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2019/01/30

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(11) 「河童ノ詫證文」(2)

 

《原文》

 河童敗衄ノ記錄ハ右ノ外ニモ猶多シ。【水邊ノ牧】例ヘバ同ジ長門ノ大津郡向津具(ムカツグ)村ハ出島ナリ。村ニ杉谷池ト云フ池アリ。每年領主ノ馬ヲ預リテ此池ノ堤ニ野飼スルヲ例トス。又河童アリ。手續ハ型ノ通リニシテ馬ニ引摺ラレテ厩ノ中ニ轉ゲ込ム。【手印】隣人等集リ來リ、後代ニ至ルマデ向津具一庄ノ中ニ住ムマジキ由ノ券文(ケンモン)ヲ代書シ、彼ガ手ニ墨ヲ塗リテ之ヲ押サシメテ放シ還ス。此ガ爲ニ庄内ニ河童永ク跡ヲツト云フ。貞享年中ノ出來事ニシテ、其證文ハ少クトモ寬政ノ頃マデ村ノ産土(ウブスナ)ノ社ニ之ヲ藏メタリキ〔蒼柴園隨筆〕。河童ガ無筆ニシテ代書ヲ必要トセシコトハ無理モ無キ話ナリ。【河童自筆】然ルニ或地方ニテハ其證書ヲ以テ彼ガ自筆ニ成ルモノヽ如ク傳フ。現ニ江戸深川入船町ニ於テモ斯ル例アリ。安永年間ノコト也。或男水ヲ泳ギ居タルニ、河童來リテ害ヲ加ヘントシ、亦捉ヘラレテ陸ニ引上ゲラル。三十三間堂ノ前ニテ打殺サントセシヲ、見物ノ中ニ仲裁ヲ試ミタル人アリ。河童詫證文ヲ出シテ宥サル。其一札ニハ以來此邊ニテ一切害ヲ爲スマジキ由ノ文言アリ。【手印】且ツ河童ノ手判ヲ墨ヲ以テ押シタルモノナリキト云フ〔津村氏譚海〕。【河童角力】九州ハ肥前佐賀ノ藩士大須賀道健ガ被官、佐賀鄕百石村ノ某ト云フ者、東淵ト云フ處ヨリノ歸途ニ、一人ノ小僧來リ逢ヒ強ヒテ角力ヲ取ランコトヲ求ム。某之ヲ諾シテ取組ミシニ、負ケナガラ段々ト水ノ方ニ近ヨル。サテハ河童ト心ニ悟リ、此物人間ノ齒ヲ怖ルヽコトヲ豫テ知リタレバ、早速ニ其肩ノアタリニ嚙附ケバ、聲ヲ立テヽ水底ニ遁レ去ル。其夜河童ノ來リテ家ヲ繞リテ哀號スルコト、他國ニテ腕ヲ斬ラレタル場合ト同ジク、何トゾ此傷ヲ治シテ下サレヨト云フ。其仔細ヲ聞クニ、嚙ミタル人ガ手ヲ以テ其疵ヲ摩ルニ非ザレバ到底癒ヘヌモノト見エタリ。汝若シ此近邊ノ人ヲ取ラズト誓フナラバ其請ヲ允スべシト云ヘバ、河童欣々トシテ敬諾シ、終ニ紙ヲ乞ヒテ券ヲ作リ手印ヲ押シテ之ヲ差出ス。汝ガ如キ者ニハ手ヲ汚スヲ欲セズ、足デ澤山ナリト威張リ足ヲ展バセバ、ヌルリトシテ觸ルヽ所アリト云フ話ナリ。此券文モ永ク勇者ガ家ニ傳ハレリ。其體略文字ノ如クナレドモ讀ミ難シトナリ〔水虎考略後篇〕。【化物文書】此話ナドハ取分ケ虛誕ラシケレド、天狗ノ書ト云ヒ狸ノ自筆ナド稱スルモノ諸國ニ例多ケレバマダ何トモ申シ難シ。播州佐用郡ノ某地ニ一種ノ骨繼藥ヲ出ス舊家アリ。此家ト緣故アル河童ノ如キハ、前者ニ比シテハ稍正直ニ見ユ。【野飼】此ハ寶永中ノコトト稱ス。七月下旬ノ殘暑ノ勞ヲイタハルトテ、愛馬ヲ野飼ノ爲ニ川邊ニ出シ置キシニ、此亦綱ノ端ニ河童ヲ引摺リテ厩ニ走リ入ル。【猿】仲間怪シミテ往キ見ルニ、厩ノ片隅ニ猿ノヤウナル物手綱ヲ身ニ搦メテ居リ、駒ハ向ウ[やぶちゃん注:ママ。]ノ方ニテ息ヲ繼ギ居タリ。其物ヲ熟視スレバ猿ニ似テ猿ニ非ズ、頭上ニ窪ミアリテ髮ハ赤松葉ノ如ク也。