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2019/01/19

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 軍隊

 

 

 

 ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿ ⦿

 

[やぶちゃん注:上記は二一一ページ(左ページ)中央にこれのみある前パート「艶めける靈魂」との遮断を意味する奇体な記号である。底本の「⦿」は中の黒丸が大きく、外側の円との間がもっと狭い。

 

 

 

  軍  隊

      通行する軍隊の印象

この重量のある機械は

地面をどつしりと壓へつける

地面はく踏みつけられ

反動し

濛濛とする埃をたてる。

この日中を通つてゐる

巨重の逞ましい機械をみよ

黝鐵の油ぎつた

ものすごい頑固な巨體だ

地面をどつしりと壓へつける

巨きな集團の動力機械だ。

 づしり、づしり、ばたり、ばたり

 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

 

この兇逞な機械の行くところ

どこでも風景は褪色し

黃色くなり

日は空に沈鬱して

意志は重たく壓倒される。

 づしり、づしり、ばたり、ばたり

 お一、二、お一、二。

お この重壓する

おほきなまつ黑の集團

浪の押しかへしてくるやうに

重油の濁つた流れの中を

熱した銃身の列が通る

無數の疲れた顏が通る。

 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく

 お一、二、お一、二。

 

暗澹とした空の下を

重たい鋼鐵の機械が通る

無數の擴大した瞳孔(ひとみ)が通る

それらの瞳孔(ひとみ)は熱にひらいて

黃色い風景の恐怖のかげに

空しく力なく彷徨する。

疲勞し

困憊(ぱい)し

幻惑する。

 お一、二、お一、二

 步調取れえ!

 

お このおびただしい瞳孔(どうこう)

埃の低迷する道路の上に

かれらは憂鬱の日ざしをみる

ま白い幻像の市街をみる

感情の暗く幽囚された。

 づしり、づしり、づたり、づたり

 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

 

いま日中を通行する

黝鐵の凄く油ぎつた

巨重の逞ましい機械をみよ

この兇逞な機械の踏み行くところ

どこでも風景は褪色し

空氣は黃ばみ

意志は重たく壓倒される。

 づしり、づしり、づたり、づたり

 づしり、どたり、ばたり、ばたり。

 お一、二、お一、二。

 

[やぶちゃん注:これも一箇所、問題がある。二一四ページと二一五ページは見開きであるが、その版組は二一四ページ(右ページ)が明らかに物理的に一行空けて、

   *

 

この兇逞な機械の行くところ

どこでも風景は褪色し

黃色くなり

日は空に沈鬱して

意志は重たく壓倒される。

 づしり、づしり、ばたり、ばたり

 お一、二、お一、二。

   *

であるが、その左ページの二一五ページは明らかに一行目から、

   *

お この重壓する

おほきなまつ黑の集團

浪の押しかへしてくるやうに

重油の濁つた流れの中を

熱した銃身の列が通る

無數の疲れた顏が通る。

 ざつく、ざつく、ざつく、ざつく

 お一、二、お一、二。

   *

と印字されている。即ち、版組上は、この二つのパートは続いたものとして印刷されているのである。本「靑猫」初版の一ページ行数は八行であるから、これは続いた一連を成しているとしか読めないのである。従って、上記のように電子化した。しかし、筑摩書房はここに行空けを施しており、現行の本長詩「軍隊」は総てここに行空けがある(再録された三種の詩集でも行空けがある。なお、「定本靑猫」には再録されていない)。確かに、これは全体の構成上は行空けを施して自然ではあるし、初出でも行空けがある。或いはまた、朔太郎は初刷り見本で、見開き部分で行空きがあるように感じられるから、これでよしとしたものとも思われる。それでも――正規表現版としては行空けはなし――なのである。これは――ただの拘り――されど拘り――である。朔太郎の亡霊に聴かない限りは永久に判らぬ。

 さても、初出は大正一一(一九二二)年三月号『日本詩人』であるが、有意な異同も以上のケースと絡んだような怪しげなもので、冒頭、

   *

この重量のある機械は

地面をどつしりと壓へつける

地面はく踏みつけられ

反動し

濛濛とする埃をたてる。

   *

の後に一行空けがあって、「この日中を通つてゐる」以下が第二連となっているのだが、本詩集「靑猫」では、その間は、またしても見開き改ページなのである。……「にやり」と笑って……何も語らぬ萩原朔太郎が……そこにも……居るのかも知れぬ……

 初出は他には「 づしり、づしり、ばたり、ばたり」の読点がなく、「 づしり づしり ばたり ばたり」と字空けとなっている他、「お 」が逆に「お、」と読点になっている以外には、私は有意な異同を認めない。

