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« 和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか) | トップページ | 和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ) »

2019/01/07

萩原朔太郞 靑猫 (初版・正規表現版)始動 序・凡例・目次・「薄暮の部屋」

 

[やぶちゃん注:本書は大正一二(一九二三)年一月二十六日に新潮社より発行された。

 底本は所持する昭和四八(一九七三)年五月一日発行の「新選 名著複刻全集 近代文学館」(財団法人日本近代文学館刊行・新選名著複刻全集近代文学館編集委員会編集・株式会社ほるぷ出版製作)の「萩原朔太郞 靑猫 新潮社版」(アンカット装)を用いた。

 なお、加工データとして旧字旧仮名の「青空文庫」版(昭和五〇(一九七五)年五月筑摩書房発行「萩原朔太郎全集第一卷」底本・kompass氏入力・小林繁雄氏及び門田裕志氏校正)のテキスト・データ・ファイル(リンク先下方)を使用させて戴いた。ここに謝意を表する。但し、この「青空文庫」のデータは旧字旧仮名と名打っているが、「青空文庫」の表字制限基準のために、例えば、標題の「靑猫」からしてが「青猫」であるように、完全な『旧字』再現にはなっていない。さらに、参考データが底本とした筑摩書房版「萩原朔太郎全集」は初版の表記表現を同全集編集者が正当とする〈校訂〉(私は〈漂白・消毒〉校訂と称している)したものであって、初版の「靑猫」そのものの再現ではない点にも注意せねばならぬ。

 以上から、私のこの初版の正規表現版(無論、字体によっては電子表記出来ないものがあり、完全とは言えぬのは無論である)は、ネット上にある「靑猫」の屋上屋のデータであるとは全く考えていない。私は既に、このブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版』を昨年完遂させているが、本電子化もそれと同じようなコンセプトとなる。従って、表記の決定的誤り(歴史的仮名遣の誤用を含む)等も基本、そのままとし、それらは注で指示した。

 さらに、私も所持するその筑摩書房「萩原朔太郎全集第一卷」とも校合し、初出形との有意な異同等についても必要と判断したものは注で示す(実際には六年ほど前に幾つかの改変の激しい初出形は電子化しているので、リンクでそれを示した箇所もある)。

 なお、萩原朔太郎は、後に版畫莊から昭和一一(一九三六)年三月に詩集「定本靑猫」を刊行し、その「卷尾に」で、『この書の中にある詩篇は、初版「靑猫」を始め、新潮社版の「蝶を夢む」第一書房版の「萩原朔太郎詩集」その他既刊の詩集中にも散在し、夫夫[やぶちゃん注:「それぞれ」。]少し宛詩句や組方を異にしてゐるが、この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、倂せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人人や、他の選集に拔粹しようとする人人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と述べてはいる。しかし、私は本電子化で〈萩原朔太郎という私の愛する詩人を真っ向から批判・批評しよう〉などというつもりは毛頭なく、だいたいからして、「靑猫」と「定本靑猫」とは詩集標題とは裏腹に、実際には初版「靑猫」とは全く異なる詩人自身による既刊詩集からの改作を含んだアンソロジーなのであり、「定本」と名乗ったからと言って、初版の詩集「靑猫」を無化し、否定する意図は萩原朔太郎にはないのは一目瞭然であると私は考えている。また、さらに言えば、萩原朔太郎の詩篇改変の中には有意に改悪と感じられるケースもままある(これは彼に限らず、総ての作家たちの宿命でもある)。されば、「定本靑猫」に採って、しかも有意の改作を施した初版「靑猫」所収の詩篇については、この「定本靑猫」を「定本」とせよという限定言辞としては無論、有効であろうからして、それらについては比較検討してみた

