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2019/01/15

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(5) 「河童家傳ノ金創藥」(3)

 

《原文》

 以上數箇所ノ接骨藥ハ本來其家ノ總領ト河童トノ外ニハ誰知ル者無キ祕密ナルべキ筈ナルニ、ポツポツト其噂ノ世ニ傳ハリタルハ此モ亦不思議ナリ。下條(シモデウ)ノ切疵藥ハ田野ニ生ズル所ノ蔓草ヲ以テ藥種トス。油類麺類ト差合アリト云フ迄ハ兎ニ角、魚類ヲ食フべカラズトアルハ河童ノ藥トシテハ少シク平仄ノ合ハヌ話也。日向國高鍋ノ庄左衞門ナル者、曾テ河童ト鬪ヒテ其一腕ヲ斬取リテ歸ル。河童哀求シテ其腕ヲ乞ヒ、此モ手繼ノ祕法ヲ祕シ去ルコト能ハズ、命ノマヽニ藥物ヲ臚列シテ見セタリ。然ルニ腕ヲ取返シ欣ビテ門ヲ出デ顧ミテ言フニハ、吾詳カニ藥劑ヲ述べタレドモワザト其一ヲ闕キタリト、終ニ水ニ沒シテ又追フべカラズ。【河童藥法】庄左衞門藥ハ後盛ニ世ニ行ハレ、用ヰテ金創打撲(ウチミ)ニ傅(ツ)クレバ神效アレドモ、全ク切レタル手足ノミハ繼ギ兼ヌルハ其一味ノ不足スル爲ト云フ〔水虎錄話〕。虛誕(ウソ)ヲ吐クホドナラバ丸々無用ノ草ヲ指示シテ可ナリ。半分約ヲ守ルト云フモ如何ナリ。博多ノ河童ハ鷹取氏ニ向ヒテ、イヤ僞ハ人間ノ器量ニコソアレ、化物ノ心ハ只一筋ニ行クモノニテ、命ヲ助ケラレ手ヲ求ムル間ハ、中々人ヲ欺クべキ餘裕ナシト言ヘリ。次ノ話ヲ考ヘ合ストキハ、此方ガ尤モラシク聞ユルナリ。河童ノ藥ト云フモノハ東ハ出羽ノ果ニモアリ。羽後平鹿(ヒラカ)郡榮村大屋寺内ノ某氏ニ於テ製スル河童相傳ト云フ接骨藥(ホネツギグスリ)ハ、黑燒ニシテ飮ミ藥トシ又傅藥(ツケグスリ)トス。此藥ヲ賣ル者秋田市ニモ能代町ニモ住シ、通名(トホリナ)ヲ又市ト云ヘリ。同ジク平鹿郡ノ橫手給人町(キフニンマチ)須田源六郞家傳ノ正骨藥、仙北郡長信田(ナガシタ)村川口ノ鷹嘴(タカノハシ)太右衞門ガ製スル飛龍散モ共ニ亦河童ノ相傳ニシテ、其家ハ兼ネテ骨接醫者ヲ業トセリ。此類ノ祕藥ニシテ河童ガ人間ヨリ夙ク知リ居タリト云フモノハ外ニモ多ク、何レモ其主劑ハ漢名ヲ扛板歸(コウハンキ)、和名ヲ「イシミカハ」【河童草】一名「カツパソウ」、又ハ「カツパノシリヌグヒ」ナドト稱スル植物ナリ〔雪之出羽路十二〕中陵漫錄卷十三ニ曰ク、萬病回春ニ扛板歸アリ。和名「イシミカハ」ト云フ草ニ當ツ。今時藥肆ニモ此ノ草ヲ賣ル。能ク折傷打傷ヲ治スルコト妙ナリト云フ。按ズルニ日向國ヨリ出ル河童相傳正左衞門藥ト云フアリ。能ク骨ヲ接ギ死肉ヲ活カス妙藥ナリ。【池】昔日向ニ古池アリ。每歳河童ノ爲ニ人命ヲ失フ。【鎌】或人薄暮此池ノ邊ヲ過グ。河童手ヲ出シテ足踵(カヽト)ヲ引ク。此人鎌ヲ以テ河童ノ手ヲ切リ取リテ歸リ、梁下ニ釣リ置ク。是ヨリ每夜來タリテ板ヲ扣イテ其手ヲ乞フ。其人大ニ罵リテ追ヒ散ラス。凡ソ來ルコト一七夜、此ノ人河童ニ謂ツテ[やぶちゃん注:ママ。]曰ク、此手乾枯シテ用ニ立ツコト無シト云ヘバ、河童對ヘテ曰ク、我ニ妙藥アリ之ヲ以テ活カスト。此人ヲ開キテ其手ヲ投ジ去ル。此夜ノ中ニ一草ヲ持チ來タリ置ク。考フルニ妙藥ト言ヒシハ此草ナルべシトテ、乾カシ置キテ金創及ビ打傷ノ人ニ施スニ甚ダ妙ナリ。之ニヨリテ每歳採リテ打傷ノ藥トス。甚ダ流行スルニ至ツテ近隣ノ人々此草ヲ知ラントスルヲ恐レ今ハ黑霜(クロヤキ)トス。按ズルニ每夜來タリテ板ヲ扛(タヽ)キテ歸ルト云フ、回春ニ扛板歸トアルト暗ニ相合ス云々〔以上〕。併シナガラ扛(コウ)ハ擧グル也、叩クコトニハ非ズ。此漢名ノ起原ハ、怪我人ガ即坐ニ本復シテ、歸ル時ニハ又板ヲ擔ギテ行カルルト云フ迄ノ意味ニテ、右ノ河童ノ因緣ニ結ビ附クルコトハ些シク難儀ナリ。但シ或地方ニテ之ヲ「河童ノ尻拭ヒ」ト呼ブハ、此草ガ水畔ニ生ジ莖ニ刺アリテ河童ノ滑ラカナル肌膚ヲモ擦リ得レバナランカ〔南方熊楠氏〕。

