柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(10) 「河童ノ詫證文」(1)
《原文》
河童ノ詫證文 其時代ノ河童ハ神代ノ草木ト同ジク能ク人語ヲ解シタリト見ユ。【詫證文】又人間ト同ジク或ハ泣キ或ハ叩頭シ、甚シキハ人間ト對等ニ不行爲ノ契約ヲ締結セリ。其契約モ單ニ口頭ノモノノミナラズ、時トシテハ書面ヲ以テ差出シタルヲ以テ察スレバ、約ニ背キ若シクハツイ失念シテ相濟マヌコトナドモ、ヤハリ人間竝ニテアリシカト思ハル。出雲八束郡川津村大字西川津ニモヨク似タル話アリ。昔此村水草川(ミクサガハ)ノ河童、馬ヲ引込マントシテ例ノ如ク失敗シ、色々ト村民ニ陳謝シ辛ウジテ助命ヲ得タリ。【氏神】此時ノ河童退治ハ全ク村ノ氏神宮尾明神ノ神德ニ因ルト云ヘリ。【エンコウ】雲陽志ニハ此顚末ヲ記載シ且ツ曰ク、ソレヨリ後此里ニテハ猿猴災ヲ爲スコトナシ。其故ニ世人ハ此社ヲ猿猴ノ宮ト稱ス。猿猴トハ俗ニ謂フ「カハコ」ノコト也。又「カハツパ」トモ「カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。]」トモ、國々ニテ名ノ相違アリ。水中ニ住ミテ人ノ害ヲ爲ス者ナリ云々(以上)[やぶちゃん注:丸括弧はママ。]。近代ノ傳承ハ之ト若干ノ變化アリ。猿猴トハ言ハズシテ河獺ト稱ス。河獺馬ノ綱ヲ身ニ纏ヒテ之ヲ引込マントシ、却ツテ馬ノ爲ニ引摺ラレテ棉畠ノ中ヲ轉ゲ廻ル。村ノ者之ヲ見ツケテ河子々々ト騷ギ立テ、終ニ之ヲ捕ヘタリ。河獺ガ手ヲ合セテ拜ムニヨリ、殺サントセシ命ヲ宥シ、河獺ハ其儘村ニ奉公シテ田畠ノ仕事ヲ爲セリ。然レドモ本來人間ノ生膽ヲ拔クヲ好ムヲ以テ、奉公中モ其ノ癖ヤマズ。【御尻用心】折モアレバ村ノ者ノ臀ノ邊ニ手ヲ出ス故、始ノ程ハ各自ニ瓦ヲ當テテ用心ヲセシモ、アマリ度々ノ事ニテ氣味ガ惡クナリ、相談ノ上河獺ニ證文ヲ入レサセテ之ヲ放ス。村ノ宮ニ祀レルハ實ニ此時ノ證文ナリ。【水難禁呪】今モ土地ノ人ハ水泳ノ時ニ雲州西川津ト唱フルヲ常トス。是レ河子除(カハゴヨケ)ノ呪文ナリ〔日本傳說集〕。河童ト河獺トヲ混同スル例ハ他ニモ存ス。中國西部ノ諸縣ニ於テ今モ河童ヲ「エンコウ」ト呼ブハ、殊ニ我輩ノ肝要ト認ムル所ナリ。【手形】長門ノ萩ニ近キ阿武郡椿鄕西分村ニ於テハ、亦雲州ノ西川津ト同ジク、古クヨリ「エンコウ」ノ手形ナルモノヲ傳フル神社アリ。【守札】之ヲ板行シテ信心ノ徒ニ施ス、牛馬安全ノ護符トシテ有效ナリト云ヘリ。此手形ニ關シテモ同種ノ由來記アリ。寬永年間ト云ヘバイト古キコトナリ。「エンコウ」或家ノ馬ヲ水中ニ引入レントシテ相變ラズ失敗ス。手形ハ卽チ其河童ガ、再度此村ノ牛馬ニ對シテ非望ヲ抱カザルべシト云フ誓約書ナルガ故ニ、之ヲ寫セシ印刷物マデモ、牛馬ヲ保護スルノ效力アルモノト認メラレシ也〔長門風土記〕。
《訓読》
