柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(26) 「駒引錢」(全)
[やぶちゃん注:今回は一章分(全三段落)を示す。但し、注の見易さを考えて段落ごととはした。]
《原文》
駒引錢 【カハコマ】秋田ノ人ノ話ニ、今日彼地方ニ於テ「カハコマ」ト稱スルハ、水ノ神ノ別名ナリ〔山方石之助氏談〕。「カハコマ」ハ或ハ川駒ニハ非ザルカ。果シテ然リトスレバ川牛ト相對立シテ、話ニ幾分カ筋道ガ立ツカト思ハル。但シ斯ク言ヘバトテ、勿論右ノ黑キ毛ノ手ヲ以テ直チニ馬ノ脚ナリト主張スルニハ非ズ。松前地方ニ於テ河童ヲ「コマヒキ」ト云フコトハ前ニ之ヲ述べタリ。河童ニシテ深キ毛皮ヲ被リタル川獺ノ類ニ非ザル限、北海道ノ雪氷ノ下ニ冬ヲ送リ、三尺ノ童形ヲ以テ牛馬ニ對シテ熊以上ノ暴威ヲ振フト云フコトハ、靈物ニ非ザレバ到底企テ能ハザル藝ナリ。之ニ就キテ案出シタルガ予ガ一說アリ。乞フラクハ之ヲ演ベシメヨ。【駒引澤】東京ノ附近ニハ駒引澤又ハ馬引澤ト云フ地名多シ。思フニ昔關東ノ平原ニ盛ナリシ馬ノ牧ト關聯シテ、何カ然ルべキ由緖アル土地ナルべク、屢〻馬ニ就キテノ信仰ヲ存ス。【馬塚】例ヘバ玉川電車ニ接近セル駒澤村ノ馬引澤ニハ賴朝ノ愛馬ノ塚アリ。府中ノ對岸關戶村ノ駒引澤ニハタシカ古キ藥師堂アリテ、堂ノ前ナル路ハ馬ニ乘リテ行クコト能ハズ、乘打ヲスレバ必ズ怪異アリシ故ニ駒ヲ曳キテ通行セリ。藥師堂ノ西ト東ニ各「ゴクラク」ト云フ地名ノ存スルハ、此處マデ來レバ最早馬ニ乘リテモ差支無カリシ爲ナリト云フ〔林義直氏談〕。【馬上咎メ】馬上咎メヲスル神ハ、蟻通(アリドホシ)明神以來甚ダ多カリシナリ。ソレヲ駒引ト名ヅケタル例ハ外ニモアリ。羽後平鹿郡植田村大字越前字駒引ハ、館村ノ八幡ノ鳥居ノ正面ニシテ、乘打ヲスル人ハ誰ト無ク落馬セシガ故ニ、何レモ畏レテ馬ヲ曳キテ通リシヨリノ地名ナリ〔雪乃出羽路九〕。駒ヲ曳クトハ乘ラズシテ口綱ヲ取ルコトナリ。後世馬追ヲ業トスル田舍者ナドハ、曳クト云フ古語ヲ誤解シテ、鼠ガ鏡餅ヲ引クナドノ引クカト思ヒ、從ツテ終ニ牛馬ヲ水底ニ誘ヒ殺スト云フガ如キ迷信ノ發生ヲ促シタルヤモ圖リ難ケレド、其昔ノ意味ハ必ズ別ニ存シ、河童ノ人格ハ或ハ今日ノ如ク賤劣ナルモノニハ非ザリシカト思ハル。
《訓読》
駒引錢(こまびきせん) 【カハコマ】秋田の人の話に、今日、彼(か)の地方に於いて「カハコマ」と稱するは、水の神の別名なり〔山方石之助氏談〕。「カハコマ」は或いは「川駒」には非ざるか。果して、然りとすれば、「川牛」と相ひ對立して、話に幾分か筋道が立つかと思はる。但し。斯(か)く言へばとて、勿論、右の黑き毛の手を以つて、直ちに馬の脚なりと主張するには非ず。松前地方に於いて、河童を「コマヒキ」と云ふことは前に之れを述べたり。河童にして、深き毛皮を被りたる川獺(かはをそ)の類ひに非ざる限り、北海道の雪氷の下に冬を送り、三尺の童形を以つて、牛馬に對して熊以上の暴威を振ふと云ふことは、靈物に非ざれば、到底、企て能はざる藝なり。之れに就きて、案出したるが予が一說あり。乞ふらくは、之れを演(の)べしめよ。【駒引澤】東京の附近には、駒引澤又は馬引澤と云ふ地名、多し。思ふに、昔、關東の平原に盛んなりし馬の牧(まき)と關聯して、何か然るべき由緖ある土地なるべく、屢々(しばしば)馬に就きての信仰を存す。【馬塚】例へば玉川電車に接近せる駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり。府中の對岸、關戶村の駒引澤には、たしか古き藥師堂ありて、堂の前なる路は、馬に乘りて行くこと能はず、乘り打ちをすれば、必ず、怪異ありし故に駒を曳きて通行せり。藥師堂の西と東に各々、「ごくらく」と云ふ地名の存するは、此處(ここ)まで來れば、最早、馬に乘りても差支へ無かりし爲なりと云ふ〔林義直氏談〕。【馬上咎(ばじやうとが)め】馬上咎めをする神は、蟻通(ありどほし)明神以來、甚だ多かりしなり。それを駒引と名づけたる例は外にも、あり。羽後平鹿郡植田村大字越前字駒引は、館村の八幡の鳥居の正面にして、乘り打ちをする人は、誰(たれ)と無く、落馬せしが故に、何れも、畏れて馬を曳きて通りしよりの地名なり〔「雪乃出羽路」九〕。駒を曳くとは、乘らずして口綱を取ることなり。後世、馬追ひを業(なりはひ)とする田舍者などは、「曳く」と云ふ古語を誤解して、鼠が鏡餅を引くなどの「引く」かと思ひ、從つて終(つひ)に牛馬を水底に誘ひ殺すと云ふがごとき迷信の發生を促したるやも圖り難けれど、其の昔の意味は、必ず、別に存し、河童の人格は、或いは、今日のごとく賤劣なるものには非ざりしかと思はる。
[やぶちゃん注:「駒引錢(こまびきせん)」は次の段落以降で登場し、説明され、図も出るので、そちらに譲る。
