み終えて後にがっくりと肩を落とした慘めな少年の私を忘れないからだ。言わずもがなだが、「寄生蟹(やどかり)」は十脚目抱卵亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類である。罪創りな! 朔太郎!

「齲ばみ」「むしばみ」。

「楫」「かぢ」。初出では異体字の「檝」を用いている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 綠色の笛

 

  綠色の笛

 

この黃昏の野原のなかを

耳のながい象たちがぞろりぞろりと步いてゐる。

黃色い夕月が風にゆらいで

あちこちに帽子のやうな草つぱがひらひらする。

さびしいですか お孃さん!

ここに小さな笛があつて その音色は澄んだ綠です。

やさしく歌口(うたぐち)をお吹きなさい

とうめいなる空にふるへて

あなたの蜃氣樓をよびよせなさい

思慕のはるかな海の方から

ひとつの幻像がしだいにちかづいてくるやうだ。

それはくびのない猫のやうで 墓場の草影にふらふらする

いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん!

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『詩聖』初出。初出では、「さびしいですか お孃さん!」は「さびしいですか、お孃さん」で、コーダの「いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん!」も「いつそこんな悲しい暮景の中で、私は死んでしまひたいのです、お孃さん」と迫力がない。「定本靑猫」では「幻像」に「いめぢ」とルビすることと、「いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん!」が「いつそこんな悲しい景色の中で 私は死んでしまひたいのよう! お孃さん!」の二箇所(厳密には「暮景」を「景色」としているので三点)、で大きく相違するが、そちらは逆に粉飾にして過剰で厭だ。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 鴉毛の婦人

 

  鴉毛の婦人

 

やさしい鴉毛の婦人よ

わたしの家根裏の部屋にしのんできて

麝香のなまめかしい匂ひをみたす

貴女(あなた)はふしぎな夜鳥

木製の椅子にさびしくとまつて

その嘴(くちばし)は心臟(こころ)をついばみ 瞳孔(ひとみ)はしづかな淚にあふれる

夜鳥よ

このせつない戀情はどこからくるか

あなたの憂鬱なる衣裳をぬいで はや夜露の風に飛びされ。 

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『詩聖』初出。初出や「定本靑猫」に有意な異同を認めない(誤植を除いて)。なお、「鴉毛」であるが、「定本靑猫」後の昭和一四(一九三九)年の詩集「宿命」(創元選書)に再録した際にのみ、朔太郎は「鴉毛」に「からすげ」という訓を振っている。現行、これに従って読まれているようである。これはあの鴉の暗い紫を帯びた黒い頭髪の謂いであろう。私はつい、マスカレードのような、実際のカラスの羽を髪飾りにした女性を想起してしまうのは困ったものだ。

「麝香」ジャコウジカ(哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschusの総称)の雄の下腹部にある鶏卵大の包皮腺(香嚢)から得られる香料。紫褐色の顆粒で芳香が極めて強く、強心剤・気つけ薬など種々の薬料や、香水にも用いられる。詳しくは、私の生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(7) 三 色と香() 肛門腺及び蛾類性フェロモン」の本文及び私の注「麝香鹿」を参照されたい。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) くづれる肉體

 

  くづれる肉體

 

蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で

わたしはくづれてゆく肉體の柱(はしら)をながめた

それは宵闇にさびしくふるへて

影にそよぐ死(しに)びと草(ぐさ)のやうになまぐさく

ぞろぞろと蛆蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。

ああこの影を曳く景色のなかで

わたしの靈魂はむずがゆい恐怖をつかむ

それは港からきた船のやうに 遠く亡靈のゐる島島を渡つてきた

それは風でもない 雨でもない

そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ

さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に

わたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出。初出や「定本靑猫」に有意な異同を認めない。

「死(しに)びと草(ぐさ)」「風にそよぐ」と近似した異名からは、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata が想起はされるが、朔太郎がそれをイメージしたかどうかは判らぬ。ウィキの「ヒガンバナによれば、『彼岸花の名は秋の彼岸頃から開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある』(本種は全草が『有毒で、特に鱗茎にアルカロイド』alkaloid)『を多く含』み、『経口摂取すると』、『吐き気や下痢を起こし、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死に至ることもある』『鱗茎はデンプンに富む』。主な『有毒成分であるリコリン』(lycorine)『は水溶性で、長時間水に曝せば』、『無害化が可能であるため、救飢植物として第二次世界大戦中などの戦時や非常時において食用とされたこともある』。『また、花が終わった秋から春先にかけては葉だけになり、その姿が食用のノビル』(野蒜。ヒガンバナ科ネギ亜科 Allieae 連ネギ属ノビル Allium macrostemon。小さな頃、母と一緒に裏山でよく採って食べた)『やアサツキ』(浅葱。ネギ属エゾネギ変種アサツキ Allium schoenoprasum var. foliosum)『に似ているため、誤食してしまうケースもある』。『鱗茎は石蒜(せきさん)という名の生薬であり、利尿や去痰作用があるが、有毒であるため』、『素人が民間療法として利用するのは危険である』)。『別名の曼珠沙華は、『法華経』などの仏典に由来する。また、「天上の花」という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。ただし、仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである(近縁種ナツズイセン』(夏水仙。ヒガンバナ属ナツズイセン Lycoris squamigera)『の花は白い)。『万葉集』に見える「いちしの花」を彼岸花とする説もある』(巻第十一「路の邊(へ)の壱師(いちし)の花のいちしろく人皆知りぬ我が戀妻を」(二四八〇番))。『また、毒を抜いて非常食とすることもあるので』、「悲願の花」という『解釈もある(ただし、食用は』『危険である)』。『異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあるが、反対に「赤い花」「天上の花」の意味で、めでたい兆しとされることもある。日本での別名・地方名・方言は千以上が知られている』とある。私はヒガンバナが好きである。私の家の斜面には亡き母が育てた白いヒガンバナが時々咲く。嘗て私はブログの曼珠沙華逍遙で、ヒガンバナの異名を蒐集したことがある(但し、「シニビトグサ」はなかった)。お暇なら、ご覧あれ。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 艶めかしい墓場

 

  艶めかしい墓場

 

風は柳を吹いてゐます

どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。

なめくぢは垣根を這ひあがり

みはらしの方から生(なま)あつたかい潮みづがにほつてくる。

どうして貴女(あなた)はここに來たの

やさしい 靑ざめた 草のやうにふしぎな影よ

貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない

さうしてさびしげなる亡靈よ

貴女のさまよふからだの影から

まづしい漁村の裏通りで 魚(さかな)のくさつた臭ひがする

その膓(はらわた)は日にとけてどろどろと生臭く

かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。

 

ああ この春夜のやうになまぬるく

べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ

妹のやうにやさしいひとよ

それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 眞理でもない

さうしてただなんといふ悲しさだらう。

かうして私の生命(いのち)や肉體(からだ)はくさつてゆき

「虛無」のおぼろげな景色のかげで

艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出。初出は有意な異同を認めない。「定本靑猫」は、「どうして貴女(あなた)はここに來たの」が「どうして貴女(あなた)はここに來たの?」、「さうしてさびしげなる亡靈よ」が「さうしてさびしげなる亡靈よ!」でヴィジュアルに印象が強化されては見える以外は、やはり有意な異同を認めない。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(3) 「河童家傳ノ金創藥」(1)

 

《原文》

河童家傳ノ金創藥 サテ此カラガ本論ナリ。今若シ河童ヲ以テ一種ノ獸類トスルナラバ、正シク前ニ揭ゲシ傳ノ一例ト見ルべキ昔話アリ。即チ非常ニ效能ノ大ナル金創藥(キンサウヤク)ヲ河童ヨリ傳授セラレタリト云フ多クノ物語是ナリ。自分十二三歳ノ頃世ニ公ニセラレシ書物ニ、石川鴻齋翁ノ夜窻鬼譚(ヤソウキダン)ト云フ者アリ。自分ノ耳ヲ悅バセシ最初ノ話ハ此文集ノ中ニ在リキ。奇拔ナル插畫アリシ事ヲ記憶ス。【片手】袴ヲ著ケタル立派ナル若衆ガ奧方ノ前ニ低頭シ一本ノ手ヲ頂戴スルノ圖ニシテ、其手ハ恰モ天竺德兵衞ガ蝦蟆(ガマ)ノ手トヨク似タリ。此少年コソハ即チ河童ノ姿ヲ變へタル者ニシテ、奧方ノ爲ニ斬取ラレタル自分ノ片手ヲ返却シテ貰フ處ナリ。タシカ九州ハ柳河(ヤナガハ)ノ城下ニ於テ、河童或強勇ナル奧樣ニ無禮ヲ働キテ手ヲ斫ラル。泣イテ[やぶちゃん注:ママ。]其罪ヲ謝スルガ故ニ、憐愍ヲ以テ其手ヲ返シ與ヘタルニ、禮物ニ川魚ヲ持參セリト云フ話ナリシカト思フ。此同ジ話ノ異傳カトオボシキモノ、少クモ九州ニ二ツアリ。其一ハ博多細記ニ見ユ。筑前黑田家ノ家臣ニ鷹取運松庵ト云フ醫師アリ。妻ハ四代目ノ三宅角助ガ娘、美婦ニシテ膽力アリ。或夜厠ニ入リシニ物蔭ヨリ手ヲ延バシテ惡戲ヲセントスル者アリ。【河童ノ手】次ノ夜短刀ヲ懷ニシテ行キ矢庭ニ其手ヲ捉ヘテ之ヲ切リ放シ、主人ニ仔細ヲ告ゲテ之ヲ燈下ニ檢スルニ、長サハ八寸バカリニシテ指ニ水搔アリ、苔ノ如ク毛生ヒテ粘リアルハ、正シク本草綱目ニアル所ノ水虎(スヰコ[やぶちゃん注:ママ。])ノ手ナリト珍重スルコト大方ナラズ。然ルニ其夜モ深更ニ及ビテ、夫婦ガ寢ネタル窻ニ近ク來リ、打歎キタル聲ニテ頻ニ訴フル者アリ。私不調法ノ段ハ謝リ入ル、何トゾ其手ヲ御返シ下サレト申ス。河童ナドノ分際ヲ以テ武士ノ妻女ニ慮外スルサヘアルニ、手ヲ返セトハ長袖ト侮リタルカ、成ラヌ成ラヌト追返ス。斯クスルコト三夜ニ及ビ、今ハ々ニ泣沈ミテ憫ヲ乞ヒケレバ、汝猶我ヲ騙カサントスルカ、我ハ外治ノ醫家ナルゾ。冷エ切ツタル手足ヲ取戾シテ何ニセント言フゾト罵ル。御疑ハ御尤モナレドモ、人間ノ療治トハ事カハリ、成程手ヲ繼グ法ノ候ナリ。【腕ノ共通】三日ノ内ニ繼ギサヘスレバ、假令前ホドニハ自由ナラズトモ、コトノ外殘リノ腕ノ力ニナリ候。偏ニ御慈悲ト淚ヲコボス。【鯰】此時運松庵モ稍合點シ、然ラバ其藥法ヲ我ニ傳授セヨ、腕ハ返シ與フべシト云ヘバ、河童是非ニ及バズトテ障子越ニ一々藥法ヲ語リテ書キ留メサセ、片手ヲ貰ヒテ罷リ還リ、更ニ夜明ケテ見レバ大ナル鯰ノマダ生キタルヲ、庭前ノ手洗鉢ノ邊ニサシ置キタリシハ、誠ニ律義ナリケル話ナリ。【ヒヤウスへ】次ニ笈埃(キウアイ)隨筆ノ中ニハ、肥前諫早(イサハヤ)在ノ兵揃(ヒヤウスヘ)村天滿宮ノ神官澁江久太夫ノ家ノ歷史トシテ此話ヲ傳ヘタリ。事ノ顚末ハ全ク博多ノ鷹取氏ノト同ジク、唯彼ハ醫師ナルニ反シテ此ハ本草ニモ緣ナキ普通ノ神主ナレドモ、利害の打算ト外交的手腕トニ於テハ甲乙アルコトナク、有利ナル交換條件ヲ以テ安々ト河童手繼ノ祕法聞取リ、永ク之ヲ一子相傳ノ家寶トシテ、近國ノ怪我人ニ河童藥ノ恩惠ヲ施シタリト云へリ。

 【澁江氏】右三書ノ傳フル所、果シテ何レヲ眞トスべキカヲ知ラザルモ、要スルニ澁江氏ハ河童ト淺カラザル緣故アリ。肥後ニモ河童ノ退治ヲ職トスル一箇ノ澁江氏アリキ。今ノ菊池神社ノ澁江公木氏ナド或ハ其沿革ヲ承知セラルヽナランカ。但シ自分ノ知ル限リニ於テハ、肥前ニハ兵輔(ヒヤウスヘ)ト云フ村ノ名無シ。恐クハ亦傳聞ノ誤ナラン。【水神】九州ノ南半ニ於テハ河童ノ別名ヲ水神(スヰジン[やぶちゃん注:ママ。])ト謂ヒ或ハ又「ヒヤウスヘ」ト謂フ〔サヘヅリ草〕。狩野探幽ノ筆ト稱スル百化物(ヒヤクバケモノ)ノ畫卷ノ中ニモ、「ヒヤウスヘ」ト云フ物アリ。太宰府天滿宮ノ末社ノ一ニ、「ヒヤウスべ」ノ宮アリ。此ハ俗ニ謂フ河太郞ノコトナリト稱ス〔南蘭草下〕。【菅公】昔菅公ガ筑紫ノ配處ニテ詠マレタリト云フ歌ニ

  イニシヘノ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

ト云フ一首アリ〔和漢三才圖會四十〕。此歌ハ僅ナル變更ヲ以テ又左ノ如クモ傳ヘラル〔同上八十〕。

  ヒヤウスヘニ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男我モ菅原

之ヲ以テ觀レバ、「ヒヤウスヘ」ハ本來河童ノコトニハ非ズシテ、化物退治ヲ以テ專門トシタル神ナリシカト思ハル。【守札】諫早(イサハヤ)附近ノ澁江氏ガ同ジク天滿宮ノ祠官ナリシコト、及ビ一説ニハ長崎ノ邊ニ住スル澁江文太夫ナル者、能ク水虎ヲ治シ護符ヲ出ス、河ヲ涉ル者之ヲ携ヘ行ケバ害ナシト云ヒ、或ハ若者等海ニ小石ヲ投ジテ戲レトセシヲ怒リ、河童此澁江氏ニ托シテ其ノ憤リヲ述べタリト云フコトヲモ考フレバ〔同上〕、村ノ名ヲ兵揃(ヒヤウスヘ)ト誤リ傳ヘタル仔細ハ必ズシモ想像ニ難カラズ。而シテ右ノ一首ハ、此男ハ菅原氏ノ一族ノ者ナレバ川ニ立チテモ害ヲ加フルコトナカレ、以前「ヒヤウスヘ」神ト結ビタル約束ヲ嚴守セヨト云フツモリニテ、拙(ツタナ)キナガラニヨク要領ヲ得、河童硏究上有力ナル一史料ナリ。

 

《訓読》

河童(かつぱ)家傳の金創藥(きんさうやく) さて、此れからが、本論なり。今、若(も)し、河童を以つて一種の獸類とするならば、正(まさ)しく前に揭げし傳の一例と見るべき昔話あり。即ち、非常に效能の大なる金創藥(きんさうやく)を、河童より傳授せられたりと云ふ多くの物語、是れなり。自分、十二、三歳の頃、世に公にせられし書物に、石川鴻齋(いしかはこうさい)翁の「夜窻鬼譚(やそうきだん)」と云ふ者あり。自分の耳を悅ばせし最初の話は、此の文集の中に在りき。奇拔なる插畫ありし事を記憶す。【片手】袴を著(つ)けたる立派なる若衆が、奧方の前に低頭し、一本の手を頂戴するの圖にして、其の手は恰(あたか)も天竺德兵衞が蝦蟆(がま)の手と、よく似たり。此の少年こそは、即ち、河童の姿を變へたる者にして、奧方の爲に斬り取られたる自分の片手を返却して貰ふ處なり。たしか、九州は柳河(やながは)の城下に於いて、河童、或る強勇なる奧樣に無禮を働きて手を斫(き)らる。泣いて其の罪を謝するが故に、憐愍(れんびん)を以つて其手を返し與へたるに、禮物に川魚を持參せりと云ふ話なりしかと思ふ。此の同じ話の異傳かとおぼしきもの、少くも、九州に二つあり。其の一つは「博多細記」に見ゆ。筑前黑田家の家臣に、鷹取運松庵と云ふ醫師あり。妻は四代目の三宅角助が娘、美婦にして膽力あり。或る夜、厠(かはや)に入りしに、物蔭より手を延ばして、惡戲をせんとする者、あり。【河童の手】次の夜、短刀を懷(ふところ)にして行き、矢庭(やには)に其の手を捉へて、之れを切り放し、主人に仔細を告げて、之れを燈下に檢(けん)するに、長さは八寸ばかりにして、指に水搔(みづかき)あり、苔(こけ)のごとく、毛、生(お)ひて粘りあるは、『正(まさ)しく「本草綱目」にある所の「水虎(すゐこ)」の手なり』と珍重すること、大方ならず。然るに、其の夜も深更に及びて、夫婦が寢ねたる窻(まど)に近く來たり、打ち歎きたる聲にて頻(しき)りに訴ふる者あり。『私、不調法の段は謝り入る、何とぞ、其の手を御返し下され』と申す。『河童などの分際(ぶんざい)を以つて武士の妻女に慮外するさへあるに、「手を返せ」とは長袖(ちやうしう)と侮りたるか、成らぬ、成らぬ』と追ひ返す。斯(か)くすること三夜に及び、今は々(たえだえ)に泣き沈みて憫(あはれみ)を乞ひければ、『汝、猶、我を騙(たぶら)かさんとするか、我は外治(がいち)の醫家なるぞ。冷え切つたる手足を取り戾して何にせんと言ふぞ』と罵(ののし)る。『御疑ひは御尤もなれども、人間の療治とは事かはり、成程、手を繼(つ)ぐ法の候(さふらふ)なり。【腕の共通】三日の内に繼ぎさへすれば、假令(たとひ)前ほどには自由ならずとも、ことの外、殘りの腕の力になり候。偏(ひとへ)に御慈悲』と淚をこぼす。【鯰】此の時、運松庵も稍(やや)合點(がてん)し、『然らば、其の藥法を我れに傳授せよ、腕は返し與ふべし』と云へば、河童、『是非に及ばず』とて障子越しに、一々、藥法を語りて、書き留めさせ、片手を貰ひて罷(まか)り還り、更に、夜明けて見れば、大なる鯰(なまづ)の、まだ生きたるを、庭前の手洗鉢(てうづばち)の邊(あたり)にさし置きたりしは、誠に律義(りちぎ)なりける話なり。【ひやうすへ】次に「笈埃(きうあい)隨筆」の中には、肥前諫早(いさはや)在(ざい)の兵揃(ひやうすへ)村天滿宮の神官澁江久太夫の家の歷史として此の話を傳へたり。事の顚末は全く博多の鷹取氏のと同じく、唯、彼は醫師なるに、反して、此れは本草にも緣なき普通の神主なれども、利害の打算と外交的手腕とに於ては甲乙あることなく、有利なる交換條件を以つて安々(やすやす)と河童手繼(てつぎ)の祕法、聞き取り、永く、之れを一子相傳の家寶として、近國の怪我人に河童藥の恩惠を施したりと云へり。

 【澁江氏】右三書の傳ふる所、果して何れを眞とすべきかを知らざるも、要するに、澁江氏は河童と淺からざる緣故あり。肥後にも河童の退治を職とする一箇の澁江氏、ありき。今の菊池神社の澁江公木(しぶえきみき)氏など、或いは其の沿革を承知せらるゝならんか。但し、自分の知る限りに於いては、肥前には「兵輔(ひやうすへ)」と云ふ村の名、無し。恐くは亦、傳聞の誤りならん。【水神】九州の南半(みなみはん)に於いては河童の別名を「水神(すゐじん)」と謂ひ、或いは又、「ひやうすへ」と謂ふ〔「さへづり草」〕。狩野探幽の筆と稱する「百化物(ひやくばけもの)」の畫卷(ゑまき)の中にも、「ひやうすへ」と云ふ物、あり。太宰府天滿宮の末社の一(ひとつ)に、『「ひやうすべ」の宮』あり。此れは『俗に謂ふ、「河太郞(かはたらう)」のことなり』と稱す〔南蘭草下〕。【菅公(かんこう)】昔、菅公が筑紫(つくし)の配處にて詠まれたりと云ふ歌に

  いにしへの約束せしを忘るなよ川立(かはだ)ち男氏(うぢ)は菅原

と云ふ一首あり〔「和漢三才圖會」四十〕。此の歌は僅かなる變更を以つて、又、左のごとくも傳へらる〔同上八十〕。

  ひやうすへに約束せしを忘るなよ川立ち男我も菅原

之れを以つて觀(み)れば、「ひやうすへ」は、本來、「河童」のことには非ずして、化物退治を以つて專門としたる神なりしか、と思はる。【守札】諫早(いさはや)附近の澁江氏が、同じく天滿宮の祠官なりしこと、及び、一説には、長崎の邊(あたり)に住する澁江文太夫なる者、能く水虎を治(じ)し[やぶちゃん注:統治し。]、護符を出だす、河を涉(わた)る者、之れを携へ行けば、害なし、と云ひ、或いは若者等(ら)、海に小石を投じて戲(たはむ)れとせしを、怒り、河童、此の澁江氏に托して、其の憤りを述べたりと云ふことをも考ふれば〔同上〕、村の名を兵揃(ひやうすへ)と誤り傳へたる仔細は必ずしも想像に難からず。而して右の一首は、『此の男は菅原氏の一族の者なれば、川に立ちても害を加ふることなかれ、以前「ひやうすへ」神と結びたる約束を嚴守せよ』と云ふつもりにて、拙(つたな)きながらに、よく要領を得(え)、河童硏究上、有力なる一史料なり。

[やぶちゃん注:やっと迂遠な枕が終わって河童が登場する。柳田先生、温泉からここまで、こんな枕が必要でしょうかねぇ?

「石川鴻齋」(天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年)は三河(愛知県)豊橋の商家に生まれた幕末から近代の儒者・漢学者。西岡翠園に師事し、詩文の他、文人画にも優れた。明治一〇(一八七七)年、四十四で東京に転居し、同じ三河出身の和泉屋市兵衛が経営していた書店に勤め、編集に携わった。また、芝増上寺の浄土宗学校の開校に際しては漢学の教師に就任。同年、清国の全権公使何如璋(かじょしょう)を始めとする副使・随員らが宿所として増上寺に滞在した際には筆談を以って会談に加わった。翌明治十一年に詩文集「芝山一笑」を刊行、漢学者としての名声が高まり、この時期に注釈本など数多くの著作を手がけた。小野湖山・前田黙鳳・依田学海・富岡鉄斎などとも親交があった。

「夜窻鬼譚(やそうきだん)」「夜窗鬼談」が正しい(窻」「窗」は孰れも「窓」の異体字)。上巻は明治二二(一八八九)年、下巻は明治二七(一八九四)年に東京の東陽堂から出版された、完全に漢文で書かれた非常に優れた怪異小説集。私の偏愛する怪談集であり、何時かはオリジナルに訓読を試みたいと思っている名著である。上巻四十四篇、下巻四十二篇、都合、計八十六篇から成る。小泉八雲の「果心居士の話」(The story of Kogi the Priest)(「日本雑記」(A Japanese Miscellany)・明治三四(一九〇一)年)・「お貞の話」(The Story of O-Tei)及び「鏡と鐘」(Of A Mirror And A Bell)(「怪談」(Kwaidan)・明治三十七年)の三篇は、本書の「果心居士」・「怨魂借體」・「祈得金」から素材や着想を得ている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇(下巻はこちら)が読める。柳田國男が言っているのは上巻の「河童」で、ここから。右手にはその挿絵も見られる

「天竺德兵衞」(てんじくとくべえ 慶長一七(一六一二)年~?)は江戸前期に実在した商人で探検家。ウィキの「天竺徳兵衛」によれば、『播磨国加古郡高砂町(現在の兵庫県高砂市)に生まれる。父親は塩商人だったという』。寛永三(一六二六)年、十五歳の時、『京都の角倉』(すみのくら)『家の朱印船貿易に関わり、ベトナム、シャム(現在のタイ)などに渡航。さらに』ヤン・ヨーステンヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van LodensteynLodensteijn) 一五五六年?~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。日本名は「耶楊子(やようす)」。『教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」』。『オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス』(William Adams 一五六四~元和六(一六二〇)年:江戸初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士で貿易家。三浦按針(みうらあんじん)の日本名で知られる)『とともに』慶長五(一六〇〇)年四月に『豊後に漂着』した。『徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来する。「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる』。『やがて東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが』、『帰国交渉がはかどらず、結局』、『あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)『とともに天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至ったという。ここから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった』。『帰国後、江戸幕府が鎖国政策をしいた後』、自身の見聞録「天竺渡海物語」(「天竺聞書」とも)を『作成し、長崎奉行に提出した。鎖国時に海外の情報は物珍しかったため世人の関心を引いたが、内容には信憑性を欠くものが多いとされる』。『高砂市高砂町横町の善立寺に墓所が残っている』。『死去した後に徳兵衛は伝説化し、江戸時代中期以降の近松半二の浄瑠璃』「天竺徳兵衛郷鏡(てんじくとくべえさとのすがたみ)」(宝暦一三(一七六三)年四月竹本座初演。尾崎光弘氏のコラム「本ときどき小さな旅」のこちらにシノプシスがある)や、四代目鶴屋南北の歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」(文化元(一八〇四)年江戸河原崎座夏芝居初演。先の「天竺徳兵衛郷鏡」を下敷きにした作で、天竺帰りの船頭徳兵衛が自分の素姓を吉岡宗観(そうかん)、実は大明(だいみん)の臣木曽官の子と知り、父の遺志を継いで日本転覆の野望を抱き、蝦蟇(がま)の妖術を使って神出鬼没、将軍の命をねらうが、巳の年月揃った人の生き血の効験によって術を破られるというストーリー)で『主人公となり、妖術使いなどの役回しで人気を博した』とある。「蝦蟆(がま)の手」というのは、その歌舞伎化されたものの妖術シーンに基づく。

「たしか、九州は柳河(やながは)の城下に於いて」先のリンクの冒頭は、「筑後柳川邊。古多河童」(筑後柳川邊り、古へ、河童多し)と始まる。

「斫(き)らる」「斬」に同じい。

「憐愍(れんびん)」憐れみ、情けをかけること。同情。

「博多細記」【2019年1月21日改稿】。当初、単に「不詳」とのみ注していたが、いつも情報を下さるT氏が、この正式書名は江戸末期(寛延四・宝暦元(一七五一)年から宝暦一四・明和元(一七六四)年頃に成立か)の地誌的随筆「博多細傳實錄」であることをお教え戴き、国文学資料館公式サイト内画像もお教え下さり(なお、この写本、表紙は「實録」(表記ママ)扉画像は「實錄」ではなく「記」とある)、当該部分全部のスクリーン・ショットも添えて下さった。私は未だADSLで、ここの画像は表示に十五秒近くの時間がかかるので、歓喜、以下にそのまま示させて戴くこととした(画像は上記の巻十四 のコマ236から241)。筆録でやや読み難いが、それでも大筋を読み取ることはそう難しくはない。将来的には電子化したいと考えているが、今は取り敢えず、画像のみの提示とする。なお、T氏曰く、『この話は長』く、『この「博多細伝実録」を書いた人は、昔の物書きにしては長く書く癖があ』り、『盛るのがお好きなように感じました』と謂い添えておられる。確かに、長い。

P236

 

P237

 

P238

 

P239

 

 

P240

 


P241

 

「鷹取運松庵」「九州の東方を往く」(第一巻・二〇一七年五月発行・PDFサンプル)の「特集1 カッパ王国九州」の地図に福岡県福岡市中央区に「鷹取運松庵屋敷跡」というのが示されてある。

「三宅角助」本山一城氏のサイト「黒田武士の館」内の「黒田騒動講談本の登場人物の実名と変名の比較」というページに、本名は三宅角左衛門、変名が三宅角助で、『加藤清正旧臣の子』とある。

『「本草綱目」にある所の「水虎(すゐこ)」』李時珍の「本草綱目」の、あろうことか、「蟲之四 濕生類」の「溪鬼蟲」の「附錄」に、

   *

附錄水虎。時珍曰、「襄沔記」云、中廬縣有涑水、注沔。中有物如三四歳小兒、甲如鱗鯉、射不能入。秋曝沙上。膝頭似虎掌爪。常没水出膝示人。小兒弄之便咬人。人生得者、摘其鼻、可小小使之、名曰水虎。

   *

と出る。寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類(かいるい)」で「水虎」を掲げて、この本文を引き、

   *Suiko

 

すいこ

水虎
       【本草蟲部附
        錄出水虎蓋
        此非蟲類今
シユイ フウ  改出于恠類】

本綱水虎襄沔記注云中廬縣有涑水注沔中有物如三

四歳小兒甲如鯪鯉射不能入秋曝沙上膝頭似虎掌爪

常没水出膝示人小兒弄之便咬人人生得者摘其鼻可

小使之

按水虎形狀本朝川太郎之類而有異同而未聞如此

 物有乎否

すいこ

水虎
       【「本草」蟲の部の附錄に
        水虎」を出だす。蓋し
        此れ、蟲類に非ず。今、
シユイ フウ  改めて恠類に出だす。】

「本綱」に、『水虎は「襄沔記」〔(じやうべんき)〕注に云はく、中廬(ちうろ)縣に涑水(そくすい)有りて、沔中〔(べんちう)〕に注(そゝ)ぐ。物有り、三~四歳の小兒のごとく、甲(かう)は鯪鯉〔(りやうり)〕のごとく、射(ゆみい)ても入ること能はず。秋、沙上に曝す。膝の頭、虎〔の〕掌・爪に似たり。常に水を〔に〕没し、膝を出だして、人を〔に〕示す。小兒、之を弄〔(もてあそ)〕べば、便〔(すなは)〕ち、人を咬(か)む。人、生(いき)ながら得ば、其の鼻を摘(つま)んで、之れを小使〔(こづかひ)〕にすべし。

按ずるに、水虎の形狀、本朝「川太郎」の類〔(たぐひ)〕にして、異同有り。而〔れども〕未だ聞かず、此くのごとき物、有るや否や。

   *

と述べている。私は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」を遠い昔に総て電子化注しているが、古い仕儀なので、漢字の正字化を徹底して読みも増やし、図も添えた。私の詳細注も附してあるのでそちらも見られたい。しかし、水搔きがあるなんてどこにもかいてありませんぜ!

「長袖(ちやうしう)」袖括(そでくく)りして鎧を装着する武士に対し、長袖の衣服を着ているところから、公卿・僧・神官・学者・医師(江戸時代の医者は圧倒的に僧形(そうぎょう)の者が多かった)などを指した蔑称。

「外治(がいち)の醫家」「外科医」に同じい。

「成程」ここは「確かに」「実際、本当に」の意。

「繼(つ)ぐ」「接ぐ」。

「殘りの腕の力になり候」残っている方の腕に、ある程度まで、力添えが出来るようなレベルにまでは回復致すので御座います。但し、後に示した「和漢三才図会」の「川太郎」の叙述を見ると、所謂、「通臂」で左右の腕の骨が左右どちらにもそのまま移動して用を足せる意が記されているのは、非常に興味深い。

「是非に及ばず」仕方がない。

「ひやうすへ」現代仮名遣表記では「ひょうすえ」地域によっては「ひょうすべ」とも呼ばれており、現行では九州を中心に伝承される河童に類似した人型妖怪の名である。ウィキの「ひょうすべ」によれば、『ひょうすべは、日本の妖怪の一種。佐賀県や宮崎県をはじめとする九州地方に伝承されている』。『河童の仲間と言われ、佐賀県では河童やガワッパ、長崎県ではガアタロの別名ともされるが』、『河童よりも古くから伝わっているとも言われる』。『元の起源は古代中国の水神、武神である兵主神であり、日本へは秦氏ら帰化人と共に伝わったとされる』。『元々武神ではあるが日本では食料の神として信仰され、現在でも滋賀県野洲市、兵庫県丹波市黒井などの土地で兵主』(ひょうず:八千矛神(やちほこのかみ))『神社に祀られている』。『名称の由来は後述の「兵部大輔」のほかにも諸説あり、彼岸の時期に渓流沿いを行き来しながら「ヒョウヒョウ」と鳴いたことから名がついたとも言われる』。『佐賀県武雄市では』、嘉禎三(一二三七)年に武将橘公業(たちばなのきみなり)が『伊予国(現・愛媛県)からこの地に移り、潮見神社の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』。『また、かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』。『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』。『別名には』他に、『ひょうすぼ、ヒョウスンボ、ひょうすんべなどがある』。『河童の好物がキュウリといわれることに対し、ひょうすべの好物はナスといわれ、初なりのナスを槍に刺して畑に立て、ひょうすべに供える風習がある』。『人間に病気を流行させるものとの説もあり、ひょうすべの姿を見た者は原因不明の熱病に侵され、その熱病は周囲の者にまで伝染するという』。『ナス畑を荒らすひょうすべを目撃した女性が、全身が紫色になる病気となって死んでしまったという話もある』。『また、ひょうすべはたいへん毛深いことが外観上の特徴とされるが、ひょうすべが民家に忍び込んで風呂に入ったところ、浸かった後の湯船には大量の体毛が浮かんでおり、その湯に触れた馬が死んでしまったという』。『似た話では、ある薬湯屋で毎晩のようにひょうすべが湯を浴びに来ており、ひょうすべの浸かった後の湯には一面に毛が浮いて臭くなってしまうため、わざと湯を抜いておいたところ、薬湯屋で飼っていた馬を殺されてしまったという話もある』。『鳥山石燕らによる江戸時代の妖怪画では、伝承の通り毛深い姿で、頭は禿頭で、一見すると人を食ったようなユーモラスな表情やポーズで描かれている』。『これは東南アジアに生息するテナガザルがモデルになっているともいわれる』とある。以下に、同ウィキのパブリック・ドメインの「ひょうすべ」の画像を掲げておく。

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佐脇嵩之(さわきすうし 宝永四(一七〇七)年~明和九(一七七二)年):英一蝶晩年の弟子)の「百怪図巻」(元文二(一七三七)年作)に描かれた「へうすへ」の図

 

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鳥山石燕(とりやませきえん 正徳二(一七一二)年或い同四年~天明八(一七八八)年)の「画図百鬼夜行」(安永五(一七七六)年板行)より「ひやうすべ」の図

「笈埃(きうあい)隨筆」江戸中期の旅行家で俳人でもあった百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年)紀行随筆。私は既に『柴田宵曲 妖異博物館 「河童の執念」』の注で同書の当該の「水虎」の部分(結構な分量がある)を電子化しているので参照されたい

「澁江久太夫」竹村匡弥(まさや)氏の論文『「河童が相撲を取りたがる」という伝承に関する研究――野見宿禰と河童の別称である「ひょうずべ」の関係を中心として――(『スポーツ史研究』第二十一号(平成 二〇(二〇〇八)年発行)PDF)という非常に優れた論考の、「3-1 河童を自在に統御する渋江家」で、「北肥戰誌」(馬瀬俊継編・享保五(一七二〇)年成立。肥前を中心とした戦記物)『には、「渋江家由来の事」として、以下の記述がみられる』として(以下、恣意的に漢字を正字化した)、

   *

抑々彼の鹽見城主澁江家の先祖を如何にと尋ねるに、人王三十一代敏達天皇には五代の孫、左大臣橘諸兄の末葉なり。此の諸兄才智の譽世に高く、聖武天皇の御宇既に政道の補佐たりしより後、其孫從四位下兵部大輔島田丸猶朝廷に仕え奉る。然るに神護景雲[やぶちゃん注:七六七年~七七〇年。]の頃、春日の社常陸國鹿島より今の三笠山へ移らせ給う[やぶちゃん注:ママ。]の時、此島田丸匠工の奉行を勤めけるに、内匠頭何某九十九の人形を造りて匠道の祕密を以て加持したる程に、忽ち彼の人形に火便り風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到りて神力を播し[やぶちゃん注:「はし」。行き渡らせ。]、精力を勵し被召仕[やぶちゃん注:「めしつかふまつられ」。]ける間、思の外大營の功早速成就成りけり。斯て御社の造營成就の後、彼の人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前如前[やぶちゃん注:衍字か。「なほまへのごとく」と訓じておく。]、人馬六畜を侵して甚世の禍となりけり。今の河童是也。此事稱德天皇遙に叡聞ましまし、其時の奉行人なれば兵部大夫島田丸急ぎ彼の化人[やぶちゃん注:「けにん」。]の禍を鎭め可申旨詔を被下けり。斯て兵部大夫勅命を蒙り、則其趣を河中水邊に觸れ𢌞りしかば、其後は河伯の禍なかりけり。從是[やぶちゃん注:「これより」。]して彼の河伯を兵主部[やぶちゃん注:「ひやうすべ」]と名く。主は兵部という心成べし。夫れより兵主部を橘氏の眷屬とは申す也。

   *

とあって、非常に判り易く、また、腑に落ちる伝承であることが判る。

「菊池神社の澁江公木(きみき)氏」天保四(一八三三)年~大正三(一九一四)年)幕末から明治期の肥後出身の神職。神職で国学者であった渋江松石の孫。木下犀潭(さいたん)に学び、肥後熊本藩の重臣小笠原氏の子弟の教育に当たった。維新後、現在の熊本県菊池市隈府(わいふ)にある菊池神社(ここ(グーグル・マップ・データ)。南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏三代を祀る)の宮司となり、私塾遜志堂を開いた。公木(きみき)は本名

『狩野探幽の筆と稱する「百化物(ひやくばけもの)」の畫卷(ゑまき)』引用元の「南蘭草(ならんそう)」は幡国鳥取藩支藩若桜藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)が「松平冠山」名で書いた考証随筆で、そこには「狩野探幽が書ける百怪物といふ軸を見つるに、ひやうすべといふもの有」とあるらしい(ツイッター情報)。しかし、現物は聴いたことも見たこともない。識者の御教授を乞う。

「太宰府天滿宮の末社の一(ひとつ)に、『「ひやうすべ」の宮』あり」同じくツイッター情報で同じ「南蘭草」の上記引用の直後に「此を荻野梅塢に問ひしに、太宰府天滿宮の末社に『ひやうすべの宮』あり。これは俗にいふ河太郎を祭れるなり」とあるらしい。但し、当該末社を調べて見たが、見当たらない。識者の御教授を乞う。

「昔、菅公が筑紫(つくし)の配處にて詠まれたりと云ふ歌に……私は既に「諸國里人談卷之二 河童歌」の注で、本「山島民譚集」のこの前後を引いて考証しているので参照されたい

 

『「和漢三才圖會」四十〕』先に示した私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「水虎」の次で電子化注してあるが、古い仕儀なので、漢字の正字化を徹底して、読みも増やし、図も添えた。私の詳細注も附してあるのでそちらも見られたい

   *

かはたらう  一名川童

      【深山有山童同
       類異物也
       性好食人舌忌
       見鐵物也】
川太郞

 

按川太郞西國九州溪澗池川多有之狀如十歳許小

 兒裸形能立行爲人言髮毛短少頭巓凹可盛一匊水

 每棲水中夕陽多出於河邊竊瓜茄圃穀性好相撲見

 人則招請比之有健夫對之先俯仰搖頭乃川太郎亦

 覆仰數囘不知頭水流盡力竭仆矣如其頭有水則力

 倍於勇士且其手肱能通左右滑利故不能如之何

 也動則牛馬引入水灣自尻吮盡血也渉河人最可愼

   いにしへの約束せしを忘るなよ川たち男氏は菅原

 相傳菅公在筑紫時有所以詠之於今渡河人吟之則無

 川太郎之災云云偶雖有捕之者恐後崇〔祟〕放之

かはたらう  一名「川童(かはらう)」

      【深山に「山童〔(やまわろ)〕」
       有り。同類〔にして〕異なり。
       性〔(しやう)〕、好みて人の舌
       を食ふ。鐵物〔(かなもの)〕を
       見るを忌むなり。】
川太郞

按ずるに、川太郞は西國九州溪澗池川に多く之れ有り。狀(かた)ち、十歳許りの小兒のごとく、裸-形(はだか)にて、能く立行〔(りつかう)〕して人言〔(じんげん)〕を爲(な)す。髮毛短く、少頭の巓〔(てん)〕、凹〔(へこ)み〕、一匊水〔(いちきくすい)〕を盛る。每〔(つね)〕に水中に棲(す)みて、夕陽に多く河邊に出でて、瓜・茄〔(なすび)〕・圃-穀(はたけもの)を竊〔(ぬす)〕む。性〔(しやう)〕、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて之れを比〔(くら)〕べんことを請ふ。健夫有りて之れに對するに、先づ、俯仰〔(ふぎやう)〕して頭を搖〔(ゆら)〕せば、乃〔(すなは)〕ち、川太郎も亦、覆仰(うつふきあをむ)くこと數囘にして、頭の水、流れ盡〔(つき)〕ることを知らず、力竭〔(つ)き〕て仆〔(たを)〕る。如〔(も)〕し其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り(ぬけ)て、滑-利(なめら)かなり。故に之れを如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣〔(すいわん)〕に引〔き〕入れて、尻より血を吮(す)ひ盡くすなり。渉-河(さはわたり)する人、最も愼むべし。

   いにしへの約束せしを忘るなよ

      川だち男氏(うぢ)は菅原

相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以(ゆゑん)有りて之れを詠せらる。今に於いて、河を渡る人、之れを吟ずれば、則ち、川太郎の災〔(わざはひ)〕無しと』云云と。偶々〔(たまたま)〕、之れを捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて、之れを放つ。

   *

「此の歌は僅かなる變更を以つて、又、左のごとくも傳へらる〔同上八十〕」「ひやうすへに約束せしを忘るなよ川立ち男我も菅原」これは「和漢三才図会」の地誌パートの中の「大日本国」パートの、巻八十にある「肥前」の部の「菅原第明神」の箇所で、以下に電子化するが、柳田の記載は、これより前の部分から総てが、良安のこの記載に拠っていることが判る。但し、一首の表記は柳田の引用とは違いがある

   *

菅原大明神  在兵揃村 【自諫早十里南】

  祭神 菅丞相

   ひやうすへに川たちせしを忘るなよ川立ち男我も菅原

 此邊多有水獸而捕人渉河人書件唄於竹葉投川則

 水虎不爲害

――――――――――――――――――――――

又長崎之邊有稱澁江文太夫者能治水虎而嘗出符渉

 河人携其符則不害矣或時有壯士等戲飛礫於海中

 若干也於是水虎來于澁江家告曰從長崎管令黒田

 家西泊營向我栖投礫若累日不止則爲對彼家災害

 也因澁江訴上件趣人咸以爲奇

菅原大明神  兵揃(ひやうすべ)村に在り。【諫早より、十里、南。】

  祭神 菅丞相

   ひやうすべに川たちせしを忘るなよ川立ち男我も菅原

此の邊りに、多く、水獸(かはたろう[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。])有りて、人を捕る。渉河(かちわたり)の人、件〔(くだん)〕の唄を竹の葉に書きて、川に投ずれば、則ち、水虎(かはたろう)、害を爲さずといふ。

――――――――――――――――――――――

又、長崎の邊りに、澁江文太夫と稱する者、有り。能く水虎を治〔(をさ)〕む。嘗て、符を出だす。河を渉る人、其の符を携(たづさ)へれば、則ち、害、あらず。或る時、壯士等有り、戲れに礫〔(つぶて)〕を海中に飛ばす〔こと〕若干(そこそこ)たり。是に於いて、水虎、澁江が家に來りて、告げて曰はく、「長崎管令黒田家の西泊の營〔(えい)〕[やぶちゃん注:陣屋。]より、我が栖〔(すみか)〕に向けて礫を投げり。若〔(も)〕し、累日〔(るいじつ)〕[やぶちゃん注:「何時まで経っても」の意。]止まずんば、則ち、爲めに、彼〔(か)〕の家に對して災害(わざはひ)せん」〔と〕なり。因りて、澁江、上件〔(じやうけん)〕の趣きを訴ふ。人、咸(みな)[やぶちゃん注:皆。]、以つて奇と爲す。

   *

さて、柳田は前で「自分の知る限りに於いては、肥前には「兵輔(ひやうすへ)」と云ふ村の名、無し。恐くは亦、傳聞の誤りならん」と言っているのであるが、ここにははっきりと「兵揃(ひやうすべ)村に在り」とし、しかも「諫早より、十里、南」とまで記している。これは如何にも不審である。そこで調べてみたところ、個人ブログ「仮称リアス式「肥前諌早の兵揃村」で、長崎県長崎市多以良町に「兵頭」(読み不明だが、「ひょうず」と読みたくなること請け合い)という地名があり、ここは現在の長崎市内で『俗に東長崎と呼ばれている』が、この『地域は昔は諌早領だった』と記されてある。諫早市街からは、西で二十五キロメートルほどしか離れてはいないけれど、これは気になる。そこに示された「電子国土ポータル」には確かに「兵頭」の地名を確認出来、しかも近くのごくごく川沿いにぽつんと神社があるではないか。いよいよ気になるが、この神社、よく判らぬ。まんず、私の力ではここまでだ。]

2019/01/12

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(2) 「非類靈藥ヲ知ル」

 

《原文》

非類靈藥ヲ知ル  鹿狐ノ徒ガ山中ニ於テ手療治ヲ試ミ居タリト云フ口碑ハ、モト靈泉ノ奇特ガ天然ニ具備スル者ニシテ、自ラ無知ノ鳥獸ヲ感應セシムルニ足リ、世ノ常ノ醫藥ノ如ク人間ノ智巧ヲ以テ作リ上ゲタル者ニ非ザルコトヲ意味シ、素朴單純ナル前代ノ人ヲシテ容易ニ其ノ有難味ヲ悟ラシムルコトヲ得。始メテ此ノ噂ヲ立テタル人若シ有リトスレバ物ノ分ツタ人ナリ。イヅレ御寺ノ和尚カ何カニテ、カノ行基菩薩弘法大師性空上人ナドヲ日本國ノ隅々マデモ引張リマハシ、終ニ之ヲ世界ニ稀ナル大旅行家トシタル人々ノ所業ナルカモ知レズ。但シ人間ガ非類ノ物ヨリ生活方法ノ一部ヲ模倣シタリト云フ話ハ外ニモアリ。獨リ鷺之湯鹿之湯等ノ由來記ニ限リシコトニハ非ズ、昔ノ日本人ニハ耳馴レタル物語ナリシナリ。【淺瀨】例ヘバ下總ノ鴻ノ臺ハ、曾テ小田原北條ノ軍勢攻メ寄セシ時、搦手ノ備薄キ處ヲ突カント欲シテ川ノ瀨ヲ知ルニ苦シム。時ニ中流ニ鴻ノ立ツヲ見テ漸ク渡ルコトヲ待タルガ故ニ此ノ地名ハ起リシニテ、之ヲ國府臺トスルハ誤リナリト云リアリ〔十方庵道産雜記初篇上〕。【薤】鷺ニ就テモ古クヨリ一ノ話ヲ傳フ。丹波國ニ住ム者靑鷺ヲ射ル。後ニ家ノ薤(ニラ)畠ヲ來テ荒ス者アリ。暗中ニコレヲ射止ムレバ前ニ遁ゲタル鷺ナリ。薤ノ葉其ノ傷ノ矢ノ板ニ卷キ附キテアリ。矢創ヲ癒ヤサンガ爲ニ薤ヲ摘ミシヲ知リ、之ヲ憫ミテ佛門ニ入ル云々〔三國傳記〕。薤ノ金創(キンサウ)ニ效アルコトハ兎ニ角動物ヨリ教ヘラレタリト見ユ。【雀】下野雀宮(スヾメノミヤ)ノ由來ニ、曾テ針ヲ包ミタル饅頭ヲ人ニ欺カレテ丸吞ニシ大イニ苦シミ居タル男、庭前ノ雀ガ草ヲ口ニシテ弱リタル友雀(トモスヾメ)ニ食ハスヲ見ル。ヤガテ其ノ雀尻ヨリ光レル物ヲ出シ元氣快復ス。光ル物ハ針ニシテ草ハ即チ薤ナリ。男モ之ニ習ヒテ薤ヲ食ヒテ針ヲ出シ雀ノ恩ヲ謝シテ神ニ祀ルトアリ〔東國旅行談〕。【無名異】佐渡ノ島ニハ無名異(ムミヤウイ)ト云フ一種ノ鑛物ヲ出ス。今日ハ茶碗ヤ盃ヲ燒ク原料ナレド、本來ハ血止ノ妙藥ナリ。【雉】始メテ其ノ效能ヲ知リタルハ、或時網ノ爲ニ足ヲ損ジタル一羽ノ雉、小石ヲ以テ傷所ヲ摩擦シ程無ク飛去ルヲ見テ、其ノ石ノ外科ノ治療ニ用立ツヲ知リ得タルナリト云フ。此ノ話ハ支那ノ書ニモ之ヲ揭ゲタレド〔本草綱目〕、【佐渡島】佐渡ニテハ此ヲ彼島ノ出來事ナリト傳フ。此ノ島ニハ黃金ヲ産スル故ニ金ノ隣ノ土マデモ何ト無ク價値ヲ認メラルルニ至リシナラン。雉ハ桃太郞以來ヨク色々ノ援助ヲ與ヘタリ。或人獵ニ出デ如何ニ狙ヒテモ鐵砲ノ中ラヌ雉ヲ見ル。不思議ニ思ヒテ網ヲ以テ之ヲ生捕リ、翼ノ下ヲ檢スレバ小サキ紙アリ。1抬2(シヤクコウシヤクカク)ノ四字ヲ書ス[やぶちゃん注:「1」=「扌」+{(つくり)(上)「合」+(下)「辛」}。「2」-「扌」+{(つくり)(上)「巳」+(下)「力」}]。即チ仙人道士ノ祕傳タル護身ノ符字(フジ)ナリ〔難波江六〕。鐵砲ノ玉ヲ除ケテ網ノ厄ヲ免レシムルコト能ハザリシ矛盾ハ、自分ノ明シ得ザル點ナレド、兎ニ角ニ是ガ百年前ノ稀有ノ出來事ニハ非ズシテ、現ニ日露戰爭ノ際ニモ、右ノ雉ノ守札ヲ身ニ帶ビテ出陣セシ勇士多カリシコトハ事實ナリ。

《訓読》

非類靈藥を知る  鹿・狐の徒(と)[やぶちゃん注:輩(やから)。]が、山中に於いて手療治(てりやうじ)[やぶちゃん注:(医者にかからずに)自分で治療すること。]を試み居たりと云ふ口碑は、もと、靈泉の奇特(きどく)が天然に具備する者にして、自(みづか)ら無知の鳥獸を感應せしむるに足(た)り、世の常の醫藥のごとく、人間の智巧(ちかう)[やぶちゃん注:物事を成す才知に優れていること。]を以つて作り上げたる者に非ざることを意味し、素朴單純なる前代の人をして容易に其の有難味を悟らしむることを得。始めて此の噂を立てたる人、若(も)し有りとすれば、物の分つた人なり。いづれ、御寺の和尚か何かにて、かの行基菩薩・弘法大師・性空(しやうくう)上人なども、日本國の隅々までも、引つ張りまはし、終(るゐ)に之れを世界に稀れなる大旅行家としたる人々の所業なるかも知れず。但し、人間が非類[やぶちゃん注:人間以外の禽獣などを指す。]の物より、生活方法の一部を模倣したり、と云ふ話は外にもあり。獨り、「鷺の湯」・「鹿の湯」等の由來記に限りしことには非ず、昔の日本人には耳馴れたる物語なりしなり。【淺瀨】例へば下總の「鴻の臺(こうのだい)」は、曾つて、小田原北條の軍勢、攻め寄せし時、搦手(からめて)の備(そなへ)薄き處を突かんと欲して、川の瀨を知るに、苦しむ。時に中流に鴻(こう)の立つを見て、漸(やうや)く渡ることを待たるが故に、此の地名は起りしにて、之れを「國府臺(こふのだい)」とするは誤リナリト云ふアリ〔「十方庵道産雜記」初篇上〕。【薤(にら)】鷺に就きても古くより一(ひとつ)の話を傳ふ。丹波國に住む者、靑鷺を射る。後に、家の薤(にら)畠を、來て荒す者、あり。暗中にこれを射止むれば前に遁げたる鷺なり。薤の葉、其の傷の矢の板に卷き附きて、あり。矢創(やきず)を癒やさんが爲に薤を摘みしを知り、之れを憫(あはれ)みて、佛門に入る云々〔「三國傳記」〕。薤の金創(きんさう)に效あることは兎に角、動物より教へられたりと見ゆ。【雀】下野(しもつけ)雀宮(すゞめのみや)の由來に、曾つて針を包みたる饅頭(まんじう)を人に欺(あざむ)かれて丸吞(まるのみ)にし、大いに苦しみ居たる男、庭前の雀が、草を口にして、弱りたる友雀(ともすゞめ)に食はすを見る。やがて、其の雀、尻より光れる物を出(いだ)し、元氣、快復す。光る物は針にして、草は、卽ち、薤なり。男も之れに習ひて、薤を食ひて、針を出(いだ)し、雀の恩を謝して神に祀る、とあり〔「東國旅行談」〕。【無名異】佐渡の島には「無名異(むみやうい)」と云ふ一種の鑛物を出(いだ)す。今日は茶碗や盃を燒く原料なれど、本來は血止(ちどめ)の妙藥なり。【雉】始めて其の效能を知りたるは、或る時、網の爲に足を損じたる一羽の雉、小石を以つて傷所(きずどころ)を摩擦し、程無く飛び去るを見て、其の石の外科の治療の用立(ようだ)つを知り得たるなりと云ふ。此の話は支那の書にも之れを揭(かか)げたれど〔「本草綱目」〕、【佐渡島】佐渡にては此れを彼(か)の島の出來事ナリト傳ふ。此の島には黃金を産する故に、金の隣の土までも、何と無く、價値を認めらるるに至りしならん。雉は桃太郞以來、よく、色々の援助を與へたり。或る人、獵に出で、如何に狙ひても、鐵砲の中らぬ雉を見る。不思議に思ひて網を以つて之れを生け捕り、翼の下を檢(けん)スレバ小さき紙あり。「1抬2(しやくこうしやくかく)」の四字を書(しよ)す[やぶちゃん注:「1」=「扌」+{(つくり)(上)「合」+(下)「辛」}。「2」-「扌」+{(つくり)(上)「巳」+(下)「力」}]。卽ち、仙人道士の祕傳たる護身の符字(ふじ)なり〔「難波江」六〕。鐵砲の玉を除(よ)けて、網の厄(やく)を免(まぬか)れしむること能はざりし矛盾は、自分[やぶちゃん注:柳田國男。]の明し得ざる點なれど、兎に角に、是れが百年前の稀有(けう)の出來事には非ずして、現(げん)に日露戰爭の際にも、右の雉の守札(まもりふだ)を身に帶びて出陣せし勇士、多かりしことは事實なり。

[やぶちゃん注:「性空上人」(延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都生まれ。「書写上人」とも呼ばれる。三十六の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家、霧島山や筑前国脊振山で修行し、康保三(九六六)年に播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けている。天元三(九八〇)年(年)には蔵賀上人とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから、山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている(以上はウィキの「性空」に拠った)。

『下總の「鴻の臺(こうのだい)」』現在の千葉県市川市国府台(グーグル・マップ・データ)。戦国時代、国府台城があった。この城は扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が文明一〇(一四七八)年十二月に武蔵千葉氏を継承した千葉自胤(よりたね)を助けて、下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まるものであるが(ウィキの「国府台城」に拠る)、古くは下総国国府が置かれていたと、ウィキの「国府台(市川市)」にはある。そうなると、この「鴻の台」説は分が悪い。なお、国府台城址は現在、「里見公園」となっている。

