和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)
たか 題肩 鷞鳩
鷙鳥 征鳥
鷹【音膺】
噺那夜【梵書】
イン 【和名太加】
本綱鷹【以膺擊物故名】鳥之疏暴者也資金方之猛氣擅火德之
炎精指重十字尾貴合盧觜同鈎利脚等荊枯或白如散
花或黑如㸃漆大文若錦細斑似纈身重若金爪剛如鐵
毛衣屢改厥色無常寅生酉就總號爲黃一周作鴘三歳
[やぶちゃん注:「本草綱目」と異同有り(校合済み)。「一周」は「二周」、「鴘」は「鷂」。]
成蒼雌則體大雄則形小察之爲易調之實難薑以取熱
酒以排寒生於窟者好眠巢於木者常立雙骹長者起遲
六翮短者飛急蓋鷹與鳩同氣禪化故得稱鳩
五雜組云産於遼東者爲上故中華之鷹不及高麗産凡
教鷹者先縫其兩目仍布囊其頭閉空屋中以草人臂之
初必怒跳顚撲不肯立久而困憊始集臂上度其餒甚以
少肉啖之初不令飽又數十日眼縫開始聯其翅而去囊
焉囊去怒撲如初又憊而馴乃以人代臂之如是者約四
十九日廼開戶縱之高飛半晌羣鳥皆伏無所得食方以
竹作雉形置肉其中出没草間鷹見卽奮攫之遂徐收其
縧焉習之既久然後出獵擒縱無不如意矣
△按神功皇后四十七年自百濟國始貢鷹其後仁德帝
【四十二年】依納屯倉阿弭古獻異鳥授百濟國酒君令養之
[やぶちゃん注:「四十二年」は「四十三年」の誤記。訓読では特異的に訂した。]
以韋緡著其足以小鈴著其尾居腕上而未幾能馴天
皇幸百舌鳥野而遊獵多獲雉是本朝鷹狩始也
凡【雄大而勝雌小而劣】鷹雄小而劣稱兄【和名勢宇如小字音】雌大而勝稱
弟【和名太伊如大字音】當歳生育於山者曰黃鷹【和名和賀太加】其色土
黃而縱有黑彪易毛爲灰白色横生彪
二歳曰撫鷹又曰片鴘【訓加太加閉利】三歳曰再鴘【毛呂加閉利】
離巢自求食時捕來者曰網掛【阿加計】取巢育人家者曰巢
鷹【須太加】當時鷹匠人臂之閑居于燈下毎夜自酉至子如
此二十日許而徐馴矣後出於野外著經緒放之而呼則
還來此謂於幾和太利
定家
去年よりはとやまさりする片かへり狩行末の秋そ悲しき
在山中歷年者曰野褊【又山鴘】人養之難馴
正經
みかり人野されわか鷹山かへり思ひ思ひに手に居て行
凡鷹餌用雀一隻爲一餌諸鳥肉亦准之以毎日十五餌
也如欲獲鴈鵠者減餌也三分一而令鷹飢則能摯大鳥
四月羽毛將易時解去韋緡放于鳥屋内餌食任意逐日
脫落而還生新毛七月中旬如舊謂之片鳥屋二歳易毛
謂兩鳥屋三歳謂兩片鴘蓋易其尾也一枚脫而一枚生
是異他禽
定家
鷹ははやもろかたかへり過ぬ也今幾年かとやをかはまし
鷹尾十二枚長五六寸能合而末圓有黑白重紋遇天寒
則疊尾如一枚尾如遇損傷則取漆樹汁用接他鷹之尾
尾下有三品毛曰尾末毛【於須計】亂絲【美太禮伊止】狹衣【佐古呂毛】
下尾曰石打【伊之宇知】尾端白者曰杓華【比志也久波奈】背毛曰母衣
毛【保呂計】其脇出白毛曰茅花【都波奈】觜脇毛曰齒黑付【加祢豆計】
肘内毛曰水搔毛【美豆加計】脚著韋緡處曰無毛脛【計奈之波岐】共
皆俗稱也
定家
箸鷹のさころもの毛を重ても松風さむみあられふる也
鷹翦不見者尋之朝則東夕則西其尋聲呼於宇於宇如
隼則呼波伊波伊如鷂雀鷂雀𪀚則呼保宇保宇
定家
秋のこし方を忘れすしたひてや夕の鷹は西へゆくらん
背腹白觜灰白色者稱白鷹迄爪白者稱雪白鷹眉上白
者稱目白鷹古者白鷹爲珍奇近世希有之羅山文集如
出白鷹近來皆遇不祥之兆或云凡鷹不可近于燈羽毛
煤※[やぶちゃん注:「※」=「耳」+「黑」。]
定家
日の本の山てふ山にかへる巢に白鷹の子のなとなかるらん
同
燈火をあたり近くは置きもせし若白鷹のすすけもそする
