和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)
とび 鴟【音笞】
鳶【音員】
【俗云止比】
阿黎耶【梵書】
ユヱン
本綱鴟似鷹而稍小也其尾如舵極善高翔專捉雞雀其
攫物如射
三才圖會云鳶鳴則將風朝鳴卽大雨暮鳴卽小雨
酉陽續集云相傳鴟不飮泉及井水惟遇雨濡翮得水
飮
△按鴟狀似鷹而赤黃色羽毛婆娑而尾如披扇其尾羽
亦造箭羽名之礒鷲羽最下品也脚灰青色爪黑風吹
則高飛舞毎捉鳥雛猫兒等或攫人所提擕魚物豆腐
等總鳶鴉有害無益而多有之鳥爲人所憎也然俗傳
曰愛宕之鳶熊野之烏以爲神使未知其據也鳴聲如
曰比伊與呂與呂朝鳴卽雨暮鳴即晴【三才圖會之說少異】
仲正
夫木鳶のゐる井杭の柳なはへしてめくみにけりな春を忘れす
或書云天人熊命化成三軍幡而後神武天皇與長髓
彦戰不勝于時金色鳶飛來止皇弓弭狀如流電光由
敵軍皆迷眩天皇悅問何神也奏曰奉勅 天照大神
化鳶來吾住此國護軍戰業又問曰欲住何處卽奏曰
山背國怨兒山可住仍住其山領天狗神【雖小説附會記之】
*
とび 鴟〔(し)〕【音、「笞〔(シ)〕」。】
鳶【音、「員」。】
【俗に云ふ、「止比」。】
阿黎耶〔(あれいや)〕【梵書。】
ユヱン
「本綱」、鴟は鷹に似て、稍〔(やや)〕小なり。其の尾、舵(かぢ)のごとし。極めて善く高く翔〔(か)〕ける。專ら雞〔(にはとり)〕・雀を捉ふる。其の物を攫(つか)むこと、射(ゆみゐる[やぶちゃん注:ママ。])がごとし。
「三才圖會」に云はく、『鳶、鳴くときは、則ち、將に風(かぜふ)かんとす。朝、鳴くは、卽ち、大雨、ふる。暮れに鳴くときは、卽、小雨、ふる』〔と〕。
「酉陽續集」に云はく、『相ひ傳ふ、鴟、泉及び井の水を飮まず、惟だ雨に遇ひて、翮〔(つばさ)〕を濡らし、水〔を〕飮〔むこと〕を得』〔と〕。
△按ずるに、鴟、狀〔(かたち)〕、鷹に似て赤黃色、羽毛、婆娑(ばしや)として、尾、扇を披〔(ひら)〕くがごとし。其の尾羽〔も〕亦、箭羽〔(やばね)〕に造り、之れを「礒鷲羽(いそわしの(は)」と名づく。〔しかれども〕最も下品なり。脚、灰青色、爪、黑し。風、吹けば、則ち、高く飛び舞ふ。毎〔(つね)〕に鳥の雛(ひな)・猫の兒〔(こ)〕等〔(など)〕を捉(と)る。或いは、人、提(ひつさ)げ擕(たづさ)へる所の魚物〔(うをもの)〕・豆腐等〔(など)〕を攫(つか)む。總(すべ)て鳶・鴉は、害、有りて、益、無し。而(しか)も、多く、之の鳥、有り。人の爲めに、憎(にく)まる[やぶちゃん注:ママ。]所(〔とこ〕ろ)なり。然るに、俗傳に曰はく、「愛宕(あたご)の鳶」・「熊野の烏」、以つて神使と爲す。未だ、其の據〔(よるところ)〕を知らざるなり。鳴く聲、「比伊與呂與呂(ひいよろよろ)」と曰ふがごとし。朝、鳴けば、卽ち、雨、ふり、暮、鳴けば、即ち、晴る【「三才圖會」の說と少し異〔なれり〕。】。
仲正
「夫木」鳶のゐる井杭(ゐぐひ)の柳なばへして
めぐみにけりな春を忘れず
或る書に云はく、『天人熊命(〔あま〕の〔ひとくま〕のみこと)、化〔(け)〕して、「三軍(〔みむろ)〕の幡〔(はた)〕」と成る。而して後〔(のち)〕、神武天皇、長髓彦(〔なが〕すね〔ひこ〕)と戰ひて、勝たず。時に、金色の鳶、飛び來たりて、皇〔(わう)〕の弓弭(つのゆみ)[やぶちゃん注:通常は「弭」一字で「ゆはず」と読む。弓の両端の弦をかけるところ。ここは無論、その上に上げた部分。]に止まり、狀〔(かたち)〕、流〔るる〕電光〔(いなびかり)〕のごとし。由〔(より)〕て、敵軍、皆、迷-眩〔(めくら)み〕、天皇、悅びて問〔(のたま)〕はく、「何れの神や」〔と〕。奏して曰はく、「天照大神〔より〕勅を奉り、鳶に化して來たる。吾、此の國に住みて、軍戰の業(わざ)を護〔(まも)〕らん」〔と〕。又、問〔(のたま)ひ〕て曰はく、「何くの處に住まんと欲す」〔と〕。卽ち、奏して曰はく、「山背國〔(やましろのくに)〕怨兒(あたごの)山に住むべし」と。仍りて、其の山に住む。天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむ』〔と〕【小説と雖も、附會〔なれども〕、之〔(ここ)〕に記す。】。