河童の詫證文(わびしやうもん) 其の時代の河童は神代(かみよ)の草木と同じく、能く人語を解したりと見ゆ。【詫證文】又、人間と同じく或いは泣き、或いは叩頭(ていとう)し、甚しきは、人間と對等に不行爲の契約を締結せり。其の契約も單に口頭のもののみならず、時としては、書面を以つて差し出したるを以つて察すれば、約に背(そむ)き若(も)しくは、つい、失念して相ひ濟まぬことなども、やはり、人間竝(なみ)にてありしかと思はる。出雲八束(やつか)郡川津村大字西川津にも、よく似たる話あり。昔、此の村水草川(みくさがは)の河童、馬を引き込まんとして、例のごとく、失敗し、色々と村民に陳謝し、辛(から)うじて助命を得たり。【氏神】此の時の河童退治は、全く村の氏神宮尾明神の神德に因る、と云へり。【エンコウ】「雲陽志」には此の顚末を記載し、且つ曰く、『それより後、此の里にては、猿猴(エンコウ)、災ひを爲すこと、なし。其れ故に、世人は此の社(やしろ)を「猿猴の宮」と稱す。猿猴とは俗に謂ふ「カハコ」のことなり。又、「カハツパ」とも「カハタロウ」とも、國々にて名の相違あり。水中に住みて、人の害を爲す者なり』云々(以上)。近代の傳承は之れと若干の變化あり。「猿猴」とは言はずして、「河獺(かはをそ)」と稱す。河獺、馬の綱を身に纏ひて、之れを引き込まんとし、却つて、馬の爲に引き摺られて棉畠(わたばたけ)の中を轉(ころ)げ廻(まは)る。村の者、之れを見つけて、「河子々々」と騷ぎ立て、終に之れを捕へたり。河獺が手を合せて拜むにより、殺さんとせし命(いのち)を宥(ゆる)し、河獺は其の儘、村に奉公して、田畠(でんぱた)の仕事を爲(な)せり。然れども、本來、人間の生膽(いきぎも)を拔くを好むを以つて、奉公中も、其の癖、やまず。【御尻用心】折もあれば、村の者の臀(しり)の邊りに手を出だす故、始めの程は、各自に瓦(かはらけ)を當てて用心をせしも、あまり度々の事にて氣味が惡くなり、相談の上、河獺に證文を入れさせて、之れを放す。村の宮に祀(まつ)れるは、實(じつ)の此の時の證文なり。【水難禁呪(きんじゆ)】今も土地の人は水泳の時に「雲州西川津」と唱ふるを常とす。是れ、「河子除(かはごよけ)」の呪文なり〔「日本傳說集」〕。河童と河獺とを混同する例は他にも存す。中國西部の諸縣に於いて、今も「河童」を「エンコウ」と呼ぶは、殊に我輩(わがはい)[やぶちゃん注:柳田國男]の肝要と認むる所なり。【手形】長門(ながと)の萩に近き阿武(あぶ)郡椿鄕(つばきがう)西分村(にしぶんそん)に於いては、亦、雲州の西川津と同じく、古くより「エンコウの手形」なるものを傳ふる神社あり。【守札(まもりふだ)】之れを板行(はんぎやう)して信心の徒(と)に施す、「牛馬安全」の護符として有效なり、と云へり。此の「手形」に關しても同種の由來記あり。寬永年間[やぶちゃん注:一六二四年から一六四五年。第三代将軍徳川家光の治世。]と云へば、いと古きことなり。「エンコウ」、或る家の馬を水中に引き入れんとして、相ひ變らず、失敗す。手形は、卽ち、其の河童が、再度、此の村の牛馬に對して非望(ひばう)[やぶちゃん注:分不相応の大きな望み。]を抱かざるべし、と云ふ誓約書なるが故に、之れを寫せし印刷物までも、牛馬を保護するの效力あるものと認められしなり〔「長門風土記」〕。
[やぶちゃん注:「不行爲」法律用語としては「不作為」(為すべきことをしないこと)を指すが、ここはある種の行為を不法行為として指定することを指しているから、民事訴訟法のそれや、刑法上の不作為犯のそれとは異なるので、通常の用法ではない。