 

Isimikawagenten

[やぶちゃん注:当該パート内には『扛板歸・イシミカハ 草木圖卷七ヨリ』というキャプション(右から左)を持ったイシミカワの図が配されてある。「草木図説(そうもくずせつ)」は江戸後期の医師で植物学者であった飯沼慾斎(天明二(一七八二)年~慶応元(一八六五)年:本姓は西村、名は長順。伊勢出身。母方の親戚で漢方医の飯沼長顕の養子となった。江馬蘭斎・宇田川玄真に蘭方を学び、美濃大垣で開業、五十歳で隠居し、植物研究に専念した)。日本最初のリンネ分類法による植物分類図鑑。二十四綱目に分けて図解してある。全三十巻で草部二十巻は安政三(一八五六)年~文久二(一八六二)年に刊行されたものの、残りの木部十巻は未刊となった。後に牧野富太郎らが増訂版を刊行して補った。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、一部の黒い葉の表面の葉脈が潰れてしまって見えないので、「ちくま文庫」版全集の画像を撮り込もうと思ったが、『いやいや! この際、原典を引くに若(し)くはない!』と考え直した。国立国会図書館デジタルコレクションのにあったんだな! これが! 右ページの解説(柳田國男は左の図のみを引用している)も読み易い。ご覧あれ! 見易くするために少しだけハイライトをかけておいた。

 