「馬の牧(まき)」「馬牧(うままき)」は、古くは「大宝律令」(大宝元(七〇一)年)にで出された「厩牧令」により、全国に作られた国営牧場(御牧)のうち、馬を育てるもののことを指した。平安期の朝廷直轄の勅旨牧(御牧)は信濃・上野・甲斐・武蔵の四ヶ国に設置され、天皇へ馬を毎年貢進した(例えば、武蔵国には六ヶ所の勅旨牧が置かれ、そのうち二箇所は鶴見川流域にあったとする説が有力)。平安末期から武士の台頭し、鎌倉幕府が誕生するに至って、中世以降こうした馬の牧が発展を遂げ、飼育・調教の専門職も生まれた。
「駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり」祐天寺駅の西北に当たる、東京都世田谷区下馬と東京都目黒区五本木の境に「葦毛塚」として残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。世田谷区公式サイト内の「上馬・下馬・野沢」によれば、『上馬引沢地区』『は、旧駒沢村大字上馬引沢の地でした。かつて、馬引沢村(上郷・中郷・下郷)として存立していた頃の上郷と中郷とがそれに該当し』、『大字名となった「馬引沢」伝説』があるとし、文治五(一一八九)年に』『源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州平泉へ向かってこの土地を通った時のことです。ここ、蛇崩』(じゃくずれ:この附近の旧地名。東京都世田谷区及び目黒区を流れる川の名として残る。目黒区公式サイト内のこちらに詳しい)『の激しい沢筋にさしかかったところ、突然頼朝の乗った馬が暴れだして沢の深みに落ちてしまいました。急いで馬を助けようとしましたが、まもなく馬は死んでしまい、そこで頼朝は馬を沢沿いの地に葬り、その馬が芦毛だったことから芦毛塚と名づけました。頼朝はこの事故を戒めとして、「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡したので、以後馬引沢の名がつけられたということです。 この芦毛塚は、今の下馬の地に残されています』とあり、さらに、この事件は『頼朝としては幸先の悪い出来事でした。その時』、一『人の老婆が現れて、馬の死という不吉をはらって戦勝を祈るために、近くの』子(ね)の神(現在は目黒区南にある高木神社と思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))。目黒区公式サイト内のこちらによれば、元は『現在の社地の隣にあった屋敷神で、それがいつのころか現在の場所に移されて、子ノ神を祭る地域の氏神になり、それが地名となったと言い伝えられている』とある。葦毛塚からは南に二・四キロメートルほど)『詣でることをすすめたのでした。頼朝はこれに従って祈願した後、奥州に兵を進めたところ、幸い戦に勝つことができたので、帰りに再び』、『子の神にお礼参りに立ち寄りました。そのとき』、『頼朝が馬を繋いだ松は、駒繋松(今の松は』三『代目という)と名づけられ、子の神は駒繋神社と改められたということです』。『また』、『死んだ頼朝の馬を葬った芦毛塚は、目黒区との境』『に立派な碑が建てられ、蛇崩川には足毛橋と名づけられた橋も残されています』とある。なお、さらにその近くの『野沢村は、昔』、は「タッタ原」とも『呼ばれて、馬引沢村のまぐさ場(馬・牛などの飼料・肥料にする草の採集地のこと)でした。正保期』(一六四四~一六四七年)『に荏原郡六郷領沢田(大田区)の百姓田中七右衛門と、葛飾郡葛西領(江戸川区)の百姓野村次郎右衛門が、この地に入植して開発し、万治年間』(一六五八年~一六六〇年)『に馬引沢村から独立して野沢村となったとされています』とあるから、この周辺は実に馬には大いに因縁のある場所だったことが判るのである。
「府中の對岸、關戶村の駒引澤には、たしか古き藥師堂ありて、堂の前なる路は、馬に乘りて行くこと能はず、乘り打ちをすれば、必ず、怪異ありし故に駒を曳きて通行せり」東京都多摩市関戸にある真言宗慈眼山(じげんさん)唐仏院(とうぶついん)関戸観音寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。創建は建久三(一一九二)年。但し、馬に関わる伝承は失われているようである。しかし、ウィキの「沓切坂」によれば(この坂の由来は主に二つあり、一つは新田義貞が元弘三(一三三三)年の「分倍河原の戦」いの際、ここの急坂を登るところで馬の沓が切れたことに由来するというもの、今一つは、新田義興が正平七/観応三(一三五二)年に鎌倉から足利尊氏を追った折り、この坂にさし掛かったところで馬の沓を取り、裸馬を飛ばしたことに由来するというもの)、この坂の近くに「極楽の坂」と呼ばれた坂があり、それは現在の聖ヶ丘三・四丁目と諏訪四丁目の間で、『この近辺はかつて極楽と呼ばれていたという』とあるのが、その一方だと思われる。この附近である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。地図の北西を見よ! 東京都多摩市馬引沢という地名が現存するのを確認出来る! 関戸観音寺も北直近!!
