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2019/02/28

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(26) 「駒引錢」(全)

 

[やぶちゃん注:今回は一章分(全三段落)を示す。但し、注の見易さを考えて段落ごととはした。]

《原文》

駒引錢  【カハコマ】秋田ノ人ノ話ニ、今日彼地方ニ於テ「カハコマ」ト稱スルハ、水ノ神ノ別名ナリ〔山方石之助氏談〕。「カハコマ」ハ或ハ川駒ニハ非ザルカ。果シテ然リトスレバ川牛ト相對立シテ、話ニ幾分カ筋道ガ立ツカト思ハル。但シ斯ク言ヘバトテ、勿論右ノ黑キ毛ノ手ヲ以テ直チニ馬ノ脚ナリト主張スルニハ非ズ。松前地方ニ於テ河童ヲ「コマヒキ」ト云フコトハ前ニ之ヲ述べタリ。河童ニシテ深キ毛皮ヲ被リタル川獺ノ類ニ非ザル限、北海道ノ雪氷ノ下ニ冬ヲ送リ、三尺ノ童形ヲ以テ牛馬ニ對シテ熊以上ノ暴威ヲ振フト云フコトハ、靈物ニ非ザレバ到底企テ能ハザル藝ナリ。之ニ就キテ案出シタルガ予ガ一アリ。乞フラクハ之ヲ演ベシメヨ。【駒引澤】東京ノ附近ニハ駒引澤又ハ馬引澤ト云フ地名多シ。思フニ昔關東ノ平原ニ盛ナリシ馬ノ牧ト關聯シテ、何カ然ルべキ由緖アル土地ナルべク、屢馬ニ就キテノ信仰ヲ存ス。【馬塚】例ヘバ玉川電車ニ接近セル駒澤村ノ馬引澤ニハ賴朝ノ愛馬ノ塚アリ。府中ノ對岸關村ノ駒引澤ニハタシカ古キ藥師堂アリテ、堂ノ前ナル路ハ馬ニ乘リテ行クコト能ハズ、乘打ヲスレバ必ズ怪異アリシ故ニ駒ヲ曳キテ通行セリ。藥師堂ノ西ト東ニ各「ゴクラク」ト云フ地名ノ存スルハ、此處マデ來レバ最早馬ニ乘リテモ差支無カリシ爲ナリト云フ〔林義直氏談〕。【馬上咎メ】馬上咎メヲスル神ハ、蟻通(アリドホシ)明神以來甚ダ多カリシナリ。ソレヲ駒引ト名ヅケタル例ハ外ニモアリ。羽後平鹿郡植田村大字越前駒引ハ、館村ノ八幡ノ鳥居ノ正面ニシテ、乘打ヲスル人ハ誰ト無ク落馬セシガ故ニ、何レモ畏レテ馬ヲ曳キテ通リシヨリノ地名ナリ〔雪乃出羽路九〕。駒ヲ曳クトハ乘ラズシテ口綱ヲ取ルコトナリ。後世馬追ヲ業トスル田舍者ナドハ、曳クト云フ古語ヲ誤解シテ、鼠ガ鏡餅ヲ引クナドノ引クカト思ヒ、從ツテ終ニ牛馬ヲ水底ニ誘ヒ殺スト云フガ如キ迷信ノ發生ヲ促シタルヤモ圖リ難ケレド、其昔ノ意味ハ必ズ別ニ存シ、河童ノ人格ハ或ハ今日ノ如ク賤劣ナルモノニハ非ザリシカト思ハル。

 

《訓読》

駒引錢(こまびきせん)  【カハコマ】秋田の人の話に、今日、彼(か)の地方に於いて「カハコマ」と稱するは、水の神の別名なり〔山方石之助氏談〕。「カハコマ」は或いは「川駒」には非ざるか。果して、然りとすれば、「川牛」と相ひ對立して、話に幾分か筋道が立つかと思はる。但し。斯(か)く言へばとて、勿論、右の黑き毛の手を以つて、直ちに馬の脚なりと主張するには非ず。松前地方に於いて、河童を「コマヒキ」と云ふことは前に之れを述べたり。河童にして、深き毛皮を被りたる川獺(かはをそ)の類ひに非ざる限り、北海道の雪氷の下に冬を送り、三尺の童形を以つて、牛馬に對して熊以上の暴威を振ふと云ふことは、靈物に非ざれば、到底、企て能はざる藝なり。之れに就きて、案出したるが予が一あり。乞ふらくは、之れを演(の)べしめよ。【駒引澤】東京の附近には、駒引澤又は馬引澤と云ふ地名、多し。思ふに、昔、關東の平原に盛んなりし馬の牧(まき)と關聯して、何か然るべき由緖ある土地なるべく、屢々(しばしば)馬に就きての信仰を存す。【馬塚】例へば玉川電車に接近せる駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり。府中の對岸、關村の駒引澤には、たしか古き藥師堂ありて、堂の前なる路は、馬に乘りて行くこと能はず、乘り打ちをすれば、必ず、怪異ありし故に駒を曳きて通行せり。藥師堂の西と東に各々、「ごくらく」と云ふ地名の存するは、此處(ここ)まで來れば、最早、馬に乘りても差支へ無かりし爲なりと云ふ〔林義直氏談〕。【馬上咎(ばじやうとが)め】馬上咎めをする神は、蟻通(ありどほし)明神以來、甚だ多かりしなり。それを駒引と名づけたる例は外にも、あり。羽後平鹿郡植田村大字越前駒引は、館村の八幡の鳥居の正面にして、乘り打ちをする人は、誰(たれ)と無く、落馬せしが故に、何れも、畏れて馬を曳きて通りしよりの地名なり〔「雪乃出羽路」九〕。駒を曳くとは、乘らずして口綱を取ることなり。後世、馬追ひを業(なりはひ)とする田舍者などは、「曳く」と云ふ古語を誤解して、鼠が鏡餅を引くなどの「引く」かと思ひ、從つて終(つひ)に牛馬を水底に誘ひ殺すと云ふがごとき迷信の發生を促したるやも圖り難けれど、其の昔の意味は、必ず、別に存し、河童の人格は、或いは、今日のごとく賤劣なるものには非ざりしかと思はる。

[やぶちゃん注:「駒引錢(こまびきせん)」は次の段落以降で登場し、説明され、図も出るので、そちらに譲る。

「馬の牧(まき)」「馬牧(うままき)」は、古くは「大宝律令」(大宝元(七〇一)年)にで出された「厩牧令」により、全国に作られた国営牧場(御牧)のうち、馬を育てるもののことを指した。平安期の朝廷直轄の勅旨牧(御牧)は信濃・上野・甲斐・武蔵の四ヶ国に設置され、天皇へ馬を毎年貢進した(例えば、武蔵国には六ヶ所の勅旨牧が置かれ、そのうち二箇所は鶴見川流域にあったとする説が有力)。平安末期から武士の台頭し、鎌倉幕府が誕生するに至って、中世以降こうした馬の牧が発展を遂げ、飼育・調教の専門職も生まれた。

「駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり」祐天寺駅の西北に当たる、東京都世田谷区下馬と東京都目黒区五本木の境に「葦毛塚」として残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。世田谷区公式サイト内の「上馬・下馬・野沢」によれば、『上馬引沢地区』『は、旧駒沢村大字上馬引沢の地でした。かつて、馬引沢村(上郷・中郷・下郷)として存立していた頃の上郷と中郷とがそれに該当し』、『大字名となった「馬引沢」伝説』があるとし、文治五(一一八九)年に』『源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州平泉へ向かってこの土地を通った時のことです。ここ、蛇崩』(じゃくずれ:この附近の旧地名。東京都世田谷区及び目黒区を流れる川の名として残る。目黒区公式サイト内のこちらに詳しい)『の激しい沢筋にさしかかったところ、突然頼朝の乗った馬が暴れだして沢の深みに落ちてしまいました。急いで馬を助けようとしましたが、まもなく馬は死んでしまい、そこで頼朝は馬を沢沿いの地に葬り、その馬が芦毛だったことから芦毛塚と名づけました。頼朝はこの事故を戒めとして、「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡したので、以後馬引沢の名がつけられたということです。 この芦毛塚は、今の下馬の地に残されています』とあり、さらに、この事件は『頼朝としては幸先の悪い出来事でした。その時』、一『人の老婆が現れて、馬の死という不吉をはらって戦勝を祈るために、近くの』子(ね)の神(現在は目黒区南にある高木神社と思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))。目黒区公式サイト内のこちらによれば、元は『現在の社地の隣にあった屋敷神で、それがいつのころか現在の場所に移されて、子ノ神を祭る地域の氏神になり、それが地名となったと言い伝えられている』とある。葦毛塚からは南に二・四キロメートルほど)『詣でることをすすめたのでした。頼朝はこれに従って祈願した後、奥州に兵を進めたところ、幸い戦に勝つことができたので、帰りに再び』、『子の神にお礼参りに立ち寄りました。そのとき』、『頼朝が馬を繋いだ松は、駒繋松(今の松は』三『代目という)と名づけられ、子の神は駒繋神社と改められたということです』。『また』、『死んだ頼朝の馬を葬った芦毛塚は、目黒区との境』『に立派な碑が建てられ、蛇崩川には足毛橋と名づけられた橋も残されています』とある。なお、さらにその近くの『野沢村は、昔』、は「タッタ原」とも『呼ばれて、馬引沢村のまぐさ場(馬・牛などの飼料・肥料にする草の採集地のこと)でした。正保期』(一六四四~一六四七年)『に荏原郡六郷領沢田(大田区)の百姓田中七右衛門と、葛飾郡葛西領(江戸川区)の百姓野村次郎右衛門が、この地に入植して開発し、万治年間』(一六五八年~一六六〇年)『に馬引沢村から独立して野沢村となったとされています』とあるから、この周辺は実に馬には大いに因縁のある場所だったことが判るのである。

「府中の對岸、關村の駒引澤には、たしか古き藥師堂ありて、堂の前なる路は、馬に乘りて行くこと能はず、乘り打ちをすれば、必ず、怪異ありし故に駒を曳きて通行せり」東京都多摩市関戸にある真言宗慈眼山(じげんさん)唐仏院(とうぶついん)関戸観音寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。創建は建久三(一一九二)年。但し、馬に関わる伝承は失われているようである。しかし、ウィキの「沓切坂」によれば(この坂の由来は主に二つあり、一つは新田義貞が元弘三(一三三三)年の「分倍河原の戦」いの際、ここの急坂を登るところで馬の沓が切れたことに由来するというもの、今一つは、新田義興が正平七/観応三(一三五二)年に鎌倉から足利尊氏を追った折り、この坂にさし掛かったところで馬の沓を取り、裸馬を飛ばしたことに由来するというもの)、この坂の近くに「極楽の坂」と呼ばれた坂があり、それは現在の聖ヶ丘三・四丁目と諏訪四丁目の間で、『この近辺はかつて極楽と呼ばれていたという』とあるのが、その一方だと思われる。この附近である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。地図の北西を見よ! 東京都多摩市馬引沢という地名が現存するのを確認出来る! 関戸観音寺も北直近!!

「蟻通(ありどほし)明神」大阪府泉佐野市長滝にある蟻通神社(ありとおしじんじゃ:原典の濁音はママ)。現在でも「蟻通明神」とも呼ばれる。ここ。大国主命を祀る。ウィキの「蟻通神社(泉佐野市)」によれば、もとは現在地より約一キロ北方に鎮座し、『熊野街道』『に沿って広大な神域を有していたが、佐野陸軍飛行場(明野陸軍飛行学校佐野分教所)建設のため』、昭和一九(一九四四)年、『現在地へ遷座。規模も縮小された』。『紀貫之ゆかりの神社で、神社の中には紀貫之の像(現在は壊されてしまって設置跡しかない)と石碑が建つ』とある『蟻通の名の初出は』「紀貫之集」の「第十 雑部」に『紀貫之が馬の急病に際して「これは、ここにいましつる神のし給ふならん、祈り申し給へよと。」と考えて神の名を問うと』、『恐らく地元の住人が「ありどほうし神」と答えている』ことによるらしい。但し、『中世以前の資料の表記は「有通神」が主であり、「蟻通」の字は後の時代に一般的になった』ものとする。『「蟻」と「ありどほうし神」に縁が生まれるのは、時代がやや下り』、『清少納言が枕草子の中で孝子説話として、唐土より「七曲りの玉に糸を通す手段」の難題を吹きかけられた帝に、老父の知恵を借りた中将が「蟻に糸を結び玉の中を通らせる」方法を奏上した物語を紹介しており、これが「ありどほうしの神」の由来としている』。『また、平安末には「蟻の熊野詣」と揶揄されるほど』、『熊野詣が盛んとなり、道中で九十九王子参拝の為必ず蟻通神社の門前を通ることから「蟻」の字の印象が強くなったという説もある』とある。また、「蟻通神社公式サイトのこちらに古代からの詳しい記載があり、そこに伝承では第九代開化天皇の御宇(機械換算で紀元前一五八年~紀元前九八年。弥生中期相当)の勧請とする。同じ公式サイトのページの「蟻通神社にゆかりの話」に以下がある。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部の画像部分を活字に起こした。行空けは詰めた。歴史的仮名遣の一部の誤りと、意味が取りにくくなっている一部を読点を添えて勝手に訂した。]

1.紀貫之の故事伝承

「貫之集」新潮日本古典集成より

紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふところに、道行く人々立ちどまりていふ、「これはここにいますがる神のしたまふならん。年ごろ社もなくしるしも見えねど、うたてある神なり。さきざきかかるには祈りをなん申す」といふに、御幣もなければ、なにわざもせで、手洗ひて、「神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん」ととへば、「蟻通しの神」といふを聞きて、よみて奉りける、馬のここちやみにけり

[やぶちゃん注:中略。]

概略

平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。このお話は、枕草子「社は」の段に記載されています。

貫之が奉能した和歌。「貫之集」より

「かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしをば 思ふべしやは」

意味:かきくもり闇の様な大空に 星があるなどと思うはずがあろうか。

「ありとほしをば」には、「有と星」と「蟻(有)通」を掛けています。一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない、の意を表します。 神仏を感応させて効験のあった歌として『袋草子』等にも記載されています。

――――――――――――――――――――――

その2.清少納言『枕草子』記載の社名伝説

枕草子 225段 「社は」 角川書店枕冊子全注釈より

社は、布留の社。龍田の社。はなふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらむとをかし。ことのよしの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」ともいはれたまへと思ふぞ、いとをかしき。

蟻通の明神、やませたまへとて歌詠みて奉りけむに、やめたまひけむ、いとをかし。この「蟻通」と名づけたる心は、まことにやあらむ、むかしおはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして[やぶちゃん注:寵愛なされて。]、四十になりぬるをば、うしなはせたまひければ[やぶちゃん注:殺してしまわれたので。]、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者なかりけるに、中将なりける人の、いみじき時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近き親二人を持ちたりけるが、四十をだに制あるに、ましていとおそろしと怖ぢさはぐを、いみじう孝ある人にて、「遠きところにはさらに住ませじ、一日に一度見ではえあるまじ」とて、みそかに夜夜地を掘りて屋をつくりて、それに籠め据ゑて、行きつつ見る。おほやけにも人にも、失せ隠れたるよしを知らせて。などてか家に入りゐたらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。親は上達部などにやありけむ、中将など子にて持たりけむは。いと心かしこく、よろづのこと知りたりければ、この中将若けれど、才あり、いたりかしこくて、時の人におぼすなりけり。

唐土(もろこし)の帝、この国の帝をいかではかりてこの国打ち取らむとて、つねにこころみ、あらがひをして送りたまひけるに、つやつやとまろにうつくしく削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひたてまつりたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうのことなむある」といへば、「ただ早からむ川に立ちながら投げ入れて見むに、かへりて流れむかたを末としるしてつかはせ」と教ふ。まゐりて、わが知り顔にして、「こころみはべらむ」とて、人人具して投げ入れたるに、先にして行くにしるしをつけてつかはしたれば、まことにさなりけり。

五尺ばかりなる蛇の、ただおなじやうなるを、「いづれか男女」とてたてまつりたり。また、さらにえ知らず。例の、中将行きて問へば、「二つ並べて、尾のかたに細きすばえをさし寄せむに、尾はたらかさむを女と知れ」といひければ、やがて、それは、内裏のうちにてさしければ、まことに一つは動かず、一つは動かしけるに、またしるしつけてつかはしけり。

ほどひさしうて、七曲にたたなはりたる、中はとほりて左右に口あきたるがちひさきをたてまつりて、「これに綱とほしてたまはらむ。この国にみなしはべることなり」とてたてまつりたるに、いみじからむものの上手不用ならむ。そこらの上達部よりはじめて、ありとある人いふに、また行きて「かくなむ」といへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰にほそき糸をつけて、またそれがいますこし太きをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいととく、穴のあなたの口に出でにけり。さて、その糸のつらぬかれたるをつかはしける後になむ、「日本はかしこかりけり」とて、後後さることもせざりけり。

この中将をいみじき人におぼしめして、「なにごとをして、いかなる位をかたまはるべき」と仰せられければ、「さらに官・位もたまはらじ。ただ老いたる父母のかく失せてはべるをたづねて、都に住ますることをゆるさせたまへ」と申しければ、「いみじうやすきこと」とてゆるされにければ、よろづの親、生きてよろこぶこといみじかりけり。中将は、大臣になさせたまひてなむありける。

さて、その人の神になりたるにやあらむ、この明神のもとへ詣でたりける人に、夜あらはれてのたまひける。

とのたまひけると、人の語りし。

紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。

歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」

○日本に出された三つの難題と答

一、削った木の元(根)と末(先端)の見分け方?

答・・・川に投げ、方向変えて先に流れる方が木の末(先端)である。

二、蛇の雌雄の見分け方?

答・・・尾の方に細い棒を指し寄せ、しっぽを動かす方が雌である。

三、うねうねと中が折曲がっている玉に糸を通す方法

答・・・蟻の腰に細い糸を結んで、玉の出口になる方に蜜を塗ると蟻は、蜜の香を嗅ぎつけて、出口に出てくる。

   《引用終了》

「羽後平鹿郡植田村大字越前駒引は、館村の八幡の鳥居の正面」現在の秋田県横手市十文字町周辺にはグーグル・マップ・データで視認する限りでも、五つもある。この字「駒引」Yahoo地図)に最も近い場所にあるのは、十文字町佐賀会字新関の八幡神社(グーグル・マップ・データ)であるが、その東北直近の秋田県横手市十文字町佐賀会下沖田にも八幡神社(グーグル・マップ・データ)があるので、よく判らぬ。ただ、館前」Yahoo地図)が駒引の東にあるから、現在の地図上から考えると、前者ととるのが自然ではある。

『後世、馬追ひを業(なりはひ)とする田舍者などは、「曳く」と云ふ古語を誤解して、鼠が鏡餅を引くなどの「引く」かと思ひ、從つて終(つひ)に牛馬を水底に誘ひ殺すと云ふがごとき迷信の發生を促したるや』この柳田の謂い方は不快で、しかも不審である。馬追を生業とする者が、「馬をひく」の「ひく」をこのように誤認することは私は、いっかな無知な「田舍者」であっても、あり得ないと思うからである。大方の御叱正を俟つ。

 

 

[やぶちゃん注:以下に、底本では二箇所に分けて配されてある駒引銭の図を、「ちくま文庫」版全集から読み込んだものを掲げる。底本は明度を上げても、彫られたそれが殆んど全く現認出来ないからである。なお、ちくま文庫版では二枚の図が何故かそれぞれ上下に分離した形で、一纏めにして掲載されている。しかし、少なくとも左の上下二枚は底本のそれではない。何故なら、錢の外周に落款があるからである(底本のそれは錢だけの画像でこんなものはない)。思うにこれは、本書の再刊本(柳田國男喜寿記念として昭和二六(一九五一)年に実業之日本社から刊行された版)刊行の際に差し替えられた画像なのかも知れない。孰れにせよ、親本「定本柳田國男集」の編者が全くの別撮りをしたものでないとなれば、画像使用は著作権上、問題ない。万一、問題ありとして、その根拠を示して警告を受けた場合には画像は撤去する。しかしそれはすこぶる智の共有を妨げるものではある。]

 

Komahikisen

 

《原文》

 【繪錢】前代ノ穴錢ノ中ニ駒引錢ト稱スル一種ノ繪錢(ヱセン)アルコトモ、亦何等カノ因緣無シトハ言フべカラズ。今日ノ通ニ依レバ、日本ノ繪錢ノ始ハ足利時代ノ末所謂六條錢ノ頃ニ在リテ、元和以後殊ニ寬永通寶ノ鑄造ニ伴ヒテ一層盛ニナリタリト云ヘリ。又取留メテ此ト云フ目的ハ無ク、錢座ノ開業祝ニ職人等ガ慰ミ半分ニ作リシモノカ、又ハ物好キナル鑄物師輩ガ最初ヨリ樂錢卽チ玩弄品トシテ鑄タルモノニテ、別ニ信仰上ノ意味ナドハ無カリシガ如ク認メラル〔繪錢譜序〕。併シ此ニ對シテハ疑ヲ插ムべキ餘地全ク無キニ非ズ。支那朝鮮ノ銅ノ豐富ナラザリシ地方ニテモ、竝ノ錢ヨリハ大キク且ツ手丈夫ニ、複雜ナル意匠ヲ以テ念入ニ澤山ノ繪錢ヲ鑄造セリ。是レ卽チ所謂厭勝錢ニシテ、社會生活上通用錢ヨリハ一層大ナル意義ヲ有セシガ故ニ此ノ如キ也。【錢神】錢ヲ神ト祀リ又ハ祈躊ト占ノ用ニ供セシ例ハ我ガ邦ニモ乏シカラズ。日本ノ繪錢ノ中ニモ橋辨慶トカ紋盡シトカノ類ハ或ハ只ノ玩具ナリシナランモ、繪錢譜ノ大部分ヲ占ムル駒錢ニ至リテハ、單ニ道樂半分ノ所業トシテハ餘リニ數多ク且ツ系統アリ。【錢何疋】或ハ又錢十文ニ付キ一枚ヅツノ駒引錢ヲ交ヘタリシ故ニ百文ヲ十疋ト云フトノアレド、更ニ根據無キ想像ナルノミナラズ、少ナクモ駒ノ繪錢ヲ鑄造セシ起原ヲ明スル能ハズ。【支那繪錢】疋ヲ以テ錢ヲ數フルノ風習ナキ支那ニ於テモ馬ノ錢ハ甚ダ多シ。例ヘバ唐將千里追風又ハ白驥ナドノ錢文アルモノハ裏面ニ駒ノ畫ヲ鑄出シ、逐日腰泉ノ如キハ表面ニ之ヲ鑄出シ、更ニ又千里之能日行千里出入通泰等ノ錢ハ人ノ馬ニ騎リタル畫樣ナリ〔鹽尻六十四〕。此等ノ錢文ヨリ想像スレバ、馬ハ卽チ通用ノ迅速ナルコトヲ以テ其奔馳ニ譬ヘタルカトモ考ヘラル。此等ノ繪錢ハ多クハ錢背一杯ニ大キク馬ヲ描キ、恰モ射藝ノ草鹿ナドノ如ク馬ノ腹ノ部分ガ錢ノ孔ナリ。之ニ反シテ日本ノ繪錢ハ方孔ノ周圍ニ馬ヲ描キ、且ツ十中八九マデハ口繩ヲ附ケテ之ヲ曳ク形ナリ。【出駒入駒】馬ノ首ノ右ニ向ヘルヲ入駒ト云ヒ、左ニ向ヘルヲ出駒ト云フ。馬ノ背ニハ或ハ俵トカ珠トカノ目出タキ荷物ヲ積ミ、神人又ハ農夫ノ之ヲ曳ケルモアレド、分ケテモ注意セラルルハ裸馬ヲ猿ノ曳キ行ク圖ナリ。假ニ年代ノ前後ヲ忘却スレバ殆ド、河子「カシャンポ」[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]ノ歷史ヲ畫ケルカトモ思ハルヽ所謂猿曳駒ノ繪錢ナリ。

 

《訓読》

 【繪錢(ゑせん)】前代の穴錢の中に駒引錢(こまひきせん)と稱する一種の繪錢(ゑせん)あることも、亦、何等かの因緣無しとは言ふべからず。今日の通に依れば、日本の繪錢の始めは足利時代の末、所謂、六條錢の頃に在りて、元和(げんな)[やぶちゃん注:、一六一五年から一六二四年まで。寛永の前。]以後、殊に寬永通寶の鑄造に伴ひて、一層盛んになりたりと云へり。又、取り留めて此と云ふ目的は無く、錢座(ぜにざ)の開業祝ひに職人等が慰み半分に作りしものか、又は、物好きなる鑄物師(いもじの)輩(やから)が最初より樂錢(らくせん)、卽ち、玩弄品として鑄たるものにて、別に信仰上の意味などは無かりしがごとく認めらる〔「繪錢譜」序〕。併し、此のに對しては疑ひを插むべき餘地全く無きに非ず。支那・朝鮮の銅の豐富ならざりし地方にても、竝(なみ)の錢よりは大きく、且つ、手丈夫に、複雜なる意匠を以つて念入りに澤山の繪錢を鑄造せり。是れ、卽ち、所謂、厭勝錢(えんしようせん)にして、社會生活上、通用錢よりは、一層大なる意義を有せしが故に此くのごときなり。【錢神】錢を神と祀り、又は、祈躊と占ひの用に供せし例は、我が邦にも乏しからず。日本の繪錢の中にも、橋辨慶とか、紋盡(もんづく)しとかの類ひは、或いは只(ただ)の玩具なりしならんも、「繪錢譜」の大部分を占むる駒錢に至りては、單に道樂半分の所業としては餘りに數多く、且つ、系統あり。【錢何疋(ぜになんびき)】或いは又、錢十文に付き一枚づつの駒引錢を交へたりし故に百文を十疋(じつぴき)と云ふとのあれど、更に根據無き想像なるのみならず、少なくも、駒の繪錢を鑄造せし起原を明する能はず。【支那繪錢】疋を以つて錢を數ふるの風習なき支那に於いても馬の錢は甚だ多し。例へば、唐將千里・追風、又は、白驥(びやくき)などの錢文あるものは、裏面に駒の畫を鑄出し、逐日・腰・泉のごときは表面に之れを鑄出し、更に又、千里之能・日行千里・出入通泰等の錢は人の馬に騎(の)りたる畫樣(ぐわやう)なり〔「鹽尻」六十四〕。此等の錢文より想像すれば、馬は、卽ち、通用の迅速なることを以つて、其の奔馳(ほんち)に譬へたるかとも考へらる。此等の繪錢は、多くは、錢背一杯に大きく馬を描き、恰も射藝の草鹿(くさじし)[やぶちゃん注:鹿を象った弓の的の呼称。板で形を作り、牛の革を張って中に綿を詰め、横木に吊るしたもの。鎌倉時代より歩射(ぶしゃ)の練習に用いられた。グーグル画像検索「草鹿」をリンクさせておく。ありゃ? 可愛いで!]などのごとく、馬の腹の部分が錢の孔(あな)なり。之れに反して、日本の繪錢は方孔(はうこう)の周圍に馬を描き、且つ、十中、八、九までは口繩(くちなは)を附けて、之れを曳く形なり。【出駒・入駒】馬の首の右に向へるを「入駒」と云ひ、左に向へるを「出駒」と云ふ。【猿曳駒】馬の背には、或いは俵とか珠とかの目出たき荷物を積み、神人又は農夫の之れを曳けるもあれど、分けても注意せらるるは、裸馬を猿の曳き行く圖なり。假りに、年代の前後を忘却すれば、殆ど、「河子(かはこ)」・「カシャンポ」[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]の歷史を畫(ゑが)けるかとも思はるゝ、所謂、「猿曳駒」の繪錢なり。

[やぶちゃん注:「繪錢(ゑせん)」「えぜに」とも読む。後に出る「樂錢」も同じ。江戸初期より、民間で作った円形方孔の銭貨型をした玩具(おもちゃ)の金。主として恵比寿・大黒・七福神・駒曳きなどの絵画像を描いているのでこの名があるが、念仏や題目などの文字だけのものもある。素材は銅又は鉄で、得財招福の信仰対象として発生したものであるが、江戸後期には、これらの外に、子供の面子(めんこ)や石蹴り遊びの用具として、厚手又は大形のものも作られるに至った(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。画像と解説が豊富な個人ブログ「雅庵日記」の「『絵銭・馬』中国絵銭・駒引銭等」がよい。しかもそれは『馬に関係しているだろうものを』選んでおられるのである。その解説によれば、『絵銭とはそもそも「通貨」ではなく、その目的により呪い[やぶちゃん注:まじない。]に使われるもの、お守り代わりのもの、上棟式等に集まった人々に撒き福を分け与えるもの、そして、巾着や根付のように実用に使われるもの等いろいろあり、最近ではこの時代を風刺したパロディーチックなものも見かける。冶金が施された物は許せるとしても』、『樹脂やプラスチック製の物をその範疇に入れるかどうかの議論は別にして、古今東西かなりの目的や用途で膨大な種類の絵銭が作られてきた筈である。台湾などの古刹においては』、『お守りとして大きな物も作られ』、今も『販売されている。これは日常の中で身近な道具や守護符として、東洋に大きく特筆される文化であろう。そしてその大抵は「円形方孔銭」の形態、若しくはそれに近い形態を成している』。『中世以来、旅や移動は現在のように自動車等がなかったので、基本的に徒歩での行脚である。その道中の安全と安寧を祈る絵柄のものや、米の豊作を祈願した絵柄のものが江戸時代以降の日本絵銭には多いが、明らかに中国絵銭は雰囲気が違う。戦いの勝利や競馬のように速さを競うもの、そして故事にちなんだ呪文銭が多いと気がつく。お国柄の違いか』。『現在の、金属板をプレスした打製のコインとは違い、全て鋳造貨幣であるようなのでその手作り感の暖かさを感じられ、一枚一枚同じデザインでも個性があり、絵銭マニアの心境が想像できる』。『十二支の一動物を対象にして作られた絵銭もあるようだが、その中でも日本人には馬(駒)や牛のデザインが好まれる。「駒引銭」や「善光寺銭」がその代表であろう』と述べておられる。

「駒引錢(こまひきせん)」人(或いは柳田曰く神)が口繩を持って馬を曳く画像を刻した絵銭。「こまひきぜに」とも読む。

六條錢」【2019年3月2日改稿】当初、不詳としたが、いつも情報を戴くT氏より、大村成富珍銭奇品図録」(文化一四 一八一七)刊)に(リンクは国立国会図書館デジタルコレクションの画像。読みは私が推定で振った)、

續化蝶類苑(ぞくけてふるゐゑん)[やぶちゃん注:銭録。後掲する。]ニ文明[やぶちゃん注:一四六九年~一四八六年。室町後期。]ノ頃京都六條川原ニテ種々ノ錢ヲ鑄サセ小兒エ[やぶちゃん注:ママ。]下サルヽト云(いふ)ハ此類ナルベキヲコヽニ収ム此外(このほか)ニ面文(めんぶん)和同開珎背文(はいぶん)穿上山王穿下大師穿ノ左右ニ梵字アルモノヲ見ル位次(ゐじ)ハ奇品ニ準ズ

   *

「穿」は音「セン」で「穴を穿(うが)つ・通す」の意で、全体は何らかの呪文であろう。「位次」は席次・席順の意で、珍銭の中でも奇なる品に準ずる珍しいものであるの意。なた、そこに出た「続化蝶類苑」は寛政九 (一七九七)年刊の宇野宗明著古銭研究書で、これも国立国会図書館デジタルコレクションにあり、そのに、「東山殿」と附録の「六條錢」の解説が載る(同前の仕儀で電子化したが、原典とは字の大きさや字配を一致させてはいない。約物は正字で示した)。

   *

東山殿

慈照院殿ノ記録ニ曰(いはく)前畧

六条川原ニテ種々ノ錢ヲ鑄サセ小児ヘ被下(くだされ)候鑄寫(ちうしや)ハ御禁制ニテ樣々ノ形ヲ人々之(の)好(このみ)ニ任セ鑄サセ候古錢ハ態(たい)ト字モ形モカヘテ鑄之(これをい)指往(さしわたし)寸ノ錢ノ両面ニ古錢ヲ鑄付(いつく) 是ヨリ後(あと)本紙切(きれ)テ文字不續(つづかず)可惜をしむべし)〻〻

六條錢

先士ノ云傳(いひつたふる)六条ト称スル者右ノ記録ニテ分明ナリ然レドモ當時六条ト称(しようす)る者皆以テ古文錢漢駒ノ類(たぐひ)也。東山大樹御時代ノ物ナル故ニ銅質甚(はなはだ)古雅ニテ文字又賞スルニ絶タリ當■[やぶちゃん注:「日」+「之」のように見える。]元禄以後ノ贋泉(にせぜに[やぶちゃん注:「泉」には銭の意がある。])ト同日ノ論ニ非ス(あらず)本錢ナラス(ず)トイヘトモ真錢ノ亞ナル者ナリ

   *

とある。「東山殿」「東山大樹」は足利義政(永享八(一四三六)年~延徳二(一四九〇)年)のこと。T氏はまた、『大阪の古書古銭販売の「虎僊楼商店」のカタログ四十一から四十三コマ目に六条銭の色々が出ています』とお教え下さり、国立国会図書館デジタルコレクションで指示して戴いた。四十一コマ

「寬永通寶」寛永年間(一六二四年~一六四四年)から明治初年に至る長い期間に亙って鋳造された円形方孔の銭貨。銅一文銭・鉄一文銭・真鍮四文銭・鉄四文銭がある。銅一文銭は徳川氏が統一的銭貨として寛永一三(一六三六)年から公鋳したが、実際は、それより十年前の寛永三年に水戸で幕許を得て鋳造したのが最初であった。鉄一文銭は元文四(一七三九)年、真鍮四文銭は明和五(一七六八)年、鉄四文銭は万延元(一八六〇)年から鋳造され、四文銭は一文銭と区別するため、裏面に波紋が付けられた。鋳造地は全国各地に設けられたが、金銀貨の改鋳に伴い、しばしば量目や材質が変えられた。明治四(一八七一)年十二月以降、新貨幣の発行とともに、銅一文銭は一厘に、四文銭は二厘に、鉄一文銭は一六枚一厘に、四文銭は八枚一厘に通用が定められた(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「錢座(ぜにざ)」江戸時代、銭を鋳造・発行した役所。寛永一三(一六三六)年、江戸の芝と、近江国の坂本の両所に設けられたのが始まりで、後、銭の需要の増加や銭貨の高騰などによって全国各地に設けられたが、江戸後期になると、銭貨の下落などを理由に、銭座の廃止や制限が行なわれた(同前)。

「鑄物師(いもじの)輩(やから)」読みは私が勝手に振ったもの。

「繪錢譜」【2019年3月2日改稿】当初、不詳としたが、いつも情報を戴くT氏より、これは明三二(一八九九)年馬島杏雨 (瑞園) 編「画銭譜」(上・下)と思われると指摘戴いた。これは国立国会図書館デジタルコレクションにあり(上巻はこちら、下巻はこちら)その「例言」冒頭に(読みは推定で私が附した)、

   *

畫錢ハ通貨ニアラズ唯形體相似タルヲ以テ斯ク名ヅケラルヽモノニシテ舊ク足利義政公ノ時京都六條河原ニ於イテ鑄造セシト云フモノヲ始メトシ降(くだり)テ寬永錢ノ鑄造セラルヽニ方(あた)リ其錢座開設ノ當初ニ祝儀錢トシテ鑄ラレタル和同錢ノ外(ほか)錢座ニ祭ル所ノ宮錢(みやせん)公私(こうし)鑄(きた)エノ戲錢ニ係ル諸品及ビ民間ニテ小兒ノ玩具ニ供スルタメニ造リタル福一玉(ふくいちだま)乃(すなは)ち穴一玉(あないちだま)の類(たぐひ)ニ神社佛閣落成ノ際特ニ製セラレタル棟上ゲ錢ノ類ヲ總稱ス

   *

 

とある。

「厭勝錢(えんしようせん)」銭の形を象った中国の護符の一種。正しくは「ようしょうせん」と読み、「厭勝」とは「呪(まじな)いをもって邪悪を払うこと」を意味する。銭の表(おもて)面に「千秋万歳」「天下太平」「去殃除凶(きょおうじょきょう)」などの吉祥の語を彫り入れ、背面に北斗・双魚・亀蛇(きだ)・龍鳳(りゅうほう)・新月などの図案を刻してある。讖緯(しんい)説(中国で前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。「讖」は「未来を占って予言した文」の、「緯」(歴史的仮名遣では「ゐ」)は「経書の神秘的解釈」の意で、自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政治社会の未来動向を呪術的に説いた。日本にも奈良時代に伝わり、後世まで大きな影響を与えた。ここは小学館「大辞泉」に拠る)が流行した王莽(おうもう)の新(紀元後九年~紀元後二三年)の時代に起源をもち、唐・宋以降に至っても、盛んに鋳造された。形状は長方形など多彩で、日本に伝来したものは、絵銭・画銭として珍重されている(以上の主文は小学館「日本大百科全書」を用いた)。

「橋辨慶」個人ブログ「絵銭っす(エッセンス)」の「絵銭 念佛銭背橋弁慶」に画像があるが、彫られた図柄はよく見えない。オークション・サイトで見ると、五条の橋の上の牛若丸と弁慶が彫られたものが見られる。グーグル画像検索で「橋弁慶 銭」で掛けられるのが手っ取り早い。

「紋盡(もんづく)し」オークション・サイトで見ると、孔の上下左右に家紋彫り込んだものであることが判った。

「錢十文に付き一枚づつの駒引錢を交へたりし故に百文を十疋(じつぴき)と云ふとの」要するに「駒引錢」には馬が一疋(匹)が描かれているから、という駄洒落レベルの謂い。他にも、犬追物に使う犬一疋(匹)の値段が十銭(文)だったという説が、「奇異雑談集」や「貞丈雑記」などに載るらしい(最後の部分はウィキの「に拠る。両書とも所持しているが、ちょっと調べる気にならない。悪しからず。取り敢えず、小学館「日本国語大辞典」を引くと、『諸国より献ずる馬の代として銀銭一〇文を一匹にあてたところから〔袂草〕。また、犬追物のために集めた犬の代償として支払われた代金から〔貞丈雑記〕』とあった)。

「唐將千里」「追風」「白驥」「逐日」「腰」「泉」「千里之能」「日行千里」「出入通泰」この部分の一部は「ちくま文庫」版全集では、『唐将、千里追風』『白驥(ビヤツキ)』『逐日腰泉』『千里之能日行、千里出入通泰』としてある。しかし、これ、どうも区切り方が何だか変な感じがした。されば、何とか調べる方法はないかと(生憎、「鹽尻」は所持しない)、中国の古銭や絵銭のサイトを探るうち、「国文学研究資料館」の公式サイト内の画像オープン・データの中に「和漢古今宝銭図鑑(わかんここんほうせんずかん)」(大坂上人町の雁金屋庄兵衛なる人物が元禄九(一六九六)年に出したものらしい)というのを発見(後に早稲田大学図書館古典総合データベース内にもあるのを発見した。前に添えた書誌はそれに拠った)、その画像を見ると、これらの絵銭の絵をいちいち見つけることが出来た。その結果、「ちくま文庫」版の編者は、ろくに絵銭を調べもせずに、かなり適当に区切ったものであることが判然としてきたのである! 以上の私の切り方は、その図像に従った正確なものである。早稲田の方が使い勝手がいいのだが、せっかくだから総てを現認した国文学研究資料館の画像で示すこととする(クリックで大きく拡大出来る)。まず、

「唐將千里」はこの中央にあるもの(三図あり、一図は背の紋で、しっかり馬が一匹、デン! と中央に描かれている。なお、文字列は「唐代の名将の持っていた千里を走る駿馬」の意であろう)

「追風」はこの中央にあるもの(これまた、前と同様に背に馬一匹が描かれてある。「追風」を受けたように、意味は「もの凄いスピードで走る駿馬」であろう)

「白驥」は「追風」と同じ頁で「追風」の次の次にあるもの(虫喰いで銭の中の「驥」が見えにくいが、下方のキャプションで確認出来る。これの下にある裏紋はまさに駒引きの図である! 「驥」一字が「一日に千里を走る駿馬」の意。)

「逐日」はこの下方の左から四つ目(これは文字が裏紋で、表(上にある)が馬の絵である。素人の私にはどうして裏表が判るのか不思議なんだが? 誰かお教え戴けると嬉しいです

「腰」は日」の右隣りに、何だかよく判らない字との「腰■二字セットで、上に書かれてある(この漢字がどんな漢字で意味は何かお判りの方は御教授願いたい)

「泉」は今度は「逐日」の左隣りの上(表)にある(当初、私は前の「腰■」の「■」の字が「泉」の異体字なのではと思って調べて見たのだが、似たようなものは発見出来なかった。されば、私は図録に「泉」で単独で出るものを採用し、「腰泉」ではなく「腰・泉」としたのである。因みに、この「泉」の下にある別な絵銭は馬一匹の絵の(孔の)下に「水」とあるから、それこそ柳田國男が喜びそうな、「水」絡みの字が一部で彫られるのも中国絵銭の一つの特徴と私は見た)

「千里之能」この右上下方の裏紋は、私には鎧と兜を付けた人が左手に何か武器のようなものを持って(孔で抜けていてよく判らない)馬に乗っている形が彫られてあるように見える。それとも農夫なのか? しかしその左手の図(次の「日行千里」の裏)では、私は騎乗者は帯剣しているように見える(剣の端が後部から突き出ているからである)

「日行千里」「千里之能」の左隣り(「千里之能」の私の注も参照のこと。だいたいからしてだ、一日千里を行く能力を持つ馬に乗っているのが農民じゃおかしいだろ! これは武将だよ!

「出入通泰」これまたその左隣り

因みに私は最近、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」を電子化注した。未読の方はどうぞ。

「馬は、卽ち、通用の迅速なることを以つて、其の奔馳(ほんち)に譬へたるかとも考へらる」「奔馳」は「駆け走ること」であるが、何を言いたいのか、ちょっと判らぬ。「通用」は金銭のそれか? しかし、これは絵銭であって実際の通貨ではないぞ? 絵銭が金回りが良くなるためだけの呪符であったのなら、そういうことも言えようが、実際、そうだったのかどうかは私は確認していないので判らぬ(まあ、銭型にするってことはその可能性は大だ)。

『「猿曳駒」の繪錢』柳田はこれが日本固有のものであるかのような書き方をしているが、それは誤りである。猿曳駒の絵銭は海外のオークション・サイトで見られ、それには明製としてあった。台湾出品のものがあり、台湾は日本領であった時期があるが、しかし、前の明製のものとデザインが酷似するから、中国にも猿曳駒の絵銭はあったと考えるべきであると私は思う。あんまり言いたくないが、柳田國男の厭な一面が覗いていないか? 河童はどう見ても日本固有の妖怪である。それと「猿の駒引」を結びつけて考証するには、中国にも古くより「猿の駒引」があったというのでは、そちらの系統も徹底的に掘り下げねばならず、都合が悪い、というか、面倒なことになるからである。少なくとも私が柳田の立場なら『嫌だな。面倒臭せえな』と確かに思う。グーグル画像検索「猿曳駒 錢」をリンクさせておく。]

 

 Ousikojinjyammamorihuda  

播磨生石子神社守札  山中翁神佛社守集卷十ヨリ

[やぶちゃん注:やはり「ちくま文庫」版全集の挿絵を用いた。底本ではキャプションは右から左へ書かれてある。守り札の中の文字は、馬の上に、

 初申二異御祈禱厩繁昌

曳き綱の上の神鏡のようなものの中には、

 生石子大 神

 髙御位大 神

とある。「生石子大」「神」(おうしこのおおかみ)はよく判らぬが、石の神で女神らしい。「髙御位大」「神」(たかみくくらおほかみ)で、大己貴命と少彦名命(後に掲げる通り、本神社の主祭神)が天津神の命を受けて国造りのために降臨した高御位山(たかみくらやま:現在の兵庫県加古川市と高砂市の市境に位置する(リンクはグーグル・マップ・データ)。標高三百四・二メートル)を神としたもの。左下に、

  石寳殿社

印の中は私には判読出来ない。識者の御教授を乞うものである。]

 

《原文》

 サテ右ノ如キ繪錢ハ果シテ如何ナル目的ノ爲ニ之ヲ使用セシカ。殘念ナガラ今尚之ヲ明白ニスルコト能ハズ。又我輩ノイテ想像セントスル如ク、猿曳駒ノ一種ガ他ノ多クノ駒引錢ノ根源ナリシト云フコトモ甚シク證據ニ乏シ。併シナガラ兎ニ角自分ガ蒐集セシ諸國ノ河童ノ話ノ、右ノ繪錢ト若干ノ關係ヲ有スルラシキコトハ、恐ラクハ何人ニモ承認シ得べキコトナラン。蓋シ猿ガ馬ヲ曳ク圖ハ獨リ繪錢ノ模樣タルノミニ止ラズ、今日ノ田舍ニテモ些シク注意スレバイクラモ他ノ例ヲ見出スコトヲ得べシ。神社ノ繪馬ニモ猿ガ之ヲ曳ク所ヲ描ケルモノアリ。自分ハ幼少ノ頃播磨ノ農家ニ於テ、厩ノ口ニ印刷シタル此繪ノ貼附ケラレタルヲ多ク見タリ。多分ハ同國印南郡ノ生石子(オフシコ)神社、俗ニ石ノ寶殿ト稱スル宮ヨリ出シタル牛馬ノ守護符ナリシカト思ヘド、其點マデハ記憶セズ。九州地方ニテハ又他ノ神社ヨリモ此繪札ヲ配リシモノアリシガ如シ。其神ノ名ハ聞洩ラシタレドモ、必ズシモ猿ヲ使令トスル山王ノ社ナドニ限リタルコトニ非ザリシカト思ハル。

 

《訓読》

 さて、右のごとき繪錢は果して如何なる目的の爲に之れを使用せしか。殘念ながら、今、尚ほ、之これを明白にすること能はず。又、我輩のいて想像せんとするごとく、「猿曳駒」の一種が、他の多くの駒引錢の根源なりし、と云ふことも、甚しく證據に乏し。併しながら、兎に角、自分が蒐集せし諸國の河童の話の、右の繪錢と、若干の關係を有するらしきことは、恐らくは、何人(なんぴと)にも承認し得べきことならん。蓋し、猿が馬を曳く圖は、獨り繪錢の模樣たるのみに止らず、今日の田舍にても些(すこ)しく注意すれば、いくらも他の例を見出すことを得べし。神社の繪馬にも猿が之れを曳く所を描けるものあり。自分は幼少の頃、播磨の農家に於いて、厩の口に印刷したる此の繪の貼り附けられたるを多く見たり。多分は同國印南郡の生石子(おふしこ)神社、俗に「石の寳殿」と稱する宮より出だしたる牛馬の守護符なりしかと思へど、其の點までは記憶せず。九州地方にては、又、他の神社よりも此の繪札を配りしものありしがごとし。其の神の名は聞き洩らしたれども、必ずしも猿を使令(しれい)とする[やぶちゃん注:御使い。]山王の社などに限りたることに非ざりしかと思はる。

[やぶちゃん注:「自分は幼少の頃、播磨の農家に於いて」ウィキの「柳田國男」によれば、彼は明治八(一八七五)年七月三十一日、飾磨(しかま)県(現在の兵庫県南西部にあった)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在兵庫県神崎き)郡福崎町ちょう辻川(グーグル・マップ・データ))で生まれた。『父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの』八『人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が』、『山間部から播州平野へ抜けて間もなく』、『因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていた。字』(あざ)『の辻川は京から鳥取に至る街道と』、『姫路から北上し』て『生野へ至る街道とが』、『十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えた』。『父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として』文久三(一八六三)年に『赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという』。國男は『幼少期より非凡な記憶力を持ち』、十一『歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し』、十二『歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ』、『茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に住んだ』とある。

『同國印南郡の生石子(おふしこ)神社、俗に「石の寳殿」と稱する宮』現在の兵庫県高砂市阿弥陀町生石にある、生石神社(おうしこじんじゃ)。祭神は大穴牟遅命・少毘古那命を主祭神として、大国主大神・生石子大神・粟嶋大神・高御位大神を配祀する。「石の宝殿」と呼ばれる、水面から有意に浮いたかように見える(実際には下部中央で屹立している)巨大な人口石造物を神体としていることで有名である。これは既に諸國里人談卷之二 石宝殿で詳注しているので、是非、そちらの私の注を見られたい。私が唯一、行ってみたいと思っている神社である。]

沖繩のこと

 沖縄本島に米軍が上陸した(四月一日朝本島中西部)直後の昭和二〇(一九四五)年四月二日附『朝日新聞』に、かの高村光太郎は「琉球決戰」という題名の詩篇一篇を掲載している。
 
   *
 
     琉 球 決 戰   高村光太郞
 
神聖オモロ草子の國琉球、
つひに大東亞最大の決戰場となる。
敵は獅子の一擊を期して總力を集め、
この珠玉の島うるはしの山原谷茶(やんばるたんちや)、
万座毛(まんざまう)の綠野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
あらゆる暴力を傾け注がんとす。
琉球やまことに日本の頸動脈、
万事ここにかかり万端ここに經絡す。
琉球を守れ、琉球に於て勝て。
全日本の全日本人よ、
琉球のために全力をあげよ。
敵すでに犧牲を惜しまず、
これ吾が神機の到來なり。
全日本の全日本人よ、
起つて琉球に血液を送れ。
ああ恩納(おんな)ナビの末裔熱血の同胞等よ、
蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
彈雨を凌ぎ兵火を抑へ、
猛然出でて賊敵を誅戮し盡せよ。
 
   *
 当時、彼は「文學報國會」の詩部会長であった(因みに、幹事長は西條八十、理事は佐藤春夫)し、真珠湾攻撃を賞賛し、自ら積極的に戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。しかし、彼はまた、敗戦後、最も真剣に自らの戦争責任を真摯に問うた、数少ない芸術家の一人でもあった。昭和二〇(一九四五)年十月、疎開していた宮澤清六(宮澤賢治の弟でそこは賢治の実家でもあった)方を出て、花巻郊外に鉱山小屋を移築して独居を始めている。これは自身の戦争責任に対する一つの自己幽閉という処罰でもあり、この農耕自炊の独居生活は昭和二七(一九五二)年十月まで続いた。この間、肺結核の症状が進行している(昭和一三(一九三八)年十月五日に亡くなった妻千恵子もその死因は肺結核である)。昭和三一(一九五六)年三月二日、中野の自宅アトリエで肺結核のため、没した。
 
 かの詩人の上の詩篇と自身に課した落とし前を考えるとき、私は、今の本土の国民と日本政府の沖縄に対する姿勢は、戦時中の国民と軍事政府よりも、遙かに、救いようがなく、劣悪だ、と強く感じている。
 
 なんとも言えず、謂いたい気持ちにかられた。
 
 附録
 
 参考までに「文學報國會」の他の部会の一部を掲げておく。
  小説部会長・徳田秋声 幹事長・白井喬二 理事・菊池寛
  劇文学部会長・武者小路実篤 幹事長・久保田万太郎 理事・山本有三
  短歌部会長・佐佐木信綱 幹事長・土屋文明 理事・水原秋桜子
  俳句部会長・高浜虚子

2019/02/27

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 惡の秘所

 

 惡の秘所

 

汗(あせ)あゆる日(ひ)も夕(ゆふべ)なり、

空(そら)には深(ふか)き榮映(さかばえ)の

褪(あ)せゆくさまのはかなさは

沙(すな)に塗(まみ)るる彩(あや)の波(なみ)、――

色(いろ)うち沈(しづ)む「西(にし)」の湫(くて)や、

黃(あめ)なる牛か、雲(くも)群(む)れぬ、

角(つの)にかけたる金環(きんくわん)

倦(うん)じくづるる音(ね)のたゆげ。

 

ここには森(もり)の木(き)の樹立(こだち)、

暗(くら)き綠(みどり)に紫(むらさき)の

たそがれの塵(ちり)降(ふ)りかかり、

塵(ちり)は遽(には)かに生(しやう)を得(え)て、

こは九萬疋(くまびき)の闇(やみ)の羽(はね)、

微(かす)かにふめき、蔭(かげ)に蒸(む)し、

葉うらを繞(めぐ)り、枝々(えだえだ)を

流(なが)れてぞゆく「夜(よる)」の巢(す)に。

 

夏(なつ)の夕暮(ゆふぐれ)、いぶせさや、

不淨(ふじやう)のほめき、濕熱(しつねつ)に

釀(かも)す瘟疫(うんえき)、瘧病(ぎやくへい)の、

噫(ああ)、こは森(もり)か、こぶかげに

將(は)た音(おと)もなきさまながら、

闇(やみ)にこもれる幹(みき)と枝(えだ)、

尖葉(とがりは)、廣葉(ひろは)、しほたれ葉(ば)、

噫(あゝ)、こは森(もり)か、「惡(あく)」の秘所(ひそ)。

 

火照(ほでり)の天(あめ)の最後(いやはて)の

光(ひかり)咀(のろ)ひて、斑猫(はんめう)は

世(よ)をば惑(まど)はす妖法(えうほふ)の

尼(あま)にたぐへるそのけはひ、

靜(しづ)かに浮(うか)び消(き)え去(さ)りぬ、

彼方(かなた)、道なき通(みち)の奧(おく)、

生(しやう)あるものの胤(たね)を食(は)む

蛇(くちなは)纒(まと)ふ「肉(にく)」の廳(ちやう)。

 

黃泉路(よみぢ)とばかり、「惡(あく)」の祕所(ひそ)、

蔓草(つるくさ)絡(から)むただなかに、

なべては腐(あざ)れ朽(く)ちゆけど、

樹(き)の幹(みき)を沸(わ)く脂(やに)の膸(ずゐ)

薰陸(くんろく)とこそ、この時(とき)よ、

滴り凝(こ)りて、穢(けが)れたる

身(み)よりさながら淨念(じやうねん)の

泌(し)み出(い)づるごと薰(かを)るなれ。

 

物皆(ものみ)さあれ文(あや)もなく

暮(く)れなむとする夜(よる)の門(かど)、

黑白(こくびやく)の斑(ふ)の翅(つばさ)うち

はためきめぐる蛾(ひとりむし)、

見(み)る眼(め)も迫(せ)かれ、安(やす)からぬ

思(おも)ひもともにはためきぬ、

かくて不定(ふぢやう)の世もここに

闇(やみ)の境(さかひ)にはためきぬ。

 

[やぶちゃん注:「汗あゆる」「汗あゆ」は「汗がにじみ出る・滴り落ちる」の意のヤ行下二段活用の動詞。

「湫(くて)」後代は「くで」。水草などの生えている低湿地を指す語。

「ふめき」「ふめく」は虻や蚊などがぶんぶんと羽音を立てることを指す動詞。

「瘟疫(うんえき)」高熱を発する流行性疾患。

「瘧病(ぎやくへい)」和訓「わらはやみ」。光源氏が「若紫」で懸り、平清盛が命を落としたあれ。発熱・悪寒が間歇的に繰り返し起こるもので、概ね、現在のマラリアに比定されている。「瘧」の別訓は「おこり」。

「斑猫(はんめう)」は、実際に本邦で見られる、美しい鞘翅目食肉(オサムシ)亜目オサムシ科ハンミョウ亜科Cicindelini Cicindelina 亜族ハンミョウ属ハンミョウ Cicindela japonica別名を如何にも風雅な「みちおしへ」と称する彼らを――指してはいない――と思われる。所謂、媚薬や劇薬毒物として知られるカンタリジンcantharidinを体内に持つ、蠱毒系のそれを有明はイメージしていると考える。詳しく知りたい方は、私の和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫の私の注、及び和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 芫青蟲葛上亭地膽などを参照されたい。

『「蛇(くちなは)纒(まと)ふ「肉(にく)」の廳(ちやう)』「廰」はその妖しい森の奥にあるまがまがしい魔宮を閻魔「庁」のように言ったものであろう。

「脂(やに)の膸(ずゐ)」湧き出した半透明の脂を古木の肉骨の「膸」「髓」に譬えた。

「薰陸(くんろく)」(「ろく」は呉音)インド・イランなどに産する樹の脂(やに)の一種で、盛夏に、砂上に流れ出でて固まって石のようになったものを指す。香料や薬用とし、「薫陸香」と呼ぶ。乳頭状のものは特に「乳香」と言う。なお、本邦で松・杉の樹脂が地中に埋もれて固まって生じた化石をも、かく呼ぶ。これは外見が琥珀に似、粉末にしてやはり薫香とする。岩手県久慈市産が知られる。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 信樂

 

   信 樂

 

靜かに眠(ねぶ)りて、寢(ねる)魂(たま)の夜(よる)の宮(みや)にも事(こと)あらで、

いと爽(さは)らかに靑(あを)みたる晨(あした)に寤(めざ)め、見(み)かへれば、

傴僂(くゞせ)に似たる「昨(きそ)」の日(ひ)は過(す)ぎゆく「時(とき)」の杖(るゑ)に縋(すが)り、

何方(いづち)去(い)にけむ、思(おも)ひ屈(く)して惱(なや)みし我(われ)も心(うら)解(と)けぬ。

 

零(こぼ)れし種子(たね)の奇(く)しきかな、我生(わがよ)荒(すさ)める确(そね)にだに

惠(めぐ)み齎(もた)らす「信樂(しんげう)」の朝(あさ)の一(ひと)つや、何物(なにもの)も

これには代(か)へじ、「慈悲(じひ)」の御手(みて)は秘(ひ)むれど、銀(ぎん)の衡(はかりざを)、

金(きん)の秤目(はかりめ)、その極(はて)の星(ほし)にかかれる身(み)の錘(おもり)。

 

實(げ)に靜(しづ)まれる日(ひ)の朝(あさ)け、曾(かつ)て覺(おぼ)えぬ悅(よろこび)に

瘦屈(やさか)み冷(ひ)えしわが胸(むね)は、雪消(ゆきげ)に濕(しめ)り、冬(ふゆ)過(す)ぎて、

地(つち)の照斑(てりふ)と蒲公英(たな)の花(はな)、芽(め)ぐむ外(と)の面(も)のつつましき

春(はる)さながらの若萌(わかもえ)にきざす祈誓(きせい)ぞほのかなる。

 

何(なに)とはなしに自(おのづか)ら耳(みゝ)を澄(す)せば遠方(をちかた)に

浪(なみ)どよみ風(かぜ)の戰(そよ)めける音(おと)をし尋(と)むる心地(こゝち)して、

憧(あく)がれわたる窓(まど)近(ちか)く小鳥(ことり)轉(てん)じてまぎれむと

惧(おそ)るる隙(ひま)に聞(き)きわきぬ、過去(くわこ)遠々(をんをん)の代(よ)をここに。

 

かくて浮(うか)ぶるわが「宿世(すぐせ)」、瞳(ひとみ)徹(とほ)れる手弱女(たをやめ)の

頸(うなじ)をめぐる珠飾(たまかざり)、譬(たと)へばそれか、鳴響(なりひゞ)き、

瑠璃(るり)はささやく紅玉(こうぎよく)に、(さあれ苦(く)の緖(を)の一聯(ひとつらね))、

綠(みどり)に將(はた)や紫(むrさき)に、愛(あい)の、欣求(ごんぐ)の、信(しん)の顆(つぶ)。

 

げにこの朝(あさ)の不思議(ふしぎ)さを翌(あす)の夕(ゆふべ)にうち惑(まど)ひ、

わが身(み)をさへに疑(うたが)はば、惡風(あくふう)さらに劫(ごふ)の火(ひ)を

誘(さそ)ひて行手(ゆくて)塞(ふさ)ぎなば、如何(いかが)はすべき、弛(たゆ)まるる

腕(かひな)は渴(かは)く唇(くちびる)に淨水(じやうすゐ)掬(むす)ぶ力(ちから)なくば。

 

あるは曲(まが)れる「癡(ち)」の角(つの)にいと鈍(おぞ)ましき「慾(よく)」の牛(うし)、

牧場(まきば)に足(た)らふ安穩(あんのん)の命(いのち)に倦(う)みて、すずろかに

埓(らち)のくづれを踰(こ)えゆかば、星(ほし)も照(て)らさぬ夜(よる)の道(みち)、

後世(ごせ)の善所(ぜんしよ)を誰(たれ)かまた鞭(むち)うち揮(ふる)ひ指(さ)ししめす。

 

あるは木(きすぐ)の本性(ほんじやう)に潛(ひそ)む蠻夷(えみし)の幾群(いくむ)の

集(つど)ふやとばかり、われとわが拓(ひら)かぬ森(もり)の下蔭(したかげ)に

思(おも)ひ惑(まど)ふや、襲(おそ)ひ來(く)る彼(か)の殘逆(ざんげき)の矛槍(ほこやり)を

血(ち)ぬらぬ前(まへ)に淨(きよ)めなむ心(こゝろ)しらへのありや、否(いな)。

 

悲願(ひぐわん)の尊者(そんじや)、諸菩薩(しよぼさつ)よ、ただ三界(さんがい)に流浪(るらう)する

魂(たま)を憐(あはれ)み御心(みこゝろ)にかけさせたまへ、ゆくりなく

煩惱(ぼんなう)盡(つ)きし朝(あさ)に遇(あ)ひて、今日(けふ)を捨身(しやしん)の首途(かどいで)や、

遍路(へんろ)の旅(たび)に覺王(かくわう)の利生(りしやう)をわれに垂(た)れたまへ。

 

[やぶちゃん注:第五連二行目の中の「譬(たと)へばそれか、」は底本では「譬(たと)へばそれが、」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「信樂」「しんげう」(現代仮名遣「しんぎょう」)は仏教用語で、教えを信じ喜ぶこと、阿彌陀如来の本願(菩薩時代にそれらを成就出来なければ如来にならぬと阿彌陀は請願した故にその本願は時空を越えて既に成就されているのである)を信じて疑わないことを指す。

「傴僂(くゞせ)」「屈背」に同じ。脊椎が曲がって、伸びなくなる病気。また、その患者。

「确(そね)」上代語。石が多く地味の瘦せた土地。「磽」とも書く。

「蒲公英(たな)」「たな」は「蒲公英」三字へのルビ。タンポポ(キク目キク科タンポポ属 Taraxacum)は古くは「田菜(たな)」、「藤菜(ふぢな)」「布知菜(ふちな)」などと称していた。

「木(きすぐ)」形容動詞「氣直(きす)ぐなり」の語幹の用法。「きすぐ」(或いは「きすく」)は、「素朴で飾りけのないさま・生真面目なさま」を言う。

「心(こゝろ)しらへ」既出既注であるが、再掲しておくと、自動詞ハ行四段活用の「心知らふ」の名詞化したもの。意味は「よく知っている」或いは「心遣いをする・気を配る」の意であるが、前後の放浪する隠遁や捨身のそれを考えるなら、無垢としての無知としての前者である。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 淨妙華

 

   

 

夜(よ)も日(ひ)もわかず一室(いつしつ)は、げに畏(おそろ)しき電働機(モオトル)の

聲(こゑ)の唸(うな)りの噴泉(ふんせん)よ、越歷幾(エレキ)の森(もり)の木深(こぶ)けさや、

うちに靈獸(れいじゆう)潛(ひそ)みゐて靑(あを)き炎(ほのほ)を牙(き)に齒(か)めば、

ここに「不思議(ふしぎ)」の色身(しきしん)は夢幻(むげん)の衣(きぬ)を擲(なげう)ちぬ。

 

かの底知(そこし)れぬ海淵(かいえん)も、この現實(げんじつ)の秘密(ひみつ)には

深(ふか)きを比(くら)べ難(がた)からむ、彼は眠(ねぶ)りて寢(ね)おびれて、

唯(ただ)惡相(あくさう)の魚(うを)にのみ暗(くら)き心(こゝろ)を悸(おのゝ)かし、

これは調和(てうわ)の核心(かくしん)に萬法(ばんはふ)の根(ね)を誘(さそ)ふなる。

 

舊(ふる)きは廢(すた)れ街衢(まちちまた)、また新(あたら)しく榮(さか)ゆべき

花(はな)の都(みやこ)の片成(かたな)りに成(な)りも果(は)てざる土(つち)の塊(くれ)、

塵(ちり)に塗(まみ)るる草原(くさはら)の、その眞中(たゞなか)に畏(おそろ)しき

大電働機(だいモオトル)の響(ひゞき)こそ日(ひ)も夜(よ)もわかね、間(たえ)なく。

 

船(ふえん)より揚(あ)げし花崗石(くわかうせき)河岸(かし)の沙(いさご)に堆(うづたか)し、

いづれ大厦(たいか)の礎(いしずゑ)や、彼方(かなた)を見(み)れば斷(た)え續(つゞ)く

煉瓦(れんぐわ)の穹窿(アアチ)。人はこの紛雜(ふんざつ)の裡(うち)に埋(うづもれて

(願(ねがひ)はあれど名(な)はあらず)、力(ちから)と技(わざ)に勵(はげ)みたり。

 

嗚呼(あゝ)、想界(さうかい)に新(あらた)なる生(いのち)を享(う)くる人(ひと)もまた

胸(むね)に轟(とどろ)く心王(しんわう)の烈(はげ)しき聲(こゑ)にむちうたれ、

築(きづ)き上(あ)ぐべき柱(はしら)には奇(く)しき望(のぞみ)の實相(じつさう)を

深(ふか)く刻(きざ)みて、譽(ほまれ)なき汗(あせ)に額(ひたひ)をうるほさむ。

 

さあれ車(くるま)の鐵(てつ)の輪(りん)、軸(ぢく)に黃金(こがね)のさし油(あぶら)

注(そそ)げば空(そら)を疾(と)く截(き)りて大音(だいおん)震(ふる)ふ電働機(モオトル)や、

その勢(いきほひ)の渦卷(うづまき)の奧所(おくが)に聽(き)けよ靜寂(せいじやく)を、――

活(い)ける響(ひゞき)の瑠璃(るり)の石(いし)、これや「眞(まこと)」の金剛座(こんがうざ)。

 

奇(く)しくもあるかな、蝋石(らふせき)の壁(かべ)に這(は)ひゆく導線(だうせん)は

越歷幾(エレキ)の脈(みやく)の幾螺旋(いくらせん)、新(あらた)なる代(よ)に新(あらた)なる

生命(いのち)傳(つた)ふる原動(げんどう)の、その力(ちから)こそ淨妙華(じやうめうげ)、

法音(ほふおん)開(ひら)く光明(くわうみやう)の香(にほひ)ぞ人(ひと)に逼(せま)り來(く)る。

 

[やぶちゃん注:第三連の一行目の「街衢(まちちまた)」のルビは底本では「まちさまた」となっている。しかし、「衢」に「さまた」という読みはなく、当て読みとしても「さまた」に「ちまた」と同義となる意味はない。「さ」は「ち」の反転した字体であり、植字工が誤り易い活字であったし、ここはさらに細かなルビ作業であるから、植字ミスと採るのが穏当と思われ、採録する昭和五一(一九七六)年中央公論社刊「日本の詩歌」第二巻でも『ちまた』、パラルビの「青空文庫」版(底本は昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」)でも『ちまた』と振っている。「さまた」のままにしておいたのでは、違和感強烈にして、鑑賞・朗読に堪えぬので、特異的に誤植と断じて訂した。因みに、第二連の「悸(おのゝ)かし」のルビはママである。

「電働機(モオトル)」motor

「越歷幾(エレキ)の」electric。「電働機(モオトル)」もこれも近代的都市風景の持つ、非情の、冷血にして、偏奇なるが故に異常の擬似的肉感をも臭わせる、機械文明の詩的イマージュであろう。

「色身(しきしん)」仏教用語であるが、二種の意味がある。原義は三十二相などを具えた生身(しょうしん)の仏をいう。法身(ほうしん)に対して、仏の肉身(にくしん:具体的に我々の目の前に仮に現わした具現身。応身(おうじん))を指したが、報身(ほうじん:菩薩であった時に願を立てて修行を積んだその正しい報いとして得た仏身)をも合わせても言う。二つ目ののそれは、そこから転じた広義の「物質的な形を持った(持っているように見えるに過ぎない仮の儚い)身。ここでは純粋な正法(しょうぼう)の上でのそれではありえず、妖艶にして異様な最後のそれである。

「片成(かたな)りに成(な)りも果(は)てざる土(つち)の塊(くれ)」未完成ながらも形を成す、という状態にさえもなることの出来ない、儚く慘めなちっぽけな土くれ。

「大厦(たいか)」有明にしてみれば、音数律に合わせぬならば、「building」をカタカナ音写したいところだろう

「穹窿(アアチ)」arch

「心王(しんわう)」仏教用語。心の作用の主体となるところの識(しき:認識の主体。「眼(げん)」・「耳(に)」・「鼻」・「舌」・「身」・「意」の六識を以って、それぞれの「色(しき)」・「声(しょう)」・「香」・「味」・「所触(しょそく)」・「法」の六境(客体)を、「見」・「聞」・「嗅」・「味」・「触」・「知」として認識するシステムを全般を指す。初めの五識は外界の事物に対し、第六識の「意」は内面的認識となる。大乗仏教ではこれらに自我を意識する「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)を加える)のこと。

 この詩篇、抹香臭さの背後に――無論、詠んでいる有明にはそんな芸術的背景はないのだが――後のダダイスム(フランス語:Dadaïsme)やフュテュリスモ(イタリア語:Futurismo)のゴッタ煮にロシア・アヴァンギャルドRussian avant-garde/ロシア語:Русский авангард:ルースキイ・アヴァンガールト)のスパイスをふりかけしたような印象さえ感じられて、何だか、面白い。それをまた、実に大真面目に正面からサンボリスムでやらかしているところが、如何にも――笑ってしまうほどに――凄い。]

和漢三才図会巻第三十八 獣類 始動 /目録・麒麟(きりん) (仮想聖獣)

寺島良安「和漢三才図会」の「巻三十八 獣類」の電子化注を、新たにブログ・カテゴリ「和漢三才図会巻第三十八 獣類」(今回よりカテゴリ・タイトル表示のそれのみは新字とすることとした。無論、今まで通り、中身は正字正仮名である。特に大きな理由はないが、今までのものの「漢」の字であるべきところが「漢」であるのに、ふと、嫌気がさしたからではある。いや、そもそもが良安の「漢」の字は「漢」の(つくり)中央上の部分が中心を貫かず、「口」になってしまっている間の抜けた字体でさえあるのである)を起こして始動する。

私は既に、こちらのサイトHTML版で、

卷第四十  寓類 恠類

及び、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚部 江海有鱗魚

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚部 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、また、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」で、

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

を、新しいものとして、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥類」で、

卷四十一 禽部 水禽類

卷四十二 禽部 原禽類

卷四十三 禽部 林禽類

卷四十四 禽部 山禽類

を、そして直近の最新のものとして、

卷三十七 畜類

を完全電子化注している。余すところ、同書の動物類は「卷三十八 獸類」「卷三十九 鼠類」の二巻のみとなった。思えば、私が以上の中で最初に電子化注を開始したのは、「卷第四十七 介貝部」で、それは実に十二年半前、二〇〇七年四月二十八日のことであった。当時は、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、正直、自信がなく、まさか、ここまで辿り着くとは夢にも思わなかった。それも幾人かの方のエールゆえであった。その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方や、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の冒頭注を参照されたい)が、HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする(この間、文字コードの進歩で多くの漢字を表記出来るようになったのは夢のようだ)。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない訓読補塡用の字句は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した。今までも成した仕儀だが、良安の訓点が誤りである場合に読みづらくなるので、誤字の後に私が正しいと思う字を誤った(と判断したもの)「■」の後に〔→□〕のように補うこともしている(読みは注を極力減らすために、本文で意味が消化出来るように、恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合(非常に多い)も特に断らない)。ポイントの違いは、一部を除いて同ポイントとした。本文は原則、原典原文を視認しながら、総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない(私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していない。但し、本邦や中文サイトの「本草綱目」の電子化原文を加工素材とした箇所はある)。【2019年2月27日始動 藪野直史】 

 

和漢三才圖會卷第三十八目録

  獸類

[やぶちゃん注:以下は原典では三段組で字は大きい(目録では今までも大きくしていないので、ここもそれに従う)。ここではルビは原典通りのひらがな或いはカタカナを一緒に示した。ここでは一部の不審を持たれるであろう箇所を除いて、注しない。]

麒麟(きりん)

獅子(しゝ)

獬豸(かいち)

白澤(はくたく)

虎(とら)

騶虞(すうぐう)

駮(ばく)

(こく) 【黃腰獸】

豹(ひやう))

貘(ばく) 【喫鐡獸】

[やぶちゃん注:本文では附録のそれは「囓鐡獸」とする。]

狡兎(かうと)

(つつか)

[やぶちゃん注:(つくり)が「恙」でお判りの通り、ツツガムシ(恙虫)病を媒介する仮想生物の一つとして措定されたものである。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目ツツガムシ科 Trombiculidae のツツガムシ病のリケッチア(正式学名:真正細菌界プロテオバクテリア門 Proteobacteria アルファプロテオバクテリア綱 Alphaproteobacteria リケッチア目 Rickettsiales リケッチア科Rickettsiaceae オリエンティア属オリエンティア・ツツガムシ Orientia tsutsugamushi)を媒介するのがダニの一種として推定されるに至るのは近世後期以降のことであり、それ以前は仮想された「恙蟲」に相当する生物が有象無象存在した。これもその一つである。但し、それは必ずしも「ツツガムシ病」のみを指すのではなく、多くの風土病や見かけ上の原因不明の疾患や死に至る病いがそれとされたことは言うまでもない。私は例えば、「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 沙虱(すなじらみ)」等を、その媒介想定生物(これはかなり実際の特定のツツガムシに接近している)の一つに比定している。この当該項はごく短いが、そこでまた、たっぷりと私のマニアックな考証に付き合っていただこうと考えている。]

象(ざう)

犀(さい)

一角(うんかうる)

[やぶちゃん注:ルビは言わずもがな、幻獣一角獣「ウニコール」(ポルトガル語:unicorne/英語:unicorn:ヨーロッパの伝説上の動物で馬体であるが、頭部にねじれた一本の角を有し、その角には解毒する力があると信じられたあれ)の訛りである。]

犛牛(りぎう)

牛(やぎう)

[やぶちゃん注:「やぎう」はママ。本文では「もうぎう」である。]

野猪(ゐのしゝ)

野馬(やまむま)

豪豬(やまあらし)

熊(くま)

羆(しくま)

[やぶちゃん注:「しくま」の読みはこの現行のヒグマを表わす漢字の「羆」を上下に分解して「四」(し)と「熊」(くま)で読んだことに由来する。七世紀には既に「ひぐま」の発音は見られるものの、近世までは本字(本種ヒグマ)は「しくま」もしくは「しぐま」の呼称の方が一般であった。]

羊(かもしか)

山羊(やまひつし)

鹿(しか)

麋(おほしか) 【雙頭鹿】

麈(しゆ)

麂(こびと)

麞(くじか)

麝(しや) 【麝香(ジヤカウ)】

麝貓(じやかうねこ)

猫(ねこ)

狸(たぬき)

風狸(かぜたぬき)

狐(きつね)

狢(むじな)

貒(み)

貛(くわん)

木狗(もつく)

犲(さい) 【やまいぬ】

狼(おほかみ)

黒眚(しい)

[やぶちゃん注:原典はどう見ても「生」(上)+「月」(下)であるが、表示出来ない。中文・和文サイトを縦覧して校合したところ幼獣に「黒眚」がいることが確認でき、東洋文庫版も採用しているので、この「眚」で示すこととした。]

檮杌(たうこつ) 附〔(つけた)〕 狡

兔(うさぎ)

水獺(かはうそ)

海獺(うみうそ) 附【山獺】

海鹿(あしか)

膃肭臍(をつとつせい)

胡獱(とゞ)

水豹(あざらし)

獵虎(らつこ)

祢豆布(ねつふ) 

 

和漢三才圖會卷第三十七

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

   獸類

Kirin

 

 

きりん ※𪊺【正字見于廣雅】

麒麟

[やぶちゃん注:「※」=「鹿」+「希」。]

本綱麒麟瑞獸麕身牛尾馬蹄五彩腹下黃高丈二圓蹄

一角角端有肉音中鐘呂行中規矩遊必擇地詳而後處

不履生蟲不踐生草不羣居不侶行不入陥穽不羅羅網

王者至仁則出也

三才圖會云毛蟲三百六十而麒麟爲之長牝曰麒牡曰

麟牡鳴曰遊聖牝鳴曰歸和春鳴曰扶幼秋鳴曰養綏王

者好生惡殺則麟遊于野或云麟有角麒相似而無角

廣博物志云麟之青曰聳孤赤曰炎駒白曰索冥黒曰角

端黃曰麒𪊺【角端日行一萬八千里至速獸也】

[やぶちゃん注:前行の四・五字目の「麒𪊺」の「𪊺」の字は、上に「鹿」で下に「文」であるが、表示出来ないので、この字を当てた。なお、東洋文庫訳も「麒𪊺」とする。

五雜組云鳳凰麒麟皆無種而生世不恒有故爲王者之

瑞龍雖神物然世常有之人罕得見耳

△按瑞應圖曰牡爲麒牝爲麟與三才圖會爲表裏【三才圖會之訛乎】

きりん ※𪊺〔(きりん)〕【正字なり。

            「廣雅」に見ゆ。】

麒麟

[やぶちゃん注:「※」=「鹿」+「希」。]

「本綱」、麒麟は瑞獸〔(ずいじう)〕なり。麕(くじか)の身、牛の尾、馬の蹄〔(ひづめ)〕あり、五彩、腹の下、黃なり。高さ〔一〕丈二〔尺〕。圓〔(まろ)〕き蹄〔にして〕、一角あり。角の端に、肉、有り。音〔(こゑ)〕、鐘呂(しようりよ)に中(あた)る。行くこと、規矩に中り、遊ぶに必ず、地を擇びて詳らかにして後に、處(よ)る。生きたる蟲を履(ふ)まず、生きたる草を踐(ふ)まず、羣居せず、侶行〔(りよかう)〕せず、陥穽(をとしあな)に入らず、羅-網(あみ)に羅(かゝ)らず。王者、至仁〔(しじん)たる〕ときは、則ち、出づ。

「三才圖會」に云はく、『毛〔ある〕蟲、三百六十にして、麒麟、之れが長たり。牝を麒と曰ひ、牡を麟と曰ふ。牡(お)の鳴くを「遊聖」と曰ひ、牝(め)の鳴くを「歸和」曰ふ。春、鳴くを「扶幼」と曰ひ、秋、鳴くを、「養綏〔(やうすい)〕」と曰ふ。王者、生を好み、殺を惡〔(にく)〕む。〔かくある時は、〕則ち、麟、野に遊ぶ〔なり〕。或るひと、云はく、「麟、角、有り、麒は相ひ似て、角、無し」〔と〕』〔と〕。

「廣博物志」に云はく、『麟の青〔き〕を「聳孤〔(しようこ)〕」と曰ひ、赤きをして「炎駒」と曰ひ、白きを「索冥」と曰ひ、黒きを「角端」と曰ひ、黃なるを「麒𪊺〔(きりん)〕」と曰ふ【「角端」は日に行きて、一萬八千里、至つて速き獸なり。】』〔と〕。

「五雜組」に云はく、『鳳凰・麒麟、皆、種〔(たね)〕無くして生ず。世に恒に〔は〕有らず。故に王者の瑞と爲す。龍は神物なりと雖も、然〔(し)〕か〔も〕世に常に之れ有りて、人、罕(まれ)[やぶちゃん注:「稀」に同じい。]に見ることを得るのみ』〔と〕。

△按ずるに、「瑞應圖」に曰はく、『牡を麒と爲し、牝を麟と爲す』と。「三才圖會」と表裏たり【「三才圖會」の、訛〔(あやま)〕りか。】。

[やぶちゃん注:ウィキの「麒麟」を引く。『麒麟(きりん、拼音: qílín チーリン)は、中国神話に現れる伝説上の霊獣』。『獣類の長とされ、これは鳥類の長たる鳳凰と比せられ、しばしば対に扱われる』。但し、「淮南子」(えなんじ」(「え」は呉音)前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)が学者を集めて編纂させた思想書)に『よれば、麒麟は諸獣を生んだのに対し、鳳凰は鸞鳥を生み』、『鸞鳥が諸鳥を生んだとされており、麒麟と対応するのは正確には鳳凰より生まれた鸞鳥となっている』。『日本と朝鮮では、この想像上の動物に似』ているとして、『実在の動物もキリンと呼ぶ』。『形は鹿に似て大きく背丈は』五メートルあり(これは恐らく度量衡の誤認。後注する)、『顔は龍に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、麒角、中の一角生肉。背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗がある。基本的には一本角だが、二本角、三本角、もしくは角の無い姿で描かれる例もある』。『日本では東京都中央区の日本橋に建つ麒麟像が広く知られているが、この像には日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから』、作者『原型製作は彫刻家(彫塑家)の渡辺長男』によって『翼が付けられている』が、本来の麒麟に翼はない(但し、先の「淮南子」の説に従うなら、翼があったとしても不思議ではないとは思うが)。『普段の性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌う』。『神聖な幻の動物と考えられており』、『動物を捕らえるための罠にかけることはできない。麒麟を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる』。また、「礼記」に『よれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物』たる『「瑞獣」とされ、鳳凰、霊亀、応竜と共に「四霊」と総称されている。このことから、幼少から秀でた才を示す子どものことを、麒麟児や、天上の石麒麟などと称する』。『孔子によって纏められたとされる古代中国の歴史書』「春秋」は、『誤って麒麟が捕えられ、恐れおののいた人々によって捨てられてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって記述が打ち切られている』(私は麒麟というと、キリン・ビールの麒麟でもなく、日本橋の麒麟でもなく、偏愛する諸星大二郎の、漫画「孔子暗黒伝」(一九七七年~一九七八年『少年ジャンプ』連載)の、麒麟が捕まったのを孔子が見て驚愕するシーンを思い出すのを常としている)。「詩経」以来の『古文献では、「麟」の』一『字で表されることが多かったが、「麒」も稀に使われた』。「説文解字」に『より、オスを「麒」、メスを「麟」と呼ぶようになった』が、本文にも出る通り、『この雌雄を逆にしている資料もある』。『麒麟にはいくつか種類があると言われ、青い物を聳孤(しょうこ)、赤い物を炎駒(えんく)、白い物を索冥(さくめい)、黒い物を甪端(ろくたん)/角端(かくたん)、黄色い物を麒麟と言う』。『明の鄭和』(ていわ/ていか 一三七一年~一四三四年:武将。十二歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも、軍功をあげて重用され、一四〇五年から一四三三年までの南海への七度の大航海の指揮を委ねられた)『による南海遠征により、分遣隊が到達したアフリカ東岸諸国から実在動物のキリンをはじめ、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを帰国時の』一九一四年に本国へ『運び、永楽帝に献上した。永楽帝はとくにキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」』『の音に似ていたこともあり、“実在の麒麟”として珍重したと言われる(ただしその信憑性は明らかではない』『)』。『そしてこの故事がキリンの日本名の起源となった。また朝鮮でも同じく「기린(キリン)」』(麒麟girinkirin)『と呼ばれているが、伝説発祥の地・中国で現在は、キリンは「麒麟」ではなく』、「長頸鹿」『と呼ばれている』。『麒麟のように足の速い馬のこともキリンというが、漢字で書く場合は、偏(へん)を鹿から馬に変えて『騏驎』とすることがある。騏驎は、故事では一日に千里も走るすばらしい馬とされる』。『ことわざ「騏驎も老いては駑馬(どば)に劣る」(たとえ優れた人物でも老いて衰えると能力的に凡人にも敵わなくなることの例え)は、中国戦国時代の書物「戦国策」』の「斉策」の「斉五」の、「騏驥之衰也、駑馬先之、孟賁之倦也、女子勝之」(騏驎の衰ふるや、駑馬(どば)[やぶちゃん注:脚の遅い馬。]、之れに先んじ、孟賁(まうほん)の疲るるや、女子これに優(すぐ)る)『が語源』であるとある。因みに、孟賁(もうほん ?~紀元前三〇七年)は戦国時代の衛または斉の出身とする秦の将軍で、武王に仕えた。武王に仕えた諸軍人らと並び称せられた大力無双の勇士で、生きた牛の角を抜く程の力を持っていたとされる。しかし、紀元前三〇七年八月、武王と洛陽に入り、武王と力比べをして鼎の持ち上げた際、武王が脛骨を折って亡くなり、その罪を問われ、孟賁は一族とともに死罪に処されたとされる(以上はウィキの「孟賁」に拠った)。

『「本綱」……』とするが、「本草綱目」には縦覧して見ても、私には見当たらなかった。それどころか、東洋文庫訳は「本草綱目」の引用の場合、必ず、割注で当該巻を指示しているのに、ここにはそれがないのである。しかし、調べてみたところ、本「和漢三才図会」(正徳二(一七一二)年成立)と同時代の、四庫全書本「格致鏡原」(清の康熙年間(一六六二年~一七二二年)の陳元龍撰になるもの。「格致」は当時の「博物学」を意味する語である)巻八十二の「麒麟」に、

   *

  麒麟

大戴禮毛蟲三百六十而麒麟爲之長 論衡講瑞麒麟獸之聖者也 春秋保乾圗歲星散爲麟 孔演麟木精也宋均注麟木精生水故曰陰木氣好土土黃木靑故麟色靑黃 春秋運斗樞機星得則麒麟生萬人壽 鶡冠子麟者枵之獸隂之精也德能致之其精畢至 孫卿子古之王者其政好生惡殺麟在郊野月令章句凡麟生於火遊於土故脩其母致其子五行之精也 瑞應圖麟王者嘉祥也食嘉禾之實飲珠玉之英 春秋感精符麟一角明海内共一主也王者不刳胎不剖卵則出於郊 京房麟有五采腹黃高丈二金獸之瑞 陸璣詩疏麟麕身牛尾馬足黄色圓蹄一角角端有肉音中鐘行中規矩遊必擇地詳而後處不履生蟲不踐生草不羣居不行不入陷阱不罹羅網王者至仁則出

   *

という酷似した文字列(私が太字下線で示した)を見出せた。「京房」(紀元前七七年~紀元前三七年)は前漢の「易経」の大家であり、「陸璣詩疏」は西晋の政治家で文学者であった陸機(二六一年~三〇三年)の「詩経」の注釈書である。

「瑞獸〔(ずいじう)〕」目出度い予兆とされる聖獸。

 

「麕(くじか)」「くじか」だと広義の鹿の古名であるが、「麕」は狭義には獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus を指す。ウィキの「ノロジカ」によれば、『ヨーロッパから朝鮮半島にかけてのユーラシア大陸中高緯度に分布する』。現代『中国では』「子」「西方『と呼ばれる』。体長約一~一・三メートル、尾長約五センチメートルの『小型のシカ』で、『体毛は、夏毛は赤褐色で、冬毛は淡黄色である。吻に黒い帯状の斑があり、下顎端は白い。喉元には多彩な模様を持つのがこの種の特徴である。臀部に白い模様があるが、雌雄で形は異なる。角はオスのみが持ち、表面はざらついており、先端が三つに分岐している。生え変わる時期は冬』。『夜行性で、夕暮れや夜明けに活発に行動する。食性は植物食で、灌木や草、果実などを食べる』とある。

 

「高さ〔一〕丈二〔尺〕」前注の京房の記載であるなら、漢代の一丈は短く、二メートル二十五センチメートル(尺はその十分の一)であるから、二メートル二十九・五センチメートルとなる。これは先行する「馬」の叙述からも、現行のような馬の丈(た)け(寸(き))ではなく(本邦では通常、馬の丈けは、脚の下(地面)から前肢の付け根の肩上部の固い骨の上(騎乗する際の前の突出部)までを言う)、頭頂までの高さと考えるべきである。

「角の端」尖端なら、はっきりそう言うだろうから、ここは基部ととっておく。

「鐘呂(しようりよ)」「鐘」「呂」ともに中国音楽の十二律の一つ。基音を「黄鐘(こうしょう)」と言い、それより一律高い音を「大呂(たいりょ)」と呼ぶから、そのオクターブ二音と一致する鳴き声であることを指すか。

「規矩」規範。

「遊ぶに必ず、地を擇びて詳らかにして後に、處(よ)る」「處(よ)る」は「寄る」で、非常に用心深い性質であることを示す。

「生きたる蟲」昆虫ではなく、広義のヒトを含めた動物を指すと採る。

「侶行〔(りよかう)〕せず」仲間とともに行動せず、単独で生活し。

「毛〔ある〕蟲」前に同じ。広義の動物の意。

「養綏〔(やうすい)〕」「綏」は「安(やす)んずる」の意。以上、総ての呼称が目出度い表象である。

「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)撰になる古今の書物から不思議な話を蒐集したもの。全五十巻。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「見ることを得るのみ」日本語として裙汁と最後の「のみ」はいらない感じになる。

「瑞應圖」東洋文庫版の書名注に、『一巻。孫柔之の『瑞応図記』。清の馬国翰編輯の『玉函山房輯佚書』にある。天地の瑞応の諸物を分類し、図に説明を付けたもの』とある。]

2019/02/26

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 駱駝(らくだのむま) (ラクダ)

 

Rakudanomuma

 

らくたのむま

       槖駝

駱駝

[やぶちゃん注:「槖駝」の「槖」の字は原典は字が潰れていて、上部が「士」ではなく「竹」のようにも見えるが、「本草綱目」の記載に従った。]

 

本綱駱駝西北番界有之有野駝家馳【人家畜養者名家駝】其頭似

[やぶちゃん注:「馳」はママ。明らかに「駝」の誤りである(「本草綱目」は『家駝』である)から、訓読では「駝」とした。]

羊長項埀耳脚有三節背有兩肉峯如鞍形有蒼褐黃紫

數色其聲曰𡇼其食亦齝其性耐寒惡熱故夏至退毛至

盡毛可爲其糞烟直上如狼烟其力能負重可至千斤

日行二三百里又能知泉源水脉風候凡伏流人所不知

駝知其泉脉以足跑地掘之必有水

流沙夏多熱風行旅遇之卽死風將至駝必聚鳴埋口鼻

於沙中人以爲驗也其臥而腹不著地屈足露明者名明

駝最能行遠【流沙者天竺地】

大月氏國有一封駝脊上有一峯隆起若封土【又有封牛𤛑牛物牛

牛數名】于闐國有風脚駝其疾如風日行千里

 

 

らくだのむま

       槖駝〔(たくだ)〕

駱駝

 

「本綱」、駱駝は西北番[やぶちゃん注:「番」は「蕃」で、中国の西北方面の「蛮」地という蔑称である。]の界〔(さかひ)〕に、之れ、有り。「野駝」〔と〕「家駝」【人家に畜養せる者を「家駝」と名づく。】有り。其の頭〔(かしら)〕、羊に似て、長き項〔(うなじ)〕、埀れたる耳、脚に〔は〕三つの節〔(ふし)〕有り。背(〔せな〕か)に、兩〔(ふた)つの〕肉〔の〕峯、有りて、鞍の形ごとく、蒼・褐・黃・紫〔など〕數色有り。其の聲、「𡇼〔(あつ/えち)〕」と曰ふ。其の食(ものくら)ふこと、亦、齝(にれか)む[やぶちゃん注:「牛」で出た「反芻する」の意。]。其の性、寒に耐へ、熱を惡〔(にく)〕む。故に、夏至に、毛、退〔(の)〕く[やぶちゃん注:抜けてしまう。]。盡くるに至つて、〔その〕毛〔を以つて〕〔(けおりもの)〕と爲すべし。其の糞〔を燃せば、〕烟、直〔(すぐ)〕に上りて、狼烟(のろし)のごとし。其の力、能く重きを負ひて、千斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、ざっと六百キログラムになる。重過ぎ! ラクダさん、死んでしもうがね!]に至るべし。日に行くこと、二、三百里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、百十二~百六十八キロメートルほどになる。これも中国得意の誇張物。]。又、能く泉源・水脉・風候[やぶちゃん注:風向きの変化。]を知る。凡そ、伏流して人〔の〕知らざる所を、駝、其の泉脉を知りて、足を以つて、地を跑(あしか)きす。之れを掘れば、必ず、水、有り。

流沙(りうさ)には、夏、熱風、多くして、行-旅(たびびと)、之れに遇へば、卽ち、死す。風、將に至らんとす〔れば〕、駝、必ず、聚〔(あつま)〕り、鳴き、口・鼻を沙〔の〕中に埋づむ。人、〔之れを〕以つて驗〔(しるし)〕と爲すなり。其の臥す〔るに〕腹を地に著〔(つ)〕けず、足を屈(かゞ)む〔は〕露明の者〔にして〕、「明駝」と名づく。最も能く遠くに行く〔者なり〕【「流沙」とは「天竺」の地〔なり〕。】。

大月氏國〔(だいげつしこく)〕に「一封駝〔(いつぷうだ〕」有り。脊の上に一峯〔のみ〕有り。隆く起きて、封土[やぶちゃん注:墳墓。]のごとし【又、封牛・𤛑牛〔(とうぎう)〕・物牛・牛〔(はくぎう)など〕、數名〔(すめい)〕、有り。】于闐國〔(うてんこく)〕に「風脚駝」有り。其の疾〔(はや)き〕こと、風のごとく、日に行〔くこと、〕千里〔と〕。

[やぶちゃん注:本項が「巻第三十七 畜類」の最終項である。西アジア原産で背中に一つの瘤(こぶ)を持つ、

ローラシア獣上目鯨偶蹄目ウシ亜目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedaries

と(本文の「一封駝」)、中央アジア原産で二つの瘤を持つ、

フタコブラクダ Camelus ferus

(本文の主文部のそれ)の二種のみが現生種ウィキの「ラクダ」を引く。『砂漠などの乾燥地帯にもっとも適応した家畜であり、古くから乾燥地帯への人類の拡大に大きな役割を果たしている』。『背中のこぶの中には脂肪が入っており、エネルギーを蓄えるだけでなく、断熱材として働き、汗をほとんどかかないラクダの体温が日射によって上昇しすぎるのを防ぐ役割もある。いわば、皮下脂肪がほとんど背中に集中したような構造であり、日射による背中からの熱の流入を妨げつつ、背中以外の体表からの放熱を促す。こぶの中に水が入っているというのは、長期間乾燥に耐えることから誤って伝えられた迷信に過ぎない。ただし、水を一度に』八十『リットル程度摂取することが可能である。出生時にこぶは無く、背中の』、『将来』、『こぶになる部分は皮膚がたるんでいる。つまり脂肪を蓄える袋だけがある状態で生まれてくる』。『ラクダは砂漠のような乾燥した環境に適応しており、水を飲まずに数日間は耐えることができる。砂塵を避けるため、鼻の穴を閉じることができ、目は長い睫毛(まつげ)で保護されている。哺乳類には珍しく瞬膜を完全な形で備えている。また、塩性化の進行した地域における河川の水など塩分濃度の非常に高い水でも飲むことができる。さらに胼胝』(べんち/たこ)『と呼ばれる皮膚が分厚く角質化した箇所が左右の前脚の付け根、後脚の膝、胸の』五『か所にある。胼胝は断熱性に優れ、ここを接地して座れば』、『高温に熱された地面の影響を受けることなく』、『休むことが出来る』。『他の偶蹄目の動物と同様、ラクダは側対歩(交互に同じ側面の前後肢を出して歩く)をする。しかし、偶蹄目の特徴が必ずしもすべて当てはまるわけではなく、偶蹄目の他の動物などのように、胴と大腿部の間に皮が張られてはいない。また、同様に反芻を行うウシ亜目』(反芻亜目 Ruminantia)は四『室の胃をもつが、ラクダには第』三『の胃と第』四『の胃の区別がほとんどない。従来』、『ラクダ科』Camelidae『を含むラクダ亜目』Tylopoda『は反芻をしないイノシシ亜目』『と反芻するウシ亜目の中間に置かれていた。しかし遺伝子解析による分析では、ラクダ亜目は偶蹄目の中でもかなり早い時期にイノシシ亜目』Suina『とウシ亜目の共通祖先と分岐しており、同じように反芻をするウシやヒツジ、ヤギなどは、ラクダ科よりもむしろイノシシ科』Suidae『やカバ科』Hippopotamidae、或いは『クジラ目』Cetacea『の方に近縁であることが明らかになっている』。『ラクダの蹄(ひづめ)は小さく、指は』二『本で』、五『本あったうちの』、『中指と薬指が残ったものである。退化した蹄に代わり、脚の裏は皮膚組織が膨らんでクッション状に発達している。これは歩行時に地面に対する圧力を分散させて、脚が砂にめり込まないようにするための構造で、雪上靴や』「かんじき」『と同じ役割を持つ。砂地においては、蹄よりもこちらの構造が適しているのである』。『ラクダの酷暑や乾燥に対する強い耐久力については様々に言われてきた。特に、長期間にわたって水を飲まずに行動できる点については昔から驚異の的であり、背中のこぶに水を蓄えているという話もそこから出たものである。体内に水を貯蔵する特別な袋があるとも、胃に蓄えているのだとも考えられたが、いずれも研究の結果』、『否定された』。『実際には、ラクダは血液中に水分を蓄えていることがわかっている。ラクダは一度に』八十『リットル、最高で』百三十六『リットルもの水を飲むが、その水は血液中に吸収され、大量の水分を含んだ血液が循環する。ラクダ以外の哺乳類では、血液中に水分が多すぎると』、『その水が赤血球中に浸透し、その圧力で赤血球が破裂してしまう(溶血)が、ラクダでは水分を吸収して』二『倍にも膨れ上がっても破裂しない。また、水の摂取しにくい環境では、通常は』摂氏三十四~三十八『度の体温を』四十『度くらいに上げて、極力水分の排泄を防ぐ。もちろん尿の量も最小限にするため、濃度がかなり高い。また、人間の場合は体重の』一『割程度の水が失われると生命に危険が及ぶが、ラクダは』四『割が失われても生命を維持できる。そのかわり、渇いた時には一気に大量の水を飲むので、ラクダの群れに水を与えるには非常に大量の水を必要とすることとなる』。『一方で、ラクダは湿潤環境には弱い。ラクダは湿潤環境に多く発生する疫病に対して抵抗力がない。また、足が湿地帯を移動するようにできておらず、足を傷めることが多い』。『アフリカにおいてはニジェール川がもっとも砂漠に近くなるニジェール川大湾曲部のトンブクトゥあたりが南限であり、これ以南では荷役動物がロバへと変わる』。『ラクダは乾燥地帯において主に飼育される家畜の一つである。もっとも、遊牧においてラクダのみを飼育することは非常に少なく、ヒツジやヤギ、ウシなどといった乾燥地域にやや適応した他の家畜と組み合わせて飼育されることが一般的である。これは、飢饉や疫病などによって所有する家畜が大打撃を受けた時のリスク軽減のためである。また、ラクダは繁殖が遅く増やすのが難しい。 オスは』六『歳にならないと交尾が可能とならず、発情期は年に』一『回しかない』。『メスも他の家畜と比較して成熟に多くの時間が必要であり、妊娠期間は』十二『ヶ月近くに及ぶ』。『反面、寿命は約』三十『年と長く、乾燥に強いため』、『旱魃の際にも他の家畜に比べて打撃を受けにくい。このため、ヒツジやヤギが可処分所得として短期取引用に使用されるのに対し、ラクダは備蓄として、長期の資産形成のため飼養される』。『一方、ラクダとヤギやウシを同じ群れとして放牧すると』、『食物を巡って争いを起こしやすいため、ラクダの群れはほかの動物と分けて放牧するのが通例である』。『ラクダ科の祖先は』、『もともと北アメリカ大陸で進化したものであり』、二百万年から三百万年前に『陸橋化していたベーリング海峡を通ってユーラシア大陸へと移動し、ここで現在のラクダへと進化した。北アメリカ大陸のラクダ科は絶滅したが、パナマ地峡を通って南アメリカ大陸へと移動したグループは生き残り、現在でもリャマ』(ラクダ科ラマ属リャマ Lama glama)・グアナコ(ラマ属グアナコ Lama guanicoe)・アルパカ(ラクダ科ビクーニャ属アルパカ Vicugna pacos)・ビクーニャ(ビクーニャ属ビクーニャ Vicugna vicugna)の近縁四『種が生き残っている』。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの家畜化はおそらくそれぞれ独立に行われたと考えられている。ヒトコブラクダが家畜化された年代については』、紀元前二〇〇〇年以前・紀元前四〇〇〇年・紀元前一三〇〇~一四〇〇年などの『諸説があるが、おそらくはアラビアで行われ、そこから北アフリカ・東アフリカなどへと広がった。フタコブラクダはおそらく紀元前』二五〇〇『年頃、イラン北部からトルキスタン南西部にかけての地域で家畜化され、そこからイラク・インド・中国へと広がったものと推測されている』。以下、野生のヒトコブラクダについての記載。『ヒトコブラクダの個体群はほぼ完全に家畜個体群に飲み込まれたため、野生個体群は絶滅した。ただ、辛うじてオーストラリアで二次的に野生化した個体群から、野生のヒトコブラクダの生態のありさまを垣間見ることができる。また』、二〇〇一年には、中国の奥地にて一千頭もの『ヒトコブラクダ野生個体群が発見された。塩水とアルカリ土壌に棲息していること以外の詳細は不明で、遺伝子解析などは調査中である』が、『この個体群についても、二次的に野生化したものと推測されている。したがって、純粋な意味での野生のヒトコブラクダは絶滅した、という見解は崩されずにいる』。以下、野生のフタコブラクダの記載。『野生のフタコブラクダの個体数は、世界中で約』一千『頭しかいないとされている』。『このため、野生のフタコブラクダは』二〇〇二『年に、国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定され、レッドデータリストに掲載されている』。二〇一〇年現在で、全世界には千四百万頭のラクダが生息しているが、その九十%はヒトコブラクダである。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの生息域は一部では重なり合うものの、基本的には違う地域に生息している。ヒトコブラクダは西アジア原産であり、現在でもインドやインダス川流域から西の中央アジア、イランなどの西アジア全域、アラビア半島、北アフリカ、東アフリカを中心に分布している。なかでも特にアフリカの角地域では現在でも遊牧生活においてラクダが重要な役割を果たしており、世界最大のラクダ飼育地域となっている』。『世界で最大のラクダ飼育頭数を誇るソマリア』『や、エチオピアにおいてラクダは現在でも乳、肉、移動手段を提供し続けている』。『フタコブラクダのほうは中央アジア原産であり、トルコ以東、イランやカスピ海沿岸、中央アジア、新疆ウイグル自治区やモンゴル高原付近にまで生息している。頭数は』百四十『万頭程度で、ラクダのうちの』十%『程度である』。『家畜として飼育する場合は』、『通常』、『どちらかの種しか飼育しないが、両種の雑種は大型となるため』、『荷役用として価値が高く、中央アジアでは両種をともに飼育して常に雑種を生み出し続けるようにしていた』。『また、ヒトコブラクダは砂漠の広がるオーストラリアに人為的に持ち込まれ、現在では野生化して繁殖している』。『この個体群は』十九『世紀から』二十『世紀にかけて』、『オーストラリアに持ち込まれたものが野生化したもので、オーストラリア中央部の砂漠地帯に約』七十『万頭が生息して』おり、しかも『この数字は年間』八%『ずつ増大している』。しかし、『この野生ラクダはオーストラリアで盛んなヒツジの牧畜用の資源を荒らすため、オーストラリア政府は』十『万頭以上を駆除している』。『ヒトコブラクダは歯を見ることで年齢を知ることが出来る。生まれた時は』二十二『本の乳歯があり、加齢と共に歯が生え変わり』、七『歳で』三十四『本の永久歯に生え変わる。このため、古くからラクダを取引するアラブ商人たちはラクダの歯の生え方で値段を決めていた。また、地方によっては歯の生え方で呼び方を変えることもあり』、『販売価格などと密接に関係している。 ラクダの平均寿命は』二十五『歳前後だが、アラブ社会では古くからラクダの寿命は』三十三年三ヶ月と三日と『言われてきた。ヒジュラ暦は』一年が十一日ほど短いため、三十三年三ヶ月と三日で『季節が』三十三回、『変わり、太陽暦の』三十三『年に相当する』のである。但し、現地では『ラクダの年齢は歯が一組変わるごとに』一『歳加齢される独特の年齢加算法を用いる場合があるので、実際の年齢とラクダ商人が数える年齢が一致しないことがある』。『アラブ社会では古くから、上顎両側に』六『本の奥歯があるラクダを』、『砂漠の横断が可能な大人のラクダとしていた』という。『歯の磨り減り方は生活環境によって異なるため、必ずしも実際の年齢とは一致しないが、アラブ社会では古くからラクダの年齢を知る方法として用いられてきた。歯が磨り減ってしまうと』、『通常の餌が食べられなくなるため、近代以前は寿命とされてきた』。以下、「雑種」の項。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの間には雑種ができ、カザフスタンではブフト(bukht)と呼ばれる。雑種の瘤は一つで、どちらの種よりも体格で勝るため』、『役畜として重用される。雌のブフトはフタコブラクダと戻し交配することができ、ヒトコブラクダの血を』二十五%、『フタコブラクダの血を』七十五%『引く乗用のラクダがつくられる』。また、『ヒトコブラクダとリャマとの間に人工的に作られた種間雑種』に『キャマ』がいる。ラクダを最初に家畜化したのは古代のアラム人ではないかと考えられている。アラム人はヒトコブラクダを放牧する遊牧民、あるいはラクダを荷物運搬に使って隊商を組む通商民として歴史に登場した。砂漠を越えることはほかの使役動物ではほぼ不可能であるため、ラクダを使用することによってはじめて砂漠を横断する通商路が使用可能となった。やがて交易ルートは東へと延びていき、それに伴ってラクダも東方へと生息域をひろげていった』。『シルクロードの』三『つの道のうち、最も距離が短くよく利用されたオアシス・ルートは、ラクダの利用があって初めて開拓しえたルートである。シルクロードを越えるキャラバンは何十頭ものラクダによって構成され、大航海時代までの間は東西交易の主力となっていた。サハラ砂漠においては、それまでおもな使役動物であったウマに代わって』三『世紀ごろに東方からラクダがもたらされることで』、『はじめてサハラを縦断する交易ルートの開設が可能となり、サハラ交易がスタートした。また、ラクダは湿潤地帯で荷役を行わせることは困難であるため、砂漠とサヘル地帯の境界に近いニジェール川大湾曲部のトンブクトゥなどはラクダとニジェール川水運やロバとの荷の積み替え地点として栄えた』。『歴史学者のリチャード・ブリエットは別のストーリーとして、紀元前』三〇〇〇『年ごろ、アフリカから中央アジアにかけてラクダを捕食対象としていた狩猟採集民のうち、アラビア海南部沿岸(今日のソマリア周辺)地域のグループが最初にヒトコブラクダを馴化させたと主張している』。『最初の利用目的は乳の採取だったといい、牧草地を求めて遊牧を始めたことから駄獣としての利用に発展したという』。『ブリエットによれば、フタコブラクダの家畜化は紀元前』二五〇〇『年ごろ、イランとトルクメニスタンのあいだの高原地域で生活していた遊牧民によって行われ、その手法が中央アジアを経てメソポタミアに広がったという』。『アッシリア人の戦勝記念に描かれたレリーフに現れるラクダの多くは荷車を牽いている』。『ラクダと人類とのかかわりにおいて、最も重要なものは乗用利用である。ラクダは『砂漠の舟』とも呼ばれ、ほかの使役動物では越えることのできない乾燥地域を越える場合にはほぼ唯一の輸送手段となっていた。特に利用されていたのは砂漠の多いアラブ世界であり』、二十『世紀後半に自動車が普及するまで重要な移動手段であった。前述のように側対歩で歩行するラクダは歩行時に身体が大きく左右に揺れる。このため』、『慣れない者がラクダに乗る場合、船酔いならぬラクダ酔いを起こすことがある』。『初期のラクダの鞍はコブの後部に置かれたマットを前方に伸ばした帯でコブに固定したもので、主に荷役用として使われた。やがて騎乗を目的としたコブの前に乗せる馬蹄形の鞍が現れたが、初期の騎乗用の鞍はぐらつきが大きく戦闘には向かなかった』。『アラビアでは紀元前』五〇〇年頃『以降に、コブではなく』、『肋骨に負荷をかける設計の鞍が現れたことによって騎乗戦闘が可能となり、紀元前』二『世紀ごろには遊牧民と商業国家のパワーバランスを変えるなど、社会に変革をもたらすほどの影響を与えるようになった』。『現代においてはほとんどが自動車にとってかわられたものの、マリ北部のタウデニから南のトンブクトゥへと塩の板を運ぶキャラバンなどは現在でもラクダが使用され』、二千頭から三千頭もの『ラクダのキャラバンが』十月から五月までの『涼しい時期に』一『か月以上かけて両地を往復する』。『また』、『砂漠地帯で長時間行動できるため、古くから駱駝騎兵として軍事利用され、現代でも軍隊やゲリラの騎馬隊がラクダを使用することがある。現代ではインドと南アフリカの』二ヶ国が『純軍事的にラクダ部隊を保有して』いる。『ラクダの肉は食用とされ、また』、『乳用としても利用される。血液を禁忌とするムスリムとユダヤ教徒以外は、生き血を飲むこともある。また、ユダヤ教徒はラクダはコーシャー』(ユダヤ教に於ける厳格な「食物清浄規定」のこと。ヘブライ語に近い音写では「カシェル」と私は心得ている。なお、後の方に『これは、ラクダは』カシェルの『食肉の条件のうち』、『一つしか満たしていないとされているためで』、カシェル『の』肉食可能な獣類の『条件は反芻をし』、『蹄が分かれているものに限られるが、ラクダは生物学的には蹄が分かれ、反芻をするものの、外見上』、『蹄が毛に覆われて分かれているように見えない』ことによるとある。私の知り合いのユダヤ教徒はウナギを食わない。鱗のない魚はカシェルで食ってはいけないからだという。私は何度も「ウナギには鱗があるんだ」と言って顕微鏡写真を見せるのだが、食べない。少なくとも、日本の美味しい鰻重が食えない非科学的なユダヤ教徒は可哀想だとは思うのである)『ではないため』、『食べることはできない』。『食用としてのラクダ利用において最も重要なものはラクダ乳の利用である。イスラム圏において古来乳用動物として飼育されてきたものはラクダ、ヒツジ、ヤギであるが、ラクダはヒツジやヤギに比べて授乳期間が長い(約』十三『か月)上に乳生産量も一日』五『リットル以上と非常に多かったため、砂漠地帯の遊牧民の主食とされてきた』。『アラブにおいては、ヒツジやヤギの乳搾りが女性の仕事とされたのに対し、ラクダの乳搾りは男性の仕事とされてきた。ラクダ乳は主にそのまま飲用されたが、発酵させて酸乳(ヨーグルト)とすることもおこなわれた。ラクダ乳はウシやヒツジ、ヤギの乳と脂肪の構造が異なり、脂肪を分離することがやや困難である。さらにヤギやヒツジの乳のほうが脂肪の含有量も多いため、バターやチーズといった乳製品は主にヒツジやヤギから作られていた。しかし、ラクダ乳からバターやチーズを作ることも歩留まりが悪い上』、『技術も必要』であるが、『可能であり、その希少性ゆえに高級品として高く評価されていた』。『近年、栄養価の高いラクダ乳は見直される傾向にあり、ヨーグルトやアイスクリームなどのラクダミルク製品を製造する会社も設立されている』。『アラブ首長国連邦のドバイでもラクダミルク製品の開発がすすめられており、ラクダチーズやラクダミルクチョコレートをはじめとする製品の世界各地への売り込みを図っている』。『アメリカ合衆国でも、アーミッシュを中心にラクダの飼育とラクダミルクの商品化が行われ、カリフォルニアを中心にラクダミルクを取り扱う店があらわれはじめている』という。『皮はなめして用いられ、毛は織物、縄、絵筆などに利用される。古くから利用されており』「マタイによる福音書」によれば、『洗礼者ヨハネはラクダの皮で作った服を着ていたとされる』。『寒冷な中央アジアのフタコブラクダの毛は織物の素材として優秀であ』り、また、『木材が貴重品である乾燥地帯において、かつてはラクダの糞が貴重な燃料でもあった』。『アラブ医学の四体液説では、粘液質の人間の気質は「情緒が弱く鈍感だが、一旦事を始めると粘り強く耐久力がある」と考えられていた。ラクダは胆嚢がない無胆嚢動物であることから、黒胆汁を持たない粘液質の気質を持つ動物である、という民俗概念がある』という。

「流沙」『「流沙」とは「天竺」の地〔なり〕』東洋文庫は後の割注を『流沙とは天竺(インド)の地のことである』と訳しているが、これは間違ってるだろ! 「流沙」は中国語「Liū shā」(リォウ・シァー)で、中国の西北地区の砂漠地帯の呼称だろ! 平凡社「世界大百科事典」によれば、「書経」の「禹貢篇」に『弱水を導きて合黎(ごうれい)に至り、余波・流沙に入る』とあるが、この「流沙」は「水経(すいけい)」によれば,張掖(ちようえき)郡の居延県の北東に当たるとし、今日の居延海(現在のガシュン・ノール:漢名「嘎順淖爾」)付近((グーグル・マップ・データ))の砂漠を指した。また、新疆ウイグル自治区のロブ・ノール((グーグル・マップ・データ))以東、甘粛省の玉門関に至る間の砂漠地帯をも指す。タリム盆地の南,崑崙山脈の北麓を通って、パミールを越えて行くシルク・ロードの一つとして、古くより交通の要衝地帯だった場所だ! リンク先の地図をよう見んかい! ここはインドでも天竺でも、ない、ぞ!!!

「露明」東洋文庫注に、『腹を地につけないで屈むからすき間ができ』、『明りが漏れる。それで露明という。また』、『眼の下に毛があり、夜でもよく物を見ることができるので露明というともいう』とある。

「大月氏國〔(だいげつしこく)〕」紀元前三世紀から一世紀頃にかけて、東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前二世紀に匈奴に敗れてからは、中央アジアに移動し、「大月氏」と呼ばれるようになった。大月氏時代は東西交易で栄えた(以上はウィキの「に拠った)。

「封牛・𤛑牛〔(とうぎう)〕・物牛・牛」

「于闐國〔(うてんこく)〕」古代、中国の西域にあったオアシス都市国家。現在の中国新疆ウイグル自治区ホータン(和田)県((グーグル・マップ・データ))。東西貿易路の要衝として起源前二世紀には既に繁栄していた。住民はアーリア系で、仏教文化が栄えた。古来、玉(ぎょく)の産地として有名である(小学館「大辞泉」に拠る)。

「風脚駝」種ではなく、駱駝レース(今も中近東でギャンブルとして行われている。体重の軽い騎手が有利なため、少年を使っていたのを児童虐待とされ、十年程前にはロボット少年騎士を開発したと聴いたが、どうなったことやら?)用に速く走れるように調教した個体を指すのであろう。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)

 

Raba

 

ら    附 駃騠 駝𩢷

 𩦺 

【音羅】

        驘【騾之古文】

ロウ

 

本綱騾狀大于驢健于馬其力在腰其後有鎖骨不能開

故不孳乳其類有五種今俗通呼爲騾矣【三才圖會其後之後字股】

牡驢交馬而生者卽騾也 牡馬交驢而生者爲駃騠【決題】

牡牛交馬而生者爲驢 牡驢交牛而生者爲駝𩢷【它陌】

牡牛交驢而生者𩦺【謫蒙】

五雜組云驘之爲畜不見於三代至漢時始有之然亦非

中國所産也匈奴北地馬與驢交合而生今北方以爲常

畜其價反倍於馬矣

駃騠爲神駿而騾爲賤畜可見人物稟氣於父不稟氣於

母也孟康曰駃騠良馬生七日而超其母

 

 

ら    附〔(つけたり)〕

       駃騠〔(けつてい)〕

       駝𩢷〔(だはく)〕

 𩦺〔(てきまう)〕

 驢〔(きよろ)〕

【音、「羅」。】

        驘〔(ら)〕【「騾」の古文。】

ロウ

[やぶちゃん注:「附〔(つけたり)〕」は「附録」の意。「古文」は「古い字」の意。]

 

「本綱」、騾、狀、驢より大にして、馬より健〔(すこや)か〕なり。其の力、腰に在り、其の後ろに、鎖骨、有り、開く能はず。故に孳乳〔(うみさか)えること〕せず。其の類ひ、五種有り。今、俗に通〔(とほ)し〕呼んで「騾」と爲す【「三才圖會」、「其の後ろ」の「後」の字を「股」と爲す。】。

牡驢〔(をすのろば)〕、馬に交はりて生〔まれし〕者を、卽ち、「騾」〔とする〕なり。

牡馬、驢と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「駃騠」【〔音、〕「決題」。】と爲す。

牡牛、馬と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「驢」と爲す。

牡驢、牛と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「駝𩢷」【〔音、〕「它陌」。】と爲す。

牡牛、驢と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「𩦺」【〔音、〕「謫蒙」。】と爲す。

「五雜組」に云はく、『驘の畜たること、三代[やぶちゃん注:夏・殷・周。紀元前一八〇〇年頃から紀元前二五六年まで。]に見えず、漢〔の〕時[やぶちゃん注:前漢の建国は紀元前二〇六年。]に至りて、始めて、之れ、有り。然も亦、中國にして産む所に非ざるなり。匈奴〔(きようど)の〕北地〔にて〕、馬と驢と交-合(つる)びて生〔まる〕。今、北方には、以つて、常に畜と爲す。其の價〔(あたひ)〕、反〔(かへ)り〕て、馬より倍す。』〔と〕。

「駃騠」〔は〕神駿〔(しんしゆん)〕たり、「騾」〔は〕賤畜たり。見るべし、人〔及び動〕物、氣を父に稟〔(う)〕け、氣、母〔よりは〕稟けざ〔れば〕なり。孟康、曰はく、『駃騠、良馬なり。生まれて七日にして其の母を超ゆ』〔と〕。

[やぶちゃん注:主項の「騾」(騾馬)は実在する、

奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus

であり、その反対の交雑種である「駃騠」は、

ウマ属ケッテイEquus caballus × Equus asinus

として実在する。しかし、「本草綱目」がまことしやかに言っているウシとウマの間に出来るとする「驢」、ロバとウシとの「駝𩢷」、ウシとロバとの「𩦺」などという交雑種は昔も今も存在しない(但し、遺伝子技術の過剰な暴走の中で将来そのような呪われたハイブリッド種を、狂った「ドクター・モロー」たちが生み出さないとは言えない)。ウィキの「ラバをまず引く。『雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜で』、『北米』(英語:Mule)、『アジア(特に中国)、メキシコに多く、スペインやアルゼンチンでも飼育されている』。『逆の組み合わせ(雄のウマと雌のロバの配合)で生まれる家畜をケッテイ(駃騠、英語: Hinny)と呼ぶが、ケッテイと比べると、ラバは育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されてきた』。『家畜として両親のどちらよりも優れた特徴があり、雑種強勢の代表例である』。『体が丈夫で粗食に耐え、病気や害虫にも強く、足腰が強く脚力もあり、蹄が硬いため』、『山道や悪路にも適す。睡眠も長く必要とせず、親の馬より学習能力が高く調教を行いやすい。とても経済的で頑健で利口な家畜である』。『唯一』、『欠点として、「stubborn as a mule(ラバのように頑固)」という慣用句があるように、怪我させたり』、『荒く扱う等で機嫌が悪くなると、全く動かなくなる頑固で強情な性格がロバから遺伝している。それ以外は、大人しく臆病で』、『基本』、『従順である。あとは、馬よりは駆け足の速さが劣るぐらいである』。『鳴き声は馬ともロバとも異なるが、ややロバに似る』。『ラバとケッテイは』孰れも基本的には『不妊である。不妊の理由として、ウマとロバの染色体数が異なるからだと考えられている。ただ、発情期はあり、理論上は妊娠可能である。胚移植したように自然に妊娠することも稀ではあるが』、『ある』(後述)。『大きさや体の色はさまざまである。耳はロバほど長くない。頸が短く、たてがみは粗い』。『ラバは紀元前』三〇〇〇年から、二一〇〇年と一五〇〇年との間ごろには、『エジプトで知られていたと考えられている。ファラオがシナイに鉱山労働者を送る際、ラクダではなく』、『ラバで送ったという岩の彫刻が残っている。エジプトのモニュメントには、ラバにチャリオットを引かせる絵が残っており、当時から輸送に関わっていた事が分かる』。『黒海沿岸の(現代のトルコの北部と北西部の部分)パフラゴニアとニカイアの住民が、ラバの繁殖を最初に行ったと言われている。 古代における重要性は高く、ヒッタイトが隆盛を誇っていた頃は戦車用の馬の』三『倍の価値があった。紀元前』三『千年紀のシュメールの文書によれば、ロバの』七倍の二十~三十シェケル(西方で古代に長く用いられた通貨単位)、エブラは(シリア北部アレッポの南西五十五キロメートルに位置した古代都市国家。紀元前三千年紀後半及び紀元前二千年紀前半(紀元前一八〇〇年~紀元前一六五〇年)の二つの時期に繁栄を誇った)では平均六十シェケルの『高値で取引されていた。古代のエチオピアでは至上の動物として扱われ、聖書に登場するダビデ王はソロモンら王子の乗る動物に「ロイヤルビースト」としてラバを薦め、自らも愛用した。それらを含め旧約聖書の中でラバの記述は』十七回も『登場する』。『ローマ帝国でも回復力が高いラバは駄獣として駅伝制度クルスス・プブリクスなどで重用された』。『また、力が強く』、『多頭の輓用にも向いたラバは』、『ローマ軍の前線補給など、短距離輸送に活躍し』、『ウマ同様』、『騎乗用として用いられることも多かった』。『中世ヨーロッパ、巨大な馬に重装甲騎士が跨っていた頃、ラバには聖職者と階級の高い紳士が跨っていた』。十八『世紀になると、ラバの繁殖がスペイン、イタリア、フランスで一大産業となり、フランスのポワトゥー州では毎年』五十『万頭』も『生産された。地元の大型ロバ』である『ポワトゥー種が』、『畑作業で重宝する重牽引ラバの片親として適していた』ため『である』。『より大きく、強力なロバの品種改良がカタルーニャとアンダルシアで進められた直後から、スペインはラバ繁殖業界のトップグループに並んだ。スペイン帝国では、雌ラバは乗馬用に、雄ラバは銀山の輸送用として重宝されるだけでなく、国境警備にも用いられ、各前線哨戒基地や農園では独自に繁殖が行えるよう』、『最低』、『一匹』は『種ロバが確保された』という(以下、アメリカでのラバ史が詳細に綴られるが、略す)。『内燃機関の登場で軍を去ったラバは農場に迎えられた。しかし、第二次世界大戦中、信頼性の高い農業用ラバ導入が試みられたが、農村にも内燃機関の波が押し寄せていた』。『山岳が多く道路の整備が進んでない国では、今でも現役で働いている。先進国では農耕はトラクター、輸送はトラックに置き換わったが、趣味の世界である高級な馬のショーでは、どの分野でも活躍している。また、軍事の分野でも活躍している』ラバは『モータリゼーション、電撃戦の普及する以前、戦争で重要な役割である火砲や物資輸送等の兵站に関わっていた。ナポレオン』『世は騎兵の運用について天才的な戦史をいくつも残した人物だが、当人は乗馬が下手なのかラバに乗っていたとされるほか、ラバを砲兵隊で大砲を曳く馬として大量に使っていたという。ナポレオンは、砲兵の出身であるため、ラバを扱い慣れていたと考えられている』。『現在、その役割の多くをヘリや車両などが担っているが、それらが侵入できないアフガニスタンのような山岳地域等への物資輸送として活用されている』とある。

 次にウィキケッティ」を引く。『ケッテイ(駃騠)は、オスのウマとメスのロバの間に生まれるウマ科の雑種動物で』、『外見は』『ラバと似ている』。『ケッテイは、平均的にラバよりわずかに小型である。この』二『種類の雑種の間に見られる体格差に関しては、多くの考察がなされている。一つはこれが単に生理学的なもので、メスのウマに比べてメスのロバの方が小さいことに起因するというものである。一方、これは遺伝的なものであると主張する人もいる。しかし、アメリカロバ・ラバ協会 (ADMS: American Donkey and Mule Society) は「ケッテイが親から受け継ぐ遺伝子はラバと全く同じである」としている』。『ウマ科の子孫の成長度は母親の子宮の大きさに影響されるが、ほとんどの場合ロバはウマより小さく、ケッテイは小さな体格となる。ラバ同様その大きさは様々であるが、これは母親となるロバが、馨甲(withers)』(きこう:ウィザーズ:牛馬などの肩甲骨間の隆起を指す語)『の部分で』約六十一センチメートル『ほどの小さなものから、ボデ・デュ・ポアトゥ (フランス語:Baudet de Poitou)のように一メートル二十六センチメートル『ほどのものまで、様々であるからだ。ケッテイの体格は最も大きな個体でも、おおよそロバの中でも最大の種の大きさまでにしかならない。これに対してラバはウマを母親とするので、ウマの中でも最大の種の大きさ程度まで成長することができる。ラバの中にはかなり巨大な個体も見られるが、それらはベルジアンのような使役馬から生まれたものである』。『体格の大きさ以外にも、ラバとケッテイの間にはしばしば差が見られる。ケッテイの頭は、ラバ以上にウマに似ている。しばしば』、『短い耳のケッテイがいるとはいえ、それでもそれらはウマの耳よりは長く、またラバよりもウマに似た』鬣『や尾を持つ。毛色の決定はオス親に依存しているため、ケッテイの毛は通常』、『ウマと同じとなる。また、逆にラバはロバの毛色と同じになるのが一般的である。一部のウマやロバが持っている、歩法などのある種の形質は、オスの親から遺伝すると考えられている。このため、多くの人が歩法のできるケッテイを作り出そうとして、歩法のできるオスのウマとメスのロバによる交雑を試みている』。『ウマとロバは染色体の数が異なっており(ロバ 』六十二『本、ウマ 』六十四『本)、ケッテイは生まれにくい。両者の雑種として生まれるケッテイの染色体数は』六十三『本となり、不妊である。染色体数が偶数でない場合、生殖機能不全となるのである。ADMSによれば、「ウマ科の雑種は、遺伝子の数が少ない側(ロバ)をオスの親に持つときに生産しやすい。したがってラバに比べてケッテイを生産するのは難しい」という』。『オスのケッテイとラバは通常、繁殖行動を抑えて管理しやすくするために去勢される。オスのケッテイやラバもメスとつがいをなすが、不妊である。オスのケッテイやラバが生殖能を有していたという報告はない』。『メスのケッテイとラバは必ずしも去勢されるわけではなく、発情するか否かはまちまちである。メスのラバは、純血種のウマやロバとつがいになると子を産むことが知られているが、これは極めてまれである』。一五二七年以降、『記録に残っているもので、メスのラバから子が生まれた事例は世界中で』六十『件強しかない。一方』、『ADMSによれば、メスのケッテイが子を産んだ事例は』一『件のみである』。『ラバのメスは母側の遺伝子を』、百%、『子孫に伝える。ラバの母親はウマであるので、一般的にラバのメスは子孫に』百%『のウマの遺伝子を伝える。このため、オスのウマと掛け合わされたメスのラバは』、百%『のウマを生み、ロバの遺伝子を全く伝えない』。一九八一年、『中国で、オスのロバに対して妊娠可能と判明したケッテイのメスが発見された。メスのラバと同様に、メスのケッテイが母側の遺伝子を』百%伝えるならば、百%のロバを生むだろう、『と科学者は予想した。しかし、この中国のケッテイをオスのロバと掛け合わせたところ』「Dragon Foal」『(龍の子)と名づけられた、ラバに似た特徴を備えてロバと似たメスの子を産んだ。生まれた子の染色体およびDNAを調べた結果によれば、これまでに文献で知られていない組み合わせであることが分かった。事前に予想されていた、オスのロバから受け継いだロバロバの遺伝子と、メスのケッテイから受け継いだ(母側のロバの遺伝子を』百%『受け渡すとするならば)ロバロバの遺伝子の組み合わせではないことが分かった。実際の遺伝子はロバロバ/ロバウマであった。つまり、メスのケッテイは父側の遺伝子と母側の遺伝子の混合を子に受け渡した』のである。二〇〇三年には『モロッコで、オスのロバと掛け合わされたメスのラバが』、七十五%がロバで二十五%がウマの『メスの子を産んだ。DNA検査によれば、中国のケッテイの子と同様』、『混合した核型であることが分かった。通常のケッテイが』六十三『本の染色体を持ち』、三十一『対のウマロバの組み合わせと』、一『本のあまりで構成されているのに対して、このモロッコのラバは』二十三『対のロバロバ染色体と』、八『対のウマロバ染色体と』、一『本のあまりを持っていることを意味する』。『モロッコでの混合した遺伝子の組み合わせの事例があることから、中国の事例での子の遺伝子が通常のものではないのは、ラバではなくケッテイが母親であるためなのか、あるいはモロッコでの事例のように何か他の要素が働いているのかは分からない』。『他にもケッテイが希少である理由がある。メスのロバとオスのウマは、メスのウマとオスのロバの組み合わせに比べて相性が合いにくい。このため』、二『頭が引き合わされても』、『つがいとならない場合がある。また、つがいとなった場合であっても、メスのウマがオスのロバと掛け合わされた場合に比べて、メスのロバはオスのウマの種を宿しづらい。さらに、大きなケッテイを生ませるためには、大きなメスのロバを必要とするので、難しい問題が生まれる。大きなロバは次第に貴重なものになってきており、危機に瀕している家畜種であると宣言されている』から『である。ロバの所有者は、純粋な大きなロバの生産に高い需要があるにもかかわらず、不妊であるケッテイの生産に貴重な生殖期間を費やしてしまうのを嫌がる』のである、とある。

 

「其の力、腰に在り、其の後ろに、鎖骨、有り、開く能はず。故に孳乳〔(うみさえ)ること〕せず」以上の引用で見た通り、こんな物理的理由ではない。

『「三才圖會」、「其の後ろ」の「後」の字を「股」と爲す』良安が「本草綱目」と「三才圖會」を校合するのは珍しい。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。引用は「巻九 物部一」から。

「匈奴」紀元前三世紀末から紀元後一世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族。秦末の紀元前二〇九年、冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう:君主)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設。東胡(とうこ)・大月氏を征圧し、全盛となり、漢にも侵入したが、漢の武帝の遠征と内紛により、東西に分裂、紀元後四八年、さらに南北に分裂、南匈奴は漢に服属し、北匈奴は九一年、漢に討たれた。人種的にはトルコ系説が有力で、西方に移動した子孫がフン族であるとされる(小学館「大辞泉」に拠った)。

『「駃騠」〔は〕神駿たり』神霊の気を受けた、馬の中でも特別に選ばれた名馬である。既に見た通り、なかなか出生しない希少種だからである。

「見るべし、人〔及び動〕物、氣を父に稟〔(う)〕け、氣、母〔よりは〕稟けざ〔れば〕なり」調べて見たところ、これも「五雑組」から引いている。良安も賛同したからわざわざ掲げたのだろうが、謝肇淛や寺島良安が、我々のあらゆる体細胞中のミトコンドリアDNAはその総てが母由来でしかないということを知ったら、どう思うだろう? と考えると、ちょっとニヤリとしたくなったものである。

「孟康、曰はく、『駃騠、良馬なり。生まれて七日にして其の母を超ゆ』〔と〕」孟康は生没年未詳の三国時代)の魏(二二〇年~二六五年)の人で以上は彼が成した「漢書」の注の一節と思われる。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 驢(うさぎむま) (ロバ)

 

Usagumuma

うさきむま

【音閭】

      【和名宇佐岐牟末】

リユイ

本綱驢臚也馬力在膞驢力在臚【膊肩膊也臚腹前也】驢長頰廣額

磔耳修尾夜鳴應更性善馱負有褐黒白三色入藥以黒

者爲良

野驢出女直遼東似驢而色駁鬃尾長山驢出西土有

角如羚羊詳羚羊下○海驢出東海島中能入水不濡

うさぎむま

【音、「閭〔(ロ)〕」。】

      【和名、「宇佐岐牟末」。】

リユイ

「本綱」、驢は臚なり。馬の力は膞〔(はく)〕に在り、驢の力は臚〔(ろ)〕に在り【「膊」は肩の膊〔(ほね)〕なり。「臚」は腹前〔(はらさき)を云ふ〕なり。】。驢、長き頰、廣き額、磔(さ)けたる耳、修〔(ととの)ふる〕尾〔たり〕。夜、鳴きて、更〔(こう)〕に應ず。性、善く馱負〔(だふ)〕す[やぶちゃん注:荷を背負う。]。褐・黒・白の三色有り。藥に入〔るるには〕黒き者を以つて良と爲す。

「野驢」、女直〔(ぢよちよく)〕・遼東に出づ。驢に似て、色、駁〔(まだら)〕にして、鬃〔(たてがみ)〕・尾、長し。○「山驢」、西土に出づ。角、有〔りて〕、羚羊のごとし。「羚羊」の下に詳らかなり。○「海驢」、東海島中に出づ。能く水に入〔るも〕濡れず。

[やぶちゃん注:奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ亜属 Asinus のロバ類の総称。或いは、その一種であるロバ Equus asinusウィキの「ロバ」によれば、本邦では別名をその耳の特徴から「うさぎうま」(兎馬)と呼び、『漢語では驢(ろ)。古代より家畜として使用される。現生ウマ科の中で一番小型だが、力は強く、記憶力も良い。学名 Equus asinus(エクゥス・アシヌス)は、ラテン語で「馬』の『ロバ」の意』である。『乾燥した環境や山道などの不整地に強い。家畜としては、比較的少ない餌で維持できる。寿命は長く、飼育環境によっては』三十『年以上生きることがある』。『ロバとウマは気質に違いがあると言われ』、『ウマは好奇心が強く、社会性があり、繊細であると言われ』るのに反し、『ロバは新しい物事を嫌い、唐突で駆け引き下手で、図太い性格と言われる』。『実際、ロバのコミュニケーションはウマと比較して淡白であり、多頭曳きの馬車を引いたり、馬術のように乗り手と呼吸を合わせるような作業は苦手とされる』。『野生のウマは、序列のはっきりしたハレム社会を構成し群れを作って生活するが、主に食料の乏しい地域に生息するノロバは恒常的な群れを作らず、雄は縄張りを渡り歩き単独で生活する』。『ロバの気質はこうした環境によって培われたものと考えられる』。『ただし、アメリカのジョージア州にあるオサボー島で再野生化したノロバ』(野驢馬)『のように、豊富な食料がある地域では』、『ハレム社会を構成する場合もある』。『最初に家畜として飼われ始めたのは、約』五千『年前に野生種であるアフリカノロバ』(Equus africanus:家畜ロバの原種)『を飼育したものとされる。古代から乗用、荷物の運搬などの使役に重用されたが、ウマに比べると』、『従順でない性質があり、小型でもある点が家畜として劣る点であった。逆にウマよりも優れていたのが』、『非常に強健で粗食に耐え、管理が楽な点であった』。『野生種の中で現存するのは、ソマリノロバ(Equus africanus somaliensis)のみであり、ソマリアとエジプトの国境地帯に見られたが、ソマリア内戦の影響で激減したため、現在はその大部分がイスラエルの野生保護区で飼育されている。一方、ハワイ島には家畜から野生化したロバが多数生息している』。『荒涼としたステップ地帯、砂漠地帯、あるいは山岳地帯などを放浪していたユダヤ人は、ロバを知る古い民族のひとつであり、そのため彼らの伝承や戒律などにもロバに関わるものが少なからずある』。『古代、ユダヤ人たちの間では、ロバに乗ることを禁じた日があった。イエスがキリスト(ユダヤの王)として、ロバに乗って』、「過ぎ越しの日」(ペサハ:ユダヤ教の宗教的記念日。家族が食卓につき、儀式的なメニューの食事をとって祝う。期間はユダヤ暦ニサン月(政治暦七月・宗教暦正月)十五日から一週間である。ユダヤ暦は太陰太陽暦であり、初日のニサン月十五日はグレゴリオ暦三月末から四月頃の満月の日に相当する)『エルサレムに入る記述が聖書にある』。『前近代のイスラム社会では時の施政者次第で』、『ユダヤ教徒やキリスト教徒への迫害が行われ、その際にロバ以外への騎乗を禁じられる事もあった』。「食用」の項。『中国の、特に華北においては、ロバは一般的な食材のひとつとなっている。多くの場合、老いて輸送などの労務が難しくなったものが食用にされる。このため、単に炒めるだけの料理では食べづらく、煮込み料理か餃子や肉まんの具や肉団子のようなミンチ肉料理にされることが多い。そのままではある程度の臭みがあるが、下ごしらえをうまくすることで中国で「上有龍肉、下有驢肉」(天には竜の肉があり、地上にはロバの肉がある)と言われるほどの美味に仕上げることができる』。『臘驢肉(ラーリューロウ làlǘròu)』は『中国山西省長治市の名物食材で、ロバ肉の塩漬けを燻製にしたもの』で、『驢肉火燒(リューロウフオシャオ lǘròu huǒshāo)』は『中国河北省保定市の名物料理で、ロバ肉を使ったハンバーガー風の軽食。「火燒」と呼ばれるパンの腹を割って、中に煮込んだロバ肉をはさんで食べる。近年は陝西省の「白吉」(バイジーモー)と呼ばれる白く押しつぶしたように焼いたパンを使う変種も出ている』。『肴驢肉(ヤオリューロウ yáolǘròu)』は『中国山東省広饒県などの名物料理で、ロバ肉を煮込んで、ゼラチン質と共に冷やし固め、スライスしてたべる、アスピック(煮こごり)のような前菜料理』。「薬用」の項。『ロバの皮から毛を取り、煮つめて取る膠(にかわ)は、漢方で「阿膠」(あきょう)といい、主成分はコラーゲンで、血を作り、止血する作用があると考えられている。このため、出血を伴う症状や、貧血、産後の栄養補給、強壮、皮膚の改善などの目的で、服用、配合される。阿膠は薬用以外に、これを加えた柔らかい飴(阿膠飴)なども作られている』先行する「阿膠」を見られたい。但し、「黃明膠(すきにかは)」の方の冒頭注で述べたように、現在の山東省聊城市東阿県内で、定められた手法で、当地の特殊な井戸水を以って製造・精製された膠のみが「阿膠(あきょう)」であり、それ以外を阿膠と呼ぶのは正しくない。なお、本来はウシを用いたが、事実、現行ではロバが当地でも原素材である)。「文化におけるロバの表象」の項。『中国には、全世界で飼育されているロバの』三分の一『に相当する頭数が飼われているにもかかわらず、古代に中国の影響を受けた日本では、時代を問わず、ほとんど飼育されていない。現在の日本のロバは』二百『頭という説もあり、多くとも数百頭であろう。極暑地から冷地の環境にまで適応し、粗食にも耐える便利な家畜であるロバは、日本でも古くから存在が知られていた。馬や牛と異なり、日本では家畜としては全く普及せず、何故普及しなかったのかは原因がわかっていない。日本畜産史の謎とまでいわれることがある』。『日本にロバが移入された最古の記録は』「日本書紀」に五九九年、『百済からラクダ、羊、雉と一緒に贈られたとするものである。この時は、「ウサギウマ」』一『疋が贈られたとされ、これがロバのことを指していると考えられている』(これは推古天皇七年九月癸亥朔の『秋九月癸亥朔。百済貢駱駝一疋。驢一疋。羊二頭。白雉一隻』を指す)。『また、平安時代に入ってからも、幾つか日本に入ったとする記録が見られる。時代が下って江戸時代にも、中国やオランダから移入された記録がある。別称として「ばち馬」という呼び名も記されている』(やはり耳の形が三味線の撥(ばち)に似ているからであろう)。『中国においては身近な家畜や乗り物として物語に登場する。道教の八仙の一人張果老や陳摶、『三国志演義』の黄承彦、ウイグル族の頓智話のナスレディン・エペンディ(阿凡提)などはロバに乗って現れ、世俗的でない風雅な雰囲気を感じさせている』。『成語では』、『無能や見掛け倒しであることを意味する「黔驢技窮」あるいは「黔驢之技(けんろのぎ)」がある。これは黔驢(貴州省のロバ)を初めて見たトラが、当初その大きさに恐れて警戒したが、見慣れると何も攻撃する技を持たないと気づき食べてしまったという故事による』。『西洋においては』、『ロバは愚鈍さの象徴としてしばしば用いられる。キリスト教化された中世以降のヨーロッパでもその傾向は変わらずに残る。現在でも各国語において「ロバ」に相当する言葉は「馬鹿」「愚か者」の換喩として用いられる。西洋でロバが愚鈍とされたのは、ロバには頑固で気分次第で動かなくなる融通の利かない所があり、騎士は馬に騎乗し、富農は牛馬を育て、ロバは貧農が育てていた事が理由として挙げられる(貧農には身近な存在だった)』。『ナポレオン・ボナパルトがアルプス越えに際して乗ったのは愛馬マレンゴであると思われがちだが、これはダヴィッドの絵によって創作されたもので、実際にはロバに乗っていた』。『古代ギリシア神話において最もよく知られるロバに関する逸話はフリュギアのミダス王に関するものである。この逸話は現代では「王様の耳はロバの耳」として親しまれている』とある。

「更〔(こう)〕に應ず」「五更」で古代中国の時刻制度で一夜の五区分を指す。本邦でも用いた。本来の「更」とは「その一更毎に夜番が交代する」の意であり、午後七時乃至八時から、順次、二時間を単位として、「初更」(甲夜/一鼓)・「二更」(乙夜/二鼓)・三更(丙夜/三鼓)・「四更」(丁夜/四鼓)・「五更」(戊(ぼ)夜/五鼓)と区切り、午前五時乃至六時に至る。「更」は「歴」「経(けい)」とも称し、また、特に「更」だけで最後の「五更」を指したり、また、総称として「一夜」の意を表わす場合もある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「女直」中国東北部を指す。元は満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族女真(じょしん)族に基づく広域地方名。満洲に同じ。

「遼東」現在の遼寧省の一部と朝鮮の一部に相当。以上の分布からは、この「野驢」はアジアノロバ Equus hemionus であるが、その亜種とは思われない。

「西土」中国から見て有意な西方で、中央アジアやインド・ネパールを指す。角があるとし、「山驢」と呼んでいるから、次注に出すヨツヅノレイヨウ(丘陵の水辺にある開けた森林や草原などに棲息し、にのみ、眼の上部と頭頂部に計四本の角を有する)を指しているかとも思われる。

「羚羊」『「羚羊」の下に詳らかなり』「レイヨウ」は分類群ではなく、「レイヨウ」と呼ばれる種群は、獣亜綱ウシ目ウシ亜目ウシ科 Bovidae の多くの亜科(ヤギ亜科 Caprinae 以外の全て)に分かれて多く存在し、多くはそれらのレイヨウ同士よりも、それぞれがウシかヤギにより近い関係にある。一部はアンテロープ(Antelope)とも呼び、分類学的には概ね、ウシ科からウシ族 Boviniとヤギ亜科を除いた残りに相当し、ウシ科の約百三十種の内、約九十種が含まれる(ここはウィキの「レイヨウ」を参考にした)。多くはアフリカに分布するが、一部はインド・中央アジアに棲息するので、時珍のそれは、前注で述べた通り、ウシ亜科ニルガイ族ヨツヅノレイヨウ(四角羚羊)属ヨツヅノレイヨウ Tetracerus quadricornisインドネパール:ウシ亜科の中でも原始的な種と考えられているが、画像を見る限り、本種は牛ではなく如何にも鹿っぽい。ウィキの「ヨツヅノレイヨウ」ヨツヅノレイヨウの画像をリンクさせておく)の誤認かとも思われる。後の方は、時珍が「本草綱目」の「獣之二」の「羊」の項に載る(版本によっては「羖羊」とするので検索では注意が必要)ことを指しているのであって、「和漢三才図会」には「羚羊」の項はないので注意。

「海驢」「東海島の中に出づ。能く水に入〔るも〕濡れず」東洋文庫訳は「東海島」に割注して『広東省遂渓県の東南海中の島』とするんだが((グーグル・マップ・データ))……ここの特産種のロバがいるんかなぁ?(いるとなれば、識者の御教授を是非、乞う)……しかし、水に入っても濡れへんて、おかしくない?……う~ん……これって、ロバじゃなくて、まさに今も本邦では「海驢」とも書く、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科Otariinae のアシカ類の誤認じゃあ、ありせんかねぇ? 時珍先生?

