和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん) (本当にいないと思いますか? フフフ……)
鴆【音朕】
チン
本綱鴆似鷹而大狀如鴞紫黑色赤喙黑目頸長七八寸
雄名運日雌名陰諧雄鳴則晴雌鳴則雨其聲如擊腰鼓
似云同力故名同力鳥巢於大木之顚巢下數十步皆草
木不生也食蛇及橡實知木石間有蛇卽爲禹步以禁之
須臾木倒石崩蛇出也蛇入口卽爛其屎溺着石石皆黃
爛飮水處百蟲吸之皆死人誤食其肉立死惟得犀角卽
解其毒也此鳥出商州※州等南方山中
[やぶちゃん字注:「※」{(つくり)は(くさかんむり)に「單」}+(へん)「斤」。訓読文では「本草綱目」の原文を確認、同じ字である「蘄」に代えた。]
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ちん 同力鳥〔(とんりつてう〕[やぶちゃん注:本文参照。]
䲰日〔(うんじつ)〕
鴆【音、「朕」。】
チン
「本綱」、鴆、鷹に似て、大。狀、鴞〔(ふくろふ)〕のごとく、紫黑色。赤き喙、黑き目、頸の長さ、七、八寸。雄を「運日〔(うんじつ)〕」と名づく。雌を「陰諧〔(いんかい)〕」と名づく。雄、鳴くときは、則ち、晴れ、雌、鳴くときは、則ち、雨ふる。其の聲、腰鼓〔(こしつづみ)〕を擊〔(たた)〕くがごとく、「同力(とんりつ)」と云ふに似たり。故に「同力鳥」と名づく。大木の顚(いたゞき)に巢くふ。巢の下、數十步、皆、草木、生ぜず。蛇及び橡〔(とち)〕の實を食ふ。木石の間に蛇有るを知るときは、蛇、卽ち、禹步〔(うほ)〕を爲して、以つて之れを禁〔(ごん)〕す。須臾〔(しゆゆ)にして〕、木、倒れ、石、崩(くづ)れて、蛇、出づる。蛇、口に入らば、卽ち、爛る。其の屎〔(くそ)〕・溺〔(いばり)[やぶちゃん注:尿。]〕石に着けば、石、皆、黃〔に〕爛(たゞ)る。飮水〔(のみみづ)〕の處にて、百蟲、之れを吸ふに、皆、死す。人、誤りて其の肉を食へば、立ちどころに死す。惟〔(ただ)〕犀の角を得て、卽ち、其の毒を解すなり。此の鳥、商州・蘄州〔(きしう)〕等、南方の山中に出づ。
[やぶちゃん注:中国で古代から猛毒を持つとされる想像上の化鳥(けちょう)。但し、「鴆」の実在を否定は出来ないし、以下の注で示す通り、羽一枚でヒトが死ぬ毒を有する毒鳥は《実在する》。但し、その鳥がイコール「鴆」であるかどうかは判らないし、或いは、嘗ての中国に毒鳥「鴆」は実際に棲息していたのだが、今は絶滅してしまった種である可能性もないとは言えない。逆に一九九〇年に発見された毒鳥の存在は、ただの偶然の一致に過ぎず、実在する毒物(或いは複数の毒物の混合体)を「鴆」という架空の鳥由来としたのかも知れない。ともかくも、こうした幻獣となると、私は何時も以上に「力(りき)」が入ってしまうのを常とする。まずはこの際、良安の抜粋する「本草綱目」(明の李時珍よって編纂された薬学本草書。全五十二巻。一五七八年完成、一五九六年出版)と、やや遅れて出来た本書が倣ったところの「三才圖會」(王圻(おうき)と彼の次男王思義によって編纂された類書(百科事典)。全百六巻。明の一六〇七年完成、一六〇九年出版)の「鴆」の記載を完全に電子化して、比べてみることから始めようではないか。
「本草綱目」の「鴆」は「巻四十九」の「禽之四」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの原本画像を元にし、句読点や記号を推定で補った。一部の記号は変えてある。漢字表記は原文に基づく。
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鴆【音「沈」、去聲。「別録」下品。】 校正【自外類移于此。】
釋名䲰日【與運日同。「別録」】。同力鳥【陶宏景】。
集解【「別録」曰、『鴆生南海』。弘景曰、『鴆與䲰日是兩種。鴆鳥、状如孔雀、五色雜斑、髙大、黒頸、赤喙、出廣之深山中。䲰日、状如黒傖鷄、作聲似云同力、故江東人呼爲同力鳥。並啖蛇、人誤食其肉立死、並療蛇毒。昔人用鴆毛爲毒酒、故名鴆酒、頃不復爾。又海中有物赤色、状如龍、名海薑。亦有大毒、甚于鴆羽』。恭曰、『鴆鳥、出商州以南江嶺間大有、人皆諳識、其肉腥有毒不堪啖』。云、『羽畫酒殺人、亦是浪證』。郭璞云、『鴆大如鵰、長頸赤喙、食蛇』。「說文」「廣雅」「淮南子」皆以鴆爲䲰日。交廣人亦云、『䲰日即鴆、一名同力鳥、更無如孔雀者。陶爲人所誑也』。時珍曰、『按「爾雅翼」云、鴆似鷹而大、状如鴞、紫黒色、赤喙黒目、頸長七八寸。雄名運日、雌名隂諧。運日鳴則晴、隂諧鳴則雨。食蛇及橡實。知木石有蛇、即爲禹歩以禁之、須臾木倒石崩而蛇出也。蛇入口即爛。其屎溺着石、石皆黄爛。飲水處、百蟲吸之皆死。惟得犀角即解其毒。又楊亷夫「鐵厓集」云、鴆出蘄州黄梅山中、状類訓狐、聲如擊腰鼓。巢於大木之顛、巢下數十歩皆草不生也』。】
毛氣味有大毒。入五臓、爛殺人【「別録」。】。
喙主治帶之、殺蝮蛇毒【「別録」。時珍曰、『蛇中人、刮末塗之、登時愈也』。】
