柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(8) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(2)
《原文》
先ヅ舊日本ノ北端ヨリ始ムべシ。【山伏】羽後仙北郡神宮寺町ノ花藏院(カザウヰン)神宮密寺ハ八幡宮ノ別當寺ナリ。京ヨリ快絲法師一名ヲ咽(ノド)法印ト云フ山伏下リテ此寺ニ住ム。或時河童ヲ生捕ニシテ嚴シク之ヲ戒メシニ、手ヲ合セ淚ヲ流シテ詫ヲスル故ニ放シ遣ル。其德ニ因ツテ以來此一鄕ニハ決シテ河童ノ災ナシ〔月乃出羽路六〕。此話ニハ馬ハ出デ來ラズ、又何故ニ捕ヘ且ツ戒メラレタルカハ舊記ニハ見エズ。岩代河沼郡ノ繩澤ハ不動川ノ岸ニ在ル村ナリ。昔喜四郞ト云フ農夫、此川ノ盲淵(メクラブチ)ト云フ處ニ於テ馬ヲ引込マントシタル河童ヲ捕ヘシガ、他日再ビ惡戲ヲセザルコトヲ誓ハシメテ一命ヲ宥シ放シタリ。ソレヨリ後ハ村ニ水ノ災ニ死ヌ者一人モ無シト云フ〔新編會津風土記〕。【水死】此邊ニテハ人ノ水ニ死スヲ悉ク河童ノ所業ト考ヘタリシガ如シ。【野飼】越後三島郡桐島村大字島崎ノ農家ニテ、馬ヲ野ニ放シ置キタルニ、例ナラズ馳セ還リテ厩ニ飛ビ込ミ大ニ嘶キケレバ、家ノ者怪シミテ近ヨリ見ルニ、馬槽伏セアリテ口取綱ノ端ヲ其下へ引入レタリ。馬槽ヲ引起セバ河童アリ、馬ノ綱ヲ身ニ卷附ケテ小サクナリテ居ル。【桑原】村ニ桑原嘉右衞門ト云フ剛膽ナル男アリ、之ヲ引捉ヘテ直ニ其腕ヲ拔ク。河童悲シミテ曰ク、命ヲ助ケ腕ヲ返シ給ハルナラバ、今後ハ永ク此里ノ人ヲ取リ申スマジキ上ニ、血止骨接ノ妙術ヲ御傳ヘ申サント。因ツテ其願ヒニ任セテ拔キタル腕ヲ返却シ、桑原ハ勇氣ノ獲物トシテ件ノ妙術ヲ以テ代々ノ家ノ寶ト爲スコトヲ得タリ。【如意石】此ハ藥劑ニハ非ズ、何カ雙六石ノ如キ七八分ノ一物ナリ。金創ノ血ガ止ラズ百計盡キタル際ニ桑原ヲ招ケバ、彼ノ物ヲ懷中シ來タリテ席ニ著クヤ否ヤ血ノ出ヅルコトヲ止ム。多クノ場合ニハ取出シテ示スニモ及バヌ位ナレバ、從ツテ現物ヲ見タリト云フ人モ無シ。此村ノ者ガ其後決シテ河童ニ取ラレザリシハ勿論ノコト也〔越後名寄三十一〕。【ハヾ】信濃上伊那郡ノ天龍川端ニ羽場(ハバ)ト云フ村アリキ。今ノ何村ノ中ナルカ知ラズ。「ハバ」トハ川ノ岸ノ如キ傾斜地ヲ意味スル地名ナリ。天正ノ頃此村ニ柴河内ト稱スル地侍住居ス。【名馬】或時此家祕藏ノ名馬ニ害ヲ加ヘントシタル不心得ノ河童アリ。此モ結局失敗ニ終リ大イニ詫言シテ他所ニ立退キタリト云フ〔小平物語〕。【池】飛驒大野郡淸見村大字池本ノ農家ニテ、或日今ノ鬼淵ト云フ處ノ邊ニ馬ヲ繫ギ置キシニ、暫クシテ其馬一散ニ走リテ家ニ歸ル。【河童赤シ】何故ゾト見レバ馬ノ綱ノ先ニ身體赤キ異樣ノ物、腰ニ其綱ヲ卷附ケタルマヽ引カレ來ル。【ガオロ】大ニ驚キテ之ヲ捉ヘ何物ゾト問ヘバ、我ハ「ガオロ」ト云フ物ナリ。馬ヲ捕ヘントシテ却リテ捕ヘラル。速カニ助ケタマヘ、助ケ給ハヾ其禮トシテ每朝川魚ヲ持來ルべシ。【鐡器ノ忌】但シ其處ニ刄物ヲ置キ給ハヾ我來ルコト能ハズト云フ。此約束ニテ之ヲ赦シテ後、每朝川魚ノ貢絕ユルコトナカリシガ、或時農夫誤リテ鎌ヲ其處ニ置キケレバソレヨリ其事止ミタリ。其「ガオロ」ノ住ミシ所ヲ鬼淵ト名ヅケ今モ金屬ヲ忌ムト云フ〔日本宗教風俗志補遺〕。【鬼】「ガオロ」ハ河童ノ事ナルニ、此ニテハ之ヲ鬼ト恐レシガ如シ。