萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱なる花見
憂鬱なる花見
憂鬱なる櫻が遠くからにほひはじめた
櫻の枝はいちめんにひろがつてゐる
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日每に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く櫻のはなは酢え
櫻のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
いまひとびとは帽子をかぶつて外光の下を步きにでる
さうして日光が遠くにかがやいてゐる
けれども私はこの暗い室内にひとりで坐つて
思ひをはるかなる櫻のはなの下によせ
野山にたはむれる靑春の男女によせる
ああいかに幸福なる人生がそこにあるか
なんといふよろこびが輝やいてゐることか
いちめんに枝をひろげた櫻の花の下で
わかい娘たちは踊ををどる
娘たちの白くみがいた踊の手足
しなやかにおよげる衣裝
ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつてゐることか
花見のうたごゑは橫笛のやうにのどかで
かぎりなき憂鬱のひびきをもつてきこえる。
いま私の心は淚をもてぬぐはれ
閉ぢこめたる窓のほとりに力なくすすりなく
ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命(いのち)をもとめ
なにものの影をみつめて泣いてゐるのか
ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで
遠く花見の憂鬱なる橫笛のひびきをきく。
[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出と有意な異同はない。「定本靑猫」では、中間部の、
*
ああいかに幸福なる人生がそこにあるか
なんといふよろこびが輝やいてゐることか
*
が、
*
ああ なんといふよろこびが輝やいてゐることか
*
となっている以外には大きな異同はない。確かに、私はこの「いかに幸福なる人生がそこにあるか」という部分はいらぬと思う。序でに言っておくと、萩原朔太郎のよく使う「酢え」はどうも好きになれない。「饐え」でないと、私は生理的に気に入らない。それにしても、実は桜が(特に双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属品種ソメイヨシノ(染井吉野)Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino’)嫌いな作家は多いな。にしてもこれもまた徹底してないぞ! 是非ともここでも、後の梶井基次郎の「櫻の樹の下には」(昭和三(一九二八)年十月稿。同年十二月に雑誌『詩と詩論』第二冊に発表。リンク先は私の古い古い電子テクスト)の大詩人の感想を御拝聴したいもんだね。俺? 俺は作家じゃないからね、ソメイヨシノ、好きだぜ、ただ、亡き母と約束したのに、花見の前の二〇一一年三月十九日、母はALSで亡くなった、だから、もう、花見は、しない。]
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