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(25) 「川牛」(5)

 

《原文》

 【池ノヌシ】池沼ノ主トシテハ、釜鏡鐘又ハ馬ノ鞍ノ如キ眼鼻モ無キ物マデガ往々ニシテ其威力ヲ逞シクセリ。況ヤ始メヨリ生アル物ノ中ニテハ、龜ヤ鯉ノ如キ靈物ハ勿論、鯰鰻モシクハ白田螺ノ類ニ至ルマデ、所謂劫ヲ經タルモノハ皆化ケ且ツ人ヲ捕ルナリ。其例ヲ列擧スルハアマリナル枝葉ナレバ略ス。要スルニ學者ノ分類記述ヨリ超シテ、今尚色々ノ動物ノ存在スルハ事實ナルガ如シ。【犬神】【オサキ狐】【クダ狐】例ヘバ犬神及ビ之ニ類似スル「ヲサキ」狐・「クダ」狐又ハ人狐ノ如キ、或ハ「トンボ」又ハ「トウビヤウ」ト云フ蛇ノ如キハ、恰モ是レ顯微鏡發見前ノ「バクテリヤ」ナリ。「クダ」ハ體細クシテ管ノ中ニ入ルべク、犬神ハ鼠ニ似テ群ヲ爲シテ人家ニ住ミ、總テ皆身ヲ隱スコト自在ナリ。【土瓶神】「トウビヤウ」ハ酒瓶ノ中ニ住ミテ時ニ出デテ人ニ憑キ、身ニハ蚯蚓ニ似タル頸輪アリ。一定ノ家筋ニ屬シテ能ク人ノ爲ニ恨ヲ報ズルノ力アリ。之ヲ見タル人多クシテシカモ動物學ノ書ニ見エズ。地上ニスラ既ニ此ノ如シ。況ヤ碧潭ノ底深ク牛ノ住ムナドハ決シテ驚クニ足ラズトス。【ヤナ】武藏川越城ノ三芳野天神ノ下ナル外濠ハ伊佐沼ノ水ト下ニ通ズ。コノ泥深キ堀ノ主ハ何カハ知ラズ「ヤナ」ト名ヅクル怪物ナリ。當城危急ノ際ニ於テ敵兵搦手(カラメテ)ノ堀端マデ迫リ來ル時ニハ、忽チ霧ヲ吐キ雲ヲ起シ魔風ヲ吹カセテ四方ヲ暗夜ト爲シ、且ツ洪水ヲ汎濫セシメテ寄手ニ方角ヲ失ハシムべシト云フ話ナリ〔十方菴遊歷雜記第三編下〕。實驗モセズシテ此作用ヲ承知シ、之ヲ防衞ニ利用シタルハ、智慧伊豆守ニ非ズンバ則チ太田道灌ナルべシ。【川熊】又川熊ト名ヅクル水中ノ獸アリ。其話ヲ聞クニ陸地ノ熊ト似タル所甚ダ少ナシ。少年ノ頃姫路ノ城ノ堀ニハ藪熊ト云フ怪物住ミテ人ヲ騙カスト聞キシガ、此モ熊トハ思ハレヌ生活狀態ナリキ。文政十年七月、名古屋大須(オホス)ノ門外ニ於テ、勝川ニテ生捕リタル猪熊ト名ヅケテ見セ物ニシタル獸ハ、實ハ木曾街道ノ中津川ニテ取リタル川熊ト云フ物ナリシヲ、川ハ水ニ緣アレバ雨ガ降リテハ惡シト、忌ミテ之ヲ「ヰノクマ」ト呼ビシナリ。毛ハ鼠色ニシテ澤(ツヤ)アリト云ヘリ〔見世物雜誌二〕。羽後ノ雄物川ニモ川熊ノ住ミシ證據アリ。秋田侯ノ先代ニ諡ヲ天英院ト謂ヒシ人、船ニテ此川ニ獵ヲセシ時、水底ヨリ黑キ毛ノ手ヲ出シテ、殿ノ鐵砲ヲ奪ヒシ怪物アリ。其後水練ノ達者ナル人アリテ、此川隨一ノ魔所タル洪福寺淵ノ底ニ入リ一挺ノ鐵砲ヲ拾ヒ上ゲタリ。佐竹家ノ什寶ニ川熊ノ御筒ト稱セシハ卽チ是ニシテ、以前藩主ガ水中ノ獸ニ奪ハレタリシモノ、現ニ川熊ノ摑ミシ痕存スト云フ〔月乃出羽路五〕。【怪物ノ手】此下流ノ河邊郡川添村大字椿川ニハ又川熊ノ手ト名ヅクル物ヲ傳フ。曾テ椿川ノ舟子、雄物川ノ岸ニ船繫リシテアリシニ、深夜ニガバト浪ノ音シテ舷ニ雙手ヲ掛クル物アリ。驚キテ鉈ヲ揮ヒテ之ヲ斬リ、朝ニナリテ見レバ此手舟ノ中ニ落チタリ。一見猫ノ手ノ如キ物ナリキト云フ〔同上〕。河童ナラバ卽刻ニ返付ヲ哀訴スべカリシ品物ナリ。

 

《訓読》

 【池のぬし】池沼の主としては、釜・鏡・鐘、又は、馬の鞍のごとき、眼鼻も無き物までが、往々にして、其の威力を逞しくせり。況や、始めより生ある物の中にては、龜や鯉のごとき靈物は勿論、鯰(なまづ)・鰻、もしくは、白田螺(しろたにし)の類ひに至るまで、所謂、劫(こう)を經たるものは、皆、化け、且つ、人を捕るなり。其の例を列擧するは、あまりなる枝葉なれば、略す。要するに、學者の分類記述より超して、今、尚ほ、色々の動物の存在するは事實なるがごとし。【犬神】【オサキ狐】【クダ狐】例へば、「犬神」、及び、之れに類似する「ヲサキ」狐・「クダ」狐、又は、人狐のごとき、或いは「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごときは、恰も是れ、顯微鏡發見前の「バクテリヤ」なり。「クダ」は、體、細くして、管の中に入るべく、「犬神」は鼠に似て、群を爲して人家ニ住み、總て皆、身を隱すこと、自在なり。【土瓶神(どびんがみ)】「トウビヤウ」は酒瓶(さかびん)の中に住みて、時に出でて、人に憑き、身には蚯蚓(みみず)に似たる頸輪(くびわ)あり。一定の家筋に屬して、能く、人の爲に、恨(うら)みを報ずるの力あり。之れを見たる人、多くして、しかも動物學の書に見えず。地上にすら既に此(かく)のごとし。況や碧潭の底深く牛の住むなどは、決して驚くに足らずとす。【ヤナ】武藏川越城の三芳野天神の下なる外濠は伊佐沼の水と下に通ず。この泥深き堀の主は、何かは知らず、「ヤナ」と名づくる怪物なり。當城危急の際に於いて、敵兵、搦手(からめて)の堀端まで迫り來る時には、忽ち、霧を吐き、雲を起し、魔風を吹かせて、四方を暗夜と爲し、且つ、洪水を汎濫せしめて、寄手に方角を失はしむべしと云ふ話なり〔「十方菴遊歷雜記第三編」下〕。實驗もせずして、此の作用を承知し、之れを防衞に利用したるは、智慧伊豆守に非ずんば、則ち、太田道灌なるべし。【川熊】又、「川熊(かはぐま)」と名づくる水中の獸あり。其の話を聞くに、陸地の熊と似たる所、甚だ少なし。少年の頃、姫路の城の堀には「藪熊」と云ふ怪物住みて、人を騙(たぶら)かすと聞きしが、此れも、熊とは思はれぬ生活狀態なりき。文政十年七月、名古屋大須(おほす)の門外に於いて、勝川にて生け捕りたる「猪熊」と名づけて見せ物にしたる獸は、實は木曾街道の中津川にて取りたる「川熊」と云ふ物なりしを、川は水に緣あれば雨が降りては惡しと、忌みて之れを「ヰノクマ」と呼びしなり。毛は鼠色にして澤(つや)ありと云へり〔『見世物雜誌』二〕。羽後の雄物川にも「川熊」の住みし證據あり。秋田侯の先代に諡(おくりな)を天英院と謂ひし人、船にて此の川に獵をせし時、水底より、黑き毛の手を出だして、殿の鐵砲を奪ひし怪物あり。其の後、水練の達者なる人ありて、此の川隨一の魔所たる洪福寺淵の底に入り、一挺の鐵砲を拾ひ上げたり。佐竹家の什寶に「川熊の御筒」と稱せしは、卽ち、是れにして、以前、藩主が水中の獸に奪はれたりしもの、現に「川熊」の摑みし痕、存す、と云ふ〔「月乃出羽路」五〕。【怪物の手】此の下流の河邊郡川添村大字椿川には、又、「川熊の手」と名づくる物を傳ふ。曾て、椿川の舟子、雄物川の岸に船繫(ふながか)りしてありしに、深夜に「がば」と浪の音して、舷(ふなばた)に雙手(もろて)を掛くる物、あり。驚きて、鉈を揮ひて、之れを斬り、朝になりて見れば、此の手、舟の中に落ちたり。一見、猫の手のごとき物なりき、と云ふ〔同上〕。河童ならば、卽刻に返付(へんぷ)を哀訴すべかりし品物なり。

[やぶちゃん注:「犬神」私の「古今百物語評判卷之一 第七 大神、四國にある事」の私の注を参照されたい。

「オサキ狐」私の「反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第一」の本文及び注を参照されたい。

「クダ狐」私の「御伽百物語卷之二 龜嶋七郞が奇病」の本文及び注を参照されたい。

『「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごとき』ウィキの「トウビョウ」を引く。『中国・四国地方に伝わる憑きもの』。『香川県ではトンボカミともいう』。『トウビョウはヘビの憑きものといわれ、その姿は』十~二十『センチメートルほどの長さのヘビで、体色は全体的に淡い黒だが、首の部分に金色の輪があるという』。『また、沖田神社の末社道通宮など、岡山県の幾つかの神社では、白蛇と伝承されている』。『鳥取県ではトウビョウギツネといって小さなキツネだともいう』。七十五『匹の群れをなしており、姿を消すこともできる』。『トウビョウの憑いている家はトウビョウ持ちといわれ、屋敷の中にトウビョウを放している家もあるが、四国では人目につかないように土製の瓶にトウビョウを入れて、台所の床上や床下に置いておき、ときどき』、『人間同様の食事や酒を与えるという』。『こうしたトウビョウ持ちの家は、金が入って裕福になるといわれる。また飼い主の意思に従ってトウビョウが人に災いをもたらしたり、怨みを抱いた相手に憑いて体の節々に激しい痛みをもたらすという』。『但し』、『飼い主がトウビョウを粗末に扱えば、逆に飼い主に襲いかかるという』。『岡山県ではトウビョウの祟りを鎮めるために道通様(どうつうさま)の名で祀られている。笠岡市の道通神社はこの道通様の神社としての側面があり』、『信者から奉納された道通様の小さな家があり、ヘビの好物として卵などが供えられている。なお、それらの家の中に祀られた蛇の置物は擬宝珠に巻き付いてそれぞれ阿吽の口の形をした二匹の白蛇の姿をしている』。『沖田神社の末社道通宮の社史でも、道通様は白蛇と言い伝えられている』。『谷川健一はトウビョウを「藤憑」』、『即ち』、『蔓植物のように巻き付く蛇で、縄文時代から続く蛇信仰の名残ではないかという説をとる』(最後の説は私にはなかなか興味深い)。

「ヤナ」『「十方菴遊歷雜記第三編」下』の「拾九」「川越城内みよしのゝ天神」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。標題は前頁)に出る。左頁(二九七頁の三行目以降)に出るが、想像した通り、水怪「ヤナ」は「梁」(=簗:川漁の簀を用いた装置)の漢字が当てられている。「ヤナ」の持つ性能は明らかな龍のそのまんまであり(但し、十方庵の後の記載には攻め手への現実の水攻めによる守備装置が記されてあって、非常に興味深い。或いは、この場外を水浸しにするプラグマティクな装置こそが「梁(やな)」であり、それを警告伝承として誇大化したものこそが「ヤナ」だったのだとも読める)、この城の堀及び伊佐沼にのみ特化している妖異で、私の調べた限りでは、他の地方にこの名の水怪を見出せない。現行の諸記載は、専ら、この「十方庵遊歴雑記」とそれお引っ張ったに過ぎない柳田のこの部分に拠ったものが殆んどであるが、眼を引いたのは、べとべとさんのブログ「べとべとさんの軍団生活」の「川越城のヤナと霧吹き井戸にある、「ヤナ」の伝承ルーツの可能性の一つの話であった(一部の改行を繋げて引用させて戴いた)。

   《引用開始》

この川越城には「ヤナ」という妖怪の話しが残されている。川越城が敵に襲われると、「ヤナ」は霧を立ち込めさせ、黒い雲と風で辺りを真っ暗にして、城全体を隠し、しまいには洪水を起こしたという。「ヤナ」はもともと川越の水辺に棲んでいて、川越城を建てた太田道灌は、「ヤナ」を守り神にして城を築いた、といわれている。資料が少ないため、「ヤナ」の姿や細かいことはわかっていない。

ただ、気になることがひとつ、ある。

川越城には「川越城七不思議」という話が残されていて、そのうちのひとつ、「霧吹き井戸」が「ヤナ」の話と酷似している。

川越城の敷地内に不思議な井戸があって、敵が攻めてきたときに井戸の蓋を開けると、霧が噴きでて城を覆いかくしたという。そのことから、川越城は別名「霧隠れ城」と呼ばれた。

この「霧吹き井戸」は、今では川越市立博物館の前に移築され、いつでも見ることができる。この「霧吹き井戸」の話がもとになって「ヤナ」が誕生したという説と、「霧吹き井戸」に「ヤナ」が棲んでいた、という説があるようだが、詳しいことはわかっていない。

では、「ヤナ」という名前はどこからついたものなのか。

前述した「川越七不思議」のひとつに「人身御供」という話がある。

太田道真[やぶちゃん注:どうしん。道灌同様、法名。]・道灌父子が川越城の築城を行っていたとき、水田の泥があまりにも深く、七ツ釜と呼ばれる底無しの場所があったり、築城に苦戦した。

ある夜、龍神が道真の夢枕に立って、「この地に城を築きたいのなら、明朝一番早く現れた者を、人身御供として差し出せ」と言った。

そして、次の朝一番に現れたのが、道真の愛娘・世禰姫(よねひめ)だった。

訳をきいた世禰姫は自ら七ツ釜のほとりの淵に飛び込み命をたった。まもなくして、川越城は完成したという。

この世禰姫が「ヤナ」の元になったのでは、と考えられている。

   《引用終了》

実は「ヤナ」は「簗」ではなく、「よね」の転訛で、太田道灌の妹(推定)の「世禰姫(よねひめ)」の、治水・城築にしばしば認められる人身御供説に基づくというのである。これは興味深い!

「武藏川越城の三芳野天神」現在の埼玉県川越市郭町にある三芳野神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。川越城址直近(旧城内。前注の「十方庵遊歴雑記第三編」の記述によれば、三重の櫓の下とある)で、川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城(別名で「霧隠城」。古河公方の勢力に対抗するための上杉氏の本拠地として、長禄元(一四五七)年に扇谷上杉氏当主で相模国守護の上杉持朝が築城を命じた)により、城内の天神曲輪に位置することになった。因みに、江戸時代には歌詞が成立していたとされるわらべ歌「通りゃんせ」の舞台はこことされる。

「伊佐沼」埼玉県川越市の東部に位置し、南北約千三百メートル、東西約三百メートルほどの沼。三芳野神社からは真東へ二キロメートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「智慧伊豆守」江戸前期の大名(武蔵国忍藩主・同川越藩藩主)で老中となった松平伊豆守信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。「島原の乱」や「慶安事件」(由井正雪の乱)等の重大事件の処理・「武家諸法度」改訂・「参勤交代」の制度化・鎖国整備などに参画、第三代将軍徳川家光から次代家綱に至る創業期幕藩体制の基礎確立に寄与し、その才気煥発からかく呼称された。

「川熊」ウィキの「川熊より引く(読みの「かはぐま」の濁音はこれに従った。以下はそれぞれ引用元が記されてあるものの、最後のものを除き、その大もとは柳田國男の本記載の可能性が濃厚である)。『川熊(かわぐま)は秋田県雄物川流域に現れたとされる妖怪』で、『菅江真澄による江戸時代の書物『月乃出羽路』に記述がある』。『猟師が雄物川で猟』(諸記載では鷹狩りとする)『をしていた最中に、川の中から真っ黒な毛だらけの手が現れ、殿様の鉄砲を奪った。悪戦苦闘の末に家来が、雄物川でも最大の真所といわれる洪福寺淵という場所に潜り、川熊から鉄砲を取り返し、その鉄砲はのちに「川熊の鉄砲」「川熊の御筒」と呼ばれるようになったという』。『また別の話では、ある船頭が雄物川の岸に船をつけたところ、水音と共に何者かが船の淵に手を掛けたので、驚いてナタで斬り落としたところ、それは猫の前足のようなものであり、雄物川下流の河辺郡川添村椿川(現・秋田市雄和)で川熊の手として残されたという』。文政一〇(一八二七)年には、『中津川で鼠色で光沢のある川熊が捕獲され、名古屋で見世物にされたが、その際に「川は水に縁があるので、雨にならないように」との理由で「猪熊(いのくま)」と名づけられたという』。『信濃川では、これと同発音の河熊なる妖怪が堤を切って大水をもたらすといい、「あの土手が潰れたのは河熊の仕業だ」などと言うそうである。この信濃川の河熊がどのようなものかは、伝承に残っていない』。

「藪熊」不詳。柳田國男自身の少年時の聞書採取のくせに、記載が頗る杜撰。「人を騙(たぶら)かす」「此れも、熊とは思はれぬ生活狀態なりき」と言っている以上、相当なデータが柳田自身の中に記憶されていたことが判るのに、非常に惜しいことをした。こうして伝承は消滅してゆくことは柳田自身が危惧していたことなのに、それを自らやってしまったのである。なお、「ちくま文庫」版全集では『ヤブクマ』のルビを振る。

「名古屋大須(おほす)」愛知県名古屋市中区大須(グーグル・マップ・データ)。大須観音(真言宗北野山真福寺宝生院。本尊聖観音)で知られる。

「勝川」大須で見世物にしたというのであれば、恐らくは、現在の愛知県春日井市勝川町ちょう)である(グーグル・マップ・データ)。

「羽後の雄物川」秋田県中部を流れる全長百三十三キロメートルの一級河川。秋田県の南半分を流域とし、古くは「御物川」とも書いた。宮城県境の虎毛山と神室山北斜面付近に発し、高松川・皆瀬川を合わせて横手盆地西端を北流、大仙市神宮寺付近で、最大の支流玉川と合流する。その後、秋田平野に出て、土崎付近で日本海に注ぐ。流水量は融雪時が最大で、河口付近では降雨時にしばしば逆流・停滞し、浸水を起こした。(グーグル・マップ・データ)。

「秋田侯の先代に諡(おくりな)を天英院と謂ひし人」戦国から江戸前期の大名で佐竹氏第十九代当主にして出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主佐竹義宣(元亀元(一五七〇)年~寛永一〇(一六三三)年:佐竹義重の長男で、母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる)。戒名を「浄光院殿傑堂天英大居士」とする。

「洪福寺淵」秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システムに、『南外村南楢岡の木直に宝性坊滝といわれる滝があり、その名は昔北楢岡の宝性坊という山伏が滝にうたれて苦行したことに由来する。(南外村南楢岡)また、昔神宮寺の地』『に洪福寺という大寺があったが、大地震にあって鐘とともに雄物川の淵に沈んだため』、『洪福寺淵という。この淵を鐘を積んだ舟が行くと底にひきこまれるといわれ、鐘を運ぶ時は、岡をはこんで歩くという。(神岡町神宮寺)』とある。現在の秋田県大仙市神宮寺附近(グーグル・マップ・データ)。

「川熊の御筒」前の「川熊」の引用を参照。

「河邊郡川添村大字椿川」現在の秋田市南部、雄和地区北部の雄物川両岸、秋田空港の西側の雄和椿川(ゆうわ)(グーグル・マップ・データ)。

「川熊の手」残念ながら、現存しない模様。ただ、T UブログTiger Uppercut!~ある秋田人の咆哮の「川熊の正体では(何と、この鉈で川熊の手を切り落とした一件のロケーションの対岸がブログ主の家だとある)、この伝承は聴いたことがないとされつつも、この辺りの雄物川は水深が有意に浅いとされ、『おそらく川熊というのは』、『狸が魚などを獲るために川に入って、たまたま浮かんでいる船に手をかけたというのが真相のような気がする。ずぶ濡れの狸がいるはずもない水中からでてくれば妖怪だと思うに違いない』と、「川熊」の正体は狸(タヌキ)ではないかされておられ、非常に興味深い。]

2019/02/25

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 大鋸

 

 大 鋸

 

大鋸(おが)をひくひびきはゆるく

ひとすぢに呟(つぶ)やくがごと、

しかはあれ、またねぶたげに。

 

いや蒸(む)しに夏(なつ)のゆふべは、

風(かぜ)の呼息(いき)暑(あつ)さの淀(よど)を

練(ね)りかへすたゆらの浪(なみ)や。

 

河岸(かし)にたつ材小屋(きごや)のうちら、

大鋸(おが)をひく鈍(にぶ)きひびきは

疲(つか)れぬる惱(なや)みの齒(は)がみ。

 

うら、おもて、材小屋(きごや)の戸口(とぐち)、――

生(なま)あをき水(みづ)の香(か)と、はた

あからめる埃(ほこり)のにほひ。

 

幅(はゞ)びろの大鋸(おが)はうごきぬ、

鈍(にぶ)き音(おと)、――あやし獸(けもの)の

なきがらを沙(いさご)に摩(す)るか。

 

はらはらと血(ち)のしたたりの

おがの屑(くず)あたりに散(ち)れば、

材(き)の香(か)こそ深(ふか)くもかをれ。

 

大鋸(おが)はまたゆるく動(うご)きぬ、

夕雲(ゆふぐも)の照(て)りかへしにぞ

小屋(こや)ぬちはしばし燃(も)えたる。

 

大鋸(おが)ひきや、こむら、ひかがみ、

肩(かた)の肉(しし)、腕(かひな)の筋(すぢ)と、

まへうしろ、のび、ふくだみて、

 

素膚(すはだ)みな汗(あせ)に浸(ひた)れる

このをりよ、材(き)の香(か)のかげに

われは聽(き)く、蝮(はみ)のにほひを。

 

夜(よる)の闇(やみ)這(は)ひ寄(よ)るがまま、

大鋸(おが)ひきは大鋸(おが)をたたきて、

たはけたる歌(うた)の濁(だみ)ごゑ。

 

[やぶちゃん注:何故だか、私はこの一篇を偏愛する。大鋸を挽く「あの」音と、その「あの」匂いが、実際に漂ってくるからである。

「大鋸」「おが」は「おほが(おおが)」の音変化で大きな木材から板を挽 くための縦挽きの大型の鋸(のこぎり)のこと。元は中国・朝鮮の框鋸(かまちのこ)・枠鋸に由来するもので、日本へは十四世紀頃(室町時代)に導入されたとされる。工の字形の木枠の片側に幅の狭い鋸身をつけ,他端を紐で結び,この紐を絞ることによって鋸身を伸長させ、二人で挽いた(ウィキの「日本の鋸にある室町時代の画像をリンクさせておく)が、近世に入ると、前者より幅広い鋸身をもった一人挽きの柄鋸(えのこ)形式のものが現われた(グーグル画像検索「たい)。

「ひかがみ」名詞。「膕(ひかがみ)」。膝の後ろの窪んだ部分。「隠曲(ひきかがみ)」の変化した語という。「よぼろ」とも呼ぶ。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 海蛆

 

 海 蛆

 

ひき潮(じほ)ゆるやかに、

見(み)よ、ひきゆくけはひ、

堀江(ほりえ)に船(ふね)もなし、

船人(ふなびと)、船歌(ふなうた)も。

 

濁(にご)れる鈍(にび)の水脈(みを)

くろずむひき潮(じほ)に、

堀江(ほりえ)のわびしらや、

そこれる水脈(みを)のかげ。

 

さびしき河岸(かし)の上(うへ)

うごめく海蛆(ふなむし)の

あな、身(み)もはかなげに

怖(お)ぢつつ夢(ゆめ)みぬる。

 

慕(した)はし、海(うみ)の香(か)の、――

風(かぜ)こそ通(かよ)へ、今(いま)、

曇(くも)りてなよらかに

こもりぬ、海(うみ)の香(か)は。

 

濁(にご)れる堀江川(ほりえがは)

くろずむ水脈(みを)のはて、

入海(いりうみ)たひらかに

かがやく遠渚(とほなぎさ)。

 

かなたよ、海(うみ)の姫(ひめ)、

鷗(かもめ)か舞(ま)ひもせむ、

身(み)はただ海蛆(ふなむし)の

怖(お)ぢつつ醉(ゑ)ひしれぬ。

 

ひき潮(じほ)いやそこり

黑泥(くろひぢ)の水脈(みを)の底(そこ)、

堀江(ほりえ)に船(ふね)も來(こ)ず、

ましてや水手(かこ)の歌(うた)。

 

[やぶちゃん注:第六連三行目「身(み)はただ」は底本では「身(み)はだ」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「海蛆」このルビなしの標題から、これを即座に「ふなむし」(甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ属フナムシ
Ligia exotica)と読める人は、私のような海岸生物フリークでもない限り、実はだんだん減っているのではあるまいか? 例えば、私が大学時代から用いている昭和五一(一九七六)年第二版改訂版「広辞苑」や、平凡社「世界大百科事典」には「船虫」と併置して載せるけれども、驚いたことに、小学館「日本国語大辞典」にも「海蛆」の表記は載らぬし、ネット版の通常の国語辞典類では殆んど全滅だ。まあ、見た目、如何にも不快な印象を及ぼすこと請け合いだから、消えていい漢字熟語なのかも知れぬが(但し、現代中国語では「海蛆」は、沙蚕(ゴカイ)の仲間である、環形動物門多毛綱遊在亜綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目ゴカイ科属ネレイス属アシナガゴカイ Alitta succinea(アリッタ・スクシネア)の標準漢名でもある(Nereis succinea ネレイス・スクシネアは同種のシノニムで、本邦にも棲息する。に画像と詳細データ有り))。さすれば、何時の日か、有明のこの詩も、得体の知れぬ気持の悪い生き物の詩として、葬り去られる運命なのかも知れぬ。

「堀江(ほりえ)」「堀江川(ほりえがは)」有明にして、珍しく固有名詞地名が詠み込まれている。ただ、私はこれがどこであるのかを同定比定する確かな資料を所持しない。古来、知られた大坂の堀江と堀江川が有名ではあるが、有明は東京人で大阪に居住したことはないはずである。たまさかの旅の偶感だとしてすると、それは如何にも軽薄だし、そもそも近代の大阪の堀江は、想像するに、この詩篇のようなフナムシがちろちろ上ってくるような、入海の遠い渚を遠望し得るロケーションでは、ない、ように思われる(仮想されたサンボリスムの時代詠とするなら別ではあるが)。私はこれは実景として、一つの候補地としては浦安の堀江川を挙げておこうと思う。である(グーグル・マップ・データ)。旧江戸川河口で、直南西直近で東京湾湾奥(現在のディズニーランドが左岸に当たる)で海も近い。もし、別にロケ地があるとせば、お教え願いたい。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま) (ウマ)

 [やぶちゃん注:本「馬」の項は異様に長い(原典でまるまる六頁に亙り、東洋文庫訳もまるまる八ページもかかっている)ので、頭でまず注する。馬の学名は、

哺乳綱奇蹄(ウマ)目ウマ科ウマ属ノウマ亜種ウマ Equus ferus caballus

(エクゥウス・フェルス・カバッルス)である。ウィキの「ウマ」の梗概部の一部のみを引いておく。『社会性の強い動物で、野生のものも家畜も群れをなす傾向がある。北アメリカ大陸原産とされるが、北米の野生種は、数千年前に絶滅している。欧州南東部にいたターパン』(ウマ属ノウマ亜種ターパン Equus ferus ferus:絶滅亜種。最後の一頭は一九〇九年に亡くなった)『が家畜化したという説もある』。『古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられるほか、食用にもされ、日本では馬肉を「桜肉(さくらにく)」と称する。軍用もいる』。『速力に優れ、競走用のサラブレッドは最高』時速八十七キロ『を出すことができる。また、競走用クォーターホース』(Quarter horse:正式にはアメリカン・クォーター・ホース American quarter horse。ウマの品種の一つで、体高は百五十センチメートル、体重は四百キログラム程度。アメリカに於いて、主として乗馬・牧畜作業・競馬用として使用され、世界各地で四百万頭余りが登録されており、事実上、世界で最も頭数の多い品種。ここはウィキの「クォーターホース」に拠った)『は、比較的容易に』時速九十キロ『を達成する』。二〇〇五年の『アメリカでの調査では、下級戦にもかかわらず』、三百二メートル『のレースのラスト』百一メートル『の平均速度が』九十二・六キロ『に達していた』という。学名の属名「Equus」種小名の「caballus」も『ともにラテン語で「馬」の意』である。属名の方は『インド・ヨーロッパ祖語にまで遡ることの出来る古い語彙』で、種小名の方は、「馬」を意味する『イタリア語の』「cavallo」(カヴァッロ)、スペイン語の「caballo」(カバジョ・カバージョ・カバリオ・カバーリョ)、フランス語の「cheval」(シュヴァル)『などに連なる』語である。]

     旋毛吉凶

[やぶちゃん注:以上は以下の図の上に右から左に記されてある。以下の部分の旋毛(渦巻き毛。それぞれの箇所(部位)に名前が付いているのである)が吉凶を占うことが、本文の後に出る。本文によれば、「壽星・帶纓〔(たいえい)〕・乘鐙〔(じやうとう)〕・臁花〔(れんくわ)」以外の旋毛は凶とある。]

 

Muma

[やぶちゃん注:図の中のキャプションを電子化しておく(上下優先で右から左へ)。こんな酔狂なことをやるのは恐らく、後にも先にも、私以外にはあんまり居そうもない。さればこそ特異点也!!!

・壽星

(額の中央か。それは確かに名前も含めて如何にも吉らしい感じがする)

・滴淚

(渦を巻いた毛だから、眼の直下のこの名はしっくりくる)

・帶纓〔(たいえい)〕

(「纓」は「冠が脱げないように顎の下で結ぶ紐」の意)

・鎖唯〔(さゐ)〕

(ヒトで言う鎖骨位置で「鎖」は腑に落ちる)

門〔(さうもん)〕

(「」は「葬」や「喪」と同じ意。これは如何にも凶らしい)

・听哭〔(ぎんこく)〕

(「泣く声を聴く」の意があるから、これも凶に相応しい。耳の尖端の外側か)

・靠槽〔(かうさう)〕

(「靠」は「凭(もた)れる」の意であるから、「槽」=飼葉桶(かいばおけ)に首を垂らしたときにこの部分を以ってもたれるかかるの意で。意味は腑に落ちる)

・騰蛇〔(とうだ)〕

(「騰」は「上がる・昇る」の意。位置的には鬣(たてがみ)の頂点部で腑に落ちる)

・乘鐙〔(じやうとう)〕

(ここは鞍を置いた際に鐙がくる位置であり、騎乗した者が馬に命ずる際の重大な伝達部の一つであるから、ここに旋毛があるのは「吉」というのは頷ける気がする)

・領鬃〔(りやうそう)〕

(「領」には「項(うなじ)」「襟首」の意があり、「鬃」は「鬣」に同じいから、位置的には納得出来る)

・挾屍

(これも如何にも不吉な感じ)

・風淚

・駝屍〔(だし)〕

(位置的には「駝」(荷物を載せるの意がある)は納得出来る背の部分ではあるが、これは別な意味で凶の極みであると思う。何故なら、「駝」の字は真臘(現在のカンボジア)の方言で「父母を呼ぶときに添える敬称」だからである。方言であっても、それに「屍」を添えて孝を尊ぶ中華社会で吉であろうはずは絶対にないと思うからである)

・帶劔

(帯剣して騎乗した場合の、その位置(正確には左側であるが)に当たるので腑に落ちる)

・臁花〔(れんくわ)〕

(「臁」は「穴・脛(すね)・脛の両側」の意であるが、位置から見て意味が判らない。この指定が恐らくは馬の経絡をも兼ねていると考えるなら、「穴」で腑には落ちるが)

?

(前の「?」が音も意味も不詳のため、読めない。下は前に出た「さう(そう)」。これまた、凶っぽい)

・豹尾〔(へうび)〕

(これ一つだけは知っている熟語であった。古暦注や陰陽道で方角を司る凶神の一つで、八将神の一つ。計都(けいと)星(中国の九曜星の一つである昴(ぼう)星宿にある星の名。、日月を両手に捧げ、青龍に乗り、憤怒の形相をした神像で表わされる。この星は実在の天体ではなく、月の軌道面(白道)と太陽の軌道面(黄道)の交点とする見方があり、また時に現われて災害を齎す彗星・流星の類いとする考え方もあった)の精とする。子年には戌の方(北西)、丑年には未の方(南西)、寅年には辰の方(南東)、卯年には丑の方(東北)におり、辰年には再び戌の方というように、四年で一巡する。この方角に向かって畜類を求めたり、また、大小便などすることを忌んだから、凶のチャンピオンぽい気はする)

・後

(これも凶らしい名である)

丸括弧で注したのは、私に判りそうな漢字の附記で、他の注を附さないものは、判っているのではなく、よく判らないものでもある。]

 

むま    阿濕婆【梵書】

      【和名無萬】

      隲【牡】 駔

      【俗云 丸馬】

      【牝】

      【俗云 雜役】

【音麻】

★     騸

マアア

[やぶちゃん注:★の位置に図の下にある馬の篆書体が示されてある。] 

 

本綱馬字象頭髮尾足之形生一曰駒【和名古萬】

曰騑四其名色甚多大抵以西北方者爲良

東南者劣弱不及馬應月故十二月而生其年以齒別之

在畜屬火在辰屬午在卦爲☰乾馬之眼光照人全身者

其齒最少光愈近齒愈大馬食杜衡善走食稻則足重食

鼠屎則腹脹食雞糞則生骨眼以僵蠶烏梅拭牙則不食

得桑葉乃解掛鼠狼皮於槽亦不食遇海馬骨則不行以

豬槽飼馬石灰泥馬槽馬汗着間並令馬落駒繫猿猴於

[やぶちゃん注:東洋文庫訳に従い、訓読では前行の「間」を「門」に、「駒」を「胎」に変える。前者は「本草綱目」でもそうなっている。後者は「本草綱目」も「駒」だが、意味が通らない。]

厩辟馬病皆物理當然耳馬膝上有夜眼有此者馬能夜

行故名【三才圖會云馬八尺以上曰龍七尺以上曰騋六尺以上曰馬五尺以上曰駒】

肉【辛苦冷有毒】 除熱下氣強腰脊輕身強志【以純白牡馬爲良以冷水煑食

不可蓋釜同倉米蒼耳食必得惡病十中有九死自死

馬不可食凡食馬中毒者飮蘆菔汁食杏仁可解】

馬墨 在腎牛黃在膽造物之所鍾也【此亦牛黃狗寳之類】

馬通 馬屎曰通牛屎曰洞豬屎曰零皆諱其名也

[やぶちゃん注:「豬」は「猪」のように見えるが、「本草綱目」ではイノシシやブタを総称する「豬」で、ここは文脈からブタの意であろうと推測し、この字にした。]

馬溺【辛微寒有毒】白馬溺治消渇療積衆癥瘕及反胃

 昔有患心腹痛死者剖之得一白鼈赤眼活者試以諸

 藥納口中終不死有人乘白馬觀之馬尿堕鼈而鼈縮

 遂以灌之卽化成水後以此方治癥瘕

馬肝【有大毒】 馬肝及鞍下肉殺人不可食

 字彙云馬稟火氣而生火不能生木故有肝無膽膽者

 木之精氣也木臟不足故馬肝有大毒食之者死

                  人丸

  拾遺山科の木幡の里に馬はあれとかちよりそ行君を思へは

  古今大あらきの杜の下草生ひぬれは駒もすさめす刈る人もなし

昔有駿馬名驁以壬申日死故乘馬忌此日

△按凡跨馬曰騎走馬謂之馳【古訓波之留今稱加介留蓋馬死曰波之留故忌之】

 凡騁馬曰磬止馬控【今馬奴等毎欲騁則謂止欲止則言動其字義相反矣然馬亦

 隨其聲也用來久故不改】馬怕石不能行曰?【介之止無】馬載重難行曰

 駗驙馬行不前曰馬鳴曰嘶【訓以波由俗云以奈奈久凡馬馳時不嘶如嘶

 者也其馬卒死】馬不施鞍轡而騎曰俗云裸馬

 駿【音俊和名土岐宇萬】馬之美稱取俊傑之義 駑【音奴和名於曾岐宇萬】

 最下也 駻【音早和名波爾無萬】突惡馬也 馱【音駝】負物馬也凡

 以畜載物皆曰馱【俗作或作駄並非】和名謂之小荷馱馬【今米一斛五斗爲一駄約

 凡重六十貫目】

張穆仲安驥集云馬相有三十二相眼爲先

 馬眼如垂鈴 眶凸者佳  腦骨欲員  垂睛欲髙

 耳如削筒  頰骨欲員  項長彎細  鬃欲茸

 
髙   排按肉欲厚 脊梁欲平  腰要短

 鼻要寬大  上唇欲方  口文欲深  下唇欲員

 食槽欲寬  欲闊   膝欲員   脚欲髙

 脚大而實  前蹄欲員 後蹄欲大欲近 掌骨欲髙

 脛※骨細  肚下生節欲近      鹿節欲曲

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廷」。]

 曲池欲深  汗溝欲深  尾骨欲短  外腎欲小

 腿似琵琶

――――――――――――――――――――――

馬三十二以齒知
 
駒齒二 二齒四 三齒六 四成齒二

 五成齒四 六肉牙生 角區缺 八

 區如一 九咬下中區二齒臼 十同四齒臼

 十一六齒臼 十二同二齒平 十三四齒平

 十四同六齒臼 十五咬上中區二齒臼 十六

 
同四齒臼 十七同六齒臼 十八二齒平

 十九同四齒平 二十咬上下盡平 自二十一

 
次第齒黃至二十六咬上下盡黃 自二十七

 次第齒白至三十二上下盡白

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馬之毛色

 騂【音征】赤毛馬也 音離】黒毛馬也 音愈。和名栗毛紫毛馬

駮【音愽布知】〕不純白 油馬【和名糟毛】 騮【和名鹿毛】赤馬黒鬣

烏騮【和名黑鹿毛】 黃騮【和名赤栗毛】 紫騮【和名黒栗毛】

連錢【和名連錢葦毛】靑黑斑如魚鱗 【和名葦毛】靑白襍毛

騢【和名鴾毛】赭白雜毛 赤鴾毛【赭黃馬】 和名白鹿毛黃白雜色

駱【和名川原毛】白馬黒髦 沙駱毛【和名黑川原毛】 騵【音[やぶちゃん注:欠字。]】騮馬白腹

騏【音[やぶちゃん注:欠字。]】青黒色  騧【音[やぶちゃん注:欠字。]】黃馬黒喙 駰【音[やぶちゃん注:欠字。]】淺黒而白襍色

音[やぶちゃん注:欠字。]尾白馬 和名阿之布知四骹皆白色【膝以下曰骹】

 以馬旋毛所在知吉【見于前圖如壽星帶纓乘鐙※花則

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廉」。]

 爲吉其他爲

搜神記漢文帝十二年呉地有馬生角在耳前上向右角

長三寸左角長二寸皆大二寸是臣不順之妖也

万寶全書云馬火畜也性惡濕如生疥瘡用生胡麻葉搗

汁灌之脊瘡用黃丹敷之尿血用黃芪烏藥芍藥山茵陳

地黃兜苓枇杷葉爲末灌之

△按馬之療治針灸藥方詳于馬醫書其藥中禁用貝母

 誤用之則害馬而本草載雞屎烏梅爲馬毒不及貝母

 者後人試知之乎

 相傳安閑天皇二年放牛於瀨津大隅等放馬於科野

 國望月牧霧原牧而後世不乏牛馬今則産處處者多

 矣奧州常州之爲良薩州次之信州甲州上下野州

 總州亦次之

小荷駄馬 載負貨物馬也凡以畜載物皆曰佗【今俗作或作

 ?並非也从馬从大】聖武帝【天平十一年】令天下改定馱負之重【先是】馱馬

 一匹所負之重大畧二百斤甚重勞馬蹄於是令諸州

 以百五十斤爲限今制用二十五貫目亦畧合古法

著聞集云有都築平太經家者以善御馬仕于平氏敗北

 之日爲虜於是有献駿馬於鎌倉者而人不克御之使

 囚經家乘之則如相馴者人皆感之頼朝大喜免罪爲

 厩別當嘗養馬異常毎夜半許用白色物自手令之飼

 未知何物也但日中不飼以爲異經家遂入海死惜哉

 不傳其術也

むま    阿濕婆〔(あしつば)〕【梵書】

      【和名、「無萬」。】

      隲(をむま)【牡。】 駔〔(をむま)〕

      【俗に云ふ、「丸馬」。】

       (めむま)【牝。】

      【俗に云ふ、「雜役」。】

【音、「麻」。】

★     騸(へのこなしのむま)

マアア

[やぶちゃん注:★の位置に図の下にある馬の篆書体が示されてある。「騸(へのこなしのむま)」は今まで同様、去勢された雄馬のこと。] 

 

「本綱」、馬の、頭・髮(たてがみ)・尾・足の形に象る。生まれて一を「〔(かん)〕」と曰ひ、二を「駒」と【和名、「古萬」。】曰ひ、三を「騑〔(ひ)〕」と曰ひ、四を「〔(たう)〕」と曰ふ。其の名色〔(ないろ)〕[やぶちゃん注:馬は一般に毛色で呼称分別する。それを言ったもの。]、甚だ、多し。大抵、西北の方の者を以つて良と爲し、東南の者、劣弱にして及ばず。馬、月に應ず。故に、十二〔か〕月にして生ず[やぶちゃん注:正しい。ウマの妊娠期間は十一ヶ月から十二ヶ月である。]。其の年、齒を以つて之れを別〔(わか)〕つ。畜に在りては、火に屬し、辰〔(とき)〕に在りては午〔(うま)〕[やぶちゃん注:正午前後の二時間。]に屬し、卦〔(け)〕に在りては、「☰」、乾〔(けん)〕と爲す。馬の眼光、人の全身を照らす者、其の齒、最も少なり。光、愈々、近くして、齒、愈々、大となる[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、何を言っているのかよく判らない。]。馬、杜衡〔(とこう)〕を食へば、善く走り、稻を食へば、則ち、足、重し。鼠〔の〕屎〔(くそ)〕を食へば、則ち、腹、脹〔(は)〕る。雞〔(にはとり)の〕糞を食へば、則ち、骨眼〔(こつがん)〕を生ず。〔それ、〕僵〔(し)せる〕蠶〔(かひこ)〕を以つて〔治〕す。烏梅〔(うばい)を以つて〕牙(きば)を拭〔(ぬぐ)〕ふときは、則ち、食べず。桑の葉を得ば、乃〔(すなは)〕ち、解す。鼠・狼の皮を槽(むまふね)[やぶちゃん注:「飼い葉桶」に同じ。]に掛けても亦、食はず。海-馬〔(たつのおとしご)〕の骨に遇へば、則ち、行かず。豬〔(ぶた)〕の槽〔(ふね)〕を以つて馬を飼ひ、石灰〔を以つて〕馬〔の〕槽を泥〔(よご)〕し、馬、汗〔する〕を門〔(もん)〕に着〔(つな)ぐ〕ときは、並びに[やぶちゃん注:孰れの場合も。]、馬をして胎〔(こ)〕を落とさしむ。猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く。皆、物〔の〕理〔(ことはり)〕、當に然るべきのみ。馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの。有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく【「三才圖會」に云はく、『馬の八尺以上、「龍」と曰ひ、七尺以上、「騋〔(らい)〕」と曰ひ、六尺以上、「馬」と曰ひ、五尺以上、「駒」と曰ふ』〔と〕。】。

肉【辛苦、冷。毒、有り。】 熱を除き、氣を下〔(くだ)〕し、腰・脊を強くし、身を輕〔くし〕、志〔(こころざし)〕を強くす【純白の牡馬を以つて良と爲す。冷水を以つて煑て食す。釜を蓋〔(ふた)〕すべからず。倉米・蒼耳と同じく〔して〕食〔へば〕、必ず、惡〔しき〕病ひを得。十中、九、死〔する〕有り。自死の馬、食ふべからず。凡そ、馬を食ひ、毒に中〔(あた)〕る者、蘆菔〔(だいこん)の〕汁を飮み、杏仁〔(きやうにん)〕を食へば、解すべし。】。

馬墨(〔むま〕のたま) 腎に在り。牛黃(〔うし〕のたま)は膽〔(きも)〕に在り。造物の鍾〔(あつま)れる〕所なり【此れ亦、牛黃〔(うしのたま)〕・狗寳〔(いぬのたま)〕の類ひ〔なり〕。】。

馬通(〔むま〕のふん) 馬の屎〔(くそ)〕を「通」と曰ひ、牛の屎を「洞」と曰ひ、豬〔(ぶた)〕の屎を「零」と曰ふ。皆、其の名を諱(い)むでなり。

馬溺(〔むま〕のゆばり)【辛、微寒。毒、有り。】白馬の溺り、消渇〔(しやうけち)〕を治し、積衆癥瘕〔(しやくじゆちようか)〕及び反胃〔(ほんい)〕を療す。

昔、心腹〔の〕痛みを患ひて死せる者、有り。之れを剖〔(さ)き〕て一〔つの〕白〔き〕鼈〔(すつぽん)〕の赤〔き〕眼にて活(い)きたる者を得。試みに諸藥を以つて、口〔の〕中に納〔(い)るるも〕、終〔(つひ)〕に死せず。〔この時、〕人、有り、白馬に乘りて、之れを觀る。馬、尿〔(いばり)し〕て、鼈に堕ち、而して、鼈、縮み、遂に以つて、之れを灌ぐ〔に〕、卽ち、化して、水と成る。後、此の方を以つて癥瘕を治す〔るなり〕。

馬肝〔(むまのきも)〕【有大毒】 馬の肝及び鞍〔の〕下の肉、人を殺す。食ふべからず。

「字彙」に云はく、『馬、火〔(くわ)〕の氣〔(き)〕を稟〔(う)け〕て生ず。火、木〔(もく)〕を生ずること、能はず。故に、肝、有りて、膽、無し。膽は木の精氣なり。木臟〔(もくざう)〕足らざる故、馬〔の〕肝、大毒有り、之れを食ふ者、死す』〔と〕。

                  人丸

  「拾遺」

    山科の木幡〔(こはた)〕の里に馬はあれど

       かちよりぞ行く君を思へば

  「古今」

    大あらきの杜〔(もり)〕の下草生ひぬれば

       駒もすさめず刈る人もなし

昔、駿馬〔(しゆんめ)〕有り、驁〔(がう)〕と名づく。壬申〔(みづのえさる)〕の日を以つて死す。故に、馬に乘るに、此の日を忌む。

△按ずるに、凡そ、馬に跨(またが)る「騎」と曰ひ、馬を走らすを、之れを「馳」と謂ふ【古えは「波之留〔(はしる)〕」と訓ず。今、「加介留〔(かける)〕」と稱す。蓋し、馬の死を「波之留」と曰〔へば〕、故に之れを忌む〔なり〕。】。

凡そ、馬を騁〔(は)する〕[やぶちゃん注:「騁」は「馬を走らせる」の意。]を「磬〔(けい)〕」と曰ひ、馬を止〔(とど)〕むるを「控〔(こう)〕」と曰ふ【今、馬奴〔(まご)〕等の毎〔(つね)〕に騁(は)せんと欲するときは、則ち、「止(し)」と謂ひ、止〔(とど)〕めんと欲するときは、則ち、「動〔(どう〕)」と言ふ。其の字義、相ひ反す。然れども、馬も亦、其の聲に隨ふ。用ひ來たること久しき故、改めず。[やぶちゃん注:以上は良安の割注。]】。馬、石を怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])れて、行くこと能はざるを「?(けしとむ)」【「介之止無」。】と曰ふ。馬、重きを載せて、難〔(なん)〕を行くを「駗驙〔(しんてん)〕」と曰ひ、馬、行きて、前(すゝ)まざるを、「〔(たく)〕」と曰ふ。馬、鳴くを「嘶〔(いばふ)〕」と曰ふ【訓、「以波由〔(いばゆ)〕」、俗に云ふ、「以奈奈久〔(いななく)〕」。凡そ、馬、馳する時、嘶〔(いなな)〕かず。如〔(も)〕し、嘶く者〔は〕、なり。其の馬、卒死す。】馬、鞍・轡を施さずして騎(の)るを「(はだせ)」と曰ふ【俗に云ふ、裸馬〔(はだかむま)〕。】。

駿(はやむま)【音、「俊」。和名、「土岐宇萬(ときうま)」[やぶちゃん注:「疾(と)き馬」。]。】〔は〕馬の美稱〔にして〕「俊傑」の義を取る。 駑(をそむま)【音、「奴〔(ド)〕」。和名、「於曾岐宇萬(おそきうま)」。】〔は〕最も下なり。 駻(はねむま)【音、「早」。和名、「波爾無萬」。】〔は〕突惡の馬なり[やぶちゃん注:すぐに突っかかって来て調教し難い荒馬のことである。]。 馱(につけむま)【音「駝」。】〔は〕物を負ふ馬なり。凡そ、畜を以つて物を載(の)す〔は〕、皆、「馱」と曰ふ【俗、「」に作り、或いは「駄」に作る〔は〕並びに非なり[やぶちゃん注:孰れも誤りである。]。】〔は〕和名、之れを「小荷馱馬(こにだ〔むま〕)」と謂ふ【今、米一斛五斗を、「一駄」と爲す。約するに、凡そ、重さ、六十貫目〔たり〕。】。

張穆仲〔(ちやうぼくちう)〕が「安驥集〔(あんきしふ)〕」に云はく、『馬〔の〕相、三十二、有り、眼を相(み)りを先〔(せん)〕と爲す』〔と〕。〔それに云はく、〕

[やぶちゃん注:以下、ブラウザの不具合を考え、原典を総て続いた文章として繋げて示す。原典の有意な字空けも除去した。]

馬の眼、垂るる鈴のごとし。眶(まぶた)、凸(なかたか)[やぶちゃん注:中央が膨らんでいる。]者、佳し。腦骨、員〔(まろ)き〕を欲するなり[やぶちゃん注:「員」は「圓」の通字で「丸い」の意。「欲するなり」は「良しとするものである」の意。]。垂〔るる〕睛〔(ひとみ)〕は髙きを欲す。耳、削〔れる〕筒〔(つつ)〕のごと〔きが良し〕。頰骨は員〔(まろ)〕きを欲す。項〔(うなじ)〕は長く彎〔(わん)じ〕て[やぶちゃん注:弓を引き絞ったように美しく湾曲していて。]細くす。鬃〔(たてがみ)〕は茸〔(しげ)るる〕を欲す[やぶちゃん注:毛が豊かにあるのがよい。]。〔(うなじのけ)〕は髙きを欲す。排-按(くらをきどころ[やぶちゃん注:ママ。])は、肉、厚きを欲す。脊梁(せぼね)は平〔たき〕を欲す。腰〔は〕短きを要す[やぶちゃん注:「要」は「是非とも~でなくてはならない」の意。]。鼻〔は〕寬大なるを要す。上唇〔(うはくちびる)〕は方〔(はう)〕[やぶちゃん注:がっちりと角ばったもの。]のを欲す。口の文〔(もん)〕は深きを欲す。下唇は員〔(まろ)き〕を欲す。食槽(むまのきほね)[やぶちゃん注:臼歯。]〔は〕寬〔(ひろ)き〕を欲す。〔(むね)〕[やぶちゃん注:「胸」の異体字。]は闊(ひろ)きを欲す。膝〔は〕員〔(まろ)き〕を欲す。脚は髙きを欲す。脚は大にして實〔(じつ)なり〕し〔が良し〕[やぶちゃん注:しっかりしているのがよい。]。前の蹄(ひづめ)は員きを欲す。後(うしろ)の蹄は大を欲し〔て〕近〔きを〕欲す。掌の骨[やぶちゃん注:蹄の上部であろう。]は髙きを欲す。脛※骨〔(けいていこつ)〕[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廷」。]は細く、肚〔(はら)〕の下に逆毛を生じ、節は近きを欲す。鹿節は曲れるを欲す。曲池は深きを欲す。汗溝〔(あせみぞ)〕は深きを欲す。尾骨は短きを欲す。外腎[やぶちゃん注:思うに♂の外生殖器のことを指すものと思われる。]〔は〕小さきを欲す。腿〔(もも)〕は琵琶に似る〔を良しとす〕。

――――――――――――――――――――――

[やぶちゃん注:以下も二行目以降を同前の仕儀で訓読する。なお、東洋文庫版では、以下の部分に対して、『馬の歯は全部で牡は四十本、牝は三十六本ある。ここはそのうちの切歯(門歯、中歯、隅歯)の部分について説明しているのであろう』と注がある。]

馬〔の壽命は〕三十二。齒を以つてを知る。

の駒は齒[やぶちゃん注:乳歯。]二つ。二、齒、四つ。三、齒、六つ。四、齒[やぶちゃん注:これは永久歯を指す。]二つに成る。五、齒、四つに成る。六、肉牙、生ず。七、角區[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]、缺く。八、區を盡〔(つ)き〕て一つのごとし。九、下中區を咬〔(か)〕み、二つ〔の〕齒、臼(うす)になる。十にしては同〔じく〕四齒、臼になる。十一、六齒、臼になる。十二、同じく、二齒、平〔らと〕なり、十三、四齒、平〔らかとなる〕。十四、同じく六つの齒、平かなり。十五、上中區を咬み、二齒、臼になる。十六、同じく、四齒、臼になる。十七、同じく六齒、臼になる。十八、二つの齒、平かなり。十九、同じく四齒平かなり。二十、上下を咬み、盡〔(ことごと)〕く平かなり。二十一より、次第に、齒、黃〔となり〕、二十六に至り、上下を咬み、盡く黃〔と〕なり、二十七より、次第に、齒、白くして、三十二に至り、上下、盡く白し。

――――――――――――――――――――――

[やぶちゃん注:同前の仕儀で訓読する。]

馬の毛色

 「騂(あかむま)」【音、「征」。】、赤毛の馬なり。「(くろむま)」【音、「離」。】、黒毛の馬なり。「(くりげ)」【音、「愈」。和名、「栗毛」。】、紫毛の馬。「駮(ぶちむま)」【音、「愽〔(ハク)〕」。布知〔(ぶち)〕。】〕純白ならざるなり。「油馬(かすげ)」【和名、「糟毛」。】。「騮(かげ)」【和名、「鹿毛〔(かげ)〕」。】、赤馬〔の〕黒〔き〕鬣〔(たてがみ)〕。「烏騮くろかげ)」【和名、「黑鹿毛」。】。「黃騮(あかくりげ)」【和名、「赤栗毛」。】。「紫騮〔(くろくりげ)〕」【和名、「黒栗毛」。】。「連錢〔(れんせんあしげ)」〕」【和名、「連錢葦毛」。】、靑黑〔の〕斑〔(まだら)〕にして魚〔の〕鱗のごとし。「(あしげ)」【和名、「葦毛」。】、靑白〔の〕襍毛〔(ざつもう)〕。「騢(ひばりげ)」【和名、「鴾毛〔(つきげ)〕」。】、赭〔(しや)と〕白〔の〕雜毛。「赤鴾毛(あかひばりげ)」【赭黃〔あかぎ)〕の馬。】。「(しらかげ)」【和名、「白鹿毛」。】、黃〔と〕白〔の〕雜色。「駱〔(かはらげ)〕」【和名、「川原毛」。】、白馬〔の〕黒〔き〕髦〔(たてがみ)〕。「沙駱毛〔くろかはらげ)〕」【和名、「黑川原毛」。】。「騵[やぶちゃん注:音「ゲン・グワン(ガン)」。和訓は不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】、「騮(くろげ)馬」の白腹〔のもの〕。「騏[やぶちゃん注:音「キ・ギ」。和訓不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】、青黒色。「騧」[やぶちゃん注:音「クワ(カ)・ケ・クワイ(カイ)」。和訓は不詳。]【音[やぶちゃん注:欠字。]】。黃〔の〕馬〔にして〕黒〔き〕喙〔(くちさき)〕。「駰(くろあしげ)」【音[やぶちゃん注:欠字。]】淺黒にして白〔の〕襍色〔(ざつしよく)〕。「[やぶちゃん注:音「ラウ(ロウ)・リヤウ(リョウ)」。和訓は不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】。尾白の馬。「(あしぶち)」【和名、「阿之布知」。】四骹〔(しかう)〕、皆、白色【膝以下、「骹」と曰ふ】。

 馬の旋毛の所在を以つて吉を知る【前圖を見よ。】壽星・帶纓〔(たいえい)〕・乘鐙〔(じやうとう)〕・臁花〔(れんくわ)〕、則ち、吉と爲し、其の他、と爲す。

「搜神記」〔に云はく〕、『漢文帝十二年[やぶちゃん注:紀元前一六八年。]、呉の地に、馬、角を生ふること、有り。耳の前の上に在り、右に向ふ角、長さ三寸、左の角、長さ二寸。皆、大いさ、二寸。是れ、臣の不順の妖なり』〔と〕[やぶちゃん注:漢代の一寸は二・二五センチメートルとやや短い。]。

「万寶全書〔(ばんぽうぜんしよ)〕」に云はく、『馬は火〔(くわ)〕の畜なり。性、濕を惡〔(にく)〕み、如〔(も)〕し、疥瘡〔(かいさう)〕[やぶちゃん注:疥癬。]を生ず〔れば〕、生〔(なま)の〕胡麻〔の〕葉〔の〕搗き汁を用ひ、之れを灌〔(そそ)〕ぐ。脊-瘡〔(たこ/くらずれ)〕[やぶちゃん注:牛馬の背に荷擦れなどによって生ずる傷。鞍傷(あんしょう)。]には黃丹〔(わうたん)〕を用ひ、之れを敷〔(ぬ)〕る[やぶちゃん注:塗る。]。尿血は黃芪〔(こうぎ)〕・烏藥〔(うやく)〕・芍藥・山茵陳〔(いんちこう)〕・地黃〔(ぢわう)〕・兜苓〔(とうれい)〕・枇杷〔(びは)の〕葉を用ひて末と爲し、之れに灌ぐ』〔と〕。

△按ずるに、馬の療治・針灸・藥方は馬醫書に詳らかなり。其の藥中に貝母〔(ばいも)〕を用ふるを禁じ、誤〔りて〕之れを用ふれば、馬を害す〔と云ふ〕。而〔れども〕「本草」に雞〔(にはとり)の〕屎〔(くそ)〕・烏梅〔(うばい)〕、馬の毒たること載す〔のみにて〕、貝母に及ばざるは、後人、試みて、之れを知るか。

相ひ傳ふ、安閑天皇二年[やぶちゃん注:五三五年。]、放牛を瀨津[やぶちゃん注:「攝津」の誤り。]〔の〕大隅[やぶちゃん注:現在の大阪市東淀川区大隅か。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]等に放ち、馬を科野(しなの)〔の〕國[やぶちゃん注:信濃国。]に放つ。望月(もちづき)の牧[やぶちゃん注:現在の長野県佐久市望月附近。]・霧原の牧[やぶちゃん注:現在の長野県松本市東部のこの中央附近。]にて、後世、牛馬に乏しからず。今、則ち、産(う)む處處の者、多し。奧州・常州の、良と爲し、薩州、之れに次ぐ。信州・甲州・上下の野州[やぶちゃん注:上野(かみつけの)国と下野(しもつけの)国。]・總州[やぶちゃん注:前の「上下」がここにも掛かるので上総(かずさの)国と下総(しもうさの)国を指す。]も亦、之れに次ぐ。

小荷駄馬(こにだむま) 貨物(にもつ)を載-負(をは)せる馬なり。凡そ畜を以つて物を載す〔は〕皆、「佗〔(だ)〕」【今、俗、「」に作り、或いは「?」に作る〔も〕並びに[やぶちゃん注:孰れも。]非なり。「馬」に从〔(したが)〕ひ、「大」に从ふ〔が正しきなり〕。】曰ふ。聖武帝【天平十一年[やぶちゃん注:七三四年。]。】と曰ふ。天下に令して、馱負〔(だおひ)〕の重さを改定し【先づ、是れ、馱馬一匹、負ふ所の重さ、大-畧〔(ほぼ)〕、二百斤[やぶちゃん注:当時と同じとは思えないが、現行のそれの機械的換算では一斤は六百グラムであるから、百二十キログラムとなる。以下同じ。]、甚だ、馬の蹄を重勞す。是に於いて、諸州に令して、百五十斤[やぶちゃん注:九十キログラム。]を以つて限りと爲す。今の制、二十五貫目[やぶちゃん注:江戸時代の一貫は三・七五キログラムであるから、九十三・七五キログラム。]を用ふも亦、畧〔(ほぼ)〕、古法に合〔ひたり〕。】

「著聞集」に云はく、『都築(つゞきの)平太經家〔(つねいへ)〕といふ者、有り。善く馬を御するを以つて平氏に仕ふ。〔平氏〕敗北の日、虜〔(とりこ)〕と爲る。是に於いて、駿馬を鎌倉に献ずる者有り、而〔れども〕、人、之れを御〔(ぎよ)す〕ること克〔(あた)〕はず。囚(めしうど)經家をして之れに乘らし〔むれば〕、則ち、相ひ馴るる者のごとし。人皆〔(ひとみな)〕、之れに感ず。頼朝、大きに喜び、罪を免じて、厩〔の〕別當と爲す。嘗て、馬を養ひ、常に異なり、毎〔(つね)〕に夜半許り、白色の物を用ひて、自-手(てづか)ら之れをして飼はしむ。〔はの白き物は、これ、〕未だ何物といふこと、知ざるなり。但し、日中には飼はず。以-爲〔(おもへら)く、〕異〔なり〕と。〔後、〕經家、遂に海に入りて死す。惜しきかな、其の術、傳へざるなり』〔と〕。

[やぶちゃん注:「馬の眼光、人の全身を照らす者」この妖しく光る馬の眼、実は事実なのである。それについては、後の『馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの、有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく』の部分の引用まで「おあずけ」としよう。ヒントは……「タペタム」……フフフ

「杜衡〔(とこう)〕」被子植物門双子葉植物綱ウマノスズクサ(馬の鈴草)目ウマノスズクサ科カンアオイ(寒葵)属カンアオイ Asarum nipponicum の異名(旧漢名か)である。ウィキの「カンアオイ」によれば、日本固有種のギフチョウ(岐阜蝶・鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科ギフチョウ族ギフチョウ属ギフチョウ Luehdorfia japonica。懐かしいなあ! 現代文で何度か授業をやった、日高敏隆の「ギフチョウ二十三度の秘密」でも出て来たなぁ!)『幼虫の食草としても知られる』。本種もまた、『日本固有種で、本州の関東地方から近畿地方、四国』の『山地や森林の林床に生育する』。『小型の多年草。茎は短く、地面を匍匐する。葉は互生、卵形~卵状楕円形で、先端は尖り、基部は心脚、長さ』六~十センチメートル、幅四~七センチメートルで、『濃緑色で白い斑紋がある』。『花期は秋季(』十~十一『月)で地面に接して咲く。花のように見えるのは花弁ではなく』、三『枚の萼片である。萼片は基部で癒着し萼筒を形成する。萼筒は先がくびれず、直径』二センチメートル、長さ一センチメートル『程度で、暗紫色、内側に格子状の隆起線がある。萼筒の先端の萼裂片は三角形で萼筒よりも短く、濁った黄色。雄蕊は』十二『本、雌蕊は』六『本。芳香がある』。本邦には二亜種が植生するともある。

「雞〔(にはとり)の〕糞を食へば、則ち、骨眼〔(こつがん)〕を生ず。〔それ、〕僵〔(し)せる〕蠶〔(かひこ)〕を以つて〔治〕す」ここは訓読に非常に苦労した。訓点に従おうとすると、こうしか、私には読めない。ところが、東洋文庫訳はここを『鶏糞を食べれば、死んで白く固まった蚕のような形の骨眼を生じる』というオドロキの超訳をやらかしてあるのである。確かに一つの訳としては、どこか腑に落ちるように思わせるものがあることはあるが、この文字列ではこの読みは無理があると私は思った。そこで、後に治療法を添えた部分があるので、それに合わせてかく訓じてみた。大方の御叱正を俟つものではある。なお、「骨眼」なるものが実はよく判らぬ。東洋文庫の訳者も実はそうだったのではないか? と私は密かに疑ってさえおり、それを一見、辻褄が合うように見せて訳したのがそれなのではないか? と考えているのである。いろいろ考えて調べてみた。まず、「骨眼」の「眼」だ。直前で超能力的に人の全身を照らす眼光が語られているのだから、馬にとっては眼こそが大事な部分であることが判る。さすれば、この「骨眼」とは馬の眼の疾患なのではないか? と考えた。すると、それらしいものがあったのである! 馬の眼の角膜に生じた傷で、黒目の一部が白くなる症状があり、その写真を見るに、黒目の中に白い骨が生じたように見えるのである。「馬の獣医 Kawata Equine Practice」公式サイトのこちらをご覧あれ! ただ、その白っぽいものが死んで丸くなった白い蚕のようだと言われれば、それもそうだ、と肯んじそうにはなるのである。

「烏梅〔(うばい)〕」これは普通のバラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mumeの異名でもある。或いは青酸配糖体のアミグダリンやプルナシンを含んだ青い未成熟の梅の実か。或いは漢方で「烏梅」があり、梅の未熟な実を干して燻したもので、染料や下痢・腫れ物などの薬とする。本邦では「ふすべうめ」とも称する。後者か。よく判らぬ。わざわざそんなもんで歯を拭う方がおかしいやろ!?!

「海-馬〔(たつのおとしご)〕の骨」条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の干物。漢方では大型種である、タカクラタツ Hippocampus trimaculatus(全長二十二センチメートル)・クロウミウマ Hippocampus kuda(全長三十センチメートル)・オオウミウマ Hippocampus kelloggi(同前)が珍重される。これはまさに類感呪術である。

「猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く」「猿猴」は「猿」で、ここは「本草綱目」の記載なので、哺乳綱霊長目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ族マカク属 Macaca としておく。これは「猴」が特に同属を指す語であったと考えられているからである。但し、「猿」の方は「猨」と同字とした場合、中国では古くは霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科Hylobatidae のテナガザル類を特定して指し、「猴」とは厳然たる区別が行われていたらしい。しかし、後代、それらが一緒くたにされて「猿猴」と呼ばれるようになったと思われる経緯や、「猴」(音「コウ・グ」)自体も、「廣漢和辭典」では「猿」・「ましら」・「猿猴」・「獼猴」・「沐猴」と意義を記し、「説文解字」では中の(にんべん)はなく、「侯」の部分は「候」に通じ、単に「気配を覗って騒ぎ立てる」というサル類一般の義とするからには、「猿猴」は広義広汎な「猿」でよいのかも知れない(なお、ニホンザル Macaca fuscata は学名でお判りの通り、前者マカク属である)。興味のある方は、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の冒頭に、「獼猴(さる/ましら)」を始めとして、ズラリと猿類(想像上の妖猿や妖獣を含む)が並び、古い仕儀ながら、相応にそれぞれ考証しているので参照されたい。さて、何故、猿を厩に繋ぐと、馬の病いを避けられる、猿が厩の守護神なのか(本邦でも同じ習俗がある)という点であるが、これは時珍が各所で語っているところの、五行説に基づくものなのである。判り易いのは、岩手県奥州市前沢字南陣場にある「牛の博物館」の作成になる、「牛馬の守護神 厩猿信仰 岩手県前沢町から発見された今や猿をきっかけに」の中の、「牛馬と猿」のページがよい。そこに、『十二支に十二獣を配して五行との関係を見ると、木=卯(兎)、火=午(馬)、金=酉(鶏)、水=子(鼠)という関係であることが分かります。陰陽道では、三合といって世の中に存在する物全てに始まりがあり(生)、次に壮』(さか)『んになり(旺)、最後に終わる(墓)という気の循環が考えられています。そこで季節の中心にあたる兎、馬、鶏、鼠をそれぞれ木火金水の旺として順番にあてはめていくと、火の三合は虎(生)・馬(旺)・犬(墓)、水の三合は猿(生)・鼠(旺)・龍(墓)となります。すると、厩猿信仰は、馬の火(旺)を猿の水(生)で制御しようという仕組みであることが分かります。ここで疑問になるのは、なぜ水の旺である鼠ではなく』、『生じ始めの猿なのかといった点です。それは、たっぷりの水をかけて火を消すのではなく、ちょうど良く制御するためだと説明する事が出来ます。厩猿は馬と同様に厩で飼われる牛にも家畜の守り神としての力を発揮したようで、岡山県など西日本の牛の飼育が盛んだった地方では猿の頭蓋骨が牛神様と呼ばれて信仰されています。また、厩猿信仰の「火災が起きない」といった口承は、猿が水気の動物であることから来ていると考えられます。大衆芸能化した猿回しが旧暦の正月にあたる寅(火の生じ始め)に行っていた門付は、水の生じ始めとしての猿が火災防除の役割も果たすよう期待したものでした』という解説で私は納得出来る(太字下線は私が附した。この因果関係には別な説もあるが、中国での考え方はこれに尽きると私は思う)。なお、猿と馬の関係については、柳田國男が「山島民譚集」の「河童駒引」で考証しており、私は今現在、その電子化注をしている真っ最中である。但し、肝心の猿との関係性の部分は今まさに直前ではあるものの、到達していない。暫く、お待ちあれかし。

「皆、物〔の〕理〔(ことはり)〕、當に然るべきのみ」これらは、皆、この世界の物の道理(但し、陰陽五行思想)から見て、至極当然なことなのである。

『馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの、有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく』んなものがあるはずは無論ないわけだが、馬は実際に暗視能力に優れている。サイト「馬を知ろう!」の「馬の特徴:馬の眼について」に、まず、冒頭に、目の位置と馬の瞳孔が横長に開いている特徴から、彼らの視野は三百五十度にも及ぶことが書かれてあり(但し、視野の五分の四以上が片眼だけで見ているため、その部分では対象の距離判別は出来ない欠点がある)、「5」の「暗視能力」で以下のように記されてある。『馬は夜行性の動物とは言えませんが、夜目はよく利くようです』。『馬産地・日高では夜間も放牧されている馬がいますが、月明かりの下でも、彼らは苦もなく放牧地の中を走ることが出来るのです』。『馬が夜目の利く秘密は眼球の構造にあり、瞳孔から入った光は、網膜に像を結び、網膜表面の視細胞を刺激、光の刺激を受けた視細胞はその刺激を電気信号に変え、視神経を通じて脳に送るのです』。『もちろん』、『夜など、光が弱ければ視細胞に対する刺激は弱くなり、結果的には見えにくいということになりますが、馬の目の網膜の後ろ側には「タペタム(輝板)」』tapetum:視神経円板の背側部の血管板と脈絡毛細血管板の間に存在する構造物。「輝膜」とも呼ばれ、食肉類や原猿類が持つそれは細胞性輝板と呼び、輝板細胞が網膜面と平行に層板上に積み重なった構造を成している)『が存在するのです』。『タペタムは、網膜で吸収されずに透過した光を反射する役割を持っており、タペタムからの反射光は再び視細胞を刺激するのです』。『すなわち馬の視細胞はタペタムがあるために』二『回、光の刺激を受けるのです』。『タペタムはいわば』、『光の増幅装置とも言えるでしょう』。『ネコの目が夜中に光っているのを見たことがある人は多いと思います』。『馬の目もネコほどではないにしろ、同じように光ります』。『これはネコにも馬にも、網膜の後ろに光をよく反射するタペタムが存在するからです』。『タペタムがあるのは夜行性の哺乳動物ばかりとは限らず、魚類ではたいていの種類でタペタムが存在します。これは到達する光がどうしても少なくなってしまう水中で活動せざるを得ないからです』とある。これで、先の夜光る馬の眼の話が事実であることが判るのである。

『「三才圖會」に云はく……ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。前頁に図が有る。

「馬八尺以上……」明代の一尺は三十一・一センチメートルと少し長い(一寸は三・一一センチメートル)から、「八尺以上」は二メートル四十八・八センチメートル以上、「七尺以上」は二メートル十七・七センチメートル以上、「六尺以上」は一メートル八十六・六センチメートル以上、「五尺以上」は一メートル五十五・五センチメートルとなる。本邦では通常、馬の丈は脚の下(地面)から前肢の付け根の肩上部の固い骨の上(騎乗する際の前の突出部)までを言うが、これはそれではとんでもなく巨大な馬になってしまうので、これは事実上の頭部の頂きまでの長さであろう。

「肉」「熱を除き」昔は高熱を発した者には生の馬肉を載せて熱を下げた。向田邦子原作で私の忘れ難い名ドラマ「父の詫び状」(ジェームス三木脚本・杉浦直樹主演)のドラマでそのシーンが出てきたのを思い出す。

「倉米」貯蔵した新米でないものの謂いであろう。

「蒼耳」キク目キク科キク亜科オナモミ属オナモミ Xanthium strumarium知らない? 知ってるさ! とげとげの樽みたような「ひっつき虫」だよ! ほら、君たち(最初の柏陽の担任生徒たち)がグランドの掃除の時に僕の背中にメチャいっぱいつけた、あれだよ! 生薬名を(実及び全草)「蒼耳子(そうじし)」と呼び、中国最古の薬物書「神農本草経」に既に処方が記載されている。主に鎮痛・鎮痙・解熱・発汗作用があり、風邪による頭痛や発熱・神経痛・蓄膿症に効果があり、蚊や蜂に刺された場合には生葉の汁を塗ると良くなるとも言う。但し、「蒼耳子」には僅かながら毒性があり、多量に服用すると、人によっては頭痛や眩暈(めまい)を伴うことがあると、「馬場藥局」公式サイトのこちらの解説にあった。今度、蚊に刺されたら、やってみよう。

「自死の馬」原因不明で急死した馬。

「蘆菔〔(だいこん)〕」アブラナ目アブラナ科ダイコン属ダイコン Raphanus sativus var. longipinnatus。現代中国語でもこう書く。但し、「蘿蔔」の方が一般的のようではある。

「杏仁〔(きやうにん)〕」既出既注

「馬墨(〔むま〕のたま)」結石。ここは「腎に在り」と言っており、漢方の五臓六腑は現在の臓器とは比定出来ないものが多いが、これはまず腎臓結石ともてよかろう。広義の家畜類の結石類は先行する「鮓荅」(さとう)を見られたい。

「牛黃(〔うし〕のたま)」先行する「牛黃(ごわう・うしのたま)(ウシの結石など)」を見られたい。

「造物の鍾〔(あつま)れる〕所なり」人を含む動物の体内に於いていろいろな原因で作り出されて集まって凝り固まった病的なものなのである。時珍は一貫して「鮓荅」を疾患によって形成されたものという立場を採っており、良安もそれに従っていることは今までの叙述で明らかであるので、わざと「病的な」を挿入した。

「狗寳〔(いぬのたま)〕」先行する「狗寳(いぬのたま)(犬の体内の結石)」を見られたい。

「溺(ゆばり)」尿。

「消渇〔(しやうけち)〕」口が激しく渇いて尿量が異常に少なくなる状態を指す。別に排尿回数が異常に多いとするものもあり、その場合は所謂、「飲水病」、現在の糖尿病の症状とよく一致する。別に「しょうかつ」(現代仮名遣)と読んでも構わぬ。

「積衆癥瘕〔(しやくじゆちようか)〕」広義の腹部腫瘤全般を指す。

「反胃〔(ほんい)〕」食べたものをすぐ吐いてしまうような状態或いはそうした慢性的症状を指す。

「心腹」胸と腹。

「鼈〔(すつぽん)〕」カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。本種は「キョクトウスッポン」「シナスッポン」の名で呼ばれることもある。中国産も同じ。

「馬肝〔(むまのきも)〕」「肝、有りて、膽、無し」これも例外的に「肝」は肝臓、「膽」は胆嚢と採ってよい。ここにある通り、馬やラットには存在しない。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「稟〔(う)け〕て」「受けて」。応じて。

「膽は木の精氣なり。木臟〔(もくざう)〕足らざる故、馬〔の〕肝、大毒有り、之れを食ふ者、死す」五行の「木」が欠けた生物であるから、五行の調和が壊れた存在であり、だから有毒・大毒なのだと謂うのであろう。

「人丸」「拾遺」「山科の木幡〔(こはた)〕の里に馬はあれどかちよりぞ行く君を思へば」「拾遺和歌集」の「巻第十九 雑恋」に「題知らず」で、柿本人麿の歌として載せる一首(一二四三番)であるが、「万葉集」の「巻十一」の詠み人知らずの以下の一首(二四二五番)、

 山科の木幡の山は馬はあれど步(かち)ゆわが來(こ)し汝(な)を思ひかねて

の異伝に過ぎない。

「古今」「大あらきの杜〔(もり)〕の下草生ひぬれば駒もすさめず刈る人もなし」「古今和歌集」の「巻第十七 雑歌上」の詠み人知らずの一首(八九二番)であるが、表記に問題がある

 大荒木(おほあらき)の森の下草(したくさ)老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし

が正しい。「大荒木」は地名らしいが不明。これを「殯(もがり)の宮」(本葬の前に蘇生を祈って仮安置する場所)とする説がある(岩波の「新日本古典文学大系」の注に拠る。以下も同じ)。「すさめず」「心を寄せない・好まない」の意。草が年長けてしまって硬くなってしまったから、馬も喰(は)もうとせぬ、というのである。なお、この一首には後書きの異伝の上句が示されてあり、それで復元すると、

 さくら麻(あさ)麻生(をふ)の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし

となる。「さくら(櫻)麻」は実体不詳の万葉以来の枕詞。「をふ(苧生・麻生)」にかかる。「麻」と「苧(お)」は同義であるところから、「おふ(苧生:麻の生えている場所。麻畑)に掛かるのだと説明される。

『昔、駿馬〔(しゆんめ)〕有り、驁〔(がう)〕と名づく。壬申〔(みづのえさる)〕の日を以つて死す。故に、馬に乘るに、此の日を忌む』この出所は「説文解字」(最古の部首別漢字字典。後漢の許慎撰。西暦一〇〇年成立)であるようだ。『駿馬。以壬申日死、乘馬忌之。从馬敖聲』とある。

『古えは「波之留〔(はしる)〕」と訓ず。今、「加介留〔(かける)〕」と稱す。蓋し、馬の死を「波之留」と曰〔へば〕、故に之れを忌む〔なり〕』不審。小学館「日本国語大辞典」の「はしる」を引くと、本文意義には馬の死を指すと出ない。確かに、方言の項には人が『死ぬ・他界する』(壱岐の採取)及び『牛馬が死ぬ』として和歌山県西牟婁郡田並・山口県豊浦郡の採取例が載るが、寺島良安は生粋の大坂人である。このような汎用例があるとされる方は御教授願いたい。

「磬〔(けい)〕」本字は原義は「打ち石」で、中国古代の「へ」の字形をした打楽器で、後に仏教で「きん」と読み、礼拝や読経の際に打ち鳴らす仏具の意となり、また、体を楽器の磬の形のように折り曲げて礼をするの意が生じ、最後に「はせる・馬を走らせる」の意があることはある。これはやはり、疾走する際の馬の体型を楽器の「磬」に譬えたものか。

「馬、石を怕(をそ)れて、行くこと能はざる」「石」を鉱石と言い換え、五行の「金」と採るならば相剋で「金剋木(ごんこくもく)」(金属は木を傷つけて切り倒す)であるから、腑に落ちる。

?(けしとむ)」「消(け)し飛(と)む」で「消し飛ぶ」と同義。「勢いよく飛んで見えなくなる・ふっ飛ぶ」以外に「蹴躓(けつまず)く」の意があり、古語用例では馬のそれに使われているので腑に落ちる。

駗驙〔(しんてん)〕」中国語の辞書に「馬載重難行」(馬、重きを載せて難行す)とある。

〔(たく)〕」「康熙字典」に「䮓騺」として、「馬行不前貌」(馬の行くに、貌〔(かほ)〕を前せず)とあるので、馬が行き悩む、前進することを嫌がるの意と採れる。

「嘶〔(いばふ)〕」」「以波由〔(いばゆ)〕」小学館「大辞泉では」後者が原形で、「いばふ」はその転訛とする。

「以奈奈久〔(いななく)〕」「い」は馬の鳴き声のオノマトペイアで、馬が声高く鳴くことを指す。

(はだせ)」原典は「はたせ」で(但し、良安は濁点を除去することが多い)、東洋文庫訳も『はたせ』とするが、これは「裸(肌)背馬(はだせうま)」の略と考えられ、小学館「日本国語大辞典」も「はだせ」で見出しを作るので、濁音で示した。

『凡そ、畜を以つて物を載(の)す〔は〕、皆、「馱」と曰ふ【俗、「」に作り、或いは「駄」に作る〔は〕並びに非なり[やぶちゃん注:孰れも誤りである。]。】〔は〕和名、之れを「小荷馱馬(こにだ〔むま〕)」と謂ふ』しばしば認められる良安の漢字や訓へのマニアックな拘りがバクハツしているが、これは正しい。この「馱」は「駄」の正字なのである。

「一斛五斗」「斛」は「石」に同じで、単純換算では約二百七十・五リットルとなり、米一石だと、百五十キログラムであるから、四百五十キログラムになってしまうが、流石に重過ぎる。実際には俵換算で減衰する。後に「六十貫目」とあり、これだと、二百二十五キログラムで、振り分け荷としては、馬が何とか運べそうな重量ではある。

『張穆仲〔(ちやうぼくちう)〕が「安驥集〔(あんきしふ)〕」』東洋文庫書名注に、「安驥集」は『中国古代の黄帝の時の馬師皇の言辞を編したものという。馬の疾病・治療法などを説く』としつつ、但し、『本書にいう張穆仲の『安驥集』は不明』とする。しかし、検索すると、山形県米沢市の市立米沢図書館の「デジタルライブラリ」のこちらで、「司牧療馬安驥集(しぼくりょうばあんきしゅう)」(全七巻・附一巻・六冊)『金張穆仲輯』として、一五〇四年(明の弘治十七年)序の刊本が示され、『中国で唐時代に作られた馬医書で、日本にも伝わり』、『仮名で再編集された「仮名安驥集」が広く用いられた。本書は』『世界的にも古い刊本と評価されている』とあり、当該刊本をこちらで視認することが出来る。その九コマ以降に各相の詳細にして膨大な解説が載り、それを縦覧するに、冒頭(八~九コマ目)にある多量のキャプション附きの馬の図及び後に続く詳細解説と、十コマ目にある「相良馬宝金篇」を良安がここで参考にしたことは最早、間違いなく、それどころか、冒頭の図の旋毛の吉凶についても、十三~十四コマの図に「良馬旋」の図があって、続く馬の年齢等も、良安は大々的にこの本に基づいて記載していることが判る。是非、原書の記載や画像を見られたい

「食槽(むまのきほね)[やぶちゃん注:臼歯。]」意味は東洋文庫の割注に拠った。通常は馬用の飼葉桶や水桶を指す語であるが、前後から、ここに突然、入るのはおかしいし、上記の「相良馬宝金篇」にも、

   *

食槽寛浄顋無肉

   *

とあるので、しっかりと噛むための臼歯と採るのが腑に落ちる。

「脛骨〔(けいていこつ)〕」(「」=「月」+「廷」)上記原本の八コマ目の図で、向う脛の部分を指示してある。

「鹿節」上記原本の八コマ目の図で、後ろ足の脛(骨)の部分を指示してある。

「曲池は深きを欲す」同じく八コマ目の図にあるが、指示線がない。但し、人の経絡の経穴に「曲池穴(きょくちけつ)」があり、それは上肢(腕)の左右の肘の部分の外側の窪んだ部分に当たるが、図を見ると、後ろ足の右のまさにそれらしい位置に丸い窪みのようなもの(記号?)があるから、それを指しているのではないかと私は思う。

「汗溝〔(あせみぞ)〕」馬の腰の上部か下へ向かって窪んでいる部分。上記原本の八コマ目の図で示されてある。

「外腎」既に「思うにの外生殖器のことを指すものと思われる」と注したが、まさに上記原本の八コマ目の図で陰茎らしき部分を指示してある。

「馬〔の壽命は〕三十二。齒を以つてを知る」以下も総て、上記「司牧療馬安驥集」の十七と十八コマ目の引き写しである。

「馬の毛色」ウィキの「馬の毛色」に詳しく、各毛色の独立ページもリンクされているので、そちらを参照されたい。言葉よりそれらの画像で一目瞭然なれば、私は一部を除き、個々には注さない。

『「油馬(かすげ)」【和名、「糟毛」。】』粕毛(かすげ)。ウィキの「粕毛」に、『原毛色に白色毛が混毛し、体が灰色っぽく見える馬のこと、またはその状態そのものを指す。芦毛や薄墨毛と非常に混同されやすい毛色であるが、別の毛色である』。『原毛色により、栗粕毛(原毛色が栗毛系)、鹿粕毛(原毛色が鹿毛系)、青粕毛(原毛色が青毛系)と区別する』とある。リンク先に画像有り。

『「連錢〔(れんせんあしげ)」〕」【和名、「連錢葦毛」。】、靑黑〔の〕斑〔(まだら)〕にして魚〔の〕鱗のごとし』藤木ゆりこ氏のサイト「花遊戯~はなあそび~」内のこちらの一番上の写真の馬がそれ。藤木氏の同サイト内の「馬の毛色いろいろ」からも各種のそれらを見られる。必見!

「襍毛〔(ざつもう)〕」「襍」は「雜」に同じい。

『「騢(ひばりげ)」【和名、「鴾毛〔(つきげ)〕」。】、赭〔(しや)と〕白〔の〕雜毛』月毛に同じい。葦毛(白を基調に黒・茶・赤の混じったもの)の全体に赤ばんだ毛色を指す。ウィキの「月毛」を参照されたい。ほら、芥川龍之介の「藪の中」で真砂が乗っていた馬だよ。

『「搜神記」〔に云はく〕……』以下は、第六巻の以下。

   *

漢文帝十二年、地有馬生角、在耳前、上向、右角長三寸、左角長二寸、皆大二寸。劉向以爲馬不當生角、猶不當舉兵向上也、將反之變云。京房易傳曰、「臣易上、政不順、厥妖馬生角。茲謂賢士不足。」。又曰、「天子親伐,馬生角。」。

   *

自然流で訓読しておく。

   *

 漢の文帝十二年、の地に、馬、有り、角を生ず。耳の前に在りて、上向(うはむ)きて、右の角、長さ三寸、左の角、長さ二寸、皆、大(ふと)さ、二寸。劉向、以爲(おもへ)らく、「馬、當に角を生ずべからず。猶ほ、、當に舉兵し、上(かみ)に向(はむか)ふべからざるがごとし。、將に反するの變たり。」と云ふ。「京房易傳」に曰はく、「臣、上を易(あなど)り、政(まつりごと)、順ならざれば、厥(それ)、馬、角を生ずるの妖あり。茲(これ)、『賢士の足らざる』の謂ひなり。」と。又、曰はく、「天子、親伐(しんばつ)せば、馬、角を生ず。」と。

   *

「万寶全書」東洋文庫書名注に、『無名氏撰。清の毛煥文』(もうかんぶん)『増補の『増補万宝全書』がある。三十巻。百科事典のたぐい』とある。

「黃丹〔(わうたん)〕」漢方で「鉛丹(エンタン)」の別名。鉛を熱して赤褐色に酸化させた生薬。成分は四酸化三鉛(しさんかさんなまり:Pb3O4)効能は明らかでないが、外用薬(塗り薬)で、皮膚の化膿症・湿疹・潰瘍・外傷・蛇による咬傷などに用いると漢方サイトにはあった。

「黃芪〔(くわうぎ)〕」マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ(黄花黄耆)Astragalus membranaceus 或いは同属のナイモウオウギ Astragalus mongholicus の根から作られた生薬。現行では「黄耆(オウギ)」と称する。止汗・強壮・利尿・血圧降下等の作用があるとする(ウィキの「キバナオウギ」に拠る)。

「烏藥〔(うやく)〕」既出既注

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 或いは近縁種の根から製した生薬。消炎・鎮痛・抗菌・止血・抗痙攣作用を有する。

「山茵陳〔(いんちこう)〕」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属カワラヨモギ Artemisia capillaris の頭状花部分から製した生薬。消炎・利胆・解熱・利尿効果があり、黄疸・肝炎・胆嚢炎などに用いられる。

「地黃〔(ぢわう)〕」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根から製した生薬。内服薬としての利用では補血・強壮・止血作用が、外用では腫れ物の熱を取り、肉芽の形成作用を有する。

「兜苓〔(とうれい)〕」「馬兜鈴(バトウレイ))」等異名が多い、ウマノスズクサ(馬の鈴草)科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ草 Aristolochia debilis 及びマルバノウマノスズクサ Aristolochia contorta などの成熟果実を原料とする生薬で、鎮咳・去痰・止血・消腫・鎮痛・呼吸改善・痔疾改善・整腸及び創傷回復などに用いると漢方サイトには確かにあったが、しかし、この如何にもな和漢名の草を馬の血尿に用いるというのは、どうも、もともとは類感呪術っぽい感じがする。

「枇杷」ナシ亜科ビワ属ビワ Eriobotrya japonica の葉は「琵琶葉(ビワヨウ)」、種子は「琵琶核(ビワカク)」と呼ばれる生薬とする。ウィキの「ビワ」によれば、ビワは「大薬王樹」とも呼ばれ、民間療薬としても『親しまれてもいる。なお、以下の利用方法・治療方法は特記しない場合、過去の歴史的な治療法であり、科学的に効果が証明されたものであることを示すものではない』。『葉には収斂(しゅうれん)作用があるタンニン』(tannin:「タンニン」という名称は「革を鞣す」という意味の英語である「tan」に由来し、本来の意味としては、製革に用いる鞣革性を持つ物質のことを指す言葉であった)『のほか、鎮咳(ちんがい)作用があるアミグダリン』(amygdalin:青酸配糖体の一種)『などを多く含み』、『乾燥させてビワ茶とされる他、直接患部に貼るなど』、『生薬として用いられる。 琵琶葉は』、九『月上旬ごろに採取して葉の裏側の毛をブラシで取り除き、日干しにしたものである』。『この琵琶葉』を『水で煎じて』『服用すると、咳、胃炎、悪心、嘔吐のほか、下痢止めに効果があるとされる』。『また、あせもや湿疹には、煎じ汁の冷めたもので患部を洗うか、浴湯料として用いられる』。『江戸時代には、夏の暑気あたりを防止する琵琶葉湯に人気があったといわれており、葉に含まれるアミグダリンが分解して生じたベンズアルデヒドによって、清涼飲料的効果が生み出されるといわれている』。『種子』も『水で煎じて服用すると、咳、吐血、鼻血に効果があるとされる』。『葉の上にお灸を乗せる(温圧療法)とアミグダリンの鎮痛作用により』、『神経痛に効果があるとされる。 ただし、アミグダリンは胃腸で分解されると猛毒である青酸を発生する。そのため、葉などアミグダリンが多く含まれる部位を経口摂取する際は、取り扱いを間違えると健康を害し、最悪の場合は命を落とす危険性がある』ともあるので、要注意

「貝母〔(ばいも)〕」単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ Fritillaria verticillata var. thunbergiiの乾燥させた鱗茎の生薬名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに用いられるが、鱗茎を始め、全草に多種のアルカロイドを含み、これは心筋を侵す作用があることから、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺を引き起こす事があり、呼吸数・心拍数低下を惹起する場合もあることから、使用時は量に注意しなくてはならない(以上はウィキの「アミガサユリ」に拠った)。

『「著聞集」に云はく……」以下は、「古今著聞集」の「巻第十 馬芸」に載る、以下の「都筑經家、惡馬を御する事」。

   *

 武藏國の住人、つづきの平太經家は、高名の馬乘り・馬飼ひなりけり。平家の郎等(らうどう)なりければ、鎌倉右大將、めしとりて、景時にあづけられにけり。其時、陸奧(みちのく)より、勢、大きにして、たけき惡馬をたてまつりたりけるを、いかにも乘るもの、なかりけり。きこえある馬乘りどもに、面々にのせられけれども、一人も、たまるものなかりけり[やぶちゃん注:乗りこなすことが出来る者はなかった。]。幕下[やぶちゃん注:源頼朝。]、思ひわづらはれて、
「さるにても、此の馬に乘るものなくてやまむ事、口惜しき事なり。いかがすべき。」
と、景時にいひあはせ給ければ、
「東八ケ國に、いまは心にくきもの[やぶちゃん注:頼みとし得る者。]、候はず。但し、召人(めしうど)經家ぞ候。」
と申しければ、
「さらば、めせ。」
とて、則ち、召しいだされぬ。
 白水干(しろすいかん)に葛(くず)の袴をぞきたりける。
 幕下、
「かかる惡馬あり。つかうまつりてんや。」
とのたまはせければ、經家、かしこまりて、
「馬は、かならず人に乘らるべき器(うつは)にて候へば、いかにたけきも、人にしたがはぬ事や候べき。」
と申ければ、幕下、入興(じゆきよう)せられけり。
「さらば、つかうまつれ。」
とて、則ち、馬を引き出だされぬ。
 まことに大きにたかくして、あたりをはらひて[やぶちゃん注:周囲に人を寄せ付けず。]、はねまはりけり。經家、水干の袖、くくりて、袴のそばたかくはさみて[やぶちゃん注:袴の腿立ちの部分を上に高く挟んで。]、烏帽子(ゑぼうし)かけして[やぶちゃん注:烏帽子の紐を顎の下で強く結んで、落ちぬようにし。]、庭におり立ちたるけしき、まづ、ゆゆしくぞ見えける。かねて存知(ぞんち)したりけるにや、轡(くつわ)をぞ、もたせたりける。その轡をはげて[やぶちゃん注:馬の口に噛ませて。]、さし繩(なは)[やぶちゃん注:手綱に添えて用いる引き綱。]とらせたりけるを、すこしも事ともせず、はねはしりけるを、さし繩にすがりてたぐりよりて乘りてけり。やがてまりあがりて出けるを[やぶちゃん注:すぐに躍り上がって庭の外へと出て行ったが。]、すこし走らせて、うちとどめて、
「のどのど。」[やぶちゃん注:馬の足音のオノマトペイア。「ぽくぽく」。]
とあゆませて、幕下の前にむけて、たてたりけり。見る物、目をおどろかさずといふ事なし。よくのらせて[やぶちゃん注:十二分に乗りこなしたので。]、
「いまは、さやうにてこそあらめ。」[やぶちゃん注:頼朝の台詞。「もう、それくらいよかろうぞ。」。]
とのたまはせける時、おりぬ。
 大きに感じ給ひて、勘當(かんだう)ゆるされて、厩(うまや)の別當になされにけり。
 かの經家が馬飼けるは、夜半ばかりにおきて、なににかあるらん、白き物を一かはらけばかり[やぶちゃん注:素焼きの鉢にすればその一盛り分ほど。]、手づからもて來りて、かならず飼ひけり。すべて、夜々(よよ)ばかり、物をくはせて、夜、あくれば、はだけ髮(がみ)[やぶちゃん注:乱れた鬣。]ゆはせて、馬の前には草一把(いつぱ)も、おかず。さわさわとはかせてぞ、ありける[やぶちゃん注:後は塵一つなく、綺麗に掃いてあったという。]。
 幕下、富士川あゐさはの狩りに出られける時は、經家は、馬、七、八疋に鞍置きて、手繩(てなは)[やぶちゃん注:下級の馬の口取りが馬を牽くために結んで使う繩。]むすびて、人も付けずうち放ちて侍りければ、經家が馬のしりにしたがひて行きけり。さて、狩庭(かりば)にて、馬のつかれたるをりには、めしにしたがひてぞ、まいらせける[やぶちゃん注:お召しがあった際には、即座に別の馬を差し上げ申し上げたという。]。
 今の代には、かくほどの馬飼ひもきこえず。その飼ひけるやうに傳へたるものなし。經家、いふかひなく入海(じゆかい)して死にければ、知る者なし。口惜しき事なり。

 

   *

「都築(つゞきの)平太經家〔(つねいへ)〕」以上の本文の参考にした新潮日本古典集成の「古今著聞集」(西尾光一・小林保治校注)の注によれば、『都筑(都築・綴喜)氏は、武蔵国都筑郡一帯を根拠とした氏族。藤原利仁の末裔で、斎藤氏の系族』で、『都筑党は武蔵七党に数えられることもあった』とある。「吾妻鏡」には三箇所で彼『都筑平太』の名を三箇所で認めることが出来るので、確かに実在した人物である。最初が、文治元(一一八五)年十月二十四日の長勝壽院の落慶供養に頼朝が出向いた際の随兵六十人(頼朝が弓馬の達者を精選したと前書する)の西方の七人目で、次が建久元(一一九〇)年十一月七日の栄えある頼朝入洛の際の、水干姿に野箭を背負った随兵二十一番(全部で四十六番まである)の三名の一人(三列一組騎馬縦隊であろう)して載り、建久六(一一九五)年三月十日の、頼朝の東大寺供養のための再上洛の際の、やはり随兵として名が出る。異様な「入海(じゆかい)して死にければ」というその理由は不明であるが、その死はこれ以降のこととなる。何か、私にはひどく気になる人物なのである。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 沙は燬けぬ

 

  沙は燬けぬ

 

沙(いさご)は燬(や)けぬ、蹠(あなうら)のやや痛(いた)きかな、

渚(なぎさ)べの慣(な)れし巖(いは)かげに身を避(よ)けて、

磯草(いそぐさ)の斑(ふ)に敷皮(しきかは)の黃金(こがね)をおもひ、

いざここに限(かぎ)りなき世(よ)の夢(ゆめ)を見(み)む。

 

藍(あゐ)や海原(うなばら)、白銀(しろかね)や風(かぜ)のかがやき、――

眼路(めぢ)の涯(はて)(た)えて翳(かげ)らふものもなく、

ひろき潮(うしほ)に浮(うか)び來(き)て帆(ほ)ぞ照(て)りわたる

遠(をち)の船(ふね)、さながら幸(さち)の盞(さかづき)と。

 

なべての人(ひと)も我(われ)もまた(た)えず愁(うれ)へて

渚(なぎさ)べを美(うま)し醉(ゑひ)ならぬ癡(し)れ惑(まど)ひ、

どよもし返(かへ)す浪(なみ)の音(おと)、海(うみ)の胸(むね)なる

言(こと)の葉(は)に暗(くら)き思(おも)ひを溺(おぼ)らしぬ。

 

今日(けふ)や夢(ゆめ)みむ、幽玄(いうげん)の象(すがた)をしばし、

心(うら)やすし、愁(うれ)ひは私(ひそか)に這(は)ひ出(い)でて、

海知(うみし)らぬ國(くに)、荒山(あらやま)の彼方(かなた)の森(もり)に、

人住(ひとす)まぬ眞洞(まほら)覓(もと)めて行(ゆ)きぬらむ。

 

さもあらばあれ如何(いかが)せむ、心(こゝろ)しらへの

益(やく)なさを嘲(あざ)み顏(がほ)なる薰習(くんじふ)や、

劫初(ごふしよ)の朝(あさ)の森(もり)の香(か)はなほも殘(のこ)りて

染(し)みぬらし、わが素膚(すはだ)なる肉(しゝむら)に。

 

更(さら)にたどれば神(かみ)の苑(その)、噫(あゝ)そこにしも

晶玉(しやうぎよく)は活(い)きていみじく歌(うた)ひけめ、

木(こ)の葉(は)囁(ささや)き苔(こけ)薰(くん)じ、われも和毛(にこげ)の

おん惠(めぐ)み、深(ふか)き日影(ひかげ)に臥(こや)しけめ。

 

なべては壞(くづ)れ亂(みだ)されき、人(ひと)と生(うま)れて、

爭(あらそ)ひて、海(うみ)の邊(ほとり)に下(くだ)り來(き)ぬ、

なべては破(や)れし榮(はえ)の屑(くづ)、(顧(かへり)みなせそ)

人(ひと)は皆(みな)ここに劃(かぎ)られ、あくがれぬ。

 

大和田(おほわだ)の原(はら)、天(あま)の原(はら)、二重(ふたへ)の帷(とばり)

徒(いたづ)らにこの彩(あや)もなき世(よ)をつつみ、

風(かぜ)の光(ひかり)の白銀(しろがね)に、潮(うしほ)の藍(あゐ)に、

永劫(えいごふ)は經緯(たてぬき)にこそ織(お)られたれ。――

 

幽玄(いうげん)の夢(ゆめ)さもあらめ、待(ま)つに甲斐(かひ)なき

現(うつ)し世(よ)に救(すく)ひの船(ふね)は通(かよ)ひ來(こ)ず、

(帆(ほ)は照(てら)せども)、身(み)は疲(つか)れ、崩(くづ)れ崩(くづ)るる

浪頭(なみがしら)、蠱(まじ)の羽(はね)とぞ飜(ひるがへ)る。

 

虛(うつろ)の靈(たま)は涯知(はてし)らぬ淵(ふち)に浮(うか)びて、

身(み)はあはれ響動(どよも)す海(うみ)の渚(なぎさ)べに、――

またも此時(このとき)わが愁(うれひ)、森(もり)を出(い)でたる

獸(けもの)かと跫音(あしおと)忍(しの)びかへり來(き)ぬ。

 

[やぶちゃん注:「燬」は音「キ」で「火・激しい火・烈火」・「やく・やきつくす」の意。

「蹠(あなうら)」「足の裏」。源順(したごう)の「和名類聚鈔」(承平年間(九三一年~九三八年)に既に『阿奈宇良』と記載されている古語。「あ」は「足」の意、「な」は「の」の意の上代の格助詞。小学館「精選版日本国語大辞典」の語誌によれば、「新撰字鏡」(現存する本邦最古の漢和字書。全十二巻。昌住(しょうじゅう)著。昌泰年間(八九八年~九〇一年)の成立)に見られる「足乃宇良」(あしのうら)が、掌を指す「たなうら」からの類推で「あなうら」に変わったものとも考えられるとし、また、『中古、「あなうら」と「あしのうら」との両形が行なわれていた。「あなうら」は男性語として一般語化し、女性の間では、「あしのうら」が好まれていたようである。中世以降、「あしのうら」が一般語化し、「あなうら」は、主に雅語的な表現で用いられるようになった』とある。

「心(こゝろ)しらへ」自動詞ハ行四段活用の「心知らふ」の名詞化したもの。意味は「よく知っている」或いは「心遣いをする・気を配る」の意であるが、前連末の隠遁者のそれであるならば、前者である。

「薰習(くんじふ)」仏教用語。物に香りが染みつく如く、人々の精神・身体の総ての行為が、人間の心の最も奥深い部分にまで影響を与えるということ。「薰修」とも書き、「くんじゆ(くんじゅ)」とも読む。

「臥(こや)し」自動詞サ行四段活用の「臥(こ)やす」。上代語で「す」は上代の尊敬の助動詞で「臥(こ)ゆ」の尊敬語。「横におなりになる」。但し、この語、使用例の多くは、「高貴なお方が亡くなって横たわっておられる・埋葬されておられる」ことについての婉曲であり、ここもそうしたネガティヴなイメージが含まれていると私は読む。だからこそ、この連の一行目と四行目とは、尋常でない已然形で終始しているのではないか? これは「こそ」を省略した『こそ~(已然形)、……」の逆接用法』としか私には読めないからである。

「大和田(おほわだ)の原(はら)」「大曲(おほわだ)の原」で、海・湖・川などが陸地に大きく入り込んだ広大な水平地形を指す一般名詞。上代語。

「經緯(たてぬき)」縦糸と横糸。上代からある語。

「蠱(まじ)の羽(はね)」よく判らぬが、中国の幻想地誌「山海経」の「南山経」には、

   *

又東五百里、曰鹿之山、上無草木、多金石。澤更之水出焉、而南流注于滂水。水有獸焉、名曰蠱雕、其狀如雕而有角、其音如嬰兒之音、是食人。

   *

とあり、この赤子の声で鳴き、人を食うというおどろおろしい妖獣の名「蠱雕」(現代仮名遣:こちょう)の「雕」は鷲(わし)の意であるから、猛禽型の妖鳥と考えられる(後代の「山海経」の絵図で有角の四足獣となっているけれども、元型は恐らく怪鳥であろう)から、それを有明はイメージしたものかも知れない。或いは、以上は私の深読みに過ぎず、所謂、おどろおどろしい「蠱物(まじもの)」(呪(まじな)いをして相手を呪(のろ)うこと)としての「蠱(まじ)」に用いられる、呪的アイテムとしての凶鳥の羽をイメージしただけのことかも知れぬ。

「(顧(かへり)みなせそ)」後の連の「(帆(ほ)は照(てら)せども)」と同じく、変わった丸括弧表記。前者は心内に呟いた語として腑に落ちるが、後者は逆接感情の説明的付加文のように見えてしまい、どうも私には成功している仕儀とは思われない。

「響動(どよも)す」二字へのルビ。]

2019/02/24

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 穎割葉

 

 

 

日(ひ)は嘆(なげ)きわぶ、人知(ひとし)れず、

日(ひ)は荒(あ)れはてし花園(はなぞの)に、――

花(はな)の幻(まぼろし)、陽炎(かぎろひ)や、

あをじろみたる昨(きそ)のかげ。

 

日(ひ)は直泣(ひたな)きぬ、花園(はなぞの)に、――

種子(たね)のみだれの穎割葉(かひわれば)、

またいとほしむ、何草(なにぐさ)の

かたみともなき穎割葉(かひわれば)。

 

廢(すた)れ荒(すさ)みしただなかに

生(お)ひたつ歌(うた)のうすみどり、

ああ、穎割葉(かひわれば)、百(もも)の種子(たね)

ひとつにまじる香(か)の雫(しづく)。

 

斑葉(いさは)の蔓(つる)に罌粟(けし)の花(はな)、

醉(ゑひ)のしびれの盞(さかづき)を

われから賞(め)でむ忍冬(すひかづら)――

種子(たね)のみだれを、日(ひ)は嘆(なげ)く。

 

[やぶちゃん注:「穎割葉」「(かひわれば)」「かひわりば(かいわりば)」「貝割(り)葉」とも書く。草本類等の発芽したばかりの、二枚貝が開いたように見える双葉(ふたば)を指す一般名詞。

「昨(きそ)」「昨夜」の意。万葉以来の上代語で、上代には「きぞ」と濁った。但し、東国方言では清音。有明は東京出身。

「斑葉(いさは)」植物の葉に、遺伝的或いは葉緑素の欠乏その他が原因で、白や黄などの斑点や筋が生じた「斑(ふ)入りの葉」を指す一般名詞。ここは「斑葉(いさは)の蔓(つる)に」とあるから、それを持った何らかの蔓性植物をさりげなく点描しているのであるが、後に出る「忍冬(すひかづら)」は多年生の常緑蔓性木本であるから、先に名を隠してそれが示されてあるのかも知れない。

「罌粟(けし)」本邦で単に「ケシ」と呼んだ場合は、専ら阿片(アヘン:Opium:オピウム)を採取するソムニフェルム種はキンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum を指す。本種は本邦では「あへん法」によって栽培が原則禁止されている種であるが、そこはそれ、有明の〈幻想の花園〉には、あるのである。

「忍冬(すひかづら)」標準和名種ならば、マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonicaウィキの「スイカズラ」によれば、漢名は『冬場を耐え忍ぶ』様子、則ち、『常緑性で冬を通して葉を落とさない』こに由来し、和名は『「吸い葛」の意で、古くは』、『花を口にくわえて甘い蜜を吸うことが行なわれたことにちなむ』。『砂糖の無い頃の日本では、砂糖の代わりとして用いられていた。スイカズラ類の英名(honeysuckle)もそれにちなむ名称で、洋の東西を問わず』、『スイカズラやその近縁の植物の花を口にくわえて蜜を吸うことが行われていたようである』とある。モデルは実景なのかも知れぬが(但し、私は「罌粟(けし)」で注した通り、完全な有明の〈幻影の苑〉と見る)、有明は確信犯でこの和名をフェテイシュに選んで使っているものと思う。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) われ迷ふ

 

 われ迷ふ

 

迷(まよ)ひぬ、ふかき「にるばな」に、

たわやの髮(かみ)は身を捲きぬ、

たゆげの夜(よる)を煩惱(ぼんなう)は

狎(な)れてむつびぬ、「にるばな」に。

 

壁(かべ)にゑがける執(しふ)の花(はな)――

閨(ねや)の一室(ひとま)の濃(こ)きにほひ、

奇(く)しき花(はな)びら、花(はな)しべに、

火影(ほかげ)も、嫉(ねた)し、たはれたる。

 

夢(ゆめ)の私語(ささやき)、たわやげる

瑪瑙(めなう)の甘寢(うまい)、「にるばな」よ、

艷(つや)も貴(あて)なる敷皮(しきがは)に

嫋(なよ)びしなゆるあえかさや。

 

愛欲(あいよく)の蔓(つる)まつはれる

窓(まど)の夜(よ)あけを梵音(ぼんおん)に

祕密(ひみつ)の鸚鵡(あうむ)警(いまし)めぬ、――

ああ「にるばな」よ、曉(あけ)の星(ほし)。

 

鏡(かがみ)は曇(くも)る、薰香(くんかう)に

まじる一室(ひとま)の呼息(いき)ごもり、

鏡(かがみ)は晴(は)れぬ、影(かげ)と影(かげ)、

覺(さ)めし素膚(すはだ)にわれ迷(まよ)ふ。

 

[やぶちゃん注:「むつびぬ」は底本では「むつみぬ」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「にるばな」ニルヴァーナ。サンスクリット語の「涅槃」の意の原語のひらがな音写。

「梵音(ぼんおん)」有明の好んだ語。ここは「夜あけ」や「祕密(ひみつ)の鸚鵡(あうむ)警(いまし)めぬ」という表現からは、寺院の明け六ツの梵鐘の音ともとれるが、今まで同様、総てが観念世界の表象であるとすれば、シンボライズされたその音(梵鐘で構わぬが)は本来の仏語で言うところの梵音(ぼんのん)、「清浄な音声」「大梵天の声」「仏の、正法(しょうぼう)を説く声」の幻聴でもあろうか。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 灰色

 

 灰 色

 

なべてのうへに灰(はい)いろの

靄(もや)こそ默(もだ)せ、日(ひ)の終(をはり)、

その灰(はい)いろに彩(あや)といふ

彩(あや)の喘(あへ)ぎを聞(き)くごとし。

 

冷(つめ)たく重(おも)き冬(ふゆ)の靄(もや)、

あな、わびしらや、戀(こひ)も世(よも)も

宴(うたげ)も人(ひと)もひと色」(いろ)に、

信(しん)も迷(まよひ)も身(み)も靈(たま)も。

 

死(し)の林(はやし)かとあらはなる

木立(こだち)の枝(えだ)のふしぶしは

痛(いた)みぬ、風(かぜ)に――悔(くい)の音(おと)、

執着(しふぢやく)の靄(もや)灰色(はいいろ)に。

 

過(す)ぎ去(さ)りし日(ひ)の過(す)ぎもかね、

忘(わす)れがてなるわが思(おもひ)、

朧(おぼろ)のかげのゆきかひに

をののかれぬる冬の靄(もや)。

 

[やぶちゃん注:総ての「灰」の「はい」というルビはママ。後の「晩秋」と「人魚の海」にも「灰」が出るが、一貫して「はい」とルビしているから、誤植ではなく、有明のこの時期の癖であった可能性も射程に入れておく必要がある。]

2019/02/23

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 酪(にうのかゆ)・酥(そ)・醍醐(だいご)・乳腐 (ヨーグルト/バター・精乳・乳清(私の独断)・チーズ)

 [やぶちゃん注:以下は、「黃明膠」の後にすぐ罫線を以って続いている。しかし、これは要は「牛」の項の附録に相当するもので、図はない。各冒頭の標題項目部分は実は四つ総てが罫線の直後に縦に一列に記されているが、ここでは今までのように、それぞれを解説部の前に分けて示した。最後の「乳腐」には和訓も中国音も附されていない。]


 にうのかゆ

【音洛】

ロツ 

酪【和名迩宇能可遊】本綱水牛𤚩牛犛牛羊馬駝之乳皆可酪作之

 入藥以牛酪爲勝造之法用乳半杓鍋内炒過入餘乳

 熬數十沸常以杓縱橫攪之乃傾出鑵盛待冷掠取浮

 皮以爲酥入舊酪少許紙封收之卽成矣

 乾酪法以酪晒結掠去浮皮再晒至皮盡却入釜中妙

 少時器盛曝令可作塊收用 

[やぶちゃん注:「にうのかゆ」はママ。歴史的仮名遣は「にふのかゆ」が正しい。]

 

 

 

にうのかゆ

【音、「洛」。】

ロツ 

酪【和名、「迩宇能可遊」。】「本綱」、水牛・𤚩牛〔(しんぎう)〕[やぶちゃん注:「康熙字典」は北方の小型の水牛とする。]・犛牛〔(りぎう/からうし)〕[やぶちゃん注:ヤク。]・羊・馬・駝〔らくだ)〕の乳、皆、之れを酪に作〔(な)〕すべし。藥に入〔るるは〕、牛〔の〕酪を以って勝〔(すぐ)〕れりと爲す。之れを造る法、乳、半杓〔(しやく)〕を用ひて、鍋の内に炒り過ぐし[やぶちゃん注:十二分に炒り。]、餘乳を入れ、熬〔(がう)〕する[やぶちゃん注:「炒る・煮る」に同じ。]こと、數十沸〔(すじゆうふつ)〕[やぶちゃん注:数十回、焦げぬように沸騰を繰りかえさせることであろう。]、常に杓を以つて縱橫に之れを攪(かきまは)し、乃〔(すなは)ち〕、傾け出だし、鑵〔(かん)〕に盛り、冷ゆるを待ちて、浮きたる皮を掠〔(かす)め〕取り、以つて酥〔(そ)〕[やぶちゃん注:乳を煮詰めて濃くしたものを指す語。]と爲す。舊〔(ふる)き〕酪を少し許り入れ、紙にて封し、之れを收めて[やぶちゃん注:暫く寝かせれば。]、卽ち、成る。

 乾酪法〔は〕、酪を以つて晒〔(さら)〕し、〔凝〕結させ、浮きたる皮を掠〔め〕去〔り〕、再たび、晒し、〔表の〕皮、盡くるに至り、却〔(かへ)〕りて釜〔の〕中に入れ、妙る。少時〔(しばらく)して〕器に盛り、曝〔(さら)し〕、令可塊〔(かたまり)〕と作〔(な)〕して收〔め〕用〔ふ〕べからしむ。

[やぶちゃん注:「酪」は和訓「ちちしる」(乳汁)で、本標題の「にうのかゆ」(乳(にゅう)の粥)の読みからも判る通り、牛・水牛・ヤク・羊・馬・駱駝などの乳から作った、広義の飲料や食品である、ミルク・ヨーグルト・バター・チーズなどを広汎に指す語である。前段がヨーグルト様の飲料、後段がバターやチーズ様の固形物であるが、後に出る「醍醐」が叙述からは、私には液体の乳清(乳から乳脂肪分やカゼイン(casein:乳含まれる燐蛋白の一種。牛乳の乳蛋白質では約八十%を占める)などを除いた黄緑色をした水溶液)を、「乳腐」がチーズを想起させるので、後者はバターと採るのがよいかと私は考える。]

 

【音蘇】

ソウ

酥乃酪之浮靣所成令人多以白羊脂雜之不可不辨之

 造法以乳入鍋煎二三沸頒入盆内冷定待靣結皮取

 皮再煎油出去渣入在鍋内卽成酥油一法以桶盛乳

 以木安板搗半日焦沫出撤取煎去焦皮卽成也凡入

 藥以微火溶化濾浮用之 

 

 

【音、「蘇」。】

ソウ

 

酥、乃ち、酪の浮〔きたる〕靣〔(おもて)〕に成る所〔のものなり〕。人、多く、白羊脂を以つて之れに雜〔(まぢ)〕へ〔たれば〕、辨んぜざるべからず[やぶちゃん注:白羊脂を混入させたものかそうでないかを見分けことが非常に大切である。]。之の造法〔は〕、乳を以つて鍋に入れ、煎りして、二、三沸、盆〔の〕内に頒け入れ、冷〔し〕定〔め〕、靣(おもて)に皮を結ぶを待ちて、皮を取り、再たび、煎り、油出〔(あぶらだし)〕し、渣〔(かす)〕を去り、鍋内に入れ在〔(お)かば〕、卽ち、酥油〔(そゆ)〕と成る。一法〔に〕、桶を以つて乳を盛り、木を以つて板に安〔(やすん)〕じて[やぶちゃん注:平たい板に円柱状の木を取り付けた簡易の杵状のものであろう。]、半日、搗く。焦〔(こげ)れる〕沫〔(あは)の如きもの〕、出づ。〔之れを〕撤〔(のぞ)き〕[やぶちゃん注:除き。]取〔(と)り〕、煎りして、焦〔れる〕皮を去り、卽ち、成るなり。凡そ、藥に入〔るるには〕、微〔かなる〕火を以つて溶-化(わか)し[やぶちゃん注:湧かし。]、濾(こ)し、浮きて〔きたるもの〕、之れに用ふ。[やぶちゃん注:原本は一部の返り点に不審があり、従っていない箇所がある。]

 

[やぶちゃん注:「酥」は牛や羊の乳を精錬(一般には煮詰める)し、濃くした飲料、通常のミルクの類を指す。また、「蘇(そ)」と書いて同じものだと多くの辞書類はするが、ウィキの「蘇」によれば、こちらは『古代の日本で作られていた乳製品の一種で』、『文献には見えるが』、『製法の失われた食品となっている』。『平安貴族階級の間で乳製品が広まったが、武士が台頭して来るにしたがって廃れ、江戸時代中期まで日本の酪農は廃れる』。『文武天皇が(』七〇〇『年)に蘇を税として全国で作るように使いが派遣された』。『典薬寮の乳牛院という機関が生産を担っており、薬や神饌としても使われていた。仏教祭事には蜜と混ぜられて原料として使用された様子である』。『現代では、文献を元に様々な人が蘇を復元しようとしている』『が、原料乳の生産牛種も不明でそれが本当に当時の蘇と同じものか現存しないので確認は困難である』。『このように不明な部分の多い食品ではあるが、諸説に共通しているのは「蘇は乳を煮詰めた乳製品で美味しいもの」である』とし、相当に乾燥し長期保管に耐える加熱濃縮系列の乳加工食品』『と考えられている』。『現在に残る当時の文献が少ないが、製造方法は』「延喜式」や『「政治要略」に記され、「蘇を作る方法は、乳を一斗煎じて、一升の蘇が得られる」程度の記載であり、このまま濃縮牛乳を作っただけでは、日本の気候風土から腐敗してしまうので、なんらかの処理がなされていたとも言われている』。『また、生乳の固形分は』十二%『であるため』、『厳密に原料乳比』十%『に濃縮することは不可能である』。一方、『蘇が乳を煮詰めただけの物だと腐敗してしまうので、なんらかの処理がなされたと考えるのが妥当である』からそれはチーズだとする説があり、また、「大般涅槃経」の中に『五味として順に』生酥熟酥醍醐『へとある』(次項「醍醐」を参照のこと)。『酥は醍醐の原料という説があるのはここからであるが、蘇と酥は別のものとする説がある』。『主な生産地として、摂津国・味原(あじふ)の乳牛牧(ちちうしまき、ちちゅうしまき。現在の大阪市東淀川区の一部にあたる)などが知られている。古代には東国においても多くの牛が飼育されており、『延喜式』によれば東国すべての国で蘇を貢納している』。以下、「蘇と酥が別のものとする説」の条。『蘇は牛乳を煮詰めたものであり、酥は牛乳を煮詰めるときに出る被膜(乳皮)を集めたものであるから、蘇と酥は明確に違うものを指す。蘇と酥が混同されるのは、発音が同じであり、更に乳製品が「涅槃経」の中で書かれており、後世になってから文献を本に復元された為、という説もある』(この製法部は良安の叙述(実際には前の「酪」からの続きなので、「本草綱目」の叙述である)と一致する)。以下、「その他」の条。『蘇酥同一と解釈して、様々な研究が行われて』おり、『蘇酥同一説の醍醐』として、『蘇をさらに熟成・加工して醍醐(チーズ様の乳製品)も作られたという説もあ』り、『蘇酥同一説の製法方』として、『ラムスデン現象』(Ramsden phenomenon:牛乳を電子レンジや鍋で温めたりする事により、表面に膜が張る現象を指す。これは成分中のタンパク質(β-ラクトグロブリン)と脂肪が、表面近くの水分の蒸発により熱変性することによって生ずるもので、牛乳ではなく豆乳でできる膜は「湯葉」と呼ぶ。 なお、β-ラクトグロブリンはホエータンパク質(乳清タンパク質)の一種であり、カゼインとは異なる)『によって牛乳に形成される膜を、箸や竹串などを使ってすくい取り、集めた物が蘇である(なお、同じ工程を豆乳で行った場合にできるのは湯葉[ゆば]である)。加熱するだけで、熟成を行わないため、フレッシュチーズに分類される』とあるのであるが、のウィキは冒頭で、「蘇」はこの「酥」とは同一の物ではないとガツンと一発、断言してしまっている(注記によれば、斎藤瑠美子・勝田啓子共著論文『「延喜式」に基づく古代乳製品蘇の再現実験とその保存性』(『日本家政学会誌』Vol.40
(1989) No.3 P.201-
))に拠るとする)とある。但し、それは日本の食品としての「酥」と「蘇」が別物なのであって、漢語の「蘇」には、調べた限りでは、「酥」と同じ「かき集める」の意がある以外に、特殊な乳製品を指す意味は見当たらないことは言い添えておく

「白羊脂」当初、「白羊〔(しろひつじ)の〕脂〔(あぶら)〕」と訓じたが、その正体も判らぬし、白羊である必然性もピンとこないのでやめた(東洋文庫は『白羊脂』そのままで割注も何もない。東洋文庫の訳者は「白羊脂」をよくご存じのようだ。是非とも教えて戴きたいものだ)。ネットで検索しても牛乳の偽物として飲用出来る「白羊脂」は見出せなかった(白い石なら見出せる)。識者の御教授を乞う。

「焦〔(こげ)れる〕沫〔(あは)の如きもの〕」東洋文庫はやはり『焦沫』のままで読みも振らない。私は六十二年の人生の中で「焦沫」という熟語は見たことがないから、そんな訳文は訳だとは思わない。敢えて迂遠にかく語を添えて訓読しておいた。大方の御叱正を待つ。]

 

だいご

醍醐【體乎】

テイ フウ

醍醐是出於酥中乃酥之精液也好酥一石有醍醐三四

 升熱枰煉貯器中待凝穿中至底便津出取之極甘美

[やぶちゃん注:「枰」(棋等の遊戯盤)では意味が通らない。「本草綱目」を見ると「拌」で腑に落ちた。訓読ではこれに変えた。]

 盛冬不凝盛夏不融此物性滑物盛皆透惟雞子殼及

 壺蘆盛之乃不出

 右三物大抵性皆潤滑宜於血熱枯燥人【其功亦不甚相遠也】 

 

 

 

だいご

醍醐【〔音、〕「體乎〔(タイコ)〕」。】

テイ フウ

醍醐は、是れ、酥の中〔(うち)〕より出づ。乃ち、酥の精〔なる〕液なり。好き酥、一石〔に〕醍醐〔は〕三、四升有り。熱し、拌〔(かきま)ぜ〕煉〔(ね)〕り、器の中に貯へ、凝れるを待ち、中を穿ち、底に至〔れば〕、便〔(すなは)〕ち、〔液、〕津〔(し)み〕出〔づ〕。之れを取る。極めて甘美〔なり〕。盛冬〔にも〕凝らず、盛夏に〔も〕融(とろ)けず。此の物の性〔(しやう)〕、滑かにして、物に盛るに、皆、透(す)く。惟だ、雞子(たまご)の殼(から)及び壺蘆(ひやうたん)に之れを盛れば、乃ち、出でず。

 右、三〔つの〕物[やぶちゃん注:酪・酥・醍醐。]、大抵、性、皆、潤滑〔たり〕。宜し血熱・枯燥の人に宜〔(よろ)〕し【其の功も亦、甚だ相ひ遠からざるなり。[やぶちゃん注:その効果もまた、それほど遅行性ではなく、まずまずというところである。]】。

 

[やぶちゃん注:まず、ウィキの「醍醐」を引く。『醍醐(だいご)とは、五味の一つ。牛乳を加工した、濃厚な味わいとほのかな甘味を持った液汁とされ』。『最も美味しい味の代名詞として使われた。すでに製法は失われており、後述のような諸説(バターのようなもの』、『又は現代で言うカルピスや飲むヨーグルトのようなもの、または蘇(レアチーズ)を熟成させたものなど』『)入り乱れ』、『実態は不明である』。一部の研究者が行った『再現実験』で『は、バターオイルのような物質であるとしている』。先にも示した通り、大乗経典「大般涅槃経」の中では五味として、順に、『乳生酥熟酥醍醐と精製され』、『一番美味しいものとして』、「涅槃経」も『同じく最後で』、『最上の教えであること』の譬えとして『書かれている。これを』「五味相生の譬(ごみそうしょうのたとえ)」という。「大般涅槃経」のそれは以下(リンク先の原文に一部手を加えた)

   *

譬如從牛出乳 從乳出酪 從酪出生蘇 從生蘇出熟蘇 從熟蘇出醍醐 醍醐最上 若有服者 衆病皆除 所有諸藥 悉入其中 善男子 佛亦如是 從佛出生十二部經 從十二部經出修多羅 從修多羅出方等經 從方等經出般若波羅蜜 從般若波羅蜜出大涅槃 猶如醍醐 言醍醐者 喩于佛性

   *

以下の訓読は私が勝手に改変(リンク先の訓読は甚だ杜撰で読むに堪えない)したもの。

   *

牛より乳を出だし、乳より酪(らく)を出だし、酪より生酥(せいそ)を出だし、生酥より熟酥(じゆくそ)を出だし、熟酥より醍醐を出だす。醍醐は最上たり。若(も)服する者有れば 衆(しゆ)の病い、皆、除く。諸藥の有する所、悉く其の中(うち)に入れり。善男子(ぜんなんし)[やぶちゃん注:あまり理解されているとは思われないので言っておくと、仏教では変生男子(へんじょうなんし)で、男でないと成仏は出来ず、女は男に生まれ変わらないと、通常は極楽往生は出来ないのが、原始仏教以来の決まりである。]、佛も亦、是(か)くのごとし。佛より「十二部經」を出だし、「十二部經」より「修多羅(しゆたら)」を出だし、「修多羅」より「方等經」を出だし、「方等經より「般若波羅蜜」を出だし、「般若波羅蜜」より「大涅槃經」を出だす。猶ほ、醍醐のごとし。醍醐と言ふは、佛性の喩へなり。

   *

『とある。これが醍醐味の語源として仏教以外でも広く一般に知られるようになった』。『延喜式では、納税に用いる蘇の製造が規定されている。蘇は醍醐を製造する前段階の乳製品であることから、蘇の製造方法を参考にしてさまざまな手法で濃縮、熟成させ、醍醐を作り出す試みが食品研究家らの手でなされている』。『ラクトー株式会社(現:カルピス株式会社)は』大正八(一九一九)年七月七日に『誕生した「カルピス」を命名する際に、カルシウムの「カル」と醍醐(サルピルマンダ)』(「醍醐味」の原語であるサンスクリット語のカタカナ音写)『の「ピル」を合わせた「カルピル」が考えられたが語感がよくないとされた。そのため五味の次位である熟酥(サルピス)の「ピス」と合わせ』「熟酥味(じゅくそみ)のサンスクリット語カタカナ音写)、『「カルピス」と命名した』ともある。因みに、「めいらくグループ」の販売している、コーヒー・フレッシュ・ミルクの「スジャータ」は釈迦が悟りを開く少し前、断食に力尽きて倒れた折り、乳粥(ちちがゆ)を差し上げて命を救ったという少女スジャーター(この出来事は釈迦が苦行放棄を旨とする契機となった)の名に基づき、ブッダガヤには「スジャータ村」が今も残ることも言い添えておこう。しかし、私は既に述べたように、以上の製法や叙述様態から見て、ここで時珍の言っている「醍醐」は乳清ではないかと考えている。ウィキの「乳清」を引いておく。「乳漿(にゅうしょう)」とも呼び、『乳(牛乳)から乳脂肪分やカゼインなどを除いた水溶液である。日本では英語風にホエイまたはホエー(英: whey』【hweɪ】『)とも呼ばれるが、英語圏では一般的に H は発音されないので』、『ウェイまたはウエイ』が正しい。『乳清は、チーズを作る際に固形物と分離された副産物として大量に作られる。また、ヨーグルトを静かに放置しておくと上部に液体が溜まることがあるが、これも乳清である。なお、固形物成分はカード(curd)と呼ばれる』。『なお、大豆由来のものは「大豆ホエイ」と呼称され、水溶性のタンパク質に富む』。『チーズ生産過程で作られた乳清の大半は廃棄されているが、高蛋白・低脂肪で乳成分由来カルシウムなどの無機栄養分やビタミンB群をはじめ各ビタミン類など栄養価が高い点、消化が速くタンパク質合成・インスリン分泌を促進する点などから、優れた食品であるとの認識が高まってきている。従来』、『大量に廃棄されていたものであり、流通さえ整えば』、『安価に提供できる点も注目されている』。『独特の甘酸っぱい味があり、乳清を加工した飲料も多く発売されている』。『粉状(ホエイパウダー)に加工しプロテインサプリメント等の原材料として用いられるほか、生クリームなどの代替として料理に用い、カロリーを大幅に抑えるなどの用途がある』。『イタリアなどでは乳清からさらにチーズを作る事もある。乳清から作られたチーズはホエーチーズと呼ばれ、リコッタ』(イタリア語(以下同じ):Ricotta)『などがその種類に属する』。『パルミジャーノ・レッジャーノ』(parmigiano reggiano:イタリア・チーズの王様と呼ばれる))『の産地であるイタリアのパルマ』(Parma)『県では同じく名産品のクラテッロ・ディ・ジベッロ』(culatello di Zibello:パルマ県特産の豚肉を用いた塩蔵食品で、私が最も愛する肉食品の一つである。ウィキの「クラテッロ・ディ・ジベッロ」を引く。特に厳しく認定された『豚の』、『尻の部分のみを使用し、ポー』(Po)『川西岸の』ジベッロ(Zibello)周辺の八『村のみで作られ』、本邦では一部のレストランのみが提供し、なかなか容易には食することが出来ない)『を生産するにあたり、原材料の豚の飼料の一つとして乳清を与えることが義務付けられている。 同様に、北海道の十勝地方などでは、食用の豚に乳清を与えて飼育することが行われている。このように飼育された豚は地域ブランドとして』「ホエー豚」『と呼ばれる。豚が健康になり、肉の旨味も増すと宣伝されており、北海道根室振興局管内に属する中標津町では「ミルキーポーク」という名前でブランド化されている』。『なお、ラットを使った実験では、大豆ホエイたん白質に血圧降下作用が認められた』『が、高齢女性に対する乳清タンパク質を長期』二『年間』に亙って『摂取させた試験では、血圧に影響は認められなかったという報告がある』。「醍醐」を「乳清」としたことについては、大方の御叱正を待つものではある。]

 

乳腐〔(にゆうふ)〕【一名乳餅】

乳腐【俗云乳脯】造法以牛乳一斗網濾入釜煎五沸水解之用

 醋入如豆腐法漸漸結成漉出以帛裹之用石壓成

 入鹽甕底收之【甘微寒】潤五臟利大小便益十二經脉微

 動氣治赤白痢小兒服之彌良

 

 

 

乳腐【俗に云ふ、「乳脯(にゆうほ)」。】造る法〔は〕、牛乳(バウトル)一斗を以つて網〔にて〕濾〔(こ)〕して釜に入れ、煎〔ること〕五沸、水にて之れを解き、醋〔(す)〕を用ひ、〔じ〕入る。豆腐〔を製する〕の法のごとし。漸漸(ぜんぜん)に、結〔び〕成〔し〕[やぶちゃん注:凝固し。]、漉〔(こ)し〕出〔(い)づるを〕[やぶちゃん注:浸潤液が十分に出たら。]、帛(きぬ)を以つて之れを裹(つゝ)み、石を用ひ、壓〔(あつ)を〕成し、鹽を入れ、甕の底に之れを收む【甘、微寒。】。五臟を潤ほし、大小便を利し、十二經脉[やぶちゃん注:「脉」は「脈」に同じ。]〔の〕微動氣に益し、赤〔(せき)〕・白痢〔(びやくり)〕を治す。小兒、之れを服せば、彌〔(いよいよ)〕良し。

 

[やぶちゃん注:まず、時珍の言っている「乳腐」は、現行の漢字をひっくり返した「腐乳(ふにゅう/中国語拼音:fǔ rǔ(フウー・ルウー)」とは違うので、要注意である。ウィキの「腐乳」によれば、「腐乳」は豆腐に麹を附けて塩水中で発酵させた食品であって乳製品ではない(但し、「腐乳」は『千年以上の歴史を持つ食べ物であり、中国全土で広く食べられ』、「豆腐乳」「乳腐」「南乳」『とも呼ばれる』。『醗酵臭と塩味があ』り、『炒め物、煮込み料理などに調味料として用いられる以外に、粥に入れて食べる食卓調味料として用いる。紅麹を用いた腐乳は塩辛くなく甘みがあり、そのまま爪楊枝で削って食べる方法も台湾では一般的である。一般的に腐乳は瓶詰めで流通しており、保存と調味を目的とした漬け汁に浸かっている』。『少なくとも、豆腐の発明より後の時代に生まれて』おり、『魏の時代に生まれたとする説もあるが、定かではない』。『宋の時代の文献』「清異録」には、『既に普通の食品として記載されている』とある)。しかして、謂わずもがなであるが、この「乳腐」は無論、チーズ(cheese)である。現代中国語では「奶酪(nǎi lào:ナァィ・ラァォ)」「乳酪(rǔ lào:ルゥー・ラァォ)」「干酪(gàn lào:ガァン・ラァォ)」等と表記する(「奶」(音「ノ・ナイ/ダイ」は「乳」の意)。ウィキの「チーズ」の冒頭概略のみを引く。『牛・水牛・羊・山羊・ヤクなど鯨偶蹄目の反芻をする家畜から得られる乳を原料とし、乳酸発酵や柑橘果汁の添加で酸乳化した後に加熱や酵素(レンネット)添加によりカゼインを主成分とする固形成分(カード)と液体成分(ホエー)に分離して脱水した食品(乳製品)の一種。伝統的に乳脂肪を分離したバターと並んで家畜の乳の保存食として牧畜文化圏で重要な位置を占めてきた。日本語や中国語での漢語表記は、北魏時代に編纂された斉民要術に記されているモンゴル高原型の乳製品加工の記述を出典とする乾酪(かんらく)である』。以下、非常に詳細な記載があるので参照されたい。ウィキには他に独立した「チーズの歴史」のページもあり、こちらも読み応えがある。

「乳脯(にゆうほ)」「脯」は「ほじし」等と訓じ、通常は干した鳥獣などの肉を指すが、腑には落ちる。

「牛乳(バウトル)」「バ」はママ。既に「牛」の項に出た「ボウトル」と同じである。英語の「butter」のカタカナ音写に酷似することがお判り戴けよう。実際、後のことであるが、開国後の横浜では、「バター」は「ボウトル」と呼ばれた。「牛乳」にそれを振るのは誤りではあるが、まあ、許せる錯誤の範囲とは言えよう。「第三十七 畜類 総論部・目録」でも述べたが、「チーズ」(cheese)は、ポルトガル語では「ケイジョ」(Queijo)と呼んだ。良安はその「目録」で「羊乳」に「ケイジ」というルビを振っている(この振り仮名は本文には出ない)。半可通な部分はあるが、良安は「羊の乳で作ったチーズ」と伝えきったその語を、「羊の乳」の意と誤認したのではあるまいか?

