フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »

2019/02/28

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(26) 「駒引錢」(全)

 

[やぶちゃん注:今回は一章分(全三段落)を示す。但し、注の見易さを考えて段落ごととはした。]

《原文》

駒引錢  【カハコマ】秋田ノ人ノ話ニ、今日彼地方ニ於テ「カハコマ」ト稱スルハ、水ノ神ノ別名ナリ〔山方石之助氏談〕。「カハコマ」ハ或ハ川駒ニハ非ザルカ。果シテ然リトスレバ川牛ト相對立シテ、話ニ幾分カ筋道ガ立ツカト思ハル。但シ斯ク言ヘバトテ、勿論右ノ黑キ毛ノ手ヲ以テ直チニ馬ノ脚ナリト主張スルニハ非ズ。松前地方ニ於テ河童ヲ「コマヒキ」ト云フコトハ前ニ之ヲ述べタリ。河童ニシテ深キ毛皮ヲ被リタル川獺ノ類ニ非ザル限、北海道ノ雪氷ノ下ニ冬ヲ送リ、三尺ノ童形ヲ以テ牛馬ニ對シテ熊以上ノ暴威ヲ振フト云フコトハ、靈物ニ非ザレバ到底企テ能ハザル藝ナリ。之ニ就キテ案出シタルガ予ガ一アリ。乞フラクハ之ヲ演ベシメヨ。【駒引澤】東京ノ附近ニハ駒引澤又ハ馬引澤ト云フ地名多シ。思フニ昔關東ノ平原ニ盛ナリシ馬ノ牧ト關聯シテ、何カ然ルべキ由緖アル土地ナルべク、屢馬ニ就キテノ信仰ヲ存ス。【馬塚】例ヘバ玉川電車ニ接近セル駒澤村ノ馬引澤ニハ賴朝ノ愛馬ノ塚アリ。府中ノ對岸關村ノ駒引澤ニハタシカ古キ藥師堂アリテ、堂ノ前ナル路ハ馬ニ乘リテ行クコト能ハズ、乘打ヲスレバ必ズ怪異アリシ故ニ駒ヲ曳キテ通行セリ。藥師堂ノ西ト東ニ各「ゴクラク」ト云フ地名ノ存スルハ、此處マデ來レバ最早馬ニ乘リテモ差支無カリシ爲ナリト云フ〔林義直氏談〕。【馬上咎メ】馬上咎メヲスル神ハ、蟻通(アリドホシ)明神以來甚ダ多カリシナリ。ソレヲ駒引ト名ヅケタル例ハ外ニモアリ。羽後平鹿郡植田村大字越前駒引ハ、館村ノ八幡ノ鳥居ノ正面ニシテ、乘打ヲスル人ハ誰ト無ク落馬セシガ故ニ、何レモ畏レテ馬ヲ曳キテ通リシヨリノ地名ナリ〔雪乃出羽路九〕。駒ヲ曳クトハ乘ラズシテ口綱ヲ取ルコトナリ。後世馬追ヲ業トスル田舍者ナドハ、曳クト云フ古語ヲ誤解シテ、鼠ガ鏡餅ヲ引クナドノ引クカト思ヒ、從ツテ終ニ牛馬ヲ水底ニ誘ヒ殺スト云フガ如キ迷信ノ發生ヲ促シタルヤモ圖リ難ケレド、其昔ノ意味ハ必ズ別ニ存シ、河童ノ人格ハ或ハ今日ノ如ク賤劣ナルモノニハ非ザリシカト思ハル。

 

《訓読》

駒引錢(こまびきせん)  【カハコマ】秋田の人の話に、今日、彼(か)の地方に於いて「カハコマ」と稱するは、水の神の別名なり〔山方石之助氏談〕。「カハコマ」は或いは「川駒」には非ざるか。果して、然りとすれば、「川牛」と相ひ對立して、話に幾分か筋道が立つかと思はる。但し。斯(か)く言へばとて、勿論、右の黑き毛の手を以つて、直ちに馬の脚なりと主張するには非ず。松前地方に於いて、河童を「コマヒキ」と云ふことは前に之れを述べたり。河童にして、深き毛皮を被りたる川獺(かはをそ)の類ひに非ざる限り、北海道の雪氷の下に冬を送り、三尺の童形を以つて、牛馬に對して熊以上の暴威を振ふと云ふことは、靈物に非ざれば、到底、企て能はざる藝なり。之れに就きて、案出したるが予が一あり。乞ふらくは、之れを演(の)べしめよ。【駒引澤】東京の附近には、駒引澤又は馬引澤と云ふ地名、多し。思ふに、昔、關東の平原に盛んなりし馬の牧(まき)と關聯して、何か然るべき由緖ある土地なるべく、屢々(しばしば)馬に就きての信仰を存す。【馬塚】例へば玉川電車に接近せる駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり。府中の對岸、關村の駒引澤には、たしか古き藥師堂ありて、堂の前なる路は、馬に乘りて行くこと能はず、乘り打ちをすれば、必ず、怪異ありし故に駒を曳きて通行せり。藥師堂の西と東に各々、「ごくらく」と云ふ地名の存するは、此處(ここ)まで來れば、最早、馬に乘りても差支へ無かりし爲なりと云ふ〔林義直氏談〕。【馬上咎(ばじやうとが)め】馬上咎めをする神は、蟻通(ありどほし)明神以來、甚だ多かりしなり。それを駒引と名づけたる例は外にも、あり。羽後平鹿郡植田村大字越前駒引は、館村の八幡の鳥居の正面にして、乘り打ちをする人は、誰(たれ)と無く、落馬せしが故に、何れも、畏れて馬を曳きて通りしよりの地名なり〔「雪乃出羽路」九〕。駒を曳くとは、乘らずして口綱を取ることなり。後世、馬追ひを業(なりはひ)とする田舍者などは、「曳く」と云ふ古語を誤解して、鼠が鏡餅を引くなどの「引く」かと思ひ、從つて終(つひ)に牛馬を水底に誘ひ殺すと云ふがごとき迷信の發生を促したるやも圖り難けれど、其の昔の意味は、必ず、別に存し、河童の人格は、或いは、今日のごとく賤劣なるものには非ざりしかと思はる。

[やぶちゃん注:「駒引錢(こまびきせん)」は次の段落以降で登場し、説明され、図も出るので、そちらに譲る。

「馬の牧(まき)」「馬牧(うままき)」は、古くは「大宝律令」(大宝元(七〇一)年)にで出された「厩牧令」により、全国に作られた国営牧場(御牧)のうち、馬を育てるもののことを指した。平安期の朝廷直轄の勅旨牧(御牧)は信濃・上野・甲斐・武蔵の四ヶ国に設置され、天皇へ馬を毎年貢進した(例えば、武蔵国には六ヶ所の勅旨牧が置かれ、そのうち二箇所は鶴見川流域にあったとする説が有力)。平安末期から武士の台頭し、鎌倉幕府が誕生するに至って、中世以降こうした馬の牧が発展を遂げ、飼育・調教の専門職も生まれた。

「駒澤村の馬引澤には賴朝の愛馬の塚あり」祐天寺駅の西北に当たる、東京都世田谷区下馬と東京都目黒区五本木の境に「葦毛塚」として残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。世田谷区公式サイト内の「上馬・下馬・野沢」によれば、『上馬引沢地区』『は、旧駒沢村大字上馬引沢の地でした。かつて、馬引沢村(上郷・中郷・下郷)として存立していた頃の上郷と中郷とがそれに該当し』、『大字名となった「馬引沢」伝説』があるとし、文治五(一一八九)年に』『源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州平泉へ向かってこの土地を通った時のことです。ここ、蛇崩』(じゃくずれ:この附近の旧地名。東京都世田谷区及び目黒区を流れる川の名として残る。目黒区公式サイト内のこちらに詳しい)『の激しい沢筋にさしかかったところ、突然頼朝の乗った馬が暴れだして沢の深みに落ちてしまいました。急いで馬を助けようとしましたが、まもなく馬は死んでしまい、そこで頼朝は馬を沢沿いの地に葬り、その馬が芦毛だったことから芦毛塚と名づけました。頼朝はこの事故を戒めとして、「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡したので、以後馬引沢の名がつけられたということです。 この芦毛塚は、今の下馬の地に残されています』とあり、さらに、この事件は『頼朝としては幸先の悪い出来事でした。その時』、一『人の老婆が現れて、馬の死という不吉をはらって戦勝を祈るために、近くの』子(ね)の神(現在は目黒区南にある高木神社と思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))。目黒区公式サイト内のこちらによれば、元は『現在の社地の隣にあった屋敷神で、それがいつのころか現在の場所に移されて、子ノ神を祭る地域の氏神になり、それが地名となったと言い伝えられている』とある。葦毛塚からは南に二・四キロメートルほど)『詣でることをすすめたのでした。頼朝はこれに従って祈願した後、奥州に兵を進めたところ、幸い戦に勝つことができたので、帰りに再び』、『子の神にお礼参りに立ち寄りました。そのとき』、『頼朝が馬を繋いだ松は、駒繋松(今の松は』三『代目という)と名づけられ、子の神は駒繋神社と改められたということです』。『また』、『死んだ頼朝の馬を葬った芦毛塚は、目黒区との境』『に立派な碑が建てられ、蛇崩川には足毛橋と名づけられた橋も残されています』とある。なお、さらにその近くの『野沢村は、昔』、は「タッタ原」とも『呼ばれて、馬引沢村のまぐさ場(馬・牛などの飼料・肥料にする草の採集地のこと)でした。正保期』(一六四四~一六四七年)『に荏原郡六郷領沢田(大田区)の百姓田中七右衛門と、葛飾郡葛西領(江戸川区)の百姓野村次郎右衛門が、この地に入植して開発し、万治年間』(一六五八年~一六六〇年)『に馬引沢村から独立して野沢村となったとされています』とあるから、この周辺は実に馬には大いに因縁のある場所だったことが判るのである。

「府中の對岸、關村の駒引澤には、たしか古き藥師堂ありて、堂の前なる路は、馬に乘りて行くこと能はず、乘り打ちをすれば、必ず、怪異ありし故に駒を曳きて通行せり」東京都多摩市関戸にある真言宗慈眼山(じげんさん)唐仏院(とうぶついん)関戸観音寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。創建は建久三(一一九二)年。但し、馬に関わる伝承は失われているようである。しかし、ウィキの「沓切坂」によれば(この坂の由来は主に二つあり、一つは新田義貞が元弘三(一三三三)年の「分倍河原の戦」いの際、ここの急坂を登るところで馬の沓が切れたことに由来するというもの、今一つは、新田義興が正平七/観応三(一三五二)年に鎌倉から足利尊氏を追った折り、この坂にさし掛かったところで馬の沓を取り、裸馬を飛ばしたことに由来するというもの)、この坂の近くに「極楽の坂」と呼ばれた坂があり、それは現在の聖ヶ丘三・四丁目と諏訪四丁目の間で、『この近辺はかつて極楽と呼ばれていたという』とあるのが、その一方だと思われる。この附近である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。地図の北西を見よ! 東京都多摩市馬引沢という地名が現存するのを確認出来る! 関戸観音寺も北直近!!

「蟻通(ありどほし)明神」大阪府泉佐野市長滝にある蟻通神社(ありとおしじんじゃ:原典の濁音はママ)。現在でも「蟻通明神」とも呼ばれる。ここ。大国主命を祀る。ウィキの「蟻通神社(泉佐野市)」によれば、もとは現在地より約一キロ北方に鎮座し、『熊野街道』『に沿って広大な神域を有していたが、佐野陸軍飛行場(明野陸軍飛行学校佐野分教所)建設のため』、昭和一九(一九四四)年、『現在地へ遷座。規模も縮小された』。『紀貫之ゆかりの神社で、神社の中には紀貫之の像(現在は壊されてしまって設置跡しかない)と石碑が建つ』とある『蟻通の名の初出は』「紀貫之集」の「第十 雑部」に『紀貫之が馬の急病に際して「これは、ここにいましつる神のし給ふならん、祈り申し給へよと。」と考えて神の名を問うと』、『恐らく地元の住人が「ありどほうし神」と答えている』ことによるらしい。但し、『中世以前の資料の表記は「有通神」が主であり、「蟻通」の字は後の時代に一般的になった』ものとする。『「蟻」と「ありどほうし神」に縁が生まれるのは、時代がやや下り』、『清少納言が枕草子の中で孝子説話として、唐土より「七曲りの玉に糸を通す手段」の難題を吹きかけられた帝に、老父の知恵を借りた中将が「蟻に糸を結び玉の中を通らせる」方法を奏上した物語を紹介しており、これが「ありどほうしの神」の由来としている』。『また、平安末には「蟻の熊野詣」と揶揄されるほど』、『熊野詣が盛んとなり、道中で九十九王子参拝の為必ず蟻通神社の門前を通ることから「蟻」の字の印象が強くなったという説もある』とある。また、「蟻通神社公式サイトのこちらに古代からの詳しい記載があり、そこに伝承では第九代開化天皇の御宇(機械換算で紀元前一五八年~紀元前九八年。弥生中期相当)の勧請とする。同じ公式サイトのページの「蟻通神社にゆかりの話」に以下がある。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部の画像部分を活字に起こした。行空けは詰めた。歴史的仮名遣の一部の誤りと、意味が取りにくくなっている一部を読点を添えて勝手に訂した。]

1.紀貫之の故事伝承

「貫之集」新潮日本古典集成より

紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふところに、道行く人々立ちどまりていふ、「これはここにいますがる神のしたまふならん。年ごろ社もなくしるしも見えねど、うたてある神なり。さきざきかかるには祈りをなん申す」といふに、御幣もなければ、なにわざもせで、手洗ひて、「神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん」ととへば、「蟻通しの神」といふを聞きて、よみて奉りける、馬のここちやみにけり

[やぶちゃん注:中略。]

概略

平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。このお話は、枕草子「社は」の段に記載されています。

貫之が奉能した和歌。「貫之集」より

「かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしをば 思ふべしやは」

意味:かきくもり闇の様な大空に 星があるなどと思うはずがあろうか。

「ありとほしをば」には、「有と星」と「蟻(有)通」を掛けています。一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない、の意を表します。 神仏を感応させて効験のあった歌として『袋草子』等にも記載されています。

――――――――――――――――――――――

その2.清少納言『枕草子』記載の社名伝説

枕草子 225段 「社は」 角川書店枕冊子全注釈より

社は、布留の社。龍田の社。はなふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらむとをかし。ことのよしの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」ともいはれたまへと思ふぞ、いとをかしき。

蟻通の明神、やませたまへとて歌詠みて奉りけむに、やめたまひけむ、いとをかし。この「蟻通」と名づけたる心は、まことにやあらむ、むかしおはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして[やぶちゃん注:寵愛なされて。]、四十になりぬるをば、うしなはせたまひければ[やぶちゃん注:殺してしまわれたので。]、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者なかりけるに、中将なりける人の、いみじき時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近き親二人を持ちたりけるが、四十をだに制あるに、ましていとおそろしと怖ぢさはぐを、いみじう孝ある人にて、「遠きところにはさらに住ませじ、一日に一度見ではえあるまじ」とて、みそかに夜夜地を掘りて屋をつくりて、それに籠め据ゑて、行きつつ見る。おほやけにも人にも、失せ隠れたるよしを知らせて。などてか家に入りゐたらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。親は上達部などにやありけむ、中将など子にて持たりけむは。いと心かしこく、よろづのこと知りたりければ、この中将若けれど、才あり、いたりかしこくて、時の人におぼすなりけり。

唐土(もろこし)の帝、この国の帝をいかではかりてこの国打ち取らむとて、つねにこころみ、あらがひをして送りたまひけるに、つやつやとまろにうつくしく削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひたてまつりたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうのことなむある」といへば、「ただ早からむ川に立ちながら投げ入れて見むに、かへりて流れむかたを末としるしてつかはせ」と教ふ。まゐりて、わが知り顔にして、「こころみはべらむ」とて、人人具して投げ入れたるに、先にして行くにしるしをつけてつかはしたれば、まことにさなりけり。

五尺ばかりなる蛇の、ただおなじやうなるを、「いづれか男女」とてたてまつりたり。また、さらにえ知らず。例の、中将行きて問へば、「二つ並べて、尾のかたに細きすばえをさし寄せむに、尾はたらかさむを女と知れ」といひければ、やがて、それは、内裏のうちにてさしければ、まことに一つは動かず、一つは動かしけるに、またしるしつけてつかはしけり。

ほどひさしうて、七曲にたたなはりたる、中はとほりて左右に口あきたるがちひさきをたてまつりて、「これに綱とほしてたまはらむ。この国にみなしはべることなり」とてたてまつりたるに、いみじからむものの上手不用ならむ。そこらの上達部よりはじめて、ありとある人いふに、また行きて「かくなむ」といへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰にほそき糸をつけて、またそれがいますこし太きをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいととく、穴のあなたの口に出でにけり。さて、その糸のつらぬかれたるをつかはしける後になむ、「日本はかしこかりけり」とて、後後さることもせざりけり。

この中将をいみじき人におぼしめして、「なにごとをして、いかなる位をかたまはるべき」と仰せられければ、「さらに官・位もたまはらじ。ただ老いたる父母のかく失せてはべるをたづねて、都に住ますることをゆるさせたまへ」と申しければ、「いみじうやすきこと」とてゆるされにければ、よろづの親、生きてよろこぶこといみじかりけり。中将は、大臣になさせたまひてなむありける。

さて、その人の神になりたるにやあらむ、この明神のもとへ詣でたりける人に、夜あらはれてのたまひける。

とのたまひけると、人の語りし。

紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。

歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」

○日本に出された三つの難題と答

一、削った木の元(根)と末(先端)の見分け方?

答・・・川に投げ、方向変えて先に流れる方が木の末(先端)である。

二、蛇の雌雄の見分け方?

答・・・尾の方に細い棒を指し寄せ、しっぽを動かす方が雌である。

三、うねうねと中が折曲がっている玉に糸を通す方法

答・・・蟻の腰に細い糸を結んで、玉の出口になる方に蜜を塗ると蟻は、蜜の香を嗅ぎつけて、出口に出てくる。

   《引用終了》

「羽後平鹿郡植田村大字越前駒引は、館村の八幡の鳥居の正面」現在の秋田県横手市十文字町周辺にはグーグル・マップ・データで視認する限りでも、五つもある。この字「駒引」Yahoo地図)に最も近い場所にあるのは、十文字町佐賀会字新関の八幡神社(グーグル・マップ・データ)であるが、その東北直近の秋田県横手市十文字町佐賀会下沖田にも八幡神社(グーグル・マップ・データ)があるので、よく判らぬ。ただ、館前」Yahoo地図)が駒引の東にあるから、現在の地図上から考えると、前者ととるのが自然ではある。

『後世、馬追ひを業(なりはひ)とする田舍者などは、「曳く」と云ふ古語を誤解して、鼠が鏡餅を引くなどの「引く」かと思ひ、從つて終(つひ)に牛馬を水底に誘ひ殺すと云ふがごとき迷信の發生を促したるや』この柳田の謂い方は不快で、しかも不審である。馬追を生業とする者が、「馬をひく」の「ひく」をこのように誤認することは私は、いっかな無知な「田舍者」であっても、あり得ないと思うからである。大方の御叱正を俟つ。

 

 

[やぶちゃん注:以下に、底本では二箇所に分けて配されてある駒引銭の図を、「ちくま文庫」版全集から読み込んだものを掲げる。底本は明度を上げても、彫られたそれが殆んど全く現認出来ないからである。なお、ちくま文庫版では二枚の図が何故かそれぞれ上下に分離した形で、一纏めにして掲載されている。しかし、少なくとも左の上下二枚は底本のそれではない。何故なら、錢の外周に落款があるからである(底本のそれは錢だけの画像でこんなものはない)。思うにこれは、本書の再刊本(柳田國男喜寿記念として昭和二六(一九五一)年に実業之日本社から刊行された版)刊行の際に差し替えられた画像なのかも知れない。孰れにせよ、親本「定本柳田國男集」の編者が全くの別撮りをしたものでないとなれば、画像使用は著作権上、問題ない。万一、問題ありとして、その根拠を示して警告を受けた場合には画像は撤去する。しかしそれはすこぶる智の共有を妨げるものではある。]

 

Komahikisen

 

《原文》

 【繪錢】前代ノ穴錢ノ中ニ駒引錢ト稱スル一種ノ繪錢(ヱセン)アルコトモ、亦何等カノ因緣無シトハ言フべカラズ。今日ノ通ニ依レバ、日本ノ繪錢ノ始ハ足利時代ノ末所謂六條錢ノ頃ニ在リテ、元和以後殊ニ寬永通寶ノ鑄造ニ伴ヒテ一層盛ニナリタリト云ヘリ。又取留メテ此ト云フ目的ハ無ク、錢座ノ開業祝ニ職人等ガ慰ミ半分ニ作リシモノカ、又ハ物好キナル鑄物師輩ガ最初ヨリ樂錢卽チ玩弄品トシテ鑄タルモノニテ、別ニ信仰上ノ意味ナドハ無カリシガ如ク認メラル〔繪錢譜序〕。併シ此ニ對シテハ疑ヲ插ムべキ餘地全ク無キニ非ズ。支那朝鮮ノ銅ノ豐富ナラザリシ地方ニテモ、竝ノ錢ヨリハ大キク且ツ手丈夫ニ、複雜ナル意匠ヲ以テ念入ニ澤山ノ繪錢ヲ鑄造セリ。是レ卽チ所謂厭勝錢ニシテ、社會生活上通用錢ヨリハ一層大ナル意義ヲ有セシガ故ニ此ノ如キ也。【錢神】錢ヲ神ト祀リ又ハ祈躊ト占ノ用ニ供セシ例ハ我ガ邦ニモ乏シカラズ。日本ノ繪錢ノ中ニモ橋辨慶トカ紋盡シトカノ類ハ或ハ只ノ玩具ナリシナランモ、繪錢譜ノ大部分ヲ占ムル駒錢ニ至リテハ、單ニ道樂半分ノ所業トシテハ餘リニ數多ク且ツ系統アリ。【錢何疋】或ハ又錢十文ニ付キ一枚ヅツノ駒引錢ヲ交ヘタリシ故ニ百文ヲ十疋ト云フトノアレド、更ニ根據無キ想像ナルノミナラズ、少ナクモ駒ノ繪錢ヲ鑄造セシ起原ヲ明スル能ハズ。【支那繪錢】疋ヲ以テ錢ヲ數フルノ風習ナキ支那ニ於テモ馬ノ錢ハ甚ダ多シ。例ヘバ唐將千里追風又ハ白驥ナドノ錢文アルモノハ裏面ニ駒ノ畫ヲ鑄出シ、逐日腰泉ノ如キハ表面ニ之ヲ鑄出シ、更ニ又千里之能日行千里出入通泰等ノ錢ハ人ノ馬ニ騎リタル畫樣ナリ〔鹽尻六十四〕。此等ノ錢文ヨリ想像スレバ、馬ハ卽チ通用ノ迅速ナルコトヲ以テ其奔馳ニ譬ヘタルカトモ考ヘラル。此等ノ繪錢ハ多クハ錢背一杯ニ大キク馬ヲ描キ、恰モ射藝ノ草鹿ナドノ如ク馬ノ腹ノ部分ガ錢ノ孔ナリ。之ニ反シテ日本ノ繪錢ハ方孔ノ周圍ニ馬ヲ描キ、且ツ十中八九マデハ口繩ヲ附ケテ之ヲ曳ク形ナリ。【出駒入駒】馬ノ首ノ右ニ向ヘルヲ入駒ト云ヒ、左ニ向ヘルヲ出駒ト云フ。馬ノ背ニハ或ハ俵トカ珠トカノ目出タキ荷物ヲ積ミ、神人又ハ農夫ノ之ヲ曳ケルモアレド、分ケテモ注意セラルルハ裸馬ヲ猿ノ曳キ行ク圖ナリ。假ニ年代ノ前後ヲ忘却スレバ殆ド、河子「カシャンポ」[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]ノ歷史ヲ畫ケルカトモ思ハルヽ所謂猿曳駒ノ繪錢ナリ。