「蟻通(ありどほし)明神」大阪府泉佐野市長滝にある蟻通神社(ありとおしじんじゃ:原典の濁音はママ)。現在でも「蟻通明神」とも呼ばれる。ここ。大国主命を祀る。ウィキの「蟻通神社(泉佐野市)」によれば、もとは現在地より約一キロ北方に鎮座し、『熊野街道』『に沿って広大な神域を有していたが、佐野陸軍飛行場(明野陸軍飛行学校佐野分教所)建設のため』、昭和一九(一九四四)年、『現在地へ遷座。規模も縮小された』。『紀貫之ゆかりの神社で、神社の中には紀貫之の像(現在は壊されてしまって設置跡しかない)と石碑が建つ』とある『蟻通の名の初出は』「紀貫之集」の「第十 雑部」に『紀貫之が馬の急病に際して「これは、ここにいましつる神のし給ふならん、祈り申し給へよと。」と考えて神の名を問うと』、『恐らく地元の住人が「ありどほうし神」と答えている』ことによるらしい。但し、『中世以前の資料の表記は「有通神」が主であり、「蟻通」の字は後の時代に一般的になった』ものとする。『「蟻」と「ありどほうし神」に縁が生まれるのは、時代がやや下り』、『清少納言が枕草子の中で孝子説話として、唐土より「七曲りの玉に糸を通す手段」の難題を吹きかけられた帝に、老父の知恵を借りた中将が「蟻に糸を結び玉の中を通らせる」方法を奏上した物語を紹介しており、これが「ありどほうしの神」の由来としている』。『また、平安末には「蟻の熊野詣」と揶揄されるほど』、『熊野詣が盛んとなり、道中で九十九王子参拝の為必ず蟻通神社の門前を通ることから「蟻」の字の印象が強くなったという説もある』とある。また、同「蟻通神社」公式サイトのこちらに古代からの詳しい記載があり、そこに伝承では第九代開化天皇の御宇(機械換算で紀元前一五八年~紀元前九八年。弥生中期相当)の勧請とする。同じ公式サイトのページの「蟻通神社にゆかりの話」に以下がある。
《引用開始》[やぶちゃん注:一部の画像部分を活字に起こした。行空けは詰めた。歴史的仮名遣の一部の誤りと、意味が取りにくくなっている一部を読点を添えて勝手に訂した。]
1.紀貫之の故事伝承
「貫之集」新潮日本古典集成より
紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふところに、道行く人々立ちどまりていふ、「これはここにいますがる神のしたまふならん。年ごろ社もなくしるしも見えねど、うたてある神なり。さきざきかかるには祈りをなん申す」といふに、御幣もなければ、なにわざもせで、手洗ひて、「神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん」ととへば、「蟻通しの神」といふを聞きて、よみて奉りける、馬のここちやみにけり
[やぶちゃん注:中略。]
概略
平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。このお話は、枕草子「社は」の段に記載されています。
貫之が奉能した和歌。「貫之集」より
「かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしをば 思ふべしやは」
意味:かきくもり闇の様な大空に 星があるなどと思うはずがあろうか。
「ありとほしをば」には、「有と星」と「蟻(有)通」を掛けています。一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない、の意を表します。 神仏を感応させて効験のあった歌として『袋草子』等にも記載されています。
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その2.清少納言『枕草子』記載の社名伝説
枕草子 225段 「社は」 角川書店枕冊子全注釈より
社は、布留の社。龍田の社。はなふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらむとをかし。ことのよしの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」ともいはれたまへと思ふぞ、いとをかしき。
蟻通の明神、やませたまへとて歌詠みて奉りけむに、やめたまひけむ、いとをかし。この「蟻通」と名づけたる心は、まことにやあらむ、むかしおはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして[やぶちゃん注:寵愛なされて。]、四十になりぬるをば、うしなはせたまひければ[やぶちゃん注:殺してしまわれたので。]、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者なかりけるに、中将なりける人の、いみじき時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近き親二人を持ちたりけるが、四十をだに制あるに、ましていとおそろしと怖ぢさはぐを、いみじう孝ある人にて、「遠きところにはさらに住ませじ、一日に一度見ではえあるまじ」とて、みそかに夜夜地を掘りて屋をつくりて、それに籠め据ゑて、行きつつ見る。おほやけにも人にも、失せ隠れたるよしを知らせて。などてか家に入りゐたらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。親は上達部などにやありけむ、中将など子にて持たりけむは。いと心かしこく、よろづのこと知りたりければ、この中将若けれど、才あり、いたりかしこくて、時の人におぼすなりけり。
唐土(もろこし)の帝、この国の帝をいかではかりてこの国打ち取らむとて、つねにこころみ、あらがひをして送りたまひけるに、つやつやとまろにうつくしく削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひたてまつりたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうのことなむある」といへば、「ただ早からむ川に立ちながら投げ入れて見むに、かへりて流れむかたを末としるしてつかはせ」と教ふ。まゐりて、わが知り顔にして、「こころみはべらむ」とて、人人具して投げ入れたるに、先にして行くにしるしをつけてつかはしたれば、まことにさなりけり。
五尺ばかりなる蛇の、ただおなじやうなるを、「いづれか男女」とてたてまつりたり。また、さらにえ知らず。例の、中将行きて問へば、「二つ並べて、尾のかたに細きすばえをさし寄せむに、尾はたらかさむを女と知れ」といひければ、やがて、それは、内裏のうちにてさしければ、まことに一つは動かず、一つは動かしけるに、またしるしつけてつかはしけり。
ほどひさしうて、七曲にたたなはりたる、中はとほりて左右に口あきたるがちひさきをたてまつりて、「これに綱とほしてたまはらむ。この国にみなしはべることなり」とてたてまつりたるに、いみじからむものの上手不用ならむ。そこらの上達部よりはじめて、ありとある人いふに、また行きて「かくなむ」といへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰にほそき糸をつけて、またそれがいますこし太きをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいととく、穴のあなたの口に出でにけり。さて、その糸のつらぬかれたるをつかはしける後になむ、「日本はかしこかりけり」とて、後後さることもせざりけり。
この中将をいみじき人におぼしめして、「なにごとをして、いかなる位をかたまはるべき」と仰せられければ、「さらに官・位もたまはらじ。ただ老いたる父母のかく失せてはべるをたづねて、都に住ますることをゆるさせたまへ」と申しければ、「いみじうやすきこと」とてゆるされにければ、よろづの親、生きてよろこぶこといみじかりけり。中将は、大臣になさせたまひてなむありける。
さて、その人の神になりたるにやあらむ、この明神のもとへ詣でたりける人に、夜あらはれてのたまひける。
とのたまひけると、人の語りし。
紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。
歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」
○日本に出された三つの難題と答
一、削った木の元(根)と末(先端)の見分け方?
答・・・川に投げ、方向変えて先に流れる方が木の末(先端)である。
二、蛇の雌雄の見分け方?
