明恵上人夢記 79
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廿日の夜、夢に云はく、一疋の馬有りて、我に馴(な)る【此の馬と覺ゆ。】。少しも動かず。押し遣れば去り、引き寄すれば、來る。やはやはとして麁(あら)からずと云々。
[やぶちゃん注:「78」を受けて、承久二(一二二〇)年十一月二十日と採る。
「此の馬と覺ゆ」これは夢の中の明恵の意識が、覚醒時の明恵には理解出来ないものの、『ああ! この馬だったんだ!』と納得していたことを意味すると私は採る。夢の中の明恵にはこの馬が何を意味しているかが、鮮やかに理解されていた、しかし、目覚めた後の明恵には〈その納得〉の中身が判らなかったのである。しかし、何か大事なシンボルだということを理解した明恵がこれを夢記に記したというのことである。私のような凡夫でさえ、しばしば夢の中であるとてつもない開明に達して、エクスタシーを覚えながら、翌朝、目覚めて何が判ったのか判らなかったことは何度もある。或いはアドレナリンの放出とか、性的願望の昇華などとも使い古された解釈は可能かも知れぬが、明恵にはなかなか、そんなものは通用せぬ。この馬の動きは、明恵が立ち止まって考え込んでいた、修行或いは現実世界への対応の一つの行動様式への暗示・示唆となっているのであろう。
「麁(あら)からず」「やはやは」とした感じながら、荒々しさやいい加減な感じは全くない、というのである。]
□やぶちゃん現代語訳
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承久二年十一月二十日の夜、こんな夢を見た――
一頭の馬がいて、私に馴(な)れている。
その時、私は瞬時に、
『ああっ! そうかそうだったのか!! この馬だったのだ!!!』
とはっきりと意識している自分を自覚した。
馬は、これ、ぴくりとも動かぬ。
押しやってみると、押しただけそちらへ去り、引き寄せてみると、素直にその通りにやって来る。
やわやわとしてなすがままで〈ある〉けれど、決して魯鈍なのではなく、〈己(おのれ)〉をしっかと持っている。荒々しさやいい加減なものなど、これ、微塵もない――〈確かにここにある〉馬――なのだ!……
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