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良安は「集解」の冒頭の陶弘景(四五六年~五三六年)六朝時代の医師・本草家で偉大な博物学者であった)の引用文の一部と末尾の時珍の引用部(私が下線を施した後半箇所)に基づいて抜粋していることが判る。しかし、それよりも私には非常に興味深い部分があるのである。則ち、弘景の引用文だ。始めの「鴆與䲰日是兩種」とは「鴆と䲰日とは、是れ兩種なり」で、彼は「鴆」と「䲰日」を別種としている点も目が惹かれるが、さらに彼は「又海中有物赤色、状如龍、名海薑、亦有大毒、甚于鴆羽鴆毒海薑」と述べているのである。「又、海中、物、有り、赤色、状(かたち)、龍のごとく、「海薑(カイキヨウ)」と名づく。亦、大毒、有りて、鴆の羽よりも甚だし」と言っている点である。実は私はこの部分を六年前に「海産生物古記録集■8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載」で取り上げており、この鴆毒よりも激しい毒を持つ生物「海薑」(「薑」は生姜(ショウガ)のこと)を、私は、刺胞毒の激しい刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica に同定しているのである。私が何を言いたいかと言うと、弘景は実在する強い刺胞毒を持ったアカクラゲの毒の強さと、鴆の羽から浸出させた毒を比べると、遙かにアカクラゲの方が強毒であると彼が証言している点である。有毒鳥「鴆」が全くの架空の鳥であり、「鴆の羽の浸出液」とされる「鴆毒」なるシロモノも全然、荒唐無稽なもので存在しないとするならば、この毒性比較自体が初めから意味のないものとなること、優れた博物学者であった弘景が見もしない「鴆の羽の毒」を、実在するアカクラゲと比較検討するというのは私は考えにくいこと、実在する強毒生物の下手にわざわざランクするということが出来るということは、少なくとも「鴆の羽の浸出液とされた鴆毒」なるものは現に確かに存在した事実を物語っているからだと思うのである。なお、「交廣人亦云」(中国の南方の交趾や広州の人の意か)の箇所は、「鴆」や「鴆毒」の存在を否定するものではなく、単に「孔雀」より美しい五色のそんな鳥はその地方にはいないと批判しているだけであると読む。
「三才圖會」の「鴆」は「鳥獸二卷」に載る。こちらの左頁に図、こちらの右頁に解説。孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの画像である。同前の仕儀で解説を電子化する。
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鴆
鴆、毒鳥也。似鷹而大、如鴞也。紫黒色、長頸、赤喙、長、七、八寸。作銅聲。雄名運日、雌名陰諧。天晏静無雲、則、運日先鳴、天将陰雨、則、陰諧鳴。之故「淮南子」云、『運日、知晏陰諧知雨也』。食蝮蛇、蛇入口、即爛、屎溺、若石、石亦爲之爛。
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「鴆」の絵も寸詰りの首で幼稚園児の描いたような稚拙なもので、凡そ現物を見ていないことの見え見えのいい加減なものだ(線上のものは食っている毒蛇かどうかも判らぬ。「和漢三才圖會」はこの絵を元にしているが、まだマシだ)。十一年前の「本草綱目」の梗概というよりも、抜粋に引用を附してオリジナルに見せかけた、お茶濁しの感を免れぬ。しかも最後の「若石」は「着」の誤字だぜ! さて、茨城大学名誉教授で東アジア医学史を専門とされる真柳誠氏の論文「鴆鳥-実在から伝説へ」(一九九四年四月朝日新聞社刊の山田慶兒編「物のイメージ-本草と博物学への招待」に所収。リンク先は「真柳研究室」公式サイト内のページ)は「鴆」について最も優れたネット上での記事の一つと思うが、そこで真柳氏も、『後世に誇る明代の『本草綱目』すら、宋以後の新知見は一切ない。また明の図説百科事典『三才図会』も鴆鳥を載せるが』、『説明は過去の記載からの作文にとどまる。そればかりか、説明文と合致しない絵図を掲げる』。『なぜか』。『理由は明らかだろう。鴆鳥は唐代の『新修本草』で薬物として否定され、宋代には毒物としてのインパクトもなくなってしまった。それで人々の関心もうせ、伝説の進化すら生じようがなかったのである。もちろん鴆鳥自体が唐宋間で、急速に姿を消していったらしいことも要因の一つに加えてよいだろう』。結局、『鴆鳥に与えられたみちは、ただ一つだった。空想的毒鳥として、過去の記録がみな伝説的とみなされたあげく、歴史の片隅に埋められたのである。伝説にしても、鴆鳥伝説はいわば忘れられた化石であった』と述べておられる。実は、「本草綱目」以前の「鴆」や「鴆毒」の古文献を掲げたいと思ったのだが、この真柳氏の論文のこの前の部分(「3 鴆鳥による毒殺」と「4 本草と鴆鳥」及び上記引用含まれる「5 実像から虚像へ、そして湮滅」)でそれは精緻に、しかも、判り易く纏められてあるので、とても私が新たな内容を附け加えることは出来そうもない。是非、そちらを参照されたい。本論文は実在する毒鳥(後述する)の発見を契機として起筆されたものであるが、少しだけ、引用させて戴くと、「鴆」のような毒鳥が近年、『出現したことで、鴆鳥に関する古い文献記載にも再検討すべき余地が生まれた。与えられた手がかりは多い』とされ、『(1)南国の密林に棲息する。(2)鳴き鳥で、声は二音節に近い。(3)皮膚・羽毛の毒性が強い。(4)毒性はヒトに経口でもすぐ発現する。(5)毒成分はエタノールに溶出する。(6)蛇・鷹が捕食を忌避する。以上の六点である』と既定される(太字は私が施した。以下同じ)。史書で最も古い「鴆毒」と同一と思われるものは、以下らしい。『酖という文字が、前六六二年にあたる『春秋左氏伝』荘公三十二年の話にでてくる』。『病にたおれた魯の荘公から世継ぎを相談された成季が、意見を異にする叔牙を殺すのに飲ませたのが酖である。すると酖は酒に関連した毒液に相違ない。