「一斗」明代の十七リットル。

「十二經脈〔の〕微動氣に益し」東洋文庫注に『人体内を縦横に走っている経脈。手の少陽(三焦)、手の少陰(心)、足の少陽(胆)、足の少陰(腎)、手の太陽(小腸)、手の太陰(肺)、足の太陽(膀胱)、足の太陰(脾)、手の陽明(大腸)、足の陽明(胃)、手の厥陰(心包絡)、足の厥陰(肝)、以上を十二経脈という』とあり、この部分は『十二経脈の運動をよくするということ』とする。「微動氣」とはその十二経脈の運動の中でも、非常に微妙にして繊細な気の動きにまで良い効果を齎し、という意味なのであろう。

「赤・白痢」赤痢と白痢で採った。「赤痢」(せきり)は下痢・発熱・血便・腹痛などを伴う大腸感染症である。古くは「血屎(ちくそ)」と呼んだ。なお、従来「赤痢」と呼ばれていた疾患は現代では「細菌性赤痢」と「アメーバ性赤痢」に分けられるが、一般的に「赤痢」と呼ばれているものは赤痢菌(真正細菌ドメイン(domain)プロテオバクテリア門 Proteobacteria γプロテオバクテリア綱 Gamma proteobacteria エンテロバクター目 Enterobacteriales 腸内細菌科赤痢菌属 Shigella。懐かしい響きだ! トルコに旅行して帰国後、妻がこのD亜群に属するShigella sonnei(ソンネ赤痢菌)一相(いっそう:血清型により二つに識別される)に罹患して鎌倉の清川病院に隔離されたのだった!)による細菌性赤痢のことを指す。「白痢」は「和名類聚鈔」に既に「なめ」として出、無色の粘液様の大便で、激しい下痢症状の中の一症状を指す。]

2019/02/22

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 黃明膠(すきにかは) (製品としての透(す)き膠(にかわ))

 

Sukinikawa

 

すきにかは 牛皮膠 水膠

      海犀膏

黃明膠

      【俗云須木尒加波】

 

本綱黃明膠牛皮膠也其色黃明但非阿井水所作耳

制作不精故不入藥用止以膠物耳而功用亦與阿膠彷

彿苟阿膠難得則眞牛皮膠亦可權用

△按膠所以連綴物令相黏著者也自中華來者色黃赤

 透明形如筭木者俗稱算木手卽黃明膠也爲上濁黒

 色而濕軟者爲下品如今日本多作之其黃明膠畫家

 墨匠用之濁黒膠木匠以粘物或賤墨中入用凡物膠

 繼者得水則堅近火則解

 

 

すきにかは 牛皮膠〔(ぎうひこう)〕

      水膠〔(すいこう)〕

      海犀膏〔(かいさいかう)〕

黃明膠

      【俗に云ふ、「須木尒加波」。】

 

「本綱」、黃明膠は、乃〔(すなは)〕ち、牛の皮の膠〔(にかは)〕なり。其の色、黃に〔して〕明〔か〕なり。但だ、阿井の水にて作る所に非ざるのみ。制作、精(くは)しからざる故[やぶちゃん注:製造法が粗雑であるので。]、藥用に〔は〕入れず、止(た)ゞ、物を膠(つ)く〔るに用ふ〕のみ[やぶちゃん注:接着するために使用するだけである。]。而〔れども〕、功用、亦、阿膠〔(あきやう)〕と彷彿〔(はうふつ)〕たり[やぶちゃん注:極めて酷似しており、殆んど変わらない。]。苟〔(いや)しくも〕、阿膠、得難きときは、則ち、眞〔(まこと)の〕牛皮の膠〔(にはか)〕も亦、權〔(か)〕り〔に〕用ふべし[やぶちゃん注:仮に使用してもよい(問題ない)。]。

△按ずるに、膠は、物を連〔ぎ〕綴り、相ひ黏〔(ねば)〕り著〔(つ)〕けしむる所以(ゆゑん)にして〔→の〕者なり。中華より來たる者、色、黃赤〔にして〕透-明(すきとほ)り、形、筭木〔(さんぎ)〕[やぶちゃん注:「筭」は「算」の異体字。]のごとき者〔にして〕、俗〔も〕「算木手」と稱す。卽ち、「黃明膠」〔にて〕、上と爲す。濁〔れる〕黒色にして濕めり〔て〕軟かなる者、下品と爲す。如-今(いま)は日本にて多く、之れを作る。其の「黃明膠」は、畫家・墨匠、之れを用ふ。「濁黒膠〔(くろにかは)〕」[やぶちゃん注:私の勝手な当て訓なので注意。]は、木匠、以つて物を粘(つ)く〔に用ひ〕、或いは、賤墨(やすずみ)の中に入れ用ゆ。凡そ、物、膠にて繼〔(つ)〕ぐ者、水を得れば、則ち、堅く、火に近〔づくる〕ときは、則ち、解〔(と)〕く。

[やぶちゃん注:冒頭の「本草綱目」が言っているように、謂わば、これは、「シャンペン」(フランス語「Champagne」の英語読み。正しくは地名と同じで、そのまま「シャンパーニュ」が正しい)と「スパークリング・ワイン」(Sparkling wine/フランス語:Vin effervescent/カタカナ音写:ヴァン・エッフェルヴェソン))の違いみたようなもので、阿膠(あきやう・にかは)(製品としての膠(にかわ))が、現在の山東省聊城市東阿県内で、定められた手法で、当地の特殊な井戸水を以って製造・精製された膠のみが「阿膠(あきょう)」であり、それ以外の場所で、以下に優れた技術で製造・精製しても、それはあくまで「黃明膠(コウメイキョウ/すきにかわ)」と呼んで、厳然と区別し、常に「阿膠」こそが最上の膠であるというのである。

「筭木〔(さんぎ)〕」「算木」は本来は「卦 () 木」とも称した、中国や日本で易によって占いをする際に用いた道具を指す。筮(ぜい)によって占い出された陰・陽の爻(こう)を筆録する代りに用いられる、長さ九~十センチメートルほどの細い木製の角柱で、角の一面の中央部に溝を附けておき、溝のない二面が陽、溝のある二面が陰を表わし、六本で一卦を成すようになっている。但し、本邦では近世、別に、実際の和算で使う計算用具もかく呼んだ。その場合は、長さ約四センチメートル、約五ミリメートル角の木製の棒で、赤と黒に塗り分けられ、赤は正数、黒は負数を表わした。ここは寺島の評言部分であり、良安は本来の正式なそれをイメージして言ったとしても、後者で解釈する読者が後代には多かったと考えられる。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 底の底

 

 

 

底(そこ)の底(そこ)、夢(ゆめ)のふかみを

あざれたる泥(ひぢ)の香(か)孕(はら)み、

わが思(おもひ)ふとこそ浮(うか)べ。

 

浮漚(うきなわ)のおもひは夢(ゆめ)の

大淀(おほよど)のおもてにむすび、

ゆららかにゑがく渦(うづ)の輪(わ)。

 

滯(とどこほ)る銹(さび)の綠(みどり)に

濃(こ)き夢(ゆめ)はとろろぎわたり、

呼息(いき)づまるあたりのけはひ。

 

涯(はて)もなく、限(かぎり)も知(し)らぬ

しづけさや、――聲(こゑ)さへ朽(く)ちぬ、

あなや、この物(もの)うきおそれ。

 

浮漚(うきなわ)はめぐりめぐりぬ、

大淀(おほよど)のおもてに鈍(ね)びて

たゆまるる渦(うづ)の輪(わ)のかげ。

 

物(もの)うげの夢(ゆめ)の深(ふか)みに

魂(たましひ)の失(う)せゆくひまを、

浮漚(うきなわ)のおもひは破(や)れぬ。

 

朽(く)ちにたる聲(こゑ)張(は)りあげて

わがおもひ叫(さけ)ぶとすれど、

空(むな)し、ただあざれしにほひ。

 

涯(はて)もなきこの靜(しづ)けさや、

めくるめくおそはれごこち、

涯(はて)もなき夢(ゆめ)のとろろぎ。

 

[やぶちゃん注:「あざれたる」腐ってしまっている。

「泥(ひぢ)」「ひぢ」(現代仮名遣「ひじ」)は「埿」とも書き、特に水溜まりの泥・泥土の意。

「浮漚(うきなわ)」水の上に浮いている泡のこと。「なわ」は「水泡・水沫」の「みなわ」(元「み大淀(おほよど)なあわ」。「な」は「の」の意の格助詞)の「なわ」であるから、歴史的仮名遣は正しい。

「大淀(おほよど)」流れが停滞した大きな澱(よど)み。

「銹(さび)」「錆」に同じい。

「濃(こ)き夢(ゆめ)はとろろぎわたり」最終連でも「涯(はて)もなき夢(ゆめ)のとろろぎ」と繰り返されるが、「とろろぐ」という動詞は知らない。小学館「日本国語大辞典」にも載らぬが、そこには「とろろく」で、「すっかり溶けてどろどろになる」という意味で「古事記」の用例を示す。ここもそれか。識者の御教授を乞う。

「鈍(ね)びて」「ねびる」は「若さがなくなって年寄りじみている・老けて見える」という平安以来の古語であるから、ここは汚れて汚くなった水沫のイメージとして腑に落ちる。

「たゆまるる」「弛まるる」で、「自然、すっかり衰えてしまった」の意であろう。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 滅の香

 

 

 

やはらかき寂(さ)びに輝(かゞや)く

壁(かべ)の面(おも)、わが追憶(おもひで)の

靈(たま)の宮(みや)、榮(はえ)に飽(あ)きたる

箔(はく)おきも褪(あ)せてはここに

金粉(きんぷん)の塵(ちり)に音(おと)なき

滅(めつ)の香(か)や、執(しふ)のにほひや、

幾代々(いくよよ)は影(かげ)とうすれて

去(い)にし日(ひ)の吐息(といき)かすけく、

すずろかに燻(く)ゆる命(いのち)の

夢(ゆめ)のみぞ永劫(とは)に往(ゆ)き來(か)ひ、

ささやきぬ、はた嘆(なげ)かひぬ。

あやしうも光(ひかり)に沈(しづ)む

わが胸(むね)のこの壁(かべ)の面(おも)、

惱(なや)ましく鈍(ね)びては見(み)ゆれ、

倦(うん)じたる影(かげ)の深(ふか)みを

幻(まぼろし)は浮(うか)びぞ迷(まよ)ふ、――

つややかに、今(いま)、綠靑(ろくしやう)の

牧(まき)の氈(かも)、また紺瑠璃(こんるり)の

彩(あや)も濃(こ)き花(はな)の甘寢(うまい)よ、

更(さら)にわが思(おも)ひのたくみ、

われとわが宿世(すぐせ)をしのぶ

醉(ゑひ)ごこち、痴(し)れのまどひか、

眼(ま)のあたり牲(にへ)の仔羊(こひつじ)、

朱(あけ)の斑(ふ)の痛(いたみ)と、はたや

愛欲(あいよく)の甘(あま)き疲(つか)れの

紫(むらさき)の汚染(しみ)とまじらふ

業(ごふ)のかげ、輪𢌞(りんね)の千歳(ちとせ)、

束(つか)の間(ま)に過(す)がひて消(き)ゆれ、

幾(いく)たびか憧(あく)がれかはる

肉村(ししむら)の懴悔(ざんげ)の夢(ゆめ)に

朽(く)ち入(い)るは梵音(ぼんおん)どよむ

西天(さいてん)の涅槃(ねはん)の教(をしへ)――

埋(うづも)れしわが追憶(おもひで)や。

わづらへる胸(むね)のうつろを

煩惱(ぼんなう)の色(いろ)こそ通(かよ)へ、

物(もの)なべて化現(けげん)のしるし、

默(もく)の華(はな)、寂(じやく)の妙香(めうかう)、

さながらに痕(あと)もとどめぬ

空相(くうさう)の摩尼(まに)のまぼろし、

 

[やぶちゃん注:最後の読点はママ。「青空文庫」版(底本:昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」は句点。まずは句点の誤植ではあろう

「箔(はく)おき」「箔置」で名詞。金銀の箔を被せた装飾部のこと。

「梵音(ぼんおん)」ここは「どよむ」(鳴り響く・響き亙る)からは、幻の梵鐘の音ともとれるが、しかし、ここは後の「西天(さいてん)の涅槃(ねはん)の教(をしへ)」に続くことを考えると、シンボライズされたその音(梵鐘で構わぬが)は本来の仏語で言うところの梵音(ぼんのん)、即ち、同時に「清浄な音声」「大梵天の声」「仏の、正法(しょうぼう)を説く声」の意でもあろう。

「空相(くうさう)」「般若心経」の「是諸法空相」で一般に知られる「この世の中のあらゆる存在や現象一切は総て空であるという真理様態。

「摩尼(まに)」サンスクリット語「マニ」の漢音写。「球」「宝球」などと訳される。「宝石」を指し、転じて仏法の真理に譬える。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 癡夢

 

  癡 夢

 

陰濕(いんしつ)の「嘆(なげき)」の窓(まど)をしも、かく

うち塞(ふさ)ぎ眞白(ましろ)にひたと塗(ぬ)り籠(こ)め、

そが上(うへ)に垂(た)れぬる氈(かも)の紋織(あやおり)、――

朱(あけ)碧(みどり)まじらひ匂(にほ)ふ眩(まば)ゆさ。

 

これを見る見惚(みほ)けに心(こゝろ)惑(まど)ひて、

誰(たれ)を、噫(あゝ)、請(しやう)ずる一室(ひとま)なるらむ、

われとわが願(ねがひ)を、望(のぞみ)を、さては

客人(まらうど)を思(おも)ひも出(い)でず、この宵(よひ)。

 

唯(たゞ)念(ねん)ず、しづかにはた圓(まど)やかに

白蠟(びやくらふ)を黃金(こがね)の臺(だい)に點(とも)して、

その熖(ほのほ)いく重(へ)の輪(わ)をしめぐらし

燃(も)えすわる夜(よ)すがら、われは寢(い)ねじと。

 

徒然(つれづれ)の慰(なぐ)さに愛(あい)の一曲(ひとふし)

奏(かな)でむとためらふ思(おも)ひのひまを、

忍(しの)び寄(よ)る影(かげ)あり、誰(た)そや、――畏怖(おそれ)に

わが脈(みやく)の漏刻(ろうこく)くだちゆくなり。

 

長(なが)き夜(よ)を盲(めしひ)の「嘆(なげき)」かすかに

今もなほ花文(けもん)の氈(かも)をゆすりて、

呼息(いき)づかひ喘(あへ)げば盛(さか)りし燭(しよく)の

火影(ほかげ)さへ、益(やく)なや、しめり靡(なび)きぬ。

 

癡(し)れにたる夢(ゆめ)なり、こころづくしの

この一室(ひとま)、あだなる「悔(くい)」の蝙蝠(かはほり)

氣疎(けうと)げにはためく羽音(はおと)をりをり

音(おと)なふや、噫(あゝ)などおびゆる魂(たま)ぞ。

 

[やぶちゃん注:燃(も)えすわる」は底本では「燈(も)えすわる」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「氈(かも)」獣毛で織った敷物。毛氈(もうせん)。

「慰(なぐ)さ」造語ではなく、古語としてある。心を慰めるもの。心を安めるもの。動詞「なぐ(和ぐ)」の終止形に接尾語「さ」を附けたもの。]

大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)

 

【外】

麵條魚 本草ニノセス潛確類書及河閒府志ニノセタリ

 長一二寸鱠残ヨリ小ナリ甚潔白ナリ是亦白ウ

 ヲト云三月海ヨリ川ニ多ク上ル漁人梁ヲ以テ多クトル四

 月以後ハ無之味膾残魚ニ不及トイヘ𪜈新シキハ味頗

 美ナリ處〻ニ多シ又白小トモ云杜子美白小ノ詩曰

 天然二寸魚又名之曰白小白小モ麪條魚ナリト

 潛確類書ニイヘリ味淡ク乄ヨノツネノ病人ニ無妨甘平

 無毒寬中健胃合生薑作羹佳只産婦ニハ食ハシムベ

 カラス有害ト云氣ヲ上スル性アルハ順水流而上故ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

麵條魚(しろうを) 「本草」にのせず。「潛確類書」及び「河閒府志」にのせたり。長さ一、二寸、〔前條の〕鱠残魚(しろうを)より、小なり。甚だ潔白なり。是れも亦、「白うを」と云ふ。三月、海より、川に多く上〔(のぼ)〕る。漁人、梁〔(やな)〕を以つて多くとる。四月以後は、之れ、無し。味、膾残魚に及ばずといへども、新しきは、頗〔(すこぶ)〕る美なり。處々に多し。又、「白小〔(ハクシヨウ/しろこ)〕」とも云ふ。『杜子美、「白小」の詩に曰はく、「天然 二寸の魚」〔と〕。又、之れを名づけて「白小」と曰〔(い)〕ふ。「白小」も麪條魚〔(しろうを)〕なり』と「潛確類書」にいへり。味、淡くして、よのつねの病人に妨げ無し。甘、平。毒、無し。中〔(ちゆう)〕を寬〔(くつろ)〕げ、胃を健す。生薑〔(しやうが)〕に合はせ、羹〔(あつもの)〕と作〔(な)せば〕、佳〔(よ)〕し。只だ、産婦には食はしむべからず、害、有ると云ふ。氣を上〔(じやう)〕する性あるは、水流に順ひて上〔(のぼ)〕る故なり。

[やぶちゃん注:こちらは条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinaeシロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii である。ウィキの「シロウオ」によれば、『透明な体の小魚で、日本、朝鮮に分布し、食用に漁獲される』。条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科シラウオ属シラウオ Salangichthys microdon とは生態や姿が似ており、混同しやすいが(実際には生魚は素人が見ても明らかに違う種と判る)、全く異なった種であり、分布も異なっている。その分布・生態・識別等は、前条の「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを)(シラウオ)」の私の注を参照されたい。『日本での地方名としてヒウオ(氷魚。茨城・徳島)、イサザ(北陸)、ギャフ(伊勢湾沿岸)、シラウオ(関西・広島)などがある。関西地方などでの呼称は、シラウオ科のシラウオとの混称。また、北陸地方での呼称イサザは、琵琶湖産ハゼの一種の標準和名に充てられていて、琵琶湖で氷魚はアユの稚魚を指す』(寧ろ、地方名や流通での名前の混乱の方が有意に問題がある。なお、最後の部分は前条の私の注で説明した通り、益軒は致命的な大誤認をして「シラウオ」のこととしている。『朝鮮では標準名で「死白魚』『」(サベゴ)と呼ばれるが、死ぬと白く変色することによる』。『英語では氷のハゼを意味するice gobyと呼ばれる』。『成魚は全長』五センチメートル『ほどで、細長い円筒形の体形をしている。体はわずかに黒い色素細胞がある以外はほぼ透明で、眼球・うきぶくろ・脊椎等が透けて見える。ただし死ぬと体が白く濁ってしまい、体内の構造は見えなくなる。メスは腹部に黒い点が』一『列に並ぶのでオスと区別できる。吻は丸く、口は眼の後ろまで裂け、下顎が上顎より前に突き出る。顔つきはハゼ類の特徴がよく現れている』。『ハゼ科の魚は背鰭が二つあることと腹鰭が吸盤状になっているのが特徴だが、シロウオの背鰭は一つしかなく、腹鰭はごく小さい。また鱗も側線もない。充分に成長しても仔魚のような特徴を残すことからプロジェネシス』(プロジェネシス(progenesispaedogenesis:早熟・前発生:動物に於いて性的性徴・発達が加速される現象。ネオテニー(neoteny:幼態成熟:性的に完全に成熟した個体であるにも拘わらず、非生殖器官に未成熟な幼生時・幼体時の性質が残る現象)の対語)『と考えられている。ハゼ科の中では形態が特異な種類として位置づけられ』、一属一種の単型である。『北海道南部から九州南部までと朝鮮半島南部の慶尚南道周辺』『に分布する。南西諸島には分布しないが、奄美大島からの報告がある』。『日本に生息する個体は遺伝的に異なる地理的集団を形成しており』、『「日本海系統」「太平洋系統」に分けられる。また、瀬戸内海域は日本海系と太平洋系統が混合していると報告されている』。『通常は沿岸の浅い海に生息し、プランクトンを捕食しながら生活しているが、早春には成魚が川の下流域に遡上して産卵する。成魚は河口で群れをなし、満潮時の上げ潮に乗って川をさかのぼる。汽水域上限から淡水域にかけての、転石が多い区域に辿り着くと群れは解消される。一夫一妻・』一『回限りの繁殖様式とされ』一~三ミリメートル『程度の礫質底に』、『オスは各々が石の下に潜り込んで産卵室を作り、メスを誘って産卵させる。メスは産卵室の天井に長径』三ミリメートル『ほどの細長い水滴形の卵を約』三百『個産卵する。海水では孵化しない』。『産卵・受精後はオスが巣に残り、孵化するまでの』二『週間ほど何も食べずに卵を保護する。寿命は約』一『年で、メスは産卵後に、オスも卵が孵化した後に死んでしまう。孵化する仔魚は全長』五ミリメートル『ほどで、すぐに川の流れに乗って海へ下る』。『古来より川の下流域へ集まる頃の成魚が食用に漁獲され、早春の味覚として知られる。食用以外にはメバル等の肉食魚の釣り餌としても利用される』。『漁には十字に組んだ竹』二『本で四角形の網を吊るした四手網が全国的によく使われる。網を川底に吊るし、シロウオの群れが網の上を通過したときに一気に引き上げて漁獲するもので、早春の下流域で四手網を繰り出す様は春の風物詩ともなっている。他に地引網や簗』(やな:後注する)『などでも漁獲される。簗漁が行われる地域は日本各地にあるが、福岡市の室見川下流におけるシロウオの簗漁は江戸時代からの伝統があり、マスコミで取り上げられる機会も多い。南三陸町の伊里前川では川に幾何学状に積み上げた「ザワ」と呼ばれる石垣の隅におい込んで捕獲する漁をしているが、これは戦後発達した漁法で近隣地域に見られないため』、『近年「しろうお祭」と称される祭が開催されるようになった』。『近年、日本では高級食材として扱われている。死ぬと著しく風味が落ちるとされるため、流通する際は、水と酸素を充填したポリ袋に入れるなどして、殺さないように注意が払われる』。『生のシロウオを軍艦巻の寿司種にしたり、生きたまま』、『ポン酢などで食べる踊り食いなどで生食が広がりつつある。踊り食いや生食については河川の細菌や寄生虫(横川吸虫)など、衛生上の問題が一部で指摘されている。他に、天ぷら、卵とじ、吸い物の椀種、ニンジンなどと共に炊く炊き込みご飯などの料理が伝統的に食べられている』。『朝鮮では、慶尚南道や釜山でフェやムルフェと呼ばれる酢、トウガラシなどで味を付けて生食する料理や、和え物、チヂミの類、スープなどとして食べられる』とある。

「麵條魚」「麵」は言わずもがな、小麦粉をこね伸ばした食用に生地の意。後の「麪條魚」の「麪」は「麵」の異体字。

『「本草」にのせず』明の李時珍の「本草綱目」。

「潛確類書」「潜確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(一五八一年~一六三六年)が編纂した事典。

「河閒府志」この別名で最も知られる、明の樊深の撰になる「嘉靖河間府志正徳大名府」か。現在の河北省滄州市河間市附近(グーグル・マップ・データ)の地方誌であるが、同様の別名で全くの別書もあるので確かではない。しかし、この河間市は東の渤海湾から直線でも八十五~百キロメートル以上離れた内陸であり、そこに記される「麵條魚」は降海性であるシロウオ(基本的には海水魚であるが、卵は海水では孵化せず、淡水域でも棲息は出来るが、成魚は海に下る)の近縁種(中国には本邦のシロウオは棲息しない)であるとは私には思われない。ハゼ科 Gobiidae 或いはゴビオネルス亜科 Gobionellinae の別種、或いは全く違う種であろう。中文サイトで以下に掲げる杜甫の「白小」を見ると、確かに、注で「白小」が現在の「面条魚」であるとするが、中文サイトで「面白魚」を見ると、漢名を「玉筋魚」とし、これは現在の条鰭綱スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes personatus である。しかも、またまた面倒なことに、イカナゴは沿海性であって、河間市まで溯ることは考え難い。イカナゴ科 Ammodytidae は総て海水魚であるから、その仲間という訳にもいかない。ただ、これは「河閒府志」と「麵條魚(しろうを)」の連関に於ける致命的齟齬であって、後掲される杜甫の「白小」は、ここで詠まれたものではないから、問題はないと言えば言えるのである(ただ、中国にはシロウオは棲息しないし、後で注するように、杜甫の「白小」も詠まれた場所からシロウオどころかイカナゴの仲間でさえ実は、ない)。明代に「麵條魚」と呼ばれたシロウオとは全く異なる淡水魚が如何なるものであるのかが、私の疑問として残るのみではある。

「鱠残魚(しろうを)」前条「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを)(シラウオ)」を参照。

「梁〔(やな)〕」「簗」に同じ。川などの瀬に杭 などを八の字形に並べ、水をせき止めて一ヶ所を開けて、そこに梁簀 (やなす:篠竹を編んで作った簀(すのこ)。河川の魚道に張り立てて魚を捕らえるための装置。) を張って流れてくる魚を受けて捕る仕掛け。上り梁・下り梁などがある。

「白小〔(ハクシヨウ/しろこ)〕」読みは、前のシラウオと区別するために私が勝手に附した。

『杜子美、「白小」の詩に曰はく、「天然二寸の魚、又、之を名づけて白小と曰〔(い)〕ふ」〔と〕。「白小」も麪條魚なり』と「潛確類書」にいへり原典の記載を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で調べた。ここである。杜甫の五言律詩「白小はくしやう)」は以下。所持する一九六六年岩波文庫刊の鈴木虎雄・黒川洋一校注「杜詩」(第六冊)に拠ったが、訓読の一部は私の趣味で変えてある(「生成猶捨卵」は「生成猶拾卵」であるのを、校注者が一本に作る「捨」の字の方を採用した)。

   *

 白小

白小羣分命

天然二寸魚

微霑水族

風俗當園蔬

入肆銀花亂

傾筐雪片虛

生成猶捨卵

盡取義何如

  白小

 白小も羣(みな)命(めい)を分かつ

 天然 二寸の魚

 微にして 水族を霑(うる)ほす

 風俗 園蔬(えんそ)に當(あ)つ

 肆(みせ)に入れば 銀花 亂れ

 筐(かご)を傾くれば 雪片 虛(むな)し

 生成 猶ほ 卵(らん)を捨(お)くといふ

 盡(ことごと)く取るは 義 何如(いかん)

   *

これは中文サイトの解説に拠れば、七六六年、杜甫が寓居していた夔州(きしゅう)での詠とする。夔州(現在の重慶市附近)は中国の南部のど真ん中の内陸であり、シロウオやイカナゴの仲間とは無縁である。「白小」に校注者は安易にも『しらうおの類であろう』とするが、内陸のここではそれらであろうはずがないのである。「水族を霑(うる)ほす」他の水族の餌となる。「風俗」夔州のそれ。「園蔬(えんそ)に當(あ)つ」陸の畑の野菜の代わり、食事の「あて」にする、の意。「肆(みせ)」音「シ」で、店・市場の意。「銀花」その透き通った瑞々しく美しい「白小」魚の換喩。「筐(かご)」本来は「はこ」だが、「白小」を入れた籠の意で当て訓した。「雪片」「銀花」同様、「白小」魚の換喩。「生成 猶ほ 卵(らん)を捨(お)くといふ」「捨(お)く」は「置く」で、卵を取らずにおく、の意と校注者は注し、以下、最後の二句を、『(ただ』、『ものはいたわって用うべきものである)物の生成からいうと』、『鳥の卵でさえもこれを』、『すておいて』、『取らぬというのが聖人の仁徳である』。『しかるにこの魚をここの人』々『はすっかり取り尽くすようであるが』、『それはどういうわけである』の『か』? それはまさに『仁』の『意にそむいた』仕方『ではないか』? と訳しておられる。意味は腑に落ちる。達意の訳としては瑕疵は全くない。しかし、何となく、ここまでまさにテツテ的に、まさに籠の目の間の「白小」まで浚い取って現代語訳してしまうと、少し、淋しい気が私はするのである。

   *

「中」漢方で言う仮想の体内概念である「中焦(ちゅうしょう)」であろう。上・中・下の三焦の中部。脾胃(ひい:胃の機能を助ける仮想器官群概念。後の「胃」もそれで現代医学の内臓としての「胃」とは概念が異なるので注意)を包括した概念で、消化吸収及び腸管への伝送を行い、気血生化の源とする。

「羹〔(あつもの)〕」暖かい煮込みスープ。

「氣を上〔(じやう)〕する性あるは、水流に順ひて上〔(のぼ)〕る故なり」「順ひて」は不審。「(食すと)人の陽気を盛んにさせる性質がこの魚にあるのは、水の流れに逆らって川を溯る習性に基づくのである」の意であろう。所謂、フレーザーの言う類感呪術的解釈である。]

団三郎狸関連新情報

「古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説」

私に団三郎狸の資料を下さった団三郎貍の末裔の方の新たな踏査と考証がアップされた。面白い!

2019/02/21

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 阿膠(あきやう・にかは) (製品としての膠(にかわ))

 

Akyou

 

[やぶちゃん注:図の阿膠(あきょう)の表書きは(これは思うに固めた膠に模様(本文にある「雲龍」の紋である)を泊で型押ししたものの上に紙で良安も述べている製造元・製作者及び作製年月日のデータを書いて張ったものかとも見える。但し、製品名が凹押印される意匠印型を用いたものが現在の中国製の販売用の固形膠では一般的のようだし、薬に使うには紙は却って邪魔で不純物にもなるから、これもそうなっているのを、良安は読み易く白地にしただけなのかも知れない)、一部に判読が出来ない部分があるが(■で示した)、

東平刕東阿知縣呉波宗督造

 張秋鎭工■兪洪泰煎煉

  崇禎拾五年仲冬月壹

か(「呉」「壹」は別字かも知れない)「呉波」(或いは「宗」まで)「兪洪」(或いは「泰」まで。「兪」(音「ユ」)は中国では普通に見られる姓である)は製造管理監督者と製造実務責任者の姓名と推定される。「東平刕東阿知縣」(「刕」は「州」の異体字)は現在の山東省東阿県の旧名かと思われる。ここは古くから膠の名産として知られ、特に地名をとって「阿膠」と呼ばれる。「崇禎拾五年」は明代最後の皇帝第十七代毅宗(きそう)の治世中で使用された元号で、崇禎(すうてい)十五年は一六四二年。因みに、この二年後の三月に李自成により明は滅亡した。「仲冬」は旧暦十一月の異名。「月壹」は判らぬが、月の朔日で、その十一月の一日の製造年月日であることを指すものか? 判読不能字を含め、何かお判りになる方はお教え願いたい。

 

あきやう   傳致膠

にかわ

阿膠

       【和名尒加波】

アキヤ◦ウ

 

本綱東阿縣【今山東兗州府陽穀縣也】有井有官舎以其井水常煑膠

以貢之故名阿膠造法自十月至二三月閒用沙牛水牛

驢皮者爲上豬馬騾駝皮者次之其舊皮鞋履等物爲下

俱取生皮水浸四五日洗刮極淨熬煑時時攪之恒添水

至爛濾汁再熬成膠傾盆内待凝近盆底者名坌膠煎膠

水以鹹苦者爲妙大抵是牛皮後世乃貴驢皮若僞者皆

襍以馬皮舊革鞍靴之類其氣濁臭不堪入藥當以黃透

如琥珀色或光黒如漆者爲眞眞者不作皮臭夏月亦

不濕軟

味【甘微溫】肺大膓之要藥入手足少陰足厥隂經【畏大黃

衂下血血淋止痢療崩漏胎前後諸疾

△按眞阿膠色光黑形如硯大抵長六寸二分橫二寸八

 分有雲龍文書年號月日及作者名謂之硯手今多作

 此形僞賣不論牛馬鹿煑一切敗故皮作之

 

 

あきやう   傳致膠〔(でんちこう)〕

にかわ

阿膠

       【和名、「尒加波」。】

アキヤ

[やぶちゃん注:「あきやう」の読みは最後の中国音(但し、現代中国音では「阿膠」は「ā jiāo」(アー・ヂィアォ)である)を転写したもの。「にかわ」はママ。]

 

「本綱」、東阿縣【今の山東兗〔(えん)〕州府陽穀縣なり。】に、井、有り、官舎、有り、其の井の水を以つて、常に膠〔(にかは)〕を煑〔(に)〕、以つて之れを貢ず。故に「阿膠」と名づく。造る法〔は〕、十月より二、三月の閒に至り、沙-牛〔(うし)〕・水牛・驢(うさぎむま)の皮の者を用〔ふを〕上と爲し、豬(ぶた)・馬・騾〔(らば)〕・駝〔(らくだ)〕の皮は之れに次ぐ。其の舊(ふる)皮、鞋〔(けい)〕・履〔(り)〕[やぶちゃん注:この場合は孰れも皮革製の靴。]等の物、下と爲す。俱に生皮を取り、水に浸すこと、四、五日、洗ひ刮(こそ)げ、極めて淨〔(じやう)〕にして[やぶちゃん注:綺麗にして。]、熬〔(い)〕り煑〔(に)〕、時時、之れを攪〔(かきま)ぜ〕、恒に水を添へ、爛〔(ただ)〕るに至らば[やぶちゃん注:すっかり柔らかくなったら。]、汁を濾(こ)し、再たび、熬り〔て〕膠と成し、盆の内に傾け[やぶちゃん注:流し込み。]、凝〔(かたま)〕るを待つ。盆の底に近き者を「坌膠〔(ふんこう)〕」と名づく。膠を煎る水〔は〕鹹〔(しほから)く〕苦〔(にが)き〕者を以つて妙と爲す。〔用ふ皮は、〕大抵、是れ、牛皮なり。後世、乃〔(すなは)ち〕、驢〔の〕皮を貴ぶ。僞はる者のごときは、皆、襍〔(まづ)〕るに馬の皮・舊き革・鞍・靴の類ひを以つてす。其の氣〔(かざ)〕、濁-臭(わるくさ)く[やぶちゃん注:「惡る臭く」で、ひどい臭いがし、の意。]、藥に入るるに堪へず。當に黃〔に〕透〔く〕こと、琥珀の色のごとく、或いは光り、黒く漆〔(くろうるし)〕のごとき者を以つて眞と爲すべし。眞なる者は、皮の臭ひを作〔(な)〕さず、夏月も亦、濕(しめ)り〔て〕軟(やわら[やぶちゃん注:ママ。])か〔には〕ならず。

味【甘、微溫。】 肺・大膓の要藥にして、手足の少隂〔(しやういん)〕・足の厥隂經〔(けついんけい)〕に入る【大黃を畏る[やぶちゃん注:甚だ合わない。]。】吐-衂〔(はなぢ)〕・下血・血淋〔血尿を伴う淋病。〕を治し、痢を止め、崩漏〔(ぼうろう)〕[やぶちゃん注:子宮の内部が激しい炎症で糜爛し、出血すること。]・胎前後の諸疾を療す。

△按ずるに、眞の阿膠は、色、光〔り〕、黑〔く〕、形、硯のごとし。大抵、長さ六寸二分[やぶちゃん注:約十八センチ九ミリメートル。]、橫二寸八分[やぶちゃん注:約八センチ四ミリメートル。]雲龍の文〔(もん)〕有り、年號月日及び作れる者の名を書く。之れを「硯手〔(すずりで)〕」と謂ふ。今、多く、此の形に作りて、僞〔れるものを〕賣る。〔それ、〕牛・馬・鹿を論ぜず、一切の敗〔(くさ)れる〕故皮〔(ふるがは)〕を煑て、之れを作る。

[やぶちゃん注:各種の動物の骨・皮・腱などから抽出したゼラチン(gelatin:動物の前記組織の結合組織の主成分であるコラーゲンに熱を加えて抽出したもの)を主成分とする物質。木竹工芸の接着剤或いは東洋画の顔料の溶剤など用途が広い。通常は板状か棒状に乾燥させて保存し、湯煎によって適当な濃度に溶かして用いる。ウィキの「ゼラチン」の「膠(ニカワ)」の項によれば、『日本では、主に食品や医薬品などに使われる純度の高いものをゼラチン、日本画の画材』及び『工芸品などの接着剤として利用する精製度の低いものを膠(ニカワ)』、『蹄を原料とするものは hoof glue』(フーヴ・グルー:「蹄」の「膠・接着剤」の意)『と称している』。『膠には和膠と洋膠(ゼラチン)があり、和膠のほうが純度が低い分』、『吸湿性や保水性に富み、舌先で筆を湿らすだけで』、『微妙な濃度の調整ができることから、手仕事に携わる職人や美術家など、和膠を支持する層も根強くあり、保湿性をあえて加えた洋膠も出回っている』。『和膠では鹿膠が最高級品とされる』とあり、現在は『主にウシやブタの皮や骨などを利用して生産されているが、宗教上の理由などからタブーの対象となる動物を避けて素材を選定し、作られる場合もある。魚の鱗や皮の他、中国ではロバの皮から作る阿膠がある』とする。接着剤として膠は、実に五千年以上も『前の古代から利用されていたと考えられている。シュメール時代にも使用されていたとも言われており、古代エジプトの壁画には膠の製造過程が描かれ、ツタンカーメンの墓からは膠を使った家具や宝石箱も出土している。中国では、西暦』三〇〇『年頃の魏の時代にススと膠液を練った「膠墨」が作られたとされ、また』、六『世紀頃には現代とほとんど変わらない膠製造の記録も見られる。紀元前』二『世紀に書かれたとされる中国の古書『周禮・考工記』には、のちの和膠とほぼ同じ作り方』さえ『掲載されている』。『中国から日本に膠が伝わったのは『日本書紀』などの記述から推古天皇の時代、「膠墨」としてもたらされたものと考えられている。奈良時代以降、製墨原料、建築・指物用接着剤、織布の仕上げ剤、医薬品(造血剤)などの材料として普及した』。『世界的に膠の原料は畜獣が多く用いられるが、獣肉の食習慣が薄かったため』、『原料が乏しく、遊牧民などからの輸入ルートもなかった日本では魚も膠の原料とされた。「にべもない」のニベとはかつて浮き袋が膠原料として重視された魚のことである』(条鰭綱スズキ目スズキ亜目ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii)。『世紀に入り、フィルムや印画紙に吸湿性の低い高純度のゼラチンが必要になったことから、洋膠の技術導入が始まった』。『食材としての伝来は遅く、明治時代以降、欧米の食文化の到来とともにゼラチンとして知られることになったが、食用のゲル化剤としては和菓子などに用いる寒天や葛粉など多糖類系統のものが既に広く用いられていたこともあり』、昭和一〇(一九三五)年『頃、国内で』、『食品にできるだけの純度に精製する技術が確立して後、ようやく食品用ゼラチンが普及することとなった』。『現代の日本では兵庫県姫路市に製造企業が集中している』。『ただし、ゼラチンは食物アレルギーを引き起こすことがあるので、市販されているゼラチンを含む食品は、原則としてゼラチンを含む旨を表示することになっている』とある。さて、実はウィキには、ズバリ、「阿膠」があるので、ここで引いておく。読みは何故か、今も生薬名は「アキョウ」で、ラテン名「Asini Corii Collas」を学名のように持つ(邦文ウィキでは『学名』と冠し、英文ウィキではなんとまあ斜体になっている。英名は「Donkey-hide gelatin」(hide は「獣皮」の意)。『ロバの皮を水で加熱抽出して作られるにかわ(ゼラチン)のこと』。『血液機能を高める効果があり、主に貧血や婦人病への処方や、美容のために用いられている』。『中国で古くから使われている生薬の一種で、約』二千五百『年前に書かれた中国最古の医学書『五十二病方』に記載がある』。『阿膠は、作った地域によって名称が変わり、中国山東省東阿県産のものが「阿膠」と呼ばれ、中国湖南省産のものは「驢皮膠」と呼ばれる。他にも、その作り方から傅致膠、盆覆膠などと呼ばれる場合もある』。『ロバの皮膚に含まれるコラーゲンが加水分解されたタンパク質や各種アミノ酸の混合物である。他にもカルシウム、マグネシウム、鉄など』二十七『種類のミネラルやコンドロイチンを含んでいる。 豚皮ゼラチンと比べると、リジンに富み、シスチンを含むがトリプトファンを欠く点で異なる』。『阿膠の生産にはロバの皮を使用するが、古来から非常に高価であったため、一般の女性が手にすることは不可能に近かった。現在も高価な代物であり、阿膠の産地である中国では原料であるロバが年々減少していることも関係して、阿膠の市場価格が日々上昇している。しかし価格が上がる一方で、廃棄原材料を使用した安物製品も出回っている。原材料にロバの皮を使用したものに比べ、安価ではあるが』、『皮製品の切れ端や牛の皮などを使用した製品もあり、消費者を悩ませている』。『中国山東省東阿県が主な産地で名前の由来にもなっている』。『中国では、東阿阿膠社の阿膠が有名で、東阿阿膠社の製造技術は中国の無形文化財として登録されている』。『古くは『五十二病方』に記載がある他、中国最古の薬物学書である『神農本草経』には、「上品」(養命薬(生命を養う目的の薬)で、無毒で長期服用可能なもののこと』『)として記載されている。『全唐詩』には、楊貴妃が美容のために隠れて服用していたという記述もあり、身分の高い女性の間で人気があったものといえる(当時、阿膠は非常に高価であったため、一般の女性が手にすることは不可能に近い)。清代では、習慣性流産に悩んでいた西太后が阿膠を飲んで不妊治療に成功し、同治帝を産んだことでも知られる』。『また、江戸時代に書かれた『薬徴続編』(著者:村井琴山)の中で阿膠の記載があることから、日本でも使われていた可能性がある』。『効能』は『補血・滋陰・潤燥・止血・安胎』で、良安の記載と変わらない。『中医学の考えでは、血は様々な症状と密接に関わりを持っているため、効能は幅広い。具体的には、生理痛の緩和、月経不順、子宮の不正大量出血や、出産後の滋養や抜け毛の改善、便通の改善、骨粗しょう症予防などの治療効果の他、肌荒れ・乾燥の防止、新陳代謝の促進などの美容効果がある』。『また』、十六『世紀に書かれた薬学書『本草綱目』において阿膠は「聖薬」(非常に優れていて、効能のある薬)として称賛されている』。『阿膠は様々な研究がされているが、近年では美白作用についての研究もあ』り、『また、美肌の効果解明のための共同研究も始められている』。『中国では、阿膠を主原料にクルミやゴマ、干し竜眼、糖類を用いたゼリーの一種「阿膠糕」も作られており、こちらは純粋な菓子や土産物、一種の健康食品として市販されている』とある。上記出た「東阿阿膠」公式サイトでは、生薬としての史がこちらにあり、「アキョウと有名人」のページがこちらにあって、そこでは先の引用に出た楊貴妃・西太后以外に、朱熹・曹植(詩篇に阿膠を仙薬とオードしている。彼は実はまさにこの地で東阿王であったことがあり、彼の墓も彼が好んだこの東阿県近くに残されているそうである)が載る。因みに、この現在の山東省東阿県は正確には、山東省聊城(りょうじょう)市東阿県で、無論、本文の「東阿縣」「今の山東兗〔(えん)〕州府陽穀縣なり」と同一で、ここ(グーグル・マップ・データ)である。

 

「官舎、有り」と言っているから、少なくとも明代には官営或いは国が保護・管理を行っていたことが判る。

「其の井の水を以つて」後に出るように「膠を煎る水」が「鹹〔(しほから)く〕苦〔(にが)き〕者を以つて」最上とするので、この井戸水(飲用は不可)が選ばれているのである。完全な内陸なので、地下水が岩塩層等を通底して湧いているのであろう。

「驢(うさぎむま)」「兎馬」で、お判りと思うが、「驢馬」、奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ Equus asinusのことである。後で独立項「驢(うさぎむま)」(「馬」の後)が出る

「騾〔(らば)〕」騾馬で、奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus ferus caballus である。英語は「Mule」(ミュール。但し、私にはネイティヴのそれは寧ろ「ミューロ」と聴こえる)、ラテン語ではMulus」(ムールス)と呼ぶ(斜体にしたのは種として正式に認められず、不憫に私が思うからである)のロバ(学名は前者)とのウマの交雑種の家畜で不妊である。ウィキの「ラバによれば、逆の組み合わせ(のウマとのロバの交配)で生まれた家畜種を「ケッテイ」(駃騠/英語:Hinny)と呼ぶが、「ケッテイ」と比べると、「ラバ」は『育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されてきた』。『家畜として両親のどちらよりも優れた特徴があり、雑種強勢の代表例である』。後に独立項で「騾(ら)」として出るので、ここまでとしておく。

「駝〔(らくだ)〕」「駱駝」。ウシ目ラクダ科ラクダ属で、現生は西アジア原産のヒトコブラクダ Camelus dromedarius と、中央アジア原産のフタコブラクダ Camelus ferus の二種のみ。この畜類のしんがりに「駱駝(らくだのむま)」で独立項として出る

「盆」型であるが(東洋文庫はわざわざ「盆」に『はち』とルビを振っているが意味が判らない)私はある程度の大きさお深さを持った方形の型容器を想起する。

『盆の底に近き者を「坌膠〔(ふんこう)〕」と名づく』「坌」は「集まる」の意があり、想像しても、容器の底の方がより濃厚な膠が出来ると思うから、それを格別品としてかく呼ぶのは腑に落ちる。

「襍〔(まづ)〕る」この漢字は「交える」「混じる」の意である。

漆〔(くろうるし)〕」「」は音「イ」で、「黒い美しい石」の意。読みは東洋文庫訳のそれを採用した。

「手足の少隂〔(しやういん)〕・足の厥隂經〔(けついんけい)〕」手足の少陰心経と、足の少陰腎経の経絡。

「大黃」タデ目タデ科ダイオウ属 Rheum に属する一部の種(或いは雑種)群からの根茎から作られた生薬「大黄(だいおう)」。ウィキの「ダイオウによれば、『消炎・止血・緩下作用があり、瀉下剤として便秘薬に配合されるほか、漢方医学ではそれを利用した大黄甘草湯に配合されるだけでなく、活血化瘀』(かっけつかお)『作用(停滞した血液の流れを改善する作用と解釈される)を期待して桃核承気湯などに配合される』。『日本薬局方では、基原植物を』ショウヨウダイオウ Rheum palmatumRheum tanguticumRheum officanaleRheum coreanum『又はそれらの種間雑種としている』とある。

「吐-衂〔(はなぢ)〕」「衂」の単漢字で「鼻血」を意味する。

・下血・血淋〔血尿を伴う淋病。〕を治し、痢を止め、崩漏〔(ぼうろう)〕[やぶちゃん注:子宮の内部が激しい炎症で糜爛し、出血すること。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 苦惱

 

   苦 惱

 

傳(つた)へ聞(き)く彼(か)の切支丹(キリシタン)、古(いにしへ)の惱(なやみ)もかくや――

影深(かげふか)き胸(むね)の黃昏(たそがれ)、密室(みつしつ)の(と)は鎖(さ)しもせめ、

戰(おのゝ)ける想(おもひ)の奧(おく)に「我(われ)」ありて伏(ふ)して沈(すづ)めば、

魂(たましひ)は光(ひかり)うすれて塵(ちり)と灰(はい)「心(こゝろ)」を塞(ふさ)ぐ。

 

懼(おそろ)しき「疑(うたがひ)」は、噫(あゝ)、自(みづから)の身(み)にこそ宿(やど)れ、

他(あだ)し人(ひと)責(せ)めも來(こ)なくに空(むな)しかる影(かげ)の戲(たは)わざ、

こは何(なに)ぞ、「畏怖(いふ)」の黨(ともがら)群(む)れ寄(よ)せて我(われ)を圍(かこ)むか。

脅(おびやか)す假(かり)裝(よそほ)ひに松明(たいまつ)の熖(ほのほ)つづきぬ。

 

聖麻利亞(サンタマリヤ)、かくも弱(よは)かる罪人(つみびと)に信(しん)の潮(うしほ)の

甦(よみがへ)り、かつめぐり來(き)て、「肉(しゝむら)」の渚(なぎさ)にあふれ、

俯伏(うつぶせ)に干潟(ひがた)をわぶる貝(かひ)の葉(は)の空虛(うつろ)の我(われ)も

敷浪(しきなみ)の法喜(ほふき)傳(つた)へて御惠(みめぐみ)に何日(いつ)かは遇(あ)はむ。

 

さもあれや、わが「性欲(せいよく)」の里正(むらをさ)は窺(うかが)ひ寄(よ)りて、

禁制(きんぜい)の外法(げはふ)の者(もの)と執(しふ)ねくも罵(のゝし)り逼(せま)り、

ひた強(し)ひに蹈繪(ふみゑ)の型(かた)を蹈(ふ)めよとぞ、あな淺(あさ)ましや、

我(われ)ならで叫(さけ)びぬ、『神(かみ)よ此身(このみ)をば磔(き)にも架(か)けね』と。

 

硫黃(いわう)沸(わ)く煙(けぶり)に咽(むせ)び、われとわが座(ざ)より轉(まろ)びて、

火(ひ)の山(やま)の地獄(ぢごく)の谷(たに)をさながらの苦惱(くなう)に疲(つか)れ、

死(う)せて又(また)生(い)くと思(おも)ひぬ、――夢(ゆめ)なりき、夜(よる)の神壇(しんだん)、

蠟(らふ)の火(ひ)を點(とも)して念(ねん)ず、假名文(かなぶみ)の御經(みきやう)の秘密(ひみつ)。

 

待(ま)たるるは高(たか)きwp洩(も)るる啓示(みさとし)の聲(こゑ)の耀(かゞや)き、――

信(しん)のみぞ其(その)證人(あかしびと)、罪深(つみふか)き内心(ないしん)ながら

われは待(ま)つ、天主(てんしゆ)の姫(ひめ)が讃頌(さんしよう)の聲(こゑ)朗(ほがら)かに、

事果(ことはて)て、『汝(なれ)を恕(ゆる)す』と宣(のたま)はむその一言(ひとこと)を。

 

[やぶちゃん注:「戰(おのゝ)ける」のルビの「お」、「畏怖(いふ)」のルビの「い」、「弱(よは)かる」のルビの「は」は総てママ。最終連一行目の中の「高(たか)きを洩(も)るる」は底本では「高(たか)き洩(も)るる」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを) (シラウオ)

 

鱠殘魚 本草ニ王餘魚トモ銀魚トモ云潔白ニシテ銀

 ノコトシ大坂伊勢所〻ニアリ味ヨシホシテ串ニサシタル

 ヲ目サシト云遠ニヲクル珍味トス本草時珍云曝乾乄

[やぶちゃん注:「ヲクル」はママ。]

 以貨四方ト云如シ倭俗膾殘魚ヲキスコト訓ス甚誤

 レリ本草四十四卷膾残魚ノ集解ヨリ見ルヘシシロウヲ

[やぶちゃん注:ここのみ「残」の字体。]

 ナル叓明白ナリ無鱗但目有黒尒其外ノモ皆

 白魚ナリキスコニ非スキスコハ大ナル者七八寸ニ乄鱗アリ時

 珍食物本草註云膾殘魚味甘平無毒寛中健胃

 利水潤肺止欬作乾食之補脾○江州田上堅田

 ナトニ冬月捕之冰魚ト云又鰷魚之苗冬春在海

 者亦可謂冰魚

○やぶちゃんの書き下し文

鱠殘魚(しろうを) 本草に「王餘魚」とも「銀魚」とも云ふ。潔白にして銀のごとし。大坂・伊勢、所々にあり、味、よし。ほして、串にさしたるを「目ざし」と云ひ、遠くにをくる。珍味とす。「本草」、時珍、云はく、『曝〔(さら)〕し乾して以つて四方に貨(う)る』と云ふ〔が〕ごとし。倭俗、膾殘魚を「きすご」と訓ず。甚だ誤れり。「本草」四十四卷「膾残魚」の「集解」より見るべし、「しろうを」なる叓(こと)、明白なり。鱗、無く、但だ、目に黒有るのみ。其の外のも、皆、白魚なり、「きすご」に非ず。「キスゴ」は大なる者、七、八寸にして、鱗、あり。時珍「食物本草」註に云はく、『膾殘魚、味、甘、平、無毒。中〔(ちゆう)〕を寛〔(くつろ)げ〕、胃を健〔かにし〕、水を利し、肺を潤〔(うるほ)〕し、欬〔(せき)〕を止む。乾し作〔(な)して〕、之れを食ふ。脾を補す』〔と〕。○江州の田上(たなかみ)・堅田〔(かたた)〕などに、冬月、之れを捕る。「冰魚(ひうを)」と云ふ。又、鰷-魚〔(あゆ)〕の苗〔(こ)〕、冬・春、海に在る者〔も〕亦、「冰魚」と謂ふべし。

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科シラウオ属シラウオ Salangichthys microdon(本邦に棲息する四種は後掲)。時に全くの別種であるスズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので、注意が必要(シロウオは正しくは漢字表記で「素魚」と表記し、シラウオ「白魚」とは区別されるが、素人は文字通り、素も白もいっしょくたにしてしまう)。孰れも死ぬと、白く濁った体色になって見分けがつきにくくなるが、生体の場合はシロウオ Leucopsarion petersii の方には体にわずかに黒い色素細胞があり、幾分、薄い黄味がかかる。主に参照したウィキの「シラウオ」の記載と、シロウオ漁で知られる和歌山県湯浅市公式サイトのちらのページが分かり易い。その図を見ても判然とするように、シラウオの口は尖っていて、体型が楔形をしていて鋭角的な印象であるのに対し、シロウオやそれに比較して全体が丸味を帯びること、シラウオの浮き袋や内臓がシロウオの内臓ほどにははっきりとは見えないこと、また形態的な大きな違いとして、シラウオには背鰭の後ろに脂びれ(背鰭の後ろにある小さな丸い鰭。この存在によってシラウオガアユ・シシャモ・ワカサギ(総てキュウリウオ目 Osmeriformes)などと近縁であることが分かる)があることが挙げられる(なお、「大和本草」の次項が、その「麵條魚(しろうを)となっている)。ウィキの「シラウオ」を引いておく。『東アジアの汽水域周辺に生息する半透明の細長い小魚で』、『体は細長いが、後ろに向かって太くなり尾びれの前で再び細くなるくさび形の体形である。死ぬと白く濁った体色になるが、生きている時は半透明の白色で、背骨や内臓などが透けてみえる。腹面に』二『列に並ぶ黒色の点があり、比較的、目は小さく口は大きい』。『従来の説では、シラウオは春に川の河口域や汽水湖、沿岸域など汽水域の砂底で産卵し、孵化した稚魚は翌年の春まで沿岸域でプランクトンを捕食しながら成長』し『、冬を越した成体は産卵のために再び汽水域へ集まって産卵するが』、『産卵した後は』♂♀ともに一『年間の短い一生を終えると考えられていた。しかし』、二〇一六『年現在、シラウオは産卵のために汽水域に集まるのではなく、汽水域で一生を過ごすという新しい説が提唱されている』。『古来より沿岸域へ産卵に集まる頃の成魚が食用に漁獲され、早春の味覚として知られる。かつては全国で漁獲された』。二〇一六『年現在、北海道、青森県、秋田県、茨城県、島根県などが主な産地となっており』、『比較的、東日本に多い。漁はシロウオと同じように』、『四角形の網を十字に組んだ竹で吊るした「四つ手網」がよく使われるが、霞ヶ浦などの大きな産地ではシラウオ用の刺し網や定置網などもある』。『日本のみならず、中国や東南アジアでも食用にされる。日本では高級食材として扱われている』。『シラウオは非常に繊細で』、『漁で網から上げて空気にふれると』、『ほとんどがすぐに死んでしまうため、生きたまま市場に出回ることはほとんどない』『(活魚として出回るシロウオとは対照的である。)』『料理方法としては、煮干し、佃煮、酢の物、吸い物、卵とじ、天ぷら、炊き込みご飯などがあげられる』。『また、刺身、寿司などとして生で食べることもある』。『江戸前寿司のネタとしては、コハダやアナゴとならんで最古参にあげられる』。但し、『シラウオは寄生虫(横川吸虫)の中間宿主となっている場合があるので』、『市販の生シラウオを含むシラウオの生食には注意を要する』。『少数の寄生では重篤な症状は出ないが、多数の寄生によって軟便、下痢、腹痛などの消化器障害が起こる可能性がある』。『シラオ、シラス、トノサマウオ、シロウオ、シロオ』などの別名を有する。『「トノサマウオ」』『は、野良仕事をしない領主(殿様)のきれいな手をシラウオになぞらえたものという説がある。また、細長く半透明の優美な姿から、女性の細くて白い指を「シラウオのような指」とたとえることがある。なお、シラウオは「銀魚」、「鱠残魚」という漢字を用いる場合もある』。『中国では銀魚、面條魚と呼ぶ』。『銀魚干(干し銀魚)、冷凍銀魚の形で販売される。太湖の銀魚は、白魚、白蝦』『と共に「太湖三白」として有名である』。『キュウリウオ目シラウオ科の魚は東南アジアから東シベリアまで』六属十四種『が分布している。なかには体長が』十五センチメートル『以上になる種類もいる』。『日本には』三属四種『が分布するが、アリアケシラウオとアリアケヒメシラウオは有明海周辺だけに分布している。この』二『種類は』、『分布が極めて局地的な上』、『絶滅寸前というところまで個体数が減っているため、どちらも絶滅危惧IA類(CR)(環境省レッドリスト)に指定されている』。

シラウオ Salangichthys microdon(体長八センチメートルほど。東シベリア・朝鮮半島・中国・日本(北海道~九州北部)に分布)

イシカワシラウオ Salangichthys ishikawae(体長八センチメートルほど。日本固有種で上記シラウオと同じく北海道から九州北部に分布。シラウオに似ており、漁獲・流通でも特にシラウオと区別しない)

アリアケシラウオ Salanx ariakensis(体長十五センチメートルほどにもなる大型のシラウオで、有明海と朝鮮半島に分布する。有明海沿岸域では漁獲・食用にされていたが、現在は漁獲が激減し、絶滅が心配されている)

アリアケヒメシラウオ Neosalanx reganius(体長五センチメートルほどのやや小型のシラウオで、丸い頭部とずんぐりした体型を持ち、別種のシロウオに似ている。有明海に注ぐ筑後川と熊本県の緑川及び緑川支流の浜戸川のみにしか分布しない日本固有種である。さらに二つの棲息地では体長や鰭の大きさなどに差があり、それぞれが独立した地域個体群と考えられている。川の下流域に棲息するが、食用にされていないにも関わらず、個体数が減り続けている。減少の理由は筑後大堰などの河川改修や汚染等による河川環境の変化と考えられている)

なお、以上四種は福岡から殆んど出ることがなかった益軒が実見し得る範囲内に総てが棲息している。なお、私の古い仕儀である、寺島良安和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚の「鱠殘魚(しろいを)」も是非、参照されたい。彼も後に掲げる「本草綱目」から抄出している。この表記から、シラウオ(或いは「鱠殘魚」の和訓)は江戸前中期には「しろいを」とも呼んでいたことが判る。

「鱠殘魚(しろうを)」(「鱠」は「なます」と和訓するが、細かく切った魚の生肉、即ち、刺身を指す(それらを酢に漬ける加工品は本邦での謂いである))この漢名は、中国古来の伝承で、春秋時代の呉の第六代の王闔閭(紀元前四九六年~紀元前四九六年:在位:紀元前五一四年から没年まで:名臣孫武・伍子胥らの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王勾践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した)が大河(恐らくは長江)を舟で行く途中、魚鱠(なます)を食べ、その残りを川に捨てたところ、それが化して魚になったのを「鱠殘魚」と名付けたことによる。原文の一つは、「文選」に所収する、名編の誉れ高い、晋の左思「三都の賦」の一篇、「呉都賦」に「雙則比目、片則王餘。」(雙は、則ち、「比目(ひもく)」、片は、則ち、「王餘(わうよ)」。:両の目を並び持つ魚は「比目」と言い、片目しか持たない魚は「王餘」と言う。)に劉淵林が注した、「比目魚、東海所出。王餘魚、其身半也。俗云、越王鱠魚未盡、因以殘半棄水中爲魚、遂無其一面、故曰王餘也。」(「比目魚」は東海に出づる所のものなり。「王餘魚」は其の身、半なり。俗に云ふ、『越王、鱠魚(くわいぎよ)を未だ盡さざるに、因りて以つて、殘半を水中に棄つるに、魚と爲る。遂に、其の一面、無し。故に「王餘」と曰ふなり。』と。:比目魚は東海に産するものである。王餘魚はその魚体が丁度半分しかない。俗に伝えるところでは、『越王が膾(なます)にした魚を食べ尽くさないうちに(呉王が奇襲をかけてきたため)、その残りの半身を水中に棄てたところ、それが生きたまま魚となった。しかし、それは丁度その魚体の半分がなかった。故に王の余した魚と名づけたのである。』と。))(ここでは「越」王となっている)等がある。さても本邦ではこれをシラウオの漢名のように記すが、以上の狭義のシラウオ種群の現行の分布から考えて、その魚は本邦のシラウオではない。しかし、中文ウィキ「シラウオ科」(中文名「銀魚科」Salangidae)に古称を「鱠殘魚」としてあり、太湖・洪沢湖・巣湖・洞庭湖に棲息するとし、多くの種を挙げているが、例えば、太湖新銀魚 Neosalanx taihuensis とあるので、一部は同じシラウオ属ではあることは判る。

『本草に「王餘魚」とも「銀魚」とも云ふ』明の李時珍の「本草綱目」の「巻四十四」の「鱗之三」の「無鱗魚」に、

   *

鱠殘魚【「食鑑」。】

釋名王餘魚【「綱目」】。銀魚。時珍曰、按「博物志」云、王闔閭江行、食魚鱠、棄其殘餘於水、化爲此魚、故名。或又作越王及僧寶誌者、益出傅會、不足致辯。

集解時珍曰、鱠殘出蘇、松・浙江。大者長四五寸、身圓如筯、潔白如銀、無鱗、若巳鱠之魚、但目有兩黑。彼人尤重小者、曝乾以貨四方。淸明前有子、食之甚美。淸明後子出而瘦、但可作鮓腊耳。

氣味甘、平、無毒。

主治作羮食、寛中健胃【寗源。】

   *

とある。

『ほして、串にさしたるを「目ざし」と云ひ、遠くにをくる』う~ん、あの大きさのシラウオの「目刺し」って、作るの手間掛かりそう。でも、食べてみたい!

「貨(う)る」「賣る」(売る)に同じ。

「きすご」スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス(鱚)類、或いは同科キス属シロギス Sillago japonica の別名である。

「鱗、無く」厳密には誤りである。シラウオには鱗は殆んどないが、の尻鰭より有意に大きいので性差判別のポイントとなる)の基底部付近に尻鰭鱗がある大阪府立環境農林水産総合研究所公式サイトシラウオページの画像で視認出来る。

「中」漢方で言う仮想の体内概念である「中焦(ちゅうしょう)」であろう。上・中・下の三焦の中部。脾胃(ひい:胃の機能を助ける仮想器官群概念)を包括した概念で、消化吸収及び腸管への伝送を行い、気血生化の源とする。

「欬〔(せき)〕」「咳」。

「江州の田上(たなかみ)」現在の大津市の瀬田川が琵琶湖から流れ下る、附近の広域旧地名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、非常な問題がある。次注参照。

「堅田」滋賀県大津市堅田た)であるが、ここで益軒は「冰魚(ひうを)」=シラウオと認識しているが、これはシラウオではない。そもそもが完全な淡水である琵琶湖やそこから出る瀬田川の上流部に汽水産のシラウオがいるはずがないのである。琵琶湖で現在も「氷魚(ひうお)」と呼ばれる殆んど透明な小さな魚はいる。しかしそれは、二~三センチメートルほどの稚鮎(ちあゆ:条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis の幼魚)を指すのである。また、やっちゃいましたね、益軒先生。

「鰷-魚〔(あゆ)〕」現行では多くの場面で「鰷」を「はや」(複数種の川魚を指す総称)と読むが、益軒はアユをこれに当てる。「和漢三才図繪会」でも寺島良安は「鰷」を「あゆ」と読んでいる。

「苗〔(こ)〕」幼魚・若魚。]

譚海 卷之三 和哥宗匠家

和哥宗匠家

○和歌宗匠家と稱するは、和歌堪能の仁(ひと)にあれば御製(ぎよせい)を直し被仰付(おほせつけられ)御製へをかけ奉るより、堂上一般に和歌の宗匠(そうしやう)と仰ぎ、詠藻を其仁へ見せ點を乞(こふ)るゝ事に成(なる)故、點勅許の人とも稱する也。世俗歌所(うたどころ)と覺えたるも此(この)事也。宗匠家と稱するは何れの家にも限らず、とかく堪能の仁あれば許(ゆるさ)るゝ也。普通には上冷泉(かみれいぜい)・飛鳥井(あすかゐ)兩家代々勅撰の家なれば、宗匠家と申也。禁裏御會(ごくわい)の和歌題は、此兩家の出(いだ)さるゝに限る事也。故に點削勅許なき人は、猥(みだり)に他の詠藻に點かくる事成(なり)がたき事也。内々讀歌直し貰ても、和歌相談と稱する事とぞ。

[やぶちゃん注:「上冷泉」冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家で、代々、近衛中将に任官された。家名は冷泉小路に由来する。歌道の宗匠家の内の一つで、冷泉流歌道を伝承する。参照したウィキの「冷泉家の「室町時代―江戸時代の上冷泉家」によれば、『室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった』。『冷泉為尹』(ためまさ)は応永二三(一四一六)年、『次男・持為に播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するために為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった』。『戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された』天正一四(一五八六)年『には勅勘を蒙り、再び地方に下った。このまま地下家として埋もれてしまう可能性もあったが、秀吉が亡くなった』慶長三(一五九八)年、『徳川家康の執成しによって都へ戻り』、『堂上家に戻る事が出来たとされる』。『かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである』。『江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった』とある。

「飛鳥井」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流。ウィキの「飛鳥井家」によれば、『鎌倉時代前期、難波頼経の子雅経に始まる。代々和歌・蹴鞠の師範を家業とした。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府』二『代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で雅経は後鳥羽上皇に近侍し藤原定家などとともに『新古今和歌集』を撰進し、和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。 応仁の乱で、一族が近江国や、長門国に移住し、家業を広めた』。『室町時代には将軍家に近侍した雅世・雅親父子が歌壇の中心的歌人として活躍した。飛鳥井雅世は、『新続古今和歌集』の撰者となり、飛鳥井雅親は、和歌・蹴鞠のほかに書にも秀で、その書流も蹴鞠と同じく飛鳥井流と称される。雅親の弟・飛鳥井雅康(二楽軒)も歌人としての名声が高く、足利将軍家や若狭守護武田元信などの有力な武家と深い親交があった』。この二人によって、以後、飛鳥井家は二条家・冷泉家と並ぶ歌道家と目されるに至った(この挿入のみは平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。『戦国時代から江戸時代初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。江戸時代の家禄は概ね』九百二十八『石であった』とある。

「御會」歌会を敬って言う語。]

甲子夜話卷之五 29 有德廟、酒井哥雅樂頭を大坂御城代に命ぜられし事

5-29 有德廟、酒井哥雅樂頭を大坂御城代に命ぜられし事

酒井雅樂頭は國家棟梁の世臣なりしが、忠臣なりしが、享保中忠□【一字忘】と云を大坂城代に命ぜられける。そのときの御諚に、稽古の爲仰付らるるとの御事なりしとぞ。是は世々四品にて、城代など勤めたること無きほどの家なれば、かくは仰られしなり。今に此御諚は、酒井家の密に規模とすることなり。御役仰付らるゝ時は、おもたゞしく並々の如き次第にて命ぜられしが、やがて別に御前へ召れける。其時は棧留の御袴を召し、小刀を持玉ひ、箸にて猿を削らせられながら御目通なり。大坂の事など樣々御噺あり。良久くして忠□退きけるを、又召返され、家老は誰を召連行ぞとの御尋なり。兼てそれ迄には思ひはからざりしが、家柄にもあり、そのとき筆頭にもあればとて、高須隼人を召連候と申上ければ、それにてよしとの仰なり。格別閥閲の人なれば迚、かく御懇遇ありしなり。忠□が身に取りて、いかばかりか難ㇾ有ことなるべし。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」吉宗。

「酒井哥雅樂頭」忠□(さかいうたのかみ)で、吉宗の治世に「大坂御城代」となったのは、酒井雅楽家では上野前橋藩第九代藩主・播磨姫路藩初代藩主で雅楽頭系酒井家宗家九代の酒井忠恭(ただずみ 宝永七(一七一〇)年~安永元(一七七二)年:当時、従四位下雅楽頭、後に、西丸老中・侍従となり、転じて本丸老中首座となった)であるが、彼の城代在任は元文五(一七四〇)年~寛保四(一七四四)年で、「享保中」ではない。一方で、享保(一七一六年~一七三六年)年間には、若狭小浜藩第五代藩主で小浜藩酒井家六代の酒井忠音(ただおと 元禄四(一六九一)年~享保二十(一七三五)年:当時、従四位下讃岐守。後に老中になり侍従に昇格)が大坂城代(享保八年~享保十三年)を務めているが、彼は酒井雅楽家系の別家小浜藩酒井家である。名前の一字を不明とするところから、或いは静山は既に混同に気づいていたのかも知れない。後に出る筆頭家老「高須隼人」は宗家の代々の有力重臣(老中・家老)高須家が継いだ通称であるから、ここは前者、酒井忠恭と考えてよいか。私は江戸時代には冥いので誤認があれば、ご指摘戴きたい。

「四品」(しほん)は四位に同じ。酒井家宗家は忠恭まで概ね従四位下より上は受けていない。

「城代など勤めたること無きほどの家」酒井忠恭までの二十九人の大阪城代は従四位下もいるが、従五位下の方が多いようである。

「密に」「ひそかに」。

「規模」規範。家訓。

「棧留」(さんとめ)は「桟留縞 (さんとめじま)」で「唐桟(留)(とうざん(どめ))」とも呼ぶ、木綿縞の織物の一種。「さんとめ」はインドのサントメ(コロマンデル地方のセント・トマスの訛り)から齎されたことに由来する。組織(くみおり)が緻密で、光沢があり、地合いの滑らかな織物。江戸初期からオランダ船によって輸入され、冬着の生地として流行した。江戸末期には川越付近でも生産され、輸入品の唐桟に対してこちらは「川唐」と呼んだ(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「持玉ひ」「持ち給ひ」。

「箸にて猿を削らせられ」意味不明。箸を削って猿の置き物(箸置き?)でも作っておられたんかななぁ?

「御噺」「おはなし」。

「良」「やや」。

「閥閲」「ばつえつ」。功を積んだ格式の高い家筋。酒井雅楽家の初期の宗主酒井雅楽助正親は家康青年期の重臣の一人で、三河統一の過程で西尾城主(現在の愛知県西尾市にあった)に取り立てられ、直臣最初の城主となり、その子重忠は関東で武蔵国川越(埼玉県川越市)に一万石を与えられ、重忠の子忠世は前橋藩主、老中・大老となった。また、その孫の忠清は大老となり、幕政において影響力を持ち、忠世の子孫(言うまでもなく酒井忠恭もその一人)は姫路藩十五万石の藩主となっている(ここはウィキの「酒井を参照した)。

「迚」「とて」。

2019/02/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(24) 「川牛」(4)

 

《原文》

 牛ケ淵牛沼ノ類ハ諸國ニ多ケレドモ、必ズシモ之ヲ以テ川牛又ハ牛鬼ノ如キ珍奇ナル動物ノ産地ト目スルコト能ハズ。安藝高田郡志屋村大字志路ノ黃牛淵(アメガフチ)ノ如キハ、曾テ河童ノ爲ニ村ノ黃牛(アメウシ)ヲ此水ニ引込マレシコトアリシヨリ此地名アリ〔藝藩通志〕。【蘆毛馬】蘆毛淵(アシゲブチ)又ハ馬子淵(ウマノコブチ)ナドト稱シテ、河童ガ蘆毛馬又ハ馬ノ子ヲ引込マントセシ故跡ナリト傳フル例ハ外ニモアレド、其地名ノ由來トシテハ被害者ノ緣故ヲ引クコトハ多少不自然ノ嫌ナキニ非ズ。故ニイツト無ク牛淵ハ牛ノ居ル淵ト明スル者多クナリタルナリ。牛ニ似タル水底ノ怪物ガ、河童乃至ハ淵猿ト同ジク、人ヲ引込ミテ殺シタリト云フ例ハ外ニモ存ス。【池】甲州北巨摩郡旭村上條北割組ノ甘利山ノ山中ニ、佐原池ト呼ブ池アリ。甘利左衞門尉ノ一子此池ニ漁シテ池ノ主ノ爲ニ命ヲ失ヒ、其亡骸ヲスラ見出スコト能ハズ。【赤牛】甘利氏ハ鄕内十村ノ百姓ヲ驅リ集メ、池ノ中へ大木ヲ投ゲ込マセ且ツ不潔ナル物ヲ沃(ソヽ)ガセタルニ、池ノ主ハ赤牛ノ姿ニ化シテ水中ヨリ走リ出デ、更ニ山奧ナル大笹池へ遁入リタリト云フ〔甲斐國志〕。【サハリ池】同郡安都玉(アツタマ)村村山北割組八牛(ヤツウシ)ノ牛池ニモ之ニ似タル口碑アリ。昔時角ノ八箇アル赤牛此池ヨリ飛出シ、八嶽ノ方へ走リ行キシ故ニ、地名ヲ八牛トモ牛池トモ云フナリ〔同上〕。方三間バカリノ小池ナレドモ、水ノ色ノ淸濁ヲ以テ晴雨ヲ占フ風習存シ、池ノ岸ニハ應仁二年[やぶちゃん注:一四六八年。]ノ年號アル六地藏アリト云ヘバ、年久シキ靈場ナルコト疑無シ。

 

《訓読》

 牛ケ淵・牛沼の類ひは諸國に多けれども、必ずしも之れを以つて、「川牛」又は「牛鬼」のごとき珍奇なる動物の産地と目(もく)すること、能はず。安藝高田郡志屋村大字志路の黃牛淵(あめがふち)のごときは、曾て河童の爲に村の黃牛(あめうし)を此の水に引き込まれしことありしより、此の地名あり〔「藝藩通志」〕。【蘆毛馬】蘆毛淵(あしげぶち)又は馬子淵(うまのこぶち)などと稱して、河童が蘆毛馬又は馬の子を引き込まんとせし故跡(こせき)なりと傳ふる例は外にもあれど、其の地名の由來としては、被害者の緣故を引くことは、多少、不自然の嫌ひなきに非ず。故に、いつと無く、牛淵は牛の居る淵と明する者、多くなりたるなり。牛に似たる水底の怪物が、河童乃至(ないし)は淵猿と同じく、人を引き込みて殺したりと云ふ例は外にも存す。【池】【さはり池】甲州北巨摩郡旭村上條北割組の甘利山の山中に、佐原池(さはらいけ)と呼ぶ池あり。甘利左衞門尉の一子、此の池に漁して、池の主の爲に命を失ひ、其の亡骸(なきがら)をすら見出すこと能はず。【赤牛】甘利氏は鄕内十村の百姓を驅り集め、池の中へ大木を投げ込ませ、且つ、不潔なる物を沃(そゝ)がせたるに、池の主は赤牛の姿に化して、水中より走り出で、更に山奧なる大笹池(おおささいけ)へ遁げ入りたりと云ふ[「甲斐國志」〕。同郡安都玉(あつたま)村村山北割組八牛(やつうし)の牛池にも、之れに似たる口碑あり。昔時(せきじ)、角の八箇ある赤牛、此の池より飛び出だし、八嶽(やつがたけ)の方へ走り行きし故に、地名を八牛とも牛池とも云ふなり〔同上〕。方三間ばかりの小池なれども、水の色の淸濁を以つて、晴雨を占ふ風習存し、池の岸には應仁二年[やぶちゃん注:一四六八年。]の年號ある六地藏ありと云へば、年久しき靈場なること、疑ひ無し。

[やぶちゃん注:「安藝高田郡志屋村大字志路の黃牛淵(あめがふち)」現在の広島県広島市安佐北区白木町大字志路(グーグル・マップ・データ)であろう。地区の中央部を西から東に河川が流れている。

「甲州北巨摩郡旭村上條北割組の甘利山」甘利山(あまりやま)は現在の山梨県韮崎市と南アルプス市との境界にある標高約千七百三十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。ピークは山梨県韮崎市旭町上條北割で、上記の地図を拡大して、少し東方向に動かすと池が見え(頂上から東南東約二キロメートルの麓で、同じく山梨県韮崎市旭町上條北割の内である)、この池を「椹池(さわらいけ)」と呼ぶ。これが柳田が言う「佐原池」であろう。しかも、甘利山頂上から南西六百四十メートルほどの位置に「大笹池」がある。さらに、サイト「甘利山倶楽部」の「甘利山の伝説に韮崎市発行の「甘利山の自然」にある山寺仁太郎氏の文章が引用されてある。それによれば、『甘利山の中腹には、椹池(さわらいけ)がある』。標高千二百四十メートルで、面積は約一ヘクタールの、『特異な景観を持つ楕円型の池である。山梨県では珍しい高層湿原といわれる地形であって、湿原特有の植物が生育し、珍しい動物、昆虫の生息地であったが、現在はすっかり開発されて、自然の特質がかなり失われてしまったのが惜しまれるが、この池を舞台にした有名な伝説は今も残っている』とされ、

   《引用開始》

 この池には、昔大蛇が住んでいた。その頃の椹池は、うっそうとした森林に囲まれ、昼尚暗い、物凄い場所であった。池の底深く住んでいた大蛇は、この場所に近づくもの、この池で漁をするものを次々と引き込んで、呑み込んでしまうので、人々は恐ろしい池として、誰一人近寄るものも無かった。

 この大蛇の前身は、下条婆(げじょばんば)と呼ばれる老婆であった。巨摩郡下條村(現韮崎市藤井町)に住んでいた老婆が、ある朝のこと、髪を梳こうとして鏡をのぞくと、意外にも彼女の額(ひたい)には、鬼の角の様なものが二本生え出していたのである。老婆はひどく驚き悲しんで、この様な姿を、息子や嫁や近所の人に見られてはならないと、手拭で頭を包んで自殺しようと家出をしてしまった。

 裏山の笹松というところに登り、七里岩を越えて、青木の鷹の田(たかんた)の池に身を投げようとしたが、水が浅くて果たせず、鐘をつき念仏を唱えながら、鳥居峠を越え、鐘つき平を経て、甘利山中に分け入り、椹池に達して、とうとう入水してしまった。この下条婆が化身して、池中に住みつき、大蛇になったという。

 天文年間(一五三二年~一五五五年[やぶちゃん注:半角アラビア数字のみを、かく書き換えさせて貰った。])、山麓甘利郷の領主、甘利左衛門尉の二人の息子が、この椹池で鮒(ふな)を釣っていると、突然、大蛇が現れて、二人の子供を池に引き込んでしまった。二人の子供の遺骸を見つけることも出来なかったので、甘利氏は大いに怒って、領民に命じて、下肥え、汚物を池に投げ込ませ、また池の周りに生えていた椹(さわら)の木[やぶちゃん注:球果植物門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera。同属のヒノキChamaecyparis obtusa とは形態的にもよく似ており、遺伝的に近く、両者間では繁殖能力のある雑種が生まれている。]を切って、池を埋めたので、遂に大蛇は居たたまらずに赤牛に化けて、池を飛び出し、甘利山の山頂の奥にある大笹池(おおささいけ)に身を隠した。けれども、この池も追われて、大蛇は大嵐(現白根町)の善応寺を通って、中巨摩郡八田村野牛島の能蔵池(のうぞういけ)に逃れ、以来その消息を絶ったという。

 伝説の舞台となった椹池は、椹の木を切り込まれたために名付けられたと説明されている。麓の研場(とぎば)から、急坂になってやがて平坦な鞍部になるが、この地を栗平(くりだいら)という。領民が下肥えの担棒(かつぎぼう)の肩を繰(く)るところだったから、くり平と言う様になったといわれ、頂上直下の鮒窪(ふなくぼ)は、逃亡中の赤牛の尾に喰いついていた一匹の鮒が、この池でぽとりと落としたからだと説明されている。湿原の痕跡がわずかに残っている凹地である。頂上の経塚(きょうづか)は甘利氏が、子息の供養をして経巻を埋めたところとされ、また鈴蘭(すずらん)は、遭難一周忌に甘利氏夫人が、亡き愛児の形見に咲いた花だとして、御霊草(みたまぐさ)と名づけたともいわれる。

 この事件があった甘利氏は、領民の功を賞して、当時、深草山といわれた甘利山一帯を領民に与えて山租を免じた。その証文は最近まで残っていたと伝えられ、現在の甘利山財産区の起源となった。

 研場を過ぎて間もなく、おお欅の下に、甘利山財産区の記念碑が建てられている。当時の知事天野久氏の胎厥孫謀(いけつそんぽう-父祖が子孫に遺すはかりごとの意-)の題字の下に、郷土史家佐藤八郎氏の文章が、氏の長兄佐藤丑蔵氏によって書かれている。

 甘利山のこの伝説は、色々な形で語り継がれ修飾されていて、必ずしも一定してはいない。一説によれば、椹池を追い出された時の大蛇は赤牛ではなくて下条婆そのままの姿であって、鮒窪の鮒は、彼女の濡れそぼれた袖の中からこぼれ落ちたのだとされている。

 現在、大嵐(おおあらし)の城守山善応寺にある千手観音像は、もともと大笹池のほとりに祀られていて、野火に焼かれて大火傷を負ったのを、下条婆が肩に背負って今の場所まで運んで来たのだとも語られている。途中、一休みしたところに水が湧いた。この泉をゴウジミズ(強清水か)と称して、山中憩いの場所となっている。観音様は、善応寺まで負われて来て、もう動くのがいやだと、ここに鎮座ましましたのだという。この千手観音には、現に焼損した跡が残っており、この寺にもまた湧水がある。

 下条村の人が、大笹池に近づいて「大笹池の下条婆」と唱えると、村に帰り着く間に雨になるといわれている。

 複雑で面白い伝説であるが、もともと下条婆の入水遍歴の説話と、山中の池に怪物が住み赤牛に化身するという説話は、別個に発生したものであったらしい。下条婆の話は、主に甘利山を遠く離れた韮崎市藤井町一帯と中巨摩郡白根町八田村一帯に伝承されており、赤牛の話は、山麓、甘利三ヶ町(旭、大草、龍岡)に伝承されていたと見られる。この二つの説話が後世複合してドラマチックな現在の様な形になったのは、案外に近い過去であったと思われるふしがある。

   《引用終了》

とされた上で、柳田國男が引く、「甲斐国志」(文化一一(一八一四)年成立)が引用される。少し手古摺ったが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来た。である。山寺氏の電子化されたものをベースに正字で視認電子化する(句読点は私が附した)。

   *

〔甘利山〕 上条北割村ニ近シ。山年貢、免除ナリ。相傳フ、昔時、甘利左衞門ノ尉ノ子、此山中、佐原池ニ漁シテ、罔象ノ爲ニ命ヲ失ヒ、其屍ヲ得ザリケレバ、甘利氏、怒リテ、其郷中十村ノ民ニ命ジテ、池中ヘ大木ヲ投シ、不潔ヲ沃カセケレバ、罔象ハ、赤牛ニ化シ、走リテ、又、其奥ノ大笹池ニ入リケリ。其賞トシテ山租ヲ免セラレ今尚之ニ仍ルト云。其西界ヲ西種山ト云、又山中ニ天狗水ト云アリ。

   *

以下、山寺氏は、『椹池は当時、佐原池』と『書かれていたのであろう。罔象は池中に棲む怪物のことである』と述べられた上、本柳田國男の「山島民譚集」本文をも引用され、「甲斐国志」「山島民譚集」『いずれも下条婆の説話には触れていない』と記された上で、昭和二二(一九四七)年、『「山島民譚集」の主題を展開させて、文化人類学者石田英一郎は「河童駒引考 比較民俗学的研究」を発表したが、この著作によって、甘利山の伝説が、実は人類文化の根源に触れる重要な文化遺産としての地位を与えられたのであった』と述べておられる。同リンク先には、その後に同じ山寺氏の書かれた、「甘利山の信仰」(韮崎市発行の「韮崎市誌」の第五章第四節)がやはり引用されてあり、前掲の記載を補填され、『罔象とあるのは、ミズチと訓ずべきで、「水中にすみ蛇に似て、角や四足をそなえ、毒気を吐いて人を害するという想像上の動物』『」と考えてよいであろう』と述べられた上、柳田國男の本書の記載の後の記載、「ミズチノ恐怖ハ久シキヲ經テ愈々深ク、神トシテ之ニ仕ヘ其意ヲ迎フルニ非ザレバ其災ヲ免ルル能ハズト信ズルニ至リシナリ」を引かれ、『椹池が水神の棲家としての聖地であったことを示唆している』と断ぜられ、

   《引用開始》

 椹池に住んだ水神は、異形の毒蛇のごときものであって、時に牛の形として出現するという思想は、後に、石田英一郎によって展開された。「多産生成の原始の力を代表する牛は、同時にまた水神の聖獣として、あるいは河伯の犠牲に供えられ、あるいは水精(水神)そのものが牛の姿をとるにいたった――[やぶちゃん注:注記号を略した。]」とされるのである。

 椹池または大笹池には、池中に水神が毒蛇の形をもって住み、山麓民の豊凶や、降雨、水源を支配すると考えられていたことになる。その水神を祀るために、池中に牛の首や、牛の枯骨を投じるという様な風習があった。これは独り、甲州のことだけでなく、全国一般に通有な自然信仰であったとする。

 この自然信仰に対して、苗敷山の僧侶あるいは修験者が、どの様に関与したかは分らない。おそらく、苗敷山開創の以前からこの信仰はあり、椹池・大笹池・経塚を中心として、密教的修法が盛大を極めた時代もあったと想像されるにすぎない。その過去の記憶が、椹池の伝説として今に伝承されたと言えるであろう。

 『甲斐国志』に前述のごとく記載されている伝説は、実際にはさらに複雑な形態をとって、あるいは脚色されて現在の口碑となっている。それはおおむね次の様な形・内容で語られている。

 昔、巨摩郡下条村の某家の老婆は、ある朝のこと髪をすこうとして、鏡をのぞくと、いかなる理由か、額に二本の角が生えているのを発見した。老婆この姿を家族や近隣の者に見られてはならないと、手ぬぐいをかぶって家出した。まず、裏山の高松というところに登り、七里岩を横断し、釜無川を渡って、山中に入り鷹ノ田の池に投身しようとした。この池は水が浅くて自殺することができず、鉦をつきながら鳥居峠に出た。それで、今鳥居峠の下を鉦突き平という。さらに当時は深草山と言われた甘利山に分け入り、椹池に入水した。当時この池は、その深さを知るものなく、水面はおよそ三四丁歩ぐらい、周囲は椹の密林で昼なお暗いものすごいところであった。この老婆を下條婆(げじょばんば)と言う。この下条婆が化身して池中深く住みついて池の主となった。これが罔象(ミズチ)であったとする。天文年間甘利郷の領主、甘利左衛門尉の子息(一子とも二子ともいい、その名前も旭丸とか山千代と伝えられる)が、この池で鮒を釣っていると、突然、池中の大蛇に引き込まれて、その遺骸も行方も分らなくなったという事件が起こった。甘利氏は大いに怒って、甘利郷十ヵ村の民に命じて、下肥を担がせて池に投じさせた。その領民が、下肥の担棒をくったところが、くり(栗)平とする。また池を囲む椹の密林を伐って、池を埋めたので、ついに池の主は赤牛と化して鮒窪(ふなくぼ)というところを通って、山奥の大笹池に逃れた。鮒窪を通過する時、赤牛の尻尾に喰いついていた一匹の鮒がぽとりと落ちたのでこの地点を鮒窪と名づけたと言う。

 一説によれば、池中を追い出された池の主の姿は、再び下條婆であって、ぬれそぼれたたもとの中に入っていた鮒がここで落ちたのだという。大笹池に到った池の主は、ここもまた追われて、大嵐(現白根町)の城主山善応寺をとおり、野牛島(現八田村)の能蔵池に到り、その後は分からないという。

 大嵐側の語り方に従えば、大笹池のそばには、観音様が立っていて、それが野火で焼けた。下条婆は大笹池を逃散する時、この観音様を背負って大嵐に向かった。途中一服したとことに水が湧いた。今ゴウジミズ(強清水か)の泉という。さらにオバガイド(姥之懐か)をとおって善応寺のところへくると観音様は、もう疲れたからここでおろしてくれという。それで善応寺に今、観音様が祀られているのだという。この寺の前にも清冽な湧水がある。

 甘利氏の子息の法要は、甘利山頂の広河原で行われ、千駄の薪を焚き、読経し、その経文は経筒に封じて今の経塚に埋めたという。

 伝説の大要は前記のとおりであるが、伝説であるだけに、いろいろな形で語られ、内容も少しずつ変化しているのが認められ、定形を得ることは困難である。最も詳細にこれを伝えたのは、向山浅次郎[やぶちゃん注:注記号を略した。]であるが、その他に北巨摩郡教育会[やぶちゃん注:同前。]、河村秀明[やぶちゃん注:同前。]、韮崎市教育委員会[やぶちゃん注:同前。]、韮崎市商工観光課[やぶちゃん注:同前。]等がこの伝説を採集・収録している。

 ここで考えられるのは、この一連の伝説は、もともと二つの説話を合成して語られていることである。一つは、『甲斐国志』の記載した山中の池沼に水神が住んでいたという記事、もう一つは、巷間に伝えられた下条婆の入水遍歴の説話である。この二つはもともと別個のものであった。別の時代に、それぞれの地域に発生したもので、共通しているのは、鮒を道連れにして、鮒窪で落としたという点である。

 前者は山中の池中に水神が住むという自然信仰の痕跡を示し、後に、その水神が零落してゆく過程を示している。

 水神を零落させたのは恐らく苗敷山の修験者・僧侶の力であって、その背後に同山に対する甘利氏の厚遇・崇敬という事実が隠されているのではないかと思われる。自然信仰に基づく水神が、仏教修験者の法力によって漸次無力化して、領主の威光が顕現する。さらに領主は、その領林を郷民の共有地・入会地というような形に移行させて経営をはかったと考えられるのである。この間の事情は、偶々昭和三九(一九六四)[やぶちゃん注:アラビア数字を漢数字に代えた。]年に甘利山登山道の入口研場に建立された胎厥孫謀(いけつそんぽう)と題する甘利山財産区の碑によっても、推定できるものと考える。

 後者の下条婆の入水遍歴は、藤井村下條地区の農民が、高松・鷹ノ田・椹池・鮒窪・大笹池・ゴウジミズ・大嵐・能蔵池と祈雨の効果を求めて経由してゆく、雨ごいの道であったと考えられる。中巨摩の野牛島方面の農民は、この逆経路をたどって大笹池・椹池に至ったものであろう。その近くにある千頭星山・甘利山頂経塚などは、雨ごいの行事の一つである千駄焚・千把焚が行われた可能性もある[やぶちゃん注:注記号を略した。]。事実現在でも、下条地区の人たちが、甘利山頂に登り、大笹池を俯瞰して「大笹池の下条婆」と呼ぶと、かれらが下山して帰村するまでに降雨があると言われている。いずれにしても、甘利山一帯は、かつて雨ごい行事の舞台であった。

 この二つの説話が合成されたのは、意外に近い過去であって、大正の末年から昭和初年にかけて起こったこの山の観光開発の必要性からでは無かったかと思われる[やぶちゃん注:注記号を略した。]。

 以上の様に甘利山における山岳信仰は、その残存が、伝説という形で残っていて、実際の信仰行事は、近い過去までは、雨ごいの様な極めて民間信仰的なもののみであったとみなければならない。

 椹池近くにある甘利神社は、古い神社ではない。昭和一一(一九三六)[やぶちゃん注:アラビア数字を漢数字に代えた。]年五月二五日に上棟式が行われた。毎年五月五日に山開きを兼ねた祭典が行われるが、その祭神は甘利左衛門尉である。その祝詞によると、甘利公の遺徳を顕彰して、甘利山経営の進展と、住民の安全を祈願するという建前になっているが、観光的繁栄を求める気持も含まれているらしい。社殿中央の神鏡は甘利公を象徴するものであるが甘利神社と書かれた木札の彫刻は、異様な動物を表すものであって、伝説の大蛇と思われる。

 甘利山中には、各所に山の神・水の神を祀る祠があったと思われる。今、椹池から三六か村の山へ[やぶちゃん注:注記号を略した。]ゆく山路には、二基の石祠がある。一つは「文化二年乙丑正月十七日 山口組」、一つには「文□□午二月 武川筋若尾村」と刻まれている。このほかに大笹池から大嵐に下る途中に村名だけ「百々村」と彫った石祠もある。椹池畔にも昔二基あったが、今は、一基の屋根だけが残っている。これは、椹池の水神を祀ったとも、また甘利氏の子息を祀ったとも伝えられていた。これらはかつて、それぞれの祭日に祭祀が行われたと考えられるが、信仰の衰退と、祭祀の煩わしさのために、甘利神社に合祀したということが考えられる。山中に住む、山神・水神・魑魅魍魎のことごとくを新しい神社に封じ込めたと考えてもよいであろう。妙になまなましく彫られた木札の彫刻はそんなことを想像させる。

 甘利神社が菓子組合の信仰するとこととなったのは、甘いものを売って利を得るという単なる語呂合わせに過ぎない。それにしても昭和初年、観光宣伝の始まった時代に、新しく建てられた神社というものは、古い信仰と新しい現世利益を混合した不思議な信仰に維持されているという感が強い[やぶちゃん注:注記号を略した。]。

 韮崎市の山岳信仰について、鳳凰山・苗敷山・甘利山の三か所の信仰の概略を述べたが、多くの山岳に富む当市には、なお多くの山岳信仰として採り上げねばならぬものがある。その一つは、茅ヶ岳であり一つは、穂坂町上今井の山の神である。両者とも『甲斐国志』を始め、記載する地誌もあるので、さらに資料を収集して、これを考察するのは今後の課題といえよう。

   《引用終了》

最後に、多量に引用させて戴いた(これで私のここでに屋上屋の注は不要と考える)山寺仁太郎氏に御礼申し上げる。因みに、頭書の「【さはり池】」は、本文に出ないが、これは、この「佐原池」に「潔なる物を沃(そゝ)がせ」たりした、「障(さは)」りのある「池」というの注目を指示するための、柳田國男の勝手な目立ちたがり屋のやるそれととっている。正直、「厭な感じ」というのが私の感想である。

「同郡安都玉(あつたま)村村山北割組八牛(やつうし)の牛池」現在の山梨県北杜市長坂町長坂上条にあ長坂と推定される(グーグル・マップ・データ)。但し、旧安都玉村村山北割組は、もっと東に当たるので断定は出来ない。「水の色の淸濁を以つて、晴雨を占ふ風習」があったこと、及び、「池の岸には應仁二年の年號ある六地藏あり」が決定打になろうが、私には調べ得なかった。悪しからず。識者の御教授を切に乞うものである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(23) 「川牛」(3)

 

《原文》

 神ガ川牛ノ背ニ乘リテ出デラレタル話アリ。【水神】下總北相馬郡文(フミ)村大字押付ノ水神社ハ蠶養(コカヒ)川ノ岸ニ在リ。此神ノ正體ハ川牛ニ乘リタル木像ニシテ、其牛ノ右ノ角折レタリ。御影ノ版畫モ亦此ノ如シ。其由來ハ昔隣村ノ大字大平(タイヘイ)ニ御大平樣ト云フ異人アリ。今日大平權現(オホヒラゴンゲン)ト稱シテ村ニ祭ル者卽チ是ナリ。【神ノ爭】此御大平樣、アル日水神ノ社ノ下ニ來テ釣ヲ垂レタルヲ、水神怒リテ川牛ニ乘リテ出現シ其釣竿ヲ奪ヒ取ラントス。異人ハ驚キテ傍ノ藤蔓ヲ取リ之ヲ投附ケタルニ、川牛ノ頭ニ引掛リテ右ノ角折レタリ。ソレ故ニ神體ノ牛ニ片角無キナリ〔利根川國志二〕。日本ニテハ珍シキ話ナレド支那ニハ之ニ似タル川牛アリ。勾漏縣ト云フ地方ニハ大江ノ中ニ水牛ノ如キ獸住シ、水ヨリ出デテヨク鬪爭ス。其角ハ陸ニ在リテハ軟キコト押付水神社ノ川牛ノ如ク、江水ニ却リ入レバ角堅クナリテ復出ヅトアリ〔酉陽雜爼續集八〕。【石ノ窪】【鹽】東京小石川ノ牛天神ノ牛石ハ、石ノ上ニ窪ミアリテ昔ハ之ニ鹽ヲ供ヘタリト云フ。或ハ又海中ヨリ出現セシ天神ノ乘物ノ化石シタルニハ非ザルカ。同市向島ノ牛御前(ウシゴゼン)ナドハ川牛ノ記念トシテ一箇ノ牛ノ玉ヲ保存セリ。【牛鬼】若シ彼社ノ緣起ノ文ニ誤無シトスレバ、昔建長ノ二年ニ淺草川ノ底ヨリ牛鬼ノ如キ物飛ビ出シ、天下ニ疫病ヲ流行セシム。【牛頭天王】牛頭(ゴヅ)天王ノ降魔ノ力ニ由リテ、右牛鬼類似ノ物ハ此社ニ飛込ミ、一國忽チニシテ平穩ニ復スト云フ〔十方菴遊歷雜記第二編中〕。此社ノ神體ハ卽チ牛頭天王降魔ノ異形ト云フコトナルガ、ソレニシテハ被征服者ノ名ヲ以テ其御社ニ名ヅクルコト、聊カ解シ難キニ似タリ。

 

《訓読》

 神が川牛の背に乘りて出でられたる話あり。【水神】下總北相馬郡文(ふみ)村大字押付の水神社は蠶養(こかひ)川の岸に在り。此の神の正體は川牛に乘りたる木像にして、其の牛の右の角、折れたり。御影(みえい)の版畫も亦、此(かく)のごとし。其の由來は、昔、隣村の大字大平(たいへい)に御大平樣と云ふ異人あり。今日、大平權現(おほひらごんげん)と稱して村に祭る者、卽ち、是れなり。【神の爭(あらそひ)】此の御大平樣、ある日、水神の社の下に來(きたり)て、釣を垂れたるを、水神、怒りて、川牛に乘りて出現し、其の釣竿を奪ひ取らんとす。異人は驚きて、傍らの藤蔓(ふじづる)を取り、之れを投げ附けたるに、川牛の頭に引き掛りて、右の角、折れたり。それ故に、神體の牛に片角無きなり〔「利根川國志」二〕。日本にては珍しき話なれど、支那には、之れに似たる川牛あり。勾漏縣(こうろうけん)と云ふ地方には大江の中に水牛のごとき獸、住し、水より出でて、よく鬪爭す。其の角は、陸に在りては、軟(やはらか)きこと、押付水神社の川牛のごとく、江水(かはみづ)に却(かへ)り入れば、角、堅くなりて復(ま)た出づ、とあり〔「酉陽雜爼續集」八〕。【石の窪】【鹽(しほ)】東京小石川の牛天神の牛石は、石の上に窪みありて、昔は之れに鹽を供へたりと云ふ。或いは又、海中より出現せし天神の乘物の化石したるには非ざるか。同市向島の「牛御前(うしごぜん)」などは川牛の記念として一箇の牛の玉を保存せり。【牛鬼(うしおに)】若(も)し彼(か)の社の緣起の文(ふみ)に誤り無しとすれば、昔、建長の二年[やぶちゃん注:一二五〇年。]に淺草川(あさくさがは)の底より、牛鬼のごとき物、飛び出だし、天下に疫病を流行せしむ。【牛頭天王(ごづてんわう)】牛頭(ごづ)天王の降魔の力に由りて、右牛鬼類似の物は此の社に飛び込み、一國、忽ちにして平穩に復すと云ふ〔「十方菴遊歷雜記第二編」中〕。此の社の神體は、卽ち、牛頭天王降魔(がうま)の異形(いぎやう)と云ふことなるが、それにしては、被征服者の名を以つて其の御社に名づくること、聊か解し難きに似たり。

[やぶちゃん注:「下總北相馬郡文(ふみ)村大字押付の水神社」現在の茨城県北相馬郡利根町の北西部。この附近(グーグル・マップ・データ)。「利根町立文小学校」に名が残るのが確認出来る。ここで言う「水神社」は茨城県北相馬郡利根町布川(旧押付本田地区)に現存する押付本田水神宮と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。直近には「水神宮」が複数あるが、tanupon氏のサイト「タヌポンの利根ぽんぽ」の「タヌポンの利根ぽんぽ行 押付本田の水神宮」(非常に緻密な考証と現地踏査を行っておられ、写真も豊富。この方のサイトは必見!)によって、ここに比定した。それによれば、押付本田水神宮の創立は不詳で、寛政七(一七九五)年の本殿再建の棟札が残っているとあり、『祭神は、水神宮すべての共通の神、水波能女命(みずはのめのみこと)』(「古事記」の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し、苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとし、「日本書紀」では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記し、同書第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に、埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとする)とする。さて、同氏は別ページ「タヌポンの利根ぽんぽ行 大平神社1」で、ここに名の出る「御太平樣」についても、詳述されておられ、記載の関係上、そちらを先に引用させて貰う。「お大平様伝説」の項(一部の改行を連続させた貰った)。

   《引用開始》

さて、大平村を開拓し、大平神社に祀られているとされる「お大平様(おだいへいさま)」ですが、『利根町史』第5巻には、お大平様に関する言い伝えが4編ほど掲載されています。いずれも大平の五十嵐五郎さんという方からのものです。以下、その要旨をご紹介します。

.大平さまと水神さま

ある日、大平村の権現様が東の押付本田の沼で釣りをしていました。それを見た押付本田の水神様は「わしの沼の魚を勝手に・・・」と怒り、潜牛に乗ってやってきて権現様の釣竿を奪おうとしました。権現様は驚いて近くの藤づるを潜牛めがけて投げつけました。狙い通りそれは牛の右角に引っかかり、お互いに引っ張り合いとなりました。結局、牛の角が折れて両者とも後にひっくり返ったということです。大平の権現様はいいものが手に入ったと牛の角を手に走り帰っていきました。その後、大平様の死後も村の宝として大切に保管していたのですが、大平神社の祭礼の時だけお供えしていたそうです。しかし、そこでは盗まれそうだというので村人の持ち回りで預かることになりましたが、五十嵐角右衛門家が当番の時に、押付本田に返却したということです。

大平村の権現様とは、つまりお大平様のこと。東の押付本田の沼とは、現在のどの箇所かは不明です。現在、押付本田(布川)水神宮 には、右角のない河牛に乗った水神像が本殿に安置されているそうです。(タヌポン未確認)

.お大平様の遺言

お大平様が亡くなられるとき「我死なば、我が身を立てたまま埋葬せよ。しからば、この村に今後我同様の大男を3人ずつ絶やさずに出現させ、外敵より守らせるであろう」と遺言されました。しかし、村人たちは相談の結果、大平様のような大男が3人も絶やさずに現れたのでは死後の埋葬の折はたいへんだ、として結局、横にして埋葬してしまったということです。

.大平権現のご神体

祀られている人は、守永親王ではないかと言われています。親王は常陸の小田城にいたが、北朝との戦いに敗れ下野の栃木まで逃れたが安住できず、小貝川を下ってこの地に逃げ、大平村を開いたといいます。

守永親王というのも興味深いですが、次の最後の話はタヌポンにとってさらに興味深く思われました。

.玄慧法師

大平様の一行に玄慧法師という名僧がおり、大平様を助けて村を開いたと言われています。また彼はここで太平記を書き上げたと伝えられています。大平様の死後に法師は亡くなりましたが大平様の死後も守っていただこうと大平様の眠る権現塚に埋葬したということです。

これは驚きですね。玄慧法師とは、『奥州後三年記』を著したといわれている人ですよね? また、『太平記』は小島法師著という説がありますが、なんと、『利根町史』には続いて注釈で、玄慧法師は小島法師とも言ったそうである、としています。『太平記』とお大平様、字が少しちがいますが、もしかして何か関係あるのかしらん? これはもっと調べてみる価値がありますね。五十嵐さんという方の家にはもっと貴重な文献など残されていないのでしょうか。なんてタヌポンが言っても、もう利根町の教育委員会では調べているのでしょうね。タヌポンはゆっくりいきます。守永親王というのも調べてみたいですね。いったい大平様とはだれなのでしょう。小島法師のことなどが真実なら、歴史上、かなり有名な人である可能性が高いのではないでしょうか。ちなみに大平様が祀られた権現塚というのは、もえぎ野台のどこかにあったようなのですが、工事で崩されてしまったのかいまは見当たらないようです。何かもったいない話です。

.大平神社 vs 神社[やぶちゃん注:「」の字は『』となっているのを、私が訂した。以下、同じ。]

以前の『広報とね』におもしろい記事が載っているのを発見しました。以下、転記します。

大平神社・・・お大平さまとも呼ばれた南朝方の皇族浄光院さまを祭っています。しかし、明治の神礼法で届け出をした時、浄光院さまの詳細が分からないため、祭神は大国主命として届け出てしまったと伝えています。もとは現在地より百メートルほど西の氏神という所に鎮座しておりました。もっとも、お大平さまより古い時代から神社はあったようです。昔、大平の人はこの神社を、相馬一ノ宮にしようと考えていました。折しも延喜式神名帳が編さんされることになって、代表が都へのぼりました。ところが、伊勢のあたりで、あとから出発した立木の代表たちに先をこされてしまいました。こうして蛟神社が相馬郡一座の式内社になったのでした。南北朝期になると、前述のとおり大平は南朝方。一方、立木は地内から出土した板碑に貞和五年(1349)という北朝の年号が刻まれていたように、北朝方でありました。こんなことも原因になったのでしょう、大平の人は蛟神社の崇拝には熱心ではないのだそうです。参考資料 五十嵐五郎著『大平村の歩み』草稿その他(『広報とね』第245号「利根町の歴史散歩11-大平神社周辺」より)

なるほど、延喜式神名帳が編さんされたとき[延長5年(927年)]、すでに大平神社は存在していた、ということですか。『大平村の歩み』は貴重な文献のようです。読んでみたいですね。

   《引用終了》

なお、ここに出る「守永親王」とは、後醍醐天皇の孫で、中務卿尊良親王の王子に当たるという守永親王のことであろう。さて、元の「タヌポンの利根ぽんぽ行 押付本田の水神宮」に戻ると、「水神像」の項で、以下のように述べておられる(同じく改行の一部を繋げた)。

   《引用開始》

この押付本田の水神宮については、赤松宗旦の『利根川図志』に、「水神とお大平様の話」が紹介されています。この中には右角を折られた牛の話が出てきますが、現在も右角のない河牛に乗った水神像が本殿に安置されているとか。本殿の水神像を見てみたいですが、さて、どうしたら見られるのでしょうか。なお、お大平様に角を引っ張られたのは「藤つる」なので、押付本田では、藤を植えないし、ふじという名前もつけないとか。水神とお大平様の話については、当サイト「大平神社1」の お大平様伝説 参照[やぶちゃん注:前に引用させて戴いた部分である。]。

『利根川図志』と水神社

利根川図志巻2 水神社

『利根川図志』全6巻では、利根町に関しては主に巻3に記されているのですが、押付本田の水神社については、巻2の最後にあります(左参照[やぶちゃん注:原典画像が原ページにある。])。以下、読み下し文。[やぶちゃん注:当該画像を元に、一部の表記を代えさせて戴いた。]

水神社 田井渡の東、押付村に在り【この村、桃園多し、春花甚だ美なり。】土人曰く、この村の一里許(ばかり)東に、大平(だいへい)村あり。そこに住みける人を尊びて御大平樣といふ。一日此の處に來りて魚を釣りけるを、水神、甚(はなはだ)怒り、濳牛(かはうし)に乘り來たりて、釣竿(つりざを)を奪(うば)はむとせしかば、甚(いたく)驚(おどろ)きて、側なる藤蔓(ふぢづる)を投げゝるに、牛の右角に係(かか)りたるを、互に牽合ひたるに、終に、角、折れて、別(わか)れたりとぞ。されば、こゝの神體は右角なき濳牛に乘りたる木像なり。別當德滿寺より出づる御影も同じ。今も村人、水神の嫌ひ給ふとて、藤を用いず、又、大平村の人を嫌ふといふ。その御大平樣は、今もその村にて祭りて大平(おほひら)權現といふ。

右角のない河牛に乗った水神像は、先日、資料館でその写真を拝見しました。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

因みに、文小学校の東、二キロ半の位置の、利根町立木に先の引用に出た、蛟(こうもう)神社(「門(かど)の宮」と「奥の宮」の二殿から成る)が現存し、ここは名前から判る通り、やはり水神を祀っており、水神を祀る神社では関東最古とされる。「利根町」公式サイト内のこちらの解説によれば、『「延喜式神名帳」』延長五(九二七)年『に「相馬郡一座蛟』『神社とその名が記されているように』、『由緒ある古い神社で』、『「蛟神社由来記」は孝霊天皇』三 (紀元前二八八)年『に水神を』、『文武天皇』二(六九八)年『に土神を祀ったのがはじまりと伝え』、『地元の人は「文間大明神」と呼んでい』『た。門の宮のあるところは、立木貝塚の名でよく知られてい』る。『なお、現在の門の宮本殿は元禄』一一(一六九八)年『に、奥の宮本殿は元禄』一六(一七〇三)年『に再建されたもの』とあり、「蛟神社」公式サイトのこちらによれば、『蛟神社の始まりは』約二千三百年前(紀元前二八八年)『に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています』とし、上記の文武天皇二(六九八)年に『土の神様の埴山姫大神を合祀』『し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが』、『社殿を東の高台(現在の奥の宮)に神社を建てました。門の宮を取り壊すはずでしたが』、『氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂(みたま)を分祀し門の宮にお祀り致しました』。明治四二(一九〇九)年『に立木地区にあった「八坂神社』『」「天神社』『」「稲荷神社(』『」「八幡神社』『」を合祀して現在もなお一層の御神徳』『をもって下総國相馬の郷を見守っておられます』とし、以下、「社名について」には、『文間明神祇碑の上部に描かれた龍神 「みつち=こうもう」の名に由来は諸説ありますが、はるか昔この辺りが海であったころの大地の形が蛟(みつち=伝説上の龍)に似ていたためといわれております』(リンク先に拡大出来る画像有り)。この由緒ある水神社については、wata氏のサイト「茨木見聞録」の「関東最古の水神様を祀る蛟神社〜例大祭(利根町)」にも詳しい。tanupon氏のサイトからは多くを引用させて戴いた。最後に改めて御礼申し上げる。

「蠶養(こかひ)川」現行では「小貝川(こかいがわ)」と表記する。関東平野を北から南へと流れる一級河川で利根川水系利根川の支流。全百十八・八キロメートルで、利根川の支流中、第二位の長さである。現在、先の押付本田水神宮の直近で、北から利根川に合流している。

「勾漏縣と云ふ地方には大江の中に水牛のごとき獸、住し、水より出でて、よく鬪爭す。其の角は、陸に在りては、軟(やはらか)きこと、押付水神社の川牛のごとく、江水(かはみづ)に却(かへ)り入れば、角、堅くなりて復(ま)た出づ、とあり〔「酉陽雜爼續集」八〕」中唐の詩人段成式(八〇三年?~八六三年?)の膨大な随筆「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」(正篇二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立)の「続集」の「巻八 支動」の以下の一節。

   *

潛牛。勾漏縣大江中有潛牛、形似水牛。每上岸斗、角軟還入江水、角堅復出。

(潛牛。勾漏縣の大なる江(かは)の中に潛牛有り、形、水牛に似る。每(つね)に岸に上がり、斗(たたか)ひ、角、軟らかになれば、江の水に還へり入り、角、堅くならば、復た出づ。)

   *

「勾漏縣(こうろうけん)」苟屚(こうろう)県。漢代に置かれ、隋代に廃された。現在のベトナム社会主義共和国の首都ハノイの東北にあるバクニン省(Tỉnh Bắc Ninh)内にあったと思われる。ここなら、哺乳綱ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科アジアスイギュウ属スイギュウ Bubalus arnee がいる。

「東京小石川の牛天神の牛石」東京都文京区春日にある北野神社の別称。公式サイトのこちらによれば、元暦元(一一八四)年に源頼朝により創建され、牛に乗った菅原道真の神託により、牛を守護神として讃え、牛天神社として八百三十二年もの間、この地を鎮護しているとし、『黒牛は道真公の守護神として多くの天神社に祀られてい』るとあり、境内案内のページの「ねがい牛」には、『道真公は、御生前大変牛を可愛がられた事でも知られております。牛天神境内にある、なで石(自然石)は、源頼朝公が奥州へ東征の途中、此の地に休まれたとき、夢の中に牛に乗られた菅原道真公が現れ、願いが叶うことを告げられました。その後、ここにあった牛に似た石を御神体とされ、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられており、これが撫で岩の発祥で牛天神の始まりです。(牛天神社と呼ばれていました。)』。『撫でると』、『ねがいが叶うと言われており、今日まで多くの人々に信仰されております』とある。

「海中より出現せし天神の乘物の化石したるには非ざるか」この柳田國男の言い添えは何を根拠にしているものか、不明。

『同市向島の「牛御前(うしごぜん)」』現在の墨田区向島にある本所総鎮守である牛天神の通称で知られる北野神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の本寺の解説によれば、貞観年間(八五九年~八七九年)頃、『慈覚大師が建立したと伝えられ』、『かつては牛御前社と称しており、その由来については、慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会った際の託宣により建立したと』ある。そこに「新編武蔵風土記稿」の牛島神社の由緒が電子化されてあるので、恣意的に正字化して引かさせて戴く。

   *

牛御前社

本所及牛嶋の鎭守なり。北本所表町最勝寺持。祭神素盞嗚尊は束帶坐像の畫幅なり。王子權現を相殿とす。本地大日は慈覺大師の作緣起あり信しかたきこと多し。其略に、貞觀二年慈覺大師當國弘通の時行暮て傍の草庵に入しに、衣冠せし老翁あり云。國土惱亂あらはれ首に牛頭を戴き惡魔降伏の形相を現し國家を守護せんとす。故に我形を寫して汝に與へん我ために一宇を造立せよとて去れり。これ當社の神體にて老翁は神素盞嗚尊の權化なり。牛頭を戴て守護し賜はんとの誓にまかせて牛御前と號し、弟子良本を留めてこの像を守らしめ、本地大日の像を作り釋迦の石佛を彫刻してこれを留め、大師は登山せり。良本これより明王院と號し、牛御前を渴仰し、法華千部を讀誦して大師の殘せる石佛の釋迦を供養佛とす。其後人皇五十七代陽成院の御宇聖和天皇第七の皇子故有て當國に遷され、元慶元年九月十五日當所に於て斃せられしを、良本祟ひ社傍に葬し參らせ其靈を相殿に祀れり。今の王子權現是なり。治承四年源賴朝諸軍を引率し下總國に至る時に、隅田川洪水陸地に漲り渡るへき便なかりしに、千葉介常胤當社に祈誓し船筏を設け大軍恙なく渡りしかば、賴朝感して明る養和元年再ひ社領を寄附せしより、代々國主領主よりも神領を附せらる。天文七年六月廿八日後奈良院牛御前と勅號を賜ひ次第に氏子繁榮せり。北條家よりも神領免除の文書及神寶を寄す其目後に出す。又建長年中淺草川より牛鬼の如き異形のもの飛出し、嶼中を走せめくり當社に飛入忽然として行方を知らず。時に社壇に一つの玉を落せり。今社寶牛玉是なりと記したれど、舊きことなれば造ならさること多し。[やぶちゃん注:以下「神寶幷神領免狀古碑一基」があるが、略す。但しその二条目に『牛玉一顆由來は本社の條に見ゆ』とある。なお、最後の『造ならさる』は「慥(たしか)ならざる」の意であろう。]

   *

なお、同神社には狛犬ならぬ、おどおどろしい狛牛一対が参拝者を迎えるらしい(私は訪れたことがない)。

「牛の玉」ここでは公式サイトの言う自然石の「なで石」と一応とっておくが、しかし、古い記載の、社宝としているというそれは、どうも違う気がする。但し、「牛天神」公式サイトにはそうしたものが別に存在するといったことは記されてはいない。なお、実際の漢方等で言うところのそれ(ウシの体内の結石等)は、たまたま昨日電子化した、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま)(ウシの結石など)」やそのリンク先の私の注を参照されたい。

「牛鬼(うしおに)」「如キ物」と言っているので、略注にするが、「ぎうき(ぎゅうき)」とも読む妖怪。ウィキの「牛鬼」によれば、『西日本に伝わる妖怪』で、『主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲うとされている』。『非常に残忍・獰猛な性格で、毒を吐き、人を食い殺すことを好む』。『伝承では、頭が牛で首から下は鬼の胴体を持つ。または、その逆に頭が鬼で、胴体は牛の場合もある』。『また、山間部の寺院の門前に、牛の首に人の着物姿で頻繁に現れたり、牛の首、鬼の体に昆虫の羽を持ち、空から飛来したとの伝承もある』。『海岸の他、山間部、森や林の中、川、沼、湖にも現れるとされる。特に淵に現れることが多く、近畿地方や四国には』、『この伝承が伺える「牛鬼淵」・「牛鬼滝」という地名が多く残っている』。「百怪図巻」など、『江戸時代に描かれた妖怪絵巻では、牛の首』で『蜘蛛の胴体を持っている姿』として『描かれることが多い』。「百鬼夜行絵巻」では『同様の絵が「土蜘蛛」という名で記され』『牛鬼(鳥山石燕』「画図百鬼夜行」に『似たものが描かれている)と区別されている例もいくつか見られる』。以下、「各地の伝承」が載るが、愛媛県の知られたそれを除いて略す。『宇和島地方の牛鬼伝説は、牛鬼の伝承の中でも特に知られている。かつて牛鬼が人や家畜を襲っており、喜多郡河辺村(現・大洲市)の山伏が退治を依頼された。村で牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹いて真言を唱えたところ、牛鬼がひるんだので、山伏が眉間を剣で貫き、体をバラバラに斬り裂いた。牛鬼の血は』七日七晩『流れ続け、淵となった。これは高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺にそれぞれ牛鬼淵の名で、後に伝えられている』。『別説では、愛媛県に出没した牛鬼は顔が龍で体が鯨だったという』。西日本の各地に伝承があるが、『同じ「牛鬼」の名』『でも地域によって著しく姿形が異なる』という特徴がある。なお、『牛鬼の正体は老いたツバキの根という説もある。日本ではツバキには神霊が宿るという伝承があることから、牛鬼を神の化身とみなす解釈もあり、悪霊をはらう者として敬う風習も存在する』。『またツバキは岬や海辺にたどり着いて聖域に生える特別な花として神聖視されていたことや、ツバキの花は境界に咲くことから、牛鬼出現の場所を表現するとの説もある。共に現れる濡女も牛鬼も渚を出現場所としており、他の場所から出てくることはない』。『民間伝承上の牛鬼は西日本に伝わっているが、古典においては東京の浅草周辺に牛鬼に類する妖怪が現れたという記述が多い』。『鎌倉時代の』「吾妻鏡」『などに、以下の伝説がある』。建長三(一二五一)年、『浅草寺に牛のような妖怪が現れ、食堂にいた僧侶たち』二十四『人が悪気を受けて病に侵され』、七『人が死亡したという』。「新編武蔵風土記稿」でも、この「吾妻鏡」を『引用し、隅田川から牛鬼のような妖怪が現れ、浅草の対岸にある牛島神社に飛び込み、「牛玉」という玉を残したと述べられている』。『この牛玉は神社の社宝となり、牛鬼は神として祀られ、同社では狛犬ならぬ狛牛一対が飾られている。また「撫で牛」の像があり、自身の悪い部位を撫でると病気が治るとされている』。『この牛鬼を、牛頭天王の異名と牛鬼のように荒々しい性格を持つスサノオの化身とする説もあり、妖怪研究家』『村上健司は、牛御前が寺を襲ったことには宗教的な対立が背景にあるとしている』。実は既に「枕草子」においても『「おそろしきもの」としてその名があげられており』、また、「太平記」に『おいては源頼光と対決した様子が描かれている』。江戸初期の古浄瑠璃「丑御前の御本地」では、『平安時代の豪族・源満仲の妻が北野天神が胎内に宿るという夢をみたのち、三年三月と』いう『長い妊娠期間を経て、丑の年丑の日丑の刻に男児を出生した。この男児は源頼光の弟(原文では「らいくわうの御しやてい」「ただの満中が次男」)にあたるが、牛の角と鬼の顔を持つために殺害されかける。しかし、殺害を命じられた女官が救い出して山中で密かに育て、成長して丑御前と呼ばれるようになる。満仲は妖怪退治の勇者である息子の源頼光に丑御前の始末を命じる。丑御前は関東に転戦し』て、徹底抗戦を挑み、遂には『隅田川に身を投げ体長約』十丈(約三十メートル)も『の牛に変身して大暴れしたと』脚色している。最後に。鎌倉史の電子化を手掛けている私としては、「吾妻鏡」の建長三(一二五一)年三月六日記載の事件だけは電子化しておきたい。

   *

六日丙寅。武藏國淺草寺如牛者忽然出現。奔走于寺。于時寺僧五十口計。食堂之間集會也。見件之恠異。廿四人立所受病痾。起居進退不成。居風云云。七人卽座死云云。

   *

六日丙寅(ひのえとら) 武藏國淺草寺(せんさうじ)に、牛のごとき者、忽然と出現し、寺に奔走す。時に寺僧、五十口(く)計り、食堂(じきだう)の間に集會(しゆゑ)するなり。件(くだん)の恠異(かいい)を見て、二十四人、立所(たちどころ)に病痾(びやうあ)を受け、起居進退(ききよしんたい)成らず。居風(きよふう)と云々。七人、卽座に死すと云々。

   *

「居風」は不詳。流行性感冒か? 急死者が複数出ているところをみると、インフルエンザのようなものかも知れない。しかし、以下に示す「十方庵遊歴雑記」のそれでは、疱瘡としている。但し、「疱瘡」の語は既に平安時代に見られ、「吾妻鏡」にもその語で載るから、それをわざわざこのような別語としてここで記すとも思われない。不審。

「牛頭天王(ごづてんわう)」本邦の神仏習合神の一つ。もと祇園精舎の守護神とされ、薬師如来や素戔嗚命の垂迹とされた。祇園天神とも呼び、特に疫病を鎮める強い力を持つとされる。

「牛頭(ごづ)天王の降魔の力に由りて、右牛鬼類似の物は此の社に飛び込み、一國、忽ちにして平穩に復すと云ふ〔「十方菴遊歷雜記第二編」中〕」以上は同書の「巻の中」の第「六拾貮」の「牛嶋村牛の御前の始元」のこちら(同項の開始は前画像のこちら)であるが、原典では流行した「疫病」は「疫病疱瘡」であり、また、「病災悉く平癒し」再び起こらずなったのは、「是、牛の御前」、「牛頭を戴きて守護せんとの」古えの伝承の「誓ひあれば也、その時出現したる降魔(ゴウマ)の異形の」姿「を模(ウツ)し留めて、今、疱瘡神と」崇め(但し、原典は「祟む」であるが)、それ「より小兒の疱瘡輕からんが爲、此社の牛の繪馬を借」り「て疱瘡の恙なき後、繪馬を神前に返納せり」とあるので、これは一種の御霊信仰の変形と読める。

「被征服者の名を以つて其の御社に名づくること、聊か解し難きに似たり」先の引用の村上健司氏の寺社の対立の象徴という解釈(牛頭天王は天神の一つであり、牛御前神社との親和性が認められ、そこに暗に、多数の疫病による死傷者が出たとする浅草寺と、その化け物が逃げ込んだとする牛御前社の抗争関係を仮定し得る点で)が腑に落ちるようにも見えなくはないが、前注の御霊説の方が、遙かに私には自然であり、必ずしも、柳田のようにイチャモンを必要としない。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 秋の歌

 

 

 

柔(やは)らかき苔(こけ)に嘆(なげ)かふ

石(いし)だたみ、今(いま)眞(ま)ひるどき、

たもとほる淸(きよ)らの秋(あき)や、

しめやげる精舍(しやうじや)のさかひ。

 

並(なら)び立(た)つ樅(もみ)の高樹(たかぎ)は、

智識(ちしき)めく影(かげ)のふかみに

鈍(ね)びくゆる紫(むらさき)ごろも、

合掌(がつしやう)の姿(すがた)をまねぶ。

 

しめやげる精舍(しやうじや)のさかひ、――

石(いし)だたみ音(おと)もかすかに

飜(ひるがへ)る落葉(おちば)は、夢(ゆめ)に

すすり泣(な)く愁(うれひ)のしづく。

 

かぎりなき秋(あき)のにほひや、

白蠟(びやくらふ)のほそき熖(ほのほ)と

わがこころ、今(いま)し、靡(なび)かひ、

ふと花(はな)の色(いろ)にゆらめく。

 

花(はな)の色(いろ)――芙蓉(ふよう)の萎(しな)へ、

衰(おとろ)への眉目(まみ)の沈默(もだし)を。

寂(さび)の露(つゆ)しみらに薰(くん)ず、

かにかくに薄(うす)きまぼろし。

 

しめやげる精舍(しやうじや)に秋(あき)は

しのび入(い)り滅(き)え入(い)るけはひ、

ほの暗(くら)きかげに燦(きら)めく

金色(こんじき)のみ龕(づし)の光(ひかり)。

 

[やぶちゃん注:「たもとほる」「た/もとほる」で「徘徊(たもとほ)る」(「た」は整調強調の接頭語)。上代語で「行ったり来たりする・歩き回る」の意。

「智識(ちしき)」仏道に教え導く指導者・導師・善知識のこと。無論、高木の樅の木のイメージの換喩。

「鈍(ね)びくゆる紫(むらさき)ごろも」「ねぶ」は「年を経る」、「くゆ」は「燻(くゆ)る・薰る」であろうから、相応に香をたきしめた匂い立つような年季の入った高貴な紫衣(しえ)という、同前の擬人表現。

「しめやげる精舍(しやうじや)」「精舎」は寺。「しめやげる」は「しめやかな」に同じく「如何にもひっそりと静まりかえった感じのする」の意。

「しみらに」「繁みらに」。副詞。「暇なく連続して・一日中」の意。

「み龕(づし)」ここは厨子の意で、仏像を祀った仏壇。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 夏の歌

 

 

 

薄(うす)ぐもる夏(なつ)の日(ひ)なかは

愛欲(あいよく)の念(おもひ)にうるみ

底(そこ)もゆるをみなの眼(め)ざし、

むかひゐてこころぞ惱(なや)む。

 

何事(なにごと)の起(おこ)るともなく、

何(なに)ものかひそめるけはひ、

執(しふ)ふかきちからは、やをら、

重(おも)き世(よ)をまろがし移(うつ)す。

 

窓(まど)の外(と)につづく草土手(くさどて)、

きりぎりす氣(き)まぐれに鳴(な)き、

それも今(いま)、はたと聲(こえ)(た)え、

薄(うす)ぐもる日(ひ)は蒸(む)し淀(よど)む。

 

ややありて茅(かや)が根(ね)を疾(と)く

靑蜥蜴(あをとかげ)走(はし)りすがへば、

ほろほろに乾(かは)ける土(つち)は

ひとしきり崖(がけ)をすべりぬ。

 

なまぐさきにほひは、池(いけ)の

上(うは)ぬるむ面(おも)よりわたり、

山梔(くちなし)の花は墜(お)ちたり、――

朽(くち)ちてゆく「時(とき)」のなきがら。

 

何事(なにごと)の起(おこ)るともなく、

何(なに)ものかひそめるけはひ、

眼(ま)のあたり融(と)けてこそゆけ

夏(なつ)の雲(くも)、――空(そら)は汗(あせ)ばむ。

 

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 音もなし

 

 音もなし

 

光(ひかり)のとばりぎぬ

ゆららに風(かぜ)わたる。

まひろく、はた靑(あを)き

皐月(さつき)の空(そら)のもと。

 

いのちの一雫(ひとしづく)

めぐみぬ、わが胸(むね)の

階(きざはし)、かぎろひを

きざめるそのほとり。

 

めぐみぬ、花(はな)さきぬ、

耀(かが)よふ玉(たま)の苑(その)、

かすかに花(はな)くんじ、

かすかにくづれゆく。

 

晷(ひかげ)はゆるやかに

うつりて、階(きざはし)を

垂(た)れ曳(ひ)く丈(たけ)の髮(かみ)、

晷(ひかげ)ぞ夢(ゆめ)みぬる。

 

さもあれ戀(こひ)の、嗚呼(ああ)、

みなしご――わが魂(たま)は

いのちの花(はな)かげに

痛(いた)みて聲(こゑ)もなし。

 

[やぶちゃん注:「晷」(音「キ」)原義は日陰で、日光によって生ずる陰であるが、転じて日の光りそのものも指す。ここはしかし、原義。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) この時

 

  

 

紺瑠璃(こんるり)の

潮滿(しほみち)ちに、渚(なぎさ)の

緣(ふち)さへも

ひびわれむばかりや。

 

風(かぜ)は和(な)ぎ、

浪(なみ)は伏(ふ)す深海(ふかうみ)、

天津日(あまつひ)は

輝(かがや)きぬ、まどかに。

 

いづこをか

もとめゆく、この時(とき)、

船(ふね)の帆(ほ)よ、

徐(おもむろ)に、彼方(かなた)へ。

 

幸(さち)か、船(ふね)、

帆章(ほじるし)は判(わか)たね、――

生(せい)もはた

死(し)の如(ごと)し、この時(とき)。

 

あまりにも

足(た)らひたり、海原(うなばら)、

靜(しづ)けさは

嵐(あらし)にも似(に)たりや。

 

天津日(あまつひ)は

うるほひて、日(ひ)の暈(かさ)、

暈の環(わ)を

虹(にじ)もこそ彩(あや)なせ。

 

紺瑠璃(こんるり)の

潮(しほ)熟(う)みて浸(ひた)しぬ、

素胎(すばら)には

あらぬ海(うみ)、なじかは……

 

素胎(すばら)には

あらぬ海(うみ)、不祥(ふじやう)の

兒(こ)や生(あ)るる、――

虹(にじ)の色(いろ)かつ滅(き)ゆ。

 

幸(さち)か船(ふね)、

帆(ほ)じるしは判(わか)たね、

いづこをか

もとめゆく、この時(とき)。

 

[やぶちゃん注:「素胎(すばら)」子を孕まないこと。また、「妊娠しない女・石女(うまずめ)」の意ともなった古語。]

2019/02/19

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛黃(ごわう・うしのたま) (ウシの結石など)

 Usinotama

ごわう    丑寳

うしのたま  瞿盧折娜【釋典】(『金光明經』)〕

牛黃

      【俗云宇之乃太末】

ニウ パアン

本綱牛黃【苦平有小毒】入肝經治筋骨小兒驚癇及百病之藥

凡牛有黃者身上夜有光眼如血色時復鳴吼恐懼人又

好照水人以盆水承之伺其吐出乃喝迫卽墮下水中取

得隂乾百日一子如雞子黄大重疉可揭折輕虛而氣香

者佳【有黃堅而不香有駱駝黃極易得也】有能相亂者不可不審之試法

但揩摩手甲上透甲黃者爲眞葢牛黃牛之病也故有黃

之牛多病而易死諸獸皆有黃人之病黃者亦然因其病

在心及肝膽之間凝結成黃故還能治心及肝膽之病正

如人之淋石復能治淋也牛黃有四種【生黃角中黃心黃肝黃】

 吼喚喝迫而得者名生黃 殺死在角中得名角中黃

 牛病死后心中剥得名肝黃【大抵皆不及生黃之爲勝】

△按俗間有牛寳形如玉石外靣有毛蓋此如狗寳而鮓

 荅之類牛之病塊與牛黃一類二種也傭愚賣僧之輩

 爲靈物或以重價索之其惑甚哉

ごわう    丑寳〔(ちゆうはう)〕

うしのたま  捏盧折娜〔(くろせつな)〕【釋典。】

牛黃

      【俗に云ふ、「宇之乃太末」。】

ニウ パアン

「本綱」、牛黃【苦、平。小毒有り。】肝經〔(かんけい)〕に入りて、筋骨を治す。小兒〔の〕驚癇[やぶちゃん注:漢方で言う癲癇症状のこと。]及び百病の藥たり。凡そ、牛に黃(たま)有る者は、身上〔しんじやう)〕[やぶちゃん注:その外見は。]、夜(〔よ〕る)、光り有りて、眼、血の色ごとし。時に、復た、鳴〔き〕吼えて、人を恐懼〔さ〕す。又、好んで水を照らす。人、盆水を以つて、之れを承〔(う)〕け、其の吐き出だすを伺ひて、乃〔(すなは)〕ち、喝迫[やぶちゃん注:脅し迫って。]して、卽ち、水中に墮〔(お)とし〕下〔さ〕す。取り得て、隂乾しにすること、百日、一子、雞〔(にはとり)の〕子〔(たまご)〕の黄の大いさのごとし。重疉〔(ちようでふ)〕して、揭折〔(かつせつ)〕すべし[やぶちゃん注:「こそぎ削ることが出来る」の意か。]。輕く、虛にして、氣〔(かざ)〕、香〔(かほりよ)〕き者、佳なり【〔(からうし)〕の黃(たま)有り、堅くして香〔(かほりよ)〕からず。駱駝の黃、有り、極めて得易し。】能く相ひ亂〔(まが)へ〕る者[やぶちゃん注:偽物。]有り、之れを審らかにせずんばあるべからず[やぶちゃん注:これは慎重に判別しなくてはいけない。]。試みる法〔は〕、但だ、手の甲(つめ)[やぶちゃん注:爪。]の上に揩-摩〔(かいま)〕して[やぶちゃん注:擦(こす)ってみて。]、甲〔(つめ)〕に透〔(すきとほ)〕り、黃なる者、眞と爲す。葢し、牛黃は牛の病ひなり。故に、黃(たま)有る牛は多病にして、死に易し。諸獸、皆、黃(たま)有り。人の黃を病む者、亦、然り。因其の病ひ、心及び肝膽の間に在り、凝結して黃を成すに因〔(よ)〕る。故に、還りて、能く心及び肝膽の病ひを治す。正〔(まさ)〕に人の淋石の、復た、能く淋を治するがごとくなり。牛黃、四種有り【「生黃〔(せいのたま)〕」・「角中〔の〕黃」・「心〔の〕黃」・「肝〔の〕黃」。】。

 吼え喚〔くを〕喝迫して得る者を「生黃」と名づく。 殺死〔して〕角の中に在りて得るを「角中黃」と名づく。牛、病死して后〔(のち)〕、心〔の〕中〔を〕剥(は)ぎて得るを「肝黃」と名づく【大抵、皆、「生黃」の勝〔(すぐる)〕と爲すに及ばず。】。

△按ずるに、俗間、牛寳〔(うしのたま)〕有り、形、玉石のごとく、外靣に毛あり。蓋し、此れ、狗寳〔(いぬのたま)〕のごとくにして、「鮓荅〔(さとう)〕」の類ひ〔なり〕。牛の病塊〔(びやうかい)たる〕牛黃と〔は〕一類〔にして〕二種なり[やぶちゃん注:「別種のものである」の意。「牛黃」を特別視する習慣によるもの。]。傭愚〔(おろかもの)〕・賣僧(まいす)[やぶちゃん注:「まい」「す」ともに唐音。仏法を種に金品を不当に得る僧。禅宗から起こった語で、後に単に人を騙す者の意にも転じた。]の輩〔(やから)〕、靈物〔(れいもつ)〕と爲〔(な)〕し、或いは重〔き〕價〔(あたひ)〕を以つて之れを索(もと)む。其れ、惑〔(まどひ)〕の甚しきかな。

[やぶちゃん注:牛の体内結石及び悪性・良性の腫瘍や変性物質等である。既に「狗寳(いぬのたま)(犬の体内の結石)」及び鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)に十全に注したので、ここでは繰り返さない。そちらの注を見られれば、この冒頭注に代えられる。悪しからず。

「瞿盧折娜〔(くろせつな)〕【釋典。】」「本草綱目」には『金光明經』と出典を明記する。ウィキの「金光明経」によれば、「金光明経(こんこうみょうきょう:サンスクリット語カタカナ音写:スヴァルナ・プラバーサ・スートラ)は四『世紀頃に成立したと見られる仏教経典のひとつ。大乗経典に属し』、本邦では「法華経」・「仁王経(にんのうきょう)」と『ともに護国三部経のひとつに数えられる』。『原題は、「スヴァルナ」』『が「黄金」、「プラバーサ」』『が「輝き」、「スートラ」』『が「経」』で、『総じて「黄金に輝く教え」の意』。『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる』。『この経典の漢訳については、曇無讖』(どんむせん/どんむしん:サンスクリット語カタカナ音写:ダルマクシェーマ:漢名:法楽 三八五年~四三三年:中インド出身の訳僧)が四一二年から四二一年『頃にかけて漢訳した』「金光明経」全四巻、宝貴などが五九七年に編纂した「合部金光明経」全八巻、『唐の義浄が自らインドから招来した経典を新たに漢訳した』「金光明最勝王経」『などがあり、「大正新脩大蔵経」経集部に所収されている』。『日本へは、古くから』曇無讖訳の「金光明経」が『伝わっていたようであるが、その後』、八『世紀頃』、義浄訳の「金光明最勝王経」が『伝わり、聖武天皇は』これを『写経して全国に配布し、また』、天平一三(七四一)年には『全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された』とある。

〔(からうし)〕」読みは東洋文庫訳に従った。「唐牛」か。中文サイトでは黒牛のこととする。

『「生黃〔(せいのたま)〕」・「角中〔の〕黃」・「心〔の〕黃」・「肝〔の〕黃」』以下は前後から私が勝手に和訓した。音読みした方がよいかも知れぬ。

「鮓荅〔さとう)〕」前掲項鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)を見られたい。

「傭愚〔(おろかもの)〕」東洋文庫訳の読みを採用した。「傭」は真理を知らない雇われ者の謂いか。よく判らぬ。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(22) 「川牛」(2)

 

《原文》

 諸國ノ海川ニハ、「サイ」トハ言ハザル水牛ノ住メリト云フ處アリ。其水牛モ格別人ヲ害セザルモ要スルニ怪物ナリ。土佐ノ近海ヲ航行スル船、曾テ船底ヲ水牛ノ爲ニ突カレタリ。大阪著船ノ後船體ニ折込ミ居タル水牛ノ角ヲ取リ、藥種商ニ高ク賣渡シタリト云フ〔土佐淵岳志中〕。【一角獸】此等ハ往々ニシテ犀角ト混同セラルヽ所謂「ウニコール」(一角獸)ノ所業ナリシナランカ〔六物新志〕。【水底ノ牛】併シ大隅姶良(アヒラ)郡牧園村大字中津川ニ於テ、約三十年目每ニ犬飼川ノ水底ヨリ出デタリト云フ牛ノ如キハ正眞ノ牛ナリ。最近ニ出現セシハ黃牛(アメウシ)ナリキ。角ハ短クシテ太ク、毛ハ甚ダ美麗ニシテ眼光射ルガ如シ。人近ヅキテモ遁ゲズ、人モ亦靈物トシテ敢テ侵サズ。陸上ニ遊ブコト二三日ニシテ復水中ニ還リタリ〔三國名勝圖會〕。正德四年六月ノ中旬、大阪城ノ追手門ト京橋口トノ間ノ堀ニ頭ト背トヲ水中カラ現ハセシ怪物ハ、頭ハ牝牛ノ大キサトアレド金色ノ鱗アリ。但シ堀ノ中ヲウロウロト步ミ去ルトアリテ甚ダ龍ラシカラズ〔月堂見聞集七〕。【牛ケ淵】武州秩父郡金澤村出牛ニテハ、見馴(ミナシ)川ノ流ニ牛ケ淵アリ。昔此淵ヨリ牛出デタルコトアリテ地名ヲ出牛トハ謂フナリ〔新編武藏風土記稿〕。【牛沼】羽後平鹿郡橫手町、朝倉城址ノ南方ニ牛沼アリ。【沼ノ主】沼ノ名ノ由來トシテハ、或ハ此堤ニ築キ込メタル牛今ニ至ルマデ靈アリト云ヒ、或ハ神社建築ノ材木ヲ負ハセタル牛此沼ニ沈ムトモ云ヒ、又一ニハ「ウシ」トハ棟木ニ用ヰル大材木ノコトナリ、其材水ノ底ニ沈ミテ其牛ト化シ、終ニ沼ノ主ト成リテ折々背ヲ現ハスコトアリトモ傳ヘタリ〔雪乃出羽路十三〕。勿論取留メタル話ニハ非ザレドモ、各地ニ於テ水中ニ靈牛住ムト云フ點ノミハ一致セリ。獨リソレノミニアラズ、牛ハ又自由ニ地下水ノ流ニ從ヒテ土中ヲモ往來スルコトアリ。【牛クヽリ】陸中和賀郡更木村大字更木ノ牛クリガ淵ハ、北上川ノ流ニ在リテ隣村平澤トノ境ニ近シ。「牛クリ」ハ卽チ「牛クヽリ」ノ轉靴ナリ。【牛野飼】或年ノ夏民家ノ牛ヲ此岸ニ放チ置キシニ、牛ハ暑サニ堪ヘズシテ淵ノ底ニ入リ、沈ミタルマヽ出デ來ラズ。牛主ハ既ニ死シタルモノト思ヒテアリシニ、水中ヲ潛リタリト見エテ同村大字臥牛(ヒソウシ)ノ觀音堂ノ下ノ淵ニ浮ビ出デ、岸ニ上リテ潛マリ居タリ。故ニ又其地ヲ「ヒソウシ」ト謂フナリ〔和賀稗貫二郡鄕村誌〕。此話ニハ河童ハ出デザレドモ、事ノ筋ニハ注意スべキ脈絡アルコト尚後段牛馬薮入ノ條ニ之ヲクべシ。陸奧下北郡東通村大字白糠(シラヌカ)ノ山ニハ大穴ト云フ處アリ。【窟ト牛】昔野飼ノ牛此窟ニ入リテ終ニ出デ來ラズ、遙カニ隔タリタル上北郡橫濱村ノ中ニ現ハレタリ。故ニ其地ヲ牛ノ澤ト呼ブトカヤ〔眞澄遊覽記八〕。牛ガ窟ノ中ニ入リシ話ハ今昔物語ニモアリテ、極メテ古キ來歷アルナリ。

 

《訓読》

 諸國の海川には、「サイ」とは言はざる水牛の住めりと云ふ處あり。其の水牛も、格別、人を害せざるも、要するに、怪物なり。土佐の近海を航行する船、曾て船底(ふなぞこ)を水牛の爲に突かれたり。大阪著船(ちゃくせん)の後、船體に折り込み居たる水牛の角を取り、藥種商に高く賣り渡したりと云ふ〔「土佐淵岳志」中〕。【一角獸】此等は往々にして「犀角(サイカク)」と混同せらるゝ、所謂、「ウニコール」(一角獸)の所業なりしならんか〔「六物新志(ろくもつしんし)」〕。【水底(みなそこ)の牛】併し、大隅姶良(あひら)郡牧園村大字中津川に於いて、約三十年目每(ごと)に犬飼川の水底より出でたりと云ふ牛のごときは、正眞(しやうしん)の牛なり。最近に出現せしは、黃牛(あめうし)なりき。角は短くして太く、毛は甚だ美麗にして、眼光、射るがごとし。人、近づきても、遁げず、人も亦、靈物として敢へて侵さず。陸上に遊ぶこと、二、三日にして、復た、水中に還りたり〔「三國名勝圖會」〕。正德四年[やぶちゃん注:一七一四年。但し、後注参照。]六月の中旬、大阪城の追手門と京橋口との間の堀に、頭と背とを水中から現はせし怪物は、頭は牝牛の大きさとあれど、金色の鱗(うろこ)あり。但し、堀の中をうろうろと步み去るとありて、甚だ龍らしからず〔「月堂見聞集」七〕。【牛ケ淵】武州秩父郡金澤村出牛にては、見馴(みなし)川の流れに牛ケ淵あり。昔、此の淵より、牛、出でたることありて、地名を出牛とは謂ふなり〔「新編武藏風土記稿」〕。【牛沼】羽後平鹿郡橫手町、朝倉城址の南方に牛沼あり。【沼の主】沼の名の由來としては、或いは、此の堤に築き込めたる牛、今に至るまで靈ありと云ひ、或いは、神社建築の材木を負はせたる牛、此の沼に沈むとも云ひ、又、一には、「ウシ」とは棟木に用ゐる大材木のことなり、其の材、水の底に沈みて、其の牛と化し、終に沼の主と成りて、折々、背を現はすことあり、とも傳へたり〔「雪乃出羽路」十三〕。勿論、取り留めたる話には非ざれども、各地に於いて、水中に靈牛住むと云ふ點のみは一致せり。獨りそれのみにあらず、牛は又、自由に地下水の流れに從ひて、土中をも往來することあり。【牛くゝり】陸中和賀郡更木村大字更木(さらき)の牛くりが淵は、北上川の流れに在りて、隣村平澤との境に近し。「牛くり」は、卽ち、「牛くゝり」の轉靴なり。【牛野飼】或り年の夏、民家の牛を此の岸に放ち置きしに、牛は暑さに堪へずして、淵の底に入り、沈みたるまゝ出で來たらず。牛主は既に死したるものと思ひてありしに、水中を潛りたりと見えて、同村大字臥牛(ひそうし)の觀音堂の下の淵に浮び出で、岸に上りて潛(ひそ)まり居たり。故に又、其の地を「ひそうし」と謂ふなり〔「和賀稗貫二郡鄕村誌」〕。此話には河童は出でざれども、事の筋には注意すべき脈絡あること、尚ほ、後段「牛馬藪入(うしうまやぶいり)」の條に之れをくべし。陸奧下北郡東通(ひがしどほり)村大字白糠(しらぬか)の山には大穴と云ふ處あり。【窟(いはや)と牛】昔、野飼の牛、此の窟に入りて、終に出で來たらず、遙かに隔たりたる上北郡橫濱村の中に現はれたり。故に、其の地を牛の澤と呼ぶとかや〔「眞澄遊覽記」八〕。牛が窟の中に入りし話は、「今昔物語」にもありて、極めて古き來歷あるなり。

[やぶちゃん注:「犀角(サイカク)」サイ科 Rhinocerotidae詳細既注)のサイ類の角を用いた漢方薬(生薬名なので現行通り、カタカナ表記とした)。中国古代の「神農本草経」(三国時代(一八四年~二八〇年)に成立。神農氏の後人の作とされるが、実際の撰者は不詳。三百六十五種の薬物を「上品」・「中品」・「下品」の三つに分類して記述する。「上品」は無毒で長期服用が可能な養命薬、「中品」は毒にもなり得る養生薬、「下品」は毒が強く長期服用が不可能な急性期治病薬を指す)では中品に収載されている。粉末或いは薄片に削って解熱・解毒などの薬効で使用する。利用される角はインドサイ属インドサイ Rhinoceros unicornis のものが良品とされ、「烏犀角(ウサイカク)」と称されるが、現在では生息数が少なく、動物保護の点からも希品である。また、アフリカに棲息するクロサイ属クロサイ Diceros bicornis のものは「水犀角(スイサイカク)」と呼ばれ、烏犀角に比して質がやや密で、劣品とされる。角は体毛の束が変化したものであるが、その有効成分は未詳。民間では麻疹(ましん:はしか)の特効薬として煎じて用いられる。本邦へは、インドから中国大陸を経て伝来し、武家故実の「掛物図鏡」には『もろもろの毒を消すものゆへ(犀角の掛物を)座敷の飾に用ふるなり』と記す(以上は辞書等の諸記載を参考に纏めた)。

『「ウニコール」(一角獸)』ポルトガル語「unicorne」の音写。もとは想像上の動物である一角獣(ユニコーン)を指すが、ここはイッカク哺乳綱鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros を指す。「六物新志(ろくもつしんし)」当該部分は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の同書の画像の十七から二十八までで、一角(「烏泥哥爾(ウニコール)」他、呼称・表字、多数)の図を含め、非常に詳細である。必見。但し、ウィキの「イッカク」にある通り、『イッカクが見られる海域は北極海の北緯』七十『度以北、大西洋側とロシア側で』、『多くはハドソン湾北部、ハドソン海峡、バフィン湾、グリーンランド東沖、グリーンランド北端から東経』百七十『度あたりの東ロシアにかけての帯状の海域(スヴァールバル諸島、ゼムリャフランツァヨシファ、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島など)などで見られる。目撃例の最北端はゼムリャフランツァヨシファの北、北緯』八十五『度で、北緯』七十『度以南で観察されることは稀である』から、前掲の大坂の廻船を襲ったのは、イッカクではあり得ない。恐らくは、その上顎が剣のように長く鋭く伸びて槍上になった吻を持ち、舵木(かじき」船の舵を執る硬い木板)をも突き通すことから「舵木通(かじきどおし)」或いは「かじどおし」と呼ばれる、条鰭綱スズキ目カジキ亜目 Xiphioidei のカジキ類が衝突したものと私は推定する。

「大隅姶良(あひら)郡牧園村大字中津川」現在の鹿児島県霧島市牧園町(まきぞのちょう)上中津川(グーグル・マップ・データ)。南西方向に下る川が「犬飼川」(現在は中津川と呼ぶ。下流で天降川に合流)である。地区域外の南西下流に「犬飼の滝」があるが、ここは坂本龍馬が妻お龍とともに日本初の新婚旅行で訪れた地として知られる。

「黃牛(あめうし)」「あめうじ」とも。飴色、黄色の毛色の牛で、古くは神聖にして立派な牛として貴ばれたというのが辞書的解説であるが、飴色の「あめ」とは「雨」で、大陸では、雨乞の際、天空の神に神聖な黄色の牛を生贄として捧げたことに由来するようであり、さればこそ、「水」と縁が深いのである。

「大阪城の追手門、上月橋口との間の堀」グーグル・マップ・データのこちらの「西濠」に相当。「月堂見聞集」第七のこちらに載る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。同書は元禄十(一六九七)年から享保十九(一七三四)年までの見聞雑録で、別に「岡野随筆」「月堂見聞類従」とも称する。本島知辰(ともたつ:号・月堂)著。全二十九巻。江戸・京都・大坂を主として諸国の巷説を記し、その内容は政治・経済から時事風俗にまで亙り、自己の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記してある)。そこには、以下のように目撃内容が記されてある。

   *

[やぶちゃん注:前略。]長さ四、五間[やぶちゃん注:約七・三~九・一メートル。]、胴の太さ、三.四尺廻り、頭は牝牛の頭の大さ程、尾は水中に深く入候而(いりさふらふて)碇と[やぶちゃん注:「諚と」の誤記か。「しかと」。]相見え不ㇾ申候、七、八寸程見え申し候、鱗の、金(こがね)のすりはがし抔(など)申(まうす)樣(やう)に、水中にてきらきらと光り候由、鱗の間に水中はへ候て在ㇾ之樣に相見え申候、是鱗に藻のかゝりて候可ㇾ有ㇾ之哉(や)、水際より水中へ、七、八寸計(ばかり)入候て、そろそろと追手門之御門の方へ參候て、御城の馬塲通りかゝり候跡を見請(みうけ)申候由[やぶちゃん注:以下略。目撃者の名その他の記載がある。因みに、この後には、江戸深川の七尺もある鼠色の七寸もある毛が生えた、鼠のような頭部をした異魚やら、奥州に出現した、鼈甲色で、頭は蛇形にして首は鳥、四尺八寸もの長い耳、尾は剣の切っ先のようで二間二尺(四メートル二十四センチ!)、全長実に六尺八寸、吹く息は火炎の如く、啼く声は雷の如しというトンデモ異鳥を鉄砲十挺を以って仕留めたという、異常生物の記載が二件続く。面白いこと限りない。必見!