《訓読》

 以上、數箇所の接骨藥(ほねつぎぐすり)は、本來、其の家の總領と河童との外(ほか)には誰(たれ)知る者無き祕密なるべき筈なるに、ぽつぽつと其の噂の世に傳はりたるは、此れも亦、不思議なり。下條(しもでう)の切疵藥(きりきずぐすり)は田野に生ずる所の蔓草(つるくさ)を以つて藥種(やくしゆ)とす。「油類・麺類と差合(さしあひ)[やぶちゃん注:差し障り。悪しき食い合わせ。]あり」と云ふまでは兎に角、「魚類を食ふべからず」とあるは、河童の藥としては、少しく平仄(ひやうそく)の合はぬ[やぶちゃん注:辻褄が合わない。]話なり。日向國(ひうがのくに)高鍋(たかなべ)の庄左衞門なる者、曾て河童と鬪ひて其の一腕を斬り取りて歸る。河童、哀求(あいぐ)して其の腕を乞ひ、此れも手繼(てつぎ)の祕法を祕し去ること能はず、命(めい)のまゝに藥物を臚列(ろれつ)[やぶちゃん注:連ね並べること。「羅列」に同じい。「臚」は「並べる」の意。]して見せたり。然るに、腕を取り返し、欣びて門を出で、顧みて言ふには、「吾(われ)、詳らかに藥劑を述べたれども、わざと、其の一(ひとつ)を闕(か)きたり[やぶちゃん注:取り除いておいたのだ。]」と。終に水に沒して、又、追ふべからず。【河童藥法】庄左衞門藥(くすり)は、後(のち)、盛んに世に行はれ、用ゐて、金創(きんそう)・打撲(うちみ)に傅(つ)くれば神效あれども、全く切れたる手足のみは、繼ぎ兼(か)ぬるは、其の一味の不足する爲と云ふ〔「水虎錄話」〕。虛誕(うそ)を吐くほどならば、丸々、無用の草を指示して可なり。半分、約を守ると云ふも、如何(いかが)なり。博多の河童は鷹取氏に向ひて、「いや、僞(いつはり)は人間の器量にこそあれ、化物の心は只一筋に行くものにて、命を助けられ、手を求むる間(あひだ)は、中々、人を欺(あざむ)くべき餘裕なし」と言へり。次の話を考へ合はすときは、此の方が、尤もらしく聞ゆるなり。河童の藥と云ふものは東は出羽の果(はて)にもあり。羽後平鹿(ひらか)郡榮村大屋寺内(おほやてらうち)」の某氏に於いて製する河童相傳と云ふ接骨藥(ほねつぎぐすり)は、黑燒にして飮み藥とし、又、傅藥(つけぐすり)とす。此の藥を賣る者、秋田市にも能代町(のしろまち)にも住し、通名(とほりな)を「又市(またいち)」と云へり。同じく平鹿郡の橫手給人町(きふにんまち)須田源六郞家傳の「正骨藥(せいこつやく)」[やぶちゃん注:推定訓。]、仙北郡長信田(ながした)村川口の鷹嘴(たかのはし)太右衞門が製する「飛龍散」も、共に亦、河童の相傳にして、其の家は兼ねて骨接(ほねつぎ)醫者を業とせり。此の類の祕藥にして河童が人間より夙(はや)く知り居(をり)たりと云ふものは外にも多く、何(いづ)れも其の主劑は、漢名を「扛板歸(コウハンキ)」、和名を「いしみかは」【河童草】一名「かつぱそう」、又ハ「かつぱのしりぬぐひ」などと稱する植物なり〔「雪之出羽路」十二〕「中陵漫錄」卷十三に曰く、萬病回春に「扛板歸」あり。和名「イシミカハ」と云ふ草に當つ。今時、藥肆(やくし)[やぶちゃん注:薬種屋。薬店。「くすりみせ」と訓じているかも知れない。]にも此の草を賣る。能く折傷(をれきず)・打傷(うちきず)を治すること、妙なりと云ふ。按ずるに、日向國より出(いづ)る「河童相傳正左衞門藥」と云ふあり。能く骨を接(つ)ぎ、死肉を活かす妙藥なり。【池】昔、日向に古池あり。每歳(まいとし)、河童の爲に人命を失ふ。【鎌】或る人、薄暮、此の池の邊(あたり)を過ぐ。河童、手を出(いだ)して足踵(かゝと)を引く。此の人、鎌を以つて河童の手を切り取りて歸り、梁下(はりした)に釣り置く。是れより、每夜、來たりて、板を扣(たた)いて其の手を乞ふ。其の人、大いに罵りて、追ひ散らす。凡そ來ること、一七夜(いちしちよ)[やぶちゃん注:七日目の夜。]、此の人、河童に謂つて曰はく、「此の手、乾枯(かんこ)して用に立つこと無し」と云へば、河童、對(こた)へて曰はく、「我に妙藥あり、之れを以つて活(い)かす」と。此の人、を開きて、其の手を投じ、去る。此の夜の中(うち)、一草を持ち來たり、置く。考ふるに、『妙藥と言ひしは此の草なるべし』とて、乾かし置きて、金創及び打傷の人に施すに、甚だ妙なり。之れによりて、每歳、採りて、打傷の藥とす。甚だ流行するに至つて、近隣の人々、此の草を知らんとするを恐れ、今は黑霜(くろやき)とす。按ずるに、每夜來たりて、「板」を「扛」(たゝ)きて「歸」ると云ふ。『回春に扛板歸』とあると暗(あん)に相合(さうがふ)す云々〔以上〕。併しながら、「扛」(コウ)は「擧(あ)ぐる」なり、「叩く」ことには非ず。此の漢名の起原は、「怪我人(けがにん)が即坐に本復(ほんぷく)して、歸る時には、又、板を擔ぎて行かるると云ふまでの意味にて、右の河童の因緣に結び附くることは、些(すこ)しく難儀なり。但し、或る地方にて、之れを「河童の尻拭(しりぬぐ)ひ」と呼ぶは、此の草が水畔に生じ、莖に刺(とげ)ありて、河童の滑らかなる肌膚をも擦り得ればならんか〔南方熊楠氏

