萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 遺傳
遺 傳
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく靑ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聽き! しづかにして
道路の向ふで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに靑ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
[やぶちゃん注:「向ふ」はママ。大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出では、オノマトペイア「のをあある とをあある のをあある やわああ」は総て一字下げで、「お聽き! しづかにして」は「お聽き、しづかにして」で迫力が減衰している。「こころ」は「心臟」に「こゝろ」とルビしている他は、有意な異同はない。「定本靑猫」には再録されていない。一見、「月に吠える」の猫の二番煎じ的印象を受けるが、こちらの方がオノマトペイアも詩篇の言わんとするところも、より深刻で、私はブラック・ユーモアを気取った「猫」よりも、こちらの方が遙かに好きだ。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 猫』と比較対照されたい。……ああっ! これは私の亡き母! 犬は亡き三女のアリス! そうして……少年は淋しい私そのものではないか!?!……]