   *

私はこれは、年を経た、黄色で背が盛り上がっていること、牛のような頭部という点から、巨大化したスッポン(カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis)の誤認ではないかと踏む(鱗とサイズからは、別に、現生する条鰭綱スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科カムルチー Channa argus のアムール亜種(北海道には江戸時代に棲息していたという)の巨大固体も考えたが、大阪城外堀に、この当時、同種がいた可能性は極めて低いと判断し、外す)。

に、頭と背とを水中から現はせし怪物は、頭は牝牛の大きさとあれど。金色の鱗(うろこ)あり。

「甚だ龍らしからず」柳田先生、記者は一言も「龍」だなんて、言っていませんよ。

「武州秩父郡金澤村出牛」現在の埼玉県秩父郡皆野町(みなのまち)金沢(かねざわ)出牛(じゅうし)(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、これ、河童や水牛なんぞ、目じゃない! ここは隠れキリシタンの地なのだ! そこに「出牛」だ! これは元は「でうし」「でうす」で「Deus」=ヤハウェ(神)ではなかったか? 個人サイト「武州の城」の「秩父山中に逃げ込んだ隠れ切支丹(キリシタン)」にその証左があった! 『神川町渡瀬において切支丹(キリシタン)宗門布教の罪で殺害された山口平之進の従者で切支丹(キリシタン)宗門寺院善明寺の門前百姓と成った中金、竹内の』二名のうちの一名が、『難を逃れて秩父山中に逃げ込んだと記録にあります、彼は秩父郡金沢(皆野町)の出牛で隠れ切支丹(キリシタン)と成り新に布教活動を再開します』。『出牛地区の南側に大正』六(一九一七)『年に立てられた道標が在り』、『「児玉町、本庄町に至る」、「秩父町、小鹿野町に至る」と刻まれています、古来出牛地区には神川方面と秩父方面を結ぶ街道筋通っていたのでしょう、隠れ切支丹(キリシタン)と成った山口兵之進の従者はその街道筋を通り出牛に入ったと考えれます』。『出牛地区の出牛とは戦国末期から江戸期にかけてゼウス(Deus)を訳してあてた漢字と云われています』。『また』、『出牛の何処かに南蛮地蔵と呼ばれる地蔵が祀られているそうです』とあった!

「羽後平鹿郡橫手町、朝倉城址の南方に牛沼あり」「牛沼」は現行の朝倉城址の東麓に現存する。の中央の池沼(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。

『「ウシ」とは棟木に用ゐる大材木のことなり』「牛梁(うしばり)」のことで、重量の懸かる部分に用いる太い梁を確かに「うし」と呼ぶことが、小学館「日本国語大辞典」に載る。

「取り留めたる話には非ざれども」(どれも一つ一つは、甚だ荒唐無稽なものもあり)殊更に注目して明記しておくべき話ではないけれども。

「陸中和賀郡更木村大字更木(さらき)の牛くりが淵」「更木村」は現在の北上市更木北上川の東岸地区、その東に接して猿ケ石川の南岸に、北上市臥牛(ひそうし)がある。「隣村平澤」は、以上の旧二村の南に北上市平沢としてある。しかも、興味深いことに、臥牛地区の更木や平沢の境に近い位置には「水乞山」があるのである。

「同村大字臥牛(ひそうし)の觀音堂」同地区のここに現存する一天山願行寺である。ここは別名自体を「臥牛(がぎゅう)寺」とも呼び、当国観音霊場第二十二番札所である(幾つかの記事を見たところ、住職は常時は在住していない模様である)。

「陸奧下北郡東通村大字白糠(しらぬか)」現在の青森県下北郡東通村白糠。下北半島の太平洋側。

「大穴と云ふ處あり」確認出来ない。「おほあな」と一応、読んでおく。

「上北郡橫濱村」森県上北郡横浜町。白糠の南西方向の、陸奥湾東岸。

「牛の澤」青森県上北郡横浜町牛ノ沢

『牛が窟の中に入りし話は、「今昔物語」にもあり』これは「今昔物語集」巻第五の「天竺牧牛人入穴不出成石語第三十一」(天竺(てんぢく)の牧牛(うしかひ)の人、穴に入りて出でず石(いは)と成る語(こと)第三十一)であろう。岩波の新日本古典文学大系本を参考に、読み易く書き換え、恣意的に漢字を正字化した。

   *

 今は昔、天竺に、佛(ほとけ)、未だ出給はざる時、一人の牛飼ふ人、有りけり。數百頭の牛を飼ひて、林の中に至るに、一つの牛、共(とも)を離れて獨り去りて、常に失す。行く所を知らず。牛を飼ひて、日暮に成りて、返らむと爲るに、此の一つの牛を見れば、他の牛にも似ず、殊に美麗なる姿なり。亦、鳴き吠ゆる事、常に似ず。亦、他の諸(もろもろ)の牛、皆、此の牛に恐(お)ぢて、近付かず。

 此くのごとくして、日來(ひごろ)有るを、此の人、怖(あやし)び思ふと云へども、其の故を知らず。然(さ)れば、此の人の、『牛の行く所を見む』と思ひて、伺ひ見るに、此の牛、片山に一の石の穴、有り、其の穴に入る。此の人、亦、牛の尻に立ちて入る。

 四、五里許り入りて、明かなる野、有り。天竺にも似ず、目出たき花、盛りに開(ひら)けて、菓(くだもの)滿ちたり。牛を見れば、一つの所にして、草を食(じき)して立ちたり。此の人、此の菓樹(くだもののうゑき)を見るに、赤く黃にして、金(こがね)のごとし。菓(くだもの)一果(いつくわ)を取りて、貪り愛(め)づと云へども[やぶちゃん注:とても気に入ったのではあったが。]、恐れて、食(じき)せず。

 而る間に、牛、出でぬ。此の人も、亦、牛に次ぎて返り出づ。石の穴の所に至りて、未だ出でざる間に、一(ひとり)の惡鬼、出で來て、其の持ちたる菓(くだもの)を奪ふ。此の人、此の菓を口に含みつ。鬼、亦、其の喉を搜(さぐ)る。其の時に、此れを飮み入れつ。菓、既に腹に入りぬれば、其の身、卽ち、大きに肥えぬ。

 穴を出づるに、頭(かしら)は既に出づと云へども、身、穴に滿ちて、出づる事を得ず。通る人に助くべき由を云へども、更に助くる人、無し。家の人、此れを聞きて、來たりて見るに、其の形、變じて、恐(お)ぢずと云ふ事無し[やぶちゃん注:家人は一人残らず、皆、恐怖した。]。其の人(ひと)、穴の内にして有りつる事を語る。家の人、諸(もろもろ)の人を集めて、引き出ださむと爲(す)れども、動く事、無し。國王、此の事を聞きて、人を遣して掘らしむるに、亦、動く事、無し。日來(ひごろ)を經(ふ)るに、死ぬ。年月(としつき)積もりて、石(いは)と成りて、人の形と有り。

 其の後(のち)、亦、國王、「此れは仙藥を服(ぶく)せるにりてなり」と知りて、大臣に語りて云はく、「彼(こ)れは既に藥に依りて身を變ぜるなり。石(いは)なりと云へども、其の體(かたち)、既に神靈なり。人を遣はして、少し許りを削り取りて來たるべし」と。大臣、王の仰せを奉(うけたまは)りて、工(たくみ)と共に其の所に行きて、力を盡して削ると云へども、一旬[やぶちゃん注:十日。]を經(ふ)るに、一片も削り得ず。其の體(かたち)、今も猶ほ有り、となむ語り傳へたるとや。

   *]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 孤寂

 

  孤 寂

 

椶櫚(しゆろ)の葉音(はおと)に暮(く)れてゆく夏(なつ)の夕暮(ゆふぐれ)、

 たゆまるる椶櫚(しゆろ)のはたはた、

裂葉(さけば)よ、あはれ莖長(くきなが)く葉末(はずゑ)は折(を)れて埀(た)れ顫(ふる)へ、

天(あめ)に捧(ささ)げし掌(たなごころ)、――入(ぜつじゆ)の悶(もだ)え。

 

さもこそあらめ、淨念(じやうねん)の信士(しんし)その人(ひと)、

 孤獨(こどく)なる祈誓(きせい)に喘(あえ)ぎ、

胸(むね)に籠(こ)めたる幻(まぼろし)を雲(くも)に痛(いた)みて、地(ち)のほめき――

そをだに香(かう)の燻(く)ゆるかと賴(たの)めるけはひ。

 

偉(おほい)なるかな空(そら)の宵(よひ)、天(あめ)の廣葉(ひろは)は

 圓(まど)かにて、呼息(いき)ざし深(ふか)く、

物(もの)皆(みな)かげに搖(ゆら)めきて暗(くら)うなる間(ま)を明星(みやうじやう)や、

見(み)よ、永劫(とことは)の嚴(いづ)の苑(その)、光(ひかり)のにほひ。

 

ここにては、噫(ああ)、晝(ひる)の濤(なみ)、夜(よる)の潮(うしほ)と

 捲(ま)きかへるこころの鹹(から)さ、

信(しん)の淚(なみだ)か、憧憬(あくがれ)の孤寂(こじやく)の闇(やみ)を椶櫚(しゆろ)の花(はな)

幹(みき)を傳(つた)ひてほろほろと根(ね)にぞこぼるる。

 

[やぶちゃん注:「喘(あえ)ぎ」のルビ「あえ」はママ。「呼息(いき)ざし」の「いき」は「呼息」二字へのルビ。終りから二行目の中の「闇(やみ)を」は底本では「闇(やみ)の」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「椶櫚(しゆろ)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の類。「棕櫚」とも漢字表記する。葉が垂れるワジュロ Trachycarpus fortunei(中国湖北省からミャンマー北部まで分布し、本邦では九州地方南部に自生する。日本に産するヤシ科の植物の中では最も耐寒性が強く、東北地方まで栽培植生されており、中には北海道の石狩平野でも地熱などを利用せずに成木している個体もある)或いは、垂れないトウジョロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianus(ワジュロよりも樹高や葉面が小さく、組織が固い。そのため、葉の先端が下垂しないのを特徴とする。中国大陸原産の帰化植物であるが、江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである)の孰れかであるが(ここまではウィキの「シュロに拠った)、ここは「裂葉」のそれ(一本だけがそうなっているのでは、「天(あめ)に捧(ささ)げし掌(たなごころ)、――入(ぜつじゆ)の悶(もだ)え」という絶妙の絵にはならない)、以下の総てが下降する感性感覚から、前者で採りたい。

「信士(しんし)」在俗のまま受戒した男子。

「ほめき」「熱き」。熱気を持つこと。火照り。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 草びら

 

  草びら

 

向日葵(ひぐるま)の蘂(ずゐ)の粉(こ)の黃金(こがね)にまみれ、

 あな、夕(ゆう)まぐれ、

朽(く)ちはつる草(くさ)びらや、

草(くさ)びらは唯(ただ)わびしらに。

 

この夕(ゆふべ)、雲(くも)明(あか)き空(そら)には夏(なつ)の

 あな、榮(はえ)もあれ、

薄(うす)ぐらき物(もの)かげを

草(くさ)びらは終(をは)りの寢所(ふしど)。

 

誓願(せいぐわん)は向日葵(ひぐるま)に――菩提(ぼだい)の東(ひがし)、

 あな、涅槃(ねはん)の西(にし)、

宿緣(しゆくえん)は草(くさ)びらに、

草(くさ)びらは靜(しづ)かに默(もだ)す。

 

向日葵(ひぐるま)は蘂(ずゐ)の粉(こ)の黃金(こがね)の雨(あめ)の

 あな、淚(なみだ)もて

朽(く)ちはてて壞(くづ)れゆく

草(くさ)びらの胸(むね)を掩(おほ)ひぬ。

 

[やぶちゃん注:第一連二行目「夕(ゆう)まぐれ」のルビ「ゆう」はママ。

「草びら」「草(くさ)びら」「草片」「蔬」「茸」「菌」等と漢字表記し、古くは「くさひら」で清音。一般に一義的には「茸」「菌」で「きのこ」の類を指す。二義的には「草片」「蔬」で野菜や青物の意も示し、「草びら」の表記的には後者風ではあるけれど、全体に配された「草びら」の表現からは、「きのこ」としか私には思われない。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 燈火

 

 燈 火

 

人(ひと)の世(よ)はいつしか

たそがれぬ、花(はな)さき

香(か)に滿(み)ちし世(よ)も、今(いま)、

たそがれぬ靜(しづ)かに。

 

滅(き)えがてに、見(み)はてぬ

夢(ゆめ)の影(かげ)、裾(そで)ひく

薄靄(うすもや)の眼(め)のうち

あなうつろなるさま。

 

人(ひと)の世(よ)の燈火(ともしび)、

ほのぐらき樹(こ)の間(ま)を、

わびしらに嘆(なげ)くか、

燈火(ともしび)の美鳥(うまどり)。

 

母(はは)の鳥(とり)――天(あめ)なる

日(ひ)のゆくへ慕(した)ひて

泣(き)いざち嘆(なげ)かふ

聲(こゑ)のうらがなしさ。

 

燈火(ともしび)のうま鳥(どり)、

うらぶれの細音(ほそね)に

かずかずの念(おもひ)の

珠(たま)をこそ聞(き)け、今(いま)。

 

闇(やみ)墜(お)ちぬ、にほひも

はた色(いろ)もひとつの

音に添(そ)ひぬ、燈火(ともしび)

遠(とほ)ながき笛(ふえ)の音(ね)……

 

[やぶちゃん注:「音」のルビ無しはママ。脱ルビで、「ね」ではあろう。また、最後の六点リーダ(ここまでの詩篇では初めて出現する)は、底本では正中線上ではなく、完全に活字スペースの右端に打たれてあるという特異点である。しかし、他の詩篇で多用されるダッシュにそのような仕儀は認められないし、後に載る「やまうど」で多用される同じ六点リーダ(リーダ使用はここと同詩篇のみ)は活字位置の正中線上にあるので、単に植字工のミスと思われる。

 第四連三行目「泣(き)いざち嘆(なげ)かふ」はママであるが、不審である。母鳥の飛び交いながら「泣く」のに「いざち」とは何か? 「いざる」、「躄る・膝行る」では情景合わぬし、歴史的仮名遣も「ゐざる」であり、接尾語或いは造語の「ち」がやはり意味として合わない。「青空文庫」「有明集」(底本:昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」)では『泣きいさち嘆かふ』(同テクストはパラルビ)で、これならば、すこぶる腑に落ちる。「泣きいさち」とは、タ行上一段の自動詞「なきいさちる」が上二段化したもので(上代からの古語)、「激しく泣く・泣き叫ぶ」の意だからである。初出等の比較・校合対象を私は他に持たないが、これは極めて高い確率で、

泣(き)いさち嘆(なげ)かふ

の本底本の誤植であると考える。

2019/02/18

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛(うし) (ウシ或いはウシ亜科の種を含む)

Usi

△按牛子出生於

人家者必先行竃

前亦一異也徐長

突通鼻孔隔嵌𣳾

其桊用檉木可也

[やぶちゃん注:以上は底本では挿絵の上に配されてある。]

 

うし  瞿摩帝【梵書】

    牯【牡】 特【同】

 【同】 【牝】

 【同】 犍【去勢】

     【和名宇之】

 

本綱牛字象角頭三封及尾之形有數品南牛曰※1北牛

[やぶちゃん注:「※1」=「牜」+「」。

※2純色曰犧黒曰𤚎和名麻伊白曰𤛍赤曰𤙡俗阿女宇之】駁曰

[やぶちゃん注:「※2」=「牜」+「秦」。]

犁牛子無角曰犢【和名古宇之】生二

𤘦牛齒有下無上察其齒而知其

[やぶちゃん注:底本では「」は(つくり)が「構」の(つくり)であるが、現行の流布本の「本草綱目」に記載に従った。但し、古い「本草綱目」では良安が書いた通りの字である。]

年三二齒四四齒五六齒六以後毎年接脊骨

一節也牛耳聾其聽以鼻牛瞳竪而不橫其聲曰牟項

曰胡蹄肉曰𤜂百葉曰角胎曰䚡鼻木曰和名牛乃波奈岐

嚼草復出曰齝【和訓仁介加無】腹草未化曰聖虀牛在畜属土在

卦屬坤土而和其性乾陽爲馬坤陰爲牛故馬蹄

圓牛蹄坼馬病則臥陰勝也牛病則立陽勝也馬起先前

足臥先後足從陽也牛起先後足臥先前足從陰也牛者

之資不可多殺【今天下日用之食物雖嚴法不能禁】

肉【甘溫】 益氣養脾胃補腰脚【煑之入杏仁盧葉易爛相宜】其補氣與

 黃茋同功【黑牛白頭者及自死牛有大毒不可食】惡馬食牛肉卽馴亦物

 性也【合韮薤食令人熱病合生薑食損齒】

牛乳【甘微寒番語名保宇止留】 反胃噎膈大便燥結宜牛羊乳時時

 嚥之並服四物湯爲上策

牛涎 治反胃嘔吐水服二匙終身不噎或用糯米末以

 牛涎拌作小丸煑熟食【取涎法以水洗老牛口用鹽塗之少頃卽出】

牛膽 塗熱釜卽鳴【見淮南子】蛙得牛膽則不鳴此皆有所

 制也

                   信實

  新六ことことしことひの牛の角さきにきらある見るも恐しのよや

三才圖會云牛病則耳燥安則潤澤善角虎環其首外觸

虎雖猛不能制

△按牛馬見風則走牛喜順風馬喜逆風牛常食草葉就

 中喜鳥蘞草葉蒭人誤苅入毒草則一一擇之不食毒

 草其齝也凡四十八而止如病牛則齝數少若不齝者

 必死寗戚相牛經甚詳其畧云

○頭欲瘦小○靣欲得長如短則命促○眼圓大而去角近

 有白脉貫瞳吉○眼赤者觸人○眼下有旋毛名淚滴

 主喪服○鼻欲軟而大易牽鼻如鎊鼻難牽○口欲方

 大易餵齒欲白○角短方大紋浪角形如仰弓吉

 向前吉向後兩角間有亂毛起名頭陀坊主○耳去

 角要近可容指方好○耳後有旋毛名刺環招盜賊

 頸骨欲長大○毛短密硬而黒者奈寒踈長如鼠毛者

 怕寒○前脚欲直而闊後脚若曲而開○股瘦小則捷

 快○蹄欲得大靑黒紫色吉○乳紅者多子乳踈黒者

 無子○尿射前胯者快直下者鈍○尿欲蹲放如繩旋

 有力臀欲厚重○尾稍長大吉

黃額牛有額上一花黃者○白牛黃牛有前一荅白

 如手掌大者○牛中王白牛頭黃者○龍門牛角濶相

 去一尺是亦牛中王也○蒿脊牛黃黒色當脊背上一

 條白者以上五品養之皆大吉利也

鹿斑牛有班如鹿紋者○孝頭牛頭上白者○喪門牛黒

 牛頭與尾白者○黃旛牛青牛頭脚俱黃角白者以上

 四品養之並

△大抵關東馬多牛少關西牛多馬少京師牽天子皇后

 三公御車市中車牛運送米穀薪木等皆用特牛農牛

 耕田助人力關東則以馬代之

 牧童使牛則左謂左世伊右謂比夜宇世牛隨其詞行

 欲進則謂志伊欲止則謂堂宇【馬之進止與此同】

 凡牛角漁人以鈎鰹東海多用之牛皮可爲大皷或旋

 於履裏呼曰雪踏民間毎用之其他爲噐者多古皮以

 可作阿膠又用角煑軟竪破擴徐踏押窄則再煑擴如

 板挽櫛煑染黒文琢僞玳瑇油作蠟燭骨作厘等之衡

 

 

△按ずるに、牛の子、人家に出生する者、必ず、先づ、竃〔(かまど)〕の前に行くも亦、一異なり。徐〔(おもむろ)に〕長じて鼻の孔の隔〔(へだて)〕を突き通して、桊(はなぎ)を嵌(は)める。其れに〔→の〕𣳾、檉(むろ)の木を用ふるべし。

 

うし  瞿摩帝〔(くまてい)〕【梵書。】

    牯(ことひ)【牡。】 特(ことひ)【同。】

 (ことひ)【同。】 (めうし)【牝。】

 (めうし)【同。】

    犍(へのこなしのうし)【去勢。】

     【和名、「宇之」。】

[やぶちゃん注:「特(ことひ)」の読みは底本では『同』であるが、かく、した。]

 

「本綱」、牛の字、角頭三[やぶちゃん注:両角と頭の三つ。]〔と〕封[やぶちゃん注:肩甲骨の隆起。]及び尾の形に象る。數品〔(すひん)〕有り。南〔の〕牛を「※1〔(ご)〕」[やぶちゃん注:「※1」=「牜」+「」。]と曰ひ、北〔の〕牛を「※2〔(しん)〕」[やぶちゃん注:「※2」=「牜」+「秦」。]と曰ふ。純色[やぶちゃん注:以下の黒・白以外の明度の高い明るい単一色の牛のことと思われる。]を「犧〔ぎ)〕」と曰ひ、黒を「𤚎〔(ゆ)〕」【和名、「麻伊〔(まい)〕」。】と曰ひ、白を「𤛍〔(さい)〕」と曰ひ、赤を「𤙡【俗、「阿女宇之〔(あめうし)〕」。】と曰ひ、駁(ぶち)を「犁〔(り)〕」と曰ふ。牛の子〔の〕角無きを「犢(こうし)」【和名、古宇之」。】と曰ふ。生れて二なるを「〔(ばい)〕」と曰ひ、三なるを「〔(さん)〕」と曰ひ、四なるを「〔(し)〕」と曰ひ、五歳なるを「𤘦〔(かい)〕」と曰ひ、六歳なるを「〔(ひ)〕」と曰ふ[やぶちゃん注:底本では「」は(つくり)が「構」の(つくり)であるが、現行の流布本の「本草綱目」に記載に従った。但し、古い「本草綱目」では良安が書いた通りの字である。]。凡そ、牛の齒は、下に有りて上に無し。其の齒を察〔(しら)べ〕て其の年を知る。三なれば二齒、四なれば四齒、五なれば六齒、六以後、毎年、接脊骨、一節なり[やぶちゃん注:背骨を繋ぐ節骨が一つずつ増える。]。牛は、耳、聾にして、其れ、聽くこと、鼻を以つてす。牛の瞳(ひとみ)は竪(たて)にして橫ならず。其の聲、「牟(もう)」と曰ふ、項〔(うなじ)の〕垂(た)る〔るところ〕を「胡」と曰ひ、蹄〔(ひづめ)〕の肉を「𤜂〔(えい)〕」と曰ひ、百葉〔(いぶくろ)〕を「〔(ひ)〕」と曰ひ、角〔の〕胎〔(うちこ)〕を「䚡〔(さい)〕」と曰ふ。鼻の木を「(はなぎ)」【和名、「牛乃波奈岐」。】と曰ふ。草を嚼〔(は)み〕て復た出だすを「齝〔(にれかむ)〕【和訓「仁介加無」。】[やぶちゃん注:反芻することを指す動詞。]と曰ひ、腹の草、未だ化せざるを[やぶちゃん注:消化されていないものを。]「聖虀〔(せいせい)〕」と曰ふ。牛、畜[やぶちゃん注:家畜。]に在りては、「土」に属し、卦に在りては「坤土」に屬す。緩にして和、其の性、順なり。乾陽を馬と爲し、坤陰を牛と爲す。故に馬の蹄は圓く、牛の蹄は坼〔(さ)け〕たり。馬、病むときは、則ち、臥す。陰、勝てばなり。牛、病めば、則ち、立つ。陽、勝てばなり。馬、起つときは、前足を先〔(さき)〕にし、臥すときは後足を先す。陽に從ふなり。牛、起つときは、後足を先にし、臥すときは、前足を先す。陰に從ふなり。牛は稼穡〔(のらしごと)〕の資、多殺すべからず【今、天下の、日用の食物〔たり〕。嚴法〔あり〕と雖も、禁ずる能はず。】。

肉【甘、溫。】 氣を益し、脾胃を養ひ、腰脚[やぶちゃん注:足腰の健康。]を補ふ【之れを煑るに、杏仁・盧葉を入〔すれば〕爛〔(やはらか)〕に〔なり〕易く、相ひ宜ろし。】其〔の〕氣を補〔ふこと〕、黃茋〔(わうぎ)〕と功を同じうす。【黑牛の白頭の者及び自死せる牛、大毒有り。食ふべからず。】惡馬、牛肉を食〔はせば〕、卽ち、〔人に〕馴る〔も〕亦、物〔の〕性〔なれば〕なり。【韮薤〔(にら)〕と合はせ食へば、人をして熱病せしむ。生薑〔(しやうが)〕と合はせ食へば、齒を損ず。】。

牛乳【甘、微寒。番語、「保宇止留〔(ボウトル)〕」と名づく。】 反胃〔(ほんい)〕・噎膈〔(いつかく)〕・大便燥結[やぶちゃん注:便秘。]、牛・羊の乳、宜(よろ)し。時時、之れを嚥〔(の)〕む〔→みて、〕並びに、四物湯〔(しもつたう)〕を服さば、上策たり。

牛の涎〔(よだれ)〕 反胃・嘔吐を治す。水にて二匙(〔ふた〕さじ)を服すれば、身を終るまで、噎〔(いつ)〕せず。或いは糯米〔(もちごめ)〕の末を用ひ、牛の涎を以つて拌(かきま)ぜ、小〔さき〕丸〔(ぐわん)〕と作〔(な)〕し[やぶちゃん注:丸薬と成し。]、煑熟〔(しやじゆく)〕[やぶちゃん注:煮詰めること。]して食す【涎を取る法は、水を以つて老牛の口を洗ひ、鹽を用ひて之れに塗り、少-頃〔(しばらく)せば〕、卽ち、出づ。】。

牛膽〔(うしのきも)〕 熱〔せる〕釜に塗れば、卽ち、鳴る【「淮南子」を見よ。】。蛙、牛の膽を得ば、則ち、鳴かず。此れ、皆、制する所、有ればなり。

                  信實

  「新六」

    ことごとしことひの牛の角さきに

       きらある見るも恐ろしのよや

「三才圖會」に云はく、『牛、病むときは、則ち、耳、燥〔(かは)〕く。安〔んずれば〕、則ち潤澤。善く、虎を角(つ)く。其の首を外に環〔(めぐ)ら〕して虎を觸(つ)く。猛(たけ)んと雖も、制すること、能はず』〔と〕。

△按ずるに、牛・馬、風(〔かぜ〕ふ)くを見ては、則ち、走る。牛は順風を喜び、馬は逆風を喜ぶ。牛、常に草葉を食し、中就〔(なかんづく)〕、鳥-蘞(つた)〔の〕草葉を喜ぶ。蒭〔(くさかる)〕人、誤りて毒草に〔→を〕苅り入る〔とも〕、則ち、一つ、一つ、之れを擇びて、毒草を食はず。其れ、齝(にれか)むや、凡そ四十八にして止む。病牛のごときは、則ち、齝むこと、數、少し。若〔(も)し〕、齝まざる者は、必ず死す。寗戚〔(ねいせき)〕が「相牛經〔(さうぎうけい)〕」に甚だ詳かなり。其の畧に云はく、

○頭、瘦せ小さきを欲(ほつ)す[やぶちゃん注:よしとする。]。○靣(おもて)、長〔きを〕得を欲す。如〔(も)〕し短きときは、則ち、命、促〔(はや)し〕。○眼は圓〔く〕大にして角を去ること、近く、白き脉(すぢ)有りて瞳を貫くは吉(よ)し。○眼の赤き者は人を觸(つ)く。○眼の下に旋-毛(つむじ)有るを「淚滴」と名して、喪服[やぶちゃん注:人の死の凶兆。]を主〔(つかさど)〕る。○鼻は軟くして大なるを欲す。牽き易し。鼻、鎊鼻〔(はうび)〕のごときは牽き難し。○口は方大[やぶちゃん注:角ばって大きいこと。]なるを欲す。餵〔(えさや)〕り易し。○齒は白きを欲す。○角は短く、方大にして、、紋に浪(みだり)に〔→(みだれ)ありて〕、角の形(なり)、仰〔げる〕弓のごとくなるは、吉し。 前に向くは吉し。後ろに向くは[やぶちゃん注:「凶」の異体字]にして、兩角の間、亂毛有りて起くるを「頭陀坊主〔(づたばうず)〕」と名づく。○耳は角を去る〔こと〕、近きを要す。指を容〔(い)〕るゝばかりなるは、方〔(まさ)〕に好し。○耳の後に旋-毛〔(つむじ)〕有るを「刺環」と名づく。盜賊を招く。 頸の骨は長大を欲す。○毛は短く密硬にして[やぶちゃん注:密生していて、しかも硬く。]黒き者、寒に奈(た)ふ[やぶちゃん注:耐寒力がある。]。踈長〔(そちやう)〕にして[やぶちゃん注:疎らで長く。]鼠の毛のごとき者、寒を怕〔(おそ)〕る。○前脚は直にして闊〔(ひろ)〕く、後(うしろ)脚、曲るごとくにして開くを欲す。○股は瘦せて小さきは、則ち、捷快〔(せふくわい)なり〕[やぶちゃん注:すばしっこい。]。○蹄は、大を得〔て〕、靑・黒・紫色、吉し。○乳の紅なる者は多〔く〕子を乳〔(う)む〕。踈〔(まばら)に〕黒き者は、子、無し。○尿〔(いばりする)〕は、前の胯(またぐら)を射〔(い)〕る者、快く、直下なるは、鈍(にぶ)し。○尿〔(いばりする)〕は蹲〔(うづくま)り〕放〔つを〕欲し、繩の旋〔(めぐ)〕るがごとくなるは、力、有り。臀〔(しり)〕は厚重〔なる〕を欲す。○尾は、稍〔(やや)〕長大なるを吉とす。

黃額牛〔(わうがくぎう)〕は額の上に、一花、黃なる者有り。○白牛〔はくきようぎう〕[やぶちゃん注:「」は「胸」の異体字。]黃牛(あめうし)にして〔(むね)〕の前〔に〕一〔つの〕荅〔(あづき)のやうなる〕白き、手掌〔(てのひら)〕の大いさのごとくなる〔もの〕有る者〔なり〕。○牛〔の〕中〔の〕王は白牛にして、頭、黃なり。○龍門牛は角の濶〔(ひろ)く〕、相ひ去〔ること〕一尺。是〔れも〕亦、牛〔の〕中の王なり。○蒿脊牛〔(こうはいぎう)〕は、黃黒色、脊背〔(せきはい)〕の上に當〔(あた)り〕て一條、白き者〔なり〕。以上の五品は、之れを養ひて、皆、大〔いに〕吉〔(よ)く〕利〔あるもの〕なり。

鹿斑牛〔(ろくはんぎう)〕[やぶちゃん注:「班」は以下ともに「斑」の誤字であろう。]班〔(まだら)〕有り、鹿〔の〕紋のごとくなる者〔なり〕。○孝頭牛は、頭の上、白き者〔なり。〕○喪門牛は、黒牛にて、頭と尾と、白き者〔なり〕。○黃旛牛〔(わうばんぎう)〕は、青牛にして、頭・脚俱に黃にして、角、白き者〔なり〕。以上四品〔は〕之れを養ふこと、並びに[やぶちゃん注:総て。]なり。

△大抵、關東には、馬、多く、牛、少なし。關西には、牛、多く、馬、少なし。京師には、天子・皇后・三公の御車を牽き、市中の車は、牛、米穀・薪木等を運送す。皆、特牛(ことひ)を用ひ、農牛は田を耕して人力を助く〔も〕、關東、則ち、馬を以つて之れに代〔(か)〕ふ。

牧童、牛を使ふに、則ち、左〔(ひだりす)る〕を「左世伊〔(させい)〕」と謂ひ、右〔(みぎす)る〕を「比夜宇世〔(ひやうせ)〕」と謂ふ。牛、其の詞に隨ひて行く。進(すゝ)めんと欲すれば、則ち、「志伊〔(しい)〕」と謂ひ、止(とゞ)めんと欲せば、則ち、「堂宇〔(どう)〕」と謂ふ【馬の進止、此れと同じ。】。

 凡そ、牛の角、漁人、以つて鰹〔(かつを)〕を鈎〔(つ)〕るに、東海、多く、之れを用ふ。牛の皮、大皷〔(たいこ)〕に爲すべく、或いは履(くつ)の裏に旋らせ、呼んで「雪踏(せつた)」と曰ふ。民間、毎〔(つね)〕に之れを用ふ。其の他、噐〔(うつわ)〕と爲す者、多し。古〔き〕皮〔は〕以つて阿-膠(にかは)に作る。又、角を用ひて、煑〔(に)〕、軟(やはら)げ竪(た)つに、破〔り〕擴(ひろ)げ、徐(そろそろ)〔と〕踏み押(をさ)へ、窄(すぼ)まれば、則ち、再たび、煑、擴げ、板のごとくにし、櫛を挽き、黒き文〔(もん)〕を煑染(にそ)めて、琢(みが)きて、玳瑇(たいまい)に僞〔(いつは)〕る。油は蠟燭に作る。骨は厘等(れてぐ)の衡(さほ)に作る[やぶちゃん注:「厘等(れてぐ)」は「釐等具」で「れいてんぐ」とも読み(「等」の「テン」は唐音)、金銀などの重さを釐(り=厘(りん))などのわずかな量まで精密に量る竿秤(さおばかり)のことを指す。明治初年まで用いられ、竿は高級品では変質変形の少ない象牙・黒檀・紫檀などを用いた。「りんばかり」「りんだめ」とも呼ぶ。]。

[やぶちゃん注:その記載主体は、

鯨偶蹄目反芻(ウシ)亜目ウシ科ウシ亜科ウシ族ウシ属オーロックス Bos primigenius亜種ウシ Bos primigenius taurus

であるが、ウシ属には、

ガウル(GaurBos gaurusインド・カンボジア・タイ・中国雲南省ネパールミャンマーに自然分布。以下同じ)

バンテン(BantengBos javanicus(インドネシア(ジャワ島・ボルネオ島)・カンボジア・タイ・マレーシア・ミャンマーラオス

ヤク(YakBos mutusインド北西部中国甘粛省及びチベット自治区パキスタン北東部

コープレイ(KoupreyBos sauveli(嘗てはカンボジア北部・ラオス南部・ベトナム西部・タイ東部に分布していたが、現在はカンボジアに約二百五十頭が棲息するのみとされる)

がおり、分布域から考えて、以上の四種総て、或いは少なくともガウルとヤクは「本草綱目」の記載の範疇に含まれる可能性を考えるべきであろう。但し、前掲の種群の他にも、ウシ亜科 Bovinae に属する種群が別におり、「水牛」類は言うまでもなく、これら他の種群も記載可能性の射程に入れておく必要があると私は思う。同亜科には、

ニルガイ族ニルガイ属ニルガイ Boselaphus tragocamelusインド:(グーグル画像検索「Boselaphus tragocamelusを見ると、胴体はウシであるが、首から上はやや馬に似ており、巨大な鹿のようにも見える。実際、「ウマシカ」「ウマカモシカ」などの異名がある)

ニルガイ族ヨツヅノレイヨウ(四角羚羊)属ヨツヅノレイヨウ Tetracerus quadricornisインドネパール:ウシ亜科の中でも原始的な種と考えられており、これに限っては画像を見る限り、牛ではなく如何にも鹿っぽい。ウィキの「ヨツヅノレイヨウ」ヨツヅノレイヨウの画をリンクさせておく)

ウシ族アフリカスイギュウ属 Syncerus(タイプ種はアフリカスイギュウ Syncerus caffer

ウシ族アジアスイギュウ属 Bubalus(アジアスイギュウ Bubalus arnee

ウシ族バイソン属 Bison

などが含まれる。ウィキの「ウシ」によれば、上記の広義のウシ属の種群は、『一般の人々も牛と認めるような共通の体形と特徴を持っている。大きな胴体、短い首と一対の角、胴体と比べて短めの脚、軽快さがなく鈍重な動きである』。『ウシと比較的近縁の動物としては、同じウシ亜目(反芻亜目)にキリン類やシカ類、また、同じウシ科の仲間としてヤギ、ヒツジ、レイヨウなどがあるが、これらが牛と混同されることはまずない』とする。今までも「豚」「狗」「羊」で去勢されたそれらを指す漢字が示されてきたが、既に述べてきた通り、家畜として食用に供される群がいる種であることから考えても、その第一の目的は『食肉を目的として肥育される場合』で、牛の場合は、『雌雄とも去勢されることが多い』とし、ウシ肉の別記載では、『雄牛を去勢しないで肥育した場合、キメが粗くて硬い、消費者に好まれない牛肉に』なってしまう。『また』、『去勢しない雄牛を群』れで飼育『すると、牛同士の闘争が激しくなり、ケガが発生しやすく肉質の低下にもつながる。このため、日本の肉牛の雄は』、実に七十七%が去勢されている。去勢は三ヶ月齢『以上で行われることが多く、基本的に麻酔なしで実施される。去勢手術の失敗による傷口の化膿と肉芽腫の形成等が見られることがある』とある。話を去勢目的に戻すと、『飼育荷車牽引などの用務牛用途を目的として』『牛を用いる場合にも、精神的な荒さや発情を削ぐために去勢されるケースがよく見られる』とある。「生態・形態上の特徴」の項。『ウシは』四『つの胃をもち、一度飲み込んだ食べ物を』、『胃から口中に戻して再び噛む「反芻(はんすう)」をする反芻動物の』一『つである。実際には第』四『胃のみが本来の胃で胃液が分泌される。第』一『胃から第』三『胃までは食道が変化したものであるが、草の繊維を分解する細菌類、原虫類が常在し、繊維の消化を助ける。動物性タンパク質として細菌類、原虫類も消化される。ウシの歯は、雄牛の場合は上顎に』十二『本、下顎に』二十『本で、上顎の切歯(前歯)は無い』(「本草綱目」の謂いは切歯の観察しかしていないトンデモ誤認である)。『そのため、草を食べる時には長い舌で巻き取って口に運ぶ。鼻には、個体ごとに異なる鼻紋があり、個体の識別に利用される』。『農耕を助ける貴重な労働力であるウシを殺して神への犠牲とし、そこから転じてウシそのものを神聖な生き物として崇敬することは、古代より非常に広い地域と時代にわたって行われた信仰である。現在の例として、インドの特にヒンドゥー教徒の間で、ウシが神聖な生き物として敬われ、食のタブーとして肉食されることがないことは、よく知られている』。『牛が釘などを食べた場合に胃を保護するため、磁石を飲み込ませておく事もあるという』。「除角」の項。『牛は、飼料の確保や社会的順位の確立等のため、他の牛に対し、角突きを行うことがある。そのため』、『牛舎内での高密度の群飼い(狭い時で』一『頭当たり』五平方メートル前後)『ではケガが発生しやすく、肉質の低下に繋がることもある。また』、『管理者が死傷することを防止するためにも有効な手段と考えられており、日本の農家の約半数が除角を実施している。除角は』三ヶ月齢『以上でおこなう農家が多く(日本の農家の約』八十八%『)、断角器や焼きごてで実施され、そのうち』八十三%『は麻酔なしで除角される』。『除角は激痛を伴い』、『腐食性軟膏や焼きごて、のこぎり、頭蓋骨から角をえぐり取る除角スプーンを使う』とある。但し、『国産畜産物安心確保等支援事業「アニマルウェルフェア(動物福祉)の考え方に対応した肉用牛の飼養管理指針」では「除角によるストレスが少ないと言われている焼きごてでの実施が可能な生後』二『か月以内に実施すること」が推奨されている』とある』。「鼻環」(はなかん:「はなわ」とも読み、「はなぐり」とも呼ぶ)の項。本文の「桊(はなぎ)」のこと。読むと、可哀相なんだな、これって、痛いんだよな)。『鼻環による痛みを利用することで、牛の移動をスムーズにするなど、牛を調教しやすくすることができる。日本の農家では約』八十四%『で鼻環の装着が行われている。鼻環通しは麻酔なしで行われる』とある。「ウシの病気」の項。「舌遊び」の条。『舌を口の外へ長く出したり左右に動かしたり、丸めたり、さらには柵や空の飼槽などを舐める動作を持続的に行うこと。舌遊び行動中は心拍数が低下することが認められている。粗飼料の不足、繋留、単飼(』一『頭のみで飼育する)などの行動抑制、また生まれてすぐに母牛から離されることが舌遊びの原因となっている。「子牛は自然哺乳の場合』一『時間に』六千『回母牛の乳頭を吸うといわれている。その半分は単なるおしゃぶりにすぎないが、子牛の精神の安定に大きな意味をもつ。子牛は母牛の乳頭に吸い付きたいという強い欲求を持っているが、それが満たされないため、子牛は乳頭に似たものに向かっていく。成牛になっても満たされなかった欲求が葛藤行動として「舌遊び」にあらわれる」』。『実態調査では、種付け用黒毛和牛の雄牛の』百%、『同ホルスタイン種の雄牛の』六%、『食肉用に肥育されている去勢黒毛和牛の雄牛の』七十六%、『黒毛和牛の雌牛の』八十九%、『ホルスタイン種の』十七%『で舌遊び行動が認められた』(この病気、何か非常な哀感を覚えた)。「失明」の条。『霜降り肉を作るためには、筋肉繊維の中へ脂肪を交雑させる、という通常ではない状態を作り出さなければならない。そのため、肥育中期から高カロリーの濃厚飼料が与えられる一方で、脂肪細胞の増殖を抑える働きのあるビタミンAの給与制限が行われる。ビタミンAが欠乏すると、牛に様々な病気を引き起こす。 肥育農家がこのビタミンAコントロールに失敗し、ビタミンA欠乏が慢性的に続くと、光の情報を視神経に伝えるロドプシンという物質が機能しなくなり、重度になると、瞳孔が開いていき、失明に至る』。他に、『稀なケースであるが、牧場内に広葉樹があり』、『ドングリ』(ブナ目ブナ科 Fagaceae に属する種群、特に小楢(ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata)や水楢(コナラ属ミズナラ Quercus crispula)などの果実の一般通称総称でドングリという種は存在しない)『が採餌できる環境にあると、ドングリの成分であるポリフェノール』(polyphenol:分子内に複数のフェノール性ヒドロキシ基(hydroxyl group:ベンゼン環・ナフタレン環などの芳香環に結合したヒドロキシ基)を持つ植物成分の総称。その数は五千種以上に及び、植物細胞の生成・活性化などを助ける働きを持つ。赤ワインのそれが健康によいなどと言われるが、科学的な肯定的データは実は殆んどない。ポリフェノールの過剰摂取については、ヒトでも便秘や女性ホルモンの乱れを生じさせる恐れがあるとウィキの「ポリフェノールにはある)『を過剰摂取してしまい』、『中毒死することがある』。最後に。二〇一三年の「国際連合食糧農業機関」の『統計によると、世界全体では』現在、約十四億七千万頭の『ウシが飼育されていると見積もられている』とある。因みに「米国勢調査局」と国連のデータからの推計で現在の地球上のヒトの個体数は七十五億である。

 

「桊(はなぎ)」前記注を参照。東洋文庫は誤って全くの別字の「𣳾」と誤判読してしまっている

「檉(むろ)の木」漢名「杜松」で生薬として知られる、裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ビャクシン属ネズ Juniperus rigida の木の古名。他に別名を「ネズミサシ」「モロノキ」とも呼ぶ。ウィキの「ネズ」によれば、『和名はネズの硬い針葉をネズミ除けに使っていたこと』『から、ネズミを刺すという意でネズミサシとなり、それが縮まったことに由来する』。『日本では東北以南の日当たりの良い丘陵地帯や花崗岩地に自生している』。『ネズなどビャクシン属の雌の花序は、受粉後に多くの針葉樹と同様に球果となるが、通常の針葉樹のように乾燥した松ぼっくり状に熟すのではなく、受粉の』一~二『年後の』十『月頃に』なって、『黒紫色漿果状の肉質に熟し、果実食の鳥に食われて内部の種子が散布される』。『庭木、生垣として利用され、盆栽では音読みのトショウの名で親しまれている』。『球果は杜松子(トショウシ)と呼ばれ、中国では古くから』、『漢方の生薬として利用されている』とあり、効能は発汗促剤や利尿薬の他、膀胱炎・尿道炎・浮腫・痛風・風邪などに用いるという。

「ことひ」は「特牛」で「ことひうし」(古くは「ことひうじ」とも)で、頭が大きく、強健で、重荷を負うことの出来る特に(だから「特」という訳ではないようであるが)優れた牡牛を指す古語で、現代仮名遣では「ことい」。「こってい」とも。平安以降に出現している。

『牛の字、角頭三[やぶちゃん注:両角と頭の三つ。]〔と〕封[やぶちゃん注:肩甲骨の隆起。]及び尾の形に象る』正しい。因みに、音(「ギウ(ギュウ)」)形上は、「丘(キュウ)」に通じ、牛の背中が丘のように盛り上がっていることに拠るという。

「黒を「𤚎〔(ゆ)〕」【和名、「麻伊〔(まい)〕」。】」小学館「日本国語大辞典」によれば、漢字表記は「烏牛」で「まい」と読み、『黒い毛の牛』とする。例は十巻本「倭名類聚鈔」の巻七で、『烏牛 弁色立成云売牛<漢語抄云麻伊>黒牛也』をまず引き、後に観智院本「名義抄」から『烏牛 マイ クルマヒ』とする。

『赤を「𤙡」【俗、「阿女宇之〔(あめうし)〕」。】』「あめうじ」とも。飴色、黄色の毛色の牛で、古くは神聖にして立派な牛として貴ばれたというのが辞書的解説であるが、飴色の「あめ」とは「雨」で、大陸では雨乞の際に天空の神に神聖な黄色の牛を生贄として捧げたことに由来するようである。

「聖虀〔(せいせい)〕」「虀」はニラ・ショウガ・ニンニク等を細かく刻んだもの・それを使った料理・漬物・膾(なます)で、細切りにした和え物や「細かく刻む」の意である。

「杏仁」「狗」で既出既注

「盧葉」単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis の葉。漢方の生薬でもあるようだ。

「黃茋〔(わうぎ)〕」は「黄耆」「黄蓍」とも書く、双子葉植物綱マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギAstragalus membranaceusの根から精製される漢方薬。同種は本邦の本州中部以北・北海道・中国・朝鮮半島の亜高山帯から高山帯にかけての草地・砂礫地に分布する。花期は七~八月頃に淡黄色の蝶形花を咲かせ、その根茎から製剤され、「日本薬局方」にも載る。有効成分はフラボノイド・サポニン・γ-アミノ酪酸(ギャバ・GABA)などで、利尿・血圧下降・血管拡張・発汗抑制作用を示し、強壮剤とされる。

「自死せる牛」原因不明で頓死した牛のことであろう。

「惡馬、牛肉を食〔はせば〕、卽ち、〔人に〕馴る〔も〕亦、物〔の〕性〔なれば〕なり」これは科学的観察などではない。「馬」は五行では「乾」で、牛の「坤」に対するものだからである。

「韮薤〔(にら)〕」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum

「生薑」と合はせ食へば、齒を損ず。】。

「保宇止留〔(ボウトル)〕」本「蓄類」の冒頭の注で述べた通り、この「ボウトル」とは英語の乳製品の「butter」のカタカナ音写に酷似することが判然とする(後の開国後の横浜で「バター」は「ボウトル」と呼ばれた)。「牛乳」にそれを振るのは誤りではあるが、誤認としては判らんではない。「日本乳業協会」公式サイト内の八十四回「牛乳・乳製品から食と健康を考える会によれば、享保九(一七二四)年に、『当時の通訳であり蘭学者であった今村市兵衛英生が「和蘭問答(わらんもんどう)」を著しております。その中に西洋人の食事マナーについて説明した部分があり、「西洋人は食べながら手を洗います。そしてただひたすら食べるのではなく、同席者の顔を見たり』、『話をしながら食べるのです。出された物を全部食べてしまうのではなく』、『一盛り残すことがマナーです。パン(原文では「ハム」と表記)を食べます。これにバター(原文ではボウトル)を塗って食べます。」と記しています』とあり、また、小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」(享和三(一八〇三)年刊)には『「酪」の作り方や形状・食べ方が書かれていますが、江戸時代も後期になると「酪」は発酵乳のことではなく、バターとして使われています。この時代の「酪」は発酵乳なのかバターなのか牛乳なのか文献をしっかり読まなければ判別がつきにくくなっています』。『「「酪」は馬・羊及び馬の乳で作られて、その味は甘い。バター(原文ボウトル)と言う。その形は蝋のようで柔らかい。西洋人は蒸し餅に付けて食べる。悪臭がある。蒸餅は蒸饅頭の餡を抜いたものと言える。長崎ではパンと言っている。」と記しています』とある。良安の記述は正徳二(一七一二)年であるから、まんず、許し得る原料と加工品の名称の誤認と採ってよかろう。

「反胃〔(ほんい)〕」食べたものをすぐ吐いてしまうような状態或いはそうした慢性的症状を指す。

「噎膈〔(いつかく)〕」「膈噎」(かくいつ)が普通。「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病気を、「膈」は食物が少し下の胸の附近でつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。しかし、ここは進行したそれではあり得ないから、広義の咽喉や気道附近での「痞(つか)え」でよい。

「四物湯〔(しもつたう)〕」東洋文庫訳注では『当帰(とうき)(薬草の名)三、芍薬(しゃくやく)三、川芎(せんきゅう)(薬草の名)三、熱地黃(じおう)(多年生薬草)三、の割合で入れ、これを煎じてつくった薬湯』とする。「武田薬品」公式サイト内の「京都薬用植物園」の「四物湯(しもつとう)」に、『体力虚弱で、冷え症で皮膚が乾燥、色つやの悪い体質で胃腸障害のないものの、月経不順、更年期障害、貧血などに適用されます。本処方は顔色や皮膚につやがないなどの「血虚」という症状に用いる基本的な処方と言われています。血を補う作用は主に地黄と芍薬が担い、川芎や当帰には血のめぐりを良くする作用があります』とある。薬草の原材料はご自分でお調べあれ。ちょっと疲れました。

「牛の涎〔(よだれ)〕」考えてみると、何らかの消化酵素が期待出来るから、確かに薬効ありそうだなぁ。

「身を終るまで」生涯。そりゃ、言い過ぎでショウ!?!

「噎〔(いつ)〕」前で既注。

「牛膽〔(うしのきも)〕」「熱〔せる〕釜に塗れば、卽ち、鳴る【「淮南子」を見よ。】」釜鳴り成りの占術に用いるということか。しかし、「淮南子」にこの記載を見出せなかった。

「信實」「新六」「ことごとしことひの牛の角さきにきらある見るも恐ろしのよや」藤原信実(安元二(一一七六)年?~文永三(一二六六)年以降)の「新撰六帖題和歌集」(「新撰和歌六帖」とも呼ぶ。六巻。藤原家良(衣笠家良:いえよし。新三十六歌仙の一人)・為家(定家の子)・知家・信実・光俊の五人が、仁治四・寛元元(一二四三)年から翌年頃にかけて詠まれた和歌二千六百三十五首を収めた、類題和歌集。奇矯で特異な歌風を特徴とする)の「第二 人」の載る。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。

『「三才圖會」に云はく、『牛、病むときは、則ち、耳、燥〔(かは)〕く。安〔んずれば〕、則ち潤澤。善く、虎を角(つ)く。其の首を外に環〔(めぐ)ら〕して虎を觸(つ)く。猛(たけ)んと雖も、制すること、能はず』〔と〕』(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。図は前のコマ)。

『寗戚〔(ねいせき)〕が「相牛經〔(さうぎうけい)〕」』春秋時期の衛の出身で、後に斉の桓公に迎えられて宰相となった人物が書いたもので、以下を見るに、牛の良否や病気等について詳述した牛の古えのフリーキーな専門書であることが判る。こういうの、好き!

「鎊鼻〔(はうび)〕」「鎊」は「削る」の意であるから、尖った細い鼻の意であろう。

「一尺」春秋時代の一尺は二十二・五とちょっと短い。

「又、角を用ひて、煑〔(に)〕、軟(やはら)げ竪(た)つに、破〔り〕擴(ひろ)げ、徐(そろそろ)〔と〕踏み押(をさ)へ、窄(すぼ)まれば、則ち、再たび、煑、擴げ、板のごとくにし、櫛を挽き、黒き文〔(もん)〕を煑染(にそ)めて、琢(みが)きて、玳瑇(たいまい)に僞〔(いつは)〕る。油は蠟燭に作る。骨は厘等(れてぐ)の衡(さほ)に作る」この箇所、東洋文庫版訳には全くない。同訳書は凡例で、『異同のあるものでは、その都度』、『注記して異同を示した』とあるが、それも、ない。杜撰の極みである。なお、「玳瑇」は爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata から加工した鼈甲のことである。これは嘗て、妻のために三味線の撥をを買う時、業者から聴いたことがある。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 絕望

  

  
 
 

現(うつつ)こそ白(しら)けたれ、香油(にほひあぶら)の

艷(つや)も失(う)せ、物(もの)なへて呆(ほゝ)けて立てば、

夢(ゆめ)映(うつ)すわが心(こゝろ)、鏡(かがみ)に似(に)てし

性(さが)さへも、痴(うつ)けたる空虛(うつろ)に病(や)みぬ。

 

在(あ)るがまま、便(たづ)きなさ、在(あ)るを忍(しの)びて、

文(あや)もなし、曲(きよく)もなし、唯(ただ)あらはなり、

臥房(ふしど)なき人(ひと)の生(よ)や裸形(らぎやう)の「痛(いた)み」、

さあれ身(み)に惱(なや)みなし、淚(なみだ)も涸(か)れて。

 

追想(おもひで)よ、ここにして追想(おもひで)ならじ、

燈火(ともしび)の滅(き)えにたる過去(くわこ)の火盞(ほざら)と

煤(すゝ)びたり、そのかみの物(もの)はかなさを、

悅(よろこ)びを、などかまた照(て)らし出(い)づべき。

 

眼(ま)のあたり佗(わび)しげの徑(こみち)の壞(くづ)れ、

悲(かなし)みの雨(あま)そそぎ洗(あら)ひさらして、

土(つち)の膚(はだ)すさめるを、まひろき空(そら)は、

さりげなき無情(つれな)さに晴(は)れ渡(わた)りぬる。

 

狼尾草(ぢからしば)ここかしこ、光(いかり)射(い)かへす。

貝(かひ)の殼(から)、陶(すゑ)ものの小甁(をがめ)の碎(くだ)け――

あるは藍(あゐ)、あるは丹(に)に描(ゑが)ける花(はな)の

幾片(いくひら)は、朽(く)ちもせで、路(みち)のほとりに。

 

靈(たま)燻(く)ゆる海(うみ)の色(いろ)、宴(うたげ)のゑまひ、

皆(みな)ここに空(あだ)の名や、噫(あゝ)、望(のぞみ)なし、

匂(にほ)ひなし、この現(うつつ)われを囚(とら)へて、

日(ひ)は檻(をり)の外(そと)よりぞ酷(むご)くも臨(のぞ)む。

 

[やぶちゃん注:「艷(つや)も失(う)せ、物(もの)なへて呆(ほゝ)けて立てば、」「なへて」はママであるが、加工用データとして使用している「青空文庫」版は「なべて」とし(底本は昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」)、後の自選「有明詩抄」では改作版であるが、この行は、

   *

物なべて香(にほひ)呆(ほほ)けてあれば、

   *

とする。だいたい「なへて」は致命的におかしいことはすぐわかる。仮に歴史的仮名遣を誤った(有明の場合、非常に稀だが、他の詩篇で少数だが認められる)として、百歩譲って「なえる」(萎える:ヤ行下二段活用)だったとしよう。しかしそれもまた、おかしいからである。原詩の詩句はそもそもが「物」が「呆(ほゝ)けて」いると言っているのであって、それに「物」が「萎えて」いるというのでは、屋上屋で、しかも「萎え」た者対象が「立てば」、「立」とうはずがあるまい。さればこそ、ここは「なべて」の誤植であるということが確定するのである。但し、初版を読んだ読者が皆こうした脳内処理をして本詩篇を読んだとは到底思われないからして、そのまま示し、ここで、かく注した。

「狼尾草(ぢからしば)」「ぢ」はママ。前記「青空文庫」版は『ちからしば』で、後の自選「有明詩抄」では改作版であるが、この行は、

   *

妄執(もうしふ)の狼尾草(ちからしば)根を張る中(なか)に、

   *

とする。しかしながら、「力芝」(後述)を地方で「ぢからしば」と呼ばないと断定は出来ぬし(有明自身は東京生まれであるが、父忠蔵は佐賀県出身の官吏であった)、「ぢからしば」が殊更に異様で、読んでいて躓くものでもない。さればこそ、ここもそのまま示し、かく注した。単子葉植物綱イネ目イネ科チカラシバ属チカラシバ Pennisetum alopecuroides はよく見かける雑草で、私は好きだし、「ぢからしば」でも違和感は全くない。ウィキの「チカラシバによれば、『ブラシのような穂が特徴的で』、『地下茎はごく短く、大きな株を作る、根元から多数の葉を出す。葉は細長く、根元から立ち上がる。葉はやや丸まる』。『花茎は夏以降に出て、真っすぐに立つ。花軸は枝分かれせず、先端近くの軸に多数の針状の毛に包まれた小穂がつく。小穂は最初は軸から斜め上に向けて出るが、果実が熟するにつれて軸から大きい角度をもつようになり、つまり開出して、全体としてビン洗いのブラシや、試験管洗いのような姿になる。果実が熟してしまうと、果実は小穂の柄の部分から外れるので、あとには軸だけが残る』。『小穂は短い軸の先に一つだけつく。小穂の基部の軸から針状の毛が多数伸びる。小穂は披針形で長さ』七ミリメートル『ほど、二つの小花を含むが、一つ目は果実をつけず、雄花となることも多い』。『果実は先端の毛と共に外れ、これが引っ掛かりとなって』、『大型動物の毛皮に引っ掛かるようになっている。いわゆるひっつき虫で、毛糸などの目の粗い衣服によく引っ掛かる。果実の先端から潜り込むようにして引っ掛かることが多い』。『日本、朝鮮半島、中国からフィリピン、マレー半島からインドまで分布する。日本国内では北海道南西部以南のほとんど全土で見られる。また、オーストラリア、北アメリカに帰化している』。『普通は穂や小穂の毛に紫色の着色があり、全体に紫を帯びるが、これには変異がある。特に赤っぽいものをベニチカラシバPennisetum alopecuroides forma erythrochaetum』)、『着色せず穂が緑のものをアオチカラシバ(Pennisetum alopecuroides forma viridescens』)『として区別する場合もある』。『道端にはえる雑草で、大きな株になる。非常にしっかりした草で、引き抜くにも刈り取るにもやっかいである。和名の「力芝」も』、『ひきちぎるのに力がいることに由来する』。『役に立つ面は少ないが、子供のおもちゃになることがある。穂をちぎって手のひらの中に握り込んで、ゆるゆると握ったり開いたりすると、小穂の毛が斜め上に向いているから、次第に穂の下側の方へと進んで行くのが、毛虫のようでおもしろいと言う。また、これを穂の下側の方から、長ズボンの裾から送り込んでやると、引っ張り出すのが難しく、体が動くにつれて中へともぐりこんで行く。それを見て笑うのであるが、うっかりすると』、『パンツの中までももぐりこむので、結構痛い思いをする』。『欧米では園芸品種が作出されており、観賞用に屋外で栽培される』。『穂から多数の毛が伸びてブラシ状になるものとしては、他に』やはりお馴染みでやはり私の好きな『エノコログサ類』(イネ科キビ亜科キビ連エノコログサ属 Setaria:タイプ種エノコログサ Setaria viridis)『があるが、たいていは穂の先がたれる。また、他にも穂に多数の毛や芒を出すものはあるが、このようなブラシ状のものはあまりない』。『この属には世界の熱帯・亜熱帯を中心に約』百三十『種ほどがある。日本では本種以外には次の種が自生している』。シマチカラシバ Pennisetum sordidum:『チカラシバによく似ているが、葉が細く、穂が黄みを帯びる。また、道端などに出現することはなく、海岸近くの岩地に生じる。九州南部から南西諸島、小笠原諸島に分布する』。『このほか、帰化植物がいくつか知られ、』エダウチチカラシバPennisetum orientale:『高さが』一メートル『を越えることもある大型の草で、チカラシバに似るが、小穂が』二~四『個ほどまとまってつくこと、小穂の根元から出る毛に枝を生じることなどで区別できる。インドからアフリカにかけて産し、日本では関東地方でまれに発見される』。ナピアグラスPennisetum purpureum:表記上の揺れでは、『ネピアグラスと書かれることもある。エダウチチカラシバよりもさらに大きく、高さ』二メートル『近くにもなる。基部は横に這い、そこから真っすぐ立ち上がる姿はむしろ』ヨシ(イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis)『などのようにも見えるが、穂の形はチカラシバそっくりである。穂は黄色っぽくて、長さが』十五センチメートル『ほどにもなる。家畜飼料として持ち込まれ、野生化したもの』で『熱帯アフリカ原産』。『現在では世界の熱帯、亜熱帯域に広く帰化している』。『栽培植物としてはトウジンビエ』(チカラシバ属トウジンビエ Pennisetum glaucum)『がアフリカなどで穀物として古くから栽培されており、多くの品種が知られている』とある。なお、「狼尾草」は穂のミミクリーで本種の漢名である。

「便(たづ)きなさ、」底本は「便(たづ)きなき、」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「ゑまひ」「笑まひ」。微笑(ほほえみ)。]

2019/02/17

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 不安

 

  不 安

 

人(ひと)は今(いま)地(ち)に俯(ふ)してためらひゆけり、

疎(うと)ましや、頸垂(うなだ)るる影(かげ)を、軟風(なよかぜ)

搔撫(かいな)づるひと吹(ふき)に、桑(くは)の葉(は)おもふ

蠶(かいこ)かと、人(ひと)は皆(みな)頭(かうべ)もたげぬ。

 

何處(いづこ)より風(かぜ)は落(お)つ、身(み)も戰(おのゝ)かれ、

我(われ)しらず面(おも)かへし空(そら)を仰(あふ)げば、

常(つね)に飢(う)ゑ、饜(あ)きがたき心(こゝろ)の惱(なや)み、

物(もの)の慾(よく)、重(おも)たげにひきまとひぬる。

 

地(ち)は荒(あ)れて、見(み)よ、ここに「饑饉(ききん)」の足穗(たりほ)、

うつぶせる「人(ひと)」を誰(た)が利鎌(とがま)の富(とみ)と

世(よ)の秋(あき)に刈(か)り入(い)るる、噫(ああ)、さもあれや、

畏(おそ)るるはそれならで天(あめ)のおとづれ。

 

たまさかに仰(あふ)ぎ見(み)る空(そら)の光(ひかり)の

樂(がく)の海(うみ)、浮(うか)ぶ日(ひ)の影(かげ)のまばゆさ、

戰(おのゝ)ける身はかくて信(しん)なき瞳(ひとみ)

射(い)ぬかれて、更(さら)にまた憧(あくが)れまどふ。

 

何處(いづこ)へか吹(ふ)きわたり去(い)にける風(かぜ)ぞ、

人(ひと)は皆(みな)いぶせくも面(おもて)を伏(ふ)せて、

盲(めし)ひたる魚(うを)かとぞ喘(あへ)げる中(なか)を

安(やす)からぬわが思(おもひ)、思(おもひ)を食(は)みぬ。

 

失(うしな)ひし翼(つばさ)をば何處(いづく)に得(う)べき、

あくがるる甲斐(かひ)もなきこの世(よ)のさだめ、

わが靈(たま)は痛(いた)ましき夢(ゆめ)になぐさむ、

わが靈(たま)は、あな、朽(く)つる肉(しゝむら)の香(か)に。

 

[やぶちゃん注:「蠶(かいこ)」及び「戰(おのゝ)かれ」と「戰(おのゝ)ける」のルビは孰れもママ。

 第一連の後半はやや判り難いが、「軟風(なよかぜ)」が「搔撫(かいな)づるひと吹(ふき)に」→「人(ひと)は皆(みな)頭(かうべ)もたげ」、それは「桑(くは)の葉(は)おもふ」「蠶(かいこ)」のようではない「かと」思う、という比喩である。後の「有明詩抄」では、この一連目を次のように改変している。

   *

人は今地(ち)に俯(ふ)してためらひ行けり。

鈍(おぞ)ましや、そよと吹く風の一吹(ひとふき)、

それにだに怯(おび)えつる蠶(かひこ)の如く、

人はひとむきに頭(かしら)擡(もた)げぬ。

   *

達意の表現になっていて意味としては腑に落ちるものの、シンボリックな自在に振り回すようなカメラ・ワークが、凡庸な定点カメラのリアリズムに変質してしまい、人(=「我」)の心の電気ショックのように感じ怯える感覚が、全く伝わって来ない。この一連だけでも全体が散文的にしか感知できなくなって瘦せ細っていることがお判り戴けるものと思う。これが有明の致命的な改悪癖の実態である。

 第三連は全体に意味がとり難いのであるが、要は、本詩篇が純粋に詩人の落魄(おちぶ)れた魂の心象風景であると割り切って見渡せば、腑に落ちる。そのために有明は「饑饉(ききん)」(=詩人独りの絶対の心の飢え)と「人(ひと)」(=孤独な詩人である自分)に鍵括弧を附したのである。「誰(た)が地(ち)は」誰のものでもない自分一人の孤独な「心」という土地の「荒」蕪であり、「饑饉」なのである。そうしたイマージュの中なれば、「飢饉」の畑に「足穗(たりほ)」が垂れていてよい。しかしその稲穂には実など一かけらもないのではないか――私の空ろな心のように――そんなにまで打ちひしがれて「うつぶせる」「人(ひと)」である惨めな「我」「を誰(た)」れが「利鎌(とがま)の富(とみ)と」呼ぶというのか? 私の精神の土地は不毛なのだ、「世(よ)の秋(あき)に刈(か)り入(い)るる」秋の稔りだって?! 「噫(ああ)、さもあれや」、それはそれ、私の心の土地の〈絶対の飢え〉とは無縁のことだ。そうさな、農夫の「畏(おそ)るる」の「は」、「それ」(魂の枯渇)ではなくて「天(あめ)のおとづれ」、二百十日の大雨と嵐の来襲か。私の心にもそれは来る、いや、もう来ている、と詩人は言うのではないか? だからこそ「わが靈(たま)は、あな、朽(く)つる肉(しゝむら)の香(か)に。」とコーダするのではないかと私は読む。大方の御叱正を俟つものではある。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 坂路

 

   坂 路

 

喘(あへ)ぎて上(のぼ)るなだら坂(ざか)――わが世(よ)の坂(さか)の中路(なかみち)や、

並樹(なみき)の落葉(おちば)熱(あつ)き日(ひ)に燒(や)けて乾(かは)きて、時(とき)ならで

痛(いた)み衰(おとろ)へ、たゆらかに梢(こずゑ)離(はな)れて散(ち)り敷(し)きぬ。

 

落葉(おちば)を見(み)れば、片焦(かたこ)げて鏽(さ)び赤(あか)らめるその面(おもて)、

端(はし)に殘(のこ)れる綠(みどり)にも蟲(むし)づき病(や)める瘡(きず)の痕(あと)、

黑斑(くろふ)歪(ひず)みて慘(いた)ましく鮮明(あざやか)にこそ捺(お)されたれ。

 

また折々(をりをり)は風(かぜ)の呼息(いき)、吹くとしもなく辻卷(つぢま)きて、

燒(や)け爛(たゞ)れたる路(みち)の砂(すな)、惱(なやみ)の骸(から)の葉(は)とともに、

燃(も)ゆる死滅(しめつ)の灰(はい)を揚(あ)ぐ、噫(あゝ)、わりなげの悲苦(ひく)の遊戲(ゆげ)。

 

一群每(ひとむらごと)に埃(ほこり)がち憩(いこ)ふに堪(た)へぬ惡草(あくさう)は

渴(かはき)をとめぬ鹽海(しほうみ)の水(みづ)にも似(に)たり。ひとむきに

心(こゝろ)焦(い)られて上(のぼ)りゆく路(みち)はなだらに盡(つ)きもせず。

 

夢(ゆめ)の萎(しな)への逸樂(いつらく)は、今(いま)、貴人(あてびと)の車(くるま)にぞ

搖(ゆ)られながらに眠(ねぶ)りゆく、その車(くるま)なる紋章(もんしやう)は

倦(うん)じ眩(くる)めくわが眼(め)にも由緖(よし)ありげなる謎(なぞ)の花(はな)。

 

身(み)も魂(たましひ)も頽(くづ)をれぬ、いでこのままに常闇(とこやみ)の

餌食(ゑじき)とならばなかなかに心安(こゝろやす)かるこの日(ひ)かな、

惱(なやみ)盡(つ)きせぬなだら坂(ざか)、路(みち)こそあらめ涯(はて)もなし。

 

2019/02/16

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 朱のまだら

 

 朱のまだら

 

日射(ひざ)しの

綠(みどり)ぞここちよき。

あかしや

並(な)みたつ樹蔭路(こかげみち)。

 

よろこび

あふるる、それか、君(きみ)

彼方(かなた)を、

虛空(こくう)を夏(なつ)の雲(くも)。

 

あかしや

枝(えだ)さすひまびまを

まろがり

耀(かがや)く雲(くも)の色(いろ)。

 

君(きみ)、われ、

二人(ふたり)が樹蔭路(こかげみち)、

綠(みどり)の

匂(にほ)ひぞここちよき。

 

軟風(なよかぜ)

あふぎて、あかしやの

葉(は)は皆(みな)

たゆげに飜(ひるがへ)り、

 

さゆらぐ

日影(ひかげ)の朱(しゆ)の斑(まだら)、

ふとこそ

みだるれわが思(おもひ)。

 

君(きみ)はも

白帆(しらほ)の澪入(みをい)りや、

わが身(み)に

あだなる戀(こひ)の杙(かし)。

 

軟風(なよかぜ)

あふぎて澪(みを)逸(そ)れぬ、

いづくへ

君(きみ)ゆく、あな、うたて。

 

思(おも)ひに

みだるる時(とき)の間(ま)を

夏雲(なつぐも)

重(おも)げに崩(くづ)れぬる

 

綠(みどり)か、

朱(しゆ)か、君(きみ)、あかしやの

樹(こ)かげに

あやしき胸(むね)の汚染(しみ)。

 

[やぶちゃん注:初出は『月刊スケッチ』明治三八(一九〇五)年八月号で、中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、本詩集「有明集」『所収の作品では、最初期のものに属する』とある。その解説では、先行する詩集「春鳥集」(明治三十八年七月本郷書院刊)の自序から以下を引く(恣意的に漢字を正字化した)。『時としては諸官能倦じ眠りて、ひとり千を癈墟に埋もれし古銅のごときを覺ゆることあり。あるいは〈朱を看て碧と成し〉て美を識(し)ることあり』。また、後の「有明詩集」大正一一(一九二二)年アルス刊)の自注の以下も引く。『アカシヤという植物を全く誰も注意しないが、なかなか好い風情のものである。明治何年ごろのことか、ゴムの木と違って、はじめて東京に輸入されてから、よく見附内などにごたごたと植えられてあった。それが何時(いつ)の間にか引き抜かれてしまった』。解説では最後に、比較文学者・英米文学者で北原白秋門下でもあった『島田謹二は白秋の詩篇「片恋」』の論考『の中で、東京の詩人有明がいち早くアカシヤを歌ったことが、木下杢太郎や白秋たちに、都会美の象徴としてこの木を採り上げさせるきっかけとなった、という(『近代比較文学』)』ともあった。

「あかしや」底本は実は第一連三行目は「あやしや」であるが、底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説によれば、本底本には『致命的な誤植』が実に『二十三ケ所に亙ってみとめられるが、幸い解説者が有明から直接に示されていた正誤表がある』とされた上、その正誤一覧表が掲げられている。詩篇の鑑賞を妨げるもので、しかも詩人自身が作成した正誤表であるからして、向後は、これに載るものは本文を訂して示すこととする。マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia に属するアカシア類。ウィキの「アカシアでは、『日本では関東以北では栽培が困難であるものが多い。比較的温暖な所で栽培されるもの』として七種を挙げているのでそちらを見られたい。

「並(な)みたつ」底本は「並(な)みたち」。同前正誤表により特異的に訂した。


「匂(にほ)ひぞここちよき。」底本は「
匂(にほ)ひここちよき。」。同前正誤表によって特異的に訂した。

「白帆(しらほ)の澪入(みをい)りや、」では「澪」(河川や海で船が航行する水路・航路)に入るの意の熟語として採り、かく読みを附したが、次の連の「あふぎて澪(みを)逸(そ)れぬ、」では、二行後の「君(きみ)ゆく、あな、うたて。」の韻律と対になっており、熟語ではないので、かく分けて読みを振った。

「あだなる戀(こひ)の杙(かし)」「杙(かし)」は杭・株(くひぜ(くいぜ))で、前の「澪入り」に河川の棒杭を擬えた縁語。杭から舫いを解いて澪入りしてしまった舟(「君」)は「杙」は見ても浅瀬の制水域なればこそ、近づいては来ぬ。それは結局、舟とは、最早、「あだなる」(徒なる)もの、儚く直接的には無縁なものとなっているのである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(21) 「川牛」(1)

 

《原文》

川牛   淵ハ兎ニ角ニ怖シキ處ナリ。アノ紺靑ノ水ノ底ニハ動物學ノ光モ未ダ透徹シ得ザルガ如ク、此外ニモ非常ナル物之ニ住ムト云ヘリ。【犀】例ヘバ信濃ノ犀川ニハ犀ト云フ獸住ム。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ゴフクジ)ノ古傳ニハ、此邊古クハ水湛ヘテ大ナル湖ナリシニ、神人犀ニ乘リテ下降シ、巖石ヲ切開キテ今ノ流ト爲シタリト云ヒ〔日本宗教風俗志〕、【蹴裂】或ハ又泉小太郞犀ニ乘リテ三淸路(サンセイヂ)ノ岩ヲ突破リ、又水内橋(ミノチバシ)ノ下ノ岩ヲモ蹴破リテ水ヲ千曲川ニ落シテ平地ヲ造ル。其犀ヲバ犀口ト云フ處ニ祀ルトモ語リ傳ヘタリ〔信濃奇勝錄〕。近江ニテハ今ノ愛知郡葉枝見(ハエミ)村大字新海ノ川尻ニ、昔ハ深キ淵アリテ犀龍住メリ。弘安中黑井覺海ナル者此地ニ來リテ件ノ犀龍ヲ亡シ、淵ヲ埋メテ田地ト爲シ新開村ト號シ、己モ新開氏ヲ稱セリ。【道ノ神】同ジク東淺井郡虎姫(トラゴゼ)村大字大寺、正八幡ノ境内ニ昔ヨリ犀ケ窪ト云フ處アリ。今ハ田地ノ字トナル。曾テハ此地大ナル淵ニシテ老犀住ミテ往來ノ人ヲ惱マス。淺井備前守ノ家士ニ入海彦之庄司ト云フ者、彼ノ犀ヲ捕ヘテ既ニ之ヲ殺サントス。犀誓ヒテ此地ヲ去ルトアレバ、此亦謝罪ヲ以テ助命ヲ得タルナルべシ。彦根町長光寺裏ノ外濠ヲ犀ケ淵ト云フ。【盡キヌ泉】水湧キ出デ大旱ニモユルコトナシ。北靑柳村大字長曾根等ノ堰水ト爲ス〔以上淡海木間攫〕。遠江濱松ノ北方ニモ、犀ト云フ獸ノ出デタルニ困ツテ犀ケ崖ト呼ブ處アリ。三方原南端ノ壁ニシテ樹木ニ隱レテ下ヲ流ルヽ水アリ。元龜ノ有名ナル古戰場ナリ〔遠江風土記傳〕。東京ニテハ早稻田ノ西北ニ亦一箇ノ犀ケ淵アリテ、現ニ百年バカリ前マデ、時々「サイ」ノ出現セシコトアリ。高田ノ面影橋ノーツ上流ニシテ但馬橋ノ下ナリ〔十方菴遊歷雜記三編中〕。今ハ附近ニ下宿屋ナド出來タレド、ツイ先頃マデハ物凄キ魔所ナリキ。薄暮ニ水中ヨリ半身ヲ顯ハスヲ遠ク望ミ見タル者アリト稱シ、或ハ幅三間バカリノ小川ナレバ獸トシテハ調子ガ合ハヌヨリ、「サイ」ト稱スル惡魚ナドトモ記載シタル者アリ。日本ニハ犀ハ居ラヌ筈ナリ。【水牛】犀ハ山野ニ住ム獸ナレドモ、別ニ水犀ト稱シテ三本ノ角アル者ハ水牛ニ似タリト支那ノ書ニ見ユル由、朝鮮ニテハ犀ヲ誤ツテ水牛ノコトヽ解スル者アリト云ヘリ〔雅言覺非三〕。日本ニテモ或ハ亦此誤訓ヲ傳ヘタルモノカ。但シ臺灣ノ外ニハ今ハ犀ト誤ルべキ水牛モ存在セザレバヨホド不思議ナリ。【道祖土】蓋シ「サヘ」又ハ「サヘト」ハ、往古境ノ神ヲ祭リシ畏ロシキ場處ノコトナレバ、或ハ此ガ爲ニ「サイ」ト云フ怖ルべキ一物ヲ作リ出シ、之ヲ處々ノ碧潭ニ住マシムルニ至リシヤモ亦測ルべカラズ。

 

《訓読》

川牛(かはうし)   淵は兎に角に怖しき處なり。あの紺靑(こんじやう)の水の底には動物學の光も未だ透徹(とうてつ)し得ざるがごとく、此の外にも非常なる物、之(ここ)に住む、と云へり。【犀】例へば、信濃の犀川には「犀」と云ふ獸(けもの)、住む。東筑摩郡片丘村牛伏寺(ごふくじ)の古傳には、此の邊り、古くは水湛(たた)へて大なる湖なりしに、神人(しんじん)、犀に乘りて下降(げかう)し、巖石を切り開きて、今の流れと爲したりと云ひ〔「日本宗教風俗志」〕、【蹴裂】或いは又、泉小太郞、犀に乘りて三淸路(さんせいぢ)の岩を突き破り、又、水内橋(みのちばし)の下の岩をも蹴破りて、水を千曲川に落して、平地を造る。其の犀をば犀口と云ふ處に祀るとも語り傳へたり〔「信濃奇勝錄」〕。近江にては、今の愛知(えち)郡葉枝見(はえみ)村大字新海(しんがい)の川尻に、昔は深き淵ありて、「犀龍」、住めり。弘安中[やぶちゃん注:一二七八年~一二八七年。]、黑井覺海なる者、此の地に來りて件(くだん)の犀龍を亡ぼし、淵を埋(うづ)めて田地と爲し、新開村と號し、己(おのれ)も新開氏を稱せり。【道の神】同じく東淺井(ひがしあざい)郡虎姫(とらごぜ)村大字大寺、正八幡(しやうはちまん)の境内に昔より犀ケ窪(さいがくぼ)と云ふ處あり。今は田地の字(あざ)となる。曾つては此の地、大なる淵にして、「老犀」住みて、往來の人を惱ます。淺井(あざい)備前守の家士に入海彦之庄司と云ふ者、彼(か)の犀を捕へて、既に、之れを殺さんとす。犀、誓ひて、「此の地を去る」とあれば、此れ亦、謝罪を以つて助命を得たるなるべし。彦根町長光寺裏の外濠(そとぼり)を犀ケ淵(さいがふち)と云ふ。【盡きぬ泉】水、湧き出いで、大旱(おほひでり)にもゆることなし。北靑柳村大字長曾根等の堰水(せきみづ)[やぶちゃん注:人為的に水を堰き止めて灌漑用の水とすること。]と爲す〔以上、「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。遠江濱松の北方にも、「犀」と云ふ獸の出でたるに困つて犀ケ崖(さいががけ)と呼ぶ處あり。三方原(みかたはら)南端の壁にして樹木に隱れて下を流るゝ水あり。元龜[やぶちゃん注:一五七〇年~一五七三年。]の有名なる古戰場なり〔「遠江風土記傳」〕。東京にては、早稻田の西北に亦、一箇の犀ケ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々、「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋のーつ上流にして、但馬橋の下なり〔「十方菴遊歷雜記」三編中〕。今は附近に下宿屋など出來たれど、つい先頃までは、物凄き魔所なりき。薄暮に、水中より半身を顯はすを、遠く望み見たる者ありと稱し、或いは、幅三間[やぶちゃん注:約五メートル四十五センチメートル。]ばかりの小川なれば、獸としては調子が合はぬより、「サイ」と稱する惡魚などとも記載したる者あり。日本には犀は居らぬ筈なり。【水牛】犀は山野に住む獸なれども、別に「水犀(すいさい)」と稱して、三本の角ある者は水牛に似たりと、支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀を誤つて水牛のことゝ解する者ありと云へり〔「雅言覺非」三〕。日本にても、或いは亦、此の誤訓を傳へたるものか。但し、臺灣の外には、今は犀と誤るべき水牛も存在せざれば、よほど不思議なり。【道祖土(だうそど)】蓋し、「さへ」又は「さへと」は、往古、境(さかひ)の神を祭りし畏ろしき場處のことなれば、或いは此れが爲に「サイ」と云ふ怖るべき一物(いちもつ)を作り出し、之れを處々の碧潭(へきたん)に住ましむるに至りしやも、亦、測るべからず。

[やぶちゃん注:「信濃の犀川」長野県内を流れる信濃川水系の一級河川。これ(グーグル・マップ・データ)。一般に、松本市島内で奈良井川と合流して以降の、下流部から長野市での千曲川との合流部までを指し、上流部(上高地に至る)は「梓川(あずさがわ)」と呼ばれる。

『「犀」と云ふ獸(けもの)』残念ながら、具体的な形状を記したものが殆んど見当たらない。引用元の「日本宗教風俗志」(加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年:仏教学者で作家)著で明三五(一九〇二)年森江書店刊)の当該部は(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。ここの関連叙述や寺の由来(次注参照)からは牛に似ている妖獣という感じは臭ってはくるが、以下の説話では、俄然、龍である

「東筑摩郡片丘村牛伏寺(ごふくじ)」現在の松本市大字内田のに現存(グーグル・マップ・データ)する。真言宗の古刹で、金峯山(きんぽうさん)牛伏寺(ごふくじ:「うしぶせ寺」とも呼ぶ)。同寺公式サイトのこちらによれば、『信州松本の南東、鉢伏山の中腹、海抜千メートルの幽谷の地に位置し』、『寺号は、その昔、本尊十一面観世音菩薩の霊力により経典を積んだ二頭の牛が、この地で同時に倒れたことに由来』するとある。以下、「牛伏寺縁起物語」より引く。『寺伝によると、天平勝宝七』(七五六)年、『唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納経の途中、経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が、この地で同時に斃れ、その使者たちが本尊十一面観世音菩薩の霊力を知り、その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京し』たと伝え、『この不思議な因縁により』、『寺号を牛伏寺と改め、参道途中の牛堂に阿弥陀仏を中心に、赤黒二頭の牛像を』祀るとする。『古来より』、『牛伏厄除観音と称し、厄除霊場として県内外に知られ、また、信濃三十三番中第二十七番札所となっており、法燈壱千三百年を今日に継承』しているとある。一方、ウィキの「牛伏寺には別に、『寺伝では聖徳太子が』四十二『歳の時』、『自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという』とあり、また、『以上はあくまでも伝承であって、牛伏寺創建の時期や事情については確たる史料がなく、鎌倉時代以前の沿革は定かでない。牛伏寺が位置する鉢伏山の山頂には』、『牛伏権現と称して蔵王権現を祀っており、元来、山岳修行、修験道の山だったと思われる。寺はもとは裏山に位置し、現在地に移ったのは』天文三(一五三四)年のことと記す。公式サイトがそれや、以下の「此の邊り、古くは水湛(たた)へて大なる湖なりしに、神人(しんじん)』(不詳。但し、次注に引用する童話との親和性が強い)、『犀に乘りて下降(げかう)し、巖石を切り開きて、今の流れと爲したり」という伝承を記さないのは、やや不審ではある。現在の犀川からは南東に十二キロメートル近く離れているが、その伝承に拠るなら、その間に大きな湖(次注の童話引用も参照のこと)があったとなら、頷けることは頷ける。しかし、加藤咄堂の叙述には誤魔化があり、ここは犀川(その上流の梓川)から東へ分岐した奈良井川及び田川の上流から東へずれた位置で、彼の犀川の上流にこの牛伏寺があるというのは、地理的に正しくない。

「泉小太郞、犀に乘りて三淸路(さんせいぢ)の岩を突き破り、又、水内橋(みのちばし)の下の岩をも蹴破りて、水を千曲川に落して、平地を造る。其の犀をば犀口と云ふ處に祀る」こちらの『伝説「犀龍と泉小太郎」のあらすじ』によれば、『昔、安曇野から松本平にかけては、まんまんと水をたたえた湖であった。そこの主の犀龍と山向こうの池の白龍王との間に生まれた日光泉小太郎は、湖のほとりに住む老夫婦に人間の子として育てられた。小太郎は、湖の水をなくして豊かな郷土をつくりたいと願っていた。その後、ここ、ダムの地尾入沢で再び逢った親子は心が通じ合い、犀龍は背中に小太郎を乗せ、山清路の岩盤を打ち破って湖の水を日本海へ落とし、この地を豊かな平野にした。小太郎は年老いてこの平が一望できる仏崎の洞穴へかくれ、今も里人をあたたかく見守っているということです』とある。同リンク先には詳しい童話がこちらから四回に渡って記されてあるので読まれたいが、そこには、大きな湖について、『安曇平(あずみだいら)は、高い山から落ちる水がたくさん集まって、まるで海のような、大きな大きな湖で』、『北は佐野坂(さのさか)から、南は塩尻(しおじり)まで、十何里』もある巨大なものであったとあり、そこに『犀竜(さいりゅう)という主の女神様が、水の底深くに住んでいました』とし、『また、はるか高井(たかい)のむこうの高梨(たかなし)の池には、白竜王(はくりゅうおう)という、同じように竜の姿をして、口に立派なひげをはやした神様が住んでいました』。『この二人の神様が雲を呼んで行ったり来たりしているうちに、いつしか一人の男の子をもうけました』。『男の子は、きれいな泉のほとりで生まれたので、泉の小太郎(こたろう)と名付けられ、ぜひ人間の子として育てたいという白竜王の願いで、放光寺山(ほうこうじさん)に住む正直者のおじいさんとおばあさんにあずけられました』とあって、犀龍とは龍の姿をした女神であるとする。そのコーダ部分では、『自分を育ててくれた大切なおじいさんとおばあさんをなくしてしまった小太郎』『の悲しみを知った犀竜』『は、自分勝手な考えで、ひどいことをしてしまった』(彼らの糧であった魚を獲れなくしてしまったことが前に記される)『私をゆるしておくれとわびると、「お前はやっぱり人間の子。おじいさんの言いつけどおり世のため、人のために生きておくれ。わたしも力になります」と、小太郎を自分の背に乗せて、天高く舞い上がりました』。『そして、湖をつっきり、屏風のような山清路(さんせいじ)』(本文と表記違い)『の巨岩をぶちやぶり、白竜王(はくりゅうおう)と一緒に次々と山をくずし、越後(えちご)のむこうまで川道を作りました。湖の水は、海にむかってながれこみ、ついに底があらわれ、ここに広い安曇平(あずみだいら)が生まれました』。『湖がなくなり、すむ場所がなくなった犀竜(さいりゅう)と白竜(はくりゅう)は、残った力をみんな小太郎(こたろう)にさずけ、「わたしたちはいつまでもお前とこの土地の人々を守っていますよ」と言い残し、松本平(まつもとだいら)をひとめで見わたせる仏崎(ほとけざき)の岩穴に姿を消してしまいました』。『山をもくずす力をもらった小太郎(こたろう)は、有明山(ありあけやま)のふもとに家をつくり、湖の底を平らにならして、田んぼをつくりました。それ以来、安曇野(あずみの)の里ではたくさんのお米がとれるようになり、村人は犀竜と小太郎(こたろう)のおかげで豊かな土地になったことを喜び、小太郎(こたろう)もいつまでも幸せにくらしました』という豊饒起源説話となっている優れた伝承である。是非、全篇を読まれたい。因みに、もうお分かりであろうが、松谷みよ子の昭和三五(一九六〇)年作の「龍の子太郎(たつのこたろう)」は、この信州・上田に伝わる民話「小泉小太郎」と安曇野に伝わる民話「泉小太郎」を中心に、秋田の民話など日本各地に伝わる民話を組み合わせて再話したものである(ウィキの「龍の子太郎」を参照されたい)。

「信濃奇勝錄」(井出道貞・井出通(とおる)著。明二〇(一八八七)年刊)の当該箇所はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「愛知(えち)郡葉枝見(はえみ)村大字新海(しんがい)」現在の滋賀県彦根市新海浜(しんがいはま)(グーグル・マップ・データ)。「新海浜自治会」公式サイト内のこちらの「新海<しんがい>の名前の由来」によれば、『愛知川(えちがわ)の川口右岸にあり、西は琵琶湖に面した平たんな地。集落は浜堤上にある。新開村とも書く。村名は、新たに開いた村という意味。愛知川の河尻に深淵があって竜が住んでいた。弘安年中、黒井氏覚懐』(本文と表記違い)『という人物がこの竜を滅ぼし淵を埋めて田地を開き、新開村と名付け、また自らも新開氏と称したという地名伝説があ』るとある。

「新開氏を稱せり」但し、サイト「戦国大名探究」の「新開氏」によれば、『新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し』、『開発領主になったのは、平安末期のころと思われる』とある。

「東淺井(ひがしあざい)郡虎姫(とらごぜ)村大字大寺、正八幡」現在の滋賀県長浜市五村(ごそん)附近がこの地名に当たる(グーグル・マップ・データ。以下、同じ。「虎姫」はJR西日本北陸本線の駅「虎姫駅(とらひめえき)」として滋賀県長浜市大寺町細田に残る)が、この周辺には「八幡神社」を呼称する現存神社が多数あり、限定比定は難しい。「境内に昔より犀ケ窪と云ふ處あり。今は田地の字(あざ)となる」というのがヒントであるが、ネットでは網に掛かってこない。現地の郷土史研究家の御教授を切に乞うものである。

「淺井(あざい)備前守」かの北近江の戦国武将浅井長政(天文一四(一五四五)年~天正元(一五七三)年)。

「入海彦之庄司」読みさえも不詳。ネット検索にも掛からないのでお手上げ。「入海」姓は「いるみ」・「にゅうかい」・「いりうみ」等の読み方がある。柳田はルビを振っていないし、「ちくま文庫」版全集も振らないから、取り敢えず、「いりうみのひこのしょうじ」(現代仮名遣)と読んでおく。

「彦根町長光寺裏」現在の滋賀県彦根市錦町にある真言宗薬王山長光寺。伊賀忍者所縁の寺で、開山は能賢。井伊家老臣で駿河武士の名門の出であった三浦與右衛門元貞の勧めにより、元和二(一六一六)年十月に薬師如来を奉じて、二間口七間の薬師堂を建立したのを創建とする。フェイスブックの「薬王山長光寺」の公式ページによれば(当然ながら、リンク先は Facebook に入っていないと見られない)、『二世玄英の時、薬師堂が善利川の洪水で大破したため、寛永三年に二代城主井伊直孝の命により、元彦根山上の觀音堂を移し、薬師堂を改築、四世玄雄の時、寺を医王寺と改め、六世玄廣に至り、長光寺と改稱し』たとある。『三浦與右衛門元貞(彦根藩老臣三浦内膳家先祖)は、徳川家康の戦忍びとして、伊賀組(伊賀十人組、伊賀忍者隊)の元締めとなり』、『戦場を駆け抜けた忍術上手として知られており、最後は井伊家で』三千五百『石の知行を得て』おり、『元貞は、井伊家の初代直政がたいへん可愛がった重臣で』、もとは『与三郎元貞と』称して、『今川義元に仕えてい』た『が、義元が桶狭間の一戦で織田信長に敗れてのち、徳川家康に召し抱えられ』たとある。天正一〇(一五八二)年、『家康は、配下に掌握した伊賀衆の内、井伊直政付属分と足軽』二十『人組の支配を元貞に命じ』、翌天正十一年十一月には、『甲州若子原の戦功が認められ、家康は元貞を井伊直政に与え』『た。以降、元貞は身命を惜しまずに直政に忠勤を励み、長久手、小田原、九戸、関ケ原、大阪夏の陣に参戦して活躍し』たとある。忍者所縁の寺なればこそ、「外濠(そとぼり)」があるのが腑に落ちたと思ったら、地図を拡大して見ると、境内の西北と東北部分に水路が現存することが判り、更に、境内の南西の外の直近に彦根城土塁跡なるものがあるので、これは彦根城自体の外堀であったのであろう

「北靑柳村大字長曾根等」現在の琵琶湖東岸にある滋賀県彦根市長曽根町。長光寺の南西一キロメートル強の位置にある。

『遠江濱松の北方にも、「犀」と云ふ獸の出でたるに困つて犀ケ崖と呼ぶ處あり。三方原(みかたはら)南端の壁にして樹木に隱れて下を流るゝ水あり。元龜の有名なる古戰場なり』最後の部分は「三方ヶ原の戦い」を指す。「浜松市」公式サイト内のこちらに、『犀ヶ崖は浜松城の北側およそ』一キロメートルの位置『にある断崖。三方ヶ原古戦場として』昭和一四(一九三九)年『に、静岡県の史跡に指定されて』おり、『現在は長さおよそ』百十六メートル、『幅およそ』二十九〜三十四メートル、『深さおよそ』十三メートルとある。但し、「三方ヶ原の戦い」当時のスケールは、『はっきり』とは『分か』らないとする。元亀三年十二月二十二日(一五七三年二月四日)の「三方ヶ原の戦い」で『武田信玄に大敗した徳川家康は命からがら浜松城に逃げ込』んだが、『家康は、攻め返すように見せかけて、なんとか武田軍の城攻めを免れ』た。『その夜、家康はどうにか一矢を報いようと犀ヶ崖近くで野営する武田軍を急襲』、『地理に詳しくない武田軍は混乱し、崖に転落して多くの死者を出したという物語として知られてい』るという。また、『遠州大念仏はこの戦没者の供養のためとされてい』るともある。

『東京にては、早稻田の西北に亦、一箇の犀ケ淵ありて、現に百年ばかり前まで、時々、「サイ」の出現せしことあり。高田の面影橋のーつ上流にして、但馬橋の下なり〔「十方菴遊歷雜記」三編中〕』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで発見した。「十方庵遊歴雑記三編」(十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん 宝暦一二(一七六二)年~天保三(一八三二)年:小日向水道端(現在の文京区小日向一丁目)のる浄土真宗本法寺の地中にある廓然寺の四代目住職。本書は隠居後の約十八年間を費やして廻った江戸市中や東海方面の紀行文。全五編)の卷の中」の第「六拾四」の「拾遺高田の十景」の三条目で、なかなか興味深い。何故なら、ここではその『もの凄』き『惡魚』の様態がつぶさに語られているからである。目撃したのは神田川のこの橋附近に釣に来た楽山翁なる人物とその家族で、日時は文化一一(一八一四)年の夏であった(読点・記号を追加し、読みは私が勝手に振った(カタカナのそれは原本のルビ)。踊り字「〲」は「々」に代えた。必ず、原本を確認されたい)。

   *

一、 「犀が淵の月光」といふは、田島橋の下にして、此淵に惡魚住(すみ)て、今も猶(なほ)もの凄し、左(さ)はいへ、逆流(ぎやくりふ)[やぶちゃん注:「げきりふ」と読んで「激流」の意ではあるまいかと疑ったが、或いは、蛇行する川を「逆流」ととったものかも知れぬ。当時の神田川がこの辺りで蛇行していたことは後の注と引用を参照されたい。]に目明(めあきらか)の胗朧[やぶちゃん注:これは恐らく「朎朧(れいろう)」の誤りであろう。月の光で明るく照らされること。]たる風色、又、一品たり、去(いに)し文化十一年甲戌(きのえいぬ)の夏、楽山翁は、家族六、七輩を同道し、此(この)川筋に釣せんとして不圖(ふと)爰(ここ)に來(きた)り、川端に彳(たたずみ)して逆流の一際(ひときは)すさまじく渦(うづ)まくよ、と見えしが、忽然として、水中より、怪獸、あらはれたり、その容體、年經し古猫(ふるねこ)に似て、大(おほき)さ、犬に等しく、惣身(そうみ)白毛(しろげ)の中に赤き處ありて、班に[やぶちゃん注:「斑(はだら)に」(まだらに)の誤記か?]、兩眼、大きく、尤(もつとも)丸(まる)し、口、大きなる事、耳と思ふあたりまで裂(さけ)、口をひらき、紅(うれなゐ)の舌を出(いだ)し、兩手を頭上へかざし、怒氣、顏面にあらはれ、人々に向ひて白眼(ニラミ)し樣なり。水中と間と、隔(へだつ)といへども、その間、纔(わづか)、三間[やぶちゃん注:約五メートル四十五センチメートル。]餘(あまり)、頭上、毛髮永く[やぶちゃん注:ママ。]垂下(たれさが)りて目を蔽ひ、腹と覺しきあたり迄、半身w水上へ出(いだ)し、しばらく、彼(かの)人々を見詰(みつめ)、にらみしかば、思ひもふけず[やぶちゃん注:「意想外に」の意でとっておく。]、恐怖せし事、いふべからず。耳はありや、なしや、毛髮、垂覆(たれおほ)ひし故、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざりしが、頓(やが)て、水中へ身を隱し失せたりしと、若(もし)此時、樂山翁のみならば、件(くだん)の妖怪、飛(とび)かゝりやせんと彌(いよいよ)恐怖し、宿所へ歸りて、件の怪物を見しまゝ𤲿(ゑが)きとゞめ、文をも作り、詩を賦して、筥(はこ)に收めたり、蓋(けだし)、彼(かの)怪獸の容體を𤲿きし樣は、獺(カワウソ)の功(カウ)[やぶちゃん注:漢字はママ。「劫」が正しく、歴史的仮名遣は「コウ」である。]を經しものか、又、世に傳ふ川童(カツパ)などといふものにや、𤲿(ゑ)にて見るさへ、身の毛彌(いよいよ)立(たつ)ばかりぞかし、况や、思はず眞(まこと)怪物にあひたる人をや、珍といふべし、然るに、岡田多膳老人は如是(によぜ)と稱して佛學を好めり、性(しやう)として、斯(かか)る怪談を好(このめ)るが、物好(ものずき)にも、心づよく、彼(かの)怪獸を見屆(みとどけ)んと兩度まで獨行(どくかう)し、彼處(かしこ)の川端に躊躇(ちうちよ)せしかど[やぶちゃん注:この場合は「待機していたけれども」の意。]、出遇(であは)ざりしと咄(はな)されき、是(これ)によつて、土人、惡魚栖(すめ)りと巷談(かうだん)す[やぶちゃん注:噂話をするようになってしまった。]、しかれども、月光の晴明(せいめい)にして雅景なるは一品なるものおや[やぶちゃん注:ママ。]、

   *

この「但馬橋」は現在の高田馬場駅の南西直近の神田川に架かる田島橋の前身。ChinchikoPapa氏のブログ「落合道人 Ochiai-Dojin」の「落合の歴史を見つめる田島橋」に当時のこの橋の附近の様子が細かに語られてあるので、必見。それによれば、『田島橋から上流の落合土橋にかけては、江戸時代に「落合蛍」の名所として有名だった』とあり、『いまからは想像もつかない、清冽な上水(水道水)が開渠のまま流れる田島橋界隈は、そこかしこで蛍川が観られたのだろう。雑司ヶ谷の金子直德が編集した』、「富士見茶屋抄」『という句集が残って』おり、『その中に、田島橋はこう詠まれている』として、

     田島橋の鶴

  田鶴(たづ)啼(なく)や尾花にわたる浪の色

  かげろうにねぶりこけるな橋の田鶴

が掲げられている。則ち、ツルがやってきてもいたのである! 以下、『神田上水の両岸に拡がる一面の田圃で、鶴が舞っていた田島橋は』、今はアブラコウモリ(脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属アブラコウモリ亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus:日本に棲息する中で唯一の住家性コウモリで、最も身近なコウモリである)『の格好の営巣地となっている』とある。因みに、先の注を終わった直後に発見したのだが(残念! 視認電子化が大幅に短縮出来たのに)、ChinchikoPapa 氏は同ブログの「下落合の犀ヶ淵にひそむUMAの謎」で「十方庵遊歴雑記」のそれを引用(但し、一部、判読を誤っておられるようだ)され、詳細な検証を行っておられた。江戸時代の地図も示されて、淵の位置をさえ、ある程度、限定されておられ、』『少なくとも』、『犀ヶ淵は田島橋の下流域に存在したことになる。位置的には、田島橋から下流へ神田上水が大きく北へとカーブを描く、どこかの』「淵」『ということになるのだろう』。『川の流れが急激なカーブを描くと、水流が岸辺に突き当たって乱れ、場所によっては渦を巻く危険な流れができることは知られている。江戸期の田島橋の位置をみると、まるでバイオリズムの波形のように湾曲を繰り返す神田上水(旧・平川』:『ピラ川=崖川)の、ちょうど波底のような位置にあった。現在の田島橋は、昭和初期にスタートした旧・神田上水の整流化工事により、上流・下流ともに直線状になっているが、江戸期には大きく蛇行を繰り返す上水道専用の河川だった』。『田島橋の少し上流には』、『水車小屋があり、この水車は昭和初期まで製粉工場として機能していた。この水車をすぎるあたりから、神田上水は大きく南へと湾曲し、田島橋のある波形の』「波底」『へと激突する。そして、今度は北へと急激に蛇行し、旧・高田馬場仮駅』『のあった西側あたりで再びカーブを描いて、清水川方面へと南下している。つまり、田島橋は蛇行する神田川の大きなふたつの波形の』「波底」『に位置していることになる。そう考えると、流れに危険な渦巻きができるのは、田島橋をすぎて次のカーブへとさしかかるあたり、昔の地番でいえば』、『田島橋のすぐ下流の下落合』六十七『番地、あるいは下落合』三十六『番地あたりの流域ということになるだろうか』。――『犀ヶ淵は、「サイ」という怪獣が住むから怖いところだ』――『という伝承は』――『この流域は流れが複雑で危険な場所だから近寄るな』――『という、江戸期以前からの教訓から生まれたフォークロアであり、代々の地名ではなかったか。「サイ」(サイェ:saye)は、原日本語(アイヌ語に継承)で「巻・渦」の意味そのものだ。つまり、流れが渦巻く「サイ」の場所だから気をつけろという教訓が、後世に伝説の霊獣「犀」と結びついて付会伝説が生まれた』――『そんな気が強くするのだ』。『しかし、それではバンザイする化けネコ』『のような生物は、はたしてなんだったのだろう? 枝つきの腐った流木が、渦に巻きこまれて直立し』、『怪獣サイに見えたのだろうか。それとも、田島橋から誤って落ちた大きな白ネコが身体を岩にぶつけて出血し、それが「助けてニャ!」と前脚をあげて水中でもがいていた』……『とでもいうのだろうか? それにしては、耳が見えずに長髪だったのが解せないのだが』……。『楽山翁が描いたという怪獣サイの絵は、いまどこにあるのだろう』と記しておられる。アイヌ語にまで及ぶ智のドライヴが素晴らしい。ただ、ここらで言っておきたいのだが、柳田國男の言い方は、この但馬橋の近くの「犀ケ淵」に出現したものが「サイ」「犀」と呼ばれた、と断言しているのであるが、少なくとも、十方庵敬順は、それを「犀」・「サイ」という化け物だ、とは実は一言も言っていないのである。確かに、「十方庵遊歴雑記」のエンディング部分は流言飛語となって、淵の名をとってそう呼ばれていたかも知れぬが、しかし正確さこそは考証の一大事だ。柳田に騙されてはいけない。そもそもが、ここで十方庵敬順は「河童」の名さえ出しているのである。何故、柳田はここでこの貴重な怪物の容姿描写を含め、こんなにオイシイ話の引用を異様なまでに端折ってしまったのか? 柳田は或いは、十方庵の考証に嫉妬したのではなかろうか? とさえ思えてくるのである。閑話休題。ここに出現した怪物の正体は何か? 私は、

哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicus

ではないかと認識している。因みに、同種はごく最近に絶滅したとされる。他に、

鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類

や、

鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のオットセイ類

であってもよい。

「小川」先の引用から、柳田國男のこの茶化した言い方は全く見当外れであることが判明してしまう。柳田らしからぬ、読者へのリップ・サーヴィスなんぞするから、こんな墓穴を掘るのだ。

「日本には犀は居らぬ筈なり」脊椎動物亜門哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea 上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類。現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ属シロサイ Ceratotherium simum・クロサイ属クロサイ Diceros bicornis)、インド北部からネパール南部(インドサイ属インドサイ Rhinoceros unicornis)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(インドサイ属ジャワサイ Rhinoceros sondaicus・スマトラサイ属スマトラサイ Dicerorhinus sumatrensis)に分布している。

『「水犀(すいさい)」と稱して、三本の角ある者は水牛に似たりと、支那の書に見ゆる由、朝鮮にては犀を誤つて水牛のことゝ解する者ありと云へり』ウィキの「サイ」の「文化への影響によれば、「國語」の「越語 上」に、『今、夫差、衣水犀之甲者億有三千』とあるのに対して韋昭が附した注に、『犀形似豕而大。今徼外所送』、『有山犀、水犀』とあるとする(注部分から引用)。本文では、『日本や中国』『では、水犀(みずさい)と呼ばれる動物が絵画などに見られる。頭には角、背中に甲羅、足には蹄を持つとされる』(但し、ここには要出典要請がかけられている)。『平安末期の国宝』「鳥獣人物戯画」の『乙巻には、虎・象・獅子・麒麟・竜といった海外の動物や架空の動物とともに』、『水犀が描かれている。江戸末期の北斎漫画にも』、『水犀が描かれている。世界遺産』『日光東照宮の拝殿東面、妻虹梁下にも水犀(通天犀とも)が彫刻されている』とある。明の李時珍の偉大な本草書「本草綱目」の「獸之二」「犀」の「集解」には、

   *

時珍曰、犀出西番・南番・滇南・交州諸處。有山犀・水犀・兕犀三種、又有毛犀似之。山犀居山林、人多得之。水犀出入水中、最爲難得。並有二角、鼻角長而額角短。水犀皮有珠甲、而山犀無之。

   *

と出る。

「臺灣の外には」本書が刊行された大正三(一九一四)年時点では、台湾は日本領であった。一八九五年(明治二十八年)に日清戦争の結果として下関条約が締結されると、台湾島・澎湖諸島は清から日本に割譲されて台湾総督府が統治する日本領台湾となっていた。太平洋戦争で敗北した日本が「サンフランシスコ講和条約」及び「日華平和条約」締結によって、台湾の権利・権限・請求権を正式に放棄するまでそれは続いたのである。

「犀と誤るべき水牛」ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科アジアスイギュウ属スイギュウ Bubalus arneeウィキの「スイギュウによれば、インド・タイ・ネパール・バングラデシュ・ミャンマーに自然分布』し、『家畜と交雑したと考えられている個体群がインド』・インドネシア・カンボジア・スリランカ・タイ・バングラデシュ・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・『ラオスに分布』する。また、『家畜が野生化した個体群がアルゼンチン』・オーストラリア(ノーザンテリトリー)・チュニジア・『ヨーロッパなどに分布』するとし、但し、『有史以前はアフリカ大陸北部から黄河周辺にかけて分布していたと考えられている』とある。いずれにしても、言わずもがな、本邦には分布しない。

「道祖土(だうそど)」道祖神を祀る場所の意であろう。

『蓋し、「さへ」又は「さへと」は、往古、境(さかひ)の神を祭りし畏ろしき場處のことなれば、或いは此れが爲に「サイ」と云ふ怖るべき一物(いちもつ)を作り出し、之れを處々の碧潭(へきたん)に住ましむるに至りしやも、亦、測るべからず』この見解は非常に興味深い。先のChinchikoPapa氏が、アイヌ語に継承された原日本語とする「サイ」(サイェ)が「巻・渦」の意とするのとも驚くほどよく一致するからである。塞の神や道祖神は村の辺縁部の辻に置かれる場合が多い。これはつまり、運命共同体である村と、別な世界(他村・異国・外国・幽明界)との通路が複数ある場所であり、そこはそうした異界から漂ってきた、いろいろな妖気・邪気が渦を巻くところでもあるからである(それを逆手に利用したものが本来の辻占なのである)。

タイワンリスの子「かんちゃん」

恐らく、今年になって生れて、先月来、母リスと一緒に家(うち)の金柑を食べに来ていた子がこんなに大きくなって、親離れして、家の金柑の木を専ら自分の餌場としていましたが、今朝、ありったけの金柑を食べ尽くして、山へ帰って行きました(妻写す)。

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蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 甕の水

 

 

 

甕(かめ)の水(みづ)濁(にご)りて古(ふる)し、

このゆふべ、覆(くつが)へしぬる、

甕(かめ)の水(みづ)、

惜(を)しげなき逸(はや)りごころに。

 

音(おと)鈍(にぶ)し、水(みづ)はあへなく、

あざれたる溝(みぞ)に這(は)ひ寄(よ)り、

音(おと)鈍(にぶ)し、

呟(つぶ)やける「夢(ゆめ)」のくちばみ。

 

去(い)ねよ、わが古(ふる)きは去(い)ねよ、

水甕(みづがめ)の濁(にご)き底(そこ)濁(にご)り、

去(い)ねよ、わが――

噫(あゝ)、なべて澱(をど)めるおもひ。

 

耀(かゞや)きぬ雲(くも)の夕映(ゆふばえ)、

いやはての甕(かめ)の雫(しづく)に、

耀(かゞや)きぬ、――

わがこころかくて驚(おどろ)く。

 

「戀(こひ)」なりや、雫(しづく)の珠(たま)は、

げに淸(きよ)し、ふるびぬにほひ、

「戀(こひ)」なりや、

珠(たま)は、あな、闇(くら)きに沈(しづ)む。

 

夜(よ)となりき、嘆(なげ)くも果敢(はか)な、

空(むな)しかる甕(かめ)を抱(いだ)きて、

夜(よ)となりき、

あやなくもこころぞ渴(かは)く。

 

[やぶちゃん注:「あざれたる溝」臭いを放っているような汚い溝。

「くちばみ」古語として、毒蛇の「蝮(まむし)」(有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii:語源は、蝮は卵胎生であるが、それを母蛇の腹を食い破って生まれてくると見たことからとも言う)のことを「くちはみ」「くちばみ」と呼ぶ。ここは盛り上がり、うねりながら、「溝に這ひ寄」って行った「甕の水」が、水面に滴り落ちて音を立てるその様態を『呟(つぶ)やける「夢(ゆめ)」の』蝮として象徴的に隠喩したものであろう。音数律に合わせるために「口遊(くちずさ)む」の意で「口齒(くちば)む」を名詞化した造語ととるのには甚だ無理があり、そんな自分勝手な造語感覚を有明は持っていないし、そもそもそれでは「呟(つぶ)やける」の屋上屋となってしまう。

「あやなくも」「文無くも」で「理由(わけ)も判らず」の意。]

2019/02/15

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 黃羊(きひつじ) (モウコガゼル)

 

Kihituji

 

きひつし 璽耳羊

 

黃羊

バアン ヤン

 

本綱黃羊生西番諸處有四種狀與羊同但低小細肋腹

下帶黃色角似羖羊喜臥沙地生沙漠能走善臥獨居而

尾黑者名黑尾黃羊

生野草内或羣至數十者名曰黃羊

出南方者深褐色黒脊白斑與鹿相近也

甚大而尾似麞鹿者名洮羊其皮皆可爲衾褥【出於臨州洮州故名】

 

 

きひつじ 蠒耳羊〔(けんじよう)〕

 羊〔(はんよう)〕

黃羊

バアン ヤン

 

「本綱」、黃羊、西番〔(せいばん)の〕諸處に生ず。四種有り。狀、羊と同じ。但だ、低く小さく、細き肋〔(あばら)にて〕、腹の下に黃色を帶ぶ。角、羖羊〔(くろひつじ)〕に似たり。喜〔(この)〕んで沙地に臥し、沙漠に生ず。能く走り、善〔(よ)〕く臥し、獨居して、尾、黑き者を「黑尾黃羊」と曰ふ。

野草の内に生じ、或いは、羣〔(むれな)〕し、數十に至れる者を名づけて、「黃羊」と曰ふ。

南方に出づる者〔は〕、深褐色〔にして〕黒〔き〕脊、白〔き〕斑〔(まだら)なり〕。鹿と相ひ近きなり。

甚だ大にして、尾、麞鹿〔(のろじか)〕に似る者、「洮羊(てうよう)」と名づく。其の皮、皆、衾-褥〔(しとね)〕と爲すべし【臨州・洮州に出づ、故に名づく。】

[やぶちゃん注:これはヒツジの仲間ではなく、哺乳綱鯨偶蹄目鯨反芻亜目ウシ目ウシ亜目ウシ科 Bovidae の、ブラックバック亜科 Antilopinae ブラックバック族 Antilopini チベットガゼル属モウコガゼル Procapra gutturosa であろうと思われる。挿絵は角があるので同種のであるウィキの「ウコガゼルによれば、中国の内モンゴル自治区・モンゴル・ロシア(ネルチンスク周辺)に分布し、体長は一メートル十から一メートル四十八センチメートル、尾長は五~十二センチメートル、肩高六十二~七十六センチメートルで、体重は二十八~四十キログラム。『前肢の』、『人間でいう手首(手根)に』、『わずかながら』、『房状に体毛が伸長する』。『頭骨の長さ』は二十二・五センチメートル『以上に達』し、『耳介は中程度で先端が尖る』。『眼下部(眼下腺)や後肢内側基部(鼠蹊腺)に臭腺がある』。『オスにのみ』、『基部から上方に向かい』、『外側に湾曲し』、『先端が内側へ向かう細く短い角がある』。角長は三十二~三十九センチメートルで、『角の表面の節は』、『あまり発達しない』また、『繁殖期のオスは喉が膨らむ』。『夏季は短い体毛で被われ、毛衣は黄褐色』。『冬季は長い体毛で被われ、毛衣は灰褐色や淡黄褐色』。『砂漠や乾燥した草原、ステップに生息する』とある。

 

「西番」「西蕃」とも書く。明代から中華民国期にかけて、甘粛・四川・雲南地方の漢民族が、隣接するカム地方のチベット系民族を指して用いた蔑称。

「四種有り」現在、チベットガゼル亜族 Procaprina チベットガゼル属 Procapra には、モウコガゼルの他に、

プシバルスキーガゼル(Przewalski's gazelleProcapra przewalskii

チベットガゼル Procapra picticaudata

がいる。しかし、これでは三種なので、或いは別種の何かを数えているか、その三種の中の見た目の他個体群と異なって見えるグループを別種としているのかも知れない。

「尾、黑き者を「黑尾黃羊」と曰ふ」グーグル画像検索「Procapra gutturosa」を見ると、尾が黒く見える個体がいる。

「麞鹿〔(のろじか)〕」反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolusウィキの「ノロジカより引く。『ヨーロッパから朝鮮半島にかけてのユーラシア大陸中高緯度に分布する。中国では子と呼ばれる』。体長約一~一・三メートル、尾長約五センチメートルの『小型のシカ。体毛は、夏毛は赤褐色で、冬毛は淡黄色である。吻に黒い帯状の斑があり、下顎端は白い。喉元には多彩な模様を持つのが』、『この種の特徴である。臀部に白い模様があるが、雌雄で形は異なる。角はオスのみが持ち、表面はざらついており、先端が三つに分岐している。生え変わる時期は冬』。『夜行性で、夕暮れや夜明けに活発に行動する。食性は植物食で、灌木や草、果実などを食べる』とある。

「洮羊(てうよう)」如何なる種を指しているか、不詳。上記のガゼル類画像を幾つか見たが、ノロジカと似ているというのは、正直、解せない。識者の御教授を乞う。

「衾-褥〔(しとね)〕」布団や敷物。

「臨州・洮州」孰れも現在の甘粛省南部の旧地方名。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 大河

 

  大 河

 

ゆるやかにただ事(こと)もなく流(なが)れゆく

大河(たいが)の水(みづ)の薄濁(うすにご)り――邃(ふか)き思(おも)ひを

夢(ゆめ)みつつ塵(ちり)に同(どう)じて惑(まど)はざる

智識(ちしき)のすがたこれなめり、鈍(おぞ)しや、われら

面澁(おもしぶ)る啞(おし)の羊(ひつじ)の輩(ともがら)は

堤(つゝみ)の上(うへ)をとみかうみわづらひ步(あり)く。

しかすがに聲(こゑ)なき聲(こゑ)の力(ちから)足(た)り、

眞晝(まひる)かがよふ法(のり)を布(し)く流(ながれ)を見(み)れば、

經藏(きやうざう)の螺鈿(らでん)の凾(はこ)の葢(ふた)をとり、

悲願(ひぐわん)の手(て)もて智慧(ちゑ)の日(ひ)の影(かげ)にひもどく

卷々(まきまき)の秘密(ひみつ)の文字(もじ)の飜(こぼ)れ散(ち)る、――

げに晴(は)れ渡(わた)る空(そら)の下(もと)、河(かは)の面(おもて)の

紺靑(こんじやう)に黃金(こがね)の光(ひかり)燦(きら)めくよ、

かかる折(をり)こそ汚(けが)れたる身(み)も世(よ)も薰(かを)れ、

時(とき)さらず、癡(し)れがましさや、醜草(しこぐさ)の

毒(どく)になやみて眩(めくるめ)き、あさり食(は)みぬる

貪(むさぼり)の心(こゝろ)を悔(く)いてうち喘(あえ)ぎ、

深(ふか)くも吸(す)へる河水(かはみづ)の柔(やはら)かきかな、

母(おも)の乳(ちゝ)、甘(あま)くふくめる悲(かなし)みは

醉(ゑひ)のここちにいつとなく沁(し)み入(い)りにけり。

源(みなもと)は遠(とほ)き苦行(くぎやう)の山(やま)を出(い)で、

平等海(びやうどうかい)にそそぎゆく久遠(くをん)の姿(すがた)、

たゆみなく、音(おと)なく移(うつ)る流(ながれ)には

解(と)けては結(むす)ぶ無我(むが)の渦(うづ)、思議(しぎ)の外(ほか)なる

深海(ふかうみ)の眞珠(しんじゆ)をさぐる船(ふね)の帆(ほ)ぞ

今(いま)照(てり)りわたる、――智(さとり)なき身(み)にもひらくる

心眼(しんがん)の華(はな)のしまらくかがやきて、

さてこそ沈(しづ)め、靜(しづ)かなる大河(たいが)の胸(むね)に。

 

[やぶちゃん注:実は八行目「眞晝(まひる)かがよふ法(のり)を布(し)く流(なが)を見(み)れば、」は、底本では、

眞晝(まひる)かがよふ法(のり)を布(し)く流(なが)を見(み)れば、

となっている。しかし音数律から見ても、「流(ながれ)」でなくてはならず、ここも脱字と捉え、特異的に訂した。但し、その根拠はあくまで音数律上の推定でしかなく、校合すべきものはない。敢えて言えば、後の行の「たゆみなく、音(おと)なく移(うつ)る流(ながれ)には」が推定正当性の証左の一つではある。別に参考にした後の岩波文庫の自選「有明詩抄」では、「流(ながれ)」となってはいるものの、例の改悪を施したもので、この行は、

霑(うる)ほし足らふ法(のり)を(と)く流(ながれ)と知れば、――

と致命的に改変された部分なので、決定的校合材料足りえない。大方の御叱正を俟つ。

なお、「喘(あえ)ぎ」のルビはママである。

「智識(ちしき)」仏道に教え導く指導者・導師・善知識のこと。無論、大河に比喩されたイメージである。

「とみかうみ」「と見かう見」。連語。「あっちを見たり、こっちを見たり」の意の平安以来の古語。

「しかすがに」「然すがに」。副詞。「そうはいうものの・そうではあるが、しかしながら」で万葉以来の古語。

「母(おも)」万葉以来の古語としての読み。

「平等海(びやうどうかい)」善知識によって速やかに導かれる、総ての衆生が平等な真如の大海に流れ入るという比喩。

「思議(しぎ)」凡夫があれこれ思いはかろうとし、下らぬ考えを廻らすこと。それも「迷い」に他ならない。

「しまらく」「暫く」の万葉時代に溯る古形。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 秋のこころ

 

  秋のこころ

 

黃(きば)みゆく木草(きぐさ)の薰(かを)り淡々(あはあは)と

野(の)の原(はら)に、將(は)た水(みづ)の面(も)にただよひわたる

秋(あき)の日(ひ)は、淸(きよ)げの尼(あま)のおこなひや、

懺悔(ざんげ)の壇(だん)の香(かう)の爐(ろ)に信(しん)の心(こゝろ)の

香木(かうぼく)の膸(ずゐ)の膏(あぶら)を炷(た)き燻(く)ゆし、

きらびやかなる打敷(うちしき)は夢(ゆめ)の解衣(ときぎ)、

過(す)ぎし日(ひ)の被衣(かつぎ)の遺物(かたみ)、――靜(しづ)やかに

垂(た)れて音(おと)なき繡(ぬひ)の花(はな)、また襞(ひだ)ごとに、

ときめきし胸(むね)の名殘(なごり)の波(なみ)のかげ、

搖(ゆら)めきぬとぞ見(み)るひまを聲(こゑ)は直泣(ひたな)く――

看經(かんぎん)の、噫(あゝ)、秋(あき)の聲(こゑ)、歡樂(くわんらく)と

悔(くい)と念珠(ねんじゆ)と幻(まぼろし)と、いづれをわかず、

ひとつらに長(なが)き恨(うらみ)の節(ふし)細(ほそ)く、

雲(くも)の翳(かげり)にあともなく滅(き)えてはゆけど、

窮(きは)みなき輪廻(りんね)の業(ごふ)のわづらひは

落葉(おちば)の下(もと)に、草(くさ)の根(ね)に、潜(ひそ)みも入(い)るや、――

その夕(ゆふべ)、愁(うれひ)の雨(あめ)は梵行(ぼんぎやう)の

亂(みだ)れを痛(いた)みさめざめと繁(しじ)にそそぎぬ。

 

[やぶちゃん注:実は六行目「きらびやかなる打敷(うちしき)は夢の解衣(ときぎ)、」は、底本では、

きらびやかなる打敷(うちしき)は夢の解衣(とき),

となっている。則ち、ルビ「とき」はママ(但し、「解」の右にのみ附されてあり、音数律からも脱字であることは容易に類推出来る)で、末尾の「コンマ」もママなのである。しかし、それでは流石に私の電子化を読まんとされる読者はここで躓いてこけてしまう。されば、諸本を確認し、以上の文字列の誤植(脱字)であることを確認した上で、「正規表現版」と名打ってはいるが、特異的に訂することとした。

なお、本詩篇は、明治四〇(一九〇七)年十一月号初出である。

「看經(かんぎん)」(「キン」は唐音)禅宗などで、声を出さないで経文を読むこと。後に声を出して経文を読むこと、読経と同義になったが、私は原義で採る。則ち、後の「秋(あき)の聲(こゑ)、歡樂(くわんらく)と/悔(くい)と念珠(ねんじゆ)と幻(まぼろし)と、いづれをわかず、/ひとつらに長(なが)き恨(うらみ)の節(ふし)細(ほそ)く、/雲(くも)の翳(かげり)にあともなく滅(き)えてはゆけど、/窮(きは)みなき輪廻(りんね)の業(ごふ)のわづらひは/落葉(おちば)の下(もと)に、草(くさ)の根(ね)に、潜(ひそ)みも入(い)るや、――」は総てが、詩人にとっての「秋」という季節の持つ寂滅のイメージの「聲」「音」なのだと思うのである。

「梵行(ぼんぎやう)」淫欲を断つ修行。本は一般に仏道修行をも指すが、ここは前者で採る。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 偶感

 

  偶 感

 

寄(よ)せては返(かへ)す浪(なみ)もなく、ただ平(たひ)らかに

和(なご)みたる海(うみ)にも潮(しほ)の滿干(みちひ)あり、

げにその如(ごと)く騷(さは)だたぬ常(つね)の心(こゝろ)を

朝夕(あさゆふ)に思(おもひ)は溢(あふ)れ、また沈(しづ)む。

 

[やぶちゃん注:本篇は先の「豹の血(小曲八篇)」が終わったことを示すように、十八ページ(右ページ)一ページ分を白紙(ノンブルは有る)として、左ページに印刷されている。思うに、有明は出来上がった詩集のページ組みにも非常に気を使っているおとが窺われる。意想外の方もおられるであろうが、近代詩集初版で、完成品のそうした細かな部分(例えば、連の切れ目が改頁となるのは私は極力避けるべきと思うが、そうしたことを意識している詩人は実は殆んどいない)まで気配りしている詩人は、私の管見する限り、挿絵を多く入れた北原白秋が浮かぶ程度で、そう多くはないのである。]

2019/02/14

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 羊(ひつじ) (ヒツジ)

 

Hituji

 

 

ひつじ 羖【牡羊又名羝】

 𦍺【牝羊又名牂】

【音陽】

 【白】 羭【黑】

★   羖【多毛】 羯【去勢】

ヤン  【和名比豆之】

[やぶちゃん注:★の個所に上図の下部左にあるヒツジの首の形に象った篆文が入る。

本綱羊字象頭角足尾之形胡羊䍲羺無角曰※【曰】羊

[やぶちゃん注:「※」=「翔」-「羽」+「童」。]

子曰羔其五月曰羜六月曰𦎦七月曰羍生江南者爲

羊頭身相等而毛短生秦晉者爲夏羊頭小身大而毛長

而剪其毛以爲氊物謂之綿羊諸羊皆孕四月而生

其目無神其腸薄而縈曲在畜屬火故易繁而性熱在卦

屬兌故外柔而内剛其性惡濕喜燥食鉤吻草肥食仙茅

而肪食仙靈脾而食躑躅而死物理之宜忌不可測也

其皮極薄南番以書字羊外腎曰羊石子

肉【苦甘大熱】 治虛勞補中益氣安心止兒驚癇【銅噐煑之男子損陽女子暴下反半夏菖蒲忌蕎麥麵豆醬及醋】

乳【甘溫】 治虛勞潤心肺乾嘔及反胃解蜘蛛咬毒【有人爲蜘蛛咬

腹大如姙徧身生絲其家棄之乞食有僧教啖羊乳未幾其疾愈也】

                  有房

 新勑程もなく隙行く駒を見ても猶哀羊のあゆみをそ思ふ

△按自華來牧之未蓄息戯食紙卽喜食之羊乳番語名

 介伊辞

陸佃云羊善群行故羣字从羊羊以瘦爲病故羸字从羊

羊貴大故羊大爲美羊有角而不用類仁執之不鳴殺之

不嘷類死義飮其母必跪類知禮也本草所載羊類甚多

大尾羊 凡羊尾皆短而哈密及大食國有大尾羊細毛

 薄皮尾上旁黄重一二十斤行則以車載之【唐書謂之靈羊】

胡羊 大食國出胡羊高三尺餘其尾如扇每春月割

 取脂再縫合之不取卽脹死

地生羊 出西域以羊臍種于土中漑以水聞雷而生羊

 臍與地連及長驚以木聲臍乃斷便能行齧草至秋可

 食臍内復有種名瓏種羊

 土之精也其肝土也有雌雄不食季桓子曾掘土

 得之 又千樹精亦爲青羊

ひつじ 羖(をひつじ)【牡羊、又、「羝」と名づく。】

 𦍺(めひつじ)【牝羊、又、「牂」と名づく。】

【音、「陽」。】

 (しろひつじ)【白。】

    羭(くろひつじ)【黑。】

★   羖(むくげのひつじ)【多毛。】

    羯(へのこなしのひつじ)【勢を去る〔もの〕。】

ヤン  【和名、「比豆之」。】

[やぶちゃん注:★の個所に上図の下部左にあるヒツジの首の形に象った篆文が入る。]

「本綱」、「羊」の字、頭の角・足・尾の形に象どる。胡羊を「羺䍲〔(げいどう)〕」と曰ひ、角無きを「※〔とう)〕」と曰ふ【「〔(た)〕」〔とも〕曰ふ。】[やぶちゃん注:「※」=「翔」-「羽」+「童」。]。羊の子を「羔〔こう)〕」と曰ひ、其の五つ月〔(づき)〕なるを「羜〔ちよ)〕」と曰ひ、六つ月なるを「𦎦〔(ぶ)〕」と曰ひ、七つ月なるを「羍〔(たつ)〕」と曰ふ。江南に生ずる者を「羊」と爲し、頭身相ひ等しくて、毛、短し。秦・晉[やぶちゃん注:現在の陝西省・山西省。]に生ずる者を「夏羊」と爲し、頭、小さく、身、大にして、毛、長し。二にして、其の毛を剪りて、以つて、氊〔(せん)の〕物[やぶちゃん注:毛織りの敷物。毛氈(もうせん)。]と爲す。之れを綿羊と謂ふ。諸羊、皆、孕〔みて〕四月〔(よつき〕)にして生まる。其の目、神〔(かがやき)〕、無く、其の腸、薄くして、縈曲〔(えいきよく)〕[やぶちゃん注:ぐるぐるとめぐって曲がりくねっていること。]なり。畜に在りては、「火〔(くは)〕」に屬す。故に繁〔(しげ)〕り易くして[やぶちゃん注:繁殖し易くて。]、性〔(しやう)〕、熱す。卦に在りては、「兌〔(だ)〕」に屬す。故に外柔にして内剛〔なり〕。其の性、濕を惡〔(にく)〕み、燥を喜〔(この)〕む。鉤吻草〔(こうふんさう)〕を食ひて肥へ[やぶちゃん注:ママ。]、仙茅〔(せんばう)〕を食ひて肪(あぶらつ)き、仙靈脾〔(せんれいひ)〕を食ひて(たわ)け[やぶちゃん注:淫乱となり。]、躑躅(もちつゝぢ)を食ひて死す。物〔の〕理〔(ことわり)〕の宜忌〔(よしあし)〕[やぶちゃん注:良し悪し。]、測かるべからざるなり。其の皮、極めて薄し。南番〔→南蠻〕〔にては、これを〕以つて字を書く。羊の外腎を羊石子(たけり)と曰ふ[やぶちゃん注:この言いから見て、「外腎」とは♂の外生殖器(或いは陰茎)のことのように思われる。]。

肉【苦、甘。大熱。】 虛勞[やぶちゃん注:「虚損労傷」の略で、各種の過労のために肉体が衰弱し、精神も困憊している状態を指す。]を治し、中(ちゆう)[やぶちゃん注:漢方で言う「脾胃」。二つが三焦(現代医学のリンパ系相当とされる)の中焦の系に属することによる。]を補し、氣を益し、心〔(しん)〕を安ず。兒の驚癇[やぶちゃん注:漢方で言う癲癇症状のこと。]を止〔(とど)〕む【銅噐にて之れを煑れば、男子は陽を損じ[やぶちゃん注:ここは狭義の重い精力減退を指すか。]、女子は暴下す[やぶちゃん注:激しい下痢症状を呈す。]。半夏・菖蒲に反し、蕎麥・麵・豆醬〔(みそ)〕及び醋〔(す)〕を忌む。】。

乳【甘、溫。】 虛勞〔を治し〕、心肺を潤ほし、乾嘔〔(からえずき)〕[やぶちゃん注:漢方で吐き気がして吐こうとするが、その音だけがあって実際には嘔吐物がない症状を指す。]及び反胃〔(ほんい)〕[やぶちゃん注:食ったものを吐き戻す症状。]を治す。蜘蛛の咬みたる毒を解す【人、有り、蜘蛛の爲めに咬まるるに、腹、大〔となりて〕姙〔(はらみめ)〕のごとく〔なりて〕、徧身〔(へんしん)に〕、絲を生ず。其の家、之れを棄(す)つ。〔棄てられし者は〕乞食〔(こつじき)〕す。僧、有り、羊乳を啖〔(の)まんことを〕教ふ。未だ幾〔(いくばくな)ら〕ずして其の疾ひ、愈〔ゆる〕なり。】。

                  有房

 「新勑」

   程もなく隙〔(ひま)〕行く駒〔(こま)〕を見ても猶ほ

      哀〔(あは)れ〕羊のあゆみをぞ思ふ

△按ずるに、華[やぶちゃん注:中国。]より來たり、之れを牧(か)へども[やぶちゃん注:飼ってはいるが。]、未だ蓄息〔(ちくそく)〕せず[やぶちゃん注:繁殖していない。]。戯れに紙を食はしむる〔に〕、卽ち、喜びて之れを食ふ。羊の乳、番語〔→蠻語〕に「介伊辞(ケイジ)」と名づく。

陸佃が云はく、『羊は善く群行す。故に「羣」の字、「羊」に从〔(したが)〕ふ。羊は、瘦るを以つて病ひと爲る。故に「羸」[やぶちゃん注:音「ルイ」。「瘦せる・疲れる・弱る」また「弱い」の意。]の字、「羊」に从ふ。羊は大〔なるを〕貴ぶ。故、「羊」に「大」〔にて〕「美(うつく)し」と爲す。羊、角、有りて、用ひず。〔これ、〕「仁」に類す。之れを執〔(と)〕るに[やぶちゃん注:捕まえても。]鳴かず、之れを殺すに、嘷(ほ)へず[やぶちゃん注:ママ。「吠えず」。]。〔これ、〕「義」に死するに類す。〔子羊の、〕其の母〔の乳を〕飮むときは、必ず、跪〔(ひざまづ)〕く。〔これ、〕「禮」を知るに類す』〔と〕。「本草」に載する所の羊の類、甚だ多し。

大尾羊 凡そ、羊の尾は、皆、短く、而るに、哈密〔(ハミ)〕[やぶちゃん注:ハミ王国、クムル汗(ハン)国などとも呼ばれた、現在の中国の新疆ウイグル自治区の最東部にあるクムル(現在のハミ)を中心に展開したウイグル人の国。一六九六年から一九三〇年まであった。]及び大食(だいし)國[やぶちゃん注:アラビアの旧漢名。]に「大尾羊」有り。細〔き〕毛、薄〔き〕皮にして、尾の上の旁〔(かたはら)〕、黄に〔して〕、重さ一、二十斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、六キログラム弱から十一キロ八百五十六グラムとなる。]。行〔くに〕、則ち、車を以つて、之れを載す【「唐書」之れを「靈羊」と謂ふ。】。

胡羊 大食國に「胡羊」を出だす。高さ三尺餘。其の尾、扇のごとし。每〔(まいとし)〕春月、脂を割り取り、再び之を縫〔ひ〕合〔はす〕。〔脂を〕取らざれば、卽ち脹〔(は)れて〕死す。

地生羊〔(ぢせいよう)〕 西域に出づ。羊の臍〔(へそ)〕を以つて土中に種〔(う)〕ゑ、漑(そゝ)ぐに水を以つてす。雷〔(かみなり)〕を聞きて羊を生ず。臍と地と連る。長ずるに及び、驚かすに木の聲〔(おと)〕を以つてすれば[やぶちゃん注:木を叩く音で驚かすと。]、臍、乃〔(すなは)〕ち斷〔(き)れ〕て、便〔(すなは)〕ち、能く行きて、草を齧(は)む。秋に至れば、食ふべし。臍の内〔に〕、復た、種、有り。「瓏種羊〔(ろうしゆよう)〕」と名づく。

羊〔(ふんよう)〕 土〔(つち)〕の精なり。其の肝は土なり。雌雄、有り。食はず。季桓子〔(きかんし)〕といふもの、曾つて土を掘りて、之れを得〔と〕。 又、千の樹の精も亦、「青羊」と爲〔ると〕。

[やぶちゃん注:哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目ウシ科ヤギ亜科ヒツジ属ヒツジ Ovis aries (所謂、家畜化された綿羊(メンヨウ))及びヒツジ属に属する種群ウィキの「ヒツジ」によれば、『ヒツジは反芻動物としては比較的体は小さく、側頭部のらせん形の角と、羊毛と呼ばれる縮れた毛をもつ』。『原始的な品種では、短い尾など、野生種の特徴を残すものもある』。『家畜のヒツジは』五十四『本の染色体をもつが、野生種は』五十四本から五十八『本の染色体を有し、交雑可能である。自然状態の雑種の中には』五十五『本や』五十七『本の染色体をもつ個体も存する』。『品種によって』、全く角を持たないもの、『雄雌両方にあるもの、雄だけが角を持つものがある。螺旋を巻きながら直状に伸びた角をラセン角、渦巻き状に丸く成長する角をアモン角と称する。角のある品種のほとんどは左右に』一『対だが、古品種には』、『ヤギのように後方に湾曲しながら伸びる』二、三対(四~六本)の『角をもつものもいる』。『野生のヒツジの上毛の色合いには幅広いバリエーションがあり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色などがある。毛用のヒツジは主に染色に適した白い羊毛を産するように改良が加えられているが、ほかにも純白から黒色まであり、斑模様などもある。白いヒツジの群れのなかに有色の個体が現れることもある』。『ヒツジの体長や体重は品種により大きく異なり、雌の体重はおよそ』四十五~百キログラムで、『雄はより大きく』、四十五~百六十キログラムほどある。『成熟したヒツジは』三十二『本の歯を持つ。ほかの反芻動物と同じように、下顎に』八『本の門歯がある一方、上あごには歯がなく、硬い歯茎がある。犬歯はなく、門歯と臼歯との間に大きな隙間がある』。四『歳になるまで(歯が生え揃うまで)は、前歯は年に』二『本ずつ生えるため、ヒツジの年齢を前歯の数で知ることができる。ヒツジの平均寿命は』十『年から』十二『年であるが』、二十『年生きるものもいる』。『前歯は齢を重ねるにつれ失われ、食べるのが難しくなり、健康を妨げる。このため、通常放牧されているヒツジは』四『歳を過ぎると』、『徐々に数が減っていく』。『同じヤギ亜科に属するヤギと違い、草だけを食べる(ヤギは木の芽や皮も食べる)。食草の採食特性は幅広いとされる』。『ヒツジの聴力はよい。また視力については、水平に細い瞳孔を持ち、優れた周辺視野をもつ。視野は』二百七十度から三百二十度で、『頭を動かさずに自分の背後を見ることができる。しかし、奥行きはあまり知覚できず、影や地面のくぼみにひるんで』、『先に進まなくなることがある』。『暗いところから明るいところに移動したがる傾向がある』。『通常は、妊娠期間』百五十『日ぐらいで仔を』一『頭だけ産む』のが普通であるが、二頭或いは三頭『産むときもある』。『ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると』、『強いストレスを受ける。また、先導者に従う傾向がとても強い(その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもする)。これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素であった』。『なお、捕食者がいない地域の在来種は、強い群れ行動をおこさない』。『群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向がある。混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動く』。『ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことである。その次に、追い詰められたヒツジが突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇する。とくに新生児を連れた雌にみられる。ストレスに直面すると』、『すぐに逃げ出し』、『パニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しい』。『ヒツジは非常に愚かな動物であるというイメージがあるが、イリノイ大学の研究によりヒツジのIQがブタよりは低く』、『ウシと同程度であることが明らかになった。人や他のヒツジの顔を何年も記憶でき、顔の表情から』、『心理状態を識別することもできる』。『ヒツジは非常に食べ物に貪欲で、いつもエサをくれる人にエサをねだることもある。羊飼いは牧羊犬などで群れを動かす代わりに、エサのバケツでヒツジを先導することもある。エサを食べる順序は身体的な優位性により決定され、他のヒツジに対してより攻撃的なヒツジが優勢になる傾向がある』。『オスのヒツジは角のサイズが群れでの優位を決める重要な要素となっていて、角のサイズが異なるヒツジの間ではエサを食べる順番をあまり争わないが、同じような角のサイズを持つもの同士では争いが起こる』。以下、「家畜化の歴史」の項。『新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡がある。家畜化が始まったのは古代メソポタミアで、紀元前』七〇〇〇~六〇〇〇年頃の『遺跡からは野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土しており、最古のヒツジの家畜化の証拠と考えられている』。「臀部に脂肪を蓄えるヒツジ」の項。本文の「胡羊」はこれであろう。『家畜化されたヒツジの祖先は、モンゴルからインド、西アジア、地中海にかけて分布していた』四『種の野生ヒツジに遡ることができる。中央アジアのアルガリ』(Ovis ammon)、『現在の中近東にいるアジアムフロン』(Ovis orientalis)、『インドのウリアル』(Ovis orientalis vignei)、『地中海のヨーロッパムフロン』(Ovis aries musimon)『がこれにあたる。これら』四『種は交雑が可能であり、遺伝学的手法によっても現在のヒツジの祖を特定するには至っていないが、いくつかの傍証からアジアムフロンが原種であるとの説が主流となっている』。『ヒツジを家畜化するにあたって最も重要だったのは、脂肪と毛であったと考えられている。肉や乳、皮の利用はヤギが優れ、家畜化は』一千から二千年程度『先行していた。しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、現代でもヒツジの脂肪が最良の栄養源である。他の地域で脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。こうした乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されている。それぞれ、脂尾羊、脂臀羊と分類される』。以下、「日本の羊の歴史」の項。『日本列島には古来より、旧石器・縄文時代のイヌや弥生時代のブタ・ニワトリ、古墳時代のウマ・ウシなど家畜を含め様々なものが海を越えて伝わったが、羊の飼育及び利用の記録は乏しい。寒冷な土地も多く防寒用に羊毛が利用される下地はあったが、動物遺体の出土事例も報告されていないことから、ほとんど伝わらなかったものと考えられている』。『考古資料では鳥取県鳥取市の青谷上地遺跡において弥生時代の琴の部材と考えられている木板に』、『頭部に湾曲する二重円弧の角を持つ動物が描かれており、ヒツジもしくはヤギを表現したものとも考えられている』。『文献史料においては』、「魏志倭人伝(「魏書」の「東夷伝倭人」の条)では弥生末期(三世紀前半代)に於いては『日本列島にはヒツジがいなかったと記されている』。八『世紀初頭に成立した』「日本書紀」には、推古天皇七(五九九)年の条に、『推古天皇に対し』、『百済(朝鮮半島南西部)からの朝貢物として駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)各』一『頭、白雉』一『羽、そして羊』二『頭が献上されたという』。『西域の動物であるラクダやロバとともに献上されていることから、当時の日本列島では家畜としてのヒツジが存在していなかったとも考えられている』とある(以上の原文は、

   *

七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破。則令四方俾祭地震神。秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻。

   *

である)。『奈良時代、天武天皇の時代に関東で活躍した人物に「多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して地元に羊神社などが残る程度であり、羊自体の存在や飼育記録は確認できない』。八『世紀には、奈良県の平城宮跡や三重県の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している』。八『世紀中頃には、正倉院宝物に含まれる「臈纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にヒツジの図像が見られる』。「日本紀略」に『よれば、嵯峨天皇の治世の』弘仁一一(八二〇)年には、『新羅からの朝貢物として鵞鳥』二『羽、山羊』一『頭、そして黒羊』二『頭、白羊』四『頭が献上されたという』。『さらに、醍醐天皇の治世の』延喜三(九〇三)年には、唐人が「羊、鵞鳥を献ず」『とあり、他の記録も含め』、『何度か』、『日本に羊が上陸した記録はあるが、その後』、『飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった』。『仏教の影響を色濃く受けた故に』、『肉食があまり推奨されてこなかったことから』、『食肉用はともかく、羊毛製品には全く需要がなかったわけではなく、貿易品としての羊の毛織物は人気は高』かった。しかし、『高額であり、長らく一部の有力者や富裕層のみに珍重されていた』に過ぎなかった。『江戸時代』になって、文化二(一八〇五)年、『江戸幕府の長崎奉行の成瀬正定が羊を輸入し、唐人(中国人)の牧夫を使役して肥前浦上で飼育を試みたが、失敗』している(本「和漢三才図会」はそれに先立つ九十三年も前の正徳二(一七一二)年の成立であるから、以上の話よりも百ほど前に既にそうした飼養を試みた人間がいたことが本文の記載から判る)。『幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の薬草園であった広大な巣鴨薬園の総督を兼ねていたが』、文化一四(一八一七)年から『薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った』。そのことから、「巣鴨薬園」は、当時、『「綿羊屋敷」と呼ばれていた』。『明治期に入ると』、『お雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドル』(チャールズ・ウィリアム・ジョセフ・エミール・ルジャンドル(Charles William (Guillaum) Joseph Émile Le Gendre 一八三〇年~一八九九年:フランス生まれのアメリカの軍人で外交官。明治五(一八七二)年から明治八年まで、明治政府外交顧問、明治二三(一八九〇)年から明治三十二年までは朝鮮王高宗(一八九七年からは大韓帝国皇帝)の顧問を務めた)『が軍用毛布のため』、『羊毛の自給の必要性を説き、明治八(一八七五)年に『大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである』。『民間では』、明治九(一八七六)年に、『蛇沼政恒』(じゃぬままさつね 弘化二(一八四五)年~大正九(一九二〇)年)『が岩手県で政府から』百『余頭の羊と牧野を借りて始めたのが先駆で、以後、数百頭規模の牧場が東日本の各地に開かれた』。『ただ、生産された羊毛を買い上げるのは軍用の千住製絨所に限られ、品質で劣る日本産羊毛の販売価格は低く、羊肉需要がないこともあって、経営的には成功しなかった』。明治二一(一八八八)年には『政府の奨励政策が打ち切りになり、官営の下総牧羊場も閉鎖され』てしまう。『しかし、国内の羊毛製品需要は軍需・民需ともに旺盛で、しだいに羊毛工業が発達した。戦前から戦後間もない時期までの日本にとって毛織物は重要な輸出品だったが、その原料はオーストラリアとニュージーランドなどからの輸入に頼っていた。一度は失敗を認めた政府にも、国産羊毛を振興したいという意見が根強くあり、大正七(一九一八)年から『「副業めん羊」を普及させた。農家が自家の農業副産物を餌にして』一『頭だけ羊を飼い、主に子供が世話をして家計の足しにするという方法である』。『副業めん羊は東日本の山間地の養蚕農家の間に広まった』とある。

『羖(をひつじ)【牡羊、又、「羝」と名づく。】「漢字林」には、「羖」は、牡の夏羊(かよう:黒い色をした羊の名)の意とし、『牝は「羭」』とある。

𦍺(めひつじ)【牝羊、又、「牂」と名づく。】』「牂」は「漢字林」には三歳に達した牝の羊とする。

「羖(むくげのひつじ)」「」は「漢字林」には、やはり、『ヤギ(山羊)の一種、夏羊』とする。

「去勢」
食肉を目的として肥育される場合や、性質の荒さや発情を削ぐために去勢される。

『「羊」の字、頭の角・足・尾の形に象どる』正しい。

『胡羊を「䍲羺〔(げいどう)〕」と曰ひ』「本草綱目」では、「䍲羺」と文字列が逆である。良安の引用ミスの可能性が高い。東洋文庫訳は断りなしで『羺䍲(どうげい)』とする。冒頭注参照。

「孕〔みて〕四月〔(よつき〕)にして生まる」先の引用では妊娠期間を約百五十日とするから、事実からは一ヶ月も短め目。

「神〔(かがやき)〕」東洋文庫のルビを援用した。現在の「神」の字に「輝き」の意味はないのだが、そもそも「神」という漢字は中国古代にあっては激しい神鳴りを伴う天の神を意味したから、こう当て訓しても、必ずしも突拍子もないものではないと心得る。恐らくは、精神・心というニュアンスであろう。因みに、私の妻などが「ヒツジやヤギの眼が空ろで恐い」という(私は全くそう思わないが)のも、そうした目の印象(人間が見て)が彼らにはあるのやも知れぬ。

「仙茅〔(せんばう)〕」単子葉植物綱キジカクシ目キンバイザサ科Curculigo 属キンバイザサ Curculigo orchioides「田辺三菱製薬」公式サイト内の「生薬について」の「仙茅」を見ると、「仙茅」の「茅」は葉が茅(カヤ)の葉に似ていることに由来し(ヒツジが食うのであるから、本種の葉である)、「仙」はこの根茎を久しく服すると、体が軽くなって、仙人のようになるからであると、宋の「開宝本草」(九七三年成立)には記されているとあり、『古くから中国では仙薬とされていたのですが、実はこれを』中国人が『知ったのはインドからだったのです。インドでは「タラムリ」と称され、強精薬として使われていました。中国に伝来したのは』、『西域の婆羅門僧が玄宗皇帝にこれを用いる方法を教えたのが始まりだといわれています。発する効果が人参のようなので「婆羅門参」ともいわれているそうです』。『仙茅は「温腎壮陽、寒除湿」の効果があり、インポテンツの治療薬としては代表的な生薬です。お年寄りの夜間尿、婦人の更年期による諸症状にも応用されています。この中にクルクリゴシド(CurculigosideC21H24O11)という少し変わった成分が含有されており、これが強精作用の主役で』、『免疫力を賦活したり、興奮性機能も報告されてい』る、とある。

「仙靈脾〔(せんれいひ)〕」まさに別名を「淫羊藿(いんようかく)」「千両金」といった別名を持つ強精剤の原材料とし知られるもので、モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ属イカリソウ Epimedium grandiflorum var. thunbergianum(生薬となるのは全草)。ウィキの「イカリソウ」によれば、『日本の東北地方南部より南の太平洋側と四国など各地の丘陵や山裾の雑木林など山野に分布し、樹陰に自生する』。『イカリソウ属は』二十五『種ほどがアジアから南ヨーロッパにかけて分布する』。『春の』四月から五月に『かけ、吊り下がった薄紅紫色の花が咲き』、四『枚の花弁が、中に蜜をためる距を突出し、ちょうど船の錨のような形をしているため』、『この名がある』。『根茎は横にはって多数のひげ根を出す』。『数本の茎を出し、茎部には鱗片がある』。『根出葉には長い葉柄がつ』く。『茎の先が』三『本の葉柄に分かれ、それぞれに』三『枚の小葉がつくため、三枝九葉草(さんしくようそう)の別名がある』。『小葉は全体が卵形で、先が尖って基部は心臓型をしており、葉縁に刺毛状の細かい鋸歯がある』。『園芸用や薬用に栽培されることもある。浅根性で乾燥に弱く、半日陰の肥沃土を好む性質があり、繁殖は秋から初冬にかけて株分けにより行われる』。『薬効は、インポテンツ(陰萎)、腰痛のほか』、『補精、強壮、鎮静、ヒステリーに効用があるとされる』。『全草は淫羊霍(いんようかく、正確には淫羊藿)という生薬で精力剤として有名で』、この「淫羊霍」は、五~六月頃の『開花期に茎葉を刈り取って』、『天日干しにしたもので、市場に流通している淫羊霍は、イカリソウの他にも、トキワイカリソウ』Epimedium sempervirens や『キバナイカリソウ』Epimedium koreanum 及び『海外品のホザキノイカリソウ』Epimedium sagittatum『も同様に使われる』。『本来の淫羊霍は中国原産の』、その『ホザキノイカリソウ』『(常緑で花は淡黄色)』が原料で、『名はヒツジがこれを食べて精力絶倫になったという伝説による』(注に「本草綱目」に『「西川(せいせん、地名)に淫羊(発情した羊)あり、この藿(かく、花蕾)を食べて、一日百編交合す。」と記され、これ故に淫羊藿と名付けたとされる』とある、これは「巻十二下 草之一」の『淫羊藿【「本經中品」】』で、そこでは異名を「仙靈脾」「放杖草」「棄杖草」「千兩金」「乾雞筋」「黄連祖」「三枝九葉草」とし、『弘景曰、服之使人好爲隂陽。西川北部有淫羊、一日百遍合蓋食此藿所致、故名淫羊』とあるのに基づく)。『ホザキノイカリソウの淫羊霍に対して、イカリソウの方を和淫羊霍とすることもある』。『イカリソウの茎葉には有効成分としてはイカリインというフラボノイド配糖体と、微量のマグノフィリンというアルカロイドなどが含まれ、苦味の成分ともなっている』。『充血を来す作用があり、尿の出を良くする利尿作用もあるとされている』『イカリインには実際に』『平滑筋が弛緩し』、『陰茎などの血流が増えると考えられる』効果があるとし、『マウスを用いた実験で、男性ホルモン様の作用が報告されている』とある。『体を温める作用があることから、手足の冷え症や、冷えから来る腰痛症、下半身が疲れやすい人のインポテンツによいとされる一方で、火照りやすい人やのぼせやすい人への服用は禁忌である』とする。

「躑躅(もちつゝぢ)」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属ツツジ亜属ツツジ節モチツツジ列モチツツジ Rhododendron macrosepalum。黐躑躅。通常のツツジのタイプ種はツツジ属アルペンローゼ Rhododendron ferrugineumであるが、本邦のツツジ類は他種に亙る。ツジ科ツツジ属に属する植物。落葉(半落葉)低木で本州(静岡県・山梨県~岡山県)と四国に分布する。ウィキの「モチツツジ」によれば、『主に低山地や丘陵地に自生し、高さ』一~二メートルに『なる。明るい林(アカマツ林など)のなかで多くみられ、通常』、四~六月に開花するが、『散発的に年間を通して咲いているのも見られる』。『花びらは五』で、『濃紅色の斑点などがみられる。葉は秋を迎えると』、『紅葉し、芽を囲む一部を除き、大きく茂った葉は落葉する。また、樹皮は暗褐色または暗灰色をしている』。和名の如く、『花の萼や柄、葉(両面)、若枝、子房、果実に腺毛が多く見られ、そこから分泌される液滴によって粘着性を持つ。野外ではここに多くの昆虫が粘着してとらえられているのが観察される。この腺毛は花にやってくる、花粉媒介に与る以外の昆虫を捕殺して、花を昆虫に食害されるのをふせぐために発達したものらしく、実験的に粘毛を剃ると、花は手ひどく食害される』。『また、ここに捕らえられた昆虫を餌とする昆虫も知られる。ヤニサシガメ』(脂刺亀:昆虫綱半翅目異翅亜目サシガメ科アカサシガメ亜科ヤニサシガメ属ヤニサシガメ Velinus nodipes:体長十二~十五ミリメートルで、体は黒色でやや光沢があり、触角と脚に黄白色紋がある。頭部は長く、複眼は頭部中央より前方に位置し、目の後部は丸みが強い。腹部の側縁は大きく張り出し、波状を呈する。体の表面は松脂状の粘着物質で覆われる。マツ樹上で生活し、幹上などに静止し、アリなどほかの昆虫を捕食する。幼虫はマツやスギの幹の窪みや樹皮下で小集団を形成して越冬する。本州・四国・九州及び朝鮮半島・中国に分布する)『などのサシガメ類がよくここに居ついている他、モチツツジカスミカメ』(異翅亜目カスミカメムシ科アオナガカスミカメムシ属モチツツジカスミカメ Orthotylus (Kiiortotylus) gotohi:必ずモチツツジにおり、モチツツジの若芽や若葉・花柄には一面に粘毛が密生しているが、この種はその部分におり、素早く移動するのが見られる。モチツツジは若葉や花の粘毛には、多くの昆虫が粘着して捕らえられるが、本種にとってはよく保護された逃げ場になっていると見られる。但し、何故、粘毛に捕まらないかは不明である。食性は基本的には草食性で、モチツツジを食草としているが、同時に昆虫も食うことが確認されている。上記のようにツツジの粘毛にはよく昆虫が捕まっているが、それらの昆虫に近づいて口吻を刺すことが観察されている。体長は四・五ミリメートルと非常に小さい)『という、ここに専門に居つく』『カメムシも知られて』いる。『花柄の粘りが鳥もちなどに似ているとして、名前の由来となっている。また、餅が由来として餅躑躅と書かれる場合もある』。『園芸用ツツジの交配親としても用いられ、園芸種にはハナグルマ(花車)などがある』。『そのほか、野外では花を折り取って、衣服や帽子にくっつける、という楽しみもある』とある。

「其の皮、極めて薄し。南番〔南蠻〕〔にては、これを〕以つて字を書く」羊皮紙のこと。「図書館情報学用語辞典」(日本図書館情報学会が編集した図書館情報学の専門用語を収録した用語辞典)によれば(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。『子牛や羊、ときには山羊やその他の獣皮の毛や脂肪などを除去して作られた書写材あるいは製本材。パーチメント』Parchment『ともいう。子牛の皮で作ったものをベラム』vellum『として区別する場合もある。製法は、生皮を石灰水でよくさらし、毛や汚れを取るため』、『こすって薄くする。さらに表面にチョークを塗り、軽石でなめらかに仕上げる。前』二『世紀頃からパピルス』( papyrus)『に代わる書写材として小アジアの古代都市ペルガモン(Pergamum)を中心に使用されるようになった。一説には、ペルガモンのエウメネス二世』(Eumenēs:在位:紀元前一九七年~紀元前一五九年)『とエジプトのプトレマイオス五世(Ptolemaios V』紀元前二一〇年~紀元前一八一年)『との間の図書収集をめぐる確執から、エジプトのパピルスが禁輸となった。この事件からペルガモンでは、以前から使用されていた動物の皮革の書写材に改良が加えられ、優れた書写材となった.パーチメントの語も Pergamum の形容詞形から転じたもの。羊皮紙やベラムは、パピルスに比べ』、『耐久性や柔軟性に富み扱いやすい。そのため』、四『世紀頃から、中近東やヨーロッパではパピルスに代わる書写材として』使われ、十五『世紀以降、活版印刷術の普及による刊本の時代を迎え』、『その地位を紙に譲るまで、主流となっていた』とある。

羊の外腎を羊石子(たけり)と曰ふ[やぶちゃん注:この言いから見て、「外腎」とはの外生殖器(或いは陰茎)のことのように思われる。]。

「腹、大〔となりて〕姙〔(はらみめ)〕のごとく〔なりて〕、徧身〔(へんしん)に〕、絲を生ず」前半は腹水と読めるが、とすれば、クモ毒ではない、人獣感染症の性質の悪い寄生虫の可能性が高いように思われる。後半はトンデモ症例でどのような症状を言っているのか、よく判らぬ。一種の黴のように見える皮膚疾患か?