「小田原北條の軍勢、攻め寄せし時」戦国時代、小田原北条氏と、里見氏を始めとする房総諸将との間で戦われた「国府台合戦」(天文七(一五三八)年の第一次合戦と、永禄六(一五六三)年と翌七年の第二次合戦に分けられる)の戦場で、第一次のそれは、江戸川沿いにあった国府台城に天文七年十月に足利義明(第二代古河公方足利政氏の子)が里見義堯(よしたか)・真里谷信応(まりやつのぶまさ)らの軍兵一万を従えてに入り、対する北条氏綱も嫡男氏康や、弟の長綱ら、二万の軍兵を率いて、江戸城に入って、十月七日、緖戦が開始されたが、足利義明は戦死し、里見義堯は義明戦死の報を受けるや、一度も交戦することなく戦線を離脱、北条軍は真里谷信応を降伏させた上で、彼の異母兄信隆を真里谷氏当主とした。これによって勢力地図が一変して権力の「空白域」と化した上総国南部には、この戦いで殆んど無傷であった里見義堯が進出、真里谷氏の支配下にあった久留里城・大多喜城などを占領して房総半島の大半を手中に収めることになった。第二次は第一次合戦後に国府台は千葉氏重臣小金城主高城胤吉の所領になったが、千葉氏が北条氏の傘下に入ったため、同地も事実上、北条領となっていた。永禄六(一五六三)年になって北条氏康と武田信玄が、上杉謙信方の武蔵松山城を攻撃した際、謙信の要請を受けた里見義堯が、嫡男義弘を救援に向かわせた際、この国府台で、これを阻止しようとする北条軍と衝突したとされる戦いを指す。結局、里見軍は上杉派の太田資正らの支援を受けて武蔵には入ったものの、松山城が陥落したため、両軍ともに撤退して終わった。その他詳しくは参考にしたウィキの「国府台合戦を見られたい。

「鴻(こう)」既出既注。これも私はヒシクイ(カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris。本邦に渡り鳥として南下してくるのは他に、オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii がいる)で採りたい。中型クラス(孰れも七十八センチメートルから一メートル程度)の彼ら雁(がん)が立っているから、浅瀬だと読む方がシークエンスとしては洒落れていると判断するからである。

「薤(にら)」「韮」「韭」とも書く。単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum。種子は「韮子(きゅうし)」という生薬として腰痛・遺精・頻尿に使い、葉は「韮白(きゅうはく)」という生薬で強精・強壮作用がある、とウィキの「ニラ」にはあるが、外傷に効くとは、ない。

「靑鷺」私の好きな哲人、ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を参照されたい。

「下野(しもつけ)雀宮(すゞめのみや)」現在の栃木県宇都宮市雀宮町(ちょう)にある雀宮神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「雀宮神社」によれば、『旧社格は郷社』。『歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されている。この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば遠乗りをしてお参りに来たと』伝え、『雀宮神社は皇族である御諸別王』(みもろわけのおう:「日本書紀」等に伝わる古代日本の皇族で、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと:崇神天皇皇子)の三世孫で彦狭島王(ひこさしまおう)の子)『を祭神としていることから』、正徳三(一七一三)年、『東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、諸大名は下馬して参拝したと』もいう。『この神社の創建年代などについては不詳であるが、この神社の周辺の地名の由来ともなった神社であり、日光街道・日光東往還の雀宮宿が置かれた』。『伝承によれば、由緒は、平安時代に遡る。かつて台新田村雀宮宿と称しており』、長徳三(九九七)年に『創建されたと伝わる』。『一条天皇』『の御代、藤原実方が陸奥守(むつのかみ)に任ぜられ、陸奥国へと赴く途中、当地に滞在したのち、任国へと下ったという』。『実方の妻、綾女(あやめ)が、実方を慕って任国に向かおうとした。綾女姫が当地まで来たところ、重篤な病に伏せり、臨終の床で、次のように遺言したとされる』。『「われ、夫中将実方を陸奥国にまで尋ね参らせんとせしが、病のため、此処にて死す。われの持てるこの宝珠は、大日孁尊(だいにちれいそん=天照大神)と、素盞嗚命(すさのおのみこと)との盟約の折の宝珠な』る『が、藤原家に預け置かれり。藤原家の宝珠なれど、この地に止めさせ、産土神(うぶすながみ)と斎き祀り(いつきまつり)せば、当地は長く繁栄なるべし。」』と。『郷人等はその遺言を奉じて、その宝珠を土地の産土神として尊く祀ったという』。『その後、長徳三』(九九七)年九月十九日、『藤原実方がこの地を訪れて、神社を創建し、後に自身も合祀されたとも伝わる』。明治三五(一九〇二)年に記された「下野神社沿革誌」に『よると、雀宮神社と綾女神社は元来』、『それぞれに』、祭神 素戔嗚命 相殿一座藤原實方朝臣命(雀宮神社) 祭神宇賀御魂命(綾女神社)『とされている。境内社として祀られていた綾女神社は』、明治四二(一九〇九)年『五月、湯殿神社とともに雀宮神社に合祀された記録がある。現在』、『境内社として祀られている綾女稲荷神社と同一とは判然されないが、綾女姫の伝承から祀られたものとみられる』。『また、この地に伝えられる言説に、御諸別王(みもろわけのきみ)を祭神とする説がある』。『御諸別王が、東国を治めた際に、雀宮周辺を本拠地とされ』、「日本書紀」の『「早くより善政を得たり」とした記述があるとされている。そのため、後に人々から「鎮(しずめ)の宮」と尊称されたという。雀宮神社の祭神として祀られたという御諸別王を実質的な祖とした毛野氏一族は東国第一の豪族である。そうした関連性からであろうと思われるが、八幡太郎義家(源義家)が御諸別王を祭神として祀ったという』とある。小学館「日本国語大辞典」の「雀宮」を引くとに、(は上記の神社のある地名・宿駅)まさにここに書かれた逸話が、『伝説的昔話』として記されてある。『間男した妻に謀られて、男が針がはいった餠を食べさせられて苦しんでいると』、『やはり一羽の雀が苦しんでいる。別な雀が来て草を食わせると尻から針が出たのを見て、男は韮(にら)を食べると』、『針が出たので、雀を大明神にまつったという』とある。この雀と針の由来譚は後付けであろう。「鎮めの宮」の転訛の方がまだ信じられる。

「無名異(むみやうい)」佐渡で産する硫化鉄を多量に含んだ赤色の粘土。ウィキの「無名異焼によれば、この土は『止血のための漢方薬でもあった。また、佐渡金山採掘の際に出土したため、その副産物を陶土に利用して焼かれ』始めた。文政二(一八一九)年に『伊藤甚平が無名異を使って楽焼を焼いたのが始まりで、安政四(一八五九)年に『伊藤富太郎が本格化させた』のが、現在に「無名異焼(むみょういやき)」として伝承されてある。

「此の話は支那の書にも之れを揭(かか)げたれど〔「本草綱目」〕」「本草綱目」「金石之三」に「無名異」が載る。

   *

無名異【宋「開寶」。】

釋名時珍曰、無名異、瘦詞也。

集解志曰、無名異出大食國、生於于上、狀如黑石炭。番人以油煉鍊如石、嚼之如餳。頌曰、今廣州山石中及宜州南八里龍濟山中亦有之。黑褐色、大者如彈丸、小者如黑石子、采無時。曰、無名異形似石炭、味別。時珍曰、生川、廣深山中、而桂林極多、一包數百枚、小黑石子也、似蛇黃而色黑、近處山中亦時有之。用以煮蟹、殺腥氣、煎煉桐油、收水氣、塗剪剪燈、則燈自斷也。

氣味甘、平、無毒。頌曰、鹹、寒。伏硫黃。

主治金瘡折傷内損、止痛、生肌肉【「開寶」】。消腫毒癰疽、醋磨敷之【蘇頌】。收濕氣【時珍】。

發明時珍曰、按「雷炮炙論序」云、無名止楚、截指而似去甲毛。崔昉「外丹本草」云、無名異、陽石也。昔人見山雞被網損其足、去、銜一石摩其損處、遂愈而去。乃取其石理傷折、大效、人因傅之。

[やぶちゃん注:「附方」は略す。]

   *

太字下線は私が引いたが、「山雞」とは中国南部に棲息するキジ目キジ科コシアカキジ属 Lophura のことだ。まさにそのまんまではないか。これは民俗学上の平行進化ではあり得ないことだと思う。

「雉の守札」佐渡にはもう三度も行っているが、この話は知らない。今度行ったら、調べてみよう。]

ブログ・アクセス1180000突破記念 柳田國男 山島民譚集(河童駒引・馬蹄石) 原文・訓読・附オリジナル注始動 / 小序・再版序・「河童駒引」(1) 「鷺之湯鶴之湯鹿之湯貉之湯其他」



柳田國男 山島民譚集(河童駒引・馬蹄石)

 

[やぶちゃん注:本「山島(さんとう)民譚集」の初版は大正三(一九一四)年七月に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された日本の民譚(民話)資料集で、特に河童が馬を水中に引き込む話柄である河童駒引(かっぱこまびき)伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる馬蹄石(ばていせき)伝承の二つを大きな柱としたものである。書名にある「山島」は、「魏志倭人伝」の中に出る本邦の記載、「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑」(倭人は帯方[やぶちゃん注:帯方(たいほう)郡。二〇四年から三一三年の百九年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡名。]の東南、大海の中に在り。山㠀[やぶちゃん注:「山島」。]に依り、國邑(こくいう)を爲(な)す)という、日本の地形的立地形状を示す語で、イコール、「日本」の意で柳田國男は用いている。

 底本は同書の再版版である、正字正仮名の、昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちら画像で、視認して用いたが、「ちくま文庫」版全集(擬古文のままの新字新仮名という気持ちの悪い代物)をOCRで読み込んだものを加工用に使用した。但し、本書は漢字カタカナ混じりの擬古文でかなり読み難い。柳田國男自身が後に掲げる「再版序」で『斯んな文章は當世には無論通じない』と断じ『筆者自らも是を限りにして』『この文體を』『罷めてしまつた』と言っているほどで、ルビのない漢字や熟語でも若い読者が読みを戸惑う箇所もしばしばあるように思う。

 そこで、まず、

原文を掲げ(《原文》と頭に附す)

て、

その後にカタカナをひらがなに直し、読みに含まれる送り仮名の一部を送ったり、句読点や記号をさらに挿入したり、変更したりし、さらに推定(「ちくま文庫」版を参考にした)で歴史的仮名遣で読みを増やしたものを《訓読》として配し

て、若い読者の便宜を図った。その場合、漢文訓読の規則に従い、助詞・助動詞相当の漢字はこれをひらがなに直すこととした(但し、太字の文中標題部ではそれを適応しなかった)。

 なお、本書は、上部に頭書き用の罫があり、その上に本文内容を示す小見出しがポイント落ちで示されてある。これをブログで再現することは不可能なので、その小見出しは本文注に目立つように、【 】で適切と思われる箇所に本文と同ポイントで挿入した。本文内のポイント落ち割注は底本に従い、〔 〕でやはり同ポイントで示した。踊り字「〱」は正字化した。

 さらに、その後や文中にオリジナルにストイックに注を附したが、今までのように手取足取りはしない(例えば書名注は私が聴いたことのない、全く知らないもの以外は原則として附さないこととする)。特に、以下に示す「再版序」の最後の方で、柳田國男が『地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い』と心配している、河童及び馬蹄石関連の本文中の旧地名の所在地については、旧地名でも判然と判る場所は注しないが、私自身が全く分からない、しかも気になる旧地名は柳田國男の思いを受けて、探索して注しておきたいと考えている。そこで最後に彼は『假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない』と述べている地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い。假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない』と述べている。さても柳田先生、八十七年後の今、遅ればせながら、不肖私が、その暴虎馮河を致さんとせんとしております。お許しあれ。だらだらとした文章でなかなか切れないが、なるべくソリッドな形で分割公開する。

 なお、本電子化は、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨日、2019年1月11日午後3時半に1180000アクセスを突破した記念として始動するものである。今回公開する分だけで、実働九時間を要した。また、永い戦いとなりそうだ。【2019年1月12日 藪野直史】]

 

 

  山島民譚集

 

 

《原文》


    小 序

 

橫ヤマノ 峯ノタヲリニ

フル里ノ 野邊トホ白ク 行ク方モ 遙々見ユル

ヨコ山ノ ミチノ

一坪ノ  淸キ芝生ヲ  行人(ギヤウニン)ハ  串サシ行キヌ

永キ代ニ コヽニ塚アレ

イニシヘノ神 ヨリマシ 里ビトノ ユキヽノ栞

トコナメノユル勿レト カツ祈リ 占メテ往キツル

此フミハ ソノ塚ドコロ 我ハソノ 旅ノ山伏

ネモゴロニ我勸進(クワンジン)ス

旅ビトヨ 石積ミソヘヨ コレノ石塚

 

《訓読》

 

    小 序

 

橫やまの 峯のたをりに

ふる里の 野邊とほ白(じろ)く 行く方(かた)も 遙々見ゆる

よこ山の みちの(と)に

一坪の  淸き芝生(しばふ)を  行人(ぎやうにん)は  串さし行きぬ

永き代に こゝに塚あれ

いにしへの神 よりまし 里びとの ゆきゝの栞(しほり)

とこなめのゆる勿(なか)れと かつ祈り 占(し)めて往きつる

此ふみは その塚どころ 我はその 旅の山伏(やまぶし)

ねもごろに我(われ)勸進(くわんじん)す

旅びとよ 石積みそへよ これの石塚

 

[やぶちゃん注:柳田國男にして珍しくロマン主義的文学的序である。

「橫やま」「よこ山」起伏が少ないが、横にずっと連なっている山々。

「たをり」「撓り」で、山の稜線の窪んで低くなっている鞍部のこと。ここは往々にして複数の方向や部落への辻を形成し、そこは異界との通路であり、塞ノ神や道祖神といった石神が祀られた。

「ふる里」「古里」。故郷。但し、以下の「行く方」を考えれば、「經る里」(行き過ぐる田舎)の意も掛けていよう。

「とほ白(じろ)く」「遠白く」。ぼんやりと白く霞んではっきり見えないさま。

(と)」両側の山の迫った狭い、二つの広い地域(異界)を繫ぐ門のように感じられる場所。前の「たをり」の地勢をその場に立って別に表現したものと採ってよい。

「行人」そこを行く人や旅の人。

「串さし」これは恐らく「櫛占(くしうら)」などと酷似した辻占(つじうら)の一種であろうと思われる。後世には、女や子どもが遊び半分に行なった占いの一つとなったもので、後世のそれは、黄楊(つげ)の櫛を持って、異界からの霊気が滞留する辻に立ち(故に妖魔が跳梁する場所であると同時に、予言等の超自然の霊的な力が普通以上に作用する場でもある)、「逢ふ事を問ふや夕(ゆふ)げの占相(うらまさ)に黃楊(つげ)の小櫛(おぐし)も驗(しるし)見せなむ」(「黃楊(つげ)」は「告げ」を掛けた呪言)という古歌を三度唱え、結界を作って米を播(ま)き、櫛の歯を鳴らし、その境界内をたまたま通行した人の口にした言葉を聞いて吉凶を占った。これは恐らく非常に古くからあったれっきとした大人たちの詞占(ことうら)の一種の変形である。「串さし」は正に「神聖な櫛の歯を折って地面に刺す」のであって、邪気の侵入を防いで、正しい結界形成をし、正確な「告げ」を得るためのボーダー設定行為を言っているのかも知れない。

「永き代に こゝに塚あれ」後の「ゆる勿(なか)れ」と対構造を成すから、「未来永劫に渡ってここに神聖な塚として、あれかし!」と一応は採れる。しかし「こゝに塚あれ」は、「今は埋もれてしまってないように見えるけれども、ここには確かにそうした神聖な塚があったし、今も地の中にある!」という謂いの強調形、或いは命令形であると同時に、「已に過去に於いてより在(あ)ったのだ!」という、已然形の本来の意味をも示すものかも知れない。

「よりまし」「依り座し」。動詞。神霊が依り宿り。

「ゆきゝの栞(しほり)」道途の道標(みちしるべ)。この「行き來」は未知の危険を孕んだ旅路と同時に、同様な「人生行路」の意でもある。

「とこなめの」「とこなめ」(常滑)は「河床や谷道の岩などに水苔が附いて常に滑らかなこと」の意であるが、その「途絶えることなく続く」ことを言うか。しかしちょっとしっくりくる感じはしない。寧ろ、屋上屋であるが、「とこしなへに」(未来永劫に)「ゆる勿(なか)れ」の意と採りたくなる。これ、或いは「万葉集」巻第一「雑歌」の「吉野宮に幸(いでま)せる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」長歌(三十七番)の反歌(三十八番)、

見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)のゆる事なくまたかへり見む

を元に「ゆる」を引き出すために配した、柳田國男の造った枕詞かも知れぬ。

「占(し)めて」占いを成して。

「此ふみ」まさに柳田國男の本書「山島民譚集」を指す。

「その塚どころ」その古来より辻占を成し、未来の安全を祈願したのと同じ民草のための習俗を封じた塚そのものなのである、というのである。

「我はその 旅の山伏(やまぶし)」柳田國男自身を民俗社会のそうした風俗を体現し「山島民譚集」という「塚」を設けた、名も無き、これもまた日本の特殊な宗教史を象徴する神仏(密教系)習合の修験道の山伏に擬えたのである。

「ねもごろに」「懇(ねもごろ)に」懇(ねんご)ろに。心を籠めて。熱心に。

「勸進(くわんじん)す」本来は仏教に限定された、仏道修行に励むことが功徳になるということを人に教え、仏道に入ることを勧めるという意であるが、神仏習合後は、広く寺社の堂塔や祠を造営したり、その修理のために必要な寄付を募ることを指すようになった。失われつつある民草の話を後世に伝える一里塚として「こ」「の石塚」の「山島民譚集」を勧進した、と柳田は宣言するのである。本書購入の利益(りやく)広告の宣伝っぽいニュアンスである。

「旅びと」「石積みそへよ」で、本書以降の次代の資料や研究を本書の購読たちに希望してコーダとする。]

 

 

 再 版 序

 山島民譚集を珍本と呼ぶことは、著者に於ても異存が無い。それは今から三十年も昔に、たつた五百部を印刷して知友同好に頒つたといふ以上に、この文章が又頗る變つて居るからである。斯んな文章は當世には無論通じないのみならず、明治以前にも決して御手本があったわけで無い。大げさな名を附けるならば苦悶時代、即ち俗に謂ふ雅文體が段々と行き詰まつて、今見る「である文」はまだ思ひ切つて出あるけない一つの過渡期に、何とかして腹一ぱいを書いて見たいといふ念願が、ちやうど是に近い色々の形を以て表示せられたので、言はばその數多い失敗した試みの一例なのである。無論誰一人この文體を採用した者は無いのみか、筆者自らも是を限りにして罷めてしまつたのだが今日となつては歷史的な興味が、他人で無いだけに自分には特に深い。何が暗々裡の感化を與へて、斯んな奇妙な文章を書かせたかといふことが、先づ第一に考へられるが、久しい昔になるのでもう是といふ心當りは無い。たゞほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いやうな處のあるのは、あの當時濶達無碍[やぶちゃん注:「かつたつむげ」。心が広くて物事に拘らず、思うままにのびのびとしているさま。「闊達無礙」とも書く。]の筆を揮つて居た此人の報告や論文を羨み又感じて讀んで居た名殘かとも思ふ。但し南方氏の文は、勿論是よりも遙かに自由で、且つさらさらと讀みやすく出來て居る。私の書いたものが變に理窟つぽく、又隅々[やぶちゃん注:「すみずみ」。]の小さな點に、注意を怠らなかつたといふことばかりを氣にして居るのは、多分は吏臭とでも名づくべきものだらう。今はさうとも言へまいが、あの頃はいはゆる御役所の文章が衰頽を極めて居た。讀まずに居られぬから人が讀むといふだけで味も鹽氣も無く又冗漫で措辭の誤りが多かつた。私たちは自身も刀筆の吏[やぶちゃん注:「たうひつのり」。「刀筆」は、古代中国で紙の発明以前に用いた竹簡に文字を記す筆及びその誤りを削り取るのに用いた小刀を指し、そこから転じて、筆・記録の意となった。ここはそうした記録を掌る小官吏。但し、当時の柳田國男は法制局参事官で宮内書記官と内閣書記官記録課長兼任しており、本書刊行の大正三(一九一四)年四月には貴族院書記官長に就任している。これを「小吏」とは逆立ちしても言わない。]でありながら、是が厭で厭でたまらなかつた。さうして事情の許す限り、努めて每日の氣持に近い、意見書や復命書を書かうとして居たのである。それは或程度まで成功したかも知れぬが、その應用にはおのづから限度がある。一たび職掌を越えて河童や馬蹄石の問題を取り扱はうとすると、日頃の練習が却つて惡い癖となつて、忽ちお里を顯はしてしまつたのは苦笑の他は無いのである。それからもう一つ、是も氣が咎めるから白狀して置くが、ちやうど此本を書いた頃、私は千代田文庫の番人[やぶちゃん注:「千代田文庫」は明治以降内閣によって保管されてきた古書・古文書のコレクションである「内閣文庫」のこと。現在は内閣府所管の独立行政法人「国立公文書館」に移管されて同館が所蔵している。先に示した内閣書記官記録課長がここで言う「番人」である。]をして居た。さうしていろいろの寫本類を、勝手に出し入れをして見ることが出來たのである。斯んなにまで澤山の記錄を引用しなくとも、もつと安々と話は出來たのであるが、それが驅け出しの學徒の悲しさであり、又實は内々の味噌でもあった。お蔭で河童論などは何だか重くるしく、且つ妙に齒切れの惡いものになつて居る。今から考へると決して利益だつたとは言へない。たゞそのために愈々世に遠く、珍本と呼ばるゝ條件を具へるようになつたことだけは、筆者の爲にも好い記念ではあつた。

 この書に揭げた二つの問題のうち、一方の水の神の童子が妖恠と落ちぶれるに至つた顚末だけは、あの後の三十年に相應に論究が進んで居る。最初自分がやゝ臆病に、假定を試みたことが幾分か確かめられ、これと關聯して又新たなる小發見もあつた。今少し具體的な結論を下しても、反對をする人はもうあるまいといふまでになつて居る。他の一方の馬の奇跡についても、別な解を下す人はまだ現はれず、しかも私が引用したのと同じ方向の證據資料が、永い間には次々と集積して、何れも倍以上の數に達して居る。一度はこの本を解きほぐして、書き改めて見ようとしたこともあつたが、其時間も無かつたのみならず、又その必要も無いやうな感がある。その上にこのやゝ奇を好んだ一卷の文は、日本民俗學の爲にもあとの港の燈の影のやうなものである。是をもう一度そつくりと本の形で、世に殘して奥ことも意味が有るかと思ふ。少し氣になるのは地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い。假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない。たゞ著者たる自分が後世人の中にまじつて、もう一度三十年後の新たなる批判を聽く機會を得たことを幸ひとするのみである。

   昭和十七年七月

             柳 田 國 男

 

 

      

 

 

  河    駒  

 

《原文》

【溫泉】鷺之湯鶴之湯鹿之湯貉之湯其他  溫泉ハ我ガ邦ノ一名物ニシテ兼ネテ又多クノ傳説ノ源ナリ。溫泉ノ名ヲ呼ブニ、都會ノ人又ハ遠方ヨリ往ク人ハ、有馬ノ湯或ハ草津ノ湯ナドト所在町村ノ名ヲ以テスレドモ、諸國ノ溫泉ニハ大抵別ニ其ノ名前アリ。一ノ山村ニ二箇所以上ノ湯ガ湧クトキ、之ヲ一ノ湯二ノ湯ト謂ヒ元湯(モトユ)新湯(シンユ)ト名ヅケ若シクハ熱湯(アツユ)溫湯(ヌルユ)ナドト區別スルハ常ノ事ナレドモ、唯一箇所ノ湯ニテモ亦名前アリ。ソレガ又鷺之湯鹿之湯貉之湯(ムジナノユ)ナドト、動物ノ名ヲ用ヰシモノノミ多キハ、異國ノ旅人等ニハ定メテ奇妙ニ感ゼラルヽコトナルべシ。

 サテ何故ニ諸國ノ溫泉ニ鷺鶴鹿ノ類ヲ名乘ル者此ノ如ク多キカ。之ヲ土地ノ人ニ訊ヌルニ其ノ答モ亦略一樣ナリ。今其ノ二三ノ實例ヲ語ランカ、【白鷺】先ヅ東北ニハ陸奧下北郡川内村蠣崎ノ鷺之湯ハ、昔火箭(ヒヤ)ニ中ツテ脛碎ケタル白鷺アリテ此ノ泉ニ來タリ浴シ、日ヲ經ルマヽニ癒エテ飛ビ去リシガ故ニ斯ク名ヅク〔眞澄遊覽記六〕。【鸛】羽後仙北郡峯吉川村ノ鴻之湯ハ昔鴻ノ鳥角鷹(クマタカ)ト鬪ヒテ脛折レタルヲ此ノ溫泉ニ溫メテ之ヲ治セリ〔月之出羽路二〕。羽前西田川郡湯田川村湯田川ノ溫泉ハ和銅五年ニ始メテ湧出ス。手負(テヲヒ)ノ白鷺此ノ湯ニ浸リテ傷平癒シテ飛ビ去リシヨリ效驗ヲ知ルコトヲ得タリ。故ニ鷺之湯ト稱ス。【鶴】同郡溫海(アツミ)村溫海ノ溫泉ハ大同二年ニ白鶴來タツテ之ニ浴シ足ノ痛ミヲ癒シテ飛ビ去リシカバ之ヲ鶴之湯ト謂リ。今源助ト云フ者ノ家ノ後ニ此ノ湯アリ〔三郡雜記下〕。而シテ右ノ大同二年ト云フハ奧羽ノ傳説ニ於テ最モ有名ナル昔ナリ。【鳩】越前大野郡五箇(ゴカ)村上打波(カミウツナミ)鳩ケ瀨(ハトガセ)ノ鳩ト云フ冷泉ハ、每朝鳩ノ來タリ浴スルニ心附キテ之ヲ發見シ、【鹿】同郡小山(ヲヤマ)村深井場(フカヰバ)ノ炭酸冷泉ノ一ヲ古來鹿井之湯(シカノヰノユ)ト稱セシハ領主斯波義種(シバヨシタネ)獵ニ出デテ手負鹿ノ泉ニ浴スルヲ見出セシニ基クト云フ〔大野郡誌〕。但馬ノ城崎(キノサキ)ニモ鸛之湯(コウノユ)アリ。舒明天皇ノ御時ニ脚ヲ病メル鸛鳥(コウノトリ)常ニ此處ノ水ニ立ツヲ怪シミ、其ノ鳥飛ビ去ツテ後其ノ水ニ手ヲ入レテ見ルニ暖カキ靈湯ナリ云云ト語リ傳フ〔日本轉地療養誌〕。【蛇】武藏ニテモ多摩川ノ上流ナル小河内(ヲガウチ)ノ溫泉ハ同樣ノ理由ヲ以テ之ヲ蛇之湯ト名ヅク〔十方庵遊歷雜記初篇上〕。同ジ西多摩郡平井村字鹽澤(シホザハ)ニモ寶光寺ノ境内ニ鹿之湯ト云フ溫泉アリキ。寺ノ開山文濟禪師ガ天文六年ニ始メテ庵ヲ此ノ山ニ結ビシ頃、朝每ニ足ヲ傷ツケタル一鹿ノ庵ノ前ヲ往復スルヲ見ル。其ノ跡ヲ繋ゲバ麓ノ谷ニ溫泉ノ湧キ出ヅルアリ。【權現】即チ藥師佛ヲ安置スル外ニ、鹿湯權現(ロクタウゴンゲン)ヲ勸請シ來タツテ此ノ地ノ守護神トス〔新篇武藏風土記稿〕。【有馬】攝州有馬ノ湯ノ梶原ニ就テハ有馬大鑑ニ左ノ如キ説アリ。【蜘蛛】建久二年二月半、吉野ノ僧仁西(ニンサイ)熊野權現ノ御告ニ由リ此ノ地ニ來タリ、御神ノ教ニ任セ蜘蛛ノ引ク絲ヲシルベニ山ニ分ケ入リツヽ、古キ跡ヲ尋ネテ十二坊舍ヲ建ツ云云〔古名錄四〕。【三輪】此話ハ此ノ山ニ三輪明神ヲ祀リシコトヽ關係アルべシ。美作勝田郡湯之鄕(ユノガウ)村ノ鷺之湯モ、圓仁法師白鷺ニ由リテ溫湯ノ所在ヲ知ルト、元龜元年ノ藥師堂緣起ニ見ユ〔東作誌〕。【金掘】豐後北海部郡下北津留(シモキタツル)村藤河内(フジカワチ)村鷺來ケ迫(ロクガサコ)ノ炭酸泉ニモ文字ニ因ミテ同種ノアリ。昔此ノ山ニ金ヲ採ラントスル者、圖ラズ坑中ニ靈泉ノ迸リ出ヅルヲ見ル。時ニ脚ヲ傷メタル鷺來タリテ其ノ泉ニ浸リ忽チ疵癒エテ飛ビ去ル。依ツテ始メテ其ノ驗ヲ知リ且ツ其處ヲ鷺來ケ迫ト名ヅクルニ至レリ云云〔豐後溫泉誌〕。白鷺鹿ノ輩ハ古來皆靈物ナリ。溫泉ノ發見者ガ神主又ハ僧侶ナリシ場合ニ、必ズ其動物ガ土地ノ神佛ノ使者傳令ナリシコトヲ附加スルハ誠ニ當然ノ事ニシテ、是ダケノ偶合ナラバ未ダ怪シムニ足ラズトス。

 今日ノ溫泉ハ半ハ避暑地、遊覽地也。サホド病人デモ無キ者ガ所謂保養ノ爲ニ出掛ケテ行ク場處トナレリ。然シナガラ二三百年前迄ノ湯ノ宿ハ不自由ヲ極メタルモノナリキ。難儀ヲシテ山ノ中へ往ク昔ノ湯治客ハ決シテ今ノ紳士ノ如キ氣樂人ニ非ズ。殊ニハ戰爭頻繁ニシテ外科醫術ノ進步セザリシ時代ニハ、溫泉ハ言ハヾ天然ノ病院ナリ。亂世ハ戰場ニテ命ヲ殞ス者モ勿論今ヨリハ遙カニ多カリシナランガ、一旦助カリタル手負人モ傷養生ハ中々面倒ナリキ。【隱家】良醫ヲ求メテ其ノ治癒ヲ受クルヨリモ、先ヅ以テ五體ノ利カヌ間ハ敵ニ發見セラレヌ爲、靜カニ山中ニ隱レ居ルコトノ必要ナリシハ、全ク右ノ鷺鹿ノ類ト同ジ。若シ領分内ノ深山ナドニ右ノ如ク金創ニ效アル溫泉アレバ、ソレコソ誠ノ天ノ惠ナリシナリ。有馬草津ハ千年來ノ名湯ナレド、其靈驗ノ十分ニ發揮セラレテ終ニ日本ノ一名物トナリシハ、恐ラクハ亦後世鷺之湯鹿之湯等ノ傳ガ發生セシ時代、即チ略戰國ノ斬合時代以後ノ事ナルべシ。世ノ中太平ニ及ブト共ニ、箭ノ傷、刀ノ創ガ早ク平癒スルト云フノミニテハ廣告トナラヌ故ニ、是等ノ話モ少シヅツ變形シテ、鳥獸マデガ脚氣血ノ道「リウマチス」ヲ、苦ニシテ居タルガ如ク語リ傳ヘザレバ、折角ノ理窟ガ段々不明ニナリ行ク也。

《訓読》

【溫泉】鷺之湯・鶴之湯・鹿の湯・貉之湯・其の他  溫泉は我が邦の一名物にして、兼ねて又、多くの傳説の源(みなもと)なり。溫泉の名を呼ぶに、都會の人又は遠方より往く人は、「有馬の湯」或いは「草津の湯」などと、所在町村の名を以つてすれども、諸國の溫泉には、大抵、別に其の名前あり。一(ひとつ)の山村に二箇所以上の湯が湧くとき、之れを「一の湯」・「二の湯」と謂ひ、「元湯(もとゆ)」・「新湯(しんゆ)」と名づけ、若(も)しくは「熱湯(あつゆ)」・「溫湯(ぬるゆ)」などと區別するは常の事なれども、唯(ただ)一箇所の湯にても、亦、名前あり。それが又、「鷺(さぎ)の湯」・「鹿の湯」・「貉の湯(むじなのゆ)などと、動物の名を用ゐしもののみ多きは、異國の旅人等には定めて奇妙に感ぜらるゝことなるべし。

[やぶちゃん注:「鷺(さぎ)」鳥綱新顎上目ペリカン目サギ科 Ardeidae のサギ類の総称。イメージに登り易いのは「白鷺(しらさぎ)」であるが、これも種名ではく、上記のサギ類の内で羽毛が白色の種群を指す。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷺(総称としての「白鷺」)」の私の冒頭注を参照されたい。

「鶴」ツル目ツル科 Gruidae のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属 Balearica・ツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus に別れる。同じく私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」を参照されたい。

「鹿」本邦ではこれで「しし」と読んで猪(哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ Sus scrofa)を意味することが有意に多いが、ここは狭義の「しか」、鯨偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ Cervus nippon でよい。本邦には、北海道固有亜種エゾシカ Cervus nippon yesoensis・本州固有亜種 Cervus nippon centralis・四国及び九州固有亜種キュウシュウジカ Cervus nippon nippon(江戸時代にヨーロッパで分類に使用された亜種として命名されてしまったために亜種名が「nippon」(基亜種)になってしまっている)・対馬固有亜種ツシマジカ Cervus nippon pulchellus・種子島の沖の馬毛島(まげしま)産で阿久根大島と臥蛇島に移入した日本固有亜種マゲシカ Cervus nippon mageshimae・屋久島固有亜種ヤクシカCervus nippon yakushimae・慶良間諸島固有亜種ケラマジカ Cervus nippon keramae の全七亜種が棲息する。

「貉(むじな)」は本邦では、狭義には主に哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma Temminck を指す語であるが、民俗社会ではニホンアナグマはイヌ亜目イヌ下目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides と有意に混同、一緒くたにされているので、両種と採ってよい(なお、これに食肉目ネコ亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata をも含める記載を散見するが、ハクビシンは近世・近代の外来種である可能性を排除出来ず、それらよりも時制的には溯るケースが多い民俗社会の存在を肯定し得ないので、私は民俗学的にはハクビシンを「貉」に含めるべきではない、含めない方が無難であると考えている。]

 さて、何故に諸國の溫泉に鷺・鶴・鹿の類(たぐひ)を名乘る者、此くのごとく多きか。之れを土地の人に訊ぬるに、其の答へも亦、略(ほぼ)一樣なり。今、其の二、三の實例を語らんか、【白鷺】先づ、東北には陸奧下北郡川内村蠣崎(かきざき)の「鷺の湯」は、昔、火箭(ひや)に中(あた)つて、脛(すね)、碎けたる白鷺ありて、此の泉に來たり浴し、日を經(ふ)るまゝに、癒えて飛び去りしが故に、斯(か)く名づく〔「眞澄遊覽記」六〕。【鸛(こふのとり)】羽後仙北郡峯吉川村の「鴻(こう)の湯」は、昔、鴻の鳥、角鷹(くまたか)と鬪ひて、脛、折れたるを、此の溫泉に溫めて、之れを治(なほ)せり〔「月之出羽路」二〕。羽前西田川郡湯田川村湯田川の溫泉は、和銅五年[やぶちゃん注:七一二年。]に始めて湧出す。手負(てをひ)の白鷺、此の湯に浸りて、傷、平癒して飛び去りしより、效驗(かうげん)を知うことを得たり。故に「鷺の湯」と稱す。【鶴】同郡溫海(あつみ)村溫海の溫泉は、大同二年[やぶちゃん注:八〇七年。]に、白鶴、來たつて、之れに浴し、足の痛みを癒(いや)して飛び去りしかば、之れを「鶴の湯」と謂へり。今、源助と云ふ者の家の後(うしろ)に、此の湯あり〔「三郡雜記」下〕。而して右の大同二年と云ふは、奧羽の傳説に於いて最も有名なる昔なり。【鳩】越前大野郡五箇(ごか)村上打波(かみうつなみ)字(あざ)鳩ケ瀨(はとがせ)の「鳩」と云ふ冷泉は、每朝、鳩の來たり浴するに心附きて、之れを發見し、【鹿】同郡小山(をやま)村深井場(ふかゐば)の炭酸冷泉の一(ひとつ)を、古來、「鹿井の湯(しかのゐのゆ)」と稱せしは、領主斯波義種(しばよしたね)、獵(かり)に出でて、手負鹿(てをひじか)の、泉に浴するを見出せしに基づくと云ふ〔「大野郡誌」〕。但馬の城崎(きのさき)にも「鸛の湯(こうのゆ)」あり。舒明天皇の御時[やぶちゃん注:在位は六二九年~六四一年。この時期、元号はない。]に脚を病める鸛鳥(こうのとり)、常に此處の水に立つを怪しみ、其の鳥、飛び去つて後、其の水に手を入れて見るに、暖かき靈湯なり云云(うんぬん)と語り傳ふ〔「日本轉地療養誌」〕。【蛇】武藏にても、多摩川の上流なる小河内(をがうち)の溫泉は同樣の理由を以つて之れを「蛇の湯」と名づく〔「十方庵遊歷雜記」初篇上〕。同じ西多摩郡平井村字鹽澤(しほざは)にも寶光寺の境内に「鹿の湯」と云ふ溫泉ありき。寺の開山文濟禪師が天文六年に始めて庵を此の山に結びし頃、朝每に足を傷つけたる一鹿(いちろく)の庵の前を往復するを見る。其の跡を繋(つな)げば、麓の谷の溫泉の湧き出するあり。【權現】即ち、藥師佛を安置する外に、鹿湯權現(ろくたうごんげん)を勸請し來たつて、此の地の守護神とす〔「新篇武藏風土記稿」〕。【有馬】攝州有馬の湯の梶原に就ては「有馬大鑑」に左のごとき説あり。【蜘蛛】建久二年[やぶちゃん注:一一九一年。]二月半(なかば)、吉野の僧仁西(にんさい)、熊野權現の御告に由り、此の地に來たり、御神の教(おしへ)に任せ、蜘蛛の引く絲をしるべに、山に分け入りつゝ、古き跡を尋ねて、十二坊舍を建つ云云〔「古名錄」四〕。【三輪】此の話は此の山に三輪明神を祀りしことゝ關係あるべし。美作勝田郡湯之鄕(ゆのがう)村の「鷺の湯」も、『圓仁(ゑんにん)法師、白鷺に由りて溫湯の所在を知る』と、元龜元年[やぶちゃん注:一五七〇年。]の「藥師堂緣起」に見ゆ〔「東作誌」〕。【金掘(きんほり)】豐後北海部郡下北津留(しもきたつる)村藤河内(ふじかわち)村鷺來ケ迫(ろくがさこ)の炭酸泉にも文字に因みて同種のあり。昔此の山に金(きん)を採らんとする者、圖らず、坑中に靈泉の迸(ほとばし)り出づるを見る。時に、脚を傷めたる鷺、來たりて、其の泉に浸り、忽ち、疵(きず)、癒えて、飛び去る。依つて始めて其の驗(しるし)を知り、且つ、其の處を「鷺來が迫(ろくがさこ)」と名づくるに至れり云云〔「豐後溫泉誌」〕。白鷺・鹿の輩(やから)は、古來、皆、靈物なり。溫泉の發見者が、神主又は僧侶なりし場合に、必ず、其の動物が土地の神佛の使者・傳令なりしことを附加するは、誠に當然の事にして、是だけの偶合ならば、未だ怪しむに足らずとす。

[やぶちゃん注:「陸奧下北郡川内村蠣崎(かきざき)」現在の青森県むつ市川内町蛎崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。ブログ「ライター斎藤博之の仕事」の二〇〇九年六月の「蠣崎(むつ市川内)~菅江真澄の歩いた下北」という記事によれば、ここの「鷺の湯」は現存する。「蠣崎(むつ市川内)」の記事によれば、江戸後期の旅行家で博物学者でもあった『菅江真澄』(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)『が蠣崎を訪れたのは』、寛政五年五月朔日(一七九三年六月四日)のことで、『下北半島に来る以前の数年間を「蝦夷が島」(北海道)で過ごしていた真澄は、松前領主の先祖にあたる蠣崎氏の城跡に触れ、こう書いている。「古城の址に木立ふりたるは、いつの頃にや、松前のおほんつかさの遠つみおやの、柵し給ひしところといへり」』(引用元を「奥の浦々」とされる。これが柳田が「眞澄遊覽記」と記すものである)。『この城に蠣崎蔵人信純という武将がいた。安藤氏の水軍を後ろ盾に、南部氏の本家である八戸根城の政経に戦を挑む。安藤水軍と北方民族・それに天台修験を味方に付けて、かなりの勢力となった。しかし、陣営の中に南部氏を手引きする者がいて、奥戸(大間町)から上陸した南部方に背後を突かれ、安藤氏の拠点があった渡島半島の上ノ国に逃れたと云う。南部側の資料に従えば』、康正二(一四五六)年の『ことである。のちに、上ノ国花沢城の蠣崎季繁は下ノ国家政の娘を養女とし、武田信広を婿に迎えた。その子孫が松前領主となった。松前領主の祖先は、下北半島の蠣崎氏なのであった』。『「蠣崎の里を過なんとすれば行人の云、ここに鷺の湯といふよき湯あり。むかし火矢にあたりて、はぎのくだかれたる鷺の、湯に入って日をふれるまま、いゑてとび去ぬ。さりければしか名づけて、身をうちたる人に、わきてめぐりよしなどいへり」。鷺の湯は、蠣崎の集落から北へ外れたところにある。いまは湯は温(ぬる)くなったが、眼に効くと言い、湧き出る丘の上に薬師を祀って、むらびとが護(まも)っている』とある。また、小堀光夫氏の論文「伝説研究と菅江真澄―柳田國男『山島民譚集(一)をめぐって―」PDF)には、柳田が元にした菅江の原典が示されている

「火箭(ひや)」敵方の建築物に遠距離から火を放つために放つ矢。現代の焼夷弾に相当する。既にして戦闘が日常的に行われていたロケーションを柳田が出していることに注意。「鸛(こふのとり)」「鴻(こう)の湯」「鸛(こふのとり)」と「鴻(こう)」では漢字も異なり、歴史的仮名遣もかく違うだけでなく、実は生物学的には別種を指すので柳田の頭書き【鸛】は実はよろしくない。「鴻(こう)の湯」は「鴻(こう)」である以上、まず第一にこれは「大型の水鳥」を指す漢語で、本邦の代表種はオオハクチョウ(カモ目カモ亜目カモ科 Anserinae 亜科オオハクチョウCygnus cygnus である(私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 天鳶(はくちやう)〔ハクチョウ〕」も参照されたい)。次に「鴻(こう)」はもっと小型のガンの仲間であるヒシクイ(カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris本邦に渡り鳥として南下してくるのは他に、オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii がいる)の異名でもある(私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を参照。寺島良安は「鴻」をヒシクイに同定していることが判る)。私は、オオハクチョウもいいが、ちょっとデカ過ぎてお湯につかっている画像がしっくりこない。全長七十八センチメートルから一メートル、翼開長で一・四二~一・七五メートルのヒシクイが丁度、いいだろう。さても、柳田は「鴻(コウ)」の音の類似性から「鸛(コフ)」=コウノトリをここに誤って当ててしまうというトンデモナイことを仕出かしてしまったのである。鸛はコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana で、そもそもが日本では野生はまず見かけることはない。分布域は東アジアに限られ、中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することがあり、その時に稀に見かける程度であって、本邦の温泉にわざわざ湯治には、まず来ないだろう(絶対ないとは言えないが)。因みに、コウノトリは現在、総数で二千から三千羽と推定され、絶滅の危機にある種なのである。

「羽後仙北郡峯吉川村」現在の秋田県大仙市協和峰吉川峰吉川。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鴻の湯」の名では現認出来ない。

「角鷹(くまたか)」森林性猛禽類の一種である、タカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensisウィキの「クマタカ」によれば、『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と』二『通りの漢字表記事例がある。歴史的・文学上では双方が使われてきており、近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。なお、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』。因みに、『近年』、『繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』とある。総論であるが、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」も参照されたい。

「月之出羽路」先に出た菅江真澄が出羽六郡を探勝した地誌の一書。「雪の出羽路」と図絵集「勝地臨毫」と合わせて、先に出た「菅江真澄遊覧記」と総称しているのである。本書は菅江の著作からの引用が有意に多い。

「羽前西田川郡湯田川村湯田川」山形県鶴岡市湯田川。ここ(グーグル・マップ・データ)。御覧通り、湯田川温泉として現存している。

「同郡溫海(あつみ)村溫海」現在の山形県鶴岡市湯温海甲附近(グーグル・マップ・データ)。「あつみ温泉」として現存。ウィキの「あつみ温泉」には、『開湯は約』千三百『年前とされ、役小角が発見したと伝えられる。但し』、『弘法大師による発見説や』、ここにあるように、『鶴が傷ついた脛を浸していたところを発見したなどの説もある。温海川の川底から湧出した温泉が、河口に流れ』、『日本海を温かくしていたことが温泉名の由来となっている』。『鎌倉時代後期には既に湯治場が形成されており、江戸時代には庄内藩の湯役所が設けられ、浴客を収容する宿屋が並び温泉地の情景を見せるようになった。湯治客が食材を買うための朝市は約』二百六十『年前から始まり、今日も続いている』とある。

「源助と云ふ者の家」同温泉の公式サイトで湯本を探してみたが、現認出来ない。

「大同二年と云ふは、奧羽の傳説に於いて最も有名なる昔なり」柳田國男はここにかく書いた時、「遠野物語」の一節を思い出していたに違いない。私の最近の仕儀である『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人』の冒頭二四で、『村々の舊家を大同と云ふは、大同元年に甲斐國より移り來たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村將軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本國なり。二つの傳を混じたるに非ざるか』で全く同じ言い回しを使っているからである。そちらの注も参照されたいが、但し、その詳細を読まれれば、柳田が「大同二年」に限定するのは実は的を射ていないことが判る

「越前大野郡五箇(ごか)村上打波(かみうつなみ)字(あざ)鳩ケ瀨(はとがせ)」現在の福井県大野市上打波(かみうちなみ)に「鳩ケ湯温泉」として一軒宿として現存する。同公式サイトによれば、『山鳩がここに湧き出る泉で傷を癒しているのを見た地元の農民は、この泉が温泉であることを知る。江戸時代には集落の公衆浴場になり、明治時代には温泉宿としてもスタート、大正時代には現在の位置に離れも作り人々を癒してきた。しかし昭和』三六(一九六一)年に『「北美濃地震」が発生、周辺の集落の人々は里に降り、結果』、『この宿だけが残った』。『この宿を明治時代より営んでいたのは森嶋家』で、五代目であった『宏さんはこの家族経営の後継者として若い時分から働いていた。秘湯ブームやトレッキングブームもあり、宿の名は口コミで広まっていた。が、平成』二五(二〇一三)『年、宏さんは山菜採りの最中、足を滑らせて不慮の死を遂げる』百『年続いた宿は突然閉鎖を余儀なくされたの』であったとあり、大雪による建物の崩壊から鳩ヶ湯温泉が復活するまでの記事を是非、読まれたい

「同郡小山(をやま)村深井場(ふかゐば)」現在の福井県大野市深井地区と思われる(グーグル・マップ・データ)。こちら(『浅井くんの趣味のページ』とあるが、さらに上位アドレスを探ると、税理士であられるようだ)の方がまさに『大野市深井地区』を訪れておられるが、目当てであった『深井鉱泉旅館は廃墟で』あったとあるので、炭酸冷泉の鉱泉場自体は現存しないようである。その下にその足で上記の「鳩ヶ湯温泉」を訪れて、写真を添えておられる。

「斯波義種(しばよしたね)」(正平七/文和元(一三五二)年~応永一五(一四〇八)年)は南北朝から室町時代の武将で守護大名。室町幕府管領斯波義将の弟。加賀・越前・若狭・信濃・山城の有力地の守護を歴任した。

『西多摩郡平井村字鹽澤(しほざは)にも寶光寺の境内に「鹿の湯」と云ふ溫泉ありき』現在の東京都西多摩郡日の出町平井にある、新しく建てた露座の「鹿野(ろくや)大仏」の名で称される、曹洞宗塩澤山(えんたくざん)寳光寺内に鉱泉跡が残る。同寺は文明一〇(一四七八)年に開山である以船文済(いせんもんさい)和尚がこの塩澤の地に来たって、もとあった天台宗の寺菩提院を改宗し、曹洞宗の寺院として寳光寺を建立したもので、「鹿の湯」もこの開山の和尚が発見したもので、その経緯は、『ある日、一頭の鹿がご開山様の草庵前を行き来していたそうです。その鹿をよく見ると、なんと足に怪我をしていました。鹿は次の日も、その次の日も同じように行き来を繰り返していたため』、『ご開山様は不思議に思って後をつけました。すると、鹿は草庵の北側の谷間に湧き出る泉で傷ついた足を癒していたというのです。暫くすると』、『鹿は怪我も治り』。『山へ消えていったそうです』。『ご開山様はこの泉を「鹿の湯」と命名し、怪我で苦しんでいる人のために草庵を建て、浴室を作ったそうです。そして、この評判が人から人へ伝わり、多くの人が来るようになりました』。『この「鹿の湯」は怪我や皮膚病によく効くとされ、明治のころまで大変繁盛し、多摩七湯の一つとしても有名だったそうです』とある。(ここまでは総て同寺の公式サイトに拠る遠近孝一氏のブログ「戦国ネット すきらじ」の『戦国武士も癒された幻の「鹿の湯」』が非常に優れており、必見(「鹿の湯」跡もヴァーチャルに見られる!)必読!