[やぶちゃん注:「日向國(ひうがのくに)高鍋(たかなべ)」現在の宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋町(グーグル・マップ・データ)。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらによれば、『河童(ガタロウ)を高鍋ではひょうすんぼう、ひょうすぼという。ある春の雨の夜、高鍋の殿様が水源不足に悩んでいると、堀端の茂みから黒い影がヒュルル…ヒュルル…と鳴きながら出てきた。その夜、殿様の枕元に年を経たひょうすんぼうが』三『匹出て、夢に水源の場所を教えた。用水路が造られ、以来高鍋でも米が豊かに取れるようになった』(平成一一(一九九九)年宮崎県発行「宮崎県史 別編 民俗」の要約)とある。また、ここより北の内陸の日向市東郷町にも河童伝承があり、サイトmiyazaki ebooksの『日向に伝わる伝説。「ひょうすんぼ」(河童)について』に「ひょすぼ岩」の伝説が記されてある。この岩は残念ながら、現存しないが、何かしんみりするいい話である。必読。

「羽後平鹿(ひらか)郡榮村大屋寺内(おほやてらうち)」現在の秋田県横手市大屋寺内(グーグル・マップ・データ)。地図を拡大して見ると、如何にも河童が好きそうな池や沼が数多くある。

「橫手給人町(きふにんまち)」不詳。秋田県由利本荘市給人町(グーグル・マップ・データ)なら現存するが、ここは平鹿郡横手町(現在の横手市の前身)だったことはないし、横手の市街地から四十キロメートル以上も西である。識者の御教授を乞う。 なお、「給人」は江戸時代は幕府・大名から知行地、或いは、その格式を与えられた旗本や家臣を指す。正確には蔵米ではなく知行地を与えられた武士を指したが、全国的には後には「給人」格式を与えられながら、知行地を剝奪して蔵米知行に移行された者が有意に増えたが、東北・九州の外様では本来の知行制度が長く残った。【2019年1月16日追記】早速、いつものT氏より丁寧な情報提供があった。この「給人」は久保田藩の支城横手城に配置された武士を指し、その居住する屋敷町を言った。個人サイト「古い町並み」の「横手市の町並」に、慶長七(一六〇二)年、秋田藩への『佐竹氏の入部とともに、横手には伊達盛重が配置された。元和元』(一六一五)年『の一国一城令でも、取り壊しを免れ、領内支配の拠点として所領預りが置かれた。その後、須田氏』三『代、戸村氏が』八『代が横手城代として続き、藩政時代の県南地方の政治・軍事・経済の中心となって明治に至った』。『旭川以東の武家屋敷地区を内町、以西の町屋地区を外町と呼んでいた。内町は原則的に支配別・家格別に屋敷割りをされた。中期以降の居住形態を見ると、戸村組下の給人は本町・裏町・新町・御免町・上根岸・下根岸・嶋崎、向組下の給人は羽黒・羽黒新町・羽黒御免町となっている。また戸村支配の足軽は侍屋敷の北端に、向支配の足軽は侍屋敷の南端に屋敷割りされた』(太字は私が附した)とある。ウィキの「横手市」によれば、明治二二(一八八九)年四月一日の『町村制の施行により、横手』三十一町、『横手前郷村の区域をもって』、『鹿郡横手町が発足』『した』とあり、この「三十一町」の注釈に町名が並ぶが、上記の殆んどの町がそこに含まれていることが判る。秋田県公文書館の横手絵図」を見ると(「1」の左方向は北)、家臣の屋敷が横手城の南北、横手川東岸域に整然と配されてあるのが判る。「グーグル・マップ・データ」ではこの範囲相当となろう。柳田の言う「給人町」という町名を見出すことは出来ないが、拡大すると、上記の「羽黒町」が城跡の南に、本町が城跡直下西の横手川蛇行部に見られるから、これら全体を「橫手給人町」と呼んでいたものと考えられる。【2019年1月19日再追記】再びT氏より追加情報を頂戴した。T氏は引用元の「雪之出羽路」の第十二巻を国立国会図書館デジタルコレクションの「秋田叢書」で確認され、その「なごみのもり」「〇大屋寺内邑」(「邑」は「むら)の項の最後(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)の部分に、『『○接骨藥(ほねつぎぐすり)水虎(かつぱ)相傳』と見出しして、『此河童相傳てふ霜(くろやき)藥ところところに在り、みな飮くすりとし、傳(つけ)くすりとせり。また其正骨師を亦市と通號に呼ンで能代をはじめ、わきて秋田に多し。また橫手ノ給人町(うちまち)本ト町新町ノ須田源六郎家法に正骨ノ制藥あり、また仙北ノ郡河口村の鷹橋(たかのはし)太右衞門が制[やぶちゃん注:ママ。]ス飛龍散寄方[やぶちゃん注:「よるべ」頼りとするに足るもの。]也もとも正骨、接骨ノ醫術あり、尾張の淺井家の如し。此水虎と、いづこにも云ひて此藥多し。是をおもふに、此主藥といふは杠板皈[やぶちゃん注:「皈」は「歸」に同じ。後はそうなっている。]也、此杠板歸を河童の尻拭(しりぬぐひ)といふ處あり、こは河童草(さうでん)傳ををしかあやまり、あやしくも水虎にならひ、かつぱ相傳といへるもいかゞあらん。』とある。T氏はこの「橫手」の「給人町(うちまち)」(当時はこう読んでいたものらしい)「本」(もと)「町新町」という須田源六郎の住所表示から、先に私が示した秋田県公文書館の横手絵図」を閲覧され、『横手川沿いに新町があり、その屋敷名に須田らしき(草書でよく読めませんが)二軒あり、その中に名前に「六」らしき屋敷があります。二百坪以上の屋敷のようです』。『現在は、 秋田県横手市幸町で横手川沿いになります』と述べられた上で、グーグル・マップ・データのこの辺りと思われると指示して下さった。またまたお世話になった。感謝申し上げ、以下、不詳としていた須田の薬の注を除去した。