少々ノ魚ヲ貰フヨリハ寧ロ刄物ヲ置クヲ以テ安全ナリト考ヘシ者アリシヤモ測ラレズ。【葦毛馬】美濃惠那郡付知(ツケチ)町ノ豪農田口氏ノ祖先ハ遠山玄蕃ト云フ武士ナリ。曾テ飼フ所ノ葦毛ノ駒ヲ、夏ノ日川ノ淵ノ邊ニ放シ置キシニ、俄ニ走リテ厩ニ歸リ入ル。下人等出デテ見レバ、一人ノ小兒其馬ノ側ニ踞リ居タリ。ヨク見レバ則チ河童ナリ。水中ヨリ手ヲ延バシテ馬ノ足ヲ摑ミシニ、馬驚キテ一目散ニ馳セ歸リ之ニ引摺ラレシモノト見エタリ。下人等ノ打殺サント云フヲ制止シ、他日重ネテ人畜ヲ害セザルコトヲ約セシメテ玄蕃之ヲ宥ス。其淵ノ名ヲソレヨリ驄馬淵(アシゲノフチ)ト云フ。葦毛ノ馬ガ高名シタル場處ナレバ其名譽ヲ表彰スル爲ノ地名カト思ハル〔濃陽志略〕。口綱ナラバ兎ニ角、馬ノ脚ナラバ直ニ手ヲ放セバ可ナランニ、思ヘバ不細工ナル河童ナリ。シカシ此モ足ハ誤傳ニシテ、他ノ多クノ例ト共ニ手綱ノ端ヲ以テ自縛セシモノカモ知レズ。
《訓読》
先づ、舊日本の北端より始むべし。【山伏】羽後仙北郡神宮寺町の花藏院(かざうゐん)神宮密寺は八幡宮の別當寺なり。京より、快絲(かいし)法師、一名を咽(のど)法印と云ふ山伏、下りて此の寺に住む。或る時、河童を生け捕りにして、嚴しく之れを戒めしに、手を合せ、淚を流して詫びをする故に、放し遣る。其の德に因つて、以來、此の一鄕には決して河童の災(わざはひ)なし〔「月乃出羽路」六〕。此の話には、馬は出で來らず、又、何故に捕へ、且つ、戒(いまし)められたるかは、舊記には見えず。岩代河沼郡の繩澤は不動川の岸に在る村なり。昔、喜四郞と云ふ農夫、此の川の盲淵(めくらぶち)と云ふ處に於いて馬を引き込まんとしたる河童を捕へしが、他日再び惡戲(いたづら)をせざることを誓はしめて、一命を宥(ゆる)し、放したり。それより後は村に水の災に死ぬ者、一人も無しと云ふ〔「新編會津風土記」〕。【水死】此の邊りにては、人の水に死すを、悉く、河童の所業と考へたりしがごとし。【野飼】越後三島郡桐島村大字島崎の農家にて、馬を野に放し置きたるに、例ならず馳せ還りて、厩(うまや)に飛び込み、大いに嘶(いなな)きければ、家の者、怪しみて、近より見るに、馬槽(うまふね)、伏せありて、口取綱(きちとりなは)の端を其の下へ引き入れたり。馬槽を引き起せば、河童あり、馬の綱を身に卷き附けて、小さくなりて居(を)る。【桑原】村に桑原嘉右衞門と云ふ剛膽(がうたん)なる男あり、之れを引き捉(とら)へて、直(ただち)に、其の腕を、拔く。河童、悲しみて曰はく、「命を助け、腕を返し給はるならば、今後は永く、此の里の人を取り申すまじき上に、血止(ちどめ)・骨接(ほねつぎ)の妙術を御傳へ申さん」と。因つて、其の願ひに任せて、拔きたる腕を返却し、桑原は勇氣の獲物(えもの)として、件(くだん)の妙術を、以つて、代々の家の寶(たから)と爲(な)すことを得たり。【如意石(によいせき)】此れは藥劑には非ず、何か、雙六石(すごろくいし)のごとき、七、八分[やぶちゃん注:二~二・五センチメートル弱。]の一物(いちもつ)なり。金創(きんさう)の、血が止まらず、百計盡きたる際に、桑原を招けば、彼(か)の物を懷中し來たりて、席に著(つ)くや否や、血の出づることを止(とど)む。多くの場合には、取り出だして示すにも及ばぬ位(くらゐ)なれば、從つて、現物を見たりと云ふ人も無し。此の村の者が、其の後(のち)、決して河童に取られざりしは、勿論のことなり〔「越後名寄」三十一〕。