 

《訓読》

 【繪錢(ゑせん)】前代の穴錢の中に駒引錢(こまひきせん)と稱する一種の繪錢(ゑせん)あることも、亦、何等かの因緣無しとは言ふべからず。今日の通に依れば、日本の繪錢の始めは足利時代の末、所謂、六條錢の頃に在りて、元和(げんな)[やぶちゃん注:、一六一五年から一六二四年まで。寛永の前。]以後、殊に寬永通寶の鑄造に伴ひて、一層盛んになりたりと云へり。又、取り留めて此と云ふ目的は無く、錢座(ぜにざ)の開業祝ひに職人等が慰み半分に作りしものか、又は、物好きなる鑄物師(いもじの)輩(やから)が最初より樂錢(らくせん)、卽ち、玩弄品として鑄たるものにて、別に信仰上の意味などは無かりしがごとく認めらる〔「繪錢譜」序〕。併し、此のに對しては疑ひを插むべき餘地全く無きに非ず。支那・朝鮮の銅の豐富ならざりし地方にても、竝(なみ)の錢よりは大きく、且つ、手丈夫に、複雜なる意匠を以つて念入りに澤山の繪錢を鑄造せり。是れ、卽ち、所謂、厭勝錢(えんしようせん)にして、社會生活上、通用錢よりは、一層大なる意義を有せしが故に此くのごときなり。【錢神】錢を神と祀り、又は、祈躊と占ひの用に供せし例は、我が邦にも乏しからず。日本の繪錢の中にも、橋辨慶とか、紋盡(もんづく)しとかの類ひは、或いは只(ただ)の玩具なりしならんも、「繪錢譜」の大部分を占むる駒錢に至りては、單に道樂半分の所業としては餘りに數多く、且つ、系統あり。【錢何疋(ぜになんびき)】或いは又、錢十文に付き一枚づつの駒引錢を交へたりし故に百文を十疋(じつぴき)と云ふとのあれど、更に根據無き想像なるのみならず、少なくも、駒の繪錢を鑄造せし起原を明する能はず。【支那繪錢】疋を以つて錢を數ふるの風習なき支那に於いても馬の錢は甚だ多し。例へば、唐將千里・追風、又は、白驥(びやくき)などの錢文あるものは、裏面に駒の畫を鑄出し、逐日・腰・泉のごときは表面に之れを鑄出し、更に又、千里之能・日行千里・出入通泰等の錢は人の馬に騎(の)りたる畫樣(ぐわやう)なり〔「鹽尻」六十四〕。此等の錢文より想像すれば、馬は、卽ち、通用の迅速なることを以つて、其の奔馳(ほんち)に譬へたるかとも考へらる。此等の繪錢は、多くは、錢背一杯に大きく馬を描き、恰も射藝の草鹿(くさじし)[やぶちゃん注:鹿を象った弓の的の呼称。板で形を作り、牛の革を張って中に綿を詰め、横木に吊るしたもの。鎌倉時代より歩射(ぶしゃ)の練習に用いられた。グーグル画像検索「草鹿」をリンクさせておく。ありゃ? 可愛いで!]などのごとく、馬の腹の部分が錢の孔(あな)なり。之れに反して、日本の繪錢は方孔(はうこう)の周圍に馬を描き、且つ、十中、八、九までは口繩(くちなは)を附けて、之れを曳く形なり。【出駒・入駒】馬の首の右に向へるを「入駒」と云ひ、左に向へるを「出駒」と云ふ。【猿曳駒】馬の背には、或いは俵とか珠とかの目出たき荷物を積み、神人又は農夫の之れを曳けるもあれど、分けても注意せらるるは、裸馬を猿の曳き行く圖なり。假りに、年代の前後を忘却すれば、殆ど、「河子(かはこ)」・「カシャンポ」[やぶちゃん注:拗音表記はママ。]の歷史を畫(ゑが)けるかとも思はるゝ、所謂、「猿曳駒」の繪錢なり。

[やぶちゃん注:「繪錢(ゑせん)」「えぜに」とも読む。後に出る「樂錢」も同じ。江戸初期より、民間で作った円形方孔の銭貨型をした玩具(おもちゃ)の金。主として恵比寿・大黒・七福神・駒曳きなどの絵画像を描いているのでこの名があるが、念仏や題目などの文字だけのものもある。素材は銅又は鉄で、得財招福の信仰対象として発生したものであるが、江戸後期には、これらの外に、子供の面子(めんこ)や石蹴り遊びの用具として、厚手又は大形のものも作られるに至った(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。画像と解説が豊富な個人ブログ「雅庵日記」の「『絵銭・馬』中国絵銭・駒引銭等」がよい。しかもそれは『馬に関係しているだろうものを』選んでおられるのである。その解説によれば、『絵銭とはそもそも「通貨」ではなく、その目的により呪い[やぶちゃん注:まじない。]に使われるもの、お守り代わりのもの、上棟式等に集まった人々に撒き福を分け与えるもの、そして、巾着や根付のように実用に使われるもの等いろいろあり、最近ではこの時代を風刺したパロディーチックなものも見かける。冶金が施された物は許せるとしても』、『樹脂やプラスチック製の物をその範疇に入れるかどうかの議論は別にして、古今東西かなりの目的や用途で膨大な種類の絵銭が作られてきた筈である。台湾などの古刹においては』、『お守りとして大きな物も作られ』、今も『販売されている。これは日常の中で身近な道具や守護符として、東洋に大きく特筆される文化であろう。そしてその大抵は「円形方孔銭」の形態、若しくはそれに近い形態を成している』。『中世以来、旅や移動は現在のように自動車等がなかったので、基本的に徒歩での行脚である。その道中の安全と安寧を祈る絵柄のものや、米の豊作を祈願した絵柄のものが江戸時代以降の日本絵銭には多いが、明らかに中国絵銭は雰囲気が違う。戦いの勝利や競馬のように速さを競うもの、そして故事にちなんだ呪文銭が多いと気がつく。お国柄の違いか』。『現在の、金属板をプレスした打製のコインとは違い、全て鋳造貨幣であるようなのでその手作り感の暖かさを感じられ、一枚一枚同じデザインでも個性があり、絵銭マニアの心境が想像できる』。『十二支の一動物を対象にして作られた絵銭もあるようだが、その中でも日本人には馬(駒)や牛のデザインが好まれる。「駒引銭」や「善光寺銭」がその代表であろう』と述べておられる。

「駒引錢(こまひきせん)」人(或いは柳田曰く神)が口繩を持って馬を曳く画像を刻した絵銭。「こまひきぜに」とも読む。

六條錢」【2019年3月2日改稿】当初、不詳としたが、いつも情報を戴くT氏より、大村成富珍銭奇品図録」(文化一四 一八一七)刊)に(リンクは国立国会図書館デジタルコレクションの画像。読みは私が推定で振った)、

續化蝶類苑(ぞくけてふるゐゑん)[やぶちゃん注:銭録。後掲する。]ニ文明[やぶちゃん注:一四六九年~一四八六年。室町後期。]ノ頃京都六條川原ニテ種々ノ錢ヲ鑄サセ小兒エ[やぶちゃん注:ママ。]下サルヽト云(いふ)ハ此類ナルベキヲコヽニ収ム此外(このほか)ニ面文(めんぶん)和同開珎背文(はいぶん)穿上山王穿下大師穿ノ左右ニ梵字アルモノヲ見ル位次(ゐじ)ハ奇品ニ準ズ

   *

「穿」は音「セン」で「穴を穿(うが)つ・通す」の意で、全体は何らかの呪文であろう。「位次」は席次・席順の意で、珍銭の中でも奇なる品に準ずる珍しいものであるの意。なた、そこに出た「続化蝶類苑」は寛政九 (一七九七)年刊の宇野宗明著古銭研究書で、これも国立国会図書館デジタルコレクションにあり、そのに、「東山殿」と附録の「六條錢」の解説が載る(同前の仕儀で電子化したが、原典とは字の大きさや字配を一致させてはいない。約物は正字で示した)。

   *

東山殿

慈照院殿ノ記録ニ曰(いはく)前畧

六条川原ニテ種々ノ錢ヲ鑄サセ小児ヘ被下(くだされ)候鑄寫(ちうしや)ハ御禁制ニテ樣々ノ形ヲ人々之(の)好(このみ)ニ任セ鑄サセ候古錢ハ態(たい)ト字モ形モカヘテ鑄之(これをい)指往(さしわたし)寸ノ錢ノ両面ニ古錢ヲ鑄付(いつく) 是ヨリ後(あと)本紙切(きれ)テ文字不續(つづかず)可惜をしむべし)〻〻

六條錢

先士ノ云傳(いひつたふる)六条ト称スル者右ノ記録ニテ分明ナリ然レドモ當時六条ト称(しようす)る者皆以テ古文錢漢駒ノ類(たぐひ)也。東山大樹御時代ノ物ナル故ニ銅質甚(はなはだ)古雅ニテ文字又賞スルニ絶タリ當■[やぶちゃん注:「日」+「之」のように見える。]元禄以後ノ贋泉(にせぜに[やぶちゃん注:「泉」には銭の意がある。])ト同日ノ論ニ非ス(あらず)本錢ナラス(ず)トイヘトモ真錢ノ亞ナル者ナリ

   *

とある。「東山殿」「東山大樹」は足利義政(永享八(一四三六)年~延徳二(一四九〇)年)のこと。T氏はまた、『大阪の古書古銭販売の「虎僊楼商店」のカタログ四十一から四十三コマ目に六条銭の色々が出ています』とお教え下さり、国立国会図書館デジタルコレクションで指示して戴いた。四十一コマ

「寬永通寶」寛永年間(一六二四年~一六四四年)から明治初年に至る長い期間に亙って鋳造された円形方孔の銭貨。銅一文銭・鉄一文銭・真鍮四文銭・鉄四文銭がある。銅一文銭は徳川氏が統一的銭貨として寛永一三(一六三六)年から公鋳したが、実際は、それより十年前の寛永三年に水戸で幕許を得て鋳造したのが最初であった。鉄一文銭は元文四(一七三九)年、真鍮四文銭は明和五(一七六八)年、鉄四文銭は万延元(一八六〇)年から鋳造され、四文銭は一文銭と区別するため、裏面に波紋が付けられた。鋳造地は全国各地に設けられたが、金銀貨の改鋳に伴い、しばしば量目や材質が変えられた。明治四(一八七一)年十二月以降、新貨幣の発行とともに、銅一文銭は一厘に、四文銭は二厘に、鉄一文銭は一六枚一厘に、四文銭は八枚一厘に通用が定められた(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「錢座(ぜにざ)」江戸時代、銭を鋳造・発行した役所。寛永一三(一六三六)年、江戸の芝と、近江国の坂本の両所に設けられたのが始まりで、後、銭の需要の増加や銭貨の高騰などによって全国各地に設けられたが、江戸後期になると、銭貨の下落などを理由に、銭座の廃止や制限が行なわれた(同前)。

「鑄物師(いもじの)輩(やから)」読みは私が勝手に振ったもの。

「繪錢譜」【2019年3月2日改稿】当初、不詳としたが、いつも情報を戴くT氏より、これは明三二(一八九九)年馬島杏雨 (瑞園) 編「画銭譜」(上・下)と思われると指摘戴いた。これは国立国会図書館デジタルコレクションにあり(上巻はこちら、下巻はこちら)その「例言」冒頭に(読みは推定で私が附した)、

   *

畫錢ハ通貨ニアラズ唯形體相似タルヲ以テ斯ク名ヅケラルヽモノニシテ舊ク足利義政公ノ時京都六條河原ニ於イテ鑄造セシト云フモノヲ始メトシ降(くだり)テ寬永錢ノ鑄造セラルヽニ方(あた)リ其錢座開設ノ當初ニ祝儀錢トシテ鑄ラレタル和同錢ノ外(ほか)錢座ニ祭ル所ノ宮錢(みやせん)公私(こうし)鑄(きた)エノ戲錢ニ係ル諸品及ビ民間ニテ小兒ノ玩具ニ供スルタメニ造リタル福一玉(ふくいちだま)乃(すなは)ち穴一玉(あないちだま)の類(たぐひ)ニ神社佛閣落成ノ際特ニ製セラレタル棟上ゲ錢ノ類ヲ總稱ス

   *

 

とある。

「厭勝錢(えんしようせん)」銭の形を象った中国の護符の一種。正しくは「ようしょうせん」と読み、「厭勝」とは「呪(まじな)いをもって邪悪を払うこと」を意味する。銭の表(おもて)面に「千秋万歳」「天下太平」「去殃除凶(きょおうじょきょう)」などの吉祥の語を彫り入れ、背面に北斗・双魚・亀蛇(きだ)・龍鳳(りゅうほう)・新月などの図案を刻してある。讖緯(しんい)説(中国で前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。「讖」は「未来を占って予言した文」の、「緯」(歴史的仮名遣では「ゐ」)は「経書の神秘的解釈」の意で、自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政治社会の未来動向を呪術的に説いた。日本にも奈良時代に伝わり、後世まで大きな影響を与えた。ここは小学館「大辞泉」に拠る)が流行した王莽(おうもう)の新(紀元後九年~紀元後二三年)の時代に起源をもち、唐・宋以降に至っても、盛んに鋳造された。形状は長方形など多彩で、日本に伝来したものは、絵銭・画銭として珍重されている(以上の主文は小学館「日本大百科全書」を用いた)。

「橋辨慶」個人ブログ「絵銭っす(エッセンス)」の「絵銭 念佛銭背橋弁慶」に画像があるが、彫られた図柄はよく見えない。オークション・サイトで見ると、五条の橋の上の牛若丸と弁慶が彫られたものが見られる。グーグル画像検索で「橋弁慶 銭」で掛けられるのが手っ取り早い。

「紋盡(もんづく)し」オークション・サイトで見ると、孔の上下左右に家紋彫り込んだものであることが判った。

「錢十文に付き一枚づつの駒引錢を交へたりし故に百文を十疋(じつぴき)と云ふとの」要するに「駒引錢」には馬が一疋(匹)が描かれているから、という駄洒落レベルの謂い。他にも、犬追物に使う犬一疋(匹)の値段が十銭(文)だったという説が、「奇異雑談集」や「貞丈雑記」などに載るらしい(最後の部分はウィキの「に拠る。両書とも所持しているが、ちょっと調べる気にならない。悪しからず。取り敢えず、小学館「日本国語大辞典」を引くと、『諸国より献ずる馬の代として銀銭一〇文を一匹にあてたところから〔袂草〕。また、犬追物のために集めた犬の代償として支払われた代金から〔貞丈雑記〕』とあった)。

「唐將千里」「追風」「白驥」「逐日」「腰」「泉」「千里之能」「日行千里」「出入通泰」この部分の一部は「ちくま文庫」版全集では、『唐将、千里追風』『白驥(ビヤツキ)』『逐日腰泉』『千里之能日行、千里出入通泰』としてある。しかし、これ、どうも区切り方が何だか変な感じがした。されば、何とか調べる方法はないかと(生憎、「鹽尻」は所持しない)、中国の古銭や絵銭のサイトを探るうち、「国文学研究資料館」の公式サイト内の画像オープン・データの中に「和漢古今宝銭図鑑(わかんここんほうせんずかん)」(大坂上人町の雁金屋庄兵衛なる人物が元禄九(一六九六)年に出したものらしい)というのを発見(後に早稲田大学図書館古典総合データベース内にもあるのを発見した。前に添えた書誌はそれに拠った)、その画像を見ると、これらの絵銭の絵をいちいち見つけることが出来た。その結果、「ちくま文庫」版の編者は、ろくに絵銭を調べもせずに、かなり適当に区切ったものであることが判然としてきたのである! 以上の私の切り方は、その図像に従った正確なものである。早稲田の方が使い勝手がいいのだが、せっかくだから総てを現認した国文学研究資料館の画像で示すこととする(クリックで大きく拡大出来る)。まず、

「唐將千里」はこの中央にあるもの(三図あり、一図は背の紋で、しっかり馬が一匹、デン! と中央に描かれている。なお、文字列は「唐代の名将の持っていた千里を走る駿馬」の意であろう)

「追風」はこの中央にあるもの(これまた、前と同様に背に馬一匹が描かれてある。「追風」を受けたように、意味は「もの凄いスピードで走る駿馬」であろう)

「白驥」は「追風」と同じ頁で「追風」の次の次にあるもの(虫喰いで銭の中の「驥」が見えにくいが、下方のキャプションで確認出来る。これの下にある裏紋はまさに駒引きの図である! 「驥」一字が「一日に千里を走る駿馬」の意。)

「逐日」はこの下方の左から四つ目(これは文字が裏紋で、表(上にある)が馬の絵である。素人の私にはどうして裏表が判るのか不思議なんだが? 誰かお教え戴けると嬉しいです

「腰」は日」の右隣りに、何だかよく判らない字との「腰■二字セットで、上に書かれてある(この漢字がどんな漢字で意味は何かお判りの方は御教授願いたい)

「泉」は今度は「逐日」の左隣りの上(表)にある(当初、私は前の「腰■」の「■」の字が「泉」の異体字なのではと思って調べて見たのだが、似たようなものは発見出来なかった。されば、私は図録に「泉」で単独で出るものを採用し、「腰泉」ではなく「腰・泉」としたのである。因みに、この「泉」の下にある別な絵銭は馬一匹の絵の(孔の)下に「水」とあるから、それこそ柳田國男が喜びそうな、「水」絡みの字が一部で彫られるのも中国絵銭の一つの特徴と私は見た)

「千里之能」この右上下方の裏紋は、私には鎧と兜を付けた人が左手に何か武器のようなものを持って(孔で抜けていてよく判らない)馬に乗っている形が彫られてあるように見える。それとも農夫なのか? しかしその左手の図(次の「日行千里」の裏)では、私は騎乗者は帯剣しているように見える(剣の端が後部から突き出ているからである)

「日行千里」「千里之能」の左隣り(「千里之能」の私の注も参照のこと。だいたいからしてだ、一日千里を行く能力を持つ馬に乗っているのが農民じゃおかしいだろ! これは武将だよ!