【河童ノ手】旦那歸リテ此始末ヲ聽キ大ニ怒リ、此川原ニテ折々人ヲ取ルハ必定汝ナルべシト、忽チ脇差ヲ拔キテ河童ノ手ヲ切落ス。河童シホシホトシテ、ドウカ命ヲ助ケ給へ、今ヨリ此村ノ衆ニハ指モ差シ申スマジト言ヘバ旦那、其方ヲ殺シタリトテ手柄ニモ非ズ、宥シ遣ハスべシ詫證文ヲ書ケトアリ。【河童藥】私ハ元來物書クコトモナラヌ上ニ、手ヲ御切リ成サレタレバ愈以テ書ケマセヌ。御慈悲ニ免シ給ヒ其手モ返シテ下サレ、持ツテ還ツテ藥デ繼ギマスト云フ。旦那思慮ヲ廻ラシ其藥ハ己ガ調合スルノカト問ヘバ、ナル程拵ヘ申スト答フ。然ラバ手ヲ戾シ助クルニヨリ其藥方ヲ我ニ傳ヘヨ。命ノ代リナレバ安キ御事ト、人ヲ拂ハセテ備ニ祕法ヲ口授シテ去ル。其法甚ダ奇ニシテ子孫勿論之ヲ相續スト云ヘリ〔西播怪談實記〕。【河童ノ手】此一條ニ由ツテ察スルニ、詫證文ト藥方ト片腕トハ、河童ノ主觀ニ在リテハ兎モ角モ、人間ニ取ツテハ其價値略同等ナリキトオボシ。證文ガ書ケズバ祕傳ヲ、片手ガ欲シケレバ藥方ヲト云フ中ニモ、手ハ河童ニハ最モ大切ニシテ人間ニハ比較的無用ナリ。渡邊綱ニシテ強情ヲ張ラザリシナラバ、何カ有利ナル「コンミツシヨン」位ハ得ラレシ筈ナリ。其證據ト云フモ妙ナレドモ、近世ニモサル例アリ。山城伏見ノ和田某ナル者、曾テ淀川ノ堤ニ道ビシニ、河童出デテ足ヲ取リ引入レントス。和田強氣ノ男ニシテ其手ヲ捉ヘ腰刀ヲ以テ之ヲ切レバ、キヤツト叫ビ水中ニ入レリ。歸リテ其手ヲ人ニ示スニ、何レモ彼ガ剛勇ヲ感ゼザルハ無シ。此河童モ夜深ク出直シテ來リ、切ニ片手ノ返却ヲ求ムルコト既ニ六夜ニ及ブ。【河童ノ祟】七日目ノ夜ハ殆ド閉口シテ、今夜御返シ下サレズバ最早接グコトモ相成ラズト、打明ケテ懇願ニ及ビタルニモ拘ラズ、頑トシテ之ニ應ゼザリシカバ、茲ニ至ツテカ河童大ニ恨ミ、此報ニハ七代ノ間家貧窮ナルべシト咀[やぶちゃん注:ママ。「詛」の誤字であろう。特異的に訓読では訂した。「ちくま文庫」版全集も「詛」とする。]ヒテ去ル。而モ其手ハ永ク和田ガ家ニ傳ハルト云フ〔諸國便覽〕。和田氏貧乏ノ言譯トシテハ、目先ノ變リタル思附ナレドモ、而モ天下ノ勇士ハ多クハ河童ノ豫言ヲ待タズシテ貧乏ナリ。殊ニ干涸ビタル河童ノ手ヲ家寶トスルガ如キ氣紛レ者ハ、金持ニナレヌ性分トモ云フべシ。但シ河童ノ手ノ評判、如何ニシテ世ニ傳ハルニ至リシカハ、考ヘテ見ル値アリ。今ハ如何ニナリシカヲ知ラズ、以前筑後ノ柳河藩ノ家老某氏ノ家ニモ一本ノ河童ノ手ヲ藏セリキ。此家ノ側ニ近ク大ナル池アリテ、家人時トシテ四五歳ノ小兒ノ猿ニ似テ猿ニ非ザル者ガ水ノ滸ニ立ツヲ見タリ。【足洗】或時家來ノ者足ヲ洗ヒニ行キテ河童ニ引込マレントシ、之ト鬪ヒテ其腕ヲ斬リテ持歸ル。其河童ハ如何ナル仔細アリテカ手ノ返却ヲ求メニ來ラズ、故ニ今モ此家ノ寶物ナリ。每年夏ノ始ニナレバ取出シテ之ヲ水ニ浸シ、親族朋友ノ家ノ子供ヲ集メテ其水ヲ飮マシム。斯クスレバ永ク河童ノ災ニカヽルコト無シトノコト也〔水虎錄話〕。伏見ノ和田氏ナドモ子孫貧苦ニ迫リ、此一物ヲ筐底ヨリ取出シテ世ノ中ニ吹聽シタリトスレバ、其動機必ズシモ初代ノ武功ヲ誇ルニ止ラザリシナランカ。此モ亦有リ得べカラザル推測ニハ非ズ。