五雜組云狡兔遇鷹來撲輙仰臥以足擘其爪而裂之鷹
卽死又鷹遇石則不能撲兔見之輙依巖石傍旋轉鷹無
如之何則盤飛其上良久不去人見之跡之兔可徒手捉
得也
源齊頼【滿政之孫】任出羽守源頼義東征之時齊頼以善養鷹
爲鷹飼之長而從焉至于今好田獵者皆學齊頼之術
且有武名有戰功虜貞任之弟良昭於羽州亦一勝利
也
*
[やぶちゃん注:「鷹類」(鳥綱 Aves 新顎上目Neognathae タカ目Accipitriformes)の総論部であるが、異様に長い(本未明に始めて公開までほぼ十二時間かかった)ので、読み難いとは思うが、訓読文内に注を総て入れ込み、本文と区別するために太字で示した(本文内のものは飛ばして読めるように下線も附した)。]
たか 題肩 鷞鳩〔(しようきう)〕
鷙鳥〔(しつてう)〕 征鳥
鷹【音、「膺〔(ヨウ)〕」。】
噺那夜〔(しなや)〕【梵書。】
イン 【和名、「太加」。】
「本綱」、鷹【膺〔(むね)〕を以つて物を擊つ。故に名づく。】鳥の疏暴なる者なり。金方〔(きんはう)〕の猛氣を資〔(う)〕く。火〔(くわ)〕德の炎精を擅(ほしいまゝ)にす。指の重さ、十字。尾、合盧〔(がうろ)〕を貴〔(たふと)〕ぶに同じ。脚は荊枯〔(けいこ)〕に等(ひと)し。或いは白く、散〔らせる〕花のごとく、或いは、黑くして漆〔(うるし)〕を㸃ずるがごとくして、大なる文〔(もん)〕、錦〔(にしき)〕のごとく、細かなる斑〔(まだら)は〕纈〔(くくりぞめ)〕に似たり。身、重きこと、金〔(かね)〕のごとく、爪、剛〔(こう)〕にして鐵のごとし。毛衣、屢々(しばしば)改まり、厥〔(その)〕色、常〔(つね)〕、無し。寅〔(とら)〕に生じ、酉〔(とり)〕に就總號して「黃(わかたか)」と爲す。一周〔して〕「鴘〔(わかたか)〕」と作〔(な)〕り、三歳〔にして〕蒼〔(さう)〕。雌は、則ち、體、大きく、雄は、則ち、形、小さし。之れを察すること、易〔(やす)〕し爲〔(な)〕す。之れを調〔(てう)〕すること、實〔(まこと)〕に難し。〔暑き折りは〕薑〔(はじかみ/しやうが)〕を以つて熱を取り、〔寒き折りは〕酒を以つて寒を排〔(のぞ)〕く。窟〔(いはや)〕の生〔(せい)〕する者は好んで眠り、木に巢(すづく)りする者は常に立雙〔(たちなら)〕ぶ。骹〔(はぎ)〕長き者、起くること遲く、六〔つ〕の翮〔(つばさ)〕の短き者、飛ぶこと、急なり。蓋し、鷹と鳩と〔は〕氣を同じく〔し〕禪化〔(ぜんか)〕する。故に得て、「鳩」と稱す。
[やぶちゃん注:「鷹」は新顎上目タカ目Accipitriformesタカ科Accipitridae に属する鳥の内で、比較的、大きさが小さめの種群を指す一般通称である。ウィキの「鷹」によれば、
オオタカ(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis)
ハイタカ(ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus)
クマタカ(クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis)
などが知られる種である。タカ科に分類される種の中でも、
比較的、大きいものを「鷲」(わし:Eagle)
小さめのものを「鷹」(たか:Hawk)