「出入通泰」これまたその左隣り

因みに私は最近、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」を電子化注した。未読の方はどうぞ。

「馬は、卽ち、通用の迅速なることを以つて、其の奔馳(ほんち)に譬へたるかとも考へらる」「奔馳」は「駆け走ること」であるが、何を言いたいのか、ちょっと判らぬ。「通用」は金銭のそれか? しかし、これは絵銭であって実際の通貨ではないぞ? 絵銭が金回りが良くなるためだけの呪符であったのなら、そういうことも言えようが、実際、そうだったのかどうかは私は確認していないので判らぬ(まあ、銭型にするってことはその可能性は大だ)。

『「猿曳駒」の繪錢』柳田はこれが日本固有のものであるかのような書き方をしているが、それは誤りである。猿曳駒の絵銭は海外のオークション・サイトで見られ、それには明製としてあった。台湾出品のものがあり、台湾は日本領であった時期があるが、しかし、前の明製のものとデザインが酷似するから、中国にも猿曳駒の絵銭はあったと考えるべきであると私は思う。あんまり言いたくないが、柳田國男の厭な一面が覗いていないか? 河童はどう見ても日本固有の妖怪である。それと「猿の駒引」を結びつけて考証するには、中国にも古くより「猿の駒引」があったというのでは、そちらの系統も徹底的に掘り下げねばならず、都合が悪い、というか、面倒なことになるからである。少なくとも私が柳田の立場なら『嫌だな。面倒臭せえな』と確かに思う。グーグル画像検索「猿曳駒 錢」をリンクさせておく。]

 

 Ousikojinjyammamorihuda  

播磨生石子神社守札  山中翁神佛社守集卷十ヨリ

[やぶちゃん注:やはり「ちくま文庫」版全集の挿絵を用いた。底本ではキャプションは右から左へ書かれてある。守り札の中の文字は、馬の上に、

 初申二異御祈禱厩繁昌

曳き綱の上の神鏡のようなものの中には、

 生石子大 神

 髙御位大 神

とある。「生石子大」「神」(おうしこのおおかみ)はよく判らぬが、石の神で女神らしい。「髙御位大」「神」(たかみくくらおほかみ)で、大己貴命と少彦名命(後に掲げる通り、本神社の主祭神)が天津神の命を受けて国造りのために降臨した高御位山(たかみくらやま:現在の兵庫県加古川市と高砂市の市境に位置する(リンクはグーグル・マップ・データ)。標高三百四・二メートル)を神としたもの。左下に、

  石寳殿社

印の中は私には判読出来ない。識者の御教授を乞うものである。]

 

《原文》

 サテ右ノ如キ繪錢ハ果シテ如何ナル目的ノ爲ニ之ヲ使用セシカ。殘念ナガラ今尚之ヲ明白ニスルコト能ハズ。又我輩ノイテ想像セントスル如ク、猿曳駒ノ一種ガ他ノ多クノ駒引錢ノ根源ナリシト云フコトモ甚シク證據ニ乏シ。併シナガラ兎ニ角自分ガ蒐集セシ諸國ノ河童ノ話ノ、右ノ繪錢ト若干ノ關係ヲ有スルラシキコトハ、恐ラクハ何人ニモ承認シ得べキコトナラン。蓋シ猿ガ馬ヲ曳ク圖ハ獨リ繪錢ノ模樣タルノミニ止ラズ、今日ノ田舍ニテモ些シク注意スレバイクラモ他ノ例ヲ見出スコトヲ得べシ。神社ノ繪馬ニモ猿ガ之ヲ曳ク所ヲ描ケルモノアリ。自分ハ幼少ノ頃播磨ノ農家ニ於テ、厩ノ口ニ印刷シタル此繪ノ貼附ケラレタルヲ多ク見タリ。多分ハ同國印南郡ノ生石子(オフシコ)神社、俗ニ石ノ寶殿ト稱スル宮ヨリ出シタル牛馬ノ守護符ナリシカト思ヘド、其點マデハ記憶セズ。九州地方ニテハ又他ノ神社ヨリモ此繪札ヲ配リシモノアリシガ如シ。其神ノ名ハ聞洩ラシタレドモ、必ズシモ猿ヲ使令トスル山王ノ社ナドニ限リタルコトニ非ザリシカト思ハル。

 

《訓読》

 さて、右のごとき繪錢は果して如何なる目的の爲に之れを使用せしか。殘念ながら、今、尚ほ、之これを明白にすること能はず。又、我輩のいて想像せんとするごとく、「猿曳駒」の一種が、他の多くの駒引錢の根源なりし、と云ふことも、甚しく證據に乏し。併しながら、兎に角、自分が蒐集せし諸國の河童の話の、右の繪錢と、若干の關係を有するらしきことは、恐らくは、何人(なんぴと)にも承認し得べきことならん。蓋し、猿が馬を曳く圖は、獨り繪錢の模樣たるのみに止らず、今日の田舍にても些(すこ)しく注意すれば、いくらも他の例を見出すことを得べし。神社の繪馬にも猿が之れを曳く所を描けるものあり。自分は幼少の頃、播磨の農家に於いて、厩の口に印刷したる此の繪の貼り附けられたるを多く見たり。多分は同國印南郡の生石子(おふしこ)神社、俗に「石の寳殿」と稱する宮より出だしたる牛馬の守護符なりしかと思へど、其の點までは記憶せず。九州地方にては、又、他の神社よりも此の繪札を配りしものありしがごとし。其の神の名は聞き洩らしたれども、必ずしも猿を使令(しれい)とする[やぶちゃん注:御使い。]山王の社などに限りたることに非ざりしかと思はる。

[やぶちゃん注:「自分は幼少の頃、播磨の農家に於いて」ウィキの「柳田國男」によれば、彼は明治八(一八七五)年七月三十一日、飾磨(しかま)県(現在の兵庫県南西部にあった)神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川(現在兵庫県神崎き)郡福崎町ちょう辻川(グーグル・マップ・データ))で生まれた。『父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの』八『人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が』、『山間部から播州平野へ抜けて間もなく』、『因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていた。字』(あざ)『の辻川は京から鳥取に至る街道と』、『姫路から北上し』て『生野へ至る街道とが』、『十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えた』。『父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として』文久三(一八六三)年に『赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという』。國男は『幼少期より非凡な記憶力を持ち』、十一『歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し』、十二『歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ』、『茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に住んだ』とある。

『同國印南郡の生石子(おふしこ)神社、俗に「石の寳殿」と稱する宮』現在の兵庫県高砂市阿弥陀町生石にある、生石神社(おうしこじんじゃ)。祭神は大穴牟遅命・少毘古那命を主祭神として、大国主大神・生石子大神・粟嶋大神・高御位大神を配祀する。「石の宝殿」と呼ばれる、水面から有意に浮いたかように見える(実際には下部中央で屹立している)巨大な人口石造物を神体としていることで有名である。これは既に諸國里人談卷之二 石宝殿で詳注しているので、是非、そちらの私の注を見られたい。私が唯一、行ってみたいと思っている神社である。]

沖繩のこと

 沖縄本島に米軍が上陸した(四月一日朝本島中西部)直後の昭和二〇(一九四五)年四月二日附『朝日新聞』に、かの高村光太郎は「琉球決戰」という題名の詩篇一篇を掲載している。
 
   *
 
     琉 球 決 戰   高村光太郞
 
神聖オモロ草子の國琉球、
つひに大東亞最大の決戰場となる。
敵は獅子の一擊を期して總力を集め、
この珠玉の島うるはしの山原谷茶(やんばるたんちや)、
万座毛(まんざまう)の綠野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
あらゆる暴力を傾け注がんとす。
琉球やまことに日本の頸動脈、
万事ここにかかり万端ここに經絡す。
琉球を守れ、琉球に於て勝て。
全日本の全日本人よ、
琉球のために全力をあげよ。
敵すでに犧牲を惜しまず、
これ吾が神機の到來なり。
全日本の全日本人よ、
起つて琉球に血液を送れ。
ああ恩納(おんな)ナビの末裔熱血の同胞等よ、
蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
彈雨を凌ぎ兵火を抑へ、
猛然出でて賊敵を誅戮し盡せよ。
 
   *
 当時、彼は「文學報國會」の詩部会長であった(因みに、幹事長は西條八十、理事は佐藤春夫)し、真珠湾攻撃を賞賛し、自ら積極的に戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。しかし、彼はまた、敗戦後、最も真剣に自らの戦争責任を真摯に問うた、数少ない芸術家の一人でもあった。昭和二〇(一九四五)年十月、疎開していた宮澤清六(宮澤賢治の弟でそこは賢治の実家でもあった)方を出て、花巻郊外に鉱山小屋を移築して独居を始めている。これは自身の戦争責任に対する一つの自己幽閉という処罰でもあり、この農耕自炊の独居生活は昭和二七(一九五二)年十月まで続いた。この間、肺結核の症状が進行している(昭和一三(一九三八)年十月五日に亡くなった妻千恵子もその死因は肺結核である)。昭和三一(一九五六)年三月二日、中野の自宅アトリエで肺結核のため、没した。
 
 かの詩人の上の詩篇と自身に課した落とし前を考えるとき、私は、今の本土の国民と日本政府の沖縄に対する姿勢は、戦時中の国民と軍事政府よりも、遙かに、救いようがなく、劣悪だ、と強く感じている。
 
 なんとも言えず、謂いたい気持ちにかられた。
 
 附録
 
 参考までに「文學報國會」の他の部会の一部を掲げておく。
  小説部会長・徳田秋声 幹事長・白井喬二 理事・菊池寛
  劇文学部会長・武者小路実篤 幹事長・久保田万太郎 理事・山本有三
  短歌部会長・佐佐木信綱 幹事長・土屋文明 理事・水原秋桜子
  俳句部会長・高浜虚子

2019/02/27

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 惡の秘所

 

 惡の秘所

 

汗(あせ)あゆる日(ひ)も夕(ゆふべ)なり、

空(そら)には深(ふか)き榮映(さかばえ)の

褪(あ)せゆくさまのはかなさは

沙(すな)に塗(まみ)るる彩(あや)の波(なみ)、――

色(いろ)うち沈(しづ)む「西(にし)」の湫(くて)や、

黃(あめ)なる牛か、雲(くも)群(む)れぬ、

角(つの)にかけたる金環(きんくわん)

倦(うん)じくづるる音(ね)のたゆげ。

 

ここには森(もり)の木(き)の樹立(こだち)、

暗(くら)き綠(みどり)に紫(むらさき)の

たそがれの塵(ちり)降(ふ)りかかり、

塵(ちり)は遽(には)かに生(しやう)を得(え)て、

こは九萬疋(くまびき)の闇(やみ)の羽(はね)、

微(かす)かにふめき、蔭(かげ)に蒸(む)し、

葉うらを繞(めぐ)り、枝々(えだえだ)を

流(なが)れてぞゆく「夜(よる)」の巢(す)に。

 

夏(なつ)の夕暮(ゆふぐれ)、いぶせさや、

不淨(ふじやう)のほめき、濕熱(しつねつ)に

釀(かも)す瘟疫(うんえき)、瘧病(ぎやくへい)の、

噫(ああ)、こは森(もり)か、こぶかげに

將(は)た音(おと)もなきさまながら、

闇(やみ)にこもれる幹(みき)と枝(えだ)、

尖葉(とがりは)、廣葉(ひろは)、しほたれ葉(ば)、

噫(あゝ)、こは森(もり)か、「惡(あく)」の秘所(ひそ)。

 

火照(ほでり)の天(あめ)の最後(いやはて)の

光(ひかり)咀(のろ)ひて、斑猫(はんめう)は

世(よ)をば惑(まど)はす妖法(えうほふ)の

尼(あま)にたぐへるそのけはひ、

靜(しづ)かに浮(うか)び消(き)え去(さ)りぬ、

彼方(かなた)、道なき通(みち)の奧(おく)、

生(しやう)あるものの胤(たね)を食(は)む

蛇(くちなは)纒(まと)ふ「肉(にく)」の廳(ちやう)。

 

黃泉路(よみぢ)とばかり、「惡(あく)」の祕所(ひそ)、

蔓草(つるくさ)絡(から)むただなかに、

なべては腐(あざ)れ朽(く)ちゆけど、

樹(き)の幹(みき)を沸(わ)く脂(やに)の膸(ずゐ)

薰陸(くんろく)とこそ、この時(とき)よ、

滴り凝(こ)りて、穢(けが)れたる

身(み)よりさながら淨念(じやうねん)の

泌(し)み出(い)づるごと薰(かを)るなれ。

 

物皆(ものみ)さあれ文(あや)もなく

暮(く)れなむとする夜(よる)の門(かど)、

黑白(こくびやく)の斑(ふ)の翅(つばさ)うち

はためきめぐる蛾(ひとりむし)、

見(み)る眼(め)も迫(せ)かれ、安(やす)からぬ

思(おも)ひもともにはためきぬ、

かくて不定(ふぢやう)の世もここに

闇(やみ)の境(さかひ)にはためきぬ。

 

[やぶちゃん注:「汗あゆる」「汗あゆ」は「汗がにじみ出る・滴り落ちる」の意のヤ行下二段活用の動詞。

「湫(くて)」後代は「くで」。水草などの生えている低湿地を指す語。

「ふめき」「ふめく」は虻や蚊などがぶんぶんと羽音を立てることを指す動詞。

「瘟疫(うんえき)」高熱を発する流行性疾患。

「瘧病(ぎやくへい)」和訓「わらはやみ」。光源氏が「若紫」で懸り、平清盛が命を落としたあれ。発熱・悪寒が間歇的に繰り返し起こるもので、概ね、現在のマラリアに比定されている。「瘧」の別訓は「おこり」。

「斑猫(はんめう)」は、実際に本邦で見られる、美しい鞘翅目食肉(オサムシ)亜目オサムシ科ハンミョウ亜科Cicindelini Cicindelina 亜族ハンミョウ属ハンミョウ Cicindela japonica別名を如何にも風雅な「みちおしへ」と称する彼らを――指してはいない――と思われる。所謂、媚薬や劇薬毒物として知られるカンタリジンcantharidinを体内に持つ、蠱毒系のそれを有明はイメージしていると考える。詳しく知りたい方は、私の和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫の私の注、及び和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 芫青蟲葛上亭地膽などを参照されたい。

『「蛇(くちなは)纒(まと)ふ「肉(にく)」の廳(ちやう)』「廰」はその妖しい森の奥にあるまがまがしい魔宮を閻魔「庁」のように言ったものであろう。

「脂(やに)の膸(ずゐ)」湧き出した半透明の脂を古木の肉骨の「膸」「髓」に譬えた。

「薰陸(くんろく)」(「ろく」は呉音)インド・イランなどに産する樹の脂(やに)の一種で、盛夏に、砂上に流れ出でて固まって石のようになったものを指す。香料や薬用とし、「薫陸香」と呼ぶ。乳頭状のものは特に「乳香」と言う。なお、本邦で松・杉の樹脂が地中に埋もれて固まって生じた化石をも、かく呼ぶ。これは外見が琥珀に似、粉末にしてやはり薫香とする。岩手県久慈市産が知られる。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 信樂

 

   信 樂

 

靜かに眠(ねぶ)りて、寢(ねる)魂(たま)の夜(よる)の宮(みや)にも事(こと)あらで、

いと爽(さは)らかに靑(あを)みたる晨(あした)に寤(めざ)め、見(み)かへれば、

傴僂(くゞせ)に似たる「昨(きそ)」の日(ひ)は過(す)ぎゆく「時(とき)」の杖(るゑ)に縋(すが)り、

何方(いづち)去(い)にけむ、思(おも)ひ屈(く)して惱(なや)みし我(われ)も心(うら)解(と)けぬ。

 

零(こぼ)れし種子(たね)の奇(く)しきかな、我生(わがよ)荒(すさ)める确(そね)にだに

惠(めぐ)み齎(もた)らす「信樂(しんげう)」の朝(あさ)の一(ひと)つや、何物(なにもの)も

これには代(か)へじ、「慈悲(じひ)」の御手(みて)は秘(ひ)むれど、銀(ぎん)の衡(はかりざを)、

金(きん)の秤目(はかりめ)、その極(はて)の星(ほし)にかかれる身(み)の錘(おもり)。

 

實(げ)に靜(しづ)まれる日(ひ)の朝(あさ)け、曾(かつ)て覺(おぼ)えぬ悅(よろこび)に

瘦屈(やさか)み冷(ひ)えしわが胸(むね)は、雪消(ゆきげ)に濕(しめ)り、冬(ふゆ)過(す)ぎて、

地(つち)の照斑(てりふ)と蒲公英(たな)の花(はな)、芽(め)ぐむ外(と)の面(も)のつつましき

春(はる)さながらの若萌(わかもえ)にきざす祈誓(きせい)ぞほのかなる。

 

何(なに)とはなしに自(おのづか)ら耳(みゝ)を澄(す)せば遠方(をちかた)に

浪(なみ)どよみ風(かぜ)の戰(そよ)めける音(おと)をし尋(と)むる心地(こゝち)して、

憧(あく)がれわたる窓(まど)近(ちか)く小鳥(ことり)轉(てん)じてまぎれむと

惧(おそ)るる隙(ひま)に聞(き)きわきぬ、過去(くわこ)遠々(をんをん)の代(よ)をここに。

 

かくて浮(うか)ぶるわが「宿世(すぐせ)」、瞳(ひとみ)徹(とほ)れる手弱女(たをやめ)の

頸(うなじ)をめぐる珠飾(たまかざり)、譬(たと)へばそれか、鳴響(なりひゞ)き、

瑠璃(るり)はささやく紅玉(こうぎよく)に、(さあれ苦(く)の緖(を)の一聯(ひとつらね))、

綠(みどり)に將(はた)や紫(むrさき)に、愛(あい)の、欣求(ごんぐ)の、信(しん)の顆(つぶ)。

 

げにこの朝(あさ)の不思議(ふしぎ)さを翌(あす)の夕(ゆふべ)にうち惑(まど)ひ、

わが身(み)をさへに疑(うたが)はば、惡風(あくふう)さらに劫(ごふ)の火(ひ)を

誘(さそ)ひて行手(ゆくて)塞(ふさ)ぎなば、如何(いかが)はすべき、弛(たゆ)まるる

腕(かひな)は渴(かは)く唇(くちびる)に淨水(じやうすゐ)掬(むす)ぶ力(ちから)なくば。

 

あるは曲(まが)れる「癡(ち)」の角(つの)にいと鈍(おぞ)ましき「慾(よく)」の牛(うし)、

牧場(まきば)に足(た)らふ安穩(あんのん)の命(いのち)に倦(う)みて、すずろかに

埓(らち)のくづれを踰(こ)えゆかば、星(ほし)も照(て)らさぬ夜(よる)の道(みち)、

後世(ごせ)の善所(ぜんしよ)を誰(たれ)かまた鞭(むち)うち揮(ふる)ひ指(さ)ししめす。

 

あるは木(きすぐ)の本性(ほんじやう)に潛(ひそ)む蠻夷(えみし)の幾群(いくむ)の

集(つど)ふやとばかり、われとわが拓(ひら)かぬ森(もり)の下蔭(したかげ)に

思(おも)ひ惑(まど)ふや、襲(おそ)ひ來(く)る彼(か)の殘逆(ざんげき)の矛槍(ほこやり)を

血(ち)ぬらぬ前(まへ)に淨(きよ)めなむ心(こゝろ)しらへのありや、否(いな)。

 

悲願(ひぐわん)の尊者(そんじや)、諸菩薩(しよぼさつ)よ、ただ三界(さんがい)に流浪(るらう)する

魂(たま)を憐(あはれ)み御心(みこゝろ)にかけさせたまへ、ゆくりなく

煩惱(ぼんなう)盡(つ)きし朝(あさ)に遇(あ)ひて、今日(けふ)を捨身(しやしん)の首途(かどいで)や、

遍路(へんろ)の旅(たび)に覺王(かくわう)の利生(りしやう)をわれに垂(た)れたまへ。

 

[やぶちゃん注:第五連二行目の中の「譬(たと)へばそれか、」は底本では「譬(たと)へばそれが、」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「信樂」「しんげう」(現代仮名遣「しんぎょう」)は仏教用語で、教えを信じ喜ぶこと、阿彌陀如来の本願(菩薩時代にそれらを成就出来なければ如来にならぬと阿彌陀は請願した故にその本願は時空を越えて既に成就されているのである)を信じて疑わないことを指す。

「傴僂(くゞせ)」「屈背」に同じ。脊椎が曲がって、伸びなくなる病気。また、その患者。

「确(そね)」上代語。石が多く地味の瘦せた土地。「磽」とも書く。

「蒲公英(たな)」「たな」は「蒲公英」三字へのルビ。タンポポ(キク目キク科タンポポ属 Taraxacum)は古くは「田菜(たな)」、「藤菜(ふぢな)」「布知菜(ふちな)」などと称していた。

「木(きすぐ)」形容動詞「氣直(きす)ぐなり」の語幹の用法。「きすぐ」(或いは「きすく」)は、「素朴で飾りけのないさま・生真面目なさま」を言う。

「心(こゝろ)しらへ」既出既注であるが、再掲しておくと、自動詞ハ行四段活用の「心知らふ」の名詞化したもの。意味は「よく知っている」或いは「心遣いをする・気を配る」の意であるが、前後の放浪する隠遁や捨身のそれを考えるなら、無垢としての無知としての前者である。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 淨妙華

 

   

 

夜(よ)も日(ひ)もわかず一室(いつしつ)は、げに畏(おそろ)しき電働機(モオトル)の

聲(こゑ)の唸(うな)りの噴泉(ふんせん)よ、越歷幾(エレキ)の森(もり)の木深(こぶ)けさや、

うちに靈獸(れいじゆう)潛(ひそ)みゐて靑(あを)き炎(ほのほ)を牙(き)に齒(か)めば、

ここに「不思議(ふしぎ)」の色身(しきしん)は夢幻(むげん)の衣(きぬ)を擲(なげう)ちぬ。

 

かの底知(そこし)れぬ海淵(かいえん)も、この現實(げんじつ)の秘密(ひみつ)には

深(ふか)きを比(くら)べ難(がた)からむ、彼は眠(ねぶ)りて寢(ね)おびれて、

唯(ただ)惡相(あくさう)の魚(うを)にのみ暗(くら)き心(こゝろ)を悸(おのゝ)かし、

これは調和(てうわ)の核心(かくしん)に萬法(ばんはふ)の根(ね)を誘(さそ)ふなる。

 

舊(ふる)きは廢(すた)れ街衢(まちちまた)、また新(あたら)しく榮(さか)ゆべき

花(はな)の都(みやこ)の片成(かたな)りに成(な)りも果(は)てざる土(つち)の塊(くれ)、

塵(ちり)に塗(まみ)るる草原(くさはら)の、その眞中(たゞなか)に畏(おそろ)しき

大電働機(だいモオトル)の響(ひゞき)こそ日(ひ)も夜(よ)もわかね、間(たえ)なく。

 

船(ふえん)より揚(あ)げし花崗石(くわかうせき)河岸(かし)の沙(いさご)に堆(うづたか)し、

いづれ大厦(たいか)の礎(いしずゑ)や、彼方(かなた)を見(み)れば斷(た)え續(つゞ)く

煉瓦(れんぐわ)の穹窿(アアチ)。人はこの紛雜(ふんざつ)の裡(うち)に埋(うづもれて

(願(ねがひ)はあれど名(な)はあらず)、力(ちから)と技(わざ)に勵(はげ)みたり。

 

嗚呼(あゝ)、想界(さうかい)に新(あらた)なる生(いのち)を享(う)くる人(ひと)もまた

胸(むね)に轟(とどろ)く心王(しんわう)の烈(はげ)しき聲(こゑ)にむちうたれ、

築(きづ)き上(あ)ぐべき柱(はしら)には奇(く)しき望(のぞみ)の實相(じつさう)を

深(ふか)く刻(きざ)みて、譽(ほまれ)なき汗(あせ)に額(ひたひ)をうるほさむ。

 

さあれ車(くるま)の鐵(てつ)の輪(りん)、軸(ぢく)に黃金(こがね)のさし油(あぶら)

注(そそ)げば空(そら)を疾(と)く截(き)りて大音(だいおん)震(ふる)ふ電働機(モオトル)や、

その勢(いきほひ)の渦卷(うづまき)の奧所(おくが)に聽(き)けよ靜寂(せいじやく)を、――

活(い)ける響(ひゞき)の瑠璃(るり)の石(いし)、これや「眞(まこと)」の金剛座(こんがうざ)。

 

奇(く)しくもあるかな、蝋石(らふせき)の壁(かべ)に這(は)ひゆく導線(だうせん)は

越歷幾(エレキ)の脈(みやく)の幾螺旋(いくらせん)、新(あらた)なる代(よ)に新(あらた)なる

生命(いのち)傳(つた)ふる原動(げんどう)の、その力(ちから)こそ淨妙華(じやうめうげ)、

法音(ほふおん)開(ひら)く光明(くわうみやう)の香(にほひ)ぞ人(ひと)に逼(せま)り來(く)る。

 

