萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしい山
恐ろしい山
恐ろしい山の相貌(すがた)をみた
まつ暗な夜空にけむりを吹きあげてゐる
おほきな蜘蛛のやうな眼(め)である。
赤くちろちろと舌をだして
うみざりがにのやうに平つくばつてる。
手足をひろくのばして麓いちめんに這ひ𢌞つた
さびしくおそろしい闇夜である
がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。自然はひつそりと息をひそめ
しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。
すぐ近いところにそびえ
怪異な相貌(すがた)が食はうとする。
[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。初出や「定本靑猫」は有意な異同を認めないが、またしても筑摩書房版全集は強制消毒校訂を行っている。即ち、
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がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いて[やぶちゃん注:底本はここで行末。]る。自然はひつそりと息をひそめ
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であるのを、
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がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。
自然はひつそりと息をひそめ
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としているのである。初出は確かに改行しているし、ここはまず、句点があるから、改行という判断であろうが(事実、こういう表現を萩原朔太郎がすることは、まず普通はないとは言える)、しかし、原稿を確認しているわけでもないのに、初版の校訂本文をかくいじくるのは、私は、やっぱりおかしいと思う。
この山は浅間山ではないかと推測する。大正一〇(一九二一)年及び翌年に小規模噴火の記録があり(月は不明)、朔太郎はこの大正十年の七月下旬に室生犀星に招かれて軽井沢に遊んでいる。
「うみざりがに」節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目アカザエビ科アカザエビ亜科ロブスター(ウミザリガニ)属
Homarus のロブスター(Lobster)類の和名である。この時代に朔太郎が生きたロブスターを見たり、食べたり出来た可能性はすこぶる低いと思われるが、フランス料理の著名な食材として、また、西洋絵画の図版等でその存在をハイカラな彼はよく知っていたのであろう。
「平つくばつてる」「へいつくばつてる(へいつくばってる)」。平たく這いつくばっている。]
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