萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) みじめな街燈
さびしい靑猫
[やぶちゃん注:パート標題(左ページ)。その裏の右ページに以下の献辞。そのポイントは本文と同じである。]
ここには一疋の靑猫が居る。さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。
みじめな街燈
雨のひどくふつてる中で
道路の街燈はびしよびしよぬれ
やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる
はうはうぼうぼうとした烟霧の中を
あるひとの運命は白くさまよふ
そのひとは大外套に身をくるんで
まづしく みすぼらしい鳶(とんび)のやうだ
とある建築の窓に生えて
風雨にふるへる ずつくりぬれた靑樹をながめる
その靑樹の葉つぱがかれを手招き
かなしい雨の景色の中で
厭やらしく 靈魂(たましひ)のぞつとするものを感じさせた。
さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。
影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。
[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出であるが、初出での標題は「雨の中を彷惶する」(「惶」はママ。「徨」の誤植か朔太郎の誤字であろう)であるが、詩篇本文には有意な異同はない。「定本靑猫」では「道路の街燈はびしよびしよぬれ」が「道路の街燈はびしよびしよにぬれ」が目立つが、私は説明的な後者は本篇最終行の「に」で沢山であって、支持しない。
「はうはうぼうぼう」困った表現である。まず、後半の「ぼうぼう」は「烟霧」の形容としては、「果てしなく広がっているさま」或いは「ぼんやりしてはっきりしないさま」の意の「茫茫」でよかろうが、この「ぼうぼう」の歴史的仮名遣は「ばうばう」で誤りということになる。しかし、強制消毒校訂をするはずの筑摩書房校訂本文は「ぼうぼう」のままである。不審である。さても、前の「はうはう」は私は「対象が多いさま」甚だ盛んなさま」を言う「彭彭」以外にはないと考える。これは「ほうほう」で、歴史的仮名遣は正しく「はうはう」となるから、よい(霧の中だから「這うように歩くさま。やっとのことで歩くさま」の意の副詞「這ふ這ふ」(歴史的仮名遣「はふはふ」・現代仮名遣「ほうほう」)という御仁もあろうが、それでは係りがせっかく改行した次行に渡ってしまうし、私には、それでは謂いが漫画のようで糞表現だと思う。「はうはう」と「ぼうぼう」は孰れも「とした」に続く形容動詞の語幹である)。異義のある方は、御教授を乞うものである。
「靑樹」「あをき」「せいじゆ」孰れにも読めるが、その樹木のあるのが「とある建築の窓」であり、「風雨にふるへる」ほどのものでしかないのであってみれば、これは高い樹木ではあり得ず、鉢植えの中低木でなくてはおかしい。さすれば、これは常緑で枝も青い低木の、ガリア目ガリア科アオキ(青木)属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica ではないかと思われ、さすれば、ここは「あをき(あおき)」で読むべきかと思う。]
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