萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 群集の中を求めて步く
群集の中を求めて步く
私はいつも都會をもとめる
都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぶだ
ああ ものがなしき春のたそがれどき
都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか
みよこの群集のながれてゆくありさまを
ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない
ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いて行くことか
ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましくなるやうだ。
うらがなしい春の日のたそがれどき
このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで
どこへどうしてながれ行かうとするのか
私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
ただよふ無心の浪のながれ
ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
浪の行方は地平にけむる
ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。
[やぶちゃん注:底本傍点「ヽ」の「ぐるうぶ」はママ。「ぐるうぷ」の誤植で、筑摩版全集もそう校訂し、後掲する通り、萩原朔太郎自身が「定本靑猫」で修正している。大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出は最終行が、
ただひとつの悲しい方角をもとめるために。
となっている点で大きく異なる。私はぼかしたメタファーより、初出形の顕在的な絶望への傾斜の方が好みである。まあ、孰れにせよ、先行する「さびしい人格」に強烈な自己同一性を覚えてしまった私のような読者には、小規模なダルな都会偏愛の二番煎じの感は拭えない。
本篇は後の詩集「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)で以下のように改作されて載る(筑摩版全集に拠る)。改変部に下線部を引いた(誤植訂正を含み、語句カット・字空け挿入の場合は当該行全体に下線を引いた)。
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群集の中を求めて步く
私はいつも都會をもとめる
都會のにぎやかな群集の中に居るのをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ。
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ。
ああ 春の日のたそがれどき
都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。
みよ この群集のながれてゆくありさまを
浪は浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ。
人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと、みなそこの日影に消えてあとかたもない。
ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影[やぶちゃん注:この前にあった「ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いて行くことか」の一行をカットしている。]
たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましい。
いま春の日のたそがれどき
群集の列は建築と建築との軒をおよいで
どこへどうしてながれて行かうとするのだらう。
私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影。
ただよふ無心の浪のながれ
ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
もまれて行きたい。[やぶちゃん注:この前にあった二行『浪の行方は地平にけむる/ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。』をカットし、前行の最後をリフレインする形に変更。]
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七行目の「おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。」は呼応の齟齬修正として修辞上、正しい。既に述べたように、小手先のエンディング改変は私は気に入らぬ。なお、「定本靑猫」には全体の詩篇の組成コンセプトに、特別な配慮がなされており、本詩篇の後に、「ホテル之圖」(右から左書き)というキャプションを持つ版画(私は作者不詳)が配され、その下半分に、散文詩が掲げられ(既に昔、版画とともに電子化しているので参照されたい)、それを介した後に、本詩集にも載る「靑猫」がごく一部を改変されて載るのである。この配置は〈ダルな都会詩人たち〉の彼らにしか判らない(と思い込んでそれを特権としている)〈都会の憂鬱〉を過剰に演出する順列装置となっていることがあからさまに判ってくる。私はこの「定本靑猫」の版画群と添えられた散文詩が、最初に出逢った中学時代から、好きで好きでたまらない(特に「停車場之圖」。同じく画像・散文詩ともに電子化している)のであるが、ここに関しては、今回、この操作を知り、如何にもなそのやり口には、多少、鼻白む気がしたことを言い添えておきたい。]
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