萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 輪廻と轉生
輪廻と轉生
地獄の鬼がまはす車のやうに
冬の日はごろごろとさびしくまはつて
輪𢌞(りんね)の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。
ああ こんな陰鬱な季節がつづくあひだ
私は幻の駱駝にのつて
ふらふらとかなしげな旅行にでやうとする。
どこにこんな荒寥の地方があるのだらう
年をとつた乞食の群は
いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆさ
禿鷹の屍肉にむらがるやうに
きたない小蟲が燒地(やけち)の穢土(ゑど)にむらがつてゐる。
なんといふいたましい風物だらう
どこにもくびのながい花が咲いて
それがゆらゆらと動いてゐるのだ
考へることもない かうして暮れ方(がた)がちかづくのだらう
戀や孤獨やの一生から
はりあひのない心像も消えてしまつて ほのかに幽靈のやうに見えるばかりだ。
どこを風見の鷄(とり)が見てゐるのか
冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれてゐる。
[やぶちゃん注:標題の「廻」の字体はママ。本文内に二箇所で現れる「輪𢌞」と「𢌞る」の「𢌞」は実は底本では(えんにょう)の上に載る中の部分が「巳」ではなく「己」となっている字体(「グリフウィキ」のこれ)で表記が出来ないことから、最も近い字体として「𢌞」を配したものである。筑摩版全集校訂本文も当然の如く、標題を含めて総て「𢌞」となっている。
「ふらふらとかなしげな旅行にでやうとする」の「でやうとする」はママ(これまでにも萩原朔太郎しばしばやらかしている歴史的仮名遣の誤りであり、特に私は躓かない)。
九行目の「いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆさ」の「さ」は明らかにおかしいのであるが、「ママ」で、言わずもがな、「いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆき」の「き」の誤植であるが、正誤表があるわけでもないので、ここは特異的にママで出した。
大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』初出。
初出は「禿鷹」(はげたか)が「禿鷲(はげわし)」(ルビ有り)である以外は有意な異同は認めない。
「定本靑猫」では、
「どこにこんな荒寥の地方があるのだらう」が「どこにこんな荒寥の地方があるのだらう!」
となり、
「なんといふいたましい風物だらう」も「なんといふいたましい風物だらう!」
で、最終行の、
「冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれてゐる。」が「冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉つぱが吹かれてゐる。」
となっている以外は、有意な異同を認めない。但し、これらは朗読では有意に変化が起こる。
老婆心乍ら、標題の「轉生」は「輪廻」(「輪𢌞」)と対になっているから「てんしやう」(てんしょう)以外の読みはあり得ない。
「心像」は「しんざう」で「image」の訳語で、過去の経験や記憶などをもととして具体的に心の中に思い浮かべたもの。「心象」と同じだから「しんしやう(しんしょう)」と読みたくなるし、「像」には「シヤウ(ショウ」の音はあるから、ここはちょっと自分勝手にそう読みたい。幸い、朔太郎は後の再録の孰れでも「いめいぢ」などというかったるいルビは振っていないから、「しんしやう」でよかろうかと勝手に合点させて貰う。
「瘠地」「やせち」。]
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