【はゞ】信濃上伊那郡の天龍川端に羽場(はば)と云ふ村ありき。今の何村の中なるか知らず。「ハバ」とは川の岸のごとき傾斜地を意味する地名なり。天正[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年)。]の頃、此の村に柴河内と稱する地侍(ぢざむらひ)、住居す。【名馬】或る時、此の家祕藏の名馬に害を加へんとしたる不心得の河童あり。此れも、結局、失敗に終り、大いに詫言(わびごと)して、他所(よそ)に立ち退(の)きたりと云ふ〔「小平物語」〕。【池】飛驒大野郡淸見村大字池本の農家にて、或る日、今の「鬼淵(おにふち)」と云ふ處の邊りに馬を繫ぎ置きしに、暫くして其の馬、一散に走りて、家に歸る。【河童赤し】「何故(なにゆゑ)ぞ」と見れば、馬の綱の先に、身體赤き、異樣の物、腰に其の綱を卷き附けたるまゝ、引かれ來(く)る。【「ガオロ」】大いに驚きて、之れを捉(とら)へ、「何物ぞ」と問へば、『我は「ガオロ」と云ふ物なり。馬を捕(とら)へんとして却りて捕へらる。速かに助けたまへ、助け給はゞ、其の禮として、每朝、川魚を持ち來たるべし。【鐡器の忌(いみ)】但し、其の處に刄物を置き給はゞ、我、來(く)ること能はず」と云ふ。此の約束にて、之れを赦(ゆる)して後(のち)、每朝、川魚の貢(みつぎ)、絕ゆることなかりしが、或る時、農夫、誤りて、鎌を其處(そこ)に置きければ、それより、其の事、止みたり。其の「ガオロ」の住みし所を「鬼淵」と名づけ、今も金屬を忌むと云ふ〔「日本宗教風俗志」補遺〕。【鬼】「ガオロ」は河童の事なるに、此(ここ)にては之れを鬼と恐れしがごとし。『少々の魚を貰ふよりは、寧(むし)ろ、刄物を置くを以つて安全なり』と考へし者、ありしやも測られず。【葦毛馬(あしげのうま)】美濃惠那郡付知(つけち)町の豪農田口氏の祖先は遠山玄蕃(げんば)と云ふ武士なり。曾つて飼ふ所の葦毛の駒(こま)を、夏の日、川の淵の邊りに放し置きしに、俄かに走りて、厩に歸り入る。下人等、出でて、見れば、一人の小兒、其の馬の側(そば)に踞(うづくま)り居(ゐ)たり。よく見れば、則ち、河童なり。水中より、手を延ばして、馬の足を摑みしに、馬、驚きて、一目散に馳せ歸り、之れに引き摺(ず)られしものと見えたり。下人等の「打ち殺さん」と云ふを、制止し、「他日重ねて人畜を害せざること」を約せしめて、玄蕃、之れを宥(ゆる)す。其の淵の名を、それより「驄馬淵(あしげのふち)」と云ふ。葦毛の馬が高名(こうみやう)したる場處なれば、其の名譽を表彰する爲の地名かと思はる〔「濃陽志略」〕。口綱(くちづな)ならば兎に角、馬の脚ならば、直(ただち)に手を放せば可ならんに、思へば、不細工なる河童なり。しかし、此れも足は誤傳にして、他の多くの例と共に手綱(たづな)の端を以つて自縛せしものかも知れず。