「有房」「新勑」「程もなく隙〔(ひま)〕行く駒〔(こま)〕を見ても猶ほ哀〔(あは)れ〕羊のあゆみをぞ思ふ」「新勅撰和歌集」(鎌倉時代の勅撰和歌集。全二十巻。貞永元(一二三二)年、後堀河天皇の勅により、藤原定家が撰し、文暦二(一二三五)年成立。定家の「仮名序」があり、歌数約千三百七十首。代表歌人は藤原家隆・藤原良経・藤原俊成・慈円など)の「巻十八 雑三」にある。「日文研」の「和歌データベース」で校合した。

「介伊辞(ケイジ)」オランダ語かとも思ったが、ピンとくる一致語が見当たらなかった。識者の御教授を乞う。

「陸佃が云はく」北宋の陸佃(りくでん 一〇四二年~一一〇二年:字は農師、越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身で、王安石の門人であったが、王安石の改革には必ずしも賛成でなかったが、改革が失敗に終わった後も忠誠を尽くした。神宗・哲宗・徽宗に仕え、官は尚書左丞にのぼった。なお、南宋の政治家で著名な詩人陸游は陸佃の孫)によって編集された辞典「埤雅(ひが)」。全二十巻。主に動植物について説明した本草書。

『羊は善く群行す。故に「羣」の字、「羊」に从〔(したが)〕ふ』正しい解字である。

『羊は、瘦るを以つて病いと爲る。故に「羸」の字、「羊」に从ふ』嘘。カタツムリが伸び縮みするさまが原義。

『羊は大〔なるを〕貴ぶ。故、「羊」に「大」〔にて〕「美(うつく)し」と爲す』正しい解字。

「羊、角、有りて、用ひず。〔これ、〕「仁」に類す。……」以下、典型的な載道派の何だかなの牽強付会説である。

「大尾羊」堀内勝氏のブログ「夜の旅人 研究ブログ」の素晴しい羊の脂尾に載るのがその品種であろう。巨大な脂尾を持つ羊の画像やスケッチ、及び『動きやすく車を後ろに付け、巨大な脂尾を乗せる』図等、ここで言っている不審顚が一気に解決する。必見!

「唐書」唐一代の歴史を記したもので「旧唐書(くとうじょ」と「新唐書」の二種があるが、孰れか不詳。

「每〔(まいとし)〕春月、脂を割り取り、再び之を縫〔ひ〕合〔はす〕。〔脂を〕取らざれば、卽ち脹〔(は)れて〕死す」これが事実かどうか、確認は出来なかった。

「地生羊〔(ぢせいよう)〕」キタ!!! って感じ! 植物と羊のハイブリッド奇怪生物「スキタイの羊」じゃん! ウィキの「バロメッツを引く。『バロメッツ(Barometz)は、黒海沿岸、中国、モンゴル、ヨーロッパ各地の荒野に分布するといわれた伝説の植物である。この木には、羊の入った実がなると考えられていた』。『スキタイの羊』(Scythian Lamb)『ダッタン人の羊』(Agnus Tartaricus)『リコポデウム』(Lycopodium)『とも呼ばれるこの木は、本当の名を「プランタ・タルタリカ・バロメッツ」』(Planta Tartarica Barometz)『といい、ヒョウタンに似ているものの、引っ張っても曲がるだけで折れない、柔軟な茎をもっているとされた』。『時期が来ると実をつけ、採取して割れば』、『中から肉と血と骨をつ子羊が収穫できるが、この羊は生きていない。実が熟して割れるまで放置しておくと』「ゥメー」と』『鳴く生きた羊が顔を出し、茎と繋がったまま、木の周りの草を食べて生き、近くに畑があれば食い散らかしてしまう。周囲の草がなくなると、やがて飢えて、羊は木とともに死ぬ。ある時期のバロメッツの周りには、この死んだ羊が集中して山積みになるので、それを求めて狼や人があつまって来るのだと言う。この羊は蹄まで羊毛なので無駄な所がほとんど無く、その金色の羊毛は重宝された。肉はカニの味がするとされた』。『この伝説は、ヨーロッパ人の誤解から生まれた物だと考えられている。バロメッツから採れる羊毛とされた繊維は木綿の事で、木綿を知らなかった当時のヨーロッパ人は「綿の採れる木」を「ウールを産む木」だと解釈して、この植物の伝説が産まれたとされる』とある。なお、一名の「リコポデウム」は現在のヒカゲノカズラ植物門ヒカゲノカズラ綱ヒカゲノカズラ目ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属 Lycopodium の属名となっている。同種は広義のシダ植物に属するが、その姿は、寧ろ、巨大な苔(こけ)を思わせるものである。

羊〔(ふんよう)〕 土〔(つち)〕の精なり。其の肝は土なり。雌雄、有り。食はず。季桓子〔(きかんし)〕といふもの、曾つて土を掘りて、之れを得〔と〕」これは「捜神記」の第十二巻の以下に出るこれ。但し、そこでは「羊」はなく、「賁羊」である。訓読は自然流。

   *

季桓子穿井、獲如土缶、其中有羊焉、使問之仲尼、曰、「吾穿井其獲狗、何耶。」。仲尼曰、「以丘所聞、羊也。丘聞之、木石之怪、夔、『魍魎』。水中之怪、龍、『罔象』。土中之怪曰『賁羊』。」。夏鼎志曰、「『罔象』如三兒、赤目、黑色、大耳、長臂、赤爪。索縛、則可得食。」王子曰、「木精爲『遊光』、金精爲『淸明』也。」。

(季桓子[やぶちゃん注:春秋時代の魯(紀元前一〇五五年~紀元前二四九年)の大夫。]井を穿ち、土の缶(かめ)のごときを獲(え)、其の中に、羊、有り。使問之れを仲尼[やぶちゃん注:孔子の字(あざな)。]をして問はしむ。曰はく、「吾、井を穿つに、其れ、狗を獲る。何んぞや。」と。仲尼曰はく、「丘の聞く所を以つてせば、羊なり。丘、之れを聞くに、木石の怪、夔(き)[やぶちゃん注:古い伝承によれば一本足で、音楽と関わる神獣とするが、後に零落して概ね妖怪となった。]にして、『魍魎』といふ。水中の怪、龍にして、『罔象(まうしやう)』といふ。土中の怪、曰はく、『賁羊』と。」と。「夏鼎志(かていし)」[やぶちゃん注:不詳の書。]に曰はく、「『罔象』は三兒のごとく、赤き目、黑き色、大いなる耳、長き臂(ひ)、赤き爪たり。索縛せば、則ち、食ふを得べし。」と。「王子」[やぶちゃん注:不詳の書。]に曰はく、「木の精は『遊光』と爲し、金の精は『淸明』と爲すなり。」と。)

   *

「青羊」中文辞書では「黒い羊」とか、木の精霊とが、伝説上の凶神とある。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 晝のおもひ

  晝のおもひ

 

晝(ひる)の思(おもひ)の織(お)り出(い)でし紋(あや)のひときれ、

歡樂(くわんらく)の緯(ぬき)に、苦悶(くもん)の經(たて)の絲(いと)、

縒(よ)れて亂(みだ)るる條(すじ)の色(いろ)、あるは叫(さけ)びぬ、

あるはまた醉(ゑ)ひ痴(し)れてこそ眩(めくる)めけ。

 

今(いま)、夜(よる)の膝(ひざ)、やすらひの燈(ともし)の下(もと)に、

卷(ま)き返(かへ)し、その織(お)りざまをつくづくと

見(み)れば朧(おぼろ)に危(あやふ)げに、眠(ねぶ)れる獸(けもの)、

倦(う)める鳥(とり)――物(もの)の象(かたち)の異(こと)やうに。

 

裁(た)ちて縫(ぬ)はさむかこの巾(きれ)を、宴(うたげ)のをりの

身(み)の飾(かざり)、ふさはじそれも、終(つひ)の日(ひ)の

棺衣(かけぎぬ)の料(れう)、それもはた物狂(ものぐる)ほしや。

 

生(せい)にはあはれ死(し)の衣(ころも)、死(し)にはよ生(せい)の

空炷(そらだき)の匂(にほ)ひをとめて、現(うつつ)なく、

夢(ゆめ)はゆらぎぬ、柔(やはら)かき火影(ほかげ)の波(なみ)に。

 

[やぶちゃん注:目次」で判る通り、ここまでが、本詩集では「豹の血(小曲八篇)」とパート題された詩篇群である。八篇総てが四連構成の、七五七・五七五調交互調のソネット(Sonnet:十四行詩)であり、ここまでは、標題を含めて見開きで各一篇が読み終える、非常に読み易く心地よい版組となっている。

「空炷(そらだき)」「空薰き」とも書く。「炷(た)く」は別表記でも判る通り、「香をたく」の意に用いる。前もってたくか、別室でたくかなどして、人に知られぬよう、どこからともなく薫ってくるように香をたきくゆらすこと。或いは、どこからともなく匂ってくる良い香りを指す、平安以来の古語である。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 寂靜

 

  寂 靜

 

熟(つ)えて落(お)ちたる果(このみ)かと、噫(あゝ)見(み)よ、空(そら)に

日は搖(ゆら)ぎ、濃くも腐(あざ)れし光明(くわうみやう)は

喘(あへ)ぎ黃(き)ばみて灣(いりうみ)の中(なか)に滴(したた)り、

波(なみ)に溶(と)け、波(なみ)は咽(むせ)びぬたゆたげに。

 

磯回(いそわ)のすゑの圓石(まろいし)はかくれてぞ吸(す)ふ、

飽(あ)き足(た)らひ耀(かゞや)き倦(う)める夕潮(ゆふじほ)を、

石(いし)の額(ひたへ)は物(もの)うげの瑪瑙(めなう)のおもひ、

かくてこそ暫時(しばし)を深(ふか)く照(て)らしぬれ。

 

風(かぜ)にもあらず、浪(なみ)の音(おと)、それにもあらで、

天地(あめつち)は一(ひと)つ吐息(といき)のかげに滿(み)ち、

沙(いさご)の限(かぎ)り彩(あや)もなく暮(く)れてゆくなり。

 

たづきなさ――わが魂(たましひ)は埋(うづも)れぬ、

こゝに朽(く)ちゆく夜(よる)の海(うみ)の香(にほひ)をかぎて、

寂靜(じやくじやう)の黑(くろ)き眞珠(またま)の夢(ゆめ)を護(まも)らむ。

 

[やぶちゃん注:「熟(つ)えて」「熟(つ)える」は「熟しきって潰れる」の意。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 茉莉花

 

  

 

咽(むせ)び嘆(なげ)かふわが胸(むね)の曇(くも)り物憂(ものう)き

紗(しや)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、

或日(あるひ)は映(うつ)る君(きみ)が面(おも)、媚(こび)の野(の)にさく

阿芙蓉(あふよう)の萎(ぬ)え嬌(なま)めけるその匂(にほ)ひ。

 

魂(たま)をも蕩(た)らす私語(さゝめき)に誘(さそ)はれつつも、

われはまた君(きみ)を擁(いだ)きて泣(な)くなめり、

極祕(ごくひ)の愁(うれひ)、夢(ゆめ)のわな、――君(きみ)が腕(かひな)に、

痛(いた)ましきわがただむきはとらはれぬ。

 

また或宵(あるよひ)は君(きみ)見(み)えず、生絹(すずし)の衣(きぬ)の

衣(きぬ)ずれの音(おと)のさやさやすずろかに

ただ傳(つた)ふのみ、わが心(こゝろ)この時(とき)裂(さ)けつ、

 

茉莉花(まつりくわ)の夜(よる)の一室(ひとま)の香(か)のかげに

まじれる君(きみ)が微笑(ほほゑみ)はわが身(み)の痍(きず)を

もとめ來(き)て沁(し)みて薰(かを)りぬ、貴(あて)にしみらに。

 

[やぶちゃん注:中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、本篇は明治四〇(一九〇七)年十月号『新思潮』創刊号(小山内薫による第一次)初出とある。

「茉莉花」(まつりか)はジャスミン茶として知られる、被子植物門双子葉植物綱シソ目モクセイ科ソケイ(素馨)属マツリカ Jasminum sambac。常緑半蔓性灌木で、インド・スリランカ・イラン・東南アジアなどに自生する。参照したウィキの「マツリカによれば、『サンスクリットのマリカー』『が語源』で、『中国語では(双瓣)茉莉、インドネシア語・マレー語ではムラティ』、『フィリピン語ではサンパギータ』、『ヒンディー語ではモグラ』、『ハワイ語ではピカケ』『で、日本でもこれらの名で呼ばれることがある』。『花は香りが強く、ジャスミン茶(茉莉花茶)などに使われる。ジャスミン茶は、マツリカの花冠で茶葉を着香する。ハーブオイルやお香などにも使われる』とある。「夜の一室の」とあるから、鉢植えのそれである。

「阿芙蓉」キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum 或いはその仲間のケシ(芥子・opium poppy)類の別名。所謂、極めて危険な麻薬「アヘン」(阿片/鴉片/opium(オピウム))を採取する(実から採取される果汁を乾燥させたもの)あれである。ウィキの「アヘンによれば、『アヘンの名の由来は、英語名opiumの中国語の音訳である阿片(拼音:a piàn』(アー・ピエン)『を音読みしたもので』、『明代の中国、江戸時代の日本では』、「阿芙蓉(あふよう)」『と書いた』とある。ここは表現上はその生花の萎び饐えた匂いなのであるが、そこには陰(いん)にアヘンの匂いも漂うよう、確信犯でこの花が選ばれていると読むべきであろう。

「蕩(た)らす」誑(たぶら)かす。「誑す」も「たらす」と訓ずる。

「われはまた君(きみ)を擁(いだ)きて泣(な)くなめり」かつて大学の国語学の講義や、高校の古文を教えていて、激しく不満であり、今も不満であり続けるのは、「なめり」はそう書いてあっても「なんめり」と読まなければならない、という奇妙な鉄則である。ここでそう読んだら、その輩はインキ臭い教条主義に溺れた鼻高の糞アカデミストでしかなく、死ぬまで永久に詩や文学は判らぬであろう。

「ただむき」「腕(ただむき)」で、これは肘(ひじ)から手首までの間の部分を指す、狭義の「腕(うで)」である。「腕」を「かいな(歴史的仮名遣:かひな)と読んだ場合は、狭義には、その上部である「肩から肘までの二の腕」を指す(広義には「肩から手首までの間」の用法もある)。

「しみらに」「繁みらに」。副詞で「ひまなく連続して・一日中」の意。「しめらに」とも書き、万葉以来の古語。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 蠱の露

 

  蠱 の 露

 

文目(あやめ)もわかぬ夜(よる)の室(むろ)に濃(こ)き愁(うれ)ひもて

釀(か)みにたる酒(さけ)にしあれば、唇(くちびる)に

そのささやきを日(ひ)もすがら味(あぢは)ひ知(し)りぬ、

わが君(きみ)よ、間(たえま)もあらぬ誄辭(しぬびごと)。

 

何(なん)の痛(いた)みか柔(やはら)かきこの醉(ゑひ)にしも

まさらむや、嘆(なげ)き思(おも)ふは何(なに)なると

占問(うらど)ひますな、夢(ゆめ)の夢(ゆめ)、君がみ苑(その)に

ありもせば、こは蜉蝣(かげろふ)のかげのかげ。

 

見(み)おこせたまへ盞(さかづき)を、げに美(うる)はしき

おん眼(め)こそ翅(つばさ)うるめる乙鳥(つばくらめ)、

透影(すいかげ)にして浮(うか)び添(そ)ひ映(うつ)り徹(とほ)りぬ、

 

いみじさよ、濁(にご)れる酒(さけ)も今(いま)はとて

輝(かゞや)き出(い)づれ、うらうへに、靈(たま)の欲(ほ)りする

蠱(まじ)の露(つゆ)。――いざ諸共(もろとも)に乾(ほ)してあらなむ。

 

[やぶちゃん注:「蠱」(まじ)とは、「蠱じ物」の略(「厭魅」とも書く)。第一義では「呪(まじな)いをして対象のものを呪(のろ)うことやその邪悪な呪詛や修法を指すが、ここは、二義的な広義の「人を惑わすもの・魔性のもの」の謂いである。

「誄辭(しぬびごと)」「偲(しぬ)び言(ごと)」で、上代には「しのひこと」と清音であった。死者の生前の功徳を讃えて哀悼の意を述べる言葉。「誄詞(るいし)」。

「蜉蝣(かげろふ)」かく普通に一般人が用いた場合は真正の「カゲロウ」類である、

 

有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間

に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「蜉蝣」である、

有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類

及び、

脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類

を加えたものを指す。この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は、私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい。

「うらうへ」「杪上」。梢やそこの葉の上。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 月しろ

 

  月 し ろ

 

淀(よど)み流(なが)れぬわが胸(むね)に憂(うれ)ひ惱(なや)みの

浮藻(うきも)こそひろごりわたれ黝(くろ)ずみて、

いつもいぶせき黃昏(たそがれ)の影(かげ)をやどせる

池水(いけみづ)に映(うつ)るは暗(くら)き古宮(ふるみや)か。

 

石(いし)の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂(さ)びぬ、

沈(しづ)みたる快樂(けらく)を誰(たれ)かまた讃(ほ)めむ、

かつてたどりし佳人(よきひと)の足(あ)の音(と)の歌(うた)を

その石(いし)になほ慕(した)ひ寄(よ)る水(みづ)の夢(ゆめ)。

 

花(はな)の思(おも)ひをさながらの禱(いのり)の言葉(ことば)、

額(ぬか)づきし面(おも)わのかげの滅(き)えがてに

この世(よ)ならざる緣(えにし)こそ不思議(ふしぎ)のちから、

 

追憶(おもひで)の遠(とほ)き昔(むかし)のみ空(そら)より

池(いけ)のこころに懷(なつ)かしき名殘(なごり)の光(ひかり)、

月(つき)しろぞ今(いま)もをりをり浮(うが)びただよふ。

 

[やぶちゃん注:「浮(うが)びただよふ」はママ。「うが」の植字ミスであろう。

「月しろ」は「月白」「月代」で、熟語としては、「月が登る頃おい、東の空が白んで明るく見えること」を指す。但し、中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、本篇は明治四〇(一九〇七)年六月号『文庫』初出であるが、そこでの標題は「月魂(つきしろ)」とあるから、ここは薄白い月の姿を限定的に挿していると読んだ方が、全体から見てもしっくりくる。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 靈の日の蝕

 

  靈の日の蝕

 

時(とき)ぞともなく暗(くら)うなる生(いのち)の扃(とぼそ)、――

こはいかに、四方(あたり)のさまもけすさまじ、

こはまた如何(いか)に我胸(わがむね)の罪(つみ)の泉(いづみ)を

何(なに)ものか頸(うなじ)さしのべひた吸(す)ひぬ。

 

善(よ)しと匂(にほ)へる花瓣(はなびら)は徒(あだ)に凋(しぼ)みて、

惡(あ)しき果(み)は熟(つ)えて墜(お)ちたりおのづから

わが掌底(たなぞこ)に、生溫(なまぬる)きその香(か)をかげば

唇(くちびる)のいや堪(た)ふまじき渴(かは)きかな。

 

聞(き)け、物(もの)の音(おと)、――飛(と)び過(す)がふ蝗(いなご)の羽音(はおと)か、

むらむらと大沼(おほぬ)の底(そこ)を沸(わ)きのぼる

毒(どく)の水泡(みなわ)の水(みづ)の面(も)に彈(はじ)く響(ひゞき)か、

 

あるはまた疫(えやみ)のさやぎ、野(の)の犬(いぬ)の

淫(たはれ)の宮(みや)に叫(さけ)ぶにか、噫(あゝ)、仰(あふ)ぎ見(み)よ、

微(かす)かなる心(こゝろ)の星(ほし)や、靈(たま)の日(ひ)の蝕(しよく)。

 

[やぶちゃん注:「淫(たはれ)の宮(みや)」これは単なる淫祠邪教の神の意ではなく、詩篇のニュアンスからも「淫宮」で、漢音訳「彌那」、古代インドの性愛的豊饒神ミトゥナのことを指していよう。インドのマディヤ・プラデーシュ州のカジュラーホー村にあるジャイナ教のパールシュバナータ寺院などにある、非常にエロティクな男女の交合像で表わされる神で、ウィキの「ミトゥナ」によれば、『男女一対の神像は』、『一日の時を支配する昼と夜』又は『月の神々として崇拝された。性愛の体位を多種多様に表現しており、ラクシュマン寺院の壁面彫刻では一男三女の組み合わせの性交図もある』とある。ウィキの画像をリンクさせておく。孰れのリンク先も自己責任でクリックされたい。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 若葉のかげ

 

  若葉のかげ

 

薄曇(うすぐも)りたる空(そら)の日(ひ)や、日(ひ)も柔(やは)らぎぬ、

木犀(もくせい)の若葉(わかば)の蔭(かげ)のかけ椅子(いす)に

靠(もた)れてあれば物(もの)なべておぼめきわたれ、

夢のうちの歌(うた)の調(しらべ)と暢(の)びらかに。

 

獨(ひとり)かここに我(われ)はしも、ひとりか胸(むね)の

浪を趁(お)ふ――常世(とこよ)の島(しま)の島(しま)が根(ね)に

翅(つばさ)やすめむ海(うみ)の鳥(とり)、遠(とほ)き潮路(しほぢ)の

浪枕(なみまくら)うつらうつらの我(われ)ならむ。

 

半(なかば)ひらけるわが心(こゝろ)、半閉(なかばと)ぢたる

眼(め)を誘(さそ)ひ、げに初夏(はつなつ)の芍藥(しやくやく)の、

薔薇(さうび)の、罌粟(けし)の美(うま)し花(はな)舞(ま)ひてぞ過(す)ぐる、

 

艷(えん)だちてしなゆる色(いろ)の連彈(つれびき)に

たゆらに浮(うか)ぶ幻(まぼろし)よ――蒸(む)して匂(にほ)へる

蘂(ずゐ)の星(ほし)、こは戀(こひ)の花(はな)、吉祥(きちじやう)の君(きみ)。

 

[やぶちゃん注:「浪」と「夢」のルビがないのはママ。これは意図したものではなく、校正・植字工のミスと思われる。

「趁(お)ふ」「追ふ」に同じい。「趁」は音「チン」で、「」は「人+彡(たくさん)」の会意文字で、「人の髪の毛がびっしりと詰っていること」を意味し、「前の人にぴったりとついて追うこと」が原義である。

蒲原有明 有明集 正規表現版 始動 口絵・中扉・献辞・目次 智慧の相者は我を見て

 

[やぶちゃん注:蒲原有明の名詩集「有明集」の正規表現版を始動する。

 蒲原有明(かんばらありあけ 明治八(一八七五)年(戸籍上は翌年)~昭和二七(一九五二)年)東京府麹町区(現在の千代田区)隼(はやぶさ)町生まれ。本名隼雄(はやお)。父忠蔵は佐賀県出身の官吏で、生母ツネは有明八歳のときに離別され、継母のもとで育った。東京府立尋常中学校(現在の日比谷高等学校)卒業後、神田錦(にしき)町の国民英学会で英文学を学ぶ。明治三一(一八九八)年『読売新聞』の懸賞小説(尾崎紅葉選)に一等当選したが、小説は二作を以ってやめ、以後、詩作に専念した。明治三五(一九〇二)年、第一詩集「草わかば」を新声社より刊行、薄田泣菫(明治一〇(一八七七)年~昭和二〇(一九四五)年と並ぶ新しい時代の詩人として世に迎えられた。第二詩集「獨絃哀歌」(明治三五(一九〇二)年白鳩社刊)では、「独絃調」とよばれる独特の詩律を創始し、一時代の流行を生み、また、第三詩集「春鳥集」(明治三八(一九〇五)年本郷書院刊)は、わが国で初めて象徴主義的志向を表明した詩集として知られる。その「自序」では、詩形の革新を図り、「邦語の制約を寬(ひろ)う」しながら、諸官能の交錯を通じて「近代の幽致」を表現すべきことが主張されている。しかし、有明の真に最高の詩的達成は、次の本詩集「有明集」であって、この詩集は、自ら言う、「感覺の綜合整調」の世界を十全に見せた、わが国象徴詩の一頂点と言われる。これ以後、彼は詩壇の第一線から退いてしまったが、生涯自作の改作推敲を続けた(私はしかし彼の改作は概ね改悪であると考えている。本注末にリンクした「牡蠣の殼」を見られたい)。ほかに随筆集「飛雲抄」(昭和一三(一九三八)年書物展望社刊)、自伝小説「夢は呼び交す」(昭和二三(一九四七)年東京出版刊)等がある(以上は概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。

 彼の第四詩集「有明集」は明治四一(一九〇八)年一月一日に易風社(東京市麹町区飯田町)より刊行された。平凡社「世界大百科事典」によれば、前に述べた通り、有明の詩業の頂点を成す詩集で、ソネット形式の「豹の血」八編を始め、孰れも文語定型による創作詩四十八編及び訳詩四編を収める。中でも「豹の血」に含まれる「智慧の相者は我を見て」・「月しろ」・「茉莉花」等は特に知られ、視覚・聴覚・嗅覚などさまざまな感覚が複雑に絡み合い、交響し合う〈感覚の総合整調〉の世界を実現している。掉尾に配された長編バラードの傑作「人魚の海」や、仏教的理念を基調として繊細幽暗な世界を歌った「秋のこころ」・「滅の香」などを含め、象徴詩の典型であるとともに,日本近代詩の記念碑的詩集の一つである、とする。但し、ウィキの「有明によれば、『近代詩の一つの到達点を示し、現在でこそ象徴詩の傑作とされているが、自然主義が詩壇の主流となり始めていた当時はさほど高く評価され』ず、『蒲原は』これを以って『詩作を断念する事になる』ともある。

 使用底本は所持する昭和五八(一九八三)年刊の日本近代文学館刊行・名著復刻全集編集委員会編・ほるぷ発売の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」内の、明治四一(一九〇八)年一月一日発行(印刷は前年明治四〇年十二月二十五日)の同詩集初版本を用いた。但し、加工用データとして「青空文庫」の「有明集」のテキスト・ファイル(底本:昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」/入力・広橋はやみ氏/校正・荒木恵一氏/登録二〇一四年七月/最終更新二〇一五年十月)を使用させて戴いた。ここに示して謝意を表する。但し、同テクストは旧字旧仮名を謳っているものの、「青空文庫」の文字コード規定により、新字のままの漢字が散見し、さらに同テクストの底本の関係上からか、ほぼ総ルビに近い原本がパラルビとなってしまっていて、失礼乍ら、私には納得のいかない不十分なものである(ルビの一部には歴史的仮名遣の誤りも認められる)。無論、私のこれも Unicode や中文フォントの示し得る範囲内で不完全とは言えるが、今までの各種の正規表現版同様、原詩の表字に近いものとする覚悟ではある。

 初版本の雰囲気を再現するために、活字は明朝とし、不審な箇所には詩篇の後にストイックに注を附した。踊り字「〱」は正字化した。一部で底本の画像を配した。但し、本詩篇中、読点の後に文字の詩句が続くケースでは、読点の後にほぼ一字分の空隙が配されてあるのであるが、これは再現すると、電子テクストでは間の抜けた感じになるので、再現しなかった。なお、初版本は四六判、丸背上製クロス製である。

 私は高校時代に読み、激しい衝撃を受けた、有明の「草わかば」の「牡蠣の殻」を愛唱し、永遠(とわ)に愛する人間である(私の古い記事「牡蠣の殻 蒲原有明《2バージョン》」を参照されたい)。【2019年2月14日始動 私の六十一歳の最後の日に 藪野直史】]

 

Ariake1

 

Ariake4

[やぶちゃん注:表紙と背。底本セットの解説書によれば、『装幀は斎藤松洲と思われる』とし、『表紙の墨色クロスには理念調エンボスがあり』、表紙と『背は金箔押しで、背の天地には子持罫の空押がある』とある。斎藤松洲(しょうしゅう明治三(一八七〇)年~昭和九(一九三四)年)は日本画家で、明治末期から昭和初期にかけて、本の装丁家・挿絵家として活躍したが、残念ながら、現在、目にすることの出来る画集は大正五(一九一六)年刊の「仰山閣画譜」のみで、事蹟資料は残っていない(ここは羊羹で知られる和菓子「とらや」公式サイト内の『斎藤松洲と「目食帖」』に拠った)。なお、本文と背の綴目の天地には綴じ布の組目が見えていて、実にお洒落である。上部のそれを部分画像で示した。] 

 

Ariake2

 

[やぶちゃん注:口絵。同前解説書によれば、上質紙にコロタイプ印刷。この時代の著者近影としてはピントもよく、エッジも利いていて非常によい写真に見えるのであるが、底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説によれば、当時、『内臓疾患』(重い腎臓病を患っていた。但し、後の彼の死因は急性肺炎である)『で顔にも水腫が出ている』もので、『著者がもっとも嫌悪した写真であ』ったとある。] 

 

Ariake3

[やぶちゃん注:扉。著書近影の見開き左頁(ハトロン紙を挟む)。上質紙に赤色印刷。本文も上質紙である。] 

 

 

   この歌のひと卷を亡き父の

   み靈の前にささぐ。

 

[やぶちゃん注:底本では中扉(左頁)の中央下方に下一字上げインデント二行で大きい活字で記されてあるが、ブログのブラウザの不具合を考えて引き上げて示した。底本のそれは個人的にはバランスが少しよくないように感ずる。今少しポイントを落とした方がよかった。

 以下、目次。リーダと『頁』数は略した。「プレエク」はママ。当該詩篇で注するが、これはイギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の“The Fly”の訳詩である。] 

 

   目   次

 

豹の血(小曲八篇)

 智慧の相者は我を見て

 若葉のかげ

 靈の日の蝕

 月しろ

 蠱の露

 茉莉花

 寂靜

 晝のおもひ

 偶感

 秋のこころ

 大河

 甕の水

 朱のまだら

 坂路

 不安

 

 燈火

 草びら

 孤寂

 この時

 音もなし

 夏の歌

 秋の歌

 苦惱

 癡夢

 滅の香

 底の底

 灰色

 われ迷ふ

 穎割葉

 沙は燬けぬ

 海蛆

 大鋸

 淨妙華

 信樂

 惡の祕所

 どくだみ

 碑銘

 かかる日を冬もこそゆけ

 橡の雨

 皐月の歌

 晚秋

 序のしらべ

 やまうど

 鐘は鳴り出づ

 水のおも

 おもひで

 眞晝(ロセチ)

 聖燈(ロセチ)

 『ルバイヤツト』より

 蠅(プレエク)

 人魚の海

 

 

  豹 の 血(小曲八篇) 

 

[やぶちゃん注:パート標題。左頁の左位置に配されてある。ノンブルはここから新たに『――( 1 )――』となる。] 

 

  智慧の相者は我を見て

智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我(われ)を見(み)て今日(けふ)し語(かた)らく、

汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、

心弱(こゝろよは)くも人(ひと)を戀(こ)ふおもひの空(そら)の

雲(くも)、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。 

 

噫(あゝ)遁(のが)れよと、嫋(たを)やげる君(きみ)がほとりを、

綠牧(みどりまき)、草野(くさの)の原(はら)のうねりより

なほ柔(やはら)かき黑髮(くろかみ)の綰(わがね)の波(なみ)を、――

こを如何(いか)に君(きみ)は聞(き)き判(わ)きたまふらむ。 

 

眼(め)をし閉(とづ)れば打續(うちつゞ)く沙(いさご)のはてを

黃昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、

飢(う)ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、 

 

その影(かげ)ぞ君(きみ)を遁(のが)れてゆける身(み)の

乾(かは)ける旅(たび)に一色(ひといろ)の物憂(ものう)き姿(すがた)、――

よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐(あらし)に。 

 

[やぶちゃん注:本詩篇は、所持する中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、明治四〇(一九〇七)年六月号『文章世界』で、後の「若葉のかげ」「靈の日の蝕」『そのほかと共に』(この「そのほか」が何をを指すかは今のところ、私は不明。判ったら、追記する)、「皐月野」という総代で発表された、とある。

「綰(わがね)」ナ行下二段活用の動詞「綰ぬ」の連用形或いは連用形が名詞化したもの。集めて一つに纏めたもの。撓(たわ)めて輪にしたもの。

 因みに、冒頭注で述べ、「牡蠣の殻 蒲原有明《2バージョン》」でも後年の改悪例を示しているが、それは後の大正一一(一九二二)年刊の「有明詩集」で旧作の殆どに対して断行され、その後も亡くなるまで改変をやり続けた(一部の詩篇は最終的に旧の形に戻したものもある)。例えば(私は彼の改作の殆どを認めないので、総てについては示すつもりはない。それは寧ろ、有明のミューズへの配慮のためである)、本篇の場合を、後の彼の自選詩集「有明詩抄」(昭和三(一九二八)年岩波文庫刊)から引いてみよう。

   *

  智慧の相者は我を見て

「智慧(ちゑ)」の相者(さうじや)は我を見て警(いまし)めていふ。

汝(な)が眼(まみ)は兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)れ、

心弱くも他人(あだしびと)戀(こ)ひわたりなば、

夜(よ)の疾風(はやち)やがて襲(おそ)はむ、遁(のが)れよと。 

 

噫、遁れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、

綠牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりよりも

なほ柔(やはら)かき黑髮の綰(わがね)の波を、――

そを如何に君は聞き判(わ)きたまふらむ。 

 

眼(め)をし閉(とづ)れば黃昏(たそがれ)の沙(いさご)の涯(はて)を

頸垂(うなじた)れ辿(たど)りゆく影の浮かび來(く)る、――

飢(う)ゑてさまよふ獸(けもの)かと、咎(とが)めたまはじな。 

 

これぞわがうらぶれ姿(すがた)、惡醜(いなしこ)め。

今は惑はず、渦潮(うづしほ)の戀におもむき、

湍(たぎ)ち湧(わ)く海に禊(みそ)がむ。溺(おぼ)るるもよし。

   *

「惡醜(いなしこ)め」は形容詞ク活用の語幹の詠嘆用法として一語で採って読みを振った。「いな」は嫌悪の感情を表わす感動詞由来で、「しこめ」は「醜(しこめ)し」で、合わせて「なんと醜悪であることか!」「穢れているものよ」の意である。既に「古事記」の「上つ巻」の、知られた伊耶那岐の黄泉国(よみのくに)から帰還した後、日向の海岸で禊をする直前に「吾は伊那志許米上志許米岐(イナシコメシコメキ)穢き國に到りて在りけり」と出る上代語である(最終連はまたそのシークエンスをも有明は意識している)。にしても! 《変性した脳による自己改竄》とでも言うべき《惨憺たる〈壊変〉》ではないか! 中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説には、日夏耿之介の批判を以下のように載せている(太字は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

『有明詩集』では、第一行目の「今日し語らく」を「警(いまし)めていふ」と改訂し、その後『定本』にいたるまで、これを踏襲しているが、この点について日夏耿之介はつぎのように批判する。「簡勁[やぶちゃん注:「かんけい」は、詩文が簡潔で力強いこと。]の一句がけふというカ行を頭にした堅い言葉と〈語らく〉というカ、タ、ラというような烈しい語音からなる言葉をつなぐに、という力強い一語をもって緊迫してあり、〈警めていふ〉というような力の弱い(略)しかも説明的な余情に乏しい語句になっている点、到底旧作の神韻に及ばないのである」(『明治大正詩誌史』)

   《引用終了》

この日夏の指摘は正鵠を射ている。]

2019/02/13

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(20) 「河童ト猿ト」(3)

 

《原文》

 【猿猴淵】猿ノ水中ニ住ムト云フコトハ何分ニモ信ジ難キ話ナレドモ、兎ニ角昔ノ人ハ此ノ如キ一種ノ猿ヲ見聞セシ者多カリキト覺シク、今モ府縣ノ地名ニ猿ケ淵又ハ猿猴淵ナドト云フモノ少ナカラズ。例ヘバ

  石見美濃郡匹見下村大字落合矢尾小字猿猴ケ淵

  同 邑智郡長谷村大字長谷山中小字猿猴淵

  土佐長岡郡天坪村大字北瀧本エンコウ淵

  同 幡多都下川口村大字宗呂エンコウ淵

  下野下都賀郡富山村大字富田猿淵

  武藏入間郡南高麗村大字下直竹猿淵

  越前足羽郡東鄕村大字下昆沙門猿ケ淵

  美作苫田郡東一宮村大字東一宮猿淵

等ノ如シ。【エンコザル】我々ノ幼時ニハ、文人畫ニ畫カルヽ一種手ノ長キ猿ノミヲ「エンコザル」ト呼ビタリキ。猿猴ノ月ヲ捉フル話ハ必ズシモ物ノ譬ニハアラズ。大和ノ猿澤池ノ如キハ昔多クノ猿集リ手ト手ヲ組ミテ梢ヨリ水ノ月ヲ取ラントセシガ、最初ノ猿手ヲ放チシ爲悉ク池ニ落チテ死ス。其猿共ヲ埋メテ驗ノ松ヲ栽ヱ今モ存スト云ヘリ〔所歷日記〕。其顚末ノ越中駒見(マミ)ノ狼婆ト似タルハ一奇ナリ。【水ノ月】右ノ猿猴淵ト云フ地名ノ由來モ、恐クハ亦此物水底ノ月ヲ採ラントセシ故跡ナドト明スル老人アルべケレド、實際ハヤハリ他ノ地方ノ河童淵又ハ川子淵ト同樣ニ、其地ニハ曾テ此ノ如キ猿ノ住ミシ時代アリシモノト解スべキナリ。【中山神】美作ノ猿淵ハ一宮中山神社ノ猿ナルべシ。此社ノ猿ハ今昔物語以來有名ナリ。今モ明神ノ神使トシテ崇敬セラレ、一宮村ノ贄殿谷(ニエドノダニ)又ハ同郡西苫田村大字小原ニ猿ノ祠アリ。每月十二日ノ夜ニ宮ノ靈猿必ズ黑澤山ニ登リ佛殿ノ中ニ宿ス。風雨霜雪ノ夜ト雖缺クコトナシ。【通夜猿】之ヲ名ヅケテ通夜猿ト云フ。一宮村大字東田邊ノ石原川ニモ猿淵アリ(或ハ前ノ猿淵ト同ジキカ)。一宮神社ノ使ノ猿此村ノ湯原山王ニ來ルトキ、每ニ此淵ニ入リテ齋浴スル故ニ此名アリト云フ〔作陽志〕。若狹遠敷(ヲニフ)郡宮川村大字加茂ト、同郡野木村大字上野木トノ境ノ山ノ麓ニ、猿陪淵ト云フ處アリ。【賀茂明神】太古賀茂明神降臨ノ折ニ之ニ供奉シタル白猿此淵ニ姿ヲ現ハス。淵ノ底ニハ明神ノ冠石(カンムリイシ)ト云フ一箇ノ小石アリ。【雨乞】旱魃ノ年ニハ雨乞トシテ水中ヨリ右ノ小石ヲ抱キ上グレバ驗アリ〔若狹郡縣志〕。此等ノ白猿又ハ靈猿ハ御伽噺ノ中ノ猿ノ如ク、水ノ中ニ入ルコトヲ意トセズ。恐クハ卽チ安藝ノ淵猿ヤ三河ノ河猿ト同族ニシテ、其昔何カ然ルべキ由緖アリテ、土地ノ者ヨリ永ク尊崇ヲ受クルニ至リシナランカ。而シテ其尊崇ノ起原ニ至リテハ後ニ猶アリ。

 

《訓読》

 【猿猴淵】猿の水中に住むと云ふことは、何分にも信じ難き話なれども、兎に角、昔の人は此(かく)のごとき一種の猿を見聞(みきき)せし者多かりきと覺しく、今も府縣の地名に「猿ケ淵」又ハ「猿猴淵」などと云ふもの、少なからず。例へば、

  石見美濃郡匹見下(ひきみしも)村大字落合矢尾小字猿猴ケ淵

  同 邑智(おうち)郡長谷村大字長谷山中小字猿猴淵

  土佐長岡郡天坪(あまつぼ)村大字北瀧本エンコウ淵

  同 幡多都下川口村大字宗呂(そうろ)エンコウ淵

  下野(しもつけ)下都賀(しもつが)郡富山村大字富田(とみだ)猿淵

  武藏入間郡南高麗(みなみこま)村大字下直竹(しもなほたけ)猿淵

  越前足羽(あすは)郡東鄕村大字下昆沙門猿ケ淵

  美作(みまさか)苫田(とまた)郡東一宮村大字東一宮猿淵

等のごとし。【エンコザル】我々の幼時には、文人畫に畫(ゑが)かるゝ、一種、手の長き猿のみを「エンコザル」と呼びたりき。猿猴の月を捉ふる話は、必ずしも物の譬へにはあらず。大和の猿澤の池のごときは、昔、多くの猿、集り、手と手を組みて、梢より水の月を取らんとせしが、最初の猿、手を放ちし爲め、悉く池に落ちて死す。其の猿共を埋めて驗(しるし)の松を栽ゑ、今も存すと云へり〔「所歷日記」〕。其の顚末の越中駒見(まみ)の狼婆(おほかみばば)と似たるは一奇なり。【水の月】右の猿猴淵と云ふ地名の由來も、恐らくは亦、此の物、水底(みなそこ)の月を採らんとせし故跡などと明する老人、あるべけれど、實際は、やはり他の地方ノ河童淵又は川子淵と同樣に、其の地には、曾て此(かく)のごとき猿の住みし時代ありしものと解すべきなり。【中山神】美作の猿淵は一宮中山神社の猿なるべし。此の社(やしろ)の猿は「今昔物語」以來、有名なり。今も「明神の神使」として崇敬せられ、一宮村の贄殿谷(にえどのだに)又は同郡西苫田村大字小原に猿の祠(ほこら)あり。每月十二日の夜に、宮の靈猿、必ず、黑澤山に登り、佛殿の中に宿す。風雨霜雪の夜と雖も、缺(か)くことなし。【通夜猿】之れを名づけて「通夜猿」と云ふ。一宮村大字東田邊(ひがしたなべ)の石原川にも猿淵あり(或いは前の猿淵と同じきか)。一宮神社の使ひの猿、此の村の湯原山王に來たるとき、每(つね)に此の淵に入りて齋浴(さいよく)する故に此の名あり、と云ふ〔「作陽志」〕。若狹遠敷(をにふ)郡宮川村大字加茂と、同郡野木村大字上野木との境の山の麓に、猿陪淵(さるべのふち)と云ふ處あり。【賀茂明神】太古、賀茂明神、降臨の折りに、之れに供奉したる白猿、此の淵に姿を現はす。淵の底には「明神の冠石(かんむりいし)」と云ふ一箇の小石あり。【雨乞(あまごひ)】旱魃の年には雨乞として、水中より右の小石を抱き上ぐれば、驗(しるし)あり〔「若狹郡縣志」〕。此等の白猿又は靈猿は、御伽噺(おとぎばなし)の中の猿のごとく、水の中に入ることを意とせず。恐らくは、卽ち、安藝の淵猿や三河の河猿と同族にして、其の昔、何か然るべき由緖ありて、土地の者より永く尊崇を受くるに至りしならんか。而して、其の尊崇の起原に至りては、後に、猶ほ、あり。

[やぶちゃん注:「石見美濃郡匹見下(ひきみしも)村大字落合矢尾」現在の島根県益田市匹見町落合矢尾(グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、以下もそうだが、淵名が残るかどうかまでは調べていない。悪しからず)。

「同 邑智(おうち)郡長谷村大字長谷」現在の島根県江津市桜江町長谷か。但し、北の区域外に「山中」の地名が別に残る。

「土佐長岡郡天坪(あまつぼ)村大字北瀧本」現在の土佐山田町北滝本

「同 幡多都下川口村大字宗呂(そうろ)」現在の高知県土佐清水市宗呂

「下野(しもつけ)下都賀(しもつが)郡富山村大字富田(とみだ)」現在の栃木県栃木市大平町富田か。ただ、現行のこの附近には河川がない。二キロほど東に永野川があるが。

「武藏入間郡南高麗(みなみこま)村大字下直竹(しもなほたけ)」現在の埼玉県飯能市下直竹

「越前足羽(あすは)郡東鄕村大字下昆沙門」現在の福井県福井市下毘沙門町(ちょう)

「美作(みまさか)苫田(とまた)郡東一宮村大字東一宮」現在の岡山県津山市東一宮

「文人畫に畫(ゑが)かるゝ、一種、手の長き猿」グーグル画像検索「手長猿 文人画」を見られたい。

「猿猴の月を捉ふる話は、必ずしも物の譬へにはあらず。大和の猿澤の池のごときは、昔、多くの猿、集り、手と手を組みて、梢より水の月を取らんとせしが、最初の猿、手を放ちし爲め、悉く池に落ちて死す。其の猿共を埋めて驗(しるし)の松を栽ゑ、今も存すと云へり〔「所歷日記」〕」書名注は付けない原則だが、この「所歷日記」というのは、江戸小伝馬町牢屋奉行で国学者でもあった石出吉深(いしでよしふか 元和元(一六一五)年~元禄二(一六八九)年)が書いたもので、寛文四(一六六四)年に成立した。官務の疲れを癒すために有馬温泉に湯治した際の紀行見聞記である。ウィキの「猿沢池」によれば、この池は『興福寺が行う「放生会」の放生池として』、天平二一(七四九)年に『造られた人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式である』とし、『猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを嘆き悲しんで入水した采女を慰めるために建てられたという』とあり、『猿沢池の名前の由来は、インドのヴァイシャーリー国』(毘舎離(びしゃり)・吠舎離とも表記し、古代インドの十六大国の一つであったヴァッジ国内にあった商業都市国家。『リッチャヴィ族(離車族)の住んでいた地域で、自治制・共和制が敷かれ、通商貿易が盛んで、自由を尊ぶ精神的雰囲気があったと言われている』。『釈迦の時代においてもよく知られた商業都市であり、仏典にも数多くその名が見られ、仏教教団自体にも強い影響を与えており、仏教僧団を意味する「サンガ」(僧伽)という言葉は、元々はこの地域に発生した商工業者の同業組合や共和制を意味する言葉であり、その仕組みを仏教教団側が採用したことから、仏教僧団がこの名で呼ばれるようになった』。『初期仏教教団における特異な在家信徒(後に出家)である遊女アンバパーリーが住んでいたことや、仏教経典の第』二『回結集が行われたことで有名。ここはウィキの「毘舎離」に拠った)『の猴池(びこういけ)から来たものと言われている。猴の字義としては、尾の短い種類のサルをさしている』とする。放生池で入水自殺した采女もなんだかなと思うが、ここで柳田が言っているのはその入水した采女塚なのではないかなどと考えてみたりもしたが、笹本正治氏の論文「猿沢池が血に染まる――伝承と場のイメージ――PDF)の猿沢の池の「名前の由来解釈」によれば、『元禄九(一六九六)年の自序を持つ『行嚢抄』[やぶちゃん注:江間氏親の旅の見聞を記した紀行文。]は、猿沢池の名称由来の一つを、昔この池の辺に猿が多く集まり、池の水に映っていた月影を見て、影を取ろうと手に手を取って組み、池に臨んだが、一疋の猿が手を離したので、猿が多く池の水の中に入って溺死した。それから猿沢と名づけた。溺死した猿を埋めたしるしとして、池の傍に松があると説明する(『古事類苑地部一二』一三一二頁)』とあった。柳田の記載はこれに基づくものであろう。

「越中駒見(まみ)の狼婆(おほかみばば)」既出既注。なお、現行の地名は「こまみ」であり、「ちくま文庫」版でも『こまみ』と振る。但し、サイト「日本姓氏語源辞典」の「万見(まんみ)」には、『富山県富山市。富山県富山市駒見(コマミ(旧:万見))発祥。室町時代から記録のある地名。地名と姓はマミと発音した』。この「万見」姓は『戦国時代・安土桃山時代の武将である織田信長の家臣として安土桃山時代に記録』があり、『古くは「まみ」と読んだのかも知れぬ』とあるので、柳田のルビが正統。ただ、既出部では柳田はルビを振っていない

「實際は、やはり他の地方ノ河童淵又は川子淵と同樣に、其の地には、曾て此(かく)のごとき猿の住みし時代ありしものと解すべきなり」無論、言うまでもなく、霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae のテナガザル類(通臂猴のモデル)は本邦には今も昔も棲息せず、『インド東端を西限、中国最南端を北限とし、バングラデシュ・ミャンマー・インドシナ半島を経て、マレー半島からスマトラ島、ジャワ島西部、ボルネオ島に至る地域』を分布域とする。但し、『千年ほど前には黄河以北にも生息していたことが中国の文献に記載されて』は『いる』とウィキの「テナガザルにはある。

「一宮中山神社」現在の岡山県津山市一宮にある、美作国一宮中山神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「中山神社」によれば、『社名は現在』は『「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも』呼んだ。ここには境内に「猿神社」があり(リンク先は同ウィキの画像)、祭神は猿多彦神で『本殿裏に鎮座』し、「今昔物語集」等の『記述は』、『この猿神社に由来するものと伝える』とあり(次の注のリンク先の方が詳細)、柳田も「此の社(やしろ)の猿は「今昔物語」以來、有名なりと記すが、その「今昔物語集」の「巻第二十六」の「美作國神依獵師謀止生贄語第七」((美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄(いけにへ)を止(とど)めし語(こと) 第七(しち))は、既に私の「柴田宵曲 妖異博物館 人身御供」で電子化しているので、そちらを参照されたい

「一宮村の贄殿谷(にえどのだに)又は同郡西苫田村大字小原」個人サイト「戸原のトップページ」の中の「中山神社」に、『当地には猿にかかわる伝承が幾つかあり、管見したものとして』と前振りをなさって、柳田が示す「作陽志」の「苫南郡神社部」からとして、『猿休 華表を去ること十三町、石有りて猿の腰懸と名づく。往年、津山の士人、採りて仮山に安ず、其の夜怪異無数、其の人大いに怖れ本拠に還す』(「猿休」は「さるやすみ」と読むか。以下を含め、国立国会図書館デジタルコレクションの「作陽志」の当該部の画像が見られる。但し、一部(画面左端の「贄殿谷」(以下、後のページに続く)の条の「宇治拾遺物語」の引用等)を除き、総て漢文)。『旧説によれば、猿を以て一宮(当社)の使獣と為す。是故、贄殿谷に猿祠有り。小原村亦之有り。今、道祖神と為す、蓋し道祖神は猿田彦命に因みて付会し名付けしものにて笑ふべし』。『又、黒沢山の僧云、曾て一宮に異猿有り、毎月十二日夜』、『黒沢山に上りて仏殿に寝る。雨風霜雪の夜と雖も之に関わらず。名づけて通夜猿と云』ふ、とあり、また、「美作風土略」(宝暦一二(一七六二)年成立)の「中山神社」の項には、『此宮の使者は猿也。吉備の宮(吉備津神社)に使いする事』、『ままあり。さだまれる休所ありて、稀に見たる人も有り』とある。また、サイト主は、この中山神社及び周辺地域の猿神伝承について、『猿は山の神の使いであり(日吉神社等)、古代象形文字で、神を』「申」『(シン・サル)と記すように神(ここでは山の神)そのものともされる』『また、山の神は農耕に必要な水をもたらす水の神でもあり、里にあっては田の神・農耕の神となるという』。『この説話の原姿は、里の女(巫女)が神(山神=水神)を迎えて豊かな水の供給と穀物の豊饒を祈願し、その妻となって御子を産むというもので、時代が下るにつれて、到来する神が生贄を求める邪神に、巫女が生贄となる女性へと変化したものという』。『当社の猿神祭神説は、伝承にいう神顕現以前の素朴な山の神信仰をあらわしているのかもしれない』と述べておられ、極めて肯んぜられる見解と思う。「贄殿谷」という地名は、この中山神社本殿裏手にある「猿神社」のある旧地名ではあることが、サイト主は、『社殿左手に立つ猿神社と染め抜かれた赤い幟から、細い地道を約』五『分ほど進んだ左手の山腹に鎮座する小祠』で、『道から祠までは、折れ曲がった参道(山道)を登るが、手すりがあり』、『難路ではない』とされ、『栞によれば、「今昔物語』二十六『巻にみえる中山の猿の霊を祀るとされ、現在、猿田彦神として祀られる。牛馬の安産守護の神として信仰をうけ、今も尚、ぬいぐるみの小猿を奉納する風習が残る」』とする。「同郡西苫田村大字小原」の方は、岡山県津山市小原に「西苫田公民館」の名を現認出来る(グーグル・マップ・データ)。但し、こちらに猿の祠が現存するかどうかは判らぬ。

「一宮村大字東田邊の石原川」岡山県津山市一宮東田辺(グーグル・マップ・データ)。但し、現行のここは中山神社の北西一・七キロメートルの位置にあり、大きな河川は周辺にない。柳田は「或いは前の猿淵と同じきか」というのは、ずっと手前の中山神社近くにあった猿淵で沐浴したと推定したことを指すものである。

「湯原山王」不詳。「作陽志」のこちらに(返り点は省略した)。

   *

山王權現 在東田邊村此村之氏神也祭祀九月八日封内方廿間

   *

とあるのがそれか? 但し、柳田の引用は同書の「部」の「石原川」(返り点は省略した)。

   *

石原川 在東田邊村此川有猿淵俗獼猴者一宮使獸也爲神奉使湯原山王【在此村】則每浴齋于此因名源出於黑澤又遠保谷惠比谷【出於黑澤山硯岩】等溪水會此川入田邊川

   *

「若狹遠敷(をにふ)郡宮川村大字加茂と、同郡野木村大字上野木との境の山の麓」中心部附近であろう(グーグル・マップ・データの航空写真)。現在の福井県小浜市加茂及び福井県三方上中郡若狭町武生の間に丘陵がある。

「賀茂明神」上記のリンクの地図に「加茂神社」を現認出来る。因みに、南方熊楠の「十二支考 猴に関する伝説」(大正九(一九二〇)年)に、

   *

 猴を神使とせる例、『若狭(わかさ)郡県志』に上中郡賀茂村の賀茂大明神降臨した時白猿供奉(ぐぶ)す、その指した所に社を立てた。飛騨宕井戸村山王宮は田畑の神らしい。毎年越中魚津村山王より一両度常のより大きく薄白毛の猴舟津町藤橋を渡りてここへ使に参る(『高原旧事』)、江州(ごうしゅう)伊香(いか)郡坂口村の菅山寺は昔猴が案内して勅使に示した霊地の由(『近江輿地誌略』九〇)、下野(しもつけ)より会津方面にかけて広く行わるる口碑に、猿王山姫と交わり、京より奥羽に至り、勇者磐次磐三郎を生む、猿王二荒神を助け赤城神を攻めて勝ち、その賞に狩の権を得、山を司ると(『郷土研究』二の一、柳田氏の説)。

   *

「明神の冠石(かんむりいし)」不詳。]

アリス蘇生夢

今朝方の夢――

私は妻と、蟻地獄の底のような場所の古びた一つの民家に住んでいる。
 
[やぶちゃん注:阿部公房の「砂の女」(一九六二年発表)の勅使河原宏監督の映画版(一九六四年公開)によく似ていた。しかし全体は黒澤明の「どん底」(一九五七年)のそれに近い。]

底の地中には温泉があって、気がつくと、私の家の脇には大きな古びた湯治宿も建っていたりする。温かく、その引火性のガスが宿部屋に配された筒状の人工の噴気孔から噴き出していたりするのである。私はその大部屋に入って行くのだが、その焰を強くし過ぎて、その脇にあった布団の白いカバーの一部を黒焦げにしてしまった。私はそれを仲居の、和服日本髪の少女に謝りながら告げると、少女は、
「そういうことはよくあるのであります。」
と言って微笑して、手際よく、そのカバーを外して、取り替えて呉れるのであった。
 
[やぶちゃん注:それはもう、言わずもがな、つげ義春の漫画にそっくりな少女とシチュエーションの映像なのであった。]

私は私の家を改築をしようと、建具などを出し入れしている。合間に、外に出した古いレコード・プレイヤーのカートリッジを替えて(途中、ウェイトが重過ぎて、針が上がり気味なのが気になるのだが、レコードはかけられた)何かのレコードをかけて聴いたりもしている。
 
[やぶちゃん注:残念なことに、そのレコードが誰の何だったのかをどうしても思い出せない。因みに、私のレコード・プレーヤーは、十年以上前、ターン・テーブルの回転ムラが起こるようになって以来、一度も使っていない。七百枚以上はあるレコードはそのまま死蔵している。これは昨日の夕刻、レコードを売らないかというその手の業者から電話があったのが直接には起因であろう。無論、断った。]

私は崩れた外周の一部の斜面を掘っている。上部にはアスファルトの断面がある。してみれば、ここは地震によって生じた陥没地帯であるらしい。

――そのアスファルトと砂の間から、一昨年、埋葬した三女のアリスの姿が見えた。
 
[やぶちゃん注:実際には動物葬祭業者に火葬にして貰っている。但し、二女のアリスは私の家の梅の木の脇の枇杷の下に、母と私と二人で埋葬した。]

しかし、彼女の姿は遺体ではなく、生きているのであった。

私が手を添えると、眼を開き、首を回して、私の手を舐めるのであった。

傍で穴掘りを手伝って呉れていた獣医の先生が応急処置をして、彼女はすっかり元のアリスに戻ったのであった。
[やぶちゃん注:この実在する家の近くの先生が、私が望んだ三女アリスの安楽死の処置をして下さった。]

この蟻地獄のような場所は実は「砂の女」のような出られぬ地獄ではなかった。

最後のシーンで私は、そこを出て、アリスを散歩させていたから。

アリスは、まだ、勘が戻らないのか、時々、無暗に突進して人家の壁にぶつかって、コロンと転げては、尻尾を振って、私の元へと走って来たりするのであった……

 

2019/02/12

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)

 Heisa

へいさらばさら

へいたらばさら

       【二名共蠻語也】

鮓荅

 タ

本綱鮓荅生走獸及牛馬諸畜肝膽之間有肉囊裹之多

至升許大者如雞子小者如栗如榛其狀白色似石非石

似骨非骨打破層疉可以祈雨輟耕録所載鮓荅卽此物

也曰蒙古人禱雨惟以浄水一盆浸石子數枚淘漉玩弄

密持咒語良久輙雨石子名鮓荅乃走獸腹中所産獨牛

馬者最妙蓋牛黃狗寶之類也鮓荅【甘鹹平】治驚癇毒瘡

△按自阿蘭陀來有平佐羅婆佐留其形如鳥卵長寸許

 淺褐色潤澤似石非石重可五六錢目研磨之有層層

 理如卷成者主治痘疹危症解諸毒俗傳云猨爲獵人

 被傷其疵痕成贅肉塊也蓋此惑也乃爲鮓荅也明

 矣

へいさらばさら

へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】

鮓荅

 タ

「本綱」、鮓荅〔(さたふ)〕[やぶちゃん注:今までのやり方では標題の読み「へいさらばさら」或いは「へいたらばさる」で読むことになるが、それは如何にも面倒であるので、通常のこちらの読みで統一する。]は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて、之れを裹〔(つつ)〕む。多きは升〔(しやう)〕許りに至る。大なる者は雞子〔(にはとりのたまご)〕のごとく、小なる者は栗のごとく、榛(はしばみ)のごとし。其の狀〔(かた)〕ち、白色〔にして〕、石に似て、石に非ず。骨に似て、骨に非ず。打ち破れば、層疉〔(さうでふ)〕す。以つて、雨を祈るべし。「輟耕録」に載する所の「鮓荅」は、卽ち、此の物なり。曰く、蒙古(むくり)の人、雨を禱〔(いの)〕るに、惟だ淨水一盆を以つて、石子〔(せきし)〕[やぶちゃん注:小石。]數枚を浸し、淘-漉〔(すすぎこ)〕し、玩弄し[やぶちゃん注:水で何度も洗い濯(すす)いでは、水の中で転がし、という意。]、密〔(こまや)か〕に咒語〔(じゆご)〕[やぶちゃん注:呪(まじな)いの呪文。]を持〔(じ)〕すれば[やぶちゃん注:呪文を用いて唱えれば。]、良〔(やや)〕久しくして、輙〔(すなは)〕ち、雨(〔あめ〕ふ)る。〔この〕石子を鮓荅と名づく。乃〔(すなは)〕ち、走獸の腹中に産する所〔のものなり〕。獨り、牛馬の者〔は〕、最も妙なり』〔と〕。蓋し、「牛黃〔(うしのたま)〕」・「狗寶〔(いぬのたま)〕」[やぶちゃん注:。]の類ひなり。鮓荅【甘鹹、平。】は驚癇[やぶちゃん注:漢方で言う癲癇症状のこと。]・毒瘡を治す。

△按ずるに、阿蘭陀〔(オランダ)〕より來たる「平佐羅婆佐留〔(へいさらばさら)〕」有り。其の形、鳥-卵(たまご)のごとく、長さ、寸許り、淺〔き〕褐(きぐろ)色、潤澤〔たり〕[やぶちゃん注:ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。]。石に似て、石に非ず。重さ、五、六錢目可(ばか)り[やぶちゃん注:日本の単位ではないので、明代のそれとすれば、一銭は三・七三グラムであるから、十八・六五から二十二・三八グラムで、二十グラム前後となる。]。之れを研磨すれば、層層たる理(すぢ)有りて、卷き成す者のごとし。痘疹の危症[やぶちゃん注:天然痘の重篤化したもの。]を治すを主〔(つかさど)〕る。諸毒を解すと〔いふ〕。俗傳に云はく、『猨〔(さる)〕、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕(きづ)、贅(こぶ)と成りて〔→たる〕肉-塊(かたまり)なり』と。蓋し、此れ、惑なり。乃ち、鮓荅たること、明らけし。

 [やぶちゃん注:私は既に十年前の二〇〇九年に、「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「猨」で本項の電子化注を行っているが、今回はそれを加工データとしつつ、リニュアルしたものを示す。この「鮓荅」は各種の記載を総合してみると、良安の記すように、日本語ではなく、ポルトガル語の「pedra」(「石」の意。ネイティヴの発音をカタカナ音写すると「ペェードラ」)+「bezoar」(「結石」ブラジルの方の発音では「ベッゾア」)の転であるとする。また、古い時代から、一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で「pādzahr」、「pad (expelling) + zahr (poison) 」(「毒を駆逐する」の意)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名を当該の獣類の名に繋げて「~のたま」と呼び、「鮓答(さとう)」とも書いた。但し、例えば大修館書店「廣漢和辭典」の「鮓」を引いても、この物質に関わる意味も熟語も示されてはいない。現代中国音では「鮓荅」は「zhǎ dā」(ヂァー・ダァー)で、やや「ペェードラ」に近い発音のように思われるから、それを漢音写したものかも知れない(但し、以下の引用ではモンゴル語説が示されてある)。良安が前の「狗寳(いぬのたま)」で「本草綱目」を引いている通り、『牛の黃(たま)・狗の寶・馬の墨(たま)・鹿の玉・犀の通-天(たま)、獸の鮓-荅(たま)、皆、物の病ひにして、人、以つて寳と爲す』であって、各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと思われ、漢方では現在でも高価な薬用とされているらしい。そこの注でも引いた、「中国の怪情報」というサイトのこちら(記者は編集長妙佛大爺氏)によれば、『古くから珍重されて来た希少な漢方薬の中に三宝と呼ばれるものがある。三宝とは馬宝、牛黄、狗宝の』三『種の漢方薬の総称』であるとされ、『いずれも動物の体内にごく稀に存在する』病変『物質である』。「狗宝」は既に前項で示したが、他の二つについてリンク先では以下のように説明されてある。『馬宝の正体は馬の腸内にできる結石であると言われている。結石の形成は偶然に左右されるので、ひとつひとつの形状や品質は全て異なる。それに応じて価格も変動する』。『オークションでの落札価格を見ると、高いものは日本円で数千万円の値段がついている』。『牛黄』niú huáng『は日本語で「ごおう」と読まれる』。『牛黄は現在の中国では比較的使用頻度が高い漢方薬だ。ただし』、『本物の牛黄ではなく』、『牛の胆汁で代用しているのだ。本物の牛黄はあまりにも高価なので通常は薬として使われることはない』。『牛黄の正体は牛の胆結石である。天然の牛黄は非常に高価である。特に大きなものは珍し』く、三百『グラムを超える牛黄に日本円で』一『億円以上の値段がついたこともある。やはりオークションでの価格だ』。一方、『馬宝』mǎ bǎo『は馬の体内に形成される石のような物体である。馬糞石、黄薬、鮓答(さとう)などの別名で呼ばれることもある』とある。因みに、リンク先には鶏のそれも記されてあり、『動物の体内から得られる希少な漢方薬は三宝だけではない。実はニワトリの体内にも石のような物体が生成されることがあるのだ』。『それを鶏宝』jī bǎo『という』。『鶏宝の正体については諸説ある。ひとつは馬宝や狗宝と同じように結石であるという説だ』。『もうひとつの説は卵胞の異常発育説である』。『本来なら卵巣内で育つはずの卵胞が腹腔内に侵入し、そこで大きく発育したものが鶏宝だというのだ。卵の黄身の部分に相当するものが腹腔内に形成され、それが硬化すると鶏宝になるということだ』。『このような現象は結石ができるよりもさらに発生頻度が少ないだろう。それだけ珍しいということになる』。『鶏宝には卵の黄身とそっくりな色と形のものがある一方で、石のようなものもあると言われている』。『恐らく鶏宝には卵胞から形成されるものと、結石と同じメカニズムで形成される』二『つのタイプがあるのだろう』。『福建省に恵安県(けいあんけん)という土地がある。世界史でも習う港町・泉州(せんしゅう)に属する街だ。花崗岩の産地であり、日本に墓石などを輸出している』。『その恵安県で鶏宝が発見されたというニュースが報道されたことがある。鶏宝の発見はそれほど大きなできごとなのだ。その概略を紹介しよう』。『恵安県の螺陽鎮(らようちん)という小さな村でのことだ』。『ある女性がニワトリを絞めて解体したところ、腹の中から』、『卵の形をした不思議な物体が現れた』。『それは内臓のようにも見えるが、普段からニワトリを解体している女性は、これはただの内臓ではないと気が付いた』。『その女性は以前新聞で鶏宝の記事を読んだことがあった。それはニワトリの腹の中にある非常に珍しく高価な薬であり、城ひとつと同じ価値があるとすら言われるほどの宝だというのだ』。『女性はさっそく上海のオークション業者』四『社に写真を送って鑑定を依頼した。その結果、女性が発見した不思議な物体が鶏宝である可能性はおよそ』九十『%であるとの結論を得たのだ』。『もしこれが本物の鶏宝であれば、最高』千七百五十『万元(日本円換算でおよそ』二億八千万円『)の価格がつく可能性があるという』。『高価な漢方薬の発見は中国ならではのチャイニーズ・ドリームだ。中国の田舎には家畜を捌くたびに一攫千金の夢がある』とある。

 それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は、かの「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ていないだろうか? 私はふわふわ系の未確認生物のイメージしかなかったから、偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。サイト「ん」の中の『けさらんぱさらん』の正体に関する諸説の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい(リンクも再現した。一部に記号を挿入させて貰い、改行も施した)。

   《引用開始》

腸内結石に関しては岩手大学農学部獣医学科のHPの説明では、

腸結石 Intestinal Concretion:糞便内の小石、釘、針金、釦などの異物に無機物が沈着して出来たもので主として馬の大腸、特に結腸内に見られる。

とある。

同じく岩手大学農学部獣医学科のHPの説明では、毛球と呼ばれる牛・羊・山羊などの動物の消化器内で発生する物質について書かれている。

毛球 Hair Ball:牛、羊、山羊などの反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球 というとの事。

(毛球と腸結石の写真が同HPに載っています。)

また、毛球に関しては犬からも発生する場合もあるとの事。

この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になるわけです。

「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン 鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン 動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」があるのもうなずけます。

おそらく、きつねが糞といっしょに粗毛球を排泄したのを見た方がつけたのでしょう。

また、[やぶちゃん注:中略。]「鉱物タイプ」を雨乞いに用いた事に関して、[やぶちゃん注:中略、]日本の雨乞いの方法の一つに,牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の 神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻[やぶちゃん注:体内と読み換えたい。]から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。[やぶちゃん注:中略。]

「その後の調査で、「輟耕録」に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で石を転がす)が『ケサランパサラン日記』のそれと酷似しており[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から一九八〇年に刊行した著作であるらしいが、未見であり、指示する当該記載が判らないので、この部分、何と酷似しているのかは不明である。]、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する「jada」という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため,犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」[やぶちゃん注:中略。]

 また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられた「へいさらばさら」は、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。」[やぶちゃん注:この最後の部分は最後に鍵括弧があるので、これもその情報提供者の追伸かとも思われる。]

   《引用終了》

「肉囊」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも特異な現象ではないものとも思われる。

「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii の実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。

「層疉」立体同心円(球状)の層状結晶を言うか。

「輟耕録」明代初期の学者陶宗儀(一三二九年~一四一〇年)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。記載は「巻四」の「禱雨」。

   *

往往見蒙古人之禱雨者、非若方士然、至於印令旗劍符圖氣訣之類、一無所用。惟取淨水一盆、浸石子數枚而已。其大喪者若雞卵、小者不等。然後獸默持密咒、將石子淘漉玩弄、如此良久。輒有雨、豈其靜定之功已成、持假此以愚人耳。抑果異物耶。石子名曰鮓答、乃走獸腹中所、獨牛馬者最妙。恐亦是牛黃・狗寶之屬耳。

   *

「蒙古(むくり)」蒙古(もうこ)はモンゴルの中国語による音写で、古く鎌倉時代に「もうこ」のほかに「むくり」「むこ」などと呼称した、その名残りである(因みに、鬼や恐ろしいものの喩えとして泣く子を黙らせるのに使われる「むくりこくり」とは「蒙古高句麗」で蒙古来襲の前後に「蒙古(むくり)高句麗(こくり)の鬼が来る」と言ったことに由来する)。遊牧民であるから、牛馬の結石は、我々に比べたら、稀ではあるが、遙かに入手可能なものであったものかも知れない

「牛黃」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬である。解熱・鎮痙・強心効果を持つ。この後、「牛」の項の後に「牛黄」の項があるが、ここで十二分に注をし終えていると判断する。

「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。

「俗傳に云はく、『猨〔(さる)〕、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕(きづ)、贅(こぶ)と成りて〔たる〕肉-塊(かたまり)なり』と。蓋し、此れ、惑なり。乃ち、鮓荅なること、明らけし」ここの部分、東洋文庫版では、『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷の痕(あと)が贅肉(こぶ)となったものであるという。しかしこれは間違いで、鮓荅であることは明らかである』と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものはそのような人が猿に及ぼした傷由来の瘤なんぞではなく、人及び獣類の体内に生ずるところの結石であることは、最早、明白である』と言っているのである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(19) 「河童ト猿ト」(2)

 

《原文》

 猿ガ河童ニ勝ツト云フコトハ今ハアマリ聞カヌ話ナレド、其由來ハ中々複雜ナルモノアルニ似タリ。此事ハ獨リ西國地方ノ俗信ナリシノミニアラズ、江ニテモ河童ノ災ヲ避クル爲ニハ猿ヲ飼ヒ置クヲ可トスルノ説アリキ〔竹抓子四〕。【厩ノ猿】自分ノ推測ニ依レバ、是レ厩ニ猿ヲ飼ヒテ牛馬ノ災ヲ拂フ古來ノ慣習ト因緣アルモノヽ如シ。仍テ今少シク其問題ヲ講究セント欲ス。【河猿】蓋シ近代ノ河童ニモ頗ル猿ニ似タル特徵ハアリシナレド、中古ハ猶一段此二ツノ物ガ接近シ居タリト覺シク、或ハ今ナラバ直ニ河童ト呼ブべキ水底ノ怪物ヲ、河猿又ハ淵猿ト名ヅケタリシ例アリ。例ヘバ遠江榛原郡ニハ河猿ト云フ怪獸住ス。水ノ岸ニ現レ出ル物ニテ、馬之ニ遭ヘバ忽チ斃レ死ス。何レノ川筋ニテモ河猿出レバ馬ノ種ハ絶ユ。恐ラクハ馬ノ疫病神ナランカト云ヘリ〔三河雀〕。【釜淵】【釜猿】毛利公爵ノ祖先ガマダ藝州ノ吉田ニ在リシ頃、其臣下ニ井上元重通稱ヲ荒(アラ)源三郞ト云フ武士アリ。時ハ天文三年ノ八月、吉田川ノ釜淵ノ水底ニ入ツテ、人畜ヲ害スル淵猿ト云フ怪物ヲ退治シ、武勇ノ名ヲ天下ニ施セリ。源三郞七十人力アリシモ淵猿ニハ百人力アリ。【頭ノ皿】唯幸ニシテ怪物ノキハ全ク頭ノ中央ノ窪ミニ水ノアル爲ナルコトヲ前以テ知リシガ故ニ、取敢ズ其首ヲ摑ミテ左右ニ振リ廻ハシ、水ヲ翻シテ之ヲ無力トシタル後、容易ニ生擒シ得タルハ最モ智慮アル手段ナリキ〔老媼茶話〕。但シ此淵猿ハ所謂怠狀立ヲシテ釋放セラレタリヤ否ヤ、後日譚ノ傳ハラヌハ遺憾ナリ。【虬】此話ハ大昔仁德天皇ノ御代ニ、吉備ノ川島河ノ淵ニ於テ笠臣ノ祖縣守ト云フ勇士ガ虬(ミヅチ)ヲ退治セシ顚末トヨク似タレドモ多分ハ偶合ナルべシ。武家高名記陰德太平記志士淸談等ニモ之ヲ載錄ス〔南方熊楠氏報〕。藝藩通志ノ高田郡吉田村釜淵ノ條ニハ、荒源三郞ガ猳摑(カハタラウ)ヲ生獲シタル故跡ナリト見エタリ。

 

《訓読》

 「猿が河童に勝つ」と云ふことは、今はあまり聞かぬ話なれど、其の由來は、中々、複雜なるものあるに似たり。此の事は、獨り、西國地方の俗信なりしのみにあらず、江にても河童の災ひを避くる爲めには猿を飼ひ置くを可とするのありき〔「竹抓子」四〕。【厩の猿】自分の推測に依れば、是れ、厩に猿を飼ひて牛馬の災を拂ふ古來の慣習と因緣あるものゝごとし。仍つて、今少しく、其の問題を講究せんと欲す。【河猿(カハザル)】蓋し、近代の河童にも頗る猿に似たる特徵はありしなれど、中古は、猶ほ一段、此の二つの物が接近し居(ゐ)たりと覺しく、或いは今ならば直ちに「河童」と呼ぶべき水底の怪物を、河猿又は淵猿と名づけたりし例あり。【釜猿(カマザル)】例へば、遠江榛原(はいばら)郡には「河猿」と云ふ怪獸、住す。水の岸に現れ出づる物にて、馬、之れに遭へば、忽ち、(たふ)斃れ死す。何れの川筋にても「河猿」出づれば、馬の種は絶ゆ。恐らくは「馬の疫病神」ならんか、と云へり〔「三河雀」〕。【釜淵】毛利公爵の祖先が、まだ藝州の吉田に在りし頃、其の臣下に井上元重、通稱を荒(あら)源三郞と云ふ武士あり。時は天文三年の八月、吉田川の釜淵の水底(みなそこ)に入つて、人畜を害する「淵猿」と云ふ怪物を退治し、武勇の名を天下に施せり。源三郞、七十人力ありしも、「淵猿」には百人力あり。【頭の皿】唯だ、幸ひにして怪物のきは、全く頭の中央の窪みに水のある爲なることを、前以つて知りしが故に、取り敢へず其の首を摑みて、左右に振り廻はし、水を翻(ひるがへ)して、之れを無力としたる後(のち)、容易に生け擒(ど)りし得たるは、最も智慮ある手段なりき〔「老媼茶話」〕。但し、此の淵猿は、所謂、怠狀立てをして釋放せられたりや否や、後日譚の傳はらぬは遺憾なり。【虬(みづち)】此の話は、大昔、仁德天皇の御代に、吉備の川島河の淵に於いて、笠臣(かさのおみ)の祖、縣守(あがたもり)と云ふ勇士が虬(みづち)を退治せし顚末と、よく似たれども、多分は偶合(ぐうがふ)なるべし。「武家高名記」「陰德太平記」「志士淸談」等にも之れを載錄す〔南方熊楠氏報〕。「藝藩通志」の高田郡吉田村釜淵の條には、荒源三郞が「猳摑(カハタラウ)」を生獲したる故跡なり、と見えたり。

[やぶちゃん注:「遠江榛原(はいばら)郡」静岡県榛原郡は現存するが、近代の郡域は遙かに広域。ウィキの「榛原郡」で確認されたい。

「河猿」ウィキの「川猿によれば、『川猿(かわざる)は、遠州(静岡県)の榛原郡に伝わる妖怪。その名の通り、川辺に住む妖怪で』、『名前は「猿」だが、猿よりむしろカワウソや河童に近い種とされ』、『体中に魚の臭気がある』。『子供の姿となって人を化かすこともある他、馬は川猿に会っただけで倒れて死んでしまうと言われ、馬の疫神として恐れられていた』。『また人間から害を加えられた際には、相手の体中の皮膚や肉をかきむしって重傷を負わせてしまう』。『弱点は目と股で、ここに矢を受ければたちまち力が弱まってしまう』。『性格的には本来は臆病者だが、自分を助けてくれた人間の顔は忘れないという』とある。

『「馬の疫病神」ならんか』私はここを読みながら、嘗て電子化注した「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬(だいば)の事」を思い出していた。そこでは、『馬に「頽馬(だいば)」と云ふ病ひ有りて卒死(そつし)するが、尾張・美濃邊にては是を「ギバ」と云ひ、「斃(たふ)るゝ」を「かける」と云ふ。土俗は、此の「ギバ」と云(いふ)は、一種の魔物(まぶつ)有りて、馬の鼻より入りて、尻に出づれば、馬、忽ち斃ると云ひ傳ふる事也』で始まるのであるが、そこで私は実際の馬の病気、有毒植物の摂取や吸血性昆虫及びウィルス感染症の可能性を指摘した。是非、一読されたい。

「毛利公爵の祖先が、まだ藝州の吉田に在りし頃」ウィキの「毛利氏」によれば、鎌倉末期に『越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう)』『の南條館を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう』:『高田郡吉田村吉田』、現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(ここ(グーグル・マップ・データ))『)を分与し』、『分家を立てる』。『時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり』、『安芸の所領は間接統治という形をとったが』、『南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治』『するようになる。吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた』。『戦国時代、毛利元就が出ると』、『一代で国人領主から、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道』十『か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した』。『元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争ったが、のちに豊臣秀吉に従属して、安芸ほか』八『か国を安堵された。また、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島城に移す』。『しかし』、慶長五(一六〇〇)年、輝元が「関ヶ原の戦い」で『西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の』二『か国に減封される』。『江戸時代には、萩に居城を新たに築城し、長州藩(萩藩)になり、外様大名ながら』、『国主(国持ち)大名として官位や江戸城の席次などで幕府から厚遇を得た』。『江戸時代末期には、藩主毛利敬親の改革が功』を『奏し』、『長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。明治維新後は公爵、貴族院議員などを輩出している』とある。

「井上元重」井上氏は毛利家の有力家臣の一族であったが、後に元就によって、多くが粛清された。この元重はその中の一人である。ウィキの「井上就澄」の記載に粛清の経緯と彼が殺されたことが出るので、引用すると、井上就澄(?~天文一九(一五五〇)年)『は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。父は安芸井上氏当主・井上元兼』(系図を調べると、この父の前当主井上光兼の弟に、後に出る元重の兄井上元有がいる)、『兄に井上就兼』。『毛利氏の家臣で安芸井上氏当主である井上元兼の次男として生まれる。名前の「就」の字は毛利元就の偏諱とされる』。『安芸井上氏は元々は安芸国の国人であったが、就兼の祖父・光兼の代に毛利弘元に仕えて以後、毛利氏において重要な位置を占める一族となった。その後も安芸井上氏の権勢は増していき、就兼の父・元兼をはじめとして毛利興元の死後』三十『余年に渡って傍若無人な振る舞いをしていたと元就は述べており、安芸井上氏をそのままにしておくことは毛利氏の将来の禍根となると元就は考えていた』。『天文年間に安芸国と備後国の経略が着々と進行し、吉川元春と小早川隆景の吉川氏・小早川氏相続問題が概ね解決したことで安芸井上氏粛清の好機であると元就は判断。毛利隆元に命じて大内氏家臣の小原隆言を通じて、予め大内義隆の内諾を得た上で、密かに安芸井上氏粛清の準備を進めた』。天文一九(一五五〇)年七月十二日、『井上元有が安芸国竹原において小早川隆景に殺害された事を皮切りに』、『安芸井上氏の粛清が始まり』、翌七月十三日、『兄の就兼は元就の呼び出しを受けて吉田郡山城に来たところを、元就の命を受けた桂就延によって殺害された』。『就兼の殺害と同時に、福原貞俊と桂元澄が』三百『余騎を率いて井上元兼の屋敷を襲撃。元兼の屋敷は包囲され、屋敷にいた元兼と就澄は防戦したものの』、『力尽きて自害した。さらに、井上元有の子の井上与四郎、元有の弟の井上元重、元重の子の井上就義らはそれぞれ各人の居宅で誅殺されており、最終的に安芸井上氏の一族のうち』三十『余名が粛清されることとなった』(太字下線はやぶちゃん)とある。

「天文三年の八月」一五三四年。同旧暦八月一日はユリウス暦九月八日。

「老媼茶話」三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ奇談集。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全篇を電子化注している。その「老媼茶話 釜渕川猿(荒源三郎元重、毛利元就の命に依り、川猿を素手にて成敗す)」を参照されたい。

「虬(みづち)」の柳田國男の別記事の記載で既出であるが、ここでちゃんと注しておくと、本来は中国で、龍の一種(或いは幼体)を指し、「虯」が正字とされる。龍の子で、二本の角を有するとも、幼体ではなく、龍の一種で逆に角がないものを言うとも、また龍総体の異名ともする。本邦では「蛟」などと一緒くたにされて、広く、水怪の異名として用いられる。

「仁德天皇の御代」在位は仁徳天皇元年~仁徳天皇八十七年とする。機械的換算では三一三年から三九九年とする。

「吉備の川島河」現在の岡山県西部を貫流する高梁川に比定されている。の流域(グーグル・マップ・データ)。

「笠臣(かさのおみ)」吉備氏の後裔。ウィキの「吉備氏」によれば、七『世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した』とあるが、『小野里了一は、吉備氏の祖として同氏の伝説に残されていたのは吉備武彦であり、吉備津彦命・稚武彦命弟は王家系譜とのつながりを作為するために吉備武彦の名前を割って作った創作上の人物とする。また、笠臣と下道臣と上道臣が吉備武彦を祖と仰ぐ集団(吉備勢力)であったのは事実だが、元々「吉備氏」と称する同一の氏族集団であった裏付けも不確かで、下道真備(吉備真備)が初めて「吉備」姓を名乗った人物であった可能性すらあるとする』とある。

「縣守(あがたもり)と云ふ勇士」以下に掲げる、この「日本書紀」に載る虬(みづち)を退治の一節以外には確かな情報はない模様である。

   *

、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇悍而力、臨派淵、以三全瓠投水曰「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者仍斬汝身。」。時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是天皇、夙興夜寐、輕賦薄斂、以寬民萌、布德施惠、以振困窮、弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」を参考に訓読してみる。

   *

 是の[やぶちゃん注:仁徳天皇六十七年。三七九年。]、吉備の中つ國、川嶋河の派(かはまた)に、大なる虬(みづち)有りて、人を苦しましむ。時に路人(みちゆきひと)、其の處に觸れて行けば、必ず、其の毒(あしきいき)に被(をかさ)れて、以つて多く死亡せぬ。是(ここ)に、笠臣(かさのおこ)の祖縣守(あがたもり)、人と爲(なり)、勇-悍(たけ)くして、力、(こは)し。派-淵(ふち)に臨みて、三つの全瓠(おほしひさご)[やぶちゃん注:欠損のない瓢簞(ひょうたん)の意か。]を以つて水に投げて曰はく、

「汝、屢々毒を吐きて路人を苦しましむ。余、汝、虬を殺さむに、汝、是の瓠を沈めば、則ち、余、避(さ)らむ。不--沈(えじづめざ)れば、仍りて、汝の身を斬らむ。」

と。時に、水虬、鹿に化(な)りて、以つて、瓠を引き入る。瓠、沈まず。卽ち、劒(つるぎ)を舉げて水に入りて虬を斬る。更に、虬の黨類(ともがら)を求む。乃ち、諸虬の族、淵底の岫穴(ゆきかふいはや)に滿(いは)めり。悉く、之れを斬る。河水、血に變りぬ。故に其の水を號(な)づけて「縣守の淵」と曰ふ。此の時に當りて、妖-氣(わざはひ)、稍(やや)動きて、叛(そむ)く者、一二(ひとりふたり)、始めて起こる。是に天皇、夙(はや)くに興(お)き、夜(おそ)く寐(い)ねて、賦(みつぎ)を輕くし、斂(をさめもの)を薄くして、以つて民-萌(おほみたから)を寬(ひろ)くし、德を布(し)き惠(うつくしび)を施して、以つて困窮(くるしくたしな)きを振ひ、死(も)を弔ひ、疾(やむもの)を問ひ、以つて孤孀(やもをやもめ)を養ふ。是れを以つて、政令(まつりごと)、流行(しきなが)れて、天下、太平(たひら)ぎぬ。廿餘年(はたとせあまり)、事、無し。

   *

「南方熊楠氏報」平凡社版選集別巻の柳田國男との往復書簡集を縦覧したが、今のところ、見出せない。発見したら、電子化する。

「高田郡吉田村」現在の広島県安芸高田市吉田町吉田(グーグル・マップ・データ)。

「猳摑(カハタラウ)」この「猳」は豚を意味するから、豚を摑み奪うという意に見える。ただ、少し気になるのは、中国の伝説上の動物で、猿に類した妖獣で、人間の女性を攫(さら)って犯すとされる、「玃猿(かくえん)」には「猳国(かこく)」という異名があることである。他に「馬化(ばか)」とも言うのが気になる。一応、ウィキの「玃猿を引いて参考に供しておく。「本草綱目」に『よれば、猴(こう。サルのこと』『)より大きいものと』し、「抱朴子」では、八百年生きた獼猴(みこう:現在の哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目オナガザル科オナガザル亜科マカク属アカゲザル Macaca mulatta に比定)『が「猨」となり、さらに』五百年『生きて玃猿になるとある』。「本草綱目」では『「玃」「猳玃」「玃父」の名で記載されて』おり、『玃は老いたサルであり、色は青黒い。人間のように歩き、よく人や物をさらう。オスばかりでメスがいないため、人間の女性を捕らえて子供を産ませるとある』。一方「捜神記」や「博物志」には、『「玃猿」「猳国」「馬化」の名で、以下のようにある。蜀の西南の山中には棲むもので、サルに似ており、身長は』七尺(約一・六メートル)『ほどで、人間のように歩く。山中の林の中に潜み、人間が通りかかると、男女の匂いを嗅ぎ分けて女をさらい、自分の妻として子供を産ませる。子供を産まない女は山を降りることを許されず』、十『年も経つと姿形や心までが彼らと同化し、人里に帰る気持ちも失せてしまう。子を産んだ女は玃猿により子供とともに人里へ帰されるが、里へ降りた後に子供を育てない女は死んでしまうため、女はそれを恐れて子供を育てる。こうして玃猿と人間の女の間に生まれた子供は、姿は人間に近く、育つと常人とまったく変わりなくなる。本来なら姓は父のものを名乗るところだが、父である玃猿の姓がわからないため、仮の姓として皆が「楊」を名乗る。蜀の西南地方に多い「楊」の姓の者は皆、玃猿の子孫なのだという』。『このような玃猿の特徴は、中国の未確認動物である野人と一致しているとの指摘もある』。『南宋時代の小説集』「夷堅志」には、『「渡頭の妖」と題し、以下のような話がある。ある谷川の岸に、夜になると男が現れ、川を渡ろうとする者を背負って向こう岸に渡していた。人が理由を尋ねても、これは自分の発願であり理由はないと、殊勝に返事をしていた。黄敦立という胆勇な男が彼を怪しみ、同じように川を渡してもらった』。三『日後、お礼に自分がその男を渡そうと言い、拒む男を無理に抱えて川を渡り、大石に投げつけた。悲鳴を上げたその男を松明の明かりで照らすと、男の姿は玃猿に変わっていた。玃猿を殺して焼くと、その臭気は数里にまで届いたという』。「神異経」に『よれば、西方にいる「𧳜」』(とりあえず「チュウ」と読んでおく。以下に出る「和漢三才図会」の「玃(やまこ)」にも記す)『はロバほどの大きさだが』、『猴に似ており、メスばかりでオスがいないので、人間男性を捕えて性交して子を孕むとあり』、『(玃猿と同じ行動をするが性別が逆である)、玃猿に類するものと考えられている』。『日本では、江戸時代に玃猿が日本国内にもいるものと信じられ』、「和漢三才図会」にも『「玃(やまこ)」の名で説明されており、同項の中で日本の飛騨・美濃(現・岐阜県)の深山にいる妖怪「黒ん坊(くろんぼう)』『」の名を挙げ「思うに、これは玃の属だろうか」と述べられている。黒ん坊とは黒く大きなサルのようなもので、長い毛を持ち、立って歩く。人語を解する上に人の心を読むので、人が黒ん坊を殺めようとしても、黒ん坊はすばやく逃げるので、決して捕えることはできないという』。『また』、江戸後期の随筆「享和雑記」にも『「黒ん坊」の名がある。それによれば、美濃国根尾(現・岐阜県本巣市)の泉除川に住む女のもとには、夜になると幻のような怪しい男が訪れ、しきりに契ろうとしていた。村人たちはその者を追い払おうと家を見張ったが、見張りのいる夜には現れず、見張りをやめると現れた。そこで女は鎌を隠し持っておき、例の男が現れるや鎌で斬りつけると、男は狼狽して逃げ去った。村人たちが血痕を辿ると、それは善兵衛という木こりの家のもとを通り、山まで続いていた。善兵衛のもとには以前から黒ん坊が仕事の手伝いに来ており、それ以降は黒ん坊が現れなくなったため、この事件は黒ん坊の仕業といわれた』。但し、「享和雑記」の『著者は、これを』「本草綱目」に『ある玃猿に類するものとし、その特徴について』、「和漢三才図会」と『ほぼ同じことを述べているため』、「享和雑記」は「和漢三才図会」を『参考に書かれたものと見られている』、『しかし』、「和漢三才図会」では、『前述のように「玃の属だろうか」と書いてあるにすぎないため、黒ん坊と玃猿を同一のものとは言い切れないとの指摘もある』とある。「和漢三才図会」の「玃(やまこ)」は私の和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類で電子化注しているので、参照されたい。]

2019/02/11

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗寳(いぬのたま) (犬の体内の結石)

 

Inunotama

 

いぬのたま

狗寳

 

ウハ

 

本綱狗寶生癩狗腹中狀如白石帶青色其理層疊亦難

得之物也昔任丘縣民家一犬甚惡後病衰爲衆犬所噬

而死剖之其心已化似石非石其重如石而包膜絡之如

寒灰觀其脈理猶是心不知何緣到此

甞聞人患石淋有石塊刀斧不能破又甞見龍脛骨中髓

皆是白石虎目光落地亦成白石星之光氣落地則成石

松亦化石蛇蠏蠶皆能成石萬物變化如此不可一槩斷

時珍静思之牛之黃狗之寶馬之墨鹿之玉犀之通天獸

之鮓荅皆物之病而人以爲寳人靈於物而猶不免此病

况物乎人之病淋有沙石者非獸之鮓答乎人之病癖有

心似金石者非狗之寳乎此皆囿於物而不能化者故禽

鳥有生卵如石者焉

程氏遺書載云有波斯人發古塚棺内俱盡惟心堅如石

鋸開觀之有山水青碧如畫傍有一女靚粧凭欄葢此女

有愛山癖朝夕注意故融結如此又浮屠法循行般舟三

昧法示寂後火焚惟心不化出五色光有佛像高三寸非

骨非石百體具足此皆志𡱈於物用志不分精靈氣液因

感而凝形正如孕女感異像而成鬼胎之類非祥也病也

有情之無情也

 

 

いぬのたま

狗寳

 

ウハ

 

「本綱」、狗寶、癩狗の腹中に生ず。狀、白石のごとくにして、青色を帶ぶ。其の理〔(きめ)〕、層疊して、亦、得難き物なり。昔、任丘縣[やぶちゃん注:現在の河北省滄州市任丘市(グーグル・マップ・データ)。]の民家に一犬あり。甚だ惡〔(あしき)〕なり[やぶちゃん注:身体が悪かった。]。後、病衰して衆犬の爲めに噬(か)まれて死す。之れを剖〔(さ)〕くに、其の心〔(しん)〕[やぶちゃん注:漢方で名指す心臓。]、已に化して石に似て、石に非ず。其の重さ、石のごとくにして、包膜、之に絡〔(まと)〕ひ、寒灰〔(かんくわい)〕[やぶちゃん注:火が燃え尽きた後に残る灰。冷たい灰。]のごとし。其の脈-理〔(すぢ)〕[やぶちゃん注:肌理(きめ)。]を觀るに、猶ほ、是れ、心のごとし。何に緣〔(よ)り〕て此れを〔に〕到〔れる〕ことを、知らず。

甞つて聞く、人、石淋を患ひて、石の塊(かたまり)有り、刀・斧〔を以つてしても〕破ること、能はず〔と〕。又、甞つて龍〔の〕脛骨の中の髓を見〔しが〕、皆、是れ、白石なり。虎の目の光、地に落ちて、亦、白石と成り、星の光氣、地に落つるときは、則ち、石と成り、松も亦、石に化し、蛇・蠏〔(かに)〕[やぶちゃん注:蟹。]・蠶〔(かひこ)〕、皆、能く石と成る。萬物の變化、此くのごとし。一槩[やぶちゃん注:「槪」の異体字。]に斷ずるべからず。

時珍、静かに之れを思ふに、牛の黃(たま)・狗の寶・馬の墨(たま)・鹿の玉・犀の通-天(たま)、獸の鮓-荅(たま)、皆、物の病ひにして、人、以つて寳と爲す。人は物の靈[やぶちゃん注:万物の霊長の類。]にして、猶ほ此の病ひを免れず。况んや、物をや。人の、淋を病むに、沙石[やぶちゃん注:小石状の結石。]有るは、獸の鮓答(たま)に非ざるか[やぶちゃん注:反語。同じであると言っているのである。以下も同じ。]。人の癖〔(へき)〕を病み[やぶちゃん注:性癖が極端に偏頗し、精神上、病的な状態となり。]、心、有りて、金石に似たるは、狗の寳(たま)に非ざるか。此れ、皆、物に囿〔(こだは)り〕て[やぶちゃん注:拘泥して。]、化する能はざる者なり。故に禽-鳥〔(とり)〕の卵を生むに、石のごとくなる者、有る〔なり〕。

「程氏遺書」に載せて云はく、『波斯(ハルシヤ[やぶちゃん注:ママ。或いは「パルシヤ」のつもりかも知れない。])に、人、有り、古塚を發(ひら)く。棺〔の〕内、俱に盡きて、惟だ、心、堅くして石のごとし。鋸〔(のこぎり)〕をもつて開けて、之れを觀るに、山水、有り、青碧にして畫(ゑが)くがごとし。傍らに、一女、有り。靚粧〔(せいさう)〕[やぶちゃん注:現代仮名遣「せいそう」。「靚」は「飾りよそおう」の意で、美しく飾りよそおうこと。綺麗に化粧すること。めかしこむこと。]して、欄〔(おばしま)〕に凭(よりか)ゝる。葢〔(けだ)〕し、此の女、山を愛する癖、有りて、朝夕、意を注す。故に、融結して此くのごとし。又、浮屠〔(ふと)〕[やぶちゃん注:仏僧。]〔の〕法循は、「般舟三昧法〔(はんじゆざんまいはう)〕」を行ひしが、寂を示して後、火〔に〕焚〔くに〕、惟だ、心、化せず、五色の光を出だし、佛像、有り。高さ三寸。骨に非ず、石に非ず、百體具足す。此れ、皆、志、物に𡱈〔(きよく)〕して[やぶちゃん注:「局」の異体字。一つの対象に集まること。]、志しを用ふること、分かた〔ざるが故に〕精靈・氣液、感〔ずる〕に因つて、形を凝らす。正に孕(はらみ)女〔の〕異像に感じて鬼胎を成すの類ひのごとし。祥[やぶちゃん注:祥瑞。]に非ずして、病ひなり。有情〔(うじやう)〕の無情なり[やぶちゃん注:有情の存在が無情の物体に変化した異常な生成機序に過ぎない。]。

[やぶちゃん注:日中辞書によれば、イヌの胆嚢や腎臓・膀胱内に生ずる結石を言うとする。Q&Aサイトの回答では、犬の結石で青白い現在でも漢方で高級品として需要があるらしく、天然物で約百グラムくらいで十万元(今現在で百六十二万円相当)ほどとし、人工のものは天然物の十分の一の値段としつつ、天然と比べると薬効は低いとする。画像があるものでは、「中国の怪情報」というサイトのこちらで(サイトの名前の妖しさのわりには、記載はかなりしっかりしている)、そこには、『狗宝』(gǒu bǎo)『は犬の胃の中などで生成される石のような物体だ。通常は』一~五センチメートルほどの『オリーブ形をして』おり、『表面はなめらかで』、『爪で傷がつくほどの硬さである』とし、『価値があるのは中心のわずかな部分だけであり、その重量はせいぜい』二グラムから七グラム『程度しかないという。高齢の犬ほど大きな狗宝を持っている確率が高いそうだ』とし、『天然の狗宝のオークション落札価格を見ると、やはり日本円で数千万円の値段がついている』とある。

 

「石淋」腎臓(腎盂・腎杯)・尿管・尿道。膀胱に結石が生ずる疾患。結石の約八十%はシュウ酸(蓚酸)カルシウム CaC2O4 又は(COO)2Ca)・リン酸(燐酸)カルシウム(狭義にはリン酸三カルシウム:Ca3(PO4)2)などのカルシウム結石で、その他ではリン酸マグネシウムアンモニウム(MgNH4PO46H2O)や尿酸(C5H4N4O3)の結石などがある。

「龍〔の〕脛骨」思うに、脊索動物門脊椎動物亜門顎口上綱爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目 Dinosauria に属する、所謂、恐竜、中生代三畳(現在から約二億五千百万年前から一億九千九百六十万年前)に現われ、約六千六百万年前の白亜紀と新生代との境に多くが絶滅したそれらの化石である可能性が極めて高い。古くから、それらの化石が龍の骨とされ、漢方で薬剤として用いられてきた歴史がある。但し、生物化石ではなく、全くの鉱物由来のものである可能性を除外は出来ない。

「蠶〔(かひこ)〕、」「能く石と成る」これについては「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雪蠶」に「石蠶」と出るものを私が考証した注、及び、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶」等を参照されたい。何故、ここで簡単に語らないかというと、リンク先を見て戴ければ判る通り、カイコ(鱗翅(チョウ)目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori とは全く別の生物を想定している可能性が多分に含まれること(例えば、昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の水棲幼虫)の他に、カイコの病気(特にカビに感染されることでカビに水分を奪われ、乾燥して硬いミイラ状態になるケース)等の複数の可能性を時珍が言っている可能性があるからであり、しかもそれをこの注で語ることは、かなりの脱線(私の注は常に脱線だらけだが)となるからである。

「牛の黃(たま)・狗の寶・馬の墨(たま)・鹿の玉・犀の通-天(たま)、獸の鮓-荅(たま)」総てそれぞれの、或いは、他の四足獣類の体内結石及び悪性・良性の結節性腫瘍等を指す。次に「鮓荅」(通常はこれで「さとう」と読む。牛・馬・豚・羊などの胆石や腸内の結石で、古来、諸毒の解毒剤とされたり、雨乞いの呪(まじな)いの呪具として用いられた。「石糞」「馬の玉」「ヘイサラバサラ」「ドウサラバサラ」等、異名が多い)の独立項があり、後には「鮓答」「牛黃」も独立項なのでここでは特に注しない。「犀」は無論、脊椎動物亜門哺乳綱奇蹄目有角亜目 Rhinocerotoidea上科サイ科 Rhinocerotidae のサイ類(現生種は五種で、アフリカ大陸の東部と南部(シロサイ・クロサイ)、インド北部からネパール南部(インドサイ)、マレーシアとインドネシアの限られた地域(ジャワサイ・スマトラサイ)に分布している)を指す。次巻の「獸類」に「犀」があるので待たれたい。

「人の癖〔(へき)〕を病み、心、有りて、金石に似たるは、狗の寳(たま)に非ざるか。此れ、皆、物に囿〔(こだは)り〕て、化する能はざる者なり」ここは時珍が精神医学的なかなり肯んずることの出来る、なかなか鋭いことを比喩で言っているようにも思われ、非常に興味深い。但し、最後の「化する能はざる者なり」は、私は「化する能はざる無き者なり」とあるべきではないか、と思う。東洋文庫訳はここを、『人が癖を病めば心が金石のようになるのも狗の宝と同じではないか。これはみな心が物に拘泥(こうでい)すると整理の循環が阻害され、身体の器官が円滑に機能しなくなるのである』と訳している。美事だと思うし、そういう意味で時珍は書いているのであろうと確かに思うけれども、私には、逆立ちしても、この原文をこのように訳すことは不可能である。「化」を正常な精神作用の意で採ることは、この文脈では無理であると考えるからである。なお、原文の文字列も「此皆囿於物而不能化者」でこのまんまではある。大方の御叱正を俟つものではある。

「程氏遺書」北宋の思想家で朱子学・陽明学のルーツとされる程顥(ていこう 一〇三二年~一〇八五年:号を「明道」と称した)と程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年:号を「伊川」と称した)兄弟(この二人をして「二程子」と称した)の語録集。南宋の朱熹(しゅき)が編纂したもの。二十五巻・附録一巻。以下の引用の原文を調べ得なかったが、これはどうなんだろう? これ、人工物じゃないんじゃないかなぁ? 堆積岩や火成岩玄武岩内部に形成された空洞である「晶洞」、ギリシア語で「大地に似た」の意の「ジオード」(英語:Geode)、内部に熱水や地下水のミネラル分によって美しい(「青碧」はまさにそれらしいのだ)自形結晶が形成されたそれを見て、シミュラクラ(Simulacra)を起こしたのではないか? 大方の御叱正を俟つ。

「波斯(ハルシヤ)」ペルシャ。現在のイランを表わす漢訳古名。

に、人、有り、古塚を發(ひら)く。棺〔の〕内、俱に盡きて、惟だ、心、堅くして石のごとし。鋸をもつて開けて、之れを觀るに、山水、有り、青碧にして畫(ゑが)くがごとし。傍らに、一女、有り。靚粧〔(せいさう)〕[やぶちゃん注:現代仮名遣「せいそう」。「靚」は「飾りよそおう」の意で、美しく飾りよそおうこと。綺麗に化粧すること。めかしこむこと。]して、欄〔(おばしま)〕に凭(よりか)ゝる。葢〔(けだ)〕し、此の女、山を愛する癖、有りて、朝夕、意を注す。故に、融結して此くのごとし。又、浮屠〔(ふと)〕[やぶちゃん注:仏僧。]〔の〕

「法循」不詳。

「般舟三昧法」小学館「日本国語大辞典」の「般舟三昧」によれば、サンスクリット語「pratyutpanna samādhi」の音訳で、「諸仏現前三昧」「仏立三昧」等と漢訳し、阿彌陀仏を念じて諸仏の現前を見る三昧法(修法)で、この三昧を修して成就した際には、一切の諸仏が悉く行者の眼前に立つというところからの命名とある。天台宗では「常行三昧」と称する、とある。

「百體具足す」「百體」は「総て」の意。仏の姿の特徴を数え上げた「三十二相八十種好」が総て備わっていたというのである。私は読みながら、直ちに想起したのは、「仏像真珠」である。中国の南部に於いては十三世紀には行われていた工芸で、貝殻の内壁に真珠層を持つ淡水産の斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ超科イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイ Cristaria plicata 等の貝殻と外套膜の間に、土や鉛で作った仏像の型を挿入し、真珠層で覆わせるものである。鴻阜山人氏のサイト『「購入者の側に立った」入門シリーズ』の真珠パートの真珠の養殖と加工に画像がある。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)


Inu

ゑぬ    犬【音圏】 地羊

いぬ    【厖同多毛之犬】

【音苟】

      獒【高四尺犬】

      猗【去勢犬】

ウ     【和名惠沼俗伊沼】 

 

本綱狗叩也吠聲有節如叩物犬字象巻尾懸蹄之形狗

類甚多其用有三田犬【一名獫】長喙善獵吠犬【一名猲】短喙善

守食犬體肥供饌【凡本艸所用皆食犬也】

狂犬曰猘一子𤢭【又曰】二子曰獅三子𤡆

凡犬以三月而生在畜屬木在卦屬艮在禽應婁星豺見

之跪虎食之醉犬食番木鼈則死物性制伏如此

肉【鹹酸溫】 治五勞七傷益氣力安腎補胃氣【黃犬爲上黒犬白犬次之】

 凡食犬不可去血去血則力少不益人【但因食穢不食者衆】術家

 以犬爲地厭能禳辟一切邪魅妖術故道家不食犬【商陸

 蒜菱與犬同不可食】

乳汁【白犬者良】 治十年青盲取白犬生子目未開時乳頻

 之狗子目開卽瘥又赤禿髮落者頻塗甚妙

                  京極

  月淸主しらぬ岡部の里をきてとへはこたへぬ先に犬そとかむる

文犬鳴曰吠【訓保由】王符論云一犬吠形百犬吠聲

左傳使犬聲曰嗾牽犬繩曰緤【訓岐豆奈】一名攣維犬鏁曰鋂

廣博物志云白犬烏頭白犬黒尾黒犬白耳黒犬白前足

黃犬白尾此等犬畜之共吉祥也

按犬性喜雪怕暑惡濕知恩酬仇鼻利能齅氣能守家

 不入非常人於内嚴吠防竊盜官家賤民共不可不畜

 之者也其田犬則狩獵時先放入山野令齅禽獸所在

 乃官家之寶獸也凡犬離栖家遠走則數遺尿於路傍

 至歸齅其尿氣雖數十里不失己栖猶山行之栞也不

 苦創傷如被小疵則自舐卽瘥若傷耳鼻則不能舐而

 不易治急煑小豆令食則癒性喜肉腥而不害生物吃

 糞穢而不舐鮾腐多食魚膓則却皮毛禿爛故魚肆癩

 狗多焉常不遺糞於四壁閒却不畜犬門外犬糞多矣

 凡犬子等寒暑不假人手自育早壯而速衰其一歳當

 人十歳乎過十歳者希也至病死不令見其屍

 如中馬錢毒者急令水吞則解

 治猫犬病以烏藥汁灌之【以下藥方出竹堂簡便方】

 治猫犬生癩用桃樹葉搗爛遍擦其皮毛隔少時洗去

 之

 治狗猫生虱用白色朝腦滿身擦之以桶或箱覆蓋之

 少時放出其虱俱落生癬疥者好茶濃煎通夜冷洗之

 凡狗舌出而尾埀者卽風狗也人被之咬用木鱉子七

 個檳榔二錢水二鍾煎七分服【祕笈云碎杏仁納傷處卽愈】

 所謂風狗卽猘犬也保嬰全書云凡猘犬之狀必吐舌

 流涎尾埀眼赤誠易辨如所咬則毒甚

 凡犬忠功勝于人者所載于史不少舉其一二

搜神記云孫權時有李信純家養一狗字曰黒龍愛之

一日大醉臥於草中遇太守鄭瑕出獵見草深遣人爇之

[やぶちゃん注:「爇」は底本では「「熱」が(上)「執」で、その(下)が「火」である。これは「爇」の異体字であるが、表示出来ないし、現行の「捜神記」の同話でもこの漢字を用いているので、これに代えた。]

信純不知火之來犬見乃以口拽衣而純不動臥處有一

溪相去三五十步犬卽奔往入水濕身走來臥處周迴以

身灑之獲免主人火難犬運水困乏致斃于側信純醒來

見犬已死遍身濕毛甚訝太守聞而慟哭之憫之曰犬之

報恩甚於人卽命具棺槨衣衾葬之今紀南有義犬

[やぶちゃん字注:「」=(上)「苑」+(下)「土」。]

十餘丈

述異記云陸機有後仕洛戯語犬【名黃耳】曰家無音汝

能馳往否犬揺尾作聲似應之機爲書盛以竹筩繫頸犬

出驛路走向饑則食草經水輙依渡者上船到機家取

書看畢又向人作聲如有所求其家作書納筩仍馳還洛

後犬死葬之呼黃耳塚

本朝於河内餌香川原有被斬人數百頭身既爛姓字難

 知但以衣色収取其身者爰有櫻井田部連膽渟所養

 之犬嚙續身頭伏側固守使収已至乃起行之

守屋家臣捕鳥都萬之白犬亦拾主之屍頭能守飢死於

 其側【載日本紀於詳河内名所】

畑六郞左衞門之犬名獅子暗夜侵敵軍犬先入陣中伺

警衞之隙速歸而掉尾告之以故得捷【詳太平記】

播州牧夫之二犬救主急難而囓殺其敵【詳播州犬寺下】

宇都右衞門五郞之犬誤所斬而其頭飛囓殺蛇救主

 危難【詳參州犬頭社下】

ゑぬ    犬【音、「圏」。】 地羊

いぬ    (むくいぬ)【「厖」も同じ。

        多毛の犬。】

【音、「苟〔(コウ)〕」。】

      獒(たうけん)[やぶちゃん注:闘犬。]

      【高さ、四尺の犬。】

      猗(へんこなしのいぬ)

      【勢〔(せい)〕を去れる犬。】

ウ    【和名、「惠沼」。俗に「伊沼」。】

「本綱」、狗は叩〔(コウ)〕なり。吠(ほ)ゆる聲、節〔(ふし)〕有りて、物を叩(たゝ)くがごとし〔なればなり〕。「犬」の字、巻きたる尾・懸-蹄(かけづめ)の形に象〔(かたど)〕る。狗の類ひ、甚だ多し。其の用、三つ、有り。「田犬〔(でんけん)〕」【一名「獫〔(けん)〕」。】は長き喙〔(くちさき)〕〔にして〕善く獵〔(か)〕る。吠犬〔(はいけん)〕【一名、「猲〔けつ)〕。】短き喙〔にして〕善く守る。「食犬〔(しよくけん)〕」は、體、肥え、饌〔(せん)〕[やぶちゃん注:神への供え物。]に供ふ【凡そ、本艸に用ふる所の〔もの〕、皆、食犬なり。】。

狂犬なるを「猘〔(せい)〕」と曰ふ。一子〔(ひとりご)〕を「𤢭〔(がう)〕」【又、「〔(き)〕」と曰ふ。】、二子〔(ふたご)〕を「獅」と曰ひ、三子〔(みつご)〕を「𤡆〔そう〕」と曰ふ[やぶちゃん注:この読みについては、前の「豕(ぶた)」の同様(但し、(へん)が異なる)の呼び名についての私の注を参照されたい。]。

凡そ、犬、三月〔(みつき)〕を以つて生ず。畜〔(ちく)〕[やぶちゃん注:家畜。]に在りては、「木〔(もく)〕」に屬し、卦〔(け)〕に在りては、「艮〔(こん)〕」に屬し、禽〔(きん)〕[やぶちゃん注:星座の動物(配当)の意である。]に在りては、「婁星〔(ろうせい/たたらぼし)〕」に應ず。豺〔(やまいぬ)〕、之れを見て、跪(ひざまづ)き、虎、之れを食へば、醉〔(ゑ)〕ふ。犬、番--鼈〔(マチン)〕を食ふときは、則ち、死す。物〔の〕性〔(しやう)の〕制伏〔(せいふく)〕[やぶちゃん注:征服・服従に於ける当事者関係。]此くのごとし。

肉【鹹、酸。溫。】 五勞七傷を治し、氣力を益し、腎を安〔(やす)〕じ、胃の氣を補す【黃犬を上と爲し、黒犬・白犬、之れに次ぐ。】。凡そ、犬を食〔ふに〕、血を去るべからず。血を去れば、則ち、力〔(ちから)〕少くして、人に益あらず【但し、食穢〔(しよくゑ)〕に因りて食はざる者、衆〔(おほ)〕し。】術家[やぶちゃん注:道教の方士。]は、犬を以つて地厭〔(ぢおん)〕[やぶちゃん注:地の邪気を払う呪術。]を爲し、能く一切〔の〕邪魅・妖術を禳-辟(はら)ふ。故に道家不に〔ては〕犬を食はず【商陸〔やまごばう〕[やぶちゃん注:後注を必ず参照のこと。]・蒜〔(のびる)〕・菱〔(ひし)〕〔は〕犬と同〔じうして〕食ふべからず。[やぶちゃん注:薬用併用及び食い合わせが極めて悪いことを言っている。]】。

乳汁【白犬の者、良し。】 十-年〔(ながねん)[やぶちゃん注:長年。]の〕青盲(あきめくら)を治す。白犬、子、生まれて、目、未だ開〔かざる〕時の〔母犬の〕乳を取り、頻りに之れをず。狗の子、目、開〔かば〕、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ。又、赤禿(〔あか〕はげ)〔て〕、髮、落〔つる〕者に頻りに塗る。甚だ妙〔なり〕。

                  京極

  「月淸〔(げつせい)〕」

    主〔(ぬし)〕しらぬ岡部〔(をかべ)〕の里をきてとへば

       こたへぬ先に犬ぞとがむる

文」に、『犬の鳴くを、「吠(ほ)ゆ」と曰ふ【訓、「保由」。】』〔と〕。「王符論」に云はく、『一犬、形〔(かたち)〕に吠ゆれば、百犬、〔その〕聲に吠ゆといへり。』〔と〕。

「左傳」に、『犬を使ふ[やぶちゃん注:調教する際の。]聲を「嗾〔(さう)〕」と曰ひ、犬を牽〔(ひ)〕く繩を「緤(きづな)」と曰ひ【訓、「岐豆奈」。】、一名〔を〕「攣〔(れん)〕」〔とも曰ふ〕。犬を維(つな)ぐ鏁(くさり)を「鋂〔(ばい)〕」と曰ふ。』〔と〕。

「廣博物志」に云はく、『白犬にして烏〔(くろ)〕き頭〔(かしら)〕、白犬にして黒き尾、黒犬にして白き耳、黒犬にしてい白き前足、黃犬〔(わうけん)〕にして白き尾、此等(これら)の犬、之れを畜〔(か)〕へば、共に吉祥なり。』〔と〕。

按ずるに、犬の性、雪を喜び、暑さを怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])れ、濕を惡〔(にく)〕む。恩を知り、仇を酬ふ。鼻、利〔(と)〕くして、能〔(よ)〕く氣〔(かざ)〕を齅(か)ぐ。能く家を守りて、非常の人[やぶちゃん注:普段、見かけない人。]を内に入れず、嚴しく吠えて、竊盜〔(せつたう)〕を防ぐ。官家・賤民、共に、畜はずんばあるべからざるの者なり。其の田犬、則ち、狩獵の時、先づ、山野に放ち入れ、禽獸の所在を齅(か)ゞせしむ。乃〔(すなは)ち〕、官家の寶獸なり。凡そ、犬、栖-家(すみか)を離れて、遠く走るときは、則ち、數々、尿(ゆばり)を路傍に遺し、歸るに至れば、其の尿の氣(かざ)を齅ぐ。數十里と雖も、己〔(おの)〕が栖を失はず。猶ほ、山行の栞(しをり)のごときなり。創傷を苦しまず、如〔(も)〕し、小さき疵を被むる〔ときは〕、則ち、自ら舐(ねぶ)りて、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ〔やす〕。若〔(も)〕し、傷、耳・鼻、則、舐ること能はずして、治〔すること〕易から〔ざるは〕、急ぎ小豆〔(あづき)〕を煑て、食はしめば、則ち、癒ゆ。性、肉〔の〕腥〔(なまぐさき)〕を喜(この)めれども、生〔き〕物を害(こそな)はず、糞穢〔(ふんゑ)〕を吃(く)へども鮾-腐〔(だいふ)〕[やぶちゃん注:腐った魚肉。]を舐らず。多く魚の膓〔(わた)〕を食〔へば〕、則ち、却つて、皮毛、禿(は)げ、爛〔(ただ)〕る。故に、魚の肆(たな)[やぶちゃん注:「店(たな)」に同じ。]に癩狗〔(らいく)〕[やぶちゃん注:単に毛が抜けたり、激しい炎症を起こした犬のことを指す。「癩」には業病として激しく差別された(天罰によって生きながら地獄の業火に焼かれている等とされた)ハンセン病以外に、「薬負け・傷・疥癬(かいせん)」の意があり、ここもそれ。直ぐ後に猫や犬の後者の「癩」を治す方法が出てくることからもそれが判る。]多し。常に糞を〔栖家(すみか)の〕四壁の閒〔(あひだ)〕に遺さず。〔されば〕却つて犬を畜はざる〔家の〕門外には、犬の糞、多し。

凡そ、犬--等(ゑのころ)は寒暑〔に關はらず〕、人の手假(か)らずして自ら育ち、早く壯(そう)じて、速く衰ふ。其の一歳、人の十歳に當るか。十歳を過〔(すぐ)〕る者、希れなり。病死するに至りて、其の屍〔(かばね)〕を見せず。

如〔(も)〕し、馬錢(マチン)の毒に中〔(あた)〕者〔あれば〕、急ぎ水を吞ませば、則ち、解〔(げ)〕す[やぶちゃん注:解毒出来る。]。

猫・犬の病ひを治す〔には〕、烏藥〔(うやく)〕の汁を以つて、之れに灌〔(そそ)〕ぐ〔べし〕【以下の藥方は「竹堂簡便方〔(ろくちくだうかんべんはう)〕」に出づ。】。

猫・犬の癩を生ずるを治する〔には〕、桃〔の〕樹〔の〕葉を用ひ、搗き爛らして、遍〔(あまね)〕く其の皮毛を擦〔(す)〕る。少時を隔てて、之れを洗ひ去る〔べし〕。

狗・猫〔の〕虱を生ずるを治す〔には〕、白色の朝腦[やぶちゃん注:不詳。「てうなう」と読んでおく。東洋文庫訳も『不詳』とする。但し、防虫剤に用いるクスノキの木片を水蒸気蒸留して製する「樟脳」(C10H16O)っぽい感じが私はするのだが。]滿身に之れを擦る。〔後、〕桶或いは箱を以つて之れを覆〔ひ〕蓋〔(ふた)〕す。少-時(しばら)くして、放〔ち〕出〔(いだ)〕せば、其〔の〕虱、俱に落つ。癬疥〔(せんかい)〕[やぶちゃん注:ヒトの感性症としても知られる疥癬(かいせん)。皮膚に穿孔して寄生する、節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科 Sarcoptidae ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis による皮膚感染症。「湿瘡」「皮癬」とも称する。知られている皮膚疾患の中では掻痒は最高度。]を生ずる者は、好〔(よ)き〕茶〔を〕濃(こ)く煎じ、通夜、冷して、之れを〔以つて〕洗ふ〔べし〕。

凡そ、狗、舌を出だして、尾を埀るる者、卽ち、「風狗」[やぶちゃん注:狂犬。]なり。之れに咬まらるれば、木鱉子〔(もくべつし)〕七個・檳榔〔(びんらう)〕二錢[やぶちゃん注:一銭は三・七五グラムであるから、七・五グラム。]・水二鍾〔(しよう)〕[やぶちゃん注:一鍾(しょう)は四十九・六六四リットルであるから、九十九リットル強。かなり多い。]を用ひ、七分〔(しちぶ)〕に煎じて服す【「祕笈〔(ひきゆう)〕」に云はく、『杏仁〔(きやうにん)〕を碎き、傷の處に納〔むれば〕、卽ち、愈ゆ』〔と〕。】

所謂、「風狗」は、卽ち、「猘犬(せいけん)」[やぶちゃん注:狂犬。]なり。「保嬰〔(ほえい)〕全書」に云はく、『凡そ、猘犬の狀、必ず、舌を吐き、涎れを流し、尾を埀らし、眼、赤く、誠に辨じ易し。如〔(も)〕し咬まるれば、則ち、毒、甚だし。』〔と〕。[やぶちゃん注:狂犬病に罹患した動物は噛みつき、騒ぐ「狂騒型」(或いは狂騒期)と、空ろな目でしょんぼりとしまう「沈鬱型」(或いは狂騒期の後の麻痺期)の二種の症状(期)があるという。]

凡そ、犬の忠功〔なるものは〕、人に勝〔(すぐ)〕る。史〔書〕に載する所、少なからず。其の一、二を舉ぐ。

「搜神記」に云はく、『の孫權の時、李信純といふもの有り、家に一狗を養ふ。字(あざな)を「黒龍」と曰ひ、之れを愛す。一日、大いに醉ひて草の中に臥す。遇(たまたま)、太守の鄭瑕〔(ていか)〕、出でて獵りす。草の深きを見て、人をして之れを爇(や)かしむ。信純、火の來たるを知らず。犬、見て、乃〔(すなは)ち〕、口を以つて衣を拽(ひ)く。而〔(しか)れど〕も、純、臥し處〔(どころ)〕を動かず。一〔つの〕溪(たに)有り、相ひ去ること、三、五十步あり。犬、卽ち、奔り往〔(ゆ)〕きて、水に入り、身を濕(ひた)し、臥し處に走り來りて、周迴〔(しうくわい)〕し、身を以つて之れに灑(そゝ)ぐ。主人の火難を免〔(まぬか)〕ることを獲〔(う)〕。犬は、水を運(はこ)んで、困-乏し、側〔(そば)〕に斃〔(へい)〕するに致る[やぶちゃん注:倒れてしまった。]。信純、醒-來〔(めざ)め〕て、犬、已に死して、遍身、濕(ぬ)れたる毛を見、甚だ訝(いぶか)る。太守、聞きて慟-哭(な)き、之れを憫(あはれ)みて「犬の恩を報ふこと、人卽(より)も甚だし。」。〔とし〕、命じて棺槨〔(かんかく)〕[やぶちゃん注:柩(ひつぎ)。]・衣衾〔(いきん)〕[やぶちゃん注:遺体を覆う衣類や蒲団。帷子(かたびら)。]を具(そな)へ、之れを葬る。今、紀南[やぶちゃん注:現在の湖北省荊州区紀南鎮。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に「義犬〔の〕〔はか〕」有り。高さ、十餘丈[やぶちゃん注:「捜神記」は東晋の干宝が著した志怪小説集であるから、当時の「一丈」は二・四四五メートルであるが、それでも二十五メートルほどになる巨大な墓だ。但し、残念なことに、現存はしないようだ。]。』〔と〕。

[やぶちゃん字注:「」=(上)「苑」+(下)「土」。]

「述異記」に云はく、『陸機、に有り。後、洛[やぶちゃん注:西晋の首都であった洛陽。]に仕(つか)へ、戯れに犬に語りて【「黃耳〔(くわうじ)〕」と名づく。】曰はく、「家と(た)へて[やぶちゃん注:ママ。]音(をとぶれ)無し。汝、能く馳〔(は)せ〕て往かんや否や」〔と〕。犬、尾を揺らし、聲を作〔(な)〕して、之れに應(こた)ふるに似たり。機、書を爲し、盛〔(も)〕るに[やぶちゃん注:犬に持たせるのに。]、竹の筩(つゝ)を以つて、頸に繫ぐ。犬、驛路に出でて走りて、に向ふ。饑〔(うう)〕るときは、則ち、草を食〔(は)み〕、水を經(わた)れば、輙〔(すなは)〕ち、渡者(わたしもり)に依〔(より)〕て船に上(の)り、機が家に到り、〔家の者、〕書を取り〔て〕看〔(み)〕畢〔(おは)〕れば又、人に向ひ、聲を作し、求むる所、有るがごとし。其の家〔の者〕、書を作〔(な)し〕て、筩〔(つつ)〕に納(い)れしかば、仍つて、馳せて洛に還る。後、犬、死す。之れを葬る。「黃耳塚」と呼ぶ。

本朝、『河内〔(かはち)の〕餌香川原(〔ゑが〕の〔かはら〕)に於いて、斬らるる人、有り、數百の頭-身(むくろ)、既に爛(たゞ)れて、姓字〔(せいじ)〕、知れ難し[やぶちゃん注:「姓字」は「名字と名前」の意であるが、要は腐乱が進んで、誰が誰だか判らなくなっていたのである。]。但〔(ただ)〕、衣の色を以つて、其の身(むくろ)を収め取る。爰〔(ここ)〕に櫻井田部連膽渟(〔さくらゐ〕の〔たべ〕のむらじいぬか)、養ふ所の犬、身頭(むくろ)を嚙み續け、側に伏し、固く守りて、収めしむ。已に至〔れば、〕乃〔(すなは)〕ち起きて之れと行く』〔と〕。

守屋が家臣、捕鳥都萬(とつとり〔べ〕の〔よろ〕づ)が白犬も亦、主〔(あるじ)〕の屍頭〔(むくろ)〕を拾(いろ)いて[やぶちゃん注:ママ。]、能く守り、其の側に飢死す【「日本紀」に載る。河内の名所に詳らかなり。】。

[やぶちゃん挿入注:この二条の話は「田部連膽渟」(桜井田部胆渟(さくらいの たべの いぬ ?~用明天皇二(五八七)年:飛鳥時代の武人で物部守屋の家臣。連(むらじ)は正式な姓。桜井田部氏は河内国河内郡(大阪府東大阪市近辺)に起源を持つ豪族伴造(とものみやつこ)の一族。彼は河内国餌香河原(えがのがわら)で戦死している)や「守屋が家臣」の「捕鳥都萬」の名によって、用明二(五八七)年七月に、蘇我馬子や厩戸皇子(うまやどのみこ:聖徳太子)らの蘇我軍の主力が、物部守屋軍の先鋒と激戦の末に突破したとされる「餌香川原の戦い」の後の光景であることが判る。そこでは両軍ともに多くの戦死者を出している(物部軍を突破した後、難波宮の守屋の私邸の占拠に成功した)。この川は、現在の石川で、大和川水系の支流で藤井寺市の東に接して流れる。大阪府の東南部の、奈良県境にある金剛山地の西側斜面と丘陵地の水を集めて北へ流れ、市の北東部で大和川と合流する。この辺りでは、石川の中程が隣りの柏原市との境界ともなっている。この「餌香川原の戦い」の場所は、まさにその合流地点の南の部分、現在の大阪府藤井寺市国府付近の石川に比定されているらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは主に「藤井寺南小学校」公式サイト内の「大和川と石川」に拠った。以上は、「日本書紀」の崇峻天皇即位前紀用明天皇二(五八七)年七月の条の「平亂之後」のパートの、以下の部分が引用元である。

   *

爰有萬養白犬、俯仰𢌞吠於其屍側、遂嚙舉頭收置古冢、橫臥枕側、飢死於前。河内國司、尤異其犬、牒上朝庭。朝庭哀不忍聽、下苻稱曰、「此犬、世所希聞、可觀於後。須使萬族作墓而葬。」。由是、萬族、雙起墓於有眞香邑葬萬與犬焉。河内國言、「於餌香川原有被斬人、計將數百。頭身既爛、姓宇難知、但以衣色收取其身者。爰有櫻井田部連膽渟所養之犬、嚙續身頭伏側固守、使收己主乃起行之。」。

   *]

畑六郞左衞門の犬、「獅子」と名づく[やぶちゃん注:ママ。名は「犬獅子(けんじし)」が正しい。]。暗夜に敵軍を侵す。犬、先づ、陣中に入りて、警衞の隙〔(す)〕きを伺ひ、速やかに歸りて、尾を掉(ふ)りて之れを告ぐ。故を以つて、捷を得。【「太平記」に詳らかなり。】

[やぶちゃん挿入注:「畑六郞左衞門」は南北朝時代の南朝方新田義貞の側近であった武将畑時能(はたときよし 正安元年九(一二九九)年~興国二/暦応四(一三四一)年)のこと。ウィキの「畑時能」によれば、『武蔵秩父郡出身。義貞に従って各地を転戦し』、延元三/建武五(一三三八)年、『義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、義貞の弟脇屋義助に従い、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党』十六『騎で立て籠った。高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ』三『千の軍勢を差し向け』、十月二十二日、『斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、三日間苦しんだ後に亡くなったという』とある。同ウィキには『江戸時代に描かれた畑時能のイメージ』として歌川国芳の「武勇見立十二支・畑六良左エ門」の犬を連れた彼の絵が載り、「太平記」には、『時能が犬「犬獅子」と「所大夫房快舜」、「悪八郎」の二人の従者とともに足利氏の砦を陥とす物語がある』とキャプションがある。後注で「太平記」の当該箇所を掲げる。]

播州牧夫〔(ひらふ)〕[やぶちゃん注:「牧夫」はママ。後注参照。]が二犬、主の急難を救ひ、而も其の敵を囓み殺すと。【播州犬寺の下に詳らかなり。】

宇都(うつ)右衞門五郞が犬、誤りて斬らる。而〔(しか)れど〕も、其の頭〔(かうべ)〕、飛びて、蛇(うはばみ)を囓み殺し、主の危難を救ふ【參州犬頭〔(けんづ)〕の社〔(やしろ)〕の下に詳らかなり。】。