 

《訓読》

 河童敗衄(はいぢく)[やぶちゃん注:敗北。]の記錄は右の外にも、猶ほ多し。【水邊(みづべ)の牧】例へば、同じ長門の大津郡向津具(むかつぐ)村は出島(でじま)なり。村に杉谷池と云ふ池あり。每年、領主の馬を預りて、此の池の堤に野飼するを例(ためし)とす。又、河童あり。手續きは型の通りにして、馬に引き摺られて、厩の中に轉げ込む。【手印(しゆいん)】隣人等、集まり來たり、後代に至るまで向津具一庄(しやう)の中に住むまじき由の券文(けんもん)を代書し、彼(かれ)が手に墨を塗りて、之れを押さしめて、放し還す。此れが爲に、庄内に、河童、永く跡をつ、と云ふ。貞享(ぢやうきやう)年中[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。]の出來事にして、其の證文は少くとも、寬政の頃まで[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、村の産土(うぶすな)の社(やしろ)に之れを藏(をさ)めたりき〔「蒼柴園(さうさいえん)隨筆」〕。河童が無筆にして、代書を必要とせしことは、無理も無き話なり。【河童自筆】然るに、或る地方にては、其の證書を以つて、彼(かれ)が自筆に成るものゝごとく傳ふ。現に江戸深川入船町(いりふねちやう)に於いて斯かる例あり。安永年間[やぶちゃん注:一七七二年~一七八一年。]のことなり。或る男、水を泳ぎ居たるに、河童來たりて害を加へんとし、亦、捉へられて陸(をか)に引き上げらる。三十三間堂の前にて打ち殺さんとせしを、見物の中に仲裁を試みたる人あり。河童、詫證文を出だして宥(ゆる)さる。其の一札(いつさつ)には、以來、此の邊りにて、一切、害を爲すまじき由の文言あり。【手印(しゆいん)】且つ、河童の手判(しゆはん)を墨(すみ)を以つて押したるものなりき、と云ふ〔津村氏「譚海」〕。【河童角力(すまふ)】九州は肥前佐賀の藩士大須賀道健が被官(ひかん)、佐賀鄕百石(ももいし)村の某と云ふ者、東淵と云ふ處よりの歸途に、一人の小僧、來たり逢ひ、強ひて角力を取らんことを求む。某、之を諾(だく)して取り組みしに、負けながら、段々と、水の方に、近よる。『さては河童』と心に悟り、此の物、人間の齒を怖(おそ)るゝことを豫(かね)て知りたれば、早速に其の肩のあたりに嚙み附けば、聲を立てゝ、水底(みなそこ)に遁(のが)れ去る。其の夜、河童の來たりて、家を繞(めぐ)りて哀號すること、他國にて腕を斬られたる場合と同じく、「何とぞ、此の傷を治(なほ)して下されよ」と云ふ。其の仔細を聞くに、嚙みたる人が手を以つて其の疵を摩(す)る[やぶちゃん注:さする。]に非ざれば、到底、癒へぬものと見えたり。「汝、若(も)し、此の近邊の人を取らずと誓ふならば、其の請(せい)を允(ゆる)すべし」と云へば、河童、欣々(きんきん)として敬諾(けいだく)し、終(つひ)に紙を乞ひて券(けん)を作り、手印を押して、之れを差し出だす。「汝がごとき者には手を汚(けが)すを欲せず、足で澤山なり」と威張(いば)り、足を展(の)ばせば、ぬるりとして觸るく所ありと云ふ話なり。此の券文も永く勇者が家に傳はれり。其の體(てい)、略(ほぼ)文字のごとくなれども、讀み難し、となり〔「水虎考略」後篇〕。【化物文書】此の話などは、取り分け、虛-誕(うそ)らしけれど、天狗の書と云ひ、狸の自筆など稱するもの、諸國に例多ければ、まだ何とも申し難し。播州佐用郡の某地に一種の骨繼藥(ほねつぎやく)を出す舊家あり。此の家と緣故ある河童のごときは、前者に比しては稍(やや)正直に見ゆ。【野飼】此れは寶永中[やぶちゃん注:一七〇四年~一七一一年。]のことと稱す。七月下旬の殘暑の勞(らう)をいたはるとて、愛馬を野飼の爲に川邊に出だし置きしに、此れ亦、綱の端に河童を引き摺りて、厩に走り入る。【猿】仲間、怪しみて往き見るに、厩の片隅に、猿のやうなる物、手綱(たづな)を身に搦(から)めて居(を)り、駒は向うの方(かた)にて息を繼ぎ居(ゐ)たり。