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2019/01/11

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 鷄

 

  

 

しののめきたるまへ

家家の戶の外で鳴いてゐるのは鷄(にはとり)です

聲をばながくふるはして

さむしい田舍の自然からよびあげる母の聲です

とをてくう、とをるもう、とをるもう。 

 

朝のつめたい臥床(ふしど)の中で

私のたましひは羽ばたきをする

この雨戶の隙間からみれば

よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです

されどもしののめきたるまへ

私の臥床にしのびこむひとつの憂愁

けぶれる木木の梢をこえ

遠い田舍の自然からよびあげる鷄(とり)のこゑです

とをてくう、とをるもう、とをるもう。 

 

戀びとよ

戀びとよ

有明のつめたい障子のかげに

私はかぐ ほのかなる菊のにほひを

病みたる心靈のにほひのやうに

かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを

戀びとよ

戀びとよ。 

 

しののめきたるまへ

私の心は墓場のかげをさまよひあるく

ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥

このうすい紅(べに)いろの空氣にはたへられない

戀びとよ

母上よ

早くきてともしびの光を消してよ

私はきく 遠い地角のはてを吹く大風(たいふう)のひびきを

とをてくう、とをるもう、とをるもう。 

 

[やぶちゃん注:正七(一九一八)年一月号『文章世界』初出。初出は総ルビであるが、この当時のこうした総ルビの作品は、概ね、編集者や校正者が勝手に附したものであって、それを以って云々することは厳に慎まれなければならない。例えば「大風」には初出は「おほかぜ」とルビするが、恐らくはそれが自身の読みと異なったが故にこそ、彼はここで「たいふう」と振った可能性が高い。初出には有意な相違を私は認めない。後の「定本靑猫」では「私のたましひは羽ばたきをする」を「私のたましひは羽ばたきする。」が朗読での大きな相違で、後者を私は支持するものである。ともかくも、この「とをてくう、とをるもう、とをるもう。」というオノマトペイアは格別に素晴らしい!

「地角」は「ちかく」(初出ルビもそうなってはいる)で、これには、「大地の隅(すみ)・遠く離れた土地の涯(はて)・僻遠の地」の他、「陸地の細く尖って海中に突出した所。岬。地嘴(ちし)」の意があるが、これはもう、全体の雰囲気から、前者以外にはない。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『鷄(本篇原稿二種五枚)』として以下の無題一篇が載る。表記は総てママである。

 

  

 

しののめきたるまヘ

の雨戶家のそとで鳴くいてゐるのは鷄です、[やぶちゃん注:「鳴くいて」はママ。「く」は作者の衍字であろう。]

とうてく、もうとろ、とうてく、もうとろ、

聲をばながくふるはして

さむしい田舍の自然から呼びあげる母の聲です、

とうてく、もうとろ、とうてく、もうとろ、

天氣のよい朝あやく雨戶をあけて[やぶちゃん注:「あやく」は「はやく」の誤字。]

この農家の人たちは畑にスキをとるとき

けぶれる柳の下に餌をあさるものは鷄です、

一羽の私 ああ、なんといふ美しい朝の景色でせう、

なんといふ麗はしい禽鳥の羽色でせう、

田舍の自然を恐れるとき

田舍の人の にぶい感覺 野卑な生活を卑しむとき

私は あの いつも臥床にゐて、鷄のこゑを 思ふ

とうてく、もうとろ、とうてく、もうとろ、

けふける柳の木の下で[やぶちゃん注:「けふける」「けぶれる」の誤記。]

私はいま朝の白い臥床の中で

私のたましひは羽ばたきをする、

白い臥床の中でどこにたよるべき美しい世界があるか

この雨戶をあけてみれば

世界よもの景色はあかるくかがやいてゐるのです、

ああ、そのされども、しののめきたるまヘ

私の心はやるせなく戀びとににしのびこむひとつの憂愁

わなわなとふるゑる

遠い田舍の自然から呼びなける鷄の聲々

この鷄鳴は町の家並をこえてくるのです、

そうして遠い田舍の自然をよびあげるのです、

遠い田舍の

 

そうです、田舍は遠くはなれて考へるとき、

田舍 の美しさはなんといふやさしい母の姿 に似る であるか、

自然の中の

 

   *

 本篇を以ってパート「憂鬱なる櫻」は終わっている。]

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