と呼び分けてはいるが、これは明確な区別ではなく、古くからの慣習に従って呼び分けているに過ぎず、生物学的区分ではない。また、大きさからも明確に分けられているわけでもなく、『例えば』上記の『クマタカはタカ科の中でも大型の種であり』、『大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシ』(タカ科カンムリワシ属カンムリワシ Spilornis cheela)『は大きさはノスリ』(タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus)『程度であるからタカ類といってもおかしくない』。『縄文時代の遺跡からはタカ類の骨が発掘されており、当時は人間の食料であったと考えられている』。『鷹の糞は「鷹矢白」(たかのくそ)として、医薬品として用いられたことが平安時代の医薬書である』「本草和名」に載る。鷹の羽などが、家紋として使用されている。『タカ科及びハヤブサ科』(新顎上目ハヤブサ目Falconiformes ハヤブサ科Falconidae)『の鳥は優れた狩猟の能力をもつため、古くから多くの国で厳しい訓練を施したうえで鷹狩に使われてきた』。『モンゴルや中央アジアの遊牧民の間では「鷹」という言葉が力ある者の象徴として人名に用いられた。トゥグリル・ベグの「トゥグリル」やオン・ハンの本名「トグリル」はいずれも鷹という意味である』。『長野県では昔、タカの捕獲が盛んだった。タカの巣から幼鳥などを捕獲したので「巣場」がつく地名がみられる。森巣場、右京巣場、日向巣場、麦草巣場、六助巣場、抜井巣場、善右衛門巣場、原小屋巣場、などである』。『また、タカの眼球やタカの爪を煎じて飲むという伝統風習が長野県阿智村や喬木村にあった』とある。
「金方〔(きんはう)〕の猛氣を資〔(う)〕く」「金」は五行で「西方」を指す。「金方の狂氣」については東洋文庫版の注に「漢書」の『「五行志」に」「金西方万物既成。怒気之始也」とある』とある。
「指の重さ、十字」「サ」の送り仮名はママ。これでは意味不明である。原典も確かにこの文字列ではあるが、ここは「十字に重なれり」と読むべきではないか? 東洋文庫訳でも『指は十字形で』と訳してある。
合盧〔(がうろ)〕を貴〔(たふと)〕ぶ」意味不詳。「盧」には「黒い」の意があり、複数の尾羽がびしっとと相い合して「黒々としている」ことをよしとする、の意ではあるまいか? 東洋文庫訳では『尾はぴったりとして』と訳してある。
「鈎利〔(こうり)〕」尖った鉤(かぎ)。
「荊枯〔(けいこ)〕」枯れて堅くなった茨(いばら)の意であろう。
「金〔(かね)〕」黄金。
「寅〔(とら)〕」その日或いは時(午前三時頃から午前五時頃)や方位(東北東寄り)の意か。
「酉〔(とり)〕に就く」死ぬその日時(午後五時頃から午後七時頃)や方位(西)の意であろう。当初は、或いは幼体から成体となることかも知れないなどとも思ったが、それではバランスが悪い。
「一周〔して〕「鴘〔(わかたか)〕」と作〔(な)〕り」どうも「本草綱目」の「二周」の違いが気になってしょうがない。東洋文庫訳は『一年たてば(つまり二歳になれば)』という割注を施しているが、これは根本的な解決にならない。単純に良安の誤写と考えて、二年経ったなったらそれはもう「立派な若い成体の鷹」と成るの謂いでとっておくのが私は正しいように思う。また、「鴘」は文脈では問題なく本邦の訓「わかたか」「若鷹」でよめるのであるが、「本草綱目」の「鷂」ちょっと悩ましい字で、これは本邦では、「はいたか」と訓じ、狭義に鷹の一種であるタカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指す。時珍は「鷂」で中型の鷹類の初成体個体群をそのように呼んだ可能性が濃厚であるが、ここは良安の「鴘」の方が引用上は誤りでも、躓かずに読めるのである。そもそもが次項は「鷂(はいたか)」でそこで良安ははっきりと、「鷹に似て小さいが、鷹の雛ではなく別な一種である」と明言しているのである。だからこそなおさら、この「本草綱目」の「鷂」の字には従えなかったのである。