答・・・尾の方に細い棒を指し寄せ、しっぽを動かす方が雌である。
三、うねうねと中が折曲がっている玉に糸を通す方法
答・・・蟻の腰に細い糸を結んで、玉の出口になる方に蜜を塗ると蟻は、蜜の香を嗅ぎつけて、出口に出てくる。
《引用終了》
「羽後平鹿郡植田村大字越前字駒引は、館村の八幡の鳥居の正面」現在の秋田県横手市十文字町周辺にはグーグル・マップ・データで視認する限りでも、五つもある。この字「駒引」(Yahoo地図)に最も近い場所にあるのは、十文字町佐賀会字新関の八幡神社(グーグル・マップ・データ)であるが、その東北直近の秋田県横手市十文字町佐賀会下沖田にも八幡神社(グーグル・マップ・データ)があるので、よく判らぬ。ただ、字「館前」(Yahoo地図)が駒引の東にあるから、現在の地図上から考えると、前者ととるのが自然ではある。
『後世、馬追ひを業(なりはひ)とする田舍者などは、「曳く」と云ふ古語を誤解して、鼠が鏡餅を引くなどの「引く」かと思ひ、從つて終(つひ)に牛馬を水底に誘ひ殺すと云ふがごとき迷信の發生を促したるや』この柳田の謂い方は不快で、しかも不審である。馬追を生業とする者が、「馬をひく」の「ひく」をこのように誤認することは私は、いっかな無知な「田舍者」であっても、あり得ないと思うからである。大方の御叱正を俟つ。]
[やぶちゃん注:以下に、底本では二箇所に分けて配されてある駒引銭の図を、「ちくま文庫」版全集から読み込んだものを掲げる。底本は明度を上げても、彫られたそれが殆んど全く現認出来ないからである。なお、ちくま文庫版では二枚の図が何故かそれぞれ上下に分離した形で、一纏めにして掲載されている。しかし、少なくとも左の上下二枚は底本のそれではない。何故なら、錢の外周に落款があるからである(底本のそれは錢だけの画像でこんなものはない)。思うにこれは、本書の再刊本(柳田國男喜寿記念として昭和二六(一九五一)年に実業之日本社から刊行された版)刊行の際に差し替えられた画像なのかも知れない。孰れにせよ、親本「定本柳田國男集」の編者が全くの別撮りをしたものでないとなれば、画像使用は著作権上、問題ない。万一、問題ありとして、その根拠を示して警告を受けた場合には画像は撤去する。しかしそれはすこぶる智の共有を妨げるものではある。]
《原文》
【繪錢】前代ノ穴錢ノ中ニ駒引錢ト稱スル一種ノ繪錢(ヱセン)アルコトモ、亦何等カノ因緣無シトハ言フべカラズ。今日ノ通說ニ依レバ、日本ノ繪錢ノ始ハ足利時代ノ末所謂六條錢ノ頃ニ在リテ、元和以後殊ニ寬永通寶ノ鑄造ニ伴ヒテ一層盛ニナリタリト云ヘリ。又取留メテ此ト云フ目的ハ無ク、錢座ノ開業祝ニ職人等ガ慰ミ半分ニ作リシモノカ、又ハ物好キナル鑄物師輩ガ最初ヨリ樂錢卽チ玩弄品トシテ鑄タルモノニテ、別ニ信仰上ノ意味ナドハ無カリシガ如ク認メラル〔繪錢譜序〕。併シ此說ニ對シテハ疑ヲ插ムべキ餘地全ク無キニ非ズ。支那朝鮮ノ銅ノ豐富ナラザリシ地方ニテモ、竝ノ錢ヨリハ大キク且ツ手丈夫ニ、複雜ナル意匠ヲ以テ念入ニ澤山ノ繪錢ヲ鑄造セリ。是レ卽チ所謂厭勝錢ニシテ、社會生活上通用錢ヨリハ一層大ナル意義ヲ有セシガ故ニ此ノ如キ也。【錢神】錢ヲ神ト祀リ又ハ祈躊ト占ノ用ニ供セシ例ハ我ガ邦ニモ乏シカラズ。日本ノ繪錢ノ中ニモ橋辨慶トカ紋盡シトカノ類ハ或ハ只ノ玩具ナリシナランモ、繪錢譜ノ大部分ヲ占ムル駒錢ニ至リテハ、單ニ道樂半分ノ所業トシテハ餘リニ數多ク且ツ系統アリ。【錢何疋】或ハ又錢十文ニ付キ一枚ヅツノ駒引錢ヲ交ヘタリシ故ニ百文ヲ十疋ト云フトノ說アレド、更ニ根據無キ想像說ナルノミナラズ、少ナクモ駒ノ繪錢ヲ鑄造セシ起原ヲ說明スル能ハズ。【支那繪錢】疋ヲ以テ錢ヲ數フルノ風習ナキ支那ニ於テモ馬ノ錢ハ甚ダ多シ。例ヘバ唐將千里追風又ハ白驥ナドノ錢文アルモノハ裏面ニ駒ノ畫ヲ鑄出シ、逐日腰泉ノ如キハ表面ニ之ヲ鑄出シ、更ニ又千里之能日行千里出入通泰等ノ錢ハ人ノ馬ニ騎リタル畫樣ナリ〔鹽尻六十四〕。此等ノ錢文ヨリ想像スレバ、馬ハ卽チ通用ノ迅速ナルコトヲ以テ其奔馳ニ譬ヘタルカトモ考ヘラル。此等ノ繪錢ハ多クハ錢背一杯ニ大キク馬ヲ描キ、恰モ射藝ノ草鹿ナドノ如ク馬ノ腹ノ部分ガ錢ノ孔ナリ。之ニ反シテ日本ノ繪錢ハ方孔ノ周圍ニ馬ヲ描キ、且ツ十中八九マデハ口繩ヲ附ケテ之ヲ曳ク形ナリ。【出駒入駒】馬ノ首ノ右ニ向ヘルヲ入駒ト云ヒ、左ニ向ヘルヲ出駒ト云フ。馬ノ背ニハ或ハ俵トカ珠トカノ目出タキ荷物ヲ積ミ、神人又ハ農夫ノ之ヲ曳ケルモアレド、分ケテモ注意セラルルハ裸馬ヲ猿ノ曳キ行ク圖ナリ。假ニ年代ノ前後ヲ忘却スレバ殆ド、河子「カシャンポ」[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]ノ歷史ヲ畫ケルカトモ思ハルヽ所謂猿曳駒ノ繪錢ナリ。
《訓読》
