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« 萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蠅の唱歌 | トップページ | 萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱なる花見 »

2019/01/09

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしく憂鬱なる

 

  恐ろしく憂鬱なる 

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる

むらがる むらがりて飛びめぐる

てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)

いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ

このおもたい手足 おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だらう

つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに

私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり

ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

 註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものである。 

 

[やぶちゃん注:「註」は繋がった一文であるが、全体が一字下げになってポイント落ちで二行に書かれている。ブラウザの不具合を考え、上に引き上げ、二行目の三字下げを無視した。悪しからず。大正六(一九一七)年五月号『感情』初出。「てふ」を字音通りに読めとする朔太郎伝説の一篇である。初出には有意な異同を感じないが、敢えて言えば、

   *

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

   *

の三行が、

   *

私の靑ざめた屍體のくちびるに、額に、かみに、かみのけに、ももに、胯に、腋のしたに、 足くびに、足のうらに、みぎの腕にも、ひだりの腕にも、腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

   *

一行で巻きつく蛇のように連続していて、その〈ぬたくる〉感覚が初出の方が遙かに効果的であるように思う。「ちうちう」と〈腐亂した詩人の屍體の體液を吸ふ蝶(てふ)〉の幻聴がよく聴こえる気がする。因みに言っておくが、動物の腐乱死体に普通に群がるのは蠅ばかりではない。蝶も群がる。「万葉集」に蝶を詠んだ歌がないのは、風葬や遺体の野晒しが一般的であった上代に於いて人の死体に群がる蝶をまがまがしいものと捉えたからという説もあるくらいだ。

「胯」は「また」かも知れぬが、「またぐら」と、前の「股」から差別化し、より限定した萎えた性器のある風景としての股間を指すものとして、そう読みたいと思う。また、後書きは、ポイント落ちで全体が三字下げで、

   *

詩中平假名にて書きたる「てふてふ」は文字通り「て、ふ、て、ふ」と發音して讀まれたし「チヨー、チヨー」と讀まれては困る。

   *

となっている(「註」の字はない)。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『恐ろしく憂鬱なる(本篇原稿二種五枚)』として以下の二篇が載る。前者は標題が「すべてを恐ろしく憂鬱なる森の中に」、で後者は「恐ろしく憂鬱なる」である。表記は総てママである。

   *

 

  すべてを恐ろしく憂鬱なる森の中に

 

ああこの恐ろしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

私の心はみぶひるをして

醜くきつついた小鳥のやうに

私の心はやなましく→いたましく 羽ばたきをして→みぶるひをして→びくびくとぢたばたと羽ははきして

醜い小鳥の やうに 死ぬるやうに羽はばきするぬるときんでゆくときのやうだ

 

 

  恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりした森のしげみ木立のなかで蝶がとんでゐる

白いてふてふが

いちめんに白いてふてふ蝶蝶がとんでゐる

むらがりむらがりてとびまわめぐるてふてふてふてふ

あちらこちら枝のしげみからてふてふてふてふ

森中いつぱいに重なむらがりあつてめまぐるしい小さな蝶蝶→それらの蝶蝶のむれ

そのさいなさするどい羽のぴかぴかするかがやきやう、[やぶちゃん注:「さいなさ」は編者は「ちひさな」の誤記とする。]

この女→私はああこれはなんといふ恐ろしい心の憂鬱なまぼろしだ、

私の→この→かかるこのおもたい手足、おもたい心臟のくるしみ

かぎりもなくなやましい肉體の→肉體物體をひきづつて→のかさなりと物質のかさなり

ああこれは何といふ美しい肉體の病氣だ

やつれたつかれなまめかしいはれたる神經のつかれだ、なまめかしいたそがれどきだ[やぶちゃん注:「はれたる」を編者は「はてたる」の誤記とする。]

私はみる、ここに女のおもたいここに女たちの重たい→つかれた投げ出したおもたい手足を

なめまかしいつかれた股の肥つたおもみを

その血のやうなくろいちびるはここにかしこに、死骸のやうな私の靑ざめた死骸の

くちびるにひたいにかみにかみの毛に股にまたにワキの下にてのひらにあしのうらに、へそに 右の腕に左の腕に、はらのうへにも押しあひて重なりあふ、

あらゆる恐ろしい肉

むら ああどこもかしこもむらがりむらがりてとびめぐるてふてふてふてふ

そのはげしい色慾のなやみ

むらがるむらがる物體と物質との淫ワイなる重なり、

ここにかしこに追ひみだれる蝶々

そのはげしい 肉→色情の やなみ、

みにくい けだものににたなやましい色情のさんたんたるくるしみ 動物のやうな かたちをしたものの→ものの 氣味の惡い→無氣味な かたまり、

ああなんといふ恐ろしい憂鬱なる色情の日かげをみることが

ああこの 森の中の→憂鬱に 幽靈の

たえがたく恐ろしい憂鬱なる

ああこの恐ろしいまぼろしの→恐ろしい憂鬱のまぼろし日影にとびめぐる□□のてふてふ

いきづまる憂鬱さをにたましひはを恐る

むらがるむらがる幽靈のみにくい巨大のかたまり、

ああこの恐ろしいもののすがたかたちをみる→くみにくいもの憂鬱なる日かげを。

 

(註、詩中の語、てふてふ(蝶蝶)はチヨーチヨーと發音するな、て、ふ、て、ふ、と讀め、蝶のうすい羽ばたきをして飛び→をひらひらをうごかす動作の感覺が象微 したる言葉なればや、→するものです、 →聽覺によつてそこからくる。もちろんこの日本語は元來言葉が生れた本來の意義もそこにあつたのでせう、チヨーチヨーとよむ昔の人は蝶を「て、ふ」と發音してよんでゐたそうですから。この言葉にかぎらずすべて日本語はできるだけ平瑕名で書く方がよいやうです、そうでないと言葉のほんとのリズムがはつきり出ないと思ふ)

 

   *

 

 なお、本篇を以って第一パート「幻の寢臺」は終わっている。

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