「出雲八束(やつか)郡川津村大字西川津」現在の島根県松江市西川津町(グーグル・マップ・データ)。松江市市街の北東部に当たる。ここに出る「水草川(みくさがは)」は現在、「朝酌川(あさくみがわ)」と呼称が変わっている。同町の準公式ガイドと思われる「川虎の郷(かわこのさと)かわつ まち歩きガイドマップ」(PDF)を見ると、標題の通り、ここの「河童」、柳田が「カハコ」と書いているものは「川虎」と漢字表記するものであるらしいことが判明する。ところが、それを祀っていると柳田が記す「村の氏神宮尾明神」というのは、上記のガイド・マップにもグーグルの地図上や国土地理院図にも見当たらない。ガイド・ブックのほぼ中央位置に今尾橋とあるから、この辺りと思しいのだが、ない。ガイド・マップでは地区の氏神を解説の十一番の「住吉神社」としているから、或いは、合祀されてしまったものかも知れない、などとも思ったが、だったら、ガイドマップに書きそうなもんだ、とも思う。ガイド・マップを眺めていたら、ふと、今尾橋の南東に「若宮さん」とあるのに気づいた。さらに「松江市 宮尾神社」で検索すると、「こころの巡礼」というサイト内の『トピックス「西川津の河虎」 松江の宮尾神社のカッパ伝説』というページに「宮尾明神 (雲陽誌西川津の項より)」として、『大己貴命をまつる、本社五尺四方、拝殿九尺 梁に三間、境内皆山なり、祭禮正月三日九月廿五日、古老傳にいわく昔西川津村を西長田村といひし時、猿猴人民をなやまし人皆難儀のことにおもひ、明神へいのりしに或時猿猴馬を川へ引こまんとしたりしに神力にてやありけん彼馬猿猴を陸へ引上たり、折節俚民出合で猿猴をとらへ神前にて石に證文を書、即社内に納をきて今にあり夫より後此里にて猿猴わさわひをなすことなし、此故にこの宮を世人猿猴の宮といへり、猿猴とは俗にいふかわこの事なり、又かわつは又かわ太郎なんと國々にて名のかわりあり、水中にすみて人に害をなすものなり』とあるのを見出し(当該ページにはこれに基づく紙芝居の絵がある。絵をクリックすると大きくなり、語りが下にテロップで附されてある)、ここで「今尾神社」と記すからには現存するのではないかと確信し、さらに調べると、同地区の「笠無自治会」公式サイト内の「かわつ故郷かるた」の「て」に『天馬坂昔あそんだ通学路』とあって、解説に『天馬坂は、西川津町橋本地区にある石段が連なる坂道です。この道は、上東川津町へ通じる村道、宮尾神社の参道でもあり、天にも昇る坂道という意味から天馬坂と名がつきました。その昔冬は雪も多く、子どものスキーそり等の遊び場、普段は通学路として利用されていました』とあるのを発見した。今尾神社は現存するのである。一つの推理であるが、この解説の「橋本」から、この雑木林のような小さな丘のようなものがある附近(グーグル・マップ・データの航空写真)に今尾神社はあるのではなかろうか? 郷土史研究家の御教授を乞う。【15:30追記】いつものT氏より、個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「熊野神社(市成)」に(地図有り。私の想定した位置の南方に当たる)、『合祀神』『宮尾神社(大己貴命)』の記載があるとメールを戴いた。そっか、合祀されちゃってたんだなぁ、リンク先にも河童のことは書かれてない。ちょと淋しいなぁ。でも、T氏はそれだけでなく、「雲陽誌」の「宮尾明神」の載る画像をお送り下さった。以下に附す。またまた激しく感謝!!!