[やぶちゃん注:第三連の一行目の「街衢(まちちまた)」のルビは底本では「まちさまた」となっている。しかし、「衢」に「さまた」という読みはなく、当て読みとしても「さまた」に「ちまた」と同義となる意味はない。「さ」は「ち」の反転した字体であり、植字工が誤り易い活字であったし、ここはさらに細かなルビ作業であるから、植字ミスと採るのが穏当と思われ、採録する昭和五一(一九七六)年中央公論社刊「日本の詩歌」第二巻でも『ちまた』、パラルビの「青空文庫」版(底本は昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」)でも『ちまた』と振っている。「さまた」のままにしておいたのでは、違和感強烈にして、鑑賞・朗読に堪えぬので、特異的に誤植と断じて訂した。因みに、第二連の「悸(おのゝ)かし」のルビはママである。

「電働機(モオトル)」motor

「越歷幾(エレキ)の」electric。「電働機(モオトル)」もこれも近代的都市風景の持つ、非情の、冷血にして、偏奇なるが故に異常の擬似的肉感をも臭わせる、機械文明の詩的イマージュであろう。

「色身(しきしん)」仏教用語であるが、二種の意味がある。原義は三十二相などを具えた生身(しょうしん)の仏をいう。法身(ほうしん)に対して、仏の肉身(にくしん:具体的に我々の目の前に仮に現わした具現身。応身(おうじん))を指したが、報身(ほうじん:菩薩であった時に願を立てて修行を積んだその正しい報いとして得た仏身)をも合わせても言う。二つ目ののそれは、そこから転じた広義の「物質的な形を持った(持っているように見えるに過ぎない仮の儚い)身。ここでは純粋な正法(しょうぼう)の上でのそれではありえず、妖艶にして異様な最後のそれである。

「片成(かたな)りに成(な)りも果(は)てざる土(つち)の塊(くれ)」未完成ながらも形を成す、という状態にさえもなることの出来ない、儚く慘めなちっぽけな土くれ。

「大厦(たいか)」有明にしてみれば、音数律に合わせぬならば、「building」をカタカナ音写したいところだろう

「穹窿(アアチ)」arch

「心王(しんわう)」仏教用語。心の作用の主体となるところの識(しき:認識の主体。「眼(げん)」・「耳(に)」・「鼻」・「舌」・「身」・「意」の六識を以って、それぞれの「色(しき)」・「声(しょう)」・「香」・「味」・「所触(しょそく)」・「法」の六境(客体)を、「見」・「聞」・「嗅」・「味」・「触」・「知」として認識するシステムを全般を指す。初めの五識は外界の事物に対し、第六識の「意」は内面的認識となる。大乗仏教ではこれらに自我を意識する「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)を加える)のこと。

 この詩篇、抹香臭さの背後に――無論、詠んでいる有明にはそんな芸術的背景はないのだが――後のダダイスム(フランス語:Dadaïsme)やフュテュリスモ(イタリア語:Futurismo)のゴッタ煮にロシア・アヴァンギャルドRussian avant-garde/ロシア語:Русский авангард:ルースキイ・アヴァンガールト)のスパイスをふりかけしたような印象さえ感じられて、何だか、面白い。それをまた、実に大真面目に正面からサンボリスムでやらかしているところが、如何にも――笑ってしまうほどに――凄い。]

和漢三才図会巻第三十八 獣類 始動 /目録・麒麟(きりん) (仮想聖獣)

寺島良安「和漢三才図会」の「巻三十八 獣類」の電子化注を、新たにブログ・カテゴリ「和漢三才図会巻第三十八 獣類」(今回よりカテゴリ・タイトル表示のそれのみは新字とすることとした。無論、今まで通り、中身は正字正仮名である。特に大きな理由はないが、今までのものの「漢」の字であるべきところが「漢」であるのに、ふと、嫌気がさしたからではある。いや、そもそもが良安の「漢」の字は「漢」の(つくり)中央上の部分が中心を貫かず、「口」になってしまっている間の抜けた字体でさえあるのである)を起こして始動する。

私は既に、こちらのサイトHTML版で、

卷第四十  寓類 恠類

及び、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚部 江海有鱗魚

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚部 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、また、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」で、

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

を、新しいものとして、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥類」で、

卷四十一 禽部 水禽類

卷四十二 禽部 原禽類

卷四十三 禽部 林禽類

卷四十四 禽部 山禽類

を、そして直近の最新のものとして、

卷三十七 畜類

を完全電子化注している。余すところ、同書の動物類は「卷三十八 獸類」「卷三十九 鼠類」の二巻のみとなった。思えば、私が以上の中で最初に電子化注を開始したのは、「卷第四十七 介貝部」で、それは実に十二年半前、二〇〇七年四月二十八日のことであった。当時は、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、正直、自信がなく、まさか、ここまで辿り着くとは夢にも思わなかった。それも幾人かの方のエールゆえであった。その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方や、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の冒頭注を参照されたい)が、HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする(この間、文字コードの進歩で多くの漢字を表記出来るようになったのは夢のようだ)。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない訓読補塡用の字句は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した。今までも成した仕儀だが、良安の訓点が誤りである場合に読みづらくなるので、誤字の後に私が正しいと思う字を誤った(と判断したもの)「■」の後に〔→□〕のように補うこともしている(読みは注を極力減らすために、本文で意味が消化出来るように、恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合(非常に多い)も特に断らない)。ポイントの違いは、一部を除いて同ポイントとした。本文は原則、原典原文を視認しながら、総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない(私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していない。但し、本邦や中文サイトの「本草綱目」の電子化原文を加工素材とした箇所はある)。【2019年2月27日始動 藪野直史】 

 

和漢三才圖會卷第三十八目録

  獸類

[やぶちゃん注:以下は原典では三段組で字は大きい(目録では今までも大きくしていないので、ここもそれに従う)。ここではルビは原典通りのひらがな或いはカタカナを一緒に示した。ここでは一部の不審を持たれるであろう箇所を除いて、注しない。]

麒麟(きりん)

獅子(しゝ)

獬豸(かいち)

白澤(はくたく)

虎(とら)

騶虞(すうぐう)

駮(ばく)

(こく) 【黃腰獸】

豹(ひやう))

貘(ばく) 【喫鐡獸】

[やぶちゃん注:本文では附録のそれは「囓鐡獸」とする。]

狡兎(かうと)

(つつか)

[やぶちゃん注:(つくり)が「恙」でお判りの通り、ツツガムシ(恙虫)病を媒介する仮想生物の一つとして措定されたものである。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目ツツガムシ科 Trombiculidae のツツガムシ病のリケッチア(正式学名:真正細菌界プロテオバクテリア門 Proteobacteria アルファプロテオバクテリア綱 Alphaproteobacteria リケッチア目 Rickettsiales リケッチア科Rickettsiaceae オリエンティア属オリエンティア・ツツガムシ Orientia tsutsugamushi)を媒介するのがダニの一種として推定されるに至るのは近世後期以降のことであり、それ以前は仮想された「恙蟲」に相当する生物が有象無象存在した。これもその一つである。但し、それは必ずしも「ツツガムシ病」のみを指すのではなく、多くの風土病や見かけ上の原因不明の疾患や死に至る病いがそれとされたことは言うまでもない。私は例えば、「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 沙虱(すなじらみ)」等を、その媒介想定生物(これはかなり実際の特定のツツガムシに接近している)の一つに比定している。この当該項はごく短いが、そこでまた、たっぷりと私のマニアックな考証に付き合っていただこうと考えている。]

象(ざう)

犀(さい)

一角(うんかうる)

[やぶちゃん注:ルビは言わずもがな、幻獣一角獣「ウニコール」(ポルトガル語:unicorne/英語:unicorn:ヨーロッパの伝説上の動物で馬体であるが、頭部にねじれた一本の角を有し、その角には解毒する力があると信じられたあれ)の訛りである。]

犛牛(りぎう)

牛(やぎう)

[やぶちゃん注:「やぎう」はママ。本文では「もうぎう」である。]

野猪(ゐのしゝ)

野馬(やまむま)

豪豬(やまあらし)

熊(くま)

羆(しくま)

[やぶちゃん注:「しくま」の読みはこの現行のヒグマを表わす漢字の「羆」を上下に分解して「四」(し)と「熊」(くま)で読んだことに由来する。七世紀には既に「ひぐま」の発音は見られるものの、近世までは本字(本種ヒグマ)は「しくま」もしくは「しぐま」の呼称の方が一般であった。]

羊(かもしか)

山羊(やまひつし)

鹿(しか)

麋(おほしか) 【雙頭鹿】

麈(しゆ)

麂(こびと)

麞(くじか)

麝(しや) 【麝香(ジヤカウ)】

麝貓(じやかうねこ)

猫(ねこ)

狸(たぬき)

風狸(かぜたぬき)

狐(きつね)

狢(むじな)

貒(み)

貛(くわん)

木狗(もつく)

犲(さい) 【やまいぬ】

狼(おほかみ)

黒眚(しい)

[やぶちゃん注:原典はどう見ても「生」(上)+「月」(下)であるが、表示出来ない。中文・和文サイトを縦覧して校合したところ幼獣に「黒眚」がいることが確認でき、東洋文庫版も採用しているので、この「眚」で示すこととした。]

檮杌(たうこつ) 附〔(つけた)〕 狡

兔(うさぎ)

水獺(かはうそ)

海獺(うみうそ) 附【山獺】

海鹿(あしか)

膃肭臍(をつとつせい)

胡獱(とゞ)

水豹(あざらし)

獵虎(らつこ)

祢豆布(ねつふ) 

 

和漢三才圖會卷第三十七

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

   獸類

Kirin

 

 

きりん ※𪊺【正字見于廣雅】

麒麟

[やぶちゃん注:「※」=「鹿」+「希」。]

本綱麒麟瑞獸麕身牛尾馬蹄五彩腹下黃高丈二圓蹄

一角角端有肉音中鐘呂行中規矩遊必擇地詳而後處

不履生蟲不踐生草不羣居不侶行不入陥穽不羅羅網

王者至仁則出也

三才圖會云毛蟲三百六十而麒麟爲之長牝曰麒牡曰

麟牡鳴曰遊聖牝鳴曰歸和春鳴曰扶幼秋鳴曰養綏王

者好生惡殺則麟遊于野或云麟有角麒相似而無角

廣博物志云麟之青曰聳孤赤曰炎駒白曰索冥黒曰角

端黃曰麒𪊺【角端日行一萬八千里至速獸也】

[やぶちゃん注:前行の四・五字目の「麒𪊺」の「𪊺」の字は、上に「鹿」で下に「文」であるが、表示出来ないので、この字を当てた。なお、東洋文庫訳も「麒𪊺」とする。

五雜組云鳳凰麒麟皆無種而生世不恒有故爲王者之

瑞龍雖神物然世常有之人罕得見耳

△按瑞應圖曰牡爲麒牝爲麟與三才圖會爲表裏【三才圖會之訛乎】

きりん ※𪊺〔(きりん)〕【正字なり。

            「廣雅」に見ゆ。】

麒麟

[やぶちゃん注:「※」=「鹿」+「希」。]

「本綱」、麒麟は瑞獸〔(ずいじう)〕なり。麕(くじか)の身、牛の尾、馬の蹄〔(ひづめ)〕あり、五彩、腹の下、黃なり。高さ〔一〕丈二〔尺〕。圓〔(まろ)〕き蹄〔にして〕、一角あり。角の端に、肉、有り。音〔(こゑ)〕、鐘呂(しようりよ)に中(あた)る。行くこと、規矩に中り、遊ぶに必ず、地を擇びて詳らかにして後に、處(よ)る。生きたる蟲を履(ふ)まず、生きたる草を踐(ふ)まず、羣居せず、侶行〔(りよかう)〕せず、陥穽(をとしあな)に入らず、羅-網(あみ)に羅(かゝ)らず。王者、至仁〔(しじん)たる〕ときは、則ち、出づ。

「三才圖會」に云はく、『毛〔ある〕蟲、三百六十にして、麒麟、之れが長たり。牝を麒と曰ひ、牡を麟と曰ふ。牡(お)の鳴くを「遊聖」と曰ひ、牝(め)の鳴くを「歸和」曰ふ。春、鳴くを「扶幼」と曰ひ、秋、鳴くを、「養綏〔(やうすい)〕」と曰ふ。王者、生を好み、殺を惡〔(にく)〕む。〔かくある時は、〕則ち、麟、野に遊ぶ〔なり〕。或るひと、云はく、「麟、角、有り、麒は相ひ似て、角、無し」〔と〕』〔と〕。

「廣博物志」に云はく、『麟の青〔き〕を「聳孤〔(しようこ)〕」と曰ひ、赤きをして「炎駒」と曰ひ、白きを「索冥」と曰ひ、黒きを「角端」と曰ひ、黃なるを「麒𪊺〔(きりん)〕」と曰ふ【「角端」は日に行きて、一萬八千里、至つて速き獸なり。】』〔と〕。

「五雜組」に云はく、『鳳凰・麒麟、皆、種〔(たね)〕無くして生ず。世に恒に〔は〕有らず。故に王者の瑞と爲す。龍は神物なりと雖も、然〔(し)〕か〔も〕世に常に之れ有りて、人、罕(まれ)[やぶちゃん注:「稀」に同じい。]に見ることを得るのみ』〔と〕。

△按ずるに、「瑞應圖」に曰はく、『牡を麒と爲し、牝を麟と爲す』と。「三才圖會」と表裏たり【「三才圖會」の、訛〔(あやま)〕りか。】。

[やぶちゃん注:ウィキの「麒麟」を引く。『麒麟(きりん、拼音: qílín チーリン)は、中国神話に現れる伝説上の霊獣』。『獣類の長とされ、これは鳥類の長たる鳳凰と比せられ、しばしば対に扱われる』。但し、「淮南子」(えなんじ」(「え」は呉音)前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)が学者を集めて編纂させた思想書)に『よれば、麒麟は諸獣を生んだのに対し、鳳凰は鸞鳥を生み』、『鸞鳥が諸鳥を生んだとされており、麒麟と対応するのは正確には鳳凰より生まれた鸞鳥となっている』。『日本と朝鮮では、この想像上の動物に似』ているとして、『実在の動物もキリンと呼ぶ』。『形は鹿に似て大きく背丈は』五メートルあり(これは恐らく度量衡の誤認。後注する)、『顔は龍に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、麒角、中の一角生肉。背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗がある。基本的には一本角だが、二本角、三本角、もしくは角の無い姿で描かれる例もある』。『日本では東京都中央区の日本橋に建つ麒麟像が広く知られているが、この像には日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから』、作者『原型製作は彫刻家(彫塑家)の渡辺長男』によって『翼が付けられている』が、本来の麒麟に翼はない(但し、先の「淮南子」の説に従うなら、翼があったとしても不思議ではないとは思うが)。『普段の性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌う』。『神聖な幻の動物と考えられており』、『動物を捕らえるための罠にかけることはできない。麒麟を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる』。また、「礼記」に『よれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物』たる『「瑞獣」とされ、鳳凰、霊亀、応竜と共に「四霊」と総称されている。このことから、幼少から秀でた才を示す子どものことを、麒麟児や、天上の石麒麟などと称する』。『孔子によって纏められたとされる古代中国の歴史書』「春秋」は、『誤って麒麟が捕えられ、恐れおののいた人々によって捨てられてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって記述が打ち切られている』(私は麒麟というと、キリン・ビールの麒麟でもなく、日本橋の麒麟でもなく、偏愛する諸星大二郎の、漫画「孔子暗黒伝」(一九七七年~一九七八年『少年ジャンプ』連載)の、麒麟が捕まったのを孔子が見て驚愕するシーンを思い出すのを常としている)。「詩経」以来の『古文献では、「麟」の』一『字で表されることが多かったが、「麒」も稀に使われた』。「説文解字」に『より、オスを「麒」、メスを「麟」と呼ぶようになった』が、本文にも出る通り、『この雌雄を逆にしている資料もある』。『麒麟にはいくつか種類があると言われ、青い物を聳孤(しょうこ)、赤い物を炎駒(えんく)、白い物を索冥(さくめい)、黒い物を甪端(ろくたん)/角端(かくたん)、黄色い物を麒麟と言う』。『明の鄭和』(ていわ/ていか 一三七一年~一四三四年:武将。十二歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも、軍功をあげて重用され、一四〇五年から一四三三年までの南海への七度の大航海の指揮を委ねられた)『による南海遠征により、分遣隊が到達したアフリカ東岸諸国から実在動物のキリンをはじめ、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを帰国時の』一九一四年に本国へ『運び、永楽帝に献上した。永楽帝はとくにキリンを気に入り、伝説上の動物「麒麟」に姿が似ていたこと、また現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」』『の音に似ていたこともあり、“実在の麒麟”として珍重したと言われる(ただしその信憑性は明らかではない』『)』。『そしてこの故事がキリンの日本名の起源となった。また朝鮮でも同じく「기린(キリン)」』(麒麟girinkirin)『と呼ばれているが、伝説発祥の地・中国で現在は、キリンは「麒麟」ではなく』、「長頸鹿」『と呼ばれている』。『麒麟のように足の速い馬のこともキリンというが、漢字で書く場合は、偏(へん)を鹿から馬に変えて『騏驎』とすることがある。騏驎は、故事では一日に千里も走るすばらしい馬とされる』。『ことわざ「騏驎も老いては駑馬(どば)に劣る」(たとえ優れた人物でも老いて衰えると能力的に凡人にも敵わなくなることの例え)は、中国戦国時代の書物「戦国策」』の「斉策」の「斉五」の、「騏驥之衰也、駑馬先之、孟賁之倦也、女子勝之」(騏驎の衰ふるや、駑馬(どば)[やぶちゃん注:脚の遅い馬。]、之れに先んじ、孟賁(まうほん)の疲るるや、女子これに優(すぐ)る)『が語源』であるとある。因みに、孟賁(もうほん ?~紀元前三〇七年)は戦国時代の衛または斉の出身とする秦の将軍で、武王に仕えた。武王に仕えた諸軍人らと並び称せられた大力無双の勇士で、生きた牛の角を抜く程の力を持っていたとされる。しかし、紀元前三〇七年八月、武王と洛陽に入り、武王と力比べをして鼎の持ち上げた際、武王が脛骨を折って亡くなり、その罪を問われ、孟賁は一族とともに死罪に処されたとされる(以上はウィキの「孟賁」に拠った)。

『「本綱」……』とするが、「本草綱目」には縦覧して見ても、私には見当たらなかった。それどころか、東洋文庫訳は「本草綱目」の引用の場合、必ず、割注で当該巻を指示しているのに、ここにはそれがないのである。しかし、調べてみたところ、本「和漢三才図会」(正徳二(一七一二)年成立)と同時代の、四庫全書本「格致鏡原」(清の康熙年間(一六六二年~一七二二年)の陳元龍撰になるもの。「格致」は当時の「博物学」を意味する語である)巻八十二の「麒麟」に、

   *

  麒麟

大戴禮毛蟲三百六十而麒麟爲之長 論衡講瑞麒麟獸之聖者也 春秋保乾圗歲星散爲麟 孔演麟木精也宋均注麟木精生水故曰陰木氣好土土黃木靑故麟色靑黃 春秋運斗樞機星得則麒麟生萬人壽 鶡冠子麟者枵之獸隂之精也德能致之其精畢至 孫卿子古之王者其政好生惡殺麟在郊野月令章句凡麟生於火遊於土故脩其母致其子五行之精也 瑞應圖麟王者嘉祥也食嘉禾之實飲珠玉之英 春秋感精符麟一角明海内共一主也王者不刳胎不剖卵則出於郊 京房麟有五采腹黃高丈二金獸之瑞 陸璣詩疏麟麕身牛尾馬足黄色圓蹄一角角端有肉音中鐘行中規矩遊必擇地詳而後處不履生蟲不踐生草不羣居不行不入陷阱不罹羅網王者至仁則出

   *

という酷似した文字列(私が太字下線で示した)を見出せた。「京房」(紀元前七七年~紀元前三七年)は前漢の「易経」の大家であり、「陸璣詩疏」は西晋の政治家で文学者であった陸機(二六一年~三〇三年)の「詩経」の注釈書である。

「瑞獸〔(ずいじう)〕」目出度い予兆とされる聖獸。

 

「麕(くじか)」「くじか」だと広義の鹿の古名であるが、「麕」は狭義には獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus を指す。ウィキの「ノロジカ」によれば、『ヨーロッパから朝鮮半島にかけてのユーラシア大陸中高緯度に分布する』。現代『中国では』「子」「西方『と呼ばれる』。体長約一~一・三メートル、尾長約五センチメートルの『小型のシカ』で、『体毛は、夏毛は赤褐色で、冬毛は淡黄色である。吻に黒い帯状の斑があり、下顎端は白い。喉元には多彩な模様を持つのがこの種の特徴である。臀部に白い模様があるが、雌雄で形は異なる。角はオスのみが持ち、表面はざらついており、先端が三つに分岐している。生え変わる時期は冬』。『夜行性で、夕暮れや夜明けに活発に行動する。食性は植物食で、灌木や草、果実などを食べる』とある。

 

「高さ〔一〕丈二〔尺〕」前注の京房の記載であるなら、漢代の一丈は短く、二メートル二十五センチメートル(尺はその十分の一)であるから、二メートル二十九・五センチメートルとなる。これは先行する「馬」の叙述からも、現行のような馬の丈(た)け(寸(き))ではなく(本邦では通常、馬の丈けは、脚の下(地面)から前肢の付け根の肩上部の固い骨の上(騎乗する際の前の突出部)までを言う)、頭頂までの高さと考えるべきである。

「角の端」尖端なら、はっきりそう言うだろうから、ここは基部ととっておく。

「鐘呂(しようりよ)」「鐘」「呂」ともに中国音楽の十二律の一つ。基音を「黄鐘(こうしょう)」と言い、それより一律高い音を「大呂(たいりょ)」と呼ぶから、そのオクターブ二音と一致する鳴き声であることを指すか。

「規矩」規範。

「遊ぶに必ず、地を擇びて詳らかにして後に、處(よ)る」「處(よ)る」は「寄る」で、非常に用心深い性質であることを示す。

「生きたる蟲」昆虫ではなく、広義のヒトを含めた動物を指すと採る。

「侶行〔(りよかう)〕せず」仲間とともに行動せず、単独で生活し。

「毛〔ある〕蟲」前に同じ。広義の動物の意。

「養綏〔(やうすい)〕」「綏」は「安(やす)んずる」の意。以上、総ての呼称が目出度い表象である。

「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)撰になる古今の書物から不思議な話を蒐集したもの。全五十巻。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「見ることを得るのみ」日本語として裙汁と最後の「のみ」はいらない感じになる。

「瑞應圖」東洋文庫版の書名注に、『一巻。孫柔之の『瑞応図記』。清の馬国翰編輯の『玉函山房輯佚書』にある。天地の瑞応の諸物を分類し、図に説明を付けたもの』とある。]