【繪錢(ゑせん)】前代の穴錢の中に駒引錢(こまひきせん)と稱する一種の繪錢(ゑせん)あることも、亦、何等かの因緣無しとは言ふべからず。今日の通說に依れば、日本の繪錢の始めは足利時代の末、所謂、六條錢の頃に在りて、元和(げんな)[やぶちゃん注:、一六一五年から一六二四年まで。寛永の前。]以後、殊に寬永通寶の鑄造に伴ひて、一層盛んになりたりと云へり。又、取り留めて此と云ふ目的は無く、錢座(ぜにざ)の開業祝ひに職人等が慰み半分に作りしものか、又は、物好きなる鑄物師(いもじの)輩(やから)が最初より樂錢(らくせん)、卽ち、玩弄品として鑄たるものにて、別に信仰上の意味などは無かりしがごとく認めらる〔「繪錢譜」序〕。併し、此の說に對しては疑ひを插むべき餘地全く無きに非ず。支那・朝鮮の銅の豐富ならざりし地方にても、竝(なみ)の錢よりは大きく、且つ、手丈夫に、複雜なる意匠を以つて念入りに澤山の繪錢を鑄造せり。是れ、卽ち、所謂、厭勝錢(えんしようせん)にして、社會生活上、通用錢よりは、一層大なる意義を有せしが故に此くのごときなり。【錢神】錢を神と祀り、又は、祈躊と占ひの用に供せし例は、我が邦にも乏しからず。日本の繪錢の中にも、橋辨慶とか、紋盡(もんづく)しとかの類ひは、或いは只(ただ)の玩具なりしならんも、「繪錢譜」の大部分を占むる駒錢に至りては、單に道樂半分の所業としては餘りに數多く、且つ、系統あり。【錢何疋(ぜになんびき)】或いは又、錢十文に付き一枚づつの駒引錢を交へたりし故に百文を十疋(じつぴき)と云ふとの說あれど、更に根據無き想像說なるのみならず、少なくも、駒の繪錢を鑄造せし起原を說明する能はず。【支那繪錢】疋を以つて錢を數ふるの風習なき支那に於いても馬の錢は甚だ多し。例へば、唐將千里・追風、又は、白驥(びやくき)などの錢文あるものは、裏面に駒の畫を鑄出し、逐日・腰・泉のごときは表面に之れを鑄出し、更に又、千里之能・日行千里・出入通泰等の錢は人の馬に騎(の)りたる畫樣(ぐわやう)なり〔「鹽尻」六十四〕。此等の錢文より想像すれば、馬は、卽ち、通用の迅速なることを以つて、其の奔馳(ほんち)に譬へたるかとも考へらる。此等の繪錢は、多くは、錢背一杯に大きく馬を描き、恰も射藝の草鹿(くさじし)[やぶちゃん注:鹿を象った弓の的の呼称。板で形を作り、牛の革を張って中に綿を詰め、横木に吊るしたもの。鎌倉時代より歩射(ぶしゃ)の練習に用いられた。グーグル画像検索「草鹿」をリンクさせておく。ありゃ? 可愛いで!]などのごとく、馬の腹の部分が錢の孔(あな)なり。之れに反して、日本の繪錢は方孔(はうこう)の周圍に馬を描き、且つ、十中、八、九までは口繩(くちなは)を附けて、之れを曳く形なり。【出駒・入駒】馬の首の右に向へるを「入駒」と云ひ、左に向へるを「出駒」と云ふ。【猿曳駒】馬の背には、或いは俵とか珠とかの目出たき荷物を積み、神人又は農夫の之れを曳けるもあれど、分けても注意せらるるは、裸馬を猿の曳き行く圖なり。假りに、年代の前後を忘却すれば、殆ど、「河子(かはこ)」・「カシャンポ」[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]の歷史を畫(ゑが)けるかとも思はるゝ、所謂、「猿曳駒」の繪錢なり。
[やぶちゃん注:「繪錢(ゑせん)」「えぜに」とも読む。後に出る「樂錢」も同じ。江戸初期より、民間で作った円形方孔の銭貨型をした玩具(おもちゃ)の金。主として恵比寿・大黒・七福神・駒曳きなどの絵画像を描いているのでこの名があるが、念仏や題目などの文字だけのものもある。素材は銅又は鉄で、得財招福の信仰対象として発生したものであるが、江戸後期には、これらの外に、子供の面子(めんこ)や石蹴り遊びの用具として、厚手又は大形のものも作られるに至った(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。画像と解説が豊富な個人ブログ「雅庵日記」の「『絵銭・馬』中国絵銭・駒引銭等」がよい。しかもそれは『馬に関係しているだろうものを』選んでおられるのである。その解説によれば、『絵銭とはそもそも「通貨」ではなく、その目的により呪い[やぶちゃん注:まじない。]に使われるもの、お守り代わりのもの、上棟式等に集まった人々に撒き福を分け与えるもの、そして、巾着や根付のように実用に使われるもの等いろいろあり、最近ではこの時代を風刺したパロディーチックなものも見かける。冶金が施された物は許せるとしても』、『樹脂やプラスチック製の物をその範疇に入れるかどうかの議論は別にして、古今東西かなりの目的や用途で膨大な種類の絵銭が作られてきた筈である。台湾などの古刹においては』、『お守りとして大きな物も作られ』、今も『販売されている。これは日常の中で身近な道具や守護符として、東洋に大きく特筆される文化であろう。そしてその大抵は「円形方孔銭」の形態、若しくはそれに近い形態を成している』。『中世以来、旅や移動は現在のように自動車等がなかったので、基本的に徒歩での行脚である。その道中の安全と安寧を祈る絵柄のものや、米の豊作を祈願した絵柄のものが江戸時代以降の日本絵銭には多いが、明らかに中国絵銭は雰囲気が違う。戦いの勝利や競馬のように速さを競うもの、そして故事にちなんだ呪文銭が多いと気がつく。お国柄の違いか』。『現在の、金属板をプレスした打製のコインとは違い、全て鋳造貨幣であるようなのでその手作り感の暖かさを感じられ、一枚一枚同じデザインでも個性があり、絵銭マニアの心境が想像できる』。『十二支の一動物を対象にして作られた絵銭もあるようだが、その中でも日本人には馬(駒)や牛のデザインが好まれる。「駒引銭」や「善光寺銭」がその代表であろう』と述べておられる。
「駒引錢(こまひきせん)」人(或いは柳田曰く神)が口繩を持って馬を曳く画像を刻した絵銭。「こまひきぜに」とも読む。
「六條錢」【2019年3月2日改稿】当初、不詳としたが、いつも情報を戴くT氏より、大村成富著「珍銭奇品図録」(文化一四 (一八一七)年刊)のこちらに(リンクは国立国会図書館デジタルコレクションの画像。読みは私が推定で振った)、
