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2019/01/31

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(13) 「河童ノ詫證文」(4)

 

《原文》

 元來詫證文ナルモノハ勝チタル方ノ言分ヲ何處マデモ通シ得ルモノナレバ、右ノ如ク至極念入ナルモ別ニ不思議トスルニ足ラザレドモ、苟クモ仁賀保金七郞ノ名ヲ揭グルニ於テハ、其眞僞ヲモ問フコト無ク、常ニ疫病神總員ノ營業ヲ禁止シ得ト云フニ至ツテハ、聊カ過酷ノ嫌無キニ非ザルナリ。唯舊來ノ緣故如何ニ拘ラズ勝チタル者ヲ以テ保護者ト賴ムハ、言ハヾ封建時代ノ餘風ナリ。「ヒヤウスヘ」ノ社、又ハ「エンコウ」ノ宮ノ御札ノ如キモ、要スルニ近世海船ノ國旗ト同ジク、一種庇護ノ權力ヲ標識スル徽章ニ他ナラズ。而シテ又相手ガ文字ニ疎キ河童ナルコトヲ考慮シ、今一段簡單ナル方法ヲ以テ之ヲ表示シタル例アリ。昔三河ノ某地、淸水權之助ナル人ノ領内ニ於テ、河童馬ヲ襲ハントシテ亦大ニ失敗シ、助命ノ條件トシテ約束ヲ爲ス。【紅手拭】卽チ手拭ノ端ヲ紅ク染メタルヲ持ツ人ニ對シテハ害ヲ加フマジト云フコトナリ。是ヨリ以後此附近ノ人民ハ我モ我モト紅手拭ヲ携帶スルコトヽナレリト云ヘバ〔水虎考略後篇二所引〕、此モ亦稍濫用セラレタリト見エタリ。又一アリ。此話ノ異傳ナルカ否カヲ知ラザルモ、同ジ三河國ニ設樂(シダラ)某ト云フ強力ノ勇者アリ。「カハツパ」ト組合ヒ取ツテ押ヘ突殺サントシケル時、「カハツパ」下ヨリ言ヒケルハ、命ヲ御宥シ候ハヾ御子孫竝ニ御一家ノ分殘ラズ水ノ難ヲ遁レシメ申スべシ。【河童一黨】日本國中ノ「カハツパ」ハ皆我等ガ一類ニテ候間、何方ニテモ我等ガ御約束申シタリト聞キ候ハヾ、川ニテ守護仕ルべシト言ヒケル故、然ラバ宥ス、證據ハ如何トアリシカバ、乃チ歌ヲ教ヘタリ。

  「ヒヤウスヘ」ハ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

 【設樂氏】設樂氏元ハ菅原氏ナリ。之ニ因ツテ設樂氏ノ人ハ川ノ難無シ。又此歌ヲ唱フレバ他氏ノ者モ難ヲ遁ルト云ヘリ〔落穗餘談四〕。此河童ハ別ニ馬盜人ニテモ無カリシ如クナルニ、兎ニ角ニ大ナル言質ヲ取ラレタリ。右ノ「氏ハ菅原」ノ歌ノ如キハ、河童自筆ノ手形ヲ眼ノ前ニ突附ケタルニ比ブレバ、幾分證據力ニ乏シキモノナリシナランモ、若シ律義ナル河童ナラバ夫ノミニテモ以前ノ約束ヲ思出サシムルニハ十分ナリシナリ。世間尋常ノ疱瘡神ノ如キハ、居ル筈モ無キ昔ノ勇士ノ名ヲ署シテ人ノ門ニ張リ置ケバ、【サヽラ三八】サテハ此家ハ鎭西八郞爲朝閣下ノ御宿ナルカト言ヒテ通リ過ギ、又ハ此家ニモ「サヽラ」三八殿ガ同居シテゴザルノカト、碌々家ノ内ヲ覗キモセズニ歸リ去ルヲ常トセリ。之ヲ思ヘバ人ノ方ガ遙カニ人惡シ。如何ニ相手ガ害敵ナリトハ言ヒナガラ、每回此手段ヲ以テ彼ヲ欺クナリ。但シ印刷シタル降參狀又ハ謝罪ノ口供ハ決シテ此類ノ陰險ナル策ニ非ズ。汝ノ一類ニハ曾テ此ノ如ク敗北ノ恥ヲ晒セシ者アル也。人間ハ決シテ侮リ得べカラザル動物ナルゾ。馬モ亦然リ。心得違ヒヲスルコトナカレト豫戒スル迄ノ事ナリ。河童ニシテ若シ文字アリトセバ、馬屋、牛小舍ノ守護トシテ、此ホド穩當且ツ適切ナル警備手段ハ、決シテ他ニ求ムルコトヲ得べカラザルナリ。