2019/02/26

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 駱駝(らくだのむま) (ラクダ)

 

Rakudanomuma

 

らくたのむま

       槖駝

駱駝

[やぶちゃん注:「槖駝」の「槖」の字は原典は字が潰れていて、上部が「士」ではなく「竹」のようにも見えるが、「本草綱目」の記載に従った。]

 

本綱駱駝西北番界有之有野駝家馳【人家畜養者名家駝】其頭似

[やぶちゃん注:「馳」はママ。明らかに「駝」の誤りである(「本草綱目」は『家駝』である)から、訓読では「駝」とした。]

羊長項埀耳脚有三節背有兩肉峯如鞍形有蒼褐黃紫

數色其聲曰𡇼其食亦齝其性耐寒惡熱故夏至退毛至

盡毛可爲其糞烟直上如狼烟其力能負重可至千斤

日行二三百里又能知泉源水脉風候凡伏流人所不知

駝知其泉脉以足跑地掘之必有水

流沙夏多熱風行旅遇之卽死風將至駝必聚鳴埋口鼻

於沙中人以爲驗也其臥而腹不著地屈足露明者名明

駝最能行遠【流沙者天竺地】

大月氏國有一封駝脊上有一峯隆起若封土【又有封牛𤛑牛物牛

牛數名】于闐國有風脚駝其疾如風日行千里

 

 

らくだのむま

       槖駝〔(たくだ)〕

駱駝

 

「本綱」、駱駝は西北番[やぶちゃん注:「番」は「蕃」で、中国の西北方面の「蛮」地という蔑称である。]の界〔(さかひ)〕に、之れ、有り。「野駝」〔と〕「家駝」【人家に畜養せる者を「家駝」と名づく。】有り。其の頭〔(かしら)〕、羊に似て、長き項〔(うなじ)〕、埀れたる耳、脚に〔は〕三つの節〔(ふし)〕有り。背(〔せな〕か)に、兩〔(ふた)つの〕肉〔の〕峯、有りて、鞍の形ごとく、蒼・褐・黃・紫〔など〕數色有り。其の聲、「𡇼〔(あつ/えち)〕」と曰ふ。其の食(ものくら)ふこと、亦、齝(にれか)む[やぶちゃん注:「牛」で出た「反芻する」の意。]。其の性、寒に耐へ、熱を惡〔(にく)〕む。故に、夏至に、毛、退〔(の)〕く[やぶちゃん注:抜けてしまう。]。盡くるに至つて、〔その〕毛〔を以つて〕〔(けおりもの)〕と爲すべし。其の糞〔を燃せば、〕烟、直〔(すぐ)〕に上りて、狼烟(のろし)のごとし。其の力、能く重きを負ひて、千斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、ざっと六百キログラムになる。重過ぎ! ラクダさん、死んでしもうがね!]に至るべし。日に行くこと、二、三百里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、百十二~百六十八キロメートルほどになる。これも中国得意の誇張物。]。又、能く泉源・水脉・風候[やぶちゃん注:風向きの変化。]を知る。凡そ、伏流して人〔の〕知らざる所を、駝、其の泉脉を知りて、足を以つて、地を跑(あしか)きす。之れを掘れば、必ず、水、有り。

流沙(りうさ)には、夏、熱風、多くして、行-旅(たびびと)、之れに遇へば、卽ち、死す。風、將に至らんとす〔れば〕、駝、必ず、聚〔(あつま)〕り、鳴き、口・鼻を沙〔の〕中に埋づむ。人、〔之れを〕以つて驗〔(しるし)〕と爲すなり。其の臥す〔るに〕腹を地に著〔(つ)〕けず、足を屈(かゞ)む〔は〕露明の者〔にして〕、「明駝」と名づく。最も能く遠くに行く〔者なり〕【「流沙」とは「天竺」の地〔なり〕。】。

大月氏國〔(だいげつしこく)〕に「一封駝〔(いつぷうだ〕」有り。脊の上に一峯〔のみ〕有り。隆く起きて、封土[やぶちゃん注:墳墓。]のごとし【又、封牛・𤛑牛〔(とうぎう)〕・物牛・牛〔(はくぎう)など〕、數名〔(すめい)〕、有り。】于闐國〔(うてんこく)〕に「風脚駝」有り。其の疾〔(はや)き〕こと、風のごとく、日に行〔くこと、〕千里〔と〕。

[やぶちゃん注:本項が「巻第三十七 畜類」の最終項である。西アジア原産で背中に一つの瘤(こぶ)を持つ、

ローラシア獣上目鯨偶蹄目ウシ亜目ラクダ科ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedaries

と(本文の「一封駝」)、中央アジア原産で二つの瘤を持つ、

フタコブラクダ Camelus ferus

(本文の主文部のそれ)の二種のみが現生種ウィキの「ラクダ」を引く。『砂漠などの乾燥地帯にもっとも適応した家畜であり、古くから乾燥地帯への人類の拡大に大きな役割を果たしている』。『背中のこぶの中には脂肪が入っており、エネルギーを蓄えるだけでなく、断熱材として働き、汗をほとんどかかないラクダの体温が日射によって上昇しすぎるのを防ぐ役割もある。いわば、皮下脂肪がほとんど背中に集中したような構造であり、日射による背中からの熱の流入を妨げつつ、背中以外の体表からの放熱を促す。こぶの中に水が入っているというのは、長期間乾燥に耐えることから誤って伝えられた迷信に過ぎない。ただし、水を一度に』八十『リットル程度摂取することが可能である。出生時にこぶは無く、背中の』、『将来』、『こぶになる部分は皮膚がたるんでいる。つまり脂肪を蓄える袋だけがある状態で生まれてくる』。『ラクダは砂漠のような乾燥した環境に適応しており、水を飲まずに数日間は耐えることができる。砂塵を避けるため、鼻の穴を閉じることができ、目は長い睫毛(まつげ)で保護されている。哺乳類には珍しく瞬膜を完全な形で備えている。また、塩性化の進行した地域における河川の水など塩分濃度の非常に高い水でも飲むことができる。さらに胼胝』(べんち/たこ)『と呼ばれる皮膚が分厚く角質化した箇所が左右の前脚の付け根、後脚の膝、胸の』五『か所にある。胼胝は断熱性に優れ、ここを接地して座れば』、『高温に熱された地面の影響を受けることなく』、『休むことが出来る』。『他の偶蹄目の動物と同様、ラクダは側対歩(交互に同じ側面の前後肢を出して歩く)をする。しかし、偶蹄目の特徴が必ずしもすべて当てはまるわけではなく、偶蹄目の他の動物などのように、胴と大腿部の間に皮が張られてはいない。また、同様に反芻を行うウシ亜目』(反芻亜目 Ruminantia)は四『室の胃をもつが、ラクダには第』三『の胃と第』四『の胃の区別がほとんどない。従来』、『ラクダ科』Camelidae『を含むラクダ亜目』Tylopoda『は反芻をしないイノシシ亜目』『と反芻するウシ亜目の中間に置かれていた。しかし遺伝子解析による分析では、ラクダ亜目は偶蹄目の中でもかなり早い時期にイノシシ亜目』Suina『とウシ亜目の共通祖先と分岐しており、同じように反芻をするウシやヒツジ、ヤギなどは、ラクダ科よりもむしろイノシシ科』Suidae『やカバ科』Hippopotamidae、或いは『クジラ目』Cetacea『の方に近縁であることが明らかになっている』。『ラクダの蹄(ひづめ)は小さく、指は』二『本で』、五『本あったうちの』、『中指と薬指が残ったものである。退化した蹄に代わり、脚の裏は皮膚組織が膨らんでクッション状に発達している。これは歩行時に地面に対する圧力を分散させて、脚が砂にめり込まないようにするための構造で、雪上靴や』「かんじき」『と同じ役割を持つ。砂地においては、蹄よりもこちらの構造が適しているのである』。『ラクダの酷暑や乾燥に対する強い耐久力については様々に言われてきた。特に、長期間にわたって水を飲まずに行動できる点については昔から驚異の的であり、背中のこぶに水を蓄えているという話もそこから出たものである。体内に水を貯蔵する特別な袋があるとも、胃に蓄えているのだとも考えられたが、いずれも研究の結果』、『否定された』。『実際には、ラクダは血液中に水分を蓄えていることがわかっている。ラクダは一度に』八十『リットル、最高で』百三十六『リットルもの水を飲むが、その水は血液中に吸収され、大量の水分を含んだ血液が循環する。ラクダ以外の哺乳類では、血液中に水分が多すぎると』、『その水が赤血球中に浸透し、その圧力で赤血球が破裂してしまう(溶血)が、ラクダでは水分を吸収して』二『倍にも膨れ上がっても破裂しない。また、水の摂取しにくい環境では、通常は』摂氏三十四~三十八『度の体温を』四十『度くらいに上げて、極力水分の排泄を防ぐ。もちろん尿の量も最小限にするため、濃度がかなり高い。また、人間の場合は体重の』一『割程度の水が失われると生命に危険が及ぶが、ラクダは』四『割が失われても生命を維持できる。そのかわり、渇いた時には一気に大量の水を飲むので、ラクダの群れに水を与えるには非常に大量の水を必要とすることとなる』。『一方で、ラクダは湿潤環境には弱い。ラクダは湿潤環境に多く発生する疫病に対して抵抗力がない。また、足が湿地帯を移動するようにできておらず、足を傷めることが多い』。『アフリカにおいてはニジェール川がもっとも砂漠に近くなるニジェール川大湾曲部のトンブクトゥあたりが南限であり、これ以南では荷役動物がロバへと変わる』。『ラクダは乾燥地帯において主に飼育される家畜の一つである。もっとも、遊牧においてラクダのみを飼育することは非常に少なく、ヒツジやヤギ、ウシなどといった乾燥地域にやや適応した他の家畜と組み合わせて飼育されることが一般的である。これは、飢饉や疫病などによって所有する家畜が大打撃を受けた時のリスク軽減のためである。また、ラクダは繁殖が遅く増やすのが難しい。 オスは』六『歳にならないと交尾が可能とならず、発情期は年に』一『回しかない』。『メスも他の家畜と比較して成熟に多くの時間が必要であり、妊娠期間は』十二『ヶ月近くに及ぶ』。『反面、寿命は約』三十『年と長く、乾燥に強いため』、『旱魃の際にも他の家畜に比べて打撃を受けにくい。このため、ヒツジやヤギが可処分所得として短期取引用に使用されるのに対し、ラクダは備蓄として、長期の資産形成のため飼養される』。『一方、ラクダとヤギやウシを同じ群れとして放牧すると』、『食物を巡って争いを起こしやすいため、ラクダの群れはほかの動物と分けて放牧するのが通例である』。『ラクダ科の祖先は』、『もともと北アメリカ大陸で進化したものであり』、二百万年から三百万年前に『陸橋化していたベーリング海峡を通ってユーラシア大陸へと移動し、ここで現在のラクダへと進化した。北アメリカ大陸のラクダ科は絶滅したが、パナマ地峡を通って南アメリカ大陸へと移動したグループは生き残り、現在でもリャマ』(ラクダ科ラマ属リャマ Lama glama)・グアナコ(ラマ属グアナコ Lama guanicoe)・アルパカ(ラクダ科ビクーニャ属アルパカ Vicugna pacos)・ビクーニャ(ビクーニャ属ビクーニャ Vicugna vicugna)の近縁四『種が生き残っている』。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの家畜化はおそらくそれぞれ独立に行われたと考えられている。ヒトコブラクダが家畜化された年代については』、紀元前二〇〇〇年以前・紀元前四〇〇〇年・紀元前一三〇〇~一四〇〇年などの『諸説があるが、おそらくはアラビアで行われ、そこから北アフリカ・東アフリカなどへと広がった。フタコブラクダはおそらく紀元前』二五〇〇『年頃、イラン北部からトルキスタン南西部にかけての地域で家畜化され、そこからイラク・インド・中国へと広がったものと推測されている』。以下、野生のヒトコブラクダについての記載。『ヒトコブラクダの個体群はほぼ完全に家畜個体群に飲み込まれたため、野生個体群は絶滅した。ただ、辛うじてオーストラリアで二次的に野生化した個体群から、野生のヒトコブラクダの生態のありさまを垣間見ることができる。また』、二〇〇一年には、中国の奥地にて一千頭もの『ヒトコブラクダ野生個体群が発見された。塩水とアルカリ土壌に棲息していること以外の詳細は不明で、遺伝子解析などは調査中である』が、『この個体群についても、二次的に野生化したものと推測されている。したがって、純粋な意味での野生のヒトコブラクダは絶滅した、という見解は崩されずにいる』。以下、野生のフタコブラクダの記載。『野生のフタコブラクダの個体数は、世界中で約』一千『頭しかいないとされている』。『このため、野生のフタコブラクダは』二〇〇二『年に、国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定され、レッドデータリストに掲載されている』。二〇一〇年現在で、全世界には千四百万頭のラクダが生息しているが、その九十%はヒトコブラクダである。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの生息域は一部では重なり合うものの、基本的には違う地域に生息している。ヒトコブラクダは西アジア原産であり、現在でもインドやインダス川流域から西の中央アジア、イランなどの西アジア全域、アラビア半島、北アフリカ、東アフリカを中心に分布している。なかでも特にアフリカの角地域では現在でも遊牧生活においてラクダが重要な役割を果たしており、世界最大のラクダ飼育地域となっている』。『世界で最大のラクダ飼育頭数を誇るソマリア』『や、エチオピアにおいてラクダは現在でも乳、肉、移動手段を提供し続けている』。『フタコブラクダのほうは中央アジア原産であり、トルコ以東、イランやカスピ海沿岸、中央アジア、新疆ウイグル自治区やモンゴル高原付近にまで生息している。頭数は』百四十『万頭程度で、ラクダのうちの』十%『程度である』。『家畜として飼育する場合は』、『通常』、『どちらかの種しか飼育しないが、両種の雑種は大型となるため』、『荷役用として価値が高く、中央アジアでは両種をともに飼育して常に雑種を生み出し続けるようにしていた』。『また、ヒトコブラクダは砂漠の広がるオーストラリアに人為的に持ち込まれ、現在では野生化して繁殖している』。『この個体群は』十九『世紀から』二十『世紀にかけて』、『オーストラリアに持ち込まれたものが野生化したもので、オーストラリア中央部の砂漠地帯に約』七十『万頭が生息して』おり、しかも『この数字は年間』八%『ずつ増大している』。しかし、『この野生ラクダはオーストラリアで盛んなヒツジの牧畜用の資源を荒らすため、オーストラリア政府は』十『万頭以上を駆除している』。『ヒトコブラクダは歯を見ることで年齢を知ることが出来る。生まれた時は』二十二『本の乳歯があり、加齢と共に歯が生え変わり』、七『歳で』三十四『本の永久歯に生え変わる。このため、古くからラクダを取引するアラブ商人たちはラクダの歯の生え方で値段を決めていた。また、地方によっては歯の生え方で呼び方を変えることもあり』、『販売価格などと密接に関係している。 ラクダの平均寿命は』二十五『歳前後だが、アラブ社会では古くからラクダの寿命は』三十三年三ヶ月と三日と『言われてきた。ヒジュラ暦は』一年が十一日ほど短いため、三十三年三ヶ月と三日で『季節が』三十三回、『変わり、太陽暦の』三十三『年に相当する』のである。但し、現地では『ラクダの年齢は歯が一組変わるごとに』一『歳加齢される独特の年齢加算法を用いる場合があるので、実際の年齢とラクダ商人が数える年齢が一致しないことがある』。『アラブ社会では古くから、上顎両側に』六『本の奥歯があるラクダを』、『砂漠の横断が可能な大人のラクダとしていた』という。『歯の磨り減り方は生活環境によって異なるため、必ずしも実際の年齢とは一致しないが、アラブ社会では古くからラクダの年齢を知る方法として用いられてきた。歯が磨り減ってしまうと』、『通常の餌が食べられなくなるため、近代以前は寿命とされてきた』。以下、「雑種」の項。『ヒトコブラクダとフタコブラクダの間には雑種ができ、カザフスタンではブフト(bukht)と呼ばれる。雑種の瘤は一つで、どちらの種よりも体格で勝るため』、『役畜として重用される。雌のブフトはフタコブラクダと戻し交配することができ、ヒトコブラクダの血を』二十五%、『フタコブラクダの血を』七十五%『引く乗用のラクダがつくられる』。また、『ヒトコブラクダとリャマとの間に人工的に作られた種間雑種』に『キャマ』がいる。ラクダを最初に家畜化したのは古代のアラム人ではないかと考えられている。アラム人はヒトコブラクダを放牧する遊牧民、あるいはラクダを荷物運搬に使って隊商を組む通商民として歴史に登場した。砂漠を越えることはほかの使役動物ではほぼ不可能であるため、ラクダを使用することによってはじめて砂漠を横断する通商路が使用可能となった。やがて交易ルートは東へと延びていき、それに伴ってラクダも東方へと生息域をひろげていった』。『シルクロードの』三『つの道のうち、最も距離が短くよく利用されたオアシス・ルートは、ラクダの利用があって初めて開拓しえたルートである。シルクロードを越えるキャラバンは何十頭ものラクダによって構成され、大航海時代までの間は東西交易の主力となっていた。サハラ砂漠においては、それまでおもな使役動物であったウマに代わって』三『世紀ごろに東方からラクダがもたらされることで』、『はじめてサハラを縦断する交易ルートの開設が可能となり、サハラ交易がスタートした。また、ラクダは湿潤地帯で荷役を行わせることは困難であるため、砂漠とサヘル地帯の境界に近いニジェール川大湾曲部のトンブクトゥなどはラクダとニジェール川水運やロバとの荷の積み替え地点として栄えた』。『歴史学者のリチャード・ブリエットは別のストーリーとして、紀元前』三〇〇〇『年ごろ、アフリカから中央アジアにかけてラクダを捕食対象としていた狩猟採集民のうち、アラビア海南部沿岸(今日のソマリア周辺)地域のグループが最初にヒトコブラクダを馴化させたと主張している』。『最初の利用目的は乳の採取だったといい、牧草地を求めて遊牧を始めたことから駄獣としての利用に発展したという』。『ブリエットによれば、フタコブラクダの家畜化は紀元前』二五〇〇『年ごろ、イランとトルクメニスタンのあいだの高原地域で生活していた遊牧民によって行われ、その手法が中央アジアを経てメソポタミアに広がったという』。『アッシリア人の戦勝記念に描かれたレリーフに現れるラクダの多くは荷車を牽いている』。『ラクダと人類とのかかわりにおいて、最も重要なものは乗用利用である。ラクダは『砂漠の舟』とも呼ばれ、ほかの使役動物では越えることのできない乾燥地域を越える場合にはほぼ唯一の輸送手段となっていた。特に利用されていたのは砂漠の多いアラブ世界であり』、二十『世紀後半に自動車が普及するまで重要な移動手段であった。前述のように側対歩で歩行するラクダは歩行時に身体が大きく左右に揺れる。このため』、『慣れない者がラクダに乗る場合、船酔いならぬラクダ酔いを起こすことがある』。『初期のラクダの鞍はコブの後部に置かれたマットを前方に伸ばした帯でコブに固定したもので、主に荷役用として使われた。やがて騎乗を目的としたコブの前に乗せる馬蹄形の鞍が現れたが、初期の騎乗用の鞍はぐらつきが大きく戦闘には向かなかった』。『アラビアでは紀元前』五〇〇年頃『以降に、コブではなく』、『肋骨に負荷をかける設計の鞍が現れたことによって騎乗戦闘が可能となり、紀元前』二『世紀ごろには遊牧民と商業国家のパワーバランスを変えるなど、社会に変革をもたらすほどの影響を与えるようになった』。『現代においてはほとんどが自動車にとってかわられたものの、マリ北部のタウデニから南のトンブクトゥへと塩の板を運ぶキャラバンなどは現在でもラクダが使用され』、二千頭から三千頭もの『ラクダのキャラバンが』十月から五月までの『涼しい時期に』一『か月以上かけて両地を往復する』。『また』、『砂漠地帯で長時間行動できるため、古くから駱駝騎兵として軍事利用され、現代でも軍隊やゲリラの騎馬隊がラクダを使用することがある。現代ではインドと南アフリカの』二ヶ国が『純軍事的にラクダ部隊を保有して』いる。『ラクダの肉は食用とされ、また』、『乳用としても利用される。血液を禁忌とするムスリムとユダヤ教徒以外は、生き血を飲むこともある。また、ユダヤ教徒はラクダはコーシャー』(ユダヤ教に於ける厳格な「食物清浄規定」のこと。ヘブライ語に近い音写では「カシェル」と私は心得ている。なお、後の方に『これは、ラクダは』カシェルの『食肉の条件のうち』、『一つしか満たしていないとされているためで』、カシェル『の』肉食可能な獣類の『条件は反芻をし』、『蹄が分かれているものに限られるが、ラクダは生物学的には蹄が分かれ、反芻をするものの、外見上』、『蹄が毛に覆われて分かれているように見えない』ことによるとある。私の知り合いのユダヤ教徒はウナギを食わない。鱗のない魚はカシェルで食ってはいけないからだという。私は何度も「ウナギには鱗があるんだ」と言って顕微鏡写真を見せるのだが、食べない。少なくとも、日本の美味しい鰻重が食えない非科学的なユダヤ教徒は可哀想だとは思うのである)『ではないため』、『食べることはできない』。『食用としてのラクダ利用において最も重要なものはラクダ乳の利用である。イスラム圏において古来乳用動物として飼育されてきたものはラクダ、ヒツジ、ヤギであるが、ラクダはヒツジやヤギに比べて授乳期間が長い(約』十三『か月)上に乳生産量も一日』五『リットル以上と非常に多かったため、砂漠地帯の遊牧民の主食とされてきた』。『アラブにおいては、ヒツジやヤギの乳搾りが女性の仕事とされたのに対し、ラクダの乳搾りは男性の仕事とされてきた。ラクダ乳は主にそのまま飲用されたが、発酵させて酸乳(ヨーグルト)とすることもおこなわれた。ラクダ乳はウシやヒツジ、ヤギの乳と脂肪の構造が異なり、脂肪を分離することがやや困難である。さらにヤギやヒツジの乳のほうが脂肪の含有量も多いため、バターやチーズといった乳製品は主にヒツジやヤギから作られていた。しかし、ラクダ乳からバターやチーズを作ることも歩留まりが悪い上』、『技術も必要』であるが、『可能であり、その希少性ゆえに高級品として高く評価されていた』。『近年、栄養価の高いラクダ乳は見直される傾向にあり、ヨーグルトやアイスクリームなどのラクダミルク製品を製造する会社も設立されている』。『アラブ首長国連邦のドバイでもラクダミルク製品の開発がすすめられており、ラクダチーズやラクダミルクチョコレートをはじめとする製品の世界各地への売り込みを図っている』。『アメリカ合衆国でも、アーミッシュを中心にラクダの飼育とラクダミルクの商品化が行われ、カリフォルニアを中心にラクダミルクを取り扱う店があらわれはじめている』という。『皮はなめして用いられ、毛は織物、縄、絵筆などに利用される。古くから利用されており』「マタイによる福音書」によれば、『洗礼者ヨハネはラクダの皮で作った服を着ていたとされる』。『寒冷な中央アジアのフタコブラクダの毛は織物の素材として優秀であ』り、また、『木材が貴重品である乾燥地帯において、かつてはラクダの糞が貴重な燃料でもあった』。『アラブ医学の四体液説では、粘液質の人間の気質は「情緒が弱く鈍感だが、一旦事を始めると粘り強く耐久力がある」と考えられていた。ラクダは胆嚢がない無胆嚢動物であることから、黒胆汁を持たない粘液質の気質を持つ動物である、という民俗概念がある』という。

「流沙」『「流沙」とは「天竺」の地〔なり〕』東洋文庫は後の割注を『流沙とは天竺(インド)の地のことである』と訳しているが、これは間違ってるだろ! 「流沙」は中国語「Liū shā」(リォウ・シァー)で、中国の西北地区の砂漠地帯の呼称だろ! 平凡社「世界大百科事典」によれば、「書経」の「禹貢篇」に『弱水を導きて合黎(ごうれい)に至り、余波・流沙に入る』とあるが、この「流沙」は「水経(すいけい)」によれば,張掖(ちようえき)郡の居延県の北東に当たるとし、今日の居延海(現在のガシュン・ノール:漢名「嘎順淖爾」)付近((グーグル・マップ・データ))の砂漠を指した。また、新疆ウイグル自治区のロブ・ノール((グーグル・マップ・データ))以東、甘粛省の玉門関に至る間の砂漠地帯をも指す。タリム盆地の南,崑崙山脈の北麓を通って、パミールを越えて行くシルク・ロードの一つとして、古くより交通の要衝地帯だった場所だ! リンク先の地図をよう見んかい! ここはインドでも天竺でも、ない、ぞ!!!

