甲子夜話卷之五 28 林氏、刀劍用所の説
5-28 林氏、刀劍用所の説
林氏前條を看て云ふ。技術の人を助くるは少からざることなれども、眞劍の勝負に至りては其人に存する故、しかあるべきことなり。況や戰鬪の鎗と云ものは、扣きふせる位のこと多きなるべし。昔血戰を經し御旗本衆、其名は忘たり。太平の後、途中にて狼籍者に出逢、拔合せて斬たるとき、殊の外切あしく、やうやうにして切留たり。其佩刀軍陳[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。「陣」。]の度ごとに用ひし所の物なりしが、自身も此時に至り、始めて其刀の切あしきに驚きて、出陳の時は甲胃の上より扣き伏せる所を第一に用ひて、いつも利方ありしが、素肌を立派に切んとしては用方違ふ故に、既に不覺を取んとせしと云しとなり。武器も素肌物と甲胃物とは、銕味の利方別なるべし。其用ひ方も同じ。是等心得あるべきことなりと云けり。
■やぶちゃんの呟き
「林氏」さんざん出て来たが、年初なので再掲する。以後は基本、附さない。江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「林述斎」によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。
「用所」「もちひどころ」と訓じておく。
「前條」「5-27 本多中書、老後學鎗事」。
「其人に存する」その人の人品や精神的な部分に結び付いた力量の謂いであろうか。
「扣きふせる」「たたきふせる」鎗の実際の戦場での実践的用法としては、実は突くよりも、距離を持った相手を威嚇し、突かずに振り下ろして、敵を地面に叩き伏せて(あわよくばそこで突いて引いて)外傷や致命傷を与えるという実用例の方が実は多いということらしい。
「切あしく」「きれ、惡しく」。長刀の切れ味が異様に悪く。
「切留たり」「斬りとめたり」。
「いつも利方ありしが」その大刀は常に白兵戦で、身に甲冑を着込んだ武士を、甲冑ごと、バラリ! ズン! と唐竹割するようなブッ斬るやり方に使い、常に実行効果があったが。
「切ん」「きらん」。
「用方」「もちひかた」。
「取ん」「とらん」。
「銕味」「てつみ」。鉄の性質。
「利方」「りかた」。有利な方法。利のある側。
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