譚海 卷之三 年號の文字
○年號の文字は文章博士(もんじやうはかせ)より撰進する也、菅家(くわんけ)・江家(がうけ)かわるがわる[やぶちゃん注:「わ」はママ。]撰(えら)み奉る也。年號行(おこなは)るゝ間は、年號料とて公儀より其家へ別祿を百石づつ賜(たまは)る事也。
[やぶちゃん注:「文章博士」本来は文章道(もんじょうどう:律令制に於ける大学寮の一学科で主に中国の詩文及び歴史を学んだ)を担当した大学寮の教官。神亀五(七二八)年令外官として、儒家の経書(けいしょ)講究の明経(みょうぎょう)道から分離して設置された。定員一人。奈良時代末に淡海三船(おうみのみふね)が大学頭兼文章博士に任ぜられて以来、急速に権威が高まり、弘仁一一(八二〇)年には従来の正七位相当から従五位下相当の官となった。承和元(八三四)年の紀伝博士の廃止により、文章博士の定員は二人となり、この頃から天皇・皇太子の侍講をも兼ねるようになった。九世紀末から菅原・大江両氏の独占となったが、貴族社会の衰微とともに形式化した官職になり下がった。唐名を「翰林学士」と称する(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]