この翌年にあたる同書閔公元年でも、「安楽の害は酖毒に同じ」、と管敬仲が斉公に説く』。『次の話からすれば、この酖とは鴆鳥をしこんだ毒酒とわかる』。『『国語』晋語二』『に記される前六五六年の策謀では鴆が使われるが、単純な毒殺ではない。すなわち、晋の献公は異族の驪戎を討って、美人の驪姫を得た。献公の寵愛をわがものとした驪姫は、わが子を世継ぎとするため、異腹の太子申生を廃する陰謀をはかる』。『「まず申生に亡き生母を祭らせてから、その祭祀の酒肉を献公に送らせた。次にすきをみて酒に鴆を、肉にトリカブトをしこんだのである。献公が酒を地にそそいで祭ると、土がもり上がった。そこで驪姫が肉を犬にやると、犬は死んだ。宦官に酒を飲ませたら、やはり死んだ」』。『こうして無実の罪をかぶせられた申生は、自殺へと追いやられてしまう』。『この猛毒トリカブトは「菫」の字で記され、中国でもっとも古いトリカブトの表現である』。『すると並記される鴆鳥の存在と毒性も、相当にはやくから知られていたことが示唆されよう。なお『穀梁伝』もほぼ同一の話を載せ、酖の字を使う。けっきょく酖は鴆酒なのである』とある。以下の史書渉猟はリンク先を読まれたい。以下は「4 本草と鴆鳥」の冒頭。『中国では本草と呼ばれる分野で、薬物に関する情報を集積してきた。現在、全体の内容が伝えられる最古の本草書は、後漢の一世紀頃に原型が編纂された『神農本草経』で、凡例部分と、三六五薬を上薬・中薬・下薬に分類した部分からなる。鴆鳥は、条文として本書に設けられていない。が、中薬の犀角条文に唯一の言及がみえる。すなわち「犀角は…鉤吻・鴆羽・蛇の毒を殺(け)し…」』『とあり、鉤吻つまり野葛や毒蛇の中毒とともに、鴆羽による中毒を犀角が解毒するという。ならば鴆鳥は羽毛に毒性があった。しかも羽毛は食用にならない。つまり鴆羽の用途はあくまでも毒用しかなく、それが毒酒にもされたのである』とされ、後の方で唐の「新修本草」(六五九年成立)の画像(仁和寺旧蔵の巻子本を幕末に模写した上海古籍出版社影印本のもの)が載る。そこには、
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鴆鳥毛有大毒入五藏爛殺人其口□□殺蝮蛇毒一名䲰日生南海
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とある(「□□」は判読不能。ただ、この部分を真柳氏は『くちばし』と訳しておられる)。勝手に訓読すると、
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鴆鳥、毛、大毒、有り。五藏に入らば、爛れ、人を殺す。其の口□□(くちばし)、蝮蛇(ふくだ)を殺毒す。一名、「䲰日(うんじつ)」、南海に生ず。
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「蝮蛇」は有鱗目クサリヘビ科マムシ亜科 Crotalinae に属する毒蛇類。真柳氏曰く、『ここで「くちばしは蝮蛇の毒を殺す」、という薬効が認められたので、鴆鳥はようやく本草の正式品目に立てられたのである』。『ところで『神農本草経』では、犀角が野葛・鴆羽の毒とともに蛇毒も消す、と記されていた。そして『本草集注』の墨字経文では、鴆鳥のくちばしに犀角と同様、蛇毒への薬効を認めたことになる。犀角・鴆鳥・毒蛇および野葛は、のちのちも関連して語られ、とりわけ鴆鳥と毒蛇の話は多い』。『その最初は後漢の応劭』(おうしょう)『が『漢書』斉恵王伝につけた注』『と思われ、「鴆鳥は黒身赤目で、蝮蛇・野葛を食う。その羽でひとかきした酒を飲むと、たちどころに死ぬ」と記す。蛇が小鳥を捕食するのは普通である。しかし鳥が蛇を、しかも毒鳥が毒蛇を捕食する、という話はよほど興味を引いたのであろう。『山海経』の郭璞(二七六~三二四)の注』『もこれを踏襲し、「鴆は鵰(ワシ)ほどの大きさで紫黒色。頸が長く、くちばしが赤く、蝮蛇の類を食う」という。はるか後代になるが一五九六年の『本草綱目』初版(金陵本)の絵』『も、郭璞の説にもとづくと思われる。後代』、『こうして鴆鳥の形状も敷衍されてゆく』とされ、「本草集注」の陶弘景の注(「本草綱目」の「鴆」「集解」の頭部分と前半は同じ)を訳され、真柳氏も「海薑」をアカクラゲと推測され、私が先に指摘した「鴆」と「䲰日」を別種とした点にも着目されておられるが、ここで氏は弘景の記載を批判しておられる。『ここで新説が出た。鴆鳥と』䲰『日鳥は別種という。さらに』䲰『日鳥と同種らしい同力鳥は、肉に毒性があるという。しかし』䲰『日鳥・同力鳥とも、羽毛の毒や薬効を記さない。他方、鴆鳥については羽毛の毒性だけをいい、酖酒も近ごろは使用されないと記す。さらに鴆鳥はくちばしのみならず、羽毛も蛇の毒消しとなり、くちばしは蛇よけにもなるという。この陶弘景の口吻には、『本草集注』の墨字経文で新出の{云+鳥}日を無益の毒鳥とする一方、先秦時代からの鴆鳥に、有用性を認めようとする意図が秘められていないだろうか』。『もしそうだとすると、理由はいくつか考えられる。『神農本草経』を校訂した陶弘景は、その凡例にある「有毒な下薬は、急性疾患に用いる」』、『という定義を十分承知している。また儒仏道に通じ、当代随一の学者と称された彼にとって、本草のテキスト作成に際し、古くから知られた毒薬を無視することができなかった。しかし斉・梁の皇帝とも親交のある彼は、毒薬の知識でいらぬ嫌疑を招きたくない。こう仮定すると、彼の注釈にみえる不自然さも、少しは納得できよう』とされる。