「藥師佛を安置」調べて見ると、寳光寺の本尊は聖観世音菩薩である。因みに、曹洞宗でこの本尊というのは異例で、普通は釈迦如来である。調べて見たところ、これは先に示した改宗前の天台宗だった頃の本尊を粗末には出来ないということで、そのままお祀りしているためであることが判った。さすれば、この薬師如来は何かと考えれば、これはその霊泉の湧き出たところに祀ったのが、病気平癒に親和性のある薬師如来であったということである。前の遠近孝一氏のブログの写真、にも小祠がある。そこに薬師仏と鹿湯権現が祀られているものと考えてよい(遠近氏曰く、『祠には「鹿の湯大権現」が祀られているそうです』とある。工事中のために中を覗くことは出来なかったのである)。

「權現」仏教では、仏が衆生を救うために神・人など仮の姿となってこの世に現れること及びその現れた化身を指し、「権化」とも言うが、それよりも本邦では神仏習合による本地垂迹(ほんじすいじゃく)説での、仏(本地)が衆生を救うために日本の各種の神の姿となって仮にこの世に現れた(垂迹)とする考え方に及びその仮に化身した神を指す。ここでは鹿がまさに垂迹したそれなのである。

「有馬大鑑」生白堂行風撰の有馬の地誌・紀行「迎湯有馬名所鑑」か? 同書は目録題を「有馬大鑑迎湯抄」と称する。延寶六(一六七八)年大坂伊勢屋山右衛門刊で全五巻五冊。

「仁西(にんさい)」「有馬温泉」公式サイトのこちらによれば、『有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています』。『温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています』。『有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第』三十四『代舒明天皇』(五九三年〜六四一年)、第三十六代『孝徳天皇』(五九六年〜六五四年)の『頃からで』、『両天皇の行幸がきっかけとなり』、『有馬の名は一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には』、舒明三(六三一)年九月十九日から十二月十三日までの八十六日間にも亙って『舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り』、『入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けています』。「釈日本紀」に『よると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から』二年後の大化三(六四七)年十月十一日から『大晦日還幸までの』八十二日もの『間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数おつれになり』、『滞在されたとの記述があります』。『「有馬温泉史話」によれば、舒明天皇・孝徳天皇の度重なる行幸により世間に名をしられるようになった有馬温泉ではありますが、その後』、『徐々に衰退に向かっていったといわれ』、『これを再興し』、『有馬温泉の基礎を開いたのが名僧行基で』、『行基は聖武天皇』(七〇一年〜七五六年)『の信任あつく、主に池を築き、溝を掘り、橋をかけ、お堂を築くことなどに力を発揮し』、『大きな業績を残した高僧といわれています』。『行基が大坂平野の北、伊丹の昆陽に大池(昆陽池)を掘っていたときのこと、一人の人に会いました。その人は「私は体の中に悪いはれ物ができて、数年来苦しんでおります、聞くところによりますと、有馬の山間には温泉があり、病気にはたいそう良いそうです。私をそこへなんとか連れて行ってくださいませんか。」と頭を地に付けて懇願しました。哀れに感じた行基はその人の望みを叶えるため、有馬に連れて行く途中、さらにあれこれと望みごとを頼むその人の願いをかなえてやると、不思議なことにその人は金色荘厳なみ仏の姿となり、有馬温泉を復興するようにと言って』、『紫雲に乗って東方へ飛び去ってしまいました』(これも垂迹)。『行基は感嘆のあまり、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納めたといわれています。これは、行基の徳に感じた薬師如来が温泉を復興させ、有馬温泉発展の基礎を行基に築かしめることとなったとされております、事実、行基がここに堂を建立して以来、約』三百七十『年の間、有馬は相当な賑わいを見せたと伝えられています』。『平安時代に入ると、各種の文献にも散見されるようになり、多くの文人や天皇、また重臣たちも有馬を訪れたとされており、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いております、つまり、当時すでに伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていたわけです』。以下が「中興の仁西」のパート。『時代は流れて、承徳元』(一〇九七)『年、天災が有馬を襲いました。「温泉寺縁起」によると、「堀川天皇の承徳元年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した」とあります。諸説はありますが、この大洪水以後』、九十五『年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したものだと考えられています』。『荒廃しきっていた有馬を救ったのは、仁西(にんさい)という僧で、源平合戦で平家が滅亡した直後、吉野(奈良県)からやってきた仁西が有馬の再興を果たすこととなりました』。『仁西は大和の国・吉野にあった高原寺の住僧でありましたが、ある時』、『紀伊の国・熊野権現に詣でた折、夢のお告げをうけました、それは「摂州有馬の山間に温泉がある。近頃、はなはだしく荒廃しているにつき、行って再興せよ」というものでありました』。『仁西は謹んで受けましたが、有馬への道筋がわかりませんでした、そこで熊野権現に訪ねてみたところ、「庭の木の葉にくもがいる。その糸のひくところに従っていけ」とのことであり、翌朝目覚めて庭にでてみると、確かに夢のお告げ通りで、仁西はくもの糸に従い、有馬へと向かいました。しかし、中野村の二本松まで来たところで、くもの糸を見失い』、『途方にくれていると、突然』、『老人が現れ』、『仁西を山上まで案内し、一枚の木の葉を投げ』、『「この葉が落ちたところが霊地である」と教えてくれました』(これも垂迹)。『さっそくその教えに従い葉の落ちたところを探してみると、そこには行基が開いた温泉があったということです。そこで、里人を集め泉源をさらえ、承徳の洪水より』、『一世紀に及ぶときを経て』、『有馬温泉の復興に成功したのでありました』。『温泉の復活とともに、仁西は温泉寺を改修し』、十二の『宿坊を営みました。これは源頼朝が鎌倉幕府を開く』一『年前、すなわち建久』二(一一九一)年の『ことと伝えられています』。なお、十二『の宿坊の管理は仁西が吉野からつれてきた』、河上・余田氏らの平家の残党であったといわれております』。『現在、有馬において「坊」の文字がつく宿が多いのは、このときの流れをくむか、あるいはそれにあやかってつけられたものといわれております』とある。

「此の話は此の山に三輪明神を祀りしことゝ關係あるべし」現在の神戸市北区有馬町にある温泉神社には、「摂津國名所圖會」によれば、「湯山三所權現と稱す。祭神三座。中央熊野權現、左三輪明神、右鹿舌(かじた)明神なり。此神は郡内羽束(はつか)山香下(かした)明神にて、神躰は少彦名命(すくなびこなのみこと)なり。三座の中、三輪明神を當山の地主神とす」と記してある(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらの画像を判読した)。柳田が言っている関係するという部分は、活玉依毘売(いくたまよりひめ)のもとに、毎夜、美麗な男が夜這いに来、それから直ちに身籠った。不審に思った父母が彼女を質すと、「名も知らぬ立派な男が夜毎にやって来る」と告げ、父母は、その男の正体を知ろうと、糸巻きに巻いた麻糸を、針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針に附けた糸は、戸の鍵穴から抜け出ており、糸を辿ると、三輪山の社(やしろ)で続いていた。糸巻きには糸が三回り分だけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという三輪山伝承と糸が親和性があるからという意味であろうか。

「美作勝田郡湯之鄕(ゆのがう)村」現在の岡山県美作市湯郷(ゆのごう)(グーグル・マップ・データ)。湯郷温泉として現存。し、その中に「湯郷 鷺温泉館」というのもある。

「圓仁法師」(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)は第三代天台座主。大師号は慈覚大師。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで、出自は壬生(みぶ)氏。十五才の時に最澄の弟子となり、入唐後、五台山・大興善寺などで学び、帰朝後、延暦寺三世座主に任ぜられ、天台宗山門派の祖となった。彼によって天台宗は著しく密教化したとされる。

「豐後北海部郡下北津留(しもきたつる)村藤河内(ふじかわち)村鷺來ケ迫(ろくがさこ)」現在の大分県臼杵市藤河内(ふじかわち)にある「六ヶ迫(ろくがさこ)温泉」(グーグル・マップ・データ)。「鷺来ヶ迫温泉 源泉 俵屋」公式サイトの「歴史」によれば、江戸の元文年間(一七三六年~一七四一年)に、『一羽の傷ついた白鷺が、山奥にある一つの泉(現在、俵屋の中にある白鷺泉)に、毎日毎日』、『傷を癒しに来ており、数日後』、『完治したといわれる。不思議に思った里人は、臼杵町の禅師にこの事を告げた。それを聞いて禅師は驚いた』。『数日前、夢枕に白鷺となった御山明神から「これより北方向二里の地に薬水あり、この薬水をもって広く病人を救うべし」とお導きを受けていたからだ。思いがけぬ『不思議な一致』を稲葉公にお伝えし長年の探索の末、ついに薬水を発見した』(これも垂迹)。『この白鷺の奇跡のことから地名を、鷺が来た谷(迫)ということで鷺来ヶ迫(ろくがさこ)という名になった』。「迫(さこ)」は山間(やまあい)の小さな谷を言い、岡山県以西の中国地方と九州地方に多く見られる。同様の語として千葉県などでは「さく」がある。また「狭間(はざま)」も同様の意味で使用される地形語でもある。このような小さな谷に開かれた田が「迫田(さこた)」であり、「俚言集覧」に『美作(みまさか)にて山の尾と尾との間を「さこ」と云ふ。其處に小水ありて田有るを「さこ田」と云ふ』とある。迫田は谷田・棚田と同様に一枚一枚の耕地は零細であり、労働力の投入量に比して収穫量は決して多いものではなかった(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「炭酸泉」同前サイトに『含炭酸ナトリウム・カルシウム炭酸水素塩・塩化物泉』とあり、さらにこの鷺来ヶ迫温泉の源泉である「俵屋旅館」は「白鷺泉」の名を持っているから、この伝承の本家本元ということになる。

「其の動物が土地の神佛の使者・傳令なりしこと」「古事記」の倭建命(やまとたけるのみこと)に致命傷を与えることとなる伊吹山の神は彼の前に牛ぐらいの大きさの白い大猪(倭建命はこれをただの使者と誤認して、言挙げしてしまう)が神の正身(しょうしん)であったように、もともとは使者や伝令などではなく、神そのものの垂迹した化身なのである。それはここまでの垂迹ケースを見れば、一目瞭然である。後代に至るに従い、神が獣に成るのは不遜という下らぬ考えが侵入したものと私は思っている。]

 今日の溫泉は半(なかば)は避暑地、遊覽地なり。さほど病人でも無き者が、所謂、保養の爲に出掛けて行く場處となれり。然しながら、二、三百年前までの湯の宿は不自由を極めたるものなりき。難儀をして山の中へ往く昔の湯治客は、決して今の紳士のごとき氣樂人に非ず。殊には、戰爭、頻繁にして外科醫術の進步せざりし時代には[やぶちゃん注:室町末期から戦国・安土桃山時代を想定していよう。]、溫泉は言はゞ「天然の病院」なり。亂世ハ戰場にて命を殞(おと)す者も、勿論、今よりは遙かに多かりしならんが、一旦、助かりたる手負人も傷養生は、中々、面倒なりき。【隱家(かくれが)】良醫を求めて其の治癒を受くるよりも、先づ以て、五體の利(き)かぬ間は敵に發見せられぬ爲(ため)、靜かに山中に隱れ居(を)ることの必要なりしは、全く右の鷺・鹿の類と同じ。若(も)し、領分内の深山などに右のごとく金創(きんさう)[やぶちゃん注:刃物による切り傷。]に效ある溫泉あれば、それこそ誠の天の惠(めぐみ)なりしなり。有馬草津は千年來の名湯なれど、其の靈驗(れいげん)の十分に發揮せられて、終(つひ)に日本の一名物となりしは、、恐らくは亦、後世、「鷺の湯」・「鹿の湯」等の傳が發生せし時代、即ち、略(ほぼ)戰國の斬合(きりあひ)時代以後の事なるべし。世の中、太平に及ぶと共に、箭(や)の傷、刀の創(きず)が早く平癒すると云ふのみにては、廣告とならぬ故に、是等の話も少しづつ變形して、鳥獸までが脚氣・血の道・「リウマチス」を、苦にして居(ゐ)たるがごとく語り傳ヘざれば、折角の理窟が、段々、不明になり行くなり。

[やぶちゃん注:「血の道」月経、則ち、婦人の血に関係のある病態を総合したもので、月経時・月経前・月経後・妊娠時・分娩後(産褥(さんじょく)時)・流産後・妊娠中絶後・避妊手術後・「更年期の血の道症」に分けられる。症状としては、のぼせ・顔面紅潮・身体の灼熱感・冷え・眩暈(めまい)・耳鳴り・肩こり・頭痛・動悸・発汗・興奮・不眠・月経不順・不正出血・肝斑(かんはん・かんぱん:両頬骨に沿って左右対称にほぼ同じ形・大きさで出現するシミ。比較的広い範囲で、輪郭がはっきりしないもやっとした形で広がる。額や口の周辺にも出現するものの、目に近い周囲には発生しない)・痺れ・脱力感などがあり、更年期障害類似の自律神経失調症と言える(主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「リウマチス」関節痛や関節変形を生じる関節リウマチ(Rheumatoid ArthritisRA)のことであろう。病因は現在でも判然とはしていないが、概ね自己の免疫システムが誤認を起こし、主に手足の関節を侵すところの炎症性自己免疫疾患で、遺伝的素因も疑われる代表的な膠原病の一つである。しばしば血管・心臓・肺・皮膚・筋肉といった全身臓器にも障害が及ぶ(以上はウィキの「関節リウマチ」に拠る)。]

2019/01/11

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 題のない歌

 

  題のない歌

 

南洋の日にやけた裸か女のやうに

夏草の茂つてゐる波止場の向うへ ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた

ふはふはとした雲が白くたちのぼつて

船員のすふ煙草のけむりがさびしがつてる。

わたしは鶉のやうに羽ばたきながら

さうして丈(たけ)の高い野茨の上を飛びまはつた

ああ 雲よ 船よ どこに彼女は航海の碇をすてたか

ふしぎな情熱になやみながら

わたしは沈默の墓地をたづねあるいた

それはこの草叢(くさむら)の風に吹かれてゐる

しづかに 錆びついた 戀愛鳥の木乃伊(みいら)であつた。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。初出・「定本靑猫」に有意な異同を認めない。「錆」(さ)「びついた」「戀愛鳥の木乃伊(みいら)」は絶妙の詩語である!

「鶉」「うづら」。キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonicaウズラは叢の中にいて、飛ばない或いは飛ぶのが苦手であると思い込んでいる方が私は多いと思うので、一言、言っておくと、彼らはしっかりちゃんと飛ぶ。それより何より、ウズラはキジ科 Phasianidae の中で唯一、渡りを行う「渡り鳥」なのである。ウィキの「ウズラによれば、本邦(主に本州中部以北)・モンゴル・朝鮮半島・シベリア南部・中国『北東部などで繁殖し、冬季になると日本(本州中部以南)、中華人民共和国南部、東南アジアなどへ南下し』、『越冬する』。『日本国内の標識調査の例では北海道・青森県で繁殖した個体は主に関東地方・東海地方・紀伊半島・四国などの太平洋岸で越冬し、九州で越冬する個体は主に朝鮮半島で繁殖した個体とされる(朝鮮半島で繁殖して四国・山陽地方・東海地方へ飛来する個体もいる)』とある。

「野茨」「のいばら」。私の好きな、バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora

「彼女」フロイトを出す以前に、船は女性名を附すことはご存じの通り。

「碇」「いかり」。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしい山

 

  恐ろしい山

 

恐ろしい山の相貌(すがた)をみた

まつ暗な夜空にけむりを吹きあげてゐる

おほきな蜘蛛のやうな眼(め)である。

赤くちろちろと舌をだして

うみざりがにのやうに平つくばつてる。

手足をひろくのばして麓いちめんに這ひ𢌞つた

さびしくおそろしい闇夜である

がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。自然はひつそりと息をひそめ

しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。

すぐ近いところにそびえ

怪異な相貌(すがた)が食はうとする。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。初出や「定本靑猫」は有意な異同を認めないが、またしても筑摩書房版全集は強制消毒校訂を行っている。即ち、

   *

がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いて[やぶちゃん注:底本はここで行末。]る。自然はひつそりと息をひそめ

   *

であるのを、

   *

がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。

自然はひつそりと息をひそめ

   *

としているのである。初出は確かに改行しているし、ここはまず、句点があるから、改行という判断であろうが(事実、こういう表現を萩原朔太郎がすることは、まず普通はないとは言える)、しかし、原稿を確認しているわけでもないのに、初版の校訂本文をかくいじくるのは、私は、やっぱりおかしいと思う。

 この山は浅間山ではないかと推測する。大正一〇(一九二一)年及び翌年に小規模噴火の記録があり(月は不明)、朔太郎はこの大正十年の七月下旬に室生犀星に招かれて軽井沢に遊んでいる。

うみざりがに」節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目アカザエビ科アカザエビ亜科ロブスター(ウミザリガニ)属 Homarus のロブスター(Lobster)類の和名である。この時代に朔太郎が生きたロブスターを見たり、食べたり出来た可能性はすこぶる低いと思われるが、フランス料理の著名な食材として、また、西洋絵画の図版等でその存在をハイカラな彼はよく知っていたのであろう。

「平つくばつてる」「へいつくばつてる(へいつくばってる)」。平たく這いつくばっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) みじめな街燈

 

 

  さびしい靑猫

 

 

[やぶちゃん注:パート標題(左ページ)。その裏の右ページに以下の献辞。そのポイントは本文と同じである。]

 

ここには一疋の靑猫が居る。さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。

 

 

 

  みじめな街燈

 

雨のひどくふつてる中で

道路の街燈はびしよびしよぬれ

やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる

はうはうぼうぼうとした烟霧の中を

あるひとの運命は白くさまよふ

そのひとは大外套に身をくるんで

まづしく みすぼらしい鳶(とんび)のやうだ

とある建築の窓に生えて

風雨にふるへる ずつくりぬれた靑樹をながめる

その靑樹の葉つぱがかれを手招き

かなしい雨の景色の中で

厭やらしく 靈魂(たましひ)のぞつとするものを感じさせた。

さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。

影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出であるが、初出での標題は「雨の中を彷惶する」(「惶」はママ。「徨」の誤植か朔太郎の誤字であろう)であるが、詩篇本文には有意な異同はない。「定本靑猫」では「道路の街燈はびしよびしよぬれ」が「道路の街燈はびしよびしよにぬれ」が目立つが、私は説明的な後者は本篇最終行の「に」で沢山であって、支持しない。

「はうはうぼうぼう」困った表現である。まず、後半の「ぼうぼう」は「烟霧」の形容としては、「果てしなく広がっているさま」或いは「ぼんやりしてはっきりしないさま」の意の「茫茫」でよかろうが、この「ぼうぼう」の歴史的仮名遣は「ばうばう」で誤りということになる。しかし、強制消毒校訂をするはずの筑摩書房校訂本文は「ぼうぼう」のままである。不審である。さても、前の「はうはう」は私は「対象が多いさま」甚だ盛んなさま」を言う「彭彭」以外にはないと考える。これは「ほうほう」で、歴史的仮名遣は正しく「はうはう」となるから、よい(霧の中だから「這うように歩くさま。やっとのことで歩くさま」の意の副詞「這ふ這ふ」(歴史的仮名遣「はふはふ」・現代仮名遣「ほうほう」)という御仁もあろうが、それでは係りがせっかく改行した次行に渡ってしまうし、私には、それでは謂いが漫画のようで糞表現だと思う。「はうはう」と「ぼうぼう」は孰れも「とした」に続く形容動詞の語幹である)。異義のある方は、御教授を乞うものである。

「靑樹」「あをき」「せいじゆ」孰れにも読めるが、その樹木のあるのが「とある建築の窓」であり、「風雨にふるへる」ほどのものでしかないのであってみれば、これは高い樹木ではあり得ず、鉢植えの中低木でなくてはおかしい。さすれば、これは常緑で枝も青い低木の、ガリア目ガリア科アオキ(青木)属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica ではないかと思われ、さすれば、ここは「あをき(あおき)」で読むべきかと思う。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 鷄

 

  

 

しののめきたるまへ

家家の戶の外で鳴いてゐるのは鷄(にはとり)です

聲をばながくふるはして

さむしい田舍の自然からよびあげる母の聲です

とをてくう、とをるもう、とをるもう。 

 

朝のつめたい臥床(ふしど)の中で

私のたましひは羽ばたきをする

この雨戶の隙間からみれば

よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです

されどもしののめきたるまへ

私の臥床にしのびこむひとつの憂愁

けぶれる木木の梢をこえ

遠い田舍の自然からよびあげる鷄(とり)のこゑです

とをてくう、とをるもう、とをるもう。 

 

戀びとよ

戀びとよ

有明のつめたい障子のかげに

私はかぐ ほのかなる菊のにほひを

病みたる心靈のにほひのやうに

かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを

戀びとよ

戀びとよ。 

 

しののめきたるまへ

私の心は墓場のかげをさまよひあるく

ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥

このうすい紅(べに)いろの空氣にはたへられない

戀びとよ

母上よ

早くきてともしびの光を消してよ

私はきく 遠い地角のはてを吹く大風(たいふう)のひびきを

とをてくう、とをるもう、とをるもう。 

 

[やぶちゃん注:正七(一九一八)年一月号『文章世界』初出。初出は総ルビであるが、この当時のこうした総ルビの作品は、概ね、編集者や校正者が勝手に附したものであって、それを以って云々することは厳に慎まれなければならない。例えば「大風」には初出は「おほかぜ」とルビするが、恐らくはそれが自身の読みと異なったが故にこそ、彼はここで「たいふう」と振った可能性が高い。初出には有意な相違を私は認めない。後の「定本靑猫」では「私のたましひは羽ばたきをする」を「私のたましひは羽ばたきする。」が朗読での大きな相違で、後者を私は支持するものである。ともかくも、この「とをてくう、とをるもう、とをるもう。」というオノマトペイアは格別に素晴らしい!

「地角」は「ちかく」(初出ルビもそうなってはいる)で、これには、「大地の隅(すみ)・遠く離れた土地の涯(はて)・僻遠の地」の他、「陸地の細く尖って海中に突出した所。岬。地嘴(ちし)」の意があるが、これはもう、全体の雰囲気から、前者以外にはない。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『鷄(本篇原稿二種五枚)』として以下の無題一篇が載る。表記は総てママである。

 

  

 

しののめきたるまヘ

の雨戶家のそとで鳴くいてゐるのは鷄です、[やぶちゃん注:「鳴くいて」はママ。「く」は作者の衍字であろう。]

とうてく、もうとろ、とうてく、もうとろ、

聲をばながくふるはして

さむしい田舍の自然から呼びあげる母の聲です、

とうてく、もうとろ、とうてく、もうとろ、

天氣のよい朝あやく雨戶をあけて[やぶちゃん注:「あやく」は「はやく」の誤字。]

この農家の人たちは畑にスキをとるとき

けぶれる柳の下に餌をあさるものは鷄です、

一羽の私 ああ、なんといふ美しい朝の景色でせう、

なんといふ麗はしい禽鳥の羽色でせう、

田舍の自然を恐れるとき

田舍の人の にぶい感覺 野卑な生活を卑しむとき

私は あの いつも臥床にゐて、鷄のこゑを 思ふ

とうてく、もうとろ、とうてく、もうとろ、

けふける柳の木の下で[やぶちゃん注:「けふける」「けぶれる」の誤記。]

私はいま朝の白い臥床の中で

私のたましひは羽ばたきをする、

白い臥床の中でどこにたよるべき美しい世界があるか

この雨戶をあけてみれば

世界よもの景色はあかるくかがやいてゐるのです、

ああ、そのされども、しののめきたるまヘ

私の心はやるせなく戀びとににしのびこむひとつの憂愁

わなわなとふるゑる

遠い田舍の自然から呼びなける鷄の聲々

この鷄鳴は町の家並をこえてくるのです、

そうして遠い田舍の自然をよびあげるのです、

遠い田舍の

 

そうです、田舍は遠くはなれて考へるとき、

田舍 の美しさはなんといふやさしい母の姿 に似る であるか、

自然の中の

 

   *

 本篇を以ってパート「憂鬱なる櫻」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 佛の見たる幻想の世界

 

 

Kohuunarukantai

 

[やぶちゃん注:前の「憂鬱の川邊」と本篇の間にある挿絵「古風ナル艦隊」。作者・引用元不詳。さても、先の「西洋之圖」とこの二枚を、萩原朔太郎は、詩篇とは全く無関係に挿絵を挿入していることは明らかである。私は総じて評論〈文学〉を総じて胡散臭いものと感ずる人間であるが、中でも詩人を評論するのは至難の技だと思うによって、たいして読んでもいないから何とも言えぬが、初版「靑猫」のこの二枚の挿絵は、何故、ここに挿入されているのか? という素朴な疑問に真っ向から分析を加えている論文はあるのだろうか? 寧ろそれは、文芸評論家のそれではなく、生活史に甚だ問題のある萩原朔太郎という詩人の病跡学的範疇に入るものという気が強くしている(私は『日本病跡学雑誌』を長らく購読し続け、その方面の心理学者や精神科医の著書ならば、ごまんと読ませて貰っている。但し、それらも残念ながら、八割方は『こんなもん、俺でも書ける』レベルのものであったことも事実ではある)。単なる西欧ハイカラ趣味嗜好なんぞで解釈出来る部類のものでは毛頭ない。そうした分野からの画期的な分析やアプローチが是非とも望まれるもののように思われてならない。

 

 

  佛の見たる幻想の世界

 

花やかな月夜である

しんめんたる常盤木の重なりあふところで

ひきさりまたよせかへす美しい浪をみるところで

かのなつかしい宗教の道はひらかれ

かのあやしげなる聖者の夢はむすばれる。

げにそのひとの心をながれるひとつの愛憐

そのひとの瞳孔(ひとみ)にうつる不死の幻想

あかるくてらされ

またさびしく消えさりゆく夢想の幸福とその怪しげなるかげかたち

ああ そのひとについて思ふことは

そのひとの見たる幻想の國をかんずることは

どんなにさびしい生活の日暮れを色づくことぞ

いま疲れてながく孤獨の椅子に眠るとき

わたしの家の窓にも月かげさし

月は花やかに空にのぼつてゐる。 

 

佛よ

わたしは愛する おんみの見たる幻想の蓮の花瓣を

靑ざめたるいのちに咲ける病熱の花の香氣を

佛よ

あまりに花やかにして孤獨なる。 

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年一月号『文章世界』初出。初出は総ルビであるが、この当時のこうした総ルビの作品は、概ね、編集者や校正者が勝手に附したものであって、それを以って云々することは厳に慎まれなければならない。例えば「蓮」には「はちす」とあるが、朔太郎が「はす」ではなく「はちす」と詠んだかどうかは、私には断定出来ないということである(但し、個人的には「はちす」と読みたい私はいる)。初出も後の「定本靑猫」も有意な相違を私は認めない。

「しんめんたる」不詳。私はこんな形容動詞は知らぬ。どうも朔太郎の造語のようである。調べて見ると、筑摩版全集第三巻の「原稿散逸詩篇」の中の、小学館版の「萩原朔太郎全集遺稿上」(全集自体は昭和一八(一九四三)年から翌一九(一九四四)年にかけての刊行)に活字化されて載りながら、現在、詩稿が存在しない詩篇の一つ(無題)に、

   *

 

あはれしんめんたる雨の渚に

たましひはひたにぬれつつ步むらむ

くねりつつうちよする浪

浪の音のきえさり行けば

うちよする浪の音の

浪の音の消えさりゆけば

たましひは砂丘の影に夢むらむ。

 

   *

というのがあるのを発見した。また、本篇初出の翌年の大正八年八月号『文章世界』に載せた散文詩(アフォリズム)の中に、まさに本篇のイメージを言い換えたものが出現し、そこでも「しんめんなる」が用いられてある。最後の附記(これは本文と関係するものではないが、本条は萩原朔太郎のアフォリズム群の一番最初期に含まれる一篇であり、その後の散文詩としての彼のアフォリズムを考える上で非常に示唆に富む主張が語られていることから、敢えて添えた)含め、長いが、以下に示す。筑摩版全集第五巻を用いたが、太字「いぢや」(イデア:idea)は底本では傍点「●」(有意に大きな黒丸)、下線は通常の傍点「ヽ」である。

   *

 

     美しき涅槃 

 

 私は美しいいぢや(觀念)をみた。プラトーンに、耶蘇に、マホメツトに、そして釋迦に。

 ともあれ、人間のすべてのいぢやは虹の幻覺にすぎない。いぢやは一つの『美しき夢』である。それ故、願ふらくは吾人をして、より美しき夢を選ばしめよ。もしくは『神』もしくは『佛』もしくは天國、もしくは西方淨土、もしくは理性の王國、これらのすべてのいぢやの中、最もよきいぢやとは、けだし最も高潮的な情緖――最も抒情詩的な美――を持てるものに外ならぬ。何故ならば、それは人間をして、充分なる幸福、卽ち『甘き陶醉』に導くからである。

 およそ人間のいぢやの中、釋迦の夢みたいぢやほど偉大にして價値あるものはない。かくの如く智慧深く、かくの如く深酷に、しかもかくの如く異常な情緖的魅惑をもつたものはない。耶蘇の情緖は、その熾烈なパツシヨンに於て、よく人を興奮させるものがある。卽ちそこには動的な美とリズムがある。然るに釋迦の感情は、内に大なる理智をふくんで、しかも靜かに之れを押し流して行く大河の美に似て居るではないか。

 息ふに小乘佛教の趣味ほど、人生に對して『美しき月影』をあたへるものはない。それは熱帶の河に咲く蓮の花の情調である。あらゆる人間の慾望と、らちゆる生命意識とを否定した釋迦、げに人生そのものをすら惡なりとした彼。偉大なるヒューマニチイの大否定者。しかしこの恐ろしい價値の否定者は、そのすべての總勘定に於て、ただ一つの價値を許した。その一つの價値とは何であるか。それこそ人性に於て、惡の惡、醜の醜と認めるところの者、卽ち『死』そのものの價値ではなかつたか。

 そもそも『價値としての死』とは何か。言ふ迄もなく『美としての死』『善としての死』『眞としての死』であり、一言にしていいへば『情緖としての死』である。ここにかの怪しげなる『涅槃』の夢は浮かんでくる。眞理と冥合せる死、至善としての死、世に之れほど神祕的な幻想があるか。かかるいぢやは、人心の奧深くひそむ象徴の機密にふれてのみ、始めて幽かにその匂ひをかぐことができる。いて言葉につくすべきものではない。

 思ふ。熱帶の眞晝、しんめんたる森林の奧に居て、ほのかに匂ふ蓮の花の微光を。そもそも佛の涅槃は、靑白き病熱の幻覺にすぎないのであらうか。ともあれ、夢の中の生をして、夢の中の事實を信ぜしめよ。ああ、一つの魅惑ある情緖――美しき涅槃。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げである。]

 附記。散文詩と抒情詩――特に自由詩形による抒情詩――との區別は、私にとつて明白でない。倂し、思ふに、そんな區別はどこにもないのだらう。丁度、詩と散文との識域がぼかしになつてゐるやうに、散文詩と自由詩(抒情詩としての)の識域もぼかしになつてゐるのだらう。要するにより情緖的なものが抒情詩であり、より槪念的なものが散文詩である。だから今日に於て、眞の意味での抒情詩と言へば、徹底した直感的表現、卽ち所謂『象徵詩』より外にはないわけである。象徵詩以外の自由詩は、皆一種の散文、若しくは散文詩と見るのが至當である。元來言へば始から完全の韻律がない日本語に於て、自由詩といふやうな槪念の存在すべき理由がない。日本語で自由詩の槪念を許すならば、古事記や、源氏物語や、徒然草やは、すべて皆自由詩である。言ひ代へれば、自由詩卽ち散文詩である。倂し、西洋に起つた自由詩の運動は、高踏派や古典派の形式偏重に對する浪漫主義の新發展であるから、それが散文詩への弛緩――韻律上の墮落――でなくして、全く抒情詩としての權威――純粹詩歌としての權威――に於て新方面を望んだ者であることが明らかである。之れに反して、日本には本來『韻律』といふものがないのである。日本語には『調子(タイム)』だけあつて『旋律(メロデイ)』がない。それ故、日本でいふ自由詩とは、單に『調子の自由』といふことであつて『韻律の自由』といふことにならない。日本には昔から散文詩といふ言葉もなく、敍事詩といふ言葉もなかつた。何故ならば、すべての散文――古事記や、源氏物語や、平家物語や――は、それ自身に於て散文詩であるからである。日本語で書けば必ず一種の調子が出る。そしてこの調子が、日本語に於ける唯一のリズムである。だから日本で『詩』と言へば、一定の格調あるフレーズを、一定の格調なきフレーズに對照させる時にのみ意義があるのである。尤も西洋でも、近來『自由詩は詩に非ず』といふ説が權威を持つてゐるやうだが、日本のやうに自由詩そのものの意義が空虛な所では、尚更のこと『自由詩は詩に非ず』でなければ、ならない。――倂し、ここで『詩に非ず』といふのは、狹義の意味の詩、卽ち『抒情詩に非ず』といふ意味なのは勿論である。詩(ポエム)の槪念を擴大すれば、自由詩と雖も、失張一種の詩であるにはちがひないが、かくては詩といふ言葉が、散文に對して言はれる特質を失つてしまふ。――だから自分は、要するに、散文と、散文詩と、觀念抒情詩と、純粹抒情詩との識域をば、一つの曖昧なぼかしの上に置きたいと思ふ。現代の日本詩人は、自ら抒情詩人と名乘る必要もなく、自ら散文詩人と斷る必要もない。彼の作が、果して抒情詩の批判に於て許さるべきものか――しかく[やぶちゃん注:「然く・爾く」(副詞「しか」+副詞語尾「く」)で「そのように・そんなに」の意であろう。]情緖的、象徵的であるか――若しくはそれが抒情詩として許すべく、あまりに槪念的、明的であるかといふこと、卽ち事案上、それは『詩としての價値』をもつか『散文としての價値』を持つかといふことは、全く讀者自身の觀照に一任すべき問題でなければならぬ。散文詩と散文との批判も全く之れに準ずべきである。私はかりに自作に對して『散文詩』といふ名稱をあたへた。倂しそれが、若し讀者に對して次のやうな觀念――詩といふべくあまりに實感的(非情緖的)であるとかあまりに槪念的であるとかいふ觀念――をあたへるならば、私は直ちに詩といふ名義を撤囘したい。之れに反して、若しそれが讀者に充分なる情緒的興奮(魂を現實以外に引きあげる興奮)をあたへることができるならば、あへて必しも散文詩と斷らないで一層大膽に抒情詩と自稱してもよいのである。

 

   *

さて、これらから推すに、「しんめんなる」は「眞面なる」であり、「如何にもそう呼ぶに相応しい内実と外見をその対象が持っているさま」「真実にして誠(まこと)にそう呼ぶに相応しいさま」という意味と採ってよいと私は考えている

「常盤木」「ときはぎ(ときわぎ)」であろう(初出ルビもそうなってはいる)。但し、現行の植物学上の「常緑広葉樹(林)」を指してはいない。まさに「しんめんなる」永遠に枯れることのない聖樹でなくてはならぬ。

「愛憐」「あいれん」であろう(初出ルビもそうなってはいる)。「哀憐」と同じで、「哀れみ、慈(いつ)しむこと」の意。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『佛の見たる幻想の世界(本篇原稿一種一枚)』として以下の無題一篇が載る。表記は総てママである。アラビア数字は朔太郎がふったもの。

    *

 

  ○

 

いま疲れてながく孤獨の椅子に眠るとき、

私の家の窓にも月がさし、

月は花やかに空にのぼつて居る。

 

1佛よ、

2私は愛する、おんみの親たる幻想の蓮の花を、

その花のかぐはしい

靑ざめた生に 花咲く夢想の→晚ける病熱の夢想の花を 幸福を、

3靑ざめた生命に咲ける病熱の幸福を花の香氣を

とりわけてすべてを熱病の夢の中に、

佛よ

佛よ、ああとりわけてすべてを愛憐の夢の中に

あまりに孤獨にして花やかにして孤獨なる

佛よ 4ひとり私のたましひのすすりなくとき

 

   *

2019/01/10

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱の川邊

 

  憂鬱の川邊

 

川邊で鳴つてゐる

蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい

しぜんに生えてる

するどい ちひさな植物 草本(さうほん)の莖の類はさびしい

私は眼を閉ぢて

なにかの草の根を嚙まうとする

なにかの草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために

げにそこにはなにごとの希望もない

生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ

梅雨だ

じめじめとした雨の點滴のやうなものだ

しかし ああ また雨! 雨! 雨!

そこには生える不思議の草本

あまたの悲しい羽蟲の類

それは憂鬱に這ひまはる 岸邊にそうて這ひまはる

じめじめとした川の岸邊を行くものは

ああこの光るいのちの葬列か

光る精神の病靈か

物みなしぜんに腐れゆく岸邊の草むら

雨に光る木材質のはげしき匂ひ。 

 

[やぶちゃん注:「そうて」はママ。大正七(一九一八)年四月号『感情』初出。初出との有意な違いは、二行目の「蘆」が「芦」で「よし」とルビし、「葦」に「あし」とルビすることと(これは本来は実は必要なルビである)、「しかし ああ また雨! 雨! 雨!」が「しかし ああ また雨 雨 雨」で「!」がないことである(漢字表記の違いは複数あるが、「芦」以外はここでは挙げないこととする)。「定本靑猫」も有意な相違はない(敢えて言えば「じめじめとした」が「じめじめした」となる)。参考までに言っておくと、「定本靑猫」後の昭和一四(一九三九)年の詩集「宿命」では「精神」に「こゝろ」とルビしているが、無論、ここではそれを気にする必要はない。

「蘆」(よし)「葦」(あし)であるが、植物学的には同一種の異名で、単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ
Phragmites australis
 を指す。漢字では「葦」「芦」「蘆」「葭」も生物学的には総て同一種なのである。ところが、朔太郎はここで明らかに、この二つを異なった対象として併置していることが判るから、何とかしなくては注にならない。困ったなと思って調べたところ、ときしらず氏の「ときしらずのブログ◎迂闊な話」の「葦(あし)と葦(よし)」に大修館書店「明鏡国語辞典」には、『もと成熟したものを「葦」、穂がすっかり出そろわないものを「蘆」、穂の出ていないものを「葭」と書き分けた』とあるそうで(私は所持しないので確認は出来ない)、これで、伸びてはいるが、穂が包まれていたり、少ししかほうけていない「蘆(よし)」と、しっかり伸びきって穂をしっかり開いている「葦(あし)」が混在している川辺をイメージすればよいということになろう。]

2019/01/09

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 黑い風琴

 

  黑い風琴

 

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ

あなたは黑い着物をきて

おるがんの前に坐りなさい

あなたの指はおるがんを這ふのです

かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ。

 

だれがそこで唱つてゐるの

だれがそこでしんみりと聽いてゐるの

ああこのまつ黑な憂鬱の闇のなかで

べつたりと壁にすひついて

おそろしい巨大の風琴を彈くのはだれですか

宗教のはげしい感情 そのふるへ

けいれんするぱいぷおるがん れくれえむ!

お祈りなさい 病氣のひとよ

おそろしいことはない おそろしい時間はないのです

お彈きなさい おるがんを

やさしく とうえんに しめやかに

大雪のふりつむときの松葉のやうに

あかるい光彩をなげかけてお彈きなさい

お彈きなさい おるがんを

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ。

 

ああ まつくろのながい着物をきて

しぜんに感情のしづまるまで

あなたはおほきな黑い風琴をお彈きなさい

おそろしい暗闇の壁の中で

あなたは熱心に身をなげかける

あなた!

ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年四月号『感情』初出。初出との違いで有意に印象が違うのは「れくれえむ!」の「!」がないこと、同じく最後から二行目の「あなた!」の「!」がないことで、他は有意な相違はない。「定本靑猫」では「かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに」が「かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに………」と九点リーダが入っていること、「時間」の二字に「とき」のルビが振られていること(これは正しい改善と感ずる)、こと以外には有意な相違はない。なお、「れくれえむ」(requiem:鎮魂曲・レクイエム・死者の冥福を祈る哀歌・悲歌・挽歌。ラテン語で「安息を」の意で、死者ミサの入祭文の最初の語に由来する)については、筑摩書房版全集の校異に、『「れくれえむ」は、正しくは「れくいえむ」requiem であるが、作者が語感の上であえてこの形にしたか、單純な誤記か、明瞭でない。また、作者生前の諸本もすべて「れくれえむ」のままなので、本全集でも校訂を加えなかった』と特異的に注が附されてある。これは編者の卓見というべきである。たまには褒めておこう。

「とうえんに」形容動詞であるが、こんなは知らない。「とうえん」で調べて見ても、しっくりくるものはない。ネットのとあるQ&Aサイトで、この意味を訊ねたものへの複数の回答があった。その一つに、「嗒焉」で、我を忘れてうっとりするさま。「嗒然」と同じとするもの、ある方は、朔太郎の造語と解釈するのが自然とし、透き通った艶めかしさと言った意味で『「透艶に」という漢字を当てた』別の方の回答を評価し、『教会のパイプオルガンの音は、まさしく、透明感のあるつややかな美しい音』に相応しいとする。別なある方は、『恋人エレナ(洗礼名)の死の翌年に書かれた詩です。場所はギリシャ正教の教会ですね。れくれーむはレクイエム。エレナのお葬式の印象が強いと思います。キリスト教の言葉に「祷援」があります。祈りで他人を支えること。仮名は「たうゑん」ですが、朔太郎はこの言葉を耳で聞いて漢字を調べなかったのかもしれません』としつつ、「透艶」というのは『パイプオルガンの荘厳な音の形容に相応しくない。詩人なら避けます』と一蹴している。私は「とうゑん」であるが、永遠に透徹する感じで「透遠」を当て字した。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 夢にみる空家の庭の祕密

 

 

Seiyounozu

 

[やぶちゃん注:ここ(「憂鬱なる花見」の後。左ページ)に以上の「西洋之圖」が入る。ヴィジュアルに底本から撮ることとしているため、綴目近くにハレーションのようなものが入っているのはお許しあれ。筑摩版全集解題によれば、以上の画像はサンフランシスコの絵葉書とある。それにしても、この詩篇の間に、これは、ねえだろ! 朔太郎!

 

 

  夢にみる空家の庭の祕密


その空家の庭に生えこむものは松の木の類

びわの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類

さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝

またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物

およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類

地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる

それら靑いものの生命(いのち)

それら靑いもののさかんな生活

その空家の庭はいつも植物の日影になつて薄暗い

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

またじめじめとした垣根のあたり

なめくぢ へび かへる とかげ類のぬたぬたとした氣味わるいすがたをみる。

さうしてこの幽邃な世界のうへに

夜(よる)は靑じろい月の光がてらしてゐる

月の光は前栽の植込からしつとりとながれこむ。

あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに心をかたむけ

わたしの心は垣根にもたれて橫笛を吹きすさぶ

ああ このいろいろのもののかくされた祕密の生活

かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界

月光の中にうかびいづる羊齒(しだ) わらび 松の木の枝

なめくぢ へび とかげ類の無氣味な生活

ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家の庭の祕密と

いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさよ。 

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。「びわ」はママ(筑摩書房版全集は「びは」に強制校訂されている)。

 しかし、ここに大きな問題を見出す筑摩書房版全集の校訂本文は、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

の部分を、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ

夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

と二行に分けているが、底本の版組を再現すると、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ[やぶちゃん注:この下に一字空け。ブラウザの不具合で入らないケースがあるので特に注した。] 夜も[やぶちゃん注:ここで行末。]

晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

となっており、これが一行であることは、全く論議や校訂の埒外なのである(因みに、本詩集では一貫して、詩の一つの一連の表現が二行に亙る場合、よくある一字下げでそれを示す仕儀は採られていないのである)。しかも、初出形も、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ、夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

と一行なのである。しかも理由を述べずに、天下の筑摩書房版全集は確信犯で二行に分けているのである(校異にそれが出るから、確信犯なのだ。原稿で確認し修正をしたのならまだしも、そのようなことは「校訂凡例」には書かれていないのである。恐らくは掟破りの「定本 靑猫」を時間を遡らせて強引に変形したものと推定される)。こんなことが許されるとは私には到底思われない。但し、後の「定本靑猫」では二行に分けられているようではある。だからと言って、「靑猫」の本文をいじっていいことには到底ならぬ! しかも、それに先行する、昭和三(一九二八)年第一書房版「萩原朔太郎詩集」と翌昭和四年の新潮社刊「現代詩人全集」第九巻のここを同全集の校異で見ると、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜も

晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

と、朗読のリズムから見ても、とってもあり得ない形なのである。これはこの初版「靑猫」の版組を読み違えたものに他ならない。あん? 「何じゃ! こりゃッツ!?!」(ジーパン刑事風に)

 なお、初出は全体に改行に違いは見られるものの、表現に有意な差はなく、「定本靑猫」も同様である。

「松の木」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus

「びわの木」被子植物門双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科ナシ連ビワ属ビワ Eriobotrya japonica

「桃の木」バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica

「まきの木」マツ綱マツ目マキ科 Podocarpaceae のマキ(槇)類或いはマキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus

「さざんか」双子葉植物綱ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

「さくら」モモ亜科スモモ(サクラ)属サクラ亜属Cerasus のサクラ(桜)類。

「しだ」「羊齒」。概ねシダ植物門シダ綱シダ目 Pteridales に属するシダ(羊歯)類。維管束を持った非種子植物で、胞子によって増殖するシダ植物類。旧来の分類が大きく変わったので、詳しくはウィキの「シダ植物」を見られたい。

「わらび」「蕨」。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinum

「ぜんまい」「薇」。シダ綱ゼンマイ科ゼンマイ属ゼンマイ Osmunda japonica。ワラビとの違いは、新芽の段階でワラビには小さな芽が三つあるのに対し、「ゼンマイ」は大きな渦巻状の芽が一つあることが素人でも分かる大きな違いで、「ワラビ」には微量ながら、発癌物質であるプタキロサイド(ptaquiloside)が含まれ、「ゼンマイ」には含まれていないことである。

「もうせんごけ」「毛氈苔」。食虫植物として知られるナデシコ目モウセンゴケ科モウセンゴケ属モウセンゴケ Drosera rotundifolia

「なめくぢ」軟体動物門腹足綱ナメクジ科ナメクジ Meghimatium bilineatum

「へび」脊索動物門脊椎動物亜門爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ上科 Xenophidia

「かへる」脊椎動物亜門両生綱無尾目 Anura

「とかげ」脊椎動物亜門爬虫綱有鱗目トカゲ亜目 Sauria

「幽邃」「いうすい(ゆうすい)」は景色が奥深く静かなこと。

「前栽」元高校国語教師としては「せんざい」の読みを示す義務がある。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『夢にみる空家の庭の銘密(本篇原稿一種二枚)』として以下が載る。表記は総てママである。

 

 

  空家の庭を夢にみる

  夢にみる空家の庭の祕密

 

ここにさむしい空地がある

その空地の中に

ここにながれる小川がある

その庭の 小川に→附近→空地家の庭に生えこむものは松の木のるい、

ひわの木、桃の木、まきの木、山茶木、櫻のるい、

さかんな樹木、さかんなあたりにひろがる樹木の枝、

その葉のかさなる下には ながるゝ 小川がながれ

またそのむらがる葉かげには小川がながれ岸には いちめんぞくぞくと繁茂するところの植物、およそシダ、ワラビ、ゼンマイ、コケ、モソウ、モウセンゴケのるい、

およそ地べたいちめんに

空はそれらのもの靑く重なつて重なりあつて這ひまわる、[やぶちゃん注:編者は「空」を「地」の誤字とする。]

それらの靑いものの生命、

それらのもののさかんな生活

その庭は植物空家の庭はこの植物におほはれていつも日かげでうすぐらい、

ただかすかにきこゑながれるものは一筋の小川の水

夜も晝もそうそうとさよさよとかなしくひくくながれる水の音

そうしてまた荒れはてたる家のかげにかくれてじめじめした築山の垣根のかげには

なめくじ、蛇、蛙、とかげるいのぬたぬたとした生活→不思議な生活 もある無氣味な生活をみる

そうしてこのせまい幽すゐな世界のうへに

よるは靑白い月の光がてらしてゐる、

月の光は靑葉がくれよりして前裁の植ごみから築山かけてのぞいてゐる、しつとりとながれこむ、

いろいろなもののかくされた 世界

このしづかなめやかな、しめつぽい深夜のふけてゆく美しさよこころもちで

なつかしい笛のひひき

なにものかがいのりもとめる世界

月は前裁の植こみに

わたしの心は庭の□にたたづみ垣根にもたれて美しい橫笛をふいてたのしむ、吹きすさぶ、

わたしの夢のなかの私の心は

ああ、かうして 私はかうした

ああ、このいろいろのもののかくされた祕密な世界生活

かぎりなく深い美しい影と不思議な姿の重なつてゐるりあふところの夢の生活世界

月光の中に浮びいづるシダ、ワラビ、松の木の枝、なめくじ、蛇、とかげの生活無氣味な生活

ああ私のかなしい夢にみるこのよくみるこの人すまぬ空家の庭の祕密と

いつもその奇妙なその謎のとけやらぬおもむき深き幽すゐのなつかしさよ。

 

   *

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱なる花見

 

  憂鬱なる花見

 

憂鬱なる櫻が遠くからにほひはじめた

櫻の枝はいちめんにひろがつてゐる

日光はきらきらとしてはなはだまぶしい

私は密閉した家の内部に住み

日每に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる

その卵や肉はくさりはじめた

遠く櫻のはなは酢え

櫻のはなの酢えた匂ひはうつたうしい

いまひとびとは帽子をかぶつて外光の下を步きにでる

さうして日光が遠くにかがやいてゐる

けれども私はこの暗い室内にひとりで坐つて

思ひをはるかなる櫻のはなの下によせ

野山にたはむれる靑春の男女によせる

ああいかに幸福なる人生がそこにあるか

なんといふよろこびが輝やいてゐることか

いちめんに枝をひろげた櫻の花の下で

わかい娘たちは踊ををどる

娘たちの白くみがいた踊の手足

しなやかにおよげる衣裝

ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつてゐることか

花見のうたごゑは橫笛のやうにのどかで

かぎりなき憂鬱のひびきをもつてきこえる。

いま私の心は淚をもてぬぐはれ

閉ぢこめたる窓のほとりに力なくすすりなく

ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命(いのち)をもとめ

なにものの影をみつめて泣いてゐるのか

ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで

遠く花見の憂鬱なる橫笛のひびきをきく。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出と有意な異同はない。「定本靑猫」では、中間部の、

   *

ああいかに幸福なる人生がそこにあるか

なんといふよろこびが輝やいてゐることか

   *

が、

   *

ああ なんといふよろこびが輝やいてゐることか

   *

となっている以外には大きな異同はない。確かに、私はこの「いかに幸福なる人生がそこにあるか」という部分はいらぬと思う。序でに言っておくと、萩原朔太郎のよく使う「酢え」はどうも好きになれない。「饐え」でないと、私は生理的に気に入らない。それにしても、実は桜が(特に双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属品種ソメイヨシノ(染井吉野)Cerasus × yedoensisSomei-yoshino)嫌いな作家は多いな。にしてもこれもまた徹底してないぞ! 是非ともここでも、後の梶井基次郎の「櫻の樹の下には」(昭和三(一九二八)年十月稿。同年十二月に雑誌『詩と詩論』第二冊に発表。リンク先は私の古い古い電子テクスト)の大詩人の感想を御拝聴したいもんだね。俺? 俺は作家じゃないからね、ソメイヨシノ、好きだぜ、ただ、亡き母と約束したのに、花見の前の二〇一一年三月十九日、母はALSで亡くなった、だから、もう、花見は、しない。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしく憂鬱なる

 

  恐ろしく憂鬱なる 

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる

むらがる むらがりて飛びめぐる

てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)

いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ

このおもたい手足 おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だらう

つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに

私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり

ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

 註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものである。 

 

[やぶちゃん注:「註」は繋がった一文であるが、全体が一字下げになってポイント落ちで二行に書かれている。ブラウザの不具合を考え、上に引き上げ、二行目の三字下げを無視した。悪しからず。大正六(一九一七)年五月号『感情』初出。「てふ」を字音通りに読めとする朔太郎伝説の一篇である。初出には有意な異同を感じないが、敢えて言えば、

   *

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

   *

の三行が、

   *

私の靑ざめた屍體のくちびるに、額に、かみに、かみのけに、ももに、胯に、腋のしたに、 足くびに、足のうらに、みぎの腕にも、ひだりの腕にも、腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

   *

一行で巻きつく蛇のように連続していて、その〈ぬたくる〉感覚が初出の方が遙かに効果的であるように思う。「ちうちう」と〈腐亂した詩人の屍體の體液を吸ふ蝶(てふ)〉の幻聴がよく聴こえる気がする。因みに言っておくが、動物の腐乱死体に普通に群がるのは蠅ばかりではない。蝶も群がる。「万葉集」に蝶を詠んだ歌がないのは、風葬や遺体の野晒しが一般的であった上代に於いて人の死体に群がる蝶をまがまがしいものと捉えたからという説もあるくらいだ。

「胯」は「また」かも知れぬが、「またぐら」と、前の「股」から差別化し、より限定した萎えた性器のある風景としての股間を指すものとして、そう読みたいと思う。また、後書きは、ポイント落ちで全体が三字下げで、

   *

詩中平假名にて書きたる「てふてふ」は文字通り「て、ふ、て、ふ」と發音して讀まれたし「チヨー、チヨー」と讀まれては困る。

   *

となっている(「註」の字はない)。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『恐ろしく憂鬱なる(本篇原稿二種五枚)』として以下の二篇が載る。前者は標題が「すべてを恐ろしく憂鬱なる森の中に」、で後者は「恐ろしく憂鬱なる」である。表記は総てママである。

   *

 

  すべてを恐ろしく憂鬱なる森の中に

 

ああこの恐ろしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

私の心はみぶひるをして

醜くきつついた小鳥のやうに

私の心はやなましく→いたましく 羽ばたきをして→みぶるひをして→びくびくとぢたばたと羽ははきして

醜い小鳥の やうに 死ぬるやうに羽はばきするぬるときんでゆくときのやうだ

 

 

  恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりした森のしげみ木立のなかで蝶がとんでゐる

白いてふてふが

いちめんに白いてふてふ蝶蝶がとんでゐる

むらがりむらがりてとびまわめぐるてふてふてふてふ

あちらこちら枝のしげみからてふてふてふてふ

森中いつぱいに重なむらがりあつてめまぐるしい小さな蝶蝶→それらの蝶蝶のむれ

そのさいなさするどい羽のぴかぴかするかがやきやう、[やぶちゃん注:「さいなさ」は編者は「ちひさな」の誤記とする。]

この女→私はああこれはなんといふ恐ろしい心の憂鬱なまぼろしだ、

私の→この→かかるこのおもたい手足、おもたい心臟のくるしみ

かぎりもなくなやましい肉體の→肉體物體をひきづつて→のかさなりと物質のかさなり

ああこれは何といふ美しい肉體の病氣だ

やつれたつかれなまめかしいはれたる神經のつかれだ、なまめかしいたそがれどきだ[やぶちゃん注:「はれたる」を編者は「はてたる」の誤記とする。]

私はみる、ここに女のおもたいここに女たちの重たい→つかれた投げ出したおもたい手足を

なめまかしいつかれた股の肥つたおもみを

その血のやうなくろいちびるはここにかしこに、死骸のやうな私の靑ざめた死骸の

くちびるにひたいにかみにかみの毛に股にまたにワキの下にてのひらにあしのうらに、へそに 右の腕に左の腕に、はらのうへにも押しあひて重なりあふ、

あらゆる恐ろしい肉

むら ああどこもかしこもむらがりむらがりてとびめぐるてふてふてふてふ

そのはげしい色慾のなやみ

むらがるむらがる物體と物質との淫ワイなる重なり、

ここにかしこに追ひみだれる蝶々

そのはげしい 肉→色情の やなみ、

みにくい けだものににたなやましい色情のさんたんたるくるしみ 動物のやうな かたちをしたものの→ものの 氣味の惡い→無氣味な かたまり、

ああなんといふ恐ろしい憂鬱なる色情の日かげをみることが

ああこの 森の中の→憂鬱に 幽靈の

たえがたく恐ろしい憂鬱なる

ああこの恐ろしいまぼろしの→恐ろしい憂鬱のまぼろし日影にとびめぐる□□のてふてふ

いきづまる憂鬱さをにたましひはを恐る

むらがるむらがる幽靈のみにくい巨大のかたまり、

ああこの恐ろしいもののすがたかたちをみる→くみにくいもの憂鬱なる日かげを。

 

(註、詩中の語、てふてふ(蝶蝶)はチヨーチヨーと發音するな、て、ふ、て、ふ、と讀め、蝶のうすい羽ばたきをして飛び→をひらひらをうごかす動作の感覺が象微 したる言葉なればや、→するものです、 →聽覺によつてそこからくる。もちろんこの日本語は元來言葉が生れた本來の意義もそこにあつたのでせう、チヨーチヨーとよむ昔の人は蝶を「て、ふ」と發音してよんでゐたそうですから。この言葉にかぎらずすべて日本語はできるだけ平瑕名で書く方がよいやうです、そうでないと言葉のほんとのリズムがはつきり出ないと思ふ)

 

   *

 

 なお、本篇を以って第一パート「幻の寢臺」は終わっている。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蠅の唱歌

 

  

 

春はどこまできたか

春はそこまできて櫻の匂ひをかぐはせた

子供たちのさけびは野に山に

はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。

さうして私の心はなみだをおぼえる

いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ

この心はさびしい

この心はわかき少年の昔より 私のいのちに日影をおとした

しだいにおほきくなる孤獨の日かげ

おそろしい憂鬱の日かげはひろがる。

いま室内にひとりで坐つて

暮れゆくたましひの日かげをみつめる

そのためいきはさびしくして

とどまる蠅のやうに力がない

しづかに暮れてゆく春の夕日の中を

私のいのちは力なくさまよひあるき

私のいのちは窓の硝子にとどまりて

たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年五月号『感情』初出。初出標題は「蠅の唄歌」。最終行の「唱歌」も「唄歌」。誤植ではなく、この二字で「うた」と読ませているのかも知れぬとしておこう。まあ、「唱歌」と代えたのだから、そこまで穿って考える必要はなかろうという気もする。「定本靑猫」でも採っているが、有意な異同はない。しかし、思う。萩原朔太郎は飢えて死ぬ蠅を見ようとはない。恐いのだ。朔太郎に梶井基次郎の「冬の蠅」(昭和三(一九二八)年二月稿。雑誌『創作月刊』同年五月号初出。リンク先は私の化石のような電子テクスト)の感想が聴きたいなと、ふと、思った。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 野原に寢る

 

  野原に寢る

 

この感情の伸びてゆくありさま

まつすぐに伸びてゆく喬木のやうに

いのちの芽生のぐんぐんとのびる。

そこの靑空へもせいのびをすればとどくやうに

せいも高くなり胸はばもひろくなつた。

たいさううららかな春の空氣をすひこんで

小鳥たちが喰べものをたべるやうに

愉快で口をひらいてかはゆらしく

どんなにいのちの芽生たちが伸びてゆくことか。

草木は草木でいつさいに

ああ どんなにぐんぐんと伸びてゆくことか。

ひろびろとした野原にねころんで

まことに愉快な夢をみつづけた。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年六月号『秀才文壇』初出。初出標題は「ひろびろとした野原で夢を見る」であるが、朔太郎特有の粘着質の説明調や直喩を減ずれば、同世代の山村暮鳥(朔太郎より二歳年上)と似てくる。しかし、暮鳥のそれっぽい詩群、例えば「風は草木にささやいた」や「雲」は前者が大正七(一九一八)年の、後者は大正一四(一九二五)年の刊行(生前に入稿したが、出版を見ずに逝去した)である。因みに、山村暮の全詩篇電子化完遂てい。]

2019/01/08

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)

 

Hayabusa

 

はやぶさ   鸇【音旃】 鶻【音骨】

       晨明

【鶽同】

      【和名八夜布佐】

チユン

 

陸佃云鷹之搏噬不能無失獨隼爲有準毎發必中張九

齡曰雌曰隼雄曰鶻【𩾲𩾥並同】蓋鷹不擊伏隼不擊胎如遇懷

胎者輙放不殺鶻擊鳩鴿及小鳥以煖足旦則縱之此鳥

東行則是日不東往擊物西南北亦然此天性義也隼狀

似鷹而蒼黑胸腹灰白帶赤其背腹斑紋初毛不正易毛

後略與鷹同全體不似鷹鷂能擊鴻鴈鳬鷺不能擊鶴鵠

及告天子鶺鴒之類性猛而不悍鷹鷂之屬同類並居則

相拒而争攫隼鶻者雖同類並居而不拒或同鷙一鳥亦

相和並食

 鷹摯鴻鴈動以翅被搏而昏迷是所以鷹脚長也隼摯

 鴻鴈而不搏翻攀首喰折是所以隼脚短也

三才圖會云鶻拳堅處大如彈丸俯擊鳩鴿食之鳩鴿中

其拳隨空中卽側身自下承之捷於鷹

[やぶちゃん注:「隨」では訓読出来ないので、東洋文庫訳を参考にして、これを「堕」と読み換えて訓読した。この前の部分もそのままでは文が繋がらないので自在勝手に語を挿入した。]

               西園寺相國

  はけしくも落くるものか冬山の雪にたまらぬ峰の朝風

佐之婆 隼之小者其大如鳩有青色者【阿於佐之婆】赤毛者

 【阿加佐之婆】共能捉小鳥自朝鮮來未聞本朝巢鷹之

                  定家

  夕日影櫛もさしばの風さきに野邊の薄の糸やかけまし

 

 

はやぶさ   鸇〔(せん)〕【音、「旃〔(セン)〕」。】

       鶻〔(こつ)〕【音、「骨」。】

       晨明〔(しんめい)〕

【「鶽」、同じ。】

      【和名、「八夜布佐」。】

チユン

 

陸佃〔(りくでん)〕が云はく、「鷹の搏〔(う)ち〕噬〔(か)むに〕、失〔すること〕無きこと、能はず。獨り、隼は準〔(じゆん)〕[やぶちゃん注:照準。狙い。]有りと爲〔(し)〕、發(はな)つ毎に、必ず中〔(あた)〕る」〔と〕。張九齡が曰く、雌を「隼(はやぶさ)」と曰ひ、雄を「鶻」と曰ふ【「𩾲」「𩾥」、並びに同じ。】。蓋し、鷹は伏〔(ふ)せるもの〕を擊たず、隼は胎〔(はら)めるもの〕を擊たず。懷胎の者に遇ふごときは、輙〔(すなは)〕ち、放ちて、殺さず。鶻は鳩・鴿〔(いへばと)〕及び小鳥を擊〔(げき)〕して、以つて足を煖〔(あたた)〕め、旦〔(あした)〕には、則ち、之を縱(ゆる)す。此の鳥、東に行けば、則ち、是の日は、〔鷹は〕[やぶちゃん注:東洋文庫訳を参考に補った。]東に往きて物を擊たず。西・南・北、亦、然り。此れ、天性の義なり。隼、狀、鷹に似て、蒼黑、胸・腹、灰白にして赤を帶ぶ。其の背・腹、斑紋あり。初めの毛は正しからず、毛を易へて後、略(あらあら)鷹と同じ〔たり〕。全體、鷹・鷂〔(はいたか)〕に似ず、能く鴻〔(ひしくひ)〕・鴈〔(がん)〕・鳬〔(かも)〕・鷺を擊つ。鶴・鵠〔(くぐひ)〕及び告天子〔(ひばり)〕・鶺鴒〔(せきれい)〕の類を擊つこと、能はず。性、猛にして悍(たけ)からず。鷹・鷂の屬は、同類、並み居れば、則ち、相ひ拒(こば)んで、争ひ、攫(つか)む。隼・鶻は、同類、並み居ると雖も、拒まず、或いは同じく一鳥を鷙(と)るにも亦、相ひ和して並(なら)び食ふ。

 鷹は鴻・鴈を摯(と)るに、動(ややもす)れば、翅を以つて搏(う)たれて昏迷す。是れ、鷹の脚の長き所以なり。隼は鴻・鴈を摯(う)ちても搏(う)たれず。翻(ひるがへ)りて、首を攀〔(よ)〕ぢ、喰ひ折る。是れ、隼の脚の短き所以なり。

「三才圖會」に云はく、『鶻、拳(こぶし)の堅き處、大いさ、彈丸のごとく、俯して鳩・鴿を擊ちて、之れを食ひて〔ける〕。鳩・鴿、其の拳に中〔(あた)〕る〔に〕、空中に堕〔(お)〕つ。卽ち、身を側〔(そばだ)〕て、自〔みづか)〕ら下〔(くだ)〕り、之れを承〔(う)く〕ること、鷹よりも捷(はや)し』〔と〕。

               西園寺相國

  はげしくも落ちくるものか冬山の

     雪にたまらぬ峰の朝風

佐之婆(さしば) 隼の小さき者なり。其の大いさ、鳩のごとく、青色有る者【「阿於佐之婆〔(あをさしば)〕」。】、赤き毛の者【「阿加佐之婆〔(あかさしば)〕」。】〔と云ひ〕、共に能く小鳥を捉〔(と)〕る。朝鮮より來たる。未だ本朝〔にては〕巢鷹のを聞かず。

                  定家

  夕日影櫛〔(くし)〕もさしばの風さきに

     野邊の薄〔(すすき)〕の糸やかけまし

[やぶちゃん注:ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ亜種ハヤブサ Falco peregrinus japonensis なんだけど、何だか、絵図が幻鳥並みにスゴいんですけど?! ウィキの「ハヤブサ」を引く。『南極大陸を除く全世界』に分布する。『種小名peregrinusは「外来の、放浪する」の意』で、『寒冷地に分布する個体群は、冬季になると温帯域や熱帯域へ移動し』、『越冬する』。『日本では亜種ハヤブサが周年生息(留鳥)し、冬季に亜種オオハヤブサ』(Falco peregrinus pealei)『が越冬のため』、『まれに飛来する(冬鳥)』。全長はが三十八~四十五センチメートル、は四十六~五十一センチメートルで、翼開長は八十四~百二十センチメートル体重〇・五~一・三キログラムで、外のタカ類同様、『メスの方が大型になる』。『頭部の羽衣は黒い。頬に黒い髭状の斑紋が入る』。『体上面や翼上面の羽衣は青みがかった黒』。『喉から体下面の羽衣は白く、胸部から体側面にかけて黒褐色の横縞が入る』。『眼瞼は黄色く』、『虹彩は暗褐色』。『嘴の色彩は黒く、基部は青灰色』で『嘴基部を覆う肉質(ろう膜)は黄色』。『河川、湖沼、海岸などに生息する。和名は「速い翼」が転じたと考えられている』『主にスズメやハト、ムクドリ、ヒヨドリなどの体重』一・八『キログラム以下の鳥類を食べる』。『獲物は飛翔しながら後肢で捕えたり、水面に叩きつけて捕える』。『水平飛行時の速度は』百『㎞前後、急降下時の速度は、飼育しているハヤブサに疑似餌を捕らえさせるという手法で計測したところ、時速』三百九十キロメートル『を記録した』。『巣をつくらずに(人工建築物に卵を産んだり、他の鳥類の古巣を利用した例もある』『)、日本では』三~四月に三~四『個の卵を断崖の窪みに産む』。『主にメスが抱卵し、抱卵期間は』二十九~三十二日で、『雛は孵化してから』三十五~四十二『日で巣立つ』。『生後』二『年で性成熟する』とある。

 

「鸇〔(せん)〕」この字、本邦ではハヤブサを指す以外に、別種のタカ目タカ科サシバ(差羽・鸇)属サシバ Butastur indicus をも指すので注意が必要である。後に出る「佐之婆(さしば)」がそれだ。ウィキの「サシバ」によれば、別名を「大扇(おおおうぎ)」とも呼び、中国北部・朝鮮半島・『日本で繁殖し、秋には沖縄・南西諸島を経由して東南アジアやニューギニアで冬を越す。一部は沖縄・南西諸島で冬を越す。日本では』四月頃、『夏鳥として本州、四国、九州に渡来し、標高』千メートル『以下の山地の林で繁殖する』。『全長は、で約四十七センチメートル、で約五十一センチメートル、翼開長は一・〇五~一・一五メートル』。『雄の成鳥は、頭部は灰褐色で、目の上の白い眉斑はあまりはっきりせず、個体によってはないものもいる。体の上面と胸は茶褐色、のどは白く中央に黒く縦線がある。体下面は白っぽく』、『腹に淡褐色の横縞がある。雌は眉斑が雄よりも明瞭で、胸から腹にかけて淡褐色の横縞がある。まれに全身が黒褐色の暗色型と言われる個体が観察される』。『主にヘビ、トカゲ、カエルといった小動物、セミ、バッタなどの昆虫類を食べる。稀にネズミや小型の鳥等も捕らえて食べる。人里近くに現』われ、『水田などで狩りをする』。『本種は鷹の渡りをみせる代表的な鳥である。秋の渡りは』九『月初めに始まり、渡りの時には非常に大きな群れを作る。渥美半島の伊良湖岬や鹿児島県の佐多岬ではサシバの大規模な渡りを見ることができる。なお春の渡りの際には秋ほど大規模な群れは作らない』。『本州の中部地方以北で繁殖したサシバは第』一『番目の集団渡来地、伊良湖岬を通り、別のサシバと合流して佐多岬に集結』、『大陸の高気圧が南西諸島に張り出し、風向きが北寄りに変化したときに南下飛行を開始』し、第三の渡来地である徳之島で休息、次に第四の渡来地である『宮古群島で休息する。一部は沖縄本島、周辺の離島で休息する鳥もいる』。その後、第五渡来地が台湾の満州郷、第六渡来地が『フィリピンのバタン諸島で』、後に『フィリピン、インドネシアまで広がって越冬する』とある。『平均時速は約』四十キロメートルで、『一日の平均距離は』四百八十キロメートル前後にまで達するとある。『朝の飛び立ちは』六時頃で、その日の』午後六時までには『すべて休息地に入る』。『ノンストップ』だと、十二『時間飛び続ける』ことが可能ともある。『越冬する鷹も』おり、『宮古諸島では「落ち鷹」という』。その『宮古島では渡りのサシバを捕らえて食べる文化があった。夜、木に登り、樹上で眠っている本種の足を握り、捕えていた。また、子どものおもちゃとしても用いられることもあった』が、『現在の日本では禁猟であり、捕えると処罰対象となる』。『宮古島においては、サシバが飛来する季節には、周知のためのポスターの掲示やパトロール班による見回りが行われる』そうである。『まれに鷹狩に用いられた』ともあった(下線太字やぶちゃん)。そうか! 芭蕉と杜国が見たのは、サシバだったのだ!