其の物を熟視すれば、猿に似て、猿に非ず、頭上に窪みありて、髮は赤松葉のごとくなり。【河童の手】旦那、歸りて此の始末を聽き、大いに怒り、「此の川原にて、折々、人を取るは、必定(ひつじやう)、汝なるべし」と、忽ち、脇差を拔きて、河童の手を切り落とす。河童、しほしほとして、「どうか、命を助け給へ、今より、此の村の衆には指(ゆび)も差し申すまじ」と言へば、旦那、「其の方を殺したりとて、手柄にも非ず、宥し遣はすべし。詫證文を書け」とあり。【河童藥】「私は、元來、物書くこともならぬ上に、手を御切り成されたれば愈(いよいよ)以つて、書けませぬ。御慈悲に免(ゆる)し給ひ、其の手も返して下され、持つて還つて藥で繼ぎます」と云ふ。旦那、思慮を廻らし、「其の藥は己(おのれ)が調合するのか」と問へば、「なる程、拵へ申す」と答ふ。「然(しか)らば、手を戾し。助くるにより、其の藥方を我に傳へよ。命の代はりなれば安き御事」と、人を拂(はら)はせて[やぶちゃん注:人払いをして、河童と二人きりで。]、備(つぶさ)に祕法を口授(くじゆ)して去る。其の法、甚だ奇にして、子孫、勿論、之れを相續す、と云へり〔「西播怪談實記」〕。【河童の手】此の一條に由つて察するに、詫證文と藥方と片腕とは、河童の主觀に在りては兎も角も、人間に取つては、其の價値、略(ほぼ)同等なりきとおぼし。證文が書けずば祕傳を、片手が欲しければ藥方をと云ふ中にも、手は、河童には、最も大切にして、人間には、比較的、無用なり。渡邊綱にして[やぶちゃん注:のように。]強情を張らざりしならば、何か有利なる「コンミツシヨン」[やぶちゃん注:commission。権限移譲。手数料。歩合。]位(ぐらゐ)は得られし筈なり。其の證據と云ふも妙なれども、近世にもさる例あり。山城伏見の和田某なる者、曾て淀川の堤に道びしに、河童、出でて、足を取り引き入れんとす。和田、強氣(がうき)の男にして、其の手を捉へ、腰刀を以つて之れを切れば、「キヤツ」と叫び、水中に入れり。歸りて、其の手を人に示すに、何(いす)れも彼が剛勇を感ぜざるは無し。此の河童も、夜深く、出直して來たり、切(せつ)に片手の返却を求むること、既に六夜に及ぶ。【河童の祟(たたり)】七日目の夜は、殆んど閉口して、「今夜御返し下されずば、最早、接(つ)ぐことも相ひ成らず」と、打ち明けて、懇願に及びたるにも拘らず、頑(がん)として之れに應ぜざりしかば、茲(ここ)に至つてか、河童、大いに恨み、「此の報(むくひ)には七代の間、家、貧窮なるべし」と咀(のろ)ひて去る。而(しか)も其の手は、永く、和田が家に傳はる、と云ふ〔「諸國便覽」〕。和田氏、貧乏の言譯(いひわけ)としては、目先の變りたる思ひ附きなれども、而も天下の勇士は多くは河童の豫言を待たずして貧乏なり。殊に干涸(ひから)びたる河童の手を家寶とするがごとき氣紛(きまぐ)れ者は、金持になれぬ性分(しやうぶん)とも云ふべし。但し、河童の手の評判、如何にして世に傳はるに至りしかは、考へて見る値(ねうち)[やぶちゃん注:私の当て訓。]あり。今は如何になりしかを知らず、以前、筑後の柳河藩の家老某氏の家にも一本の河童の手を藏(ざう)せりき。此の家の側に近く、大なる池ありて、家人、時として、四、五歳の小兒の、猿に似て、猿に非ざる者が、水の滸(ほとり)に立つを見たり。【足洗(あしあらひ)】或る時、家來の者、足を洗ひに行きて、河童に引き込まれんとし、之れと鬪ひて、其の腕を斬りて、持ち歸る。其の河童は如何なる仔細ありてか、手の返却を求めに來たらず、故に、今も此の家の寶物なり。每年、夏の始めになれば、取り出だして、之れを水に浸し、親族・朋友の家の子供を集めて、其の水を飮ましむ。斯(か)くすれば、永く、河童の災(わざはひ)にかゝること無し、とのことなり〔「水虎錄話」〕。伏見の和田氏なども、子孫、貧苦に迫り、此の一物(いちもつ)を筐底(きやうてい)より取り出だして、世の中に吹聽(ふいちやう)したりとすれば、其の動機、必ずしも初代の武功を誇るに止(とどま)らざりしならんか。此れも亦、有り得べからざる推測には非ず。