なるほど! と私も膝を打った。『しかし疑問はまだある。なぜ毒鳥が蛇よけになり、蛇の毒消しになるのだろうか。大塚恭男氏はトリカブト毒とサソリ毒が相殺する記載を、東西の古文献に発見している』。『また数年前の殺人事件で、トリカブトの毒性発現がフグ毒の併用で遅延したことも記憶に新しい』と述べられ(以下、実在する毒鳥を蛇・鷹が捕食を忌避する事実を検証されておられるが、引用限界を越えると指摘されると厭なので現論文を参照されたい。なお、この記事の後に実在する毒鳥が出るが、その属名は後に修正変更されている(後述する)ので注意されたい)つつ、結局は『鴆鳥の作用は毒性だけに現実性があり』、「本草集注」『のいう薬効は相当にあやしいのである』と断じられておられる。その後、唐の政府の公定薬物書であった「新修本草」によって鴆鳥及び鴆毒は「有名無用」とされ、本草学の表舞台からは降ろされてしまったと真柳氏は言われる。実は我々が目にすることが多い、その後の本草書である「本草綱目」や「三才図会」、さらにそれらの影響を強く受けた日本の本草書等も、実は有名無実化されてしまった、ミイラのような解説だったのである。但し、勘違いしてはいけないのは、真柳氏は『鴆鳥がかつて実在したことを筆者は確信して』おられるのであり、幻想の産物になりかけていたそれ(「鴆」「鴆毒」)が、『ニューギニアの毒鳥発見により、化石的鴆鳥伝承にも再検討の必要性が生じた。記録中の虚像と実像を見分ける手がかりが提供されたからである。検討の結果、鴆鳥がほぼ七世紀まで実在したことは確実である。のち伝説化が進行し、さらに一転して伝説の伝承までとだえてしまった事情も知ることができた』とされ、『物のイメージは人との距離によって変化する。その距離は、人間にとっての有用性の質と程度で認識されることが多い。鴆鳥の消長は、はからずも如実にこれらを具現していたのであった』と擱筆しておられるのである。是非、原文を通して読まれたい。
さても、最も優れた学術的記載を挙げた。これで、インキ臭いのがお好きな輩には文句は言わせない。では、やおら、「鴆」と「鴆毒」を判り易く鳥瞰するため、まず、ウィキの「鴆」を見ようか。因みに「鴆」は拼音(ピンイン)で「zhèn」(ヂェン)である。『中国の古文献に記述が現れている猛毒を持った鳥』で、『大きさは鷲ぐらいで緑色の羽毛、そして銅に似た色の』嘴『を持ち、毒蛇を常食としているため』、『その体内に猛毒を持っており、耕地の上を飛べば作物は全て枯死してしまうとされ』、『石の下に隠れた蛇を捕るのに、糞をかけると石が砕けたという記述もある』(「三才図会」)。「三才図会」の『記述では、紫黒色で、赤い』嘴、『黒い目、頸長』七、八『寸とある』(約二十一~二十四センチメートル)とある。「韓非子」や「史記」など、『紀元前の古文献では、この鳥の羽毛から採った毒は鴆毒と呼ばれ、古来より』、『しばしば暗殺に使われた。鴆毒は無味無臭』で、且つ、『水溶性であり、鴆の羽毛を一枚浸して作った毒酒で、気付かれることなく相手を毒殺できたという。春秋時代、魯の荘公の後継ぎ争いで、荘公の末弟の季友は兄の叔牙に鴆酒を飲ませて殺した』(「史記」の「魯周公世家」)。『また、秦の始皇帝による誅殺を恐れた呂不韋』(りょふい ?~紀元前二三五年:戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。荘襄王により文信侯に封ぜられた。始皇帝の本当の父親との説もある。「奇貨居くべし」は彼と荘襄王の故事に基づく。ウィキの「呂不韋」を参照されたい)『は鴆酒を仰いで自殺した』(「史記」の「呂不韋伝」)『など、古い文献に鴆による毒殺の例は数多い』。『紀元前の文献では、鴆の生息したとされる地域はおおむね江南(長江以南)であり、晋代、鴆を長江以北に持ち込んではならないとする禁令があった。宋代では取締りが厳しくなり、皇帝が駆除のため営巣した山ごと燃やせと命令を出したとか、ヒナを都に連れてきただけの男をヒナと共に処刑させたといった記述がある。南北朝時代を最後に文献上の記録が絶えることとなるが、その頃の記録は文献毎にバラバラで統一性がなく、すでに伝説上の存在になっていた様子が伺える。唐代になると』、『当時の政府も存在を認めず』、六五九『年刊行の医薬書である「新修本草」では『存否不詳とされてしまった。また鳥類学上、鳥に有毒種は全くないとされていた。それ故にいつか伝説化され、龍や鳳凰などと同様の単なる空想上の動物と考えられるようになった』。『だが』一九九二年に『なって、ニューギニアに生息し、原住民の猟師たちが昔から食べられない鳥として嫌っていたピトフーイ』(スズメ目スズメ亜目カラス上科コウライウグイス科ピトフーイ属ズグロモリモズ(頭黒森百舌)Pitohui dichrous:神経毒を有する。後述する)『という鳥が羽毛に毒を有していることがわかり、かつて鴆が実在していた可能性が現実味を帯びることとなってきた。ただし、ピトフーイの姿形と山海経等の古文献にある鴆の図はまるで似ていない』。『ピトフーイ以外にも』二〇〇〇年に『発見されたズアオチメドリ』(スズメ目 Ifritidae 科ズアオチメドリ属ズアオチメドリ(頭青)Ifrita