 鷹一つ見付てうれし伊良湖崎   芭蕉


私の古い
「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」(但し、分量膨大に附き、ご覚悟あれかし)を、どうぞ! 因みに、中国では本種サシバは現在「灰面鷲」の漢名で呼ばれ、中国では本種が十月十日前後に北方から南へ渡って来て越冬し、その渡りの主要地が台湾の八卦臺地及び恆春半島で、しかも十月十日は中華民國の「國慶日」であるため、「國慶鳥」の名で呼ばれることが中文の同種のウィキに記されてあった。なお、余談であるが、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機「隼(はやぶさ)」は愛称で、正式には「一式戦闘機」と言い、太平洋戦争に於ける事実上の主力機として五千七百機以上が製造された。旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機(零戦)に次いで二番目に多く、陸軍機としては第一位であった。昔、模型を作ったのを思い出した。

「旃〔(セン)〕」この字は「旃旌(センセイ)」という熟語で漢文や軍記物でよく見かける。「旗・無地の赤い旗」の意である。

「晨明〔(しんめい)〕」渡りの際に早朝に飛び立つからではあるまいか?

「陸佃〔(りくでん)〕」(一〇四二年~一一〇二年)は宋代の文人政治家。以下は彼の著わした訓詁学書「埤雅(ひが)」から。巻十四に、『今鷹之搏噬不能無失獨隼為有準故其毎發必中』とあった。

「張九齡」(六七三年~七四〇年)は盛唐の詩人で政治家。玄宗の宰相となって、安禄山の「狼子野心」を見抜き、「誅を下して後患をて」と玄宗に諫言したことでも知られるが、悪名高い李林甫や楊国忠らと対立して荊州(湖北省)に左遷された。官を辞した後は故郷に帰り、閑適の世界に生きた。詩の復古運動に尽くしたことでも知られ、文集に「曲江集」がある。名詩「照鏡見白髮」は原禽類 鴿(いへばと)(カワラバト)の私の注を参照。しかし、彼には「鷹鶻圖讚序」というのはあるものの、調べた限りでは、ここに書かれたような内容は記されていない。どこまでが引用なのかも含めて、出典不詳と言わざるを得ない。但し、「御定淵鑑類函」の巻四百二十二に、

   *

鷂一

原爾雅曰鷣負雀鷂也 廣雅曰籠鷂也 詩義問曰晨風今之鷂餘並以鸇爲晨風 詩義疏曰隼鷂也齊人謂之題肩或曰雀鷹春化爲布穀此屬數種皆爲隼 莊子曰鷂爲鸇鸇爲布穀布穀復爲鷂此物變也 增本草釋名曰鴟鳶二字篆文象形一云鴟其聲也鳶攫物如射也隼擊物凖也鷂目擊遥也詩疏云隼有數種通稱爲鷂爾雅謂之茅鴟齊人謂之擊正或謂之題肩梵書謂之阿黎耶 本草集解曰鴟似鷹而稍小其尾如舵極善髙翔專捉雞雀鴟類有數種按禽經云善摶者曰鷂竊黝者曰鵰骨曰鶻瞭曰鷂展曰鸇奪曰又云鶻生三子一爲鴟鶻小於鴟而最猛捷能擊鳩鴿亦名鷸子一名籠鸇色靑向風展翅迅搖搏捕鳥雀鳴則大風一名晨風小於鸇其脰上下亦取鳥雀如攘掇也一名鷸子隼鶻雖鷙而有義故曰鷹不擊伏隼不擊胎鶻握鳩而自暖乃至旦而見釋此皆殺中有仁也小雅采芑注曰隼鷂屬文直作爲鷂 孔穎逹曰隼者貪殘之鳥鸇鷂之屬玉篇云宿祝鳩也 春秋考異郵曰隂陽氣貪故題肩擊宗均注曰題肩有爪芒爲陽中隂故擊殺也 郯子曰虎之摶噬也疑隼之搏噬也凖鷹之搏噬不能無失獨隼爲有凖故每發必中

   *

というこの辺りに酷似した文章を見出せた。また、同じところに、

   *

唐柳宗元鶻曰有鷙曰鶻者巢於長安薦福浮圖有年矣浮圖之人室於其下者伺之甚熟爲余之曰冬日之夕是鶻也必取鳥之盈握者完而致之以燠其爪掌左右易之旦則執而上浮圖之跂焉乃縱之延其首以望極其所如往必背而去之焉東矣則是日也不東逐西南北亦然嗚呼孰謂爪吻毛翮之物而不爲仁義器耶

も叙述との一致部分がありそうだ。私の能力ではここまで。悪しからず。

「雌を「隼(はやぶさ)」と曰ひ、雄を「鶻」と曰ふ【「𩾲」「𩾥」、並びに同じ。】」この最後の割注は「鶻」に限定したそれであろう。

「初めの毛は正しからず」最初に生える毛は成体のそれではなく。

「略(あらあら)」ほぼ。

「悍(たけ)からず」獰猛ではない。

『「三才圖會」に云はく……』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のに図、に解説が載る。ああ、しかし、「堕」ではなく、やっぱり「隨」だなあ?【2019年1月10日追記】いつも種々のテクストで情報をお教え下さるT氏から、以下のメールを頂戴した。

   《引用開始》

三才圖會の「鶻拳堅處大如彈丸俯擊鳩鴿食之鳩鴿中其拳隨空中卽側身自下承之捷於鷹」の元ネタは陸佃の「埤雅巻第八」の「釈鳥」の「鶻」です。

調べて、ビックリで、四書全書版「埤雅巻第八」の「釈鳥」の「鶻」では、

鶻拳堅處大如彈丸俯擊鳩鴿食之鳩鴿中其拳「隨」空中卽側身自下承之捷於

ですが、しかし、「重刊埤雅巻第八」の「釈鳥」の「鶻」では、

鶻拳堅處大如彈丸俯擊鳩鴿食之鳩鴿中其拳「堕」空中卽側身自下承之捷於鷹

となっています。[やぶちゃん注:中略。ここには上記の詳細な引用元が示されてある。]全然一件落着になりませんが、何か、筑摩書房の編集校正が入ったような状態なのでしょうか?

ついでに、以下は「埤雅卷八」の「隼」と、「本草綱目」の「鴟」の「集解」、「五雜俎」の「卷九」の「物部一」、「本朝食鑑」の「隼」の「集解」が元ネタです。

陸佃云鷹之搏噬不能無失獨隼爲有準毎發必中(「埤雅」卷八「隼」)

張九齡曰雌曰隼雄曰鶻【𩾲𩾥並同】(元不明)

蓋鷹不擊伏隼不擊胎如遇懷胎者輙放不殺鶻擊鳩鴿及(「本草綱目」「鴟」「集解」。「云、曰鷹不擊伏、隼不擊胎。鶻握鳩而自暖、乃至旦而見釋、此皆殺中有仁也」)

小鳥以煖足旦則縱之此鳥東行則是日不東往擊物西南北亦然此天性義也(「五雜俎」卷九「物部一」。「云、鶻與隼、皆鷙擊之鳥也。然鶻取小鳥以暖足、旦則縱之。此鳥東行、則是日不東往擊物、西南北亦然、蓋其義也。隼之擊物、過懷胎者、輒釋不殺、蓋其仁也、至鷹則無所不噬矣。故古人以酷吏比蒼鷹也」)

隼狀似鷹而蒼黑胸腹灰白帶赤其背腹斑紋初毛不正易毛後略與鷹同全體不似鷹鷂(「本朝食鑑」卷六「禽之四」「隼」「集解」。「隼似ㇾ鷹而蒼黑、臆腹灰白帶ㇾ赤、其背腹斑紋、初毛不ㇾ正、易ㇾ毛後略與ㇾ鷹同、然全體不ㇾ似鷹鷂」)

能擊鴻鴈鳬鷺不能擊鶴鵠(「本朝食鑑」同前。「能擊鴻鴈鳬鷺不ㇾ能ㇾ摯鶴鵠及雲雀鶺鴒燕之類

告天子鶺鴒之類性猛而不ㇾ悍鷹鷂之屬同類並居則相拒而争攫隼鶻者雖同類並居而不拒或同鷙一鳥亦相和並食(「本朝食鑑」同前。「雲雀[注:=「告天子」・鶺鴒之類、性猛而不ㇾ悍、鷹鷂之屬、同類並居、則相拒而爭攫、隼者雖同類並居而不ㇾ拒、相和並食」)

鷹摯鴻鴈動以翅被搏而昏迷是所以鷹脚長也隼摯鴻鴈而不搏翻攀首喰折是所以隼脚短也(「本朝食鑑」同前。「凡鷹摯鴻鳫、動以ㇾ翅被ㇾ搏而昏迷、至損傷亦有、是鷹脚)

   《引用終了》

私が引用を端折ってしまった箇所を総て挙げて下さり、御礼のしようもないほど感激している。ともかくも、冒頭の「隨」か「堕」かの点であるが、T氏への御礼の返信として、私は、

   *

「堕」の字は旧字体が「墮」で、調べて見ますと、本邦の古文の中でもしばしば、この旧字の「墮」を、誤って「隨」と記すものが見受けられますから、私は恐らくこれは「墮」が正しく、「堕」、「落ちる」の意でやはりよいのではないかと思っています。いつも文句を言ってばかりいる東洋文庫に従うのはちょっとシャクですが、そうでないと、この部分を意味が通るように読むことが難しいように私は感じるからです。

   *

と言うことしか出来なかった。今年もまた年初からT氏に御厄介になってしまった。再度、御礼申し上げるものである。「呆られることなく、今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。」。

「西園寺相國」「はげしくも落ちくるものか冬山の雪にたまらぬ峰の朝風」「西園寺相国鷹百首」「西園寺殿鷹百首」とも呼ばれる歌集で、作者は西園寺公経(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)とも西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)作ともされるが、未詳。明応四(一四九五)年に尭恵が細川成之に同書の注を授けていることから、十四世紀後半から十五世紀末には成立していたと考えられている。伝本は非常に多い。その中の一首。「朝風」は「晨風(しんぷう)」を訓読して字を代えたもので、実はハヤブサの別名である。

「巢鷹のを聞かず」巣を作って繁殖したという話は聴かない。

「定家」「夕日影櫛〔(くし)〕もさしばの風さきに」「野邊の薄〔(すすき)〕の糸やかけまし」不詳。定家の生活から思うに、空想もいいとこという気がするね。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 春の感情

 

  春の感情

 

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ

そのにほひをかいでゐると氣がうつとりとする

うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情

つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ

春がくるときのよろこびは

あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのやうだ

ふるへる めづらしい野路のくさばな

おもたく雨にぬれた空氣の中にひろがるひとつの音色

なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて

春はしつとりとふくらんでくるやうだ。

春としなれば山奧のふかい森の中でも

くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに

私のたましひはぞくぞくとして菌を吹き出す

たとへば毒だけ へびだけ べにひめぢのやうなもの

かかる菌の類はあやしげなる色香をはなちて

ひねもすさびしげに匂つてゐる。 

 

春がくる 春がくる

春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ

そこにもここにも

ぞくぞくとしてふきだす菌 毒だけ

また藪かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類。 

 

[やぶちゃん注:初出は大正七(一九一八)年一月号で創刊号の『新生』であるが、最後に示すように初出の最後の附記によって、本篇の創作は前年大正六年の四月である。また標題は初出では「春がくる」。

「菌」「きのこ」。

「毒だけ」「毒茸」(どくだけ)であるが、本来、正しくは「どくたけ」と濁らない。これはウィキの「キノコ」の「キノコの名称」の項に、『日本語のキノコの名称(標準和名)には、キノコを意味する接尾語「〜タケ」で終わる形が最も多い。この「〜タケ」は竹を表わす「タケ」とは異なる。竹の場合は「マ(真)+タケ(竹)」=「マダケ」のように連濁が起きることがあるが、キノコを表わす「タケ」は本来は』、決して『連濁しない。キノコ図鑑には「〜ダケ」で終わるキノコは一つもないことからも』、『これがわかる。しかし一般には「えのきだけ」、「ベニテングダケ」のような誤表記が多い』とあることがその証左である。さて、朔太郎はここで以下「べにたけ」及び「べにひめぢ」と明らかに等価で並列させているから、これを「毒茸(どくきのこ)」の意で用いているのではなく、有毒な茸の中の特定の一種(或いは種群)として用いていると考えるのが至当である。しかし現行、「ドクタケ」という標準和名のキノコはない。しかし、私が食して死亡する例もままある猛毒のキノコとして筆頭に浮かべるものは、後掲するシロタマゴテングタケやタマゴテングタケとともに、菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ハラタケ目テングタケ科テングタケ属ドクツルタケ Amanita virosa であるウィキの「ドウクツルタケ」によれば、『日本で見られる中では』、『最も危険な部類の毒キノコであり』、『注意を要する。シロコドク(秋田県)、テッポウタケの地方名がある』。『北半球一帯に分布。初夏から秋、広葉樹林及び針葉樹林の地上に生える。中型から大型で、色は白。湿っているときはやや粘性がある。柄にはつばとつぼ、そしてささくれがある。傘のふちに条線はない。水酸化カリウム』三『パーセント液を傘につけると黄変する』。『胞子はほぼ球形。シロツルタケ』(ハラタケ目テングタケ科テングタケ属ツルタケ変種シロツルタケ Amanita vaginata var. alba:但し、本種も生食すると中毒を起こす)『やハラタケ科』(ハラタケ目ハラタケ科 Agaricaceae)『などの白い食用キノコと間違える可能性があるので注意が必要である。例えば、シロオオハラタケ』(ハラタケ属シロオオハラタケ Agaricus arvensis)『とドクツルタケは見かけはほぼ同じであるが、ツボの有無、ひだの色などから見分けることができる。猛毒のシロタマゴテングタケ』(ハラタケ目テングタケ科テングタケ属シロタマゴテングタケ Amanita verna:一本食べただけで死に至るほどの猛毒を持つ。新潟県では「イチコロ」の地方名を持つ。ウィキの「シロタマゴテングタケ」を参照)『とは「水酸化カリウム溶液につけても変色しないこと」「柄にささくれが無いこと」などから区別できる』。『欧米では「破壊の天使」(Destroying Angel)という異名をもち、日本においても死亡率の高さから、地方名で「ヤタラタケ」』(矢鱈に多く命を落とすの意らしい)『「テッポウタケ」などとも呼ばれる。また、同じく猛毒のシロタマゴテングタケやタマゴテングタケ』(テングタケ科テングタケ属タマゴテングタケ Amanita phalloidesウィキの「タマゴテングタケ」によれば、『中毒症状はドクツルタケやシロタマゴテングタケ同様』に二『段階に分けて起こる。まず食後』二十四『時間程度でコレラの様な激しい嘔吐・下痢・腹痛が起こる。その後、小康状態となり、回復したかに見えるが、その数日後、肝臓と腎臓等内臓の細胞が破壊され劇症肝炎様症状を呈し』、『高確率で死に至る』とある)『とともに猛毒キノコ御三家と称される』。『毒性が極めて強いため、素人は白いキノコは食すのを避けるべきとする人やキノコの会もある』。『毒成分は環状ペプチドで、アマトキシン類(α-アマニチンなど)、ファロトキシン類(ファロイジンなど)、ビロトキシン類、ジヒドロキシグルタミン酸などからなる』。『その毒性は』、一『本(約』八『グラム)で』一『人の人間の命を奪うほど強い。摂食から』六~二十四『時間でコレラ様の症状(腹痛、嘔吐、下痢)が起こり』、一『日ほどで治まったかに見えるが、その約』一『週間後には、肝臓や腎臓機能障害の症状として黄疸、肝臓肥大や胃腸からの出血などが現れる。早期に胃洗浄や血液透析などの適切な処置がされない場合、確実に死に至る』とある。私が朔太郎の「毒だけ」を本種ドクツルタケに同定比定したい理由は、まず後に出る「べにひめぢ」との差別化をするためだが、それ以上に本種が和名に「ドク」を持つこと以外に、森の中にぼうっと白くスマートに立ち上がるその姿(シロタマゴテングタケも同じではある)が、まさに女性的霊的妖的でしかも致命的猛毒を有するというところが如何にも朔太郎好みであるように思ったからである。御叱正を俟つ。

「へびだけ」「蛇茸」。ハラタケ綱ハラタケ目テングタケ科テングタケ属キリンタケ節ヘビキノコモド Amanita spissacea に同定比定したい有毒種。形状はウィキの「ヘビキノコモドキを見られたい。「蛇茸擬き」で、では「ヘビキノコ」はというと、これは同じテングタケ属キリンタケ Amanita excelsa の別名として確かにあるものなのであるが、「もどき」が毒なら、本家は大丈夫かと、ウィキの「キリンタを読んでみると、『可食だが』、『美味ではないとする文献、有毒とする文献が存在するため、食べることは避けた方がよい』とあるから、このキリンタケに比定してもよかろうか。ともかくもこちらも食べぬがよろしい。

「べにひめぢ」表記がおかしい。これは正しくは「べにしめじ」で(食用のシメジは本来はハラタケ目シメジ科シメジ属ホンシメジ Lyophyllum shimeji を指すが、流通では他種が含まれる。「しめじ」は「占地」「湿地」「占地茸」「湿地茸」等と漢字表記される。「べに」は「紅」)、これは別名として「ベニシメジ」の名を現在も有し、概ね一般人がイメージする毒々しい色の毒茸として、後掲するベニテングダケとともに定番とも言える、ハラタケ目ベニタケ科ベニタケ属ドクベニタケ節ドクベニタケ Russula emetica と完全同定してよい。但し、これはその見た目の割には毒性は前二者と比較すると低い。ウィキの「ドクベニタケによれば、『夏から秋に様々な森林下に発生する菌根菌。傘は赤からピンク色。雨などによって色が落ち、白くなっていることもある。傘の表面が皮状になっていて容易にむくことが出来る。ひだは白色。肉は白色でとても辛く無臭。硫酸鉄(Ⅱ)水溶液と反応し』、『ピンク色に変色する。柄は白色。有毒。毒成分はムスカリン類、溶血性タンパク。本種は類似種が多いので同定が難しい』。『毒キノコの識別法の誤った俗説として、縦に裂ければよい、派手な色のものは有毒などとするものが生じた背景にはドクベニタケの存在が大きかったと言われている。これはドクベニタケが、子実体が球状細胞から構成されていて裂こうとするとぼろぼろ崩れてしまうベニタケ科』(Russulaceae)『のキノコであること、また赤やピンクといった目立つ色をしていること、さらにいかにも毒キノコ然とした刺激に富んだ味に起因する。実際には毒キノコの大半はベニタケ科以外の科に属しているので容易に縦に裂け、ベニテングタケ』(テングタケ属ベニテングタケ Amanita muscaria:童話の「ドクキノコ」のイメージ・チャンピオンであるが、実は毒性はさほど強くない。但し、近縁種に猛毒種があるのでこれも手を出してはいけない)『などを除くと』、『地味な色のものが普通であり、味もむしろ美味なものがしばしばある』。『毒成分はムスカリン類、溶血性タンパク。旧い文献などでは、不食(毒はないが、食べられない)として記載されているものがあるため』、『注意』が必要。『味は辛味があり、食感はぼそぼそとしている。スペインでは辛い味付けの料理に利用されている。外観が非常にそっくりな食用キノコに、ヤブレベニタケ』(ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科ベニタケ属ヤブレベニタケRussula lepida 或いはベニタケ属の総称)『などが存在するため、安易に食べてはならない』とある。

 以下、初出を示す。

   * 

 

  春がくる

 

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ、

そのにほひをかいでゐると氣がうつとりとする、

うれはしい、かなしい、さまざまのいりこみたる空の感情、

つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ、

春がくるときのよろこびは

あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ、

ふるえる めづらしい野路の草ばな、

おもたく雨にぬれた空氣の中にひろがるひとつの音いろ、

なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて

春はしつとりとふくらんでくるやうだ。

春としなれば山奧のふかい森の中でも、

くされた木株の中でもうごめくみみづのやうに、

私のたましひはぞくぞくとしてきのこを吹き出す、

たとへば毒だけ、へびだけ、べにひめぢのやうなもの、

かかる菌(きのこ)の類はあやしげなる色香をはなちて、

かかる春に日をなやましくにほつてゐる。

そうして私の陰氣な心は、

春を愛するよころびにふるえてゐる、

ああ 春がくる、

春がくる、

春がくるときのよろこびは、

あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ、

そこにもここにも、

ぞくぞくとして吹きだす菌(きのこ)、毒たけ

また籔かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類。

             (大正六年四月の作)

 

   *

「定本靑猫」にも改変再録するが、有意な変化はない。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『春の感情(本篇原稿一種三枚)』として以下の無題が載る。表記は総てママである。

   *

 

  ○

 

ふらんすからくる煙草のやうやにのやうなにほひだ

そのにほひをかいてゐると氣がうつとりとする

うれはしい、かなしい、さびしい、さまざまのいりこみたる空の感情

つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ

春がきたくるときのよろこびはふるゑ

水仙のはなのひらくやうにおもはれる

あらゆるひとのいのちを吹き鳴らす笛のひびきのやうだ

ふるえる、めづらしい靈氣の中の愛情→雲雀のなきごゑ野路の草ばな

しつとりとおもたく雨にぬれた空氣のおもみは ひろがり どうだ中にひろがるひとつの音いろ

なやめる――女のなきごゑはそこにもきこゑ

遠くの空をとびかふ雀、

まるまるとふくらんだ 果實→草木の類→蟲の卵 少女の胸のやうにみえるもの

それも色氣づいてきた少女の胸やうで

はぐくみちぎれるやうな

のよろこびはそこでもきこえるはしつとりとふくらんでくるやうだ

ああ私は春を愛する、

しめやかに色づいてくる春の なかに ながめを愛する

春としなれば山奧のふかい森の中でも

まつ白なさくら

くされた土壤木株の中からでもうごめくみみづのゐるやうに

私のくされた心臟たましひはぞくぞくとして木の芽きのこを吹き出す

たとへば毒だけ、べにだけへびたけひめしめぢべにひめぢのやうなもの

かかる木の芽きのこの類は空にあやしげに色香をはなちて

この春の日の晝を夜をうれしげになやましくにほつてゐる、

ああ春としなれば

ああ私の陰鬱な心も ほのぐらき→烈しくよろこび、 かぐはしくきばかり→くにほつてゐる、→いにほひを放つてゐる、

ああ なやましく光る陰氣な心の烈しいよろこび

私は春の空のにほひを愛する

うすぐらく光る陰氣なこころは

しめやかな

春のくるよろこびに

そうして私の陰氣の心は春を愛するよろこび

 

   *

草稿を電子化しながら、朔太郎の浮んでは消え、再生してくる奇体なエロチックな幻想のために、何だか、私自身の神経が疾患してゆくような錯覚をさえ覚えたことを告白しておく。

 

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 月夜

 

  月  夜

 

重たいおほきな羽をばたばたして

ああ なんといふ弱弱しい心臟の所有者だ。

花瓦斯のやうな明るい月夜に

白くながれてゆく生物の群をみよ

そのしづかな方角をみよ

この生物のもつひとつのせつなる情緖をみよ

あかるい花瓦斯のやうな月夜に

ああ なんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。 

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月号『詩歌』初出。初出との大きな違いはないものの(最終行の句点を除いて初出は全行末に読点を打つ)、標題は「月夜」ではなく、「深酷なる悲哀」である。特に問題なのは「羽」で、

初出では「羽(つばさ)」のルビ

があり、これは読みに於いてかなり重大な示唆を持つ。本詩篇は朔太郎遺愛のものであったらしく、後の複数の詩集に何度も再録されているのであるが、筑摩版全集校異を見ると、この後の、

大正一二(一九二三)年の詩集「蝶を夢む」(但し、詩篇標題を「騷擾」と変更しているので注意!)し、「翼(つばさ)」

昭和三(一九二八)年第一書房版「萩原朔太郎詩集」では、「翅」(ルビなし)

翌昭和四年新潮社刊「現代詩人全集」第九巻では、「翅(はね)」

昭和一一(一九三六)年三月刊の「定本靑猫」では、「翅」(ルビなし)

同年四月刊の新潮文庫「萩原朔太郎集」では、「翅(はね)(但し、同書にはこの詩篇は「月夜」と「騷擾」の別題で二篇掲載されており、後者の「騷擾」では「翼(つばさ)」である)

となっている。以上の経緯を見る限りに於いて、本詩集「靑猫」では、朔太郎は、ここは「つばさ」と読ませるつもりであると考えるべきである(因みに、私はずっと「はね」と読んできたが、「つばさ」と読んでいた読者はまずいないと私は思う)。

 他に「情緖」が「感情」となっている点で相違が見られる。

 「花瓦斯」「はながす(ガス)」と読む(「ガス」は「gas」)。種々な形に綺麗に飾り立てて点火したガス灯のこと。装飾兼用の広告灯として明治前期から用いられた。小学館の「精選版日本国語大辞典」には明治一一(一八七八)年三月二六日附『東京日日新聞』の記事が例文に引かれており、『花瓦斯を設けたる裝飾のさまいと嚴かにして、且つ美麗を極めたり』(漢字を正字化した)とあり、平凡社「世界大百科事典」の「イルミネーション」の項には、この前年の明治十年六月の新富座再建時に点灯された『ガス灯のサインであった花瓦斯なども一種のイルミネーションである』とある。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『その手は菓子である(本篇原稿一種一枚)』として以下の無題が載る。表記は総てママである。

   *

 

  

 

重たい大きな羽をばたばたして

ああなんといふ弱々しい心臟のためいきだ。所有者だ。

神さま

あかるい花のやうな美しい月夜に

遠い村々→家々ランプの燈灯(あかし)に向いて流れ始める

いぢらしい蟲けらの感情→群幸福をどうしたものだ、

いぢらしい

あかるい花のやうな月夜のしづかさに。

ああ神さま、

あかるい花のやうな月夜のしづかさをどうしたものだ、

あなたの貴い福音をどうしたものだ。

 

   *

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 靑猫

 

  靑  猫

 

この美しい都會を愛するのはよいことだ

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ

すべてのやさしい女性をもとめるために

すべての高貴な生活をもとめるために

この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ

街路にそうて立つ櫻の並木

そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

 

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは

ただ一疋の靑い猫のかげだ

かなしい人類の歷史を語る猫のかげだ

われの求めてやまざる幸福の靑い影だ。

いかならん影をもとめて

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに

そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月号『詩歌』初出。詩集標題詩篇であるから、殆んど変化はないが、特に初出と「定本靑猫」を以下に示す。まず、初出。

   *

 

  靑  猫

 

この美しい都會を愛するのはよいことだ、

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ、

すべてのやさしい女性を求めるために、

すべての高貴な生活を求めるために、

この都會にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ、

街路にそうて立つ櫻の並木、

そこにも無數の雀がさゑづつてゐるではないか。

 

ああ この大きな都會の夜に眠れるものは、

ただ一疋の靑い猫のかげだ、

悲しい人類の歷史を語る猫のかげだ、

わが求めてやまざる幸福の靑い影だ、

いかならん影をもとめて、

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに、

そこの裏町の壁にさむくもたれて、

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

 

   *

以下、「定本靑猫」版。但し、底本(筑摩版全集)の「並木」が「竝木」になっているのは編者による正字化処理によるものと断じ、「並木」とした。

   *

 

  靑  猫

 

この美しい都會を愛するのはよいことだ

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ

すべてのやさしい娘等をもとめるために

すべての高貴な生活をもとめるために

この都にきて賑やかな街路を通るはよいことだ

街路にそうて立つ櫻の並木

そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは

ただ一匹の靑い猫のかげだ

かなしい人類の歷史を語る猫のかげだ

われらの求めてやまざる幸福の靑い影だ。

いかならん影をもとめて

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに

そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

 

   *

なお、本篇の「定本靑猫」での配置に就いては、前の
群集の中を求めて步く」の私の注を是非、読まれたい。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) その手は菓子である

 

  その手は菓子である 

 

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとしてしながよく

まるでちひさな靑い魚類のやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない

ああ その手の上に接吻がしたい

そつくりと口にあてて喰べてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだらう

指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ

その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。

かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指

すつぽりとしたまつ白のほそながい指

ぴあのの鍵盤をたたく指

針をもて絹をぬふ仕事の指

愛をもとめる肩によりそひながら

わけても感じやすい皮膚のうへに

かるく爪先をふれ

かるく爪でひつかき

かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき

そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指

おすましで意地惡のひとさし指

卑怯で快活なこゆびのいたづら

親指の肌へ太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性

ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき

すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい

その手の甲はわつぷるのふくらみで

その手の指は氷砂糖のつめたい食慾

ああ この食慾

子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。 

 

[やぶちゃん注:「親指の肌へ太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性」の「肌へ」は恐らく「肥へ」と歴史的仮名遣を誤って書いたものを誤判読し、誤植したものであろう(初出参照)。大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出は大きな改変はないが、細部の語句や表記に違いが散見されるので、以下に示す。

   *

 

  その手は菓子である

 

そのじつにかわゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとして品(しな)がよく

まるでちいさな靑い魚くづのやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない

ああ その手のうへに接吻がしたい

そつくりと口にあてて喰べてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだ

指と指との谷間に咲くこの不思議の花の風情はどうだ

そのにほひは麝香のやうで薄く汗ばんだ桃のやうだ

かくばかり美しくみがきあげた女性のゆび、すつぽりとしたまつ白のほそながいゆび

ぴあのの鍵盤をたたくゆび

針をもて絹をぬふ仕事のゆび

愛をもとめる男の肩によりそひながら

わけても感じやすい皮膚のうへに

かるく爪先をふれ、かるく爪でひつかき、かるくしつかりと押えつけるやうにするゆびのはたらき

そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび、はげしく狡猾にくすぐるゆび

おすましで意地惡のひとさしゆび

卑怯で快活な小ゆびのいたづら

親ゆびの肥え太つたうつくしさとその暴虐なる野蠻性

ああ そのすべすべとみがきあげた一本の指を押しいただき

すつぽりとくちにふくんでしやぶつてゐたい、いつまでたつてもしやぶつてゐたい

その手の甲はわつぷるのふくらみで、その手の指は氷砂糖のつめたい食慾

ああ この食慾

子供のやうな意地のきたない無恥の食慾

      (最も美しき者の各部分に就いて、その一)

 

   *

「魚くづ」は「うろくづ」或いは「いろくづ」と読む。「(最も美しき者の各部分に就いて、その一)」という後書きが附されてあるが、この「その二」は【2021年12月21日修正・追記】実は後の第三詩集「蝶を夢む」に再録された(一部を修正変更)本篇の、その後に配した「その襟足は魚である」(初出は大正六(一九一七)年十二月発行の『詩篇』で、標題は「その襟足は魚類である」)に相当する。その初出形「その襟足は魚類である」には『「最も美しきものの各部分に就てい」その二(「てい」はママ)』という添え辞があるのである。先ほど、「蝶を夢む」の当該詩篇「その襟足は魚である」を公開し、そこに初出形も示しておいたので見られたい。【修正・追記終り】私はフェティシズムの極地としてのそれなら、断然、初出を支持する。特に多くの「指」を「ゆび」と平仮名書きしたところに視覚的な舐めるようなそれが実に効果的に現出している。因みに、「定本靑猫」でもやや手を加えて再録しているが、「接吻」に「きす」とルビを振ってみたり、句読点を加えたりという小手先の仕儀がいらいらとして目立ち、五十歳の詩人のフェティシュは、最早、老耄して萎えてしまっていると言わざるを得ない(六十四歳の川端康成が書いた「片腕」の方が遙かに生々として凄いと思う)。何? 「定本靑猫」版を示さないで、どうして批判するかって? いやいや、この〈批判行為〉は正当である。何故なら、冒頭注で述べた通り、朔太郎自身が「定本靑猫」で『此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と言っているのだから。面倒だから示さぬのではない。改悪によって枯れびしゃってしまって――示すにあまりに哀れ――だから、である。

【2022年2月26日追記】その後、「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)」を電子化した際、その草稿として筑摩版全集の「未發表詩篇」の「女の手の感觸」を注で電子化したが、同全集は後の差し込みで、それが「その手は菓子である」の草稿と同一であることから、校訂本文も原型総て削除する、と指示があった。折角、電子化して整序版もオリジナルに作って示したので、そちらに載せてあるから、是非、見られたい。更に、結局、詩集「蝶を夢む」、及び、詩集「定本 靑猫」の正規表現版の本篇も電子化したので(リンク先)見られたい。

【2022年3月26日草稿詩篇追加・追記】筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『その手は菓子である(本篇原稿三種五枚)』として以下の三種(一篇目は無題(但し、「最も美しいものの各部分に就いて」という添え題がある)、二篇目は「その手は菓子である」、三篇目は「手の感觸」)が総て載るのを忘れていたので、以下に全部を示す。表記は総てママである。

   *

 

  

     限りなく最も美しいものの各部分に就いて

 

その手は食物である

その鼻は音樂宗敎である

その脚足は[やぶちゃん注:編者は「襟足」と補正する。]

その足は

その額は

[やぶちゃん注:以上で、編者注で、『この斷片は、つぎの「その手は菓子である」とぉなじノートの前頁に書かれている。なお『蝶を夢む』草稿詩篇の中の「その襟足は魚類である」を參照。』とある。その詩集「蝶を夢む」の草稿詩篇の中の「その襟足は魚類である」は、『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その襟足は魚である」で電子化してあるので見られたい。]

 

 

  その手は菓子である

 

くそのかぎりなき食物の美しさである

そのじつにかわゆらしいむつくりとした女の手工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

まるでそよそよとしてうごいて

指なんかはじつにまことにほつそりとして品がよく

まるでちいさな靑い魚くづのうで[やぶちゃん注:「やうで」の脱字であろう。]

やさしくそよそよそよそよすずしげにうごいてゐるありさまはどうだ樣子はどうだたまらない

ああ その手のうへに接吻がしたい

そつくりと口にあててたべてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだ

指と指との分れ目のきれいな谷間にさくこの不思議な花をみる→のにほひの風情はどうだ

影と日向との

ジヤ香のやうな汗のにほひ

そのにほひはジヤ香のやうでぱつとひらいた櫻のやうなべにいろだ

かぎりもないすえて汗ばんだ皮膚の

その中指、そのくすりゆび、その小ゆび

そして親ゆび

かくばかりきれいに美しくみがきあげてる女性のゆび

すつぽりとしたまつ白のやわらかい→おいしいゆび→蒸し菓子のゆびほそながいゆび

ぴあのの鍵坂をたたくゆび[やぶちゃん注:編者は「鍵盤」の誤字とする。]

針仕事をするゆび

男の→戀をする若い男愛を求める男の肩によりそひながら

そのわけても感じやすい心臟のここのところ

男性の皮膚のうへにかるく爪先でふれ

かるく爪先をふれ、かるく爪でひつかき、かるく爪先でしつかりとおさへつけるやうにするゆびさきのはたらき

そのぶるぶるとみぶるひをするよろこびのゆび

はげしく狡猾にくすぐるゆび

慘酷な親

おすましで氣どりやの意地惡のひとさしゆび

いたづらものの中指

卑怯で快活な小ゆびのいたづら

慘酷な親ゆび

美しい、野蠻の親ゆび

親ゆびの肥え太つた美しさとその暴虐なる野蠻性

ああそのまつ白にみがきあげた一本のゆびをおしいただき

すつぽりとくちにふくでしやぶつてゐたい

いつまでもいつまでもたつてもしやぶつてゐたい

その手はワツプルのやうな菓子である、

そうしてまたその手の甲のふくらみのうへに

その手の甲はワツプルのふくらみで、その手の指は氷砂糖のつめたい舌ざわり→よろこび→よろこびだ〉食慾

私の食慾は 飢え→はげしくなりて たえがたくなりてよだれをながす、

このかぎり なき→なくうまそうな なく美しい食物 の美しさに の透惑

ああこのはげしい透惑

私は

ああこの無恥の透惑

ああこの子供たちのやうないぢのきたない無恥の食慾

 

 

  女の手の感觸

 

その手はびろうど

その手は絹製(もみ)

その手は愛は感觸ふつくりしてあつたかい

その手はこそばゆい愛の感觸

その手はにくちびるをあてたいおしあてたい

その手はせんちめちたるのうしろにまわる女の子ゆうわくの手

その手をあげられ

その手を磨かれ

その手をもつて 握られ神聖たらしめ この手われの指を握り

その手は女の手

その手をしていんよくの聖餐をひらかしめ像たらしめ

女よ、

 

   *

一部、繰り返しとなるが、実は、最後の一篇は、

「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)」

で「未發表詩篇」の内容が酷似する「手の感觸」電子化しているのであるが、そこで私は、

   *

筑摩版全集の追補・訂正差し込みで、『本篇は「その手は菓子である」草稿の「女の手の感觸」』『と重複するため【本文】【初出】ともに削除』とあるが、折角、苦労して電子化したので残しておくことにする。というより、実は子細に見ると、両者は同一ではないからである。

   *

と述べた。実際に並べて比較されれば、一目瞭然で細部に異同があり、同一の草稿とは見做し得ないのである。或いは、全集編者の「未發表詩篇」の字起こしに致命的な不全があるのかも知れないが、現物を見られない我々は、断じて、これを同一とするのは承服出来ないのである。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 群集の中を求めて步く

 

  群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぶ

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか

みよこの群集のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ

人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない

ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いて行くことか

ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましくなるやうだ。

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで

どこへどうしてながれ行かうとするのか

私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい

浪の行方は地平にけむる

ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。

 

[やぶちゃん注:底本傍点「ヽ」の「ぐるうぶ」はママ。「ぐるうぷ」の誤植で、筑摩版全集もそう校訂し、後掲する通り、萩原朔太郎自身が「定本靑猫」で修正している。大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出は最終行が、

ただひとつの悲しい方角をもとめるために。

となっている点で大きく異なる。私はぼかしたメタファーより、初出形の顕在的な絶望への傾斜の方が好みである。まあ、孰れにせよ、先行する「さびしい人格」に強烈な自己同一性を覚えてしまった私のような読者には、小規模なダルな都会偏愛の二番煎じの感は拭えない。

 本篇は後の詩集「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)で以下のように改作されて載る(筑摩版全集に拠る)。改変部に下線部を引いた(誤植訂正を含み、語句カット・字空け挿入の場合は当該行全体に下線を引いた)

   *

 

 群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居るのをもとめる

群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ。

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ。

ああ 春の日のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。

みよ この群集のながれてゆくありさまを

浪は浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり日影はゆるぎつつひろがりすすむ

人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみとみなそこの日影に消えてあとかたもない

ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影[やぶちゃん注:この前にあった「ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いて行くことか」の一行をカットしている。]

たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましい

いま春の日のたそがれどき

群集の列は建築と建築との軒をおよいで

どこへどうしてながれて行かうとするのだらう。

私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影。

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい

もまれて行きたい。[やぶちゃん注:この前にあった二行『浪の行方は地平にけむる/ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。』をカットし、前行の最後をリフレインする形に変更。]

   *

七行目の「おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。」は呼応の齟齬修正として修辞上、正しい。既に述べたように、小手先のエンディング改変は私は気に入らぬ。なお、「定本靑猫」には全体の詩篇の組成コンセプトに、特別な配慮がなされており、本詩篇の後に、「ホテル之圖」(右から左書き)というキャプションを持つ版画(私は作者不詳)が配され、その下半分に、散文詩が掲げられ(昔、版画電子化ていので参照されたい)、それを介した後に、本詩集にも載る「靑猫」がごく一部を改変されて載るのである。この配置は〈ダルな都会詩人たち〉の彼らにしか判らない(と思い込んでそれを特権としている)〈都会の憂鬱を過剰に演出する順列装置となっていることがあからさまに判ってくる。私はこの「定本靑猫」の版画群と添えられた散文詩が、最初に出逢った中学時代から、好きで好きでたまらない(特に「停車場之圖」。同じく画像散文詩電子てい)のであるが、ここに関しては、今回、この操作を知り、如何にもなそのやり口には、多少、鼻白む気がしたことを言い添えておきたい。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 强い腕に抱かる

 

 い腕に抱かる

 

風にふかれる葦のやうに

私の心は弱弱しく いつも恐れにふるへてゐる

女よ

おまへの美しい精悍の右腕で

私のからだをがつしりと抱いてくれ

このふるへる病氣の心を しづかにしづかになだめてくれ

ただ抱きしめてくれ私のからだを

ひつたりと肩によりそひながら

私の弱弱しい心臟の上に

おまへのかはゆらしい あたたかい手をおいてくれ

ああ 心臟のここのところに手をあてて

女よ

さうしておまへは私に話しておくれ

淚にぬれたやさしい言葉で

「よい子よ

恐れるな なにものをも恐れなさるな

あなたは健康で幸福だ

なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません

ただ遠方をみつめなさい

めばたきをしなさるな

めばたきをするならば あなたの弱弱しい心は鳥のやうに飛んで行つてしまふのだ

いつもしつかりと私のそばによりそつて

私のこの健康な心臟を

このうつくしい手を

この胸を この腕を

さうしてこの精悍の乳房をしつかりと。」

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月号『感情』初出。初出標題が「い心臟と肉體に抱かる」である以外は、特に有意な異同は認められない。]

2019/01/07

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 沖を眺望する

 

  沖を眺望する

 

ここの海岸には草も生えない

なんといふさびしい海岸だ

かうしてしづかに浪を見てゐると

浪の上に浪がかさなり

浪の上に白い夕方の月がうかんでくるやうだ

ただひとり出でて磯馴れ松の木をながめ

空にうかべる島と船とをながめ

私はながく手足をのばして寢ころんでゐる

ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ

沖に向つて眺望する。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年二月号『感情』初出。短詩で表現も至って当たり前乍ら、私の偏愛する一篇であり、私の心の中では最後の「沖に向つて眺望する」が何度も二十代の時からリフレインし続けてきたものである。初出とは表現の微妙な変異がある。やはり私のそれを電子化した古いテクストを参照されたい。私はこの詩の「ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ」という一行を読むにつけ、朔太郎満二十七歳(大正二(一九一三)年四月製作)の折りの自筆自選の手作りの歌集「ソライロノハナ」に記された、エレナ幻想とも称すべき大磯ノ海平塚を思い出すのを常としている(「ソライロノハナ」の中では「二月の海」という「一九一一、二」のクレジット(明治四十四年)を添えるパートが、この二章から構成されている)。リンク先はやはり孰れも私の古い電子テクストであるが(今回、正漢字表記をやり直しておいた)、「ソライロノハナ」自体がまず普段、読まれることの少ないものであるから、未読の方は、是非、読まれたい。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 寢臺を求む

 

  寢臺を求む

 

どこに私たちの悲しい寢臺があるか

ふつくりとした寢臺の 白いふとんの中にうづくまる手足があるか

私たち男はいつも悲しい心でゐる

私たちは寢臺をもたない

けれどもすべての娘たちは寢臺をもつ

すべての娘たちは 猿に似たちひさな手足をもつ

さうして白い大きな寢臺の中で小鳥のやうにうづくまる

すべての娘たちは 寢臺の中でたのしげなすすりなきをする

ああ なんといふしあはせの奴らだ

この娘たちのやうに

私たちもあたたかい寢臺をもとめて

私たちもさめざめとすすりなきがしてみたい。

みよ すべての美しい寢臺の中で 娘たちの胸は互にやさしく抱きあふ

心と心と

手と手と

足と足と

からだとからだとを紐にてむすびつけよ

心と心と

手と手と

足と足と

からだとからだとを撫でることによりて慰めあへよ

このまつ白の寢臺の中では

なんといふ美しい娘たちの皮膚のよろこびだ

なんといふいぢらしい感情のためいきだ。

けれども私たち男の心はまづしく

いつも悲しみにみちて大きな人類の寢臺をもとめる

その寢臺はばね仕掛けでふつくりとしてあたたかい

まるで大雪の中にうづくまるやうに

人と人との心がひとつに解けあふ寢臺

かぎりなく美しい愛の寢臺

ああ どこに求める 私たちの悲しい寢臺があるか

どこに求める

私たちのひからびた醜い手足

このみじめな疲れた魂の寢臺はどこにあるか。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月号『感情』初出。有意な異同は認められない。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 雀鷂(すすみだか・つみ) (ツミ)

 

Tumi

 

すゝみだか  【和名須々美太加

 つみ     或云豆美】

雀鷂

        雀𪀚【ゑつさい】

       【和名悦哉】

△雀鷂乃鷂之屬翅彪橫如卷成者名藤黑彪

雀𪀚 雀鷂之雄也其大如鵯共能捉雀小鳥

                  定家

    かたむねをなほかひ殘すゑつさいのいかにしてかは鶉とるらん

鶙鵳【和名乃世】 鷂之屬今人不畜用之捉鳥不及諸鷹也

 

 

すゞみだか  【和名、「須々美太加」。

 つみ     或いは云ふ、「豆美」。】

雀鷂

        雀𪀚〔(ヱツサイ)〕【「ゑつさい」。】

       【和名、「悦哉」。】

△雀鷂〔は〕乃〔(すなは)ち〕鷂〔(はいたか)〕の屬(たぐ)ひ。翅〔の〕彪(ふ)、橫に卷き成す者のごとくなるを、「藤黑の彪(ふ)」と名づく。

雀𪀚(ゑつさい)は 雀鷂(つみ)の雄なり。其の大いさ、鵯(ひよどり)のごとく、共に能く雀・小鳥を捉〔(と)〕る。

                  定家

    かたむねをなほかひ殘すゑつさいの

       いかにしてかは鶉とるらん

鶙鵳〔(ていけん)〕【和名、「乃世〔(のせ)〕」。】 鷂の屬。今、人、之れを畜用せず。鳥を捉(と)ること、諸鷹〔(しよよう)〕に及ばざればなり。

[やぶちゃん注:タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis gularis の他に、八重山列島固有亜種リュウキュウツミ Accipiter gularis iwasakiiが確認されている。「雀鷹」とも書く。ここは主文がそので、「雀𪀚(ゑつさい)」がそのである。ウィキの「ツミ」によれば、インドネシア・カンボジア・シンガポール・タイ・中国・台湾・フィリピン・ブルネイ・ベトナム・マレーシア・ラオス及びマーシャル諸島・朝鮮半島・日本に棲息し、夏季に中国『東部や日本、朝鮮半島で繁殖し、冬季は中』『国南部や東南アジアに南下して越冬する。日本では基亜種が温暖な地域では周年生息(留鳥)するが、寒冷地では冬季に南下(夏鳥)することもある』。全長はで三十センチメートル、で二十七センチメートル、翼開長は五十~六十三センチメートル、体重は七十五~百六十グラム。漢字表記の「雀」は『「小さい」の意で、和名はスズメタカが変化したメスに対しての呼称に由来する』(とか言って、この転訛過程、全然判らないんですけど! 信じ難い!)。『下面は白い羽毛で覆われる』。『眼の周囲は黄色』い。『幼鳥は上面が暗褐色、下面が淡褐色の羽毛で覆われる。胸部に縦縞、腹部にハート状、体側面に横縞状の暗褐色の斑紋が入る。虹彩は緑褐色。オスの成鳥は上面が青味がかった灰色、胸部から体側面はオレンジ色の羽毛で覆われる。虹彩は赤褐色。メスの成鳥は上面は灰褐色、下面には暗褐色の横縞が入る。虹彩は黄色』い。『平地から山地の森林に生息』し、『単独もしくはペアで生活する』。『食性は動物食で、主に小形鳥類を食べるが、爬虫類、小形哺乳類、昆虫なども食べる。漢字表記の雀はスズメも含めた小型の鳥類を捕食することにも由来し、英名』(Japanese sparrowhawk)『(sparrow=スズメ)と同義』。『繁殖期には縄張りを形成する。針葉樹の樹上に木の枝を組み合わせた巣を作り』四~六『月に』一『回に』二~五『個の卵を産む。メスのみが抱卵を行い、抱卵期間は約』三十『日。雛は孵化から約』三十『日で巣立つ』。『本来』、『ツミは、巣の半径』五十メートル『以内に侵入するカラスなどの捕食者に対し』、『防衛行動を行うことから、卵や雛の捕食を避けるためにオナガ』(スズメ目カラス科オナガ属オナガ Cyanopica cyana)『がツミの巣の周囲で繁殖することが多かった。だが』、『近年ではカラスの個体数が増加し、ツミが防ぎきれなくなったことから』、『カラスに対し』、『あまり防衛行動を行わなくなり、オナガがツミを頼りにすることが減ってきている』とある。

「かたむねをなほかひ殘すゑつさいのいかにしてかは鶉とるらん」よく判らん。片方の胸(或いは翼か)をひどく怪我しているのか?