[やぶちゃん注:声も姿も小さな時から私のお気に入りの「トンビ」、タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus。属名の「ミルウス」は「猛禽」の意のラテン語で、和名は、一説では「遠く高く飛ぶ」の意の古語「遠(とほ)く沖(ひひ)る」(とおくひいる:「沖」(「冲」とも書く)は「広々とした海や田畑・野原の遠い所」の転訛とも言う。)ウィキの「トビ」より引く。『ほとんど羽ばたかずに尾羽で巧みに舵をとり、上昇気流に乗って輪を描きながら上空へ舞い上がる様や、「ピーヒョロロロロ…」』(リンク先に音声データがあるが、雑音が多い)『という鳴き声はよく知られており、日本ではもっとも身近な猛禽類である』(本邦では全国に分布する)。『タカ科の中では比較的大型であり、全長は』六十~六十五センチメートル『ほどで、カラスより一回り大きい。翼開長は』一メートル五十から一メートル六十センチメートル『ほどになる。体色は褐色と白のまだら模様で、眼の周囲が黒褐色になっている。地上や樹上にいるときは尾羽の中央部が三角形に切れ込んでいるが、飛んでいるときは尾羽の先端が真っ直ぐに揃う個体もいる。また、飛んでいる時は翼下面の先端近くに白い模様が見える』。『主に上昇気流を利用して輪を描くように滑空し、羽ばたくことは少ない。視力が非常に優れていると言われ、上空を飛翔しながら餌を探し、餌を見つけると』、『その場所に急降下して捕らえる』。『飛翔中、カラスと争う光景をよく見かけるが、これは、トビとカラスは食物が似ており』、『競合関係にあるためと考えられている。特にカラスは近くにトビがいるだけで集団でちょっかいを出したり、追い出したりすることもある』。『郊外に生息する個体の餌は主に動物の死骸やカエル、トカゲ、ネズミ、ヘビ、魚などの小動物を捕食する。都市部では生ゴミなども食べ、公園などで弁当の中身をさらうこともある』。『餌を確保しやすい場所や上昇気流の発生しやすい場所では』、『多くの個体が飛ぶ姿が見られることがあるが、編隊飛行を行うことは少ない。ねぐらなどでは集団で群れを作って寝ることもある。海沿いに生息するものは、カモメの群れに混じって餌を取り合うこともある』。『通常、樹上に営巣するが、まれに断崖の地上に営巣することもある』。『ユーラシア大陸からアフリカ大陸、オーストラリアにかけて広く分布しているが、寒冷地のものは冬には暖地に移動する。生息地は高山から都市部までほとんど場所を選ばず、漁港の周辺などは特に生息数が多い。アフリカ大陸に生息するものは、ニシトビとして別種とする見解もある』全六亜種で、本邦に棲息するそれは、『留鳥で』『中央アジア』『亜種』『で、冬季は南へ渡りを行う』。『警戒心が強いので、人間には近寄らないことが多いのがトビの本来の生態である。しかし、古来から「鳶に油揚げをさらわれる」のことわざがある通り、人間に慣れた場合、隙を狙って人間が手に持っている食べ物などまで飛びかかって奪うことがあり、最近このような事例が増えて問題となっている』。我が家からも近い江ノ島周辺や由比ガ浜などでよく観光客がやられている。『トビは日本においてはごく身近な猛禽であり、大柄で目立つ上、その鳴き声がよく響くことから親しまれている』。『他方、他のタカ類に比べ、残飯や死骸をあさるなど狩猟に頼らない面があることから、勇猛な鳥との印象が少なく、いわばタカ類の中では一段低い印象もある。ことわざの「鳶が鷹を産む」はこのような印象に基づき、平凡な親から優れた子が生まれることをこう言う』。『トビに関する日本の伝説としては、『日本書紀』の金鵄がある。金色のトビが神武天皇の前に降り立ち、その身から発する光で長髄彦率いる敵軍の目を眩ませ、神武天皇の軍勢に勝利をもたらしたという伝説である』(本文にある話)。以下、「トビに関係する語」の項。
《引用開始》
・鳶色(トビの羽の色に似た暗い茶褐色)
・鳶職(建設業において、高所での作業を専門とする職人)