kowaldi:ピトフーイと同じ神経毒を持つ。後述する)『を皮切りに複数の毒鳥類が新たに発見されており、当時の中国に未知の(既に絶滅した)毒鳥類が生息していた可能性は否定できない』。『鴆毒の毒消しには犀角(サイ』(哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類。現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ・クロサイ)、インド北部からネパール南部(インドサイ)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(ジャワサイ・スマトラサイ)に分布している)『の角)が有効という迷信がいつの頃からか信じられ、毒酒による暗殺を恐れた中国歴代の皇帝や高位の貴族たちは、犀角でできた杯を競って求めた』。『この犀角の毒消し効果に関する迷信は、鴆が記録から消え去った後は「あらゆる毒の毒消しに有効である」とか、「劇的な精力剤である」という形に昇華され現在に至っている。ゆえに、今日でも世界各地の漢方薬局では犀角が非常な高価で取引されており、その影響でアジアやアフリカのサイは絶滅が危惧されるまでにその個体数を減らした』。『現在、サイは全種が絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)や、生息する地域に位置する国家から厳重に保護されているにもかかわらず、常に高価な角を狙う密猟者の手による射殺の危機に晒されている』。『さらにこの犀角にまつわる迷信は後に西洋に伝わり、ユニコーンの角は水を清めるという別の迷信を生んだ』とある。次はウィキの「鴆毒」といこう。この記載者は「鴆」の存在と「鴆毒」の実在は否定派らしい。その積りで読まれたい。冒頭から、『鴆と呼ばれる空想上の鳥の羽の毒』だ。『一説には、パプアニューギニアに住む』ピトフーイ『という毒鳥と同種の絶滅種の羽ともいう』『が、実際には亜ヒ酸』(亜砒酸・三酸化二砒素:arsenous acid:As(OH)3の無機化合物)『との説が有力である。あるいは酖毒とも書く』(太字下線は私が引いた)。『なお、経書『周礼』の中に鴆毒の作り方と思われる記述がある』。『まず、五毒と呼ばれる毒の材料を集める』。五毒は以下。
・「雄黄」(ゆうおう:orpiment:砒素硫化物。As2S3。強毒)
・「礜石」(よせき:硫砒鉄鉱。FeAsS。無毒)
・「石膽」(せきたん:硫酸銅(Ⅱ)。 CuSO4。有毒)
・「丹砂」(たんしゃ:辰砂に同じ。硫化水銀(Ⅱ)。HgS。有毒)
・「慈石」(じしゃく:磁鉄鉱。四酸化三鉄。Fe3O4 。無毒)
『この五毒を素焼きの壺に入れ、その後三日三晩かけて焼くと白い煙が立ち上がるので、この煙でニワトリの羽毛を燻すと鴆の羽となる。さらにこれを酒に浸せば鴆酒となるという』。『煙で羽毛を燻るのは、気化した砒素毒の結晶を成長させることで毒を集める、昇華生成方法の一種ではないかと思われる。日本でも、亜砒焼きと呼ばれた同様の三酸化二ヒ素の製造法が伝わっている』。『日本における記述として』、「続日本紀」天平神護元(七六五)年正月七日の『条に、「鴆毒のような災いを天下に浸み渡らせ」という表現が見られる』。原文を示す。
*
○己亥。改元天平神護。敕曰。朕以眇身。忝承寶祚。無聞德化。屡見姦曲。又疫癘荐臻。頃年不稔。傷物失所。如納深隍。其賊臣仲麻呂、外戚近臣。先朝所用。得堪委寄。更不猜疑。何期、包藏禍逆之意。而鴆毒潛行於天下。犯怒人神之心。而怨氣感動於上玄。幸賴神靈護國、風雨助軍。不盈旬日。咸伏誅戮。今元惡已除。同歸遷善。洗滌舊穢。與物更新。宜改年號。
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(以下続けて引用するが、注記やその他の記載と組み合わせた)『軍記物である』「太平記」巻第三十には、足利直義は『鴆毒によって毒殺されたという説があると記されて』おり、「関八州古戦録」巻十には、下野国の戦国大名那須高資は天文二〇(一五五一)年に家臣にこれを『盛られて殺された』とする『記述があり』、土佐国の戦国大名長宗我部氏の興亡を描いた土佐藩馬廻り記録方吉田孝世(たかよ)作の江戸時代後期の軍記物「土佐物語」(宝永五(一七〇八)年)成立)『巻第六にも、永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『の事として、「潜(ひそか)に城中の井水に鴆毒を入れ」というくだりがあり、これにより気絶する者が続出したと記述されている(死者についての記述はない)』。さらに同書巻第十七では「文禄の役」に於いて長宗我部元親勢に捕えられ、土佐国へ渡った李氏朝鮮の医師経東(キントン 生没年不詳)は『鴆毒によって死んだと記す』とある。
次は、発見された実在する毒鳥について記す。筋肉や羽に毒を有し、毒成分はヤドクガエル(両生綱無尾目カエル亜目ヤドクガエル科
Dendrobatidae)と似た猛毒の神経毒であり、ヒトも羽一枚分で死亡してしまうという「鴆毒」と酷似した驚異の事実が最初に発見された種は、スズメ亜目カラス小目カラス上科コウライウグイス科ピトフーイ属ズグロモリモズ Pitohui dichrous である。ウィキの「ピトフーイ」により引く(太字・下線は私)。『ピトフーイ』『は、かつて同じ属に分類されていた ニューギニア島固有の鳥類』六『種(カワリモリモズ、ズグロモリモズ、ムナフモリモズ、サビイロモリモズ、クロモリモズ、カンムリモリモズ)』(他の五種の学名は後で示す)『を指す。ピトフーイの名は鳴き声に由来する』。