「露明」東洋文庫注に、『腹を地につけないで屈むからすき間ができ』、『明りが漏れる。それで露明という。また』、『眼の下に毛があり、夜でもよく物を見ることができるので露明というともいう』とある。

「大月氏國〔(だいげつしこく)〕」紀元前三世紀から一世紀頃にかけて、東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前二世紀に匈奴に敗れてからは、中央アジアに移動し、「大月氏」と呼ばれるようになった。大月氏時代は東西交易で栄えた(以上はウィキの「に拠った)。

「封牛・𤛑牛〔(とうぎう)〕・物牛・牛」

「于闐國〔(うてんこく)〕」古代、中国の西域にあったオアシス都市国家。現在の中国新疆ウイグル自治区ホータン(和田)県((グーグル・マップ・データ))。東西貿易路の要衝として起源前二世紀には既に繁栄していた。住民はアーリア系で、仏教文化が栄えた。古来、玉(ぎょく)の産地として有名である(小学館「大辞泉」に拠る)。

「風脚駝」種ではなく、駱駝レース(今も中近東でギャンブルとして行われている。体重の軽い騎手が有利なため、少年を使っていたのを児童虐待とされ、十年程前にはロボット少年騎士を開発したと聴いたが、どうなったことやら?)用に速く走れるように調教した個体を指すのであろう。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)

 

Raba

 

ら    附 駃騠 駝𩢷

 𩦺 

【音羅】

        驘【騾之古文】

ロウ

 

本綱騾狀大于驢健于馬其力在腰其後有鎖骨不能開

故不孳乳其類有五種今俗通呼爲騾矣【三才圖會其後之後字股】

牡驢交馬而生者卽騾也 牡馬交驢而生者爲駃騠【決題】

牡牛交馬而生者爲驢 牡驢交牛而生者爲駝𩢷【它陌】

牡牛交驢而生者𩦺【謫蒙】

五雜組云驘之爲畜不見於三代至漢時始有之然亦非

中國所産也匈奴北地馬與驢交合而生今北方以爲常

畜其價反倍於馬矣

駃騠爲神駿而騾爲賤畜可見人物稟氣於父不稟氣於

母也孟康曰駃騠良馬生七日而超其母

 

 

ら    附〔(つけたり)〕

       駃騠〔(けつてい)〕

       駝𩢷〔(だはく)〕

 𩦺〔(てきまう)〕

 驢〔(きよろ)〕

【音、「羅」。】

        驘〔(ら)〕【「騾」の古文。】

ロウ

[やぶちゃん注:「附〔(つけたり)〕」は「附録」の意。「古文」は「古い字」の意。]

 

「本綱」、騾、狀、驢より大にして、馬より健〔(すこや)か〕なり。其の力、腰に在り、其の後ろに、鎖骨、有り、開く能はず。故に孳乳〔(うみさか)えること〕せず。其の類ひ、五種有り。今、俗に通〔(とほ)し〕呼んで「騾」と爲す【「三才圖會」、「其の後ろ」の「後」の字を「股」と爲す。】。

牡驢〔(をすのろば)〕、馬に交はりて生〔まれし〕者を、卽ち、「騾」〔とする〕なり。

牡馬、驢と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「駃騠」【〔音、〕「決題」。】と爲す。

牡牛、馬と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「驢」と爲す。

牡驢、牛と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「駝𩢷」【〔音、〕「它陌」。】と爲す。

牡牛、驢と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「𩦺」【〔音、〕「謫蒙」。】と爲す。

「五雜組」に云はく、『驘の畜たること、三代[やぶちゃん注:夏・殷・周。紀元前一八〇〇年頃から紀元前二五六年まで。]に見えず、漢〔の〕時[やぶちゃん注:前漢の建国は紀元前二〇六年。]に至りて、始めて、之れ、有り。然も亦、中國にして産む所に非ざるなり。匈奴〔(きようど)の〕北地〔にて〕、馬と驢と交-合(つる)びて生〔まる〕。今、北方には、以つて、常に畜と爲す。其の價〔(あたひ)〕、反〔(かへ)り〕て、馬より倍す。』〔と〕。

「駃騠」〔は〕神駿〔(しんしゆん)〕たり、「騾」〔は〕賤畜たり。見るべし、人〔及び動〕物、氣を父に稟〔(う)〕け、氣、母〔よりは〕稟けざ〔れば〕なり。孟康、曰はく、『駃騠、良馬なり。生まれて七日にして其の母を超ゆ』〔と〕。

[やぶちゃん注:主項の「騾」(騾馬)は実在する、

奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus

であり、その反対の交雑種である「駃騠」は、

ウマ属ケッテイEquus caballus × Equus asinus

として実在する。しかし、「本草綱目」がまことしやかに言っているウシとウマの間に出来るとする「驢」、ロバとウシとの「駝𩢷」、ウシとロバとの「𩦺」などという交雑種は昔も今も存在しない(但し、遺伝子技術の過剰な暴走の中で将来そのような呪われたハイブリッド種を、狂った「ドクター・モロー」たちが生み出さないとは言えない)。ウィキの「ラバをまず引く。『雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜で』、『北米』(英語:Mule)、『アジア(特に中国)、メキシコに多く、スペインやアルゼンチンでも飼育されている』。『逆の組み合わせ(雄のウマと雌のロバの配合)で生まれる家畜をケッテイ(駃騠、英語: Hinny)と呼ぶが、ケッテイと比べると、ラバは育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されてきた』。『家畜として両親のどちらよりも優れた特徴があり、雑種強勢の代表例である』。『体が丈夫で粗食に耐え、病気や害虫にも強く、足腰が強く脚力もあり、蹄が硬いため』、『山道や悪路にも適す。睡眠も長く必要とせず、親の馬より学習能力が高く調教を行いやすい。とても経済的で頑健で利口な家畜である』。『唯一』、『欠点として、「stubborn as a mule(ラバのように頑固)」という慣用句があるように、怪我させたり』、『荒く扱う等で機嫌が悪くなると、全く動かなくなる頑固で強情な性格がロバから遺伝している。それ以外は、大人しく臆病で』、『基本』、『従順である。あとは、馬よりは駆け足の速さが劣るぐらいである』。『鳴き声は馬ともロバとも異なるが、ややロバに似る』。『ラバとケッテイは』孰れも基本的には『不妊である。不妊の理由として、ウマとロバの染色体数が異なるからだと考えられている。ただ、発情期はあり、理論上は妊娠可能である。胚移植したように自然に妊娠することも稀ではあるが』、『ある』(後述)。『大きさや体の色はさまざまである。耳はロバほど長くない。頸が短く、たてがみは粗い』。『ラバは紀元前』三〇〇〇年から、二一〇〇年と一五〇〇年との間ごろには、『エジプトで知られていたと考えられている。ファラオがシナイに鉱山労働者を送る際、ラクダではなく』、『ラバで送ったという岩の彫刻が残っている。エジプトのモニュメントには、ラバにチャリオットを引かせる絵が残っており、当時から輸送に関わっていた事が分かる』。『黒海沿岸の(現代のトルコの北部と北西部の部分)パフラゴニアとニカイアの住民が、ラバの繁殖を最初に行ったと言われている。 古代における重要性は高く、ヒッタイトが隆盛を誇っていた頃は戦車用の馬の』三『倍の価値があった。紀元前』三『千年紀のシュメールの文書によれば、ロバの』七倍の二十~三十シェケル(西方で古代に長く用いられた通貨単位)、エブラは(シリア北部アレッポの南西五十五キロメートルに位置した古代都市国家。紀元前三千年紀後半及び紀元前二千年紀前半(紀元前一八〇〇年~紀元前一六五〇年)の二つの時期に繁栄を誇った)では平均六十シェケルの『高値で取引されていた。古代のエチオピアでは至上の動物として扱われ、聖書に登場するダビデ王はソロモンら王子の乗る動物に「ロイヤルビースト」としてラバを薦め、自らも愛用した。それらを含め旧約聖書の中でラバの記述は』十七回も『登場する』。『ローマ帝国でも回復力が高いラバは駄獣として駅伝制度クルスス・プブリクスなどで重用された』。『また、力が強く』、『多頭の輓用にも向いたラバは』、『ローマ軍の前線補給など、短距離輸送に活躍し』、『ウマ同様』、『騎乗用として用いられることも多かった』。『中世ヨーロッパ、巨大な馬に重装甲騎士が跨っていた頃、ラバには聖職者と階級の高い紳士が跨っていた』。十八『世紀になると、ラバの繁殖がスペイン、イタリア、フランスで一大産業となり、フランスのポワトゥー州では毎年』五十『万頭』も『生産された。地元の大型ロバ』である『ポワトゥー種が』、『畑作業で重宝する重牽引ラバの片親として適していた』ため『である』。『より大きく、強力なロバの品種改良がカタルーニャとアンダルシアで進められた直後から、スペインはラバ繁殖業界のトップグループに並んだ。スペイン帝国では、雌ラバは乗馬用に、雄ラバは銀山の輸送用として重宝されるだけでなく、国境警備にも用いられ、各前線哨戒基地や農園では独自に繁殖が行えるよう』、『最低』、『一匹』は『種ロバが確保された』という(以下、アメリカでのラバ史が詳細に綴られるが、略す)。『内燃機関の登場で軍を去ったラバは農場に迎えられた。しかし、第二次世界大戦中、信頼性の高い農業用ラバ導入が試みられたが、農村にも内燃機関の波が押し寄せていた』。『山岳が多く道路の整備が進んでない国では、今でも現役で働いている。先進国では農耕はトラクター、輸送はトラックに置き換わったが、趣味の世界である高級な馬のショーでは、どの分野でも活躍している。また、軍事の分野でも活躍している』ラバは『モータリゼーション、電撃戦の普及する以前、戦争で重要な役割である火砲や物資輸送等の兵站に関わっていた。ナポレオン』『世は騎兵の運用について天才的な戦史をいくつも残した人物だが、当人は乗馬が下手なのかラバに乗っていたとされるほか、ラバを砲兵隊で大砲を曳く馬として大量に使っていたという。ナポレオンは、砲兵の出身であるため、ラバを扱い慣れていたと考えられている』。『現在、その役割の多くをヘリや車両などが担っているが、それらが侵入できないアフガニスタンのような山岳地域等への物資輸送として活用されている』とある。

 次にウィキケッティ」を引く。『ケッテイ(駃騠)は、オスのウマとメスのロバの間に生まれるウマ科の雑種動物で』、『外見は』『ラバと似ている』。『ケッテイは、平均的にラバよりわずかに小型である。この』二『種類の雑種の間に見られる体格差に関しては、多くの考察がなされている。一つはこれが単に生理学的なもので、メスのウマに比べてメスのロバの方が小さいことに起因するというものである。一方、これは遺伝的なものであると主張する人もいる。しかし、アメリカロバ・ラバ協会 (ADMS: American Donkey and Mule Society) は「ケッテイが親から受け継ぐ遺伝子はラバと全く同じである」としている』。『ウマ科の子孫の成長度は母親の子宮の大きさに影響されるが、ほとんどの場合ロバはウマより小さく、ケッテイは小さな体格となる。ラバ同様その大きさは様々であるが、これは母親となるロバが、馨甲(withers)』(きこう:ウィザーズ:牛馬などの肩甲骨間の隆起を指す語)『の部分で』約六十一センチメートル『ほどの小さなものから、ボデ・デュ・ポアトゥ (フランス語:Baudet de Poitou)のように一メートル二十六センチメートル『ほどのものまで、様々であるからだ。ケッテイの体格は最も大きな個体でも、おおよそロバの中でも最大の種の大きさまでにしかならない。これに対してラバはウマを母親とするので、ウマの中でも最大の種の大きさ程度まで成長することができる。ラバの中にはかなり巨大な個体も見られるが、それらはベルジアンのような使役馬から生まれたものである』。『体格の大きさ以外にも、ラバとケッテイの間にはしばしば差が見られる。ケッテイの頭は、ラバ以上にウマに似ている。しばしば』、『短い耳のケッテイがいるとはいえ、それでもそれらはウマの耳よりは長く、またラバよりもウマに似た』鬣『や尾を持つ。毛色の決定はオス親に依存しているため、ケッテイの毛は通常』、『ウマと同じとなる。また、逆にラバはロバの毛色と同じになるのが一般的である。一部のウマやロバが持っている、歩法などのある種の形質は、オスの親から遺伝すると考えられている。このため、多くの人が歩法のできるケッテイを作り出そうとして、歩法のできるオスのウマとメスのロバによる交雑を試みている』。『ウマとロバは染色体の数が異なっており(ロバ 』六十二『本、ウマ 』六十四『本)、ケッテイは生まれにくい。両者の雑種として生まれるケッテイの染色体数は』六十三『本となり、不妊である。染色体数が偶数でない場合、生殖機能不全となるのである。ADMSによれば、「ウマ科の雑種は、遺伝子の数が少ない側(ロバ)をオスの親に持つときに生産しやすい。したがってラバに比べてケッテイを生産するのは難しい」という』。『オスのケッテイとラバは通常、繁殖行動を抑えて管理しやすくするために去勢される。オスのケッテイやラバもメスとつがいをなすが、不妊である。オスのケッテイやラバが生殖能を有していたという報告はない』。『メスのケッテイとラバは必ずしも去勢されるわけではなく、発情するか否かはまちまちである。メスのラバは、純血種のウマやロバとつがいになると子を産むことが知られているが、これは極めてまれである』。一五二七年以降、『記録に残っているもので、メスのラバから子が生まれた事例は世界中で』六十『件強しかない。一方』、『ADMSによれば、メスのケッテイが子を産んだ事例は』一『件のみである』。『ラバのメスは母側の遺伝子を』、百%、『子孫に伝える。ラバの母親はウマであるので、一般的にラバのメスは子孫に』百%『のウマの遺伝子を伝える。このため、オスのウマと掛け合わされたメスのラバは』、百%『のウマを生み、ロバの遺伝子を全く伝えない』。一九八一年、『中国で、オスのロバに対して妊娠可能と判明したケッテイのメスが発見された。メスのラバと同様に、メスのケッテイが母側の遺伝子を』百%伝えるならば、百%のロバを生むだろう、『と科学者は予想した。しかし、この中国のケッテイをオスのロバと掛け合わせたところ』「Dragon Foal」『(龍の子)と名づけられた、ラバに似た特徴を備えてロバと似たメスの子を産んだ。生まれた子の染色体およびDNAを調べた結果によれば、これまでに文献で知られていない組み合わせであることが分かった。事前に予想されていた、オスのロバから受け継いだロバロバの遺伝子と、メスのケッテイから受け継いだ(母側のロバの遺伝子を』百%『受け渡すとするならば)ロバロバの遺伝子の組み合わせではないことが分かった。実際の遺伝子はロバロバ/ロバウマであった。つまり、メスのケッテイは父側の遺伝子と母側の遺伝子の混合を子に受け渡した』のである。二〇〇三年には『モロッコで、オスのロバと掛け合わされたメスのラバが』、七十五%がロバで二十五%がウマの『メスの子を産んだ。DNA検査によれば、中国のケッテイの子と同様』、『混合した核型であることが分かった。通常のケッテイが』六十三『本の染色体を持ち』、三十一『対のウマロバの組み合わせと』、一『本のあまりで構成されているのに対して、このモロッコのラバは』二十三『対のロバロバ染色体と』、八『対のウマロバ染色体と』、一『本のあまりを持っていることを意味する』。『モロッコでの混合した遺伝子の組み合わせの事例があることから、中国の事例での子の遺伝子が通常のものではないのは、ラバではなくケッテイが母親であるためなのか、あるいはモロッコでの事例のように何か他の要素が働いているのかは分からない』。『他にもケッテイが希少である理由がある。メスのロバとオスのウマは、メスのウマとオスのロバの組み合わせに比べて相性が合いにくい。このため』、二『頭が引き合わされても』、『つがいとならない場合がある。また、つがいとなった場合であっても、メスのウマがオスのロバと掛け合わされた場合に比べて、メスのロバはオスのウマの種を宿しづらい。さらに、大きなケッテイを生ませるためには、大きなメスのロバを必要とするので、難しい問題が生まれる。大きなロバは次第に貴重なものになってきており、危機に瀕している家畜種であると宣言されている』から『である。ロバの所有者は、純粋な大きなロバの生産に高い需要があるにもかかわらず、不妊であるケッテイの生産に貴重な生殖期間を費やしてしまうのを嫌がる』のである、とある。

 

「其の力、腰に在り、其の後ろに、鎖骨、有り、開く能はず。故に孳乳〔(うみさえ)ること〕せず」以上の引用で見た通り、こんな物理的理由ではない。

『「三才圖會」、「其の後ろ」の「後」の字を「股」と爲す』良安が「本草綱目」と「三才圖會」を校合するのは珍しい。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。引用は「巻九 物部一」から。

「匈奴」紀元前三世紀末から紀元後一世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族。秦末の紀元前二〇九年、冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう:君主)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設。東胡(とうこ)・大月氏を征圧し、全盛となり、漢にも侵入したが、漢の武帝の遠征と内紛により、東西に分裂、紀元後四八年、さらに南北に分裂、南匈奴は漢に服属し、北匈奴は九一年、漢に討たれた。人種的にはトルコ系説が有力で、西方に移動した子孫がフン族であるとされる(小学館「大辞泉」に拠った)。

『「駃騠」〔は〕神駿たり』神霊の気を受けた、馬の中でも特別に選ばれた名馬である。既に見た通り、なかなか出生しない希少種だからである。

「見るべし、人〔及び動〕物、氣を父に稟〔(う)〕け、氣、母〔よりは〕稟けざ〔れば〕なり」調べて見たところ、これも「五雑組」から引いている。良安も賛同したからわざわざ掲げたのだろうが、謝肇淛や寺島良安が、我々のあらゆる体細胞中のミトコンドリアDNAはその総てが母由来でしかないということを知ったら、どう思うだろう? と考えると、ちょっとニヤリとしたくなったものである。

「孟康、曰はく、『駃騠、良馬なり。生まれて七日にして其の母を超ゆ』〔と〕」孟康は生没年未詳の三国時代)の魏(二二〇年~二六五年)の人で以上は彼が成した「漢書」の注の一節と思われる。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 驢(うさぎむま) (ロバ)

 

Usagumuma

うさきむま

【音閭】

      【和名宇佐岐牟末】

リユイ

本綱驢臚也馬力在膞驢力在臚【膊肩膊也臚腹前也】驢長頰廣額

磔耳修尾夜鳴應更性善馱負有褐黒白三色入藥以黒

者爲良

野驢出女直遼東似驢而色駁鬃尾長山驢出西土有

角如羚羊詳羚羊下○海驢出東海島中能入水不濡

うさぎむま

【音、「閭〔(ロ)〕」。】

      【和名、「宇佐岐牟末」。】

リユイ

「本綱」、驢は臚なり。馬の力は膞〔(はく)〕に在り、驢の力は臚〔(ろ)〕に在り【「膊」は肩の膊〔(ほね)〕なり。「臚」は腹前〔(はらさき)を云ふ〕なり。】。驢、長き頰、廣き額、磔(さ)けたる耳、修〔(ととの)ふる〕尾〔たり〕。夜、鳴きて、更〔(こう)〕に應ず。性、善く馱負〔(だふ)〕す[やぶちゃん注:荷を背負う。]。褐・黒・白の三色有り。藥に入〔るるには〕黒き者を以つて良と爲す。

「野驢」、女直〔(ぢよちよく)〕・遼東に出づ。驢に似て、色、駁〔(まだら)〕にして、鬃〔(たてがみ)〕・尾、長し。○「山驢」、西土に出づ。角、有〔りて〕、羚羊のごとし。「羚羊」の下に詳らかなり。○「海驢」、東海島中に出づ。能く水に入〔るも〕濡れず。