[やぶちゃん注:ここは柳田先生、なかなか余裕を持ってユーモアに富んで書いておられる。

「敗衄(はいぢく)」「衄」(音は現代仮名遣「ジク」)は「挫(くじ)ける・敗れる」の意で「敗北」に同じ。

「長門の大津郡向津具(むかつぐ)村は出島(でじま)なり」現在の長門市油谷の北西端の半島部に当たる山口県長門市油谷(ゆや)向津具上(むかつくかみ)向津具下(むかつくしも)(国土地理院図)。現行では表記した通り、「むかつく」と清音である。ここは航空写真(グーグル・マップ・データ)で見て分かる通り、同地区の油谷島が陸繋島であるだけでなく、向津具地区全体が東で有意に縊れて出島風になっている半島であることから、かく言ったものであろう。因みにここは驚きの伝楊貴妃の墓(山口県長門市油谷向津具下のここ(グーグル・マップ・データ)があることで知られる地である。

「杉谷池」この向津具地区は国土地理院図で見ても、大きな池が十数箇所、小さな池沼に至っては数え切れぬほどあり(さればこそ河童にとっては本来なら、よき棲息環境とは思われる)、この名称の池は同定出来なかった。話柄から推して相応に大きな池とは思われるものの、それでも複数あり、同定出来ない。

「向津具一庄(しやう)」この「庄」は単に「村里」の意。

「券文(けんもん)」本来は律令制下に於いて、土地・牛馬・家屋等の売買にあって必要な交感約定書類を指す。「券契」とも言う。ここは単に誓約文書の意。

「貞享(ぢやうきやう)年中」これは徳川綱吉の治世だ。ああ、そうか! ここで他と違って打ち殺されそうになるシーンが挟まれないのは(原典に当たっていないのであるのかも知れぬが)「生類憐れみの令」(貞享四(一六八七)年十月に始まるとされる)絡みかな?

「村の産土(うぶすな)の社」当地の旧郷社である油谷向津具下にある向津具八幡宮か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「江戸深川入船町」現在の中央区明石町の聖路加病院附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに「河童」(リンク先は私の電子テクスト)を書いた芥川龍之介の生地である。

「三十三間堂」江戸三十三間堂。江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目附近。ここ(グーグル・マップ・データ))にあった仏堂で本尊は千手観音であった。現在の入船町とは隅田川挟んで東へ二キロメートルほど行った位置であるが、隅田川の中で格闘して東へ流れて行って、ここで陸へ上がったものと思えば、不審なロケーションではない。ウィキの「江戸三十三間堂」によれば、『京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて』、寛永一九(一六四二)年に『弓師備後という者が幕府より』、『浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる』。翌寛永二十年四月の『落成では、将軍徳川家光の命により』、『旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った』。その後、元禄一一(一六九八)年の『勅額火事により焼失したが』、三年後の元禄十四年に『富岡八幡宮の東側』『に再建された。しかし』、明治五(一八七二)年、悪名高き神仏分離と廃仏毀釈によって、『廃されて堂宇は破却された』。『京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行した。記録達成者は「江戸一」を称した』とあり、寧ろ、剛腕の主人公が河童を平伏させ、詫び請文を書かせるに相応しいロケーションと言うべきであろう。

