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2019/01/30

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(12) 「河童ノ詫證文」(3)

 《原文》

 此ノ如ク論ジ來レバ長門ノ一村ニ於テ、「エンコウ」ノ手形ヲ印刷シテ望ミノ者ニ分與スト云フハ非常ニ意味ノアルコトナリ。蓋シ河童ニシテ村ノ祭ヲ享クル程ノ靈物ナリトセバ、斷然トシテ詫證文ノ作成ヲ拒シ、「イヤ僞ハ人間ニコソアレ」ト高ク止リテアリ得べキ筈ナレドモ、既ニ手モ無キ術策ニ馬脚ヲ露ハシ、内甲(ウチカブト)ヲ見透カサレシ以上ハサウモナラズ、ヲメヲメト昔ナラバ大恥辱ノ一札之事ヲ差出シテ引下リシハ、誠ニ器量ノ惡キ次第ナリ。併シナガラ是レ決シテ河童バカリノ身ノ上ニ非ズ。【四國無狐】例ヘバ本朝故事因緣集卷四ニハ、四國ニ狐ノ住マザル理由ヲ明シテ左ノ一話ヲ載ス。伊豫ノ河野家ニテ不意ニ同ジ奧方二人トナリ、其何レカ一方ハ狐ニ相違ナカリシ時、僅カナル擧動ニテ狐ノ奧方看破セラレ既ニ打殺サレントセシヲ、散々ニ詫ヲシテ命ヲ助ケラル。其折ノ謝リ證文ニハ將來四國ニハ一狐モ住ムマジキ由ノ誓言アリ。乃チ數艘ノ船ヲ借用シテ悉ク本土ニ押渡ル云々〔以上〕。上陸地點ハ中國ノ何レノ海岸ナリシカ、如何ニモ迷惑ナルコトナリシナラン。【狐崎】備後靹(トモ)町ノ狐崎ハ寶曆年間迄狐ノ形シタル赤石アリキト云ヒ、又狐多ク群レ居ルトモ言ヘド、一ニハ昔四國ニ狐狩アリシ時狐多ク浪ニ浮ビテ此崎ニ著キシヨリノ地名トモ謂リ〔沼名前神社由來記附錄〕。或ハ其樣ナル事モアリシカモ知レズ。而シテ右ノ證文ハ今モ必ズ河野氏ニ於テ之ヲ保存シテアルコトヽ信ズ。何トナレバ若シ此文書ニシテ亡失セバ、狐ハ再ビ四國ノ島ニ來リ住スルコトヲ得ル約束ナリケレバナリ。【疫病神】近クハ文政三年ノ秋ノコトナリ。江愛宕下田村小路ナル仁賀保(ニカホ)大膳ト云フ武家ノ屋敷へ、疫病神アリテ窃ニ入込マントセシヲ、同家ノ次男金七郞之ヲ見咎メ、右樣ノ者我ガ方へハ何シニ入來ルゾ、打殺スべシト怒リシニ、疫病神何トゾ一命ヲ宥シタマハレト申ス。然ラバ書附ニテモ差出スべシト云ヘバ、早速別紙ノ如キ證文ヲ認メ置キテ立チ去ルト云フ〔竹抓子二〕。

[やぶちゃん注:底本ではここに一行空けで、引用の証文は全体が二字下げ、「疫病神」の署名は下五字上げインデントである。「兩人」は証文の頭書であるが、如何にも格好が悪くなるので、前の以上の位置に配した。上付きにした「江」「而」は実際には前後の活字の三分の二ほどあるが、かく示した。また、クレジットの「文政三辰九月廿二日」も実際には全体のポイントがやや小さくなっている。] 

 

【兩人】

    差上申一札之事

私共兩人心得違ヲ以御屋敷入込段々被仰出候趣奉恐入候以來御屋敷内竝金七郞樣御名前有之候處決而入込間敷候私共ハ申不及仲ケ間之者共迄モ右之趣申聞候依一命御助被下難有仕合奉存候爲念一札如件