「仙北郡長信田(ながした)村川口」現在の秋田県大仙市太田町太田附近(グーグル・マップ・データ)。バスターミナル名に「長信田」があり、「長信田郵便局」もある。ウィキの「長信田村」によって「川口村」があったことが判るが、具体的な位置は不詳【2019年1月16日追記】私の探し方が悪かった。いつものT氏より御指摘があり、上記の長信田の南一キロ半程離れたところから川口川にかけて「太田町川口」(東北にも飛び地が有る)があり、ここ(グーグル・マップ・データ)であることが判明した。前の給人町とともにT氏に御礼申し上げる。

『鷹嘴(たかのはし)太右衞門が製する「飛龍散」』昭和三八(一九六三)年六月一日発行の『あきた』(通巻十三号)の宮崎進氏(当時、秋田市在住で日本民俗学会員のコラム記事「秋田の河童(かっぱ)伝説」によれば(原記事のPDFも有り!)、『さて、秋田におけるカッパ伝承を隅なく調べることは困難であるが「綜合郷土研究」(昭和十四年)によると、北秋の真中、早口、大阿仁、南秋の男鹿中、河辺の和田・由利の川内・北内越、仙北の角館・神宮寺、雄勝の東成瀬などのカッパ伝説が採録されている。しかしカッパが駒を川の中に引込もうとする形式をもって「河童駒引伝説」は男鹿中村の一つだけで、他はこの部分が忘失され、馬の尾について厩に入り、そこで人間に発見され、命乞いして助けられ、謝恩に人の命を取らぬこと、または物を献ずるという結末が多い』。『雄勝町西馬音内の大仁川や、「蛇の崎の河童コ雄河童コだ」という早口文句が残っていた横手市にも、カッパ伝説は多いのだが割愛して、その横手に合併した旧黒川村のカッパ殉難記を書き止めておこう』。『黒川村の百万刈はその名のように米どころであるが、ある年横手の戸村城代がこの土地で狩りをしたとき、城代の草履取りが百万刈を流れる百曲川のカッパに取られたというので、城代が怒って川を干しあげ、九十九の曲り淵に棲むカッパを皆殺しにした。そのため河水は濁り、別名を濁川と呼ぶようになったという残酷物語』。『害悪説も一面観だが、壱岐の島や長崎県の島々では、カッパを田の神・福の神としているそうだから受け取り方はさまざま、河川は灌漑水となりまた洪水となる。河伯神の両面の性格はカッパにも見られるわけだ』。『カッパの秘伝といわれる接骨薬は秋田にも多い。平鹿郡栄村大屋寺内(横手市)某氏の家伝薬、仙北郡長信田村川口(太田村)某家の飛竜散もカッパ直伝という伝説は、菅江真澄翁によって伝えられたが、その飛竜散は今日でも秋田市で売られている。まさに"生きている伝説"ではある。全国に多いカッパ相伝の接骨薬は、和漢三才図絵に「その手肱能く左右に通脱す」という故事に根源があるのではないか』。『土崎町では』、『むかし』、『河伯祭を行なったことが旧記に見える。川口に臨むため』、『毎年水死者が多いので、旧暦六月住吉神社に祈祷し、神供の一臼餅を夕暮れを待って川に流したという。同様の祭りは県内各地にも見られたが、カッパ祭りは要するに水神祭りの変化である』とあるのにびっくりして、検索してみたのだが、残念! 「飛龍(竜)散」は現存しないようだ。せめて写真でなりと、残っていないかなぁ……