 表記字体は底本の雰囲気を出すために主本文を明朝体とする(ゴシック太字が目次等で使用されているためでもある。英文は私の趣味でローマンとした)。文字のポイントや字配は、必要があれば、底本に従うようにしたが、ブラウザの不具合の関係上、必ずしも再現してはいない。また、ヴァーチャルに楽しめるように、画像で示すのがよいと判断した部分はそれを掲げた。ルビは後に同ポイント丸括弧で添え、傍点「ヽ」は太字に代えた。【西曆二〇一八年一月七日始動 藪野直史】]

 

 

Hakohyousi

 

[やぶちゃん注:箱表紙(箱の底で三本の大型クリップにより表紙寄りで接合されたもの)右から本体を挿し入れる形)。本詩集の装幀は総て著者に依る。左上部に、白ラベルに総て薄いブルーで、

 

猫   靑

 

版年三二九一曆西

 

Sakutaro-Hagiwara 

 

とあり、二重枠(外側は太い罫)で囲んだものが貼り付け。右下中央寄りで、 

 

 

 

とブラックで印刷されている。]

 

 

Hakose_2

 

[やぶちゃん注:箱の背。 

 

靑 猫 詩集    萩  

 

とブラックで印字。他の面には文字は無いので画像は省略する。]

 

 

Hontaihyousise 

 

[やぶちゃん注:本体(パラフィン掛け)表紙と背(裏表紙は文字がないのでカットした)。黄土色のクロス装。箱と同じ文字のラベルが今度は右側上にブラックで印刷されて貼り付けられており(印字が同じなので電子化しない)、背は、 

 

 靑 猫 詩集 

 

である。]

 

 

Tobira

 

[やぶちゃん注:扉(右ページ。「詩集」の文字は右から左でポイント落ち)。 

 

詩集 靑 猫   萩原朔太郎著

 

           新潮社出版 

 

と全体が縦長二重枠内にあり、枠も含めて、総てが薄いブルーで印刷されている。]

 

 

    ⦿

 

 私の情緖は、激情(パツシヨン)といふ範疇に屬しない。むしろそれはしづかな靈魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聽く橫笛のひびきである。

 ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に歌はうとする者は別である。それはあの艶めかしい一つの情緖――春の夜に聽く橫笛の音――である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の鄕愁である。遠い遠い實在への淚ぐましいあこがれである。

 およそいつの時、いつの頃よりしてそれが來れるかを知らない。まだ幼(いと)けなき少年の頃よりして、この故しらぬ靈魂の鄕愁になやまされた。夜床はしろじろとした淚にぬれ、明くれば鷄(にはとり)の聲に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を戀して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「戀を戀する人」の愁をうたつた。

[やぶちゃん注:「底本の「⦿」は中の黒丸が大きく、外側の円との間がもっと狭い。

「倚音」「いおん」。前打音。装飾音の一つで、ある音符に付随し、それに先だって短く奏される音。非和声音で音を調する。旋律の主音符の前に小音符で附すが、アクセントは常に前打音の方にある。アッポッジャトゥーラ(イタリア語:Appoggiatura)。

「艶めかしい」「なまめかしい」。本書には詩篇にも、「艷」ではなく、この字体で出るし、向後も総てこう訓じている。老婆心乍ら、くれぐれも「つやめける」などと読まれぬように。

 げにこの一つの情緖は、私の遠い氣質に屬してゐる。そは少年の昔よりして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも淚ぐましき橫笛の音色をひびかす、いみじき橫笛の音にもつれ吹き、なにともしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。

 かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緖の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れやうとして、むなしくかすてらの脆い翼(つばさ)をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。

[やぶちゃん注:「觸れやう」はママ。]

 されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徵詩派の信條たる音樂である。 

 

    ⦿ 

 

 感覺的鬱憂性! それもまた私の遠い氣質に屬してゐる。それは春光の下に群生する櫻のやうに、或いはまた菊の酢えたる匂ひのやうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。かくて私の生活は官能的にも頽廢の薄暮をかなしむであらう。げに憂鬱なる、憂鬱なるそれはまた私の叙情詩の主題(てま)である。