・鳶口(トビのくちばしの様な形状の鉤を棒の先に取り付けた器具)
・鳶が鷹を産む(平凡な親が優れた子が生む事を指すことわざ)
・鳶に油揚げをさらわれる(大切なものや、本来自分のものになる筈のものを突然横取りされ、呆気にとられる様子を指すことわざ)
・鳶も居ずまいから鷹に見える(立ち居振舞いが上品であれば、どんな人間でも立派に見・えるという意味のことわざ)
・とんび(和装用の外套の一種。インバネスコートのケープ部分の形状からこのように呼ばれた)
《引用終了》
なお、トビ亜科 Milvinaeには世界的に見ると、トビ属 Milvus の他に、ハバシトビ属 Harpagus(系統的には別系統で、より基底群に近い種とされる)にハバシトビHarpagus
bidentatus・モモアカトビHarpagus
diodon・アカトビMilvus
milvus、ハリアストゥル属 Haliastur にフエナキトビHaliastur
sphenurus・シロガシラトビHaliastur
indus 等がおり、また、別種ながら、ノスリ亜科
Buteoninae のRostrhamus
属のタニシトビ Rostrhamus
sociabilis、 Helicolestes 属にハシボソトビ
Helicolestes hamatus、ムシクイトビ属 Ictinia のミシシッピートビ Ictinia
mississippiensis・ムシクイトビIctinia
plumbea 等の和名に「トビ」がつく。
「阿黎耶〔(あれいや)〕」東洋文庫訳は『ありや』と振るが、「黎」は呉音が「ライ」、漢音が「レイ」で、中国語原音に近い「リ」の音もあるにはあるが、本邦の古来の読みは圧倒的に「レイ」であり、二〇一二年科学書院刊の堀田正敦「近世植物・動物・鉱物図譜集成」の「観文禽譜 索引篇・解説篇」でも、「アレイヤ」と読んでいるので、そちらを採用した。
「梵書」この場合は、広義の漢訳したインドの仏典の意。
「射(ゆみゐる)」弓矢を射る。
『「三才圖會」に云はく……」「鳥獸二巻」の「鳶」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら(左ページ)。
「酉陽續集」中唐の詩人段成式(八〇三年?~八六三年?)の膨大な随筆「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」(正篇二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の「続集」の「巻八 支動 動植物纂拾遺」にある以下。
*
世俗相賣、落鴟不飮泉及幷水惟遇南濡翮方得水飮。
*
「翮〔(つばさ)〕」私の推定訓。を濡らし、水〔を〕飮〔むこと〕を得』〔と〕。
「婆娑(ばしや)」良安のルビ。通常は「ばさ」で一種のオノマトペイアであろう。原義は「舞う人の衣の袖が翻るさま」で、そこから「物の影などが揺れ動くさま」が生まれたが、ここは原義で比喩したと読む。だからこそ「尾、扇を披〔(ひら)〕くがごとし」が生きるからである。
「礒鷲羽(いそわしの(は)」「礒」は「磯」に同じで、餌を確保し易い海岸でよく見かけるから「磯鷲」で、トビの異名である。「やまぐち弓具」のサイト内の「羽根の柄一覧」の一番下を見られたい。このページ、スゴ! 但し、希少になったワシタカ類の実際の羽ではなく、冒頭にもある通り、これらは七面鳥(キジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo)の羽を黒色・茶色に染色して、古式のそれらの鷲・鷹類の羽根に似せて作ったものである(弓道家の中には実際のものを使っていて、飛びが違うなどと自慢しているのを読んだが、何だかな、と思った。弓術の基本精神からしたら、私は数少ないワシタカ類の羽根を使うなんて風上にも置けぬという気がしたのである)。そういった輩の会話を覗くと、デザインとしては磯鷲の方が良いとかのたもうていた。良安先生は、最下級の矢羽と言ってますがね?