[やぶちゃん注:「羽後仙北郡神宮寺町の花藏院(かざうゐん)神宮密寺」恐らくは、現在の秋田県大仙市神宮寺神宮寺三十三にある八幡神社の近辺か、それを里宮とする雄物川を挟んだ南東に位置する神宮寺岳山頂(神宮寺落貝七)にある嶽六所(だけろくしょ)神社の近くに存在したものと推測される(グーグル・マップ・データ)。「秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム」の「半道寺と神宮寺」には、『神岡町神宮寺は楢岡の莊副川の郷といったところで、神宮寺という村名は、華蔵院という寺の寺号よりきたものという。華蔵院は平鹿郡の八沢木村より移ってきた三輪宗の寺である。(神岡町神宮寺)』とある(『三輪宗』は「三論宗」の誤りかと思う。インド「中観」派の龍樹の「中論」と「十二門論」及び彼の弟子提婆の「百論」を合わせた「三論」を典拠とする仏教宗派。「空」の思想を説き、鳩摩羅什(くまらじゅう)によって中国に伝えられ、隋末・唐初の頃に僧吉蔵が中国十三宗の一つとして完成。日本には推古天皇三三(六二五)年に吉蔵の弟子慧灌(えかん)によって伝えられ、智蔵・道慈が入唐帰朝して南都六宗の一つとなった。実践より思弁的要素が強く、平安時代以後は衰退した。別に「空(くう)宗」「中観宗」とも呼ぶ)。但し、現存しない(少し西南西に離れた神宮寺地区内に曹洞宗宝蔵寺(グーグル・マップ・データ)はあるが、ここではあるまい)。諸記事を見ると、八幡神社境内に付属して模様である。
「快絲(かいし)法師、一名を咽(のど)法印と云ふ山伏」不詳。山伏で法印を名乗る奴は胡散臭い。
「岩代河沼郡の繩澤」現在の福島県耶麻(やま)郡西会津町(まち)睦合(むつあい)縄沢甲(つなざわこう)(グーグル・マップ・データ)と思われる。この南を流れる川が「不動川」であることは確認出来た。次注参照。
「盲淵(めくらぶち)」個人サイト「時空散歩」の「西会津 会津街道散歩 そのⅢ;上野尻から野澤宿を抜け、束松峠を越え片門に(西会津町縄沢・束松峠)」によって判明。いちは同ページのこの地図の左で、先に示したグーグル・マップ・データの直ぐ東側に当たる。この地図には、この差別地名と非難されかねない「盲淵」が普通に記されてある。「盲淵」の解説には、『道すがら、ガイドの先生より「盲淵」のお話』とあって、『縄沢村の民が不動川の「盲淵」の辺りで馬に水を呑ます。そのとき、何故か』は『知らねど、河童も掬い上げ、胡乱な姿に』、『打ち殺そうとする。が、命乞いを聞き届け、河童を淵に返すと、それ以降水難に遭うことはなくなった、と』。『伝説は伝説でいいのだが、気になったのは、淵で馬に水を呑ませた、という件(くだり)。現在国道は不動川から少し離れたところを進んでいるが、かつての道・街道は、現在よりずっと川寄りの地を通っていた、ということだろう。地図を見ても、両岸に岩壁、間隔の狭い等高線が谷筋に迫る。土木技術が進めば道もできようが、それ以前は、ほとんど沢筋を進む、または大きく尾根を進むしか術(すべ)はない。実際、国道と不動川の間には会津三方道路の痕跡も残るという』とある。
「越後三島郡桐島村大字島崎」現在の新潟県長岡市島崎(グーグル・マップ・データ)。
「桑原嘉右衞門」不詳。ただ、現在、嫌なことや災難を避けようとして唱える呪(まじな)いに「くわばらくわばら」があるが、これは一説に、死後に雷神となったとされる菅原道真の領地であった桑原には落雷がなかったところからこの呪いが出来たとされるのは、かなり知られた話であり、道真が九州の河童を鎮圧したとする伝承との親和性のある姓であり、柳田が頭書でこれを出したのは、それを意識してのことのように私には思われる。