    文政三辰九月廿二日  疫 病 神

   仁賀保金七郞樣

 疫病神ノ方デハ無論ゴク内々ノツモリナリシナランモ、當時ハ疫病大流行ノ折柄トテ、爲ニスル者ノ手ニ由ツテ此證文ハ意外ニ弘ク流布シタリト覺シク、隱居老人ナドノ隨筆ニモ採錄セラルヽニ至レリ。或ハ此モ亦長門ノ「エンコウ」ノ手形ト同ジク、板行シテ信者ニ施シタリシカモ測リ難シ。

 

《訓読》

 此くのごとく論じ來たれば、長門(ながと)の一村に於いて、「エンコウ」の手形を印刷して望みの者に分與すと云ふは、非常に意味のあることなり。蓋し、河童にして、村の祭(まつり)を享(う)くる程の靈物なりとせば、斷然として、詫證文の作成を拒し、「いや。僞(いつはり)人間にこそあれ」と高く止(とま)りてあり得べき筈なれども、既に手も無き術策に馬脚を露はし、内甲(うちかぶと)[やぶちゃん注:「兜に隠された額の部分」の意から、転じて「隠している内情・内心」の譬え。]を見透かされし以上は、さうもならず、をめをめと、昔ならば、大恥辱の、「一札之事(いつさつのこと)」[やぶちゃん注:この場合の「一札」は「証文」の意。証文の一件。]を差し出して引き下(さが)りしは、誠に器量の惡(あし)き次第なり。併しながら、是れ、決して河童ばかりの身の上に非ず。【四國無狐】例へば、「本朝故事因緣集」卷四には、四國に狐の住まざる理由を明して左の一話を載す。伊豫の河野家にて不意に同じ奧方、二人となり、其の何れか一方は狐に相違なかりし時、僅かなる擧動にて、狐の奧方、看破せられ、既に打ち殺されんとせしを、散々に詫をして命を助けらる。其の折の「謝り證文」には、將來、四國には一狐も住むまじき由の誓言あり。乃(すなは)ち、數艘の船を借用して、悉く、本土に押し渡る云々〔以上〕。上陸地點は中國の何れの海岸なりしか、如何にも迷惑なることなりしならん。【狐崎】備後靹(とも)町の狐崎は寶曆年間[やぶちゃん注:一七五一年~一七六四年。]まで、狐の形したる赤石ありきと云ひ、又、狐多く群れ居るとも言へど、一には、昔、四國に狐狩りありし時、狐、多く浪に浮びて、此の崎に著(つ)きしよりの地名とも謂へり〔「沼名前(ぬなくま)神社由來記」附錄〕。或いは、其の樣なり事も、ありしかも知れず。而して、右の證文は、今も必ず河野氏に於いて、之れを保存してあることゝ信ず。何となれば若(も)し、此の文書にして、亡失せば、狐は、再び、四國の島に來たり、住することを得る約束なりければなり。【疫病神】近くは文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋のことなり。江愛宕下田村小路なる仁賀保(にかほ)大膳と云ふ武家の屋敷へ、疫病神(やくびやうがみ)ありて、窃(ひそか)に入り込まんとせしを、同家の次男金七郞、之れを見咎(みとが)め、「右樣(みぎやう)の者、我が方へは何しに入り來たるぞ、打ち殺すべし」と怒りしに、疫病神、「何とぞ、一命を宥(ゆる)したまはれ」と申す。「然らば、書附(かきつけ)にても差し出すべし」と云へば、早速、別紙のごとき證文を認(したた)め置きて、立ち去ると云ふ〔「竹抓子(たけさうし)」二〕。

[やぶちゃん注:原文は前に示した通りで、一切の訓点はない。推定で私が訓読したものを以下に示す。「」は「え」で古文書では、「江」或は「え」のままで出すのが常識だが、ここは読み易さ第一として、本文同ポイントで正しい「へ」に直して出しておいた。「候」「趣」等も同様に送り仮名を振った。