「魚物〔(うをもの)〕」広義の水産動物類を指していよう。
「豆腐」硬めに制した豆腐は縄で縛ってぶら下げて運ぶ。私は実際に、岐阜の山の中の妻の父の実家で、そうした強烈に硬くしかも美味い豆腐を食ったことがある。まあ、油揚げの方がトビにとってはよかろうが。
「愛宕(あたご)の鳶」愛宕神社は全国に約九百社ほどあるが、その総本社は京都府京都市右京区嵯峨愛宕町にある愛宕神社(旧称は阿多古神社)。サイト「神使の館」の「鳶~トビ(1) 愛宕社(大豊神社内)と鳶」によれば(大豊神社は京都市左京区鹿ヶ谷宮ノ前にある)、総社である愛宕神社は『迦遇土槌命(カグツチノミコト)を主祭神として、広く全国に火伏せ(防火)の神として知られている』。この『大豊神社の末社「愛宕社」には「鳶」の像がある』が、『元来、愛宕神社(本社)の神使は、神社の創建者である和気清麻呂が猪に助けられたとの故事などに因んで、「猪」とされている』。『しかし、この大豊神社では、先代の宮司が境内の末社「愛宕社」に、愛宕山の天狗がかぶる鳶帽子から、鳶を神使として像を建てたとされる』(写真有り。但し、そのキャプションによれば、昭和四七(一九七二)年と恐ろしく新しい)『すなわち、鳶像は、新しい由縁が創られて、それに基づいて建てられた』。『それなら、『愛宕社が防火鎮火にご利益のある社であることに因んで、「火消し衆」のことを「とび」ともいうので、防火を祈って鳶像が奉納された』としても勘弁してもらえるかもしれない』とある。同サイトの「鳶~トビ(2) 神武天皇の金鵄(キンシ~金色の鳶)」には、『神武天皇が東征の折、弓の先に金色の鳶(金鵄)が飛来して勝利をもたらした』とし、福岡県福岡市博多区月隈にある八幡神社の『境内に、「神武天皇」と彫られた石柱上に鳥がとまっている碑があ』り、『この鳥は、日本書紀に載る「金鵄(キンシ)」と呼ばれる「金色の鳶(トビ)」』とあって、『神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)が日向(宮崎県)から東征の途次、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで苦戦していると、金鵄が天皇の弓の上端に飛来し、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして勝利をもたらしたという』。『神武天皇は、その後、大和を平定して橿原(かしはら)で初代天皇として即位されたとされる』。『現在は廃止されているが』、明治二三(一八九〇)年に(引用元は一年誤っている)『制定された軍人の最高位の勲章、「金鵄勲章」(キンシクンショウ)はこの伝承に由来する』とし、『この碑は、皇紀』二千六百『年を記念して昭和』一五(一九四〇)『年に建てられたものと思われる』とはある。しかし中村和夫氏のサイト「鳥のことわざ」の「鳶(トビ)」によれば、「愛宕殿鳶となるれば鳶の心あり」「太郎坊も鳶となりては鳶だけの知惠」という二つの諺が紹介されており、『京都市上嵯峨北部の愛宕山の山頂には愛宕神社があり、雷神を祭られ、防火の神として信仰されている。ここには愛宕太郎坊と云う大天狗に率いられた天狗たちが住んでいるとされた』が、『「愛宕殿」とはこの天狗を指して、これがトビになってしまえば、それなりの心』しか持たない、『つまらぬものなってしまうという意で、いずれもトビを軽蔑している』ともあるのだ。愛宕と鳶の関係は良安の言う(前半は「日本書紀」の記載に基づく)の俗伝に基づくとは考えられるが、「金鵄」がトビに同定比定されて種としてのトビが「愛宕の神の使い」とされるようになったのが、いつの時代からなのかが、よく判らぬ(「とび」という呼称自体(但し、本当に本種に限定していたかどうかは私は怪しいとは思う)は奈良時代に既にある)。江戸時代よりも前の、どこまで溯れるのか、御存じの方は御教授願いたい。