実にわずか二十九年前の一九九〇年、同属の『ズグロモリモズが有毒であることがシカゴ大学において発見され、世界初の有毒鳥類と認定された』(ヨーロッパウズラ(キジ目キジ科ウズラ属ヨーロッパウズラ Coturnix coturnix: 同種が地中海地方で渡りをする秋、即ち、地中海地方で最も本種の狩猟が盛んな時期に、一部の個体の肉や脂肪に推定で有毒植物由来の毒が蓄積されるらしく,それらを食すことで「Coturnism」(コータニズム:(中国語訳)鶉肉中毒症)という横紋筋融解症が発症し、ミオグロビン尿症が見られ、最悪の場合は急性腎不全や多臓器不全が合併し、死に至ることもある)やツメバガン(カモ目カモ科 Plectropterus 属ツメバガン Plectropterus gambensis:有毒昆虫として知られるスパニッシュフライ(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科 Lyttini 族ミドリゲンセイ属スパニッシュフライ Lytta vesicatoria)やツチハンミョウ(ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae)といった甲虫が有する有毒物質カンタリジン(cantharidin)に対する耐性があるため、摂餌によりその毒性を一時的に肉に溜め込むため、こうした個体を食した場合にカンタリジン中毒を起こすことがある)『など、食餌の内容により』、『一時的に肉が毒性を有する例は知られていたが、羽毛にまで毒を含む種は伝説を除くと』、『世界初であった』)。『その後、同属のうち』、ムナフモリモズを除く五『種が毒を持つことが判明し』ている。『これにより、ピトフーイの名は有毒鳥類の代名詞として知られるようになったが、その後に分類が見直され、これら』六『種は』二〇一七『年現在では別の科・属に分類されている。また』、二〇〇〇『年にはやはりニューギニア固有の別属で』一属一種のズアオチメドリ』(スズメ目 Ifritidae 科ズアオチメドリ属ズアオチメドリ(頭青)Ifrita kowaldi:本種のみでIfritidae科ズアオチメドリ属を構成する。ニューギニア固有種で、山間部にのみ棲息する小鳥で、鮮やかな青色の毛を頭冠に持つ可愛い鳥であるが、羽にピトフーイらと同じとされる神経毒を持つ有毒鳥類の一種である。サイト「世界の超危険生物データベース」の「ズアオチメドリの毒の危険性と生態!毒鳥には絶対に触れるな」で写真と解説を見ることが出来る)『にピトフーイに類似した構造を有する毒成分が発見され』二〇一三『年にカワリモリモズの分類が見直されて』二『種増えたうえ、ニューギニアとオーストラリアにまたが』って『分布するチャイロモズツグミ』(スズメ目スズメ亜目カラス小目カラス上科モズヒタキ科モズツグミ属チャイロモズツグミ Colluricincla megarhyncha:ウィキの「チャイロモズツグミ」によれば、インドネシアのパプア州・西パプア州・パプアニューギニア(ニューギニア島とその近海の諸島)及びオーストラリア北部に分布し、亜熱帯・熱帯域の低湿地林や熱帯の湿潤山林に棲息する。『ピトフーイ属の毒性の研究から,本種においても』二『標本を用いて調査が行われた。結果,そのうちの』一『体はからは中央・南アメリカ産のフキヤガエル属毒ガエルの分泌物に見られるバトラコトキシン』(batrachotoxin:パリトキシン(palytoxin)に次ぐ世界最強の天然有毒物質とされる。パリトキシンは一九七一年にハワイに棲息する数腔腸動物イワスナギンチャク Palythoa toxica から初めて単離された)『に類似した構造を有する物質が見つかった』。『発見当初はサメビタキ属 Muscicapa 属に記載された。学者によっては Pinarolestes 属に分類することもある。』。『ニューギニア産チャイロモズツグミの遺伝子調査から』、一『つ以上の種から構成される可能性を示唆する,高いレベルの遺伝的隔離が見つかった』。『少なくとも』八『つの独立した系統群が存在し,別種に分類される可能性を秘めている。今後の研究により,本種は複数の新種に再分類されるかもしれない』とあり、以下に二十もの亜種記載があるから、向後、毒を持った鳥の種・亜種数が増す可能性は極めて高い)『の標本からも毒性が発見されたので』、『現在では有毒鳥類はピトフーイに限らなくなり、種数も増えた』。
(以下、「系統と分類」の項。前注の関係上、ここはどうしても引きたい。興味のない方は「特徴」の項まで飛ばしてよろしい)
『かつて Pitohui 属には上記』六『種にモリモズ Pitohui tenebrosa(Morningbird)を加えた』七『種が含まれ、モリモズ属と呼ばれていた。しかしすぐにモリモズ Morningbird は Pitohui 属でなくモズツグミ属 Colluricincla へ分類するのが適当ではないかといった説が有力になり、やがて学名は Colluricincla tenebrosa と記されるようになった。また、学者によってはこの種を Malacolestes へ分類するなど、その扱いはまちまちであった』。二〇一三年に『なり、モリモズMorningbirdは、実は属の異なる』二『種から成ることがわかり、それを機に モズヒタキ属 Pachycephala に分類され、学名は Pachycephala tenebrosa となった。このとき、新たに分離された別種がモリモズ Morningbird に充てられていた学名 Colluricincla tenebrosa を引き継ぎ、この別種の英名はSooty shrikethrushとされた』。