[やぶちゃん注:哺乳綱 Mammalia獣亜綱 Theria 真獣下綱 Eutheria ローラシア獣上目 Laurasiatheria 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ亜目 Fissipedia イヌ下目 Cynoidea イヌ科 Canidae イヌ亜科 Caninae イヌ族 Canini イヌ属タイリクオオカミCanis lupus 亜種イエイヌ Canis lupus familiarisウィキの「イヌ」によれば、『属名 Canis、種小名 lupus はラテン語でそれぞれ「犬」「狼」の意。亜種名 familiaris はやはりラテン語で、「家庭に属する」といった意味。また、英語: familiar、フランス語: familier など「慣れ親しんだ」を意味する現代語の語源でもある』。『古く日本ではヤマイヌ(狼)に対して「イエイヌ」とも言っていた。英語名 domestic dog は、伝統的な学名』Canis familiaris『(家族の-犬)を英訳にしたもので、日本では domestic dog の訳語として古来からのイエイヌの語をあてるようになった』。『また、広義の「イヌ」は広くイヌ科に属する動物(イエイヌ』・(タイリク)オオカミ・コヨーテ(イヌ属コヨーテ Canis latrans)・ジャッカル(現生種は四種で、イヌ属キンイロジャッカル Canis aureus(南アジア・中央アジア・西アジア・東南ヨーロッパ・北アフリカ・東アフリカに棲息)・アビシニアジャッカル Canis simensis(エチオピアに棲息。「アビシニアオオカミ」などとも呼び、「ジャッカル」に含めない説もある)・セグロジャッカル Canis mesomelas(南部アフリカに棲息)・ヨコスジジャッカル Canis adustus(中部アフリカに棲息)・キツネ(イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica ほか)・タヌキ(タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)・ヤブイヌ(ヤブイヌ属ヤブイヌ Speothos venaticus)・リカオン(リカオン属リカオン Lycaon pictus)『など)の総称でもあるが、日本ではこちらの用法はあまり一般的ではなく、欧文翻訳の際、イヌ科動物を表す dogs canine の訳語として当てられるときも』、『「イヌ類」などとしてイエイヌと区別するのが普通である』。『イエイヌは人間の手によって作り出された動物群である。最も古くに家畜化されたと考えられる動物であり、現代でも、ネコ Felis silvestris catus と並んで代表的なペット』『として、広く飼育され、親しまれている』。『野生化したものを野犬といい、日本語ではあたかも標準和名であるかのように片仮名で「ノイヌ」と表記されることも多いが、野犬(やけん)を誤って訓読したため』に『生じた新語であり、分類学上は種や亜種としてイエイヌと区別される存在ではない』。『犬種については』『ジャパンケネルクラブ(JKC)では、国際畜犬連盟(FCI)が公認する』三百三十一『犬種を公認し、そのうち』、百七十六『犬種を登録してスタンダードを定めている。なお、非公認犬種を含めると』、約七百から八百の犬種がいるとされている』。『また、世界全体では』四『億匹の犬がいると見積もられている。血液型は』八『種類』ある。『イヌの染色体は』七十八『本(2n)あり、これは』三十八『対の常染色体と』一『対の性染色体からなる。これは同じイヌ』科『のドール』(ドール属ドール Cuon alpinus)・リカオン・ジャッカル類・『コヨーテ類などとも共通である。これらの種は交配可能であり、この雑種は生殖能力をもつ。ただし、これらは行動学的に生殖前隔離が起こり、また、地理的にも隔離されている。ジャッカル類は主にアフリカに、(アジアに分布の及ぶキンイロジャッカルはジャッカル類では』なく、『オオカミに近縁だとされる)、コヨーテ類は北アメリカ大陸に分布する』、『また、オーストラリア大陸と周辺地域に生息するディンゴ』(イヌ属タイリクオオカミ亜種ディンゴ Canis lupus dingo)『と、ニューギニア島に生息するニューギニアン・シンギング・ドッグ』(New Guinea Singing Dog:パプアニューギニア原産の野生化した犬種。現在、絶滅寸前。ウィキの「ニューギニアン・シンギング・ドッグを参照されたい)『は、人類によって約』四千『年前に持ち込まれたイヌであり、かつては別種とされていたが、現在はイエイヌとともに、タイリクオオカミの』一『亜種とされている』。『イヌの属するイヌ科は、森林から開けた草原へと生活の場を移して追跡型の狩猟者となった食肉類のグループである。待ち伏せ・忍び寄り型の狩りに適応したネコ科』Felidae『の動物に対して、イヌ科の動物は、細長い四肢など、持久力重視の走行に適した体のつくりをしている』。『また、イヌは古くから品種改良が繰り返されて、人工的に改良された品種には、自然界では極めて珍しい難産になるものも多く、品種によっては、出産時に帝王切開が必要不可欠となる(主にブルドッグ)』(以下、「生態的・形態的特徴」として「骨格」に始まり、「知能」までの十四項目がある。それぞれ、本文の叙述のよき科学的補説となるが、キリがないので総て省略する。各自で参照されたい)。以下、「イヌの起源」の項。『イヌは最も古くに家畜化された動物であり、手に仔犬(イヌかオオカミかはっきりしない)を持たせて埋葬された』一万二千年ほど『前の狩猟採集民の遺体がイスラエルで発見されている。分子系統学的研究では』一万五千年位上前に『オオカミから分化したと推定されている。イヌの野生原種はタイリクオオカミ Canis
lupus
)の亜種のいずれかと考えられている。イヌのDNAの組成は、オオカミとほとんど変わらない。イヌがオオカミと分岐してからの』一万五千年という『期間は種分化としては短く、イヌを独立種とするか』、『オオカミの亜種とするかで議論が分かれているが、交雑可能な点などから』、『亜種とする意見が優勢となりつつある』。以下、「イヌと歴史・文化」の「世界におけるイヌの歴史」。『古代メソポタミアや古代ギリシアでは彫刻や壷に飼いイヌが描かれており、古代エジプトでは犬は死を司る存在とされ(アヌビス神)、飼い犬が死ぬと埋葬されていた。紀元前』二千『年頃の古代メソポタミアの説話』「エンメルカルとアラッタ市の領主」では、『アラッタ領主が「黒でなく、白でなく、赤でなく、黄でなく、斑でもない犬を探せ」と難題を命じる場面がある。つまり、既にこれらの毛並みの犬が一般的だったわけである。紀元前に中東に広まったゾロアスター教でも犬は神聖とみなされるが、ユダヤ教では犬の地位が下り、聖書にも』十八『回登場するが、ここでもブタとともに不浄の動物とされている。イスラム教では邪悪な生き物とされるようになった』。『イスラム圏では牧羊犬以外にイヌが飼われることは』今でも少ないようだが、』『欧米諸国では多くの犬が家族同然に人々に飼われている。日本でも』五『世帯に』一『世帯がイヌを飼っているといわれている。中世ヨーロッパの時代には、宗教的迷信により、魔女の手先(使い魔)として忌み嫌われ虐待・虐殺されたネコに対し、犬は邪悪なものから人々を守るとされ、待遇は良かった』。『古代中国では境界を守るための生贄など、呪術や儀式にも利用されていた』。『「けものへん(犬部)」を含む「犬」を部首とする漢字の成り立ち』を見ても、そうした呪的機能を担ったであろう『ことが窺われる。古来、人間の感じることのできない超自然的な存在によく感応する神秘的な動物ともされ、死と結びつけられることも少なくなかった(地獄の番犬「ケルベロス」など)。漢字の成り立ちとして、「犬」の「`」は、耳を意味している』。『中央アジアの遊牧民の間では、家畜の見張りや誘導を行うのに欠かせない犬は、大切にされた。モンゴル帝国のチンギス・カンに仕えた側近中の側近たちは、四駿四狗(』四『頭の駿馬と』四『頭の犬)と呼ばれ』、『讃えられた』。『ヨーロッパ人に「発見」される前のアメリカ大陸では、犬は唯一とも言える家畜であり、非常に重要な存在であった。人間にとってなくてはならない労働力であり、狩猟、番犬、犬ぞり、祭りでの生贄やご馳走として様々に利用された。ユイピの儀式など、祭りにおいて犬の肉は重要な存在である。また、白人によって弾圧されたインディアン諸部族の中で、シャイアン族の徹底抗戦を選んだ者たちは、Hotamétaneo'o(ドッグ・ソルジャー、犬の戦士団)という組織を作り、白人たちと戦った』。『欧米諸国では、古代から狩猟の盛んな文化圏のため、猟犬としての犬との共存に長い歴史がある。今日では特に英国と米国、ドイツなどに愛犬家が多い。英国には「子供が生まれたら』、『犬を飼いなさい。子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。」という諺がある』。『一方』、十九『世紀後半のイギリスでは狂犬病の原因を巡って大きな論争が起きた。狂犬病はイヌに噛まれることによる感染症であるという主張が流布し、不潔な下層階級の飼う犬、気性の荒い狩猟犬が特に疑いの目を向けられた。人々のヒステリックな対応により、何万匹ともいわれるイヌが』、『狂犬病予防の名目で殺されたが』、アメリカの『歴史家のハリエット・リトヴォ』(Harriet Ritvo  一九六四年~)『によれば』、十九『世紀に殺されたイヌのうち、精神に異常をきたしていたイヌは』五『パーセントに過ぎず、そのうちの四分の三は』癲癇(てんかん)或いは『風変わりな外見』であったに過ぎなかったという。『犬は欧米や日本など世界の広い地域で一般的に親しまれている』『一方で、犬を忌み嫌ったり、虐げたりする文化圏や民族もある。サウジアラビアでは一般に嫌悪の対象である』。『コンゴのムブティ族は、犬を狩りに必要な「貴重な財産」と見なしつつも』、『忌み嫌っており、彼らの犬は馬鹿にされ』、『殴る蹴るなどされる』。『欧米では犬をペット・家族の一員と考えるため』、『犬肉食はタブー視されるが、一方、インドや中東で犬肉を食べる習慣がないのは、古代ヒンドゥー教やイスラム教では犬を卑しく汚らわしい害獣と見なしているためだと考えられる』。『犬は一般に出産が軽い(安産)とされることから、日本ではこれにあやかって戌の日に安産を願い、犬張子や帯祝いの習慣が始まるようになる』。『「人間の最良の友(Man's best friend)」と言われるように、飼い主やその家族に忠実なところはプラスイメージが強い。近代日本では忠犬ハチ公の逸話が多くの国民に愛されたほか、江戸時代以前にも主人の危機を救おうとした伝説・民話も多い(秋田県大館市の老犬神社など)。他方、東西の諺や、日本語にある「犬死に」「犬侍」』『「負け犬」といったネガティブ成語・熟語に使われることも多い。また、忠実さを逆手にとって、権力や体制側に順従に従っている人物や特定の事物(思想や団体・有名人など)を盲目的に支持・信奉する人物やスパイの意味でも「犬」が用いられる。また「雌犬」は女性への侮辱語として使われる。植物の和名では、イヌタデ』(ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。本種は薬味として使用される、同じイヌタデ属ヤナギタデ Persicaria hydropiper に対して(ヤナギタデは異名で「マタデ」「ホンタデ」とも呼ぶ)、役に立たないものとしての「イヌ」である。しかし私はあの「あかのまんま」の花がとても好きだ)のように、本来、『その名をもつ有用な植物と』は、『似て非なるものを指すのにしばしば用いられる』。以下、「日本におけるイヌの歴史」。『日本列島においては犬の起源は不明であるが、家畜化された犬を飼う習慣が日本列島に渡ってきたと考えられている。縄文時代早期からの遺跡から犬(縄文犬)が出土している。その一部は埋葬された状態だが、多数例は散乱状態で出ており、家族の一員として飼われた犬と、そうでない犬がいたと考えられる』(縄文犬の埋葬遺跡の最初期の発見者の一人は、私の父の考古学の師であった酒詰仲男先生(明治三五(一九〇二)年~昭和四〇(一九六五)年)である。私はサイトで「土岐仲男」名義で書かれた詩集「人」を電子化注している)。『縄文早期から中期には体高』四十五『センチメートル前後の中型犬、縄文後期には体高』四十『センチメートル前後の小型犬に変化し、これは日本列島で長く飼育されたことによる島嶼化現象と考えられている』。『なお』一九九〇『年代に縄文人と犬との関係の定説に再考を迫る発見があった。霞ヶ浦沿岸の茨城県麻生町(現:行方市)で発掘調査された縄文中期から後期の於下貝塚から、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土。犬の上腕骨』一『点に、解体痕の可能性が高い切痕が確認された。調査報告では、犬を食用として解体していた物的証拠と評価しており、日本列島における犬食の起源がさらに遡る可能性が高い』。『弥生時代に犬の埋葬例は激減する』。『また、墓に供えられた壺の中に、犬の骨の一部が入っていることがあり、犬が人間の墓の供え物になったことがわかる』。『長崎県の原の辻遺跡などでは、解体された痕のある犬の骨が発見され、食用に饗されたことも窺える。遺跡からは縄文犬と形質の異なる犬も出土しており、大陸から連れてこられたと考えられる』。「日本書紀」には、『日本武尊が神坂峠を超えようとしたときに、悪神の使いの白鹿を殺して道に迷い、窮地に陥ったところ、一匹の狗(犬)が姿を現し、尊らを導いて窮地から脱出させたとの記述がある。そして、同書の天武天皇五(六七五)年四月十七日の条には、四月一日から九月三十日までの『期間、牛・馬・犬・猿・鶏の、いわゆる肉食禁止令を出しており、犬を食べる人がいたことは明らかである。なお、長屋王邸跡から出土した木簡の中に子を産んだ母犬の餌に米(呪術的な力の源とされた)を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸では、貴重な米を犬の餌にしていたらしいが、奈良文化財研究所の金子裕之は、「この米は犬を太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表し』ている、とある。『奈良時代・平安時代には貴族が鷹狩や守衛に使う犬を飼育する職として』、『犬養部(犬飼部)が存在した』。『平安京では、犬が人間の残飯や排泄物を食べていた。また、埋葬されない人の死体が放置され、犬に食われることが珍しくなかった』。『鎌倉時代には』、『武士の弓術修練の一つとして、走り回る犬を蟇目矢(ひきめや。丸い緩衝材付きの矢)で射る犬追物や犬を争わせる闘犬が盛んになった』。『肉食忌避の観念がある一方で、犬を食べる風習も廃れてはおらず、室町時代の草戸千軒町遺跡』(広島県福山市内)『からは食用にした跡が残る犬の骨が見つかっ』ている。『浄土真宗の宗祖親鸞は』、「大般涅槃経」を『参考に浄肉(食べてもよい肉)・不浄肉(食べてはいけない肉)の区別を行った際、犬肉を猿肉などとともに不浄肉に分類するなど、犬肉食を忌避する考え方も生まれた』。『南北朝時代以降には軍用犬として犬を活用する武将も現』われ、本文にも出る通り、「太平記」には『越前国鷹巣城(現・福井県高須山)攻防戦に於いて、南朝方の守将、畑時能が愛犬「犬獅子」と』二『人の従者と共に寄せ手の北朝方の砦を攻め落とす逸話が記述されており、江戸時代に歌川国芳が干支の動物と縁の深い歴史上の人物を浮世絵に描いた』、「武勇見立十二支」にて戌年に畑時能と犬獅子が描かれるなど、人々に広く知られる存在となった』(この絵の画像は以下でリンクしてある)。『戦国時代には武蔵国の武将太田資正が、岩槻城と松山城の緊急連絡手段として伝令犬を用い、北条氏康方の包囲を突破して援軍要請に成功し、度々撃退していた逸話が』「関八州古戦録」や「甲陽軍鑑」に『記述されている。太田資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」と呼ばれ、日本における軍用犬運用の最初の例とされている』。江戸『中期、江戸では野犬が多く、赤ん坊が食い殺される事件もあった』。第五『代将軍』『徳川綱吉は戌年の戌月の戌の日の生まれであったため、彼によって発布された「生類憐れみの令」』(貞享二(一六八五)年~宝永六(一七〇九)年とリンク先はするが、同令は波状的に細かく出されたもので、当初から非人間的な厳罰処置が行われたわけではなかった)『において、犬は特に保護』(「生類憐れみの令」は『人間を含む全ての生き物に対する愛護法令)され』、元禄九(一六九六)年には、『犬を殺した江戸の町人が獄門という処罰まで受けている。綱吉は当時の人々から「犬公方」(いぬくぼう)とあだ名された。綱吉自身大の愛犬家で狆を百匹飼い、駕籠(かご)で運ばせていた。この法令が直接適用されたのは幕府直轄領であったが、間接的に適用される諸藩でも』、『将軍の意向に逆らうことはできなかった。綱吉の後を継いだ徳川家宣の治世当初に生類憐れみの令は廃止された。天明の大飢饉により』、『米価が高騰し』、『深刻な米不足が起こった際、江戸北町奉行・曲淵景漸がイヌやネコの肉の価格を示して「米がないなら』、『イヌやネコの肉を食え」と発言し町人の怒りを買い、江戸市中で打ちこわしまで引き起こす結果となった』。他にもリンク先は諸事項の記載があるが、後一つだけ、「歴史に名を残した犬」一番古い部分だけを引いて終りとする。垂仁天皇八十七(五〇年?)頃、『足往(あゆき)』(『名前が記録に残る日本最古の犬』である)が、『むじな』(イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 或いはイヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)『を殺して出て来た勾玉が献上された』と、「日本書紀」の垂仁天皇の条に出る』とある。これは垂仁天皇八十七年二月五日の記事中に出るもので、

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昔丹波國桑田村有人。名曰甕襲。則甕襲家有犬。名曰足徃。是犬咋山獸名牟士那而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮。

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である。……どうもいけない……一昨年逝った三女アリスのことが思い出されてしまうのだ……注をしながら、そこここでもの狂ほしくなってゆく……ばかり…………

「ゑぬ」小学館「日本国語大辞典」によれば、この語源説は、『ヱはイハ(家)の約音。ヌは詞助〔東雅〕。ヱイヌ(飼犬)の約。古代に専ら犬の子を鷹、鶏の飼』(やしなう相手の意か)『にしたということからか〔大言海〕。ワヌワヌという鳴声に基づいた語か〔言元梯・大言海・国語の語根と分類=大島正雄〕ヱヌスミ(餌盗)の略〔名言通〕』とあるが、私は「ゑぬ」というのを初めてここで見た。

「地羊」これは犬食を隠すための換字のように私には思われる。

「懸-蹄(かけづめ)」「ケンテイ」は、本来は牛・羊などの偶蹄類の内で、地面に触れない小さな二個のひづめを指す。

「勢〔(せい)〕を去れる犬」食肉を目的として肥育される場合や、性質上の荒さや発情を削ぐために去勢されたものでもあろう。現行では、純系種は断種しないと長生きしないということはしばしば平然と言われ、私の次女のアリスも三女のアリスもそれを受けたが、私はどうも何か胡散臭い気がしている。

「食犬〔(しよくけん)〕」ウィキの「犬食文化」を参照されたい。私は引用に堪えない。因みに、私の妻は南京大学に日本語派遣教員として出向した折り、教え子が取り寄せて作ったそれを食べている。食には保守的な女性であるが、非常に美味しかったと告白している。

「凡そ、犬、三月〔(みつき)〕を以つて生ず」犬の妊娠期間は交配日から数えて約六十三日(九週間)と言われているので、科学的に正しい。

「婁星〔(ろうせい/たたらぼし)〕」現在の「おひつじ座」の西の頭部分に相当する三つの星を指す。二十八宿(前項で既注)の一つで、西方白虎七宿の第二宿で、距星(きょせい:各宿の基準点となる星)はおひつじ座β(ベータ)星。「婁」には「群衆、または天獄。塿(小さい丘)」の意がある。

「番--鼈〔(マチン)〕」「馬錢」。リンドウ目マチン科マチン属マチン Strychnos nux-vomicaウィキの「マチン」によれば、『アルカロイド』(alkaloid:窒素原子を含み、ほとんどの場合、塩基性を示す天然由来の有機化合物の総称)『のストリキニーネ』(strychnine(オランダ語):C21H22N2O2無色の針状結晶で、猛毒。硬直痙攣を起こさせるが、微量では神経興奮剤となる)『を含む有毒植物及び薬用植物として知られる。種小名(ヌックス-フォミカ)から、ホミカともいう』。『インド原産と言われ、インドやスリランカ、東南アジアやオーストラリア北部などに成育する。高さは』十五メートルから三十メートル以上になる高木。『冬に白い花を付け、直径』六~十三センチメートルの『橙色の果実を実らせる。果実の中には数個の平らな灰色の種子がある。マチンの学名』は、一六三七年に『マチンがヨーロッパにもたらされたとき、カール・フォン・リンネにより命名された。種小名の』nux-vomica『は「嘔吐を起こさせる木の実」という意味だが、マチンの種子には催嘔吐作用は無いとされている』。『マチンの毒の主成分はストリキニーネ及びブルシン』(brucineC23H26N2O4 )『で、種子一個でヒトの致死量に達する。同じマチン属の』Strychnos ignatia『の種子(イグナチア子、呂宋果(るそんか))にもストリキニーネ及びブルシンが含まれる。こちらはフィリピン原産。マチン科』Loganiaceae『には他に、ゲルセミウム属』Gelsemium『(代表種はカロライナジャスミン』Gelsemium
sempervirens
『)などがある』。『漢方では生薬としてマチンの種子を馬銭子(まちんし)、蕃木鼈子(ばんぼくべつし、蕃は草冠に番)、またはホミカ子と称し』、『苦味健胃薬として用いられる。インドでは、木部を熱病、消化不良の薬に用いる。日本薬局方では、ホミカの名で収録されている。ただし、前述の通り』、『マチンは有毒であり』、『素人による処方は慎むべきである』とある。

「五勞七傷」東洋文庫注に「五勞」とは『心労・肝労・脾労・肺労・腎労の五臟の病』いとし、「七傷」『は五臟の他、身體と志とを加えて、この七つを傷めることとも、また、陰寒・陽萎・裏急・精漏・精少・精清・小便数を七傷とするという説もある。いずれも、過労の積み重なりにより発病する内臓の慢性疾患である』とある。

「商陸〔やまごばう〕」被子植物門双子葉植物綱ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca esculenta 或いは同属の総称。本種は中国原産の薬用植物で、本邦にも帰化し植生するが(他にマルミノヤマゴボウ Phytolacca japonica・ヨウシュヤマゴボウ Phytolacca americana(別名:アメリカヤマゴボウ)も分布する)、ヤマゴボウ属は有毒であり、食用には供してはいけない。本属の根には多量の硝酸カリウムや有毒な配糖体のフィトラッカトキシン(phytolaccatoxin)・サポニンであるフィトラッカサポニン(phytolaccasaponin)が含まれている。硝酸カリウムには利尿作用があり、古くから利尿薬として利用されてきたが、有毒成分のフィトラッカトキシンのため、食べると、嘔吐や下痢が発症し、さらには中枢神経麻痺から痙攣や意識障害が生じ、重い場合は、呼吸障害や心臓麻痺によって死亡することもある。では何故、ここに出るのかと言えば、毒を以って毒を制す式のそれで、漢方では、この根に逐遂・消腫の効能があり、水腫・腹水・脚気・腫れ物などに用いるからである(「逐水」とは瀉下と利尿作用によって腹水・胸水・浮腫などを治療することを指す)。全身性浮腫を伴う喘息症状には木通・沢瀉などと配合し、肝硬変などに起因する腹水には牡蠣・沢瀉などと配合して用いる。但し、毒性が強いため、慎重に投与する必要がある。外用薬としては、新鮮な商陸に塩を加えて搗き潰したものを頑固な腫れ物に用いたりする。アメリカでは嘗て、ヨウシュヤマゴボウの根を扁桃炎・耳下腺炎・乳腺炎・水腫などの治療に用いていたとされる。さても! ここからが肝心! では、本邦で我々が山菜として「山牛蒡」(やまごぼう)と呼称している漬物は何か? これはこの標準和名ヤマゴボウの根なんぞではなく、モリアザミ(キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis)・オニアザミ(アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense)・オヤマボクチ(雄山火口:キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ Synurus pungens:和名は茸毛(じょうもう:葉の裏に生える綿毛状のもの)が嘗ては火起こし時の火口(ほくち)として用いられたことに由る)・ヤマボクチ(山火口:ヤマボクチ属ヤマボクチ Synurus palmatopinnatifidus var. indivisus)の根、及び、本物の牛蒡(ゴボウ)であるキク目キク科ゴボウ属ゴボウ Arctium lappa (余り知られていないの言っておくと、本種ゴボウは紫色のアザミによく似た、総苞に棘のある花を咲かせる)の根の通称総称なのであり、先のヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca とは一切の類縁関係がない、全くの別物だということである。ご用心! ご用心!(以上は実は既に「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」の注で既注済なのであるが、私の周囲には勘違いしている人が多数いるので再掲した)。

「蒜〔(のびる)〕」野蒜。ヒガンバナ科ネギ亜科 Allieae 連ネギ属ノビル Allium macrostemon。小さな頃、母と一緒に裏山でよく採って食べたのを思い出す。

「菱〔(ひし)〕」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica。池沼に生える一年草で、葉が水面に浮く浮葉水草。花は両性花で、夏から秋の七~十月にかけて、葉の脇から伸びた花柄が水面に顔を出し、花の直径が一センチメートルほどの可憐な白い花を咲かせる。花期が終わると、二つある胚珠のうちの一方だけが発育し、大きなデンプンを蓄えた種子となる。食用(私の大好物である)。実を横から見ると、菱形を成し、両端に逆向きの二本の鋭い刺(とげ:蕚(がく)由来)を有する。秋に熟した果実が水底に沈み、冬を越す。私は母の実家のあった大隅半島の中央の岩川の山の池で、天然のそれを取って食べた。私の年齢で、自然の菱を採取して食べたことがあるひとは少ない。少なくとも、私は未だかってそういう私以外の思い出を持つ私から下の他人に逢ったことが、哀しいことに、ない。「青盲(あきめくら)」「明き盲」で、外見上、眼球に何らの変性を認めないにも拘らず、目が見えない症状を言うのであろう。

「子、生まれて、目、未だ開〔かざる〕時の〔母犬の〕乳」ヒトの場合、初乳には免疫システム上の、重要な成分が含まれているとされるので、それと関連するか。但し、「狗の子、目、開〔かば〕、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ」という辺りは、フレーザーの言う、類感呪術的な非科学的なもののようにも思われる。

「京極」「月淸」「主〔(ぬし)〕しらぬ岡部〔(をかべ)〕の里をきてとへばこたへぬ先に犬ぞとがむる」「秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)」の「巻一 十題百首」の中の一首。同歌集は九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)の家集。良経は鎌倉初期の公卿で、九条家の祖で太政大臣に上り詰めた九条兼実の次男。母は藤原季行の娘。「後京極殿」とも呼ばれる。治承三 (一一七九) 年に元服し、文治四(一一八八)年、兄良通が二十二で夭折してしまい、九条家を継いだ。翌年、権中納言、次いで権大納言兼左大将、建久六(一一九五)年には内大臣に進んだが、同七年、父関白兼実が失脚したため(ウィキの「九条兼実」によれば、後白河院崩御後、新たな「治天の君」となった『後鳥羽天皇や上級貴族が厳格な兼実の姿勢に不満を抱き、一方』、『院近臣への抑圧は宣陽門院』(後白河院の末の皇女覲子(きんし)内親王が宣下された院号名)『を中心に』した『反兼実派の結集』を齎し、『門閥重視で故実先例に厳格な姿勢は中・下級貴族の反発を』も『招いた』。また、『頼朝も』長女『大姫入内のために丹後局』(宣陽門院の生母)『に接近し、兼実への支援を打ち切った』。『後鳥羽天皇との対立は深刻化し』、彼の娘で後鳥羽帝の中宮であった任子が『皇子を産まなかったことで廷臣の大半から』も『見切りをつけられ』、遂に建久七(一一九六)年十一月に『関白の地位を追われ』たとある)良経も籠居した。正治元(一一九九) 年に左大臣、建仁二 (一二〇二)年に土御門天皇の摂政となり、元久元(一二〇四)年には従一位、次いで太政大臣とはなったものの、同三年、寝所で急死した(後代、刺殺されたという説も生まれている)された。良経について、叔父慈円(同母弟)は著書「愚管抄」で「能芸、群ニヌケタリキ、詩歌・能書、昔ニハヂズ、政理・公事、父祖ヲツゲリ」と記している。「新古今和歌集」の仮名序の作者で、代表的歌人の一人であり、漢詩集「詩十体」などがある。書家としても著名で、その書風は「後京極流」と称された。一方、有職故実の研究にも力を入れ、「大間成文抄(除目大成抄)」「春除目抄」「秋除目抄」等の著書を残しているほか、日記「殿記」がある。因みに藤原定家は、もと、この良経の家司(けいし:家政を掌る職員)であった(以上は複数の信頼出来る辞書の記載をジョイントした。私は珍しく古典の歌人の中で特に好きな一人であるので、詳注させて貰った)。「日文研」の「和歌データベース」で校合した。

文」既出既注

「王符論」後漢末の儒者王符の「潜夫論」のこと。十巻。「潜夫」とは在野の士という意で、王符は当時(二世紀中頃)の学者であったが、官僚として栄進することが出来ずに隠棲して本書を著わし、時勢を批判した。その立場は学問・道徳を重んじ、徳による人民教化を政治の眼目とするもので、当時の社会や政治を強く批判し、また、迷信・占いなどを排撃した(「ブリタニカ国際大百科事典」の拠る)。

「一犬、形〔(かたち)〕に吠ゆれば、百犬、〔その〕聲に吠ゆ」「一犬、形に吠ゆれば、百犬、声に吠ゆ」「一犬、虚に吠ゆれば、万犬(ばんけん)実(じつ)を伝う」等で人口に膾炙する故事成句。「一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人は、それを真実のこととして広めてしまう」ということの喩え。

「左傳」「春秋左氏傳」。「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」と合わせて春秋三伝の一つ。孔子と同時代の左丘明が孔子の「春秋」の正しい意味が失われることを恐れ、本書を作り、また「国語」を著わしたと伝えられているが、実際は漢代の学者が「国語」その他の伝承史料により、「春秋」の編年体に合せて編集したものと考えられている。「公羊伝」の政教主義を捨て、「春秋」の背景の史実をのびのびとした文章で記述し、これに義例を加えて倫理道徳の教えを展開したもの(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「犬を使ふ」調教する。

「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)撰になる古今の書物から不思議な話を蒐集したもの。全五十巻。

「其の一歳、人の十歳に當るか」ペットフード・ペット用品通販の「日優犬高松」公式サイト犬の「犬の年齢を人間に換算」によれば、孰れの品種も生後一年で十五歳(私は嘗ては十七歳と聴いた記憶があるが)となり、生後二年で二十四歳で、以下、小型犬は、三年目で二十八歳、中型犬は三年目で二十九歳、大型犬は三年目で三十歳、超大型犬は三年目は三十二歳とする。、小型犬は一年ごとに四歳ずつ、歳を取るような感じで、中型犬・大型犬はもう少しペースが速くなるとある。一昨年の十月二十六日に脳腫瘍で安楽死させた私の三女のアリスは十二年と一ヶ月生きたが、この計算だと、六十五歳を越えていたことになる。そんなおばあさんじゃなかったよね、可愛いアリス……六十の僕の方が……もっとずっと爺さんだったよ…………

「猫・犬の病ひを治す〔には〕」東洋文庫ではこの訳文相当の箇所に注して、『ここは一般的な犬や猪という意味にもとれるが、狆(ちん)(猫犬』(ねこいぬ)『とも狗猫(いぬねこ)ともいう)のことかもしれない。狆は外來種の犬で特別扱いされた唯一の室内犬であった』とする。

「烏藥〔(うやく)〕」クスノキ目クスノキ科クロモジ属クロモジ節 Lindera の常緑低木。中国原産で日本の暖地の山地にも野生する。高さ約三メートル。葉は薄い革質の広楕円形で先がすぼまっており、三本の主脈がはっきりしている。若葉のころは長くて柔らかい毛がある。雌雄異株で、春、淡黄色の小さい花が葉腋(ようえき)にかたまって咲く。実は長さ一センチメートルほどの楕円形で、緑色から赤褐色を経て、黒く熟し、油がとれる。根は暗褐色の長い塊状で香気をもち、健胃剤とする(ここまでは小学館「日本国語大辞典」に拠る)。テンダイウヤク Lindera strychnifolia が知られ、この「烏」というのは本種の根がカラスの頭に似ているため、或いは果実がカラスのように黒いことからとされる。また、和名「天台烏薬」の「天台」とは、中国南部の浙江省の天台地方で良い品質のものがとるためで、ボルネオール(borneolC10H18O:「竜脳」「ボルネオショウノウ」とも呼ばれる二環式モノテルペン(MonoterpeneC10H16:テルペンの分類の一つで、二つのイソプレン単位からなり、環を持つタイプ。テルペン(terpene)とはイソプレン(isoprene:二重結合を二つ持つ炭化水素を構成単位とする炭化水素)を構成単位とする炭化水素で、植物・昆虫・菌類などによって作り出される生体物質の一つ)などの成分を含み、整腸作用があり、一般用漢方製剤二百九十四処方のうち、「烏薬順気散」・「烏苓通気散」など、五処方に配合されている、と「武田薬品工業株式会社」の「京都薬用植物園」公式サイト内のこちらにあった。

竹堂簡便方〔(ろくちくだうかんべんはう)〕」東洋文庫版の「書名注」では、「竹堂簡便諸方」『か。全二巻。明の徐陟』(じょちょく)『撰。医書』とする。

「木鱉子〔(もくべつし)〕」ウリ目ツルレイシ属ナンバンカラスウリ Momordica cochinchinensisウィキの「ナンバンカラスウリ」より引く。『中国南部からオーストラリア北東部、タイ王国、ラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナムに分布する』蔓『植物で』、『別名ナンバンキカラスウリ、モクベツシ(木鼈子)。ベトナム語の名称からガック』『とも呼ばれる』。『雌雄異株の』蔓『植物で、果実は普通』、長さ十三センチメートル、直径十センチメートル『ほどの球形から楕円形』で、『熟した果実の表面は暗橙色で短い刺におおわれ、内部の仮種皮は暗赤色である。収穫期は比較的短く』、十二月から一月が『最盛期となる。農村部の家の玄関や庭園の垣にからんで生えているのが』、『よく見られる』。『ナンバンカラスウリの実は垣根に這わせている植物や自生している植物から収穫される。利用されるのは仮種皮と種子で、もち米と炊き込んでソーイ・ガック』『という濃い橙色の甘いおこわにすることが多い』。『ソーイ・ガックは、旧正月(テト)や結婚式などの慶事に供される料理で』、『米などと混ぜる前に、仮種皮と種子を取り出し、度数の高い酒をふりかけて下処理をすると』、『仮種皮の赤色がより鮮やかになり、種子が外れやすくなる』。『ナンバンカラスウリの果実は薬用としても利用される』。『ナンバンカラスウリの果実はビタミンAの前駆体であるβ-カロテン』(β-carotene)『のようなカロテノイド』(carotenoid:黄・橙・赤色などを示す天然色素の一群)『を豊富に含む』。『ナンバンカラスウリ由来のβ-カロテンを含む米料理を食べたベトナムの子供たちは、対照群と比較してβ-カロテンの血中濃度が高かった』。『ナンバンカラスウリの仮種皮に含まれる油脂には高濃度のビタミンEが溶けている』。『仮種皮の油に含まれる脂肪酸には、カロテノイドのような脂溶性の栄養素の吸収を促進する効果があるかもしれない』。『仮種皮はβ-カロテンとリコペン』(lycopene:カロテンの一種で鮮やかな赤色を呈す有機化合物)『を豊富に含むため』、『ナンバンカラスウリの抽出物はソフトカプセルに入ったサプリメントやミックスジュースとして販売されている。ナンバンカラスウリの果実はリコペンとβ-カロテンの他にも、ガン細胞の増殖を抑える効果がある可能性を持つタンパク質を豊富に含んでいる』とある。

「檳榔〔(びんらう)〕」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の種子を原材料とした漢方薬剤であろう。アルカロイドを含み、一般には「檳榔子(びんろうじ)」と呼ばれる。ウィキの「ビンロウ」によれば、『檳榔子の粉は単独では歯磨剤や虫下しに使用される。漢方方剤では、女神散(にょしんさん)、九味檳榔湯(くみびんろうとう)などに配合される。日本では薬局方にも記載されている』とある。

「祕笈〔(ひきゆう)〕」東洋文庫の割注に、『明の陳眉公の叢書の名』とある。

「杏仁〔(きやうにん)〕」ウィキの「杏仁」によれば、バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ Prunus armeniaca の『種子の中にある仁(さね)を取り出したもの。長さは』一・一~一・五ミリメートルと極小で、『形状は扁平の先の尖った卵円形』を成すが、『基部は左右対称ではない』。『古くからバラ科植物の仁は生薬や食用に利用され、杏仁(アンズ)のほか、桃仁(モモ)、梅仁(ウメ)、アーモンドなど』のそれがある。『杏仁には苦みの強い苦杏仁(くきょうにん』『Prunus maximowiczii)と、甘みのある甜杏仁(てんきょうにん)があり、前者は薬用に、後者は杏仁豆腐(あんにんどうふ)、アマレットなどの材料として用いられている』。生薬としての『杏仁は、三国時代(三世紀)頃に編纂されたもっとも古い漢方薬書である』「傷寒論」に載り、「麻黄湯」「大青竜湯」等の『重要な処方に配剤されている大切な薬味である』。『古くから「毒のある薬味」とされており、処方する際は分量を慎重に決めるものとされていた。現在では、分解されると』、『青酸を発生するアミグダリン』(amygdalinC20H27NO11:青酸配糖体の一種。梅干の種にも含まれる)『が含まれていることがわかっている』。『漢方では鎮咳剤として多く用いられている』。『なお、バラ科植物の仁の区別はアーモンドなどを除き』、『極めて』難しく、「本草辨疑」には『桃仁は見分けやすいが、杏仁と梅仁はよく似ているため、杏仁と梅仁が混じって売られていることがあると記されている』。『現実の生薬市場では』前掲書で『見分けやすいとされている桃仁にも』、『杏仁が混入している場合がある』とある。

「保嬰全書」東洋文庫の「書名注」に、医学書「保嬰撮要」『二十巻のことか。明の薛鎧(せつがい)撰。小児の諸種の病状と原因、治療について述べたもの。伝本は稀』とある。

「搜神記」六朝時代の文語志怪小説集。四世紀の晋の干宝の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。以下の話は、「第二十巻」の以下。

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孫權時李信純、襄陽紀南人也、家養一狗、字曰黑龍、愛之尤甚、行坐相隨、飲饌之間、皆分與食。忽一日、於城外飮酒、大醉。歸家不及、臥於草中。遇太守鄭瑕出獵、見田草深、遣人縱火爇之。信純臥處、恰當順風、犬見火來、乃以口拽純衣、純亦不動。臥處比有一溪、相去三五十步、犬卽奔往入水、濕身走來臥處、周囘以身灑之、獲免主人大難。犬運水困乏、致斃於側。俄爾信純醒來、見犬已死、遍身毛濕、甚訝其事。睹火蹤跡、因爾慟哭。聞于太守。太守憫之曰、「犬之報恩、甚於人、人不知恩、豈如犬乎。」卽命具棺槨衣衾葬之、今紀南有義犬葬、高十餘丈。

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なお、同書では、これに続いて、今一件の忠犬譚が載るので、それも引いて、自己流の訓読を附しておく。

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太興中、民華隆、養一快犬、號的尾、常將自隨。隆後至江邊伐荻、爲大蛇盤繞、犬奮咋蛇、蛇死。隆僵仆無知、犬彷徨涕泣、走還舟、復反草中。徒伴怪之、隨往、見隆悶。將歸家。犬爲不食。比隆復蘇、始食。隆愈愛惜、同于親戚。

(太興中[やぶちゃん注:東晋の元帝の年号。三一八年から三二一年。]、の民に華隆あり。一快犬[やぶちゃん注:賢い犬。]を養ひ、「的尾」と號し、常に自づから隨はせて將(ひきゆ)く。隆、後、江邊(かはべ)に至りて荻を伐るに、大蛇、盤繞(ばんねう)を爲す。犬、奮として蛇を咋(は)み、蛇、死す。隆、僵-仆(たふ)れて、知る無し[やぶちゃん注:昏倒して意識がない。]。犬、彷徨し、涕泣して、舟に走り還り、復た、草中に反(か)へる。徒伴(とはん)のもの[やぶちゃん注:舟中にいたこの日の華隆の連れの者。]、之れを怪しみ、隨ひ往き、隆の悶せるを見る。家に將きて歸る。犬、食(ものく)はず[やぶちゃん注:主人のことを心配して物を食おうとしない。]。隆、復た蘇(よみがへ)れる比(ころ)、始めて食ふ。隆、愈々、愛惜し、親戚に同じうす[やぶちゃん注:肉親同様に扱った。]。)

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本文の最後で良安も挙げる、「諸國里人談卷之一 犬頭社(けんとうのやしろ)」(リンク先は私の電子化注)等で知られる、大蛇から主人を救う話柄の最も古形の(ハッピー・エンドの)一つである。

「孫權」(一八二年~二五二年)は三国時代の呉の第一代皇帝(在位:二二二年~二五二年)。呉郡富春(現在の浙江省富陽県)の人。孫堅の子。二〇〇年、兄孫策の急死により、跡を継いだ。孫権は土着豪族及び北から南下した名士の支持を得て、巧みな政治的外交的手腕を揮(ふる)い、遂に江南支配を達成した。劉備と連合して曹操の南下を食止めた「赤壁の戦い」はその間に起ったものである。二二二年、呉王となり、建元して黄武といったが、その時は実際にはまだ、魏の封策を受けていた。二二九年には皇帝の位について独立、建業を首都とした。

「述異記」南斉の祖沖之が撰したとされる志怪小説集。以下が原文。

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陸機少時、頗好游獵、在豪盛客獻快犬名曰黃耳、機後仕洛、常將自隨。此犬黠慧能解人語、又嘗借人三百里外、犬識路自還、一日至家。機羈旅京師、久無家問、因戲語犬曰、「我家無書信、汝能齎書馳取消息不。」。犬喜搖尾、作聲應之。機試爲書、盛以竹筒、系之犬頸。犬出驛路、疾走向、飢則入草噬肉取飽。每經大水、輒依渡者弭耳掉尾向之、其人憐愛、因呼上船。裁近岸、犬卽騰上、速去如飛。逕至機家、口銜筒作聲示之。機家開筒取書、看畢、犬又向人作聲、如有所求、其家作答書筒、複系犬頸。犬既得答、仍馳還洛。計人程五旬、而犬往還裁半月。後犬死、殯之、遣送還葬機屯南、去機家二百步、聚土爲墳、屯人呼爲「黃耳塚」。

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「陸機」三国時代から西晋にかけての文学者・政治家・武将であった陸機(二六一年~三〇三年:呉(江蘇省呉県)の人。祖父遜は呉の宰相、父抗は大司馬となった名門の出身 二十歳の時、呉が滅びると、暫く別荘に引き籠っていたが、太康の末に、弟の陸雲とともに晋に仕えた。宰相張華に認められ、また賈謐(かひつ)のもとに集まる文学集団にも加わり、北方文人とも交わった。やがて恵帝の代となって政局が不安定となり、八王の乱が起ったとき、そのなかに巻込まれ、陸雲とともに殺された。その詩は修辞に重きを置き、華麗な言葉や対句の技巧を用い、六朝の華美な詩風の先駆けとなった。また、「文賦」は彼の文学批評の方法を述べたものとして著名である。作品は「陸士衡集」十巻に纏められている。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の家は呉の都建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったらしいウィキの「陸機」に拠る)建業は嘗ての呉の首都であったから、取り敢えず上海よりは洛陽に近いこことしても、その距離は、直線でも、六百五十キロメートルを超える。また、「『三国時代の文学スレッド』まとめサイト」のこちらに、「晉書」の「陸機伝」及び、良安が参照したと思われるものとほぼ同じ(より詳しい)、「芸文類聚」巻九十四の原文・書き下し文・訳が贅沢に載るので、必見。そこの「スレッド」の書き込みでは、陸機の故郷である華亭(上海市松江県)までの直線距離を示してあり、ざっと一千キロメートルとする。なお、「黃耳塚」も残念なことに現存しないようである。

『「太平記」に詳らかなり』「太平記」の巻第二十二の巻頭にある「畑六郎左衞門事」であるが、全体はかなり長い。冒頭から彼の「犬獅子」に関わる所までを以下に引く。底本は新潮日本古典集成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示し、一部の注は同書の傍注や頭注を参照した。

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 さる程に京都の討手大勢にて攻下しかば、杣山城(そまやまのしろ)も落とされ、越前・加賀・能登・越中・若狹五箇國の間に、宮方(みやがた)[やぶちゃん注:南朝方。]の城、一所も無かりけるに、畑六郞左衞門時能(ときよし)、僅に二十七人籠りたりける鷹巢城(たなのすのしろ)ばかりぞ相殘りたりける。一井兵部少輔(いちのゑひやうぶのせう)氏政は、去年、杣山城より平泉寺へ越えて、衆徒(しゆと)を語ひ、旗を擧げんと議せられけるが、國中(こくちゆう)、宮方、弱うして、與力する衆徒も無かりければ、これも同く鷹巢城へぞひき籠りける。

「時能が勇力(ゆうりよく)、氏政が機分(きぶん)、小勢なりとてさしおきなば、いかさま天下の大事に成るべし。」

とて、足利尾張守高經・高(かうの)上野介師重、兩大將として、北陸道七箇國の勢七千餘騎を率して、鷹巢城の四邊を千、百重(ひやくぢゆう)に圍まれ、三十餘箇所の向ひ城(じろ)をぞ取つたりける。

 かの畑六郞左衞門と申すは、武藏國の住人にてありけるが、歳十六の時より相撲を好んで取りけるが、坂東八箇國に更に勝つ者、無かりけり。腕の力、筋(すぢ)太うして、股のむら肉(じし)厚ければ、かの薩摩の氏長[やぶちゃん注:薩摩隼人で後に平氏を名乗った、仁明天皇の御代(天長一〇(八三三)年~嘉祥三(八五〇)年)の相撲の名人。]もかくやと覺えておびただし。その後、信濃國に移住して、生涯、山野江海、獵り・漁(sなど)りを業(げふ)として、年久しくありしかば、馬に乘つて惡所・岩石を落とす事、あたかも神變を得るが如し。ただ、造父(ざうほ)[やぶちゃん注:周の穆(ぼく)王に仕えた馬術の名人。]が御(ぎよ)を取つて、千里に疲れざりしも、これには過ぎずとぞ覺えたる。水練は、また、憑夷(ふい)[やぶちゃん注:「憑夷」が正しい。中国の治水神の名。]が道を得たれば、驪龍頷下(りりようがんか)の珠(たま)[やぶちゃん注:黒龍の顎の下にあるとされた宝珠。]をもみづから奪ふべし。弓は養由(やういう)[やぶちゃん注:春秋時代の弓の名人。]が迹を追ひしかば、弦(つる)を鳴して、遙なる樹頭(じゆとう)の栖猿(せいゑん)をも落しつべし。謀(はかりごと)巧みにして、人を眤(むつ)び、氣、すこやかにして心たわまざりしかば、戰場に臨むごとに敵を靡(なび)け、堅きに當たる事、樊噲(はんくわい)・周勃[やぶちゃん注:漢の高祖に従い、漢建国に功績があった。]が得ざる道をも得たり。されば、物は類を以つて聚まる習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜(ところのだいふばうくわいしゆん)とて、少しも劣らざる惡僧あり。また、中間(ちゆうげん)に惡八郞とて、缺脣(いぐち)[やぶちゃん注:兎口(みつくち)。]なる大力(だいりき)あり。又、「犬獅子(けんじし)」と名を付けたる不思議の犬、一疋、有りけり。此三人の者ども、闇にだになれば、或いは帽子冑(ばうしかぶと)[やぶちゃん注:鉢が丸く、帽子のように見える兜。]に鎖を著て、足輕に[やぶちゃん注:素早く。]出で立つ時もあり。或いは大鎧(おほよろひ)に七つ物持つ時もあり。さまざまに質(だて)[やぶちゃん注:方法。]を替へて敵の向ひ城に忍び入る。先づ、件(くだん)の犬を先立てて、城の用心の樣(さま)を伺ふに、敵の用心きびしくて、隙(ひま)を伺ひ難き時は、此の犬、一吠、吠えて、走り出で、敵の寢入り、夜𢌞りも止む時は、走り出でて、主に向ひて尾を振つて告げける間、三人ともに此の犬を案内者にて、屛(へい)をのり越え、城の中へ打ち入つて、喚(をめ)き叫んで、縱橫無碍(むげ)に切りて𢌞りける間、數千の敵軍、驚き騷いで、城を落されぬは無りけり。「夫(それ)、犬は守禦(しゆぎよ)を以つて人に養はる」といへり。誠に心無き禽獸も、報恩・酬德の心有るにや、斯かる事は先言(せんげん)にも聞きける事あり。昔、周の世衰へんとせし時、戎國(じゆうこく)亂れて王化に隨はず、兵を遣はして是れを責む雖も、官軍、戰ひに利無く、討たるる者、三十萬人、地を奪はるる事、七千餘里、國、危く、士、辱しめられて、諸侯、皆、彼に降(くだ)らん事を乞ふ。爰(ここ)に周王、是を愁へて、扆[やぶちゃん注:玉座。元は王座の後ろに立てた屏風。]を安じ給はず。折節、御前に犬の候ひけるに、魚肉を與へ、

「汝、若(も)し心有らば、戎國に下つて、竊かに戎王を喰ひ殺して、世の亂(みだれ)を靜めよ。然らば、汝に三千の宮女を[やぶちゃん注:「から」の意。]一人下して、夫婦となし、戎國の王たらしめん。」

と戲れて仰せられたりけるを、此の狗、勅命を聞きて、立つて、三聲、吠えけるが、則ち、萬里の路を過ぎて、戎國に下りて、偸(ひそ)かに戎王の寐所へ忍び入りて、忽ちに戎王を喰ひ殺し、其の頸を咆(くは)へて、周王の御前へぞ進(まゐ)りける。等閑(なほざり)に戲れて勅定(ちやうぢやう)ありし事なれども、

「綸言(りんげん)改め難し。」[やぶちゃん注:皇帝の仰せを覆すことは出来ない。]

とて、后宮(こうきゆう)を一人、此の狗に下されて、夫婦と爲(な)し、戎國を其の賞にぞ行はれける。后(きさき)三千の列に勝(すぐ)れ、一人(いちじん)の寵(ちよう)厚(あつ)かりし其の恩情を棄てて、勅命なれば力無く、かの犬に伴ひて、泣々、戎國に下りて、年久しく住み給しかば、一人の男子を生めり。其の形、頭(かしら)は犬にして、身は人に變はらず。子孫相續いて戎國を保ちける間、之れに依つて、かの國を「犬戎國」とぞ申しける。彼(かれ)を以つて之れを思ふに、此の「犬獅子」が行くをも、珍しからずとぞ申しける。されば、此の犬、城中に忍び入りて、機嫌[やぶちゃん注:攻め込むに相応しい時機。]を計りける間、三十七箇所に城を拵へ分かつて、逆木(さかもぎ)を引き、屛(へい)を塗りたる向ひ城ども、每夜、一つ二つ打ち落され、物具(もののぐ)を捨て、馬を失ひ、恥をかく事多ければ、敵の強きをば顧みず、御方(みかた)に笑はれん事を恥ぢて、偸(ひそ)かに兵粮(ひやうらう)を入れ、忍び忍び、酒・肴を送りて、

「然るべくは、我が城を夜討になせそ。」

と、畑を語(かた)らはぬ者[やぶちゃん注:頼んで懇請をしない者。]ぞ無かりける。[やぶちゃん注:以下、略。]

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『播州牧夫〔(ひらふ)〕が二犬、主の急難を救ひ、而も其の敵を囓み殺すと』本邦の犬塚(義犬墓)を渉猟した非常に優れた考察である必見の日本獣医史学会理事長小佐々学氏の論文「日本愛犬史 ヒューマン・アニマル・ボンドの視点からPDF。なお、「Human Animal Bond」は「人と動物の絆」の意。略して「HAB(ハブ)」とも呼ばれる)に、「播州犬寺(いぬでら)の義犬塚」として(ピリオド・コンマを句読点に、アラビア数字を漢数字に代えさせて戴いた)、

   《引用開始》

 蘇我入鹿に従軍した播磨の長者枚夫(ひらふ)(または秀夫(しゅうふ))を殺そうとした下僕を咬み殺して主人を救った白犬と黒犬の二頭を弔うために、枚夫が犬寺(金楽山法楽寺)と墓碑を建立したとされている。福本の義犬墓〔七世紀初期〕の話、兵庫県神河町福本〕は、「白犬石塔」という梵字以外無銘の宝筺印塔(ほうきょういんとう)と「黒犬石塔」という無銘の五輪塔がある。また、長谷の義犬塚〔同時代の話、同県神河町長谷〕には、枚夫の二頭の義犬のうち一頭がこの地で死んだため弔ったとされる無銘の犬塚がある。これらの墓は後世の作で犬の墓とする確証はなく、二頭の犬に三カ所の墓があることになる。

   《引用終了》

とある。「播州犬寺」の異名を自称される兵庫県神崎郡神河町中村にある真言宗法楽寺(ここ(グーグル・マップ・データ))の公式サイトのこちらにも「縁起」と、詳しい「播州犬寺物語」が載るので参照されたい。それによれば、事件は大化年間(六四五年~六五〇年)とする。但し、そこで枚夫が入鹿の要請で都に上ったとする解説部分では、これは蘇我入鹿が斑鳩宮の聖徳太子の子山背大兄王を襲撃させた時の出陣命令かと推定している。だとすると、それは皇極天皇二年十一月一日(六四三年十二月二十日)であるから、ズレがある。なお、以上から良安の「牧夫」は「枚夫」の誤認と考えられる。次注も参照されたい。

「播州犬寺の下に詳らかなり」本「和漢三才図会」の「第七十七巻」の「播磨」の「犬寺」の項を指す。以下に電子化する。

   *

犬寺   在書寫山之奥

 播州牧夫【蘇我入鹿之從者】之妻與僕密通僕却欲弑主語曰

 山中有鹿猪集處不令他人知君與我潜往獵之牧夫

 大喜行焉有二黑犬相從入深山僕上高處彎弓曰我

 紿倡來今奪命而能濟君身後牧夫解所帶畋粮與犬

 曰我死於此汝等囓其屍莫令有遺餘矣二犬埀耳聴

 已一犬躍行囓斷僕之弓絃一犬嚼僕之喉斃之牧夫

 將二犬還家乃逐其妻又以爲二犬如猶子我資財皆

 是二犬之有也然畜齡短不幾二犬自斃牧夫歎曰前

 言不可渝也便捨田貨建伽藍安千手大悲像薦冥福

 祠二犬爲地主神桓武帝聞之勑爲官寺

犬寺(いぬでら)   書寫山の奥に在り

播州の牧夫(かみが)[やぶちゃん注:総てママ。]【蘇我入鹿の從者。】の妻、僕(めしつかひ)と密かに通づ。僕、却つて主〔(あるじ)〕を弑(し)せんと欲し、語りて曰はく、「山中に、鹿・猪の集まる處、有り。他人をしてしらしめずして、君と我と、潜〔(ひそか)にに往きて之れを獵〔(と)〕牧らん」〔と〕。牧夫、大いに喜んで行く。二つに黑犬、有り。相ひ從へて深山に入る。僕、高〔き〕處に上り、弓を彎(ひ)いて、曰はく、「我、紿(あざ)むき、倡〔(ともな)〕い[やぶちゃん注:ママ。]來たる。今、命を奪ひて、能く君の身後〔(しんご)〕を濟(すく)はん[やぶちゃん注:後生を弔って差し上げましょうぞ。]」〔と〕。牧夫、帶ぶる所の畋-粮〔ゑさ〕[やぶちゃん注:狩りの際に携帯する糧食。]を解き、犬に與へて曰はく、「我れ、此に死す。汝等、其の屍(しかばね)を囓(うはへ)て、遺餘有らしむること莫〔(なか)〕れ」と。二犬、耳を埀れて聴き、已に一犬、躍り行くには、僕が弓の絃〔(つる)〕を囓(く)ひ斷(き)る。一犬、僕が喉を嚼(か)みて之れを斃〔(たふ)〕す。牧夫、二犬を將〔(ひきい)〕て家に還りて、乃〔(すなは)〕ち、其妻を逐(をひや)り、又、以爲(おもへ)らく、『二犬、猶子のごとし。我が資財、皆、是れ、二犬の有(ゆう)なり』〔と〕。然れども、畜の齡(よはひ)、短く、幾(いくばく)ならず〔して〕、二犬、自-斃(し)す。牧夫、歎して曰はく、「前言、渝(かは)るべからず」と。便〔(すなは)〕ち、田貨を捨て[やぶちゃん注:寺に喜捨し。]伽藍を建てて、千手大悲の像を安じ、冥福を薦〔(ささ)げ〕、二犬を祠り、地主の神と爲す。桓武帝、之れを聞き、勑して官寺と爲す。

   *

東洋文庫訳では、割注で二匹の犬の名を『大黒・小黒』とし、また、最後に以上の良安の解説は「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ:鎌倉後期の仏教書。全三十巻・目録一巻。虎関師錬(こかんしれん)著。元亨二(一三二二)年成立。仏教渡来から七百年間の高僧四百余名の伝記と史実を漢文体で記したもの)に拠る旨の割注が附されてある。

「宇都(うつ)右衞門五郞が犬、誤りて斬らる。而〔(しか)れど〕も、其の頭〔(かうべ)〕、飛びて、蛇(うはばみ)を囓み殺し、主の危難を救ふ」先にも掲げた「諸國里人談卷之一 犬頭社(けんとうのやしろ)」の本文及び注で、人物やロケーションを仔細に述べてあるので参照されたい。なお、次の注も見られたい。

「參州犬頭〔(けんづ)〕の社〔(やしろ)〕の下に詳らかなり」本「和漢三才図会」の「第七十七巻」の「參河」の「犬頭社(けんづのやしろ)」の項を指す。以下に電子化する。

   *

犬頭社   在上和田森崎

 犬尾社在下和田天正年中領主宇津左門五郞忠茂

[やぶちゃん注:「左門」はママ。訓読では「衞」を補った。]

 一時獵入山家有白犬從走行到一樹下忠茂俄爾催

 睡眠犬在傍咬衣裾引稍寤復寐犬頻吠于枕頭忠茂

 怒妨熟睡拔腰刀切犬頸頭飛于樹梢嚙着大蛇頸主

 見之驚切裂蛇而還家感犬忠情埋頭尾於兩和田村

 立祠祭之 家康公聞之甚感嘆焉且以有徃徃靈驗

 賜采地蓋宇津氏大久保一族先祖也【犬有忠功也多詳于狗之下】

犬頭(けんづの)   上和田森崎に在り。

 犬尾〔(けんび)の〕社は下(しも)和田に在り。天正年中[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。]に、領主宇津左衞門五郞忠茂、一時(あるとき)、獵(かり)して山に入る。家に白犬有りて從ひて走り行く。一樹の下に到りて、忠茂、俄-爾(にはか)に睡眠を催(もよほ)し、犬、傍に在っりて、衣の裾(すそ)を咬(くは)へて、引く。稍〔(やふや)〕く寤(さ)めて〔むるも〕、復た、寐(ね)る。犬、頻(しきり)に枕頭に吠ゆ。忠茂、熟睡を妨(さまたぐ)ることを怒りて、腰刀を拔きて、犬の頸(くび)を切る。頭〔(かしら)〕、樹の梢に飛んで、大蛇の頸(くびすぢ)に嚙(く)ひ着(つ)く。主、之れを見て驚き、蛇を切り裂き、家に還る。犬の忠情を感じ、頭尾を兩和田村に埋(いづ)み、祠(ほこら)を立て、之れを祭る。 家康公、之れを聞(きこしめ)して、甚だ感嘆あり。且(そのうへ)、徃徃(わうわう)靈驗〔(れいげん)〕有るを以つて采地を賜ふ。蓋し、宇津氏は大久保一族の先祖なり【犬、忠功有るや、多し。詳狗の下に詳(つまびら)かなり。】。

   *

ここで忠茂が俄かに眠くなってしまうのは、樹上の蟒蛇(うわばみ)が邪悪な霊力を以ってしたことであることは言うまでもない。また、ここで忠茂が首を刎ねたことを、暗愚と思うのは読みが浅いと言わざるを得ない。寧ろ、この犬は、主人に首を刎ねてもらうために、敢えて裾を引いたのかも知れぬ、ということに気づかねばならない。そうでなくては、樹上の高い位置に潜む大蛇の、その急所たる首筋に咬みつくことは、犬には到底、不可能だからである。急所を押えれば、死にはせずせずとも、主人に掛けた麻酔の術は中断されて解けるからである。さても、既にお判りの方もあろう。これは中国の「干将莫耶(かんしょうばくや)の剣と眉間尺(みけんじゃく)」に纏わる、かの数奇異様な伝奇伝承のエンディングの首が闘う凄惨な(一面からはブットビ過ぎて滑稽とも言える)シークエンスが淵源にあるのではないかと私は踏むからである。この話を御存じない方は、私の柴田宵曲 續妖異博物館「名劍」(その1)の本文や私の注を参照されたい。

 ―本電子化注を亡き三女アリスに捧ぐ―

 
 

2019/02/09

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(18) 「河童ト猿ト」(1)

 

《原文》

河童ト猿ト  【エンコウ】河童ヲ「エンコ」又ハ「エンコウ」ト云フ地方ハ、出雲石見周防長門伊豫土佐等ナリ。九州ニテモ河童ニ出逢ヘリト云フ者ニシテ、其大サモ形モ共ニ猿ノ如クナリシト報告スル者多シ。【河童言語】或ハ又全身ニ短キ毛アリ、人間ヲ詭カサントスル時ハ最初ニハ人ノ如ク物ヲ言ヘドモ、之ヲ聞返セバ二度目ニハ「キイキイ」ト云フバカリニテ、何ノ事カ判ラズトモ云ヒ、又悲シミテ泣ク聲マルデ猿ナリキト傳フル地方アリ〔水虎考略〕。然ルニ一方ニハ又河童ト猿トハ仇敵ナリト云フアリ。河童ハ猿ヲ見レバ自然ニ動クコトガ不能トナル。【猿牽】猿モ此物ヲ見レバ捕ヘズニハ承知セヌ故ニ、猿牽ガ川ヲ渡ル時ニハ用心ノ爲是非トモ猿ノ顏ヲ包ムト云フ事ナリ〔笈挨隨筆二。加藤淸正ガ肥後ノ領主タリシ時寵愛ノ小姓ヲ八代川ノ河童引込ミテ殺ス。淸正大ニ之ヲ憤リ、早速令ヲ領内ニ下シテ多數ノ猿ヲ集メ、河童討伐ヲ計畫ス。【河童首領】河童ハ到底猿ノ敵ニ非ザリケレバ、之ヲ聞キテ大恐慌ヲ引起シ、中ニモ河童九千ノ頭目ニ其名ヲ九千坊卜呼ブ者、一族ヲ代表シテ或僧ニ仲裁ヲ賴ミ、永ク人間ニ害ヲ加フマジキ旨ヲ約束シテ、僅カニ鬼將軍ノ怒リヲ解クコトヲ得タリト云フ〔本朝俗諺志〕。 

 

《訓読》

河童ト猿ト  【エンコウ】河童を「エンコ」又は「エンコウ」と云ふ地方は、出雲・石見・周防・長門・伊豫・土佐等なり。九州にても「河童に出逢へり」と云ふ者にして、「其の大きさも形も共に猿のごとくなりし」と報告する者、多し。【河童言語】或いは又、「全身に短き毛あり、人間を詭(たぶら)かさんとする時は、最初には人のごとく物を言へども、之れを聞き返せば、二度目には『キイキイ』と云ふばかりにて、何の事か判らず」とも云ひ、又、「悲しみて泣く聲、まるで猿なりき」と傳ふる地方あり〔「水虎考略」〕。然るに、一方には又、「河童と猿とは仇敵なり」と云ふあり。河童は、猿を見れば、自然に動くことが不能となる。【猿牽】猿も、此の物を見れば、捕へずには承知せぬ故に、猿牽(さるひき)が川を渡る時には、用心の爲、是非とも猿の顏を包む、と云ふ事なり〔「笈挨(きゆうあい)隨筆」二〕。加藤淸正が肥後の領主たりし時、寵愛の小姓を、八代川の河童、引き込みて殺す。淸正、大いに之れを憤り、早速、令を領内に下して、多數の猿を集め、河童討伐を計畫す。【河童首領】河童は、到底、猿の敵に非ざりければ、之れを聞きて、大恐慌を引き起こし、中にも河童九千の頭目に其の名を「九千坊」と呼ぶ者、一族を代表して或る僧に仲裁を賴み、永く人間に害を加ふまじき旨を約束して、僅かに鬼將軍の怒りを解くことを得たりと云ふ〔「本朝俗諺志」〕。

[やぶちゃん注:「笈挨隨筆」は、京都室町の豪商「万家(よろづや)」の次男であったが、蓄財に関心なく、安永初年から天明末年まで(一七七二年~一七八一年)、身を六部に窶(やつ)し、笈(おい)を背負って諸国を遍歴して諸国を漫遊、寛政六(一七九四)年に没した(生年は不詳)百井塘雨(ももいとうう)が書いた諸国奇談集。柳田のそれは、その「巻之一」の「水虎」(「かつぱ」と訓じておく)で、引用部分は短い(下線部)が、結構、百井は全体を力を入れて書いている。以下に吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。一部に読点や記号を追加し、私の推定で読みを附した(底本は一部にカタカナで振る他は一切ルビがない)。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○水 虎

右の佐伯の曰[やぶちゃん注:前話「山神の怪異」の末の附記に出る。「豐後杵築」の出身の「佐伯玄仙」なる人物。幸い、私はそれを総て「柴田宵曲 妖異博物館 そら礫」の注で電子化している。お暇な方は読まれたい。]、「田舍人は心猛く、加樣(かやう)の事をもものともせず、豐前の國中津の府と云ふ城醫(じやうい)の家に、書生たりし時、其家の次男、或時川岸を通りけるに、水虎(かつぱ)の水上に出て遊び居たり。思ふに此ものを得んは獺肝(かはうそのきも)などの及べきかはとて、頓(やが)て手ごろなる石をひとつ提げ、何氣なく後(あと)の出る所をばねらひ濟(すま)して打落(うちおと)しけるに、何かはもつてたまるべき。キャツトと叫び沈みけり。扨は中(あた)りぬる事と見?すに、水中動搖して、水、逆卷(さかまき)、怖しかりしかば、逃(にげ)て歸りぬ。夫(それ)より、彼(か)のものに取付(とりつき)て物狂はしくなり、家根(やね)にかけり、木にのぼりて、種々(いろいろ)と狂ひて手に合(あは)ず、細引(ほそびき)もて括(くく)り置けれども、すぐに切(きり)てければ、鐵(かね)の輪を首に入れて、鐵鎖(かなぐさり)をもて牛部屋の柱にしばり付たり。既に一月餘(ひとつきあまり)に成(なり)しかば、鐵輪(かなわ)にて首筋も裂破(さけやぶれ)たりしが、さらに退(たちのく)べき氣色なし。彼是(かれこれ)五十日計(ばかり)なり。或時、近き寺に大般若[やぶちゃん注:大般若会(だいはんにゃえ)。「大般若波羅蜜多経」を講読・転読する法会。古くは国家鎮護が目的で奈良・京都の大寺院で行われた。]有(あり)て、其札を家每に受たり。此家にも受來たり、先(まづ)彼(かの)ものに戴かせければ、身震ひして、卽時に除(のぞけ)たり。誠に不思議の奇特(きどく)、尊(たつと)き事いふ計りなし。始(はじめ)て此經廣大の功德を目前覽たりし」と語りける。もまた、まのあたり知たりしは、日向下北方村の常右衞門といふ人、十二三才の頃、川に遊びて、「河童に引込れし」と、連(つれ)の子供走り來て、親に告げたり。おりふし、神武の官の社人、何の河内と云(いふ)人、其(その)座に聞て、頓(やが)て其川に走り行(ゆき)、裸に成て、脇差を口にくはへて、彼(かの)空洞(ほら)[やぶちゃん注:後文から深い淵のことである。]に飛入り、水底(みなそこ)に暫く有(あり)て、其子を引出し來り、水を吐かせ、藥を與へ、やうやうにして常に返り、今に存命也。然るに、翌日、其空洞の所、忽ち淺瀨と成りにけり。所々の川には必ず空洞の所あり。深さを知らぬほどなり。そこには必ず鯉鮒も夥しく集れども、捕(とる)事を恐る。また、卒爾(そつじ)に石などを打込(うちこむ)事を禁ずるなり。彼邊(かのあたり)の川渡らんとするものは、河童の來りたる、往(ゆき)たるを能く知るなり。又曰、此ものは誠に神變(しんぺん)なるものなり。生(いき)たる逢へば必(かならず)病む。知らずといへども、身の毛立(だつ)なり。たとへ石鐵砲など不意に打當(うちあつ)る事有れど、其死骸を見たるもの、なし。常に其類を同して行來(ゆききた)り、又は一所に住(ゆく)ものと見ゆ。死せざる事もあるまじきに、つゐに人の手に渡らざると覺えたりと語る。かく恐ろしきものなれど、又、それを壓(ヲス)ものあり。猿を見れば、自ら動く事、能はず。猿もまた、そのものありと見れば、必ず、捕(とらへ)んとす。故に猿引(さるひき)川を渡るときは、是非に猿の顏を包(つつむ)といへり。日薩[やぶちゃん注:日向国と薩摩国。]の間にては水神と號して誠に恐る。田畑の實入(みいり)たる時、刈取(かりとる)るに、初(はじめ)に一かま[やぶちゃん注:刈った一鎌分。]ばかり除置(のけおき)、是を水神に奉るといふ。彼邊は水へん[やぶちゃん注:「水邊」。]計(ばかり)にあらず。夜は田畑にも出るなり。土人ヒヤウズエとも云(いふ)。是は菅神(かんじん)の御詠歌なるよし、此歌を吟じてあれば、その障りなしといふ。

    兵揃に川立せしを忘れなよ川立男われも菅はら

肥前諫早兵揃村に鎭座ある天滿宮の社家に申傳へたり。扨此社を守る人に澁江久太夫といふ人あり。都(かつ)て水の符を出す故に、もし川童の取付たるなれば、此人に賴みて退(しりぞく)るなり。こゝに一奇事有(あり)。然れども、我、慥(たしか)に、その時、其所(そこ)にあらず。後年、聞傳へたるなれば、聊か附會の疑心なきにもあらず。彼飛驒山の天狗桶の輪にはぢかれし類ひにも近ければ[やぶちゃん注:原話を示せないが、天狗は人の思惑等を事前に察知してしまうものだが、たまたま人のそばにあった桶の箍(たが)が錆びて緩んだか、パンと外れたのに、全く気付くことが出来ず、それに当たって弾き飛ばされたというシチュエーションの話であろう。山男の酷似した話なら、ごまんとある。]、云(いは)ずしてやまん事、勝(まさ)らんとおもへども、又、よき理(ことわり)の一條あり。見ん人、是を以て其餘の虛説とする事なかれ。只、この一事、氣機[やぶちゃん注:五行の気の運動。]の發動は鬼神も識得せず、一念の心頭に芽(めばえ)すは、我も不ㇾ知(しらざる)の理(ことわり)をとりて、無念無想の當體(たうたい)[やぶちゃん注:ありのままの本性。]を悟入すべし。同州宮崎花が島[やぶちゃん注:現在の宮崎県宮崎市花ケ島町(グーグル・マップ・データ)。]の人語りしは、先年、佐土原の家中何某、常々殺生を好みて、鳥獸を打步(うちあり)きて山野を家とせり。或日、例の鳥銃を携て、水鳥を心がけ、山間の池に行。坂を上りて池を見れば、鳥多く見ゆ。『得たり』と心によろこび、矢頃(やごろ)よき所に下居(くだりゐ)て、既にねらひをかけるに、かの水神、水上(みづのうへ)に出(いで)て、餘念なく、人ありとも知らず、戲れ遊び居たり。『扨は折あしき事哉(かな)』と、にがにが敷(しく)おもひ、頓(やが)て鐵砲をもち待居(まちゐ)たり。きせるをくはへながら、筒先を當て、『此(この)矢先ならんには、たとひ惡鬼邪神、もしは、龍虎の猛(たけ)きとても、何かははづすべき』と獨り念じて居たりしが、『いやいや、よしなき事也(なり)』と取直(とりなほ)すに、如何はしけん。[やぶちゃん注:句点は底本のママ。]計らずも、「ふつ」と引がねに障(さは)るや否や、「どう」と響きて、ねらひ、はづれず。かのものゝ胴腹(どうばら)へ中(あた)りしと見えて、「はつ」と、火煙、立のぼる。「こは叶(かな)はじ」と、打捨(うちすて)て、飛(とぶ)がごとくに立歸りけり。歸宅の後も、さして異變も無りしかば、心に祕して人にも語らず。又、彼(かの)地へも年を越しても行ざりけり。かくて何の障りもなく、或時、友連打(つれうち)よりて、酒吞み遊びて、たがひに何かの物語りに、此人、思はず此事を語り出し、「世にはおそろしき事も有ものかな。夫より、二、三年、一向、彼所へ至らず。さらに打(うつ)べき心もなかりけるに、不運なる水神かな。自然(おのづ)と引がねにさはり、放(はなた)れ出(で)たるには、我も驚きたり」と語るや否、「ウン」とのつけに反返(そりかへ)り、又、起直りて云樣(いふやう)、「扨々、今日唯今はいかなるものゝ所爲(しよゐ)なる事を知らざりしに、此者の仕業と聞て、其仇(あだ)を報ずるなり」と罵りかゝり、終(つひ)に病(やまひ)と成りて死したりと云。誠に此事は論ぜずして口外にせざれば、人も知らず、況んや鬼においてをや。かの豆を握つて鬼に問(とふ)に、問ふ人其數を知れば、鬼も知り、無心に摑んで人其數を知らざれば、鬼もまた其數を知らずといふも、同日の談なり。

   *

「九千坊」筑後川の河童の頭目として人口に膾炙しており、火野葦平「河童曼陀羅」にも多くに(十一篇ほど)その名が登場している(リンク先は私のブログ・カテゴリ。全篇電子化注済み)。]

2019/02/08

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 豕(ぶた) (ブタ)

 

和漢三才圖會卷第三十七

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

 

   畜類

 

Buta

 

ぶた     豭【牡】  彘【牝】

       豶【去勢】 𤜸【大豕】

       猪【豕子豬同豚𣫔並同】

【音詩】

      豕【和訓井俗云布太】

スウ     猪【和訓井乃古】

[やぶちゃん注:の個所に上図の下の篆書風の文字が入る(これは今まで通り、東洋文庫の挿絵を読み込み、編集権に抵触しないように、印字された大標題の活字「豕」及び左端の「スウ」を消去したものである。即ち、実際には、標題「豕」の右手に、この左印の「豕」の字が入る、特異点なのである(「スウ」は「」への左ルビなのではなく、今まで通り、大標題である「豕」への中国語カタカナ音写である)。私の言っている意味が判らない方のために、私が訓点の判読に迷う際や図版を清拭する時の汚れの確認等の参考にしている、国立国会図書館デジタルコレクションの明三四(一九〇二年中外出版社刊「和漢三才圖會」の当該部分の画像をトリミングして以下に掲げておく。

 

Butasankou

 

この画像で、今までの私の標題部の電子化の仕儀が納得いかれることであろう。なお、参考画像の下部が二重罫線になっているのは同書が二段組で、当該画像は、その下部記事であるための大枠の下部罫線であるためである。原典の罫線は下部も並の一本線である。]

 

本綱豕高大有重百餘斤食物至寡甚易畜養之甚易生

息天下畜之而各有不同或耳有大有小足有長有短皆

從土地異其孕四月而生在畜屬水在卦屬坎應室星其

性趨下喜穢也文豕字象毛足而後有尾形牡曰豭牝

曰彘【又曰豝曰】去勢曰豶四蹄白曰猪高五尺曰𤜸豕之

子曰豬【猪同】一子曰特二子曰師三子曰豵末子曰么生三

月曰六月曰凡豬骨細筋多

肉【苦微寒有小毒】 傷寒瘧痢痰痼痔漏諸疾食之必再發【反烏梅桔

梗黃連胡黃連令人潟痢合生薑食生靣合蕎麥食落毛髮】

脂膏【俗云末牟天伊加】 通小便黃疸水腫治皸裂及諸瘡

猪膽 治大便不通【以葦筒灌入膽汁立下】 小兒五疳殺蟲

 西戎人用猪膽作藥名底野迦似久壞丸藥赤黑色胡

 人甚珍重之主治百病中惡心腹積聚

猪頭 五月戊辰日以之祀竃所求如意以臘猪耳懸梁

 上令人豊足此亦厭禳之物也

按豕以易畜長崎及江戸處處多有之然本朝不好肉

 食又非可愛翫者故近年畜之者希也且豕猪共有小

 毒不益于人而華人及朝鮮人以雞豕爲常食

字彙云犬者喜雪馬者喜風豕者喜雨天將雨則豕進渉

 

 

ぶた     豭(をいのこ)【牡。】

       彘(めいのこ)【牝。】

       豶(へのこなしのい)

        【勢を去〔れるもの〕。】

 𤜸〔(やく)〕【大豕。】

       猪(いのこ)

        【豕の子なり。「豬」〔も〕同じ。

         「豚」「𣫔」、並〔びに〕同じ。】

【音、「詩」。】

      豕(ぶた)【和訓、「井〔(ゐ)〕」。

         俗に云ふ、「布太」。】

スウ     猪(ゐのこ)【和訓、「井乃古」。】

[やぶちゃん注:読み(原典ルビ)の「い」は総てママ。「へのこ」は通常は「陰茎」を指すが、ここは去勢することであるから、睾丸を含むの生殖器のこと。食肉を目的として肥育される場合や、元はイノシシであるから、性質は本来は荒く(飼育者が咬み殺された本邦での事件も現実にある)、その矯正や発情を削ぐための仕儀であろう。

 

「本綱」、豕は高大にして重さ百餘斤有り。物を食ふ〔こと〕至つて寡(すくな)く甚だ畜〔(か)〕ひ易く、之れを養〔ふも〕、甚だ生-息(そだ)ち易し。天下、之れを畜(か)いて、而〔(しか)〕も、各々、不同〔(どう)〕をせざる有り、或いは、耳に、大、有り、小、有り、足に長き有り、短き有り、皆、土地に從〔(より)〕て異なり。其〔れ、〕孕(はら)むこと、四月〔(よつき)〕にして生ず。畜〔(ちく)〕[やぶちゃん注:家畜。]に在りては、「水(すい)」に屬し[やぶちゃん注:五行の「水」。]、卦〔(けい)〕に在りては、「坎(かん)」に屬し[やぶちゃん注:八卦(はっけ)の一つ。以下でも陰陽五行説に基づくこの配分が示されるが、私は信じないし、興味がないので、それぞれの性質や属性を記さない。知りたい方は、ネットのその手の好きな方のところに、腐るほど載っている。]、「室星〔(しつせい/はつゐぼし)〕」に應ず。其の性〔(しやう)〕、趨下(すうげ)[やぶちゃん注:ある存在の下方に向かうことを言う。]にして穢〔(けがれ)〕を喜〔(この)〕む。「文」、「豕」の字、毛足ありて後ろに尾有る〔ものの〕形に象(かたど)る。牡を「豭〔(か)〕」と曰ひ、牝を「彘〔(てい)〕」と曰ふ【又、「豝〔(は)〕」と曰ひ、「〔(らう)〕」と曰ふ。]】勢(へのこ)を去るを「豶〔(ふん)〕」と曰ひ、四つの蹄〔(ひづめ)〕の白〔き〕を「猪〔(がいちよ)〕」と曰ふ。高さ五尺なるを「𤜸〔(やく)〕」と曰ふ。豕の子「豬〔(ちよ)〕」と曰ふ【「猪」に同じ。】。一子を「特」と曰ひ、二子を「師」と曰ひ、三子を「豵〔そう〕」と曰ひ、末子を「么〔(えう)〕」と曰ふ。生じて三月〔(みつき)〕なるを「〔(けい)〕」と曰ひ、六月〔(むつき)〕なるを「〔(そう)〕」と曰ふ。凡そ、豬〔(ぶた)〕は、骨、細く、筋〔(すぢ)〕、多し。

肉【苦、微寒。小毒、有り。】 傷寒・瘧痢〔(ぎやくり)〕・痰痼〔(たんこ)〕・痔漏〔などの〕諸疾、之れを食へば、必ず、再發す【烏梅〔(うばい)〕・桔梗・黃連〔(わうれん)〕・胡黃連に反し[やぶちゃん注:以上の特定の薬物と相性が極めて悪いことを言う。]、人をして潟痢〔(しやり)〕[やぶちゃん注:下痢。]せしむ。生薑〔(しやうが)〕と合して食へば、靣[やぶちゃん注:顔に生ずる著しい吹き出物。]、生ず。蕎麥〔(そば)〕と合〔はせ〕食へば、毛髮を落とす。】。

脂膏〔(しかう/あぶら)〕【俗に云ふ、「末牟天伊加〔(マンテイカ)〕」。】 小便・黃疸・水腫を通じ、皸裂〔(ひびわれ)〕及び諸瘡を治す。

猪膽〔(ちよたん)〕 大便〔の〕不通を治す【葦(よし)の筒を以つて、膽汁を灌〔(そそ)〕ぎ入〔るれば〕、立ちどころ〔に〕下〔(くだ)れり〕。】。 小兒の五疳〔の〕蟲を殺す。

西戎〔(せいじゆう)〕の人、猪膽を用ひて、藥を作り、「底野迦〔(テリアカ)〕」と名づく。久-壞(ふる)き丸藥に似て赤黑色〔なり〕。胡人、甚だ之れを珍重す。百病中〔の〕惡心〔(おしん)〕・腹〔の〕積聚〔(せきじゆ)〕[やぶちゃん注:腹の中のしこり。]を治することを主〔(つかさど)〕る。

猪頭〔(ちよとう)〕 五月戊辰〔の〕日、之れを以つて、竈〔(かまど)〕を祀〔(まつ)〕れば、求むる所、意のごとし。臘猪〔(らうちよ)〕[やぶちゃん注:臘月(ろうげつ:旧暦十二月の異名)に屠殺した豚。]の耳(みゝ)を以つて梁(うつばり)の上に懸くれば、人をして豊足〔(はうそく)〕ならしむ[やぶちゃん注:「豊衣足食」の略。衣服も食べ物も満ち足りて、豊かな生活が出来ること。]。此れも亦、厭禳〔(えんじやう)〕[やぶちゃん注:祝祭することで邪気を払う呪(まじない)をなすこと。]の物なり。

按ずるに、豕は、畜ひ易きを以つて、長崎及び江、處處に、多く之れ有り。然れども、本朝、肉食を好まず、愛翫すべき者に非ず。故に、近年、之れを畜ふ者、希なり。且つ、豕〔(ぶた)〕・猪(ゐのこ)共に小毒有りて、人に益〔(えき)〕あらず。而か〔れど〕も、華人及び朝鮮人、雞・豕を以つて常食と爲す。

「字彙」に云はく、『犬は、雪を喜び、馬は風を喜び、豕は雨を喜ぶ。天、將に雨〔(あめふ)〕らんとするに、則ち、豕、進みて水を渉〔(わた)〕る』〔と〕。

[やぶちゃん注:動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla イノシシ亜目 Suina イノシシ科 Suidae イノシシ属 Susイノシシ亜種ブタ Sus scrofa domesticus。イノシシ(Sus scrofa)を家畜化したもの。なお、イノシシの方は次の巻第三十八の「獸類」に「野豬(ゐのしし)」として出るから、この条の字には「猪」「豬」などあり、「いのこ」などとも読んでいるが、一部(最後の方の良安の「猪(ゐのこ)」は原種であるイノシシのことであろう)を除き、総て「イノシシ」ではなく、「ブタ」を指している点を注意して読まれたい。余りに馴染みのある動物であるので(因みに、私は物心ついた頃から、生きているブタが大好きな人間で、出来れば、飼いたいと思ったことさえある)、ウィキの「ブタ」からは、「ブタの飼育史」の「東アジア」の項のみを引く。『東アジアでは中国の新石器時代からブタは家畜化されていた。中国南部を発祥地とするオーストロネシア語族は南太平洋にまでブタを連れて行った。満州民族の先祖である挹婁人、勿吉人、靺鞨人は寒冷な満州の森林地帯に住んでいるので、ブタを盛んに飼育し、極寒時にはブタの脂肪を体に塗って寒さを防いでいた』。『豚は現代中国や台湾でもよく食べられ、中華料理で重要な食材となっている。中国語で単に「肉」といえば豚肉を指すほどで、飼育量も世界最大である。これに対して、中国で牛肉は農耕用に使われた廃牛や水牛を利用する程度で、食用としては硬すぎたり』、『筋張ったりし、それほど好まれなかった』。『朝鮮半島(特に韓国)では、縁起の良い動物とされている。漢字の「豚」を朝鮮語読みした「トン』『」が、「お金」を意味する朝鮮語(固有語)と綴りが同じためである。ブタ型の貯金箱に人気があり、「ブタの夢を見るとお金が貯まる」と言われ、宝くじを買ったりする。なお、朝鮮語の固有語では「豚」は「テジ』『」といい、イノシシは「メッテジ』『」という』。『ベトナム料理でも祝い事や廟への供物などに子豚の丸焼きを用意したり、ティット・コー(豚の角煮』『)や、焼豚を載せたライスヌードルであるブン・ティット・ヌオン』『が日常的に食べられたりするなど、中国文化を受けて』、『ブタは食材として重要である。中国語同様、ベトナム語でも単に「肉』『」といえば豚肉』『を指す』。『現代中国語では、「ブタ」は「豬(=繁体字)/猪(=簡体字)」と表記され、チュー(zhū)と呼ぶ。古語では「豕」(シー shǐ)が使われた』。「西遊記」に『登場する猪八戒は』、『ブタに天蓬元帥の魂が宿った神仙で、「猪(豬)」は「朱」(zhū、中国ではよくある姓)と音が通じるために姓は「朱」にされていた。しかし明代に皇帝の姓が「朱」であったため、これを憚って』、『もとの意の通り「猪(豬)」を用い、猪八戒となった』。『韓国やベトナムを含め、日本を除く東アジア漢字文化圏では、原則として亥年は「豚年」である』。

「百餘斤」明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、六十キログラム弱。

「室星〔(しつせい/はつゐぼし)〕」二十八宿(中国古代の星座の区分。黄道(こうどう)を二十八に分けて、星座の所在を示した)の一つ。現在のペガスス座のαβ星に相当する。 

「彘(めいのこ)【牝。】」なるほど。「鴻門の会」で樊噲(はんかい)が出されて食った生の豚肉の硬い肩の肉はの豚のそれだったのだな。漢の高祖の死後に呂后(りょこう)が高祖の愛妾戚(せき)夫人の手足を切って、目を抉り、耳を焼き、厠に入れて「人彘(じんてい)」と名づけたのも、これでしっくりくるというものか。なお、そこで便所に入れたのは、古くから、豚が便所の下で飼われており、人糞を有効にリサイクルして餌としていたからであって、その部分は異常な仕儀なのではないので、念のため。「圂」があり、これは字を見れば一目瞭然で、元は「豚小屋」の意であるが、その上には概ね、人が便所あったわけで、後に「圂」は厠の意ともなったのである。

「豶(へのこなしのい)」陰茎去勢した牡豚普通に牡の豚の意もある。

𣫔」は前に出た「黃腰獸」という異獣の別名でもあるので注意されたい。

文」「説文解字」。既出既注

『牡を「豭〔(か)〕」と曰ひ、牝を「彘〔(てい)〕」と曰ふ【又、「豝〔(は)〕」と曰ひ、「〔(らう)〕」と曰ふ』「本草綱目」(「巻五十上」の「獸之一畜類二十八種 附七種」の巻頭の「豕」)の釈名では、単に「牡曰豭曰牙牝曰彘曰豝曰」と並べるだけであるので、これらの「豝」と「」をどのような豚(性別・形状)に当たるかを述べていない。ところが、調べてみると、「豝」は二歳の豚を指すともあり(「漢字林」)、中文サイトの辞書では「」は「母猪」とある。よく判らぬ。

『一子を「特」と曰ひ、二子を「師」と曰ひ、三子を「豵〔そう〕」と曰ひ、末子を「么〔(えう)〕」と曰ふ』これは中国の人間の長幼の序の呼称の比定呼称だろうから(載道派の文人は好んで人に比喩するものである)、そうなると、「一子」は「いつし」で第一子で、以下、順に「二子」は「にし」、「三子」は「さんし」、「末子」(「ばつし・まつし」)は末っ子ということになると私は読んだ。ところが、東洋文庫訳は原文の「一子」を『ひとつ子』と訳し、「二子」に『ふたご』とルビする。とすれば、ルビはないが、「三子」は「みつご」だ。それはそれで文句はないが、だとすると、最後の「末子」だけが呼称がおかしいことになる。こういう文章で最後だけが属性が異なるというのは、漢文学の表現では稀ではないかと思う。しかし、現行の豚(改良されいるから何とも言えないが)は一度に十匹以上は産むのが普通だ。明代(ここはやはり「本草綱目」の「釈名」に出ている)のブタが、産頭数が少なかったのかも知れぬ(この叙述をそのように読むなら、四頭生むのが普通だったとも読める)。以上、私には不審なので特に言い添えておく。なお、最後の「么」は現代仮名遣で音「ヨウ」「小さな・幼い」の意で腑に落ちる。「豵」は「漢字林」には一歳の豚とする。【2019年2月9日追記】いろいろな記事で小生の疑問に答えて下さるT氏より、メールを戴いた。以下、整理させて貰うと、まず、この記載の最も古いものは「爾雅」の「釋獸」で、

   *

豕、子豬。、豶。幺幼。奏者。豕生三豵、二師、一特。所寢、檜。

   *

とある。この「爾雅」にはいろいろな注釈があるが、知られた郭璞の「爾雅注疏」の「巻十」「釋獸第十八」の中に、

   *

豕子、豬。[やぶちゃん注:中略。]么、幼【最後生者、俗呼爲么豚。么、音腰。】。[やぶちゃん注:中略。]豕生三豵、二、師、一、特。豬生子常多、故別其少者之名。

   *

とあり、また、宋の羅願撰の「爾雅翼」の「巻二十三」の「豵」の釈文に、

   *

豕、生三子謂之「豵」、生二則謂之「師」、生一則謂之「特」。郭氏以爲、豕生子、常多故、別其少者之名「豵」。從「從」義、猶「從」也。

   *

 

とあることをお教え下さり、この『一子を「特」と曰ひ、二子を「師」と曰ひ、三子を「豵〔そう〕」と曰ひ、末子を「么〔(えう)〕」と曰ふ』のは、中国で『昔から多産の豚が』、『少子しか生まなかった時に』、『特別に名づけ』た名『との事』で、『「末子曰么」は』先の『「爾雅」の「 幺幼。」の変奏と思います』とお伝え下さった。私は返信で、『少ない産児に対する呼称でしたか。少ないからこそ名を付けて大事にしたのでしょうか。或いは、その呼称に呪的な意味があり、ちゃんと成豚となり、子を増やすような呪的意味があったのかも知れませんね』と記した。因みに、T氏はこの「么」の字を良安が使用していることに着目され、『この「末子曰么」ですが、日本で刊行された国会図書館で公開の「本草綱目」を見ると、寛文一六三二本草綱目(以下、総て当該頁リンクといた)が「么」、寛永一四(一六三七)が「公」、承應二(一六五三)も「公」、正徳 (一七一四)も「公」、刊期不明の江戸版の「本草綱目」でも「公」と、寛永十四年以降のものは「末子曰公」となっています(爾雅から言って校正ミスか?)。良庵先生は中国舶載版「本草綱目」をもっていたか、寛文九年またはそれ以前の日本版(?)を持っていたと推定されます。ちなみに、貝原益軒の「大和本草」以降は、中国でしか役に立たない知識として、この手の記述は完全無視となります』とあった。これも、良安の記載と「本草綱目」を比較する際の重要な指標となるものと思うので、特にここに追記させて戴き、T氏に心より御礼申し上げるものである。しかし、ということは、前の三つはやはり、東洋文庫の「ひとつ子」「ふたご」「みつご」の訳が正しいということになり、和訓するなら「ひとりご」「ふたご」「みつご」で、最後の「末子」のみが、それまでの並びとは別に、最後に生まれた子の意の「すゑつこ」ということになる(そこが、若干、やはり気にはなるが)。

「筋〔(すぢ)〕、多し」困ったもんや! で、「五雑組」では『豚(ゐのこ)には筋〔(すぢ)〕は無』し、と言っとったやん!

「傷寒」漢方では高熱を伴う急性疾患を指し、腸チフスなどとされる。

「瘧痢〔(ぎやくり)〕」「おこり」(概ね現在のマラリア)による高熱に起因する消化器不全による下痢症状を指す。

「痰痼〔(たんこ)〕」東洋文庫訳の割注は『慢性の喘息』とする。

「烏梅〔うばい)〕」梅の未熟な実を干して燻製(くんせい)にしたもので、漢方で下痢止めや駆虫などの薬とする。

「桔梗」正双子葉植物綱キク目キキョウ科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras は根根にサポニン(saponin)を多く含むことから生薬「桔梗根(キキョウコン)」として利用される。去痰・鎮咳・鎮痛・鎮静・解熱作用があるとされ、消炎排膿薬・鎮咳去痰薬などに使われる。

「黃連〔(わうれん)〕」小型の多年生草本である、キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica 及び同属のトウオウレン Coptis chinensisCoptis deltoidea の根茎を乾燥させたもの。『体のほてり(熱)を抑える性質が』ある『とされ、胃や腸を健やかに整えたり、腹痛や腹下りを止めたり、心のイライラを鎮めたりする働き』を持つ。『この生薬には抗菌作用、抗炎症作用等があるベルベリン(berberine)というアルカロイドが含まれている』とウィキの「オウレンにあった。

「胡黃連」上記のオウレンとは全く異なる、高山性多年草の、シソ目ゴマノハグサ科コオウレン属コオウレン Picrorhiza kurrooa(ヒマラヤ西部からカシミールに分布)及びPicrorhiza scrophulariiflora(ネパール・チベット・雲南省・四川省に分布)の根茎を乾かしたもの。古代インドからの生薬で、健胃・解熱薬として用い、正倉院の薬物中にも見いだされる。根茎に苦味があり、配糖体ピクロリジン(picrorhizin)を含むものの、薬理効果は不明である。

「脂膏〔(しかう/あぶら)〕」「末牟天伊加〔(マンテイカ)〕」スペイン語「manteca」。猪・豚などの脂肪。江戸時代、膏薬に加えたり、器機の錆止めに用いたりした。

「猪膽〔(ちよたん)〕」豚の胆嚢。まあ、イノシシでもいいだろう。

「葦(よし)」単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis。「アシ」は同一植物の異名。漢字の「葦」「芦」「蘆」「葭」も生物学的には総て同一種。

「小兒の五疳〔の〕蟲」、小児の身体の中にいて「心疳」・「肺疳」・「脾疳」・「腎疳」・「肝疳」の「五疳」の症状(時代や学派によって解釈が異なるが、症状としては夜泣き・乳吐き・ひきつけなどの現在の小児性の神経症的疾患を多く含んだ)を引き起こすと信じられていました「蟲」、所謂、「疳の虫」のことで、実際のヒト感染性の寄生虫を特に指すものではない(但し、極端に多数の寄生虫が寄生している場合には、小児の場合、嘔吐(古くは虫体を吐き出す「逆虫」という症状が記録されている)や腹痛を訴える症状は出たであろうが、通常では無症状である)。

「西戎〔(せいじゆう)〕」古代中国人がトルコ族・チベット族など西方の異民族を言った蔑称。

「底野迦〔(テリアカ)〕」「theriaca」でオランダ伝来の薬。色の赤い練り薬で毒蛇などの有毒動物の咬傷に効くとされた解毒剤。テリアギア(以上は小学館「日本国語大辞典」)。次に「ブリタニカ国際大百科事典」の記載。解毒薬。紀元五〇年から紀元六〇年頃、ローマ皇帝ネロの侍医アンドロマクスが発明したとされ、当初は毒蛇咬傷の解毒薬で、約七十種もの薬物からなる薬方であった。東洋には七世紀に伝わり、中国の「新修本草」(六五九年成立中国の本草書。唐の高宗が蘇敬らに書かせた中国最古の勅撰本草書)に外国渡来の薬方として記載されている。中世には黒死病(ペスト)など感染症の特効薬として使われ、以来、十九世紀まで、洋の東西で万能薬として珍重された。材料の薬種や数は国・時代によって多種多様であったが、蛇は必ず入っていた。次に平凡社「マイペディア」の解説がらの引用。『中国や日本にも底野迦の名で伝わったが』、『これは特に獣類にかまれたときの解毒に用いられたという』。

「長崎及び江戸」長崎は出島があり、西洋人が食すから判るが、何故、江戸なのだろう? 識者の御教授を乞う。

「豕〔(ぶた)〕・猪(ゐのこ)共に」この後者はイノシシである。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。]

2019/02/07

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 起動 / 総論部・目録

 
 

寺島良安「和漢三才図会」の「巻三十七 畜類」の電子化注を、新たにブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 畜類」を起こして始動する。

私は既に、こちらのサイトHTML版で、

卷第四十  寓類 恠類

及び、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚部 江海有鱗魚

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚部 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、また、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」で、

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

を、更に最も新しいものとして、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥類」で、

卷四十一 禽部 水禽類

卷四十二 禽部 原禽類

卷四十三 禽部 林禽類

卷四十四 禽部 山禽類

を完全電子化注している。余すところ、同書の動物類は「卷三十七 畜類」「卷三十八 獸類」「卷三十九 鼠類」となった。思えば、私が以上の中で最初に電子化注を開始したのは、「卷第四十七 介貝部」で、それは実に十二年半前、二〇〇七年四月二十八日のことであった。当時は、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、正直、自信がなく、まさか、ここまで辿り着くとは夢にも思わなかった。それも幾人かの方のエールゆえであった。その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方や、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」を参照されたい)が、HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする(この間、文字コードの進歩で多くの漢字を表記出来るようになったのは夢のようだ)。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない訓読補塡用の字句は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した。今までも成した仕儀だが、良安の訓点が誤りである場合に読みづらくなるので、誤字の後に私が正しいと思う字を誤った(と判断したもの)「■」の後に〔→□〕のように補うこともしている(読みは注を極力減らすために、本文で意味が消化出来るように、恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合(非常に多い)も特に断らない)。ポイントの違いは、一部を除いて同ポイントとした。本文は原則、原典原文を視認しながら、総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない(私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していない。但し、本邦や中文サイトの「本草綱目」の電子化原文を加工素材とした箇所はある)。【2019年2月7日始動 藪野直史】

 

和漢三才圖會卷第三十七目録

  畜類

按四足而毛者總名曰獸【和名介毛乃】豢養者曰畜【和名介太毛乃】

 周禮曰庖人掌六畜【馬牛羊豕犬雞】六獸【麋鹿狼麕野豕免】辨其死生

 鮮薨之物也鮮者【與鱻同】新肉也薨【音考】乾肉也

日本紀云天武天皇四年四月詔曰自今以後莫食牛馬

 犬猿雞之完以外不在禁例若有犯者罰罪之

五雜組云馬無膽麋亦無膽兔無脾猿亦無脾豚無筋猬

 亦無筋

 獸莫仁於麟莫猛於狻猊【卽獅子】莫巨於貐【其長百尺】莫速

 於角端【日行一萬八千里】莫力於𥜿𥜿莫惡於窮奇【食善人不食悪人】

麟之長百獸也以仁獅子之服百獸也以威鳳之率羽族

 也以德鸇之懾羽族也以鷙然麟鳳爲王者之祥獅鸇

 禁禦之玩也 獅子畏鉤戟虎畏火象畏鼠狼畏鑼

苑云鵲食猬猬食鵕䴊鵕䴊食豹豹食駮駮食虎

 玄龜食蟒飛鼠斷猨狼虱喫鶴黃腰獸食虎皆以小制

 大也

文云犬性獨也羊性羣也鹿性麤也狐性孤也埤雅云

 狐性疑疑則不可以合類故從孤省

抱朴子云千歳之狐豫知將來千歳之貍爲好友千歳

 之猿變爲老人

 

 

和漢三才圖會卷第三十七目録

  畜類

按ずるに、四足にして毛ある者、總名を「獸(けもの)」と曰ふ【和名、「介毛乃」。】。豢(やしな)ひ養(か)ふ者を「畜(けだもの)」と曰ふ【和名、「介太毛乃」。】「周禮〔(しうらい)〕」に曰はく、『庖人〔(はうじん)〕、六畜〔(りくちく)〕【馬・牛・羊・豕〔(ぶた)〕・犬・雞〔(にはとり)〕】・六獸【麋〔おほじか/へらじか〕・鹿・狼・麕〔(のろじか)〕・野豕〔(ゐのこ/ゐのしし〕・免〔(うさぎ)〕】を掌(つかさど)る。其の死生鮮薨〔(しせいせんこう)〕を〔の〕物を辨〔(わきま)〕ふるなり』〔と〕。「鮮」とは【「鱻」と同じ。】「新しき肉」なり。「薨」【音、「考」。】は「乾肉」なり。

「日本紀」に云はく、『天武天皇四年[やぶちゃん注:六七五年。]四月、詔(みことのり)して曰〔(のたま)〕はく、今より以後、牛・馬。犬・猿・雞の完(しゝ)[やぶちゃん注:肉。]を食ふこと莫〔(な)〕かれ。以(こ)の外〔(ほか)〕は禁例に在らず。若〔(も)〕し、犯す者有らば、之れを罪(つみな)へ』〔と〕。

「五雜組」に云はく、『馬には膽〔(たん)〕無く、𪋛〔くじか〕も亦、膽、無し。兔〔(うさぎ)〕には脾〔(ひ)〕無く、猿も亦、脾、無し。豚(ゐのこ)には筋〔(すぢ)〕は無く、猬(はりねずみ)も亦、筋、無し』〔と〕。

獸は「麟(りん)」より仁〔(じん)〕なる莫〔(な)〕く、「狻猊(からじゝ)」【卽ち、獅子〔なり〕。】より猛(たけ)きは莫し。「貐〔(あつゆ)〕」より巨〔(おほ)〕きなるは莫く【其の長〔(た)〕け百尺[やぶちゃん注:「五雜組」の記載であるから(但し、この注は原文(にはないから良安のそれか後代の注である。文末の注を参照)、明代の一尺は三十一・一センチメートルなので、三十一メートル十センチとなる。]。】、「角端」より速(はや)きは莫し【日に行くこと、一萬八千里[やぶちゃん注:同じように(これは注として確認出来たが、そこでは「一萬里」とあった)、明代の一里は五百五十九・八メートルしかないから、一万七十六キロメートル相当。]。】。𥜿𥜿(ひひ)より力あるは莫く、窮奇〔きゆうき〕より惡なるは莫し【善人を食ひ、悪人を食はず。】。

麟の百獸に長たるは、仁を以つてなり。獅子の百獸を服するや、威を以つてなり。鳳の羽族を率(ひきふ)るは、德を以つてなり。鸇(たか)の羽族を懾(おひかく)るは、鷙〔(しつ)〕[やぶちゃん注:猛禽。]を以つてなり。然るに、麟・鳳は、王者の祥〔(きざし)〕なり。獅・鸇は禁禦〔(きんぎよ)〕[やぶちゃん注:禁裏。宮廷。]の玩(もてあそ)びなり。 獅子は鉤戟〔(こうげき)〕を畏れ、虎は火を畏れ、象は鼠を畏れ、狼は鑼〔(どら)〕を畏る。

苑〔(ぜいゑん)〕」に云はく、『鵲〔(かささぎ)〕は猬(けはりねずみ)を食ひ、猬は-(にしきどり)を食ひ、鵕䴊は豹を食ひ、豹は駮(はく)を食ひ、駮は虎を食ふ』〔と〕。

玄龜〔(げんき)〕は蟒〔(うはばみ)〕を食ひ、飛鼠〔(ひそ)〕は猨〔(さる)〕・狼を斷(た)ち、虱〔(しらみ)〕は鶴を喫〔(きつ)〕し、黃腰獸〔(こうようじう)〕を虎を食ふは、皆、小を以つて大を制すなり』〔と〕。

文〔(せつもん)〕」に云はく、『犬〔の〕性〔(しやう)〕は獨(ひとり)なり。羊の性は羣(むらが)るなり。鹿の性は麤(あらけ)きなり。狐の性は孤(ひとり)なり』〔と〕。「埤雅〔(ひが)〕」に云はく、「狐の性、疑〔なり〕。疑ふときは、則ち、以つて合類〔(がふるい)〕すべからず。故に、「孤」の省(はぶ)くに從ふ』〔と〕。[やぶちゃん注:最後の部分は「孤」の字を省く(「子」を取って(けものへん)を添えた字としたのである、の意。]

「抱朴子」に云はく、『千歳の狐は、豫(あらかじ)め、將-來(ゆくすゑ)を知る。千歳の貍(たぬき)は、好-友(ともだち)と爲〔(な)〕る。千歳の猿は變じて老人と爲る』〔と〕。

[やぶちゃん注:「獸(けもの)」「毛つ(の)物」「毛生る物」等の略という。

『豢(やしな)ひ養(か)ふ者を「畜(けだもの)」と曰ふ』本義は「けもの」と同じであるが、小学館「日本国語大辞典」の「けだもの」の意の二番目に『特に家畜をいう』とあり、典拠を源順の「和名類聚鈔」等を挙げているから、古くからこの使用区別はあったものらしい。「豢」は「養」と同じで「やしなう」であるが、特に「家畜を飼う」の意がある。

「周禮」中国最古の礼書の一つ。「しゆらい(しゅらい)」とも読み、「周官」とも書く。「礼記(らいき)」「儀礼(ぎらい)」と合わせて「三礼(さんらい」と称し、周公旦の撰と伝え、周代の行政制度を記述したもの。秦の焚書に遇ったが、漢代に五編が発見され、「考工記」を補って六編とした。

「庖人〔(はうじん)〕」王の食用に供するものを調理する官人。

「麋〔おほじか/へらじか〕」「大きな鹿」の意の他に、種としての哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ヘラジカ属ヘラジカ(箆鹿)Alces alces をも指す。同種は別名を「オオジカ」と称し、中国東北部にも棲息するので、同種と採っても問題はないが、まあ、見た目の大鹿でよかろうか。

「鹿」シカ科 Cervidae に属するシカ類の現生種は世界で約十七から十九属に、三十数種がいる。

「狼」哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ Canis lupusウィキの「オオカミによれば、現存する亜種は、長く、三十三(絶滅含めて三十九亜種)に分類されてきたが、近年の研究では、現存十三亜種・絶滅二『亜種への統合が提案されている』とある。中国産亜種はユーラシア北端部に分布するとされる、Canis lupus albus(ツンドラオオカミ/シベリアオオカミ)・Canis lupus lupus(ヨーロッパオオカミ/チョウセンオオカミ:シベリアオオカミとも呼ぶので前者と同一と主張する考えがあるか)を挙げておけばよいか。

「麕〔(のろじか)〕」シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus。漢字表記は多数あり、「麞鹿」「麇鹿」「獐鹿」(或いはそれらから「鹿」を取った単漢字)等がある。「ノロ」「ノル」とも呼び、これは朝鮮語で同属のシベリアノロジカ Capreolus pygargusを指す「노루」(ノル)に基づく。ノロジカ属の現生種はこの二種のみである。

「野豕〔(ゐのこ/ゐのしし〕」鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ Sus scrofa。先の「五畜」の「豕」は本種が家畜化された、イノシシ属イノシシ亜種ブタ Sus scrofa domesticus である。

「免〔(うさぎ)〕」兎形(ウサギ)目ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae

「死生鮮薨〔(しせいせんこう)〕」対象獣類の生死の判別と、その肉の状態(生の新鮮な肉か、干し肉(脯)か)の識別。

『「日本紀」に云はく……』以下は、「日本書紀」の天武天皇四(六七五)年四月庚寅十七日の条。

   *

庚寅。詔諸國曰。自今以後、制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後、九月三十日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛・馬・犬・猿・鷄之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。

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「罪(つみな)へ」「つみなふ」は「罪なふ」という他動詞ハ行四段活用で、「処罰・処刑せよ」の意。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。同所の「九 物部一」に、

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獐無膽、馬亦無膽、兔無脾、猴亦無脾、豚無筋、猬亦無筋。

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とある。また、「五雜組」の「巻七」に、

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獸莫仁於麟、莫猛於被視【師。】、莫巨於貌輪關、莫速於角端爛【一萬里。】、莫力於萬嵩、莫惡於亨了食【蓋言八不。】。

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ともあった。

「膽〔(たん)〕」漢方では肝臓(相当機能の臓器)或いは胆嚢を指すが、後者で採っておく。

𪋛〔くじか〕」シカの古名。

「筋〔(すぢ)〕」所謂、腱(けん)のことか? よく判らぬ。

「麟(りん)」霊獣とされる架空の幻獸である麒麟の別名。

『「狻猊(からじゝ)」【卽ち、獅子〔なり〕。】』狻猊(さんげい)は中国の伝説上の生物で、しばしば「獅子」(ライオンがモデルとなった伝説上の生物。神社の左右の狛犬のうちで角が無いもの、或いは獅子舞の獅子)と同一視される。ウィキの「狻猊」によれば、古くは、「爾雅」の「釈獣」に『「狻麑」として見え、猫』(さんびょう)『(トラの一種)に似て、虎豹を食うとしている。郭璞の注では』「獅子」『のこととしている』、「穆天子伝」(ぼくてんしでん:周の穆王の伝記を中心とした全六巻からなる歴史書。成立年代も作者も不詳。西晋(二六五年~三一六年)の時に魏の襄王の墓が盗賊により盗掘された際、竹簡として発見された。一部では奇書とされる)では、『「狻猊は五百里を走る」と』ある。『漢訳仏典でも狻猊は獅子の別名として使われる。玄奘訳』の「大菩薩蔵経」(「大宝積経」菩薩蔵会)に『「喬答摩(ガウタマ)種狻猊頷、無畏猶如師子王。」と』あり、「玄応音義」では『「狻猊は獅子のことで、サンスクリットでは僧訶(シンハ)という」とする』。『仏陀はしばしば獅子にたとえられるため、仏陀のすわる場所を「獅子座」と呼ぶことがある』。『ここから高僧の座る場所も「獅子座」あるいは「猊座」といい、「猊座の下(もと)に居る者」という意味で、高僧の尊称や、高僧に送る手紙の脇付けは「猊下」となった』。『銅鏡、各神獣鏡の意匠、特に唐の時代に作られた「海獣葡萄鏡」に多数見受けられる瑞獣を海獣または狻猊と呼ぶことがある。なお、海獣とは砂漠の向こうに住む「海外の獣」という意味であるという』。『明代には竜が生んだ九匹の子である竜生九子(りゅうせいきゅうし)の一匹とされ』、楊慎(一四八八年~一五五九年)の「升庵外集」に『よれば、獅子に似た姿で煙や火を好み、故に香炉の脚の意匠にされるという』とある。なお、『「狻」の読みは、しばしばつくりの「夋」に引かれて』、百姓読(ひゃくしょうよ)み(漢字が結合した熟語の誤読であり、形声文字の音符(旁や脚の部分)につられた読み方をすること)で『「シュン」との表記が散見されるが、反切は』「唐韻」で「素官切」、「集韻」などでは「蘇官切」と』『あり、「サン」が正しい(酸と同音)』とある。

貐〔(あつゆ)〕」所持する実吉達郎(さねよしたつお)氏の「中国妖怪人物事典」によれば、本来は「窳」と書き(同じく「あつゆ」と読む)、もとは天界の神々の一人であったが、弐負(じふ)という悪神によって殺され、黄帝によって蘇生したものの、精神に異常をきたし、崑崙山の下を流れる弱水(じゃくすい:「西遊記」の沙悟浄の住んでいた流沙河がそれとする)に飛び込んで水棲の食人性の怪物に変じたとする(「貐」の名はそれ以降)。牛に似るが、顔は人に酷似し、脚は馬(蹄が一つ)であった。その鳴き声は赤子のようで、数えきれないほどの人間を食った。形態は説によりまちまちで、半ばは龍に似ているとも、虎の爪を持つとも、足が速いなどとも言われる。後に太陽を射落したとされる弓の名人羿(げい)に退治されたとある。調べてみると。「述異記」(南朝梁(五〇二年~五五七年)の任昉(にんぼう)が撰したとされる志怪小説集)には、巨大で、竜の頭、馬の尾、虎の爪を持ち、全長は四百尺(当時の一尺は二十四・二四センチメートルで、約九キロ七百メートル)であったと記す。

「角端」個人ブログ「プロメテウス」の角端:甪端(ろくたん)とも呼ばれる翼を持つ中国の祥瑞の神獣によれば(一部の括弧記号を変更させて戴いた)、『角端は中国の古代伝説中の祥瑞の獣名で、形状は鹿に似て翼を持ちパンダほどの大きさです。鼻に角が一本ついており、一日に一万八千里を行くことができ、さらに四方の言語に精通していると言います。このため邪を避ける目的も兼ねて芸術作品にも多く登場しており、またの名を甪端(ろくたん)とも言い』、『漢代頃からその名が見られるようになっています。「宋書」の「符瑞志下」には、「甪端は日に一万八千里行き、四方の言語を知り名君の在位に明るく、遠方の物事にも明るく則ち書を奉ると現れる」』とあり、『甪端は端端、端とも言います。獬豸、豸莫、独角獣などと形状は似ていますが、これらは別々の神獣です。麒麟の頭に獅子の体で翼があり、独角、長尾、四爪で、上唇が特に長く前に伸びている者上向きに巻いている者など様々なタイプがいます。甪端は宋代の神獣の彫刻を代表する形状であり、様々な皇帝の陵墓にその姿が見られています。彫刻に見られる甪端は』、『重厚で』、『胸が突き出ており』、『鼻の端にある一本の角が誇張されて』、『獅子が吠えているように見え』、『気勢を上げています』。『翼を持つ神獣の形状は古くはペルシャやギリシャなどで見られています。翼は飛行のためと言うよりも神性を示すための象徴として用いられています。この翼を持った神獣は歴代の皇帝たちに愛されました。ある文献によると、頭に角が一本ある神獣を麒麟と言い、二本あると避邪、角がないものを天禄と呼ぶ、と記載されています。しかし、彫刻に用いられる形状にはそれほど厳格な規則はなく、宋の時代の甪端の形状は南北朝から唐にかけて』、『麒麟や天禄、翼馬などの特徴が加えられて変化していきました。この甪端の特徴は明、清の諸陵石に刻まれた麒麟にも継承されています』。『史書中の甪端の記述には外見に関して三種類の記述があります。一つは豚型で、二つ目は麒麟が田、三つめは牛型です。実際には、「史記・司馬相如列伝」には「獣則ち麒麟、甪端」とあり、昔の人たちは甪端を古くから祥瑞の神獣として用いてきました』。『甪端は麒麟に似ていますが』、『麒麟ではなく、形状は豚や牛に近いです。麒麟自体は毛皮を持った動物の長であるとされています。漢代や唐代には甪端は様々な効能をもたらすとされていましたが、神格化は行われておらず』、『宋代になると』、『甪端はさらに神秘的な存在にされていきました。この時期に祥瑞の属性を付加された上に翼や巻いた唇などが付け加えられるようになりました』。『甪端の造形は天禄や避邪などとの共通点が見て取れ、工芸ではその特徴が脈々と継承されています。明清時代になると宋代に変化して独特になってしまった形状の漢や唐代への回帰が起こり』、『元の麒麟に近い形状に戻っていきました。つまり、宋代の甪端はその形状のみならず地位も独特で、この時代特有のものとなっています』。『甪端に加えて歴代の麒麟、避邪、天禄、獬豸などは中国の各王朝で祥瑞の象徴として用いられてきました』。また、『甪端の角を用いて弓を作ったと言う話が残っており、「後漢書・鮮卑伝」には、「野馬、原羊、甪端牛の角を以って弓を為し、俗にいう角端弓である。」とあります。この場合、甪端は牛として描かれています。甪端牛は古代の鮮卑の異獣名であり、形状は牛に似ており』、『角は鼻の上にあったので甪端牛の名前はこれに因んでいます』とある。

𥜿𥜿(ひひ)」これは実在する『オナガザル科ヒヒ属の哺乳類の総称』と「漢字林」にはある。哺乳綱霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio であるが、しかしこれ以外が総て幻獣であるからには、これは強力な臂力を持った妖猿とした方がよかろう。

「窮奇〔きゆうき〕」ウィキの「窮奇」によれば、『中国神話に登場する怪物あるいは霊獣の一つ。四凶』(古代の聖帝舜によって中原の四方に流されて、魑魅(妖怪)の侵入を防がせた四つの悪神(獣)。「書経」「春秋左氏伝」に記されてあるが、内容はそれぞれ異なり、後者のそれが一般的で、文公十八年(紀元前六〇九年)の条で、他は「渾敦(沌)(こんとん)」(一説に大きな犬の姿)・「饕餮(とうてつ)」(一説に羊身人面で眼は脇の下にあるとする)・「檮杌(とうこつ)」(一説に人面虎脚で猪の牙を持つとする)である)『の一つとされる』。「山海経」では、『「西山経」四の巻で、ハリネズミの毛が生えた牛で、邽山(けいざん)という山に住み、イヌのような鳴き声をあげ、人間を食べるものと説明しているが、「海内北経」では人食いの翼をもったトラで、人間を頭から食べると説明している。五帝の』一『人である少昊』(しょうこう)『の不肖の息子の霊が』、邽山(けいざん)に『留まってこの怪物になったともいう』。「山海経」に倣って『書かれた前漢初期の』「神異経」では、『前述の「海内北経」と同様に有翼のトラで、現在ではこちらの姿の方が一般的となっている。人語を理解し、人が喧嘩していると正しいことを言っている方を食べ、誠実な人がいるとその人の鼻を食べる。悪人がいると』、『野獣を捕まえてその者に贈るとしている』。『善人を害するという伝承がある反面、宮廷でおこなわれた大儺(たいな)の行事に登場する十二獣(災厄などを食べてくれる』十二『匹の野獣)の中にも』「窮奇」という『名の獣がおり、悪を喰い亡ぼす存在として語られている』(下線太字やぶちゃん)。「淮南子」では、『「窮奇は広莫風』『(こうばくふう)』(「北風」の意)『を吹き起こす」とあり、風神の一種とみなされていた。因みに、『日本の風の妖怪である鎌鼬(かまいたち)を「窮奇」と漢字表記してよませることがあるが、これは窮奇が「風神」と見なされていたことや、かつての日本の知識人が中国にいるものは日本にもいると考えていたことから、窮奇と鎌鼬が同一視されたために出来た熟字訓であると考えられている』とある。リンク先に清の汪紱(おうふつ)の「山海経存」の「窮奇」がある。

「鸇(たか)」現行、本邦ではこの漢字には、タカ目タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus を当てている。サシバ(差羽)については、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ)(ハヤブサ・サシバ)」の注を参照されたい。

「玩(もてあそ)び」専ら、王者のシンボルとし、さらに鷹狩りに飼養されたことを指すのであろう。

「鉤戟〔(こうげき)〕」当初、私は本文内に「返しの付いた矛」と注したのであるが、東洋文庫の注に、『一般には先の曲ったほこをいうが、ここはあるいは獸の名かも知れない』とあるので、こちらに移した。

「鑼〔(どら)〕」あの金属製の楽器のそれである。

苑〔(ぜいゑん)〕」前漢末の学者劉向(りゅうきょう)の撰になる前賢先哲の逸話集。全二十巻。「君道」・「臣術」等二十篇(一篇一巻)からなり、各篇の初めに序説があって、その後に逸話を列挙してある。元来が先秦及び漢代の書物から天子を戒めるに足る遺聞逸事を採録したもので、現存する諸子百家の書と、かなり重複する。但し、すでに佚して本書にしか見えないものもあり、今日から見ると、貴重な古代説話集である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea。雑食性だが、生きたハリネズミはちょっと食いそうもないと私は思うが……。

「猬(けはりねずみ)」哺乳綱 Eulipotyphla ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae のハリネズミ類。日本を除く東アジアにも棲息する。雑食性で鳥類の雛や動物の死骸を食いはするようではあるが……。

-(にしきどり)」「錦鳥」ならば、本邦では、キジ科 Chrysolophus 属キンケイ(金鶏)Chrysolophus pictus の異名である。しかし、中文サイトでは「鵕䴊」(シュンギ)を「神鳥」とか記すものもあることはある。だったら、豹(食肉(ネコ)目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus:中国にも棲息する)を食うかも。でも、ここに並ぶのは殆んどが実在種だからなぁ……。いやいや! キンケイの黄色は、食った豹のヒョウ柄なのかも?!

「駮(はく)」これは確実に幻獣。馬に似て、しかも虎や豹を食う、と大修館書店「廣漢和辭典」に載る。「山海経」の、まず「西山経」に、

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又西三百里、曰中曲之山、其陽多玉、其陰多雄黃、白玉及金。有獸焉、其狀如馬而白身黑尾、一角、虎牙爪、音如鼓音、其名曰駮、是食虎豹、可以禦兵。有木焉、其狀如棠、而員葉赤實、實大如木瓜、名曰櫰木、食之多力。

   *

と出、また、「海外北経」でも、

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北海内有獸、其狀如馬、名曰騊駼。有獸焉、其名曰駮、狀如白馬、鋸牙、食虎豹。有素獸焉、狀如馬、名曰蛩蛩。有靑獸焉、狀如虎、名曰羅羅。

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前者では、白い馬に似るが、角が一本あり、尾は黒く、虎の牙と爪を有し、吠える声は太鼓を叩くようだ、とする。また、武具の難を防ぐ能力を有するともある。

「玄龜〔(げんき)〕」先にも引かさせて戴いた「プロメテウス」の「玄亀(旋亀):山海経に出てくる妖怪怪物は実在する種もあった」に、『日本では亀は万年と言いますように、亀は長寿の象徴となる生き物として扱われる場合があります。中国では長寿の象徴に加えて』、『亀の甲羅は殷の時代以前から亀甲占いに使用されていたため、古くは冥界の使いとみなされていました。火にくべた亀の甲羅の割れ方が神の意志という意味で、亀が神様に合って受けた神託を甲羅の割れ方で知らせた、という訳です』。『亀をモチーフにした有名な神獣に四象の一柱である玄武がいますが、玄武のもともとの名前は玄冥といい、冥界へ行き神託を得ることができる神聖な生き物とされていました。このため、後世では朱雀や青龍などよりも一歩とびぬけて』、『真武大帝として祀られるようになりました』。『ちなみに玄は黒という意味です。五行説では色の属性がありますので』、『赤龍や白龍などのように赤、青、白、黄、黒の五色が割り当てられます。すなわち』、『玄亀は黒い亀という意味になります』。『玄亀はまたの名を旋亀(せんき)、元亀、大亀などと呼ばれます。玄武は亀と蛇とが合わさった形状をしていますが、同じ亀をモチーフとした玄武と異なる点は玄亀は純粋な亀の形状をしている点です』。「太玄宝典」には、「『北方には滄海があり、滄海は玄亀を生み、玄亀は真気を吐き、真気は神水に変わり、神水は腎を生む。』」『とあります。真気とは生命活動を維持する根源のことです』。『玄亀は黒と赤の亀です』「山海経」には、「『怪水出て憲翼の水に注ぐ。その中に玄亀多し、その形状亀の如く鳥の首と毒蛇の尾を持っており、その名を旋亀と言い、その音木が裂ける如く、これを使用すると聾にならず、足のたこを治療するのによい』」『とあります』。『玄亀は神獣や妖怪の類であると思われていましたが』「山海経」の『描写に非常に似た亀が吉林省の松花江及びその上流の支流で見つかり、希少生物となっています』。『また、玄亀の別名である旋亀の名前は』、『有名な禹の治水工事の中にも見られます。この治水工事では応龍が尾で地を掃き』、『水道を作り、洪水で溢れそうになった水を逃がして海へと注がせました。そして旋亀は背中に息壌を乗せて禹の後について回りました。そして、禹は少し歩くと』、『息壌の小さな塊を』摑『んで大地に投げ入れました。息壌とは自分自身で成長して大きくなる神土の事です。地面に投げられた息壌はすぐに大きくなって洪水を埋め尽くしてしまいました。この記述から旋亀は治水工事の際に重要な地位を占めていることが判ります』とある。「山海経」のそれは「南山経」の以下。

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又東三百七十里、曰杻陽之山、其陽多赤金、其陰多白金。有獸焉、其狀如馬而白首、其文如虎而赤尾、其音如謠、其名曰鹿蜀、佩之宜子孫。怪水出焉、而東流注于憲翼之水。其中多玄龜、其狀如龜而鳥首虺尾、其名曰旋龜、其音如判木、佩之不聾、可以爲底。

   *

引用に出た、「山海経」の描写によく似た亀というのは、これか? 何だか、恐ろしくデカい、ゴッツゴツのゾッとしないカメの画像の上に、

 

長春2002812日在吉林省吉林市出現了一個身似龜、嘴似鷹、背似恐龍的不知名怪物。多年從事古文化研究的原長春光機學院宮玉海教授認為,根據《山海經》記載,它應是《山海經》中記載的"旋龜"。但還沒有自然科學家對此怪物做出最後鑑定。

 

とあるわ! 写真の背中の三つのキールや、口刎がタカに似ているというのは、カメ目ワニガメ属ワニガメ Macrochelys temminckii にそっくりだと思うが、しかし……吉林市(ここ(グーグル・マップ・データ)だよね? ワニガメはアメリカ固有種だしなぁ……。ただ、同じような記事が中文報道サイトにもある。でも、やっぱ……この写真のカメは、もう、モロ、ワニガメやろ?……

「蟒〔(うはばみ)〕」これは伝説の大蛇でよかろう。

「飛鼠〔(ひそ)〕」これは哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera のオウモリ(蝙蝠)類の別名である。「斷(た)ち」というのを「噛み破る・咬みつく」という意味にとり、例えば、その感染症(狂犬病は有名だが、他にも媒介する)で「猨〔(さる)〕」(=猿)や狼が死ぬ可能性はないとは言えない。吸血性コウモリ(哺乳類の血を吸血するのはコウモリ目陽翼手亜目ウオクイコウモリ下目ウオクイコウモリ上科チスイコウモリ科チスイコウモリ属ナミチスイコウモリDesmodus rotundus一種のみである)を想起する人もいようが、彼らは中南米にしか存在しないし、殆んどのコウモリ類は昆虫や花の蜜を吸うだけである

「虱〔(しらみ)〕は鶴を喫〔(きつ)〕し」「喫〔(きつ)〕し」は「吸い」の意味でマッチする。《シラミの類い》は全種が血液や体液を吸うからである。但し、ここではツルを出している(これは大型の鳥の代表として劉向が出したものである)が、実は、鳥類に寄生する「羽蝨・羽虱(はじらみ)」は咀顎目目 Psocodea の、ホソツノハジラミ亜目 Ischnocera・ゾウハジラミ亜目 Rhynchophthirina・マルツノハジラミ亜目 Amblycera に属するハジラミ類(Menoponidae:英文で調べてみても亜目レベルの分類が明確でないようなので以下の追加した学名は概ね単独で出す)で、ウィキの「シラミ」によれば、前者の通常のシラミ類(節足動物門昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura )のは、この『ハジラミ類』から『分化したと考えられるが、化石上の証拠はな』く、『シラミはハジラミ類同様』、『外部寄生虫として哺乳類の被毛の中で生活するが、ハジラミ類と異なり鳥類からはまったく知られていない』とあるのである。ウィキの「ハジラミ」によれば、上記の三亜目の『うち、マルツノハジラミ亜目は他の』二『亜目より系統的に離れていて、ハジラミは多系統である。他の』二『亜目はシラミとも近縁である』とあり、『鳥の羽毛や獣の体毛の間で生活し、小型で扁平、眼は退化し翅は退化している。成虫の体長は』〇・五~十ミリメートル『で、雄は雌より少し小さい。体色は白色、黄色、褐色、黒色と種によってさまざまである。大部分が鳥類の外部寄生虫で鳥類のすべての目に寄生し、一部は哺乳類にも寄生する。全世界で』二千八百『種ほどが知られ、うち』、二百五十『種が日本から記録されている』。『ハジラミは全体の形はシラミに似るが、細部では多くの点で異なっている。胸部の各節は完全に癒合することはなく前胸部は明らかに分かれる。肢の転節は』一、二節『で、先端に』一『個または』一『対の爪がある。体表は剛毛に覆われ、多いものと比較的少ないものがある。また口器はシラミと違って吸収型でなく』、『咀嚼型で』、『大顎が発達している。宿主の羽毛、体毛と血液を摂取するが、フクロマルハジラミ』Menacanthus stramineus『のように血液を成長中の羽毛の軸からとる種もある。ペリカンやカツオドリの咽喉の袋にはペリカンハジラミ属』Pelecanus『やピアージェハジラミ属やピアージェハジラミ属』Piagetiella『が寄生し、大顎で皮膚を刺し、血液や粘液を摂取する』。『不完全変態で、卵若虫成虫となる。卵は長卵型でふつう白く、宿主の大きさに対応し』一ミリメートル以下から二ミリメートルに『近いものまである。卵は宿主の羽毛か毛に産みつけられるが、羽軸内に産みこむものもある。若虫は成虫に似ており』、一『齢若虫では小さく色素をもたないが、脱皮ごとにしだいに大きくなり着色し』、三『齢を経て』、『成虫となる』。『ハジラミは温度や宿主のにおいに敏感で、適温は宿主の体表温度である。宿主が死に』、『体温が下がると』、『ハジラミは宿主から脱出しようとする。そのままでいれば、宿主が死ぬと』、『ハジラミも数日内に死ぬ』。『ハジラミの感染は交尾、巣づくり、雛の養育』、砂浴びなど、『宿主間の接触で起こる。もう一つの方法は翅のある昆虫に便乗することで、吸血性のシラミバエ』(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目シラミバエ上科シラミバエ科 Hippoboscidae)『の体に大顎でしがみつき』、『他の鳥に運ばれる。自然の集団では雌が多く、ある種では雄がほとんど見つからない。ウシハジラミ』(ホソツノハジラミ亜目ケモノハジラミ科ウシハジラミ Bovicola bovis)『では処女生殖が知られている。前胃にハジラミの断片が見つかることがあるが、この共食いの現象は個体数の調節に役だつと考えられている』。『ハジラミの最大の天敵は宿主であって、ついばみ、毛づくろい』砂浴びに『よって殺される。また鳥の蟻浴も同様の効果がある。くちばしを痛めた鳥は十分毛づくろいができないので、非常に多数のハジラミの寄生をうけ弱る。哺乳類のハジラミは有袋類、霊長類、齧歯類、食肉類、イワダヌキ類』(哺乳綱イワダヌキ目 Hyracoidea であるが、同目の現生種はハイラックス科 Procaviidae のみである。アフリカ大陸と中東にのみ棲息し、耳を小さくしたウサギのような感じの動物だが、驚くべきことに、ゾウ目 Proboscidea や海牛(ジュゴン)目 Sirenia と類縁関係にあり、足に蹄に似た扁爪(ひらづめ)がある、原始的な有蹄類の仲間らしい。ウィキの「ハイラックスを見られたい)『および有蹄類に寄生し』、『皮膚の分泌物や垢を食べているが、トリハジラミほど多くはない』。『ハジラミの祖先はチャタテムシのコナチャタテ亜目Nanopsocetae下目であると見られる』(引用元のネコハジラミ Felicola subrostratus の拡大画像を見た瞬間に確かに「チャタテムシだ!」と叫んだ私がいた)。『自然の中で地衣類やカビを食べ』、『自由生活をしていたチャタテムシが、三畳紀、ジュラ紀といった中生代初期から新生代の初期である古第三紀の間に羽毛を持つ動物の巣に寄生する生活を経て、生きた鳥の羽毛にとりつき寄生するようになったと考えられるが、化石は発見されていない。ちなみに、近年では羽毛は鳥の祖先の恐竜の一部の系統で既に発達していたことが知られるようになってきているので、初期のハジラミは鳥の出現以前に恐竜に寄生していた可能性もある』。『系統学的解析により、ハジラミは』二『つの系統が別々に進化したことがわかっている。哺乳類・鳥類に外部寄生するという特徴的な生態により、収斂進化が進んだ。うち』、一『つの系統は、咀嚼性から吸収性へと進化したシラミを生み出した』。『ある種のハジラミは』二『種以上の鳥に寄生することがあるが、それは鳥の進化の速さがハジラミのそれを上まわったためと考えられている。つまり、宿主が環境に適応して変化しても、ハジラミにとっての生活環境である鳥体表面の条件、つまり食物の栄養や、温度条件などはあまり変化しないからだ』、『というのである。これをVL・ケロッグは遅滞進化と名付けた。例えばアフリカのダチョウ』(ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus)『と南アメリカのレア』(レア目レア科レア属レア Rhea americana)『には共通のハジラミが寄生しており、今日では形態も分布も異なっているとしても、これらのダチョウは共通の祖先から分化したことを物語っている。ミズナギドリ』(ミズナギドリ目ミズナギドリ科 Procellariidae:現生種は十四属八十六種)『の仲間には』十六『属』百二十四『種のハジラミが知られているが、ハジラミの知見は大筋において』、『ミズナギドリの分類系と一致するといわれている』。『アジアゾウ』(哺乳綱長鼻目ゾウ科アジアゾウ属アジアゾウ Elephas maximus)や『アフリカゾウ』(ゾウ科アフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta africana)『などに寄生するゾウハジラミ』(ゾウハジラミ亜目ゾウハジラミ科ゾウハジラミ属 Haematomyzus)『は体長』三ミリメートル『足らずの小さなシラミで、長い吻をもち吸血するが、その先端に大顎をもち』、『完全にハジラミの形態をそなえており、ハジラミとシラミの間を結ぶ中間型とされる』。『人間に直接に加害するものはいないが、家畜や家禽につくものがある。ハジラミが多数寄生すると、鳥や獣はいらだち、体をかきむしり体を痛め、食欲不振や不眠をきたす。家禽は産卵数が減り太らなくなり、ヒツジは良質の羊毛をつくらなくなる。ニワトリハジラミはニワトリに寄生するハジラミ類の総称で、畜産上はニワトリナガハジラミ』Lipeurus caponis・『ハバビロナガハジラミ』Cuclotogaster heterographus・『ニワトリマルハジラミ』(この和名では見当たらない)・『ヒメニワトリハジラミ』Goniocotes hologaster『の』四『種が重要である。そのほか、ニワトリハジラミ』Menopon gallinae『やニワトリオオハジラミ』Menacanthus stramineus『も寄生する。これらはいずれも世界共通種である。キジ目の中には家禽となるものが多いが、同目のニワトリと近縁であるからいっしょに飼えば』、『ハジラミの混入が生ずる。シチメンチョウオオハジラミ』(この和名では見当たらない)『はその一例である。多数寄生すれば』、『ニワトリは羽毛がたべられかゆみのため』、『体力が弱まり、成長が遅れ』、『産卵率の低下をみる。防除には殺虫剤を使い、鶏舎内を清潔に保つことが必要である』。『また』、『イヌハジラミ』Trichodectes canis や『ネコハジラミはウリザネジョウチュウ』(要するに、「サナダムシ」の一種。扁形動物門条虫綱多節条虫(真正条虫)亜綱円葉目ディフィリディウム科 Dipylidiidae ウリザネジョウチュウ(瓜実条虫=犬条虫)Dipylidium caninum で、イヌやネコの小腸に普通に見られ、体長五十センチメートルに達する。頭節に近い片節は短くて幅広いが、後方になるにつれ幅より長さを増し、所謂、「瓜の実」(種(たね))型になる。各片節には二組の生殖器を備えている。老熟片節は排出された後、しばらく、動きながら、卵を放出する。このため、人の目にとまりやすい。卵は中間宿主のノミの幼虫に食べられ、ノミの体内で発育して、ノミが成虫に変態した後、擬嚢尾虫(ぎのうびちゅう)という幼虫になる。このような幼虫を宿したノミは運動が不活発になり、イヌやネコに食べられやすくなる。感染しても殆、んど無症状のことが多い。成虫の駆除とともに、中間宿主となるノミの駆除も必要となる。ヒト(とくに幼児)に寄生することもある。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った。すんまへんなぁ、寄生虫は私のフリーク対象の最たるものなんですねん。「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 四 成功の近道~(2)」とか、「生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(7) 四 命を捨てる親」にも、この子、登場しますによって、見とおくれやす)『の中間宿主となる』とある。

「黃腰獸〔(こうようじう)〕」豹とか羆(ひぐま)に似た獣らしいが、どうもよく判らぬ。「本草綱目」の「虎」に、

   *

黃腰、「蜀志」、名黃腰獸。鼬身貍、首長則食母。形雖小而能食虎及牛鹿也。又孫愐云、音斛似豹而小腰以上黃、以下黑、形類犬食獼猴名黃腰。

   *

等とあるのが、それらしい。この後の「卷三十八 獸類」の「𣫔」(音「コク・カク」)があるので、そこで再度、考証する。

文〔(せつもん)〕」現存する中国最古の部首別漢字字典「説文解字」。後漢の許慎の作で、西暦一〇〇年)に成立、一二一年に許慎の子許沖が安帝に奉納した。本文十四篇・叙(序)一篇の十五篇からなり、叙によれば、小篆の見出し字九千三百五十三字、重文(古文字及び篆書体や他の異体字等)千百六十三字を収録する(現行本では、これより少し字数が多い)。漢字を五百四十の部首に分けて体系づけ、その成立を解説し、字の本義を記してある。

「埤雅〔(ひが)〕」北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について記す。

「抱朴子」東晋の葛洪(かつこう)の著で、内篇二十巻、外篇五十巻。内篇は神仙・方薬・鬼怪・変化・養生・長生・悪魔払い・厄除け等、道教乃至神仙道の理論と実践(道術)を説く。理論面では嵆康(けいこう)からの影響が顕著であり、道術の中では左慈(さじ)に由来する錬金・練丹術が最も重視されている。外篇は政治・社会・文明の批判の書であって、当時の世相を窺う好材料である(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ただ、以下に引かれる部分は、ある中文サイトで、晉朝葛洪「抱朴子」の「對俗篇」に「玉策記」を引いて「狐狸豺狼皆壽八百、滿五百則善變爲人形」とし、さらに「玉策記」には佚文が有り、そこでは「千之狐、豫知將來、千之狸、變爲好女」とある、とある。即ち、「好-友(ともだち)と爲〔(な)〕る」というのは「好女」の誤りで、「婀娜っぽい女」の謂いである。東洋文庫訳も修正注で「友」を「女」としてある。その方が確かにしっくりくることは、くる。

 

 

 

   卷之三十七

    畜類

[やぶちゃん注:以下は原典では三段組。ここではルビも一緒に示し、句句読点は振らなかった。本章は、家畜動物の間に、当該家畜動物の臓器や生成物・当該動物を原料にした製品物、及び、疾患によって発生した体内異物等がやたらに混在している。なお、それらは各項で考証するので、ここでは一部の不審を持たれるであろう箇所を除いて、注をしてない。]

(ぶた)  【猪】

(いぬ)

狗寳(いぬのたま)

鮓荅(へいさらばさら)

(ひつじ) 【羊乳(ケイジ)】

[やぶちゃん注:「羊乳」のルビ「けいじ」はママ。「羊」の項に「羊乳」の条はあるが、このようなルビは振られていない。「羊」の音に「ケイ」はなく(「乳」には「ジユ」はあるが「ジ」はない)、また、中国音でも「yáng rǔ」(イァン・ルゥー)で全く合わない。一つのヒントは、この目録ページのルビは本文と異なり(本文は標題和名のみがひらがなでルビは総てカタカナである)、「ひらがな」と「カタカナ」が判然と区別されて振られている(標題は総てひらがな)ことと、後の「牛乳(ボウトル)」である。後者の「ボウトル」とは英語の「butter」のカタカナ音写に酷似することが判然とする(後の開国後の横浜で「バター」は「ボウトル」と呼ばれた。ただ「牛乳」にそれを振るのは誤りではあるが)。従って、この「羊乳(ケイジ)」も外来語である可能性が高いと考え、調べてみると、「チーズ」(cheese)のことを、ポルトガル語で「ケイジョ」(Queijo)と呼ぶことが判った。半可通な部分はあるが、羊の乳で作ったチーズの意を、羊の乳の意と誤認したのではあるまいか? せめて「酪」があるんだから、そっちに割注してほしかったなぁ、良安先生! とまあ、確定ではないので、識者の御教授を乞う。]

黃羊(きひつじ)

(うし)  【牛乳(ボウトル)】

牛黃 【いしのたま】

阿膠(あきやう) 【にかは】

黃明膠(すきにかは)

(にゆうのかゆ) 【酥 醍醐 乳腐】

(むま)

(むらさきむま)

(ら)

[やぶちゃん注:、雄のロバと雌のウマの交雑種である騾馬(らば)(哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus)のこと。]

駱駝(らくだ)


 

2019/02/06

南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)

 [やぶちゃん注:本電子化は、本日公開した『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)』の注の必要上から急遽、電子化したものである。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠った。クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。

 詳注を附す気はないが、私の躓いた部分を先に冒頭で示すと、

・『Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)』というのは、哺乳綱食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種ウマグマ Ursus arctos pruinosus である。チベットに棲息し、和名は走る様子が「馬」に似ることに基づく。

・「燧(すい)を鑚(き)りて」は、例の木同士の揉みきりや火打ち石を用いて発火することを指す。

・「籙字」は「ろくじ」でその言語を記すための特殊な符号(文字)のこと。

・「黿」現行ではこれは、爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科マルスッポン属マルスッポン Pelochelys cantorii を指し、スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis とは異なるマルスッポン属の模式種で、我々の知っている本邦のスッポンの三倍弱の大きさがある。

「越張の封泥」不詳。「封泥」古代中国に於いて、貴重品を収めた箱や竹簡や木簡文書の封緘に用いた粘土塊(縛った紐の結び目などに柔らかいうちに押印して開封の有無を確認した)を指すが、「越張」は不明。軽々に「越の張」という地名とも断じ得ない。

・「格殺(かくさつ)」手で打ち殺すこと。殴り殺すこと。

・「葫蘿蔔」そう訓じているかどうかは別として、「大根」と並列されており、「にんじん」(野菜のニンジン)のことと思う。

・「シビトバナ」「石蒜」「シタマガリ」「カウラバナ」最後の異名を除いて、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata の異名である。私の「曼珠沙華逍遙」を見られたい。

・「吹弾」(すいだん)とは、笛などを吹き、琴などを弾くこと。音楽を演奏すること。] 

 

  南方熊楠より柳田国男宛

    明治四十四年九月二十二日

‘The Travels of Athanasius Nikitin’(原本は魯語なり、魯国 Tver 市の人、一四七〇年ごろベルシアとインドに旅せし人なり) は Count Wieihorsky 氏の英訳なり(‘India in the 15th Century’に出づ。発刊の年は忘る。その中に収めたり)。この書の一三頁に左の記あり。

[やぶちゃん注:以下の一段落の引用は、底本では全体が二字下げ。]

 インドの森中に猴(さる)棲み、王あり。群猴、兵具を持って侍衛す。もし人、猴を捕るときは、これを王に報じ、王猴、軍を起こしてこれを尋ぬ。よって市に入り、家を倒し、人を打つ。猴群に特別の言語あり、子多く産む。もし子生まれて父母に似ぬ時は、これを公道に捨つ。インド人これを捉え、諸手工を教え、また夜中これを売る。これ昼これを売らば元の家に帰るゆえなり。あるいはこれに踊舞を教ゆ。註にいう、古ギリシア人も猴を人の一種とせり、イブン・バッタ(アラビアの大旅行家、一三〇四年生まれ、一三七八年死す)、インドの人に聞くところを書せるに、猴群に王あり、猿猴卒、棒を手にして常侍し、種々の食を供す、と。