 

《訓読》

 元來、詫證文なるものは、勝ちたる方(かた)の言分(いひぶん)を何處(どこ)までも通し得るものなれば、右のごとく、至極、念入りなるも、別に不思議とするに足らざれども、苟(いやし)くも仁賀保金七郞の名を揭ぐるに於ては、其の眞僞をも問ふこと無く、常に疫病神(やくびやうがみ)總員の營業を禁止し得(う)と云ふに至つては、聊(いささ)か過酷の嫌(きらひ)無きに非ざるなり。唯(ただ)、舊來の緣故如何(いかん)に拘(かかは)らず、勝ちたる者を以つて保護者と賴むは、言はゞ、封建時代の餘風なり。「ヒヤウスヘ」の社、又は「エンコウ」の宮の御札のごときも、要するに、近世海船の國旗と同じく、一種庇護の權力を標識する徽章(きしよう)に他ならず。而して又、相手が文字に疎(うと)き河童なることを考慮し、今一段、簡單なる方法を以つて、之れを表示したる例あり。昔、三河の某地、淸水權之助なる人の領内に於いて、河童、馬を襲はんとして、亦。大いに失敗し、助命の條件として約束を爲(な)す。【紅手拭(あかてぬぐひ)】卽ち、手拭の端を紅(あか)く染めたるを持つ人に對しては、害を加ふまじ、と云ふことなり。是より以後、此の附近の人民は、我も我もと、紅手拭を携帶することゝなれり、と云へば〔「水虎考略」後篇二・所引〕、此れも亦、稍(やや)濫用せられたりと見えたり。又、一あり。此の話の異傳なるか否かを知らざるも、同じ三河國に設樂(しだら)某と云ふ強力(ごうりき)の勇者あり。「カハツパ」と組み合ひ、取つて押へ、突き殺さんとしける時、「カハツパ」、下(した)より言ひけるは、「命を御宥(おゆる)し候はゞ、御子孫竝びに御一家の分(ぶん)殘らず、水の難を遁(のが)れしめ申すべし。【河童一黨】日本國中の「カハツパ」は、皆、我等が一類にて候間(さふらふあひだ)、何方(いづかた)にても、我等が御約束申したりと聞き候はゞ、川にて守護仕(つかまつ)るべし」と言ひける故、「然(しか)らば宥(ゆる)す、證據は如何(いかん)」とありしかば、乃(すなは)ち、歌を教へたり。

  「ヒヤウスヘ」は約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原

 【設樂氏】設樂氏、元は菅原氏なり。之れに因つて、設樂氏の人は川の難、無し。又、此の歌を唱(とな)ふれば、他氏の者も難を遁る、と云へり〔「落穗餘談」四〕。此の河童は、別に馬盜人(うまぬすびと)にても無かりしごとくなるに、兎に角に大いなる言質(げんち)を取られたり[やぶちゃん注:事前の確認・取り決め・契約・交渉などに於いて、後で証拠となるような言葉や証書を相手から引き出すこと。]。右の「氏は菅原」の歌のごときは、河童自筆の手形を眼の前に突き附けたるに比ぶれば、幾分、證據力に乏しきものなりしならんも、若(も)し、律義なる河童ならば、夫(それ)のみにても、以前の約束を思ひ出さしむるには、十分なりしなり。世間尋常の疱瘡神(はうさうがみ)[やぶちゃん注:疱瘡を齎(みたら)すとされた悪神。]のごときは、居(を)る筈も無き昔の勇士の名を署(しよ)して、人の門に張り置けば、【さゝら三八(さんぱち)】「さては此の家は鎭西八郞爲朝閣下の御宿なるか」と言ひて通り過ぎ、又は「此の家にも「さゝら」三八殿が同居してござるのか」と、碌々(ろくろく)、家の内を覗きもせずに、歸り去るを常とせり。之れを思へば、人の方が、遙かに、人惡(ひとわる)し。如何に相手が害敵なりとは言ひながら、每回、此の手段を以つて彼(かれ)を欺(あざむ)くなり。但し、印刷したる降參狀、又は、謝罪の口供(こうきよう)は、決して、此の類の陰險なる策に非ず。「汝の一類には、曾て、此(か)くのごとく、敗北の恥を晒(さら)せし者あるなり。人間は決して侮り得べからざる動物なるぞ。馬も亦、然り。心得違ひをすることなかれ」と豫戒(よかい)するまでの事なり。河童にして、若(も)し、文字ありとせば、馬屋・牛小舍の守護として、此れほど、穩當、且つ、適切なる警備手段は、決して、他に求むることを得べからざるなり。