「鶙鵳〔(ていけん)〕【和名、「乃世〔(のせ)〕」。】」うじゃうじゃ良安言って「ノセ」という和名の独立種がいるように書いているのだが、そんな名のハイタカの仲間は見当たらない。「和名類聚鈔」の巻十八「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に、

   *

鶙鵳 「廣雅」云、『鶙鵳【「帝」「肩」二音。「漢語抄」云「乃世」。】]鷂屬也』。

   *

と、鷹匠辺りがダメな鷹を「ノセ」とか言っているように誤認したか、或いはそう、区別していたかして、独立種と誤認したものではなかろうか? 現行では単にハイタカの異名としている。鷹」では、雌より雄が小さいことから、『「兄(せう)」と稱す【和名、「勢宇」。「小(セウ)の字音のごとし。】」とあったし、」の項では鷂の雄を「兄鷂(このり)」としていた。「兄」は古語で「せ」である。「野」生のハイタカ類のちんまい弱そうな鷹狩には使えそうもない雄を「野兄」で「のせ」と呼んだのではあるまいか? などと夢想したりした。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)

 

Haitaka

 

はしたか    鷣【音淫】 負雀

はいたか   【和名波之太加俗云波以太加】

【音耀】

      
○兄鷂【このり】

セウ    【和名古能里】

 

△鷂似鷹而小者非鷹之雛別此一種也遍身如鷹多黑

斑腹有黃黑斑者有赤白交斑者又有胸腹灰赤色交黑

赤斑背純黑含光者皆能捉鳬鷺已下小鳥而鷙鴻鴈等

者少矣

兄鷂 鷂之雄也脚極細而易折能捉鶉已下小鳥最俊

 者捉鷺 又有丹兄鷂者毛色如塗丹

凡鷹以雌爲狩獵之用惟鷂雌雄共兼用尾州木曾山中

 及北國有之

                  定家

  はいたかの飛て落たる村草に駒打よせてひねりぬく也

  同じ秋渡るこのりはさもあらて雀鷹こそ餌ふたふになれ

 

 

はしたか    鷣〔(いん)〕【音「淫」。】 負雀

はいたか   【和名、「波之太加」。

        俗に云ふ、「波以太加」。】

【音、「耀〔(エウ)〕」。】

      ○兄鷂【「このり」。】

セウ    【和名、「古能里」。】

 

△鷂は鷹に似て、小さき者なり。鷹の雛に非ず。別に、此れ、一種なり。遍身、鷹のごとく、黑斑多く、腹に黃黑の斑有る者、赤白〔の〕斑を交じる者有り。又、胸・腹、灰赤色に〔して〕黑赤〔の〕斑を交へ、背、純黑〔にして〕光〔澤〕を含む者〔も〕有り。皆、能く鳬(かも)・鷺已下〔(いか)〕〔の〕小鳥を捉へ、鴻〔((ひしくひ))〕・鴈〔(がん)〕等を鷙〔(と)〕る者は少し。

兄鷂(このり) 鷂(はいたか)の雄なり。脚、極めて細くして折れ易し。能く鶉〔(うづら)〕已下の小鳥を捉〔(と)〕る。最も俊なる者は鷺を捉る。 又、「丹兄鷂(たんこのり)」といふ者有り、毛の色、丹〔(に)〕を塗りたるがごとし。

凡そ、鷹〔は〕雌を以つて狩獵の用と爲す。惟だ、鷂は雌雄共に兼用す。尾州・木曾の山中及び北國〔に〕之れ有り。

                  定家

  はいたかの飛びて落ちたる村草〔(むらくさ)〕に

     駒打ちよせてひねりぬくなり

  同じ秋渡るこのりはさもあらで

     雀鷹〔(すずめだか)〕こそ餌〔(ゑ)〕ふたふになれ

[やぶちゃん注:なぜかしら私の非常に好きな、タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisusウィキの「ハイタカ」によれば、『ユーラシア大陸の温帯から亜寒帯にかけての広い地域に分布して』おり、『日本では、多くは本州以北に留鳥として分布しているが、一部は冬期に暖地に移動する』。全長はで約三十二センチメートル、で約三十九センチメートル。『オスは背面が灰色で、腹面には栗褐色の横じまがある。メスは背面が灰褐色で、腹面の横じまが細かい』。『「疾き鷹」が語源であり、それが転じて「ハイタカ」となった。かつては「はしたか」とも呼ばれていた』(孰れも「疾」の訓の「早い」の「はし」の転訛であろう)。『元来』、『ハイタカとは、ハイタカのメスのことを指す名前で、メスとは体色が異なるオスはコノリと呼ばれた』「大言海」に『よれば、コノリの語源は「小鳥ニ乗リ懸クル意」であるという』。『低地から亜高山帯にかけての森林や都市部に生息する。樹上に木の枝を束ねたお椀状の巣を作る』。『食性は動物食で、鳥類や昆虫類などを空中または地上で捕食する』。一回で四、五個の『卵を産む』。『オオタカ』(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis)『と共に鷹狩に用いられた』とある。グーグル画像検索「Accipiter nisusをリンクさせておく。

 

「鳬(かも)」広義のカモは、カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas の中でも、小型な種群を指す。

「鷺」広義にはサギ科 Ardeidae のサギ類を総称するが、ここはサイズが中型から小型のものに限られてくるので、はっきりとは言い難い。但し、サギ科コサギ属コサギ Egretta garzetta 辺りより小型の種群を指していると考えるのが妥当であろう。それでも成体は全長六十センチメートルにも達する。

「鴻〔((ひしくひ))〕」カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis。全長七十八センチメートルから一メートルに達する

「鴈」広義のガン(「雁」)は先に示した広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科AnserinaeCygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称である。

「鶉〔(うづら)〕」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica。全長は約二十センチメートルで、翼開長でも九・一~十・四センチメートルである。のハイタカのターゲットの個体の大きさの限界値は頗る小さい。恐らくは、より体重が小さく、脚も細いから、襲う対象の全長がさらに三回以上も小さくなってしまうのであろうか。

「村草〔(むらくさ)〕」叢。

「雀鷹〔(すずめだか)〕」「雀鷂」とも書き、前項の「鷹」に既出。タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis 

「餌〔(ゑ)〕ふたふになれ」意味不明。識者の御教授を乞う。]

萩原朔太郞 靑猫 (初版・正規表現版)始動 序・凡例・目次・「薄暮の部屋」

 

[やぶちゃん注:本書は大正一二(一九二三)年一月二十六日に新潮社より発行された。

 底本は所持する昭和四八(一九七三)年五月一日発行の「新選 名著複刻全集 近代文学館」(財団法人日本近代文学館刊行・新選名著複刻全集近代文学館編集委員会編集・株式会社ほるぷ出版製作)の「萩原朔太郞 靑猫 新潮社版」(アンカット装)を用いた。

 なお、加工データとして旧字旧仮名の「青空文庫」版(昭和五〇(一九七五)年五月筑摩書房発行「萩原朔太郎全集第一卷」底本・kompass氏入力・小林繁雄氏及び門田裕志氏校正)のテキスト・データ・ファイル(リンク先下方)を使用させて戴いた。ここに謝意を表する。但し、この「青空文庫」のデータは旧字旧仮名と名打っているが、「青空文庫」の表字制限基準のために、例えば、標題の「靑猫」からしてが「青猫」であるように、完全な『旧字』再現にはなっていない。さらに、参考データが底本とした筑摩書房版「萩原朔太郎全集」は初版の表記表現を同全集編集者が正当とする〈校訂〉(私は〈漂白・消毒〉校訂と称している)したものであって、初版の「靑猫」そのものの再現ではない点にも注意せねばならぬ。

 以上から、私のこの初版の正規表現版(無論、字体によっては電子表記出来ないものがあり、完全とは言えぬのは無論である)は、ネット上にある「靑猫」の屋上屋のデータであるとは全く考えていない。私は既に、このブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版』を昨年完遂させているが、本電子化もそれと同じようなコンセプトとなる。従って、表記の決定的誤り(歴史的仮名遣の誤用を含む)等も基本、そのままとし、それらは注で指示した。

 さらに、私も所持するその筑摩書房「萩原朔太郎全集第一卷」とも校合し、初出形との有意な異同等についても必要と判断したものは注で示す(実際には六年ほど前に幾つかの改変の激しい初出形は電子化しているので、リンクでそれを示した箇所もある)。

 なお、萩原朔太郎は、後に版畫莊から昭和一一(一九三六)年三月に詩集「定本靑猫」を刊行し、その「卷尾に」で、『この書の中にある詩篇は、初版「靑猫」を始め、新潮社版の「蝶を夢む」第一書房版の「萩原朔太郎詩集」その他既刊の詩集中にも散在し、夫夫[やぶちゃん注:「それぞれ」。]少し宛詩句や組方を異にしてゐるが、この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、倂せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人人や、他の選集に拔粹しようとする人人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と述べてはいる。しかし、私は本電子化で〈萩原朔太郎という私の愛する詩人を真っ向から批判・批評しよう〉などというつもりは毛頭なく、だいたいからして、「靑猫」と「定本靑猫」とは詩集標題とは裏腹に、実際には初版「靑猫」とは全く異なる詩人自身による既刊詩集からの改作を含んだアンソロジーなのであり、「定本」と名乗ったからと言って、初版の詩集「靑猫」を無化し、否定する意図は萩原朔太郎にはないのは一目瞭然であると私は考えている。また、さらに言えば、萩原朔太郎の詩篇改変の中には有意に改悪と感じられるケースもままある(これは彼に限らず、総ての作家たちの宿命でもある)。されば、「定本靑猫」に採って、しかも有意の改作を施した初版「靑猫」所収の詩篇については、この「定本靑猫」を「定本」とせよという限定言辞としては無論、有効であろうからして、それらについては比較検討してみた

 表記字体は底本の雰囲気を出すために主本文を明朝体とする(ゴシック太字が目次等で使用されているためでもある。英文は私の趣味でローマンとした)。文字のポイントや字配は、必要があれば、底本に従うようにしたが、ブラウザの不具合の関係上、必ずしも再現してはいない。また、ヴァーチャルに楽しめるように、画像で示すのがよいと判断した部分はそれを掲げた。ルビは後に同ポイント丸括弧で添え、傍点「ヽ」は太字に代えた。【西曆二〇一八年一月七日始動 藪野直史】]

 

 

Hakohyousi

 

[やぶちゃん注:箱表紙(箱の底で三本の大型クリップにより表紙寄りで接合されたもの)右から本体を挿し入れる形)。本詩集の装幀は総て著者に依る。左上部に、白ラベルに総て薄いブルーで、

 

猫   靑

 

版年三二九一曆西

 

Sakutaro-Hagiwara 

 

とあり、二重枠(外側は太い罫)で囲んだものが貼り付け。右下中央寄りで、 

 

 

 

とブラックで印刷されている。]

 

 

Hakose_2

 

[やぶちゃん注:箱の背。 

 

靑 猫 詩集    萩  

 

とブラックで印字。他の面には文字は無いので画像は省略する。]

 

 

Hontaihyousise 

 

[やぶちゃん注:本体(パラフィン掛け)表紙と背(裏表紙は文字がないのでカットした)。黄土色のクロス装。箱と同じ文字のラベルが今度は右側上にブラックで印刷されて貼り付けられており(印字が同じなので電子化しない)、背は、 

 

 靑 猫 詩集 

 

である。]

 

 

Tobira

 

[やぶちゃん注:扉(右ページ。「詩集」の文字は右から左でポイント落ち)。 

 

詩集 靑 猫   萩原朔太郎著

 

           新潮社出版 

 

と全体が縦長二重枠内にあり、枠も含めて、総てが薄いブルーで印刷されている。]

 

 

    ⦿

 

 私の情緖は、激情(パツシヨン)といふ範疇に屬しない。むしろそれはしづかな靈魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聽く橫笛のひびきである。

 ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に歌はうとする者は別である。それはあの艶めかしい一つの情緖――春の夜に聽く橫笛の音――である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の鄕愁である。遠い遠い實在への淚ぐましいあこがれである。

 およそいつの時、いつの頃よりしてそれが來れるかを知らない。まだ幼(いと)けなき少年の頃よりして、この故しらぬ靈魂の鄕愁になやまされた。夜床はしろじろとした淚にぬれ、明くれば鷄(にはとり)の聲に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を戀して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「戀を戀する人」の愁をうたつた。

[やぶちゃん注:「底本の「⦿」は中の黒丸が大きく、外側の円との間がもっと狭い。

「倚音」「いおん」。前打音。装飾音の一つで、ある音符に付随し、それに先だって短く奏される音。非和声音で音を調する。旋律の主音符の前に小音符で附すが、アクセントは常に前打音の方にある。アッポッジャトゥーラ(イタリア語:Appoggiatura)。

「艶めかしい」「なまめかしい」。本書には詩篇にも、「艷」ではなく、この字体で出るし、向後も総てこう訓じている。老婆心乍ら、くれぐれも「つやめける」などと読まれぬように。

 げにこの一つの情緖は、私の遠い氣質に屬してゐる。そは少年の昔よりして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも淚ぐましき橫笛の音色をひびかす、いみじき橫笛の音にもつれ吹き、なにともしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。

 かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緖の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れやうとして、むなしくかすてらの脆い翼(つばさ)をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。

[やぶちゃん注:「觸れやう」はママ。]

 されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徵詩派の信條たる音樂である。 

 

    ⦿ 

 

 感覺的鬱憂性! それもまた私の遠い氣質に屬してゐる。それは春光の下に群生する櫻のやうに、或いはまた菊の酢えたる匂ひのやうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。かくて私の生活は官能的にも頽廢の薄暮をかなしむであらう。げに憂鬱なる、憂鬱なるそれはまた私の叙情詩の主題(てま)である。

[やぶちゃん注:「酢えたる」はママ。「饐えたる」の意。「てま」はママ。「テーマ」(theme)。]

 とはいへ私の最近の生活は、さうした感覺的のものであるよりはむしろより多く思索的の鬱憂性に傾いてゐる。(たとへば集中 意志と無明」の篇中に收められた詩篇の如きこの傾向に屬してゐる。これらの詩に見る宿命論的な暗鬱性は、全く思索生活の情緖に映じた殘像である。)かく私の詩の或るものは、おほむね感覺的鬱憂性に屬し、他の或るものは思索的鬱憂性に屬してゐる。しかしその何れにせよ、私の眞に傳へんとするリズムはそれでない。それらの「感覺的なもの」や「觀念的なもの」でない。それらのものは私の詩の衣裝にすぎない。私の詩の本質――よつて以てそれが詩作の動機となるところの、あの香氣の高い心悸の鼓動――は、ひとへにただあのいみじき橫笛の音の魅惑にある。あの實在の世界への、故しらぬ思慕の哀傷にある。かく私は歌口を吹き、私のふしぎにして艶めかしき生命(いのち)をかなでやうとするのである。

[やぶちゃん注:「集中 意志と無明」はママ。鍵括弧「「」の脱植。「かなでやう」はママ。]

 されば私の詩風には、近代印象派の詩に見る如き官能の耽溺的靡亂がない。或ひはまた重鬱にして息苦しき觀念詩派の壓迫がない。むしろ私の詩風はおだやかにして古風である。これは情想のすなほにして殉情のほまれ高きを尊ぶ。まさしく浪漫主義の正系を踏む情緖詩派の流れである。

[やぶちゃん注:「或ひは」はママ。歴史的仮名遣としては誤りであるが、古典でも盛んに現われる。] 

 

    ⦿ 

 

「詩の目的は眞理や道德を歌ふのでない。詩はただ詩のための表現である。」と言つたボトレエルの言葉ほど、藝術の本質を徹底的に觀破したものはない。我等は詩歌の要素と鑑賞とから、あらゆる不純の槪念を驅逐するであろう。「醉」と「香氣」と、ただそれだけの芳烈な幸福を詩歌の「最後のもの」として決定する。もとより美の本質に關して言へば、どんな詭辯もそれの附加を許さない。

[やぶちゃん注:「ボトレエル」はママ。全集では「ボドレエル」に消毒。「あろう」はママ。萩原朔太郎はしばしばこの口語表記を詩篇内でも用いる。] 

 

    ⦿ 

 

 かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神祕でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。

 生活の沼地に鳴く靑鷺の聲であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。 

 

    ⦿ 

 

 詩はいつも時流の先導に立つて、來るべき世紀の感情を最も鋭敏に觸知するものである。されば詩集の眞の評價は、すくなくとも出版後五年、十年を經て決せらるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。卽ち詩は、發表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遲きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時の淺薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能はないことである。

[やぶちゃん注:「能はないこと」「あたはないこと」。出来ないこと。成し得ないこと。]

 詩が常に俗衆を眼下に見くだし、時代の空氣に高く超越して、もつとも高潔淸廉の氣風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。 

 

    ⦿

 

 詩を作ること久しくして、益々詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる靑猫の夢魔にすぎない。 

 

    利根川に近き田舍の小都市にて  著 者

 

 

凡  例 

 

一。第一詩集『月に吠える』を出してから既に六年ほど經過した。この長い間私は重に思索生活に沒頭したのであるが、かたはら矢張詩を作つて居た。そこで漸やく一册に集つたのが、この詩集『靑猫』である。

[やぶちゃん注:「重に」ママ。「主に」。]

 

 何分にも長い間に少し宛書いたものである故、詩の情想やスタイルの上に種々の變移があつて、一册の詩集に統一すべく、所々氣分の貫流を缺いた怨みがある。けれども全體として言へば、矢張書銘の『靑猫』といふ感じが、一卷のライト・モチーヴとして著者の個性的氣稟を高調して居るやに思ふ。

[やぶちゃん注:「ライト・モチーヴ」「ライトモチーフ」(ドイツ語:Leitmotiv)は本来は音楽用語で、オペラ・標題音楽などに於いて特定の人物・理念・状況などを表現するために繰り返し現れる楽節・動機。ワグナーの楽劇によって確立され、「指導動機」「示導動機」等と訳されるが、ここはそこから転じて、芸術作品に於ける根底を成す思想・詩想の意。]

 

二。集中の詩篇は、それぞれの情想やスタイルによつて、大體之れを六章に類別した。卽ち「幻の寢臺」、「憂鬱なる櫻」、「さびしい靑猫」、「閑雅な食慾」、「意志と無明」、「艶めける靈魂」他詩一篇である。この分類の中、最初の二章(「幻の寢臺」、「憂鬱なる櫻」)は、主として創作年代の順序によつて配列した。此等の章中に收められた詩篇は、槪ね雜誌『感情』に揭載したものであるから、皆今から數年以前の舊作である。『感情』が廢卷されてからずゐぶん久しい間であるが、幸ひに殘本の合本があつて集錄することを得た。同時代に他の雜誌へ寄稿したものは、すべて皆散佚して世に問ふべき機緣もない。

「さびしい靑猫」以下の章に收められた詩は、何れもこの二三年來に於ける最近の收穫である。但し排列の順序は年代によらず、主として情想やスタイルの類別によつた。

[やぶちゃん注:「廢卷」はママ。全集は「廢刊」に消毒。]

 

三。私の第二詩集は、はじめ『憂鬱なる』とするつもりであつた。それはずつと以前から『感情』の裏表紙で豫告廣告を出して置いた如くである。然るにその後『憂鬱なる××』といふ題の小説が現はれたり、同じやうな書銘の詩集が出版されたりして、この「憂鬱」といふ語句の官能的にきらびやかな觸感が、當初に發見された時分の鮮新な香氣を稀薄にしてしまつた。そればかりでなく、私の詩風もその後によほど變轉して、且つ生活の主題が他方へ移つて行つた爲、今ではこの「取つて置きの書銘」を用ゐることが不可能になつた始末である。豫告の破約を斷るため、ここに一言しておく。

 

四。とにかくこの詩集は、あまりに長く出版を遲れすぎた。そのため書銘ばかりでなく、内容の方でも、いろいろ「持ち腐れ」になつてしまつた。その當時の詩壇から見て、可成に新奇で鮮新な發明であつた特種のスタイルなども、今日では詩壇一般の類型となつて居て、むしろ常套の臭氣が鼻につくやうにさへなつて居る。さういふ古い自分の詩を、今更ら今日の詩壇に向つて公表するのは、ふしぎに理由のない羞恥と腹立たしさとを感ずるものである。

[やぶちゃん注:「あまりに長く出版を遲れすぎた」はママ。表現としてはちょっといただけない。]

 

五。附錄の論文「自由詩のリズムに就いて」は、この書物の跋と見るべきである。私の詩の讀者は勿論、一般に「自由詩を作る人」、「自由詩を讀む人」、「自由詩を批評する人」、「自由詩を論議する人」特に就中「自由詩が解らないと言ふ人」たちに讀んでもらふ目的で書いた。自由詩人としての我々の立場が、之れによつて幾分でも一般の理解を得ば本望である。

 

[やぶちゃん注:以下、目次であるが、必要性がないのでリーダとページ数は省略した。]

 

   目  次

 

詩集 靑  猫

 

幻の寢臺 詩十二篇

薄暮の部屋

寢臺を求む

沖を眺望する

い腕に抱かる

群集の中を求めて步く

その手は菓子である

靑猫

月夜

春の感情

野原に寢る

蠅の唱歌

恐ろしく憂鬱なる 

 

憂鬱なる櫻 詩六篇 

 

憂鬱なる花見

夢にみる空家の庭の祕密

黑い風琴

憂鬱の川邊

佛の見たる幻想の世界

 

 

さびしい靑猫 詩十五篇 

 

みじめな街燈

恐ろしい山

題のない歌

艶めかしい墓場

くづれる肉體

鴉毛の婦人

綠色の笛

寄生蟹のうた

かなしい囚人

猫柳

憂鬱なる風景

[やぶちゃん注:ママ。本文標題は「憂鬱な風景」。]

野鼠

五月の死びと

輪𢌞と轉生

さびしい來曆

[やぶちゃん注:ママ。本文標題は「さびしい來歷」。]

 

閑雅な食慾 詩七篇

 

怠惰の曆

閑雅な食慾

馬車の中で

靑空

最も原始的な情緖

天候と思想

笛の音のする里へ行かうよ 

 

意志と無明 詩九篇 

 

蒼ざめた馬

思想は一つの意匠であるか

厭やらしい景物

囀鳥

惡い季節

遺傳

白い牡鷄

自然の背後に隱れて居る 

 

艶めける靈魂 詩五篇

 

艶めける靈魂

花やかなる情緖

片戀

春宵

  
 ⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿

軍隊 

 

挿 畫

 

靑猫之圖

西洋之圖

海岸通之圖

古風ナル艦隊

 

附 錄

 

自由詩のリズムに就て

 

目 次

[やぶちゃん注:「海岸通之圖」と「古風ナル艦隊」は実際とは順序が逆である。

 

 

Aonekonozu

 

[やぶちゃん注:挿画「靑猫之圖」(左ページ)。周囲の余白をカットし、外に比べて大きな画像で示してある。筑摩書房の「萩原朔太郎全集第一卷」の解題によれば、この図は「シエナの首寺院の敷石の巫女」とあるが、現物の詳細は私には不明である。識者の御教授を乞うものである。]

 

Naihyoudai

[やぶちゃん注:本文内標題。特に電子化しない。かなり紙質の黄色が強く出て異様に黄ばんだ感じに撮れてしまったため、強い補正を加えてある。

 以下、パート標題(左ページ)。] 

 

   幻 の 寢 臺

 

 

  薄暮の部屋

 

つかれた心臟は夜(よる)をよく眠る

私はよく眠る

ふらんねるをきたさびしい心臟の所有者だ

なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ兒

寒さにかじかまる蠅のなきごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。 

 

私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を

私はさびしむ この力のない生命の韻動を。 

 

戀びとよ

お前はそこに坐つてゐる 私の寢臺のまくらべに

戀びとよ お前はそこに坐つてゐる。

お前のほつそりした頸すぢ

お前のながくのばした髮の毛

ねえ やさしい戀びとよ

私のみじめな運命をさすつておくれ

私はかなしむ

私は眺める

そこに苦しげなるひとつの感情

病みてひろがる風景の憂鬱を

ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蠅の幽靈

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。 

 

戀びとよ

私の部屋のまくらべに坐るをとめよ

お前はそこになにを見るのか

わたしについてなにを見るのか

この私のやつれたからだ 思想の過去に殘した影を見てゐるのか

戀びとよ

すえた菊のにほひを嗅ぐやうに

私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その靑ざめた信仰を

よし二人からだをひとつにし

このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて 手をあてて。 

 

戀びとよ

この閑寂な室内の光線はうす紅く

そこにもまた力のない蠅のうたごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

戀びとよ

わたしのいぢらしい心臟は お前の手や胸にかじかまる子供のやうだ

戀びとよ

戀びとよ。 

 

[やぶちゃん注:『詩歌』大正六(一九一七)年十一月号初出。初出での標題は『夕暮室内にありて靜かにうたへる歌』で、かなり異なる箇所が散見され、全体の執拗な少女への直接的フェティシズムは初出の方が遙かに濃厚である。既に私は昔にこちらで電子化しているので参照されたい。]

2019/01/06

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)

 Taka

 

 

たか    題肩 鷞鳩

      鷙鳥 征鳥

【音膺】

      噺那夜【梵書】

イン   【和名太加】

本綱鷹【以膺擊物故名】鳥之疏暴者也資金方之猛氣擅火德之

炎精指重十字尾貴合盧觜同鈎利脚等荊枯或白如散

花或黑如漆大文若錦細斑似纈身重若金爪剛如鐵

毛衣屢改厥色無常寅生酉就總號爲黃一周作鴘三歳

[やぶちゃん注:「本草綱目」と異同有り(校合済み)。「一周」は「二周」、「鴘」は「鷂」。]

成蒼雌則體大雄則形小察之爲易調之實難薑以取熱

酒以排寒生於窟者好眠巢於木者常立雙骹長者起遲

六翮短者飛急蓋鷹與鳩同氣禪化故得稱鳩

五雜組云産於遼東者爲上故中華之鷹不及高麗産凡

教鷹者先縫其兩目仍布囊其頭閉空屋中以草人臂之

初必怒跳顚撲不肯立久而困憊始集臂上度其餒甚以

少肉啖之初不令飽又數十日眼縫開始聯其翅而去囊

焉囊去怒撲如初又憊而馴乃以人代臂之如是者約四

十九日廼開縱之高飛半晌羣鳥皆伏無所得食方以

竹作雉形置肉其中出没草間鷹見卽奮攫之遂徐收其

縧焉習之既久然後出獵擒縱無不如意矣

△按神功皇后四十七年自百濟國始貢鷹其後仁德帝

 【四十二年】依納屯倉阿弭古獻異鳥授百濟國酒君令養之

[やぶちゃん注:「四十二年」は「四十三年」の誤記。訓読では特異的に訂した。]

 以韋緡著其足以小鈴著其尾居腕上而未幾能馴天

 皇幸百舌鳥野而遊獵多獲雉是本朝鷹狩始也

 凡【雄大而勝雌小而劣】鷹雄小而劣稱兄【和名勢宇如小字音】雌大而勝稱

 弟【和名太伊如大字音】當歳生育於山者曰黃鷹【和名和賀太加】其色土

 黃而縱有黑彪易毛爲灰白色横生彪

二歳曰撫鷹又曰片鴘【訓加太加閉利】三歳曰再鴘【毛呂加閉利】

離巢自求食時捕來者曰網掛【阿加計】取巢育人家者曰巢

鷹【須太加】當時鷹匠人臂之閑居于燈下毎夜自酉至子如

此二十日許而徐馴矣後出於野外著經緒放之而呼則

還來此謂於幾和太利

                 定家

  去年よりはとやまさりする片かへり狩行末の秋そ悲しき

在山中歷年者曰野褊【又山鴘】人養之難馴

                 正經

  みかり人野されわか鷹山かへり思ひ思ひに手に居て行

凡鷹餌用雀一隻爲一餌諸鳥肉亦准之以毎日十五餌

也如欲獲鴈鵠者減餌也三分一而令鷹飢則能摯大鳥

四月羽毛將易時解去韋緡放于鳥屋内餌食任意逐日

落而還生新毛七月中旬如舊謂之片鳥屋二歳易毛

謂兩鳥屋三歳謂兩片鴘蓋易其尾也一枚一枚生

是異他禽

                 定家

  鷹ははやもろかたかへり過ぬ也今幾年かとやをかはまし

鷹尾十二枚長五六寸能合而末圓有黑白重紋遇天寒

則疊尾如一枚尾如遇損傷則取漆樹汁用他鷹之尾

尾下有三品毛曰尾末毛【於須計】亂絲【美太禮伊止】狹衣【佐古呂毛】

下尾曰石打【伊之宇知】尾端白者曰杓華【比志也久波奈】背毛曰母衣

毛【保呂計】其脇出白毛曰茅花【都波奈】觜脇毛曰齒黑付【加祢豆計】

肘内毛曰水搔毛【美豆加計】脚著韋緡處曰無毛脛【計奈之波岐】共

皆俗稱也

                 定家

  箸鷹のさころもの毛を重ても松風さむみあられふる也

鷹翦不見者尋之朝則東夕則西其尋聲呼於宇於宇如

隼則呼波伊波伊如鷂雀鷂雀𪀚則呼保宇保宇

                 定家

  秋のこし方を忘れすしたひてや夕の鷹は西へゆくらん

背腹白觜灰白色者稱白鷹迄爪白者稱雪白鷹眉上白

者稱目白鷹古者白鷹爲珍奇近世希有之羅山文集如

出白鷹近來皆遇不祥之兆或云凡鷹不可近于燈羽毛

煤※[やぶちゃん注:「※」=「耳」+「黑」。]

                 定家

  日の本の山てふ山にかへる巢に白鷹の子のなとなかるらん

                 同

  燈火をあたり近くは置きもせし若白鷹のすすけもそする

五雜組云狡兔遇鷹來撲輙仰臥以足擘其爪而裂之鷹

卽死又鷹遇石則不能撲兔見之輙依巖石傍旋鷹無

如之何則盤飛其上良久不去人見之跡之兔可徒手捉

得也

源齊頼【滿政之孫】任出羽守源頼義東征之時齊頼以善養鷹

 爲鷹飼之長而從焉至于今好田獵者皆學齊頼之術

 且有武名有戰功虜貞任之弟良昭於羽州亦一勝利

 也

[やぶちゃん注:「鷹類」(鳥綱 Aves 新顎上目Neognathae タカ目Accipitriformes)の総論部であるが、異様に長い(本未明に始めて公開までほぼ十二時間かかった)ので、読み難いとは思うが、訓読文内に注を総て入れ込み、本文と区別するために太字で示した(本文内のものは飛ばして読めるように下線も附した)。] 

 

たか    題肩 鷞鳩〔(しようきう)〕

      鷙鳥〔(しつてう)〕 征鳥

【音、「膺〔(ヨウ)〕」。】

      噺那夜〔(しなや)〕【梵書。】

イン   【和名、「太加」。】

「本綱」、鷹【膺〔(むね)〕を以つて物を擊つ。故に名づく。】鳥の疏暴なる者なり。金方〔(きんはう)〕の猛氣を資〔(う)〕く。火〔(くわ)〕德の炎精を擅(ほしいまゝ)にす。指の重さ、十字。尾、合盧〔(がうろ)〕を貴〔(たふと)〕ぶに同じ。脚は荊枯〔(けいこ)〕に等(ひと)し。或いは白く、散〔らせる〕花のごとく、或いは、黑くして漆〔(うるし)〕をずるがごとくして、大なる文〔(もん)〕、錦〔(にしき)〕のごとく、細かなる斑〔(まだら)は〕纈〔(くくりぞめ)〕に似たり。身、重きこと、金〔(かね)〕のごとく、爪、剛〔(こう)〕にして鐵のごとし。毛衣、屢々(しばしば)改まり、厥〔(その)〕色、常〔(つね)〕、無し。寅〔(とら)〕に生じ、酉〔(とり)〕に就總號して「黃(わかたか)」と爲す。一周〔して〕「鴘〔(わかたか)〕」と作〔(な)〕り、三歳〔にして〕蒼〔(さう)〕。雌は、則ち、體、大きく、雄は、則ち、形、小さし。之れを察すること、易〔(やす)〕し爲〔(な)〕す。之れを調〔(てう)〕すること、實〔(まこと)〕に難し。〔暑き折りは〕薑〔(はじかみ/しやうが)〕を以つて熱を取り、〔寒き折りは〕酒を以つて寒を排〔(のぞ)〕く。窟〔(いはや)〕の生〔(せい)〕する者は好んで眠り、木に巢(すづく)りする者は常に立雙〔(たちなら)〕ぶ。骹〔(はぎ)〕長き者、起くること遲く、六〔つ〕の翮〔(つばさ)〕の短き者、飛ぶこと、急なり。蓋し、鷹と鳩と〔は〕氣を同じく〔し〕禪化〔(ぜんか)〕する。故に得て、「鳩」と稱す。

[やぶちゃん注:「鷹」は新顎上目タカ目Accipitriformesタカ科Accipitridae に属する鳥の内で、比較的、大きさが小さめの種群を指す一般通称である。ウィキの「によれば、

オオタカ(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis

ハイタカ(ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus

クマタカ(クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis

などが知られる種である。タカ科に分類される種の中でも、

比較的、大きいものを「鷲」(わし:Eagle

小さめのものを「鷹」(たか:Hawk

と呼び分けてはいるが、これは明確な区別ではなく、古くからの慣習に従って呼び分けているに過ぎず、生物学的区分ではない。また、大きさからも明確に分けられているわけでもなく、『例えば』上記の『クマタカはタカ科の中でも大型の種であり』、『大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシ』(タカ科カンムリワシ属カンムリワシ Spilornis cheela)『は大きさはノスリ』(タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus)『程度であるからタカ類といってもおかしくない』。『縄文時代の遺跡からはタカ類の骨が発掘されており、当時は人間の食料であったと考えられている』。『鷹の糞は「鷹矢白」(たかのくそ)として、医薬品として用いられたことが平安時代の医薬書である』「本草和名」に載る。鷹の羽などが、家紋として使用されている。『タカ科及びハヤブサ科』(新顎上目ハヤブサ目Falconiformes ハヤブサ科Falconidae)『の鳥は優れた狩猟の能力をもつため、古くから多くの国で厳しい訓練を施したうえで鷹狩に使われてきた』。『モンゴルや中央アジアの遊牧民の間では「鷹」という言葉が力ある者の象徴として人名に用いられた。トゥグリル・ベグの「トゥグリル」やオン・ハンの本名「トグリル」はいずれも鷹という意味である』。『長野県では昔、タカの捕獲が盛んだった。タカの巣から幼鳥などを捕獲したので「巣場」がつく地名がみられる。森巣場、右京巣場、日向巣場、麦草巣場、六助巣場、抜井巣場、善右衛門巣場、原小屋巣場、などである』。『また、タカの眼球やタカの爪を煎じて飲むという伝統風習が長野県阿智村や喬木村にあった』とある。

「金方〔(きんはう)〕の猛氣を資〔(う)〕く」「金」は五行で「西方」を指す。「金方の狂氣」については東洋文庫版の注に「漢書」の『「五行志」に」「金西方万物既成。怒気之始也」とある』とある。

「指の重さ、十字」「サ」の送り仮名はママ。これでは意味不明である。原典も確かにこの文字列ではあるが、ここは「十字に重なれり」と読むべきではないか? 東洋文庫訳でも『指は十字形で』と訳してある。

合盧〔(がうろ)〕を貴〔(たふと)〕ぶ」意味不詳。「盧」には「黒い」の意があり、複数の尾羽がびしっとと相い合して「黒々としている」ことをよしとする、の意ではあるまいか? 東洋文庫訳では『尾はぴったりとして』と訳してある。

「鈎利〔(こうり)〕」尖った鉤(かぎ)。

「荊枯〔(けいこ)〕」枯れて堅くなった茨(いばら)の意であろう。

「金〔(かね)〕」黄金。

「寅〔(とら)〕」その日或いは時(午前三時頃から午前五時頃)や方位(東北東寄り)の意か。

「酉〔(とり)〕に就く」死ぬその日時(午後五時頃から午後七時頃)や方位(西)の意であろう。当初は、或いは幼体から成体となることかも知れないなどとも思ったが、それではバランスが悪い。

「一周〔して〕「鴘〔(わかたか)〕」と作〔(な)〕り」どうも「本草綱目」の「二周」の違いが気になってしょうがない。東洋文庫訳は『一年たてば(つまり二歳になれば)』という割注を施しているが、これは根本的な解決にならない。単純に良安の誤写と考えて、二年経ったなったらそれはもう「立派な若い成体の鷹」と成るの謂いでとっておくのが私は正しいように思う。また、「鴘」は文脈では問題なく本邦の訓「わかたか」「若鷹」でよめるのであるが、「本草綱目」の「鷂」ちょっと悩ましい字で、これは本邦では、「はいたか」と訓じ、狭義に鷹の一種であるタカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指す。時珍は「鷂」で中型の鷹類の初成体個体群をそのように呼んだ可能性が濃厚であるが、ここは良安の「鴘」の方が引用上は誤りでも、躓かずに読めるのである。そもそもが次項は「鷂(はいたか)」でそこで良安ははっきりと、「鷹に似て小さいが、鷹の雛ではなく別な一種である」と明言しているのである。だからこそなおさら、この「本草綱目」の「鷂」の字には従えなかったのである。

「蒼〔(さう)〕」年老いた個体の意。或いはそうした鷹の老成個体を「蒼」と呼ぶのかも知れぬ。その場合は鍵括弧となる。

「調〔(てう)〕」調教。

「骹〔(はぎ)〕」「脛」に同じい。

「禪化〔(ぜんか)〕」東洋文庫訳は『禅化(化身)』とする。変化して姿を変えることらしい。「禪」には「禅譲」のように「後に譲る」の意味があることからか。

『故に得て、「鳩」と稱す』これも半可通でよく意味が判らない。「得」は「禪化」を経ることを言うのだろうが、そうしたら、全く見た目は「鳩」になるのであるから、「鳩」と称するのは当たり前で、謂いがおかしい。寧ろ、鷹のことを別に「鳩」と呼ぶのはそうした理由からである、というのであれば、私も納得もしよう。]

 

「五雜組」に云はく、『遼東に産する者。上と爲す。故に中華の鷹は、高麗産に及ばず[やぶちゃん注:何故、「故に」なのかが不分明。例えば、タカ類でも優秀な鷹狩の担い手であるタカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis が、北方種であるから、劣ると言うのであろうか。]。凡そ、鷹を教ふる者、先づ、其の兩目を縫(ぬ)ひ、仍〔(よつ)て〕其の頭を布にて囊(つゝ)み、空屋(あきや)の中を閉ぢて、草人〔(さうじん)〕[やぶちゃん注:等身大の藁人形。]を以つて之れを臂(ひじ)せしむ。初めは必ず、怒り跳り、顚撲〔(てんぼく)して〕[やぶちゃん注:引っ繰り返っては頻りに搏ち羽ばたき。]、肯〔(あへ/うべなひ)〕て立たず。久しくして困憊(くたび)れて、始めて臂の上に集〔(ゐ)〕る[やぶちゃん注:おとなしくとまる。]。其の餒(う)[やぶちゃん注:「飢」に同じい。]ゆること甚だしきを度(はか)り、少〔しの〕肉を以つて之れを啖(くら)はしむ。初め、飽かしめず[やぶちゃん注:食い足りて飽きるほどには肉をやらない。]。又、數十日にして、眼の縫(ぬひ)を開き、始めて其の翅を聯〔(つら)〕ねて[やぶちゃん注:翼を自由にしててやる、の意と採る。]、囊を去る。囊を去れば、怒り撲〔(う)〕つこと、初めのごとく、又、憊(つか)れて馴〔(な)〕る。乃〔(すなは)〕ち、〔草人を〕人を以つて代へて、之れを臂にす。是くのごとき者、約(おほむね)四十九日、廼(すなは)ち、を開き、之れに高飛〔すること〕半晌〔(はんしよう)〕[やぶちゃん注:短い時間。片時。]を縱(ゆる)す。羣鳥、皆、伏し、食を得る所、無し。方(まさ)に竹を以つて雉〔(きじ)〕の形(なり)に作り、肉を其の中に置き、没草〔(くさむら)〕[やぶちゃん注:私の勝手な当て読み。]の間に出づ。鷹、〔これを〕見るときは、卽ち、之れを奮(ふる)ひ攫(う)つ。遂に、徐(そろそろ)其の縧〔(うちひも)〕[やぶちゃん注:東洋文庫訳のルビに従った。「真田紐」などの意味があり、「打ち紐」でここでの鷹と調教する鷹匠との間に連結さてある抑制用の紐(リード)のことを指しているものであろう。]を收め、之れを習ふ。既に久しくして、然して後、出獵〔せば〕、擒〔(とらふ)ること〕縱〔(ほしいまま)にて〕、無不如意のごとくならずといふこと無し。』〔と〕。

[やぶちゃん注:「遼東に産する者。上と爲す。故に中華の鷹は、高麗産に及ばず」何故、「故に」なのかが不分明。例えば、タカ類でも優秀な鷹狩の担い手であるタカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis が、北方種であるから、劣ると言うのであろうか。

「草人〔(さうじん)〕」等身大の藁人形

「顚撲〔(てんぼく)して〕」引っ繰り返っては頻りに搏ち羽ばたき。

「集〔(ゐ)〕る」おとなしくとまる。

「餒(う)ゆる」「飢ゆる」に同じい。

「飽かしめず」食い足りて飽きるほどには肉をやらない。

「半晌〔(はんしよう)〕」短い時間。片時。

「没草〔(くさむら)〕」私の勝手な当て読み。

「縧〔(うちひも)〕」東洋文庫訳のルビに従った。「真田紐」などの意味があり、「打ち紐」でここでの鷹と調教する鷹匠との間に連結さてある抑制用の紐(リード)のことを指しているものであろう。]

按ずるに、神功皇后四十七年[やぶちゃん注:ユリウス暦二四七年。]百濟國より始めて鷹を貢ず。其の後、仁德帝【四十三年[やぶちゃん注:三五四年。]依納屯倉阿弭古(よさむのみやけあびこ)、異〔(あや)し〕き鳥を獻〔(たてまつ)〕り、百濟國の酒〔(さけ)〕の君〔(きみ)〕之れを養はせしむ。韋緡(をしかは)を以つて其の足に著け、小さき鈴を以つて其の尾に著け、腕の上に居(す)へて、未だ幾ばく〔も〕ならざるに、能く馴れる。天皇、百舌鳥野(もずの)に幸(みゆき)し、遊獵し、多く雉を獲(え)たまふ。是れ、本朝鷹狩の始めなり。

[やぶちゃん注:「韋緡(をしかは)」の「韋」(音「ヰ(イ)」)は「毛を取り去って柔らかくした動物の皮、鞣革(なめしがわ)の意で、「緡」は細い繩を束ねて根元を括ったものを指す。ここはさすれば、現在の鷹匠のように自分の腕に皮革製保護具を装着するのではなく、鷹の脚の方にそうした革と繩を巻きつけたものと解釈するしかないようだ。

「百濟國の酒の君」「日本書紀」にみえる百済の王族。仁徳天皇四十一年に紀角(きのつの)が百済に遣わされた際、角に無礼をはたらいたために捕らえられ、日本に送られた。この二年後に罪を許され、天皇から鷹の飼育を命じられた。「鷹甘部(たかかいべ)」の始祖とされる。]

 凡そ【雄の大にして勝〔(まさ)れ〕る、雌の小にして劣る。】、鷹、雄は小にして劣れり、「兄(せう)」と稱す【和名、「勢宇」。「小〔(セウ)〕」の字音のごとし。】。雌は大にし勝(まさ)れり、「弟(だい)」と稱す【和名、「太伊」。「大」の字音のごとし。】當歳生れて[やぶちゃん注:生後一年。]、山に育つ者を「黃鷹(わかたか)」と曰ふ【和名、「和賀太加」。】。其の色、土黃[やぶちゃん注:黄土色。]にして、縱〔たて)〕に黑き彪〔(ふ)〕有り。毛を易(か)へて、灰白色と爲り、横に彪を生ず。

二歳を「撫鷹〔(なでたか)〕」と曰ふ。又、「片鴘(かたがへり)」と曰ふ【訓、「加太加閉利」。】。三歳を「再鴘(もろがへり)」と曰ふ【「毛呂加閉利」。】。

[やぶちゃん注:鷹匠のサイトを見ると、「片鴘」には「山帰り(やまがえり)」という別称がある。これは第一回の換羽後の鷹或いは第一回換羽後に捕獲された鷹である(後の良安の謂いとは矛盾する)。「小山帰(こやまがへり)」という呼称もあり、これは「小山鴘」とも書く。これは、前年に生まれた鷹が翌春になっても未だ羽毛が完全には抜け変わっていない状態の若鷹を指す語である。他にも生後四歳の鷹(一説には三歳又は四歳以上のものを指す「諸片回・両片回(もろかたがへり)」などもある。]

 

巢を離れて、自ら求-食(あさ)る時、捕へ來たる者、「網掛(あがけ)」と曰ふ【「阿加計」。】。巢を取りて人家に育てる者を「巢鷹」と曰ふ【「須太加」。】。當時[やぶちゃん注:当節。]の鷹匠の人、之れを臂にして、燈下に閑居する。毎夜、酉より子に至るまで此くのごとくすること二十日許りにして、徐(そろそろ)馴る。後、野外に出でて、經緒(へを)[やぶちゃん注:長いリードであろうか。]を著けて之れを放つ。而〔して〕呼ぶときは、則ち、還り來たる。此れを「於幾和太利〔(おきわたり)〕」と謂ふ。

                 定家

  去年〔(こぞ)〕よりはとやまさりする片がへり

     狩り行く末の秋ぞ悲しき

[やぶちゃん注:藤原定家は大の鷹好きで、天文八(一五三九)年には「定家鷹三百首」などという和歌鷹集なんぞをものしている(国立国会図書館デジタルコレクションに有り)。ここにあるのもそれからか。私は定家が嫌いだし、校合資料も持ち合せていないので、これを含め、以下総てを放置する。悪しからず。]

 

山中に在りて、年を歷〔(ふ)〕る者、「野褊(のざれ)」と曰ふ【又、「山鴘〔(やまがへり)〕」。】。人、之れを養ふに、馴れ難し。

                 正經

  みかり人野ざれわか鷹山がへり

     思ひ思ひに手に居〔(す)〕ゑて行く

[やぶちゃん注:作者不詳。校合の不能。]

 

凡そ、鷹の餌〔(ゑ)〕は、雀一隻〔(いつせき)〕[やぶちゃん注:一羽。]を用ひて、一餌〔(ひとゑ)〕爲す。諸鳥の肉も亦、之れに准じて、以つて、毎日、十五餌なり。鴈〔(がん)〕・鵠〔(くぐひ)〕[やぶちゃん注:白鳥。]を獲(と)らんと欲するごとき者は、餌を減ずることなり。三分〔の〕一にして鷹を飢へせしめ、則ち、能く大鳥を摯〔(う)〕つ[やぶちゃん注:「摯」(音「シ」)は「捕る」「摑む」の意。]

四月、羽毛、將に易(か)へんとする時、韋緡(をしかは)を解き去り、鳥屋(とや)の内に放つ。餌食〔(ゑじき)〕、意に任せ、日を逐〔(おひ)〕てけ落ちて、還(ま)た新毛を生じて、七月中旬、舊(もと)のごとし。之れを「片鳥屋(〔かた〕とや)」と謂ふ。二歳、毛を易〔(か)ふ〕る〔を〕「兩鳥屋(もろ〔とや〕)」と謂ふ。三歳を「兩片鴘(もろかたがへり)」と謂ふ。蓋し、其の尾を易ることや、一枚、(す)けて、一枚、生〔(は)〕ゆる。是れ、他禽に異〔(ことなる)〕なり。

                 定家

  鷹ははやもろかたがへり過ぎぬなり

     今幾年かとやをかはまし

鷹〔の〕尾〔は〕、十二枚〔にして〕、長さ五、六寸。能く合ひて、末〔(す)〕へ[やぶちゃん注:ママ。]、圓〔(まどか)にして〕黑白〔の〕重〔ね〕紋、有り。天寒に遇へば、則ち、尾を疊み、一枚のごとくにす。尾、損傷に遇ふがごとき〔とき〕は、則ち、漆〔の〕樹の汁を取りて用ひて、他〔の〕鷹の尾を接(つ)ぐ。尾の下に、三品の毛、有り。「尾末毛(をすけ)」【「於須計」。】・「亂絲〔(みだれいと)〕」【「美太禮伊止」。】・「狹衣〔さごろも)〕」【「佐古呂毛」。】と曰ふ。下の尾を「石打〔(いしうち)〕」【「伊之宇知」。】と曰ひ、尾の端の白き者を「杓華(ひしやく〔はな〕)【「比志也久波奈」。】と曰ひ、背の毛を「母衣毛(ほろ〔け〕)」【「保呂計」。】と曰ひ、其の脇に出づる白毛を「茅花(つばな)」【「都波奈」。】と曰ひ、觜の脇〔の〕毛を「齒黑付(かねつけ)」【「加祢豆計」。】と曰ひ、肘〔(ひじ)〕の内の毛〔を〕「水搔毛(みづかけ)」【「美豆加計」。】と曰ひ、脚に韋緡(をしかは)を著(つ)くる處を「無毛脛(かなしはぎ)」【「計奈之波岐」。】と曰ふ。共に皆、俗稱なり。

                 定家

  箸鷹〔(はしたか)〕のさごろもの毛を重ねても

     松風さむみあられふる也

鷹、翦(そ)れて見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざる者、之れを尋ぬるに、朝は、則ち、東、夕べは、則ち西〔たり〕。其の尋ぬる聲、「於宇於宇〔おうおう〕」と呼ぶがごとし。隼(はやぶさ)は、則ち、「波伊波伊〔(はいはい)〕」と呼ぶがごとし。鷂〔(はいたか)〕・雀鷂(つみ)・雀𪀚(ゑつさい)、則、「保宇保宇〔(ほうほう)〕」と呼ぶ。

[やぶちゃん注:「雀鷂(つみ)」タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis。「雀鷹」とも書く。ここはその(次注参照)。

「雀𪀚(ゑつさい)」ウィキの「ツミ」に『鷹狩りにおいては古くからオスをエッサイ(悦哉)と呼称することもある』ので、上記ツミのである。]

                 定家

  秋のこし方を忘れずしたひてや

    夕べの鷹は西へゆくらん

背・腹、白く、觜、灰白色なる者、「白鷹〔(はくたか)〕」と稱す。爪に迄(いたるま)で白き者を「雪白鷹〔(ゆきはくたか)〕」と稱す。眉の上の白き者、「目白鷹〔(まじろ〔だか〕)」と稱す。古-者(いにし)へは、白鷹を珍奇と爲〔せり〕。近世、希〔(まれ)〕に之れ有り。「羅山文集」にいはく、『如〔(も)〕し白鷹を出だせば、近來、皆、不祥の兆〔(きざし)〕に遇ふ』〔と〕。或いは云ふ、「凡そ、鷹、燈〔(ともしび)〕に近づく〔る〕べからず。羽毛、煤-(すゝぼ)るなり[やぶちゃん注:「」=「耳」+「黑」。]

[やぶちゃん注:江戸初期の朱子学派儒学者で、幕府ブレーンとなる林家の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の死後(寛文二(一六六二)年)に編された著作大成。]

 

                 定家

  日の本の山てふ山にかへる巢に

     白鷹の子のなどなかるらん

                 同

  燈火〔(ともしび)〕をあたり近くは置きもせじ

     若白鷹のすすけもぞする

「五雜組」に云はく、『狡兔〔(かうと)〕、鷹、來りて撲(う)つに遇へば、輙〔(すなは)〕ち、仰〔(うつむ)〕き臥し、足を以つて其の爪を擘〔(う)ち〕て之れを裂く。鷹、卽死す』〔と〕。『又、鷹、石に遇へば、則ち、撲つこと能はず。兔、之れを見、輙ち、巖石の傍に依りて、旋轉〔せんてん)〕す[やぶちゃん注:その大岩の周囲を急速にぐるぐると旋回し続ける。]。鷹、之れを如何(いかん)とものすること無く、則ち、其の上を盤-飛(めぐ)り、良〔(やや)〕久しくして〔も〕去らず。人、;之れを見て、之れに跡〔(あと)〕すれば、兔、徒(たゞ)で手に捉(とら)へ得べしなり。』〔と〕。

[やぶちゃん注:鷹への絶妙な狡知を持った兎は、厭らしい人の狡知のために鷹に食われず、人に食われる。ちと、シチュエーションが段階を踏んで難しい(鳥界のチャンピオンで怖いものなしの鷹は石だけは打ち砕くことは出来ない(だから苦手だ)→それを知っいる鷹に狙われた兎は巨大な巌石の直下の根廻りを速攻ダッシュで旋回し続ける→鷹はなかなか諦めきれずに上空で目立って旋回をし続ける→それを人が目撃してその真下を捜しに行く→旋回運動に入れ込んでいる兎は人の接近に気づかずに人に素手でやすやすと捕まって食われてしまう)故事成句に成り損ねた感があるな。【2019年3月11日追記】などという半可通なことを書いて満足していたが、「和漢三才図会 第三十八」の「獣類」の「狡兔」に到達して、この前の部分は「すばしっこいウサギ」の意の一般名詞ではなく、ウサギに似ているが、金属を食う恐るべきトンデモ幻獣であることが判った。ここに言い添えておく。

 

源齊頼(ときより)【滿政の孫。】出羽守に任ず。源頼義〔の〕東征の時、齊頼、善く鷹を養ふを以つて、鷹飼〔(たかがひ)〕の長〔(をさ)〕と爲りて從ふ。今に至るまで田獵を好む者、皆、齊頼の術を學ぶ。且つ、武名、有り、戰功、有り。羽州に貞任が弟良昭を虜(いけど)りしも亦、一勝利なり。

[やぶちゃん注:「源齊頼(ときより)」とあるが、現在では「まさより」「なりより」「せいらい」が正しいようだ。ウィキの「源斉頼によれば、平安中期の『武将・官人・鷹匠。清和源氏満政流。駿河守・源忠隆の長男。政頼、正頼とも記され』る。長元八(一〇三五)年に『催された藤原頼通家歌合(「関白左大臣頼通歌合」)に源頼実、藤原経行らと共に蔵人所雑色として参加したことが知られる』。『蔵人兼右兵衛尉在任時であった』天喜三(一〇五五)年には、『内裏の蔵人所町屋(蔵人の詰所)に逃げ込んだ抜刀の暴漢を郎等の滝口武者源初、小野幸任らと共に取り押さえた功により』、『検非違使に任ぜられ』ている。同五(一〇五七)年、「前九年の役」で『苦戦する源頼義の後援として源兼長に代わり』、『出羽守に任ぜられ下向した』。『しかし』、『出羽赴任後の斉頼は頼義に対して非協力的な態度を示し、その戦功も役の終盤に出羽に逃れた安倍良照』(あべのりょうしょう 生没年不詳:僧。名は「良昭」「官照」とも。俗名は則任。安倍忠良の子で安倍頼時の弟に当たる。『若くして僧籍にあったため』、『甥の家任を養子とした』。永承六(一〇五一)年からの「前九年の役」では『頼時に従って家任とともに小松柵の守備にあたった。小松柵が頼義軍に焼き払われ、さらに家任らが出家して帰降するなど』、『安倍軍の敗北が決定的となると』、『出羽国に落ち延びたが出羽守源斉頼に捕らえられて大宰府に配流となった。同じく太宰府に配流された家任の没後家任の遺児秀任の養育にあたったという』とある。ここはウィキの「安倍良照に拠った)『とその甥正任を捕縛する程度のものに留まっている』。『後代、三男・惟家の子孫が近江国高島郡に土着して善積氏を称したほか、一女(正確には孫娘)は摂津源氏の源頼政の室となり、源仲綱や二条院讃岐などの母となった』。『斉頼は優れた鷹飼であったことが知られ、高麗から渡来した鷹匠・兼光(出身地・名には異説あり)より継承したとされるその秘技は「呉竹流」あるいは「政頼流」などと呼ばれ、後の諏訪流とその諸派に伝承された』。鎌倉『初期に編纂された説話集』「古事談」によれば、『当時の風潮から』、『殺生に対し』、『批判的な表現が書き加えられながらも』、『終生』、『鷹を飼う事を生業とし』、『盲目となった晩年にも撫でるだけで鷹の産地を言い当てたという説話があり、また「斉頼(せいらい)」という言葉が「その道の達人」を指す名詞として流布するなど、伝説的な鷹飼として語り継がれ』たとある。史実は良安の記すのとはかなり印象が違う。]

