萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 寄生蟹のうた
寄生蟹のうた
潮みづのつめたくながれて
貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた
ああここにはもはや友だちもない 戀もない
渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。
おぼろにみえる沖の方から
船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。
あやしくもここの磯邊にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。
[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。初出も「定本靑猫」も有意な異同を認めない。標題に「寄生蟹(やどかり)のうた」とルビして貰いたかった。本詩を見つけた中学生の時、「やった! カクレガニの現代詩があった!」(「カクレガニ」は節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵亜(エビ)目短尾下目カクレガニ科 Pinnotheridae に属するカニ類の中で、海綿動物・腔腸動物・棘皮動物・軟体動物(斧足類(二枚貝類)・腹足類(巻貝類)・腕足類)などの体壁や体腔及び外套腔・排泄腔などに入り込んで寄生するカニ類,科名を略した「ピンノ」の愛称で知られる)と空喜びして、読み終えて後にがっくりと肩を落とした慘めな少年の私を忘れないからだ。言わずもがなだが、「寄生蟹(やどかり)」は十脚目抱卵亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類である。罪創りな! 朔太郎!
「齲ばみ」「むしばみ」。
「楫」「かぢ」。初出では異体字の「檝」を用いている。]
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