「蒼〔(さう)〕」年老いた個体の意。或いはそうした鷹の老成個体を「蒼」と呼ぶのかも知れぬ。その場合は鍵括弧となる。
「調〔(てう)〕」調教。
「骹〔(はぎ)〕」「脛」に同じい。
「禪化〔(ぜんか)〕」東洋文庫訳は『禅化(化身)』とする。変化して姿を変えることらしい。「禪」には「禅譲」のように「後に譲る」の意味があることからか。
『故に得て、「鳩」と稱す』これも半可通でよく意味が判らない。「得」は「禪化」を経ることを言うのだろうが、そうしたら、全く見た目は「鳩」になるのであるから、「鳩」と称するのは当たり前で、謂いがおかしい。寧ろ、鷹のことを別に「鳩」と呼ぶのはそうした理由からである、というのであれば、私も納得もしよう。]
「五雜組」に云はく、『遼東に産する者。上と爲す。故に中華の鷹は、高麗産に及ばず[やぶちゃん注:何故、「故に」なのかが不分明。例えば、タカ類でも優秀な鷹狩の担い手であるタカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis が、北方種であるから、劣ると言うのであろうか。]。凡そ、鷹を教ふる者、先づ、其の兩目を縫(ぬ)ひ、仍〔(よつ)て〕其の頭を布にて囊(つゝ)み、空屋(あきや)の中を閉ぢて、草人〔(さうじん)〕[やぶちゃん注:等身大の藁人形。]を以つて之れを臂(ひじ)せしむ。初めは必ず、怒り跳り、顚撲〔(てんぼく)して〕[やぶちゃん注:引っ繰り返っては頻りに搏ち羽ばたき。]、肯〔(あへ/うべなひ)〕て立たず。久しくして困憊(くたび)れて、始めて臂の上に集〔(ゐ)〕る[やぶちゃん注:おとなしくとまる。]。其の餒(う)[やぶちゃん注:「飢」に同じい。]ゆること甚だしきを度(はか)り、少〔しの〕肉を以つて之れを啖(くら)はしむ。初め、飽かしめず[やぶちゃん注:食い足りて飽きるほどには肉をやらない。]。又、數十日にして、眼の縫(ぬひ)を開き、始めて其の翅を聯〔(つら)〕ねて[やぶちゃん注:翼を自由にしててやる、の意と採る。]、囊を去る。囊を去れば、怒り撲〔(う)〕つこと、初めのごとく、又、憊(つか)れて馴〔(な)〕る。乃〔(すなは)〕ち、〔草人を〕人を以つて代へて、之れを臂にす。是くのごとき者、約(おほむね)四十九日、廼(すなは)ち、戶を開き、之れに高飛〔すること〕半晌〔(はんしよう)〕[やぶちゃん注:短い時間。片時。]を縱(ゆる)す。羣鳥、皆、伏し、食を得る所、無し。方(まさ)に竹を以つて雉〔(きじ)〕の形(なり)に作り、肉を其の中に置き、没草〔(くさむら)〕[やぶちゃん注:私の勝手な当て読み。]の間に出づ。鷹、〔これを〕見るときは、卽ち、之れを奮(ふる)ひ攫(う)つ。遂に、徐(そろそろ)其の縧〔(うちひも)〕[やぶちゃん注:東洋文庫訳のルビに従った。「真田紐」などの意味があり、「打ち紐」でここでの鷹と調教する鷹匠との間に連結さてある抑制用の紐(リード)のことを指しているものであろう。]を收め、之れを習ふ。既に久しくして、然して後、出獵〔せば〕、擒〔(とらふ)ること〕縱〔(ほしいまま)にて〕、無不如意のごとくならずといふこと無し。』〔と〕。