[やぶちゃん注:奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ亜属 Asinus のロバ類の総称。或いは、その一種であるロバ Equus asinusウィキの「ロバ」によれば、本邦では別名をその耳の特徴から「うさぎうま」(兎馬)と呼び、『漢語では驢(ろ)。古代より家畜として使用される。現生ウマ科の中で一番小型だが、力は強く、記憶力も良い。学名 Equus asinus(エクゥス・アシヌス)は、ラテン語で「馬』の『ロバ」の意』である。『乾燥した環境や山道などの不整地に強い。家畜としては、比較的少ない餌で維持できる。寿命は長く、飼育環境によっては』三十『年以上生きることがある』。『ロバとウマは気質に違いがあると言われ』、『ウマは好奇心が強く、社会性があり、繊細であると言われ』るのに反し、『ロバは新しい物事を嫌い、唐突で駆け引き下手で、図太い性格と言われる』。『実際、ロバのコミュニケーションはウマと比較して淡白であり、多頭曳きの馬車を引いたり、馬術のように乗り手と呼吸を合わせるような作業は苦手とされる』。『野生のウマは、序列のはっきりしたハレム社会を構成し群れを作って生活するが、主に食料の乏しい地域に生息するノロバは恒常的な群れを作らず、雄は縄張りを渡り歩き単独で生活する』。『ロバの気質はこうした環境によって培われたものと考えられる』。『ただし、アメリカのジョージア州にあるオサボー島で再野生化したノロバ』(野驢馬)『のように、豊富な食料がある地域では』、『ハレム社会を構成する場合もある』。『最初に家畜として飼われ始めたのは、約』五千『年前に野生種であるアフリカノロバ』(Equus africanus:家畜ロバの原種)『を飼育したものとされる。古代から乗用、荷物の運搬などの使役に重用されたが、ウマに比べると』、『従順でない性質があり、小型でもある点が家畜として劣る点であった。逆にウマよりも優れていたのが』、『非常に強健で粗食に耐え、管理が楽な点であった』。『野生種の中で現存するのは、ソマリノロバ(Equus africanus somaliensis)のみであり、ソマリアとエジプトの国境地帯に見られたが、ソマリア内戦の影響で激減したため、現在はその大部分がイスラエルの野生保護区で飼育されている。一方、ハワイ島には家畜から野生化したロバが多数生息している』。『荒涼としたステップ地帯、砂漠地帯、あるいは山岳地帯などを放浪していたユダヤ人は、ロバを知る古い民族のひとつであり、そのため彼らの伝承や戒律などにもロバに関わるものが少なからずある』。『古代、ユダヤ人たちの間では、ロバに乗ることを禁じた日があった。イエスがキリスト(ユダヤの王)として、ロバに乗って』、「過ぎ越しの日」(ペサハ:ユダヤ教の宗教的記念日。家族が食卓につき、儀式的なメニューの食事をとって祝う。期間はユダヤ暦ニサン月(政治暦七月・宗教暦正月)十五日から一週間である。ユダヤ暦は太陰太陽暦であり、初日のニサン月十五日はグレゴリオ暦三月末から四月頃の満月の日に相当する)『エルサレムに入る記述が聖書にある』。『前近代のイスラム社会では時の施政者次第で』、『ユダヤ教徒やキリスト教徒への迫害が行われ、その際にロバ以外への騎乗を禁じられる事もあった』。「食用」の項。『中国の、特に華北においては、ロバは一般的な食材のひとつとなっている。多くの場合、老いて輸送などの労務が難しくなったものが食用にされる。このため、単に炒めるだけの料理では食べづらく、煮込み料理か餃子や肉まんの具や肉団子のようなミンチ肉料理にされることが多い。そのままではある程度の臭みがあるが、下ごしらえをうまくすることで中国で「上有龍肉、下有驢肉」(天には竜の肉があり、地上にはロバの肉がある)と言われるほどの美味に仕上げることができる』。『臘驢肉(ラーリューロウ làlǘròu)』は『中国山西省長治市の名物食材で、ロバ肉の塩漬けを燻製にしたもの』で、『驢肉火燒(リューロウフオシャオ lǘròu huǒshāo)』は『中国河北省保定市の名物料理で、ロバ肉を使ったハンバーガー風の軽食。「火燒」と呼ばれるパンの腹を割って、中に煮込んだロバ肉をはさんで食べる。近年は陝西省の「白吉」(バイジーモー)と呼ばれる白く押しつぶしたように焼いたパンを使う変種も出ている』。『肴驢肉(ヤオリューロウ yáolǘròu)』は『中国山東省広饒県などの名物料理で、ロバ肉を煮込んで、ゼラチン質と共に冷やし固め、スライスしてたべる、アスピック(煮こごり)のような前菜料理』。「薬用」の項。『ロバの皮から毛を取り、煮つめて取る膠(にかわ)は、漢方で「阿膠」(あきょう)といい、主成分はコラーゲンで、血を作り、止血する作用があると考えられている。このため、出血を伴う症状や、貧血、産後の栄養補給、強壮、皮膚の改善などの目的で、服用、配合される。阿膠は薬用以外に、これを加えた柔らかい飴(阿膠飴)なども作られている』先行する「阿膠」を見られたい。但し、「黃明膠(すきにかは)」の方の冒頭注で述べたように、現在の山東省聊城市東阿県内で、定められた手法で、当地の特殊な井戸水を以って製造・精製された膠のみが「阿膠(あきょう)」であり、それ以外を阿膠と呼ぶのは正しくない。なお、本来はウシを用いたが、事実、現行ではロバが当地でも原素材である)。「文化におけるロバの表象」の項。『中国には、全世界で飼育されているロバの』三分の一『に相当する頭数が飼われているにもかかわらず、古代に中国の影響を受けた日本では、時代を問わず、ほとんど飼育されていない。現在の日本のロバは』二百『頭という説もあり、多くとも数百頭であろう。極暑地から冷地の環境にまで適応し、粗食にも耐える便利な家畜であるロバは、日本でも古くから存在が知られていた。馬や牛と異なり、日本では家畜としては全く普及せず、何故普及しなかったのかは原因がわかっていない。日本畜産史の謎とまでいわれることがある』。『日本にロバが移入された最古の記録は』「日本書紀」に五九九年、『百済からラクダ、羊、雉と一緒に贈られたとするものである。この時は、「ウサギウマ」』一『疋が贈られたとされ、これがロバのことを指していると考えられている』(これは推古天皇七年九月癸亥朔の『秋九月癸亥朔。百済貢駱駝一疋。驢一疋。羊二頭。白雉一隻』を指す)。『また、平安時代に入ってからも、幾つか日本に入ったとする記録が見られる。時代が下って江戸時代にも、中国やオランダから移入された記録がある。別称として「ばち馬」という呼び名も記されている』(やはり耳の形が三味線の撥(ばち)に似ているからであろう)。『中国においては身近な家畜や乗り物として物語に登場する。道教の八仙の一人張果老や陳摶、『三国志演義』の黄承彦、ウイグル族の頓智話のナスレディン・エペンディ(阿凡提)などはロバに乗って現れ、世俗的でない風雅な雰囲気を感じさせている』。『成語では』、『無能や見掛け倒しであることを意味する「黔驢技窮」あるいは「黔驢之技(けんろのぎ)」がある。これは黔驢(貴州省のロバ)を初めて見たトラが、当初その大きさに恐れて警戒したが、見慣れると何も攻撃する技を持たないと気づき食べてしまったという故事による』。『西洋においては』、『ロバは愚鈍さの象徴としてしばしば用いられる。キリスト教化された中世以降のヨーロッパでもその傾向は変わらずに残る。現在でも各国語において「ロバ」に相当する言葉は「馬鹿」「愚か者」の換喩として用いられる。西洋でロバが愚鈍とされたのは、ロバには頑固で気分次第で動かなくなる融通の利かない所があり、騎士は馬に騎乗し、富農は牛馬を育て、ロバは貧農が育てていた事が理由として挙げられる(貧農には身近な存在だった)』。『ナポレオン・ボナパルトがアルプス越えに際して乗ったのは愛馬マレンゴであると思われがちだが、これはダヴィッドの絵によって創作されたもので、実際にはロバに乗っていた』。『古代ギリシア神話において最もよく知られるロバに関する逸話はフリュギアのミダス王に関するものである。この逸話は現代では「王様の耳はロバの耳」として親しまれている』とある。

「更〔(こう)〕に應ず」「五更」で古代中国の時刻制度で一夜の五区分を指す。本邦でも用いた。本来の「更」とは「その一更毎に夜番が交代する」の意であり、午後七時乃至八時から、順次、二時間を単位として、「初更」(甲夜/一鼓)・「二更」(乙夜/二鼓)・三更(丙夜/三鼓)・「四更」(丁夜/四鼓)・「五更」(戊(ぼ)夜/五鼓)と区切り、午前五時乃至六時に至る。「更」は「歴」「経(けい)」とも称し、また、特に「更」だけで最後の「五更」を指したり、また、総称として「一夜」の意を表わす場合もある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「女直」中国東北部を指す。元は満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族女真(じょしん)族に基づく広域地方名。満洲に同じ。

「遼東」現在の遼寧省の一部と朝鮮の一部に相当。以上の分布からは、この「野驢」はアジアノロバ Equus hemionus であるが、その亜種とは思われない。

「西土」中国から見て有意な西方で、中央アジアやインド・ネパールを指す。角があるとし、「山驢」と呼んでいるから、次注に出すヨツヅノレイヨウ(丘陵の水辺にある開けた森林や草原などに棲息し、にのみ、眼の上部と頭頂部に計四本の角を有する)を指しているかとも思われる。

「羚羊」『「羚羊」の下に詳らかなり』「レイヨウ」は分類群ではなく、「レイヨウ」と呼ばれる種群は、獣亜綱ウシ目ウシ亜目ウシ科 Bovidae の多くの亜科(ヤギ亜科 Caprinae 以外の全て)に分かれて多く存在し、多くはそれらのレイヨウ同士よりも、それぞれがウシかヤギにより近い関係にある。一部はアンテロープ(Antelope)とも呼び、分類学的には概ね、ウシ科からウシ族 Boviniとヤギ亜科を除いた残りに相当し、ウシ科の約百三十種の内、約九十種が含まれる(ここはウィキの「レイヨウ」を参考にした)。多くはアフリカに分布するが、一部はインド・中央アジアに棲息するので、時珍のそれは、前注で述べた通り、ウシ亜科ニルガイ族ヨツヅノレイヨウ(四角羚羊)属ヨツヅノレイヨウ Tetracerus quadricornisインドネパール:ウシ亜科の中でも原始的な種と考えられているが、画像を見る限り、本種は牛ではなく如何にも鹿っぽい。ウィキの「ヨツヅノレイヨウ」ヨツヅノレイヨウの画像をリンクさせておく)の誤認かとも思われる。後の方は、時珍が「本草綱目」の「獣之二」の「羊」の項に載る(版本によっては「羖羊」とするので検索では注意が必要)ことを指しているのであって、「和漢三才図会」には「羚羊」の項はないので注意。

「海驢」「東海島の中に出づ。能く水に入〔るも〕濡れず」東洋文庫訳は「東海島」に割注して『広東省遂渓県の東南海中の島』とするんだが((グーグル・マップ・データ))……ここの特産種のロバがいるんかなぁ?(いるとなれば、識者の御教授を是非、乞う)……しかし、水に入っても濡れへんて、おかしくない?……う~ん……これって、ロバじゃなくて、まさに今も本邦では「海驢」とも書く、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科Otariinae のアシカ類の誤認じゃあ、ありせんかねぇ? 時珍先生?

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(25) 「川牛」(5)

 

《原文》

 【池ノヌシ】池沼ノ主トシテハ、釜鏡鐘又ハ馬ノ鞍ノ如キ眼鼻モ無キ物マデガ往々ニシテ其威力ヲ逞シクセリ。況ヤ始メヨリ生アル物ノ中ニテハ、龜ヤ鯉ノ如キ靈物ハ勿論、鯰鰻モシクハ白田螺ノ類ニ至ルマデ、所謂劫ヲ經タルモノハ皆化ケ且ツ人ヲ捕ルナリ。其例ヲ列擧スルハアマリナル枝葉ナレバ略ス。要スルニ學者ノ分類記述ヨリ超シテ、今尚色々ノ動物ノ存在スルハ事實ナルガ如シ。【犬神】【オサキ狐】【クダ狐】例ヘバ犬神及ビ之ニ類似スル「ヲサキ」狐・「クダ」狐又ハ人狐ノ如キ、或ハ「トンボ」又ハ「トウビヤウ」ト云フ蛇ノ如キハ、恰モ是レ顯微鏡發見前ノ「バクテリヤ」ナリ。「クダ」ハ體細クシテ管ノ中ニ入ルべク、犬神ハ鼠ニ似テ群ヲ爲シテ人家ニ住ミ、總テ皆身ヲ隱スコト自在ナリ。【土瓶神】「トウビヤウ」ハ酒瓶ノ中ニ住ミテ時ニ出デテ人ニ憑キ、身ニハ蚯蚓ニ似タル頸輪アリ。一定ノ家筋ニ屬シテ能ク人ノ爲ニ恨ヲ報ズルノ力アリ。之ヲ見タル人多クシテシカモ動物學ノ書ニ見エズ。地上ニスラ既ニ此ノ如シ。況ヤ碧潭ノ底深ク牛ノ住ムナドハ決シテ驚クニ足ラズトス。【ヤナ】武藏川越城ノ三芳野天神ノ下ナル外濠ハ伊佐沼ノ水ト下ニ通ズ。コノ泥深キ堀ノ主ハ何カハ知ラズ「ヤナ」ト名ヅクル怪物ナリ。當城危急ノ際ニ於テ敵兵搦手(カラメテ)ノ堀端マデ迫リ來ル時ニハ、忽チ霧ヲ吐キ雲ヲ起シ魔風ヲ吹カセテ四方ヲ暗夜ト爲シ、且ツ洪水ヲ汎濫セシメテ寄手ニ方角ヲ失ハシムべシト云フ話ナリ〔十方菴遊歷雜記第三編下〕。實驗モセズシテ此作用ヲ承知シ、之ヲ防衞ニ利用シタルハ、智慧伊豆守ニ非ズンバ則チ太田道灌ナルべシ。【川熊】又川熊ト名ヅクル水中ノ獸アリ。其話ヲ聞クニ陸地ノ熊ト似タル所甚ダ少ナシ。少年ノ頃姫路ノ城ノ堀ニハ藪熊ト云フ怪物住ミテ人ヲ騙カスト聞キシガ、此モ熊トハ思ハレヌ生活狀態ナリキ。文政十年七月、名古屋大須(オホス)ノ門外ニ於テ、勝川ニテ生捕リタル猪熊ト名ヅケテ見セ物ニシタル獸ハ、實ハ木曾街道ノ中津川ニテ取リタル川熊ト云フ物ナリシヲ、川ハ水ニ緣アレバ雨ガ降リテハ惡シト、忌ミテ之ヲ「ヰノクマ」ト呼ビシナリ。毛ハ鼠色ニシテ澤(ツヤ)アリト云ヘリ〔見世物雜誌二〕。羽後ノ雄物川ニモ川熊ノ住ミシ證據アリ。秋田侯ノ先代ニ諡ヲ天英院ト謂ヒシ人、船ニテ此川ニ獵ヲセシ時、水底ヨリ黑キ毛ノ手ヲ出シテ、殿ノ鐵砲ヲ奪ヒシ怪物アリ。其後水練ノ達者ナル人アリテ、此川隨一ノ魔所タル洪福寺淵ノ底ニ入リ一挺ノ鐵砲ヲ拾ヒ上ゲタリ。佐竹家ノ什寶ニ川熊ノ御筒ト稱セシハ卽チ是ニシテ、以前藩主ガ水中ノ獸ニ奪ハレタリシモノ、現ニ川熊ノ摑ミシ痕存スト云フ〔月乃出羽路五〕。【怪物ノ手】此下流ノ河邊郡川添村大字椿川ニハ又川熊ノ手ト名ヅクル物ヲ傳フ。曾テ椿川ノ舟子、雄物川ノ岸ニ船繫リシテアリシニ、深夜ニガバト浪ノ音シテ舷ニ雙手ヲ掛クル物アリ。驚キテ鉈ヲ揮ヒテ之ヲ斬リ、朝ニナリテ見レバ此手舟ノ中ニ落チタリ。一見猫ノ手ノ如キ物ナリキト云フ〔同上〕。河童ナラバ卽刻ニ返付ヲ哀訴スべカリシ品物ナリ。

 

《訓読》

 【池のぬし】池沼の主としては、釜・鏡・鐘、又は、馬の鞍のごとき、眼鼻も無き物までが、往々にして、其の威力を逞しくせり。況や、始めより生ある物の中にては、龜や鯉のごとき靈物は勿論、鯰(なまづ)・鰻、もしくは、白田螺(しろたにし)の類ひに至るまで、所謂、劫(こう)を經たるものは、皆、化け、且つ、人を捕るなり。其の例を列擧するは、あまりなる枝葉なれば、略す。要するに、學者の分類記述より超して、今、尚ほ、色々の動物の存在するは事實なるがごとし。【犬神】【オサキ狐】【クダ狐】例へば、「犬神」、及び、之れに類似する「ヲサキ」狐・「クダ」狐、又は、人狐のごとき、或いは「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごときは、恰も是れ、顯微鏡發見前の「バクテリヤ」なり。「クダ」は、體、細くして、管の中に入るべく、「犬神」は鼠に似て、群を爲して人家ニ住み、總て皆、身を隱すこと、自在なり。【土瓶神(どびんがみ)】「トウビヤウ」は酒瓶(さかびん)の中に住みて、時に出でて、人に憑き、身には蚯蚓(みみず)に似たる頸輪(くびわ)あり。一定の家筋に屬して、能く、人の爲に、恨(うら)みを報ずるの力あり。之れを見たる人、多くして、しかも動物學の書に見えず。地上にすら既に此(かく)のごとし。況や碧潭の底深く牛の住むなどは、決して驚くに足らずとす。【ヤナ】武藏川越城の三芳野天神の下なる外濠は伊佐沼の水と下に通ず。この泥深き堀の主は、何かは知らず、「ヤナ」と名づくる怪物なり。當城危急の際に於いて、敵兵、搦手(からめて)の堀端まで迫り來る時には、忽ち、霧を吐き、雲を起し、魔風を吹かせて、四方を暗夜と爲し、且つ、洪水を汎濫せしめて、寄手に方角を失はしむべしと云ふ話なり〔「十方菴遊歷雜記第三編」下〕。實驗もせずして、此の作用を承知し、之れを防衞に利用したるは、智慧伊豆守に非ずんば、則ち、太田道灌なるべし。【川熊】又、「川熊(かはぐま)」と名づくる水中の獸あり。其の話を聞くに、陸地の熊と似たる所、甚だ少なし。少年の頃、姫路の城の堀には「藪熊」と云ふ怪物住みて、人を騙(たぶら)かすと聞きしが、此れも、熊とは思はれぬ生活狀態なりき。文政十年七月、名古屋大須(おほす)の門外に於いて、勝川にて生け捕りたる「猪熊」と名づけて見せ物にしたる獸は、實は木曾街道の中津川にて取りたる「川熊」と云ふ物なりしを、川は水に緣あれば雨が降りては惡しと、忌みて之れを「ヰノクマ」と呼びしなり。毛は鼠色にして澤(つや)ありと云へり〔『見世物雜誌』二〕。羽後の雄物川にも「川熊」の住みし證據あり。秋田侯の先代に諡(おくりな)を天英院と謂ひし人、船にて此の川に獵をせし時、水底より、黑き毛の手を出だして、殿の鐵砲を奪ひし怪物あり。其の後、水練の達者なる人ありて、此の川隨一の魔所たる洪福寺淵の底に入り、一挺の鐵砲を拾ひ上げたり。佐竹家の什寶に「川熊の御筒」と稱せしは、卽ち、是れにして、以前、藩主が水中の獸に奪はれたりしもの、現に「川熊」の摑みし痕、存す、と云ふ〔「月乃出羽路」五〕。【怪物の手】此の下流の河邊郡川添村大字椿川には、又、「川熊の手」と名づくる物を傳ふ。曾て、椿川の舟子、雄物川の岸に船繫(ふながか)りしてありしに、深夜に「がば」と浪の音して、舷(ふなばた)に雙手(もろて)を掛くる物、あり。驚きて、鉈を揮ひて、之れを斬り、朝になりて見れば、此の手、舟の中に落ちたり。一見、猫の手のごとき物なりき、と云ふ〔同上〕。河童ならば、卽刻に返付(へんぷ)を哀訴すべかりし品物なり。

[やぶちゃん注:「犬神」私の「古今百物語評判卷之一 第七 大神、四國にある事」の私の注を参照されたい。

「オサキ狐」私の「反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第一」の本文及び注を参照されたい。

「クダ狐」私の「御伽百物語卷之二 龜嶋七郞が奇病」の本文及び注を参照されたい。

『「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごとき』ウィキの「トウビョウ」を引く。『中国・四国地方に伝わる憑きもの』。『香川県ではトンボカミともいう』。『トウビョウはヘビの憑きものといわれ、その姿は』十~二十『センチメートルほどの長さのヘビで、体色は全体的に淡い黒だが、首の部分に金色の輪があるという』。『また、沖田神社の末社道通宮など、岡山県の幾つかの神社では、白蛇と伝承されている』。『鳥取県ではトウビョウギツネといって小さなキツネだともいう』。七十五『匹の群れをなしており、姿を消すこともできる』。『トウビョウの憑いている家はトウビョウ持ちといわれ、屋敷の中にトウビョウを放している家もあるが、四国では人目につかないように土製の瓶にトウビョウを入れて、台所の床上や床下に置いておき、ときどき』、『人間同様の食事や酒を与えるという』。『こうしたトウビョウ持ちの家は、金が入って裕福になるといわれる。また飼い主の意思に従ってトウビョウが人に災いをもたらしたり、怨みを抱いた相手に憑いて体の節々に激しい痛みをもたらすという』。『但し』、『飼い主がトウビョウを粗末に扱えば、逆に飼い主に襲いかかるという』。『岡山県ではトウビョウの祟りを鎮めるために道通様(どうつうさま)の名で祀られている。笠岡市の道通神社はこの道通様の神社としての側面があり』、『信者から奉納された道通様の小さな家があり、ヘビの好物として卵などが供えられている。なお、それらの家の中に祀られた蛇の置物は擬宝珠に巻き付いてそれぞれ阿吽の口の形をした二匹の白蛇の姿をしている』。『沖田神社の末社道通宮の社史でも、道通様は白蛇と言い伝えられている』。『谷川健一はトウビョウを「藤憑」』、『即ち』、『蔓植物のように巻き付く蛇で、縄文時代から続く蛇信仰の名残ではないかという説をとる』(最後の説は私にはなかなか興味深い)。

「ヤナ」『「十方菴遊歷雜記第三編」下』の「拾九」「川越城内みよしのゝ天神」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。標題は前頁)に出る。左頁(二九七頁の三行目以降)に出るが、想像した通り、水怪「ヤナ」は「梁」(=簗:川漁の簀を用いた装置)の漢字が当てられている。「ヤナ」の持つ性能は明らかな龍のそのまんまであり(但し、十方庵の後の記載には攻め手への現実の水攻めによる守備装置が記されてあって、非常に興味深い。或いは、この場外を水浸しにするプラグマティクな装置こそが「梁(やな)」であり、それを警告伝承として誇大化したものこそが「ヤナ」だったのだとも読める)、この城の堀及び伊佐沼にのみ特化している妖異で、私の調べた限りでは、他の地方にこの名の水怪を見出せない。現行の諸記載は、専ら、この「十方庵遊歴雑記」とそれお引っ張ったに過ぎない柳田のこの部分に拠ったものが殆んどであるが、眼を引いたのは、べとべとさんのブログ「べとべとさんの軍団生活」の「川越城のヤナと霧吹き井戸にある、「ヤナ」の伝承ルーツの可能性の一つの話であった(一部の改行を繋げて引用させて戴いた)。

   《引用開始》

この川越城には「ヤナ」という妖怪の話しが残されている。川越城が敵に襲われると、「ヤナ」は霧を立ち込めさせ、黒い雲と風で辺りを真っ暗にして、城全体を隠し、しまいには洪水を起こしたという。「ヤナ」はもともと川越の水辺に棲んでいて、川越城を建てた太田道灌は、「ヤナ」を守り神にして城を築いた、といわれている。資料が少ないため、「ヤナ」の姿や細かいことはわかっていない。

ただ、気になることがひとつ、ある。

川越城には「川越城七不思議」という話が残されていて、そのうちのひとつ、「霧吹き井戸」が「ヤナ」の話と酷似している。

川越城の敷地内に不思議な井戸があって、敵が攻めてきたときに井戸の蓋を開けると、霧が噴きでて城を覆いかくしたという。そのことから、川越城は別名「霧隠れ城」と呼ばれた。

この「霧吹き井戸」は、今では川越市立博物館の前に移築され、いつでも見ることができる。この「霧吹き井戸」の話がもとになって「ヤナ」が誕生したという説と、「霧吹き井戸」に「ヤナ」が棲んでいた、という説があるようだが、詳しいことはわかっていない。

では、「ヤナ」という名前はどこからついたものなのか。

前述した「川越七不思議」のひとつに「人身御供」という話がある。

太田道真[やぶちゃん注:どうしん。道灌同様、法名。]・道灌父子が川越城の築城を行っていたとき、水田の泥があまりにも深く、七ツ釜と呼ばれる底無しの場所があったり、築城に苦戦した。

ある夜、龍神が道真の夢枕に立って、「この地に城を築きたいのなら、明朝一番早く現れた者を、人身御供として差し出せ」と言った。

そして、次の朝一番に現れたのが、道真の愛娘・世禰姫(よねひめ)だった。

訳をきいた世禰姫は自ら七ツ釜のほとりの淵に飛び込み命をたった。まもなくして、川越城は完成したという。

この世禰姫が「ヤナ」の元になったのでは、と考えられている。

   《引用終了》

実は「ヤナ」は「簗」ではなく、「よね」の転訛で、太田道灌の妹(推定)の「世禰姫(よねひめ)」の、治水・城築にしばしば認められる人身御供説に基づくというのである。これは興味深い!