「其の腕を、拔く」この話柄では素手で引き千切ったことになる。河童は一説に通臂であった(左右の手が繋がっている)という話譚もあり、或いは、関節部分で、自切的に部分的或いは全部がすっぽ抜け易いようになっていた可能性が考えられる。なお、次の次の注も参照のこと。
「雙六石(すごろくいし)」平安期に中国から移入された賭博ゲームの「双六」に用いた駒。白黒二種であるが、碁石よりも大きく、かつ厚く上下は平たいのが普通。
『「越後名寄」三十一』ここのところ、柳田國男の図書の巻数には何度も煮え湯を飲まされきたので、用心したところ、頭に当たった。これは「二十九巻」の誤りである。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の「越後名寄」の、ここの「血止」(ちどめ)の見出し部分と、ここ(そこでは「嘉右衞門」ではなく「喜右衞門」とする)に出る。写本であるが、非常に読み易い字体である。
「信濃上伊那郡の天龍川端に羽場(はば)と云ふ村ありき」「今の何村の中なるか知らず」と言っているが、現在の長野県上伊那郡辰野町大字伊那富羽場である。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。
『「ハバ」とは川の岸のごとき傾斜地を意味する地名なり』所持する松永美吉「民俗地名語彙事典」(一九九四年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」版)によれば、「羽場」は『美濃で高地と低地の境というべき傾斜地で、樹木または芝草の生じている所』を意味する地名で、『幅と書くものが多く、高地を幅上、低地を幅下とい』い、『羽場とも書く』。『信濃、越中でも使われる』。『ハバは崖を指すが、濃尾地方およびそれ以東に多い。能美平野周辺の山麓台地のへりにつづく崖地などによく見うけられ、それからずっと東北地方へ連続している』とある。
「柴河内」読み不詳。暫く「しばかわち」(現代仮名遣)と読んでおく。以下の記載からこれが「河内守」由来と思われるからである。サイト「Local History Archive Project 新蕗原拾葉」の「柴氏」に、『伊那十三騎』の『柴氏』とし、その『本拠地』をまさに『辰野町羽場』とする。以下、篠田徳登著「伊那の古城」(昭和三九(一九六四)年から昭和四四(一九六九)年執筆)によれば、『郡記などに依ると、甲州源氏の小笠原が、伊那の地頭になり貞宗の時、貞和年間』(一三四五年~-一三四九年)『(北朝、尊氏のころ)松本の井川に移って信濃の守護となった』。『その貞宗の四男にあたる重次郎というのが、羽場に移り、ここに築城して羽場姓を名のり、代々この地を相続してきたが、弘治二年』(一五五六年)『のころ、武田軍の侵入にあって』、『没落してしまった。そのあとは柴河内守が入っていたが、天正十年』(一五八二)、『織田氏の侵入にあって没収された』。『また、沢の門屋大槻氏方に伝わっていた「大出沢村根元記」によると、(略)この城(羽場城)の北、北丿沢をへだてて柴河内守の居城の跡がある。弘治年中』(一五五五年~一五五七年)『まで、ここに居住していたが、その子孫は保科氏に属し、物頭格となり、五百石を賜り』、『今もそのまま残って居る』(リンク先には以下に詳細な史実が編年で記されてある)。