萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 怠惰の曆
閑 雅 な 食 慾
怠 惰 の 曆
いくつかの季節はすぎ
もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた
馬車はごろごろと遠くをはしり
海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる
なんといふ怠惰な日だらう
運命はあとからあとからとかげつてゆき
さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる
もう曆もない 記憶もない
わたしは燕のやうに巢立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。
むかしの戀よ 愛する猫よ
わたしはひとつの歌を知つてる
さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げやう
ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。
[やぶちゃん注:「閑雅な食慾」はパート標題。初出は筑摩版全集初版の解題によれば、大正一一(一九二二)年六月号『嵐』であるが、採集不能のため、掲載されていない。「定本靑猫」では「むかしの戀よ 愛する猫よ」が「むかしの人よ 愛する猫よ」に改変されているが、その後の詩集「宿命」では「戀」に戻した上で感嘆符を附し、「むかしの戀よ 愛する猫よ!」としている。
私は個人的にこの「さうして遠い海草の焚」(た)「けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げやう」! というコーダが好きだ。これはもう、万葉人の藻塩焼く、それ、である。その古代の侘しくも懐かしい夕暮れの焼けた空から、詩人は「爛れるやうな接吻』(キス)『を投げやう』! と言うのだ。「もう曆もない 記憶もない」遠い時代をドライヴしてきた「かなしい情熱」だけが支えである詩人の呼ぶ声が哀しくも素敵ではないか!]
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