『「扛板歸(コウハンキ)」、和名を「いしみかわ」【河童草】一名「かつぱそう」、又ハ「かつぱのしりぬぐひ」などと稱する植物』被子植物門双子葉植物綱タデ目タデ科イヌタデ属イシミカワ Persicaria perfoliataウィキの「イシミカワ」より引く。『和名には石見川・石実皮・石膠の字が当てられ、それぞれの謂われが伝えられるが、いずれが本来の語源かはっきりしない。漢名は杠板帰(コウバンキ)』(但し、同種の中文ウィキを見ると、「扛板歸」でも正しいことが判る)。『東アジアに広く分布し、日本では北海道から沖縄まで全国で見られる』一『年草。林縁・河原・道端・休耕田などの日当たりがよく』、『やや湿り気のある土地に生える』。『茎の長さは』一~二メートルに『達し、蔓状。葉は互生し』、『葉柄は長く』、『葉の裏側につく。葉の形は三角形で淡い緑色で、表面に白い粉を吹いたようになっている。さらに』、『丸い托葉が完全に茎を囲んでおり、まるでお皿の真ん中を茎が突き抜けたようになっているのがユニークである。他の種にも類似した托葉があるが、この種では特に大きいために』、『よく目立つ。茎と葉柄には多数の下向きの鋭いとげ(逆刺)が生える』。七~十月に『薄緑色の花が短穂状に咲く。花後につく』五ミリメートル『ほどの果実は熟して鮮やかな藍色となり、丸い皿状の苞葉に盛られたような外観となる』。『この藍色に見えるのは』、『実際には厚みを増し、多肉化した萼で、それに包まれて、中にはつやのある黒色の固い痩果がある。つまり、真の果実は痩果なのだが、付属する器官も含めた散布体全体としては、鳥などについばまれて種子散布が起こる漿果のような形態をとっていることになる』。『中国では全草を乾かして解熱・下痢止め・利尿などに効く生薬として利用する』。『蔓状の茎に生えた逆刺を引っ掛けながら、他の植物を乗り越えて葉を茂らせる雑草でもあり、特に東アジアから移入されて』、『近年』、『その分布が広がりつつある北アメリカでは、その生育旺盛な様子から』、「Mile-a-minute weed」(「一分で一マイル草」)、『あるいは葉の形の連想から』「Devil's tail tearthumb」(「悪魔の尻尾のティアトゥーム」。 tearthumb」はナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii に近縁な同じタデ科 Polygonaceae の草の英名)『などと呼ばれ、危険な外来植物として警戒されている』とある。さても、『この草、何だか、知ってる』と思ったら、「耳囊 卷之五 痔疾のたで藥妙法の事」に「石見川(いしみかは)といへる草に、白芷(しろひぐさ)を當分に煎じ用ゆれば奇妙のよし。吉原町の妓女常に用(もちゆ)る由、吉原町などの療治をせる眼科長兵衞物語也。」とあるのを遠い昔に注したのだったわ。

