萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 馬車の中で
馬車の中で
馬車の中で
私はすやすやと眠つてしまつた。
きれいな婦人よ
私をゆり起してくださるな
明るい街燈の巷(ちまた)をはしり
すずしい綠蔭の田舍をすぎ
いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。
ああ蹄(ひづめ)の音もかつかつとして
私はうつつにうつつを追ふ
きれいな婦人よ
旅館の花ざかりなる軒にくるまで
私をゆり起してくださるな。
[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月八日附『東京朝日新聞』初出。初出は総ルビ(以前に注した通り、それは特に新聞の場合、ほぼ確実に新聞社が勝手に附したもの。但し、不審なものはない)で、副題として「――敍情小曲――」と添える。表記に変更はあるが、有意な意味変動はない。但し、一つ気になることがあるので、ルビを総て除去して以下に示す。
*
馬車の中で
――敍情小曲――
馬車の中で
私はすやすやと眠つて了つた。
綺麗な婦人よ
私をゆり起してくださるな
明るい街燈の巷をはしり
すずしい綠蔭の田舍をすぎ
いつしか海の匂ひも
行手にちかくそよいでゐる。
ああ蹄の音もかつかつとして
私はうつつにうつつを追ふ
綺麗な婦人よ
旅館の花ざかりなる
軒にくるまで
私をゆり起してくださるな。
*
この「いつしか海の匂ひも」/「行手にちかくそよいでゐる。」と、「旅館の花ざかりなる」/「軒にくるまで」の部分は、新聞社に送った原稿でも一行であったのではないかと推測する。即ち、新聞の版組に於いて、横列の一行字数が制限されているため、新聞社がこの二つの部分を(前者は句点を含んで二十二字、後者は十五字で、他の行より有意に長い。他で長いのは「私はすやすやと眠つて了つた。」で十四字である)勝手に改行してしまったものと思われるからである。
「定本靑猫」は有意な異同はない。]
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