『津村氏「譚海」』私は遅筆ながら、同書の電子化注を行っており、幸いにしてこれは「譚海 卷之二 江戸深川にて川太郎を捕へし事」で電子化注を終わっている。見られたい(直前の注はそれを援用した)。

「河童角力」河童が習性として相撲をとることを好むというのは知られた話であるが、このケースを見るに、相撲は口実で、川に引き込んで尻子玉を抜くことが真の目的であるように見えてくる。

「肥前佐賀ノ藩士大須賀道健」『佐賀医学史研究会報』第百十(二〇一八年二月発行・PDF)の「緒方洪庵の大坂適塾と肥前門人」のリストの中に、佐賀藩の大須賀道貞なる者が万延元年六月九日に緒方洪庵の大坂適塾に入門したという記載があるから、この人物の先祖の一人かとは思われる。「道健」という名は如何にも後代に医師となりそうな感じではある。但し、彼の「被官」(近世に於いては町家の下男・下女をかく称したから、ここも藩士大須賀道健家に雇われた中間(ちゅうげん)等であろうと思われる)の「佐賀鄕百石(ももいし)村」(国土地理院図で発見した。ここ。グーグル・マップ・データではこの中央辺りで、現在の佐賀県佐賀市高木瀬町大字長瀬で、ネット記事を見ると、小字地区名で「百石」は生きているようである)出身の「の某」が主人公なので、ご注意あれ。

「東淵」百石から巨勢川を跨いだ東の、現在の佐賀市金立町(きんりゅうまち)大字薬師丸のここの中央位置(国土地理院図であるが、あまり大きくすると、「東渕」の地名が消えてしまうので注意されたい)「東渕」の地名(地区名か)が現存する。

「人間の齒を怖る」これは私は初めて聴いたのだが、サイト「カッパ研究会」のこちらに、『日本の各地に、河童が子どもの尻小玉を抜いたとの話が伝わっています』。『確かに、河童はキュウリだけでなく生肝も好きです。最初は口から手を入れて肝を抜いていたのですが、人の歯が強いことを知ってからは、歯のないお尻から手を入れて生肝を抜くようになりました』。『でも、肝も好きになったのは、明治以降のことで、最初の頃は肝が好きなわけではなかったのですよ』。『生肝を好む由来は、中国の「竜宮の乙姫様の病気に猿の生肝がよいので、亀やクラゲが猿を連れてくるが、猿が途中で逃げる」伝承から来ているのだと思います。この話は江戸時代は、亀が生肝と抜きに行く小咄のネタになっていますから、本当に肝がすきなのは亀です。この肝が薬になる伝承と、「川に捨てられた河童が、食べるものがないと答えると、尻でも食べろ」と言われる、話が重なりあったのではないでしょうか』。『河童族にとっては迷惑な話です。最初は口から生肝を抜いていたが、尻から抜くようになる伝承は、佐賀県や福岡県などに伝わっています』とあったので、これはもう、納得!!!

「允(ゆる)すべし」「允」(音「イン」)には原義に「認めて許す」の意があり、訓で「ゆるす」と読む。熟語として「允可」「允許」「承允」等がある。

「欣々(きんきん)」非常に楽しげにするさま。にこにこ微笑んで喜ぶさま。

「敬諾(けいだく)」謹んで承知すること。

「券(けん)」先の「券文(けんもん)」に同じ。広く各種の証明手形や割符(わりふ)等もかく言う。

「狸の自筆」私の電子化した類話の中でも、特に忘れ難いしみじみとした話は、「想山著聞奇集 卷の四 狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」である。筆ではないけれど、「形見の手形」が出る(挿絵有り)。未読の方は、是非読まれたい。

「播州佐用郡」概ね、現在の兵庫県佐用町(さようちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「柳河藩」有明海湾奧の筑後国柳河(現在の福岡県柳川市。ここ(グーグル・マップ・データ))に居城を置いた外様藩。]

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