萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蠅の唱歌
蠅 の 唱 歌
春はどこまできたか
春はそこまできて櫻の匂ひをかぐはせた
子供たちのさけびは野に山に
はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。
さうして私の心はなみだをおぼえる
いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ
この心はさびしい
この心はわかき少年の昔より 私のいのちに日影をおとした
しだいにおほきくなる孤獨の日かげ
おそろしい憂鬱の日かげはひろがる。
いま室内にひとりで坐つて
暮れゆくたましひの日かげをみつめる
そのためいきはさびしくして
とどまる蠅のやうに力がない
しづかに暮れてゆく春の夕日の中を
私のいのちは力なくさまよひあるき
私のいのちは窓の硝子にとどまりて
たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた。
[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年五月号『感情』初出。初出標題は「蠅の唄歌」。最終行の「唱歌」も「唄歌」。誤植ではなく、この二字で「うた」と読ませているのかも知れぬとしておこう。まあ、「唱歌」と代えたのだから、そこまで穿って考える必要はなかろうという気もする。「定本靑猫」でも採っているが、有意な異同はない。しかし、思う。萩原朔太郎は飢えて死ぬ蠅を見ようとはない。恐いのだ。朔太郎に梶井基次郎の「冬の蠅」(昭和三(一九二八)年二月稿。雑誌『創作月刊』同年五月号初出。リンク先は私の化石のような電子テクスト)の感想が聴きたいなと、ふと、思った。]
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