萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) その手は菓子である
その手は菓子である
そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな靑い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない
ああ その手の上に接吻がしたい
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
愛をもとめる肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚のうへに
かるく爪先をふれ
かるく爪でひつかき
かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき
そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指
おすましで意地惡のひとさし指
卑怯で快活なこゆびのいたづら
親指の肌へ太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性
ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき
すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい
その手の甲はわつぷるのふくらみで
その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。
[やぶちゃん注:「親指の肌へ太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性」の「肌へ」は恐らく「肥へ」と歴史的仮名遣を誤って書いたものを誤判読し、誤植したものであろう(初出参照)。大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出は大きな改変はないが、細部の語句や表記に違いが散見されるので、以下に示す。
*
その手は菓子である
そのじつにかわゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとして品(しな)がよく
まるでちいさな靑い魚くづのやうで
やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない
ああ その手のうへに接吻がしたい
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだ
指と指との谷間に咲くこの不思議の花の風情はどうだ
そのにほひは麝香のやうで薄く汗ばんだ桃のやうだ
かくばかり美しくみがきあげた女性のゆび、すつぽりとしたまつ白のほそながいゆび
ぴあのの鍵盤をたたくゆび
針をもて絹をぬふ仕事のゆび
愛をもとめる男の肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚のうへに
かるく爪先をふれ、かるく爪でひつかき、かるくしつかりと押えつけるやうにするゆびのはたらき
そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび、はげしく狡猾にくすぐるゆび
おすましで意地惡のひとさしゆび
卑怯で快活な小ゆびのいたづら
親ゆびの肥え太つたうつくしさとその暴虐なる野蠻性
ああ そのすべすべとみがきあげた一本の指を押しいただき
すつぽりとくちにふくんでしやぶつてゐたい、いつまでたつてもしやぶつてゐたい
その手の甲はわつぷるのふくらみで、その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうな意地のきたない無恥の食慾
(最も美しき者の各部分に就いて、その一)
*
「魚くづ」は「うろくづ」或いは「いろくづ」と読む。「(最も美しき者の各部分に就いて、その一)」という後書きが附されてあるが、この「その二」は【2021年12月21日修正・追記】実は後の第三詩集「蝶を夢む」に再録された(一部を修正変更)本篇の、その後に配した「その襟足は魚である」(初出は大正六(一九一七)年十二月発行の『詩篇』で、標題は「その襟足は魚類である」)に相当する。その初出形「その襟足は魚類である」には『「最も美しきものの各部分に就てい」その二(「てい」はママ)』という添え辞があるのである。先ほど、「蝶を夢む」の当該詩篇「その襟足は魚である」を公開し、そこに初出形も示しておいたので見られたい。【修正・追記終り】私はフェティシズムの極地としてのそれなら、断然、初出を支持する。特に多くの「指」を「ゆび」と平仮名書きしたところに視覚的な舐めるようなそれが実に効果的に現出している。因みに、「定本靑猫」でもやや手を加えて再録しているが、「接吻」に「きす」とルビを振ってみたり、句読点を加えたりという小手先の仕儀がいらいらとして目立ち、五十歳の詩人のフェティシュは、最早、老耄して萎えてしまっていると言わざるを得ない(六十四歳の川端康成が書いた「片腕」の方が遙かに生々として凄いと思う)。何? 「定本靑猫」版を示さないで、どうして批判するかって? いやいや、この〈批判行為〉は正当である。何故なら、冒頭注で述べた通り、朔太郎自身が「定本靑猫」で『此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と言っているのだから。面倒だから示さぬのではない。改悪によって枯れびしゃってしまって――示すにあまりに哀れ――だから、である。