『このような経緯から、標準和名のモリモズはMorningbird, Sooty shrikethrush どちらに用いるのにも不適当となり、宙に浮いた状態となっている』。『もっとも、どちらの種も』二〇一七年『現在においては Pitohui 属ではないので、Pitohui 属をモリモズ属と呼ぶのは不適切である』。『モリモズを除いた』六『種は引き続き』、『モズヒタキ科 Pitohui 属に残された。しかし、これらもまた多系統であるとされ、改めて』四『属に分類し直された』。二〇一七年』『現在、これらはカラス上科内の』三『科に分散している』。コウライウグイス科 Oriolidae は『最も毒性が強いカワリモリモズとズグロモリモズがコウライウグイス科に移された Pitohui 属の模式種はカワリモリモズなので、Pitohui の属名はこの種を含むピトフーイ属が受け継いだ』。そこでは、コウライウグイス科 Oriolidaeカワリモリモズ Pitohui kirhocephalus・ズグロモリモズ Pitohui dichrous とされたのであるが、『その後』、二〇一三年に『カワリモリモズ Pitohui kirhocephalus の分類が見直され、新たにPitohui cerviniventris と Pitohui uropygialis の』二『種が追加された』二〇一七年『現在では、以下の』四『種がピトフーイ属 Pitohui に含まれる』。
コウライウグイス科 Oriolidae
カワリモリモズ Pitohui kirhocephalus
Pitohui cerviniventris(和名なし)
Pitohui uropygialis(和名なし)
ズグロモリモズ Pitohui dichrous
『モズヒタキ科に残された Pseudorectes 属はモズツグミ属 Colluricincla に近縁であり、モズツグミ属に含める説もある』。『同じくモズヒタキ科に残されたクロモリモズはそれらとは系統的に離れており、別属とされた』。
モズヒタキ科 Pachycephalidae
ムナフモリモズ Pseudorectes incertus《★本種のみ無毒》
サビイロモリモズ Pseudorectes ferrugineus
クロモリモズ Melanorectes nigrescens
『カンムリモリモズはモズヒタキ科の他の』二『属と共に新科のカンムリモズビタキ科に分離された』。
カンムリモズビタキ科 Oreoicidae
カンムリモリモズ Ornorectes cristatus
以下「特徴」の項。『ピトフーイは鮮やかな配色をした雑食性の鳥である。特にズグロモリモズの腹部は鮮やかなれんが色で、頭部は黒い。これはよく目立つ配色であり、警告色だと考えられる。カワリモリモズには多くの異なった姿のものがあり、羽毛のパターンの違いで全部で』二十の『亜種に分けられていた』。『そのうち』二『亜種はズグロモリモズによく似ており、ベイツ型擬態の一例となっている』。『いくつかの種、特にカワリモリモズとズグロモリモズの筋肉や羽毛には、強力な神経毒ステロイド系アルカロイドのホモバトラコトキシン』(homobatrachotoxin:batrachotoxinの同族塩基)『が含まれている。これは、ピトフーイから発見される以前はヤドクガエル科フキヤガエル属 Phyllobates の皮膚からのみ見つかっていた』。『この毒は寄生虫や蛇、猛禽類、人間からの防衛に役立っていると考えられている。ピトフーイは自分自身ではバトラコトキシンを生成しないので、おそらくはピトフーイが捕食する』鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目カッコウムシ上科『ジョウカイモドキ』(浄海擬)『科 Melyridae の Choresine 属甲虫由来であると考えられる』とある。
ここまで付き合ってくれた方にのみ、ご褒美をあげよう。サイト「Leisurego」の「ピトフーイは猛毒を持った鳥!人をも殺す毒とその生態・特徴に迫る!」では私が注した中の六種の鳥が写真・動画も含め、五ページも紹介されてある。終りには相応しく、清々しかろう。
「同力鳥〔(とんりつてう〕」現代中国語では「同」は「tóng」(トォン)、「力」は「lì」(リィー)。以下に記される通り、鳴き声のオノマトペイアに漢字を当てたものとする。もし「鳥」まで中国音にするなら「niǎo」(ニィアォ)である。
「鴆」形声文字で、(へん)は「沈める」の意で、水中に人を「沈」めるように息の根を止めてしまう「鳥」の意なのである。
『雄を「運日」と名づく。雌を「陰諧」と名づく。雄、鳴くときは、則ち、晴れ、雌、鳴くときは、則ち、雨ふる』判り易い名前。「日(太陽)を運び」来るから晴れるし、「陰」気を呼び込んで「諧」する(=慣れ親しみ戯れる)から雨が降る。
「腰鼓〔(こしつづみ)〕」古代中国から日本にも伝わったインド系の鼓(つづみ)の一種。西域を経て、六朝時代に中国に輸入され、「細腰鼓」と呼ばれたものの一種。本邦では伎楽などで用いた。胴の中央を細くし、両端に円形の革を張り、長い紐で首から腰のあたりに横に吊るして両手で素手で打って鳴らした。「呉鼓(くれつづみ)」とも呼ぶ。