[やぶちゃん注:「酢えたる」はママ。「饐えたる」の意。「てま」はママ。「テーマ」(theme)。]

 とはいへ私の最近の生活は、さうした感覺的のものであるよりはむしろより多く思索的の鬱憂性に傾いてゐる。(たとへば集中 意志と無明」の篇中に收められた詩篇の如きこの傾向に屬してゐる。これらの詩に見る宿命論的な暗鬱性は、全く思索生活の情緖に映じた殘像である。)かく私の詩の或るものは、おほむね感覺的鬱憂性に屬し、他の或るものは思索的鬱憂性に屬してゐる。しかしその何れにせよ、私の眞に傳へんとするリズムはそれでない。それらの「感覺的なもの」や「觀念的なもの」でない。それらのものは私の詩の衣裝にすぎない。私の詩の本質――よつて以てそれが詩作の動機となるところの、あの香氣の高い心悸の鼓動――は、ひとへにただあのいみじき橫笛の音の魅惑にある。あの實在の世界への、故しらぬ思慕の哀傷にある。かく私は歌口を吹き、私のふしぎにして艶めかしき生命(いのち)をかなでやうとするのである。

[やぶちゃん注:「集中 意志と無明」はママ。鍵括弧「「」の脱植。「かなでやう」はママ。]

 されば私の詩風には、近代印象派の詩に見る如き官能の耽溺的靡亂がない。或ひはまた重鬱にして息苦しき觀念詩派の壓迫がない。むしろ私の詩風はおだやかにして古風である。これは情想のすなほにして殉情のほまれ高きを尊ぶ。まさしく浪漫主義の正系を踏む情緖詩派の流れである。

[やぶちゃん注:「或ひは」はママ。歴史的仮名遣としては誤りであるが、古典でも盛んに現われる。] 

 

    ⦿ 

 

「詩の目的は眞理や道德を歌ふのでない。詩はただ詩のための表現である。」と言つたボトレエルの言葉ほど、藝術の本質を徹底的に觀破したものはない。我等は詩歌の要素と鑑賞とから、あらゆる不純の槪念を驅逐するであろう。「醉」と「香氣」と、ただそれだけの芳烈な幸福を詩歌の「最後のもの」として決定する。もとより美の本質に關して言へば、どんな詭辯もそれの附加を許さない。

[やぶちゃん注:「ボトレエル」はママ。全集では「ボドレエル」に消毒。「あろう」はママ。萩原朔太郎はしばしばこの口語表記を詩篇内でも用いる。] 

 

    ⦿ 

 

 かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神祕でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。

 生活の沼地に鳴く靑鷺の聲であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。 

 

    ⦿ 

 

 詩はいつも時流の先導に立つて、來るべき世紀の感情を最も鋭敏に觸知するものである。されば詩集の眞の評價は、すくなくとも出版後五年、十年を經て決せらるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。卽ち詩は、發表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遲きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時の淺薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能はないことである。

[やぶちゃん注:「能はないこと」「あたはないこと」。出来ないこと。成し得ないこと。]

 詩が常に俗衆を眼下に見くだし、時代の空氣に高く超越して、もつとも高潔淸廉の氣風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。 

 

    ⦿

 

 詩を作ること久しくして、益々詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる靑猫の夢魔にすぎない。 

 

    利根川に近き田舍の小都市にて  著 者

 

 

凡  例 

 

一。第一詩集『月に吠える』を出してから既に六年ほど經過した。この長い間私は重に思索生活に沒頭したのであるが、かたはら矢張詩を作つて居た。そこで漸やく一册に集つたのが、この詩集『靑猫』である。

[やぶちゃん注:「重に」ママ。「主に」。]

 

 何分にも長い間に少し宛書いたものである故、詩の情想やスタイルの上に種々の變移があつて、一册の詩集に統一すべく、所々氣分の貫流を缺いた怨みがある。けれども全體として言へば、矢張書銘の『靑猫』といふ感じが、一卷のライト・モチーヴとして著者の個性的氣稟を高調して居るやに思ふ。

