萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 顏
顏
ねぼけた櫻の咲くころ
白いぼんやりした顏がうかんで
窓で見てゐる。
ふるいふるい記憶のかげで
どこかの波止場で逢つたやうだが
菫の病鬱の匂ひがする
外光のきらきらする硝子窓から
ああ遠く消えてしまつた 虹のやうに。
私はひとつの憂ひを知る
生涯(らいふ)のうす暗い隅を通つて
ふたたび永遠にかへつて來ない。
[やぶちゃん注:大正一一(一九二一)年一月号『日本詩人』初出。初出は以下。
*
顏
ねぼけた櫻のさくころ
白いぼんやりした顏がうかんで
窓で見てゐる。
ふるいふるい記憶のかげて[やぶちゃん注:ママ。]
どこかの波止場で逢つたやうだが
たいさう惱ましい顏のやうだが[やぶちゃん注:「たいさう」はママ。]
𦰌の病鬱の匂ひがする[やぶちゃん注:「𦰌」はママ。]
外光のきらきらする硝子窓から
あゝ遠く消えてしまつた。虹のやうに。
私はひとつの憂ひを知る
生涯(らいふ)のうす暗い隅を通つて
ふたゝび永遠にかへつて來ない。
あゝ悔恨の酢えた淚は
殘像の頰にもながれてゐる。
*
初出の最後の二行はカットして良かった。「ふたゝび永遠にかへつて來ない」と感ずる「憂ひ」には「殘像の頰にもながれ」る「悔恨の酢えた淚」など、あろうはずがない、絶対の永遠の憂愁には、この二行は蛇足以外の何ものでもないからである。
「定本靑猫」とは異同が全くなく、特異点の再録詩篇である。]
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