「熊野の烏」日本神話に於いて、神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国橿原への道案内をしたとされる「八咫烏(やたがらす)」がそれで、「導きの神」として信仰され、また、中国神話の影響か、「太陽の化身」ともされるのがルーツ。一般的に「三本足のカラス」として知られ、古くよりその姿絵が伝わる。後は「林禽類 慈烏(からす)(ハシボソガラス)」の「烏は熊野の神使なり」の私の注(但し、ウィキの「八咫烏」の引用)を参照されたい。
「未だ、其の據〔(よるところ)〕を知らざるなり」良安先生、どうもこの手の伝承には触手が動かぬらしい(というか、良安は自身、現実のトビやカラスを、とんでもない害鳥として捉えており、好きでもなかったのであろう。『「神使」などとんでもない!』といった感情的な口吻が珍しく伝わってくる文章となっているのがその証左である)。後の俗伝でさえ、最後の割注で「小説と雖も、附會〔なれども〕之〔(ここ)〕に記す」(下らぬ信ずるに値しない世間話の牽強付会であるけれども、話し序でに書き添えておく)と言っているぐらいだから。
「朝、鳴けば、卽ち、雨、ふり、暮、鳴けば、即ち、晴る【「三才圖會」の說と少し異〔なれり〕。】」先に示した、中村和夫氏のサイト「鳥のことわざ」の「鳶(トビ)」によれば、「鳶が空に輪を描けば晴天の兆し」は『各地で広くいわれる民間気象予知の俗説』とされ、「鳶の朝鳴きは雨」、「朝鳶に蓑を着よ、夕鳶に笠をぬげ」は『朝、鳶が鳴くのは雨になるしるし、夕方鳶が鳴くのは晴れになるしるしだということ』で(これが良安のそれ)、「昼鳶は日笠着る、朝鳶は蓑を着る」は『昼間にトビが鳴くのは晴れるしるし、朝鳴くのは雨になるしるし』とある。因みに、このページの冒頭で中村氏は『西洋や中国では古くから意地汚い鳥・物忘れの象徴と悪いイメージで考えられて』おり、『日本でも、ことわざなどに登場する鳶は良いイメージのものは上記以外ほとんどない』とされ、末尾では、『中国の粛宗の皇后は』、『帝にこっそりトビの脳を混ぜた酒を飲ませていたという。この酒を飲むと、長く酔いが覚めず物忘れがひどくなると信じられたようである。この結果、皇后は好きなように帝を操っていたという』。『このことから、鳶は中国では「物忘れの象徴」とされたようだ』とされた後、まさに本書をヤリ玉に挙げられて、『江戸時代の図解入りの百科事典「和漢三才図会」の中でトビについて、こう書かれている。「鳶の尾羽で矢羽を造りこれを磯鷲羽(いそわしは)というが、もっとも下級品である。風が吹けば高く飛び舞い、つねに鳥の雛、猫の児などを捉え、あるいは人が手に持っている魚物や豆腐などを掴む。すべて鳶、鴉は害あって益なく、しかも多くいる鳥で、人に憎まれるものである」と』。『こんなに悪く書かれると、何かかわいそうになる』(私も個人的にはそう思った)。『スカベンチャー(掃除屋)』(scavenger:生物学用語の「腐肉食性動物」のこと)『は嫌われるかも知れぬが、リサイクルシステムの担い手として環境の浄化復元に果たす役割をクールに評価してやりたいものだ』。『なによりも、のどかな、いかにものんびりと独特な鳴き声で、空を舞いやさしい顔つきをした鳶は、きぜわしい今の世の癒しのような気がして、私は好きだ』と擱筆しておられる。私も同感!