 これらは猴を山男と混ぜるようなり。また狒々の前説を補うべきは、N.Prizhezalsky, ‘Mongolia, the Tangut Country and the Solitude of Nothern Tibet,’Londonm 1876,vol.ii, p. 249 に、予輩甘粛に着せる前に蒙古人より聞きしは、甘粛州に非常の獣あり、Kung-guressu クングーレッス(人熊の義)と言う。顔扁たくして人のごとく、たびたび両足で歩す。体に良く厚き黒毛を被り、足に長大なる爪あり。力強きことはなはだしく、狩人これを怖るるのみならず、その来たるをおそれて村民住を移すに至る。甘粛に入ってTangutans(タングタン人輩)に聞くに、みないわく、山中にこれあり、ただし稀なり、と。また熊のことでなきかと問うに、熊にあらずと言う。一八七二年夏、甘粛に着きしとき、五両金を懸けて求めしも獲ず、云々。ある寺にその皮ありときき、行き見しに、小さき熊の皮を藁でつめたるなり。人々いわく、人熊は足跡を見るのみ、決して人に見られず、と。今藁で詰めたる能皮を見るに、高さ四フィート半、喙挺(ぬき)んで、頭と前体は暗白色、背はそれより一層暗く、手ほとんど黒く、後部長く狭く、爪長さおよそ一寸、鈍にて黯色なり、と。

 熊楠いわく、これは Ursus pruinosus 西蔵熊(チベタンベヤー)なり、大英博物館にあり。支那の熊なり。「人に遇えば、すなわち人のごとく立ってこれを攫(つか)む。故に俗呼んで人熊となす。けだし熊羆(ゆうひ)は壮毅の物にして陽に属す。故に書して、二心あらざるの臣をもってこれに誓う」と『本草綱目』に出づ。

 右書き終わりしところへ貴書状着、および刊行物も着、また松村教授よりも葉書着、御厚志ありがたく存じ奉り候。前日新任知事当地へ来たりし際、毛利清雅氏、知事を訪い、神社、森林等の一条を述べ、とにかく知事もその説に傾聴されおりし由。(毛利は只今県会議員に出る競争中にて、合祀反対の町村民ことごとくこれに付和し、はなほだ猛勢なり。)しかして、別に河東碧梧桐氏より小生の意見書を三宅雄次郎氏一見すべしとのことにつき、さらに一文を草し差し出すべく候。(只今菌類の好季節にて、小生はなはだ多事で、画をかき夜に入ること多し。)

 御下問の三条のうち、河童のことは多少しらべ置けり。神馬とはその意味不詳、ただただ神が馬に乗るということにや、また祥兆を示すに天に馬像現ずる等のことにや。ちょっと御明答を乞う。馬蹄石のことは、小生、前年故中井芳楠氏(ロンドン正金銀行支店主任にて、日清合戦の金受け取り、また松方侯が蔵相たりしとき金借り入れに力ありし人)の出資で、「神足考」[やぶちゃん注:名論文「神跡考」の誤り。]という長篇を刊行し、英国で頒布せしことあり。非常に長いものなる上、その後書き加えたることも多きが、これを読まばあるいは貴下のしらぶるほどのことは十の九その中に包有されあるかとも存ぜられ候。一度に事行かぬべきも、小生の意見書刊行下されし御礼に、幾回にも分かち訳出し、細目に懸くべく候。この長篇は外国にてオーソリチーに引かるることしばしばなる物に候間(例のダイラ法師の足跡のことも含めり)、梗概のみでも貴下の「馬蹄石考」のついでに御付刊下されたく候。

 オボのこと、いろいろ尋ねしも、単にオボというものあり、石をつむなり、というほどの短解以上の物見当たらず。ロシア文学に達せる人に頼み、かの語の風俗彙纂などを見出だすのほかなしと存ぜられ候。一つ珍なこと見当たり候ゆえ、ついでに書き付け申し候。本年六月二十二日の‘Nature’(英国でもっとも広く読まるる科学雑誌にて、ダーウィン、スペンセル、ヘッケル、以下高名の寄書家多し。小生二十六歳のとき一文を投じ、その翌年の五十巻祝賀の節、特別寄書家の名を列せるうちに、日本より伊藤篤太郎博士と小生二人列名せり)五五八-五五九頁によれば、ボルネオ島のダイヤクス Dyaks の正直なる例は、tugong bula(虚言者塚)の設けあるにて知らる。この塚もて虚言を表せらるるときは、その人死するも塚は容易に滅せず。大虚言家あるときその紀念として木枝を積み後人を戒む。虚言で詐(あざむ)かれし人々、両村間の道側顕著なる地点に、木枝を積んで通行く者おのおのその虚言家を誚(そし)りながら枝を加え積む。一たびこれを築かるるときはこれを滅するに方なし。セラトクとセベタンの間にかかる塚ありしが、あまりに道の邪魔になるほど枝がくずれかかりしゆえ、記者燧(すい)を鑚(き)りてこれに火を点じ焼亡せしことたびたびありしも、少時間にしてたちまち枝の塚灰上に起こされたり。かかる次第ゆえ、土人いかなる刑よりもこの種の塚を築かるるを怖る。諸他の刑は、たちまちにして忘失さるるも、この塚は後世まで残り、子孫の辱となること酷し、とあり。わが国にかかることを聞かねども、塚のうちには崇拝、祭典等のほかに、異常の事蹟を記念のために建てしものはあるべしと存ぜられ候。

 備前辺にドウマンというものあり(朱鼈と書く)、河太郎様のものと聞く。たしか蘭山の『本革綱目啓蒙』にもありし。前年、石坂堅壮氏の令息何とかいう軍医、日本の食品を列挙したる著書ありし中にドウマンを列したるを、かかる聞えのみありて実物の有無確かならぬものを入れしは杜撰なりとかで、新聞で批評され、またこれを反駁せし人ありしよう覚え候(二十年ばかり前のこと)。小生も鼈が人を噬(か)むことのほかに、かかる怪物の存在をはなはだ疑うものなり。(ただし、小亀の腹の甲が多少赤黄を帯ぶるものは見しことあり。決して害をなすものにはあらず。)

 しかし、亀が怪をなし人を害すということはずいぶん外国にもあることにて、上に引けるプルゼヴァルスキ氏の書く vol. I, pp. 201-202 に、蒙古のタヒルガなる河にて洗浴するとき、随従のコッサックス輩、その水中の鼈を恐れて浴せず。蒙古人いわく、この鼈の腹下甲にチベットの籙字あり、よく人を魅す。この鼈俗人の体にかきつくとき[やぶちゃん注:ママ。]、いかにするも離れず。ただ一つこれを離す方とては、白駱駝もしくは白山羊をつれ来たれば鼈を見て叫ぶ、その声聞きて鼈みずから落つるなり、と。(熊楠申す、日本にも鼈にかまるるもの、いかにするも離れず、雷鳴を聞かば落つるという。『嬉遊笑覧』に、たしかその弁ありしと存じ候。)蒙古人またいわく、このタヒルガ河にむかし鼈なかりしに、忽然として生ぜり。住民大いに怖れ、近所のギゲン(活仏)に問いしに、これ河の主にて神物なり、という。それより月に一度ずつ近所の寺より喇嘛(ラマ)僧来たりこれを祭る、と。支那の古書に、黿怪をなすこと多く見え、『録異記』に、腹の下赤きものは黿(げん)となし、白きものは鼈(べつ)となす」、「『抱朴子』にいわく、在頭水に大黿あって常に深き潭(ふち)にあり、号(なづ)けて黿潭となす。よく魅を作(な)し病を行(はや)らす。戴道柄(たいどうへい)なる者あり、よくこれを視見(うかが)い、越張の封泥をもってあまねく潭中に擲つ。やや久しくして大黿あり、径長(わたり)丈余なり、浮き出でてあえて動かず。すなわちこれを格殺(かくさつ)するに、病める者は立ちどころに愈ゆ。また小黿あり、出でて列び渚上に死するもの、はなはだ多し」(その他怪事多く『淵鑑類函』巻四四一、黿の条に出でたり)。

 当町にいろいろのこと知れる人あり。その話に、むかし信州に大亀あり、深淵に怪をなせしを一勇者討ち取り、その甲今に存せり、と。委細は聞き糺(ただ)した上申し上ぐべし。『明良洪範』に、徳川忠輝、箱根の湖主たる大亀をみずから刺殺せし話あり。Budge, ‘The of the
Egyptians,’1904m vol. ii, p.376
によれば、古エジプト人は亀を怖れて神物とせり。亀神アーペッシュは闇黒(ダークネス)の諸力、および夜叉邪 evil の神なり。‘Book of the Dead’(死人経)には、これを日神ラーの敵とし、「ラー生き、亀死す」という呪言あり、云々。

 当田辺町から二里ばかり朝来(あつそ)村大字野田より下女を置きしに、その者いわく、カウホネをその辺でガウライノハナと呼ぶ。この花ある辺に川太郎あり、川太郎をガウライという、と。またいわく、茄子の臍を去らずに食えば川太郎に尻抜かる、と。Nasinoheso

この点の辺をいう。小生は臍と勝手に書くが、実は何というか知らず。

 神社合祀大不服の高田村(東牟婁郡、那智より山深く踰(こ)えてあり。まことに人少なき物凄き地なり)に高田権(ごん)の頭(かみ)、檜杖(ひづえ)の冠者などという旧家あり。そのいずれか知らず、年に一度河童多く川を上り来たり、この家に知らすとて石をなげこむ由なり。熊野では、夏は川におり河太郎、冬は山に入りカシャンボとなるという。カシャンボはコダマのことをいうと見えたり。

 山男、鋸の目をたつる音忌むということば、前に申し上げたと思う。

 四十二年二月の『大阪毎日』に、峰行者の「飛騨の鬼」と題せる一項あり。

[やぶちゃん注:以下の引用一段落は、底本では全体が二字下げ。]

野尻を去ること四里、立町(たちまち)の駅の家々の門口に、松の薪の半面を白く削りて、大根、葫蘿蔔などと記した物が立て懸けてある。聞くところによれば、新春(旧暦)を寿ぐ儀式の一つとか。今年もかかる大根できよかしと豊作を禱る心より、さては尺五寸余の薪を大根に型った物である。その横に、これは(十三月)としたる薪が二本添えてある、云々。むかしこの駅を荒らしに、一疋の鬼が飛騨の山奥から出て来た。村人おそれ、さまざまの難題を持ち出してその鬼を苦しめやられしが利目がない。一番終りの村人が「ここは一年が十三カ月でござるが、その名は」と問うた。鬼、十二月までは答えたが、残りの一月を夜明くるまでに言い当つることができず、おのれがすみかへ立ち帰る。今も十三月と呼びさえすれば魔除になる、と里人は信じておる。

 これは本条に関係なきが、川太郎のことひかえたものより見出でたゆえ、ついでに記す。

 dorit de cuissage (腿の権利)すなわちスコットランド、仏国、伊国、またインド等に古え一汎に行なわれし、臣下妻を迎うるとき初夜必ずその君主の試を経るを常例とせし風俗、日本には全くなかりしものにや。御教示を乞うなり。

 貴人宿せらるるとき、娘また妻婢を好みのままに侍せしめたことは、『古事記』その他にもその痕跡を(ロンドンで徳川頼倫侯の前でこのことを話し、西アジア、欧州、インドにもむかしはこの風盛んなりし由言いしに、今海軍中将なる阪本一そのころ中佐なりしが、小生に向かいし謹んで述べしは、何とぞこの風だけは復古と願いたいものです)見る。しかし、臣下の初嫁(はつよめ)を君主必ず破素する権利などいうこと、本邦には見当たらず、漢土にもなかりしようなり。(支那の書に鳴呼の国人妻を娶りて美なれば兄に薦めたなどのことは、外国の例ゆえ別として。)

 拙妻および悴、とかくすぐれず、小生今に山中へ出かけずにおり候。長文の「神足考」[やぶちゃん注:後の「神跡考」。]はおいおい三、四回または六、七回に訳出し差し上ぐべく候。

 神島は五、六日前、保安林になり候。しかし、日数もかかりしゆえ、保安林になる前に、小生村長に話し二百五十円ほど林の下木買ったものに村より払わせ、下木伐ることは止めさせ候。

[やぶちゃん注:以下の一行空けはママ。]

 前文のガウライ(河童) はカワワラワ、カワラ、カウラ、ガウライという風に転じ来たれるかと存じ候。

 この辺にて一汎にシビトバナ(石蒜、伊勢辺でシタマガリ、唯今満開)をカウラバナと言う。しかし、河童のことに関係なきようなり。河原辺にさくゆえ河原花の義か。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では何故か全体が二字下げである。]

この花をむかし英人か蘭人かが日本で見出だし、奇麗なをほめ、根をつみ英国へ送る。その船ガーンゼイ Guernsey (英と仏の間の海峡にある小島)で破れ、その根漂いて島に着し盛んにはえるを、英人はなはだ美として今もガーンゼイ・リリーと称す。むかしは野生ありしが、今は栽培品のみの由。二百年ばかり前のことと見ゆ。しかるにはや、この花この島に自生せしように設けられたる古語を生じあり。その古話今は忘れたれどひかえたものあり。

 当町に広畠岩吉という人、五十四、五なり。この人多芸にて立花の宗匠なり。歌舞、吹弾より網打ち、彫刻、押し絵、縫箔、通ぜざるところなし。この狭い所にもかかる人あるなり。古志、佳談を知ることおびただし。小生この人に聞き書きせるうち一つ左に書しつく。

 当郡富田村のツヅラ(防己)という大字の伊勢谷にカシャソボあり(河童をいうなり)。岩吉氏の亡父馬に荷付くるに、片荷付くれば他の片荷落つること数回にて詮方(せんかた)なし。ある時馬をつなぎ置きて木を伐りに行き、帰り見れば馬見えず。いろいろ尋ねしに腹被いを木にかけ履を脱いですてなどしあり。いろいろ捜せしに馬喘々として困臥せり。よって村の大日堂に之き護摩の符を貿い腹おおいに結び付けしに、それより事なし。この物人の眼に見えず、馬よくこれを見る。馬につきて厩に到るとき馬ふるえて困しむ、と。

 また丸三(まるさん)という男、右の岩吉氏方にてあう。その人いわく、ある友人富田坂に到りしに、樹の上に小児乗りあり、危きことと思い、茶屋主人に語るに、このころ毎度かくのごとし、カシャンボが戯れに人を弄するなり、と。

 またカシャンボは青色の鮮やかな衣を著る。七、八歳にて頭をそり、はなはだ美なるものなり、と。

 小川孝七という男、日高郡南部(みなべ)奥の山に石をとりにゆきしに、無人の境にたちまちかかる小童来たり傍に立つ。身の毛いよ立ち無言にしてにげ帰りし、と。

 四十一年の春なりしと覚ゆ、当町近き万呂(まろ)村の牛部屋へ、毎夜川よりカシャンボ上がり到る。牛に涎ごときものつき湿い、牛大いに苦しむ。何物なるを試みんとて灰を牛部屋辺にまきしに、水鳥の大なる足趾ありしとのことにて、そのころたしか四十一年四月の『東洋学芸雑誌』へ「幽霊に足なしということ」という題で三頁ばかり、小生出したることあり。これは見出だして別に写し申し上ぐべく候。

 支那にも馬絆というもの河より出て馬を困しますこと、『酉陽雑爼』等に見えたり。馬絆は蛟なりという説もあり。貴下『酉陽雑爼』手近になくば抄して進ずべく候。

 ロシアにも水魔を祭るに馬屍を水に按ずる、と露国の昆虫学大家で小生と合著二冊ある故オステン・サッケン男より聴けり。以上

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(17) 「河童ニ異名多シ」(3)

 

《原文》

 九州ノ河童ニ付テハ更ニ一異アリ。曰ク河童ハ夏バカリノ物ナリ、冬ハ山中ニ入リテ「ヤマワロ」(山童)トナルト〔西遊記其他〕。山童ヲ目擊シタル者ハ愈少ナケレド、昔ハ往々ニシテ之ニ遭遇シタル者ノ記事アリ。【足跡】山ニ入リテ其足跡ヲ見ルガ如キハ殆ド普通ノ不思議ナリキ。山童ハ童ト謂フハ名ノミニシテ隨分ノ大男ナリ。川小僧輩ノ中々企ツルコト能ハザル大入道ナリシナリ。【木ノ子】但シ此トハ或ハ別種カト思ハルヽ山ノ神ノ部類ニ、「セココ」〔觀惠交話〕、又ハ木ノ子ナドト稱スル物アリ〔扶桑恠異實記〕。愛ラシキ童形ニシテ群ヲ爲シテ林中ニ遊ビ杣木地挽(キヂヒキ)ノ徒ニ惡戲ス。山男ト同ジク木ノ葉ヲ綴リテ着ルトモアレド、或ハ又靑色ノ衣服ヲ着テアリトモ云ヒ、ヨホド動物バナレノシタル者ナリ。【カシヤンボ】紀州熊野ニテハ、河童ハ冬ハ山ニ入ツテ「カシャンボ」[やぶちゃん注:ここの拗音表記はママ(頭書は拗音表記ではない)。以下総て同じ。]ト云フ物ニナルト云フ。「カシャンボ」ハ六七歳ホドノ小兒ノ形、頭ハ芥子坊主ニシテ靑キ衣ヲ着ス。姿ハ愛ラシケレドモ中々惡事ヲ爲ス。同國東牟婁郡高田村ニ高田權頭(ゴンノカミ)・檜杖(ヒヅエノ)冠者ナド云フ舊家アリ。此中ノ或家へ每年ノ秋河童新宮川ヲ上リテ挨拶ニ來ル。姿ハ見エザレドモ一疋來ル每ニ一ノ小石ヲ投込ミテ著到ヲ報ジ、ソレヨリ愈山林ニ入リテ「カシャンボ」ト成ルトイヘリ〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」牛馬ノ害ヲ爲スコト多シ。或ハ木ヲ伐リニ山ニ入リシ者、樹ニ繋ギ置キタル馬ヲ取隱サレ、漸クニシテ之ヲ見出デタレドモ、馬苦惱スルコト甚シク、大日堂ノ護摩札ヲ請ヒ受ケテ、僅カニ助ケ得タルコトアリ。或ハ水邊ヨリ出デ來タリテ夜々牛小屋ヲ襲ヒ、涎ノ如キ物ヲ吐キテ牛ノ身ニ塗リ附ケ之ヲ苦シム。【足跡】試ミニ小屋ノ口ニ灰ヲ撤キ置ケバ、水鳥ノ如キ足趾一面ニ其上ニ殘レリ〔同上〕。「カシャンボ」ハ火車ヨリ轉ジタル名稱カト南方(ミナカタ)氏ハ言ハルレドモ末ダ確證ヲ知ラズ。兎ニ角夏ノ間里川ノ水ニ住ム者ヲモ同ジク「カシャンボ」トモ呼ブト見ヘタリ。之ニ反シテ九州ノ南部ニテハ、冬季山ニ住スル彼ヲモ亦河童ト稱ス。薩州出水鄕ノ獵師八右衞門、夜山ニ入リテ辨當ヲ使ヒテアリシトキ、闇ノ中ヨリ四五本ノ手出デテ食ヲ求ム。【鰯】八右其河童ナルコトヲ知リ持チ來タリシ海鰮(イワシ)ヲ與ヘテ其禮ニ猪ヲ追ヒ出サシメ、結局僅カナル食物ヲ以テ大キニ利得ヲシタリ。次ノ夜モ亦此通リナリシガ、手多クシテ海鰮足ラズ、乃チ戲レニ榾(ホダ)ノ火ヲ最後ノ者ノ掌ニ載セタルニ、聲ヲ放チテ走リ去リ、ソレヨリ山ドヨミ樹木ノ折レ倒ルヽ音頻リニシテ物凄ジクナリタレバ遁ゲ還ル。其後山ニ入レドモ河童百方妨ヲ爲シ、獵物無ケレバ終ニ其業ヲ罷メタリト云ヘリ〔水虎錄話〕。【山男】此話ハ他ノ諸國ニテハ常ニ山男ニ就キテ語リ傳ヘラル。奧州ニテ有名ナル白髮水ノ傳ニモ、白キ石ヲ燒キテ餅ヲ求ムル山男又ハ山姥ニ食ハセシト云フコトアリ〔遠野物語〕、山稼ギノ者ノ焚火ノ傍ニ立寄ルト云フ話ハ、山人トシテハ決シテ珍シキ例ニ非ズ。唯之ヲ名ヅケテ河童ト云フヲ以テ奇ナリトス。又日向地方ニ於テモ、河童冬ハ山ニ入リテ棲ムト云ヒ之ヲ山童トハ言ハズ。其形狀宛モ熊野ノ「カシャンポ」ノ如ク、又「セココ」木ノ子ナド呼バルヽ物ニ似タリ。【墨斗】杣人ノ墨斗(スミツボ)ヲ欲シガルコト甚シク、天壺ト云フ物ヲ怖ル。天壺トハ高鍋邊ノ方言ニテ苧ヲ編ミテ造リタル器ナリ。山ニ入ル者常ニ之ヲ肩ニシテ行ク。墨斗ヲ天壺ノ上ニ載セテ差出セバ河童驚キテ飛ビ退クト云ヘバ〔水虎錄話〕、彼縣ニテハ之ヲ見タル人多キナルべシ。然ルニ一方ニハ同ジ地方ニテ、河童ハ夏ニナルト海邊ヨリ山手ニ向フガ如ク語ル者アリ。初夏ノ雨ノ夜ニ數百群ヲ爲シ、ヒヨウヒヨウト鳴キテ空ヲ行ク者ヲ河童ノ山ニ入ルナリト言ヒ、秋ノ央ニナリテ同ジ聲ヲシテ海ノ方ニ鳴キ過グルヲ、河童山ヲ出デ來ルト云フ。曾テ其姿ヲ見タル者無シト云ヘバ、思フニ二種ノ渡鳥ナルべシ〔鄕土硏究二卷三號〕。【那羅延坊】筑肥海岸地方ノ河童ハ、每年四五月ノ頃筑後川ノ流ヲ溯リ、豐後ノ日田ヲ經テ阿蘇ノ社僧那羅延坊(ナラエンバウ)ガ許ニ伺候スト云フ。是モ亦同ジ鳥ノ聲ナドニ由リテ起リタルナランカ。那羅延坊ハ古クヨリ俗ニ河童ノ司ト稱ス。代々人ニ賴レテ河童ヲ鎭ムル祈禱ヲ爲シ、又折々近國ノ田舍ヲ巡回ス〔水虎考略後篇所引蓬生談〕其由緖ハ久留米ノ尼御前ヨリモ古キガ如シ。何ハトモアレ九州ノ河童ハ、眷屬大群ヲ爲シ且ツ移動性ニ富ムコトヲ以テ一特色トス。佐賀白山町ノ森田藤兵衞ナル者、曾テ對馬ニ渡リ旅宿ニ在リ。夜分家ノ前ヲ通行スル者ノ足音曉ニ至ルマデ止マザルヲ怪シミ、明日亭主ニ向ヒテ何故ニ斯ク人通リ多キヤト問ヘバ、亭主ノ答ニアレハ皆河童デゴザリマス。【海ト河童】河童日中ハ山ニ居リ夜ニ入レバ海ニ行キテ食物ヲ求ムルニテ、人間ニハ害ヲ爲サズト云ヘリ〔水虎新聞雜記〕。今ヨリ八九十年以前、日高謙三ト云フ人日向ノ耳川ノ上流ナル一山村ニ往キテ滯在セシニ、每夜四更ノ頃ニ及べバ恠シキ聲川上ニ起リ、暫クアリテ對岸ニ達シ忽チ又下流ニ去ル。曙ノ比ハ復ビ岸ニ沿ヒテ還ルガ常ナリ。土地ノ人ノ明ニ、是ハ河童ガ山ヲ下リ海ニ浴スルナリト也〔日州水虎新話〕。此輩ハ何レモ山ノ方ヲ本居トスル河童ナルカ、然ラザレバ亦何ゾノ鳥ノ聲ノ誤リテ斯ク信ゼラレタルモノ也。河童群ヲ爲シテ來去スト云フ者ハ、末ダ曾テ其姿ヲ見タリト言ハズ。高鍋附近堤ノ番人、永年此河童ノ聲ヲ聞キテ曾テ之ヲ見シコト無シ。或士ノ勇氣アル者深夜ニ物陰ニ之ヲ覗ヒ、聲ヲ的ニシテ闇ニ鐵砲ヲ放シタルニ、一發ニシテ忽チ行方ヲ知ラズト云フナド〔水虎錄話〕、如何ニモ鳥ラシキ話ナリ。【ヒヤウスヘ】サレバ河童ヲ「ヒヤウスヘ」ト云フハ其鳴ク聲ノヒヤウヒヤウト聞ユル爲ト云フノ如キ、未ダ何分ニモ信ヲ執ル能ハズ。某地方ノ山中ニ住スル「セコ子」ハ、二三十群ヲ爲シテ往來シ、其語音ヒウヒウトノミ聞ユト云ヘリ〔觀惠交話〕。但シ此「セコ子」ハ、顏ノ眞中ニ大キナ眼ガ一ツナリト云ヘバ、アマリ當ニモナラヌ話ナリ。

 

《訓読》

 九州の河童に付きては、更に一異あり。曰はく、『河童は夏ばかりの物なり、冬は山中に入りて「ヤマワロ」(山童)となる』と〔「西遊記」其の他〕。山童を目擊したる者は愈(いよいよ)少なけれど、昔は往々にして之れに遭遇したる者の記事あり。【足跡】山にいりて、其の足跡を見るがごときは殆んど普通の不思議なりき。山童(ヤマワロ)は「童(わろ)」と謂ふは名のみにして、隨分の大男なり。「川小僧(カハコゾウ)」輩(やから)の、中々、企(くはだ)つること能はざる、大入道なりしなり。【木ノ子】但し。此れとは或いは別種かと思はるる山の神の部類に、「セココ」〔觀惠交話〕、又は「木ノ子」などと稱する物、あり〔「扶桑恠異實記」〕。愛らしき童形(どうぎやう)にして、群れを爲して林中に遊び、杣(そま)・木地挽(きぢひき)の徒に惡戲(いたづら)す。「山男」と同じく、木の葉を綴(つづ)りて着るともあれど、或いは又、靑色の衣服を着てありとも云ひ、よほど動物ばなれのしたる者なり。【カシヤンボ】紀州熊野にては、河童は冬は山に入つて「カシャンボ」[やぶちゃん注:ここの拗音表記はママ(頭書は拗音表記ではない)。以下総て同じ。]と云ふ物になると云ふ。「カシャンボ」は、六、七歳ほどの小兒の形(なり)、頭は芥子坊主(けしばうず)にして、靑き衣を着(ちやく)す。姿は愛らしけれども、中々、惡事を爲す。同國東牟婁郡高田村に高田權頭(ごんのかみ)・檜杖(ひづえの)冠者など云ふ舊家あり。此の中の或る家へ、每年の秋、河童、新宮川を上(のぼ)りて、挨拶に來たる。姿は見えざれども、一疋來たる每(ごと)に、一つの小石を投げ込みて著到を報じ、それより愈(いよいよ)山林に入りて、「カシャンボ」と成る、といへり〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」、牛馬の害を爲すこと、多し。或いは、木を伐りに山に入りし者、樹に繋ぎ置きたる馬を取り隱され、漸くにして之れを見出でたれども、馬、苦惱すること甚しく、大日堂の護摩札を請ひ受けて、僅かに助け得たることあり。或いは、水邊より出で來たりて、夜々(よなよな)牛小屋を襲ひ、涎(よだれ)のごとき物を吐きて、牛の身に塗り附け、之れを苦しむ。【足跡】試みに、小屋の口に灰を撤き置けば、水鳥のごとき足趾(あしあと)、一面に其の上に殘れり〔同上〕。「カシャンボ」は「火車(カシヤ)」より轉じたる名稱かと南方(みなかた)氏は言はるれども、末だ確證を知らず。兎に角、夏の間、里川(さとがは)の水に住む者をも、同じく「カシャンボ」とも呼ぶ、と見へたり。之れに反して、九州の南部にては、冬季、山に住する彼をも、亦、「河童」と稱す。薩州出水(いづみ)鄕の獵師八右衞門、夜(よ)、山に入りて辨當を使ひてありしとき、闇の中より、四、五本の手、出でて、食を求む。【鰯】八右(やう[やぶちゃん注:私の勝手な読み。])、其の河童なることを知り、持ち來たりし海鰮(いわし)を與へて、其禮に猪を追ひ出さしめ、結局、僅かなる食物を以つて、大きに利得をしたり。次の夜も亦、此(この)通りなりしが、手、多くして、海鰮、足らず、乃ち、戲れに、榾(ほだ)[やぶちゃん注:焚き物にする木の切れ端。]の火を最後の者の掌に載せたるに、聲を放ちて走り去り、それより山どよみ、樹木の折れ倒(たふ)るゝ音、頻りにして、物凄じくなりたれば、遁げ還る。其の後(のち)、山に入れども、河童、百方、妨(さまたげ)爲し、獵物(えもの)無ければ、終に其の業を罷めたり、と云へり〔「水虎錄話」〕。【山男】此の話は他の諸國にては常に「山男」に就きて語り傳へらる。奧州にて有名なる「白髮水(しらがみづ)」の傳にも、白き石を燒きて、餅を求むる「山男」又は「山姥(かまうば)」に食はせし、と云ふことあり〔「遠野物語」〕、山稼ぎの者の焚火(たきび)の傍らに立ち寄ると云ふ話は、「山人」としては決して珍しき例に非ず。唯、之れを名づけて「河童」と云ふを以つて、奇なり、とす。又、日向地方に於いても、河童、冬は山に入りて棲むと云ひ、之を「山童」とは言はず。其、形狀、宛(あたか)も熊野の「カシャンポ」のごとく、又、「セココ」・「木ノ子」など呼ばるゝ物に似たり。【墨斗】杣人(そまびと)の墨斗(すみつぼ)を欲しがること甚しく、天壺(てんつぼ)と云ふ物を怖る。天壺とは高鍋邊(あたり)の方言にて苧(からむし)を編みて造りたる器なり。山に入る者、常に之れを肩にして行く。墨斗を天壺の上に載せて差し出せば、河童、驚きて飛び退く、と云へば〔「水虎錄話」〕、彼(か)の縣にては、之れを見たる人、多きなるべし。然るに、一方には同じ地方にて、河童は夏になると海邊より山手に向ふがごとく語る者あり。初夏の雨の夜(よ)に、數百、群れを爲し、「ひようひよう」と鳴きて、空を行く者を「河童の山に入るなり」と言ひ、秋の央(なかば)になりて同じ聲をして海の方に鳴き過(す)ぐるを、「河童、山を出で來たる」と云ふ。曾て其の姿を見たる者無しと云へば、思ふに、二種の渡り鳥なるべし〔『鄕土硏究』二卷三號〕。【那羅延坊】筑肥海岸地方の河童は、每年四、五の頃、筑後川の流れを溯り、豐後の日田(ひた)を經て、阿蘇の社僧那羅延坊(ならえんばう)が許に伺候すと云ふ。是れも亦、同じ鳥の聲などに由りて起りたるならんか。那羅延坊は古くより俗に河童の司(つかさ)と稱す。代々、人に賴れて、河童を鎭むる祈禱を爲し、又、折々、近國の田舍を巡回す〔「水虎考略後篇」所引・蓬生談〕其の由緖は、久留米の尼御前(あまごぜ)よりも古きがごとし。何はともあれ、九州の河童は、眷屬、大群を爲し、且つ、移動性に富むことを以つて、一特色とす。佐賀白山町の森田藤兵衞なる者、曾て對馬に渡り、旅宿に在り。夜分、家の前を通行する者の足音、曉(あかつき)に至るまで止まざるを怪しみ、明日(あくるひ)、亭主に向ひて、「何故(なにゆゑ)に斯(か)く人通り多きや」と問へば、亭主の答へに、「あれは、皆、河童でござります。【海と河童】河童、日中は山に居り、夜に入れば、海に行きて食物(くひもの)を求むるにて、人間には害を爲さず」と云へり〔「水虎新聞雜記」〕。今より八、九十年以前、日高謙三と云ふ人、日向の耳川(みみかは)の上流なる一山村に往きて滯在せしに、每夜、四更[やぶちゃん注:凡そ現在の午前一時又は二時から二時間。]の頃に及べば、恠(あや)しき聲、川上に起こり、暫くありて、對岸に達し、忽ち、又、下流に去る。曙(あけぼの)の比(ころ)は、復(ふたた)び岸に沿ひて還るが常なり。土地の人の明に、「是れは、河童が山を下り海に浴するなり」と也〔「日州水虎新話」〕。此の輩(やから)は、何れも、山の方を本居とする河童なるか、然らざれば亦、何ぞの鳥の聲の誤りて、斯く信ぜられたるものや。河童、群れを爲して來去(らいきよ)すと云ふ者は、末だ曾て其の姿を見たりと言はず。高鍋附近堤の番人、永年、此の河童の聲を聞きて、曾て之れを見しこと、無し。或る士の、勇氣ある者、深夜に物陰に之れを覗(うかが)ひ、聲を的(まと)にして闇に鐵砲を放したるに、一發にして忽ち行方を知らずと云ふなど〔「水虎錄話」〕、如何にも鳥らしき話なり。【ヒヤウスヘ】されば、河童を「ヒヤウスヘ」と云ふは、其の鳴く聲の「ひやうひやう」と聞ゆる爲(ため)と云ふのごとき、未だ何分にも信を執る能はず。某地方の山中に住する「セコ子」は、二、三十、群れを爲して往來し、其の語音、「ひうひう」とのみ聞ゆ、と云へり〔「觀惠交話」〕。但し、此の「セコ子」は、顏の眞中に大きな眼が一つなりと云へば、あまり當(あて)にもならぬ話なり。

[やぶちゃん注:『「ヤマワロ」(山童)』ウィキの「山童」を引く。『山童(やまわろ、やまわらわ)は、九州をはじめとする西日本に伝わる山に出る妖怪。河童(かっぱ)が山の中に入った存在であるとも言い伝えられている。熊本県芦北郡では』、「やまわろ」のほかに、「やまんもん」「やまんと」「やまんわっかし(山の若い衆)」「やまんおじやん(山の伯父やん)」など、また、『同県球磨郡では』「山ん太郎」「やまんぼ(山ん坊)」『とも呼ばれる』。「山𤢖(やまわろ)」『とも記される。「山𤢖」(さんそう)とは本来、中国に伝わる妖怪の名である』(次のリンク先の「山𤢖(やまわろ)」も参照のこと)。寺島良安の和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」には(リンク先は私の電子化注。但し、「𤢖」の字を当時は表記出来なかったので「やまわろ」でページ内検索されたい)、本邦産のそれについては、『九州の山奥に住み、姿は』十『歳程度の子供のようで、頭には柿褐色の長い頭髪を生やし、全身が細かい毛に覆われている。胴は短く』、二『本の長い脚で直立して歩き、人の言葉を話すという特徴の記述がある。同書(杏林堂版)では筑前国(福岡県)や五島列島に山童がいるとも記されており、姿は人のようで顔はまるく、髪は赤くて長く目にまでかかり、耳は犬のようにとがり、鼻の上に目が一つあり、カニやトコロ、コウゾの根を食すという特徴も記されている』。『熊本県では、山童は大工仕事に使われる墨壺(すみつぼ)が嫌いで、山の仕事場の周囲に墨壺をつかって墨の線を打っておくと近寄って来ることはないとされている』(本記載の内容にある)。『山中で樵(きこり)の仕事を手伝ってくれることがあり、そんな時に礼として酒やにぎり飯をあげると繰り返し手伝ってくれるという。山童に渡す礼の品物は、必ずはじめに約束した物でなければならず、違う物を渡すと山童は非常に怒る。また、仕事前に礼を渡すと食い逃げをされてしまう事もあったという。熊本県葦北郡では山仕事が多いとき「山の若い衆に頼むか」と言って山童に頼むという』。『河童と同じく、相撲をとったり、牛や馬に悪戯を働くことを好むともいう。また、人家に勝手にあがりこんで風呂に入ってゆくこともあったという』。『山童などが入浴をした湯船には脂(あぶら)が浮いて汚れ、とても臭かったという』。『天狗倒しや山中での怪異は、東日本では山の神や天狗の仕業とされることが多いが、西日本では山童の仕業とされることもある。天狗倒しのような現象(大きな木が倒れて来るような音を発する)は山童自身が発しているとされ、熊本県では倒木や落石の音のほかに、人間の歌を真似たり、畚』(もっこ)『から土を落とす音や、ダイナマイトによる発破の音までもさせたという話がある』。『ただし、天狗の仕業さとれる事が皆無というわけではなく熊本県小国など、山童の伝承が無く、天狗の仕業であるとしている地域も見られる』。以下、本文の記載に出る「山童と河童の渡り」の項。『西日本各地で、河童(かっぱ)が山に移り住んで姿を変えたのが山童(やまわろ)であるという伝承が確認されている。多くは、秋の彼岸どきに河童が山に入って山童となり、春の彼岸どきに川に戻って河童になるとされている』(これは思うに「田の神」が「山の神」と成る民俗学で知られたライフ・サイクルの零落変形譚であろう。後の引用で柳田もそれを指摘している)。『熊本県 ガラッパは秋の彼岸に山に入って山童になり、春の彼岸に川に戻ってガラッパになる』。『熊本県球磨郡 川ん太郎と山ん太郎とは』、二月一日(太郎朔日(たろうついたち):中国・四国・九州などで古く旧暦二月朔日を指す語。一月十五日の小正月から起算して、初めての朔日であるところから言う。「ひとひ正月」「初ついたち」とも呼ぶ)『に入れ替わる』。『熊本県水俣 ガラッパは』、六月一日(氷朔日(こおりのついたち)陰暦六月一日。昔、宮中で冬にできた氷を氷室(ひむろ)から取り出して群臣に賜はる儀式がこの日行われた。民間では、正月の餅を凍(し)み餅にしておいて、この日に炒って食した。「氷室の朔日」とも呼ぶ)『に山から川へと入れ替わる』。『和歌山県』では、『ガオロは秋の彼岸に山に入ってカシャンボになり、春の彼岸に川に戻ってガオロになる』と言い、『奈良県吉野』では、『川太郎は秋の彼岸に山に入って山太郎になり、春の彼岸に川に戻って川太郎になる』と言う。『民俗学者・柳田國男は「川童の渡り」』(『野鳥』昭和九(一九三四)年十月発行に初出し、後に「妖怪談義」に収録)『という文章などで、このような河童と山童の季節による変化を、田の神(里・川)と山の神の信仰が季節ごとに変化をしたこと、また、そのとき多くの地域で鳥のような声が聴かれることから、渡り鳥などに関連した日本の季節の変化を示しているものではないかと論じている』(後注参照)。『河童や山童は山へ行き来する際』、「オサキ」(後文参照)『を通って集団で移動をすると言われる。河童や山童は人間がこの通り道に家を建てると怒り、壁に穴をあけてしまったりしたという。また、川に戻る山童たちを見に行こうとすると病気になると言われていた』。「オサキ」とは「尾先(おさき)」で、『山から下ってくる地形や場所を意味しており、家を建設するのに向かない土地とされている』。『熊本県阿蘇郡小峰村では山童たちが移動する通り道を「通り筋」(とおりすじ)と表現している』。『飛騨地方(岐阜県)ではヤマガロともいい、山に入って来る樵から弁当を奪うなどの悪戯を働くという』。『また、山童に類する妖怪には』「セコ」・「カシャンボ」。「木ノ子」『などがある。宮崎県西米良村に伝わるセコは夕方に山に入り、朝になると川に戻るという』。『また、熊本県阿蘇郡小峰村では山童に対して「ヤマワロ」と呼ぶと山童が怒ると考えられており、「セコ」という敬称を使うものであると言い伝えられていた』とある。

「西遊記」は江戸後期の医者で紀行家橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行記(寛政七(一七九五)年初版刊行後、三年後には続篇も書いている。「東遊記」と合わせて、優れた奇事異聞集となっている)。当該記事は「巻之五」冒頭の「山童(やまわろ)」。以下に、岩波新古典文学大系版を元に、恣意的に漢字を正字化して示す。読みは一部を除き、除去し、記号を追加した。

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   山童

 九州、極西南の深山に俗に「山わろ」といふものあり。薩摩にても聞しに、彼(かの)國の山の寺といふ所にも「山わろ」多しとぞ。其(その)形、大なる猿のごとくにして、常に人のごとく立(たち)て步行(あり)く。毛の色、甚(はなはだ)黑し。此(この)[やぶちゃん注:「このところの」の意であろう。]寺などには每度來りて食物を盜みくらふ。然れども鹽(しほ)ケ有ものを甚嫌へり。杣人など山深く入りて木の大きなるを切出す時に、峯を越へ谷をわたらざれば出(いだ)しがたくて、出しなやめる時には、此山わろに握り飯をあたへて賴めば、いかなる大木といへども輕〻と引かたげて、よく谷峯をこし、杣人のたすけとなる。人と同じく大木を運ぶ時に、必ずうしろの方に立て人より先に立行(たちゆく)事を嫌ふ。飯をあたへて是をつかへば、日〻來り手傳ふ。先ヅつかい終りて後に飯をあたふ。はじめに少しにても飯をあたふれば、飯を食し終りて迯(にげ)去る。常には人の害をなす事なし。もし此方より是を打ち、或ひは殺さんとおもへば、不思議に祟りをなし、其人發狂し、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]大病に染み、或は其家俄に火もへ出など、種〻の災害起りて、祈禱醫藥も及(およぶ)事なし。此ゆへに人みな大(おほい)におそれうやまひて、手ざす事なし。

 此もの、只、九州の邊境にのみ有りて、他國に有る事を聞(きか)ず。冬より春、多く出(いづ)るといふ。冬は山にありて「山操[やぶちゃん注:ママ。]」といひ、夏は川に住みて「川太郞」といふと、或人語りき。然れば川太郞と同物にして、所によりて名の替れるものか。

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「木ノ子」ウィキの「木の子」によれば、『木の子(きのこ)は、近畿地方に伝わる妖怪』。『奈良県の吉野地方や兵庫県の山間部や森の中にいるとされる妖怪で、同じく山にいる妖怪である山童の一種』。『外観は』二、三歳から三、四歳『ほどの子供のような姿で、木の葉で作った衣服、または青い色の衣服を着ている』。『人間がその姿を見るとまるで影のようで、いるかいないかはっきりしないという』。『普段は群をなして遊んでいる』。『樵や山で仕事をしている人々にはその姿をたびたび見かけられており、彼らにとってはそれほど珍しくない存在という』。『しかし油断をしていると、弁当を盗まれるなどの悪戯をされてしまい、そんなときには棒を持って追い払うという』とある。

「セココ」小学館「大辞泉」に「セコ」の見出しで載り、『日本の妖怪。子供の姿で人々に悪戯をする。九州地方を中心とする伝承で、河童が山に登ったものとされ、「セココ」「セコドン」「セコンボ」「カリコボ」「ヤマンタロウ」などとも呼ばれる』とある。

「杣(そま)」木樵(きこり)。

「木地挽(きぢひき)」木地を粗挽(あらび)きし、その木地のままで、盆・椀・玩具などの細工をする職人。「木地屋」「きじびき」。

「芥子坊主」頭髪を真ん中だけ残して周囲を剃そり落とした乳幼児の髪形。ケシ(キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum)の果実に似ていることに由来する。

「南方熊楠氏報」明治四四(一九一一)年九月二十二日附の南方熊楠の柳田國男宛書簡に拠る。直接の当該部分は後半であるが、全体が河童と密接な関係を持ち、柳田は他の部分からも南方から与えられた情報を恰も自分がオリジナルに見出したかのように流用していることから、やや長いが、全文をこちらで電子化したので、読まれたい。

「大日堂」南方熊楠の前記書簡に出る。和歌山県西牟婁郡にあった旧富田(とんだ)村(現在は白浜町内。ここ(グーグル・マップ・データ))にある、大日如来を安置してある堂。熊楠は『村の大日堂』と書いているので、村持ちのもので、現行、確認は出来ない。

『「カシャンボ」は「火車(カシヤ)」より轉じたる名稱かと南方(ミナカタ)氏は言はるれども、末だ確證を知らず』上記の書簡の後の翌月、同明治四十四年十月八日発信の南方熊楠の柳田國男宛書簡の中に、

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前書申し上げしカシャンボ(河童)は火車のことなるべし。火車の伝、今も多少熊野に残るにや、一昨年南牟婁郡辺に死せる女の屍、寺で棺よりおのずから露われ出て(生きたる貌にて)、葬送の輩駭(おどろ)き逃げしということ、『大阪毎日』で見たり。河童と火車と混ずること、ちょっと小生には分からず。

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とあるのに基づく。「火車」は「化車」とも書き(私はこの「化」は後代の当て字と思っている)、悪行を積み重ねた末に死んだ者の遺体を葬場や墓場から奪うとされる妖怪で、全国的に分布する。正体を妖怪「猫又(ねこまた)」とすることが多い。以前に注で述べた通り、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」でもさんざん出て、注も何度もしてきたが、ここではもう、決定版として先に示した勝田至氏の論文「火車の誕生」(PDFでダウンロード可能)を読まれるに若(し)くはない。

「薩州出水(いづみ)鄕」現在の鹿児島県出水市(グーグル・マップ・データ)。

「鰯」「海鰮(いわし)」「イワシ」という種はいない。本邦では条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei に属する、

ニシン科 Clupeidae ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus

ニシン科ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres

及び、

カタクチイワシ科
Engraulidae カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus

の三種を「イワシ」と非生物学的に通称総称している。

『奧州にて有名なる「白髮水(しらがみづ)」の傳』「遠野物語」「白髮水」伝説というのは、中古にあったとされる大洪水に纏わる怪奇伝承。私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人」の「二八」話と注を参照されたい。

「天壺」どうも形状がイメージできない。識者の御教授を乞う。

「高鍋」現在の宮崎県の中央部の太平洋側にある現在の児湯(こゆ)郡高鍋町(グーグル・マップ・データ)。

「苧(からむし)」イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononiveaの皮から採った靭皮繊維。ウィキの「カラムシ」によれば、『麻などと同じく非常に丈夫で』、『取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また』、『荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた。日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。古代日本では朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための麻績部(おみべ)、布を織るための機織部』(はとりべ・はとり・服部)『を置いていたことが見え』、「日本書紀」の持統天皇七(六九三年)の『条によれば、天皇が詔を発して』、『役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている』。『中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は』、『衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また』、『上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった』し、『この他、江戸時代の有名な産地に陸奥国会津や出羽国最上地方があった』。『国の重要無形文化財に指定されている「小千谷縮・越後上布」の原料であり、福島県会津地方の昭和村で栽培され、本州唯一の産地となっている』とある。

「阿蘇の社僧那羅延坊(ならえんばう)」神仏習合期の社僧とするが、修験道の山伏である。由来は判らぬが、ここにある通り、彼らは古くから河童の司・主(あるじ)とも言われ、代々、河童を鎮める力を持っているとして、河童封じの呪符などをも発行していたらしい。名前は仏教の那羅延天(ならえんてん:漢訳仏典に於けるバラモン教・ヒンドゥー教の最高神の一人ヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写)由来であろう。「是れも亦、同じ鳥の聲などに由りて起りたるならんか」とは、旧暦四、五月という初夏の季節に、那羅延坊のいる阿蘇神社に元に集まるという設定には、ある種のこの広域地域をルートとする「渡り鳥」の大きな群れの鳴き声が関係しているのではないかという推理である。実は本書が刊行される二ヶ月前の、大正三(一九一四)年五月発行の『郷土研究』に柳田國男は「川童の話」という短い記事を書いており(後の「妖怪談義」に収録。後の注で電子化する)、先に出した「川童の渡り」(『野鳥』昭和九(一九三四)年十月発行に初出し、後に「妖怪談義」に収録)でもそうなのだが、「ヒョウスヘ」という河童の異名の一つを、実在する渡鳥ムナグロ(胸黒:チドリ目チドリ科ムナグロ属ムナグロ Pluvialis fulva Gmelinウィキの「ムナグロによれば、本邦へは『旅鳥として春と秋の渡りの時期に全国に飛来する。本州の中部以南の地域では、越冬する個体もある。南西諸島や小笠原諸島では、普通に越冬している』とある。鳴きYou Tube MankoMizudoriムナグロ Pacific Golden Plover が鳴くを聴かれたい。う~ん、さて?)に比定する説(但し、柳田は非常に用心深くそれを支持することを留保してはいる)が示されてあるのである。

「蓬生」は恐らく情報提供者の姓と思われる(読みは「よもぎう」(現代仮名遣)か)。「水虎考略後篇」は正篇完成の十九年後の天保一〇(一八三九)年に、再び古賀侗庵が、より多くの文献から河童譚を集めたものである。

「久留米の尼御前(あまごぜ)」久留米に伝承される尼御前(あまごぜ)と呼ばれる女河童で、筑後川(古くは千歳川とも言った)の河童を総支配していたという女傑河童で、伝承の一つでは、平清盛の正妻時子、二位の尼が変じたものともされるらしい。これは、古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「伝説紀行」にある「巨瀬川の尼御前カッパ」に詳しいが、福岡県宗像郡東郷村(現在の宗像市)、北九州市門司区大積に伝わる海の妖怪に「海御前」(うみごぜん/あまごぜ)という河童の女親分の伝承もあり、これは同じ平家の剛将能登守教経の妻(或いは母親という説もある)が変じたとするもので、藪野直史野人周年記念+ブログ・アクセス六十七万突破記念 火野葦平 海御前 附やぶちゃん注は彼女を主人公とした一人称小説である。未読の方は、是非、どうぞ。因みに火野作品集「河童曼荼羅」全篇電子化注てあ

「佐賀白山町」現在の佐賀県佐賀市白山。地図はいらないだろう。

「水虎新聞雜記」思うに、これは「すいこしんぎきざつき」と読むのではなかろうか。この本については、柳田國男は大正三(一九一四)年五月発行の『郷土研究』に発表した「川童の話」という短い記事なので、総て以下に電子化する(底本は「ちくま文庫」版全集を使用した。読みは一部に留めた)。

   *

   川童の話

 以前数年間鹿児島におられた石黒忠篤氏は、鳥の声に詳しい人であるが、親しくこのヒョンヒョンを聴いてその話をせられたことがある。その説ではムナグロ(胸黒?)という大きな千鳥の類の群だということである。『水虎考略』後篇の巻三に、日向高鍋の某村において、土堤普請(どてぶしん)の番小屋の側を、夜分になると水虎数百群をなして通る。ある人ぜひその姿を見んと思い、樹蔭に隠れ窺いたれどもどうしても見ることならず。次の夜鉄砲を持参し程を見定めて一発すれば忽然として声を潜めた。水虎の鳴声は飄々(ひょうひょう)と聞える。日州で川童をヒョウスエと呼ぶのはこのためだとある。尾花・石黒二君の説と合致しているが、ヒョウスエの称呼の由来に至ってはいまだただちには信じがたい。

 右の『水虎考略』は後篇の方はあまり世に流布しておらぬ。第三巻の新聞雑記というのは天保年間にある書生が下手な漢文で筆録した三十篇の川童話である。このついでにその中から二三耳新しい箇条を書き抜いておこう。(一)肥後の天草には川童多く住み常に里の子供を海へ連れて行き水泳を教えてくれる。その言う通りにすれば何の害もせぬが、機嫌を損じるとはなはだ怖しい。子供等は時々親に頼み川童を喚んで御馳走をする。その姿小児等の目には見えて父母には見えず。ただ物を食べる音ばかりして帰る時には椀も茶碗も皆空である。これは佐賀の藩士の宅へ奉公に来ていた天草の女中の談。(二)佐賀白山町の森田藤兵衛なる者かつて対馬に渡り宿屋に泊っていると、夜分に宿の附近を多人数の足音がして終夜絶えなかった。翌朝亭主にどうしてこう夜歩きする者が多いのかと聞くと、あれは皆川童です、人ではありません。川童は昼は山におり夜は海へ出て食を求めるので、このごとく多くいても別に害はせぬものだと語った。(三)肥前では人の川童のために殺さるる者あれば、その葬(とむらい)には火を用いしめず。衣類から棺まで白い物を用いさせぬ。これを黒葬といい、黒葬をすればその川童は目潰れ腕腐って死ぬものだという。(四)佐賀高木町の商家の娘十一二歳の者、寺子屋の帰りに隣家の童子に遇い、観成院の前の川で遊ぼうと約束しておいて、家へ戻って食事をし出て行こうとする時、親がこれを聞いて用心のために竈(かまど)の神様を拝ませ、荒神様(こうじんさま)守りたまえとその子の額に竈の墨を塗って出した。約束の童子つくづくと娘の額を見て、お前は荒神の墨を戴いて来たからもう一緒に泳ぎたくないといって憮然として去ったとある。それで川童であることが顕われた。この本にはまだ数十件の川童の話が載せてある。

   *

「今より八、九十年以前」「日州水虎新話」の書誌が不明で、「日高謙三」なる人物も判らぬが、柳田國男のこの書き方からみて、本書刊行(大正三(一九一四)年七月)から逆算でよいようだ。とすれば、一八二四(文政七)年から一八三四(天保五)年でとなる。

「日向の耳川(みみかは)」河口は(グーグル・マップ・データ)。

『「セコ子」は、顏の眞中に大きな眼が一つなり』柳田國男の「一目小僧」の「三」に、以下のようにある(引用は目小僧その他 柳田國男 附やぶちゃん注 始動 / 自序及び「一目小僧」(一)~(三)より。私の注もそのまま引いた)。

    *

 又國は何處であるか知らぬが、有馬左衞門佐殿領分の山には、セコ子といふ物が住んで居た。三四尺程にて眼は顏の眞中に只一つある。其他は皆人と同じ。身に毛も無く何も着ず。二三十づゝ程連れ立ちありく。人之に逢へども害を爲さず。大工の墨壺を事の外欲しがれども、遣れば惡しとて遣らずと杣共は語りけり。言葉は聞えず聲はヒウヒウと高くひびく由なりと、觀惠交話と云ふ書に出て居る。是も同じ時代の事である。

[やぶちゃん注:「有馬左衞門佐殿」「ありまさゑもんのすけどの」と読む。不詳。

「セコ子」「せここ」と読むようだ。それにしても、ウィキもたいしたもんだ。柳田が「國は何處であるか知らぬ」とうっちゃらかしたものが、ちゃんと判る。ィキの「セコ」から引く。「セコ」とは二、三歳ほどの『子供の妖怪で、河童が山に登ったものとされ』、『鹿児島県以外の九州地方と島根県隠岐郡に伝わっている』。『外観は一般には、頭を芥子坊主にした子供のようだとも、猫のような動物とも、姿が見えないともいう。島根の隠岐諸島では』一歳ほどの『赤ん坊のような姿で、一本足ともいう。古書『観恵交話』では、一つ目で体毛がないが、それ以外は人間そっくりとされる。但し民間伝承上においては、セコが一つ目という伝承は見受けられない』。『妖怪漫画家・水木しげるによる妖怪画では、一つ目と二つ目のものが存在する。夜中に、山を歩いていると、楽しそうな声や音が聞こえるのは、このセコによるものとされる。夜は木の周りで踊っているという』(以下注記号を省略した)。『人に対して様々な悪戯を働くともいう。島根県では石を割る音や岩を転がす音をたてるという。宮崎県では山中で山鳴りや木の倒れる音をさせたり、山小屋を揺すったりするという。大分県では山道を歩く人の手や足をつかんでからかう、牛馬に憑く、人をだまして道に迷わせる、怪我を負わせる、人が山に入るときに懐に焼き餅を入れていると、それを欲しがるなどといわれる』。前述の観恵交話では二十~三十人ほどで『連れ立ち、大工の墨壺を欲しがるという。基本的にこちらから手を出さない限り直接的な害はないが、悪戯を受けた際は鉄砲を鳴らす、経を読む、「今夜は俺が悪かった」などと言い訳をするなどの方法が良いという。セコはイワシが嫌いなため「イワシをやるぞ」と言うのも効果があるという』。『山と川を移動するとき「ヒョウヒョウ」「キチキチ」「ホイホイ」などと鳴くという。この「ホイホイ」は、狩猟で獲物を刈り出す勢子(せこ)の掛け声「ほーい ほーい」を真似ており、セコの名はこの勢子が由来とされる。大分では日和の変わり目に群れをなして「カッカ」と鳴きながら山を登るといい、セコが通る道に家を建てると、家の中には入ってこないがその家が揺すられたり、石を投げつけられたりするという』。『熊本県では、セコは老人のような声から子供のような声まで出し、木こりはその声によってセコの機嫌を知るという』。『島根県隠岐諸島では、セコはカワコ(河童)が秋の彼岸に山に入ったものとされる。「ヨイヨイ」「ホイホイ」「ショイショイ」などと鳴き、イタチのように身が軽いので、こちらで鳴き声が聞こえたかと思えば、すぐに別のほうからも鳴き声が聞こえるという。足跡は』一歳ほどの『赤ん坊のものに似ているという。また、セコは年老いた河童のことで、川や溝を一本足で歩くともいわれる』とある。この一歳児の足跡というのは「座敷童子(ざしきわらし)」との連関性を私は強く感じる。

   *]

ブログ・アクセス1190000突破記念 和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳥の用(3)「翼」から「養小鳥」/同書鳥類の部全完遂!

[やぶちゃん注:本日、正午過ぎ、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百十九万アクセスを超えた。それに合わせて、以下の「和漢三才図会」鳥部の掉尾の電子化注を公開する。]




Tubasa

 

つばさ   翅【音癡】

      【和名都波佐】

      翮

      【和名八稱】

【音亦】

      翈【音匣】

      【和名加佐木里】

 

翼者翅也 翮者羽本卽羽根也 翈者翮上短羽也

𦐃【音南】翮下弱羽【俗云牟久介】

飛擧曰翥【波市流】〕 直上飛曰翀【冲同訓比伊留】 飛而上曰頡【𦐄同】

飛而下曰頏【𦐄同】 回飛曰翔【音詳訓布留末布】 飛羽之聲曰

 【音霄訓波乎止】

[やぶちゃん字注:「」=「傟」の「公」を「夂」に代えた字体。]

 

 

つばさ   翅【音、「癡〔(シ)〕」。】

      【和名、「都波佐」。】

      翮〔(かく)〕

      【和名、「八稱」。】

【音亦】

      翈【音、「匣〔(コウ)〕」。】

      【和名、「加佐木里〔(かざきり)〕」。】

[やぶちゃん注:「八稱」は、恐らくは「はね」で、「稱」は「祢」(禰)の誤記ではないかと推定する。或いは「翮」を良安は「はがひ」(「羽交い」。左右の羽を畳んだ際に重なる部分)の意味で以前に使っているから、「はがひ」とも考えたが、良安は和名を表わす際、漢字一音に一つの平仮名を対応させて表記してきているので、これは二文字しかなく、「はがひ」とは読めない。]

 

翼(つばさ)は翅〔(はね)〕なり[やぶちゃん注:鳥の羽全体或いは主たる両の翼(つばさ)の意。]。

翮〔(かく)〕は羽なる本〔(もと)〕、卽ち、羽根(はね)なり[やぶちゃん注:羽の根元の部分である。]。

翈〔(こう)〕は翮の上の短き羽なり。𦐃【音、「南」。】は翮の下の弱〔き〕羽【俗に云ふ、「牟久介〔(むくげ)〕」。】〔なり〕。

飛び擧(あが)るを「翥(はふる)」【「波市流〔はしる〕」[やぶちゃん注:前のルビと異なるのが不審である。東洋文庫版ではこの「市」を「布」の誤字とする。さすれば、確かに「はふる」で辻褄が合う。]。】と曰ふ。

直ちに上〔(のぼ)〕り飛ぶを「翀(ひいる)」【「冲」〔と〕同〔じく〕「比伊留」と訓ず。】と曰ふ。 飛んで上るを「頡(とびあが)る」【「𦐄」〔と〕同じ。】と曰ふ。

飛びて下〔(くだ)〕るを「頏(とびあが)る」【「𦐄」〔と〕同じ。】曰ふ。

回(めぐ)り飛ぶを「翔(ふるま)ふ」【音、「詳」。「布留末布」と訓ず。】と曰ふ。

飛ぶ羽の聲を「」【音、「霄〔(セウ)〕」。「波乎止〔(はをと)〕」と訓ず。】と曰ふ。[やぶちゃん字注:「」=「傟」の「公」を「夂」に代えた字体。]

[やぶちゃん注:良安が意識的に一字空けをしているのを、読み易さを考えて、改行した。それ以外に、言い添えたいことはない。]

 

O

 

     尾  翹【音喬】

     【和名乎】

【音肥】

     臎【音翠】

     【和名止之利

      俗云阿布良之利】

 

按尾鳥獸尻長毛總名也鳥之尾曰翹大抵有十二枚

 鳥尾肉曰臎

  足引の山鳥の尾のしたりをの長々し夜を独りかもねん

 

 

     尾  翹〔(げう)〕【音、「喬〔(ケウ)〕」。】

     【和名、「乎」。】

【音、「肥〔(ヒ)〕」。】

     臎〔(スイ)〕【音、「翠」。】

     【和名、「止之利〔(としり)〕」。

      俗に云ふ、「阿布良之利〔(あぶらしり)〕」。】

 

按ずるに、尾は、鳥獸の尻の長き毛の總名なり。鳥の尾を「翹」と曰ふ。大抵、十二枚有り。鳥〔の〕尾の肉、「臎」と曰ふ。

  足引〔(あしひ)〕きの山鳥の尾のしだりをの長々し夜を独りかもねん

[やぶちゃん注:言わずもがな、最後の歌は「万葉集」巻第十一に載る、作者不詳の一首(二八〇二番)、

 思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を

の後書きに、「或る本の歌に曰はく」として載り、「小倉百人一首」で柿本人麻呂の作とされて人口に膾炙してしまい、国語の授業では序詞の典型として必ず引かれる。俺も御多分に漏れず、古文の授業でやった。厭々、やった。正直、言おう。私が和歌が大いに嫌いになった一つが、この歌を元凶とするのである。序詞だか何だか知らねえが、三十一文字の十七音をも迂遠なロマン主義者が事大主義的に使って表現したこれを、中学時代に百人一首で教わって、「こいつは馬鹿か?」と思ったもんだ。私はその時既に、尾崎放哉にトチ狂っていて、遙かに「せきをしてもひとり」の方に心の臓を突かれていたのだ。今でもこの歌を素直に読めない。当時の国語教師が、万葉の里の高岡の伏木中学校の授業で、冬の石炭ストーブで煙っている冬の教室で、如何にも名作の如く、序詞を滔々と説明して悦に入っていたのを、ニヤリと笑っていた自分自身が今も私の中に大いに、いや、遙かに健在だからである。せめても「あしひきの」と清音で読んでくんな。万葉人は濁音は嫌いなんだよ!

 

Mizukaki

 

 

みづかき   【和名美豆加木】

【音卜】

 

蹼爾雅集注云鳬鷹足指間有幕相連著者也

按水禽皆有蹼以能游水上也

[やぶちゃん注:「幕」はママ。]

 

 

みづかき   【和名、「美豆加木」。】

【音、「卜〔(ボク)〕」。】

 

蹼は「爾雅集注〔(じがしつちゆう)〕」に云はく、『鳬〔(かも)〕・鷹の足の指の間に幕〔(まく)〕有りて、相ひ連り、著〔(つ)〕く者なり』〔と〕。

按ずるに、水禽には皆、蹼、有りて、以つて能く水上を游(およ)ぐ。

[やぶちゃん注:「鷹」というのは何? 彼らに蹼はないと思いますが?

「水禽には皆、蹼、有り」実際には総てでは、ない。例えば、知られた水鳥の一種である、ツル目クイナ科             Gallinula 属バン(鷭)Gallinula chloropus は蹼を持たない。

 

「爾雅集注」「爾雅沈旋(しんせん)集注」。一巻。梁の給事黄門侍郎で、宋・斉・梁の三朝に仕えた優れた文人政治家沈約(しんやく 四四一年~五一三年)の子沈旋が「爾雅」(著者不詳。紀元前二〇〇年頃に成立した、現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典)を注したもの。「隋書」の「経籍伝」では「集注爾雅」として十巻とある。]

 

Kedume

 

あこゑ

 けつめ   【和名阿古江

         俗云介豆女】

【音巨】

 

距者雞雉之脛有岐也

按凡刀鋒倒刺皆曰距而鳥脚脛之後畧勾尖指爪亦

 曰距俗呼曰蹶爪

――――――――――――――――――――――

 胵【同和名鳥乃和太】鳥之腸胃也

[やぶちゃん注:「」=「月」+「比」。]

 

【音春】 肫【和名無無木】鳥之臟也

[やぶちゃん字注:以上の二項は底本では上下二段組。「距」とは無縁であるが、短いし、以下は更に附録の感が強いので、ここでは「距」に続けて電子化しておく。]

 

 

あこゑ

 けづめ   【和名、「阿古江」。

        俗に云ふ、「介豆女」。】

【音、「巨」。】

 

距は雞〔(にはとり)〕・雉の脛(はぎ)にして、岐(また)有る〔もの〕なり。

按ずるに、凡〔(すべ)〕て、刀-鋒(きつさき)の倒-刺〔(さかば)〕[やぶちゃん注:逆刃。主たる刃(やいば)から見ると、飛び出る形で別に突き出る「返し」の刃或いは鋭利な障害部具のこと。]、皆、「距」と曰ふ。而して、鳥の脚・脛の後〔(うしろ)〕に、畧(ち)と勾〔(まが)〕ち尖〔(とが)り〕たる指・爪を〔も〕亦、「距」と曰ふ。俗に呼んで「蹶爪(けづめ)」と曰ふ。

 

 

(とりのわた) 胵【同じ。和名、「鳥乃和太」。】。鳥の腸胃なり。

[やぶちゃん注:「」=「月」+「比」。]

 

(むゝき)【音、「春〔(シユン)〕」。】 肫【和名、「無無木」。】鳥の臟〔(はらわた)〕なり。

[やぶちゃん注:前の「胵」が腸と胃の消化器官であるから、それ以外の、所謂、「五臓」である肺・心・脾(ひ)・肝・腎と採っておく。]

 

 

 

  諸鳥有毒物

本綱云鳥自死目閉自死足不伸白鳥玄首玄鳥白首三

足四距六指四翼異形異色者皆有毒恐不可食之也

 

 

  諸鳥〔の〕毒有る物

「本綱」に云はく、『鳥、自死して、目、閉ぢ〔たるもの〕、自死して、足、伸びざる〔もの〕、白き鳥にして玄〔(くろ)〕き首〔のもの〕、玄き鳥にして白き首〔のもの〕、三足〔のもの〕、四〔つの〕距〔(けづめ)のもの〕、六指〔のもの〕、四〔(よつ)〕つ〔の〕翼〔のもの〕、異形・異色の者、皆、毒、有り。恐〔(おそら)〕くは、之れを食ふべからず』〔と〕。

[やぶちゃん注:「本草綱目」の巻四十九の「禽之三」(林禽類十七種・附二種)の掉尾に、

   *

諸鳥有毒【「拾遺」】

凡鳥自死目閉 自死足不伸 白鳥玄首 玄鳥 白首 三足 四距 六指 四翼 異形異色 並不可食食之殺人

   *

とあるのに基づく。]

 

 

 

  養小鳥

凡小鳥𣫠未能啄餌者先取小蟲哺之孑孑及黑小蜘蛛

最佳而後用研餌如畫眉鳥四十雀等用粟稗育者不及

研餌其硏餌造法【忌鼠尿及鹽誤入用則死】

 糗【九兩】朱舂米【一兩炒但忌精】小鯽【炙研三兩鰌亦佳】謂之魚餌

[やぶちゃん字注:「」=「魚」+「輩」。]

 各細末和調蕪菜或芹葉入研合令色淡青水煉用

 如鶯駒鳥鷦鷯者用𩵋餌六兩亦佳最隨時宜

晴天令鳥浴水可以避羽蟲浴後中於日暑則三日一度

 寒則十日一度

四五月有鳥膨脹【謂豆和留】急用蕃椒浸水令吞之如無効取

 常山木蟲餌之螻蛄亦佳

有鳥脛脚生小瘡【謂阿之介】徐刮去瘡令吞蕃椒水則治緩

 則舉家鳥皆傳染至死若糞閉者吞蕃椒水可也

病鸎不食餌者安于厠中則乍愈鳩飛不還者燒奇楠於

 樊中則遠慕香氣歸來其所喜浄不浄不可得曉

七八月之際諸鳥羽毛漸易謂之【音妥訓介加由流】毛落更

生整理曰【音先】

鳥無所以而有卒死急拔頸毛二三條【如人之身柱之穴処】跡灸一

 壯則活

 

 

  小鳥を養〔(か)〕ふ

凡そ、小鳥の𣫠(ひな)、未だ餌を啄ばむこと能はざる者、先づ、小さき蟲を取りて、之れを哺(くゝ)む。孑[やぶちゃん注:ママ。](ぼうふりむし)及び黑き小蜘蛛〔(こぐも)〕、最も佳なり。而して後、研餌(すりゑ)を用〔(もつ)〕てす。畫眉鳥(ほじろ[やぶちゃん注:ママ。])・四十雀(〔しじふ〕から)等のごときは、粟〔(あは)〕・稗(ひゑ)を用〔(もつ)〕て育(そだ)つ者は、研餌に及ばず。其の硏餌(するゑ)〔を〕造る法【忌鼠〔の〕尿〔(いばり)〕及び鹽〔(しほ)〕を忌む。誤りて入〔れ〕用〔(もち)ふ〕れば、則ち、死す。】。

糗(はつたい)【九兩。】・朱--米(くろごめ)【一兩を炒る。但し、精[やぶちゃん注:精米したもの。]を忌む。】・小鯽〔(こぶな)〕【炙り研る。三兩。〔はえ〕・鰌(どじやう)も亦、佳なり。】、之れを「魚餌(なまゑ)」と謂ふ。[やぶちゃん字注:「」=「魚」+「輩」。]

各々、細末して和し、調〔じ〕[やぶちゃん注:混ぜ合わせて(和(あ)えて)、調合し。]、蕪菜(かぶらな)或いは芹葉(せりの〔は〕)を入れ、研(す)り合はせて、色、淡青〔(あはあを)〕からしめ、水にて煉〔(ね)〕り、用ふ。

鶯・駒鳥・鷦鷯(さゞい)のごとき者は、𩵋餌(なまゑ)六兩を用ひて〔も〕亦、佳なり。最も時宜に隨ふ[やぶちゃん注:育てる鳥の種類や健康状態に合わせて、適宜、対処すればよい。]。

晴天、鳥をして水を浴(あ)びせ、以つて羽蟲(はむし)を避〔(のぞ)〕き、浴(みづあ)びせて後、日に中(あ)つべし。暑きときは、則ち、三日に一度、寒きときは、則ち、十日に一度。

四、五月、鳥、膨-脹(ふく)るゝこと、有り【「豆和留〔(つわる)〕」と謂ふ。】急〔(すみやか)〕に蕃椒(たうがらし)を用ひて、水に浸して、之れに吞ましむ。如〔(も)〕し、効、無くんば、常山木(くさぎの〔き〕)の蟲を取り、之れに餌〔(あた)〕ふ。螻蛄(けら)も亦、佳なり。

鳥の脛・脚、小〔さき〕瘡〔(かさ〕生〔ず〕ること、有り【「阿之介〔(あしけ〕」と謂ふ。】。徐(そろそろ)〔と〕瘡〔(るいさう)〕を刮(こそ)げ去りて蕃椒(とうがらし[やぶちゃん注:ママ。])〔の〕水を吞ませしめば、則ち、治す。〔瘡の〕緩〔(ゆる)める〕ときは[やぶちゃん注:化膿して破れることを指すと思われる。]、則ち、舉-家(いえうち[やぶちゃん注:ママ]。)の鳥、皆、傳-染(うつ)りて、死に至る。若〔(も)〕し、糞閉〔せる〕者は[やぶちゃん注:糞詰りを起こしたものは。]、蕃椒水を吞ませて可なり。

病〔んだ〕鸎〔(うぐひす)の〕餌を食はざる者〔は〕、厠(かはや)の中に安(お)けば、則ち、乍〔(たちま)〕ち、愈ゆ。鳩、飛びて還らざる者〔は〕、奇楠(きやら)を樊(かご)の中に燒(た)けば、則ち、遠く香氣を慕ひて、歸り來たる。其の喜〔(たのし)〕む所、浄・不浄、得曉(〔え〕さと)すべからず[やぶちゃん注:「理解することは到底出来ないが、事実、以上の通りなのである」というのである。]。

七、八月の際(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])、諸鳥、羽毛、漸(そろそろ)、〔(ぬ)〕け易(かは)る。之れを「(けかゆ)る」と謂ふ【音、「妥〔(ダ)〕」。「介加由流」と訓ず。】。毛、落ちて、更に、生じて整-理(とゝな)ふを「」【音。「先」。】と曰ふ。

鳥、所以(ゆへ[やぶちゃんちゃん注:ママ]。)無くして卒〔(にはか)〕に死すること有り。急〔(すみやか)〕に頸(くびすぢ)の毛、二、三條【人の身柱(ちりけ)の穴のごとくなる処。】を拔きて、跡に、灸〔(きう)〕、一壯〔(そう)〕すれば、則ち、活(い)く。

[やぶちゃん注:「哺(くゝ)む」人が餌を口に入れてやる。

「孑(ぼうふりむし)」通常は「孑孑」。言わずもがな、双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科 Culicidae に属する蚊類(亜科はオオカ亜科 Toxorhynchitinae・ナミカ亜科 Culicinae・ハマダラカ亜科 Anophelinae に分かれる)の水棲幼虫である「ボウフラ」。「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 孑(ぼうふりむし)」を参照されたい。

「畫眉鳥(ほじろ)」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis。但し、良安の「ほおじろ」認識には、やや誤認とブレがあるように思われる。「和漢三才圖會第四十三 林禽類 畫眉鳥(ホウジロ) (ホウジロ・ガビチョウ・ミヤマホオジロ・ホオアカ)」の私の注を参照されたい。

「四十雀(〔しじふ〕から)」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属シジュウカラ Parus minor「和漢三才圖會第四十三 林禽類 四十雀(しじふから) (シジュウカラ・附ゴジュウカラ)」を参照されたい。

「糗(はつたい)」はったい粉。大麦(単子葉植物綱イネ目イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare)を煎って焦がし、挽いて粉にしたもの。麦こがし。香煎 (こうせん)。

「九兩」薬種の量目単位。一両は四匁で、現在の十五グラムであるから、百三十五グラム。以下はご自分で換算されたい。

「朱--米(くろごめ)」「黑米」。イネ(イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa)の栽培品種のうちで、玄米の種皮又は果皮の少なくとも一方(主に果皮)にアントシアニン(anthocyanin)系の紫黒色素を含む品種。

「小鯽〔(こぶな)〕」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属 Carassius の小型固体或いは小型種。「コブナ」という種はいない。日本全域に分布するギンブナ Carassius langsdorfii (全長三十センチメートルほどで、ほぼ全てがであり、無性生殖の一種である雌性発生でクローン増殖することが知られている)か、キンブナ Carassius buergeri subsp. 2(関東地方・東北地方に分布し、全長は十五センチメートルほどで、日本のフナの中では最も小型。名のとおり体が黄色っぽく、ギンブナよりも体高が低い)。

〔はえ〕」(「」=「魚」+「輩」)。現行の「ハヤ」類であるが、本邦では複数の異なった種を十把一絡げにして「ハヤ」と呼ぶ悪しき習慣がある(「ハヤ」という標準和名の種はいない)。これはさんざん、色々な電子化で注してきた。これは書き始めると、エンドレスになってしまうので、特に最近の仕儀で、かなりコンパクトに纏めた、「大和本草卷之十三 魚之上 (「」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」の私の注を参照されたい。

「蕪菜(かぶらな)」「な」(原典はカタカナ)はちょっと判別に迷うが、東洋文庫に従った。アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブ(アジア系)Brassica rapa var. glabra。但し、ここで用いるのは、あくまで「葉」である。

「芹葉(せりの〔は〕)」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica

「駒鳥」スズメ目ツグミ科コマドリ属コマドリ Erithacus akahige akahige「和漢三才圖會第四十三 林禽類 駒鳥(こまどり) (コマドリ・タネコマドリ)」を参照されたい。

「鷦鷯(さゞい)」これはスズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい)(ミソサザイ)」を参照されたい。

「避〔(のぞ)〕き」訓に自信なし。しかし、明らかに送り仮名は「キ」。

「四、五月、鳥、膨-脹(ふく)るゝこと、有り【「豆和留〔(つわる)〕」と謂ふ。】」多くの小鳥はいろいろな疾患に於いて、しばしば体が膨らむ。川口の小鳥の病院「小鳥のセンター病院」の公式サイトのこちらを見ると、上部気道疾患・バンブルフット(Bumblefoot:趾瘤症(しりゅうしょう)。立った時又は歩いている時に体重がかかる足の裏や、座った時に体重のかかる膝に瘤(こぶ)が発生し、内部へ炎症が進行していく病気)・内分泌疾患・甲状腺機能低下症・代謝性疾患・甲状腺機能低下症・変形性関節症・輸卵管疾患や、重度の感染症で見られる現象であることが判る。……小学校四年の時、飼っていたジュウシマツが、すっかり膨らんでいた……鍵っ子だった私は、為すすべなく、近くの小鳥に詳しいお爺さんのところへ掌に載せて走って連れて行こうとした、でも、その途中、私の手の中で、その子は、息を引き取った……その震える小さな体の感触と、閉じてしまって……最早……永久に開かない眼を……私は……忘れられない…………

「蕃椒(たうがらし)」ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ Capsicum annuum。多くの品種がある。

「常山木(くさぎの〔き〕)の蟲」シソ目シソ科クサギ属クサギ(臭木)Clerodendrum trichotomum。和名は葉に独特の悪臭がすることに由来(あれは私も嫌い。しかし食用になる)。それにつく虫は、特に「臭木の虫」として知られ、コウモリガ(鱗翅(チョウ)目コウモリガ上科コウモリガ科 Endoclita 属コウモリガ Endoclita excrescens)・カミキリムシ(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae)などの幼虫らしい。クサギの枝や幹に穴を開け、木質を食べて成長する。嘗ては、子供の疳の薬に盛んに用いられ、「常山虫(じょうざんちゅう)とも称し、夏の季語でさえある。

「螻蛄(けら)」本邦産種は直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」を参照されたい。

 

「鳥の脛・脚、小〔さき〕瘡〔(かさ〕生ること、有り【「阿之介〔(あしけ〕」と謂ふ。】」腫瘤疾患らしいが、後の良安の謂いからは、強い感染性疾患(病原はウイルス性・細菌性・真菌性・原虫性・寄生虫性など多様である)が考えられる。

瘡〔(るいさう)〕」「」は皮膚に発生した小さな疣(いぼ)状のものを指す。「瘡」は腫れ物。

「病〔んだ〕鸎〔(うぐひす)の〕餌を食はざる者〔は〕、厠(かはや)の中に安(お)けば、則ち、乍〔(たちま)〕ち、愈ゆ」この呪的関係には聊か興味がある。何か判ったら追記したい。

「奇楠(きやら)」沈香(じんこう)。ついこの間の、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 比翼鳥(ひよくのとり) (雌雄で一体の幻鳥・捏造剥製はフウチョウを使用)」の「丹沉」の注で示したので、そちらを参照されたい。

「身柱(ちりけ)」「天柱」とも書き、「ちりげ」とも呼ぶ。灸穴(きゅうけつ)の一つで、項(うなじ)の下,第三椎(つい)の下に当たる。小児の驚風(幼児のひきつけを起こす病気を指す。現在は脳膜炎の類が比定されている)や疳(正式な漢方医学では「脾疳(ひかん)」で、乳児の腹部膨満や異常食欲などを称したが、ここはもっと広い小児性神経症疾患を指すと考えた方がよかろう)などに効果があるとされた。

「灸〔(きう)〕、一壯」灸を一回据えることを「一壮」と呼ぶ。

 

 以上を以って「和漢三才圖會」の「鳥類」パートの全電子化注を完遂した。開始が二〇一七年十月三十日であったから、一年三ヶ月かかった。苦手な鳥類だっただけに、少し時間がかかった。さても、残すは「卷三十七 畜類」「卷三十八 獸類」「卷三十九 鼠類」のみとなった。こいつは今年中に必ず鳧をつける。それで総ての動物パートを終えられる。二〇〇七年四月二十八日に「卷第四十七 介貝部」に手をつけているから、今年で十二年目、これだけは、今年中に完遂する覚悟である。

2019/02/05

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳥の用(2) 「雛」・「囮」・「卵」・「※(とまりぎ)」・「鳥冠」・「㭰」・「嗉」・「※(そそろ)」〈ペレット〉・「鳴」

 

Hiyoko

 

ひな    雛  𣫠【音顧】

ひよこ    【和名比奈今云比與古】

 

 

爾雅云鳥子生須其母而食謂之𣫠鳥子生能噣食謂之

雛字林云哺而活者曰𣫠燕雀之類是也自啄者曰雛雞

雉之類是也

按呼雞雛曰比與古其鳴聲以曰比與比與也

 

 

ひな    雛  𣫠【音、「顧」。】

ひよこ    【和名、「比奈」。今、云ふ、

        「比與古」。】

 

「爾雅」に云はく、『鳥の子、生まれて、其の母を須(も)つて食ふ。之れを「𣫠(ひよこ)」と謂ふ。鳥の子、生まれて、能く食を噣(ついば)む。之れを「雛(ひな)」と謂ふ』〔と〕。「字林」に云はく、『哺(くゝ)められて活(そだ)つ者を「𣫠」と曰ふ。燕・雀の類ひ、是れなり。自〔(みづか)〕ら啄む者、「雛」と曰ふ、雞〔(にはとり)〕・雉の類ひ、是れなり』〔と〕。

按ずるに、雞の雛を呼んで「比與古」と曰ふ。其の鳴く聲、「比與比與〔(ひよひよ)〕」と曰ふを以つてなり。

[やぶちゃん注:「其の母を須(も)つて食ふ」この「須」は「求める」或いは再読文字の「すべからく~すべし」で、「母鳥の求め、母から口移しで以って、物を貰い食うのである、そうでなければ物を食うことは出来ない」の謂いである。

「爾雅」著者不詳。紀元前二〇〇年頃に成立した、現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典。

「字林」晋(二六五年~四二〇年)の呂忱(りょしん)の編になる部首別漢字字書。「隋書」の「経籍志」によると、全七巻とされ、凡そ一万二千八百二十四字を収め、「説文解字」と同じ五百四十の部首を設け、親字も「説文解字」と同じく小篆であったとされるが、佚書であるため、現在は他書に引用された佚文のみが残る(以上はウィキの「字林」に拠った)。]

 

Otori

 

おとり   囮

てゝれ   【和名天々禮】

 𪃏【音梅】 【囮】

【音化】

       【和名乎止利】

[やぶちゃん字注:「おとり」はママ。「」=「女」+「鳥」。]

 

繫馴鳥誘外鳥而使之來名曰囮卽今云鳥媒也

文選射雉賦注云少養雉子至長狎人能招引野雉者謂

之媒

𪃏媒同字【從女從鳥】蓋媒人則用媒𪃏鳥則用𪃏以別之

 和名抄囮𪃏爲二物【未詳】蓋以同鳥雌爲𪃏

 今𪃏鳥之中用木兎最佳也其傍設黐擌則群鳥來笑

 木兎之醜形竟羅擌

 

 

おとり   囮

てゝれ   【和名。「天々禮」。】

 𪃏【音、「梅」。】 【囮。】

【音、「化」。】

       【和名、「乎止利」。】

[やぶちゃん字注:「」=「女」+「鳥」。]

 

馴れたる鳥を繫ぎて、外の鳥を誘(さそ)ひ、之れをして來たらしむ。名づけて「囮」と曰ふ。卽ち、今、云ふ、「鳥媒〔(てうばい)〕」なり。

「文選〔(もんぜん)〕」の「射雉〔(しやち)〕の賦」の注に云はく、『少〔(わか)〕きとき、雉子〔(きじ)〕を養ひて、長ずるに至りて、人に狎(な)れて、能く野雉〔(やち)〕を招き引く者を、之れを、「媒」と謂ふ』〔と〕[やぶちゃん注:「招き引く者を」の「を」は衍字であろう。]。

按ずるに、「𪃏」・「媒」、同字【「女」に從〔(したが)〕ひ、「鳥」に從ふ。[やぶちゃん注:「從」は「作る」の意。]】。蓋し、媒人(なかうど)には、則ち、「媒」を用ひ、「𪃏鳥〔(をとり[やぶちゃん注:ママ。])〕」には、則ち、「𪃏」を用ひて、以つて之れを別〔(わか)〕つ。

「和名抄」に、「囮」〔と〕「𪃏」、二物と爲す【未だ詳らかならず。】。蓋し、同じ鳥の雌を以つて「𪃏」と爲す。

今、𪃏鳥の中〔(うち)〕、木兎(みゝづく)を用ひて最も佳なり。其の傍らに、設黐擌(もちばこ)を設くるときは、則ち、群鳥來たりて、木兎の醜(みにく)き形〔(なり)〕を笑ひ、竟〔(つひ)〕に擌(はこ)へ羅(かゝ)る。

[やぶちゃん注:「鳥媒〔(てうばい)〕」当初、「とりのなかうど」と訓じたが、どうもかったるい。そのような謂い方があったものかも判らぬし、後で人の仲人とは判然と分けると言っていることから、植物学の鳥媒花のようで、これも変な感じではあるが、職人はしばしば音読みを好むので、かくしておいた。

『「文選」の「射雉の賦」』「文選」は梁を建国した武帝の長子で、詩文を好んだ昭明太子五〇一年~五三一年)が、当時の代表的な文士を招いて編纂した全三十巻の詩文集。歴代の名文・詩歌八百余りを集めた詩文集。中国では文人の必読書で、本邦でも飛鳥・奈良時代以降、盛んに読まれた。「射雉の賦」は西晋の、陸機と併称される文人であった潘岳(二四七年~三〇〇年)の作品で、原文はこれで(リンク先は中文ウィキの「維基文庫」内のそれ)、その注はこれ(リンク先は中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のそれ。下方にある)で、

   *

徐爰注。媒者、少養雉子、至長狎人、能招引野雉、因名曰媒。翳者、所隱以射者也。晉邦過江、斯藝乃廢。歷代迄今、寡能厥事。嘗覽茲賦、昧而莫曉、聊記所聞、以備遺忘。

   *

が引用元。その徐爰とは恐らく、南宋の官僚で歴史家でもあった徐爰(じょえん 三九四年~四七五年)であろう。

『「和名抄」に、「囮」〔と〕「𪃏」、二物と爲す』「囮」は巻十五の「調度部下第二十二」の「畋獵具第百九十三に、

   *

囮 「唐韻」云『囮【音、「訛」。「漢語抄」云、『天々禮』。】網鳥者媒也。

   *

とあり、その次の次の条に、

   *

媒鳥 「文選」の「射雉賦」注に云はく、『少養雉子、至長狎人、能招引野雉者謂之「媒」』【師、「乎度利」。】。

   *

と別にあるのを指すようである。「𪃏」の字は縦覧した限りでは、「和名類聚鈔」では用いられていないようだ。

「今、𪃏鳥の中〔(うち)〕、木兎(みゝづく)を用ひて最も佳なり。其の傍らに、設黐擌(もちばこ)を設くるときは、則ち、群鳥來たりて、木兎の醜(みにく)き形〔(なり)〕を笑ひ、竟〔(つひ)〕に擌(はこ)へ羅(かゝ)る」これは既にほぼ同内容を「山禽類 鴟鵂(みみづく)(フクロウ科の「みみづく」類)」で語っている。]

 

Tomarigi

 

とまりき  桀【詩經】

       【止末利木】

      塒

       【和名久良】

【音傑】

[やぶちゃん字注:「木」+「桀」。]

 

雞棲杙也如脚細弱小鳥之用接骨木枝佳

塒穿垣栖雞也 凡鳥宿曰栖禽經云陸鳥曰栖水鳥曰

 宿[やぶちゃん注:字空けはママ。]獨鳥曰止衆鳥曰集【隹在于木上也】

 

 

とまりぎ  桀【「詩經」。】

       【「止末利木」。】

      塒(とぐら)

       【和名、「久良」。】

【音、「傑」。】

[やぶちゃん字注:「木」+「桀」。]

 

(とまりぎ)は、雞〔(にはとり)〕の棲〔(すみか)〕の杙〔(くひ)〕なり。脚、細く、弱き小鳥の〔(とまりぎ)〕のごときは、接骨(にはとこ)の木の枝を用ひて、佳なり。

塒〔(とぐら)〕は、垣を穿〔(うが)〕ち、雞を栖(す)ましむる〔もの〕なり。 凡そ、鳥の宿〔(やどり)〕を「栖〔すみか〕」と曰ふ。「禽經」に云はく、『陸〔の〕鳥にして〔それを〕、「栖〔(す)む〕」」と曰ひ、水鳥にして「宿(〔やど〕)す」と曰ひ、獨鳥は「止(とま)る」と曰ひ、衆鳥を「集(あつま)る」【「隹〔(とり)〕、木の上に在る」〔の謂ひ〕なり。】と曰ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:「塒(とぐら)」不審。この字で「とぐら」と読んだ場合は蛇の「蜷局(とぐろ)」と同義になってしまう。ここは現行通り、「ねぐら」(もと、良安の言う通り、「ニワトリの寝床」、転じて「鳥の寝る場所」の意)と普通に読みたいところだ。或いは良安は「ねぐら」を寝倉と採り、その古形が「戸」(「外界から分離された」の意)「倉」であったと考えたのかも知れない。

「杙〔(くひ)〕」「杭」に同じ。

「接骨(にはとこ)の木」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコ Sambucus sieboldiana var. pinnatisecta。。幹の古い樹皮は黒褐色で厚いコルク質を有することから、軟質である。

「禽經」春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

『「隹〔(とり)〕、木の上に在る」〔の謂ひ〕なり』「集」の字の解字注であるが、これは厳原本にはないので、後代の注か、良安が附したものであろう。「隹」(スイ/ふるとり」この和訓の呼称は「鳥」部の部首である鳥と区別して、「舊(旧)(ふるいの意)」の字に使われている鳥であることに由来する)の字は「説文解字」によると、「尾の短い鳥類の総称」とされ、「側面から見た鳥」を象ったもので、良安のそれは正しい解字である。]

 

Tosaka

 

とさか  肉冠 毛冠

     毛角 觜【同上】

     【俗云止左加】

鳥冠

     【止者鳥也左加者

      逆毛之畧也】

 

按雞雉有肉冠鸂鶒有毛冠が木兎有毛角但獨立謂之

 毛冠【俗云連雀】雙立謂之毛角蓋毛角之本字觜也而以觜

 爲咮之字者非也

 

 

とさか  肉冠 毛冠

     毛角 觜【同上。】

     【俗に云ふ、「止左加」。】

鳥冠

     【「止」は「鳥」なり。「左加」とは、

      「逆〔(さ)〕か毛〔(げ)〕」の畧なり。】

 

按ずるに、雞〔(にはとり)〕・雉に「肉冠」有り、鸂鶒〔(おほおしどり)〕に「毛冠」有り、木兎(みゝづく)に「毛角」有り。但し、獨立〔せるものは〕之れを「毛冠」【俗に云ふ、「連雀」。】と謂ひ、雙立(さうりつ)〔せるもの〕、之れを「毛角」と謂ふ。蓋し、「毛角」の本字は「觜」なり。而るに、「觜」を以つて「咮-(くちばし)」の字と爲るは、非なり。

[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」の「とさか」を引く。『鳥類の頭上にある肉質の突起で、肉冠ともいう。ある種のキジ目』Galliformes『の鳥などに存在し、代表的なものはニワトリ』(鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus)『のとさかである。とさかは、いわゆる三次性徴の一つで、その発達は性ホルモンの影響を受け、雄でよく発達している。したがって、雄鶏を去勢すると、とさかは退化する。組織的には、外側の表皮層と数層の真皮層よりなり、通常の皮膚が分厚く隆起したものといえる。色は、表皮下の血管のために、通常は赤色である。とさかのおもな機能はディスプレーと種の認識であるが、ニワトリでは単冠、バラ冠、クルミ冠、エンドウ冠などのいろいろな形態のとさかがあり、遺伝子の単純な支配によって生ずる』。

「「止」は「鳥」なり。「左加」とは、「逆〔(さ)〕か毛〔(げ)〕」の畧なり」「鶏冠(とさか)」の和語の語源は種々あるが、どうもピンとこない。良安先生のこれは、そんな中でも私は腑に落ちる。

「鸂鶒〔(おほおしどり)〕」東洋文庫訳のルビを参考にした。但し、「オオオシドリ」という種がいるわけではなく、カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata の大型固体(群)を指している。

『「觜」を以つて「咮-(くちばし)」の字と爲るは、非なり』これは何度も良安が言っていることではある。確かに、第一義は「ミミズクの毛角(けづの)」であるが、中国でも早い時期から「嘴(くちばし)」の意で用いられている。しかも解字でも、「此」は「僅かに開く」の意、「角」は「硬い尖ったもの」で「くちばし」の意とする(大修館書店「廣漢和辭典」)。しかも良安自身が自己の評言で「觜」をさんざん使っているから、あんまり偉そうには言えないと思うんですけど。]

 

Kutibasi

 

くちはし 觜【音斯俗字】 嘴

      【和名久知波之】

     喙【音誨】

      【和名久知佐木】

【音醉】

     啄【音捉】   噣

      【都以波無】

[やぶちゃん注:「音捉」はママ。但し、「啄」(音「タク・ツク・トク」)と「捉」(ソク・サク)は実は現代中国音では、前者が「zhuó」(ヂゥオ)で、後者が「zhuō」(ヂゥオ)で発音としてはよく似てはいる。]

 

鳥喙也喙鳥獸之口也 鳥口取食曰啄凡鳥欲

 啄食謂求食【阿左留】 鴈鳬聚食之聲曰唼喋

――――――――――――――――――――――

[やぶちゃん注:以下の「嗉」から「囀」までは項目が二段組であるが、一段に変えた。]

 

】 凡鳥受食處曰嗉

    【和名毛乃波美俗云餌袋】

[やぶちゃん字注:「」=「月」+「素」。]

 

【音委】 鷙鳥食已吐其毛如丸曰【和名曾曾呂】

[やぶちゃん字注:「」=「丸」(の最終画が(つくり)の下まで延びる)+「咼」。]

 

【音名】 凡鳥啼曰鳴

      【訓奈久】

 

【音轉】 凡鳥吟曰囀

      【訓佐閉都留】

 鳥朝鳴曰嘲夜鳴曰林鳥以朝嘲水鳥夜

 

 

くちばし 觜【音、「斯〔(シ)〕」。俗字。】 嘴

      【和名、「久知波之」。】

     喙【音、「誨〔(カイ)〕」。】

      【和名、「久知佐木」。】

【音、「醉」。】

     啄【音、「捉」。】   噣〔(ソク)〕

      【「都以波無」。】

[やぶちゃん注:「啄【音、「捉」。】」については原文の私の注を参照されたい。]

 

按ずるに、「」は鳥の喙〔(くちばし)〕なり。喙は鳥獸の口なり。 鳥の、口にて、食を取るを「啄(ついば)む」と曰ふ。凡そ、鳥、食を啄まんと欲すを、「求-食(あざ)る」【「阿左留」。】と謂ふ 鴈〔(がん)〕・鳬(かも)、聚〔(あつま)〕り食ふの聲を「唼喋〔(せつちやう)〕」と曰ふ。

――――――――――――――――――――――

(ものはみ)【】 凡(すべ)て、鳥、食を受くる處、「嗉」と曰ふ。

    【和名、「毛乃波美」。俗に云ふ、「餌袋〔(ゑぶくろ)〕」。】

[やぶちゃん字注:「」=「月」+「素」。]

 

(そゝろ)【音、「委」。】 鷙鳥〔(しつてう)〕[やぶちゃん注:猛禽類及びその系統の鳥。]、食、已(おは)りて、其の毛を、丸〔(たま)〕のごとく〔にして〕吐く〔を〕、「〔(そそろ)〕」【和名、「曾曾呂」。】と曰ふ。

[やぶちゃん字注:「」=「丸」(の最終画が(つくり)の下まで延びる)+「咼」。]

 

(なく)【音、「名」。】 凡〔(すべ)〕て、鳥、啼く〔を〕「鳴」【訓、「奈久」。】と曰ふ。

 

【音、「轉」。】 凡て、鳥、吟ずるを、「囀」【訓、「佐閉都留」。】と曰ふ。

鳥、朝、鳴くを「嘲〔(てう)〕」と曰ひ、夜、鳴くを、「〔(や)〕」と曰ふ。林鳥は朝を以つて嘲〔(な)〕き、水鳥は夜を以つて〔(な)〕く。

[やぶちゃん注:後の四項は「くちばし」に関わる働きであるから、「」に附録するような感じで附されてあるのである。

「鴈〔(がん)〕」広義のガン(「雁」)は以下の広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称である。

「鳬(かも)」カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas を総称するもの。

「唼喋〔(せつちやう)〕」「唼」は「啄(ついば)む・喰らう」の意。なるほどと思わせる熟語だ。

「嗉(ものはみ)」「餌袋〔(ゑぶくろ)〕」ここは広義の消化器ではなく、所謂、狭義の消化管の一部である、素嚢(そのう:まさに「嗉嚢」とも表記する。膨らんだ形状を成し、管壁が有意に厚くなっており、消化に先立って、食べたものを一時的に貯蔵しておくための器官)と読み換えてよい。ウィキの「素嚢」によれば、『鳥類では、消化管の食道か咽喉の近くで管壁が筋肉質になり、膨らんだ形状になっている部分(嚢)がある。そこに食べたものを一時的に蓄えておくことができる。鳥類のすべてが砂嚢を持つ一方、素嚢についてはこれを持たない種もある』。『ハト目』Columbiformes『では、素嚢で素嚢乳が作られる。これは孵化したばかりの雛に与えられる』。『また、食べた餌をしばらく素嚢に保持することで、水分により食べたものを柔らかくし、それを吐き戻して雛に与える』。『ハゲワシ』タカ目タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae『などの死肉を食べる種では、餌が大量にあるときでもできるだけ多く食べるため、その結果、素嚢が大きく膨らむ。その後、睡眠するか動かずにいることで、消化を妨げないようにする』。『猛禽類では、ハゲワシを含めてワシ』・タカ類などは素嚢を一つ『持つが、フクロウ』(フクロウ目フクロウ科フクロウ属 Strix)『は素嚢を持たない』。『家禽では、ニワトリ』(鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus)『にはあるが、ガチョウ』(カモ目カモ科ガチョウ Anser anser)『にはない』とある。

(そゝろ)」(「」=「丸」(の最終画が(つくり)の下まで延びる)+「咼」)は、所謂、「ペレット」(pellet:猛禽類などが消化できないもの(羽・骨など)を吐き出した塊)である。]

2019/02/04

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳥の用(1) 「雄雌」・「巢」・「卵」

 

  鳥之用

 

[やぶちゃん注:以下、鳥部の最後の附録相当の「鳥之用」(鳥(とり)の用(よう))パートである。今までの「魚類」では最後に(「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の終りの部分)、「蟲部」では前(ここ)にあったが、この場合の「用」とは、広い意味での、その存在の必要に応じた働きや機能及びその呼称・役に立つ部分とその名称及びその処理(調理)方法等を含んだものである。]

――――――――――――――――――――――

【雌皆形小唯鷹之屬雌大於雄】

[やぶちゃん注:以上は、底本では、特異的に、挿絵の上の空白部分に記三行に分けて配されてある。以下は今まで通り、挿絵の下。]

 

Siyu

 

おどりめどり  雄

        【和名乎土里】

        雌

        【和名米土里】

雄雌【熊斯】

        交尾

        【和名都流比】

[やぶちゃん注:「おどり」の「お」はママ。]

 

爾雅云羽屬父曰雄母曰雌凡飛者曰雌雄走者曰牝牡

本綱曰鳥之雌雄不別者以翼知之右掩左者雌左掩右

者雄又燒毛作屑納水中沉者雌浮者雄 交接曰交尾

 

 

【雌は、皆、形、小さし。唯だ、鷹の屬の雌は雄より大なり。】

 

おどり・めどり 雄

        【和名、「乎土里〔(をどり)〕」。】

        雌

        【和名、「米土里」。】

雄雌【〔音、〕「熊斯〔ユウシ〕」。】

        交尾

        【和名、「都流比〔(つるび〕」。】

 

「爾雅」に云はく、『羽ある屬(たぐ)ひ、父を「雄」と曰ひ、母を「雌」と曰ふ。凡そ、飛ぶ者を「雌雄〔(しゆう)〕」と曰ひ、走る者を「牝牡〔(ひんと)〕」曰ふ』〔と〕。「本綱」に曰はく、『鳥の雌雄、別かたざるは、翼を以つて、之れを知る。右、左を掩〔(おほ)〕ふ者は雌なり。左(〔ひだ〕り)、右を掩ふ者は、雄なり。又、毛を燒きて屑〔(くづ)〕と作〔(な)〕し、水中に納(い)れて、沉〔(しづ)〕む者は雌(め〔どり〕)なり。浮く者は雄〔(をどり)〕なり』〔と〕。 交接するを「交尾(つる)びす」と曰ふ。

[やぶちゃん注:標題字の読み仮名相当が常に最初のものであるから、「雄雌」はそれぞれお「雄」が「おどり」(正しくは「をどり」。「乎土里」は正しい表記で、「乎」という漢字の呉音は「ヲ」である)、「雌」が「めどり」という読みであることになる。まあ、「雌雄」の熟語の場合は、中国の書の引用だから音でいいとしても、単独の「雌」「雄」は実は総て「をどり」「めどり」と読んでいるとしなくてはならない。だからこそ、良安は、「沉〔(しづ)〕む者は雌(め〔どり〕)なり」の部分でわざわざ「メ」だけを振っているのである。

「爾雅」著者不詳。紀元前二〇〇年頃に成立した、現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典。]

 

Su

 

す      窠【音科】

 

【音曹】

ウ    【和名須一云須久不】

 

五雜組云羽族之巧過於人其爲巢只以一口兩爪而結

束牢固甚於人工大風拔木而巢終不傾也雜木枯枝縱

橫重疉不知何以得膠固無恙此理之不可曉者凡鳥將

生卵先雌雄營巢巢成而後遺卵伏子及長成飛去則空

其巢不復用矣

△按巢之綿密也鷦鷯燕最勝焉杜鵑不能自營而假用

 鸎巢亦一智也島鵯文鳥鴿者孳於樊中

 凡鳥乳化曰孳【鳥産也】

[やぶちゃん注:「乳化」では意味が通じない。東洋文庫版では「孚」(かえる)の誤字として「孚化」で「孵化」の意味で訳している。それを穏当と思うので、特異的に訓読では、「孵化」とした。]

 

 

す      窠【音、「科」。】

 

【音、「曹」。】

ウ    【和名、「須」。

        一〔(い)〕つに云ふ、

        「須久不〔すくふ〕」。】

 

「五雜組」に云はく、『羽族の巧(たくみ)、人より過ぐ。其の巢を爲(つく)る〔や〕、只だ、一つの口・兩の爪(つめ)を以つて、結束、牢固〔(らうこ)〕して、人の工〔(たくみ)〕より甚〔だし〕。大風、木を拔くとも、巢、終〔(つひ)〕に傾かざるなり』。『雜木・枯れ枝、縱橫重疉〔(じゆうわうちようでふ)〕なり。知らず、何を以つて膠固〔こうこ〕して恙無(つヽがな)きことを得るか〔を〕。此れ、理〔(ことわり)〕を曉〔(あきらかに)〕すべからざる者なり。凡そ、鳥、將に卵を生まんとするに、先づ、雌雄〔(しゆう)〕、巢を營(〔つ〕く)る。巢、成りて後、卵を遺〔(のこ)〕す。子を伏し、長成するに及びて、飛び去るときは、則ち、其の巢を空(から)にして、復〔(ふた)〕たび、用ひず』〔と〕。

△按ずるに、巢の綿密なるや、鷦鷯(〔みそ〕さゞい)・燕(つばめ)最も勝〔(すぐ)れたり〕。杜鵑〔(ほととぎす)〕、自ら營(つく)ること、能はずして、鸎〔(うぐひす)〕の巢を假〔りに〕用〔ふ〕。亦、一智なり。島鵯(〔しま〕ひよどり)・文鳥・鴿(いへばと)のごときは樊(かご)の中に孳(こう)む[やぶちゃん注:「子(こ)」を「生(う)む」の訓。]

 凡そ、鳥、孵化〔(ふか)〕するを「孳〔(こう)む〕[やぶちゃん注:音は「シ」或いは「ジ」。]」と曰ふ【鳥の「産(こう)む」なり。】。

[やぶちゃん注:「須久不〔すくふ〕」は「巣を作る」の意の動詞「巣食う」のこと。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。当該部の原文を見ると(物部一の七)、

   *

羽族之巧過於入其爲巢只以鬥口兩爪而結束牢固甚於人工大風拔木而巢絡不傾世余在興見雌雄兩鶴於府堂鴟助上謀作巢既趾殫傍依又無枝葉木銜其上輒墜余家中其嗤笑之越旬日而巢成矣鶴身高六七尺雖雄一雙伏其中計寬廣富得丈餘雜木枯枝縱橫重疊不知何以得膠固無恙此理之不可曉者几鳥將生雛然後雌雄營巢巢成而後遺卵伏于及于長成飛去則察其巢不復用矣

   *

とあって、筆者の鶴の営巣の実見談の中間部(太字で示した)をカットしていることが判る。

「膠固〔こうこ〕」膠で固めたようにびくともしないように作ること。

「卵を遺〔(のこ)〕す」卵をそこ(巣の中)に産む。

「子を伏し」子を抱いて。

「鷦鷯」良安が振っている和名の「さざい」は、「小さい鳥」を指す古語「さざき」が転じたものであるが、良安は以前にこの二字に対して「みそさざい」とルビを振っているから、スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes を指す。

「島鵯(〔しま〕ひよどり)」独立項「島鵯」で、私はこれをスズメ目スズメ亜目ヒヨドリ科ヒヨドリ属シロガシラクロヒヨドリ Hypsipetes leucocephalus に同定比定した。

 

Tamago

 

かひご   卵[やぶちゃん字注:後の★を見よ。]

      【和名加比古】

【音鸞】

たまこ   孚【音敷】【孚同卵】

      【訓加倍留】

      毈【音段】

      【訓須毛里】

[やぶちゃん字注:★の「卵」には底本では(つくり)の中央に「ヽ」がないが、諸刊本を見ても、標題と同じ「卵」の字が当てられているので「卵」とした。]

 

卵鳥胎也【和名加比古】凡物無乳者卵生凡鳥之孚卵皆如期故曰孚

【孚者信也】鳥抱恒以爪反覆其卵故从卵不孵者曰毈呂氏

春秋云雞卵多毈楊子曰雌之不才其卵毈矣

△按白花蛇鱣魚無乳而胎生焉以爲異鸖鵰角鷹鳩之

 屬卵二鷹鳶烏鵯告天子及小鳥卵四雞雉鴨山雞之

 屬卵十二三皆夏月則十八日冬月則二十二三日而

 孚化後七十五日而能自噣矣蓋卵形如玉故俗稱玉

 子卵中黄曰【音黄】

[やぶちゃん注:「※」=「穀」-「禾」+黃(同位置に)。]

 凡雞卵忌山椒誤貯於一處則盡腐爛

【音却】 鳥卵空也本綱云吉弔之膏至輕利以銅及瓦器

 盛之則浸出惟鷄卵盛之不漏又云其脂以琉璃瓶

 盛之更以樟木盒貯之不爾則透氣失去也【吉弔蛇屬瑠璃硝子】

 

 

かひご   卵

      【和名、「加比古」。】

【音、「鸞」。】

たまご   孚【音、「敷〔(フ)〕」。】

       【「孚」は「卵」に同じ。】

      【訓、「加倍留〔(かへる)〕」。】

      毈【音、「段〔(タン)〕」。】

      【訓、「須毛里〔(すもり)〕」。】

 

卵、鳥の胎なり【和名、「加比古」。】。凡そ、物、乳〔(ちち)〕無き者、卵生〔(らんせい)〕す。凡そ、鳥の卵を孚〔(かへ)すは〕、皆、期〔(き)〕のごとし。故に「孚」と曰ふ【「孚」とは「信」なり。】鳥、抱〔くに、〕恒〔(つね)〕に、爪を以つて、其の卵を反-覆(かへ)す。故に「卵」に从〔(したが)〕ふ。孵〔(かへ)〕らざる者を「毈(すもり)」と曰ふ。「呂氏春秋〔(りよししゆんじう)〕」に云はく、『雞卵に、毈、多し。楊子〔(やうし)〕が曰はく、「雌の不才なる〔は〕其の卵、毈あり」〔と〕』〔と〕。

△按ずるに、白花蛇(はみ〔へび)〕)・鱣魚(ふか)、乳無くして胎生〔(たいせい)〕す。以つて異と爲す。鸖〔(つる)〕・鵰(わし)・角鷹(くまたか)・鳩の屬〔(たぐひ)〕、卵、二〔つ〕。鷹・鳶(とび)・烏(からす)・鵯(ひよどり)・告天子(ひばり)及び小鳥は、卵、四つ。雞〔(にはとり)〕・雉(きじ)・鴨・山雞(〔やま〕どり)の屬〔(たぐひ)〕、卵、十二、三。皆、夏月は、則ち、十八日、冬月は、則ち、二十二、三日にして孚-化(かへ)りて後〔(のち)〕、七十五日して、能く自〔(みづか)〕ら噣(ついば)む。蓋し、卵は、形(〔かた〕ち)、玉〔(たま)〕のごとくなる故、俗、「玉子」と稱す。卵の中の黄〔なるもの〕を「※〔(きみ)〕」と曰ふ【音「黄」。】。

[やぶちゃん注:「※」=「穀」-「禾」+黃(同位置に)。]

凡そ、雞〔(にはとり)〕の卵、山椒を忌む、誤りて一處に貯ふれば、則ち、盡(〔こと〕ごと)く腐爛す。

(たまごのから)【音、「却」。】 鳥〔の〕卵の空(から)なり。「本綱」に云はく、『吉弔(きつてう)の膏〔(あぶら)〕、至つて輕利にして、以つて銅及び瓦-器〔(かはらけ)〕に之れを盛るに、則ち、浸〔み〕出でる。惟だ、鷄卵のに之れを盛れば、漏れず』〔と〕。『又、云はく、『其の脂、琉璃〔(るり)〕の瓶を以つて、之れを盛(い)れ[やぶちゃん注:「入れ」。]、更に樟木(くすの〔き〕)の盒(はこ)を以つて之れを貯ふ。爾(しから)ざれば、則ち、氣、透き、失去〔(しつきよ)する〕なり【「吉弔」は蛇の屬〔(たぐひ)〕。「瑠璃」は硝子(ビドロ)。】

[やぶちゃん注:「期〔(き)〕のごとし」期日をしっかりと守るようだ。孵化の時日(期日)を違えず、総て一定の期間で大抵は孵化することを言っている。後で、その期間を出してある。

『「孚」とは「信」なり』「孚」(元は「爪」(=「手」)と「子」で乳児を抱きかかえる形象)の字には「誠」とか「真心」の意がある。

「鳥、抱〔くに、〕恒〔(つね)〕に、爪を以つて、其の卵を反-覆(かへ)す」というようなことはしないと思う。孵化を手伝うの嘴で殻を開けてやるのは見たことがあるが。

『故に「卵」从〔(したが)〕ふ』「卵」という漢字の二つの「ヽ」を除去し、中央の縦画二本を一本に合わせて「爪」という字だと言っているとしか思えないが、良安先生、どこから引っ張って来たのか知らないが、これはとんでもない大嘘である。「卵」は象形文字で、(つくり)と(へん)で分離し、陰と陽、卵子と精子が引き寄せ合って(大修館書店「廣漢和辭典」の解字に事実、そう書いてある)生ずる卵の意だそうである。いや! びっくりしたなぁモウ!!!

「毈(すもり)」とは「巣守」のことで、孵化しないで巣に残っている卵。「すもり児(ご)」とも呼ぶ。無精卵か、発生途中で死んでしまった卵を指す。恰も巣を守るようにずっと

あることから。なお、この古語は、転じて「あとに取り残されること・一人残って番をすること。また、その人」や、果ては近世には、「夫が家に寄りつかず、孤閨(こけい)を守る妻を喩えて言う語ともなった。

「呂氏春秋〔(りよししゆんじう)〕」秦の百科全書的史論書。「呂覧」とも呼ぶ。秦の呂不韋編纂。全二十六巻。成立年は未詳であるが、その大部分は戦国末の史料と想定される。八「覧」・六「論」・十二「紀」から成る雑家の代表的書籍。孔子が編纂したとされる五経の一つ「春秋」に倣って、呂が当時の学者を集めて作成させたとされる。そのため、全体として統一されたものではなく、儒家・道家・法家・兵家・陰陽家などの諸説が混在している。但し、古代史の研究上では貴重な文献である。

「楊子」戦国時代の思想家楊朱(生没年未詳)。自己の欲望を満足させることが自然に従うものであるとする為我説を唱え、儒家・墨家に対抗した。その説は「列子」「荘子」などに断片的にみえる。

「不才」愚かなこと。これはまさに「石女(うまずめ)」じゃあないか!? ああ、古代の鷄でさえ、♀は不当に差別されていたのだ!

「白花蛇(はみ〔へび)〕)」私の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「白花蛇(しろくはしや)」を参照されたいが、訓読(今回、手を加えた)と画像のみを示すと、

   *

Hakkajya

しろくはじや     褰鼻蛇〔(けんびだ)〕

           蘄蛇〔(きだ)〕

白花蛇

 

ペツパアヽ シヱヽ

[やぶちゃん字注:底本では「蘄」の字は(くさかんむり)が(へん)の「單」の上のみにかかる。以下同じ。]

 

「本綱」に、『白花蛇の狀は、龍の頭、虎の口、黑質・白花、脇に二十四個の方勝文有り。腹に念珠の斑、有り。口に四つの長き牙有り。尾の上に一の、佛指甲、有り。長さ一、二分、腸(はらわた)の形〔(かたち)〕、連珠のごとく、多く石楠藤に上に在り。其の花葉を食ひて、人、此れを以て、尋〔ね〕獲〔る〕。先づ、沙土一把を撒く。則ち蟠(わだかま)りて動かず。叉(さすまた)を以つて、之れを取る。繩を用ひて懸け、※1刀(かつふり)を起こして、腹を破り、腸物〔(はらわた)〕を去り、則ち尾〔を〕反〔(そら)し〕、其の腹を洗〔ひ〕滌(すゝ)ぎ、竹を以て支〔へ〕定め、屈曲盤起〔して〕、紮-縛(くゝ)り、炕(あぶ)り乾かす。凡そ、蛇、死して目、皆、閉づ。惟だ蘄州より出づる白花蛇は、乾枯〔(ひから)〕びると雖も、目開きて陥(をちい[やぶちゃん注:ママ。])らず。故に「蘄蛇」を以つて、名を擅〔(もつぱら)〕にす。諸蛇の鼻は下に向かふ〔も〕、獨り、此の鼻は上を向かふ。背、花文、有り〔て〕、此れを以つて、名を得。喜〔(このん)〕で人の足を螫〔(さ)〕す。人の室屋の中に入りて、爛瓜〔(らんくわ)〕の氣(かざ)を作〔(な)〕す。之れに嚮(むか)ふべからず。之れ、須速〔(すみや)か〕に之れを辟-除〔(のぞ)〕く。

[やぶちゃん字注:※1=「蠡」+「刂」。]

   *

である。私は最終的に吻端が上に反り返っている形態から、クサリヘビ科のマムシ亜科ヒャッポダDeinagkistrodon acutus ではないかと踏んだ。その経緯及び語注は上記リンク先を見られたい。しかし、残念ながら、本種は卵生で、卵胎生ではないから、再同定が必要である。

「鱣魚(ふか)」「ふか」は大形のサメ類の俗称。特に関西地方以西で、かく呼称ことが多く、山陰地方では「ワニ」とも言う。生物学的には軟骨魚綱板鰓亜綱Elasmobranchiiに属する魚類の中で、原則として鰓裂が体側面に開くものの総称である(例外としてカスザメ目Squatiniformesの鰓孔は腹側から側面に開いている)。サメ類の中には卵胎生の種も確かにいるが、この言い方はちと無謀。「ジョーズ」で悪名高くなってしまったホオジロザメ軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias)・アオザメ(ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus)・シロワニ(ネズミザメ目オオワニザメ科シロワニ属シロワニ Carcharias taurus:卵食性:胎児が母親の卵巣から産卵される未成熟の卵を食べて成長するタイプ)・ノコギリザメ(板鰓亜綱ノコギリザメ目ノコギリザメ科 Pristiophoridae)などが卵胎生である。

「鸖〔(つる)〕」「鶴」の異体字。

「雞〔(にはとり)〕の卵、山椒を忌む、誤りて一處に貯ふれば、則ち、盡(〔こと〕ごと)く腐爛す」んなことはないと思いますぜ、良安先生?

『「本綱」に云はく、『吉弔(きつてう)の膏〔(あぶら)〕……』これは「巻四十三」の「鱗之一龍類」の「弔」(=「吉弔」)の一節。「集解」の冒頭に、

   *

藏器曰、裴淵「廣州記」云、弔生嶺南、蛇頭龜身、水宿、亦木棲。其膏至輕利、以銅及瓦器盛之浸出。惟雞卵殻盛之不漏。其透物甚于醍醐。摩理毒腫大驗。頌曰、姚和衆「延齡至寶方」云、吉弔脂出福建州、甚難得。須以琉璃瓶盛之、更以樟木盒重貯之、不爾則透氣失去也。

   *

とある。吉弔は広東・広西地方にいるとされた、亀と龍がハイブリッド化したような水棲異獣で、龍蛇の仲間である。如何にも龍っぽい長い首と手足・尾などが、亀にそっくりな甲羅から突き出している。但し、甲羅は亀のそれとは異なり、鱗が何層にも重なっているものだと言う。時に人に捕獲されると、その血・肉・脂肪を練り合わせたものは腫れ物に効く薬となるとされた。私の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「吉弔」を参照されたいが、訓読文の一部と挿絵の画像を示しておく。

   *

Kityou

「本綱」に、『吉弔は嶺南に生まる。龍、毎〔(つね)〕に二卵を生ず。一つは吉弔と爲る。蛇の頭、龜の身。水に宿し、亦、木に〔も〕棲む。』と。

弔脂(ちやうし) 毒腫を摩して大驗あり。又、聾を治す。毎日、半杏仁〔(はんきやうにん)〕ばかりを點じ入るれば、便(すなは)ち、差〔(さい)〕たり[やぶちゃん注:病気が治る。]。其の脂、至つて輕利、銅及び瓦器を以つて之れを盛るに、浸み出づ。惟だ鷄の卵(たまご)の殻(から)に之れを盛れば、漏れず。或いは、須(すべか)らく、瑠璃の瓶を以つて之れを盛り、更に樟(くす)の木の盒(はこ)を以つて重ねて、之れを貯ふべし。爾(しか)らざれば、則ち、氣を透し、失し去るや、醍醐〔(だいご)〕[やぶちゃん注:チーズ。]より甚だし。

   *

「盒(はこ)」香合。

「氣、透き、失去〔(しつきよ)する〕」蒸発して消失してしまう。

「琉璃〔(るり)〕」「硝子(ビドロ)」言わずもがな、、ポルトガル語「vidro」=「ビードロ」=「ガラス」のこと。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)

 

Nue

 

ぬえ    鵺【俗】

 

【音空】

     【和名沼江】

 

倭名抄載唐韻云鵼恠鳥也按俗或用鵺字此鳥晝伏夜

出故然焉

白鵺 山海經云單張之山有鳥狀如雉而文首白翼黃

 足名曰白鵺

△按今世稱鵼者非恠鳥而洛東及處處深山多有之大

 如鳩黃赤色黑彪似鴟晝伏夜出木杪其觜上黒下

 黃鳴則後竅應之聲如曰休戯脚黃赤色也

 近衞院【仁平三年四月】有恠鳥毎夜鳴度殿上人皆謂鵺自是

 天皇有疾醫禱無驗於是命頼政射之【頼政源頼光之末參河守頼綱

 之孫兵庫頭仲正之子善弓馬達和歌之道】頼政立殿上待之時恠鳥鳴黑

 雲之間頼政的其聲發矢射落鵺於雲衢鳥悲鳴落殿

 上頼政之家臣【名猪早太】刺殺之天皇大悅賜御劔及官女

 【其女名菖蒲】

 

 

ぬえ    鵺【俗。】

 

【音、「空」。】

     【和名、「沼江」。】

 

「倭名抄」に「唐韻」を載せて云はく、『鵼は恠鳥〔(けてう)〕なり』〔と〕。按ずるに、俗に或いは「鵺」の字を用ふ。此の鳥、晝、伏し、夜、出づ。故に然り。

白鵺〔(はくや)〕 「山海經」に云はく、『單張の山に、鳥、有り。狀、雉のごとくして、文(あや)ある首、白き翼、黃なる足。名づけて「白鵺」と曰ふ』と。

△按ずるに、今の世に「鵼」と稱する者、恠鳥に非ずして、洛東及び處處の深山に多く之れ有り。大いさ、鳩のごとく、黃赤色。黑き彪(ふ)。鴟(とび)に似て、晝、伏し、夜、出でて、木の杪(こずへ[やぶちゃん注:ママ。])に〔(な)〕く。其の觜の上、黒く、下、黃なり。鳴くときは、則ち、後〔(しりへ)〕の竅〔(あな)〕、之れに應ず。聲、「休戯(きゆうひい[やぶちゃん注:ママ。])」と曰ふがごとし。脚、黃赤色なり。

近衞院【仁平三年[やぶちゃん注:一一五三年。]四月。】恠鳥〔(けてう)〕有り〔て〕、毎夜、鳴きて殿上〔(てんじやう)〕を度〔(わた)〕り、人皆〔(ひとみな)〕、「鵺」と謂ふ。是れより、天皇、疾〔(やまひ)〕有り、醫・禱、驗(しるし)無し。是れに於いて、頼政に命じて之れを射さしむ【頼政は源頼光の末、參河守〔(みかはのかみ)〕頼綱の孫、兵庫頭〔(ひやうごのかみ)〕仲正が子〔なり〕。弓馬を善くして、和歌の道〔にも〕達す。】。頼政、殿上に立ちて、之れを待つ時、恠鳥、黑雲〔(こくうん)〕の間〔(かん)〕に鳴く。頼政、其の聲を的(まと)にして、矢を發〔(はな)〕ち、鵺を雲の衢(ちまた)に射落す。鳥、悲鳴して、殿上に落ちる。頼政の家臣【猪早太(〔ゐ〕の〔(はやた)〕)と名づく。】、之れを刺殺す。天皇、大いに悅び、御劔〔(ぎよけん)〕及び官女を賜ふ【其の女を「菖蒲(あやめ)」と名づく。】。

[やぶちゃん注:ハイブリッドの怪鳥「鵺」については、さんざん、諸記事の注で語った。ここは、良安が紹介する「平家物語」の「巻第四 鵼(ぬえ)」の一節を注で電子化した「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」をリンクさせておく(但し、頼政の退治した化け物は鵼の鳴き声に似ていただけで、実際に鳥ではないキマイラ系の物の怪である。詳しくはリンク先の私の注を見られたい)。夜に鳴く鳥とされ、「古事記」の「上つ巻」で、八千矛神(やちほこのかみ:大国主(おおくにぬし)の別名)が高志(こし)の国(現在の新潟県最西端の糸魚川市附近とされる)の沼河比売(ぬなかわひめ:奴奈川姫)のところに御幸(みゆき)された際の歌の中に、

   *

遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴

   *

孃子(をとめ)の 寢(な)すや板(いたと)を 押そぶらひ 吾(わ)が立たせれば 引こづらひ 吾が立たせれば 靑山に 鵺は鳴きぬ

   *

乙女の 寝ておられる板戸を 押し揺すぶり 私が立っていると 引きあけようと 私が立っていると 青い山に 鵺が鳴いている

   *

といった意味で(自敬表現は外して訳した)、夜鳴く「ぬえ」が登場し、「万葉集」でも、巻二の舒明天皇が讃岐国安益郡(現在の香川県綾歌(あやうた)郡)に行幸された際に従った軍王(いくさのおおきみ)が詠んだとされる長歌(五番)の一節に、

   *

霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝(むらぎも)の 心を痛み 鵺子鳥(ぬえこどり) うらなけ居れば

   *

と出(「わづきも知らず」は未詳であるが、「わけも判らず」の意か。後の部分は「鵺の鳴くように、私が泣いていると」の意。「ぬえこどり」の原文は「奴要子鳥」である)、知られた巻五の山上憶良の「貧窮問答歌」(八九二番)の一節にやはり泣いていることの隠喩で、

   *

父母は 枕の方に 妻子(めこ)どもは足の方に 圍み居(ゐ)て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈(かまど)には 火氣(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巢懸(か)きて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて 鵺鳥(ぬえどり)の 呻吟(のどよ)ひ居(を)るに

   *

と出(「甑」は飯を蒸す道具。「鵺鳥」の原文は「古事記」と同じ「奴延鳥」)、「万葉集」全体で「鵺」と同定出来るものが登場するのは六首ある。この鳴き声の鳥は、概ね、本邦では、古来、鳩ほどの大きさで、黄赤色をした鳥とされていたようだが、現在では、

ズズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma

に同定するのが定説である。ウィキの「トラツグミ」によれば、『学名の内種名のdaumaはインドの部族名に因んでつけられたもの』という。『シベリア東南部から中国東北部、朝鮮半島などで繁殖し、冬季はインド東部からインドシナ半島、フィリピンなどに渡りをおこない越冬する。オーストラリア、ニュージーランドにも分布している』。『日本では留鳥または漂鳥として周年生息し、本州、四国、九州の低山から亜高山帯で繁殖する。北海道には、夏鳥として渡来する』。『体長は』三十センチメートル『ほどでヒヨドリ並みの大きさ。頭部から腰までや翼などの体表は、黄褐色で黒い鱗状の斑が密にある。体の下面は白っぽい。嘴は黒く、脚は肉色である。雌雄同色である』。『主に丘陵地や低山の広葉樹林に好んで生息するが、林の多い公園などでも観察されることがある。積雪の多い地方にいるものは、冬は暖地へ移動する』。『食性は雑食。雑木林などの地面で、積もる落ち葉などをかき分けながら歩き、土中のミミズや昆虫類などを捕食することが多い。冬季には、木の実も食べる』。『繁殖形態は卵生。木の枝の上に、コケ類や枯れ枝で椀状の巣を作り、4-7月に3-5卵を産む』。『さえずりは「ヒィー、ヒィー」「ヒョー、ヒョー」。地鳴きは「ガッ」。主に夜間に鳴くが、雨天や曇っている時には日中でも鳴いていることがある』(You Tube Shoh MafuneMafuo Production氏の「トラツグミの鳴き声」(音声のみ)をリンクさせておく。鳥体はグーグル画像検索「トラツグミ」を見られたい。山登りをして、テントで寝ている最中に、この鳴き声を聴くと、しかし、確かにキビ悪いことは事実である。)。『森の中で夜中に細い声で鳴くため鵺(ぬえ)または鵺鳥(ぬえどり)とも呼ばれ、気味悪がられることがあった。「鵺鳥の」は「うらなけ」「片恋づま」「のどよふ」という悲しげな言葉の枕詞となっている。トラツグミの声で鳴くとされた架空の動物は』、『その名を奪って』、『鵺と呼ばれ』、『今ではそちらの方が有名となってしまった』(ちょっと可哀そうだね。鳥自身は可愛いんだけどなぁ)。本邦には、

本亜種トラツグミ Zoothera dauma aurea

の他に、

オオトラツグミ Zoothera dauma major (奄美大島に棲息。天然記念物で絶滅危惧類(VU)及び国内希少野生動植物種(「種の保存法」)に指定されている。尾羽の枚数、囀りが異なるため、本亜種とは別種とする説もある)

コトラツグミ Zoothera dauma horsfieldi(西表島の他、台湾にかけて棲息。生態は殆んど知られておらず、生きている個体を見た者はいないとも言われている。但し、死体標本は国立科学博物館筑波研究施設に保管されている)

がいる。良安は「鵼」は実在しており、京都の東の山林や日本各地の深山に多くいる、と言っているのだから、トラツグミと考えてよい

 

『「倭名抄」に「唐韻」を載せて云はく、『鵼は恠鳥〔(けてう)〕なり』〔と〕』巻十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一に、

   *

 「唐韻」云、『鵼』【音「空」。「漢語抄」云『沼江』。】。恠鳥也。

   *

「此の鳥、晝、伏し、夜、出づ。故に然り」昼間は隠れていて、夜になると、出現する。だからかく「鵺」という字を用いる、の意。

「白鵺〔(はくや)〕」「山海経」の「北山経」に、

   *

又北百八十里、曰單張之山、其上無草木。有獸焉、其狀如豹而長尾、人首而牛耳、一目、名曰諸犍、善吒、行則衘其尾、居則蟠其尾。有鳥焉、其狀如雉、而文首、白翼、黃足、名曰白鵺、食之已嗌痛、可以已。櫟水出焉、而南流注于杠水。

   *

とあり、中国の「鵺」はキジに似た実在する(した)鳥を指すようだ。同じものとして我々が使っている「鵼」は、中国では、しかし、あくまで怪鳥の意である。さすれば、「鵺」はトラツグミ辺りがモデルで(遠目で見ると、雌のキジの小さな感じと言えなくもない)、「鵼」は幻想上の怪鳥とすべきであろうか。

「杪」この場合は「梢(こずえ)」に同じい。

〔(な)〕く」既出。夜に鳴く、の意。

「後〔(しりへ)〕の竅〔(あな)〕」尻の穴。鳥の総排泄腔。

「之れに應ず」鳴くに伴って、その尻の穴を開いたり、窄(すぼ)めたりする、ということ。

「休戯(きゆうひい[やぶちゃん注:ママ。])」「戯」を「ひい」と読むのは初見。現代中国語では「」(シィー)でかなり近いから、中国音か?

「醫・禱」医術や祈祷。

「頼政」源頼政(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)。「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の私の「源三位賴政」の注を参照。

「源頼光」(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)は平安中期の武将。満仲の長男。摂関家藤原氏と結び、左馬権頭(さまのごんのかみ)となった。弓術にすぐれ、大江山の酒呑童子退治の伝説で知られる。

「參河守〔(みかはのかみ)〕頼綱」(万寿元(一〇二四)年~永長二(一〇九七)年) 平安中・後期の武士で官僚。源頼光の孫。下総守・三河守。承暦(じょうりゃく)三()年の比叡山僧徒の強訴を鎮圧したことで知られる。、曽祖父満仲(多田満仲)以来の由緒ある名乗りである「多田」を家号とし、多田頼綱とも名乗った。歌人としても知られ、「六条斎院歌合」などに参加しており、「後拾遺和歌集」などの勅撰集に採録されている。

「兵庫頭〔(ひやうごのかみ)〕仲正」これは源仲政(生没年未詳)の誤り。平安後期の武将で歌人。馬場仲政とも称した。源頼綱の次男で、官位は従四位下・下野守。

「其の聲を的(まと)にして」その声を頼りに。その声のするところを目がけて。

「雲の衢(ちまた)」この場合の「ちまた」は「物事の境目・分かれ目」の意で、雲の切れているところの意。

「猪早太(〔ゐ〕の〔(はやた)〕)」ウィキの「猪早太」を引く。『生没年不詳』の平安末期の武将。「井早太」「猪隼太」「猪野早太」『などとも表記する。源頼政に郎党として仕えた。遠江国猪鼻湖』(いのはなこ:浜名湖の支湖。大崎半島で浜名湖と仕切られ、幅百二十メートルの瀬戸水道で浜名湖に通じている。ここ(グーグル・マップ・データ))『西岸』『(現在の静岡県浜松市北区三ヶ日町)、または近江国猪鼻』『(現在の滋賀県甲賀市土山町猪鼻』(こうかしいつちやまちょういのはな:ここ(グーグル・マップ・データ))『)を領したことから猪鼻を苗字としたという。また、多田源氏で』、『父は太田伊豆八郎広政(廣政)といい、名は高直であったともされる』、『(後年の浮世絵などでは名を広直(廣直)あるいは忠澄とするものも見られる。)』「播磨鑑」(江戸中期の地誌。著者は播磨国印南郡平津村(現在の兵庫県加古川市米田町平津)の医師で暦算家でもあった平野庸脩(ようしゅう)であるが、完成時期は不明)では、『頼政の知行地であった播磨国野村の』生れとする。「平家物語」等に見える、この『頼政の鵺(鵼)退治の際にただ一人随行し、頼政が射落とした鵺にとどめを刺した、という伝説で著名』で、「源平盛衰記」によれば、この時、『早太が用いた刀は、頼政が彼に預けた短刀「骨食」』(ほねくい/ほねかみ)『である。また、とどめを刺すに当たっては「喉を一突きにした」、「九回刺した」など異同がある』。『なお、江戸時代後期の儒者・志賀理斎(忍)は著書』「理斎随筆」に『おいて、鵺退治伝説は頼政がまじないのため』、『四方に鏑矢を放ったのが実態である(いわゆる奉射神事)とした上で、猪早太の名と鵺のいわゆる』「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎(異同もある)」『という奇怪な姿とを関連付け、それぞれ「頭が猿=未申(南西)」「尾が蛇=辰巳(南東)」「手足が虎=丑寅(北東)」「猪早太=戌亥(北西)」を意味するとし、方角を埋め合わせるため彼の名を入れた、という推察を行っている』(下線太字は私が附した)。『事跡については上記の鵺退治伝説のほかは特に記載されたものはなく、実在を疑う見方もある』。なお、治承四(一一八〇)年の以仁王の挙兵とその敗退を以って、『頼政が自害した後の猪早太の動向については、以下のように全国各地に伝承がある』。『愛媛県上浮穴郡久万高原町中津では、早太が頼政の位牌を奉じて同地に潜伏し、大寂寺に安置したといわれ、早太が植えたとされる大杉、早太のものとされる墓も残る』。『広島県東広島市西条町御薗宇では、早太が頼政の側室・菖蒲前およびその子とともにこの地に逃れ、「勝谷右京」と名を改め、菖蒲前が頼政供養のため開基した観現寺を守り』、建保四(一二一六)年に八十四歳で『没したと伝わり、早太(隼太)の墓とされる宝匡印塔が同寺に残る(市重要文化財となっている)』。『三重県名張市箕面中村の伝承においては、同地にて平家の追手に討たれ、村人により埋葬されたとされる』。『岐阜県関市春近古市場南屋敷の県道高富関線沿いにも猪早太の墓とされる五輪塔が残る。伝承では頼政の自害の後、その首級を背負って』、『同市千疋植野の蓮華寺に葬った後、この地に居住したとされる』。『兵庫県西脇市野村町のJR加古川線の西脇市駅構内の隣地にも「猪早太供養碑」がある。猪早太の末裔によって建てられ、現在もその一族により供養が続けられている』。『このほか、曲亭馬琴も自らの先祖として猪早太に強い関心を抱いていた』とある。馬琴の先祖とは、面白い!

「菖蒲(あやめ)」ウィキの「香道」の夏に行われる組香の一つである「菖蒲香(あやめこう)」についての由来によれば、『鳥羽院の女房に菖蒲前という美人がおり、頼政は一目ぼれをしてしまう。頼政は菖蒲前に手紙をしばしば送るが、返事はもらえなかった。そうこうしているうちに三年が経過し、このことが鳥羽院に知られてしまう。鳥羽院は菖蒲前に事情を聞くが、顔を赤らめるだけではっきりとした返事は得られない。そこで、頼政を召し、菖蒲前が大変美しいというだけで慕っているのではないか、本当に思いを寄せているのかを試したいと発願する』。『そこで、菖蒲前と年恰好、容貌がよく似ている女二人に同じ着物を着せ、頼政に菖蒲前を見分けて二人で退出するように申し付けた。頼政は、どうして院の御寵愛の女を申し出ることができようか、ちょっと顔を見ただけなのに見分ける自信がない。もし間違えれば、おかしなことになり、当座の恥どころか末代まで笑いものになってしまうと困って躊躇していると、院から再び仰せがあったので、「五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引きぞわづらふ」という歌を院に奉る』。『院はこれに感心し、菖蒲前を頼政に引き渡』した、という別ヴァージョンの話が載る。菖蒲御前については、個人ブログ「安芸・石見地方神楽紀行」の「源頼政側室 菖蒲御前(あやめの前)東広島西条・伝説地紀行【前篇】」及び「後篇」が怖ろしく詳細に書かれてある。必見!