「黝鐵」後の複数の再録詩集で萩原朔太郎は「くろがね」とルビしている。

「兇逞」は「きようてい」(新潮文庫版で正しくルビする)で、朔太郎の造語であろう。「恐ろしまでに或いは凶悪なまでに逞(たくま)しいこと」であろう。

 なお、昭和五四(一九七九)年講談社(学術文庫)刊の那珂太郎氏の「名詩鑑賞 萩原朔太郎」の「軍隊」の鑑賞文「軍隊批判のリズム」には(太字は底本では傍点「ヽ」)、

   《引用開始》

 六つの章にまとめられた詩集『青猫』の、どの章にも入れるにふさわしい所を得ぬふうに、この作品は、⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿という奇怪な見出しのもとに一篇だけ孤立して、末尾に置かれています。たしかにこれは、「青猫」ばかりでなく彼の全作品中でも例外的なものとの印象を人に与えます。彼自身もまた詩集刊行後に書いています。「最後の一篇「軍隊」は、私として不愉快だつたから削るつもりだつたが室生犀星氏と佐藤春夫氏に激賞されたので出す気になつた。自分で嫌ひな作は人に讃(ほ)められ、自分で好きな作は人から認められない。奇体なものである。」(『青猫』追記)「不愉快」といい「嫌ひな作」というのは、この作の異質性に対する作者自身のいつわりない気持ちだったでしょう。そして「室生犀星氏と佐藤春夫氏」がどういう理由でこの作を「激賞」したかはよくわかりませんが、いずれにしろ、これを朔太郎の特異な作品として注目するのは、今日のぼくらの自由です。[やぶちゃん注:後略。]

   《引用終了》

とある。この朔太郎の言葉はネット上のサイト「恩田世界」の「『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』の創作のモティーフの中にも、

   《引用開始》

この「軍隊」という詩は、『青猫』の最後に一編だけ浮き上がったような形で置かれている。これをのぞくすべての詩が浪漫的・叙情的な色合いをもっているので、詩集全体としてとらえると奇異な感じを抱かざるを得ない。さらにこの詩は、他の詩の「片恋」「夢」「春宵」といった浪漫的な題名とは大きく異なっているばかりでなく、題名の前に「◎◎◎」というような意味不明の記号が九つも醜く並んで置かれているのである[やぶちゃん注:ママ。]。この記号の意味するものが果たして軍隊なのか、それとも別の意味合いを持っているのかはわからないが、朔太郎自身はこの詩をあまり気に入っていなかったようだ。彼は、『青猫』の追記の中で、「最後の一編『軍隊』は、私として不愉快だったから削るつもりだったが、室生犀星氏と佐藤春夫氏に激賞されたので出す気になった。自分で嫌いな作は人に誉められ、自分の好きな作は人から認められない。奇体なものである」と書いている。この場合、朔太郎がこう述べたのは、おそらく一冊の詩集としては統一性に欠けるという意味であったろう。他の作品がすべて先に述べたように浪漫的で非現実的な美しい世界をあらわしているのに対して、この作品はきわめて現実的な醜い世界を恐ろしいまでのリアリティーを備えて表現されている。

   《引用終了》

と引かれてあるのであるが、不思議なことに、「『靑猫』追記」「『靑猫』の追記」という文章は、筑摩書房版「萩原朔太郎全集」(全巻所持)の昭和五三(一九七八)年刊の第十五巻の「索引」にも、後の一九八九年の二月に刊行された「補卷」(この一書のみを所持)の「索引」にも、載らないし、これが記されていてもいいような題名の文章をつまびらいて見ても、ない、のである。どなたかご存じの方は正式な標題か、以上の二氏が引いている元を御存じの方は御教授願いたい。

 なお、私は、本詩篇が〈軍隊の持つ非人間的機関性〉を痛烈に揶揄している、広義の「反戦詩」であるという大方の捉え方に異存はない。だからと言って、この詩を以って萩原朔太郎を「反戦詩人」であったとも全く思わないことは言い添えておく。そもそも「反戦詩人」というのは「境涯の俳人」などと同じく、胡散臭いニュアンスをさえ感ずる。金子光晴の「落下傘」を以って金子を「反戦詩人」と称賛するような輩とは私は天を同じうしない者である。]

 

 

 

詩 集 靑  猫  

 

[やぶちゃん注:上記は二二〇ページ(右ページ)に最終行(前は空白で、長詩「軍隊」は二一九ページで終わっている)にただ一行配されてある。]

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