續化蝶類苑(ぞくけてふるゐゑん)[やぶちゃん注:銭録。後掲する。]ニ文明[やぶちゃん注:一四六九年~一四八六年。室町後期。]ノ頃京都六條川原ニテ種々ノ錢ヲ鑄サセ小兒エ[やぶちゃん注:ママ。]下サルヽト云(いふ)ハ此類ナルベキヲコヽニ収ム此外(このほか)ニ面文(めんぶん)和同開珎背文(はいぶん)穿上山王穿下大師穿ノ左右ニ梵字アルモノヲ見ル位次(ゐじ)ハ奇品ニ準ズ
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「穿」は音「セン」で「穴を穿(うが)つ・通す」の意で、全体は何らかの呪文であろう。「位次」は席次・席順の意で、珍銭の中でも奇なる品に準ずる珍しいものであるの意。なた、そこに出た「続化蝶類苑」は寛政九
(一七九七)年刊の宇野宗明著古銭研究書で、これも国立国会図書館デジタルコレクションにあり、そのこちらに、「東山殿」と附録の「六條錢」の解説が載る(同前の仕儀で電子化したが、原典とは字の大きさや字配を一致させてはいない。約物は正字で示した)。
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東山殿
慈照院殿ノ記録ニ曰(いはく)前畧
六条川原ニテ種々ノ錢ヲ鑄サセ小児ヘ被下(くだされ)候鑄寫(ちうしや)ハ御禁制ニテ樣々ノ形ヲ人々之(の)好(このみ)ニ任セ鑄サセ候古錢ハ態(たい)ト字モ形モカヘテ鑄之(これをい)指往(さしわたし)五寸ノ錢ノ両面ニ古錢ヲ鑄付(いつく) 是ヨリ後(あと)本紙切(きれ)テ文字不續(つづかず)可惜をしむべし)〻〻
六條錢
先士ノ云傳(いひつたふる)六条ト称スル者右ノ記録ニテ分明ナリ然レドモ當時六条ト称(しようす)る者皆以テ古文錢漢駒ノ類(たぐひ)也。東山大樹御時代ノ物ナル故ニ銅質甚(はなはだ)古雅ニテ文字又賞スルニ絶タリ當■[やぶちゃん注:「日」+「之」のように見える。]元禄以後ノ贋泉(にせぜに[やぶちゃん注:「泉」には銭の意がある。])ト同日ノ論ニ非ス(あらず)本錢ナラス(ず)トイヘトモ真錢ノ亞ナル者ナリ
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とある。「東山殿」「東山大樹」は足利義政(永享八(一四三六)年~延徳二(一四九〇)年)のこと。T氏はまた、『大阪の古書古銭販売の「虎僊楼商店」のカタログ四十一から四十三コマ目に六条銭の色々が出ています』とお教え下さり、国立国会図書館デジタルコレクションで指示して戴いた。四十一コマはこちら。
「寬永通寶」寛永年間(一六二四年~一六四四年)から明治初年に至る長い期間に亙って鋳造された円形方孔の銭貨。銅一文銭・鉄一文銭・真鍮四文銭・鉄四文銭がある。銅一文銭は徳川氏が統一的銭貨として寛永一三(一六三六)年から公鋳したが、実際は、それより十年前の寛永三年に水戸で幕許を得て鋳造したのが最初であった。鉄一文銭は元文四(一七三九)年、真鍮四文銭は明和五(一七六八)年、鉄四文銭は万延元(一八六〇)年から鋳造され、四文銭は一文銭と区別するため、裏面に波紋が付けられた。鋳造地は全国各地に設けられたが、金銀貨の改鋳に伴い、しばしば量目や材質が変えられた。明治四(一八七一)年十二月以降、新貨幣の発行とともに、銅一文銭は一厘に、四文銭は二厘に、鉄一文銭は一六枚一厘に、四文銭は八枚一厘に通用が定められた(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「錢座(ぜにざ)」江戸時代、銭を鋳造・発行した役所。寛永一三(一六三六)年、江戸の芝と、近江国の坂本の両所に設けられたのが始まりで、後、銭の需要の増加や銭貨の高騰などによって全国各地に設けられたが、江戸後期になると、銭貨の下落などを理由に、銭座の廃止や制限が行なわれた(同前)。
「鑄物師(いもじの)輩(やから)」読みは私が勝手に振ったもの。
「繪錢譜」【2019年3月2日改稿】当初、不詳としたが、いつも情報を戴くT氏より、これは明三二(一八九九)年馬島杏雨 (瑞園) 編「画銭譜」(上・下)と思われると指摘戴いた。これは国立国会図書館デジタルコレクションにあり(上巻はこちら、下巻はこちら)その「例言」冒頭に(読みは推定で私が附した)、
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畫錢ハ通貨ニアラズ唯形體相似タルヲ以テ斯ク名ヅケラルヽモノニシテ舊ク足利義政公ノ時京都六條河原ニ於イテ鑄造セシト云フモノヲ始メトシ降(くだり)テ寬永錢ノ鑄造セラルヽニ方(あた)リ其錢座開設ノ當初ニ祝儀錢トシテ鑄ラレタル和同錢ノ外(ほか)錢座ニ祭ル所ノ宮錢(みやせん)公私(こうし)鑄(きた)エノ戲錢ニ係ル諸品及ビ民間ニテ小兒ノ玩具ニ供スルタメニ造リタル福一玉(ふくいちだま)乃(すなは)ち穴一玉(あないちだま)の類(たぐひ)并ニ神社佛閣落成ノ際特ニ製セラレタル棟上ゲ錢ノ類ヲ總稱ス
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とある。