【兩人】[やぶちゃん注:この場合は、当該事件に関わった疫病神と、それに対する当事者である相手(仁賀保大膳家の次男金七郞)がいることを意味するだけの「兩人」であり、「二人」と訳す意味は全くないし、正直、ここに柳田國男がこれを頭書としたことの意味が判らない。柳田が暗に人も同罪とする意識の中でこれを掲げたとならば、古文書読解の初歩的間違いとしか私には思えない。

    差し上げ申す一札の事

私共(ども)兩人、心得違ひを以つて、御屋敷へ入り込み、段々、仰せ出だされ候ふ趣き、恐れ入り奉り候ふ。以來、御屋敷内、竝びに、金七郞樣御名前之れ有り候ふ處へ、決して入(い)り込む間敷(まじ)く候ふ。私共は申すに及ばず、仲ケ間(なかま)の者共(ども)までも、右の趣き申し聞かせ候ふ依りして、一命、御助け下され、有り難き仕合(しあは)せ、存じ奉り候ふ。念の爲め、一札、件(くだん)のごとし。

    文政三辰九月廿二日  疫 病 神

   仁賀保金七郞樣

 疫病神の方では、無論、ごく内々のつもりなりしならんも、當時は疫病大流行の折柄とて、爲(ため)にする者の手に由つて、此の證文は意外に弘(ひろ)く流布したりと覺しく、隱居老人などの隨筆にも採錄せらるゝに至れり。或いは此れも亦、長門(ながと)の「エンコウ」の手形と同じく、板行(はんぎやう)して信者に施したりしかも測り難し。