「エンコウ」「猿猴」は本来は中国で猿類(我々ヒト(真核生物ドメイン Eukaryota 動物界 Animalia真正後生動物亜界 Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia 真獣下綱 Eutheria 真主齧上目 Euarchontoglires 真主獣大目 Euarchonta 霊長目 Primate 直鼻猿亜目 Haplorrhini(真猿亜目 Simiiformes)狭鼻下目 Catarrhini ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae ヒト亜科 Homininae ヒト族 Hominini ヒト亜族 Hominina ヒト属 Homo ヒト Homo sapiensを含む霊長目は別称でサル目である)を総称する語で、古くは中でも「手長猿」(現在の霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科
Hylobatidae のテナガザル類)と「尾長猿」(狭鼻下目オナガザル上科オナガザル科オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ族マカク属 Macaca)指した。但し、現行の中国語漢名では前者は「長臂猿」で、後者を「猿猴」に当てる。本邦に於ける「猿猴」認識は私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「猨(ゑんこう)」(「俗に猿猴の二字を用ひて之れを称す」と注記有り)で詳注しているので、そちらを参照されたい。同巻では別に「川太郎(かはたらう)」(「一名川童(かはらう)」の注記有り)別項立てされているのでそちらも見られたいが、何故、河童が、本邦の一部地方(主に西日本中部の中国・四国地方)で「えんこう」(猿猴)と呼ばれるようになったかは、追々、柳田國男が明らかにして呉れるであろう。
「カハタロウ」「河太郎」であるから、歴史的仮名遣では「カハタラウ」でなくてはならない。
「河獺(かはをそ)」読みは古式の感じと人に悪さをする妖獣として、実在した「かわうそ」と差別化するために敢えてこれとした。因みに、「ちくま文庫」版全集も『カワオソ』とする。絶滅した哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。実在する彼らはかなり古くから妖怪化されており、河童と棲息域が重なり、生態や習性も類似点があることから、その混同も有意に見られる。ウィキの「カワウソ」によれば、彼らカワウソ類は日本では(中国・朝鮮にもある)『キツネやタヌキ同様に人を化かすとされていた。石川県能都地方で』、二十『歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰かと声をかけられると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから』加賀(現・石川県)で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある』(河童が人間に化ける話は本書で既に出たし(夫に化けて行為に及んでいる)、実際に他の伝承でも認められる)。『江戸時代には』「裏見寒話」「太平百物語」「四不語録」などの『怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある』。『広島県安佐郡沼田町(現・広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという』。『青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた』。『また、生首に化けて川の漁の網にかかって化かすともいわれた』。『石川県鹿島郡や羽咋郡ではかぶそまたはかわその名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり』、十八、十九『歳の美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという』。『石川や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。『室町時代の国語辞典』「下学集」には、『河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』。『アイヌの昔話では、ウラシベツ(北海道網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある』。『中国では、日本同様に美女に化けるカワウソの話が』「捜神記」などの『古書にある』。『朝鮮半島にはカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。李座首(イ・ザス)という土豪には娘がいたが、未婚のまま妊娠したので李座首が娘を問い詰めると、毎晩四つ足の動物が通ってくるという。そこで娘に絹の糸玉を渡し、獣の足に結びつけるよう命じた。翌朝糸を辿ってみると糸は池の中に向かっている。そこで村人に池の水を汲出させると糸はカワウソの足に結びついていたのでそれを殺した。やがて娘が生んだ子供は黄色(または赤)い髪の男の子で武勇と泳ぎに優れ』、三『人の子をもうけたが末の子が後の清朝太祖ヌルハチである』。『ベトナムにもカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。丁朝を建てた丁部領(ディン・ボ・リン)は、母親が水浴びをしているときにかわうそと交わって出来た子であり、父の丁公著はそれを知らずに育てたという伝承がある』とある。