[やぶちゃん注:「近世海船の國旗と同じく」この「近世」は近代の意。船首旗・艦首旗に於ける国籍を示す国籍旗。

「手拭の端を紅(あか)く染めたるを持つ人に對しては、害を加ふまじ」と河童が誓約したとならば、赤は決して元来は河童が忌避する色なのではないということになる(考えて見れば、しばしば河童の顔は赤いともされる)。謂わば、水中で目立つ色という、観察する河童側から見て、極めてプラグマティクな理由が最初であったものとここでは推察される。

『「ヒヤウスヘ」は約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原』殆んど変わらぬ形で既出

「設樂氏」「元は菅原氏なり」三河国の武士であるが、これは近世以降の自称と思われる。平凡社「世界大百科事典」によれば、『近世の所伝では菅原氏末裔とするが,在庁官人三河伴氏一族とみられる。設楽郡中設楽郷』(現在の東栄町)『を名字の地とする説もあるが』、『不明。源義家に従って』、「後三年の役」に『出陣した資兼が系図以外での初見』で、「保元の乱」の『義朝方に設楽兵藤武者がある。鎌倉時代には一族富永氏とともに三河守護足利氏の被官で』、『足利氏所領奉行番文に太郎兵衛入道がみえる。室町前期には将軍近習の一員として諸記録に散見し』、伯耆・周防『などで所領給付をうけた』とある。

さゝら三八(さんぱち)」ブログ戦国ちょっといい話・悪い話まとめに、『佐々良三八は戦国の武士で名護屋九右衛門の家来の一人で』、『福岡に赴いた時、犬に囲まれて困っている男を助けた』ところ、『助けた男が疱瘡神(天然痘や水疱瘡の神様)で、犬から助けて下さったお礼にあなたの家には二度と出入りしませんといった事から』、『各地で「佐々良三八の宿」や「三八の家」と紙や木に彫り吊り下げる』ようになったとあり、『三八は疱瘡除け伝説になるほどの美肌の持ち主で在ったと伝わるが』、『この時代、風土病や流行病がすぐに治療できないので』、『年齢性別問わず』、『流行病の痕で多少アバタ顔であった。大名家の娘ともなると』、『嫁ぎ先に支障をきたすので』、『大名家では特に娘の肌に気を使った』。『この三八の噂を聞きつけた森忠政が娘(九右衛門の娘とも)のために佐々良三八の家の看板を譲ってほしいと三八を家に招いた』。『三八は家宝にしていた家の札をなぜか譲ってしまい』、その『祟りで』、『人前では出歩けないほど』、『酷い荒れ肌になってしまったとい』い、一方、『その後、忠政の娘はとても肌がきれいな女に育った』という。『伝説の類だが』、『戦国後期』の『妖怪、怪談話』としては、『割合と有名なまじない伝説』で、『疫病、難病の魔除けに佐々良三八の宿だったり』、『住処と書いてまじないにする風習が元禄頃から全国各地に広がった』とある。研」怪異・妖怪伝承データベースにも、須田元一郎氏の「九州北部の伝説玩具」(『旅と伝説』昭和一〇(一九三五)年八月発行所収)に、福岡県での採話として要約で、『名護屋山三郎の家来に、佐々良三八という美男がいた。ある時』、『路上で』一『人の男が多くの犬に囲まれて弱っているのを助けた。この男が疱瘡神で、お礼にあなたの名前の出ている家には決して這い入りませんと誓った。だから』、七『穴のあわび貝に「佐々良三八様御宿」と書いておけば、疱瘡にかからない』とある。

「鎭西八郞爲朝」言わずと知れた剛弓引きの源鎮西八郎為朝(保延五(一一三九)年~嘉応二(一一七〇)年?)は源為義の八男で、「保元の乱」(保元元(一一五六)年七月)に敗れ、逃亡したが、捕縛、但し、武勇を惜しまれて助命され、八月二十六日、肘を外し、自慢の弓を射ることが出来ないようにされて、伊豆大島に流刑となったが、伊豆七島を支配するに至った。前注のリンク先によれば、後、『八丈島では疱瘡が全く流行らなかった』ことから、『源為朝が疱瘡神を倒したとして三八同様』、『この時代』、『疱瘡除けの札として人気があった』とある。

口供(こうきよう)」罪人の口から罪状を述べること。また、その筆記録。「口書き」とも言う。

「豫戒(よかい)」前以って警戒すること。予(か)ねてより用心すること。]

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