2019/01/05

元日と二日に見たとんでもない不敬な夢

元日の夢――

那須野のようだ。早春である。

皇后の美智子さまと、眞子さんを連れ出して、私は散歩をしているのだ。
侍従や警護の者はいない。

お二人は少女のように楽しそうに私の好きなゲンゲの花を摘んで、冠を作って、私に呉れるのであった……

二日目の夢――

昨日と同じ那須野のようだ。早春であるが、一面に雪が積もっている。
天皇陛下と私はやはり散歩をしている。
侍従や警護の者がいたが、陛下が、
「まいてしまいましょう。」
と仰せられた。
二人で少年のように、走り出した。

もう誰もいなくなった。

私が懐に手を入れると、真っ赤な赤ゲットの敷布が出てくるのであった。

また懐に手を入れると、茶道の道具が一式、まるで仙人のように出てくるのであった。

私が野点をする。

陛下に差し上げると、お飲みになられ、

「本当に――おいしいねえ。」

と仰せられて、私に微笑されるのであった……

[やぶちゃん注:二日続けて同じロケーション、皇族の方々が出てこられる――全く以って私の夢の特異点なのであった。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 食火鷄(ひくひどり) (ヒクイドリ)

 

Hikuidori

 

ひくひとり 馳蹄鷄 駝鳥

      骨托禽

食火鷄

     【俗云火久比止利】

 

本綱載諸書云其有不同鴈身駝蹄蒼色舉頭高七八

尺張翅丈餘食大麥或食鐵石火炭足二指利爪能傷人

腹致死日行七百里其飛不高卵大如甕此鳥出波斯國

三佛齋安息等西南天竺

△按阿蘭陀人貢咬𠺕吧國火鷄彼人呼曰加豆和留肥

 州長崎或畜之形畧類雞而大高三四尺能食火燼及

 小石其糞乃炭或石也人近則赶而爲啄

獸 食火獸也狀如犬而能食火其糞復爲火能燒

 人屋

火鴉 出於蜀徼狀類鴉而能啣食火

 

 

ひくひどり 馳蹄鷄〔(だていけい)〕 駝鳥〔(だてう)〕

      骨托禽〔(こつたくきん)〕

食火鷄

     【俗に云ふ、「火久比止利」。】

 

「本綱」に諸書を載せて云ふ〔も〕、其の、同じからざること有り。鴈〔(かり)〕の身、駝〔(らくだ)〕の蹄〔(ひづめ)にして〕蒼色。頭を舉ぐれば、高さ、七、八尺。翅を張れば、丈餘。大麥を食い[やぶちゃん注:ママ。]、或いは鐵・石・火炭〔(ひずみ)〕を食ふ。足〔は〕二つ。指に利〔(と)き〕爪あり、能く、人の腹を傷つけ、〔人、〕死に致る。日(ひ)に行くこと、七百里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートル。約三百九十二キロメートル弱。]。其の飛ぶこと、高からず。卵の大いさ、甕〔(かめ)〕のごとし。此の鳥、波斯(ペルシヤ)國・三佛齋(サフサイ)・安息〔(あんそく)〕等の西南、天竺より出づ。

△按ずるに、阿蘭陀人、咬𠺕吧(ジヤガタラ)國の火鷄〔(くわけい)〕を貢ず。彼〔(か)〕の人、呼んで「加豆゙和留〔(カヅワル)〕」曰ふ。肥州長崎に或いは之れを畜ふ。形、畧〔(ほぼ)〕雞に類して、大きく、高さ、三、四尺。能く火燼(もへぐい[やぶちゃん注:ママ。])及び小石を食ふ。其の糞は乃〔(すなは)〕ち、炭或いは石なり。人、近づくときは、則ち、赶〔(お)ひ〕て[やぶちゃん注:「追ひて」に同じい。]啄(つつ)かんと爲〔(す)〕。

禍斗獸〔(くわとじう)〕 火を食ふ獸〔(けもの)〕なり。狀〔(かたち)〕、犬のごとくにして、能く火を食ふ。其の糞も復た、火と爲〔(な)〕り、能く人の屋〔(いへ)〕を燒く。

火鴉〔(くわあ)〕 蜀[やぶちゃん注:四川省の古名。]〔の〕徼〔(くにざかひ)〕より出づ。狀、鴉に類して、能く火を啣〔(は)〕む[やぶちゃん注:「啣」は「くはえる」(口に挟む)で、ここは「食う」に同じい。]。

[やぶちゃん注:これは羽が小さ過ぎ、しかも体重が重いために「飛べない鳥」となった、ヒクイドリ(火食鳥)目ヒクイドリ科ヒクイドリ属ヒクイドリ Casuarius casuarius である。ウィキの「ヒクイドリ」より引く。原産地はインドネシア(ニューギニア島南部・アルー諸島)・オーストラリア北東部・パプアニューギニアの『熱帯雨林に分布し』、『オーストラリアでは標高』千百 メートル以下、『ニューギニアでは標高』五百メートル以下に『好んで生息する』、『かつてはもっと広範囲に生息していたと推測されているが、他の走鳥類と同様、熱帯雨林の減少と移入動物の影響により個体数が減少しており、絶滅が危惧されている。森林が減ってきていることから、雛が生き残る確率は』一%『以下という研究結果も発表されている』。『和名は「火食鳥」の意味であるとされている』が、無論、『火を食べるわけではなく、喉の赤い肉垂が火を食べているかのように見えたことから名づけられたとの説が有力である』グーグル画像検索「Casuarius casuarius」を見よ。『日本にもたらされたのは、江戸時代初期の寛永』一二(一六三五)年に、『平戸藩により江戸幕府に献上されたのが最初である』。『記録には「陀鳥(だちょう)」とあるが、明らかにヒクイドリのスケッチが残されている。その後もオランダの貿易船により持ち込まれた。黒い羽毛、赤い肉垂、青い首に大きなとさかと、特徴的な外見を持つ』。『ヒクイドリ属』中の『最大種』。『ヒクイドリ目』(ヒクイドリ目 Casuariiformes はヒクイドリ科 Casuariidae とエミュー科 Dromaiidae とからなる二属四種のみ)『の中では最大で』、現生種では先のダチョウに次いで二番目に重い鳥で、最大体重は八十五キログラム、全長は一メートル九十センチメートルにもなる(一般的な全長は一・二七~一・七〇センチメートルで。の体重は約五十八キログラムであるのに対し、の体重は約二十九~三十四キログラムでの方がよりも大きい。調べて見ると、皮膚の色もの方が鮮やかであり、頭頂の角質の兜様部分もの方が大きいから、性的二形である。『頭頂に大型で扁平な兜状の角質突起がある』。『頭部から頸部にかけて羽毛がなく、青い皮膚が裸出する』。『頭に骨質の茶褐色のトサカがあり、藪の中で行動する際にヘルメットの役割を果たす』他に、『暑い熱帯雨林で体を冷やす役割がある』。『毛髪状の羽毛は黒く、堅くしっかりとしており、翼の羽毛に至っては羽軸しか残存しない。顔と喉は青く、喉から垂れ下がる二本の赤色の肉垂を有し、体色は極端な性的二型は示さないが、メスの方が大きく、長いトサカを持ち、肌の露出している部分は明るい色をしている。幼鳥は茶色の縦縞の模様をした羽毛を持つ』。『大柄な体躯に比して翼は小さく飛べないが、脚力が強く時速』五十キロ『程度で走ることが出来る』。三『本の指には大きく丈夫な刃物のような』約十二センチメートル『の爪があり』、『鱗に覆われた頑丈な脚をもつ。性質は用心深く臆病だが』、『意外と気性が荒い一面がある。この刃物のような鉤爪は人や犬を、刺すなどをして殺す能力もある』。『低地の熱帯雨林に生息する』。『主に単独もしくはペアで生活する』。『食性は果実を中心とした雑食性で、森林の林床で落ちている果実を採餌し、大きな種子を持った果実でも啄ばんで丸呑みする』。一『日に』五キログラム『のえさを必要とし、そのために』一『日に』二十キロメートル『も歩き回る』。『ヒクイドリ属の鳥には、他の動物には毒性をしめすキョウチクトウ科ミフクラギ属のコバナミフクラギ』(Cerbera floribunda)『という植物の果実を安全に消化する能力がある』。『果実と一緒に飲み下された種子は糞と共に排出される事で芽吹き、ヒクイドリ属の鳥の移動とともに広範囲に種子が散布される』『ので、果実食の習性は彼等が生きる森林を維持するのに重要な役割を担っている』とも言える。『カタツムリや小型の哺乳類の死骸も食べる』。『繁殖期は』六~十月で、『オスは地上に、草本植物を使って』五~十センチメートル『の厚さで、幅が最大』一メートル『ほどの巣を作る』。『これは卵の周辺から水分を排出するのに十分な厚さである。メスは卵を産むのみで、産卵後は別のオスを探しにその場から消える。メスは』九・五~十三・五センチメートル『の大きさの卵を』、一回に三つから四つ『産卵する。卵は表面がざらざらしており、最初は明るい薄緑色で、時を経るにつれ色あせていく』。『オスが卵を抱卵し、ヒナを単独で育てる。卵がかえるのはおよそ』二『ヵ月後で、充分な餌が取れないオスはその間、体重が』五キログラム『前後減る。ヒナは産毛もなく、トサカは生えかかった程度である。ヒナにとってオオトカゲが天敵で、オスはオオトカゲを威嚇して追いはらう。成長したトサカが生えるまで』三~四年かかる。『繁殖期の間、とどろくような鳴き声やシューという鳴き声、もしくはゴロゴロというような鳴き声を発する。幼鳥はオスを呼ぶために高い音程の口笛のような鳴き声を頻繁に発する』。『食用とされることもあり、成鳥は銃などによって狩猟され、雛は捕えて生育してから食べられることが多い』。『森林伐採・農地開発による生息地の破壊、食用の狩猟などにより生息数は減少している』。『一方で近年の調査では生息数が従来考えられていたよりも多いと推定され』、二〇一七『年現在は絶滅のおそれは低いと考えられている』。『オーストラリアではサイクロンによる影響(サイクロンの後は本種の交通事故が増加するという報告もある)も懸念されている』とある。本文でも人を殺傷することが記されてあるが、ネットでは『鬼キックで人も殺せる!世界一危険な鳥「ヒクイドリ」』が、その恐ろしさをよく判らせる。実際に恐ろしさを知らずに殺された人のケースも挙げてある

「馳蹄鷄〔(だていけい)〕」歩行速度の速さと頑丈な脚を意味する異名であろうと思ったが、「本草綱目」を見ると、「駝」で、これは誤字だわさ。とすると、駱駝の蹄(ひづめ)のような強力な爪のことか

「駝鳥〔(だてう)〕」これは本種ヒクイドリが江戸初期の「駝鳥」(だちょう)であったことをよく示している。良安がここで「鳳五郎 (現在の真正の駝鳥(ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelusと本種を並べているところに、そうした意外な実相が見えてきて、誠に面白いではないか。

「骨托禽〔(こつたくきん)〕」頭頂に大型で扁平な兜のような「骨」のように硬い角質突起を「載せている」(「托」)鳥の意であろうかと考えたのだが、「本草綱目」の説明(以下に出す)では、「駝」のただの転訛字とする。じゃあ、「骨」は何?

『「本綱」に諸書を載せて云ふ〔も〕、其の、同じからざること有り……最初に良安が言い添えするかのような、珍しい引き方に見えるが、実は以下を見ると判る通り、これは本文末にある時珍の言葉「諸書所記稍有不同」(諸書、記す所、稍(やや)同じからざる有るも)を恰も自分の言葉のように最初に仕込んだだけのことである。しかも時珍は「實皆一物也」(實は、皆、一物也なり)と断じているのを外した結果、妙に尻座りの悪い引用になってしまっている。あかんね、良安先生。「本草綱目」では項目名が既にして「駝鳥」であるのも確認されたい。

   *

駝鳥【「拾遺」。】

釋名駝蹄雞【「綱目」】。食火雞【同上】。骨托禽。時珍曰、「駝」象形、「托」亦駝字之訛。

集解蔵器曰、駝鳥如駝、生西戎。髙宗永徽中、吐火羅獻之。髙七尺、足如槖駝、鼓翅而行、日三百里、食銅鐵也。

時珍曰、此亦是鳥也、能食物所不能食者。按草李延壽「後魏書」云、波斯國有鳥。形如駝、能飛不髙高、食草與肉。亦噉火、日行七百里。郭義恭「廣志」云、安息國貢大雀、雁身駝蹄、蒼色、舉頭高七八尺、張翅丈餘、食大麥、其卵如甕、其名駝鳥。劉郁「西域記」云、富浪有大鳥、駝蹄、髙丈餘、食火炭、卵大如升。費信「星槎錄」云、竹步國、阿丹國俱出駝蹄雞、高者六七尺、其蹄如駝。彭乘「墨客揮犀」云、骨托禽出河州。狀如鵰、高三尺餘、其名自呼、能食鐵石。宋祁「唐書」云、開元初、康國貢駝鳥卵。鄭曉「吾學編」云、洪武初、三佛臍國貢火雞、大于鶴、長三四尺、頸足亦似鶴、嘴軟紅冠、毛色如靑羊、足二指、利爪、能傷人腹致死、食火炭。諸書所記稍有不同、實皆一物也。

屎【氣味】無毒。

主治人誤吞鐵石入腹、食之立消【蔵器。】。

   *

「主治」が面白いね。

「鴈〔(かり)〕」広義のガン(「鴈」「雁」)はCarinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目 Anseriformesカモ亜目 Anseresカモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種)より小さい種群の総称である。

「駝〔(らくだ)〕」哺乳綱ウシ目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedarius とフタコブラクダ Camelus ferus であるが、ウィキの「ラクダ」によれば、『ヒトコブラクダの個体群はほぼ完全に家畜個体群に飲み込まれたため、野生個体群は絶滅した。ただ、辛うじてオーストラリアで二次的に野生化した個体群から、野生のヒトコブラクダの生態のありさまを垣間見ることができる。また』、二〇〇一『年には中国の奥地にて』一千『頭のヒトコブラクダ野生個体群が発見された。塩水とアルカリ土壌に棲息していること以外の詳細は不明で、遺伝子解析などは調査中である。この個体群についても、二次的に野生化したものと推測されている。したがって、純粋な意味での野生のヒトコブラクダは絶滅した、という見解は崩されずにいる』。一方、『野生のフタコブラクダの個体数は、世界中で約』一千『頭しかいないとされて』おり、二〇〇二年に『国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定され、レッドデータリストに掲載されている』とある。

「丈餘」三メートル強。

「大麥」単子葉植物綱イネ目イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare

「火炭〔(ひずみ)〕」真っ赤に焼けている炭。

「波斯(ペルシヤ)國」現在のイランの古名。

「三佛齋(サフサイ)」ウィキの「三仏斉(さんぶつせい)」によれば、十世紀初めから十五世紀初めまでの『漢文史料に登場する東南アジアの交易国家』で、嘗ては『室利仏逝(シュリーヴィジャヤ王国)』(インドネシア・マレー半島・フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。アラブの資料では「ザバック」「サバイ」「スブリサ」の名で出る。王国の起源ははっきりしないが、七世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになっていた国家であるという)『と同一視されてきたが、同時に複数の三仏斉国が中国の王朝に朝貢したという記録があり、三仏斉注輦(チョーラ)国、三仏斉詹卑(ジャンビ)国、三仏斉宝林邦(パレンバン)などの表記がみられたりするところから、単一の国家ではなく、マラッカ海峡地域における港市国家の総称と把握されるようになった。三仏斉とシュリヴィジャヤ・グループのビッグ・スリーすなわちチャイヤー、ケダー、ジャンビの』三『カ国が朝貢のための統一政体として』九『世紀の末に形成されたものと考えられる』一〇二五年に『タミール王国(南インド)にケダーをはじめマレー半島が占領されたが、これはマレー半島横断通商路の独占を狙ったものであり』、一〇八〇年頃には『返還された。南宋が朝貢制度をやめ』、『市舶司制度に』一『本化する』十二『世紀末まで続いた』。『三仏斉は』、九『世紀後半以降のアラビア語史料に現れるザーバジュ』『に相当するとみられる。アラブ史料によれば、ザーバジュの大王が治める』国々『には、スマトラ島北端部のラムリ、マレー半島西岸のクダ、それにスリブザなどがあったとされており、このスリブザこそ、かつてのシュリーヴィジャヤではなかったかとみられる。三仏斉になってもザーバジュ(三仏斉)のなどと呼ばれていた。西方諸国は三仏斉の内容については関知していなかったようである。三仏斉は朝貢品をパッタルンに集約し、Sating Phra港から中国向けに出荷していたものとみられる。これは後期「訶陵」(シャイレンドラ)時代からそうしていたものと考えられる』とある。因みに、東洋文庫訳では、『三仏斉』に『さんぶつさい』のルビを振った後に、割注で『シュリーヴィジャ。ジャワ・スマトラ』としている。この句点と中黒は如何にも半可通でやな感じである。

「安息〔(あんそく)〕」古代イランに存在した王朝パルティア(紀元前二四七年~紀元後二二四年)の漢名。ウィキの「パルティア」によれば、『王朝の名前からアルサケス朝(アルシャク朝)とも呼ばれ、日本語ではしばしばアルサケス朝パルティアという名前でも表記される。前』三『世紀半ばに中央アジアの遊牧民の族長アルサケス』世(アルシャク世)に『よって建国され、ミトラダテス』世(ミフルダート世 在位:紀元前一七一年~紀元前一三八年)の『時代以降』、現在のイラク・トルコ東部・イラン・トルクメニスタン・アフガニスタン西部・パキスタン西部に相当する西アジアの広い範囲を支配下に置いていた。その広域の旧地方をここは指す。紀元前一世紀以降、『地中海世界で勢力を拡大するローマと衝突し、特にアルメニアやシリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って争った。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立したペルシスの支配者アルダシール』世(在位:二二六年~二四〇年)に『よって滅ぼされ、新たに勃興したサーサーン朝に取って代わられた』とある。

「咬𠺕吧(ジヤガタラ)國」インドネシアの首都ジャカルタの古称及び同国。

「加豆゙和留〔(カヅワル)〕」漢字の「豆」に濁点が打たれているのである。

「火燼(もへぐい[やぶちゃん注:ママ。])」「燃え杭(ぐひ)」。「燃え灰(ぐひ)」とも書くようだ。未だ火の残っている燃えさしのこと。

「禍斗獸〔(くわとじう)〕」「火を食ふ獸〔(けもの)〕なり。狀〔(かたち)〕、犬のごとくにして、能く火を食ふ。其の糞も復た、火と爲〔(な)〕り、能く人の屋〔(いへ)〕を燒く」これは「禽部」のここにして掟破りである。しかも、これは中国南部の少数民族に対する忌まわしい差別語でもあるのである。ウィキの「禍斗」を引く。『禍斗(かと Huotou)は中国南方の少数民族。しかし南方異民族を妖怪化させるため犬の姿をし、犬の糞を食べ、炎を吹き散らす怪物として形容された。禍斗の至る』『所では火災が発生するとされ、古代においては火災をもたらす不吉な象徴とされた。また一説では炎を食べ、火を帯びた糞を排出するとも言われる。その名は「火を食う獣」を意味する』。『妊娠後』一『ヶ月後の母犬に流星の破片が当たり』、『生まれた犬が禍斗であるとされる。禍斗の外見は普通の犬と同じであるが、禍斗の体毛は黒色であり独特の光沢を帯びている。外見上は怪物であることは分からないが、火神を助け、時に火神がその職を辞した際には火神の職司を司ることもあった』。『禍斗は一般の犬が食べる食物には興味を持たず、火神に従い』、『炎を食べるとされる。雷神は雷車に乗り』、『大地を巡幸する際には禍斗は雷神の後ろに従う。雷神が雷斧を振りかざし地上に火災を引き起こすと』、『禍斗は炎の中に飛び出し』、『その炎を食らい、排出する便もまた炎である。禍斗の口から炎が噴出すこともあり、禍斗』の周囲『は炎で包まれるとされ、古人の恐怖の対象となった』。また「山海経」に『よれば、禍斗が食事をしない際には』、『南方海上に位置する厭火国に集まって暮らしているとされる』とある。

「火鴉〔(くわあ)〕」中文サイトにのみ見出せ、よく判らぬが、どうも前の「禍斗獸」と同じ忌まわしい感じがする。

「徼」(音「ケウ(キョウ)」慣用音「ゲウ(ギョウ)」)は「巡る・見廻る」「求め得ぬものを無理に求める」の他に「境・国境」の意がある。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳五郎(ほうごらう) (【図と名だけで当てたら、あなたはなかなかの鳥通!】)

Hougorou

 

ほうごらう

鳳五郞

 

食鑑云往年貢於阿蘭陀國狀類天鵝而大高六七尺灰

白色帶黃頰及觜黑脚掌類雞而肥大能食鐵石竹木彼

國人代馬令負柴薪貨物

 

 

ほうごらう

鳳五郞

 

「食鑑」に云はく、往(いん)ぬ〔る〕年、阿蘭陀〔(オランダ)〕國より貢ず。狀〔(かたち)〕、天鵝〔(くぐひ)〕[やぶちゃん注:白鳥。]に類して、大きく、高さ、六、七尺。灰白色、黃を帶ぶ。頰及び觜、黑く、脚・掌、雞〔(にはとり)〕に類して肥大〔たり〕。能く鐵・石・竹木〔(ちくぼく)〕を食ふ。彼の國人、馬に代へて、柴・薪・貨物(にもつ)をして負(の)せしむと云云〔(うんぬん)〕。

[やぶちゃん注:判りませんか?……図はね! 荷物を背負わされてるんです! 取ってやって下さい! 私は人が乗っているのを見たことがありますよ! 荷物が載せられるほど大きいんです! 今の種小名には「カメルス」ってあるけど、駱駝(らくだ)じゃあなくて、当然、「鳥」なんですよ! 小石も食べるんですよ! 陸上の生物ではいっとう大きな眼を持ってるんです! 卵だって大きいなんてもんじゃないんですよ! この卵の黄身はね、現在、確認されている世界最大の単細胞体なんですよ! ニワトリの卵の二十五倍! 一・五キログラムのあるんです! 判りました? そう! ピンポン!

いやさ! 「鳳五郎(ホウゴラウ)」たあ、ダチョウ(ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus)のことよ!

辞書によれば、江戸時代に持ち込んだオランダ商人がオランダ語の「ダチョウ」を意味する「struis vogel」と言ったところ、その「vogel」(音写は「ヴォーヒゥル」「ヴォーヘル」「フォーヘル」。「鳥」の意)の部分を無理矢理日本語に当て転写したものだとあった。さらに、七井誓氏のブログ「方五郎的蘭学事始」の『何故ダチョウの方五郎の「蘭学事始」にしたか?』に、講談社の「オランダ語辞典」に、『Truisvogel(男性名詞)【鳥】ダチョウostrich(駝鳥は江戸時代渡来の珍鳥のなかでもきわめて珍しいものであった。記録上』、『確実なのは』、万治元年一月十五日(但し、正確には明暦四年。同年は旧暦七月二十三日(グレゴリオ暦一六五八年八月二十一日)に改元しているからである)、当時の出島商館館長であったボーへリオンが第四代将軍徳川家綱に献上したという「ほうころすてれいす」『(『德川実紀』)のみである。狩野派絵師によるよる絵には「鳥の名ほうごろうとろいし、背の高さ地より五尺許り、せなみよりくびのながさ五尺余り鳥のえ、な、せり、こめ」』(文末尾意味不明)『とある。これによって当時オランダ語では駝鳥はstruisvogelではなくvogelstruisであったことがわかる。オランダ側の記録を見ても』、『この年』の二月十七日(グレゴリオ暦。確認済み)『将軍にVogel-struisを一羽贈呈したところ』、『大いに喜ばれた。毎日六人の者が世話をしていたが』、七月十四日(旧暦六月十四日)、『とびはねているうちに胸を柱に打ちつけて御前で死んでしまった』、『と報告されている。その後、駝鳥の渡来は稀であったので、ヒクイドリ食火鶏kasuarisと混同され、ほうごろ、凰五郎と呼ばれるようになった。)《講談社オランダ語辞典』七七一『頁から引用、一部アレンジ》とあるのだそうで、しかし、この説明では凰五郎はほうごろうとは読めない。鳳がホウなので、この記事の出典も記されてない以上』、『信憑性に欠ける記事』であるとある。「和漢三図会」も「本朝食鑑」(後掲)も「鳳五郎」であるから、この「凰五郎」は講談社の「オランダ語辞典」の誤植と思われる。」(人見必大の「本朝食鑑」は元禄一〇(一六九七)年刊、本「和漢三才図会」の自序は正徳二(一七一二)年であるから、時制上の矛盾はない)。

 ウィキの「ダチョウ」を引く。『鳥でありながら飛ぶことは出来ず、平胸類』(現生鳥類の中で原始的なグループである古顎類の中で、完全な地上棲息性に特化して進化したグループ。走鳥類・走禽類とも呼び、狭義にはダチョウ目(Struthioniformes。現生ではダチョウ科 Struthionidae ダチョウのみ)を平胸類とするが、広義なそれは短距離ならば飛ぶことが可能なシギダチョウ目シギダチョウ科 Tinamidae シギダチョウを含める。但し、「飛べない鳥」の部分集合ではあるが、イコール(共集合)ではないので注意が必要)『に分類される』。『亜種として北アフリカダチョウ、マサイダチョウのレッドネック系、ソマリアダチョウ、南アフリカダチョウのブルーネック系、南アフリカで育種されたアフリカンブラックがある』。『属名 Struthio はギリシア語でダチョウの意。 往時、ダチョウはサハラ砂漠以北にも棲息し、地中海世界にもある程度馴染みのある鳥であった。 この語はまた、英語』の「ostrich」『など、ヨーロッパ各国でダチョウを意味する語の語源でもある。 種小名 camelus は「ラクダ」の意』。アフリカのサバンナや砂漠に生息している。嘗ては『アフリカ全域およびアラビア半島に生息していたが、乱獲などにより野生での生息範囲は減少し、現在ではアフリカ中部と南部に生息するのみである。以前は中東に亜種S. c syriacusが分布していたが、』一九六六『年頃に絶滅した』。『オーストラリア、スワジランドに移入』されている。『オスの成鳥となると』、体高は二メートル三十センチメートル、体重も百三十五キログラムを『超え、現生する鳥類では最大種である。 頭部は小さく、頸部は長く小さな羽毛に覆われている。ダチョウは翼を持っているが、竜骨突起がなく』、『胸筋は貧弱である。また羽毛は羽軸を中心に左右対称でふわふわとしており、揚力を得て飛行する構造になっていない。肢(あし)は頑丈で発達しており、キック力は』百『平方センチメートル当たり』四・八『トンの圧力があるといわれる』。『趾(あしゆび)は大きな鉤爪がついている中指と外指の』二『本で、三本指のエミュー』(ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属エミュー Dromaius novaehollandiae:オーストオラリア原産。二足歩行する、所謂、「飛べない鳥」の一種)『やレア』(レア目レア科レア属レア Rhea americana:南米原産)『と異なる。翼と尾の羽根が白く、胴体の羽根はオスが黒色、メスが灰褐色である』。二〇一四年時点の『BirdLife Internationalでは亜種S. c. molybdophanesを、独立種S. molybdophanesとして扱っている』。『サバンナや砂漠、低木林等に生息する。群居性であり、年齢・性別を問わず混合してグループを形成するが、繁殖期には』一『羽のオスと複数羽のメスからなる小規模な群れを形成し、オス同士でテリトリーを巡って争うことがある』。『オスが地面を掘ってできた窪みにメスが卵を産む。最初に卵を産むメスが群れの中でも優位であり、最初のメスが産む卵の周りに他のメスが産卵して外敵に備える。卵は長径約』十一『センチメートルの大きさがあり、その卵黄は現在確認されている世界最大の細胞である』。『鳥類は元々他の動物に比べて視力が優れているが、その中でも一番視力が良い』。『食性は雑食性とする説もあるが、腸は他の鳥類に比較して非常に長く、馬やウサギと同様に草の繊維質を腸で発酵させてエネルギー源とすることがわかっており、草食動物と定義することができる。また、飲み込んだ石を胃石とし、筋胃において食べた餌をすり潰すことに利用する』。『鳥として食肉、採卵、羽根が利用され、また大型であるため皮革をとることができ、一部では乗用としても利用された。利用価値が高いため』、『繁殖地域では人為的な「飼育」も行われて交易品となった』。『近世に個人的蒐集から公共的な目的を以て制度化された動物園で人気種として親しまれている。ダチョウは陸上生物の最大の眼球を持つ(脳よりも片方の眼球の方が重いといわれる)とされ、睫毛が長い愛嬌ある顔と人を恐れない性質があり、ダチョウ特有の一日見ても飽きのこない愛らしさ、滑稽さを持つ行動は、人の目を釘付けにし楽しませてくれる』。『一定の需要があるため、日本国内にも観光用の飼育施設だけでなく、食用の肉や卵を供給するための専門の「ダチョウ牧場」がある』。『古代エジプトの壁画に、ダチョウを飼育していた様子が描かれている』。一六五二『年、オランダ人が南アフリカのケープタウンに上陸した後は、他の野生動物と同じくダチョウの捕獲・屠殺が盛んに行われた』。十七『世紀頃からダチョウの飼育が活発化し』、二十『世紀に至るまで』、『金・ダイアモンド・羊毛と並んで』、『ダチョウの羽根が南アフリカの主要貿易品となるに至った。長らく南アフリカの独占的畜産業であったが』、一九九三年、『南アフリカからの種卵・種鳥の輸出が解禁され、後発の家禽として世界中に飼育が広まった。日本においても』一九九〇『年代後半から飼育数が増加し生産者団体が発足するなど活発化し』、二〇〇八『年に家畜伝染病予防法の対象動物となった』。『古代ローマの料理家だったマルクス・ガビウス・アピシウスがダチョウ肉料理の記録を残している。なお、旧約聖書においては禁忌とされる動物に名を連ねている。ダチョウ肉は高蛋白質・低脂肪であるため、欧米、特に欧州連合(EU)諸国ではBSE問題が追い風となり、健康面に配慮した一部消費者により』、『牛肉の代替赤肉として消費されている。消費量は世界的には年間数万』トン、『日本国内においては』百トン『程度の消費量が推計されている』。『ダチョウの肉は鉄分が豊富で赤みが強く、歯応えのある食感をしている。また低脂肪でL-カルニチンも豊富であることからヘルシー食肉として認知が広まりつつある。他の畜肉と比べアラニン、グリシンといった甘み成分のアミノ酸が豊富である。料理法としてはステーキ、焼肉、ハンバーグ、カツレツのほか刺身、タタキといった生食でも嗜好される。脂肪が少ない分、クセは少なく』、『和洋問わず味付けの幅は広い。牛肉に比べると加熱し過ぎると固くジューシーさが失われることがあり、ダチョウ肉に見合った調理加減が必要である』。『ダチョウには竜骨突起がないため』、『ムネ肉がほとんど存在しない。食用とする肉の大部分はモモ肉である。各国、各生産者の分類によるが』、『モモ肉のうち特に柔らかい肉がフィレ肉と分類されていることが多い。また首の肉や砂肝、肝臓、心臓等の内臓肉も食用に用いられる』。『卵は可食であり、非常に大きいが』、『味は薄く』、『決して美味ではない。アフリカの狩猟民族にとっては貴重な蛋白源である。ただし、現地では専ら子供や老人の食べ物とされ、成人が食べるのは恥とする習俗がある。卵は鶏卵の』二十『個分の量となる』。『古来から普段は動かないように見える卵から生命が孵ることから「復活」のシンボルとされており、大型のダチョウの卵はキリスト教会などでイエスの復活に擬えて人々の前で飾られ、懺悔心を呼び起こすシンボルともされた』。『卵殻は厚さが』二『ミリほどもあって頑丈なため、現在はアートなどにも利用される』。『京都府立大学教授塚本康浩がダチョウの卵を利用して抗体を低コストでつくることを発案し』、既に『このダチョウ抗体を使用したマスクが販売されている』。『通常、抗体の生産には鶏卵を用いるのが一般的であるが、巨大なダチョウ卵は』一『個の卵で抗体』四グラム『を造ることができ、マスクにすると卵』一『個で』四~八『万枚を生産することができるとしている』。『同研究グループではインフルエンザウイルス等の抗体のほか』、『ニキビ原因菌の抗体などの生成にも成功しており』、『商品化が進んでいる』。『羽根は古代エジプトにおいて真実と公正の象徴として、エジプト神話の神々やファラオの装飾品に用いられた。欧米でも孔雀の羽などとともに装飾品として利用されている。中世ヨーロッパでは騎士の兜の装飾品に使用された。イングランドのエドワード黒太子がダチョウの羽根』三『本を紋章(スリーフェザーマーク)としたことから、現在もプリンス・オブ・ウェールズの徽章(ヘラルディック・バッジ; Heraldic badge)に用いられている。帽子飾りに良く使われるほか、大量の羽を使用した装飾は舞台衣装に使われることも多い。なお、宝塚歌劇団のトップスターが着用する羽飾りもダチョウの羽である』。『また、この羽はほとんど静電気を帯びないため、情報機器や自動車のダスターにも使用される』。『「オーストリッチ」と呼ばれる皮革製品はダチョウの背中の部分の皮膚を利用したものである。軽くて丈夫なことを特色とし、バッグ、財布、靴などに幅広く利用されている。 外見にも特徴があり、「クィル(英語: quill)」「シボ」などと呼ばれる羽毛痕が多数散らばり、全体として水玉のような模様を見せる』。『馬などと比べると』、『乗用に適しているとは言い難いが、人間を乗せて走ることができる。日本の観光農場(岡山県 オーストリッチファーム湯原)等においてもダチョウに乗ることができる。アメリカ合衆国では騎手を乗せたダチョウレースが開催されており』、一九〇七『年にオハイオ州のグリーンヴィルで開催されたダチョウレースで騎手を乗せたダチョウが半マイル』(約八百メートル)を一分三秒『で走ったという記録がある』(リンク元に一九三三年頃にオランダで行われたダチョウ・レースの動画がある)。『ダチョウは、危険が迫ると』、『砂の中に頭を突っ込む習性があるという迷信がある。実際にはダチョウにこのような習性はないが、この迷信上の姿から「He is hiding his head like an ostrich」「follow an ostrich policy」といったような言い回しが派生した。これは現実逃避する、都合の悪いことを見なかったことにするといった意味だが、日本語では「頭隠して尻隠さず」の諺をこれらの言い回しの訳に当てることが多い。国内・国際政治でも、安全保障上などの危機を直視しようとしないことを「Ostrich policy」(「ダチョウ政策」「ダチョウの平和」』『)と呼ぶ比喩表現がある』。『ダチョウは古来より「火を食う」「石を食う」「鉄を食う」「銅を食う」などと言われている。唐の』「本草拾遺」「北史」にも『このようなダチョウの食性についての記述が見られる。アルベルトゥス・マグヌス』(Albertus Magnus 一一九三年頃~一二八〇年)は「大聖アルベルト(St.Albert the great)」で「ケルンのアルベルトゥス」とも呼ばれる十三世紀のドイツのキリスト教神学者。アリストテレスの著作を自らの体験で検証して注釈書を多数著わし、また、錬金術をも実践して検証した、変わり種の神学者である)『はダチョウが火を食べることは否定しているが、石を食べることは肯定している』とある。

『「食鑑」に云はく……』(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像)。ここはちゃんと書名を言っているから剽窃ではない。但し、人見氏の方がやっぱり、正直。最後に『未ㇾ知ㇾ之』(未だこれを知らず)とあるもの。

「天鵝〔(くぐひ)〕」広義には白いハクチョウの仲間でハクチョウ属 Cygnusとなるが、ここはサイズの大きさの比較でマキシムで出しているから、オオハクチョウ Cygnus Cygnus と限定してよい。

「六、七尺」一・八二~二・一二メートル。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鸞(らん) (幻想の神霊鳥/モデル種はギンケイ)

 

 

Ran

 

 

 

 

 

らん

 

鸞【音鑾】

 

 

 

三才圖會云鸞神靈之精也赤色五采鷄形鳴中五音其

 

雌曰和雄曰鸞其血作膠可續弓弩琴瑟之弦或曰鸞鳳

 

之亞也鳳久則五采變易人君進退有度則至

 

△按青鸞近世自外國來畜之樊中以弄其麗色狀小於

 

 孔雀大於雉形類雉而采毛似孔雀頭灰色帶紫頂後

 

 有毛角眉頰淺赤似雉頸臆紫黃似虎彪腹灰黑帶赤

 

 有白紋背黃有紫斑翮上亦黃有灰黑斑羽紫黑有翠

 

 白圓紋或二三重或有青紅畫紋尾長者一二莖七八

 

 尺許灰青色兩端有紫毛上有翠白小星文如鋪砂短

 

 尾五六莖三四尺許而灰青色帶紫上有翠白小星文

 

 如砂子也觜如雉而黃色脛掌亦如雉而紅色其雌者

 

 黃冠黃頭黃腹皆色淡有黑斑頸紫有黑斑翅紫黑有

 

 黃白文尾如番蕉葉一尺許黃白有黑紋黃觜紅脛孕

 

 於樊中而伏卵者少矣故其類不蕃【近頃載于本朝食鑑甚詳】

 

 

 

 

 

 

らん

 

鸞【音、「鑾〔(ラン)〕」。】

 

 

 

「三才圖會」に云はく、『鸞、神靈の精なり。赤色、五采の鷄〔(にはとり)〕の形。鳴くこと、五音〔(ごいん)〕に中〔(あた)〕る。其の雌を「和」と曰〔(い)〕ひ、雄を「鸞」と曰ふ。其の血、膠〔(にかは)〕に作り、弓弩〔(きうど)〕・琴瑟〔(きんしつ)〕の弦を續くべし。或いは曰はく、「鸞は鳳の亞(つぎ)なり。鳳、久しくするときは、則ち、五采、變-易〔(かは)〕る。人君〔(じんくん)〕の進退、度〔(ど)〕、有れば、則ち、至る」〔と〕』〔と〕。

 

△按ずるに、青鸞、近世、外國より來たり、之れを樊〔(かご)〕の中に畜〔(か)〕ふて、以つて其の麗色を弄〔(もてあそ)〕ぶ。狀〔(かたち)〕、孔雀より小さく、雉より大なり。形、雉の類〔(たぐひ)〕にして、采毛、孔雀に似たり。頭、灰色にして紫を帶ぶ。頂、後ろに、毛の角、有り。眉・頰、淺赤〔にして〕雉に似たり。頸・臆〔(むね)〕、紫黃〔にして〕虎彪(とらふ)に似て、腹、灰黑、赤を帶び、白紋有り。背、黃に紫斑有り。翮〔(はがひ)〕の上も亦、黃に灰黑の斑、有り。羽、紫黑〔にして〕翠白〔の〕圓紋有り。或いは、〔その〕二、三重〔か〕、或いは青紅〔の〕畫〔(か)き〕紋、有り。尾の長き者、一、二莖〔ありて〕、〔おのおの〕七、八尺許り。灰青色。兩の端、紫〔の〕毛有り、〔その〕上に翠白の小さい星の文〔(もん)〕、有り、砂を鋪(し)くがごとし。短き尾、五、六莖〔ありて〕、三、四尺許りにして灰青色、紫を帶ぶ。〔これも〕上に翠白の小さき星の文、有りて砂子のごとし。觜、雉のごとくにして、黃色。脛・掌も亦、雉のごとくにして紅色。其の雌は黃なる冠〔(さか)〕、黃なる頭、黃なる腹、皆、色、淡(うす)く、黑斑有り。頸、紫〔にして〕黑斑有り。翅、紫黑〔にして〕黃白の文、有り。尾、番蕉(そてつ)〔の〕葉〔(は)〕のごとく、一尺許り、黃白〔にして〕黑紋有り。黃なる觜、紅〔き〕脛。樊中に孕みて卵を伏(かへ)すは少しなり。故に、其の類、蕃(をほ[やぶちゃん注:ママ。])からず【近頃、「本朝食鑑」に載せ、甚だ詳らかなり。】

 

[やぶちゃん注:ネット上の記載は、ひどく不全なものが多いのに甚だ呆れる。何が不全かと言えば、大上段に振りかぶって、「和漢三才図会」では実在の鳥としている、と始めにやらかしているものばかりだからである。読めば分かる通り、寺島良安はここで、明の王圻(おうき)の類書(百科事典)「三才図会」著をまず引くが、それは中国の本草書の内容を掲示しただけであって、それを良安はその通りだなどとは一言も言っていない良安が実在するとする「鸞」を良安自身が神霊の精が鳥となったものであると信じてなどいないし、その血から、弓や弩(おおゆみ:(音「ド」)和弓と異なり、立てずに、横倒しにした弓(「翼」と言う)に弦を張り、木製の台座(「臂」或いは「身」と言う)の上に矢を置き、引き金(「懸刀」と言う)を引く事によって矢や石などが発射されるクロスボウ(crossbow)風の大型のもの。この引き金の機構全体を「機」と言い、初期は剥き出しのまま「臂」に埋め込まれてあったが、後には「郭」という部位に格納され、それが「臂」に埋め込まれるようになった)或いは琴(キン:中国の古形のもの(但し、それが現在の琴(筝)に進化した)。初期は十弦ほどあったようだが、中国の戦国時代末期には七弦となった。和琴(わごん)の初期は六弦であるが、現行の本邦の通常の琴(こと)は七弦である)や瑟(シツ:中国古代の弦楽器の一。箏に似ているが、遙かに弦が多く「大琴」等とも表記される。通常の瑟は二十五弦)の弦と本体部の接着剤となることを実際に実在する「鸞」の血液を採取してやって立証したわけでもなんでもないのに、そういう謂いはないだろう、と言いたいのである(因みに、実在するある鳥の血液から膠が出来るとも私は思わない。鳥皮や腱や骨を煮詰めたゼラチンなら可能であろうとは推測するけれども)。則ち、「三才図会」の引用部は実在しない〈幻想の神霊鳥〉であり、良安の評言部は「鸞」を漢名・和名に当てた幻想でも何でもない、実在する鳥を記述しているのであって、良安は「幻想の神霊鳥である鸞は実在する!」などと鬼の首捕って語ってなどいないのだ。「和漢三才図会」の書式方法も良安の中国本草書へのアプローチの仕方(かなり杜撰な部分はある)も知らずに、原文さえも見もしないで、『「和漢三才図会」は「鸞」を実在の鳥としている』と〈まことしやかに大嘘をつく〉表現が活字本も含めて、致命的に蔓延しているのである。おかしいだろ?! 諸君!

 

 ともかくも腹を鎮める。では、良安は「鸞」を現在のどの種に同定比定しているのか? まず、

 

南蛮貿易で「近頃」(和漢三才図会」の自序は正徳二(一七一二)年。第六代将軍徳川家宣はこの年に死去。正徳の次は享保)齎されたものであることから、生息地は中国か東南アジアである可能性高いこと。

 

「鸞」は「鳳凰」等の〈幻想神霊鳥〉と混同されて語られることが甚だ多いことから、その「鳳」やら「凰」やら「鸞」やら「鸑鷟(がくさく)」やら「鵷鶵(えんすう)」やら「青鸞」やら「鴻鵠(こうこく)」やらのモデルとされる実在する鳥の一つであること。

 

・但し、それらトンデモ〈幻想神霊鳥〉のモデルの有力な一つである「孔雀」が前項で良安によって語られているしまっているから、これは「クジャク」(キジ目キジ小目キジ上科キジ科キジ亜科クジャク属インドクジャク Pavo cristatus 或いはマクジャク Pavo muticus)ではないこと。

 

何より、ここで良安自身が「籠」の中の実際の「鸞」を現認しつつ、微に入り、細に入り、観察記録を残しているように見えること(しかし、この各部観察叙述、本書の他の項に比べて異様に精密である。それもそのはずで、実はこれ殆んど「本朝食鑑」の丸写しなのだ。後のリンク先を参照されたいが、これによって良安の実地観察説は無効とせざるを得ない)。

 

それにも増して実在し、人の食用に供される動植物のみを対象としている、医師で本草学者であった人見必大「本朝食鑑」(人見必大(寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書)に実在する食える「鸞」について非常に詳しく記載されていること。

 

から、これはほぼ同定が可能と思われるのである。だのに、殆んど誰もそれをちゃんとしていないから腹が立つのである。

 

 さてもそこでまず、本巻冒頭の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)」の私の注を見て戴こう。

 

 そもそもが中国の諸本草書の「鳳凰」を始めとするトンデモ〈幻想神霊鳥〉は記載がどれも具体性を欠いていたり、よく意味が判らなかったり、記載が本によって入れ替わっていたりしていて、拠るべき正本や定説が皆無で、従ってトンデモ〈幻想神霊鳥〉分類や各絵図の比較などはほぼ全く無効なのである。そこでそれらをひっくるめて、これかあれかの議論が過去に交わされてあり、そのまあ穏当(但し、分布的に、中国や本邦にあり得ない鳥を持ち出している奴もいるから要注意だ。以下からはそれは外した)なものが、、ウィキの「鳳凰」に掲げられた以下である。

 

マクジャク(真孔雀:キジ目キジ科クジャク属マクジャク Pavo
muticu
)・キンケイ(金鶏:キジ科 Chrysolophus 属キンケイ Chrysolophus
pictus
・ギンケイ(銀鶏:キジ科Chrysolophus 属ギンケイ Chrysolophus amherstiae)或いはオナガキジ(キジ科ヤマドリ属オナガキジ Syrmaticus reevesiiやジュケイ類(綬鶏類。キジ目キジ科ジュケイ属 Tragopan。ジュケイ Tragopan
cabot
等)といった中国に棲息するキジ類とする説

 

マレー半島に棲息する キジ科 Phasianidae の大型鳥セイラン(青鸞:キジ科セイラン属セイラン Argusianus argus)とする説(吉井信照ら)

 

マレー半島に棲息するカンムリセイラン(キジ科カンムリセイラン属カンムリセイランRheinardia
ocellata
)とする説(鳥類学者蜂須賀正氏はケンブリッジ大学に提出した卒業論文「鳳凰とは何か」に於いて、鳳凰のモデルをカンムリセイランとし、頭が鶏に似、頸が蛇のようで、背中に亀甲状紋様があり、尾が縦に平たくて魚に似ている、といったカンムリセイランの特徴を挙げている)

 

ツバメ(スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメHirundo
rustica
)説(中華人民共和国の神話学者袁珂(一九一六年~二〇〇一年)の説。「爾雅」の記載の「鳳凰」の別名音「エン」を「燕」と解釈したもの)

 

この内、単純な「隅の老人」の訓詁学的な「鳳凰」に限った解釈説であるは「燕」を既に独立項で出しているのであるから問題外であり、先に述べたことから、のマクジャクも外れる。更に、先行独立項「きんけい 錦雞」があり、そこで私はそれをキンケイに同定しているから、これも外れ、同様に先行独立項「とじゆけい 吐綬雞」を私はキジ目キジ科ジュケイ属に同定しているので、これも外れる。

 

 次に逆を行くと、のフリーキーな鳥類学者蜂須賀正のそれは、まさに論文名が「鳳凰とは何か」であり、彼はいい加減なグラーデションではなく、ずばり「鳳凰」をマレー半島産カンムリセイラン(クランタン州南部及びパハン州北部に棲息。但し、現在、これはマレーカンムリセイランRheinardia
ocellata nigrescens
とされ、亜種Rheinardia
ocellata ocellata
 がベトナム中部及びラオスに棲息することが判明している)としているからこれも外し得る。但し、そう限定をかけると、その和名のないカンムリセイランの亜種Rheinardia ocellata ocellata の方が「鸞」の候補として逆に挙がってくるとも言える。そうしておく。

 

 以上、残った候補は以下となる。

 

 キジ科Chrysolophus 属ギンケイ Chrysolophus amherstiae(画像)

 

 キジ科ヤマドリ属オナガキジ Syrmaticus reevesii(画像)

 

 キジ科セイラン属セイラン Argusianus argus(画像)

 

 キジ科カンムリセイラン属カンムリセイラン亜種レイナルディア・オケラータ・オケラータ Rheinardia ocellata
ocellata
(画像)

 

四種となる。まずは、それぞれの(画像)を比較しよう(それぞれの後ろ。学名でグーグル画像検索したもの。但し、最後のレイナルディア・オケラータ・オケラータのそれは、Rheinardia
ocellata nigrescens
 も含まれている。確かな Rheinardia ocellata ocellata は例えばこれ(英文サイト画像)である)。

 

 ここで「本朝食鑑」を見る。「禽部之四」「青鸞」で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから次のページの画像で読めるが、またしても、良安先生、殆んどこれの丸写しであることが判明してしまう。しかし人見必大が確かに現認して観察筆記していることは確実であるから、「和漢三才図会」の「」以下の本文自体は有効性を持つと見てよい。一つ、注目すべきは、人見の最後の部分(国立国会図書館デジタルコレクションの次のページ)で、「近世來自外國……」読むと、「青鸞」の尾羽はとても美しく、それを人々が見せ合って競い合うことを記している(但し、好事家がその羽尾で矢羽や矢場や遊びの楊弓の羽に作るものの、鷹や鵠(くぐい:白鳥)の羽よりも重いために矢が十分に飛ばずに堕ち易いともある)ことである。これに着目してしまうと、「青鸞」だから「セイラン」だろうとはいかないのである。則ち、の「キジ科セイラン属セイラン」との「キジ科カンムリセイラン属カンムリセイラン亜種レイナルディア・オケラータ・オケラータ」は所謂、尾羽が長大にして盛大ではあるものの、決して雅びに華麗ではないからなのである。「黃白〔にして〕黑紋有り」という記載は、この二種には全く適合しないのである。

 

 そうなると、の「ギンケイ」か、の「オナガキジ」か、ということになる。尾の描写は「オナガキジ」のそれが色といい、矢羽にするという点でもピンとくるのだが、ピンくるのは実はそこだけで、外の部分が如何にもな雉や山鳥ののような地味系なのだ。さてもそうして、

 

他の体部形状や色の描写は、実は、悉くが「ギンケイ」に一致する

 

のである。私は、良安の言っている=人見必大の言っている、

 

「鸞」はキジ目キジ科
Chrysolophus
 属ギンケイ Chrysolophus
amherstiae

 

としたい。ウィキの「ギンケイ」によれば、『全長はオスで』一・二~一・五メートル『と大型だが、その半分以上が長い尾羽で占められる。メスは』五十~七十センチメートル『ほど。オスは緑と白を基調とした派手な色彩をしている。赤い冠羽と、襟首の日本兜のしころ状を呈する白と黒の飾り羽が特徴。メスは他種のキジ類同様、比較的』。『地味である』。『主に中国南西部からチベット、ミャンマー北部にかけて分布しており、標高の高い山岳地帯の』藪『や竹林に生息している』とし、同種は同属種の、より金ぴかのキンケイ Chrysolophus pictus先行独立項「きんけい 錦雞」)『との雑種が多い』とあるから、或いは人見が観察したそれは、キンケイとの交雑種で、尾の白紋部が黄色がかっていた個体なのかも知れない。

 

 

 

「鑾〔(ラン)〕」この字は「天子の馬車などに添え附ける鈴(すず)」の意で、転じて「天子の馬車」「天子」の意に汎用された。そもそもが幻想の神聖鳥である「鸞」の声を、この天子の鈴の音は真似たものであるとされるのである。

 

『「三才圖會」に云はく……』「鳥獸一卷」の「鸞」。この左頁が図で、この右頁が解説(孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。

 

 

 

「赤色、五采の鷄〔(にはとり)〕の形」全体に赤いが、そこに「五采」、五色(ごしき:靑・黄・赤・白・黒)の色が混じっている、全体形状は鶏の形と同じであるというのである。全体に赤いというのは如何にもキンケイらしく見えるが、実はギンケイでも腹部の下方が鮮やかに赤い部分を持つ個体もおり、後の多色であるのは寧ろ、ギンケイに一致する。交雑種が古くから見られた可能性が高いから、ここでそれを以ってこれはキンケイでギンケイではないとすることは出来ない。

 

「五音〔(ごいん)〕」既出既注であるが、再掲しておく。中国音楽で使われる五つの音程(五声(ごせい)とも称する)。「宮(きゅう)」・「商(しょう)」・「角(かく)」・「徴(ち)」・「羽(う)」の五つで、音の高低によって並べると、五音音階が出来る。西洋音楽の階名で「宮」を「ド」とした場合は、「商」は「レ」、「角」は「ミ」、「徴」は「ソ」、「羽」は「ラ」に相当する。後に「変宮」(「宮」の低半音)と「変徴」(「徴」の低半音)が加えられ、七声(七音)となり、「変宮」は「シ」、「変徴」は「ファ#」に相当する。なお、これは西洋の教会旋法の「リディア旋法」の音階に等しく、「宮」を「ファ」とおいた場合は、宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮」は「ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミ」に相当する(以上はウィキの「五声」に拠った)。

 

「中〔(あた)〕る」相当する正確な音程の声を出す。

 

『其の雌を「和」と曰〔(い)〕ひ、雄を「鸞」と曰ふ』だったら、「鸞和」と言いそうなもんだと思って調べたら、中文サイトに「鸞和」として、『都是天子座車上的鈴』とあった。ハイ、ハイ。

 

「膠〔(にかは)〕に作り」冒頭注の私の言い添えを参照されたい。

 

「弓弩〔(きうど)〕・琴瑟〔(きんしつ)〕」同前。

 

「鸞は鳳の亞(つぎ)なり」鸞は鳳凰に次ぐ二番目に神聖な鳥であるの意。

 

「鳳、久しくするときは」鳳凰が老成すると。

 

「五采、變-易〔(かは)〕る」体色に変化が起こる。「鳳凰(ほうわう)」には同じように「羽(はね)に五采を備へ」とはあるものの、その後で『赤多き者、「」なり。青多き者は「鸞」なり』(但し、そちらは「本草綱目」の引用)と言っているから、もう、この時点で「三才図会」の方は――「鸞」は年寄った「鳳(凰)」だ――と言ってしまってことになるので、中国本草の分類学のヒッチャカメッチャカ振りがよく判るのである。以下にムチャクチャかというと、「淮南子」では麒麟は諸獣を生み、鳳凰は鸞を生み、その鸞が諸鳥を生んだとされていて、そこでは「鳳凰は鸞のおっかさん」ということになる。

 

「人君〔(じんくん)〕」ここは君主の政道。

 

「度〔(ど)〕」節度。儒家風に言えばそこである程度に肝心な「仁」が行われていること。

 

「至る」飛来する。「礼記」に王が仁に則った政治を行った時、麒麟が現れるの類い。

 