「厭勝錢(えんしようせん)」銭の形を象った中国の護符の一種。正しくは「ようしょうせん」と読み、「厭勝」とは「呪(まじな)いをもって邪悪を払うこと」を意味する。銭の表(おもて)面に「千秋万歳」「天下太平」「去殃除凶(きょおうじょきょう)」などの吉祥の語を彫り入れ、背面に北斗・双魚・亀蛇(きだ)・龍鳳(りゅうほう)・新月などの図案を刻してある。讖緯(しんい)説(中国で前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。「讖」は「未来を占って予言した文」の、「緯」(歴史的仮名遣では「ゐ」)は「経書の神秘的解釈」の意で、自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政治社会の未来動向を呪術的に説いた。日本にも奈良時代に伝わり、後世まで大きな影響を与えた。ここは小学館「大辞泉」に拠る)が流行した王莽(おうもう)の新(紀元後九年~紀元後二三年)の時代に起源をもち、唐・宋以降に至っても、盛んに鋳造された。形状は長方形など多彩で、日本に伝来したものは、絵銭・画銭として珍重されている(以上の主文は小学館「日本大百科全書」を用いた)。
「橋辨慶」個人ブログ「絵銭っす(エッセンス)♪」の「絵銭 念佛銭背橋弁慶」に画像があるが、彫られた図柄はよく見えない。オークション・サイトで見ると、五条の橋の上の牛若丸と弁慶が彫られたものが見られる。グーグル画像検索で「橋弁慶 銭」で掛けられるのが手っ取り早い。
「紋盡(もんづく)し」オークション・サイトで見ると、孔の上下左右に家紋彫り込んだものであることが判った。
「錢十文に付き一枚づつの駒引錢を交へたりし故に百文を十疋(じつぴき)と云ふとの說」要するに「駒引錢」には馬が一疋(匹)が描かれているから、という駄洒落レベルの謂い。他にも、犬追物に使う犬一疋(匹)の値段が十銭(文)だったという説が、「奇異雑談集」や「貞丈雑記」などに載るらしい(最後の部分はウィキの「疋」に拠る。両書とも所持しているが、ちょっと調べる気にならない。悪しからず。取り敢えず、小学館「日本国語大辞典」を引くと、『諸国より献ずる馬の代として銀銭一〇文を一匹にあてたところから〔袂草〕。また、犬追物のために集めた犬の代償として支払われた代金から〔貞丈雑記〕』とあった)。
「唐將千里」「追風」「白驥」「逐日」「腰」「泉」「千里之能」「日行千里」「出入通泰」この部分の一部は「ちくま文庫」版全集では、『唐将、千里追風』『白驥(ビヤツキ)』『逐日腰泉』『千里之能日行、千里出入通泰』としてある。しかし、これ、どうも区切り方が何だか変な感じがした。されば、何とか調べる方法はないかと(生憎、「鹽尻」は所持しない)、中国の古銭や絵銭のサイトを探るうち、「国文学研究資料館」の公式サイト内の画像オープン・データの中に「和漢古今宝銭図鑑(わかんここんほうせんずかん)」(大坂上人町の雁金屋庄兵衛なる人物が元禄九(一六九六)年に出したものらしい)というのを発見(後に早稲田大学図書館古典総合データベース内にもあるのを発見した。前に添えた書誌はそれに拠った)、その画像を見ると、これらの絵銭の絵をいちいち見つけることが出来た。その結果、「ちくま文庫」版の編者は、ろくに絵銭を調べもせずに、かなり適当に区切ったものであることが判然としてきたのである! 以上の私の切り方は、その図像に従った正確なものである。早稲田の方が使い勝手がいいのだが、せっかくだから総てを現認した国文学研究資料館の画像で示すこととする(クリックで大きく拡大出来る)。まず、
「唐將千里」はこの中央にあるもの(三図あり、一図は背の紋で、しっかり馬が一匹、デン! と中央に描かれている。なお、文字列は「唐代の名将の持っていた千里を走る駿馬」の意であろう)
「追風」はこの中央にあるもの(これまた、前と同様に背に馬一匹が描かれてある。「追風」を受けたように、意味は「もの凄いスピードで走る駿馬」であろう)
「白驥」は「追風」と同じ頁で「追風」の次の次にあるもの(虫喰いで銭の中の「驥」が見えにくいが、下方のキャプションで確認出来る。これの下にある裏紋はまさに駒引きの図である! 「驥」一字が「一日に千里を走る駿馬」の意。)
「逐日」はこの下方の左から四つ目(これは文字が裏紋で、表(上にある)が馬の絵である。素人の私にはどうして裏表が判るのか不思議なんだが? 誰かお教え戴けると嬉しいです)
「腰」は「逐日」の右隣りに、何だかよく判らない字との「腰■」二字セットで、上に書かれてある(この漢字がどんな漢字で意味は何かお判りの方は御教授願いたい)
「泉」は今度は「逐日」の左隣りの上(表)にある(当初、私は前の「腰■」の「■」の字が「泉」の異体字なのではと思って調べて見たのだが、似たようなものは発見出来なかった。されば、私は図録に「泉」で単独で出るものを採用し、「腰泉」ではなく「腰・泉」としたのである。因みに、この「泉」の下にある別な絵銭は馬一匹の絵の(孔の)下に「水」とあるから、それこそ柳田國男が喜びそうな、「水」絡みの字が一部で彫られるのも中国絵銭の一つの特徴と私は見た)
「千里之能」この右上(下方の裏紋は、私には鎧と兜を付けた人が左手に何か武器のようなものを持って(孔で抜けていてよく判らない)馬に乗っている形が彫られてあるように見える。それとも農夫なのか? しかしその左手の図(次の「日行千里」の裏)では、私は騎乗者は帯剣しているように見える(剣の端が後部から突き出ているからである))
「日行千里」「千里之能」の左隣り(「千里之能」の私の注も参照のこと。だいたいからしてだ、一日千里を行く能力を持つ馬に乗っているのが農民じゃおかしいだろ! これは武将だよ!)