ところが、このサイト、彼と「河童」のことも豊富に資料が示されてあり、「街道物語5 伊那街道」(一九八八年三昧堂刊木村幸治ほか)より、「しくじった河童」という話をまず引用して、『伊那谷を流れくだる天竜川は、名のとおりの暴れ川で、雨期になるとかならず氾濫して川ぞいの家や畑をおし流し、村に多くのわざわいをもたらしたものだった』。『そんな暴れ天竜だが、ところどころには淵もあり、またそれがかえって村びとに不気味を思わせる場所でもあった。天竜川のほとりに、柴河内という一介の百姓がすんでいた。河内は、畑でとれた作物を納屋へ運んだり、市へだしたりするときのために、一匹の馬を飼っていたが、用のないときはたいてい馬は野に遊ばせておいた』。『馬もこころえたもので、河内のおよびがかからないかぎり、かってに野にでて草をはみ、日が暮れるとまた小屋にもどってくるのだった』。『ある日、河内がひと仕事すませて家へもどると、なにやら馬小屋のほうがさわがしい。はて?』 『と河内がいってみると、ふだんはおとなしい馬が興奮してはねている。河内がみると、藁のなかで河童が死んでいた』(「仮死状態」「気絶していた」の意)。『「ははん」河内がとびこんで河童をつかみあげると、河童は目をあけた。が、あとのまつり』で、『「煮てくうぞ、焼いてくうぞ、日干しにして柿の木につるしておくぞ」』と『河内がおどすと、河童は目になみだをためてぺこぺこと頭をさげる。河内は、腹の中で大笑いしながらさんざんおどかしたすえに、河童を天竜川の淵にはなしてやった』。『その後、河内の家の門口に、ときどき魚がおいてあったという』とある。次に「かわらんべ」(「天竜川総合学習館」の「天竜川 川の旅」の「第十三回 懐かしい遊び場―羽場下(はばした) 広報誌『かわらんべ』百三十三号掲載分より)として、昭和三十『年代後半、羽場淵辺りは子供たちの遊び場でした』。『戦国時代に築かれた羽場城址が淵直上にあり、その縁に立つ巨木の根元の空洞を秘密基地にしていました。羽場淵に注ぐ北の沢川は、伊那谷最北の田切地形をつくり、旧国道』百五十三『号(三州街道)が渡る煉瓦造りの眼鏡橋を抜けて淵へと行きました』。『この淵は深くて渦を巻き、気をつけないと河童に引き込まれるぞ』、『と親によく言われたものでしたが、昭和』五七(一九八二)年の『災害後の改修工事により、その姿は大きく変わりました。河童伝説(蕗原拾葉「柴太兵衛 河童を捕まえること」)は遠い昔のこととなりました』。『下流の河原では、花崗岩の礫を割って水晶をとり、その大きさや形を自慢し合いました。また、洪水後に出現したワンドに魚がたくさん泳いでいたことを今も鮮明に覚えています』(NPO法人「川の自然と文化研究所」松井一晃氏)とある。最後にサイトの管理人の方の考察として、「小平物語」(柳田の引用元。サイト主によれば小平向右門尉正清入道常慶の著で貞享三(一六八六)年刊とし、何と、同サイト内に読み易くした梗概(?)がこちらに電子化されてある。但し、河童と柴河内の部分は見つけられなかった)『にも柴河内守と河童の物語が収録されているが、「街道物語」の同エピソードはさらに物語調に脚色されている。柴河内守が百姓だったり、河童が死んだ様な状態で見つかったり』というのは、『他にはない要素なので、やはり他地域の同様な河童伝説が混じっているような気がしてならない』。『また羽場柴氏が羽場にいたのは何年までか。保科氏の配下であったので』、天正一八(一五九〇)『年の関東移封=多胡への移住には従ったのではないか?』 その十年後の慶長五(一六〇〇)『年に保科は高遠に復帰するのだが、そのとき柴氏は再び羽場に戻ったのか、それとも高遠城下に屋敷を作ってそこに住まったか』。『これから調査が必要である』とされて、