「番蕉(そてつ)」」裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツCycas revoluta。なお、ソテツは南西諸島で「蘇鉄地獄」と呼ばれた、可食(種子)ながら、処理を誤ると、死に至る有毒植物であるウィキの「ソテツ」によれば、『日本の南西諸島の島嶼域では、中世から近代まで食用にされてきた。ソテツは、有毒で発癌性物質のアゾキシメタンを含む配糖体であるサイカシン(Cycasin)を、種子を含めて全草に有』する。『サイカシンは、摂取後に人体内でホルムアルデヒドに変化して急性中毒症状を起こす。しかし』、『一方でソテツには澱粉も多く含まれ、幹の皮を剥ぎ、時間をかけて充分に水に晒し、発酵させ、乾燥するなどの処理を経てサイカシンを除去すれば』、『食用が可能になる』。『鹿児島県奄美群島や沖縄県においては、サゴヤシ』(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科サゴヤシ属サゴヤシ(ホンサゴ)Metroxylon sagu)『のようにソテツの幹から澱粉を取り出して食用する伝統がある』。『また、種子から取った澱粉を加工して蘇鉄餅が作られたり、奄美大島や粟国島では、毒抜き処理と微生物による解毒作用を利用して無毒化された蘇鉄味噌が生産されたりしており、蘇鉄味噌を用いたアンダンスーが作られることもある』。『奄美・沖縄地域では、郷土食以外にも飢饉の際にソテツを救荒食として飢えを凌いだ歴史があったが、正しい加工処理をせずに食べたことで食中毒により死亡する者もいた。大正末期から昭和初期にかけて、干魃や経済不況により』、『重度の貧困と食糧不足に見舞われた沖縄地域は、ソテツ食中毒で死者を出すほどの悲惨な状況にまで陥り、これを指して「ソテツ地獄」と呼ばれるようになった』。『与論島でも、戦後から本土復帰』(昭和二八(一九五三)年)『後の数年間は島民の生活は大変貧しく、ソテツの種子で飢えを凌いでおり、その有り様も「ソテツ地獄」と称された』。『ソテツ澱粉を水に晒す時間が不十分で毒物が残留していたり、長期間にわたる食用で体内に毒素が蓄積されるケースが多く報告されており、例えばグアム島など、ソテツ澱粉を常食している住民がいる地域ではALS/PDC(筋萎縮性側索硬化症/パーキンソン認知症複合、いわゆる牟婁病)と呼ばれる神経難病が見られることがある』。『ソテツは、あくまで他の食料が乏しい時の救飢食として利用されているものであって、素人が安易に試すのは避けるべきとされる。また、同じソテツ属でも revoluta 以外のものは可食性は未確認である』とある。

 

「樊中に孕みて卵を伏(かへ)すは少しなり。故に、其の類、蕃(をほ)からず」籠の中で孕むが、産んだ卵を上手く孵化させて、雛を育てる番いは少ない。そのため、その「鸞」の同類は本邦では多くない。]

2019/01/04

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 孔雀(くじやく) (インドジャク・マクジャク)

 

Kujyaku

 

くじやく  越鳥 南客

      摩由邏【梵書】

孔雀

     【和名宮尺】

 

本綱交趾廣州南方諸山多生高山喬木之上大如鷹高

三四尺不減於鶴細頸隆背頭載三毛長寸許數十羣飛

棲遊岡陵晨則鳴聲相和其聲曰都雌者尾短無金翠

雄者三年尾尚小五年乃長二三尺夏則毛至春復生

自背至尾有圓文五色金翠相繞如錢自愛其尾山棲必

先擇置尾之地雨則尾重不能高飛人因徃捕之或暗伺

其過生斷其尾以爲方物若回顧則金翠頓減矣山人養

其雛爲媒或探其卵雞伏出之飼以猪腸生菜之屬聞人

拍手歌舞則舞其性妬見采服者必啄之孔雀不匹以音

影相接而孕或雌鳴下風雄鳴上風亦孕又云孔雀雖有

雌雄將乳時登木哀鳴蛇至卽交故其血膽猶傷人禽經

所謂孔雀見蛇則宛而躍者是矣尾有毒入目令人昏翳

肉【鹹凉】夷人多食或以爲脯腊能解百毒

△按日本紀推古帝六年自新羅國貢孔雀一候近世自

 外國來畜之樊中雖孕子難育

 

 

くじやく  越鳥 南客

      摩由邏〔(まゆら)〕【梵書。】

孔雀

     【和名「宮尺」。】

 

「本綱」、交趾(カウチ)・廣州の南方の諸山に多く、高山〔の〕喬木の上に生ず。大いさ、鷹のごとく、高さ、三、四尺。鶴に減(おと)らず、細き頸、隆〔(たか)〕き背〔たり〕。頭に三毛を載き、長さ寸許り。數十、羣(むらが)り飛びて岡陵〔(こうりやう)〕に棲遊〔(せいいう)〕し、晨〔(あした)〕には、則ち、鳴く。聲、相ひ和す。其の聲、「都護〔(とご)〕」と曰ふ〔がごとし〕。雌は、尾、短くして、金翠、無く、雄は、三年にして、尾、尚を[やぶちゃん注:ママ。]、小なり。五年にして、乃〔(すなは)〕ち、長ずること、二、三尺。夏は、則ち、毛をす。春に至りて復た生ず。背より尾に至るまで、圓文有り。五色の金翠、相ひ繞〔(めぐ)り〕て錢〔(ぜに)〕のごとし。自〔(みづか)〕ら其の尾を愛す。山〔に〕棲するに、必ず、先づ、尾を置くの地を擇ぶ。雨ふるときは、則ち、尾、重くして高く飛ぶこと能はず。人、因りて、徃〔(ゆ)〕きて之れを捕ふ。或いは暗〔(あん)〕に其の過〔(よ)〕ぐるを伺ひて、生きながら、其の尾を斷つ。以つて方物〔(はうぶつ)〕と爲〔(な)〕す。若〔(も)〕し、回顧すれば、則ち、金翠、頓〔(とみ)〕に減ず。山人、其の雛を養ふ〔も、それを〕媒(をとり)と爲す。或いは其の卵を探り、雞〔(にはとり)をして〕伏〔して〕之れを出す。飼ふに、猪〔の〕腸〔(はらわた)〕・生菜〔(にがぢしや)〕の屬を以つてす。人、手を拍(う)つて歌舞するを聞くときは、則ち、舞ふ。其の性〔(しやう)〕、妬(ねた)む。采服の者を見ては、必ず、之れを啄ばむ。孔雀、匹せず、音影を以つて相ひ接〔(まぢ)〕はりて孕む。或いは、雌は下風に鳴き、雄は上風に鳴きて、亦、孕みす。又、云く、『孔雀、雌雄有りと雖も、將に乳〔(つる)〕まんとする時〔は〕、木に登りて哀鳴す。〔そこに〕蛇、至れば、卽ち、交(つる)む。故、其の血・膽〔(きも)〕、猶ほ、人を傷(きづつく)る』〔と〕。「禽經」に、所謂〔(いはゆ)〕る、『孔雀、蛇を見るときは、則ち、宛〔(ゑん)〕として躍〔(をど)〕る』といふは、是れなり。尾に毒有り、目に入れば、人をして昏翳〔(こんえい)〕せしむ。

肉【鹹、凉。】夷人、多く、食ふ。或いは以つて脯-腊〔(ほじし)〕と爲し、能く百毒を解す。

△按ずるに、「日本紀」に、推古帝六年に新羅國より孔雀一候を貢づる[やぶちゃん注:ママ。]〔と〕。近世、外國より來りて、之れを樊〔(かご)〕の中に畜〔(か)〕ふ。孕むと雖も、子、育(そだ)ち難し。

[やぶちゃん注:キジ目キジ小目キジ上科キジ科キジ亜科クジャク属インドクジャク Pavo cristatus・マクジャク Pavo muticus(他に一種、前二種の原始的な特徴を残した遺存種と考えられているコンゴクジャク属コンゴクジャク Afropavo congensis の三種がいるのみである)。ウィキの「クジャク」によれば、『中国から東南アジア、南アジアに分布するクジャク属』二種と、『アフリカに分布するコンゴクジャク属』一『種から成る。通常』、『クジャクといえば前者を指す』。『オスは大きく鮮やかな飾り羽を持ち、それを扇状に開いてメスを誘う姿が有名である。最も有名なのは羽が青藍色のインドクジャクで、翠系の光沢を持つ美しい羽色のマクジャクは中国からベトナム、マレー半島にかけて分布する。コンゴクジャクはコンゴ盆地に分布し、長い上尾筒(じょうびとう)を持たない』。『羽は工芸品に広く分布されてきたほか、神経毒に耐性を持つため』、『サソリ等の毒虫や毒蛇類を好んで食べることから、益鳥として尊ばれる。さらにこのことから転じ、邪気を払う象徴として「孔雀明王」の名で仏教の信仰対象にも取り入れられた。クルド人の信仰するヤズィード派の主神マラク・ターウースは、クジャクの姿をした天使である。また、ギリシア神話においては女神ヘーラーの飼い鳥とされ、上尾筒の模様は百の目を持つ巨人アルゴスから取った目玉そのものであるとする説がある』(私の従姉妹は小さな頃、あの孔雀の模様を文字通り「目」と言い、非常に恐がった)。『オスの飾り羽は尾羽のように見えるが、上尾筒という尾羽の付け根の上側を覆う羽が変化したものであり、メスにアピールするための羽である。褐色をした実際の尾羽はその下にあり、繁殖期が終わって上尾筒が脱落した後やディスプレイ中などに観察できる』。『オスの羽は異性間淘汰によって発達した例として知られるが、その発達の理由もいくつか提唱されている』。『整った羽を持つ個体は、寄生虫などに冒されていない健全な個体であると同時に生存に有利な遺伝子を持つことをアピールでき、優先的に子孫を残せるという説(オネストアドバタイズメント理論)』(Honest advertisement theory)、『捕食されやすい長い上尾筒を』健全な状態で保持していることを殊更に見せる『ことで、健全な個体であると同時に生存に有利な遺伝子を持つことをアピールでき、優先的に子孫を残せるという説(ハンディキャップ理論)』(Handicap theory)、『長い尾羽を持つオスの遺伝子と長い尾羽のオスを好むメスの遺伝子が互いを選択した結果、オスの尾羽が長くなったとする説(ランナウェイ説)』(runaway selection or Fisherian runaway)などがある。『鮮やかな羽の色は色素によるものではなく、構造色』(structural color:光の波長或いはそれ以下の微細構造による発色現象を指す。コンパクト・ディスクの記録部分の表面のそれやシャボン玉の色彩などがそれで、当該対象物自身には実は色が附いていないが、その微細構造によって光が干渉するため、色附いて見えることを言う。構造色の特徴は見る角度によって様々な色彩が見られることである)『によるものである』。『インドクジャクはインドの国鳥となっている』とある。

 

「摩由邏〔(まゆら)〕【梵書。】」中文繁体字経典サイトCBETA 漢文大藏經網」の隋北印度三藏闍那崛多(ジュニャーナグプタ/漢音写:じゃなくった:五二三年~六〇〇年?:北インド・ガンダーラ出身の訳経僧。北周から隋の時代に来朝し、仏典を漢訳した)漢訳になる「大威德陀羅尼經卷第七」の「0785c21」パートの鳥名を並べた部分に確認した。以下(下線太字は私)。

   *

叔迦(鸚鵡鳥)奢梨迦(鸜鵒鳥)拘翅羅(鵶鷗鳥)時婆時婆迦(命命鳥)恒娑(鵝)拘嚧安遮(穀祿鳥)摩由邏(孔雀鳥)求求娑妬迦(鷄鳩鳥)迦茶迦 迦賓闍邏野多奴磨 迦迦(鳥)迦茶 恒娑(鷹)謨邏(山鷄)斫迦囉婆迦(鴛鴦)婆嗜邏婆邏 迦茶恒婆迦(鴻)提都囉瑟吒羅 拘拘婆(白鴿)陀那婆利夜捨磨 尸揵雉都大 迦逋大(班鳩)迦迦婆迦頻闍邏(雉)奚陀那磨揵遮 鳩鳩吒(鷄)地那馱馱那磨迦伽迦迦 鳩邏邏揭利闍(鵰鷲)槃多捨迦柘邏 奚摩蘇多阿梨耶(鴻)嘶那夜(鷹)鞞提那 嘔盧伽(鵂猴鳥)至至夜婆致夜(鶉)末蹉利也 迦嚧磨伽 迦婆優婆伽

   *

「宮尺」「宮」には呉音に「ク」があるので(「宮内省」等)、「クジヤク」(くじゃく)と読める。

「交趾(カウチ)」既出既注であるが、再掲する。現在のベトナム社会主義共和国の北部のホンハ(紅河・旧名/ソンコイ川)流域地方を指す広域地名。前漢の武帝が南越を滅ぼして設置した九郡の一つに「交趾」の名が初見され(紀元前二世紀)、その名称は初唐(七世紀)まで続いた。初唐に「交趾郡」が「交州」と改められたが、「交趾」の名は、なお、県名として存続し、唐末にまで及んだ。 十世紀に現在のベトナムが「安南国」として独立した後も、中国ではこの国を呼ぶのに「交趾国」の称を用いることが、ままあった(この名称の起源については諸説あるが、確実なものはない。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。本邦でも嘗ては「コーチシナ」などと呼んだ。

「廣州」狭義には広東省広州市であるが、現在でも同市は広東省のみならず、華南地域全体の中心都市であり(ここ(グーグル・マップ・データ))、地理的に見ても「交趾」と並列させる以上は、現行の広州から西の華南地方の広域を指すと考えるべきであろう。

「減(おと)らず」劣らず。

「其の聲、「都護〔(とご)〕」と曰ふ〔がごとし〕」孔雀の鳴き声は大きく、遠くまで響き渡り、「クエー」「エーホー」など、バリエーションが多い。特に繁殖期に多く鳴く。You Tube mokijp氏の「クジャクの鳴き声」をリンクさせておく。

「暗〔(あん)〕に」密かに。

「方物」その地方の産物。土産。

「若〔(も)〕し、回顧すれば、則ち、金翠、頓〔(とみ)〕に減ず」非常に変わったことことを言っている。雄の孔雀の尾(実際は冒頭注にある通り、尾羽の根元の上の羽である上尾筒)を採取する場合は、孔雀を殺さずに、その尾だけを雄孔雀に気取られぬように瞬時に截たねばならない。何故なら、手間取ると、雄孔雀は(優美な羽根を持っていた輝かしい〈ここは私の想像。殺す描写はないのだから、そう読み取るべきであろう〉)過去を思い出してしまい、その回顧の悲しい意識によって、尾の金と青緑の美しい輝きは急激に減衰してしまう、というのである。意識の強靭さと羽毛の美しさの類感呪術的関係を語っているのである。

「媒(をとり)」孔雀を獲るための「囮」(おとり)。雄孔雀の尾を採取するためと(しかし、その場合は雌でないと習性上は囮にならないだろう。孔雀の雄はまず相互に近寄らないからである)、後に出る通り、食うための両用と考えられる。

「雞〔をして〕伏〔して〕之れを出す」鶏の巣に入れて抱かせて孵化させる。

「生菜〔(にがぢしや)〕」現代中国語で「shēngcài」(シァンツァィ)、「苣」「苦苣」等とも書き、現在の所謂、レタス(キク目キク科アキノノゲシ属チシャ Lactuca sativa)のこと。地中海沿岸・西アジア原産であるが、非結球型の、所謂、現在の「サニーレタス」「リーフ(葉)レタス」「カッティングレタス」等と呼ばれる品種チリメンチシャ Lactuca sativa var. crispa)と考えてよいのではないと思われる。ウィキの「レタス」によれば(そこでは「カキジシャ」とする)、中国には七世紀頃に『導入され、日本にも同じ頃から奈良時代にかけて導入された。日本では導入がもっとも古いレタス(チシャ)である。生長するに従い、下葉をかき』(「穫(か)く」か。しかし、後で「掻き」と言っている)『(収穫)ながら食用とし、このためにカキヂシャ(掻き萵苣)と呼ばれる。日本でも食用としてきたが』、『多くの場合は生食せず、茹でておひたし、味噌和えなどにして消費してきた』。『戦後は消費量が大幅に減ったが』、『日本でも韓国のように焼肉をサンチュ』『に包んで食べる方法が普及したために、再び流通が増えてきている』とある、それである。但しウィキの「サニーレタス」とは歴史的記載が異なっており(こちらは栽培は戦後の一九六五年以降とする)、不審ではある。ただ、ここは「本草綱目」の記載であるから、前者を信ずれば、問題はないとも言える。

「人、手を拍(う)つて歌舞するを聞くときは、則ち、舞ふ」私は幼少の頃、確かに何処かの動物園でスピーカーから流れる音楽に合わせるように、クジャクが美しい羽を全開して悠然と歩むのを見た記憶がある。しかし、そんな無駄な習性(或いは調教)はあり得ない気がする。もしかすると、クジャクが羽を広げたのを入場している客にアピールするために、後から音楽を流していたのかも知れない。調教可能となれば、お知らせ戴きたい。

「其の性〔(しやう)〕、妬(ねた)む」華麗なそれからの擬人的な類感呪術的解釈である。

「采服」東洋文庫版はこれに『いろどりのふく』と当て訓している。

「必ず、之れを啄ばむ」これはテリトリー侵害ではなく(人を別な♂と見做しているのではなく)、防衛のための普通の防御反応であろう。

「匹せず」番(つがい)になろうとせず。無論、誤り。

「音影を以つて相ひ接〔(まぢ)〕はりて孕む」クジャクも凄いね! 鳴き声と雄の姿を見るだけで子が出来る!

「雌は下風に鳴き、雄は上風に鳴きて、亦、孕みす」通常、本草書で謂う「下風」は地面或いはそこにごく近い空間(ここは低木や高木の下方位置とするべきか)に吹く風を指し、「上風」は高木の上方を渡る風を指す。

「將に乳〔(つる)〕まんとする時〔は〕」今にも交尾(実際にはしないと言っている訳だが、これは前とは別説なので問題はない)しようとする(したいと雌の孔雀が思う)時は。「乳〔(つる)〕まん」は東洋文庫訳を参考に振った。

「其の血・膽〔(きも)〕、猶ほ、人を傷(きづつく)る」冒頭注のクジャクが『神経毒に耐性を持つため』、『サソリ等の毒虫や毒蛇類を好んで食べる』という部分から、腑に落ちる想像的な謂いではある。実際に有毒かどうかは不明。

「禽經」既出既注。春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「宛〔(ゑん)〕として」体をなよなよとくねらせて。

「尾に毒有り」恐らくは誤り。

「昏翳〔(こんえい)〕せしむ」。東洋文庫訳は『昏翳(くらくら)とする』(「させる」とすべき)とする。

「夷人」漢人でない異民族の謂い。野蛮人・未開人という蔑称。

「脯-腊〔(ほじし)〕」干し肉。

『「日本紀」に、推古帝六年に新羅國より孔雀一候を貢づる』「日本書紀」推古天皇六(五九八)年に、

   *

秋八月己亥朔。新羅貢孔雀一隻。

   *

とあり、また、大化三(六四七)年の条の一節にも、

   *

来、獻孔雀一隻。鸚鵡一隻。

   *

とある。]

2019/01/03

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 鷹縞ダイ イシタイ (イシダイ)

 

縞ダイ イシタイ  江戶魚肆

 

Isidai_2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた(左下の「笛」は別な魚図のキャプションで無関係)。これはもう、安心して、スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus でげセウ! 野だいこ先生! 但し、背部分や腹部の縞がぼやけかかっているのは、成魚であることを示していよう。

「魚肆」は「ぎよし(ぎょし)」で魚屋のこと。「肆」は「店」のこと。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 鷹ノ羽タイ (タカノハダイ)

 

Takanohadai

 

鷹ノ羽タイ

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。何だか、瘦せ細っちまって哀れを感じさせるが、既出のスズキ目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Cheilodactylus zonatus  でよかろうかい。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 シマイシダイ (不詳)

 

シマイシダイ

 

Simaisidai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。「シマイシダイ」(「縞石鯛」だろうなぁ)などという種は存在しない。魚体全体の感じは、今までの丹洲の図を見ても、スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus で落ち着くが、縞がヘンチクリンで殆んど縦縞に近い。こんなのはイシダイにいないだろう! ということで、十月からずっと悩んだのだが(頭部の辺りの丸斑点からイシダイとイシガキダイ(イシダイ科イシダイ属イシガキダイ Oplegnathus punctatus)の天然交雑種も考えたが、この縞の角度はアリエヘンのや! 縞だけ考えるなら、スズキ目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Cheilodactylus zonatus やその仲間がほぼズバリで当て嵌まるが、魚体が全然合わへん!)、もう限界! 先に進めん! 不詳で出す! 悪しからず。]

明恵上人夢記 79

 

79

廿日の夜、夢に云はく、一疋の馬有りて、我に馴(な)る【此の馬と覺ゆ。】。少しも動かず。押し遣れば去り、引き寄すれば、來る。やはやはとして麁(あら)からずと云々。

[やぶちゃん注:「78」を受けて、承久二(一二二〇)年十一月二十日と採る。

「此の馬と覺ゆ」これは夢の中の明恵の意識が、覚醒時の明恵には理解出来ないものの、『ああ! この馬だったんだ!』と納得していたことを意味すると私は採る。夢の中の明恵にはこの馬が何を意味しているかが、鮮やかに理解されていた、しかし、目覚めた後の明恵には〈その納得〉の中身が判らなかったのである。しかし、何か大事なシンボルだということを理解した明恵がこれを夢記に記したというのことである。私のような凡夫でさえ、しばしば夢の中であるとてつもない開明に達して、エクスタシーを覚えながら、翌朝、目覚めて何が判ったのか判らなかったことは何度もある。或いはアドレナリンの放出とか、性的願望の昇華などとも使い古された解釈は可能かも知れぬが、明恵にはなかなか、そんなものは通用せぬ。この馬の動きは、明恵が立ち止まって考え込んでいた、修行或いは現実世界への対応の一つの行動様式への暗示・示唆となっているのであろう。

「麁(あら)からず」「やはやは」とした感じながら、荒々しさやいい加減な感じは全くない、というのである。]

□やぶちゃん現代語訳

79

 承久二年十一月二十日の夜、こんな夢を見た――

 一頭の馬がいて、私に馴(な)れている。

 その時、私は瞬時に、

『ああっ! そうかそうだったのか!! この馬だったのだ!!!』

とはっきりと意識している自分を自覚した。

 馬は、これ、ぴくりとも動かぬ。

 押しやってみると、押しただけそちらへ去り、引き寄せてみると、素直にその通りにやって来る。

 やわやわとしてなすがままで〈ある〉けれど、決して魯鈍なのではなく、〈己(おのれ)〉をしっかと持っている。荒々しさやいい加減なものなど、これ、微塵もない――〈確かにここにある〉馬――なのだ!……

大和本草卷之十三 魚之上 鱊魚 (イサザ)

 

鱊魚 本草ニノス小魚ナリ春ハ多ク川ニ上ル細魚也川

 ノ淺キ処ヲノホル故一名サノホリト云近江ノ和尒越前

 敦賀ニ多シ形鯊ニ似タリ或曰イサヽハ鯊ノ子也

○やぶちゃんの書き下し文

鱊魚(イサヾ) 「本草」にのす。小魚なり。春は多く川に上る。細〔き〕魚なり。川の淺き処をのぼる。故、一名「サノボリ」と云ふ。近江の和尒(わに)・越前敦賀に多し。形。鯊(ハゼ)に似たり。或いは曰はく、『「イサヾ」は鯊(ハゼ)の子なり』〔と〕。

[やぶちゃん注:狭義の種としては琵琶湖固有種のハゼである、条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinaeウキゴリ属イサザ Gymnogobius isaza である。ウィキの「イサザ」によれば、漢字表記は「魦」「鱊」「尓魚」「𩶗」で、『ウキゴリ』(ゴビオネルス亜科ウキゴリ属ウキゴリ Gymnogobius urotaenia:日本周辺に広く分布し、「ゴリ」の代表種の一種)『に似た、昼夜』に亙る『大きな日周運動を行う。食用に漁獲もされている。現地ではイサダとも呼ばれる』。但し、『琵琶湖沿岸以外での「イサザ」「イサダ」は、シロウオ』(スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii『やイサザアミ』(節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目アミ目アミ亜目アミ科イサザアミ属イサザアミ Neomysis awatschensis『など本種以外の』全くの別種(特に後者)『動物を指す』ので注意が必要である。特に「いさざ漁」とか「いさざ網」」(幅九十一センチメートル、長さ一メートル強ほどの長方形の網に弓形の棒を十文字に渡して、取っ手とした「四つ手網」)という呼称は琵琶湖以外では前者のシロウオ漁及び捕獲網を指すケースが殆んどである(太字下線やぶちゃん)。『成魚の全長は』五~八センチメートルほどで、『頭が上から押しつぶされたように平たく、口は目の後ろまで裂ける。体は半透明の黄褐色で、体側に不明瞭な黒褐色斑点が並ぶ。第一背鰭後半部に黒点がある。同属種のウキゴリ』『に似るが、小型であること、体側の斑点が不明瞭なこと、尾柄が長いことなどで区別される。田中茂穂によって記載された当初はウキゴリの亜種 Chaenogobius urotaenia isaza とされていた。琵琶湖の固有種で、北湖に産する。琵琶湖にはウキゴリも生息しており、イサザはウキゴリから種分化が進んだものと考えられている。なお』、昭和三九(一九六四)年には『相模湖(相模ダム)と』、『霞ヶ浦で各』一『尾が記録されたが、これはアユの稚魚に混入するなどで放流されたものと考えられ、その後の繁殖も確認されていない』。『成魚は昼間には沖合いの水深』三十メートル『以深に生息するが、夜には表層まで浮上して餌を摂る。琵琶湖の環境に適応し、ハゼにしては遊泳力が発達しているのが特徴である。食性は肉食性で、ユスリカ幼虫などの水生昆虫やプランクトンを捕食する』。『産卵期は』四~五『月で、成魚は』三『月になると沖合いから沿岸に寄せてくる。この季節は』、『まだ水温が低いため』、『他の魚類の活動が鈍く、卵や稚魚が捕食されないうちに繁殖を終わらせる生存戦略と考えられている。オスは岸近くの石の下に産卵室を作り、メスを誘って産卵させる。メスは産卵室の天井に産卵し、産卵・受精後はオスが巣に残って卵を保護する』。『卵は』一『週間で孵化し、仔魚はすぐに沖合いへ出る。しばらくは浮遊生活を送るが』、七『月頃から底生生活に入り、成長に従って深場へ移る。秋までに全長』四・五センチメートル『に達したものは翌年の春に繁殖するが、それに達しなかったものは次の年に繁殖する。寿命は』一『年か』二『年で、繁殖後はオスメスとも死んでしまうが、メスには』一『年目の産卵後に生き残り』、二『年目に再び産卵するものもいる』。『琵琶湖周辺地域では食用になり』、十二から四月にかけて『底引き網や魞(えり : 定置網)で漁獲される』。『佃煮・大豆との煮付け・すき焼きなどで食べられる』。『琵琶湖特産種のうえ、ブルーギルやオオクチバス(ブラックバス)による捕食が影響し』、『個体数は減少して』おり、二〇〇七年には絶滅危惧IA類(CR)となってしまった。『もともとイサザの漁獲量は変動が大き』く、一九五〇『年代に一旦激減した後』、一九六二年から一九八六年にはある程度まで『回復したが』、一九八八年以降、『再び漁獲が激減』、『その後再び漁獲されるようになった』ものの、『以前ほど』には『漁獲されていない。有効な保全策も不明とされている』とある。魚体はぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のイサザのページを見られたい。

『「本草」にのす』「本草綱目」巻四十四の「鱗之三」の以下であるが、本邦のイサザは琵琶湖固有種であり、同一種ではないし、近縁種でさえないように思われた。そこで中文サイトを調べると、「鱊魚」を「鮍魚」の属と同一とし、「鮍魚」を調べてみると、「Rhodeus sinensis」という学名の行き当たった。これはコイ目コイ科タナゴ亜科バラタナゴ属ウエキゼニタナゴという中国産のタナゴの一種であることである! 益軒先生、全くの縁遠い別種で、魚体も全くタナゴタナゴちゃんした全然ちゃう魚であらっしゃいます!(グーグル画像検索「Rhodeus sinensis

   *

鱊魚【音「聿」。「綱目」。】

釋名春魚【俗名。】。作「腊」、名「鵝毛」「」。時珍曰、「爾雅」云、『鱊、小魚也。名義未詳。「春」、以時名也。「」以乾腊故名。

集解時珍曰、按、段公路「北錄」云、廣之恩州出鵝毛、用鹽藏之。其細如毛。其味美。郭義恭、所謂「武陽小魚」。大如針一觔千頭。蜀人以爲醬者也。又「一統志」云、廣東陽江縣出之、卽鱊魚兒也。然今興國州諸處亦有之。彼人呼爲「春魚」云、春月自巖穴中隨水流出、狀似初化魚苗。土人取收、曝乾爲「」、以充苞苴、食以薑醋、味同蝦末。或云卽鱧魚苗也。

氣味甘、平。無毒。

主治和中益氣、令人喜悦【時珍】。

   *

而して、この「本草綱目」の記載を眺めていると、益軒が最後に「或いは曰はく、『「イサヾ」は鯊(ハゼ)の子なり』〔と〕」と言っているのは、益軒の知人の誰彼の謂いなのではなく、無批判に上記の「一統志」の「卽ち、鱊魚の兒なり」や「或いは云はく、『卽ち、鱧魚の苗(幼魚)なり』と」を、安易に「ハゼの子」に変えて解釈しただけなのではないか? と疑いたくなってくるのである。益軒はその記載の類似性から強引に「ウエキゼニタナゴ」を「イザ」に化けさせたのではなかったか?

「サノボリ」「狹上り」。

「近江の和尒(わに)」「和邇(わに)」。琵琶湖西岸の旧近江国滋賀郡の古地名。滋賀県志賀町域(現在の大津市)に当たる。大和の豪族「和邇氏」の部民がここにいたとされることに由る。隣接する小野の「和邇大塚山古墳」の被葬者は和邇氏系の有力者と推定されている(平凡社「百科事典マイペディア」に拠る)。]

大和本草卷之十三 魚之上 ワタカ

 

【和品】[やぶちゃん注:原典は前の「ハス」と『同』。]

ワタカ 其形ハスニ似テ不同長サハハスニ同シ味モ亦ハスニ似

 タリハスノ味ニハ不及ト云ヘ𪜈佳味ナリ是亦琵琶湖ニ多

 シ其性ハスト同

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ワタカ 其の形、「ハス」に似て、同じからず。長さは「ハス」に同じ。味も亦、「ハス」に似たり。「ハス」の味には及ばずと云へども、佳味なり。是れ〔も〕亦、琵琶湖に多し。其の性〔(しやう)〕、「ハス」と同じ。

[やぶちゃん注:一属一種の日本固有種の淡水魚で「腸香」「黄鯝魚」等と書く、条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae ワタカ属ワタカ Ischikauia steenackeriウィキの「ワタカ」より引く。『琵琶湖や淀川水系にのみ生息していたが、琵琶湖で養殖された稚アユに混ざって放流され、全国の河川に定着した。しかしワタカの咽頭歯の化石が西日本を中心に発見されており、琵琶湖の固有種ではなく』、『遺存種であるとの見方が強い』。『全長はおよそ』三十センチメートルで、『口が斜め上向きである。オスは頭部や胸鰭、背部などに星状の点がある。体色は淡い青色で、背面は灰青緑色、腹面は白色になる。繁殖期のオスには、背面や眼の周り、胸びれなどに』「追い星」(産卵期を中心に、主として淡水産の硬骨魚類(特にコイ科及びその類縁魚類等)の♂の体表に現れる白色で瘤(こぶ)状を成す小突起物。表皮細胞が異常に肥大・増成した二次性徴であり、その出現は性ホルモンの分泌によって促進される。追い星の機能は種類によって異なり、産卵のための巣や縄張りを作るものでは、侵入者に体をぶっつけて「追い星」で傷を与えて追いやる効果がある。また、♂が♀を突っついて性的刺激を大きくする効果も持つ。さらに、産卵中、速い流れの中で雌雄が体の接触を維持するのに役だてられる他、「追い星」によって同種又は異性の認知をすることが知られている。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)『が現れる。婚姻色は、ほとんど出ない』。『河川の下流域や湖沼の、水草が繁茂する流れの緩やかな場所に生息する。泳ぎがうまく、中層にいる事が多い』。『食性は雑食であるが、成魚になるにしたがって水草などの植物を好んで食べるようになる。田んぼなどではイネの若芽を食害することもある。その食性や顔の風貌から、「うまうお」などとよばれることもある』(この別名「馬魚」は、その強い草食性と、高く目立つ背鰭が馬の鬣(たてがみ)に似ていることによるらしい)。『産卵期は』六月~七月で、『湖岸に生えるヨシやマコモなどの葉など水面近くにある植物に、雨上がりの日の夕方から夜にかけて産卵する』。『食用にされることはほとんどなく、市場価値はほとんどない。フライフィッシングなどで釣り上げられることもあるが、本種のみを対象にして釣られることはほとんどない』。『前述したように水草を中心に食べるので、増えすぎた水草を除去するのに効果があるとされ』、『例えば琵琶湖では、増えすぎたオオカナダモなどを除去するためにワタカが放流された』りした、とある。但し、諸情報では残念ながら、琵琶湖では殆んど見られないともあった。また、「腸香」は腸(はらわた)が臭う(淡水魚は大方、そう)かららしい、という推測記載はあっても、実際に「臭い」ことを観察した記事が見られない。また、「黄鯝魚」も「鯝」の字(音「コ・ク」)は広く「魚の胃や腸」を指す漢字(国字ではない)のようである。

「ハス」前項ハス」を参照。]

譚海 卷之三 年號の文字

○年號の文字は文章博士(もんじやうはかせ)より撰進する也、菅家(くわんけ)・江家(がうけ)かわるがわる[やぶちゃん注:「わ」はママ。]撰(えら)み奉る也。年號行(おこなは)るゝ間は、年號料とて公儀より其家へ別祿を百石づつ賜(たまは)る事也。

[やぶちゃん注:「文章博士」本来は文章道(もんじょうどう:律令制に於ける大学寮の一学科で主に中国の詩文及び歴史を学んだ)を担当した大学寮の教官。神亀五(七二八)年令外官として、儒家の経書(けいしょ)講究の明経(みょうぎょう)道から分離して設置された。定員一人。奈良時代末に淡海三船(おうみのみふね)が大学頭兼文章博士に任ぜられて以来、急速に権威が高まり、弘仁一一(八二〇)年には従来の正七位相当から従五位下相当の官となった。承和元(八三四)年の紀伝博士の廃止により、文章博士の定員は二人となり、この頃から天皇・皇太子の侍講をも兼ねるようになった。九世紀末から菅原・大江両氏の独占となったが、貴族社会の衰微とともに形式化した官職になり下がった。唐名を「翰林学士」と称する(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

甲子夜話卷之五 28 林氏、刀劍用所の説

 

5-28 林氏、刀劍用所の説

林氏前條を看て云ふ。技術の人を助くるは少からざることなれども、眞劍の勝負に至りては其人に存する故、しかあるべきことなり。況や戰鬪の鎗と云ものは、扣きふせる位のこと多きなるべし。昔血戰を經し御旗本衆、其名は忘たり。太平の後、途中にて狼籍者に出逢、拔合せて斬たるとき、殊の外切あしく、やうやうにして切留たり。其佩刀軍陳[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。「陣」。]の度ごとに用ひし所の物なりしが、自身も此時に至り、始めて其刀の切あしきに驚きて、出陳の時は甲胃の上より扣き伏せる所を第一に用ひて、いつも利方ありしが、素肌を立派に切んとしては用方違ふ故に、既に不覺を取んとせしと云しとなり。武器も素肌物と甲胃物とは、銕味の利方別なるべし。其用ひ方も同じ。是等心得あるべきことなりと云けり。

■やぶちゃんの呟き

「林氏」さんざん出て来たが、年初なので再掲する。以後は基本、附さない。江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「林述斎」によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。

「用所」「もちひどころ」と訓じておく。

「前條」「5-27 本多中書、老後學鎗事」

「其人に存する」その人の人品や精神的な部分に結び付いた力量の謂いであろうか。

「扣きふせる」「たたきふせる」鎗の実際の戦場での実践的用法としては、実は突くよりも、距離を持った相手を威嚇し、突かずに振り下ろして、敵を地面に叩き伏せて(あわよくばそこで突いて引いて)外傷や致命傷を与えるという実用例の方が実は多いということらしい。

「切あしく」「きれ、惡しく」。長刀の切れ味が異様に悪く。

「切留たり」「斬りとめたり」。

「いつも利方ありしが」その大刀は常に白兵戦で、身に甲冑を着込んだ武士を、甲冑ごと、バラリ! ズン! と唐竹割するようなブッ斬るやり方に使い、常に実行効果があったが。

「切ん」「きらん」。

「用方」「もちひかた」。

「取ん」「とらん」。

「銕味」「てつみ」。鉄の性質。

「利方」「りかた」。有利な方法。利のある側。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(63) 封建の完成(Ⅰ)

 

  封建の完成

 

 日木の文明がその發達の極限に達したのは、德川幕府の末期――現今の政體にうつる直ぐ前の期間――であつて、それ以上の發展は社會の改造に據るの他不可能であつた。此完成の狀態は、以前から存在して居た狀態をくし、明確にすることを、主に現はしたもので、基本的變化としては殆ど何もないのである。協同の古來の制的制度が以前よりも一層められ、儀式的因習のあらゆる細微な條件が、以前よりも容赦なく嚴正に固執された。是より先き立つた時代には、此時に比して遙かに苛酷な處はあつたが、併しこれほど自由の缺如した時代は未だ曾て無かつた。併しながら斯く制限を增大した結果にも道德的の價値が無い譯ではなかつた。個人の自由が個人の利益となり得る時代は、まだ遙かに遠かつた。そして德川の統治の父の如き制は、國民性に於て最も目に附くものの多くを發達させまたそれをめる助けをした。幾百年の戰亂は、これ以前には、其國民性のもつと微妙な諸性質を修養する機會を餘り與ヘなかつた。其諸〻の性質とは嫻雅[やぶちゃん注:「かんが」。優雅。「嫻」も「みやびやかなさま」。]、飾り氣のない溫情、後に至つて日本人の生活に實に稀代の魅力を與へた生に就いての喜である。併し昌平[やぶちゃん注:「しやうへい」。国家の勢いが盛んで、世の中が平和なこと。「太平」に同じ。]二百年の鎖國の間に、此の人間味のある天性の侵雅にして魅力に富んだ方面が開發される機會を得たのである、そして法律習慣のいろいろな制限はまたその開發を促進せしめ、且つそれに奇異な形態を與へた、――たとへば園丁の倦む事を知らぬ技術が、菊花を百千の風變りな美しい形に進化させるやうなものであつた。……壓迫を蒙つた一般の社會的傾向は、窮屈に向つたけれども、抑制は道德的及び美的の修養に對する餘地を特殊の方面に殘した。

 此社會狀態を了解するには、其法律的方面に於ける統治者の父の如き統治の性質を考察する事が必要であらう。近代人の想像からすれば、昔の日本の法律は堪へ難い程嚴酷なものと思はれるのは尤もな次第であるが、併し彼等の行政は、實際我等西洋の法律のそれ程に妥協性のないものではない。其上、最上級から最下級まで、あらゆる階級を重く壓しては居たけれども、法律上の重荷は、負擔者の各自の力に相應するやうにされて居た、則ち法の適用は社會的階級が下れば下るに從つて漸次寬大になつて居たのである。少くとも理論上では、上古から貧乏人や不幸者は憐憫を受ける資格があると考へられて居り、それ等に對しては能ふ[やぶちゃん注:「あたふ」。]限りの慈悲を示す義務が、日本の現存の最古の法典なる聖德太子の法律にも主張されてある。併し斯樣な差別の最も著しい例は、家康の遺訓に現はれて居る、此の遺訓は、社會が既に餘程發達して、その諸制度も餘程確立し、あらゆるその束縛も嚴重になつた時代の正義に就いての槪念をあらはして居る者である。『民は國の本なり』(遺訓第十五條)と道破[やぶちゃん注:「だうは」「「道」は「謂(い)ふ」の意で、「ズバリと言ってのけること・言い切ること」。]した此の峻嚴にして而も賢明な統治者は、賤民に對する取扱ひを寬仁にすべきことを命じた。彼はたとへ如何に高位に在るものでも、大名が法を破つて『民の災となる』(遺訓第十一條)者があれば、其の領地を沒收して是を罰する事を規定した、此の立法者の人道的精神は、犯罪に關する彼の法令、たとへば、彼が姦通の問題を取扱ふ場合の如きものに最もく示されて居る――姦通は祖先祭祀を基礎とする社會には當然最も重大な犯罪であるが、遺訓の第五十條〔農工商之妻密に他夫と通亂人倫者は當夫不ㇾ及訴出雙方可ㇾ誅ㇾ之誅一人而不ㇾ誅一人當夫之愆與不義人同し然共若又不誅して於訴出は誅共不誅共可ㇾ任當夫之願陰陽合體之人民非可ㇾ憎之科裁許者尤可ㇾ有斟酌[やぶちゃん注:表記になるべく従って訓読してみる但し、言っておくと、現行では、「家康遺訓」は偽書とされている。「農・工・商の妻、密(ひそか)に他夫と通じ、人倫を亂せし者は、當(たう)の夫、訴へ出づるに及ばず、雙方、之れを誅すべし。一人を誅して一人を誅せざるは、當の夫の愆(あやまち)〈=過ち・重大な錯誤〉にて、不義人と〈或いは「不義人に與(くみ)せしと」とも読める〉同(おな)し。然れども、若し又、誅せずして訴へ出ずるに於いては、誅すとも、誅さざるとも、當の夫の願(ねがひ)に任す一べし。陰陽の合體、之れ、人民には、憎むべきの科(とが)に非ず。裁許を至す者、尤も斟酌(しんしやく)有るべき事。」。]によつて、恥を受けた夫は不義者を殺す古來の權利を認可された、――併し、若し彼が不義者の一人だけを殺すならば、彼は相手のいづれの者とも同罪と見倣さるべきものであるといふ條項が附隨して居た。若し犯人が裁判を受ける事になると、平民の場合には特にその事件を寬大に處置すべき事を家康は勸めて居る。彼は人間の性質は元來弱い者である事を述べて、若年で單純な心の者の中には、相方が性質上墮落して居ない時ですら、一時の激情の餘りに愚行に走る場合もある事を云つて居る。併し次の條項第五十一條に、彼は上流階級の男女が同樣の罪を犯した場合には、何等の慈悲をも示すべきではないと命じて居る。彼は宣言して居る、『是等のものは、現存の規定を犯すことによつて世を騷がせるが如き事はせぬ程に心得のある人々である。故に斯かる人々が、不義不貞をはたらいて法を破る時は、容赦も相談も無く直に是を罰すべきものである。農、工、商の場合は是の場合と同じからず」〔武門仕給之男女如例式濫に不ㇾ可混雜倘有犯ㇾ法戲𪋡私淫一は速可ㇾ處罪科非ㇾ可爲斟酌與農工商不ㇾ同事[やぶちゃん注:同じく訓読する。「武門仕給(しきふ)の男女(なんによ)、例式のごとく、濫(みだり)に混雜すべからず。倘(もし)、法を犯し、戲𪋡(ぎぼく〈一応、そう読んでおく。「康熙字典」に「𪋡」は「鹿相隨也」とあるから、「睦み合い戯れる」で「性的前戯」のようなものをも含む行為か〉)私淫有れば、速(すみやか)に罪科に處すべし。斟酌爲(す)べからず。農・工・商と同じからざる事。」。]……全法典に亙つて、武士階級の場合に法の束縛を固くし、下層階級の爲めには、是を緩くする此の傾向は一樣に現はれて居る。家康は不要な處罰を力を入れて非とした。そして刑罰を屢〻行ふ事は民の非行の證據に非らずして、官吏の非行の證據であると主張した。彼の法典の第九十一條は將軍に關してすら此の事を斯く明らかに規定して居る、『皇國に刑罰處刑が夥多[やぶちゃん注:「かた」。物事が多過ぎるほどあること。夥(おびただ)しいさま。]なる時は、武士の統治者が不德にして墮落せる證據である。』〔五穀不熟は天子正道之不明也國家多刑戮は將軍武德之不肖と知て事々省我身不ㇾ可ㇾ令怠慢[やぶちゃん注:同前。「五穀の熟さざるは、天子の正道の不明なり。國家、刑戮(けいりく)すること多きは、將軍の武德の不肖と知りて、事々(ことごと)に我が身を省み、怠慢せしむべからざる事。」。]……彼に權威ある大名の殘酷或は貪婪[やぶちゃん注:「どんらん」「とんらん」「たんらん」の読みがある。ひどく欲が深いこと。貪欲。]から、農民と貧民とを保護する爲めに特殊な法令を案出した。大大名が江戶に參勤する途中、『泊に於て狼藉に及ぶ事』或は『武勳を笠に僭越の振舞をなす事』〔譜代外樣諸家之士大夫參勤交代驛路の行列堅守作法分限之外不ㇾ可華麗又悋嗇にして專驕武威不ㇾ可ㇾ惱旅館之人夫[やぶちゃん注:同前。「譜代・外樣・諸家の士大〈家士のこと。〉、參勤交代驛路の行列、堅く作法を守り、分限の外(ほか)は、華麗にすべからず。又、悋嗇(りんしよく)にして、專ら武威に驕(おご)り、旅館の人夫を惱ますべからず。」。]〕を嚴禁した。是等の大大名の公の行爲は言ふに及ばず、其の私行さへも同じく幕府の監督の下にあつて、彼等は不道德な爲めに實際處罰される事さへあつた。彼等の間の放埓に關して、立法者は、『これは叛逆とは公言せられ得ずとするも』それが下層階級に對する惡例を鎭める程度に準じ[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]て判決し處罰すべきもの(第八十八條)と規定した。眞の叛逆に就いては容赦は無かつた、此の問題に關する法律は峻嚴を極めて例外或は緩和を許さなかつた。遺訓の第五十三條はこれが最高の犯罪として認められた事を證するのである、『主を殺す臣下の罪は原則上天皇に對する大逆人の罪と同じ。彼の三親九族、最も遠緣の者に至る迄枝葉を悉〻く[やぶちゃん注:以上で「ことごとく」と読んでいるようである。]斷して是を根すべし、主を弑した[やぶちゃん注:「しいした」。]のでなく只だ主に向つて手を舉げただけの臣下の罪でも同斷である』〔臣弑ㇾ君之罪科其理朝敵に均し其從類眷屬所緣之者に至迄刈ㇾ根截ㇾ葉べし縱雖ㇾ不ㇾ弑家賴對主人於ㇾ致手抗は同科たるべき事[やぶちゃん注:同前。なお、「家賴」(「家來」のこと)はママ。「臣、君を弑するの罪科、其の理(ことわり)、朝敵に均(ひと)し。其の從類眷屬〈「從類」と「眷屬」は同義。一族及びその家来を含めた総てを指す〉・所緣の者に至るまで、根を刈り、葉を截(き)るべし。縱(たと)ひ弑せずと雖も、家賴(けらい)、主人に對し、手抗(てあらがひ)を致し於けるは同じ科(とが)たるべき事。」。]併し下層階級の間に法を行ふ事に關してあらゆる制限を行ふ精神は、此凄まじい法令とは甚ししく反對して居る。贋造[やぶちゃん注:「にせがねづくり」と訓じておく。]、放火、毒殺は實に火刑或は傑刑を正常とする罪であつた。併し普通の罪の場合には、事情の許す限り寬恕するやうに内命を授けられて居た。法典の第七十三條に云ふ、『下級の者に關する微細の點に就いては漢の高祖の廣大な慈悲を學べ』と。〔至下賤方偶之細事可ㇾ做漢高之寬仁[やぶちゃん注:同前。「下賤の方偶〈恐らくは「はうぐう」で「処し方の類い」の意であろう〉の細事に至つては、漢高の寬仁を做(なら)ふべき事。」。]更に刑事廷及び民事廷の奉行はただ、『慈善と慈悲とで著名な廉直高潔な武士の階級』から〔評定決斷所の奉行人は正道の龜鑑なり是にあつる者は委撰人品淸潔仁愛成者申付[やぶちゃん注:同前。「評定決斷所の奉行人は正道の龜鑑(きかん)〈「龜」は古代中国の亀卜(きぼく:亀の甲羅を焼いて。その割れ方から吉凶を判断した)、「鑑」は「正しい在り方を正しく映す鏡」で、二字で「人の行いの手本・模範・規範」を指す。〉なり。是れにあつる〈「充つる」〉者は委(くはし)く、人品、淸潔にして仁愛なる者を撰(えら)み、申し付くべし。」。]のみ選むとされた。あらゆる奉行はえず嚴密な監督の下に置かれた。そして彼等の行爲は幕府の密偵が規則正しくこれを報告した。

註一 則ち直に死罪にする事。

註二 身持放埓の場合には大名すら處罰せられる規定であつたけれども、家康はあらゆる惡行を法に照らして抑壓する事が當[やぶちゃん注:「たう」。]を得たものとは信じて居なかつた。此の問題に關して遺訓の第七十三條に示してある處は不思議に近代的な調子がある、曰く『游女夜發之淫局は國府の附虫として君子詩及諸典に記す不ㇾ可ㇾ無ㇾ之者也痛制ㇾ之も却而亂統不義之者日日出て不ㇾ遑刑伐』[やぶちゃん注:「虫」はママ。同前。「游女(いうぢよ)・夜發(やほつ)〈夜、辻に立って客を引く、最下級の私娼〉の淫局(いんきよく)〈場所なら、「岡場所」(江戸)「島」(大坂)で、官許以外の私娼街を指すが、後の「夜發」は、単独で、必ずしも特定の場所に限定されないから、ここは寧ろ、私娼行為(者)全般、及び、それを取り仕切っていた不法組織集団を指すと考えるべきであろう〉は國府の附虫〈寄生虫〉として君子の詩及び諸典に記す。之れ、無くてはべからざる者なり。痛く之れを制しても、却つて亂統〈よく判らぬが、正「統」な「統」率を「乱」す行為と採っておく〉・不義の者、日日(ひび)、出でて、刑伐に遑(いとま)あらず。」。]と、併し多くの城下ではかういふ家は決して許可されなかつた――これは恐らく、かかる城下には嚴峻な規律の下に維持すべき多數の軍隊が居た爲めであらう。

 

2019/01/02

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 青鸐(せいだく) (架空の神霊鳥)

 

Seidaku

 

せいだく

青鸐【音濁】

 

拾遺記云幽州之墟羽山之北有善鳴之禽人靣鳥喙八

翼一足毛色如雉行不踐地名曰青鸐其聲似鐘磬笙竽

也世語曰青鸐鳴時太平故盛明之世翔鳴藪澤音中律

呂飛而不行至禹平水土棲於川岳所集之地必有聖人

出焉自上古鐘諸鼎噐皆圖像其形銘讃至今不

 

 

せいだく

青鸐【音、「濁」。】

 

「拾遺記」に云はく、『幽州の墟羽山の北に善く鳴くの禽有り。人靣〔(じんめん)に〕鳥の喙〔(くちば)〕し、八つの翼、一足〔たり〕。毛色、雉のごとく、行くこと、地を踐(ふ)まず。名づけて「青鸐」と曰ふ。其の聲、鐘〔(しやう)〕・磬〔(けい)〕・笙〔(しやう)〕・竽〔(う)〕に似たり。「世語」に曰はく、「青鸐、鳴く時、太平なり。故に盛明の世に藪澤〔(そうたく)〕に翔(かけ)り鳴く。音、律呂〔(りつりよ)〕に中〔(あた)〕る。飛びて行(ある)かず。禹、水土を平(たひら)ぐるに至りて、川岳〔(せんがく)〕に棲む〔こととなれり〕。集まりゐる所の地、必ず、聖人、出ずる有り。上古より鐘・諸々の鼎〔(かなえ)〕の噐〔(うつは)〕に、皆、其の形を圖-像(かたど)る。銘讃〔(めいさん)〕、今に至るまでへず[やぶちゃん注:「へ」はママ。]〔と〕。」』〔と〕。

[やぶちゃん注:この「青鸐」という漢名は、中文サイトを見るに、現在、日本産のキジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii 及びその近縁種で中国に棲息する「山雉」類に与えられていた(いる)ようであるが、言わずもがな、本来は神霊鳥である。

 

「拾遺記」中国の後秦の王嘉が撰した志怪小説集。全十巻。上古より東晋に及ぶ小説稗伝の類を収めている。王嘉は隴西郡安陽県の出身で、未来を予言する能力を持つ者として知られた一種の神仙でもあったが、三九〇年頃、後秦の創建主の姚萇(ようちょう)の機嫌を損ね、誅せられた。参照したウィキの「拾遺記」によれば、『王嘉が撰した原本は散佚しているが、梁の蕭綺(しょうき)が、その遺文を蒐集して』一『書とした。その際』、『附された綺の序によれば、元来は』十九『巻で』二百二十『編であったとされるが』、「晋書」の「王嘉伝」で「拾遺録」十巻を『撰したとするのとは一致していない』し、『現行本は東晋代の話まで収めるのも、蕭綺の序に「事は西晋末におわる」とあるのと一致しない』とある。以下、最後までが「拾遺記」の記載であることは、以下の中文サイトから拾って加工した「拾遺記」巻一から明らかである(太字部)。

   *

帝堯在位、聖德光洽。河洛之濱、得玉版方尺、圖天地之形。又獲金璧之瑞、文字炳列、記天地造化之始。四兇既除、善人來服、分職設官、倫攸敘。乃命大禹,疏川瀦澤。有、有北之地、無有妖災。沉翔之類、自相馴擾。幽州之墟、羽山之北、有善鳴之禽、人面鳥喙、八翼一足、毛色如雉、行不踐地、名曰靑鸐、其聲似鐘磬笙竽也。「世語」曰、「靑鸐鳴、時太平。」。故盛明之世、翔鳴藪澤、音中律呂、飛而不行。至禹平水土、棲於川岳、所集之地、必有聖人出焉。自上古鑄諸鼎器、皆圖像其形、銘贊至今不

   *

「一足」後肢は一本しかないのである。図を参照。

「行くこと、地を踐(ふ)まず」空中を浮遊して動くのである。

「磬〔(けい)〕」中国古代の打楽器で、「ヘ」の字形をした石又は玉・銅製の板を吊り提げて、桴(ばち)で叩いて音を出す。一枚だけから成る「特磬」と、複数の磬を並べて旋律を鳴らすことが出来るようにした「編磬」があるが、後者が一般的である。八音(はちおん:儒教音楽で使われる八種類の楽器を表わす語。古代中国では楽器は「金」・「石」・「糸」・「竹」・「匏」(ほう:スミレ目ウリ科ユウガオ属ヒョウタン変種ヒョウタン Lagenaria siceraria var. gourda のこと)・「土」・「革」・「木」の八種の素材から作られるとされ、かく区分されてあった。楽器の総称を表わす「金石糸竹」という四字熟語はこれに由来する)の一つである「石」に当たるため、古代以降にも中国の雅楽では使われ続けた(ここは主にウィキの「とそのリンク先に拠った)。

「竽〔(う)〕」既出既注であるが、再掲しておく。中国の古代の管楽器の一つ。笙(しょう)に似るが、笙より大きく、音も低い。 戦国時代から宋まで使われたが、その後は使われなくなった。本邦にも奈良時代に伝来したものの、平安時代には使われなくなってしまった。「竿」(さお)の字とは異なるので注意。

「世語」中国南北朝期の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集「世説新語」のこと。「世説」とは「世間の評判」の意。

「盛明の世」正道が行われ、真智によって普く照らし出された繁栄せる太平の世。

「律呂〔(りつりよ)〕」中国・日本の音楽理論用語。「音律」のこと。中国では十二律を六律ずつの二つのグループに分けて「律」と「呂」とし、「律呂」と併記して「音律」の意に用いた。音律に関する文献は、多く「律呂」の語が題名に含まれている。日本の音楽文献の中にもこれを流用したものがあるが、本邦の雅楽では、「律」・「呂」の意味が中国の場合と違って、音階の名称になっていることもあり、両者を併記する場合でも、中国とは逆に、「呂律」ということが多い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。「呂律(おれつ)が回らない」の語源である。

「飛びて行(ある)かず」先にも出たが、飛ぶばかりで、地面に足を下ろすことはなく、歩行することはないのである。

「禹、水土を平(たひら)ぐる」古代の聖王禹は中国全土の徹底した治水事業によって世に繁栄と静謐を齎したとされる。

「川岳〔(せんがく)〕」川上の高山か。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)

 
[やぶちゃん注:ここに目次が入るが、本巻の電子化注終了時に、ここに改めて目次を電子化する(今までもそうしてきた)。]

 

