萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 沖を眺望する
沖を眺望する
ここの海岸には草も生えない
なんといふさびしい海岸だ
かうしてしづかに浪を見てゐると
浪の上に浪がかさなり
浪の上に白い夕方の月がうかんでくるやうだ
ただひとり出でて磯馴れ松の木をながめ
空にうかべる島と船とをながめ
私はながく手足をのばして寢ころんでゐる
ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ
沖に向つて眺望する。
[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年二月号『感情』初出。短詩で表現も至って当たり前乍ら、私の偏愛する一篇であり、私の心の中では最後の「沖に向つて眺望する」が何度も二十代の時からリフレインし続けてきたものである。初出とは表現の微妙な変異がある。やはり私のそれを電子化した古いテクストを参照されたい。私はこの詩の「ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ」という一行を読むにつけ、朔太郎満二十七歳(大正二(一九一三)年四月製作)の折りの自筆自選の手作りの歌集「ソライロノハナ」に記された、エレナ幻想とも称すべき「大磯ノ海」と「平塚の海」を思い出すのを常としている(「ソライロノハナ」の中では「二月の海」という「一九一一、二」のクレジット(明治四十四年)を添えるパートが、この二章から構成されている)。リンク先はやはり孰れも私の古い電子テクストであるが(今回、正漢字表記をやり直しておいた)、「ソライロノハナ」自体がまず普段、読まれることの少ないものであるから、未読の方は、是非、読まれたい。]
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