萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 春宵
春 宵
嫋(なま)めかしくも媚ある風情を
しつとりとした襦袢につつむ
くびれたごむの 跳ねかへす若い肉體(からだ)を
こんなに近く抱いてるうれしさ
あなたの胸は鼓動にたかまり
その手足は肌にふれ
ほのかにつめたく やさしい感觸の匂ひをつたふ。
ああこの溶けてゆく春夜の灯かげに
厚くしつとりと化粧されたる
ひとつの白い額をみる
ちひさな可愛いくちびるをみる
まぼろしの夢に浮んだ顏をながめる。
春夜のただよふ靄の中で
わたしはあなたの思ひをかぐ
あなたの思ひは愛にめざめて
ぱつちりとひらいた黑い瞳(ひとみ)は
夢におどろき
みしらぬ歡樂をあやしむやうだ。
しづかな情緖のながれを通つて
ふたりの心にしみゆくもの
ああこのやすらかな やすらかな
すべてを愛に 希望(のぞみ)にまかせた心はどうだ。
人生(らいふ)の春のまたたく灯かげに
嫋めかしくも媚ある肉體(からだ)を
こんなに近く抱いてるうれしさ
處女(をとめ)のやはらかな肌のにほひは
花園にそよげるばらのやうで
情愁のなやましい性のきざしは
櫻のはなの咲いたやうだ。
[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年一月号『日本詩人』初出。初出では「みしらぬ歡樂をあやしむやうだ。」と「しづかな情緖のながれを通つて」の間に行空けがある他は(ここは底本では見開きの左右ページに分断される版組であるが、後のページ冒頭に物理的に行空けは見られない)、表記の違いや誤字と思われるものを除いて、有意な差を認めない。本篇は「定本靑猫」には再録されていない。本篇を以って最終パート「艶めける靈魂」は終わっている。]