和漢三才圖會卷第四十四

      攝陽 城醫法橋寺島良安【尚順】編

  山禽類

Houou

はうわう 瑞

鳳凰【俸皇】

唐音

 フヲン ハァン

本綱鳳凰狀鴻前麟後燕頷雞啄蛇頸魚尾鸛顙鴛顋龍

文龜背羽備五采高四五尺翺翔四海天下有道則見其

翼若竽其聲若簫不啄生蟲不折生草不羣居不侶行非

梧桐不棲非竹實不食非醴泉不飮其鳴中五音飛則羣

鳥從之雄爲鳳雌爲凰在天爲朱雀羽蟲三百六十鳳爲

之長故字從※※總也其種有四赤多者青多者鸞黃

[やぶちゃん注:「」=「凩」-「木」+(中央よりも上の方に一画目と二画目に接して横に「一」一画)。「本草綱目」に諸本(日・中とも)は「凡」の字で電子化しているが、少なくとも良安の字は「凡」には見えない。但し、意味としては「凡」には「総て」の意があるし、金文の「凡」はこの「」に非常に似ている。されば、「凡」でよいとも思うが、ここまで書いたのでママとする。また、「其種有四」は以下を数えても判る通り、「本草綱目」は「五」である。良安の誤写と断じ、訓読では特異的に訂した。

多者鵷紫多者鸑鷟白多者鷫【又雁属有曰鷫者與此同名異也】南思

[やぶちゃん注:「思」は「本草綱目」は「恩」で良安の筆写の誤り。ここも訓読では特異的に訂した。

州北甘山壁立千仭猿狖不能至凰巢其上惟食蟲魚

遇大風雨飄墮其雛小者猶如鶴而足差短鳳凰脚下白

物如石者名鳳凰臺其味辛平鳳雖靈鳥時或來儀候其

棲止處掘土二三尺取之狀如圓石白似卵者是也今有

鳳處未必有竹處未必ず有鳳

                  寂蓮

 夫木百敷や桐の梢にすむ鳥の千とせは竹の色もかはらし

はうわう 瑞〔(ずいえん)〕

鳳凰【〔音、〕「俸皇」。】

唐音

 フヲン ハァン

「本綱」、鳳凰は狀〔(かた)〕ち、鴻〔(こう)〕の前の、麟〔(りん)〕の後〔(うし)〕ろの、燕の頷〔(したあご)〕の、雞〔(にはとり)〕の啄〔(くちば)〕しの、蛇の頸、魚の尾、鸛〔(こふ)〕の顙〔ひたひ)〕、鴛〔(ゑん)〕の顋〔(うはあご)〕、龍の文〔(もん)〕、龜の背、羽(はね)に五采を備へ、高さ、四、五尺。四海に翺翔〔(かうしやう)〕す。天下、道有るときは、則ち、見る。其の翼、竽〔(う)〕のごとく、其の聲、簫〔せう〕たり。生〔ける〕蟲を啄(ついば)まず、生〔ける〕草を折らず、羣居せず、侶行〔(りよかう)〕せず、梧桐に非ずば、棲まず、竹の實に非ざれば、食はず、醴泉〔(れいせん)〕に非ざれば、飮まず。其の鳴くこと、五音〔(ごいん)〕に中〔(あた)〕る。飛ぶときは、則ち。羣鳥、之れに從ふ。雄を「鳳」と爲〔(な)〕し、雌を、「凰」と爲す。天に在りては「朱雀」と爲り、羽ある蟲〔(ちゆう)〕、三百六十にして鳳は之が長((をさ))たり。故に、字、「」[やぶちゃん注:「」=「凩」-「木」+(中央よりも上の方に一畫目と二畫目に接して橫に「一」一畫)。]に從ふ。「」は「總」なり。其の種、五つ有り。赤多き者、「」なり。青多き者は「鸞」なり。黃多き者は「鵷〔(ゑん)〕」、紫多き者は「鸑鷟〔(がくさく)〕」、白多き者は「鷫〔(しゆくさう)〕」なり【又、雁〔(がん)〕の屬に「鷫」と曰ふ者、有〔れども〕、此れと〔は〕、名、同じうして異〔なるもの〕なり。】。南恩州北甘山は壁立てたるごとく千仭〔(せんじん)〕、猿狖(やまざる)も至る能はず。凰、其の上に巢くふ。惟だ蟲魚を食ひ、大風雨に遇へば、飄(ひるがへ)り、墮〔(お)〕つ。其の雛、小さき者〔にても〕、猶ほ鶴のごとくにして、足、差(やゝ)短し。鳳凰、脚の下に白き物あり、石のごとくなる者〔にして〕、「鳳凰臺」と名づく。其の味、辛、平。鳳、靈鳥と雖も、時に或いは來儀〔(らいぎ)〕す。其の棲み止まる處を候〔(うかが)〕ひて、土を掘ること、二、三尺にして、之れを取る。狀、圓〔まろ)〕き石のごとく、白くして、卵に似たる者〔なり〕。是れや、今、鳳有る處、未だ必ずしも竹有らず、〔また、〕竹有る處、未だ必ずしも鳳有らず。

                  寂蓮

 「夫木」

   百敷〔(ももしき)〕や桐の梢にすむ鳥の

      千とせは竹の色もかはらじ

[やぶちゃん注:「鳳凰」中国古代に想像された瑞鳥。小学館「日本大百科全書」を引いておく。『鳳凰は麒麟』・『亀』・龍『とともに四霊の一つに数えられ、徳の高い君子が天子の位につくと出現するというめでたい禽鳥』『と考えられた。たとえば、太古の聖帝である黄帝』『が天下を治めたときには宮廷に鳳凰が飛来し、麒麟が郊外で戯れたと伝えられ、同じく聖帝の』一『人である舜』『の治世にも、ふたたび』、『鳳凰が現れたとされている』。梧桐(ごとう)(現行ではアオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex を指すが、これは現在のシソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa であった可能性も排除出来ない)『の木に宿り、竹の実を食べ、醴泉』『を飲むと伝えられ、雄を鳳、雌を凰と分けて称することもある。鳳凰の姿は麒麟や竜と同様、時代が下るにつれてすこぶる奇怪な姿となって』ゆき、「山海経」によると、『鳳凰の外形はニワトリのようで、羽毛は五色に彩られ、体の各部にはそれぞれ』、首に「徳」の字が、以下、翼に「義」、背中に「禮」、胸に「仁」、腹部に「信」の『字が浮かび出ていたという。鳳凰が多色の鳥と考えられたのは、中国にもたらされたクジャクの影響によるとする説もあるが、鳳の字がすでに殷』『代の甲骨文字にみえ、風の神として祭祀』『の対象となっていることから、これが鳳凰の原型と思われる』とある。また、ウィキの「鳳凰」によれば、『殷の時代には風の神、またはその使者(風師)として信仰されていたといわれ』、『また』、『「風」の字と、「鳳」の字の原型は、同じであったともいわれる』とある。『後世、中国と日本ではそのデザインに変化が生じ』、『現代の中国では一般に、背丈が』十二~二十五尺(三・六四~七・五七メートル)もの『大きさがあり、容姿は頭が金鶏、嘴は鸚鵡、頸は龍、胴体の前部が鴛鴦』(おしどり)『後部が麒麟、足は鶴、翼は燕、尾は孔雀とされる』のに対し、『日本では一般に、背丈』は四~五尺(一・二一~一・五一メートル)ほどの遙かに現実的なもので、『その容姿は頭と嘴が鶏、頸は蛇、胴体の前部が麟、後部が鹿、背は亀、頷は燕、尾は魚であるとされる』。「詩経」「春秋左氏伝」「論語」などでは『「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞獣(瑞鳥)のひとつとされ』、「礼記」には『麒麟・霊亀・応竜とともに「四霊」と総称される』。『鳳凰は、霊泉(醴泉』『)だけを飲み』、六十年~百二十『年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食物とし、梧桐の木にしか止まらないと』する。「詩経」の「大雅」の「巻阿」の一節に、

 鳳凰鳴矣

 于彼高岡

 梧桐生矣

 于彼朝陽

 菶菶萋萋

 雝雝喈喈

   鳳凰 鳴けり

   彼の高き岡に

   梧桐 生ず

   彼の朝陽に

   菶菶(ほうほう)萋萋(せいせい)

   雝雝(ようよう)喈喈(かいかい)

と出(「菶菶萋萋」は「草木が豊かに繁茂するさま」の擬態語的表現であり、「雝雝喈喈」は「鳥が穏やかに静かに囀るその声」という擬声語的表現と思われる)。本文にもある通り、「鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず、竹実にあらざれば食はず」ともされる(「晋書」「魏書」に拠る)。「説文解字」では、『「東方君子の国に産し、四海の外を高く飛び、崑崙山を過ぎ、砥柱で水を飲み、弱水で水浴びをし、日が暮れれば風穴に宿る」とも記された』。唐代の「酉陽雑俎」には、『骨が黒く、雄と雌は明け方に違う声で鳴くと記』され、本文で引くように、「本草綱目」では「羽ある生物の王」『であるとされる』。『鳳凰の卵』(恐らくは本文の「鳳凰臺」と同一物と考えられる)『は不老長寿の霊薬であるとされるとともに、中国の西方にあるという沃民国(よくみんこく)やその南にある孟鳥国(もうちょうこく)にも棲むといわれ、その沃民国の野原一面に鳳凰の卵があると伝えられ』、『また』、『仙人たち(八仙など)が住むとされる伝説上の山崑崙山に鳳凰は棲んでいるともいわれる』。『鳳凰の別名としては、雲作、雲雀、叶律郎、火離、五霊、仁智禽、丹山隠者、長離、朋、明丘居士、などがある。黄鳥・狂鳥・孟鳥・夢鳥なども鳳凰と同一とする説もある』。以下、本文にも出る「鳳凰の種類」の項。『これらの種類分けは理論的・空想的なものであって、実際の装飾や図像表現においては鳳凰と精確に区別されることが無くほとんど同形同一のものであり』、鳳を含めて五種あるとする鸑鷟・鵷鶵・青鸞・鴻鵠(これは本文にはないから、六種以上がいることが判る)『などが鳳凰と別のものか同じものかをめぐる厳密な議論はあまり意味がない』。『鸞(らん)は、鳳凰の一種で青いものをさすとも、鳳凰は赤いのに鸞は青いから別のものともいう』。「淮南子」に『よれば、応竜は蜚翼を生み』、『鳳凰が鸞鳥を生んだとされている、鳳凰は鸞鳥を生み』、『鸞鳥が諸鳥を生んだとされている。唐の』「初学記」(七二七年成立)に『よれば、鸞とは鳳凰の雛のこととされる。また「和漢三才図会」では(この後三番目に「鸞」が独立項として出る)この「鸞」を『実在の鳥とし』、「三才図会」からの『引用で、鸞は神霊の精が鳥と化したものとする。また鳳凰が歳を経ると鸞になるとも、君主が折り目正しいときに現れるとしている』。『またその声は』五『音の律、赤に』五『色の色をまじえた羽をたたえているとされ、鳳凰と区別し難い』(最後の「鳳凰と区別し難い」の部分は「三才図会」には書いてない。また、良安自身は「鸞」を「神霊の精が鳥と化したもの」と信じていたわけではなく、近世になって外国から輸入され、籠で飼育する麗しい色の外来種の実在する鳥としているのであって、この纏めはちょっと上手くない)。『鵷鶵(えんすう)は、鳳凰の一種で黄色いものをさすとも、鳳凰は赤いのに鵷鶵は黄色いから別のものともいう』。「山海経」では、『「鳳凰とともに住む」とあるから』、『鳳凰とは別の鳥であるが、ともに住むから習性も似ており』、「荘子」の「秋水篇」には『「鵷鶵、南海を発して北海に飛ぶ。梧桐に非ざれば止まらず、練実(竹の実)に非ざれば食わず、醴泉(甘い味のする泉の水)に非ざれば飲まず」とあるのは』、『鳳凰に類同する』。「山海経」には他にも、『五色の鳥として鳳鳥(鳳)・鸞鳥(鸞)・凰鳥(凰)の』三『種が挙げられているが』、『具体的な違いは明らかでない。鳳(ほう)はオス、凰(おう)はメスを指す』『という説もあれば、鳳凰のうち赤いのを鳳、青いのを鸞、黄色いのを鵷鶵、紫のを鸑鷟(がくさく)、白いのを鴻鵠、と色でわける説(』「毛詩陸疏広要」『)もある』とある。以下、「モデル(実在の鳥)の比定」から。『鳳凰』その他の『モデルとなった実在の鳥類について』は諸説がある。

マクジャク(真孔雀:キジ目キジ科クジャク属マクジャク Pavo muticu)・キンケイ(金鶏:キジ科 Chrysolophus 属キンケイ Chrysolophus pictus)・ギンケイ(銀鶏:キジ科 Chrysolophus 属ギンケイ Chrysolophus amherstiae)或いはオナガキジ(キジ科ヤマドリ属オナガキジ Syrmaticus reevesii)やジュケイ類(綬鶏類。キジ目キジ科ジュケイ属 Tragopanジュケイ Tragopan cabot 等)といった中国に棲息するキジ類とする説

マレー半島に棲息するキジ科 Phasianidae の大型鳥セイラン(青鸞:キジ科セイラン属セイラン Argusianus argus)とする説(吉井信照ら)

マレー半島に棲息するカンムリセイラン(キジ科カンムリセイラン属カンムリセイラン Rheinardia ocellata)とする説(鳥類学者蜂須賀正氏はケンブリッジ大学に提出した卒業論文「鳳凰とは何か」に於いて、鳳凰のモデルをカンムリセイランとし、頭が鶏に似、頸が蛇のようで、背中に亀甲状紋様があり、尾が縦に平たくて魚に似ている、といったカンムリセイランの特徴を挙げている)

ツバメ(スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica)説(中華人民共和国の神話学者袁珂(一九一六年~二〇〇一年)の説。「爾雅」の記載の「鳳凰」の別名音「エン」を「燕」と解釈したもの)

また、他に『笹間良彦は鳳凰の相似霊鳥である鸞について、キヌバネドリ目のケツァール』(キヌバネドリ目ブッポウソウ目キヌバネドリ科ケツァール属ケツァール Pharomachrus mocinno。ナワトル語:quetzalli/スペイン語・英語:quetzal:アステカの主要言語ナワトル語由来で、「大きく輝いた尾羽」の意)『が、鸞の外観についての説明に合致するという』が、同種はメキシコ南部からパナマにかけての山岳地帯の森林にのみ棲息する新大陸の固有種で、てんでお話にならない。

「鴻の前」鳳凰の前の方の形状が「鴻」(本「和漢三才図会」先行水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕での私の比定に従えば、カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris であるが、ここは「本草綱目」の引用部であるから、それに断定することは出来ない。そもそもが「鴻」(音「コウ」)は広義の「大きな白い(水)鳥」をも指す語であり、面倒なことに、狭義には現在、カモ科ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus Cygnus を指す漢字でもあるからである)のようで、という謂い。以下、十種の生物の強烈なキマイラ(Chimairaなのである。

「麟」中国の想像上の獣「麒麟(きりん)」のこと。

「燕の頷〔(したあご)〕」後の「顋〔(うはあご)〕」と対称使用されていると考えて、試みかく読んでおいた。「頷」には「したあご」の意があるが、「顋」は「あご」で、特に下顎を指す用法はない。しかし、「顋」の字は私は見るにつけ、「あぎと」と読みたくなる人間で、「あぎと」とは「魚の鰓」部分、人の「あご」なら、「頰骨(きょうこつ/ほおぼね)」=「顴骨」(私も「かんこつ」と読んでいるが、これは「けんこつ」の慣用読みである)を考えるからなのである。大方の御叱正を俟つ。

「鸛〔(こふ)〕」コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕を参照。

「顙〔ひたひ)〕」「額」。

「鴛〔(ゑん)〕」カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata

「五采」五色(ごしき)。靑・黄・赤・白・黑。

「翺翔〔(かうしやう)〕」鳥が空高く飛ぶこと。「翺」も「天翔(あまが)ける」の意。

「天下、道有るときは」世界に正しい道徳が行われている時には。

「見る」姿を現わす。

「竽〔(う)〕」中国の古代の管楽器の一つ。笙(しょう)に似るが、笙より大きく、音も低い。 戦国時代から宋まで使われたが、その後は使われなくなった。本邦にも奈良時代に伝来したものの、平安時代には使われなくなってしまった。「竿」(さお)の字とは異なるので注意。

「簫〔せう〕」現代仮名遣「しょう」。先の「笙」(歴史的仮名遣「しやう」)とは全くの別物の楽器であるので注意。竹管を使った縦吹き笛(ノンリードのフルート)であり、単管のものと、横に複数を並べて接合させた所謂「パン・フルート」型の二種がある。

「生〔ける〕蟲を啄(ついば)まず」後で、「惟だ蟲魚を食ひ」と出るのと矛盾する。まあ、引用元が異なるのであろうし、実在しない幻鳥だから、どうでもいいか。

「侶行〔(りよかう)〕せず」雌雄或いは仲間と連れ立って行くこともせず。

「梧桐」冒頭注内(太字部)で注済み。

「醴泉〔(れいせん)〕」甘い味の聖泉。中国で太平の世に湧き出るとされる。

「五音〔(ごいん)〕」既出既注であるが、再掲しておく。中国音楽で使われる五つの音程(五声(ごせい)とも称する)。「宮(きゅう)」・「商(しょう)」・「角(かく)」・「徴(ち)」・「羽(う)」の五つで、音の高低によって並べると、五音音階が出来る。西洋音楽の階名で「宮」を「ド」とした場合は、「商」は「レ」、「角」は「ミ」、「徴」は「ソ」、「羽」は「ラ」に相当する。後に「変宮」(「宮」の低半音)と「変徴」(「徴」の低半音)が加えられ、七声(七音)となり、「変宮」は「シ」、「変徴」は「ファ#」に相当する。なお、これは西洋の教会旋法の「リディア旋法」の音階に等しく、「宮」を「ファ」とおいた場合は、宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮」は「ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミ」に相当する(以上はウィキの「五声に拠った)。

「朱雀」読みは「すざく・すじゃく・しゅじゃく」。ウィキの「朱雀によれば、『中国の伝説上の神獣(神鳥)で、四神(四獣・四象)・五獣の一つ。福建省では赤虎(せきこ)に置き換わっている』。『朱雀は南方を守護する神獣とされる。中国の星座である二十八宿の神の一、先秦や道教賜る長生の神、五行』では『火の象徴、天之四霊の一』つとされる。『翼を広げた鳳凰様の鳥形で表される。朱は赤であり、五行説では南方の色とされる。中国古代』には『朱雀鳳凰、同一起源とする説や同一視されることもあり、類似が指摘されることもあり、間違われることもある。あくまで神格のある鳥であり、信仰の対象ではあるが』、『いわゆる悪魔や唯一神、列神の類ではないことが最大の特徴である』。『俳句において夏の季語である「炎帝」・「赤帝」と同義であり(黄帝と争った古代中国神話の神とは別)、夏(南・朱)の象徴である。春・秋・冬の場合はそれぞれ「青帝(蒼帝)」・「白帝」・「玄帝」と色に相応する名前があるが、夏の場合は「炎帝」しか普及していない(「赤帝」はほぼ使われておらず、「朱帝」に至っては歳時記に掲載されていない)。なお、夏のことを「朱夏」ともいう』とある。

「羽ある蟲〔(ちゆう)〕、三百六十にして鳳は之が長((をさ))たり」種数から、この「蟲」は「鳥」の意義で用いている。東洋文庫訳は『生物』に『とり』とルビを振るという裏ワザで訳している。

『青多き者は「鸞」なり』冒頭注参照。後の独立項でも再考する。

『雁〔(がん)〕の屬に「鷫」と曰ふ者、有』「広韻」は「」を「鷫なり」とし、「鷞」について「に同じ」としている。「楚辞」にも出る、古代から雁の一種を指すもの、と中文サイトにはあるのであるが、特に種や種群や類を同定した記載はない。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱 Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱 Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種と合わせた全七種)より小さい種群を総称する私は主にカモ類に見られる、次列風切付近にある緑色の金属光沢の「翼鏡」(speculum)の美しい中型個体種群を指しているのではないかと密かに思っている

「南恩州北甘山」「南恩州」は広東省。調べて見ると、広東省廉江市湛江市に甘山という地名はあるが、航空写真(グーグル・マップ・データ)を見ても、そんなとんでもない高山は認めれないので、ここではないであろう。鳳凰も架空だから、この山名もいい加減かも知れん。

「猿狖(やまざる)」「山猿」。

「其の味、辛、平」とは「本草綱目」を見ると、良安の引用の文脈通りで、「鳳凰」の肉ではなく、その「鳳凰臺」という不思議な白い石様の物の味である。

「來儀〔(らいぎ)〕」「儀」も「来る」の意で、「やって来ること」或いは「来る」ことを敬って言う語。

「候〔(うかが)〕ひて」「窺ひて」。鳳凰の巣を見つけて、注意深く観察し、巣を離れている時を覗(うかが)って。

「寂蓮」「夫木」「百敷〔(ももしき)〕や桐の梢にすむ鳥の千とせは竹の色もかはらじ」「夫木和歌抄」巻十五の「秋六」にある。校合済み。]

2019/01/01

祭りは終わったんだよ……

La fête est finie.

ここから先に

――此處――から先に何が「在る」のか
私にもようく判らぬが

まあ

何か人の思はぬ「或る」ことを仕出かしたろうといふ氣は充分してゐるぜ
阿呆な孤獨な俺もな

迎春 * 佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一一九 獅子踊歌詞集・広告・奥附 /「遠野物語」(初版・正字正仮名版)~完遂

 一一九 遠野鄕の獅子踊【○獅子踊はさまで此地方に古きものに非ず中代[やぶちゃん注:中世。]之を輸入せしものなることを人よく知れり】に古くより用ゐたる歌の曲あり。村により人によりて少しづゝの相異あれど、自分の聞きたるは次の如し。百年あまり以前の筆寫なり。

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体は一字下げで、歌詞は二行に渡る場合は二行目が二字下げになっているが、ブラウザの不具合を考えて無視して以下のように全部行頭に引き上げて示した。また、歌詞は方言を多量に含み、私の手に負えないため(柳田國男自身にも不明なものが多いと見た)、今回は注を一部の読み(本条は原典にはルビがないので、「ちくま文庫」版全集のみを参考とし、歴史的仮名遣で附した)及び疑問の例外箇所を除いて注は附さないこととした。]

    橋ほめ

一 まゐり來て此橋を見申せや、いかなもをざは蹈みそめたやら、わだるがくかいざるもの

一 此御馬場を見申せや、杉原七里大門まで

    門ほめ

[やぶちゃん注:「かどほめ」。]

一 まゐり來て此もんを見申せや、ひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白かねの門

一 門のびらおすひらき見申せや、あらの御せだい

   ○

一 まゐり來てこの御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら

一 建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也

[やぶちゃん注:「御人」は「おひと」。「ひた」はママ。無論、飛騨。]

   小島ぶし

一 小島ではひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白金の門

一 白金の門びらおすひらき見申せや、あらの御せだい

一 八つ棟ぢくりにひわだぶきの、上(かみ)におひたるから松

一 から松のみぎり左に涌くいぢみ、汲めども吞めどもつきひざるもの

一 あさ日さすよう日かゞやく大寺也、さくら色のちごは百人

一 天からおづるちよ硯水、まつて立たれる

   馬屋ほめ

[やぶちゃん注:「まやほめ」。]

一 まゐり來てこの御臺所見申せや、め釜を釜に釜は十六

[やぶちゃん注:「め釜」のみは「めがま」。]

一 十六の釜で御代たく時は、四十八の馬で朝草苅る

[やぶちゃん注:「御代」は「ごよ」。]

一 其馬で朝草にききやう小萱を苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり

[やぶちゃん注:「小萱」は「こがや」。]

一 かゞやく中のかげ駒は、せたいあがれを足がきする

[やぶちゃん注:「かげ駒」は「かげこま」。「足がき」は「あがき」。]

   ○

一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし

一 われわれはきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり

一 しやうぢ申せや限なし、一禮申して立てや友だつ

   桝形ほめ

[やぶちゃん注:「ますがたほめ」。]

一 まゐり來てこの桝を見申せや、四方四角桝形の庭也

[やぶちゃん注:「也」は「なり」。]

一 まゐり來て此宿を見申せや、人のなさげの宿と申

   町ほめ

一 參り來て此お町を見申せや、竪町十五里橫七里、△△出羽にまよおな友たつ

[やぶちゃん注:「竪町」は「たてまち」。]

【○出羽の字も實は不明なり[やぶちゃん注:この謂いから「△△」は単に判読不能字を指していることが判る。]】

   けんだんほめ

一 まゐり來てこのけんだん樣を見申せや、御町間中にはたを立前

[やぶちゃん注:「御町」は「おんまち」、「立前」は「たてまへ」。]

一 まいは立町油町

一 けんだん殿は二かい座敷に晝寢すて、錢を枕に金の手遊

[やぶちゃん注:「手遊」は「てあそび」。]

一 參り來てこの御札見申せば、おすがいろぢきあるまじき札

[やぶちゃん注:「御札」は「おふだ」。]

一 高き處は城と申し、ひくき處は城下と申す也

   橋ほめ

一 まゐり來てこの橋を見申せば、こ金の辻に白金のはし

[やぶちゃん注:「こ金」は「こがね」。]

   上ほめ

一 まゐり來てこの御堂見申せや、四方四面くさび一本

[やぶちゃん注:「御堂」は「おだう」。]

一 扇とりすゞ取り、上さ參らばりそうある物

【○すゞは珠數、りそうは利生か】

[やぶちゃん注:「珠數」はママ。「數珠」(じゆず(じゅず))のことであるが、この表記は古典でもしばしば見られる。全集は「数珠(じゅず)」。]

   家ほめ

一 こりばすらに小金のたる木に、水のせ懸るぐしになみたち

【○こりばすら文字不分明】

   浪合

[やぶちゃん注:「なみあひ」。]

一 此庭に歌の上ずはありと聞く、歌へながらも心はづかし

一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是の御庭へさららすかれ

【○雲繝緣、高麗緣なり】

一 まぎゑの臺に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く

一 十七はちやうすひやけ御手にもぢをすやく廻や御庭かゝやく

一 この御酒一つ引受たもるなら、命長くじめうさかよる

一 さかなには鯛もすゞきもござれ共、おどにきこいしからのかるうめ

一 正ぢ申や限なし、一禮申て立や友たつ、京

   柱懸り

一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない〻

[やぶちゃん注:「〻」という踊り字は正規には漢字の下に用いて、その漢字の訓を二度繰り返すのに用いるが、ここでは前の一文節或いは表紙上で繰り返すに足る詩句を繰り返すものとして読むしかない。則ち、ここは一文節でよく、「すんげないすんげない」となる。ところが厳密な一文節ではリズムが悪い箇所も多く見られ、もっと前の、囃言葉としてのソリッドな最小詞句節分、時には二文節分(それを論理的に規定することは私には出来ないが)、例えば、次の場合は「庭めぐる」を二度「庭めぐる庭めぐる」と詠んでいるようであるし、以下、「若くなるもの若くなるもの」、「ちたのえせものちたのえせもの」と読まないとおかしいだろう。]

一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻る庭めぐる〻

【○すかの子は鹿の子なり遠野の獅子踊の面は鹿のやうなり】

一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの〻

【○ちのみがきは鹿の角磨きなるべし】

一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの〻

【○ちたは蔦】

[やぶちゃん注:「蔦」は「つた」。]

一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが無れやぶろりふぐれる〻

一 京で九貫のから繪のびよぼ、三よへにさらりたてまはす

【○びよぼは屛風なり三よへは三四重か此歌最もおもしろし】

   めず〻ぐり

[やぶちゃん注:ここに限っては「めずめずぐり」ではなく、通常の「ゝ」と同じ(「〻」を「ゝ」と同じ用法をする作家は結構多い)で「めずすぐり」である。「遠野郷しし踊りの由来と紹介」というページに「雌じし狂い(めずすぐり)」とある。後注で柳田國男の注は如何にも「雌鹿(めず=めす)」「擇(す)ぐり」のように読めるが、以上のページの表記はこれは「雌鹿(めずす=めじし)」のために雄がエキサイトして「狂(ぐ)り=狂るひ」となるというのが元なのではないと思わせるし、その方が遙かに腑に落ちる。]

一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ〻

【○めず〻ぐりは鹿の妻擇びなるべし】

一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな〻

一 女鹿たづねていかんとして白山の御山かすみかゝる〻

[やぶちゃん注:「女鹿」は「めじか」、「白山」は「はくさん」。]

【○して字は〆てとあり不明】

一 うるすやな風はかすみを吹き拂て、今こそ女鹿あけてたちねる〻

【○うるすやなは嬉しやな也】

一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる〻

一 笹のこのはの女鹿子は、何とかくてもおひき出さる

[やぶちゃん注:上記の一詞は底本の組版の一行文目一杯で終わっており、前後から見ても囃し言葉から考えても、「〻」を討ち損ねたものである可能性が高いように私には思われるが、後の諸本、総て「〻」は、ない。]

一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの〻

一 奧のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候〻

一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな〻

一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの〻

一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる〻

一 沖のと中の濱す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物〻

   なげくさ

一 なげくさを如何御人は御出あつた、出た御人は心ありがたい

[やぶちゃん注:「如何」は「いかな」。]

一 この代を如何な大工は御指しあた、四つ角て寶遊ばし〻

一 この御酒を如何な御酒だと思し召す、おどに聞いしが〻菊の酒〻

一 此錢を如何な錢たと思し召す、伊勢お八まち錢熊野參の遣ひあまりか〻

[やぶちゃん注:「錢た」の「た」はママ。現行本も「た」。]

一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし

【○播磨壇紙にや】

[やぶちゃん注:「壇」はママ。現行諸本は「檀」。誤字か誤植であろう。「檀紙(だんし)」は奈良時代に出現し、常に儀式や和歌用の懐紙及び贈答の包紙に用いられてきた高級和紙である。播磨は古来からの和紙の名産地。]

一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり〻、おりめにそたかさなる

【○いぢくなりはいずこなるなり三内の字不明假にかくよめり】

 

[やぶちゃん注:以下、枠囲みで柳田國男の近作宣伝と奥附(罫入り)。画像を配し、活字部分のみを電子化する(「■」は汚損による判読不能字。他の著作の奥附で確認しようとしたが、複数当たったものの、何故か彼の住所が記載されていない)。ポイントは総て同じとした。

 

Kinkann

   柳田國男近業

後狩詞記

石神問答    聚精堂發賣

時代と農政   近刊、同上

舊日本に於ける銅の生産及其用途 近刊

[やぶちゃん注:「後狩詞記」「のちのかりのことばき」と読む。副題は「日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實」。「猪狩」は「ししがり」と読んでいるようである。明治四二(一九〇九)年三月自家版。日本の民俗学の草創期に於ける古典的作品とされる。伝統的山村の一つであった当時の宮崎県東臼杵郡椎葉(しいば)村で行われていた狩猟伝承の実態を記録した内容で、狩り言葉やその作法の他に、狩猟儀礼伝書(洪水で消失して原本は現存しない)を活字化した「狩之巻」を付録として収載している。明治中期以後、鉄砲の普及により狩猟の方法が大きく変化したが、本書は鉄砲が用いられなかった時代の山村の生業としての狩猟の古伝を椎葉村区長椎葉徳蔵から口頭と文献によって聴き取りをし、貴重な資料集として纏めたものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全文が読める。

「石神問答」既出既注。明治四三(一九一〇)年五月刊。日本の民俗学の先駆的著書とされ、本邦に見られる各種の石像神像(道祖神・赤口神・ミサキ・荒神。象頭神等)に就いての考察を、著者と山中笑・伊能嘉矩・白鳥庫吉・喜田貞吉・佐々木繁らとの間に交わした書簡をもとに編集した特殊な構成に成るため、考証過程の変遷が辿れるが、通常の論文とは埒外の書き方となっている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全文が読める。

「時代と農政」同明治四十三年十二月、やはり同じく聚精堂から刊行。正確には公刊標題は「時代ト農政」。これは柳田國男が「全国農事会」(後の「帝国農会」)の幹事として全国各地で講演したものの集成。内容は、「一 農業経済と村是」・「二 田舍對都會の問題」・「三 町の經濟的使命」・「四 日本に於ける産業組合の思想」・「五 報德社と信用組合との比較」・「六 小作料米納の慣行」の六章から成り、農業に対する当時の官憲による強権的政策を批判し農民の自立意識を鼓舞する内容となっている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全文が読める。

「舊日本に於ける銅の生産及其用途」これは予告されながら、遂に刊行を見なかった論文である。石井正己氏の論文「『遠野物語』の成立過程(上)」(一九九四年発行『東京学芸大学紀要』所収・PDFによれば、これは「日本産銅史略」(『国家学会雑誌』明治三六(一九〇三)年十月号・十一月号及び翌年四月号連載)を『もとにした本作りを構想していたのだろう』とある。]

Tounokuduke明治四十三年六月十一日印刷

明治四十三年六月十四日發行 (實價金五拾錢)

 不

    著者兼  東京市牛込區市ケ谷加賀町二町目■十番地

 許  發行者      柳 田 國 男

         東京市本鄕區駒込千駄木林町百七十二番地

 複  印刷者      今 井 甚太郞

         東京市本鄕區駒込千駄木林町百七十二番地

 製  印刷所      杏  林  舍

         東京市本鄕區龍岡町三十四番地

賣捌所 (振替口座東京三〇五八) 聚 精 堂

    (電話下谷 一六七二番)

迎春 * 佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一一五~一一八 人食いヤマハハ・糠穂と紅皿

 

一一五 御伽話(オトギバナシ)のことを昔々(ムカシムカシ)と云ふ。ヤマハヽの話最も多くあり。ヤマハヽは山姥(ヤマウバ)のことなるべし。其一つ二つを次に記すべし。

[やぶちゃん注:「ヤマハヽは山姥(ヤマウバ)のことなるべし」「やまんば」とも呼ぶ。本邦の奥山に棲む老女の妖怪。人を食らうと考えられていた。「鬼婆」「鬼女」と同義的であるが、これもやはり零落した山の神の成れの果てで、金太郎の母としての彼女にはそうしたユングの言う原母(グレート・マザー)としての「山母」の原形の名残が感じられる。私の老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)及びそこの「山姥」の私の注を参照されたい。但し、以下に語られる二話は極悪のそれであり、二話目は一読判るが、知られた「瓜子姫と天邪鬼」の話の天邪鬼を「ヤマウバ」にキャラクター変換したものである。] 

 

一一六 昔々あるところにトヽとガヾとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰が來てもを明けるなと戒しめ、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人爐にあたりすくみていたりしに、眞晝間(マヒルマ)にを叩きてこゝを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破るぞと嚇(オド)す故に、是非なくを明けたれば入り來たるはヤマハヽなり。爐の橫座(ヨコザ)に蹈みはたかりて[やぶちゃん注:ママ。なお、「橫座」は既に述べた通り、主人のみの座れる最上席。]火にあたり、飯をたきて食はせよと云ふ。其言葉に從ひ膳を支度してヤマハヽに食はせ、其間に家を遁げ出したるに、ヤマハヽは飯を食ひ終りて娘を追ひ來り、追々に其間(アヒダ)近く今にも背(せな)に手の觸(フ)るゝばかりになりし時、山の蔭にて柴を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隱してれよと賴み、苅り置きたる柴の中に隱れたり。ヤマハヽ尋ね來たりて、どこに隱れたかと柴の束(タバ)をのけんとして柴を抱(カヽ)えたるまゝ山より滑(スベ)り落ちたり。其隙(ヒマ)にここを遁(ノガ)れて又萱[やぶちゃん注:「かや」。]を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隱してれよと賴み、苅り置きたる萱の中に隱れたり。ヤマハヽは又尋ね來りて、どこに隱れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱へたるまゝ山より滑り落ちたり。其隙に亦こゝを遁れ出でゝ大きなる沼の岸に出でたり。此よりは行くべき方も無ければ、沼の岸の大木の梢に昇りゐたり。ヤマハヽはどけえ行つたとて遁がすものかとて、沼の水に娘の影の映(ウツ)れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。此間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋のあるを見付け、中に入りて見れば若き女ゐたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃(カラウド)のありし中へ隱してもらひたる所へ、ヤマハヽ又飛び來たり娘のありかを問へども隱して知らずと答へたれば、いんね來ぬ筈はない、人くさい香がするものと云ふ。それは今雀を炙(アブ)つて食つた故なるべしと言へば、ヤマハヽも納得(ナツトク)してそんなら少し寢(ネ)ん、石のからうどの中にしやうか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言ひて、木の唐櫃の中に入りて寢たり。家の女は之に鍵を下(オロ)し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハヽに連れて來られたる者なれば共々に之を殺して里へ歸らんとて、錐(キリ)を紅(アカ)く燒きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハヽはかくとも知らず、只二十日鼠(ハツカネヅミ)が來たと言へり。それより湯を煮立(ニタ)てゝ燒錐[やぶちゃん注:「やききり」。]の穴より注(ソヽ)ぎ込みて、終に其ヤマハヽを殺し二人共に親々の家に歸りたり。昔々の話の終りは何(イヅ)れもコレデドンドハレと云ふ語を以て結ぶなり。

[やぶちゃん注:「ドンドハレ」遠野の語り部の常套句として知られるようになった東北地方の昔話(遠い昔に起こったあり得ない話≠比較的近い時制或いは現在起っている事実らしさを持った「噂話」:本「遠野物語」には有意にこちらの「噂話」が多く含まれていることに注意が必要である。「遠野物語」は単なる古民話集ではない、当時の直近の時制の都市伝説集としての体裁部分も持っているである)の結語として知られる。Tateyaブログ「遠野世間話の「どんど晴れには、今少し達意でこれは『昔、野良仕事を終えて家に入る前に体に付いた塵や埃を掃う事から来ていると言う』とされ、『ゴミは「ドンゴ」といい、それを払い落とすから「ドンゴハライ」→「ドンドハレ」』で、『つまり』は『家に入る前に行う最後の仕事の事を指して』「これでお終い」と『いうニュアンス』で添えるらしいとある。また、東北では「頑張れ」を「ドンドハレ」とも言うともあった。私は「ハレ」は「祓ふ」或いは「晴れ」で、異界の話を含む内容を語った後にそれを聴いた者たちにその「穢(けが)れ」が至らぬように、「祓った」或いは「晴れよ!」と穢れを去る呪文として認識していたが、どうもそんなのは私の深読みに過ぎなかったらしい。 

 

一一七 昔々これもあるところにトヽとガヽと、娘の嫁に行く支度を買ひに町へ出で行くとてを鎖(トザ)し、誰が來ても明けるなよ、はアと答へたれば出でたり。晝の頃ヤマハヽ來たりて娘を取りて食ひ、娘の皮を被(カブ)り娘になりて居(ヲ)る。夕方二人の親歸りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、ゐたます、早かつたなしと答へ、二親は買ひ來たりし色々の支度の物を見せて娘の悅ぶ顏を見たり。次の日夜(ヨ)の明けたる時、家の鷄羽(ハ)ばたきして、糠屋(ヌカヤ)【○糠屋は物おきなり[やぶちゃん注:籾糠(もみぬか)などを貯蔵して置く場所の意である。]】の隅(スミ)ツ子(こ)見ろぢや、けゝろと啼(な)く。はて常に變りたる鷄の啼きやうかなと二親は思ひたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハヽのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするとき又鷄啼く。其聲は、おりこひめこを載せなえでヤマハヽのせた、けゝろと聞(キコ)ゆ。之を繰り返して歌ひしかば、二親も始めて心付き、ヤマハヽを馬より引き下(オロ)して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有りたり。 

 

一一八 紅皿缺皿(ベニザラカケザラ)の話も遠野鄕に行(オコナ)はる。只缺皿の方はその名をヌカボと云ふ。ヌカボは空穗(ウツボ)のことなり。繼母(マヽハヽ)に惡(ニク)まれたれど神の惠ありて、終に長者の妻となると云ふ話なり。エピソードには色々の美しき繪樣(ヱヤウ)あり。折あらば詳しく書記すべし[やぶちゃん注:「かきしるすべし」。]。

[やぶちゃん注:「紅皿缺皿(ベニザラカケザラ)」所謂、「継子(ままこ)いじめ」の昔話の一つ。姉の「欠皿」(名前)は継子で美貌、妹の「紅皿」は実子で醜かったので、継母は姉を憎み、これを殺そうとするが果たせず、姉は高貴な人の妻となり、母と妹は哀れな死を遂げるという話。江戸時代には多くの小説や浄瑠璃・歌舞伎などの題材となった。ツイッター情報では、遠野では「糠んぼ紅ざら」という名で広く伝わり、『継母に憎まれているヒロインの糠んぼが』、『神のめぐみによって最後には長者の妻になるという話で、歌の才能を競ったり』、『山姥から大小のつづらをもらうなど、話には少しバリエーションがある』るとあったが、当該話を探し出すことが出来なかった。判ったら、追記する。

「ヌカボは空穗(ウツボ)のことなり」よく意味が判らぬ。「うつぼ」で継子いじめの「宇津保物語」を暗に指すというのは如何にもという感じだ。「ヌカボ」は単子葉植物綱イネ科イチゴツナギ亜科カラスムギ連ヌカボ属ヌカボ
Agrostis clavata var. nukabo
で、これは小穂が小さく、糠(ぬか)のように微細であることに由来する和名であるから、中身がないように見える穂で「空穂」と言っているとすれば、それは食用にならない役立たずの子の名なのではあるまいか?

迎春 * 佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一一四 ダンノハナの謎の瓶

 

一一四 山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽ゑめぐらし其口は東方に向ひて門(モン)口めきたる所あり。其中程に大なる靑石あり。曾て一たび其下を掘りたる者ありしが、何物をも發見せず。後再び之を試みし者は大なる瓶[やぶちゃん注:「かめ」。]あるを見たり。村の老人たち大いに叱(シカ)りければ、又もとのまゝに爲し置きたり。館(タテ)の主の墓なるべしと云ふ。此所に近き館の名はボンシヤサの館と云ふ。幾つかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り廻(メグ)らせり。寺屋敷砥石森(トイシモリ)など云ふ地名あり。井の跡とて石垣殘れり。山口孫左衞門の祖先こゝに住めりと云ふ。遠野古事記に詳かなり。

[やぶちゃん注:「山口のダンノハナ」一一一で注したが、再掲しておく。遠野市土淵町山口のダンノハナは、知られた「デンデラ野」(佐々木喜善の生家の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ))の近くで(踏破者の記事によればある所では数分で着くとある)で「デンデラ野」に遺棄して死んだ者の埋葬地であったらしい(後の追加・訂正注を参照されたい)、現在、文字通りの共同墓地となっており、佐々木喜善の墓もここにあるdostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語114(ダンノハナ)」』によれば、この『文中に登場する』奇体な名の『ボンシヤサ館は梵字沢館(別名 大洞館)と記す。「遠野市における館・城・屋敷跡調査報告書」においては、館主等は一切不明であるようだ。もしかして貞任山の開発の拠点となった場所では無いかと云う事らしい。そして、ダンノハナである山口館とは関係が無さそうである』とある。何らかの中古の豪族の館があったのかも知れないが、私はそこにはもっとずっと以前、「一一二」に示された通り、ここに縄文人・弥生人が住んでいた以上、その「大なる瓶」とは(開けたと書いていないことがミソ)実はまさにダンノハナの「山口Ⅰ遺跡」の推定年代と完全に一致する、縄文後期・晩期の遺跡から多く出土し始める甕棺墓だったのではあるまいか? 現在では東北から近畿・九州に至る広範囲で甕棺墓の葬送風習があったことが判っているのである。【二〇二三年六月二十六日追記・訂正】工藤茂氏の論「村田喜代子『蕨野行』考」(『別府大学国語国文学』第四十四・二〇〇二年十二月発行・PDF)によれば、この『文中にある《蓮台野》は「れんだいの」ではなく「でんでらの」と呼ばれている所で『注釈 遠野物語』』(後藤総一郎監修・遠野常民大学編著、九七年八月二〇日筑摩書房刊)『に《蓮台野の字は柳田があてたものと思われる》と注されている。柳田はハスのウテナ(仏の台座)の意を込めて蓮台の字を当てたのであろうか』。『鈴本案三編の「遠野物語拾遺」』の『二六六には〈青笹村の字糠前と字善応寺との境あたりをデンデラ野又はデンデエラ野と呼んで居る》とあり、次の伝承を記載している』として、当該部「二六六」、及び、「二六八」を引用された上(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年郷土研修者刊の「遠野物語 増補版」のそれぞれの当該部)、佐々木喜善の「聴耳草紙」の一三五番の「老人棄場」を紹介された上で、『遠野物語』の〈蓮台野〉は「レンダイ野」ではなく「デンデラ野」「デンデエラ野」あるいは「デエデアラ野」と呼ばれていたことが分かる』と述べておられる。則ち柳田は勝手にありもしない「蓮台野」という名を創り出し、同一地区に存在した老人を遺棄した「デンデラ野」=「デンデエラ野」=「デエデアラ野」を出さず、私を含めた多くの読者をあたかも、そうした場所が別にあったかのように思わせる、民俗学者として、あってはならない名称捏造をしたのであった。「一一二」でも同じ追記・訂正をしたので、ここにも同じものを載せた。

「うつ木(ギ)」既出既注であるが、再掲しておく。ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ
 Deutzia crenata。和名は「空木」で、茎が中空であることからの命名であるとされる。卯の花(うのはな)はウツギの花の別称。「卯の花をかざしに關の晴着かな 曾良」。私はウツギの花が好きだし、かくあればこそ東北と卯の花はよく似合う。

「山口孫左衞門」一八で「ザシキワラシまた女の兒なることあり。同じ山口なる舊家にて山口孫左衞門と云ふ家には、童女の神二人いませりと云ふことを久しく言傳へたりし」と出た旧家の旧当主。

「遠野古事記」遠野南部氏の家士宇夫方(うぼかた)広隆撰著。上中下の全三巻。元禄元(一六八三)年春に『遠野に生まれ、通称を平太夫、又は宗右衛門と言った。幼いころから江田勘助の元で学び、詩文和歌に優れる一方で武芸を嗜み、兵法・砲術・弓・馬・刀・槍の全てを極めたと言われている。遠野の昔の歴史や風俗、伝説や噂話のような雑事を集めて』宝暦一二(一七六二)年に書き終え、「遠野旧事記」(「多賀城物語」という『名もあるらしいが定かではない)と名づけたが、翌年に足りない部分を付け加え、誤りを訂正して、改めて』「遠野古事記」という『題名をつけた』と、遠野文化研究センター公式サイト内にあった。]

迎春 * 佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一一三 シヤウヅカ森

 

一一三 和野にジヤウヅカ森と云ふ所あり。象を埋めし場所なりと云へり。此處だけには地震なしとて、近邊にては地震の折はジヤウヅカ森へ遁げよと昔より言ひ傳へたり。此は確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。之を掘れば祟ありと云ふ。

【○ジヤウヅカは定塚、庄塚又は鹽塚などゝかきて諸國にあまたあり是も境の神を祀りし所にて地獄のシヤウツカの奪衣婆の話などゝ關係あること石神問答に詳にせり又象坪等の象頭神とも關係あれば象の傳は由なきに非ず塚を森と云ふことも東國の風なり】

[やぶちゃん注:「和野にジヤウヅカ森と云ふ所あり。象を埋めし場所なりと云へり」ということは「ジヨウズカ」は「象塚」ということになる。無論、これは実際の象ではなくて、柳田國男の注に出る象の頭部を持った歓喜天の像、即ち、「象」の頭を持った「像」を埋めた「塚」ということに成ろう。さらにdostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」-「遠野物語」をwebせよ!-』の『「遠野物語113ジャウヅカ森を読むと、『確かに、この』現存する『ジャウヅカ森には塚があり、石が立っている』(リンク先に写真有り)。『墓といえば墓なのかもしれない。ここは以前、天台宗の寺院があった広大な土地の一部であり、所謂聖地でもあった。そういう意味では、全体的に地震が来ない地とも云われて良いのだが、この塚の場所だけ地震が来ないと云われるのは、この塚の下に埋まっている人に対する信仰みたいなものがあるのではなかろうか。中世時代に密教の呪術が流行った時、宗教に携わる者の髑髏には、その効果が絶大とされた。そういう意味合いから、恐らくこのジャウヅカ森の塚に眠る人物は、天台宗の徳の高い人物であったろうと想像する』とされつつ、しかし『近くには堀らしきも確かにあり、全体を見れば』、『天台宗の寺院というより城跡に近いものだと感じる。そしてジャウヅカ森の語源だが、先人があれこれ思索しているが、三途の川の辺にいて亡者の脱衣を剥ぎ取る葬頭河婆(ショウヅカバア)』(奪衣婆(だつえば)の方が今は知られる。三途川(葬頭河の渡しの此岸側でやってきた亡者の衣服を剥ぎ捕るとされる老婆の鬼。「葬頭河婆(そうづかば)」「正塚婆(しょうづかのばば)」「姥神(うばがみ)」「優婆尊(うばそん)」等とも称する)。『との語源の関連を指摘するものが多い。確かにショウヅカがジャウヅカに転訛したとしても、何等違和感が無い』ため、『その可能性は高いだろう。象頭(ショウズ)とも記されるが、葬頭と捉えれば、密教の呪術に髑髏を使用されたのを考えると、この塚の下に眠る聖人の能力、死んで髑髏となって』なお、『聖人の迸る霊力に頼ったものではなかろうか。葬った聖なる髑髏が宿る森、それがジャウヅカ森(葬頭ヶ森)であったのかもしれない』と非常に興味深い考察をしておられる。さすれば、「象」は「像」でもあり「僧」でもあるのかも知れない。「葬頭河」ならそのままで、高徳な僧がいたのなら「僧都が森」かも知れぬし、その人の霊力を頭蓋骨を埋めたとなら「僧頭が森」かも知れぬ。

「地獄のシヤウツカの奪衣婆の話などゝ關係あること石神問答に詳にせり」石神問答(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部分の画像)。]

迎春 * 佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一一一、一一二 驚異のダンノハナ

 

一一一 山口、飯豐、附馬牛の字荒川東禪寺及火渡(ヒワタリ)、靑笹の字中澤竝に土淵村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相對して必ず蓮臺野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此蓮臺野へ追ひ遣るの習[やぶちゃん注:「ならひ」。]ありき。老人は徒(イタヅラ)に死んで了(シマ)ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ヌラ)したり。その爲に今も山口土淵邊にては朝(アシタ)に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより歸ることをハカアガリと云ふと云へり。

【○ダンノハナは壇の塙なるべし卽ち丘の上にて塚を築きたる場所ならん境の神を祭る爲の塚なりと信ず蓮臺野も此類なるべきこと石神問答の九八頁に云へり】

[やぶちゃん注:「ダンノハナ」現在、この名称は岩手県遠野市綾織町下綾織且の鼻として残っている。ここ(グーグル・マップ・データ。但し、遠野市街からはずっと西方である)。遠野市土淵町山口のダンノハナは、知られたデンデラ野(佐々木喜善の生家の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ))のごく近くで(踏破者の記事によれば、ある所では数分で着くとある)、デンデラ野に遺棄して死んだ者を葬る墓地であったらしい。現在、文字通りの共同墓地となっており、佐々木喜善の墓もここにある。【二〇二三年六月二十六日追記・訂正】工藤茂氏の論「村田喜代子『蕨野行』考」(『別府大学国語国文学』第四十四・二〇〇二年十二月発行・PDF)によれば、この『文中にある《蓮台野》は「れんだいの」ではなく「でんでらの」と呼ばれている所で『注釈 遠野物語』』(後藤総一郎監修・遠野常民大学編著、九七年八月二〇日筑摩書房刊)『に《蓮台野の字は柳田があてたものと思われる》と注されている。柳田はハスのウテナ(仏の台座)の意を込めて蓮台の字を当てたのであろうか』。『鈴本案三編の「遠野物語拾遺」』の『二六六には〈青笹村の字糠前と字善応寺との境あたりをデンデラ野又はデンデエラ野と呼んで居る》とあり、次の伝承を記載している』として、当該部「二六六」、及び、「二六八」を引用された上(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一〇(一九三五)年郷土研修者刊の「遠野物語 増補版」のそれぞれの当該部)、佐々木喜善の「聴耳草紙」の一三五番の「老人棄場」を紹介された上で、『遠野物語』の〈蓮台野〉は「レンダイ野」ではなく「デンデラ野」「デンデエラ野」あるいは「デエデアラ野」と呼ばれていたことが分かる』と述べておられる。則ち柳田は勝手にありもしない「蓮台野」という名を創り出し、同一地区に存在した老人を遺棄した「デンデラ野」=「デンデエラ野」=「デエデアラ野」を出さず、私を含めた多くの読者をあたかも、そうした場所が二ヶ所全く別にあったかのように思わせる民俗学者として、あってはならない名称捏造をしたのであった。

「ハカダチ」「ハカアガリ」「墓立ち」「墓上り」であろうが、非常に興味深い風習である。蓮臺野」(蓮台野)は京のそれと同じく古くは風葬地であったのだろうが、そこに老いた生きた者を送るのは「姥捨て」であるにも拘わらず、「姥捨て」伝承が持つ陰惨な印象がこのシステムにはあまり臭ってこない(死臭が感じられないと言ってもよい)。「蓮台野」は死に近づいた者たちが現世で棲むターミナルではあるが、そこに遺棄されるのではなく、そこに棲むのである。しかも、日常的に最低限の糊口を凌ぐために、現実の下の里へと下って農耕を行い、なにがしかの施物を受け、蓮台野に戻るという生活を続けるのである。これを私は理想郷とは言わぬまでも、現実と異界(冥界)との乗り入れ(老人だけであるが)という奇抜で、しかも民俗社会に於ける一種の成し得べきターミナル・ケアとしてのリビング(それは同時にダイイング(死に向き合う)でもある)・ワークと些少の生命保持の報酬が与えられている点で、当時としては異様でありながら、同時に画期的とも言えるように私には思われる。

「塙」(はなわ)とは山の突き出た所や土地の小高くなっている箇所を指す語である。

「石神問答の九八頁」ここ(国立国会図書館デジタルコレクション)。] 

 

一一二 ダンノハナは昔館(タテ)のありし時代に囚人を斬りし場所なるべしと云ふ。地形は山口のも土淵飯豐のも略(ホヾ)同樣にて、村境の岡の上なり。仙臺にも此地名あり。山口のダンノハナは大洞(オホホラ)へ越ゆる丘の上にて館址(タテアト)よりの續きなり。蓮臺野は之と山口の民居を隔てゝ相對す。蓮臺野の四方はすべて澤なり【○外の村々にても二所の地形及關係之に似たりと云ふ】。東は卽ちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷と云ふ【○星谷と云ふ地名も諸國に在り星を祭りし所なり】。此所には蝦夷屋敷と云ふ四角に凹みたる[やぶちゃん注:「へこみたる」。]所多く有り。其跡極めて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出る處山口に二ケ所あり。他の一は小字[やぶちゃん注:「こあざ」。]をホウリヤウと云ふ。ここの土器と蓮臺野の土器とは樣式全然殊なり。後者のは技巧聊かも無く、ホウリヤウのは模樣(モヤウ)なども巧(タクミ)なり。埴輪(ハニワ)もこゝより出づ。又石斧石刀の類も出づ。蓮臺野には蝦夷錢とて土にて錢の形をしたる徑二寸ほどの物多く出づ。是には單純なる渦紋(ウヅモン)などの模樣あり。字ホウリヤウには丸玉管玉(クダタマ)も出づ。こゝの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮臺野のは原料色々なり。ホウリヤウの方は何の跡と云ふことも無く、狹き一町步ほどの場所なり。星谷は底の方(カタ)今は田と成れり。蝦夷屋敷は此兩側に連りてありし也と云ふ。此あたりに掘れば祟(タヽリ)ありと云ふ場所二ケ所ほどあり。

【○ホウリヤウ權現は遠野を初め奧羽一圓に祀らるゝ神なり蛇の神なりと云ふ名義を知らず[やぶちゃん注:「るゝ」は底本は「る、」であるが、全集その他で踊り字の誤植と断じ、特異的に訂した。]】

[やぶちゃん注:本条は考古学的遺跡を含め、私には非常に興味が惹かれる条であるが私の短い半可通な注を附すよりも、本条を驚くべき緻密さで解析した、黒田篤史論文「『遠野物語』に見る柳田國男の考古学的関心(リンク先からPDFでダウン・ロード出来る)を読まれるに若(し)くはない。出土品(「山口Ⅰ遺跡」。縄文後期及び晩期の土器が出土する)のリストや画像・資料記録の電子化もなされてあり、まさに本条を読み解くに、これ以上のものは望めないと断言出来る。必見!!!

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