[やぶちゃん注:「ライト・モチーヴ」「ライトモチーフ」(ドイツ語:Leitmotiv)は本来は音楽用語で、オペラ・標題音楽などに於いて特定の人物・理念・状況などを表現するために繰り返し現れる楽節・動機。ワグナーの楽劇によって確立され、「指導動機」「示導動機」等と訳されるが、ここはそこから転じて、芸術作品に於ける根底を成す思想・詩想の意。]

 

二。集中の詩篇は、それぞれの情想やスタイルによつて、大體之れを六章に類別した。卽ち「幻の寢臺」、「憂鬱なる櫻」、「さびしい靑猫」、「閑雅な食慾」、「意志と無明」、「艶めける靈魂」他詩一篇である。この分類の中、最初の二章(「幻の寢臺」、「憂鬱なる櫻」)は、主として創作年代の順序によつて配列した。此等の章中に收められた詩篇は、槪ね雜誌『感情』に揭載したものであるから、皆今から數年以前の舊作である。『感情』が廢卷されてからずゐぶん久しい間であるが、幸ひに殘本の合本があつて集錄することを得た。同時代に他の雜誌へ寄稿したものは、すべて皆散佚して世に問ふべき機緣もない。

「さびしい靑猫」以下の章に收められた詩は、何れもこの二三年來に於ける最近の收穫である。但し排列の順序は年代によらず、主として情想やスタイルの類別によつた。

[やぶちゃん注:「廢卷」はママ。全集は「廢刊」に消毒。]

 

三。私の第二詩集は、はじめ『憂鬱なる』とするつもりであつた。それはずつと以前から『感情』の裏表紙で豫告廣告を出して置いた如くである。然るにその後『憂鬱なる××』といふ題の小説が現はれたり、同じやうな書銘の詩集が出版されたりして、この「憂鬱」といふ語句の官能的にきらびやかな觸感が、當初に發見された時分の鮮新な香氣を稀薄にしてしまつた。そればかりでなく、私の詩風もその後によほど變轉して、且つ生活の主題が他方へ移つて行つた爲、今ではこの「取つて置きの書銘」を用ゐることが不可能になつた始末である。豫告の破約を斷るため、ここに一言しておく。

 

四。とにかくこの詩集は、あまりに長く出版を遲れすぎた。そのため書銘ばかりでなく、内容の方でも、いろいろ「持ち腐れ」になつてしまつた。その當時の詩壇から見て、可成に新奇で鮮新な發明であつた特種のスタイルなども、今日では詩壇一般の類型となつて居て、むしろ常套の臭氣が鼻につくやうにさへなつて居る。さういふ古い自分の詩を、今更ら今日の詩壇に向つて公表するのは、ふしぎに理由のない羞恥と腹立たしさとを感ずるものである。

[やぶちゃん注:「あまりに長く出版を遲れすぎた」はママ。表現としてはちょっといただけない。]

 

五。附錄の論文「自由詩のリズムに就いて」は、この書物の跋と見るべきである。私の詩の讀者は勿論、一般に「自由詩を作る人」、「自由詩を讀む人」、「自由詩を批評する人」、「自由詩を論議する人」特に就中「自由詩が解らないと言ふ人」たちに讀んでもらふ目的で書いた。自由詩人としての我々の立場が、之れによつて幾分でも一般の理解を得ば本望である。

 

[やぶちゃん注:以下、目次であるが、必要性がないのでリーダとページ数は省略した。]

 

   目  次

 

詩集 靑  猫

 

幻の寢臺 詩十二篇

薄暮の部屋

寢臺を求む

沖を眺望する

い腕に抱かる

群集の中を求めて步く

その手は菓子である

靑猫

月夜

春の感情

野原に寢る

蠅の唱歌

恐ろしく憂鬱なる 

 

憂鬱なる櫻 詩六篇 

 