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 命命鳥(めいめいちやう) (仏典に登場する双頭の幻鳥)

 

Meimeityou

 

めいめいちやう[やぶちゃん注:ママ。]

        生生鳥

        共命鳥

 

命命鳥

 

雜寶藏經云昔雪山中有共命鳥一身二頭一頭常食美

果欲使身得安穩一頭便生嫉妬之心而作是言彼常云

何食好美果我不曾得卽取毒果食之便二頭俱死蓋比

之釋迦與婆涅槃經云如命命鳥見雄者舞便得身

△按經説多譬諭而形狀未詳然命命鳥普所稱故記之

 

 

めいめいちやう 生生鳥〔(しやうしやうてう)〕

        共命鳥〔(ぐみやうてう)〕

 

命命鳥

 

「雜寶藏經」に云はく、『昔(〔むか〕し)、雪山の中に共命鳥、有り。一身・二頭にして、一頭は常に美果を食ひ、身をして安穩を得んことを欲し、一頭は、便〔(すなは)〕ち、嫉妬(しつと)の心を生じて、是れ、言〔(げん)〕を作(な)す。「彼(〔か〕れ)[やぶちゃん注:二人称代名詞。お前。]、常に云ふ、『何んか[やぶちゃん注:ママ。読み不詳。「なんか」でいいのか?]、好〔(よ)〕き美果を食〔はん』と〕。我〔(われ)〕、曾つて得ず」と。卽ち、毒果を取り、之れを食はしむ。便〔(すなは)〕ち、二頭、俱〔(とも)〕に死す』〔と〕。蓋し、之れ、釋迦と提婆〔(でいば)〕とに比〔(ひ)〕ゆ。「涅槃經」に云はく、『命命鳥、雄の者の舞ふを見て、便ち、身(はら)むを得るがごとし』と。

△按ずるに、經説、多くは譬諭〔(ひゆ)〕にして、形狀、未だ詳らかならず。然〔(しか)〕るに、命命鳥は、普〔(あまね)〕く稱する所なる故に、之〔(ここ)〕に記す。

[やぶちゃん注:まず、鳥名の読みから躓いた。辞書を引くと、「命命鳥」は「めいめいてう」もあるが、見よ見出しで、「みょうみょうちょう」(歴史的仮名遣「みやうみやうてう」)とする。「共命鳥」は振った通りで現代仮名遣では「ぐみょうちょう」だ。「大辞泉」を引くと、梵語「jīvam-jīvaka」の漢訳語で、元は「耆波耆波」と音写したとある(音なら「キハキハ」か「シハシハ」(後者か)。現代中国音では「qí bō」(チィー・ポォー))。総てが仏典由来であるから、だったら、と思って「生生鳥」には敢えて「しやうしやうてう」と振った。確かに、「命命鳥」も「みょうみょうちょう」であろうなぁ、とは思った。恐らく、真正面からこの鳥に取り組んで書いてあるのは、浄土真宗本願寺派総合研究所公式サイト例話の紹介/)共命の鳥だろう

   《引用開始》[やぶちゃん注:行空けは詰め、段落の頭は一字下げた。]

 提婆達多は釈尊から仏法を聞きながら、釈尊に対して怨みを抱いていました。このことに疑問を持った弟子達は、「素晴らしい利益を得る仏法を聞きながら、何故、提婆達多は釈尊に怨みを抱くのですか?」と釈尊に尋ねられます。この質問に対し、釈尊は「このことは今に始まった事ではない」といわれ、お話になられたのが以下の共命鳥の話です。

 昔、雪山の麓に身体は一つ、頭が二つの二頭鳥がいました。一頭の名前をカルダ、もう一頭の名前をウバカルダといい、一頭が目覚めている時、もう一頭は眠っています。ある時、カルダは眠っているウバカルダに黙って、たまたまあった摩頭迦という果樹の花を食べます。摩頭迦の花を食べることは、二頭ともに利益があると思ったからです。しかし、ウバカルダは目を覚ました後、黙って食べられた事に対し腹を立てて憎悪の思いを起すのでした。

 またある時、二頭が飛び回っていると、今度は毒花に遭遇します。憎悪の思いを抱いているウバカルダは思います。「この毒花を食べて、二頭ともに死んでしまおう」と。そしてウバカルダはカルダを眠らせ、自ら毒花を食べてしまいます。眠りから覚めたカルダは瀕死の状態のなか、ウバカルダにいいます。「昔、お互いに利益があると思って摩頭迦の花を食べたことに対し、あなたはかえって憎悪の思いを起しました。まことに瞋恚や愚癡というものに利益はありません。この様な愚かな心は、自らを傷つけ、他人をも傷つけてしまうからです」

 そして釈尊は弟子達に、続けて次の様にもいわれました。

 この摩頭迦の美花を食べたカルダが私であり、毒花を食べたウバカルダが提婆達多です。私があの時、利益をなしたのにも関らず、提婆達多はかえって憎悪の思いを起したのです。そして今もなお、提婆達多は私が仏法の利益を教えても、かえって私に怨みの心を抱いているのです。

    《引用終了》

以下、「補足」の項では、この例話が「仏本行集経」や良安が引く「雑宝蔵経」(全十巻。北魏(三八六年~五三四年)の吉迦夜(きつかや)と曇曜(どんよう)との共訳。多くの因縁物語や譬喩物語を収めた経で、釈迦に関する話の他、カニシカ王(インドのクシャーナ朝最盛期の王。その即位年代については諸説あるが、二世紀前半とする説が有力。ガンガー川中流域からデカン高原・中央アジアの東トルキスタンに及ぶ領域を支配した。仏教を保護し、第四回の仏典結集を行ったと伝える)やミリンダ王(メナンドロス(Menandros)王紀元前二世紀後半頃にアフガニスタン(カブール川流域)・インド(パンジャブ地方。ジャムナ川流域)を支配したギリシア人の王。彼の名を刻んだ貨幣はインドを支配したギリシア人諸王の中で最も多量かつ広範囲に発見されており、かなりの勢力のあったことが知られ、仏典「ミリンダ王の問い」には仏教徒となったことが記されてある)の物語もあり、「日本霊異記」「今昔物語集」などに影響を与えている)に説かれているとし、『「共命鳥」は「命命鳥」ともいい、美声を発し、人面禽形で、身に両頭をもつといわれる鳥です』(太字下線は私が附した。良安のそれとは異なる)。『インド北部の山地に住む雉子の一種ともいわれています』(幻想鳥の解説なのか、実在モデル種の指摘か不明。文脈からは前者)。また、「阿弥陀経」にあっては、『浄土で仏法を説く六鳥の一つとして、「共命鳥」の名が挙げられています』ともある。例話に出る『「摩頭迦」(Madhuka)は』、「仏本行集経」『では「美華」と訳されていますが、「美果」・「末度迦」とも訳されるアカテツ科の高木です』。「倶舍論」『には「末度迦の種より末度迦の果を生ず、其の味、極美なり」』『と説明されています』とあり、良安の出す提婆(「だいば」とも読む)、「提婆達多(でいばだった/だいばだった)」については、『釈尊の従弟で阿難の兄といわれています。提婆達多は釈尊の弟子となりましたが、後に背いて』、『五百人の弟子を率いて独立を企てました。また、阿闍世をそそのかして父王を死に至らせ、ついで釈尊をも害して教権を握ろうとしましたが』、『失敗し、生きながら地獄に堕ちたと伝えられています』とある。一方、同じ本願寺派の奈良市上三条町にある淨教寺法話「浄土の六鳥(ろくちょう)・共命鳥(ぐみょうちょう)共命ぐみょうの鳥とりのはなしでは、

   《引用開始》[やぶちゃん注:段落の頭は一字下げた。]

 また、この一つの身体に二つの頭という共命(ぐみょう)の鳥(とり)に関しては、一説によると、極楽浄土に生まれる前、すなわち前世では大変、仲が悪かったと言われています。

 片方の頭が「右へ行きたい」と言えば、もう一方の頭は、「いや私は左へいきたい」と言い、片方の頭が「もっと遊びたい」と言えば、もう一方の頭は「いや、もう遊ぶのは飽きた、休みたい」というように、事あるごとに意見が衝突していました。

 身体が別々であれば、さして問題にならないのですが、身体が一つですから、当然そこで大喧嘩が起こります。

 こうして毎日毎日、言い争いをしていたのですが、ある日、とうとうその喧嘩が高じて、片方の頭が相手の頭に毒の実を食べさせました。

 ところが身体が一つですから、両方ともに命を落としてしまう羽目になったのです。

 その命を落とす寸前に、その毒の実を食べさせた頭が、大切なことに気付き慚愧しました。

「これまで私はわがままを言いながらも、何とか元気で来られたのは、あなたがいてくれたからだった。」「この私の命はあなたの命の上に出来上がっていたのだ。」ということに気付いたのです。これを、「縁起の道理」と言います。このことによって極楽浄土に生まれたということです。

   《引用終了》

と、ハッピー・エンドとなっている。

 

「涅槃經」「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」のこと。原典は失われ、北涼(五胡十六国時代に三九七年から四三九年まで甘粛省に存在した国)の曇無讖(どんむせん)訳の四十巻本(北本)と、これを慧観(えかん)・慧厳が校合修正した三十六巻本(南本)とがある。釈迦の入滅前に説いた教説、「一切衆生には総て仏性が備わり、その仏性を持つものは成仏出来る」と説く。

「普〔(あまね)〕く稱する所なる故に」仏典に記され、説話にも語られて広く名前の知られている鳥であるので。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 風鳥(ふうちやう) (フウチョウ)

 

Huutyou

 

ふうちやう

 

風鳥

 

△近來來番舶風鳥狀類烏鳳【三光鳥】而頭黃頰頷黒背翅

 及腹紫黒色脚如鼠而尾上紫下黃似亂芒穗毎不棲

 林木居巖洞而不能飛有風則乘風飛舞無食餌向風

 開口吸氣此亦未見活者巧手以美羽造成且譎

 其行勢者乎

 

 

ふうちやう

 

風鳥

 

△近來(〔ちか〕ごろ)、番〔→蕃〕舶〔(ばんはく)〕に〔て〕來たる。風鳥、狀〔(かた)〕ち、烏鳳〔(うほう)〕に類す【三光鳥。】而〔して〕、頭、黃。頰・頷〔(あご)〕、黒。背・翅及び腹、紫黒色。脚は鼠のごとくにして、尾は、上、紫、下、黃にして、亂れたる芒(すゝき)の穗(ほ)に似たり。毎〔(つね)〕に林木に棲まず、巖洞〔(がんどう)〕に居りて、飛ぶこと、能はず。風有れば、則ち、風に乘り、飛び舞ふ。食餌〔すること〕無し。風に向ひて口を開きて、氣を吸ふ云云〔(うんぬん)〕。此れも亦、未だ活きたる者を見ず。巧手〔(こうしゆ)〕、美しき羽を以つて、造成して、且(そのう)へ、其の行-勢(ありさま)を譎(いつは)りく者か。

[やぶちゃん注: 「比翼鳥」の注で出した、ニューギニア島を中心とし、周辺の島々とオーストラリア東部に約四十種が分布する、

スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ(風鳥)科 Paradisaeidae のフウチョウ類

(前に述べた通り、「ゴクラクチョウ」の異名総称があるが、これは標準和名ではない)の総称である。良安は舶来の剥製品を見、その羽のあまりの煌びやかさから、前の比翼鳥同様、完全な人造捏造物と推定しているが、これに関しては実在する鳥である。小学館「日本大百科全書」の「ふうちょう/風鳥/bird-of-paradise」によれば、『ゴクラクチョウ(極楽鳥)の名で有名なこの類は、羽色や飾り羽と繁殖習性の点で非常に多様であるが、そのほかの点では互いにあまり違いがない。すべて森林の樹上性で、一部の種の繁殖に関する集まり以外は』、『単独か』、『つがいで生活し、小果実を主食とするが、昆虫やアマガエルやトカゲも食べる雑食性の鳥である。体の大きさはスズメ大からカケス大であるが、尾羽が非常に長くて全長』一『メートルに達する種もある。なお、ゴクラクチョウの語は、狭義にオオフウチョウ類だけをさす場合や、ニワシドリ類を含めて広義に使われたりすることもある』。『この類は全長』十三~一メートル十五センチメートルで、約四十種のうち、凡そ五分の一は、『全身黒色で』、『飾り羽などをもたず、雌雄同色で一雌一雄で繁殖し、雄も育雛(いくすう)をする。これらの点で』は、『ほかの多くの鳥と異ならない。しかし、残る』五分の四は『雌雄異色で、雌は』地味『な羽色であるが、雄はそれぞれ独特な飾り羽を頭部、頸』『部、胸側部などにもち、また長い尾(ときに中央尾羽のみ)や肉垂れをもつものもあり、大半の種では雌に比べて著しくはでな羽色をしている。このなかでは』フウチョウ科フウチョウ属コフウチョウ Paradisaea minor (小風鳥。羽衣が海老茶色を呈し、黄色い冠羽、背面は褐色がかった黄色。の喉はエメラルド・グリーンで、脇には黄色い飾り羽を有し、尾羽は針金のように伸びている。の頭部は暗褐色で、下面は白っぽい色をしている。英名 Lesser Bird of Paradiseグーグル画像検索「現英名 Lesser Bird of Paradiseをリンクさせておく。私が幼少期に短期間住んでいた親戚の家にはこの鳥の大きな剥製があった)『などフウチョウ属の鳥がもっとも華麗でよく知られている。これらの種の雄は、現在知られている限りでは、繁殖期になるとそれぞれ一定のよく目だつ枝を占有したり、こずえの葉をむしって裸の枝をつくったり、地表の落ち葉やコケを清掃して径』二~三『メートルの地面を裸出させたりして』、『踊り場をつくり、そこで長期間にわたり』、『大声で鳴く。そしてそこに雌がやってくると』、『さまざまなポーズで踊り、ディスプレーをする。雌はこれらの踊り場を次々に訪問して気に入った相手を探し、また雄は次々に訪れる雌を相手にするので、雌雄関係は乱婚的である。雌は交尾後に単独で巣をつくって雛』『を育て、雄はそれをいっさい』、『手助けしない。雄の踊り場は普通は互いに声の聞こえる程度に離れているが、かなり近くに集まっている種もあり、オオフウチョウ』フウチョウ属オオフウチョウ Paradisaea apoda(英名Greater Bird-of-paradise:本邦では本種を狭義に「極楽鳥」と呼ぶことがあるようであるグーグル画像検索「Greater Bird-of-paradiseをリンクさせておく)『では』一『本の大きな木のこずえに十数羽の雄の踊り場が集まっていることがある』。十六世紀の『ヨーロッパ社会に』、『初めてオオフウチョウ』『がもたらされたとき、それは交易用に足をとった標本であった。そこで、この鳥は』、『生涯』、『枝に止まることなく』、『風にのって飛んでいるという、聖書の「天国の鳥」であると考えられた。これが欧名の由来であり、風鳥、極楽鳥という和名はこの欧名に由来する。フウチョウ類の美しい飾り羽は、その後欧米人に装飾として珍重され、欧米への輸出は』一九〇〇『年前後の最盛期には年間』八『万羽以上に上った。しかし』一九一〇『年代以降』、『各国が次々に輸入を禁止し、現在では産地からの輸出と原住民以外の狩猟も禁止されている』とある。なお、ウィキの「フウウチョウ科」の「系統と分類」によれば、『カラス上科の中でフウチョウ科など』七『科が単系統を形成するが、それらの系統関係は不確実で』、『フウチョウ科・モズ科 Laniidae・オオツチスドリ科 Corcoracidae が単系統を』成すとする説、『もしくはフウチョウ科とカササギヒタキ科 Monarchidae が近縁である(ただしモズ科はサンプリングされていない)』『とする説がある』とあり、『フウチョウ科は』五『つの系統に別れ、基底から順に』Clade AからEまでの仮称がなされてある(「クレード」は「分岐群」の意)。詳しい分岐と属と種はリンク先を見られたい。各種フウチョウ生態動画サイト「WIRED華麗なる、極楽鳥たちの世界

 

「近來(ちかごろ)、蕃舶にて來たる」既注であるが、再掲しておくと、近年、南蛮貿易に於ける異国からの貿易船が、本邦に多数(雌雄をかく良安が正確に観察出来るのはかなりの量のそれが流入したことを物語っている)の「風鳥」の剥製を齎(もたら)している、というのである。

「烏鳳(うほう)に類す【三光鳥。】」ここは鳥体から、現行がその正式和名である、スズメ目カササギヒタキ科サンコウチョウ属サンコウチョウ Terpsiphone atrocaudata と採ってよい(グーグル画像検索「Terpsiphone atrocaudata)。以前に述べたが、本邦ではその鳴き声を「月日星(つきひほし)」とオノマトペイアすることから、スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata をも「三光鳥」と呼ぶことが普及してしまっているが、逆立ちしても良安がイカルのことを言っているとは思われない。イカルを知らぬ方は、グーグル画像検索「Eophona personataを、どうぞ。

「亂れたる芒(すゝき)の穗(ほ)に似たり」この表現、言い得て妙と思う。

「毎〔(つね)〕に林木に棲まず、巖洞〔(がんどう)〕に居りて、飛ぶこと、能はず」風に合わせた、まさにデッチアゲの風説である。

「食餌〔すること〕無し。風に向ひて口を開きて、氣を吸ふ」同前。昆虫食をするが、思うに、それほど上手く飛ぶようには思われないから、ヨタカのように飛翔して口を開けて昆虫を捕食するようには思われない。流石に良安先生も、「其の行-勢(ありさま)」(生態)「を譎(いつは)り」(「偽る」に同じ)「く者か」と眉に唾しておられる。鳥体捏造は外れですが、この後半部の指摘は確かに正鵠を射ておられます! 先生!]

2019/02/03

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 比翼鳥(ひよくのとり) (雌雄で一体の幻鳥・捏造剥製はフウチョウを使用)

 

Hiyokunotori

 

ひよくのとり

 

比翼鳥

 

ヒイ イツ

 

三才圖會云南方有比翼鳥不比不飛謂之鶼鶼似鳬而

青赤色一目一翼相得乃飛王者有孝德而幽遠則至

拾遺記云比翼鳥多力狀如鵲啣南海之丹沉巢崑岑之

玄木遇聖則來集以表周公輔聖之祥異也

△按比翼鳥本出爾雅而宋書亦謂王者德高至其

 如是則亞于鸞鳳者矣廣博物志云有鳥狀如鳬而一

 翼一目相得乃飛名曰蠻蠻見則天下大水如此則非

 瑞鳥而共希有之物也近來比翼鳥來於番舶有雌雄

 其雄頭淡赤腹背深紅翅蒼帶赤尾長一尺餘如絲其

 瑞卷曲作蕨之茁形觜黃脚蒼爪黃雌頸紅胸黑背腹

 灰白尾短而卷曲羽毛美麗可愛然未見生者疑此造

 成者矣

 

 

ひよくのとり

 

比翼鳥

 

ヒイ イツ

 

「三才圖會」に云はく、『南方、比翼の鳥、有り。比〔(ひ〕〕せずば[やぶちゃん注:並んでいないと。]、飛ばず。之れを「鶼鶼〔(けんけん)〕」と謂ふ。鳬〔(かも)〕に似て、青赤色。一目・一翼。相ひ得て、乃〔(すなは)〕ち、飛ぶ。王〔たる〕者、孝德有りて幽遠なれば、則ち、至る』〔と〕。「拾遺記」に云はく、『比翼の鳥、多力〔なり〕。狀、鵲〔(かささぎ)〕のごとく、南海の丹沉を啣〔(くは)〕へて、崑岑の玄木〔(げんぼく)〕に巢(すく)ふ。聖に遇へば、則ち、來〔たり〕集〔(つど)ひ〕、以つて、周公輔聖〔(しゆうこうほせい)〕の祥異〔(しやうい)〕を表はす』〔と〕。

△按ずるに、比翼の鳥、本〔(もと)は〕「爾雅」に出づ。而〔して〕「宋書〔(そうじよ)〕」に亦、謂ふ、『王〔たる〕者、德、高きときは至る』と。其れ、是くのごとく、則ち、鸞・鳳に亞(つ)ぐ者なり。「廣博物志」に云はく、『鳥、有り、狀、鳬のごとくにして、一翼・一目。相ひ得て、乃ち、飛ぶ。名づけて「蠻蠻〔(ばんばん)〕」と曰ふ。見るときは、則ち、天下、大水〔す〕』といへり。此くのごとくなれば、則ち、瑞鳥に非らず。而〔(しか)れど〕も、共に希有の物なり。近來、比翼の鳥、番〔→蕃〕舶〔(ばんはく)〕[やぶちゃん注:南蛮の貿易船。]より來たる。雌雄有り。其の雄、頭、淡赤。腹・背、深紅。翅、蒼くして赤を帶ぶ。尾の長さ、一尺餘り、絲のごとし。其の瑞(はし)、卷〔き〕曲〔りて〕、蕨〔(わらび)〕の茁(もへいづ[やぶちゃん注:ママ。])る形を作〔(な)〕し、觜、黃。脚、蒼く、爪、黃なり。雌は、頸、紅く、胸、黑く、背・腹、灰白。尾、短くして、卷曲〔(くわんきよく)〕なり。羽毛、美麗〔にして〕愛すべし。然〔(しか)れど〕も、未だ生ける者を見ず。疑ふらくは此れ、造成す〔る〕者(もの)か。

[やぶちゃん注:ああ、遂に出た! 大好きな白居易の「長恨歌」のコーダに出る、比翼の鳥だ!

   *

臨別慇懃重寄詞

詞中有誓兩心知

七月七日長生殿

夜半無人私語時

在天願作比翼鳥

在地願爲連理枝

天長地久有時盡

此恨綿綿無

   *

別れに臨みて 慇懃(いんぎん)に重ねて 詞(ことば)を寄す

詞中(しちゆう) 誓ひ有り 兩心のみ 知る

七月七日(しちぐわつなぬか) 長生殿

夜半 人無く 私語(しご)の時

「天に在りては 願はくは比翼の鳥と作(な)り

 地に在りては 願はくは連理(れんり)の枝(えだ)と爲(な)らん」と

天長く 地久しきも 時有りて 盡(つ)く

此の恨みは 綿綿として ゆるの期(とき) 無からん

   *

別れぎわに、懇(ねんご)ろに歌をことづける。 そこには二人だけが知っている秘密の誓いが……。 「七月七日(しちがつなぬか)、長生殿、

 夜更け、二人きりの語らいの時、

 『天にあっては願わくは比翼(ひよく)の鳥となり、

  地にあっては願わくは連理(れんり)の枝(えだ)となりましょう。』と。

――天地は永く続くとはいえ、いつかは、必ず、消え去ってしまう――

――しかし――この恨みは――永遠に――尽きることはない――

   *

高校時代を思い出される方もおられようから、「長恨歌」原詩全文(新たに正字で起したもの)と全オリジナル訓読及びオリジナル訳(私の二十代の終りの漢文授業用の拙訳)は、先程、午前中、この注のためにこちらにアップしておいた

 さて、ここに語られている「比翼鳥」は無論、架空の妖鳥である。しかし、辞書を引くと判るが、この「ヒヨクドリ」を標準和名とする種は実在する。

スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ(風鳥)科 Paradisaeidae の内、「Clade A」(「クレード」は「分岐群」)を除く「core birdsofparadise」の中の四つのクレードの内の「Clade E に属するCicinnurus 属ヒヨクドリCicinnurus regius(英名:King Birdofparadise

である。ニューギニア産で、体長は十六センチメートルほどと小型、
は背面と喉が光沢のある赤紅色を呈し、腹部は白、胸に緑の横帯があり、胸には扇形の飾り羽があり、二本の針金状の長い尾を持つ美しい鳥で、英語では「living gem」(「生きている宝石」)とまで呼ばれる。樹洞に営巣する。亜種六種がいる。英文ウィキの「King bird-of-paradise画像をリンクさせておくフウチョウ(風鳥)類は日本ではゴクラクチョウ(極楽鳥)の別名総称でとみに知られるが、「ゴクラクチョウ」は正式な和名ではないので注意されたい。なお、次項が、その「風鳥」である。

 

『「三才圖會」に云はく……ここ(左頁に図)と、ここ(右頁に解説)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像。

   *

國、有比翼鳥。「爾雅」云、『南方有比翼鳥。不比不飛。謂之「鶼鶼」』。注云、『似鳬青赤色。一目一翼。相得乃飛。王者有孝德于幽遠則至』。

   *

とある。「結國」は「けっきょうこく」(現代仮名遣)で「結匈(胸)」とも書く。結人は古代中国に於いて南方にある国に棲んでいたとされる異人種。ウィキの「結匈人」によれば、「山海経」の「海外南経」に、『結匈国は羽民国の西北にあり、結匈人は人間の姿をしているが胸が極端におおきく突き出しているという』とし、清の李汝珍作の白話体の長編伝奇小説「鏡花縁」(一八一八年に初回発表で全百回。一八二六年頃に書き上げられたと推定される)で、『結匈国が旅の途中に舞台として登場する。結匈人たちの胸がとても大きいのは』、人々『が過度な大食いであり、食物が消化されないうちに次々と食べ続けているからであると設定されている』とある。表示字が不審だという輩は、中文ウィキの「結匈」にある、方輿彙編「古今圖書集成」のこの挿絵を見られよ。原画キャプションがちゃんと「結國」となってるよ。

「鳬〔(かも)〕」カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas を総称するもの。

「幽遠」人柄に使っているので、「世俗の汚れた部分からは遠く離れて、自らをしっかりと保ち、物事に対する思慮の核心が奥深く、俗人には到底、知り尽くせないさま」を指す。

「拾遺記」後秦(こうしん:三八四年~四一七年)の王嘉(おうか)の撰になる、中国の伝説を集めた志怪書。全十巻。神話時代の三皇五帝に始まり、西晋(せいしん)末の王石虎(せきこ)の年間にまで及ぶ。。第十巻は崑崙山・蓬莱山などの名山記である。但し、原本は散佚し、現在見られる「漢魏叢書」などに収められているものは、梁の蕭綺が再編したもの。内容は奇怪・淫乱な事柄が多く、その殆どは事実でないとされる。作者王嘉は隴西安陽の人で、容貌、醜く、滑稽を好んだが、崖に穴居したり、その言動は奇矯であったという。後趙(こうちょう)の石季竜(せききりゅう:石虎。在位:三三五年~三四九年)の末年、長安に出、終南山に隠棲、その予言はよく当たり、前秦の苻堅(ふけん)が淮南(わいなん)で敗れることを予知したという。後秦の姚萇(ようちょう)に召されたが、機嫌を損ね、殺された(以上は小学館「日本大百科全書」の記載に拠った)。同書の巻二の

「成王卽政」の「六年」の箇所に、

   *

燃丘之國獻比翼鳥、雌雄各一、以玉爲樊。其國使者皆拳頭尖鼻、衣雲霞之布、如今朝霞也。經歷百有餘國、方至京師。其中路山川不可記。越鐵峴、泛沸海、蛇洲、蜂岑。鐵峴峭礪、車輪剛金爲輞、比至京師、輪皆銚幾盡。又沸海洶湧如煎、魚鱉皮骨堅強如石、可以爲鎧。泛沸海之時、以銅薄舟底、蛟龍不能近也。又經蛇洲、則以豹皮爲屋、於屋推車。又經蜂岑、燃胡蘇之木、此木煙能殺百蟲。經途五十餘年、乃至洛邑。成王封泰山、禪社首。使發其國之並童稚、至京師、鬚皆白。及還至燃丘、容貌還復少壯。比翼鳥多力、狀如鵲、銜南海之丹泥、巢昆岑之玄木、遇聖則來集、以表周公輔聖之祥異也。

   *

とある。

「丹沉」東洋文庫訳は割注して『丹参(たんじん)か。シソ科の薬草』(キク亜綱シソ目シソ科アキギリ属タンジン Salvia miltiorrhizaウィキの「丹参」によれば、『丹は朱色を意味し、参も薬用ニンジンのような赤い根っこを意味する。ウコギ科の薬用ニンジンや、野菜のニンジン(セリ科)とは、全く関係がなく、草花として親しまれているサルビアや、キッチンハーブのセージと同じシソ科アキギリ属の植物である』。『中国に分布する耐寒性の宿根草で、 草丈は』三十~八十センチメートル『くらいになる。茎は角張っていて、葉は単葉で有毛、鋸歯がある。花は初夏から秋にかけて咲き』、二センチメートル『ほどの藍色の唇形花が数輪から十数輪』、『総状花序を作る』。『中国原産であるため、中国で一番古い生薬書』「神農本草経」にも『掲載されて』は『いるが、日本で主に行われている古方派の漢方では、あまり用いられていない。時代が下るに従い』、『よく用いられる傾向があり』、「血の道」と『呼ばれていた月経不順や肝臓病、胸痛・腹痛などに用いられる。また、心筋梗塞、狭心症の特効薬として中国で近年よく用いられる「冠心II号」の主薬として用いられている』。『丹参には次の薬理作用があることが確認されている』。『血管拡張、血流増加、血圧降下、抗血栓、血液粘度低下、動脈硬化の予防・改善、抗酸化、鎮痛、抗炎症、抗菌、精神安定』とある)とするが、前に引用した中文サイトの原文でも「丹泥」で、「沉」は「沈」の異体字であるから、(さんずい)であることは間違いない(「參」は逆立ちしても「沈」「沉」と書き間違えない)と思われるから、東洋文庫「丹参」説は採らない(そもそもそこには耐寒性とあるので、「南海」とは親和性が悪い)私は一見した際、香木の水中の「泥」に「沈」んで「丹」色となったそれを想起し、香木の一種である「沈香(じんこう)」の内で強い赤みを帯びたそれを指すのではなかろうかと推察したウィキの「沈香」によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属』『の植物である沈香木』『(アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)』『などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四『と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では』、『沈香と伽羅を産するほぼすべての沈香属(ジンチョウゲ科ジンコウ属』 Aquilaria 『)及び(ジンチョウゲ科ゴニスティル属』 Gonystylus 『)全種はワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」には上記のような現象により、自然に樹脂化発生した、天然沈香と、植樹された沈香樹を故意にドリルなどで、穴をあけたり、化学薬品を投入して、人工的に樹脂化したものを採集した、栽培沈香が存在する』。『当然ながら、品質は前者が格段に優れている。稀に上記の製造過程から来たと思われる薬品臭の付いてしまっているものや、低品質な天然沈香に匹敵する栽培沈香も存在する。しかし、伽羅は現在のところ栽培に成功していない』。『また』、『栽培沈香は人工的に作ったものとして人工沈香ともよばれる』。『栽培沈香は天然沈香資源の乱獲により、原産国でも一般的になりつつあり、国内でも安価な香の原材料として相当数が流通している、なお、香木のにおい成分を含んだオイルに木のかけらを漬け込んだものや、沈香樹の沈香になっていない部分を着色した工芸品は、そもそも沈香とは呼べず、香木でもない。したがって栽培沈香でもない』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)で』「アグル」又は「アガル」『と言う。油分が多く色の濃いものを』「カーラーグル」、『つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』。『また、シャム沈香』『とは、インドシナ半島産の沈香を指し、香りの甘みが特徴である。タニ沈香』『は、インドネシア産の沈香を指し、香りの苦みが特徴』。『強壮、鎮静などの効果のある生薬でもあり、奇応丸などに配合されている』。『ラテン語では古来』、「aloe」『の名で呼ばれ、英語にも aloeswood の別名がある。このことからアロエ(aloe)が香木であるという誤解も生まれた。勿論、沈香とアロエはまったくの別物である』。『中東では』『自宅で焚いて香りを楽しむ文化がある』。本邦では、推古天皇三(五九五)年四月、『淡路島に香木が漂着したのが』、『沈香に関する最古の記録であり、沈香の日本伝来といわれる。漂着木片を火の中にくべたところ、よい香りがしたので、その木を朝廷に献上したところ重宝されたという伝説が』「日本書紀」に載る。『奈良の正倉院』には長さ百五十六センチメートル、最大径四十三センチメートル、重さ十一・六キログラムという『巨大な香木・黄熟香(おうじゅくこう)(蘭奢待』(らんじゃたい)『とも)が納められている。これは、鎌倉時代以前に日本に入ってきたと見られており、以後、権力者たちがこれを切り取り、足利義政・織田信長・明治天皇の』三『人は付箋によって切り取り跡が明示されている。特に信長は、東大寺の記録によれば』、一寸四方で二個を『切り取ったとされている』。『徳川家康が』慶長一一(一六〇六)年頃から始めた『東南アジアへの朱印船貿易の主目的は』、この『伽羅(奇楠香)の入手で、特に極上とされた伽羅の買い付けに絞っていた』。これは『香気による気分の緩和を得るために、薫物(香道)の用材として必要としていたからである』とある。奇体な比翼鳥が啣えて木の上に巣作りするのなら、その辺に生えている薬草なんぞではなくて、南海地方(ズバリ、合う)の赤い沈香木の方がどんなにかマシだと私は思うのだが? 如何?

「崑岑」原文も上記の通り、ママ。「崑崙」の誤りか、確信犯の幻想地誌のズラし。

「玄木〔(げんぼく)〕」即物的な意味にとれば、「黒い樹木」であるが、これは特定の樹種を指すのではなく、「玄」、「奥深く玄妙なものに属する木」の意味で採る。だからこそ、

「聖に遇へば、則ち、來〔たり〕集〔(つど)」ふ聖鳥ともなるのである。別に「黒くて神妙な木」でもよい。そうすると、啣えていった赤い香木で巣作りするのと、うまく合うようにも思われる。

「周公輔聖〔(しゆうこうほせい)〕」周公と称号される周公旦(しゅうこう たん:生没年未詳)は中国周王朝の政治家で、姓は姫、旦は諱。魯の初代の公である伯禽の父。太公望呂尚(りょしょう)や召公奭(せき)と並ぶ、周建国の功臣の一人。周の西伯昌(文王)の四男。ウィキの「周公旦によれば、『次兄にあたる初代武王存命中は』、『兄の補佐をして殷打倒に当たった』、『とだけ』『しかわからない』。『周が成立すると』、『曲阜に封じられて魯公となるが、天下が安定していな』かったので、『魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治にあたっていた』。『建国間もない時期に武王は病に倒れ、余命いくばくもないという状態に陥った。これを嘆いた旦は』、『自らを生贄とすることで武王の病を治してほしいと願った。武王の病は一時』、『回復したが、再び悪化して武王は崩御した』。『武王の死により、武王の少子(年少の子)の』成王(せいおう:在位・紀元前一〇四二年~紀元前一〇二一年)『が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は燕の召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた』。『その中で三監の乱』『が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は』、『旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。反乱を鎮圧した旦は』、『武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、同母弟の蔡叔度は流罪、霍叔処は庶人に落とし、蔡叔度の子の蔡仲に蔡の家督を継がせた』。『さらに、引き続き唐が反乱を起こしたので、再び旦自らが軍勢を率いて、これを滅ぼした』。『その後』、七『年が経ち』、『成王も成人したので』、『旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。その後、洛邑(洛陽、成周と呼ばれる)を営築し、ここが周の副都となった』。『また』、『旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた』「周礼(しゅうらい)」や「儀礼」を『著したとされる。旦の時代から遅れること約』五百『年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、文武両道の旦を理想の聖人と崇め、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し』たことはよく知られる。『ある時』、『夢に旦のことを見なかった(吾不復夢見周公)ので「年を取った」と嘆いたという』。『「周公」の称号については』、『旦は周の故地である岐山に封じられて周の公(君主)となったので』、『こう呼ばれるのではないかとの説もある。また、武王が崩御した後に旦は本当は即位して王になっており、その後』、『成王に王位を返したのではないかとの説もある』とある。まあ、最後の仮説は嘘臭い。東洋文庫注にある通り、『周公旦は』、『よく成王を補佐して周の制度を整え』、『国をおさめた』のであり、彼は家臣、「輔聖」とは「聖」王たる資格を持った成王を輔弼して周を理想的な仁に基づく国家成し得たという意味でなくてはならない。

「祥異〔(しやうい)〕」目出度い兆しを意味するもの。

「爾雅」著者不詳。紀元前 二〇〇年頃に成立した、現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典。「釋鳥」に『鶼鶼、比翼』とあり、「釋地」に、

   *

南方有比翼鳥焉。不比不飛、其名謂之鶼鶼。

   *

と出、同書の郭璞の注に『似鳧、靑赤色』とある。

「宋書〔(そうじよ)〕」南朝宋一代の紀伝体歴史書。正史の一つ。全百巻からなる。著名な文人であった沈約(しんやく 四四一年~五一三年)が、四八七年に南斉(なんせい)武帝の勅命を奉じて編纂、「本紀」十巻と「列伝」六十巻は先行の稿本を基に僅か一年で完成したが、「志」三十巻の稿了には十数年を費やした。父の沈璞(しんはく)を殺した孝武帝とその功臣に悪口を書き連ねるなど、古来、曲筆が批判されているが、人物・事柄の個別性、記載対象の豊饒さを重んじた南朝貴族の精神を反映して、叙述は詳細。詔勅・上奏文・私信・文学作品等を数多く採録し、また「志」は、諸制度の変遷を、漢や三国時代に溯って検証していて貴重である。但し、唐以降、簡潔な歴史叙述が尊ばれると、李延寿の「南史」や司馬光の「資治通鑑(しじつがん)」の出現もあって、あまり読まれなくなり、一部が散逸した。「夷蛮伝」の「倭国」の条には「倭五王」の記事が載る(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鸞」先行する「山禽類 鸞(らん)(幻想の神霊鳥/ギンケイ)」を参照されたい。

「鳳」先行する山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)を参照されたい。

「亞(つ)ぐ」「次ぐ」に同じい。

「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)の撰になる志怪小説集。全五十巻。同四十八巻「鳥獣五」に、

   *

有鳥焉。其狀如鳬而一翼一目。相得乃飛。名曰蠻蠻。見則天下大水。

   *

と確かにある。

「天下、大水〔す〕」大洪水に見舞われる。

「此くのごとくなれば、則ち、瑞鳥に非らず」実は前と酷似した内容が、「山海経」の「西山経」に、

   *

曰崇吾之山、在河之南、北望冡遂、南望䍃之澤、西望帝之搏、獸之丘、東望淵。有木焉、員葉而白柎、赤華而黑理、其實如枳、食之宜子孫。有獸焉、其狀如禺而文臂、豹虎而善投、名曰舉父。有鳥焉、其狀如鳧、而一翼一目、相得乃飛、名曰蠻蠻、見則天下大水。

   *

と出る。ところが、同時に同じ「山海経」の「海外南経」に、以下の二つの記載が載る。

   *

『比翼鳥在其東、其爲鳥靑、赤、兩鳥比翼。一曰在南山東。』

『羽民國在其東南、其爲人長頭、身生羽。一曰在比翼鳥東南、其爲人長頰。』

   *

これは孰れも、地誌的位置と奇体な一解釈を語るだけで、吉凶を語らないフラットな記載が載り、また同書の「大荒経」にも、

   *

有巫山者。有壑山者。有金門之山、有人名曰黃之尸。有比翼之鳥。有白鳥靑翼、黃尾、玄喙。有赤犬、名曰天犬、其所下者有兵。

   *

と書かれてあるで、実は古くから、吉凶とは無関係に、いたとされていることは事実なのである。まあ、楊貴妃の願いの通り、私には遠い遠い先の、めぐり逢いの吉兆である。私はそんなものは求めないけれども。

「近來、比翼の鳥、蕃舶〔(ばんはく)〕より來たる。雌雄有り。其の雄、頭、淡赤。腹・背、深紅。翅、蒼くして赤を帶ぶ。尾の長さ、一尺餘り、絲のごとし。其の瑞(はし)、卷〔き〕曲〔りて〕、蕨〔(わらび)〕の茁(もへいづ)る形を作〔(な)〕し、觜、黃。脚、蒼く、爪、黃なり。雌は、頸、紅く、胸、黑く、背・腹、灰白。尾、短くして、卷曲〔(くわんきよく)〕なり。羽毛、美麗〔にして〕愛すべし。然〔(しか)れど〕も、未だ生ける者を見ず。疑ふらくは此れ、造成す〔る〕者(もの)か」「蕃舶より來たる」とは、近年、南蛮貿易に於ける異国からの貿易船が、本邦に多数(雌雄をかく良安が正確に観察出来るのはかなりの量のそれが流入したことを物語っている)の「比翼鳥」の剥製を齎(もたら)している、というのである。良安の言うように、実在する鳥を奇形生物のように切除したり結合したりして捏造したおぞましき「比翼鳥」である。この項の電子化にかかった当初から、『その人非人の業者の犠牲になった実在する鳥を調べるのは、ちょっと気が重いな』と思っていた(意外かも知れぬが、その程度には私は繊細な神経を持ってはいる)。そこで、目に就いたこれで勘弁して貰う。愛知県の「西尾市岩瀬文庫」「岩瀬文庫コレクション」公式サイトの「本草写生図である。その解説に『筆者は紀州藩士で本草学者の坂本浩然』寛政一二(一八〇〇)年~嘉永六(一八五三)年)で、天保四(一八三三)年七月の『識語があります。イギリスの博物図鑑の銅版挿図から写したと思われる珍しい南国の動植物や鉱物、貝類、そして琉球の花の写生図を、絹地に岩絵の具という日本の伝統的な画法で描いた画帖です』。『上は南国ニューギニアを中心に生息する風鳥(フウチョウ)の図です』。『十八~十九『世紀のヨーロッパでは、風鳥は』、『風を食べて生き、木にとまることなく』、『飛びつづける不思議な鳥』、『と考えられていました。当時、ヨーロッパでは美しい風鳥の剥製は鑑賞品として珍重されましたが、これらの剥製は脚が切り落とされていたため、こうした伝説が生まれたといいます。また、極彩色の美しい姿から楽園に住む鳥「極楽鳥」の名もあります』。『この図譜の絵では鳥らしくない、虫のような奇妙な姿に描かれていますが、写真のない時代ですので、珍しい動植物の写生図は転写に転写を重ねてゆくため、こうしたズレが生じてしまうのです』(と記者は言っておられるが、実際にこんな風に見えるのだ! 嘘だと思ったら、サイト「WIRED華麗なる、極楽鳥たちの世界一番下動画 画像タイトルに「Wilson's Bird-of-Paradiseとあで、く! フウチョウ科ヒヨクドリ属(!)アカミノフウチョウ Cicinnurus respublica であ!)『南の楽園にすむ美しい謎の生き物たち。日本、欧州を問わず当時の学者たちは大きな期待と驚きを胸に、この未知の世界を見つめていたことでしょう』とある。この図を是非ともよく見て貰いたい。これはまさに、良安が「尾の長さ、一尺餘り、絲のごとし。其の瑞(はし)、卷〔き〕曲〔りて〕、蕨〔(わらび)〕の茁(もへいづ)」(「萌え出づる」に同じ)「る形を作〔(な)〕し」ているというのと恐ろしいまでに一致しているではないか! そうして同じことが、同ページの下方に掲げられた「比翼鳥」の剥製、山本溪山筆とする「禽品」の『大通寺宝物「比翼鳥」の剥製の写生図』の絵でもしっかり合致するのである!(そこには『風鳥(比翼鳥)の剥製は』、『しばしば江戸時代の日本にも舶載された』(太字は私が施した)と言い添えられてさえいる!) フウチョウ(風鳥)科 Paradisaeidae の彼らが犠牲になっていたのだな。鳥好きなら、その絵で種を同定出来るだろう、俺は厭だ! 勝手にあんたがやればいい!……可哀想な風鳥(ふうちょう)たち……時空を越えて、邪悪なヒト種が滅んだ静かな地球へ翔んでおくれ!

白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附

[やぶちゃん注:原文は昭和三九(一九六四)年集英社刊田中克己著「漢詩大系 第十二巻 白楽天」のそれに概ね従った(一部の漢字を正式な繁体字に代えた)。訓読は私が本詩篇に出逢った高校二年の時の衝撃的印象記憶に残るものに従っており、田中氏の訓読とは字空けを含み、かなり異なる。また、本詩篇は完全に一つに繋がったものであるが、読み易さを考えて。私の考えるシークエンスごとに一行を空けてある。後に附したものは、私が二十代の終りに授業用に作ったオリジナルな全篇の訳である。これは現在電子化注をしている「和漢三才図会」の「比翼鳥」のために急遽電子化したものである。] 

 

 長恨歌   白居易

漢皇重色思傾國

御宇多年求不得

楊家有女初長成

養在深閨人未識

天生麗質難自棄

一朝選在君王側

囘眸一笑百媚生

六宮粉黛無顏色

 

春寒賜浴華淸池

溫泉水滑洗凝脂

侍兒扶起嬌無力

始是新承恩澤時

雲鬢花顏金步搖

芙蓉帳暖度春宵

春宵苦短日高起

從此君王不早朝

 

承歡侍宴無

春從春遊夜專夜

後宮佳麗三千人

三千寵愛在一身

金屋粧成嬌侍夜

玉樓宴罷醉和春

姊妹弟兄皆列士

可憐光彩生門

遂令天下父母心

不重生男重生女

 

驪宮高處入靑雲

仙樂風飄處處聞

緩歌慢舞凝絲竹

盡日君王看不足

漁陽鼙鼓動地來

驚破霓裳羽衣曲

 

九重城闕煙塵生

千乘萬騎西南行

翠華搖搖行復止

西出門百餘里

六軍不發無奈何

宛轉蛾眉馬前死

花鈿委地無人收

翠翹金雀玉搔頭

君王掩面救不得

囘看血淚相和流

 

黃埃散漫風蕭索

雲棧縈紆登劍閣

峨嵋山下少人行

旌旗無光日色薄

蜀江水碧蜀山靑

聖主朝朝暮暮情

行宮見月傷心色

夜雨聞鈴腸斷聲

 

天旋日轉𢌞龍馭

到此躊躇不能去

馬嵬坡下泥土中

不見玉顏空死處

君臣相顧盡霑衣

東望都門信馬歸

 

歸來池苑皆依舊

太液芙蓉未央柳

芙蓉如面柳如眉

對此如何不淚垂

春風桃李花開夜

秋雨梧桐葉落時

西宮南苑多秋草

宮葉滿階紅不掃

梨園弟子白髮新

椒房阿監靑娥老

夕殿螢飛思悄然

孤燈挑盡未成眠

遲遲鐘鼓初長夜

耿耿星河欲曙天

鴛鴦瓦冷霜華重

翡翠衾寒誰與共

悠悠生死別經年

魂魄不曾來入夢

 

臨邛道士鴻都客

能以精誠致魂魄

爲感君王輾轉思

遂敎方士慇懃覓

排空馭氣奔如電

升天入地求之徧

上窮碧落下黃泉

兩處茫茫皆不見

忽聞海上有仙山

山在虛無縹緲

樓閣玲瓏五雲起

其中綽約多仙子

中有一人字太眞

雪膚花貌參差是

 

金闕西廂叩玉扃

轉敎小玉報雙成

聞道漢家天子使

九華帳裏夢魂驚

攬衣推枕起徘徊

珠箔銀屛邐迤開

雲鬢半偏新睡覺

花冠不整下堂來

風吹仙袂飄颻舉

猶似霓裳羽衣舞

玉容寂寞淚闌干

梨花一枝春帶雨

含情凝睇謝君王

一別音容兩渺茫

昭陽殿裏恩愛

蓬萊宮中日月長

囘頭下望人寰處

不見長安見塵霧

唯將舊物表深情

鈿合金釵寄將去

釵留一股合一扇

釵擘黃金合分鈿

心似金鈿堅

天上人閒會相見

 

臨別慇懃重寄詞

詞中有誓兩心知

七月七日長生殿

夜半無人私語時

在天願作比翼鳥

在地願爲連理枝

天長地久有時盡

此恨綿綿無 

 

●「長恨歌」オリジナル訓読 

 

 長恨歌   白居易

漢皇 色(いろ)を重んじ 傾國を思ふ

御宇(ぎよう) 多年求むれども 得ず

楊家に女(ぢよ)有り 初めて長成し

養はれて深閨(しんけい)に在り 人 未だ識らず

天生の麗質 自(おのづか)ら棄て難く

一朝 選ばれて 君王の側に在り

眸(ひとみ)を囘(めぐ)らして一笑すれば 百媚生じ

六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい) 顏色なし 

 

春寒うして 浴を賜ふ 華淸(かせい)の池

溫泉 水 滑かにして 凝脂(ぎようし)を洗ふ

侍兒 扶(たす)け起すに 嬌(きやう)として力なく

始めて是れ 新たに恩澤(おんたく)を承(う)くる時

雲鬢(うんびん) 花顏(くわがん) 金步搖(きんぽえう)

芙蓉(ふよう)の帳(とばり) 暖かにして春宵を度(わた)る

春宵 苦(はなは)だ短くして 日高くして起き

此れより 君王(くんのう) 早朝(さうてう)せず 

 

歡(くわん)を承(う)け 宴(えん)に侍して 閒暇(かんか)なく

春は春の遊びに從ひ 夜(よ)は夜を專(もつぱ)らにす

後宮の佳麗 三千人

三千の寵愛 一身にあり

金屋(きんをく) 粧(よそほ)ひ成つて 嬌として 夜に侍し

玉樓 宴(えん)罷(や)んで 酔ひて 春に和す

姊妹弟兄(しまいていけい) 皆 土(ど)を列(つら)ね

憐(あは)れむべし 光彩 門(もんこ)に生ずるを

遂に 天下の父母の心をして

男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ 

 

驪宮(りきゆう) 高き處 靑雲に入り

仙樂 風に飄(ひるが)へりて 處處(しよしよ)に聞ゆ

緩歌(くわんか) 慢舞(まんぶ) 絲竹(しちく)を凝(こら)し

盡日(じんじつ) 君王 看れども足らず

漁陽の鼙鼓(へいこ) 地を動かして來たり

驚破(きやうは)す 霓裳羽衣(げいしやううい)の曲 

 

九重(きうちよう)の城闕(じやうけつ) 煙塵(えんじん)生じ

千乘 萬騎(ばんき) 西南に行く

翠華(すゐくわ) 搖搖(えうえう) 行きては復(ま)た止(とど)まり

西のかた 都門を出づること 百餘里

六軍(りくぐん) 發せず 奈何(いかん)ともする無し

宛轉(ゑんてん)たる蛾眉 馬前に死す

花鈿(くわでん) 地に委(す)てられ 人の收むる無く

翠翹(すゐげう) 金雀 玉搔頭(ぎよくさうとう)

君主 面(おもて)を掩(おほ)ひて 救ひ得ず

囘看(くわいかん)すれば 血淚(けつるゐ) 相ひ和して流る 

 

黃埃(くわうあい) 散漫 風 蕭索(せうさく)

雲棧(うんさん) 縈紆(えいう) 劍閣を登る

蛾媚山下 人の行くこと 少(まれ)に

旌旗(せいき) 光り無く 日色 薄し

蜀江 水 碧(みどり)にして 蜀山 靑し

聖主 朝朝暮暮(てうてうぼぼ)の情

行宮(あんぐう)に月を見れば 心を傷ましむるの色

夜雨(やう)に鈴を聞けば 腸(はらわた)を斷つるの聲(おと) 

 

天 旋(めぐ)り 日 轉じて 龍馭(りゆうぎよ)を𢌞(めぐ)らす

此(ここ)に致りて 躊躇して 去る能はず

馬嵬坡下(ばくわいはか) 泥土の中(うち)

玉顏を見ず 空しく死せし處

君臣 相ひ顧みて 盡(ことごと)く衣(ころも)を霑(うるほ)し

東のかた 都門を望み 馬に信(まか)せて歸る 

 

歸り來たれば 池苑(ちゑん) 皆 舊に依(よ)る

太液(たいえき)の芙蓉(ふよう) 未央(びあう)の柳

芙蓉は面(おもて)のごとく 柳は眉(まゆ)のごとし

此れに對して 如何(いかん)ぞ 淚 垂れざらん

春風(しゆんぷう) 桃李(たうり) 花開くの夜(よ)

秋雨(しうう) 梧桐(ごとう) 葉落つるの時

西宮(せいきゆう) 南苑 秋草 多く

宮葉(きゆうえふ) 階(きざはし)に滿つれども 紅(こう) 掃(はら)はず

梨園の弟子(ていし) 白髪新たに

椒房(せうばう)の阿監(あかん) 靑娥(せいが)老ゆ

夕殿(せきでん) 螢 飛んで 思ひ 悄然(せうぜん)

孤燈 挑(かか)げ盡くして 未だ眠りを成さず

遲遲たる鐘鼓(しようこ) 初めて 長き夜

耿耿(かうかう)たる星河 曙(あ)けんと欲(す)る天

鴛鴦(ゑんあう)の瓦 冷ややかにして 霜華(さうくわ)重く

翡翠(ひすゐ)の衾(しとね) 寒うして誰(たれ)とか共にせん

悠悠たる生死 別れて年を經たり

魂魄 曾て來たりて夢に入らず 

 

臨邛(りんきよう)の道士 鴻都(こうと)の客(きやく)

能(よ)く精誠(せいせい)を以つて 魂魄を致す

君王 展轉(てんてん)の思ひに感ずるが爲(ため)に

遂に 方士をして慇懃(いんぎん)に覓(もと)めしむ

空(くう)を排(はい)し 氣に馭(ぎよ)して 奔(はし)ること 電(いなづま)のごとく

天に升(のぼ)り 地に入りて 之れを求むること 遍(あまね)し

上(かみ)は碧落(へきらく)を窮め 下(しも)は黃泉(こうせん)

両處 茫茫(ばうばう)として 皆 見えず

忽(たちま)ち聞く 「海上に仙山有り

山は虛無縹緲(きよむへうべう)の閒(かん)に在り」 と

「樓閣 玲瓏(れいろう)として 五雲 起こり

 其の中(うち) 綽約(しやくやく)として 仙子(せんし)多し

 中に 一人(ひとり)有り 字(あざな)は太眞(たいしん)

 雪の膚(はだへ) 花の貌(かんばせ) 參差(しんし)として是れなり」と 

 

金闕(きんけつ) 西廂(せいしやう) 玉扁(ぎよくけい)を叩き

轉じて小玉(せうぎよく)をして 雙成(さうせい)に報(ほう)ぜしむ

聞道(きくなら)く 漢家(かんけ)天子の使ひなりと

九華帳裏(きうくわちやうり) 夢魂(むこん) 驚く

衣(ころも)を攬(と)り 枕を推(お)し 起(た)ちて徘徊す

珠箔(しゆはく) 銀屛(ぎんぺい) 邐迤(りい)として開く

雲鬢(うんびん) 半ば偏(かたむ)きて 新たに睡りより覺(さ)む

花冠(くわくわん)整へず 堂より下(くだ)り來たる

風は仙袂(せんべい)を吹きて 飄颻(へうえう)として舉がり

猶ほ 霓裳羽衣の舞(まひ)に似たり

玉容(ぎよくよう) 寂寞(せきばく) 淚 闌干(らんかん)

梨花(りか) 一枝(いっし) 春 雨を帶ぶ

情(じやう)を含み 睇(てい)を凝らし 君主に謝す

一別 音容 兩(ふた)つながら 渺茫(べうばう)

昭陽殿裏(せうやうでんり) 恩愛 

蓬萊宮中(ほうらいきゆうちゆう) 日月(じつげつ) 長し

頭(かうべ)を囘(めぐ)らし 下(しも) 人寰(じんくわん)を望む處

長安を見ず 塵霧を見る

唯だ 舊物(きうぶつ)を將(も)つて深情を表はす と

鈿合(でんがふ) 金釵(きんさ) 寄せ將(も)ち去らしむ

釵(さ)は一股(いつこ)を留(とど)め 合(がふ)は一扇(いつせん)

釵は黃金(わうごん)を擘(さ)き 合は鈿(でん)を分かつ

但(た)だ心をして 金鈿(きんでん)の堅きに似しむれば

天上 人閒(じんかん) 會(かなら)ず相ひ見(まみ)えん 

 

別れに臨みて 慇懃(いんぎん)に重ねて 詞(ことば)を寄す

詞中(しちゆう) 誓ひ有り 兩心のみ 知る

七月七日(しちぐわつなぬか) 長生殿

夜半 人無く 私語(しご)の時

 「天に在りては 願はくは比翼の鳥と作(な)り

  地に在りては 願はくは連理(れんり)の枝(えだ)と爲(な)らん」と

天長く 地久しきも 時有りて 盡(つ)く

此の恨みは 綿綿として ゆるの期(とき) 無からん

 

 

「長恨歌」私訳

 

  長恨歌 

漢の帝(みかど)は色好みで、絶世の美女を求めて止まぬ。

帝の地位に就いてからというもの、ずっと求め続けたけれども、得られない。

さて。ここに楊家の娘がいた。成年になったばかり。

奥深い部屋で、大事大事に育てられてきたので、世間ではその器量は知られていなかった。

しかし、天生の美貌、そのまま打ち捨てられてはおかれない。

ある日、特に選ばれて、帝に召し出された。

瞳をめぐらして、ちょっと微笑(ほほえ)めば、ありとある魅力が生まれ、

後宮(こうきゅう)のあまたの美女も色褪(いろあ)せて見えるほど。

 

春まだ寒い頃、帝から華清池に入ることを許された。

温泉の湯は、白くむっちりとした肌を、滑らかにつたっていく。

上がろうとして、お付きの者が助け起こすと、のぼせて、なよなよと、力もない。

さあ、支度整い、帝の愛を受けるときがきた。

豊かな美しい髪、花のかんばせ、揺れる黄金のかんざし。

蓮の花を縫い取ったカーテンの中は、暖かだ……春の宵は過ぎてゆく……。

ああ、春の宵はひどく短い。帝はやっと昼になってお起きになる。

これより、帝は早朝の政務をおやめになった。

 

帝のお呼びで、うたげのお供。一人になれる暇もない。

春は春で物見遊山にお連れになり、夜は夜で貴妃一人をご寵愛。

後宮には三千人の美人。

その三千人分のご寵愛を、貴妃がすっかり独り占め。

立派な御殿は綺麗に飾られ、艶っぽく帝の夜にお付合い。

美しい高殿の宴会が終われば、その酔い姿がこれまた、まるで春に溶け込んでしまいそう。

貴妃の一族は、皆、諸候に取り立てられ、領地を得る。

ああ、うらやましい! 家の栄えぶり!

遂にこの世の親に、「男なんぞ役にも立たぬ、

 女を産んで玉の輿(こし)、女の子をこそもうけよう。」と思わせるようになったほど。

 

雲にそびえる華清宮、うたげも今や最高潮。

仙界の楽のそれかと思わせる、妙(たえ)なる音(ね)が風に乗ってそこここに聞こえ、

静かでゆったりとした歌や舞い、見事に響き合う管弦の音(ね)。

帝は、日がな一日見ていても、飽きることを知らない。

……しかし……漁陽の辺りから……攻め太鼓の低い音が……大地を揺り動かして聞こえてくる……。

……それが……折りから舞っていた……霓裳羽衣の曲を……断ち切った…………。

 

都の城門には、もうもうたる土ぼこり。

落ちのびる帝の長い行列は、西南の蜀を目指して行く。

帝の旗を付けた車は、ゆらゆら揺れて、ちょっと行っては、じき、止まる。

城門を出でて、西へほどなく、

帝の直属の兵たちは、貴妃の断罪を求め、一歩たりとも動かなくなった。

……もはや、どうしようもない。

美しい眉の美人は、帝の車を引く馬の前で、死んだ。

美しい花鈿は、地に捨てられて、拾う者もなく、

ああ、それだけではない、数多(あまた)の美しい髪飾り……。

帝は正視できず、面を覆うばかり……。

振り返る帝の頬を、血の交じった涙がつたってゆく……。

埃交じりの風がさびしく、

蜀の桟道は雲の中に登って行くように険しい。

峨嵋山の下、行く人もなく、

行列の旗も色褪せて、日の光も薄い。

蜀の川の水は、どこまでも緑に、蜀の山々は、どこまでも青い。

ああ、推して知るべし、朝な夕な貴妃を思う帝の心。

行宮(あんぐう)に月を見ても、心(こころ)傷つき、

夜の雨に鈴の音(ね)を聞いても、はらわたが断ち切れるような悲しみを覚える。

 

天が巡り、地が転じ、世情が一変して、帝の車は長安へ。

途中この地に至って、歩み進まず、立ち去ることも、出来ぬ。

馬嵬坡(ばかいは)の、泥土の中、

もはや、あの白玉のような美顔の貴妃は見えぬ……むざむざと死んでいった場所……。

君臣は互いに顔を見合わせては、皆、涙で衣(ころも)を濡らす。

帝は、東のかた、長安を望み見ながら、ただ馬の歩むにまかせて、とぼとぼと帰ってゆく。

都に戻れば、宮中の池も庭も、もとのまま。

太液池の蓮の花、未央宮の柳も、あいも変わらぬ美しさ。

その蓮の花は貴妃の顔に似て、その柳の葉は、あの人の眉のよう。

この景色に向かって、どうして涙を流さずにいられようか。

春風(はるかぜ)吹く、桃や李(すもも)の花咲くのどかな夕べも、

秋雨(あきさめ)降る、梧桐(あおぎり)の葉の寂しく散る時も、哀しみは尽きず、

上皇の御座所、西の宮殿、南の御苑は、秋ともなれば、草深く、

宮殿の木の葉は、階段(きざはし)に満ちて、紅(くれない)。訪ねる人もなく、それを掃き清める者も、いない。

梨園の音楽所で玄宗に楽曲を教わった若き楽士たちも、白髪が鬢(びん)に見え初(そ)め、

かつて皇后の御殿の女官長であった若き女房も、いまはすでに年老いてしまった。

夕暮れの御殿に飛ぶ蛍を見ては、心は淋しさにうちひしがれ、

ただひとつの燈火の芯(しん)を、掻(か)き上げ尽くし、それが消えた後(あと)も、まだ眠りにつくことが、できぬ。

時を知らせる鐘や太鼓の音(おと)も、いかにも遅く思われて、夜長(よなが)を感じ始める、秋。

銀河は淡く輝いているが、はや、夜も明けようとしている空。

屋根の鴛鴦(おしどり)をかたどった瓦も、冷ややかに、霜を置いて重たげに見え、

翡翠(かわせみ)の雌雄(つがい)が仲よく縫い取りされた夜着(よぎ)は冷たく、ただ一人寝の淋しさを、かこつ、ばかり。

生きている者と死んだ人とは、果てしなく遠く隔たり、別れて長く、年を経た。

貴妃の魂が玄宗の夢にも入って来ぬのは、まことに、淋しい限り。

 

蜀の臨邛(りんきょう)の道士が、長安に旅人として来ていた。

不思議な精神力で、よく魂を招くことが出来るという。

おそばの者は、玄宗の毎夜の煩悶に、同情し、

ついにこの方術の行者(ぎょうじゃ)に、貴妃の魂を心をこめて尋ねさせることとなった。

方士は、風を押し開き、雲霧に乗り、電光の如く奔り、

天に登り、地に入って、あまねく、捜した。

上は青空の奥まで、下は黄泉の国まで尋ねたが、

どちらも、果てしなくぼんやり遠く霞んで、貴妃の霊は見えぬ。

ふと聞いた。「東海の彼方に仙山がある。

 その山は、この世を超えた、物影一つ見えない、虚(むな)しい、この世から果てしなく遠い所にある」と。

「林立する高殿は玉の如く輝き、五色の雲が湧いている。

 その中に、たおやかな仙女が沢山いる。

 中に一人、字(あざな)を太真(たいしん)と呼ぶものがおり、

 雪の肌(はだえ)、花のかんばせ、まずは、この者らしい。」と。

 

道士は仙山に至り、黄金の闕のある宮殿の西の袖(そで)部屋に行き、白玉の閂(かんぬき)を叩いて案内を乞うた。

もと呉王夫差の女であった小玉(しょうぎょく)から、もと西王母の侍女であった雙成(そうせい)にと、次々に取りつがれ、太真のもとへと告げられた。

太真は「漢の朝廷の帝のお使い」と聞いて、沢山の花模様のある幄(とばり)の内で見ていた夢も驚き醒め、

紗(うすぎぬ)の衣を打ちかけて裾(すそ)をつまみ、枕を押しやって立ち上がり、「どうしよう」と戸惑って部屋を歩く。

玉の簾(すだれ)や銀の屏風が、連なって折れ曲がり、押し開かれ、ついに彼女が現われた。

雲のように豊かな黒髪は半ば傾き、今やっと眠りから醒めた風(ふう)。

花の冠も整わぬまま、広間から降りて来る。

風が衣のそでに吹いて、ひらひらと挙がり、

やはり、生前に舞った霓裳羽衣の舞の手ぶりに、それは似ていた。

その美しい顔は、寂しげで、涙は、止めどなく、はらはらと、こぼれる。

喩(たと)うれば、一枝(ひとえだ)の梨の花が春雨に濡れているよう。

太真は情をこめた目で、凝(じ)っと見つめ、帝の厚いお情けを謝して、言った。

「一たびお別れ申してより、お言葉もお顔も、果てしなく遠いものとなり、

 昭陽殿であなた様から頂いた恩愛も絶え、

 この蓬莱の宮中では仙境のことゆえ、月日は永遠。

 振り返って下方の人の世を遠く望んでも、

 長安は見えず、ただ塵と霧。

 思い出の品で、せつない私の思いをお示しすることしかできません。

 この青貝(あおがい)を鏤(ちりば)めた香盒(こうごう)と、金のかんざしを、お使いの者に預け、持って行って頂きまする。

 かんざしは黄金(きん)も二つに裂き、香盒は青貝の飾りも半分に外(はず)して。

 ただ、お互いを思う心を黄金や青貝の如く、堅く変わらぬものにしている限り、

 天上と人の世を超え、きっと私たちはお会いすることが出来ましょう。」と。

 

別れぎわに、懇(ねんご)ろに歌をことづける。

そこには二人だけが知っている秘密の誓いが……。

「七月七日(しちがつなぬか)、長生殿、

 夜更け、二人きりの語らいの時、

 『天にあっては願わくは比翼(ひよく)の鳥となり、

  地にあっては願わくは連理(れんり)の枝(えだ)となりましょう。』と。

――天地は永く続くとはいえ、いつかは、必ず、消え去ってしまう――

――しかし――この恨みは――永遠に――尽きることはない――

 

 

2019/02/02

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵸鵌(三ツがしらの鳥) (三頭六尾の雌雄同体の妖鳥)

 

Mitugasiradori

 

かしらの鳥[やぶちゃん注:総てママ。]

 

鵸鵌音奇徒

 

キイ卜ウ

[やぶちゃん字注:標題の「鵸鵌」の」は実際には(へん)と(つくり)が逆の字(「※=「余」+「鳥」)なのであるが、※で標題を出すのが厭なのでかくした。中文サイトでもこの「鵸鵌」でこの奇体な三頭六尾の鳥を示している(例えば「百度百科」の「鵸鵌を見よ)ので問題ない。本文も総てこれで通した。]

 

三才圖會云翼望山鳥有鳥狀如鳥三首六尾自爲牝牡善

笑名曰鵸鵌服之不眛佩之可以禦兵

𩿧【音別敷】同云基山有鳥狀如鷄三首六目六足三翼

 食之令人少睡

△按山海經此等異鳥有數多以繁不記之

 

 

がしらの鳥

 

鵸鵌音、「奇徒」。

 

キイ卜ウ

 

「三才圖會」に云はく、『翼望山に、鳥、有り。狀〔(かたち)〕、鳥のごとく〔なるも〕、三首・六尾。自〔(おのづか)〕ら牝牡〔めすおす〕を爲し、善く笑ふ。名づけて「鵸鵌」と曰ふ。之れを服して眛〔(くら)から〕ず、之れを佩〔(は)〕きて、以つて兵を禦ぐべし』〔と〕。

𩿧〔(べつふ)〕【音、「別敷」。】同じく云はく、『基山に、鳥、有り。狀、鷄ごとく〔なるも〕、三首・六目・六足・三翼。之れを食へば、人をして睡〔るを〕少〔なくせ〕しむ』〔と〕。

△按ずるに、「山海經」、此等〔(これら)〕の異鳥、數多〔(あまた)〕有〔るも〕繁〔(しげ)〕きを以つて、之れを記さず。

[やぶちゃん注:だいたい想像力に限界がくると、特定の部品を複数くっ付けて、新種を作るのが常套手段。まあ、マウスの背中に人間の耳を付けて喜ぶ生物学者がいるのと、代りはない。

「三才圖會」はの左頁(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原典に当該画像)。右頁には後に出る「𩿧」が画像入りで載る

「翼望山」幻想地誌「山海経」の「西山経」に、

   *

西水行百里、至于翼望之山、無草木、多金玉。有獸焉、其狀如狸、一目而三尾、名曰讙、其音如𡙸百聲、是可以禦凶、服之已癉。有鳥焉、其狀如烏、三首六尾而善笑、名曰鵸鵌、服之使人不厭、又可以禦凶。

   *

と出るので、「三才図会」はこれを基礎原本にして書いたと考えてよかろう。

「自〔(おのづか)〕ら牝牡〔めすおす〕を爲し」ただ一羽で♀と♂の機能を有し、子を生み繁殖する、というのである。この場合、無脊椎動物には幾らも見られる雌雄同体なわけで、厳密には単為生殖というわけではないことになる。

「之れを服して眛〔(くら)から〕ず」この鳥(の肉か)を服用すれば、眼がしっかりと見えるようになり。

「之れを佩〔(は)〕きて、以つて兵を禦ぐべし」「佩く」というのは通常、腰に装着することを言い、「兵」はこの場合、あらゆる「兵器・武器」の意で採る。さすれば、恐らくはこの鳥の羽(尾羽が雰囲気的にもいいね)を腰に佩びれば、あらゆる武器から身体が防禦される、というのである。

𩿧〔(べつふ)〕」ネットのK'sBookshelfの「漢字林」の「(音「ヘイ」・「ベ」・「ヘツ」・「ヘチ」とし別字を「鷩」と出し、『◆キンケイ(錦鶏、錦雞、金鶏、金雞)、キジ科キンケイ属の鳥、また同属の鳥の称、同「鷩雉(へいち)」「赤雉(せきち)」「山雞(さんけい)」「鵔しゅんぎ)」』をまず掲げた後、『◆「𨾪(へつふ)」、伝説上の鳥名、三つの頭と翼を持ち、六つの目と足を持つというニワトリ(鶏)やキジ(雉)などに似るという』とし、同字として「𪁺𩿧(しょうふ)」を掲げ、「山海経」の「南山經」を引き、『有鳥焉其狀如雞而三首六目六足三翼其名曰𪁺𩿧』『食之無臥』とし、「廣雅」の巻九の「釋池」に「鷩𩿧」とあるとし、「玉篇」の巻二十四の「鳥部第三百九十」の「」に「𩿧」とあるとする。

「人をして睡〔るを〕少〔なくせ〕しむ」服用(やはり肉か)した人は眠りが短くて足るようになる、覚醒剤効果を持つということであろう。

『按ずるに、「山海經」、此等〔(これら)〕の異鳥、數多〔(あまた)〕有〔るも〕繁〔(しげ)〕きを以つて、之れを記さず』良安先生、トンデモ妖鳥にはそろそろ飽きてこられたようです。もう少し! 後、四羽(そのうちの二羽は確実に実在する)ですよ、先生! 頑張って!

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(16) 「河童ニ異名多シ」(2)

 

《原文》

 【カハノトノ】九州ノ或地方ニテハ、河童ヲ「カハノトノ」ト呼ブト聞ク。南ハ日向大隅邊ニテハ之ヲ「ヒヤウスヘ」ト云ヒ、【水神】又「スヰジン[やぶちゃん注:ママ。]」(水神)ト云フ。此等ハ何レモ尊敬ヲ極メタル稱號ニシテ、正シク一般ノ河童動物ヲ否定スルニ足ルモノナリ。【ガメ】之ニ反シテ越中富山ニ於テ河童ヲ「ガメ」ト稱スルハ、卽チ之ヲ龜又ハ鼈ノ部類ニ屬スルモノト認メタルガ爲ナルコト、曾テ越後新潟ニ於テ捕ヘタリト云フ河童ノ寫生ヲ見テモ想像ニ難カラズ。【カハツソウ】佐賀縣ニテハ河童ヲ「カハツソウ」ト云フ由〔佐賀縣方言辭典〕。「カハツソウ」ハ川ノ僧ノ義ニモ非ズ、【川濯神】水ノ神タル川濯神(カハスソガミ)トモ直接ノ關係無ク、全ク河童ヲ以テ川獺(カハウソ)ノ類ト考ヘタル爲ノ名稱ナルガ如シ。出雲ニテ昔ノ「エンコウ」ヲ今ハ川獺ト爲セルコトハ前ニ述べタリ。川獺ハ小獸ナレドモ亦淵ノ底ニ住ミテ惡事ヲ爲ス。馬ヲ害セシ話ハ未ダ聞カザルモ、人ヲ騙カシテ水ニ引込ムナドト傳ヘラル。海ニモ亦獺ノ住ム地方アリ。【ウミカブロ】佐渡ノ兩津町附近ニテハ、海瀨ハケシカラヌ詐術ヲ以テ人ノ命ヲ奪フト信ゼラレ、其一名ヲ「ウミカブロ」、卽チ海ノ童兒ト云フトアレバ〔佐渡志〕、通稱ニ於テモ亦河童ト相似タリ。播州明石ノ海岸ナドニテハ、今日「ガタロ」ト云フ物ハ河童ニハ非ズシテ鮫ノ事ナリト云フ〔内藤吉之助君談〕。【ガウライ】此外ノ異名ニシテ由來ノ尚不明ナルハ、熊野又ハ但馬ニテ「ガウライ」、【テガワラ】北陸ノ或地方ニテ「カワラ」、「ガワラ」又ハ「テガワラ」。此ハ或ハ「川ワラハ」ノ義ナランカ。【ミヅシ】加賀能登其他ニ於テ河童ヲ「ミヅシ」ト云フコト〔本草啓蒙〕、【メドチ】サテハ陸中陸奧ニ於テ之ヲ「メドチ」ト云フニ至リテハ〔南部方言集〕、猶數段ノ討究ヲ重ヌルニ非ザレバ其理由ヲ明白ニスルコト難シ。【ミンツチ】「アイヌ」ノ古言ニハ、河童トヨク似タルモノヲ「ミンツチ」ト云フ由ハ次ニ言ハントス。【コマヒキ】而モ江差、松前ノ舊城下ニ於テハ、又河童ヲ「コマヒキ」ト呼ビシ時代アリ〔サヘヅリ草〕。此事ニ就テモ後ニ猶考察ヲ加フべキ機會アルナリ。

 

《訓読》

 【カハノトノ】九州の或る地方にては河童を「カハノトノ」と呼ぶと聞く。南は日向・大隅邊にては之れを、「ヒヤウスヘ」と云ひ、【水神】又、「スヰジン[やぶちゃん注:ママ。]」(水神)と云ふ。此等は何(いづ)れも、尊敬を極めたる稱號にして、正(まさ)しく一般の河童動物を否定するに足るものなり。【ガメ】之れに反して、越中富山に於いて河童を「ガメ」と稱するは、卽ち、之れを、「龜(かめ)」又は「鼈(すつぽん)」の部類に屬するものと認めたるが爲なること、曾て、越後・新潟に於いて捕へたりと云ふ河童の寫生を見ても、想像に難からず。【カハツソウ】佐賀縣にては河童を「カハツソウ」と云ふ由〔佐賀縣方言辭典〕。「カハツソウ」は「川の僧」の義にも非ず、【川濯神(かはすそがみ)】水の神たる「川濯神(かはすそがみ)」とも直接の關係無く、全く、河童を以つて「川獺(かはをそ)」の類ひと考へたる爲の名稱なるがごとし。出雲にて昔の「エンコウ」を、今は「川獺」と爲せることは前に述べたり。川獺は小獸なれども、亦(また)、淵の底に住みて、惡事を爲す。馬を害せし話は未だ聞かざるも、人を騙(たぶら)かして水に引き込むなどと傳へらる。海にも亦、「獺(をそ)」の住む地方あり。【ウミカブロ】佐渡の兩津町附近にては、「海瀨(ウミヲソ)[やぶちゃん注:私の推定訓で妖怪名と捉え、カタカナ表記した。]」は「けしからぬ詐術(さじゆつ)を以つて、人の命を奪ふ」と信ぜられ、其の一名を「ウミカブロ」、卽ち、「海の童兒」と云ふ、とあれば〔「佐渡志」〕、通稱に於いても亦、河童と相似たり。播州明石の海岸などにては、今日、「ガタロ」と云ふ物は河童には非ずして、鮫の事なりと云ふ〔内藤吉之助君談〕。【ガウライ】此の外の異名にして由來の尚ほ不明なるは、熊野又は但馬にて「ガウライ」、【テガワラ】北陸の或る地方にて「カワラ」、「ガワラ」又は「テガワラ」。此れは或いは「川わらは」の義ならんか。【ミヅシ】加賀・能登其の他に於いて河童を「ミヅシ」と云ふこと〔「本草啓蒙」〕、【メドチ】さては、陸中・陸奧に於いて之れを「メドチ」と云ふに至りては〔「南部方言集」〕、猶ほ、數段の討究を重ぬるに非ざれば、其の理由を明白にすること、難し。【ミンツチ】「アイヌ」の古言(こげん)には、河童とよく似たるものを「ミンツチ」と云ふ由(よし)は次ぎに言はんとす。【コマヒキ】而(しか)も江差・松前の舊城下に於いては、又、河童を「コマヒキ」と呼びし時代あり〔「さへづり草」〕。此の事に就きても、後(のち)に、猶ほ、考察を加ふべき機會あるなり。

[やぶちゃん注:「カハノトノ」『九州の或る地方にては河童を「カハノトノ」と呼ぶと聞く』もと一九八八年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」の第八巻「妖怪」所収の千葉幹夫「全国妖怪語辞典」には、福岡県(同辞典は県別表示)の項に「カワトノ」があり、『水の怪。川殿。久留米市、河童を川殿、コウラウワロウ、ガッパ、カワッパなどといっていた(『浜萩』/『民俗語彙』)』とあり、「大分」の項には「カワノモノ」という類似する水怪の名が出、その中に『玖珠』(くす)『郡で河童のこと』とする(玖珠郡は大分の中西部。ここ(グーグル・マップ・データ))。同じ「日本民俗文化資料集成」第八巻所収の丸山学の「河童考」には、大分県の平坦な地区で「カワントン」「カワンヒト」「カワンモン」「カワンヌシ」という類似呼称があるとあるから、九州山脈の河川周辺の一部でこの「川の殿」系の河童異名があったことが判る。

「ガメ」私は富山に六年間いたが、「ガメ」なんて言う呼称は聴いたことがない。河童は「カッパ」であった。千葉幹夫「全国妖怪語辞典」にも「カッパ」(上新川郡大田村採取)と「ミズチ」(羽咋郡堀松村)が挙がるだけで、「ガメ」は載らない。後者「ミズチ」には『河童のこと』。『河辺に淵端某という旧家で疳の薬を売っていた。この家の先祖が駒引に失敗した河童から助命の礼として製法を伝授されたものという(「郷土研究」一 - 四/石川純一郎『河童の世界』)』とさえあった。柳田はこれを見落としていたか、或いは「ミズチ」という名では都合が悪かったのか? しかし、これはもう、立派な駒引失敗製薬法伝授譚ではないか。ここより前に出すべき立派な一例じゃあないか! 「ガメ」で「富山に河童はいない」と断じて富山を早々に煩瑣な探索対象から外した〈柳田國男の嘘〉が見えた。なお、同辞典には石川県の項に「ガメ」を挙げ、『河童のこと』とする。採取地を『能美郡中海村遊船泉寺』とする。【2019年2月4日追記】いつもお世話になっているT氏よりメールを頂戴した。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、高崎正秀「河童俗伝」(『民族』昭和三(一九二八)年七月発行所収)に、富山県上新川郡太田村採取の『河童をこの辺ではガメという。ガメの親方をカーラボーズという。昔、便所で尻を撫でるやつがいたので引捕らえると腕が抜けた。カーラボーズの腕だった。返す代わりに薬の製法を教えてもらった』とあること(言うまでもないが「カーラボーズ」は「甲羅坊主」であろう)、昭和二(一九二七)年郷土研究社刊の岡田建文(けんぶん)著「動物界靈異誌」が、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読めるが、その「河童」の章の「二」に、『河童の呼稱くらゐに各地さまざまである動物は他に無い。一番普通なのが川太郎、カツパ、カハコ、などである。越中では「ガメ」と云ひ、美作ではゴンガメと呼んで居る。河童には甲羅があると云ふとあるが、ガメと云ひゴンガメと云ふ上はその地方の河童は甲羅があるのであらう。』(太字は原本では傍点「」)とある。T氏はメールに『ともに「山東民潭」後のものですが、柳田は越中の河童の呼称である「ガメ」を何処(書物又は人)で知ったのでしょうか』? とされておられる。因みに、岡田建文(生没年未詳)なる人物は、柳田國男とかなり親しかった、相当に変わった人物のようで(恐らくは柳田より年上)、SIGNAL-9ブログ野菊のハッカーによれば、島根県松江出身で、『松陽新聞』の記者を経て、心霊関係の雑誌『彗星』を発行していた心霊主義者で、出口王仁三郎の大本教に傾倒し、『彗星』でもその普及に務めたが、『柳田國男の証言に依れば(柳田自身は断言していないのだが)、おそらく東京の空襲』(昭和一九(一九四四)年から翌年にかけてのそれ)『で死亡したのだろう』言っているとあり、その情報元は柳田國男のエッセイ「作之丞と未来」(昭和二四(一九四九)年・旧全集には不載で私は未見)で、別な箇所で『柳田は「空襲のさなかに別れたまま、消息不明になった旧友の岡田蒼溟翁」』(岡田の雅号)『の思い出を哀切を持って懐かしんでいる』とあり、柳田の「炭燒日記」に出る彼の訪問を抜粋されている(これは全集で確認した)。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの書誌を見ると、冒頭画像では、著作権者不明による文化庁長官裁定の記載があるものの、画面左コンテンツの「公開範囲」では、『保護期間満了』の明記がなされていることから、何らかの形で死亡確認がなされているものかとも思われる。T氏に感謝するとともに、続けて本書刊行(大正三(一九一四)年)以前の越中での河童呼称「ガメ」の情報を俟つものである。

「龜(かめ)」爬虫綱カメ目潜頸亜目 Cryptodira に属するカメ類(カメ目 Testudines の中には本邦に棲息しない曲頸亜目 Pleurodira のヘビクビガメ科 Chelidae・ヨコクビガメ科 Pelomedusoidae が含まれる)。

「鼈(すつぽん)」潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。本種の、噛みついたらなかなか離さないという危険な習性を考えると、河童と同様の危険生物として腑に落ちる。それにあまり知られていないが、スッポンは地上では恐るべき速さで走ることが出来、それはなかなかドキッとするものなのである。なお、ウィキの「スッポン」によれば、『かつて日本ではキツネやタヌキといった動物と同様、土地によってはスッポンも妖怪視され、人間の子供をさらったり血を吸ったりするといわれていた』ともあった。

「曾て、越後・新潟に於いて捕へたりと云ふ河童の寫生を見ても、想像に難からず」例の「水虎考略」の『越後國新潟鄕所出寛政甲寅秋』に実見したとする『水乕』(すいこ:「水虎」で河童の異名。なお、引用は部分)とある図であろう(リンク先は前に出した「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のそれ)。こりゃ、確かにスッポンだわ。

「川濯神」(かはすそがみ)」「川濯」は「川の水で濯(すす)ぐ」で、本来は川で行われる「禊(みそぎ)」を司る神のこと。河川の神・治水の神などの「水の神」ともなる。代表的な神は瀬織津姫(せおりつひめ)であろう。ウィキの「瀬織津姫」によれば、『神道の大祓詞』(おおはらえのことば)『に登場する神である。瀬織津比咩・瀬織津比売・瀬織津媛とも表記される』が、「古事記」「日本書紀」には『記されていない』。『水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。人の穢れを早川の瀬で浄めるとあり、これは治水神としての特性である』。「倭姫命世記」「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」「中臣祓訓解」に『おいては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮』(あらまつりのみや)『の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される』。『饒速日命(にぎはやひのみこと)との関連もあると言われる。また、瀬織津姫は天照大神と関係があり、天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。「西宮」の地名由来の大社である廣田神社(兵庫県西宮市)は、天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。天照大神との関わりは、謎が多い』。他に『宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている』。『祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり』、『長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀る。伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づく』。『熊野神社を遡り調べると』、『熊野権現は瀬織津姫なりという説がある。大和政権がエミシ征伐の際、熊野権現を守り神とし』、『北へ向かった。制圧した後、気仙沼市唐桑町に瀬織津姫神社、熊野神社などが鎮座した』とある。

「川獺(かはをそ)」既出既注の、もとはキツネ・タヌキ・アナグマ(ムジナ)同様、実在する生物としてのカウワソを妖異を成す妖怪(妖獣)として捉えたもの。但し、そこでは柳田は「河獺」と表記している。前に出た、室町中期の文安元(一四四四)年に成立した著者未詳の百科事典的国語辞書「下學集」には、既に、

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(獺)老而二河童一也(卷之上「氣形門」獺の項)

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とあることが、增子和男氏の論文「獺怪譚の盛衰をめぐって(上)」に出る(この非常に興味深い論文全三篇(上・中・下)は「早稲田大学リポジトリ」のこちらで総てをダウン・ロード出来る)。そこで增子氏も引いておられるが、江戸前期の俳人で仮名草子作家でもあった国学者山岡元隣(げんりん 寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)の遺稿による怪談本「古今百物語評判」の「卷之四 第二 河太郞附丁初が物語の事」(リンク先は私が昨年終えた「古今百物語評判」全電子化注の一つ)で、山岡は、

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「河太郞も河瀨(かはをそ)の劫(こう)を經たるなるべし。河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つにして、よく、魚をとる獸(けだもの)なり。狀(かたち)、ちいさき狗(いのこ)のごとく、四足(しそく)、みぢかく、毛色は、うす靑ぐろく、はだへは、蝙蝠(かうふり)のごとしと云へり。此物、變化(へんげ)せしこと、もろこしにもあり。丁初と云(いひ)し者、長塘湖(ちやうとうこ)の堤(つゝみ)を行(ゆき)しに、後(うしろ)より、しきりによぶ聲のおそろしく、身の毛よだちければ、あやしくかへり見るに、容顏(ようがん)たへなる女房、二八(にはち)[やぶちゃん注:十六歳。]あまりにして、靑ききる物を着て、靑き絹がさを、きたり。『いかさまにも變化の物ならん』と、足ばやに逃去(にげさ)りて、猶も、かへり見れば、彼(かの)女房、沼のなかにとび入(いり)て、大きなる河獺となれり。さて、絹がさや、きる物とみしは、蓮(はす)の葉にして、やぶれ散りたると、「太平廣記」にのせたり。これ、獺(をそ)のばけにしためしなれば、太郞も其一門なるべし。太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ。」

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評している。即ち、カワウソが人を騙すルーツは增子氏も指摘されている通り、中国の伝奇小説「搜神記」辺りに求められるわけである(前のリンクの私の注で「太平廣記」の「搜神記」を出典とする当該原典本文も全文示してある)……因みに、現代に河童が居なくなったのは、或いは、我々日本人が、ネコ目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウ Lutra lutra nippon 絶滅させたからかも、知れないな……

『出雲にて昔の「エンコウ」を、今は「川獺」と爲せることは前に述べたり』前のリンク先と同じ「河童ノ詫證文」の冒頭。

「ウミカブロ」「カブロ」は「禿(かむろ)」で髪を短く切りそろえた子供の標準的な髪型で、転じて「子ども・児童」の意となった。

「海瀨(ウミヲソ)」古くからしばしば、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類にこの漢字を当てる。「海禿」も極めてアシカに相応しい。表情も人間的なミミクリーがある。本草学者小野蘭山口述の名著「本草綱目啓蒙」(享和三(一八〇三)年刊)にも「海獺」を「アシカ」に同定している(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該原典の当該ページの画像)。他にも哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris にもこの漢字を当て、難読問題で出したりするが、北海道ならまだしも、対馬暖流が包む佐渡にはラッコは無理である。

「内藤吉之助」昭和三二(一九五七)年に神戸新聞社が翌年の創立六十周年を迎えるに当たって、兵庫県出身で当時八十二歳であった柳田國男に回顧談を求め、柳田はこれを快諾し、全二十五回に亙って聞き書きが行われ、二百回に亙る連載記事となった。これは聞き書きであるからか、「ちくま文庫」版全集には載らない(その後の一九九七年刊の新しい「柳田國男全集」第二十一巻に載っているようだ)が、「青空文庫」で柳田國男「故郷七十年」として電子化されてある。その「明石のカワカムロ」という回に、この名前が出る。

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    明石のカワカムロ

 

 京都はガタロウで通用するとして、丹波の由良川あたりでは何というか。中部地方では河童(かわらべ)の系統でカワランベ、カラランベというのが多く、九州では少し発音を違えてガラッパ、またはカワッパ、カワトノなどと呼ぶ所が多い。

 面白いことに、東西の中間にエンコというのが入りまじっている。すなわち瀬戸内海の両側、山陰、山陽、四国ではエンコという所がある。猿(えん)の字をあてているが、淵猴とも書くことがある。

 その他に、カワゴ(川子)という所がある。エンコを使わない所ではゴウゴとか、カワゴとかいって、これが大分多く行われている。カワゴは河童と同じで、童が児になっただけの違いである。今では川の字をあてたり、河の字を書いたりしているが、漢字の概念ではこれは解釈できないことである。なぜなら日本ではカワというのは水汲み場、水使い場のことをいうのである。水の流れている所、どうどう流れている所ではない。今でも九州あたりでは、流れている筑後川などという方はカワラといい、水汲み場の方をカワとよんで区別している。沖縄あたりでは川がちっともないが、カワという言葉はあり、それは水使い場を指している。

 水使い場を意味するカワという言葉と、童子という言葉を結びつけた河童の名称が、全国に少しずつ違えて三十幾つかある。関東地方の東部のようにカワガッパとはっきりいっている所もある。つまり「水の童子」「水汲み場にあらわれる怪童」といった心持は、全部に共通し、非常にひろく行われているのである。

 河童の名前の中で今も探している名前が一つある。神崎郡の名家で、川辺(かわなべ)(神崎郡市川町)に近い屋形(やかた)出身の、かつて京城大学教授をしていた内藤吉之助という人があった。この人のお父さんは久三郎といって、私を大変世話してくれた人であった。その内藤教授がまだ東大の学生だったころ、「明石の河童は海にいるんです」と話したことがあった。何というのかきくと「カムロ、カワカムロといっています」ということだった。それ以来私は、明石の人にあうといつも聞いてみるが、今以て内藤君の話を裏書きする証拠をつかめずにいるのである。

 なぜこの言葉に心をひかれるかというと、遠く離れた沖縄にあるのである。沖縄では河童のことをカワカムロともインカムロともよんでいる。カムロというのは禿だから、頭を小さめにした毛髪の短い子供、切り髪にした童子にほかならない。沖縄のカワは水汲み場のことであるから、水汲み場にいる子供という意味になる。またインカムロのインというのはこちらの海ということだから、沖縄では海にも河童がいるということになる。所によっては沖縄でもいろいろによぶが、童子(どうじ)と見ている点と、それから九州と同じように、たくさん集まっていたずらをするという点はよく似ているのである。

 海に河童のいる話は、この明石のカワカムロと、もう一つ常陸の那珂(なか)の港の海で河童をとった話が『善庵随筆』に書いてある。

 この方はいつもうつむいて、四つ足で歩いているので、まるで亀みたいなものということになっている。

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内藤吉之助(明治二七(一八九四)年~昭和二一(一九四六)年)は法学者で、訳書にエンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」がある。詳しい事蹟は私が参照した法制史学者著作目録選(WEBにある、「内藤吉之助教授」(PDFを参照されたい。しかし、これを読むと、なんだか変だ。ここではっきり柳田國男は「内藤吉之助は明石では軟骨魚類の鮫(サメ)のことを河童と呼ぶ」と語ったことになっているではないか? 柳田、呆けたか? 私は人の命を奪うことがある危険なサメを時に馬や人を襲うことがある「河童」と呼ぶのは腑に落ちることなのだ。しかも、今も覚えているのだ、一九九二年月八日、瀬戸内海で貝(タイラギか)の潜水漁をしていた方が襲われている。回収された潜水服の一部の咬み痕と当時の水温から、襲ったのは体長五メートルほどの、サメの中でも人を襲った記録が多いホホジロザメ(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザCarcharodon carchariasと結論されているのだ。因みに、引用した柳田國男の「故郷七十年」の「明石のカワカムロ」は、前後にも河童関連の話が語られており、河童の異名を問題としているここの有意な参考ともなるので、以下に引用しておく(この文章は私は所持しておらず、今回初めて読んだ)。「明石のカワカムロ」の直前の「河童考」。

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    河童考

 

 この間漫画家の清水崑君に会ったとき、「清水君、君はよくないね。白い女河童なんか描いて、河童をとうとうエロチックなものにしてしまって……。河童には性別はないはずだよ」というと「いや議論をすると長くなりますから……」と逃げ口上で話を避けてしまった。

 河童という言葉はもともと仮名でカワランベ、即ち川の子供ということなのだから、男女があってはおかしいのではないかと思う。しかし九州などには河童が婿入りをしたという話もあるが、大体において性の問題はないように思う。

 私の河童研究は非常に古く、明治四十一年九州へ行ったころから、二、三年位が絶頂であった。今でも崑君なんかが利用している『水虎考略』、これは必ずしも珍しい本ではないが、「河童は支那にいわゆる水虎なり」という説からこの本が出来、写本も出ている。その中に大変値打があると思う話も四つか五つある。麹町の外堀で見つけたのはこんなのだとか、どこそこのはこうだとか、みんな違った河童が描いてある。幕末に朝川善庵という学者があって、この人の本から引用しているものもある。頭がお河童で、背中に甲羅のある、まるで亀の子のようなものから、褌をしめて素裸になってつっ立っているものなど、五つくらいあったと思う。

 後に内閣文庫を探していたら、同じ『水虎考略』といいながら四冊本になったのが見つかった。一冊はもとのそれを入れ、あとの三冊は九州の書生さんが、興に乗じて方々からの話を集めたもので、書翰体になっていた。多くは九州の話だったが、それは面白い本であった。九州のは群をなしていて、一匹で独立しているのではない。極端な場合には、馬の足型だけの水溜りがあれば、千匹もいるなどという。とにかく狭い所に群をなしているものらしい。東北や関東では九州とは違って一匹ずつの話が多い。河童はこんなに種類は違いながら、名前はどこでも全部、童児、ワラワという言葉がついているのである。

 私の郷里の方ではガタロウ(河太郎)とよぶが、この区域は存外広くない。大阪あたりでも通用しないことはないが、例の『東海道中膝栗毛』が出たころから、河太郎という名称に、差障りが出来たらしい。大阪に河内屋太郎兵衛という豪奢な者が出て、通称河太郎といっていたので、それに気兼ねをしたため、ガタロウといいにくくなったものであろう。京都あたりでは何といっていたか、やはりガタロウといっていたのではないかと思う。

   *

次に、「明石のカワカムロ」の次の「駒ヶ岩の河太郎」と「二篇を続けて引用する。

   *

 

    駒ヶ岩の河太郎

 

 私が『民族』という雑誌を出していたころ、亡くなった早川孝太郎君が、天竜川と大井川との流れについて調べたことがあった。ことに天竜の流れの水の神様のことは丹念に報告してあった。その中に、水の神様から保護を受けている家が、何かの折に神様と縁切れになるという話がある。

 この家では年に一度だけ川から来る人に助けてもらっていたが、その人ははじめに、「俺は蓼が嫌いだから、決して蓼を食わしてくれるな」と固く申入れがしてあった。ところが、あの付近では、ゴンゲノボウといって田植のすんだ時、客を招いてご馳走をするが、ちょうどそのころ蓼がよく育っていて、何処の家でも食膳につけていた。この家でもうっかり蓼をご馳走の中に入れて出したので、川の客も口にしてしまった。するとそれを喰べるや否やとび上って、大声を張りあげ、何か怒鳴ったまま川へとび込んでしまい、それっきりその家へは寄りつかなくなった。それからは今までのように融通してもらえなくなって、とうとう旧家が一軒亡びてしまったという話である。川から来る人は河童だというのである。天竜川辺では河童のことをカワランベとよんでいるが、カワランベは信州の北部の方まで、こういう所が多い。松本の田中磐君という若い民俗学者の調査によると、信州ではどの流れにも必ずといってよいほど椀貸伝説があり、その中には河童から品物を借りる話もあるということである。水の神様から特別に恩恵をうけていたが、たった一つの条件を守らなかったために、幸せを失ってしまったという話の筋で、昔話の重要な趣向である。

 辻川あたりでは河童はガタロというが、随分いたずらをするものであった。子供のころに、市川で泳いでいるとお尻をぬかれるという話がよくあった。それが河童の特徴なわけで、私らの子供仲間でもその犠牲になったものが多かった。毎夏一人ぐらいは、尻を抜かれて水死した話を耳にしたものである。市川の川っぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが、昔はずいぶん大きかった。高さ一丈もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々とした淵になっていた。そこで子供がよく死ぬのである。私ももう少しで死にかかった経験がある。水が渦を巻いているので引き込まれるが、あわてないで、少しじっとしていると、流れのまにまに身体が運ばれ、浅瀬へ押し流されて、浮び上ることができる。そこであまりバタバタすると、渦の底へ引きこまれてしまうのだった。鰻のたくさんとれる所で、枝釣りをよくしたものであった。

 最近の写真でみると、市川べりの駒ヶ岩の頭がほんの少ししか見えなくなっている。岩の頭を欠いで火打石を採ったりしたため、小さくなったのでもあろう。あるいは市川の流れが変って岩が砂に蔽われたものか、子供のころの流れはもっと川幅が広かったことを憶えている。あの付近の人は今でもガタロがいるといっているであろうか。

 

    河童と虬

 

 河童の名前は全国を通じて、河の字と子供という意味の言葉をつけたカワランベ(河童)とかカワコゾウ(河小僧)カワタロ(河太郎)などというのが三十何種かあるが、それ以外に能登半島の東海岸と鹿児島県の南端薩摩湾の指宿あたり、それからとんで北には津軽の北端から北海道へかけて、別系統の名前が残っている。すなわちM音ではじまる河童の呼名である。

 能登ではミズシンといい、土地の人は水の神様だからミズシン(水神)というのはあたり前だといった気持で呼んでいるらしい。鹿児島ではミツドンといい、これは虬(みずち)のことだといっている。虬は何だかわからないけれども、虫扁の字を書くので蛇の一種だと思っているらしいが、ミズシンと関係あるものであろう。

 北の青森県にはメドチという言葉が残っている。外南部あたりではいわないらしいが、津軽のことを書いた古いものの中に平尾魯仙という人の本がある。明治のごく近くになって出来た本だが、この中にメドチのことが詳しく書いてある。河童とは違うなどということもあり、メドチという一種の動物がいるように思っているらしい。ところがこのメドチ、ミズシン、ミツドンは、他地方の河童と同じような性格や話をもっているのである。日本の北と南と真中と、三カ所離れたところに同じようにM音ではじまる似たような名前があって、お互の間に往き来がない。それでこの三つが別々のところにあるというだけでも、かつて河童のことを水神(みずしん)といった時代があるだろうということが証明できるように思っているのである。

 メドチ、ミズチ等の「ち」は、「霊あるもの」の意で、虬は「水の霊」のことをいうのであろう。しかしまだ形がはっきりしていないのに、虫扁に書いてしまったので、この漢字に影響せられて、これは蛇に違いないということになった。蛇は水の中で棲息しないが、虬(みずち)、蛟(みずち)は水中に棲む。土の底に虬がいるといったりする。また日本人はよく間違えて、大蛇も水の底にいるようにいう。この問題はもう少し手掛りを見つけたいと思うが、まだ解決するに至らない。

 河童でもう一つ、戦の時に人手が足りなくて、藁人形を拵え、手の代りに横に竹を一本通して、人間にし、戦に勝ったという話がアイヌにも残っている。飛騨では大工仕事に手が足りなくて藁人形を作り、使って用がなくなると、そこらあたりのものに、とってよいといって水の中に放したという話になっている。そのために、そこらあたりにいる子供までとってしまうのだというのである。虬の手は行き抜けだというが、これもミズチすなわち河童であろうという一つの例である。

 足利時代に流行った「猿猴月をとる」という猿が片手を極端に伸ばしている画題があるが、これが中間にあって、そんな極端な藁人形の行き抜けの手が考え出されたものではなかろうか。

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因みに、「みずち」(歴史的仮名遣「みづち」。古くは「みつち」で清音。「み」は「水」、「つ」は格助詞、「ち」は「霊」の意とされ「水の霊」「水の神」の意)は他に「蛟」「虯」「螭」と書いたりする(但し、これらはそれぞれ異なった龍の種類を指す漢字で本来は別箇なものである)。古代人が恐れた想像上の動物で、水中に棲息し、蛇に似た形をしており、角と四肢をもち、毒気を吐いて、人を害するという、龍の一種である。

『熊野又は但馬にて「ガウライ」』河童に似ており、河童の変異体ともされる、紀伊南部(現在の和歌山県)などで伝承される、妖怪カシャンボ(「カシャボ」とも)がいるが、ウィキの「カシャンボ」によれば、『山に移り住んだ河童が進化したものとする説が有力』で、六、七『歳ほどの子供程度の背丈で』、『頭に皿をかぶり(頭は芥子坊主のようともいう』『)、青い衣を身に着けており』、『犬はその姿を見ることができるが、人間の目には見えない。人間の唾を嫌うらしい』。『和歌山県東牟婁郡高田村(現・新宮市)のある家では、毎年新宮川を遡って来た河童が挨拶に訪れ、姿は見えないが』、『家に小石を投げ込んで知らせ、山へ入ってカシャンボになるという』。『性質は河童と変わらず』、『悪戯者で、山中で作業をしている馬を隠したり、牛小屋にいる牛に涎のようなものを吐きかけて苦しめるという。牛小屋の戸口に灰を撒いておいたところ、そこに残されていたカシャンボの足跡は水鳥のようだったという』。『和歌山県西牟婁郡富里村(現・田辺市)では、カシャンボは雪の降った翌朝に一本足の足跡を残すもので、人に相撲をとろうと持ちかけるが、唾をつけてやると勝つことができるなどと』、『河童と一本だたらが混同されたかのように伝承されている』。二〇〇四年の『春、和歌山県白浜町富田の田畑で謎の足跡が発見され』、四『本足の動物では有り得ない足跡であったことから、カシャンボの仕業と地元の新聞などで報道された』。『國學院大學民俗学研究会が』昭和五二(一九七七)年に『発刊した『民俗採訪』によれば、紀伊では河童のことをゴウライ、あるいは五来法師と呼び、冬の間は山篭りをしておりその間はカシャンボと呼ばれる』とある(下線太字やぶちゃん)。『カシャンボの名称は、悪戯者であることから「くすぐる」を意味する方言の「かしゃぐ」』、『火車 (妖怪)、頭(かしら)などを由来とする説がある』とある。

「ミヅシ」先の柳田の「河童と虬」に出た「虬(ミヅチ)」のようにも見えるが、寧ろ、御霊的神名をわざと欠損させることでそれを封ずる手法から見れば、「これは水神(ミヅシン)」のそれであろうという気がする。しかし引用を「本草啓蒙」とするが、これは先に出した小野蘭山の「本草綱目啓蒙」としか思えないのだが、調べ方が悪いのか、どこに載っているのか判らぬ。

「メドチ」千葉幹夫「全国妖怪語辞典」の青森県の項に「メドチ」と出、『河童のこと。十和田――猿のような顔で体が黒く髪をさらった被った十歳位の子供という。女の子に化けて水中に誘う。人間に子を生ませる』。『紫尻の人を好む』(「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の青森県八戸市の「河童」・「メドチ」の記載によれば、「紫尻(むらさきけつ)」とは『紫いろの斑点が比較的濃く尻に見える』人を指すという。蒙古斑の残存する人か?)『相撲が好きだが』、『腕を下に引くと抜ける、麻幹(おがら)』(皮をはぎ取った麻の茎。これは高い確率で、それが、お盆の迎え火・送り火を焚くのに用いられ、供物に添える苧殻箸とすることと関係があると私は見た)『にとける』。『左甚五郎が木屑に人の尻でも食えといって水に話したという伝説がある。八戸市櫛引では七日盆』(なぬかぼん:七月七日に墓掃除・井戸替え・女の髪洗いなどをして、盆を迎える準備とすること。「盆始め」「七日日(なぬかび)」とも呼ぶ)『には馬をとるという。駒引に失敗、もう取らぬと約束したが』、『生きていけないので滝の明神様に』、『この日だけと願って許されたという』。『一旦見こまれると逃げられず、友達や親戚に化けてきて必ず川に連れ込む。生まれつきの運命だという』とあって、その後に、幕末の万延元(一八六〇)年成立の、画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した「谷(たに)の響(ひびき)」の一節が紹介されているが、これは私が電子化注している「谷の響 五の卷 七 メトチ」であるので、是非、原文を読まれたい。私はその注で「メトチ」は底本の森山泰太郎氏の以前の補註に、『津軽では河童のことをメドチといった。ミヅチ(水の霊)の訛語』とあるとし、しかし、ウィキの「河童」によれば、『水蛇(ミヅチ)の訛りと思われるメンドチ、メドチ、ドチガメ、北海道ではミンツチカムイなどがある』とあるとした。

『「アイヌ」の古言(こげん)には、河童とよく似たるものを「ミンツチ」と云ふ由(よし)』ウィキの「ミントゥチ」によれば、『ミントゥチ(mintuci)またはミントゥチカムイ(mintuci kamuy)は、アイヌに伝わる半人半獣の霊的存在』。『河童に類する妖怪ともいわれる』。『方言によってはミムトゥチ(mimtuci)』、『ミントチ(mintoci)』『と発音される。日本語の文献では「ミンツチ」と表記されることも多い』。『伝説によれば、江戸時代に本土の人々がアイヌと交易を行うために船で北海道を訪れたとき、その船に乗って疱瘡神(疱瘡を司る疫病神)が北海道へやって来て』、『多くのアイヌの人々が病死した』。『当時』、『アイヌの世界を治めていた神・オキクルミは』、六十一『体のチシナプカムイ(ヨモギを十字に組んだ人形)を作り、それらに命を与えて疱瘡神と戦わせた(この人形はオキクルミではなくアイヌの人々が作ったという説もある』『)。この』六十一『体の内の』六十『体は戦死したが、最後に残ったチシナプカムイの大将によって、疱瘡神は全滅した。この戦いで水死したチシナプカムイがミントゥチになったという』。『背格好は』三『歳から』十二、三『歳の人間の子供と同程度で』、『頭には髪があって河童のような皿はなく、肌の色は紫か赤に近く、足型は鳥か鎌の形に似ている』。『両腕が体内でつながっており、片腕を引っ張ると両腕ともに抜けてしまうという、河童と同じ身体的特徴もある』。『土地によって多少の容姿の違いがあるともいい、石狩川では頭が禿げて男女の区別があるもの、十勝平野東部の池田町では小さな老婆だか』、『老爺だか』、『わからない姿で、ときどき「フンッ」という大きな音をたてるという』。『ミントゥチは魚族を支配する神でもあり、漁師たちに漁運を授けるが、それと引き換えに水死者の犠牲も増えるという』。『石狩地方ではミントゥチが魚をたくさん捕らせてくれたが、その代わり』、『毎年必ず何人かを殺すので、人々が日高の静内(現・新ひだか町)のほうへ移って欲しいと頼んだところ、水死者はなくなったが、魚も捕れなくなったという』。『山の狩猟で獲物をもたらすものとも信じられている』。『ミントゥチが若者に化けて』、『若い娘のいる家に婿入りし、その家に猟運や幸をもたらすともいうが、怒らせると』、『その地域一帯の食料の霊を一緒にさらって行ってしまうという、恐ろしい面もある』。『旭川や沙流川』(さるがわ:北海道日高振興局管内を流れ、太平洋に注ぐ一級河川。ここ(グーグル・マップ・データ)。二〇〇四年には国土交通省が行っている全国一級河川の水質調査で一位に選ばれている)『では、ミントゥチが人を守護するという話もある』。『本土の河童と同じように悪戯者ともいわれ、人間や牛馬を水中に引き込んだり、人に憑いたり』、『女に憑いて男を誘惑するという』。『釧路では、濃霧の夜などに不意に前方に人影が現れ、呼びかけにも答えずに前へ歩いていくことがあり、その足跡が鳥のようなので妙だと思っていると、その人影が消えて背後に回り、ミントゥチが隙をついて水中に引きずり込んでしまうという』。『ミントゥチという呼称は、本土の伝承にある蛟(ミヅチ)が由来といわれる』。『アイヌの古老によれば、ミントゥチとは本土の人間が河童種として呼ぶ呼称であり』、『アイヌは「山側の人」の意で「シリシャマイヌ」と呼ぶという』。『禿頭という特徴や「山側の人」という異名から、山の神の性質も兼ね備えているとの説もある』とある。千葉幹夫「全国妖怪語辞典」の北海道の項に「ミンツチ」として出、『湖または川に棲む半人半獣の霊物』で、『三尺ほどの芥子坊主頭を煙管ででも打てば死ぬという』とある。

「さへづり草」原則、引用書名の注は附さないことにしているが、題名の表記も内容も知らない書物なので、注する。ウィキの「さへづり草」その他によれば、「さへづり草」は『和漢の故事、地名人名の由来、俳諧俳人についての噂話、芝居の役者の伝記、動植物の名義、世間の風俗、風評、地理などを書きつづった』随筆で、江戸末期から明治に生きた俳人加藤昶(「えい」と読んでおく。名前では「あきら」「とおる」「いたる」「ひさし」等と読める。なお、もとは田中弥二郎であったものを母方の姓にし、名も改めたもの。恐らく彼は江戸幕府の下級官吏であったと推定されている。後の別な引用を参照)で、『号は雀庵のほかに堤隣翁、千声などが存在し、俳諧では升金、篠廼舎、白鴎などの号を持つ』。明治八(一八七五)年十二月に数え八十一歳で没した。『天保年間から文久』三(一八六三)年までの約三十年間に『雀庵が「見聞に任せて座右消閑にものしたるもの」を』明治四三(一九一〇)年に『室松岩雄編・雀庵長房著「さへづり草 むしの夢」として一致堂書店より刊行された』とある。「西尾市岩瀬文庫 古典籍書誌データベース」の「筆蔵」(加藤が執筆に関わっている)の書誌の備考には、『加藤雀庵/本名田中弥二郎後加藤昶と改む、明治八乙亥年十二月十日歿す、行年』(ぎょうねん:満年齢に同じ)『八十、辞世、花七日人も七日のひと流れ、南千住真養寺に葬る』とあり、別に「さへづり草」は『十一(以上火にやけたり)より二百三十七巻マ』デ『アリ』、『皆』、『二冊ヨセナリ、大抵』、『抄録ニ自考ヲ加ヘタルモノ多』シ『ト雖モ』、『取ル』ベ『キモノハ幾多モナシ、今』、『売物トナリタルヲ』、『井上頼圀』、『買得タリ、雀菴ハ幕府ノ軽』(かろ)『キ給人ナル』ベ『シ』。『俳諧師也』。『加藤昶』、『雀菴ト号ス』。「藤の長房」ナド『種々ノ名アリ、地震ノ記ナ』ド『ハ実際ノコト多シ、大風』(たいふう)『ノ記モアリ』「コロリ」『モアリ、明治五年ノ記アリ、其年七十七才ナリ、初メ深川ニ居リ、其後』、『三ノ輪、橋辺、等ニ移リ、明治ノ後ハ』、『又』、『三ノ輪ニ居テ、此ノ没シタルニヤ』、『其後ノコト見ヘ』ズ」と記す。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(15) 「河童ニ異名多シ」(1)

 

《原文》

河童ニ異名多シ  河童トハ本來何物ナルカ。少クモ我々ノ多數ハ之ヲ何物ナリト信ジツヽアルカ。此問題ニ答ヘンガ爲ニハ、是非トモ順序トシテ河童ノ別名又ハ方言ヲ比較セザルべカラズ。予ハ此迄ハ便宜上東京語ヲ用ヒテ之ヲ「カツパ」ト呼ビタレドモ、是レ單ニ此物ノ名稱ノ一種ニシテ、比較的弘ク採用セラレテアル者ト云フニ過ギザルナリ。【ガタロ】予ガ如キモ幼時之ヲ「ガタロ」ト稱ヘタリ。「ガタロ」ハ恐クハ川太郞ノ義ナラン。「カツパ」ハ卽チ川童(カハワツパ)ニシテ、「ワツパ」トハ小兒ヲ意味スル近世ノ俗語ナリ。【カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】畿内及ビ九州ノ一部ニテハ「カハタロウ」、【カワランべ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】【川小僧】尾張ニテハ「カワランべ」又ハ川小僧、【川小法師】伊勢ノ山田ニテ川小法師、【川原小僧】同ジク白子ニテ川原小僧ト云ヒ〔物類稱呼二、本草綱目釋義四十二其他〕、【カウラワロウ】筑前ニ「カウラワロウ」、【ガアラツパ】肥後ニ「ガアラツパ」ナドト云フモ同ジ事ニテ、要スルニ此物ノ人間ニ比シテ形小ナルコトヲ意味スルノミ。【カウゴ】備前・備中等ニ於テ之ヲ「カウゴ」ト呼ブハ、出雲ニ於テ河子ト稱スルニ同ジク、川ノ子ト云フ義ナルコト疑ナシ。備中ニテモ松山ニテハ「カハコウ」ト云ヒ、岡田ニテハ「ガウコ」ト云フ。同國吉備郡川邊村ノ川邊川ノ流レニ河子(カハコ)岩アリ。元ノ名ハ吉田岩、元龜年中松山落城ノ際ニ、吉田左京ガ腹ヲ切ツタル岩ナレドモ、後世ニハ「カハコ」ガ出テ引クゾナドト小兒ヲ嚇スヤウニナリテ、終ニ此名ニ改マリシナリ〔備中話十一〕。同ジ地名ハ遠近ノ諸國ニモ亦多ク存ス。

  備前兒島郡藤大字天城川子石小字川子石

  美作久米郡鶴田村大字和田南年貢田小字川子岩

  丹後熊野郡久美谷村大字栃谷カハゴ石

  信濃北安曇郡八阪村川古石

  甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石

  相模中郡大磯町大字大磯高麗道下小字川子石

  武藏比企郡七鄕村大字越畑川後石

ノ如キハ其例ナリ。【神護石】近年評判ノ「カウゴ」石ナル者ハ、勿論悉ク河童ノ故跡ナリトハ云フ能ハズ。或者ハ革籠石(カハゴイシ)ト書シ又ハ香合石(カウゴフイシ)ト書シテ、其形狀ノ革籠又ハ香合ニ似タルガ故ノ名稱トシ、【神功皇后】或者ハ皇后石ト書キテ神功皇后ノ御遺跡ナドト言ヒ、其他ニモ區々ノアレド要スルニ古クヨリ土地ノ人ノ注意シ尊敬シ居タル石ニシテ、尋常ノ場所ニ非ザリシコトノ外、何等確乎タル明ヲ見出ス能ハズ。而シテ神籬(ヒモロギ)對山城ノ八釜シキ石ノ圓形ノ圍障ハ、此「カウゴ石」ト無關係ナルコトハ次第ニ明白トナレリ。

 

《訓読》

河童に異名多し  河童とは、本來、何物なるか。少くも、我々の多數は、之れを何物なりと信じつゝあるか。此の問題に答へんが爲には、是非とも、順序として、河童の別名、又は方言を比較せざるべからず。予は此れまでは、便宜上、東京語[やぶちゃん注:東京方言。]を用ひて之れを「カツパ」と呼びたれども、是れ、單に此の物の名稱の一種にして、比較的弘(ひろ)く採用せられてある者と云ふに過ぎざるなり。【ガタロ】予がごときも、幼時、之れを「ガタロ」と稱へたり。「ガタロ」は、恐くは「川太郞(かはたらう)」の義ならん。「カツパ」は、卽ち、「川童(カハワツパ)」にして、「わつぱ」とは「小兒」を意味する近世の俗語なり。【カハタロウ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】畿内及び九州の一部にては「カハタロウ」、【カワランべ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]】【川小僧】尾張にては「カワランべ」又は「川小僧」、【川小法師】伊勢の山田にて「川小法師」、【川原小僧】同じく白子(しろこ)[やぶちゃん注:現在の鈴鹿市白子(しろこ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]にて「川原小僧」と云ひ〔「物類稱呼」二、「本草綱目釋義」四十二其の他〕、【カウラワロウ】筑前に「カウラワロウ」、【ガアラツパ】肥後に「ガアラツパ」などと云ふも、同じ事にて、要するに、此の物の、人間に比して、形、小なることを意味するのみ。【カウゴ】備前・備中等に於いて、之れを「カウゴ」と呼ぶは、出雲に於いて「河子(カハゴ)」[やぶちゃん注:私の推定訓で、カタカナ書きとした。]と稱するに同じく、「川の子」と云ふ義なること疑ひなし。備中にても松山にては「カハコウ」と云ひ、岡田にては「ガウコ」と云ふ。同國吉備郡川邊(かはべ)村の川邊川の流れに「河子(かはこ)岩」あり。元の名は「吉田岩」、元龜年中[やぶちゃん注:一五七〇年~一五七三年。]、松山落城の際に、吉田左京が腹を切つたる岩なれども、後世には、『「カハコ」が出て引くぞ』などと小兒を嚇(おど)すやうになりて、終(つひ)に此の名に改まりしなり〔「備中話」十一〕。同じ地名は遠近(をちこち)の諸國にも亦、多く存す。

  備前兒島郡藤大字天城(あまき)川子石小字川子石

  美作久米郡鶴田(たづた)村大字和田南年貢田小字川子岩

  丹後熊野郡久美谷(くみたに)村大字栃谷(とちだに)カハゴ石

  信濃北安曇郡八阪村川古石

  甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石

  相模中郡大磯町大字大磯高麗道下(こまみちした)小字川子石

  武藏比企郡七鄕(ななさと)村大字越畑(おつぱた)川後石

のごときは其の例なり。【神護石(かうごいし)】近年評判の「かうご」石なる者は、勿論、悉く河童の故跡なりとは、云ふ能はず。或る者は「革籠石(かはごいし)」と書し、又は「香合石(かうごふいし)」と書して、其の形狀の革籠又は香合に似たるが故の名稱とし、【神功皇后(じんぐうくわうごう)】或る者は、「皇后石」と書きて「神功皇后の御遺跡」などと言ひ、其の他にも區々の[やぶちゃん注:さまざまな。]あれど、要するに、古くより土地の人の注意し尊敬し居(をり)たる石にして、尋常の場所に非ざりしことの外、何等、確乎たる明を見出だす能はず。而して神籬(ひもろぎ)對(たい)山城(やまじろ)の八釜(やかま)しき石の圓形の圍障(ゐしやう)、此の「かうご石」と無關係なることは次第に明白となれり。

[やぶちゃん注:この章、「ちくま文庫」版は読むに堪えない。何故なら、新仮名に否応なしに変換しているため、河童の地方名を平然と変換しているからである。それこそ柳田國男が見たら、淋しそうに微苦笑するだろう。例えば(「→」の下が「ちくま文庫」版で書き直された表記)、

カハタロウ→カワタロウ

カウラワロウ→コウラワロウ

ガアラツパ→ガアラッパ

カウゴ→コウゴ

ガウコ→ゴウコ

である。例えば、最後の「カウゴ」の「コウゴ」、「ガウコ」の「ゴウコ」への書き換えは無条件に本当に正しい(歴史的仮名遣の機械的な現代仮名遣への変換を絶対真理定則とすること。にしたって柳田國男自身が「カハタラウ」とすべきを「カハタロウ」としている誤りを変換者はどうするのか? これは取りも直さず、実は確かに「かはたろう」(「かわ」ではなく、だ)と当地の人間が発音していた可能性を排除できないぞ?!)と言えるのだろうか? 「ちくま文庫」の編者は実際にそれぞれの現地に赴いて、その発音を実地に聴取して変換したのだろうか? 私は、こうして民俗資料は変形してゆくのかも知れぬと、そら恐ろしい気がしたものである。

「白子(しろこ)」現在の鈴鹿市白子(しろこ)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「備中」「松山」現在の岡山県高梁(たかはし)市内山下(うちさんげ)ここ。にあった備中松山城に由来する古地名。

「岡田」現在の岡山県倉敷市真備町岡田か。ここ

「同國吉備郡川邊村」岡山県倉敷市真備町川辺。ここ

「松山落城の際に、吉田左京が腹を切つたる岩なれども」「高梁市」公式サイト内の「備中松山城の沿革」に、永禄四(一五六一)年に『安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城』(なりわかくしゅじょう)『(現高梁市成羽町)城主の三村家親(みむらいえちか)が備中松山城を攻め、尼子氏の加番吉田左京亮(よしださきょうのすけ)を討ち破り、備中松山城主とな』ったとある人物であろうか。

「備前兒島郡藤大字天城(あまき)川子石小字川子石」現在の岡山県倉敷市藤戸町天城。ここ。その倉敷川左岸のどこかと思われる。

「美作久米郡鶴田(たづた)村大字和田南年貢田小字川子岩」岡山県岡山市北区建部町鶴田。ここ。但し、地図を拡大して見て戴けば判る通り、同地区の中心部で旭川は堰き止められて、上流部に旭川湖が出来ているから、この地区は大きく変化しているものと思われる。「年貢田」の地名の読みは不明。「ねんぐだ」と一応は読んではおく。

「丹後熊野郡久美谷村(くみたに)大字栃谷(とちだに)カハゴ石」京都府京丹後市久美浜町栃谷。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信濃北安曇郡八阪村川古石」長野県大町市八坂ここ。この地区内の現在の狭義の八坂地区は、地区東端の犀川の方ではなく、中央の国土地理院図のここで、この八坂地区の西を南流する川が流れており、推理するに、この川辺附近ではなかろうか。但し、ウィキの「八坂村(長野県)」を見ても、明治八(一八七五)年二月に『筑摩県安曇郡大平村・相川村・切久保村・大塚(だいづか)村・野平村・舟場村・左右村・槍平(うつぎだいら)村および丹生子村の一部(枝郷菅の窪)が合併して八坂村となる』とあり、「八阪」の表記は見られない。柳田國男の誤記の可能性もある。

「甲斐南都留郡船津村大字大富土堀小字川子石」山梨県南都留郡富士河口湖町船津は河口湖南岸のここ「山梨日日新聞社 YBS山梨放送」の共同サイト「富士山NET」の「地名の由来は?=大富村(おおとみむら)」によれば、近世、富士北麓の河口湖南岸にあった船津村と小立村の二村が、明治八(一八七五)年に合併して大富村となった。この村名は、『往古』、『この地方を流れていたといわれている大田川(おおたがわ)の』「大」『と、南』の『空にそびえる富士山の』「富」『を合成したと伝えている』。当初は『都留郡に属し』、明治一一(一八七八)年から、『郡名変更により』、『南都留郡に所属』し、明治二二(一八八九)年には『分村して船津村、小立村とな』ったが、昭和三一(一九五六)年には』、『再度』、『合併して河口湖町の地区となる』。その後、二〇〇三年十一月、『河口湖町、勝山村、足和田村が合併して富士河口湖町とな』ったとある。この記載からは、柳田の記す「船津村大字大富」という地名は、実は大富村時代の近代に新たに与えられた大字地名であることが判る。さて、上記リンク先の船津地区は、国土地理院図で見ても、小流れ一つ、見出せない。その遠い昔にここに流れていたという幻しの川「大田川」の河童だったのか? いや、待てよ? しかし、河口湖があるぞ? 池に住む河童が大きな湖に住んでいたっておかしか、ない。そこで調べてみると、河口湖には河童伝承があることが判った。しかも、腕を取られたのでもなく、咎められたのでもないのに、家内の炙り魚を盗んだお詫びに、自発的に! 万能膏薬の製法書きを置いて行ったという驚天動地の話が載るのである! 「富士五湖観光連盟」の公式サイト富士五湖ぐるっとつながるガイド」の「かっぱめし」のページから引く。『昔々、河口湖には河童が住んでいて、人間ともうまくやっていた。人々は、河童には神通力があり、何にでもよく効く万能薬を持っているとも信じていたという。河口湖には、河童にまつわるいくつもの伝説が、今も伝えられている』。『ある年のこと、湖畔の庄屋さんの家に誰かが忍び込み、保存用のあぶり魚を持ち去っていくという出来事が続いたそうな。あぶり魚が無くなった日は、決まって辺りが濡れているので、庄屋さんの家では「どうやら河童の仕業らしい」と、諦めていたそうな』。『ある晩のこと、庄屋さんは、囲炉裏のそばで巻紙を見つけたそうな。「こんなところに誰が置きっぱなしにしたんだろう?」不思議に思って広げてみると、河童膏の作り方が書いてあったそうな。「さては、河童があぶり魚を盗んだお礼にと、置きみやげをしていったのだな」。そう思った庄屋さん、試しに作ってみたところ、病気や傷、腫れものにも、効果てきめん!』 『庄屋さんはこの薬のおかげで、大金持ちになったとさ』。『これは、河口湖に伝わる河童伝説のひとつ、「河童の膏薬」というお話。実際に、かつて河口湖周辺では、はまぐりの貝殻に入れられた塗り薬「河童膏」が売られていて、名薬として人気を博したと言う』というのだ! これ、この地名を出す以上、柳田國男は河童伝説を知っていたはずだ。だのに、何故、書かなかったのか? 人も怒らず、腕も斬られず、自身の謝罪意識から秘薬の製法を人間に伝えたというコンセプトが、今までの骨接ぎコンセプトの定式と、全然、マッチしないからだ。こういう都合の悪い例を除去するのは彼の得意とするところで、「蝸牛考」の「方言周圏論」でも、合致しないカタツムリの呼称をわざと採録していなかったりするのだ。これはそれこそ現在、データ操作や捏造で科学論文を書いて指弾されるのと、全く同等なのであって、柳田國男の「民俗学」なるものが、フロイトの汎性論的「精神分析学」のように、今一つ、どこか、胡散臭いものを感じさせる所以である。

「相模中郡大磯町大字大磯高麗道下(こまみちした)小字川子石」神奈川県中郡大磯町高麗(こま)の花水川右岸のどこかであろう。

「武藏比企郡七鄕(ななさと)村大字越畑(おつぱた)川後石」埼玉県比企郡嵐山町越畑(おっぱた)。ここ。地区の南西端を市野川が流れる。さても。「ちくま文庫」版全集の編者がいい加減な仕儀で読みを振っていることが判った。この「越畑」にはルビがない。誰がこれをルビ無しで「おっぱた」と読むか? 現地を知る人以外は「こしはた」としか読まんだろ!

「神護石(かうごいし)」『近年評判の「かうご」石』「神籠石」とも書き、現代仮名遣では「こうごいし」。福岡県久留米市高良大社を廻(めぐ)る切石(きりいし)列石を、古く「神籠石」と呼んでおり、九州から瀬戸内一帯に見られる山を廻る列石遺跡を、この名で呼ぶようになった。高良大社のそれから、神域を示す施設、ここに言う「神籬(ひもろぎ)」とする説もあったが、近年の調査により、古代の山城であることが判明した。福岡・佐賀・山口・岡山・香川で十三ヶ所が判明している。山の尾根や斜面に数キロメートルにも亙って列石や土塁を築き、門が設けられている。朝鮮式山城(やまじろ)との密接な関係があると考えられ,時代も同じ六世紀後半から七世紀頃に構築されたものと推定されている(以上は平凡社の「マイペディア」と「世界大百科事典」をカップリングした)。

「神功皇后」記・紀にみえる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。父は開化天皇の曾孫である気長宿禰(おきながのすくね)王。「日本書紀」によれば、仲哀天皇八年に、天皇の熊襲(くまそ)征討に従い、筑紫に赴いたが、天皇が急死、翌年には、自ら、兵を率いて新羅(しらぎ)を征服、百済(くだら)・高句麗(こうくり)をも帰服させたとする。帰国後に応神天皇を出産、国政を六十九年に亙ってとりしきり、百歳で没したという伝説の女傑。彼女に纏わる伝承地や遺跡とするものは西日本に数多く見られる。

「革籠」「かわご」(現代仮名遣)は、竹や籐(とう)などで編んだ上に皮革を張った蓋付きの籠。後には紙張りの箱や行季なども、かく称した。

「香合」「こうごう」(現代仮名遣)は、香を収納する蓋付きの小さな丸い円盤状の容器。

「神籬(ひもろぎ)對(たい)山城(やまじろ)の八釜(やかま)しき石の圓形の圍障(ゐしやう)」:「神籬(ひもろぎ)」とは、「ひ」は「霊」を、「もろぎ」は「籬(まがき)によって神を守る」の意とされ、神霊が憑依している山・森・老木などの周囲に常磐木を植え。玉垣を結んで、神の座、「神籬(ひもろぎ)」とした(或いはそう見なされた)ものを指す。「山城(やまじろ)」は古代から中世辺りまでの実用的な山寨(さんさい)、防衛装置として山の地形を利用したり、植林したり、石垣を積んで「山城(やまじろ)」・砦としての主に実用的軍略上の目的で建造されたもの。古くより、各地の山や丘陵地に存在する遺跡を神道家や国学者は何かというと、そうした遺跡を「神籬」と断じてきたが、近世・近代以降、その中の有意なものが、欠損した古墳や実用的な住居、特に城砦跡であることが判明してきた。そうした議論や発掘による論争を指して言っているものであろう。]

2019/02/01

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(14) 「諸國河童誌ノ矛盾」

 

[やぶちゃん注:以下のパートには二枚のキャプション附きの挿絵がある。最初のキャプションは(右から左へ表記)、「水ノ海ニテ捕ヘタル河童」(水(みと)の海にて捕へたる河童)、次のそれは、「相撲ヲ好ム筑後川ノ河童」(相撲(すまふ)を好む筑後川の河童)である。思うに、孰れも以下の本文に出る、昌平坂学問所の儒者古賀侗庵(こがどう(とう)あん 天明八(一七八八)年~弘化四(一八四七)年:名は煜(いく)、字は季曄(きよう)、通称は小太郎。侗庵は号。古賀精里(せいり:佐賀藩士で藩主鍋島治茂に仕え、藩校弘道館教授)の三男。幼少より父について学び、寛政八(一七九六)年、父に従って江戸に移住後、文化六(一八〇九)年に幕府儒者見習に抜擢され、父子ともに昌平黌に出仕し、文化十四年に儒者に昇進、天保一二(一八四一)年に布衣(ほい)を許された(六位叙位者相当の認可を言う)。家学の朱子学を奉じ、西洋事情・海防問題にも深い関心を示し、しばしば建言した。主著に「劉子論語管窺記」「海防臆測」「学迷雑録」等)が、同門下で、関東・東海の代官を歴任した羽倉用九(はくらようきゅう)や、幕臣で「寛政譜」編纂に携わった中神君度(なかがみくんど)から提供された、河童遭遇者からの聞取情報に、和漢の地誌や奇談集から集めた河童情報を合わせて、文政三(一八二〇)年に一冊に纏めた、本邦初の河童考証資料集「水虎考略」が原図とは思われる。なお、後にこれには、江戸城御殿医で著名な本草学者でもあった栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年:私はサイトの「心朽窩旧館」で「栗氏千蟲譜」の水族パートや、ブログ・カテゴリ「栗本丹洲」で彼の諸作の電子化注を行っている)が、各地で捕獲・目撃されたとされる河童の写生図などを多数付け加えている(ここまでは諸辞書及び「岩瀬文庫コレクション」の「水虎考略の解説等に拠った)。「水虎考略」は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらで宮内庁書陵部蔵本全篇を画像で視認出来る。但し、一枚目は明らかに、それの三十四コマ目の図であるが、後者のそれは、七コマ目図に似ているものの、両手の手先の描き方や、頭部の皿の周囲の頭髪(「水虎考略」のそれは有意に長く、ふさふさしている)に有意な違いが認められるので、少なくともそれを元に描き直したものと推定する(出所不明)さて、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものは画像がひどく粗く、提示するに躊躇する代物である。しかし、宮内庁書陵部蔵本の画像は掲載には宮内庁書陵部の許可が必要で(実際には許可を示さずに掲げているページを散見するが)、ここにそれらを代わりに示すのは面倒なので、しない。その代わり、一枚目は、恐らく上記の丹洲が多色で描き直したものがウィキの「河童」にパブリック・ドメインそして添えてあるので、それを代わりに掲げた。しかし、二枚目は同一と思われる無許可で使用可能な鮮明な絵図を見出し得ないので、仕方なく、まだマシな(但し、顔つきや柳田の言う「華美ナル」褌(ふんどし)等は識別が全く出来ない)「ちくま文庫」版柳田國男全集第五巻(一九八九年刊)に載るものを、OCRで取り込んで示した。前者は申し分ない(但し、文章が周囲に配されていて、原図とははっきりと異なる)ない画像であるが、後者は是非とも「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の七コマ目を視認されたい。細部までよく判る。

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ノ海ニテ捕ヘタル河童

 

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相撲ヲ好ム筑後川ノ河童

 

《原文》

諸國河童誌ノ矛盾  サテモ此世ノ中ニ河童ト云フ一物ノ生息スルコト、既ニ動カスべカラザル事實ナリトスレバ、次デ起ルハ其河童ハ動物ナリヤ、ハタ又鬼神ナリヤト云フ一問題ナリ。此問題ノ解決ニ付キテモ、諸國ニ於ケル河童捕獲ノ記錄ハ尚且ツ有力ナル資料ナリ。今ヨリ僅カニ百餘年ノ前、卽チ文化文政ノ頃ハ、人間ト河童トノ交涉最モ頻繁ナル時代ナリキ。露西亞ノ「ガローニン」ガ遭厄日本記事ニスラ、河童ノ題目ヲ看過セズ。【河童硏究】天下ノ一奇書水虎考略ガ世ニ公ニセラレタルモ亦此前後ノ事ナリ。所謂太平ノ餘澤ナリシカ否カ、九州地方ノ河童ニ就キ系統的ノ硏究ヲ試ミシ人アリ。此書ハ則チ其人ノ手ニ成リシモノ也。ソレヨリ少シ以前ニ常陸水ノ海濱ニ於テ漁夫ノ網ニ掛リテ一頭ノ河童捕殺セラル。其又數十年ノ前ニハ越前某村ニ於テ河童ヲ生擒シ之ヲ將軍家ニ獻上セシ者アリ。河童ノ生メル子ハ頗ル人間ノ赤兒トヨク似タリト謂ヘリ。更ニ寬永某歳ノ昔ニ於テモ、豐後ノ日田ニテ捕ヘタリト云フ河童アリ。此等ハ何レモ立派ナル寫生ノ繪圖アリテ今日ニ傳ハリ、殆ド疑ヲ容ルべキ餘地無キニモ拘ラズ、何分ニモ合點ノ行カザル一點アリ。卽チ諸國ノ河童ノ形狀及ビ生活ニハ地方ニヨリ餘程ノ相違アルコト是ナリ。【河童ノ毛】例ヘバ九州筑後川流域ノ河童ハ肌膚褐色ニシテ總身ニ毛アルニ反シテ、三河越前等ノモノハ靑黑クシテ毛無ク、所謂「オカツパ」ノ部分ニノミ人間ノ小兒ト同ジキ毛ヲ頂ケリ。豐前北部ニ於ケル報告ニ依レバ、河童ハ海月又ハ白魚ノ如ク、水中ニ在ツテハ透明ニシテ形ヲ見ル能ハズト云フニ、【甲良】常陸ノ海ノ河童ハ眞黑ニシテ而モ背ニハ頑丈ナル甲良ヲ被レリ。琉球ニテハ河童ヲ「カムロー」ト云フ。水陸兩棲ノ動物ニシテ形三四歳ノ童子ノ如ク、面ハ虎ニ似テ鱗甲アリト云フニ〔沖繩語典〕、和漢三才圖會ニ記述スル九州中國ノ川太郞ハ、十歳バカリノ小兒ノ如ク裸形ニシテ能ク立行シ人語ヲ解ストアリ。【顏色】予ハ河童ノ顏色ハ靑黑キモノト信ジ居タルニ、陸中其他ニ於テハ其面朱ノ如ク赤シト言傳フ〔遠野物語〕。越後新潟ノ河童ニ至ツテハ常ニ龜ト同ジク匍行スル怪物ナルニ反シテ、九州ノ河童ノ人ト相撲ヲ取ル事ヲ好ム者ハ往々ニシテ華美ナル犢鼻褌ヲヒケラカシテ闊步スルアリ。此等ハアマリニ顯著ナル差異ニシテ、到底單ニ河童文明ノ地方的優劣ノミヲ以テ之ヲ明シ去ルコト能ハザルニ似タリ。而シテ右ノ如キ記述ノ矛盾ヲ解決スルノ方法ハ唯一ツアルノミ。卽チ今迄ノ人ガ河童ナリト認メテ寫生シタル物ノ一二又ハ全部ハ正眞ノ河童ニテハ非ザリシコト是ナリ。例ヘバ常陸ノ漁夫ガ海上ニ於テ打殺セシ動物ノ河童ナリシコトハ如何ニシテ之ヲ知リタルカ。何レノ地方ニテモ予ハ河童ト云フ者ナリト名乘リタル河童ハ有ルマジケレバ、此ノ如キ誤リタル想像ハ有リ得べキ道理ナリ。總體此物ノ特性又ハ生活狀態ニ關スル吾人ノ視察ハ、未ダ十分ニ精細ナリト言フコト能ハズ。河童ノ記錄ハ諸國共ニ豐富ナルニモ拘ラズ、此ニモ亦頗ル著シキ相違ノアリ。故ニ若シ記述ノ些カニテモ區々ニ亙レル部分ヲ不確實ナリトシテ排除ストセバ、此物ノ存在ハ次第ニ茫漠トナリ行クヲ免レ難シ。【記錄乏シ】殊ニ河童出現ノ事實ノ書史ニ見ユルモノ、甚シク近世ノ二三百年間ニ偏レルコトハ、誠ニ凡庸ノ歷史家ニ取リテハ大ナル疑ノ種ナリトス。下學集以前倭名鈔以後、歷代ノ語彙ニ其名目ヲ揭ゲズ、渡來發現等ノソレラシキ記事ヲ見出ス能ハザルガ爲ニ、今後尚幾多ノ臆ヲ存立セシメ得べキ餘地アリ。併シナガラ前ニ列擧セル多クノ馬引失敗記ヲ見テモ明瞭ナルガ如ク、何人モ認メザルべカラザル一事アリ。何ゾヤ。曰ク、諸國ノ碧潭ニ棲ミテ、時々馬又ハ人ノ子ヲ水ニ引込マントスル物ハ河童ナリ。

 

《訓読》

諸國河童誌の矛盾  さても、此の世の中に「河童」と云ふ一物の生息すること、既に動かすべからざる事實なりとすれば、次いで起こるは、「其の河童は動物なりや、はた又、鬼神なりや」と云ふ一問題なり。此の問題の解決に付きても、諸國に於ける河童捕獲の記錄は、尚ほ且つ、有力なる資料なり。今[やぶちゃん注:本書の刊行は大正三(一九一四)年。]より僅かに百餘年の前、卽ち、文化・文政[やぶちゃん注:一八〇四年~一八三〇年。]の頃は、人間と河童との交涉、最も頻繁なる時代なりき。露西亞の「ガローニン」が「遭厄日本記事」にすら、河童の題目を看過せず。【河童硏究】天下の一奇書「水虎考略」が世に公にせられたるも亦、此の前後の事なり[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、文政三(一八二〇)年成立で本書刊行の九十四年前。]。所謂、太平の餘澤なりしか否か、九州地方の河童に就き、系統的の硏究を試みし人あり[やぶちゃん注:冒頭に注した通り、古賀侗庵は佐賀出身。]。此の書は、則ち、其の人の手に成りしものなり。それより少し以前に、常陸(ひたち)水の海濱に於いて、漁夫の網に掛りて、一頭の河童、捕り殺せらる。其の又、數十年の前には、越前某村に於いて、河童を生擒(いけど)りし、之れを將軍家に獻上せし者あり。河童の生める子は頗る人間の赤兒(あかご)とよく似たりと謂へり。更に、寬永某歳[やぶちゃん注:寛永は一六二四年から一六四五年まで。]の昔に於いても、豐後(ぶんご)の日田(ひた)[やぶちゃん注:現在の大分県日田市(グーグル・マップ・データ)。]にて捕へたりと云ふ河童あり。此等(これら)は何(いづ)れも立派なる寫生の繪圖ありて、今日に傳はり、殆ど疑ひを容(い)るべき餘地無きにも拘らず、何分にも合點の行かざる一點あり。卽ち、諸國の河童の形狀及び生活には地方により餘程の相違あること、是れなり。【河童の毛】例へば、九州筑後川流域の河童は肌膚(きひ)、褐色にして、總身に毛あるに反して、三河・越前等のものは、靑黑くして、毛、無く、所謂「おかつぱ」の部分にのみ、人間の小兒と同じき毛を頂(いただ)けり。豐前北部[やぶちゃん注:現在の福岡県東部と大分県北部。]に於ける報告に依れば、河童は海月(くらげ)又は白魚(しらうを)のごとく、水中に在つては透明にして、形を見る能はずと云ふに、【甲良(かふら)[やぶちゃん注:「甲羅」。「ら」は恐らく「そのような状態にあること」を示す接尾語であるので、「良」「羅」も当て字。]】常陸の海の河童は、眞黑にして、而(しか)も、背には頑丈なる甲良を被れり。琉球にては「河童」を「カムロー」と云ふ。水陸兩棲の動物にして、形(なり)、三、四歳の童子のごとく、面(おもて)は虎に似て、鱗甲(りんかふ)[やぶちゃん注:鱗を伴った或いは鱗状の甲羅の意。]あり、と云ふに〔「沖繩語典」〕、「和漢三才圖會」に記述する九州・中國の「川太郞(かはたらう)」は、十歳ばかりの小兒のごとく、裸形(らぎやう)にして、能く立行(りつかう)し、人語を解す、とあり[やぶちゃん注:私の寺島良安漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「川太郎(かはたらう)」の項を参照されたい。私の膨大な注を附してある。なお、同書は正徳二(一七一二)年頃の成立であり、河童の博物学的記載としては先駆的なものである]。【顏色】予は河童の顏色は靑黑きものと信じ居(ゐ)たるに、陸中其の他に於いては、其の面(おもて)、朱(しゆ)のごとく赤し、と言ひ傳ふ〔「遠野物語」[やぶちゃん注:私が先般行った『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 五五~五九 河童』の「五九」を指しているようだが、そこでは、『外(ホカ)の地にては河童の顏は靑しと云ふやうなれど、遠野の河童は面(ツラ)の色(イロ)赭(アカ)きなり』であって「朱(しゆ)のごとく赤し」などとはなっていない。或いは佐々木喜善が語った時にはそう言ったのを柳田は記憶していて、かく書いたものかも知れない。]〕。越後新潟の河童に至つては、常に龜と同じく匍行(ほかう)する[やぶちゃん注:這いずって(匍匐(ほふく)して)歩く。但し、この語は「土壌がわずかずつ、斜面の下方へ移動すること」を指す語である。]怪物なるに反して、九州の河童の、人と相撲を取る事を好む者は、往々にして、華美なる犢鼻褌(たふさぎ)[やぶちゃん注:褌(ふんどし)。]をひけらかして闊步するあり。此等は、あまりに顯著なる差異にして、到底、單に河童文明の地方的優劣のみを以つて、之れを明し去ること、能はざるに似たり。而して、右のごとき記述の矛盾を解決するの方法は唯一つあるのみ。卽ち、今までの人が「河童なり」と認めて寫生したる物の一、二、又は全部は、正眞(しやうしん)の河童にては非ざりしこと、是れなり。例へば、常陸の漁夫が海上に於いて打ち殺せし動物の河童なりしことは、如何にして之れを知りたるか。何れの地方にても、「予は河童と云ふ者なり」と名乘りたる河童は有るまじければ、此(か)くのごとき誤りたる想像は有り得べき道理なり。總體、此の物の特性又は生活狀態に關する吾人(ごじん)[やぶちゃん注:我々。]の視察は、未だ十分に精細なりと言ふこと、能はず。河童の記錄は諸國、共に豐富なるにも拘らず、此(ここ)にも亦、頗る著しき相違のあり。故に、若(も)し、記述の些(わづ)かにても區々(くく)に亙(わた)れる部分を「不確實なり」として排除すとせば[やぶちゃん注:ここは「小さなこと・細部のとるに足らない部分にまで拘わって、全体を『不確実なものだ』と批判することを言っている。]、此の物の存在は、次第に茫漠となり行くを免(まぬか)れ難し。【記錄乏し】殊に河童出現の事實の書史に見ゆるもの、甚しく近世の二、三百年間に偏(かたよ)れることは、誠に凡庸の歷史家に取りては大いなる疑ひの種なりとす。「下學集(かがくしふ)」以前、「倭名鈔(わみやうせう)」以後、歷代の語彙に其の名目を揭げず、渡來・發現等のそれらしき記事を見出だす能はざるが爲に、今後、尚ほ、幾多の臆を存立せしめ得べき餘地あり。併しながら、前に列擧せる多くの馬引(うまひき)失敗記を見ても明瞭なるがごとく、何人(なんぴと)も認めざるべからざる一事あり。何ぞや。曰はく、「諸國の碧潭(へきたん)に棲みて、時々、馬又は人の子を水に引き込まんとする物は河童なり。」。

[やぶちゃん注:『露西亞の「ガローニン」が「遭厄日本記事」』ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人で探検家学者ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン(Василий Михайлович Головнин:ラテン文字転写:Vasilii Mikhailovich Golovnin 一七七六年~一八三一年)の著になる作品にオランダ語重訳の「遭厄日本紀」。ウィキの「ヴァシーリー・ゴロヴニーンによれば、彼は一八〇七年から一八〇九年にかけて、『ディアナ号で世界一周航海に出て、クリル諸島の測量を行な』ったが、一八一一(文化八)年、『軍により』、『千島列島の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で択捉島・国後島を訪れ』たところ、『国後島にて幕府役人調役奈佐瀬左衛門に捕縛され、箱館で幽閉され』てしまった。『ゴロヴニーンは幽閉中に間宮林蔵に会見し、村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教えたりもした』。その二年後、文化一〇(一八一)三年、『ディアナ号副艦長ピョートル・リコルド』『の尽力により、ロシア側が捕らえた高田屋嘉兵衛らの日本人を解放するのと引き換えに』、『ゴロヴニーンは解放された(ゴローニン事件)。帰国後の』一八一六年、『日本での幽閉生活を』「日本幽囚記」『という本にまとめ、この本は欧州広範囲で読まれた』。文政八(一八二五)年には』、『日本でもオランダ本から訳された「遭厄日本紀」が出版された。同書は、ニコライ・カサートキンが日本への正教伝道を決意するきっかけとなったことでも知られる』とある。私は当該訳書を持たないので、「河童」がどのように書かれているのかは知らない。

 

「白魚」原典にルビはない。「ちくま文庫」版は『シラウオ』と編者が振る。現行では条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae のシラウオ Salangichthys microdon(体長八センチメートル。日本では北海道から九州北部に分布)・イシカワシラウオ Salangichthys ishikawae(日本固有種。同じく北海道から九州北部に分布。シラウオに似ており、体長も同じほどで、特に前記のシラウオと区別せずに漁獲・流通がなされている)・アリアケシラウオ Salanx ariakensis(体長十五センチメートルほどにもなる大きな種で、有明海と朝鮮半島に分布する。有明海沿岸域では漁獲し食用にされていたが、現在は漁獲が激減し、絶滅が心配されている)・アリアケヒメシラウオ Neosalanx reganius(体長5cmほどの小型種で、丸い頭部とずんぐりした体型をしており、後に挙げるシロウオに似ている。世界でも有明海に注ぐ筑後川と熊本県の緑川及び緑川支流の浜戸川だけにしか分布しない固有種である。さらに二つの生息地では、体長や鰭の大きさなどに差があり、それぞれが独立した地域個体群と考えられている。川の下流域に生息するが、食用にされていないにもかかわらず、個体数が減り続けている。減少の理由は筑後大堰などの河川改修や汚染などによる河川環境の変化と考えられている)が本邦産種であるが、全くの別種で、しかもシラウオ類に見た目が似ている条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので、それも挙げておく必要がある。孰れも半透明であるが、死ぬと白くなるところから「白魚」をである。但し、九州地方では前者のシラウオ(報告は豊前北部であり、注した通り、現在の福岡県東部と大分県北部に当たるので、シラウオかイシカワシラウオである)を指すとまず考えてよい。

『琉球にては「河童」を「カムロー」と云ふ』非常に不愉快である。後の部分を見ても「河童」の異名を出すに、頭書を掲げている。この沖縄のケースでは、川ではなく井戸に住む妖怪で、形象が語られておらず(残っていない)、私は河童との有意な差を見出せるようにも思われる点でも、これは【カムロー】と頭書に出すのが当然である。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらによれば、金城朝永氏の「琉球妖怪変化種目(一)」(『郷土研究』昭和六(一九三一)年五月発行所収)からの要約として、『カムワーは井戸に住んでいて、子供などが井戸をのぞくと引き入れてしまう。古井戸をのぞくと水面の影をカムローに取られ』、『病気になる』とあり、「カムワー」という別呼称があることが判る。さらに、柳田國男が、この呼称に冷たい理由を推測するに、「カムロー」を安易に「川郎」辺りの転訛と思い込んでいる節が感じられるのであるが、沖縄移住ブログ」の「沖縄妖怪」の「カムローによれば、『目撃例がほとんどないのに、名前だけは知られている妖怪がカムローです』。『カー(井戸)に住んでいる妖怪といわれていて、子供が井戸の中を覗いていると、井戸の奥へ引きずり落してしまうという恐ろしい妖怪です』。『カムローは、それ以外にもいたずらをします。たとえば、古い井戸を覗くと、中に潜んでいたカムローが、水面に映る影を奪い取ってしまうため、その子供は病弱になってしまうといいます』。『昔は、産湯から生活用水、死後には湯灌(ゆかん)の水としても使われた井戸水ですから、そこにカムローのような不思議な妖怪が住んでいたとしても当然なのかもしれません』とあるのだ。柳田さんよ、「川」じゃあねえよ! 「井戸」なんだよ! その点でも頭書が必要だよ!

「下學集」著者は「東麓破衲(とうろくはのう)」という名の自序があるが、未詳。全二巻。室町中期の文安元(一四四四)年に成立したが、刊行は遅れて江戸初期の元和三(一六一七)年(徳川秀忠の治世)。意義分類体の辞書。室町時代の日常語彙約 三千語を「天地」・「時節」などの十八門に分けて簡単な説明を加えたもの。その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにあった。室町時代のみならず、江戸時代にも盛んに利用され、その写本・版本はかなりの数に上る。類似の性格をもつ同じ室町中期の辞書「節用集」に影響を与えていると考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「倭名鈔」「和名類聚鈔(抄)(わみょうるいじゅ(う)しょう)」の略。平安中期の歌人(三十六歌仙の一人)で文人学者であった源順(みなもとのしたごう)の撰になる本邦初の漢和辞書。承平年間(九三一年~九三八年)に醍醐天皇の皇女勤子内親王に献じられた。十巻本と二十巻本の二種がある。意義分類により「天地部」より「草木部」に至る部類別に漢語を標出し、出典を示し、類音字や反切によって音注を施した上で、漢文で説明を加え、和名を万葉仮名で記す。項目は事物の名称(名詞)が大部分で、百科事典的性格をも備えている。完成以後、広く知られてかなり汎用されていたらしく、後の辞書類にも大きな影響を与え、江戸時代の本草書等でも、対象物名称や同定をこれに溯って記載するものも多い。国語学的には勿論、古代文化の研究にも重要な資料である(以上は諸辞書等を綜合して記した)。]

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