[やぶちゃん注:「遼東に産する者。上と爲す。故に中華の鷹は、高麗産に及ばず」何故、「故に」なのかが不分明。例えば、タカ類でも優秀な鷹狩の担い手であるタカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis が、北方種であるから、劣ると言うのであろうか。
「草人〔(さうじん)〕」等身大の藁人形
「顚撲〔(てんぼく)して〕」引っ繰り返っては頻りに搏ち羽ばたき。
「集〔(ゐ)〕る」おとなしくとまる。
「餒(う)ゆる」「飢ゆる」に同じい。
「飽かしめず」食い足りて飽きるほどには肉をやらない。
「半晌〔(はんしよう)〕」短い時間。片時。
「没草〔(くさむら)〕」私の勝手な当て読み。
「縧〔(うちひも)〕」東洋文庫訳のルビに従った。「真田紐」などの意味があり、「打ち紐」でここでの鷹と調教する鷹匠との間に連結さてある抑制用の紐(リード)のことを指しているものであろう。]
△按ずるに、神功皇后四十七年[やぶちゃん注:ユリウス暦二四七年。]百濟國より始めて鷹を貢ず。其の後、仁德帝【四十三年[やぶちゃん注:三五四年。]】依納屯倉阿弭古(よさむのみやけあびこ)、異〔(あや)し〕き鳥を獻〔(たてまつ)〕り、百濟國の酒〔(さけ)〕の君〔(きみ)〕之れを養はせしむ。韋緡(をしかは)を以つて其の足に著け、小さき鈴を以つて其の尾に著け、腕の上に居(す)へて、未だ幾ばく〔も〕ならざるに、能く馴れる。天皇、百舌鳥野(もずの)に幸(みゆき)し、遊獵し、多く雉を獲(え)たまふ。是れ、本朝鷹狩の始めなり。
[やぶちゃん注:「韋緡(をしかは)」の「韋」(音「ヰ(イ)」)は「毛を取り去って柔らかくした動物の皮、鞣革(なめしがわ)の意で、「緡」は細い繩を束ねて根元を括ったものを指す。ここはさすれば、現在の鷹匠のように自分の腕に皮革製保護具を装着するのではなく、鷹の脚の方にそうした革と繩を巻きつけたものと解釈するしかないようだ。
「百濟國の酒の君」「日本書紀」にみえる百済の王族。仁徳天皇四十一年に紀角(きのつの)が百済に遣わされた際、角に無礼をはたらいたために捕らえられ、日本に送られた。この二年後に罪を許され、天皇から鷹の飼育を命じられた。「鷹甘部(たかかいべ)」の始祖とされる。]
凡そ【雄の大にして勝〔(まさ)れ〕る、雌の小にして劣る。】、鷹、雄は小にして劣れり、「兄(せう)」と稱す【和名、「勢宇」。「小〔(セウ)〕」の字音のごとし。】。雌は大にし勝(まさ)れり、「弟(だい)」と稱す【和名、「太伊」。「大」の字音のごとし。】當歳生れて[やぶちゃん注:生後一年。]、山に育つ者を「黃鷹(わかたか)」と曰ふ【和名、「和賀太加」。】。其の色、土黃[やぶちゃん注:黄土色。]にして、縱〔たて)〕に黑き彪〔(ふ)〕有り。毛を易(か)へて、灰白色と爲り、横に彪を生ず。
二歳を「撫鷹〔(なでたか)〕」と曰ふ。又、「片鴘(かたがへり)」と曰ふ【訓、「加太加閉利」。】。三歳を「再鴘(もろがへり)」と曰ふ【「毛呂加閉利」。】。
[やぶちゃん注:鷹匠のサイトを見ると、「片鴘」には「山帰り(やまがえり)」という別称がある。これは第一回の換羽後の鷹或いは第一回換羽後に捕獲された鷹である(後の良安の謂いとは矛盾する)。「小山帰(こやまがへり)」という呼称もあり、これは「小山鴘」とも書く。これは、前年に生まれた鷹が翌春になっても未だ羽毛が完全には抜け変わっていない状態の若鷹を指す語である。他にも生後四歳の鷹(一説には三歳又は四歳以上のものを指す「諸片回・両片回(もろかたがへり)」などもある。]