「仲正」「夫木」「鳶のゐる井杭(ゐぐひ)の柳なばへしてめぐみにけりな春を忘れず」「仲正」は源仲正(生没年不詳)平安末期の武士で歌人。清和源氏。三河守源頼綱と中納言君(小一条院敦明親王の娘)の子。六位の蔵人より下総、下野の国司を経て、兵庫頭に至った。父より歌才を受け継ぎ、「金葉和歌集」以下の勅撰集に十五首が入集している。しかしこの一首、「日文研」の「和歌データベース」で見ると、「夫木和歌抄」の「巻三 春三」に載るものの、
そひのゐるゐくひのやなきなはへしてめくみにけりなはるをわすれす
となっている。「そひ」は「とび」ではない。これは「鴗」で「そにどり」、ここでは「そび」と読んで、「翡翠(かわせみ)」(ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis)の別名である。だいたいからして、井戸の目印或いは井桁の柱である杭にとまっている鳥と柳の様子が春らしいという主題からして、トビでは相応しいとは思えぬ(飛んで鳴いているならまだしも)。これは「鳶」ではなく「鴗(そび)」でカワセミの誤りである。ただ、「なはへして」の意味が判らぬ。「名映え」ならば「なはえ」でなくてはいけない。識者の御教授を乞う。
「或る書に云はく」出典不詳。識者の御教授を乞う。なお、ここから全文が後の(四十六年後)大朏東華(おおでとうか:人物不詳)の「斉諧俗談(せいかいぞくだん)」(宝暦八(一七五八)年刊)の「巻之一」の終りの方にある、「愛宕山鳶(あたごやまのとび)」にほぼ丸ごと引用されている。以下に引く(吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。〔 〕は私が読みを補った部分)。
*
○愛宕山鳶(あたごやまのとび)
或書に云。天人熊命(あまのひとくまのみこと)、化(け)して、三軍の幡と成る。その後神武天皇、長髓彦と戰ひて、勝〔(かち)〕たまはず。時に金色の鳶飛來〔(きたり)〕て、天皇の弭〔(ゆはず)〕に止〔(とま)〕る。其かたち流電の如し。因〔(より)〕て敵軍みな迷眩〔(めくらみ)〕す。天皇よろこびたまひて曰〔(のたまはく)〕、いづれの神ぞ。奏して云〔(いはく)〕、「天照大神の勅を奉り、鳶に化〔(け)〕して來〔(きた)〕る。吾此國に住〔(すみ)〕て、軍戰を守らんと、また問〔(とひ)〕たまふは、何くの所に住むと思ふ。奏して云、「山背國怨兒(やましろのくにあたご)の山に住むべし」と。因て、其山に住せしめ、天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむと。
*
「天人熊命(〔あめ〕の〔ひとくま〕のみこと)」「日本書紀」の「巻第一 神代上」に出る天熊人命(あめのくまひとのみこと)。天照大神の命を受けて、葦原中国の保食神(うけもちいのかみ:女神)の死を確認した人物(この前段で、彼女は月読命(つくよみのみこと)に保食神の支配の様子を見てくるよう命じ、月読が保食神の所へ行くと、彼女は陸を向いて口から米飯を吐き、海を向いて口から魚を吐き、山を向いて口から獣を吐いて、それらを料理して彼を饗応したのだが、月読命はその生み出す様子を見てしまい、「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒って保食神を斬ってしまう。それを聞いた天照大神は怒り、「もう月夜見尊とは会わぬ」と言ったため、太陽と月が昼と夜とに別れて出るようになったとする(所謂、星系運行神話の元))。彼女の遺体の頭頂部から牛馬が生まれ、額の上から粟が、眉の上から繭が、目の中から稗が、腹の中から稲が、陰部からは麦・大豆・小豆が生まれており、彼はこれら総て取って、持ち帰って進上し、天照大神は大いに喜んだとする。所謂、食物起源神話である。
「三軍(〔みむろ)〕の幡〔(はた)〕」「三軍」(さんぐん)は古兵法の先陣・中堅・後拒、または左翼・中軍・右翼を指すが、ここは転じて「全体の軍隊・全軍」の意で、「幡」は上り旗で軍隊のシンボル。しかし、天熊人命がそれに変じたとは「日本書紀」には、ない。
「神武天皇」第一代に数えられる天皇。名は「神日本磐余彦(かんやまといわれひこのみこと)」で「神武」は諡号。「記紀」によれば「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」の曾孫、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の子で母は妃玉依姫(たまよりひめ)。日向を出発して瀬戸内海を東進し、難波に上陸したが、長髄彦(ながすねひこ)の軍に妨げられ,迂回して吉野を経て、大和に攻め入り、遂に大和一帯を平定し、紀元前六六〇年(機械的換算)に大和畝傍橿原宮に都して元旦に即位、「媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)」を立てて皇后とし、百二十七歳で没したと伝えられる。これは「日本書紀」の紀年法の誤りからきたもので、考古学的にみれば、原始社会の段階に於ける大和の一土豪として喧伝されてきた話を、このような形で描いたものであろうとされ、その東征説話も大和朝廷の発展期に於ける皇室の淵源を恣意的に悠遠の彼方に置き、九州と大和との連係の必然性を謳おうとしたものであろうとされる。また、崇神天皇こそが第一代天皇であり、神武天皇はその投影に過ぎないとする説もある(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。以下、この部分に用いられている「日本書紀」の神武記の部分を示す。私は「日本書紀」を所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一四(一九三九)年岩波文庫刊黒板勝美編「訓読 日本書紀」を参考にしつつ、一部を読み易く変更した。