[やぶちゃん注:『「本朝故事因緣集」卷四には、四國に狐の住まざる理由を明して左の一話を載す』「本朝故事因緣集」(本朝の故事逸話を集めたもの。作者未詳。元禄二(一六八九)年板行)「国文研データセット」のこちらで全篇が読め、原典の「八十七 四國狐不住由來」(四國に狐住まざる由來)の画像も読める。ここここ。記された事件は、享禄年中(一五二八年~一五三一年。戦国前期)のことで、河野通直(こうのみちなお)の妻とある。河野通直(明応九(一五〇〇)年~元亀三(一五七二)年)は伊予国の戦国大名河野氏の当主で、ウィキの「河野通直」によれば、『河野通宣の嫡男で』、永正一六(一五一九)年に『父の死去にともない』、『家督を継いだ』。天文九(一五四〇)年には、『室町幕府御相伴衆に加えられる。自身に嗣子がなかったため、娘婿で水軍の頭領として有能であった村上通康を後継者に迎えようとしたが、家臣団の反発と、予州家の当主・通存(みちまさ、河野通春の孫)と家督継承問題で争ったため、通康とともに湯築城から来島城へと退去することになる。その後、家督を通存の子通政に譲って権力を失うが、通政の早世後には河野家の実質的な当主の座に復帰する。なお、その後』、『天文末期には通政の弟である通宣とも家督を巡って争い、最終的には村上通康にも見捨てられる形で失脚したとする見方もある』とある。さて、二人の妻女を見て、医師は離婚病と診断し、祈禱等も行うが効果がないため、二人とも捕えて籠居(監禁)させ、数日経るうち(食物を絶ったか、ごく少量しか与えなかったもののようである)、食物を与えたところ、一人が異様な勢いで喰らいだしたことから、それを拷問したところ、狐となった。さても殺そうとしたところが、門前に僧俗男女が四、五千人も群衆している。誰何したところが、「吾ら、四国中の狐にて訴訟に来て御座る。この度、不慮の事を致いたその者は貴狐(きこ)明神の末稲荷の使者の「長狐(ちょうこ)」と申す日本国の狐の王であって、これを害されるならば、国に大災害が起こることになりましょう。この長狐は吾等の師匠なれば、さても向後、変身の術はこれを、皆、封印断絶致します。どうか願わくはお助け下さい」と訴えた。河野はこれに、「何とまあ、名誉の狐であることよ。殺すのも不憫なことじゃ。さすれば、向後、四国中に一匹の狐も住まぬことを誓約した書き物を致し、皆、舟に乗りて中国(本邦の瀬戸内海の北の中国地方)に渡るとならば、長狐を助けて後、渡るがよかろう」と応えた。群狐は皆畏まって誓紙を捧げ、舟を借り、数艘で以って本州へ渡った。これより、四国には狐はいないとあり、最後に柳田が言うように、『此誓紙、子孫ニ至リ(タヘ)タル時ハ可住(すむべき)國ナリト云(いふ)トナリ。今ニ河野(かふの)ノ家ニアリ』と書かれてある。但し、最後に『評ニ曰(いはく)、今ノ世マデ一疋モ不住(すまず)と云(いへ)リ。奇妙ナリ』とダメ押しがある。なお、この四国からの狐追放伝承には、ずる賢い狐よりも愛嬌のある狸を人々が愛したため、弘法大師がその意を汲んで追放したとする説もある(ただ、この追放も条件附きで、大師は「四国と本州との間に橋が架かったら帰ってよい」としたというから、こちらの追放は既に解除されていることになる。なお、弘法伝承には別に「四国と本州に橋が架かると邪悪な気が四国を襲う」と予言したという伝承も別にあるらしいことを、架橋前後に聴いたことがある)。ネットではこの四国にキツネはいないという話を信じている人が意想外に多く、ネット上にもそこら中に「四国には狐はいない」と真顔で記しておられるが、残念ながら、食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica 四国にちゃんと棲息している(但し、本州・九州に比して個体数は有意に少ない)。恐らくは「四国自然史科学研究センター」主催で「高知大学」・「四国森林管理局」・「環境の杜こうち」が共催して「高知大学朝倉キャンパス」の総合研究棟で催された「特別展 豊かな森の住人たち」の「ワークシート」の正答版(PDFに、四国にキツネは棲息しているとして、二十『年ほど前の調査によると、四国ではキツネの確認地点は高知県と愛媛県の境に集中し、他の地域での情報はとても少なかった』のですが、『ところが、ここ最近は徳島県や香川県でもキツネの情報が多くなってきていまして、全体的に数が増えてきている傾向があります。その原因は、まだわかっていません』とある。江戸時代にいなかったのでは? と主張されると、私は答えようがない。但し、そう言われるのであれば、近代以降に移入されたとする確実な記録・資料が示されなければならない。リンク元のような専門的機関の資料にさえ、近代以降に移入された事実が記されないのは、そうではないからだ、と考えた方が自然であろう。私は、昔から限定された地域でホンドギツネが棲息していたのではなかったかとは思っている。

「備後靹(とも)町の狐崎」広島県福山市鞆町(ともちょう)後地(うしろじ)にある岬狐崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。かの「鞆の浦」の南西二キロメートル圏内にあり、最も近い四国の香川県三豊市三崎の半島先端までは直線で二十一キロメートルである。

「沼名前(ぬなくま)神社」鞆町後地の鞆の浦の北直近にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「疫病神」疫病神が人体(じんてい)の形(なり)で出現することは珍しい。しかも、その書付というのも、これまた、珍しい。

「江愛宕下田村小路」江戸切絵図で同小路に「仁賀保内記」を確認した。現在の港区新橋丁目のこの附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。彼は江戸初期に出羽国由利郡塩越(現在の秋田県にかほ市象潟町字二ノ丸)の塩越城に政庁を置いた仁賀保藩の藩主家仁賀保氏の家筋から出た、所領千石の旗本で、その五代目が仁賀保大膳である。