巢を離れて、自ら求-食(あさ)る時、捕へ來たる者、「網掛(あがけ)」と曰ふ【「阿加計」。】。巢を取りて人家に育てる者を「巢鷹」と曰ふ【「須太加」。】。當時[やぶちゃん注:当節。]の鷹匠の人、之れを臂にして、燈下に閑居する。毎夜、酉より子に至るまで此くのごとくすること二十日許りにして、徐(そろそろ)馴る。後、野外に出でて、經緒(へを)[やぶちゃん注:長いリードであろうか。]を著けて之れを放つ。而〔して〕呼ぶときは、則ち、還り來たる。此れを「於幾和太利〔(おきわたり)〕」と謂ふ。
定家
去年〔(こぞ)〕よりはとやまさりする片がへり
狩り行く末の秋ぞ悲しき
[やぶちゃん注:藤原定家は大の鷹好きで、天文八(一五三九)年には「定家鷹三百首」などという和歌鷹集なんぞをものしている(国立国会図書館デジタルコレクションに有り)。ここにあるのもそれからか。私は定家が嫌いだし、校合資料も持ち合せていないので、これを含め、以下総てを放置する。悪しからず。]
山中に在りて、年を歷〔(ふ)〕る者、「野褊(のざれ)」と曰ふ【又、「山鴘〔(やまがへり)〕」。】。人、之れを養ふに、馴れ難し。
正經
みかり人野ざれわか鷹山がへり
思ひ思ひに手に居〔(す)〕ゑて行く
[やぶちゃん注:作者不詳。校合の不能。]
凡そ、鷹の餌〔(ゑ)〕は、雀一隻〔(いつせき)〕[やぶちゃん注:一羽。]を用ひて、一餌〔(ひとゑ)〕爲す。諸鳥の肉も亦、之れに准じて、以つて、毎日、十五餌なり。鴈〔(がん)〕・鵠〔(くぐひ)〕[やぶちゃん注:白鳥。]を獲(と)らんと欲するごとき者は、餌を減ずることなり。三分〔の〕一にして鷹を飢へせしめ、則ち、能く大鳥を摯〔(う)〕つ[やぶちゃん注:「摯」(音「シ」)は「捕る」「摑む」の意。]。
四月、羽毛、將に易(か)へんとする時、韋緡(をしかは)を解き去り、鳥屋(とや)の内に放つ。餌食〔(ゑじき)〕、意に任せ、日を逐〔(おひ)〕て脫け落ちて、還(ま)た新毛を生じて、七月中旬、舊(もと)のごとし。之れを「片鳥屋(〔かた〕とや)」と謂ふ。二歳、毛を易〔(か)ふ〕る〔を〕「兩鳥屋(もろ〔とや〕)」と謂ふ。三歳を「兩片鴘(もろかたがへり)」と謂ふ。蓋し、其の尾を易ることや、一枚、脫(す)けて、一枚、生〔(は)〕ゆる。是れ、他禽に異〔(ことなる)〕なり。
定家
鷹ははやもろかたがへり過ぎぬなり
今幾年かとやをかはまし
鷹〔の〕尾〔は〕、十二枚〔にして〕、長さ五、六寸。能く合ひて、末〔(す)〕へ[やぶちゃん注:ママ。]、圓〔(まどか)にして〕黑白〔の〕重〔ね〕紋、有り。天寒に遇へば、則ち、尾を疊み、一枚のごとくにす。尾、損傷に遇ふがごとき〔とき〕は、則ち、漆〔の〕樹の汁を取りて用ひて、他〔の〕鷹の尾を接(つ)ぐ。尾の下に、三品の毛、有り。「尾末毛(をすけ)」【「於須計」。】・「亂絲〔(みだれいと)〕」【「美太禮伊止」。】・「狹衣〔さごろも)〕」【「佐古呂毛」。】と曰ふ。下の尾を「石打〔(いしうち)〕」【「伊之宇知」。】と曰ひ、尾の端の白き者を「杓華(ひしやく〔はな〕)【「比志也久波奈」。】と曰ひ、背の毛を「母衣毛(ほろ〔け〕)」【「保呂計」。】と曰ひ、其の脇に出づる白毛を「茅花(つばな)」【「都波奈」。】と曰ひ、觜の脇〔の〕毛を「齒黑付(かねつけ)」【「加祢豆計」。】と曰ひ、肘〔(ひじ)〕の内の毛〔を〕「水搔毛(みづかけ)」【「美豆加計」。】と曰ひ、脚に韋緡(をしかは)を著(つ)くる處を「無毛脛(かなしはぎ)」【「計奈之波岐」。】と曰ふ。共に皆、俗稱なり。