「人間の生膽(いきぎも)を拔くを好む」河童と言えば、人間の尻小玉を抜き取ることがよく語られるが、ウィキの「河童」によれば、『水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、「尻子玉」(しりこだま。尻小玉とも書く)を抜いて殺したりするといった悪事を働く描写も多い』が、この『尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で』、『河童は、抜いた尻子玉を食べたり、竜王に税金として納めたりするという。ラムネ瓶に栓をするビー玉のようなものともされ』、『尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になると言われている。「河童が尻小玉を抜く」という伝承は、溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも尻から何かを抜かれたように見えたことに由来するとの説もある。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様に、溺死者の姿が、内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる』とある。
「瓦(かはらけ)」素焼きの皿のようなものであろう。それを着衣の下、肛門の辺りに仕込んだものであろう。
「日本傳說集」高木敏雄著。大正二(一九一三)年郷土研究社刊。以上はここに出る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像の当該部)。
「エンコウ」「猿猴」。本来は猿(手長猿。以下の引用を参照)を指す漢語であるが、やはり、本邦で河童と混同されたもので、川に棲む猿としての妖怪名である。本邦のそれはウィキの「猿猴」によれば、『猿猴(えんこう)は広島県及び中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種』。『一般的にいう河童と異なるのは、姿が毛むくじゃらで猿に似ている点である。金属を嫌う性質があり、海又は川に住み、泳いでいる人間を襲い、肛門から手を入れて生き胆を抜き取るとされている。女性に化けるという伝承もある』。「土佐近世妖怪資料」によると、三『歳ほどの子供のようで、手足は長く爪があり、体はナマズのようにぬめっているという』。文久三(一八六三)年に『土佐国(現・高知県)で生け捕りになったとされる猿猴は、顔は赤く、足は人に似ていたという。手は伸縮自在とされる』(中国の妖猿の通臂猴の特徴と一致する)。『ある男が川辺に馬を繋いでいたところ、猿猴が馬の脚を引いて悪戯をするので、懲らしめようと猿猴の腕を捻り上げたが、捻っても捻ってもきりがなく、一晩中捻り続ける羽目になったという』。『民俗学者・桂井和雄の著書』「土佐の山村の妖物と怪異」』『によれば、土佐の猿猴は市松人形に化けて夜の漁の場に現れ、突くと』、『にっこり笑うという』。『人間の女を犯すこともあるという。猿猴が人に産ませた子供は頭に皿があり、産まれながらにして歯が』一『枚生えているといい、その子供は焼き殺されたという』。『また河童に類する四国の妖怪にシバテンがいるが、このシバテンが旧暦』六月六日の『祇園の日になると川に入って猿猴になるといい、この日には好物のキュウリを川に流すという』。『山口県萩市大島や阿武郡では河童に類するタキワロという妖怪がおり、これが山に』三『年、川に』三『年住んで猿猴になるという』。『広島市南区を流れる猿猴川の名前の由来となっている。付近では伝承にちなみ「猿猴川河童まつり」が開催されている』。『ほんらい猿猴とは、猿(テナガザル)と猴(マカク)の総称で、サルのことである』。『この生き物のモデルは、日本の隣国、中国南西部に生息していたテナガザル』(霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae)『ではないかといわれている』とある。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「猨(ゑんこう)」も是非、参照されたい。
「阿武(あぶ)郡椿鄕(つばきがう)西分村(にしぶんそん)」山口県萩市椿大字椿はここ(グーグル・マップ・データ)。読みはウィキの「椿村(山口県)」に拠ったが、本土で「村」を「そん」と読むのは、比較的珍しい。
『「エンコウの手形」なるものを傳ふる神社あり』山口県文書館製作になる「書庫に棲む動物たち」(PDF)の「申」の項に、『③萩長蔵寺の「猿猴の手形板」』とあり、『江戸時代はじめの頃の洪水のとき、近辺の牛馬を繋いでいたら猿猴が水中へ引き込もうとしたのを捕らえて、今後、牛馬の守護をするなら命を助けてやると言ったところ、猿猴は手を差し出して手形を押した。それを板に写し取り、牛馬の祈祷の時に用いるようになった。(「御国廻御行程記」、上写真)』とあり、『民俗学は、これらのカッパ(猿猴)は「水神の零落した姿」だととらえています。だとすると、これらの「猿猴退治」の伝承の背後には、「大蛇退治」の伝承と同様に、人々が治水・利水に苦労しつつ、用水をコントロールしていった歴史の断片が隠されているのかもしれません』とあるのは、神社ではないが、この長蔵寺(臨済宗)、まさに椿にある(グーグル・マップ・データ)。「長門風土記」は国立国会図書館デジタルコレクションにあるが、膨大で、調べる気が起こらない。悪しからず。
「板行(はんぎやう)」「ちくま文庫」全集では『ハンコウ』とするが、私の好きな読みで附した。]
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