「出入通泰」これまたその左隣り
因みに私は最近、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」を電子化注した。未読の方はどうぞ。
「馬は、卽ち、通用の迅速なることを以つて、其の奔馳(ほんち)に譬へたるかとも考へらる」「奔馳」は「駆け走ること」であるが、何を言いたいのか、ちょっと判らぬ。「通用」は金銭のそれか? しかし、これは絵銭であって実際の通貨ではないぞ? 絵銭が金回りが良くなるためだけの呪符であったのなら、そういうことも言えようが、実際、そうだったのかどうかは私は確認していないので判らぬ(まあ、銭型にするってことはその可能性は大だ)。
『「猿曳駒」の繪錢』柳田はこれが日本固有のものであるかのような書き方をしているが、それは誤りである。猿曳駒の絵銭は海外のオークション・サイトで見られ、それには明製としてあった。台湾出品のものがあり、台湾は日本領であった時期があるが、しかし、前の明製のものとデザインが酷似するから、中国にも猿曳駒の絵銭はあったと考えるべきであると私は思う。あんまり言いたくないが、柳田國男の厭な一面が覗いていないか? 河童はどう見ても日本固有の妖怪である。それと「猿の駒引」を結びつけて考証するには、中国にも古くより「猿の駒引」があったというのでは、そちらの系統も徹底的に掘り下げねばならず、都合が悪い、というか、面倒なことになるからである。少なくとも私が柳田の立場なら『嫌だな。面倒臭せえな』と確かに思う。グーグル画像検索「猿曳駒 錢」をリンクさせておく。]
播磨生石子神社守札 山中翁神佛社守集卷十ヨリ
[やぶちゃん注:やはり「ちくま文庫」版全集の挿絵を用いた。底本ではキャプションは右から左へ書かれてある。守り札の中の文字は、馬の上に、
初申二異御祈禱厩繁昌
曳き綱の上の神鏡のようなものの中には、
生石子大 神
髙御位大 神
とある。「生石子大」「神」(おうしこのおおかみ)はよく判らぬが、石の神で女神らしい。「髙御位大」「神」(たかみくくらおほかみ)で、大己貴命と少彦名命(後に掲げる通り、本神社の主祭神)が天津神の命を受けて国造りのために降臨した高御位山(たかみくらやま:現在の兵庫県加古川市と高砂市の市境に位置する(リンクはグーグル・マップ・データ)。標高三百四・二メートル)を神としたもの。左下に、
石寳殿社印
印の中は私には判読出来ない。識者の御教授を乞うものである。]
《原文》
サテ右ノ如キ繪錢ハ果シテ如何ナル目的ノ爲ニ之ヲ使用セシカ。殘念ナガラ今尚之ヲ明白ニスルコト能ハズ。又我輩ノ强イテ想像セントスル如ク、猿曳駒ノ一種ガ他ノ多クノ駒引錢ノ根源ナリシト云フコトモ甚シク證據ニ乏シ。併シナガラ兎ニ角自分ガ蒐集セシ諸國ノ河童ノ話ノ、右ノ繪錢ト若干ノ關係ヲ有スルラシキコトハ、恐ラクハ何人ニモ承認シ得べキコトナラン。蓋シ猿ガ馬ヲ曳ク圖ハ獨リ繪錢ノ模樣タルノミニ止ラズ、今日ノ田舍ニテモ些シク注意スレバイクラモ他ノ例ヲ見出スコトヲ得べシ。神社ノ繪馬ニモ猿ガ之ヲ曳ク所ヲ描ケルモノアリ。自分ハ幼少ノ頃播磨ノ農家ニ於テ、厩ノ戶口ニ印刷シタル此繪ノ貼附ケラレタルヲ多ク見タリ。多分ハ同國印南郡ノ生石子(オフシコ)神社、俗ニ石ノ寶殿ト稱スル宮ヨリ出シタル牛馬ノ守護符ナリシカト思ヘド、其點マデハ記憶セズ。九州地方ニテハ又他ノ神社ヨリモ此繪札ヲ配リシモノアリシガ如シ。其神ノ名ハ聞洩ラシタレドモ、必ズシモ猿ヲ使令トスル山王ノ社ナドニ限リタルコトニ非ザリシカト思ハル。
《訓読》
さて、右のごとき繪錢は果して如何なる目的の爲に之れを使用せしか。殘念ながら、今、尚ほ、之これを明白にすること能はず。又、我輩の强いて想像せんとするごとく、「猿曳駒」の一種が、他の多くの駒引錢の根源なりし、と云ふことも、甚しく證據に乏し。併しながら、兎に角、自分が蒐集せし諸國の河童の話の、右の繪錢と、若干の關係を有するらしきことは、恐らくは、何人(なんぴと)にも承認し得べきことならん。蓋し、猿が馬を曳く圖は、獨り繪錢の模樣たるのみに止らず、今日の田舍にても些(すこ)しく注意すれば、いくらも他の例を見出すことを得べし。神社の繪馬にも猿が之れを曳く所を描けるものあり。自分は幼少の頃、播磨の農家に於いて、厩の戶口に印刷したる此の繪の貼り附けられたるを多く見たり。多分は同國印南郡の生石子(おふしこ)神社、俗に「石の寳殿」と稱する宮より出だしたる牛馬の守護符なりしかと思へど、其の點までは記憶せず。九州地方にては、又、他の神社よりも此の繪札を配りしものありしがごとし。其の神の名は聞き洩らしたれども、必ずしも猿を使令(しれい)とする[やぶちゃん注:御使い。]山王の社などに限りたることに非ざりしかと思はる。
[やぶちゃん注:「自分は幼少の頃、播磨の農家に於いて」ウィキの「柳田國男」によれば、彼は明治八(一八七五)年七月三十一日、飾磨(しかま)県(現在の兵庫県南西部にあった)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町(ふくさきちょう)辻川(グーグル・マップ・データ))で生まれた。『父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの』八『人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が』、『山間部から播州平野へ抜けて間もなく』、『因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていた。字』(あざ)『の辻川は京から鳥取に至る街道と』、『姫路から北上し』て『生野へ至る街道とが』、『十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えた』。『父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として』文久三(一八六三)年に『赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという』。國男は『幼少期より非凡な記憶力を持ち』、十一『歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し』、十二『歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ』、『茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に住んだ』とある。
『同國印南郡の生石子(おふしこ)神社、俗に「石の寳殿」と稱する宮』現在の兵庫県高砂市阿弥陀町生石にある、生石神社(おうしこじんじゃ)。祭神は大穴牟遅命・少毘古那命を主祭神として、大国主大神・生石子大神・粟嶋大神・高御位大神を配祀する。「石の宝殿」と呼ばれる、水面から有意に浮いたかように見える(実際には下部中央で屹立している)巨大な人口石造物を神体としていることで有名である。これは既に「諸國里人談卷之二 石宝殿」で詳注しているので、是非、そちらの私の注を見られたい。私が唯一、行ってみたいと思っている神社である。]