定家
箸鷹〔(はしたか)〕のさごろもの毛を重ねても
松風さむみあられふる也
鷹、翦(そ)れて見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざる者、之れを尋ぬるに、朝は、則ち、東、夕べは、則ち西〔たり〕。其の尋ぬる聲、「於宇於宇〔おうおう〕」と呼ぶがごとし。隼(はやぶさ)は、則ち、「波伊波伊〔(はいはい)〕」と呼ぶがごとし。鷂〔(はいたか)〕・雀鷂(つみ)・雀𪀚(ゑつさい)、則、「保宇保宇〔(ほうほう)〕」と呼ぶ。
[やぶちゃん注:「雀鷂(つみ)」タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis。「雀鷹」とも書く。ここはその♀(次注参照)。
「雀𪀚(ゑつさい)」ウィキの「ツミ」に『鷹狩りにおいては古くからオスをエッサイ(悦哉)と呼称することもある』ので、上記ツミの♂である。]
定家
秋のこし方を忘れずしたひてや
夕べの鷹は西へゆくらん
背・腹、白く、觜、灰白色なる者、「白鷹〔(はくたか)〕」と稱す。爪に迄(いたるま)で白き者を「雪白鷹〔(ゆきはくたか)〕」と稱す。眉の上の白き者、「目白鷹〔(まじろ〔だか〕)」と稱す。古-者(いにし)へは、白鷹を珍奇と爲〔せり〕。近世、希〔(まれ)〕に之れ有り。「羅山文集」にいはく、『如〔(も)〕し白鷹を出だせば、近來、皆、不祥の兆〔(きざし)〕に遇ふ』〔と〕。或いは云ふ、「凡そ、鷹、燈〔(ともしび)〕に近づく〔る〕べからず。羽毛、煤-※(すゝぼ)るなり[やぶちゃん注:「※」=「耳」+「黑」。]。
[やぶちゃん注:江戸初期の朱子学派儒学者で、幕府ブレーンとなる林家の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の死後(寛文二(一六六二)年)に編された著作大成。]
定家
日の本の山てふ山にかへる巢に
白鷹の子のなどなかるらん
同
燈火〔(ともしび)〕をあたり近くは置きもせじ
若白鷹のすすけもぞする
「五雜組」に云はく、『狡兔〔(かうと)〕、鷹、來りて撲(う)つに遇へば、輙〔(すなは)〕ち、仰〔(うつむ)〕き臥し、足を以つて其の爪を擘〔(う)ち〕て之れを裂く。鷹、卽死す』〔と〕。『又、鷹、石に遇へば、則ち、撲つこと能はず。兔、之れを見、輙ち、巖石の傍に依りて、旋轉〔せんてん)〕す[やぶちゃん注:その大岩の周囲を急速にぐるぐると旋回し続ける。]。鷹、之れを如何(いかん)とものすること無く、則ち、其の上を盤-飛(めぐ)り、良〔(やや)〕久しくして〔も〕去らず。人、;之れを見て、之れに跡〔(あと)〕すれば、兔、徒(たゞ)で手に捉(とら)へ得べしなり。』〔と〕。