憂鬱なる花見

夢にみる空家の庭の祕密

黑い風琴

憂鬱の川邊

佛の見たる幻想の世界

 

 

さびしい靑猫 詩十五篇 

 

みじめな街燈

恐ろしい山

題のない歌

艶めかしい墓場

くづれる肉體

鴉毛の婦人

綠色の笛

寄生蟹のうた

かなしい囚人

猫柳

憂鬱なる風景

[やぶちゃん注:ママ。本文標題は「憂鬱な風景」。]

野鼠

五月の死びと

輪𢌞と轉生

さびしい來曆

[やぶちゃん注:ママ。本文標題は「さびしい來歷」。]

 

閑雅な食慾 詩七篇

 

怠惰の曆

閑雅な食慾

馬車の中で

靑空

最も原始的な情緖

天候と思想

笛の音のする里へ行かうよ 

 

意志と無明 詩九篇 

 

蒼ざめた馬

思想は一つの意匠であるか

厭やらしい景物

囀鳥

惡い季節

遺傳

白い牡鷄

自然の背後に隱れて居る 

 

艶めける靈魂 詩五篇

 

艶めける靈魂

花やかなる情緖

片戀

春宵

  
 ⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿⦿

軍隊 

 

挿 畫

 

靑猫之圖

西洋之圖

海岸通之圖

古風ナル艦隊

 

附 錄

 

自由詩のリズムに就て

 

目 次

[やぶちゃん注:「海岸通之圖」と「古風ナル艦隊」は実際とは順序が逆である。

 

 

Aonekonozu

 

[やぶちゃん注:挿画「靑猫之圖」(左ページ)。周囲の余白をカットし、外に比べて大きな画像で示してある。筑摩書房の「萩原朔太郎全集第一卷」の解題によれば、この図は「シエナの首寺院の敷石の巫女」とあるが、現物の詳細は私には不明である。識者の御教授を乞うものである。]

 

Naihyoudai

[やぶちゃん注:本文内標題。特に電子化しない。かなり紙質の黄色が強く出て異様に黄ばんだ感じに撮れてしまったため、強い補正を加えてある。

 以下、パート標題(左ページ)。] 

 

   幻 の 寢 臺

 

 

  薄暮の部屋

 

つかれた心臟は夜(よる)をよく眠る

私はよく眠る

ふらんねるをきたさびしい心臟の所有者だ

なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ兒

寒さにかじかまる蠅のなきごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。 

 

私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を

私はさびしむ この力のない生命の韻動を。 

 

戀びとよ

お前はそこに坐つてゐる 私の寢臺のまくらべに

戀びとよ お前はそこに坐つてゐる。

お前のほつそりした頸すぢ

お前のながくのばした髮の毛

ねえ やさしい戀びとよ

私のみじめな運命をさすつておくれ

私はかなしむ

私は眺める

そこに苦しげなるひとつの感情

病みてひろがる風景の憂鬱を

ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蠅の幽靈

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。 

 

戀びとよ

私の部屋のまくらべに坐るをとめよ

お前はそこになにを見るのか

わたしについてなにを見るのか

この私のやつれたからだ 思想の過去に殘した影を見てゐるのか

戀びとよ

すえた菊のにほひを嗅ぐやうに

私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その靑ざめた信仰を

よし二人からだをひとつにし

このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて 手をあてて。 

 

戀びとよ

この閑寂な室内の光線はうす紅く

そこにもまた力のない蠅のうたごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

戀びとよ

わたしのいぢらしい心臟は お前の手や胸にかじかまる子供のやうだ

戀びとよ

戀びとよ。 

 

[やぶちゃん注:『詩歌』大正六(一九一七)年十一月号初出。初出での標題は『夕暮室内にありて靜かにうたへる歌』で、かなり異なる箇所が散見され、全体の執拗な少女への直接的フェティシズムは初出の方が遙かに濃厚である。既に私は昔にこちらで電子化しているので参照されたい。]

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