*
皇師(みいくさ)[やぶちゃん注:神武天皇。]、遂に長髓彦を擊ちて、連(しきり)に戰へども、取-勝(か)つこと、能(あた)はず。時に忽然(たちまち)に、天(ひ)、陰(し)けて、雨氷(ひさめ)ふる。乃(すなは)ち、金色(こがねいろ)の靈(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び來たりて、皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止まれり。其の鵄(とび)、光り曄-煜(てりかかや)きて、狀(かたち)、流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髓彦が軍卒(いくさびとども)、皆、迷-眩-之(まどまきて)、復(ま)た力(きは)め戰はず。長髓は、是れ、邑(むら)の本(もと)の號(な)なり。因りて亦、以つて人の名と爲す。皇軍(みいくさ)の、鵄(とび)の瑞(みづ)を得るに乃(よ)りて、時の人、仍りて鵄邑(とびのむら)と號(なづ)く。今、鳥見(とみ)と云ふは、是れ、訛れるなり。
*
「長髓彦(〔なが〕すね〔ひこ〕)」ウィキの「長髄彦」より引く。『神武天皇に抵抗した大和の指導者』。『神武天皇に降伏しようとするも、ニギハヤヒ(物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神)に殺されたという』。「古事記」『では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(アビヒコ)という兄弟がいるとされる』。『饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある』。『旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている』。『登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる』。『神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している』。『その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった』。『ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された』とある。
「流〔るる〕電光〔(いなびかり)〕のごとし」東洋文庫訳は『流電のように光りかがやいた』とするが、如何にも生硬で熟れていない。原文そのままの方が遙かに判り易い。訳を見た瞬間、私しゃ、長髄彦が東宝の殺獣兵器メーサー光線車によって撃たれたのかと思いましたワン!
「迷-眩〔(めくら)み〕」この読みは東洋文庫版のそれを援用した。
「軍戰の業(わざ)を護〔(まも)〕らん」「戦さの際に於ける守護神となりましょう」。
「山背國〔(やましろのくに)〕」山城国の古称はこう書いた。
「怨兒(あたごの)山」愛宕山。
「天狗神〔(てんぐがみ)〕を領〔(りやう)〕せしむ」当山に棲息する天狗らの神・眷属を支配させた。「天狗」という語は中国では「凶事を知らせる流星」を指した。ウィキの「天狗」によれば、本邦に於ける初出は、「日本書紀」の舒明天皇九(六三七)年二月二十三日の条の、『都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻』(みん)『が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」』であるとする。原文は以下。
*
九年春二月丙辰朔戊寅。大星從東流西。便有音似雷。時人曰。流星之音。亦曰。地雷。於是。僧旻僧曰。非流星。是天狗也。其吠聲似雷耳。
*
『飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる』とあるから、この良安が引く怪しげな書物は古くても平安中後期より前には溯れないと考えてよかろう。]
« 柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(8) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(2) | トップページ | 和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷸子(つぶり・つぐり) (チョウヒ・ハイイイロチョウヒ) »