[やぶちゃん注:鷹への絶妙な狡知を持った兎は、厭らしい人の狡知のために鷹に食われず、人に食われる。ちと、シチュエーションが段階を踏んで難しい(鳥界のチャンピオンで怖いものなしの鷹は石だけは打ち砕くことは出来ない(だから苦手だ)→それを知っいる鷹に狙われた兎は巨大な巌石の直下の根廻りを速攻ダッシュで旋回し続ける→鷹はなかなか諦めきれずに上空で目立って旋回をし続ける→それを人が目撃してその真下を捜しに行く→旋回運動に入れ込んでいる兎は人の接近に気づかずに人に素手でやすやすと捕まって食われてしまう)故事成句に成り損ねた感があるな。【2019年3月11日追記】などという半可通なことを書いて満足していたが、「和漢三才図会 第三十八」の「獣類」の「狡兔」に到達して、この前の部分は「すばしっこいウサギ」の意の一般名詞ではなく、ウサギに似ているが、金属を食う恐るべきトンデモ幻獣であることが判った。ここに言い添えておく。]
源齊頼(ときより)【滿政の孫。】出羽守に任ず。源頼義〔の〕東征の時、齊頼、善く鷹を養ふを以つて、鷹飼〔(たかがひ)〕の長〔(をさ)〕と爲りて從ふ。今に至るまで田獵を好む者、皆、齊頼の術を學ぶ。且つ、武名、有り、戰功、有り。羽州に貞任が弟良昭を虜(いけど)りしも亦、一勝利なり。
[やぶちゃん注:「源齊頼(ときより)」とあるが、現在では「まさより」「なりより」「せいらい」が正しいようだ。ウィキの「源斉頼」によれば、平安中期の『武将・官人・鷹匠。清和源氏満政流。駿河守・源忠隆の長男。政頼、正頼とも記され』る。長元八(一〇三五)年に『催された藤原頼通家歌合(「関白左大臣頼通歌合」)に源頼実、藤原経行らと共に蔵人所雑色として参加したことが知られる』。『蔵人兼右兵衛尉在任時であった』天喜三(一〇五五)年には、『内裏の蔵人所町屋(蔵人の詰所)に逃げ込んだ抜刀の暴漢を郎等の滝口武者源初、小野幸任らと共に取り押さえた功により』、『検非違使に任ぜられ』ている。同五(一〇五七)年、「前九年の役」で『苦戦する源頼義の後援として源兼長に代わり』、『出羽守に任ぜられ下向した』。『しかし』、『出羽赴任後の斉頼は頼義に対して非協力的な態度を示し、その戦功も役の終盤に出羽に逃れた安倍良照』(あべのりょうしょう 生没年不詳:僧。名は「良昭」「官照」とも。俗名は則任。安倍忠良の子で安倍頼時の弟に当たる。『若くして僧籍にあったため』、『甥の家任を養子とした』。永承六(一〇五一)年からの「前九年の役」では『頼時に従って家任とともに小松柵の守備にあたった。小松柵が頼義軍に焼き払われ、さらに家任らが出家して帰降するなど』、『安倍軍の敗北が決定的となると』、『出羽国に落ち延びたが出羽守源斉頼に捕らえられて大宰府に配流となった。同じく太宰府に配流された家任の没後家任の遺児秀任の養育にあたったという』とある。ここはウィキの「安倍良照」に拠った)『とその甥正任を捕縛する程度のものに留まっている』。『後代、三男・惟家の子孫が近江国高島郡に土着して善積氏を称したほか、一女(正確には孫娘)は摂津源氏の源頼政の室となり、源仲綱や二条院讃岐などの母となった』。『斉頼は優れた鷹飼であったことが知られ、高麗から渡来した鷹匠・兼光(出身地・名には異説あり)より継承したとされるその秘技は「呉竹流」あるいは「政頼流」などと呼ばれ、後の諏訪流とその諸派に伝承された』。鎌倉『初期に編纂された説話集』「古事談」によれば、『当時の風潮から』、『殺生に対し』、『批判的な表現が書き加えられながらも』、『終生』、『鷹を飼う事を生業とし』、『盲目となった晩年にも撫でるだけで鷹の産地を言い当てたという説話があり、また「斉頼(せいらい)」という言葉が「その道の達人」を指す名詞として流布するなど、伝説的な鷹飼として語り継がれ』たとある。史実は良安の記すのとはかなり印象が違う。]
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