「私共(ども)」この「共」は一人称単数。謙譲を示す場合に複数でなくても用いる。

「段々、仰せ出だされ候ふ趣き」順序立てて、意見なされたその趣旨には。実際には、一気に打ち殺そうとしたわけだが、遜っているわけである。

『爲(ため)にする者の手に由つて、此の證文は意外に弘(ひろ)く流布したりと覺しく、隱居老人などの隨筆にも採錄せらるゝに至れり。或いは此れも亦、長門(ながと)の「エンコウ」の手形と同じく、板行(はんぎやう)して信者に施したりしかも測り難し』「爲(ため)にする」とは、ある目的に役立てようとする下心を持って(しかもそれが目的であることを周囲になるべく知られぬようにして)事を行うを言う。私は常に「卑劣な」のニュアンスを含んで表向き誠実・正当に見せてする厭らしい行為にしか使わない。閑話休題。さても! すこぶる嬉しいことに、この守り札(しかも「板行」(印刷)ではなくて書写したもの)を国分寺市立図書館」の「デジタル博物館 」の「疫病神の詫び証文」(三で現物画像を見ることが出来る! 解説には、『江戸時代に厄災が家に入り込まないように戸口などに貼ったと思われるまじない札の一種です』。』この詫び証文は江戸時代の随筆』「竹抓子(ちくそうし)」巻二(小林渓舎著。天明六(一七八六)年自序)や「梅の塵」(梅之舎主人(長橋亦次郎)著。天保一五(一八四四)年自序)に『紹介されています』。『内容は、文政』三(一八二〇)年、『旗本仁賀保大善(にかほだいぜん)の屋敷に入り込んだ疫病神が捕まり、助けてもらうかわりに』、『仁賀保家や仁賀保金七郎の名がある場所には入り込まないという内容の詫び証文です』。『随筆で紹介されているにもかかわらず、現存するものは少なく、川島家の』三『点、他の都内の』三『点、栃木県で』二『点、群馬県で』二『点、埼玉県で』四『点、神奈川県で』六『点、静岡県で』一『点の』、計二十一点のみとし、『いずれにしても本文に大差なく、書き写されて伝わったと思われ、戸口に貼っていたという事例もあります。江戸時代の民族史料です』とある。これを見ると、三枚とも、宛名は「仁賀保金七郞樣」の前に連名で父「仁賀保金大膳樣」とあることが判り、本文の最後も「爲念一札如件」ではなく、「爲念差申上一札如件」(念の爲め、差し上げ申す、一札、件(くだん)のごとし)で、柳田の記すものよりも正式で正しい。なお、別に、あきる野市乙津軍道の高明神社(元熊野三社大権現)の神官鈴木家に伝わった同類のものが、こちらで活字起こしと訳がなされてあるPDF。しかし『私ども二人』って、一体誰やねん? 訳がおかしいと思わんかねぇ? 因みに、「梅の塵」は所持するので、以下に示す。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を正字化して示す。

   *

    ○疫病神一札の事

御簱本仁賀保公の先君は、英雄の賢君にておはしけるが、近年(ちかごろ)、疫病神を手捕[やぶちゃん注:「てどり」。]にせさせ賜し[やぶちゃん注:「たまひし」。]よし、疫神、恐れて、一通の証書を呈して、一命を乞によつて、免助[やぶちゃん注:免じて助けてやること。]ありしと也。右公の家は、一切(たえて)疫神流行と云事なし。又仁賀保金七郎と認め[やぶちゃん注:「したため」。入口へ張置時は、疫病いらずと云傳ふ。証書は、寶藏に納めあるよし。得たるまゝをしるす。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が下げてあり、頭の「一」は一マス頭抜けている。署名も下四字上げインデント。「奉恐」の間には中央に熟語を示す「-」が入っている。]

        差上ケ申一札之事

一私共兩人、心得違ヲ以、御屋敷入込、段々、被仰出候趣、奉恐入候。以來、御屋鋪内、幷金七郞樣御名前有ㇾ之候處、決、入込間鋪候。私共申不ㇾ及、仲間之者共迄、右之通リ申聞候。依、一命御助被ㇾ下、難ㇾ有仕合奉ㇾ存候。爲ㇾ念一札如ㇾ件

  文政三年九月二十二日  疫 病 神

     仁
賀 保 金 七 郞 樣

   *

「文政三辰九月廿二日」文政三年は確かに庚辰(かのえたつ)。グレゴリオ暦では一八二〇年十月二十八日。]

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