【2022年2月26日追記】その後、「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)」を電子化した際、その草稿として筑摩版全集の「未發表詩篇」の「女の手の感觸」を注で電子化したが、同全集は後の差し込みで、それが「その手は菓子である」の草稿と同一であることから、校訂本文も原型総て削除する、と指示があった。折角、電子化して整序版もオリジナルに作って示したので、そちらに載せてあるから、是非、見られたい。更に、結局、詩集「蝶を夢む」、及び、詩集「定本 靑猫」の正規表現版の本篇も電子化したので(リンク先)見られたい。
【2022年3月26日草稿詩篇追加・追記】筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「靑猫」』には、本篇の草稿として『その手は菓子である(本篇原稿三種五枚)』として以下の三種(一篇目は無題(但し、「最も美しいものの各部分に就いて」という添え題がある)、二篇目は「その手は菓子である」、三篇目は「手の感觸」)が総て載るのを忘れていたので、以下に全部を示す。表記は総てママである。
*
○
限りなく最も美しいものの各部分に就いて
その手は食物である
その鼻は音樂宗敎である
その脚足は[やぶちゃん注:編者は「襟足」と補正する。]
その足は
その額は
[やぶちゃん注:以上で、編者注で、『この斷片は、つぎの「その手は菓子である」とぉなじノートの前頁に書かれている。なお『蝶を夢む』草稿詩篇の中の「その襟足は魚類である」を參照。』とある。その詩集「蝶を夢む」の草稿詩篇の中の「その襟足は魚類である」は、『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その襟足は魚である」で電子化してあるので見られたい。]
その手は菓子である
くそのかぎりなき食物の美しさである
そのじつにかわゆらしいむつくりとした女の手工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
まるでそよそよとしてうごいて
指なんかはじつにまことにほつそりとして品がよく
まるでちいさな靑い魚くづのうで[やぶちゃん注:「やうで」の脱字であろう。]
やさしくそよそよそよそよとすずしげにうごいてゐるありさまはどうだ樣子はどうだたまらない
ああ その手のうへに接吻がしたい
そつくりと口にあててたべてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだ
指と指との分れ目のきれいな谷間にさくこの不思議な花をみる→のにほひの風情はどうだ
影と日向との
ジヤ香のやうな汗のにほひ
そのにほひはジヤ香のやうでぱつとひらいた櫻のやうなべにいろだ
かぎりもないすえて汗ばんだ皮膚の
その中指、そのくすりゆび、その小ゆび
そして親ゆび
かくばかりきれいに美しくみがきあげてる女性のゆび
すつぽりとしたまつ白のやわらかい→おいしいゆび→蒸し菓子のゆびほそながいゆび
ぴあのの鍵坂をたたくゆび[やぶちゃん注:編者は「鍵盤」の誤字とする。]
針仕事をするゆび
男の→戀をする若い男愛を求める男の肩によりそひながら
そのわけても感じやすい心臟のここのところ
男性の皮膚のうへにかるく爪先でふれ
かるく爪先をふれ、かるく爪でひつかき、かるく爪先でしつかりとおさへつけるやうにするゆびさきのはたらき
そのぶるぶるとみぶるひをするよろこびのゆび
はげしく狡猾にくすぐるゆび
慘酷な親
おすましで氣どりやの意地惡のひとさしゆび
いたづらものの中指
卑怯で快活な小ゆびのいたづら
慘酷な親ゆび
美しい、野蠻の親ゆび
親ゆびの肥え太つた美しさとその暴虐なる野蠻性
ああそのまつ白にみがきあげた一本のゆびをおしいただき
すつぽりとくちにふくでしやぶつてゐたい
いつまでもいつまでもたつてもしやぶつてゐたい
その手はワツプルのやうな菓子である、
そうしてまたその手の甲のふくらみのうへに
その手の甲はワツプルのふくらみで、その手の指は氷砂糖のつめたい舌ざわり→よろこび→よろこびだ〉食慾
私の食慾は 飢え→はげしくなりて たえがたくなりてよだれをながす、
このかぎり なき→なくうまそうな なく美しい食物 の美しさに の透惑
ああこのはげしい透惑
私は
ああこの無恥の透惑
ああこの子供たちのやうないぢのきたない無恥の食慾
女の手の感觸
その手はびろうど
その手は絹製(もみ)
その手は愛は感觸ふつくりしてあつたかい
その手はこそばゆい愛欲の感觸
その手はにくちびるをあてたいおしあてたい
その手はせんちめちたるのうしろにまわる女の子ゆうわくの手
その手をあげられ
その手を磨かれ
その手をもつて 握られ神聖たらしめ この手われの指を握り
その手は女の手
その手をしていんよくの聖餐をひらかしめ像たらしめ
女よ、
*
一部、繰り返しとなるが、実は、最後の一篇は、
「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)」
で「未發表詩篇」の内容が酷似する「手の感觸」電子化しているのであるが、そこで私は、
*
筑摩版全集の追補・訂正差し込みで、『本篇は「その手は菓子である」草稿の「女の手の感觸」』『と重複するため【本文】【初出】ともに削除』とあるが、折角、苦労して電子化したので残しておくことにする。というより、実は子細に見ると、両者は同一ではないからである。
*
と述べた。実際に並べて比較されれば、一目瞭然で細部に異同があり、同一の草稿とは見做し得ないのである。或いは、全集編者の「未發表詩篇」の字起こしに致命的な不全があるのかも知れないが、現物を見られない我々は、断じて、これを同一とするのは承服出来ないのである。]
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