・河童伝説は関東移封の一五九〇年まで。
・もし、保科高遠復帰後も羽場に戻ったのなら、一六〇〇年以降も候補に。
・一五九〇年以降、羽場の墓守として残った柴一族、または柴氏関係の別系統が羽場に存在したとしたら、彼等の事かもしれない。
・柴河内という名があるが、「河内守」という記録が正確であるとすれば、人物は二名程に絞られる(柴家家系図参照)。
と纏めておられる。もの凄い厳密な考証!!!
「飛驒大野郡淸見村大字池本」現在の岐阜県高山市清見町池本(Yahoo!地図)。以下の話は、「飛騨の忍者 ぼぼ影」氏のブログ「飛騨のかっぺたん」の『飛騨の民話 藤蔵渕(とうぞうぶち)とガオロ [飛騨の民話]』が、かなり詳しい近くの類話(但し、ここの河童は赤くはない)を紹介されておられるので、必見! 最後に『清見町には、これと同類の伝説として、池本の鬼渕(おにふち)、楢谷の椀貸岩(わんかせいわ)、上小鳥直井彦三郎とガオロ、福寄入り川のカッパ、大原の水屋渕などがあり順にご紹介していきます』とあって、柳田國男が涎を流しそうなラインナップなのだが、『池本の鬼渕』未だはアップされておっれるようだ。因みに、この方のルビで、本文は「おにふち」と清音にした。
「ガオロ」私は似非の生物和名表記、学術ぶったカタカナ表記には実は激しい違和感を持つのであるが、ひらがなに直すと、これはどうも迫力を欠くように思われた。向後は河童の異名表記は原則、カタカナとするしかないか。「河郎」の訛りと思ったが、「日文研」の「妖怪伝承データベース」のこちらによると、『河童のことをガオロという。キュウリが好きなので、キュウリを食べてすぐに川で遊ぶと、引っ張られるという。ガオロと河童は別のものだともいう。尻の穴から腸などを引っ張り出してしまうともいう』(国学院大学民俗学研究会『民俗採訪』昭和五五(一九八〇)年十月発行から梗概)ともあった。
「鐡器の忌(いみ)」先にも出たが、河童の嫌う物として鉄や金属はよく語られ、他に鹿の角や猿が挙げられる。サイト「不思議のチカラ」の「好き嫌いがはっきりしている妖怪・河童(2)金属・猿・鹿の角」によれば、『河童が嫌う物のなかでも一番は「金属(金物)」です。金属のなかでも特に鉄を嫌うとされています』。『どうしてかというとこれも諸説あるようなのですが、まず一般的に水に棲む妖怪・妖物は概ね金属を嫌うと言われます。これは世界各地でも共通した話のようで、古代より産鉄(製鉄)は水や燃料の木材を大量に必要とすることから、農耕にとって最も大切である水を汚し森林の消失によって洪水を起こすとされ、金属=鉄と農耕の水や治水とは対立するものと言われています』。『実際に古代から中国や朝鮮半島では、製鉄による伐採で森林が消失していきました。水神は農耕の神ですから、その眷属(けんぞく=その神の配下または関係するモノ・動物)やしもべである水の妖怪や妖物も、鉄などの金属を嫌うということのようです。水神として代表的な龍蛇も鉄を嫌いますし、龍の棲むと言われる泉や池などの水場で鉄製品を水に浸すのは禁忌とされています』。