「禹步〔(うほ)〕」歩き方による呪法(呪(まじな)い)。もともとは、古代中国の夏の聖王禹は治水で知られるが、その激務と廻国の結果、天下は収まったが、足を悪くして特殊な歩き方をするようになったが、その有り難い禹の歩き方を、後、占いや祭の際、巫者(ふしゃ)真似をすることで、聖なる呪術を呼び込む仕草となったもの。複数の説があるが、基本的には足を進める時、二歩めを一歩めより前に出さず、三歩めを二歩めの足で踏み出すような歩き方のパターンを基本とする。東晋の葛洪の「抱朴子」には、呪的なステップを表わすとして文献上、最も古い「禹步」が二種、記載されてある。一つは「仙藥篇」にあるもので、
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禹步法、前擧左、右過左、左就右、次擧右、左過右、右就左、次擧左、右過左、左就右、如此三步、當滿二丈一尺、後有九跡。
(禹步の法、前に左を擧げ、右左を過ぎり、左右に就く。次に右を擧げ、左右を過ぎり、右左に就く。次に左を擧げ、右左を過ぎり、左右に就く。此くのごとく三步せば、滿二丈一尺に當たり、後に九跡、有るべし。)
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東晋の「二丈一尺」は五メートル十三センチメートル。今一つは「登涉篇」にある以下。
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禹步法、立右足在前、左足在後、次復前左足、次前右足、以左足從右足倂。是一步也。次復前右足、次前左足、以右足從左足倂。是二步也。次復前左足、次前右足、以左足從右足倂。是三步也。如此、禹步之道畢。
(禹步の法は、正しく右足を立てて前に在らしめ、左足を後に在らしむ。次に復た、左足を前にし、次に右足を前にして、左足を以つて右足に從はしめて倂(あは)すべし。是れ、一步なり。次に復た、右足を前にし、次に左足を前にし、右足を以つて左足に從はしめて倂すべし。是れ、二步なり。次に復た、左足を前にし、次に右足を前にして、左足を以つて右足に從はしめて倂すべし。是れ、三步なり。此くのごとくにして、禹步の道、畢(をは)る。)
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(以上の訓読は昭和一七(一九四二)岩波文庫刊の石島快隆訳注「抱朴子」を参考にした)これらは孰れも「禹步」が実質の「三步」をやや迂遠な、一見、無駄な動きを以って完成するということを示している。所謂、日常のせこせこした能率的な歩き方のリズムを意図的に遅らせてずらし(はぐらかす)ことが、異界からの霊力を逆に呼び込むことになることが容易に想像されるものである。
「禁〔(ごん)〕す」「呪禁(じゅごん)」の意で採り、読んだ。まじないを唱えて物の怪 などの災いを払うことを「呪禁」と言い、律令制で、宮内省の典薬寮の職員にはそれによって病気の治療などを担当した呪禁師がいた(中務省の陰陽寮の陰陽師とは別)。
「須臾〔(しゆゆ)にして〕」忽ちにして。
「蛇、口に入らば、卽ち、爛る」言わずもがな、鴆が即座に嘴で突いて、その口に入った途端に、蛇は焼け爛れたようになって(溶けて)しまうというのである。
「其の屎〔(くそ)〕・溺〔(いばり)」無論、「鴆の糞や尿」である。
「石に着けば、石、皆、黃〔に〕爛(たゞ)る」熔岩カイ! マジ、草木も生えんのだから、んな感じ(溶岩流のシンボライズ)もしてくるわな!
「飮水〔(のみみづ)〕の處」水場。だから「百蟲」とは昆虫だけでなく、ヒトを除いたあらゆる異類、獣及び動物全般の意である。
「人、誤りて其の肉を食へば、立ちどころに死す」この謂いだと、ヒトは肉を食わないと死なない訳だ。羽一枚を浸した毒酒でコロリってえのと合わねえじゃねえかよ!
「犀の角」哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae の現生五種の内、インドサイ属は頭部に一本(インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus・インドサイRhinoceros unicornis の二種)を、クロサイ属クロサイ Diceros bicornis・シロサイ属 Ceratotherium simum・スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis の三種は二本の角を有する。ラテン語「リノケロス」の種名及び英名の rhinoceros(ライノォセラス)はこの角に由来し、古代ギリシャ語で「鼻」を指す「rhis」と、「角」を指す「ceras」を組み合わせたものとされる。参照したウィキの「サイ」によれば、『スマトラサイでは後方の角が瘤状にすぎない個体もいたり』、『ジャワサイのメスには角のない個体もいる』とあり、『角はケラチン』(即ち、サイの角は、ヒトの爪・頭髪・体毛と同じものなのである)『の繊維質の集合体で、骨質の芯はない(中実角』(水牛角や牛角の芯部分は骨質である))『何らかの要因により角がなくなっても、再び新しい角が伸びる』。『シロサイやクロサイでは最大』一・五メートル『にもなる』。『サイの角は肉食動物に抵抗するときなどに使われる。オスのほうがメスより角が大きい』とある。
「商州」現在の陝西省商洛市一帯。西安の東南。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「蘄州〔(きしう)〕」現在の湖北省東部と推測される(グーグル・マップ・データ)。]
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