『「中陵漫錄」卷十三に曰く……』水戸藩の本草学者佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年:中陵は号)が文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記。ここに出るのは、巻之十三の「正左衞門藥」のかなり忠実な引用である(私は手元にある吉川弘文館随筆大成版で比較している)。但し、中陵は『和名「イシミカハ」』の部分を「イイトミカハ」と誤って記しているのを訂してある。また、中陵は「河童」を一貫して「河白」と書いており、初出の部分に「カツパ」とルビを振っている。これは、河童とは別な中国の水神「河伯」を本邦で誤って河童同一視したものの誤字であろう。但し、「相合(さうがふ)す」の後に原文では、

   *

恐らくは「扛板歸」の名、甚だ解しがたし。河白は乃(すなは)ちカツパなり。此草、濕草にして河白の住むべき所に多く生(おふ)る草なり。其(その)理(ことわり)、其(それ)、自然に出るなり。

   *

で終わっている。

「近隣の人々、此の草を知らんとするを恐れ、今は黑霜(くろやき)とす」「黑燒き」に同じい。民間薬の調法の一種で、通常は爬虫類・昆虫類などの主に動物を、土器の壺で原形をとどめたまま、蒸し焼きにし、真黒く焼いた(炭化させた)もの。薬研(やげん)などで粉末にして用いる。中国の本草学に起源を持つとする説もあるが、「神農本草」などにはカワウソの肝やウナギの頭の焼灰を使うことは見えているものの、黒焼きは見当たらない。恐らくは、南方熊楠が未発表稿「守宮もて女の貞を試む」で考察しているように(リンク先は私の古い電子テクスト注)、『古来日本に限った俗信』の所産かと思われる。「日葡辞書」に「Curoyaqi,Vno curoyaqi」が見られることから室町末期には一般化していたと思われ、後者の「鵜の黒焼き」というのは、咽喉に刺さった魚の骨などをとるのに用いる、と説明されている(ここは主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。なお、本来の黒焼きは原形をそのまま留めておいて炭化させるのであるが、イシミカワを壺に詰めて黒焼きにすれば、その時点で原型を留めなくなり、ただのクシャクシャした黒い塊りになるだけであろうから、その辺に生えているイシミカワだとは思われないということであろう。

「每夜來たりて、「板」を「扛」(たゝ)きて「歸」ると云ふ。『回春に扛板歸』とあると暗(あん)に相合(さうがふ)す云々」。『回春に扛板歸』は当時、「扛板歸」が回春剤(精力快復剤)となるという巷間の噂があったのであろう。それで、毎晩、閨の戸を叩いて、夜這いしてくるという、シークエンス上の類感呪術的効果を中陵は謂っているのである。

『「扛」(コウ)は「擧(あ)ぐる」なり、「叩く」ことには非ず』「扛」は確かに「持ち上げる・担ぐ・運ぶ」「(重いものを両手で)差し上げる」といった意味であるが、ウィキの表記の「杠」は全然違う意味で、「小さな橋」、「横木・旗竿」、「大型の竿秤(さおばかり)」の意である。

『此の漢名の起原は、「怪我人(けがにん)が即坐に本復(ほんぷく)して、歸る時には、又、板を擔ぎて行かるると云ふまでの意味』板に乗せられて瀕死の雰囲気で来た病人が、薬が強力に効いて、やって来る時に乗せられていたその担架を、ひょいと一人で担いで帰る、というそれこそ、温泉等でありがちな謳い文句である。

『或る地方にて、之れを「河童の尻拭(しりぬぐ)ひ」と呼ぶは、此の草が水畔に生じ、莖に刺(とげ)ありて、河童の滑らかなる肌膚をも擦り得ればならんか〔南方熊楠氏〕』これは明治四五(一九一二)年五月一日夜一時というクレジットを頭に記す(この三ヶ月後の七月三十日に明治天皇が崩御して大正元年に改元される)、南方熊楠から柳田國男宛の書簡に基づく。かなり分量があるので、別箇に電子化した。南方熊楠と柳田國男の往復書簡三通(明治四五(一九一二)年四月二十九日~同年五月一日)」を見られたい。

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