『河童には全国各地に「駒引き伝説」というものがあって、これは馬を水の中に引込もうとする河童を人間がこらしめ、もう決してそういうことはしないという証文を河童が人間に渡すといった話ですが、このとき河童をこらしめるために連れて行くのが金属のたくさんある鍛冶屋だという話があります』。『また河童は人家の戸口にある鋤や鎌、軒下から吊るされた鉤(かぎ)を見て姿を消すとも言われていますから、よほど鉄製品が嫌いなのでしょう。鋤や鎌など、農耕には鉄製品が欠くことのできないものとなりますが、水の妖怪である河童はいつまでたっても鉄が苦手ということのようです』。『鉄などの金属のほかに河童が苦手なものといえば、「猿」と「鹿の角」です』。『江戸中期の百科事典である「和漢三才図』会『」では、河童はサルの類いの未確認動物に分類されているのに、なぜ同類かも知れない猿が嫌いなのでしょうか』。『はっきりとはわかっていませんが、猿を操る「猿曳き(猿回し)」が馬や馬主に祝いを述べて猿を舞わすことから、猿が馬の守り神と考えられ、先ほどの「駒引き伝説」のように水中に馬を引込もうとする河童と対立したという説があります。犬猿の仲ならぬ、河童と猿の仲になったというわけですね。河童はいつも相撲で猿に負けるから嫌いになった、という説もあるようです』。『鹿の角がなぜ嫌いなのかについては、その由来がどうもよくわかりません。鹿は神の使いであり、そのことから鹿の角を苦手とするといった説があるようですが、理由としてはざっくりしすぎてもうひとつです』。『そのほか、瓢箪やヘチマは水の中に引込もうとしてもすぐに浮いてしまうので嫌いです。主に東北地方などの東日本では河童を「みずち」と呼ぶことから』、「日本書紀」の仁徳六十七年(機械的計算では三七九年)の条の『ヒサゴ(瓢=ひょうたん)を水に投げ入れて「ミズチ(蛟)」を退治したという記述がその根拠とされることがありますが』「日本書紀」の『「ミズチ(蛟)」は龍蛇のことで直接的には河童とは関係がないと思われます』。『そのほかにも河童が嫌いな物としては、これを食べれば河童との相撲に勝てるという仏様に供える「仏飯」、盂蘭盆(うらぼん)の門火(かどび)を焚くときに用いる「おがら」という皮を剥いだ麻の茎など、仏教に関わる物も嫌います。人間の「唾」も嫌いで、唾を吐きかけると逃げるとも言われています』とある。本書でもこれらは追々語られることになるので、サイト主には失礼ながら、冒頭を除き、ほぼ全文を引用させて戴いた。問題があれば削除する。
「葦毛馬(あしげのうま)」「葦毛」は馬を区別する最大の指標である毛色の名。栗毛(地色が黒みを帯びた褐色で、鬣(たてがみ)と尾が赤褐色のもの)・青毛(濃い青みを帯びた黒色のもの)・鹿毛(かげ:体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いもの)の毛色に、年齢につれて、白い毛が混じってきたもの。さらに白葦毛・黒葦毛・連銭(れんぜん)葦毛(葦毛に灰色の丸い斑点の混じっているもので、「虎葦毛」「星葦毛」とも呼ぶ)などに分ける。
「美濃惠那郡付知(つけち)町」現在の岐阜県中津川市付知町(グーグル・マップ・データ)。
「遠山玄蕃(げんば)」こちらの記載に、戦国から安土桃山時代の美濃国飯羽間城(飯場城)及び苗木城城主であった武将遠山友忠(生年不詳:正室は織田信長の姪)の一族とある。]