「武藏川越城の三芳野天神」現在の埼玉県川越市郭町にある三芳野神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。川越城址直近(旧城内。前注の「十方庵遊歴雑記第三編」の記述によれば、三重の櫓の下とある)で、川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城(別名で「霧隠城」。古河公方の勢力に対抗するための上杉氏の本拠地として、長禄元(一四五七)年に扇谷上杉氏当主で相模国守護の上杉持朝が築城を命じた)により、城内の天神曲輪に位置することになった。因みに、江戸時代には歌詞が成立していたとされるわらべ歌「通りゃんせ」の舞台はこことされる。

「伊佐沼」埼玉県川越市の東部に位置し、南北約千三百メートル、東西約三百メートルほどの沼。三芳野神社からは真東へ二キロメートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「智慧伊豆守」江戸前期の大名(武蔵国忍藩主・同川越藩藩主)で老中となった松平伊豆守信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。「島原の乱」や「慶安事件」(由井正雪の乱)等の重大事件の処理・「武家諸法度」改訂・「参勤交代」の制度化・鎖国整備などに参画、第三代将軍徳川家光から次代家綱に至る創業期幕藩体制の基礎確立に寄与し、その才気煥発からかく呼称された。

「川熊」ウィキの「川熊より引く(読みの「かはぐま」の濁音はこれに従った。以下はそれぞれ引用元が記されてあるものの、最後のものを除き、その大もとは柳田國男の本記載の可能性が濃厚である)。『川熊(かわぐま)は秋田県雄物川流域に現れたとされる妖怪』で、『菅江真澄による江戸時代の書物『月乃出羽路』に記述がある』。『猟師が雄物川で猟』(諸記載では鷹狩りとする)『をしていた最中に、川の中から真っ黒な毛だらけの手が現れ、殿様の鉄砲を奪った。悪戦苦闘の末に家来が、雄物川でも最大の真所といわれる洪福寺淵という場所に潜り、川熊から鉄砲を取り返し、その鉄砲はのちに「川熊の鉄砲」「川熊の御筒」と呼ばれるようになったという』。『また別の話では、ある船頭が雄物川の岸に船をつけたところ、水音と共に何者かが船の淵に手を掛けたので、驚いてナタで斬り落としたところ、それは猫の前足のようなものであり、雄物川下流の河辺郡川添村椿川(現・秋田市雄和)で川熊の手として残されたという』。文政一〇(一八二七)年には、『中津川で鼠色で光沢のある川熊が捕獲され、名古屋で見世物にされたが、その際に「川は水に縁があるので、雨にならないように」との理由で「猪熊(いのくま)」と名づけられたという』。『信濃川では、これと同発音の河熊なる妖怪が堤を切って大水をもたらすといい、「あの土手が潰れたのは河熊の仕業だ」などと言うそうである。この信濃川の河熊がどのようなものかは、伝承に残っていない』。

「藪熊」不詳。柳田國男自身の少年時の聞書採取のくせに、記載が頗る杜撰。「人を騙(たぶら)かす」「此れも、熊とは思はれぬ生活狀態なりき」と言っている以上、相当なデータが柳田自身の中に記憶されていたことが判るのに、非常に惜しいことをした。こうして伝承は消滅してゆくことは柳田自身が危惧していたことなのに、それを自らやってしまったのである。なお、「ちくま文庫」版全集では『ヤブクマ』のルビを振る。

「名古屋大須(おほす)」愛知県名古屋市中区大須(グーグル・マップ・データ)。大須観音(真言宗北野山真福寺宝生院。本尊聖観音)で知られる。

「勝川」大須で見世物にしたというのであれば、恐らくは、現在の愛知県春日井市勝川町ちょう)である(グーグル・マップ・データ)。

「羽後の雄物川」秋田県中部を流れる全長百三十三キロメートルの一級河川。秋田県の南半分を流域とし、古くは「御物川」とも書いた。宮城県境の虎毛山と神室山北斜面付近に発し、高松川・皆瀬川を合わせて横手盆地西端を北流、大仙市神宮寺付近で、最大の支流玉川と合流する。その後、秋田平野に出て、土崎付近で日本海に注ぐ。流水量は融雪時が最大で、河口付近では降雨時にしばしば逆流・停滞し、浸水を起こした。(グーグル・マップ・データ)。

「秋田侯の先代に諡(おくりな)を天英院と謂ひし人」戦国から江戸前期の大名で佐竹氏第十九代当主にして出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主佐竹義宣(元亀元(一五七〇)年~寛永一〇(一六三三)年:佐竹義重の長男で、母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる)。戒名を「浄光院殿傑堂天英大居士」とする。

「洪福寺淵」秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システムに、『南外村南楢岡の木直に宝性坊滝といわれる滝があり、その名は昔北楢岡の宝性坊という山伏が滝にうたれて苦行したことに由来する。(南外村南楢岡)また、昔神宮寺の地』『に洪福寺という大寺があったが、大地震にあって鐘とともに雄物川の淵に沈んだため』、『洪福寺淵という。この淵を鐘を積んだ舟が行くと底にひきこまれるといわれ、鐘を運ぶ時は、岡をはこんで歩くという。(神岡町神宮寺)』とある。現在の秋田県大仙市神宮寺附近(グーグル・マップ・データ)。

「川熊の御筒」前の「川熊」の引用を参照。

「河邊郡川添村大字椿川」現在の秋田市南部、雄和地区北部の雄物川両岸、秋田空港の西側の雄和椿川(ゆうわ)(グーグル・マップ・データ)。

「川熊の手」残念ながら、現存しない模様。ただ、T UブログTiger Uppercut!~ある秋田人の咆哮の「川熊の正体では(何と、この鉈で川熊の手を切り落とした一件のロケーションの対岸がブログ主の家だとある)、この伝承は聴いたことがないとされつつも、この辺りの雄物川は水深が有意に浅いとされ、『おそらく川熊というのは』、『狸が魚などを獲るために川に入って、たまたま浮かんでいる船に手をかけたというのが真相のような気がする。ずぶ濡れの狸がいるはずもない水中からでてくれば妖怪だと思うに違いない』と、「川熊」の正体は狸(タヌキ)ではないかされておられ、非常に興味深い。]

2019/02/25

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 大鋸

 

 大 鋸

 

大鋸(おが)をひくひびきはゆるく

ひとすぢに呟(つぶ)やくがごと、

しかはあれ、またねぶたげに。

 

いや蒸(む)しに夏(なつ)のゆふべは、

風(かぜ)の呼息(いき)暑(あつ)さの淀(よど)を

練(ね)りかへすたゆらの浪(なみ)や。

 

河岸(かし)にたつ材小屋(きごや)のうちら、

大鋸(おが)をひく鈍(にぶ)きひびきは

疲(つか)れぬる惱(なや)みの齒(は)がみ。

 

うら、おもて、材小屋(きごや)の戸口(とぐち)、――

生(なま)あをき水(みづ)の香(か)と、はた

あからめる埃(ほこり)のにほひ。

 

幅(はゞ)びろの大鋸(おが)はうごきぬ、

鈍(にぶ)き音(おと)、――あやし獸(けもの)の

なきがらを沙(いさご)に摩(す)るか。

 

はらはらと血(ち)のしたたりの

おがの屑(くず)あたりに散(ち)れば、

材(き)の香(か)こそ深(ふか)くもかをれ。

 

大鋸(おが)はまたゆるく動(うご)きぬ、

夕雲(ゆふぐも)の照(て)りかへしにぞ

小屋(こや)ぬちはしばし燃(も)えたる。

 

大鋸(おが)ひきや、こむら、ひかがみ、

肩(かた)の肉(しし)、腕(かひな)の筋(すぢ)と、

まへうしろ、のび、ふくだみて、

 

素膚(すはだ)みな汗(あせ)に浸(ひた)れる

このをりよ、材(き)の香(か)のかげに

われは聽(き)く、蝮(はみ)のにほひを。

 

夜(よる)の闇(やみ)這(は)ひ寄(よ)るがまま、

大鋸(おが)ひきは大鋸(おが)をたたきて、

たはけたる歌(うた)の濁(だみ)ごゑ。

 

[やぶちゃん注:何故だか、私はこの一篇を偏愛する。大鋸を挽く「あの」音と、その「あの」匂いが、実際に漂ってくるからである。

「大鋸」「おが」は「おほが(おおが)」の音変化で大きな木材から板を挽 くための縦挽きの大型の鋸(のこぎり)のこと。元は中国・朝鮮の框鋸(かまちのこ)・枠鋸に由来するもので、日本へは十四世紀頃(室町時代)に導入されたとされる。工の字形の木枠の片側に幅の狭い鋸身をつけ,他端を紐で結び,この紐を絞ることによって鋸身を伸長させ、二人で挽いた(ウィキの「日本の鋸にある室町時代の画像をリンクさせておく)が、近世に入ると、前者より幅広い鋸身をもった一人挽きの柄鋸(えのこ)形式のものが現われた(グーグル画像検索「たい)。

「ひかがみ」名詞。「膕(ひかがみ)」。膝の後ろの窪んだ部分。「隠曲(ひきかがみ)」の変化した語という。「よぼろ」とも呼ぶ。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 海蛆

 

 海 蛆

 

ひき潮(じほ)ゆるやかに、

見(み)よ、ひきゆくけはひ、

堀江(ほりえ)に船(ふね)もなし、

船人(ふなびと)、船歌(ふなうた)も。

 

濁(にご)れる鈍(にび)の水脈(みを)

くろずむひき潮(じほ)に、

堀江(ほりえ)のわびしらや、

そこれる水脈(みを)のかげ。

 

さびしき河岸(かし)の上(うへ)

うごめく海蛆(ふなむし)の

あな、身(み)もはかなげに

怖(お)ぢつつ夢(ゆめ)みぬる。

 

慕(した)はし、海(うみ)の香(か)の、――

風(かぜ)こそ通(かよ)へ、今(いま)、

曇(くも)りてなよらかに

こもりぬ、海(うみ)の香(か)は。

 

濁(にご)れる堀江川(ほりえがは)

くろずむ水脈(みを)のはて、

入海(いりうみ)たひらかに

かがやく遠渚(とほなぎさ)。

 

かなたよ、海(うみ)の姫(ひめ)、

鷗(かもめ)か舞(ま)ひもせむ、

身(み)はただ海蛆(ふなむし)の

怖(お)ぢつつ醉(ゑ)ひしれぬ。

 

ひき潮(じほ)いやそこり

黑泥(くろひぢ)の水脈(みを)の底(そこ)、

堀江(ほりえ)に船(ふね)も來(こ)ず、

ましてや水手(かこ)の歌(うた)。

 

[やぶちゃん注:第六連三行目「身(み)はただ」は底本では「身(み)はだ」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「海蛆」このルビなしの標題から、これを即座に「ふなむし」(甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ属フナムシ
Ligia exotica)と読める人は、私のような海岸生物フリークでもない限り、実はだんだん減っているのではあるまいか? 例えば、私が大学時代から用いている昭和五一(一九七六)年第二版改訂版「広辞苑」や、平凡社「世界大百科事典」には「船虫」と併置して載せるけれども、驚いたことに、小学館「日本国語大辞典」にも「海蛆」の表記は載らぬし、ネット版の通常の国語辞典類では殆んど全滅だ。まあ、見た目、如何にも不快な印象を及ぼすこと請け合いだから、消えていい漢字熟語なのかも知れぬが(但し、現代中国語では「海蛆」は、沙蚕(ゴカイ)の仲間である、環形動物門多毛綱遊在亜綱サシバゴカイ目ゴカイ亜目ゴカイ科属ネレイス属アシナガゴカイ Alitta succinea(アリッタ・スクシネア)の標準漢名でもある(Nereis succinea ネレイス・スクシネアは同種のシノニムで、本邦にも棲息する。に画像と詳細データ有り))。さすれば、何時の日か、有明のこの詩も、得体の知れぬ気持の悪い生き物の詩として、葬り去られる運命なのかも知れぬ。

「堀江(ほりえ)」「堀江川(ほりえがは)」有明にして、珍しく固有名詞地名が詠み込まれている。ただ、私はこれがどこであるのかを同定比定する確かな資料を所持しない。古来、知られた大坂の堀江と堀江川が有名ではあるが、有明は東京人で大阪に居住したことはないはずである。たまさかの旅の偶感だとしてすると、それは如何にも軽薄だし、そもそも近代の大阪の堀江は、想像するに、この詩篇のようなフナムシがちろちろ上ってくるような、入海の遠い渚を遠望し得るロケーションでは、ない、ように思われる(仮想されたサンボリスムの時代詠とするなら別ではあるが)。私はこれは実景として、一つの候補地としては浦安の堀江川を挙げておこうと思う。である(グーグル・マップ・データ)。旧江戸川河口で、直南西直近で東京湾湾奥(現在のディズニーランドが左岸に当たる)で海も近い。もし、別にロケ地があるとせば、お教え願いたい。]

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま) (ウマ)

 [やぶちゃん注:本「馬」の項は異様に長い(原典でまるまる六頁に亙り、東洋文庫訳もまるまる八ページもかかっている)ので、頭でまず注する。馬の学名は、

哺乳綱奇蹄(ウマ)目ウマ科ウマ属ノウマ亜種ウマ Equus ferus caballus

(エクゥウス・フェルス・カバッルス)である。ウィキの「ウマ」の梗概部の一部のみを引いておく。『社会性の強い動物で、野生のものも家畜も群れをなす傾向がある。北アメリカ大陸原産とされるが、北米の野生種は、数千年前に絶滅している。欧州南東部にいたターパン』(ウマ属ノウマ亜種ターパン Equus ferus ferus:絶滅亜種。最後の一頭は一九〇九年に亡くなった)『が家畜化したという説もある』。『古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられるほか、食用にもされ、日本では馬肉を「桜肉(さくらにく)」と称する。軍用もいる』。『速力に優れ、競走用のサラブレッドは最高』時速八十七キロ『を出すことができる。また、競走用クォーターホース』(Quarter horse:正式にはアメリカン・クォーター・ホース American quarter horse。ウマの品種の一つで、体高は百五十センチメートル、体重は四百キログラム程度。アメリカに於いて、主として乗馬・牧畜作業・競馬用として使用され、世界各地で四百万頭余りが登録されており、事実上、世界で最も頭数の多い品種。ここはウィキの「クォーターホース」に拠った)『は、比較的容易に』時速九十キロ『を達成する』。二〇〇五年の『アメリカでの調査では、下級戦にもかかわらず』、三百二メートル『のレースのラスト』百一メートル『の平均速度が』九十二・六キロ『に達していた』という。学名の属名「Equus」種小名の「caballus」も『ともにラテン語で「馬」の意』である。属名の方は『インド・ヨーロッパ祖語にまで遡ることの出来る古い語彙』で、種小名の方は、「馬」を意味する『イタリア語の』「cavallo」(カヴァッロ)、スペイン語の「caballo」(カバジョ・カバージョ・カバリオ・カバーリョ)、フランス語の「cheval」(シュヴァル)『などに連なる』語である。]

     旋毛吉凶

[やぶちゃん注:以上は以下の図の上に右から左に記されてある。以下の部分の旋毛(渦巻き毛。それぞれの箇所(部位)に名前が付いているのである)が吉凶を占うことが、本文の後に出る。本文によれば、「壽星・帶纓〔(たいえい)〕・乘鐙〔(じやうとう)〕・臁花〔(れんくわ)」以外の旋毛は凶とある。]

 

Muma

[やぶちゃん注:図の中のキャプションを電子化しておく(上下優先で右から左へ)。こんな酔狂なことをやるのは恐らく、後にも先にも、私以外にはあんまり居そうもない。さればこそ特異点也!!!

・壽星

(額の中央か。それは確かに名前も含めて如何にも吉らしい感じがする)

・滴淚

(渦を巻いた毛だから、眼の直下のこの名はしっくりくる)

・帶纓〔(たいえい)〕

(「纓」は「冠が脱げないように顎の下で結ぶ紐」の意)

・鎖唯〔(さゐ)〕

(ヒトで言う鎖骨位置で「鎖」は腑に落ちる)

門〔(さうもん)〕

(「」は「葬」や「喪」と同じ意。これは如何にも凶らしい)

・听哭〔(ぎんこく)〕

(「泣く声を聴く」の意があるから、これも凶に相応しい。耳の尖端の外側か)

・靠槽〔(かうさう)〕

(「靠」は「凭(もた)れる」の意であるから、「槽」=飼葉桶(かいばおけ)に首を垂らしたときにこの部分を以ってもたれるかかるの意で。意味は腑に落ちる)

・騰蛇〔(とうだ)〕

(「騰」は「上がる・昇る」の意。位置的には鬣(たてがみ)の頂点部で腑に落ちる)

・乘鐙〔(じやうとう)〕

(ここは鞍を置いた際に鐙がくる位置であり、騎乗した者が馬に命ずる際の重大な伝達部の一つであるから、ここに旋毛があるのは「吉」というのは頷ける気がする)

・領鬃〔(りやうそう)〕

(「領」には「項(うなじ)」「襟首」の意があり、「鬃」は「鬣」に同じいから、位置的には納得出来る)

・挾屍

(これも如何にも不吉な感じ)

・風淚

・駝屍〔(だし)〕

(位置的には「駝」(荷物を載せるの意がある)は納得出来る背の部分ではあるが、これは別な意味で凶の極みであると思う。何故なら、「駝」の字は真臘(現在のカンボジア)の方言で「父母を呼ぶときに添える敬称」だからである。方言であっても、それに「屍」を添えて孝を尊ぶ中華社会で吉であろうはずは絶対にないと思うからである)

・帶劔

(帯剣して騎乗した場合の、その位置(正確には左側であるが)に当たるので腑に落ちる)

・臁花〔(れんくわ)〕

(「臁」は「穴・脛(すね)・脛の両側」の意であるが、位置から見て意味が判らない。この指定が恐らくは馬の経絡をも兼ねていると考えるなら、「穴」で腑には落ちるが)

?

(前の「?」が音も意味も不詳のため、読めない。下は前に出た「さう(そう)」。これまた、凶っぽい)

・豹尾〔(へうび)〕

(これ一つだけは知っている熟語であった。古暦注や陰陽道で方角を司る凶神の一つで、八将神の一つ。計都(けいと)星(中国の九曜星の一つである昴(ぼう)星宿にある星の名。、日月を両手に捧げ、青龍に乗り、憤怒の形相をした神像で表わされる。この星は実在の天体ではなく、月の軌道面(白道)と太陽の軌道面(黄道)の交点とする見方があり、また時に現われて災害を齎す彗星・流星の類いとする考え方もあった)の精とする。子年には戌の方(北西)、丑年には未の方(南西)、寅年には辰の方(南東)、卯年には丑の方(東北)におり、辰年には再び戌の方というように、四年で一巡する。この方角に向かって畜類を求めたり、また、大小便などすることを忌んだから、凶のチャンピオンぽい気はする)

・後

(これも凶らしい名である)

丸括弧で注したのは、私に判りそうな漢字の附記で、他の注を附さないものは、判っているのではなく、よく判らないものでもある。]

 

むま    阿濕婆【梵書】

      【和名無萬】

      隲【牡】 駔

      【俗云 丸馬】

      【牝】

      【俗云 雜役】

【音麻】

★     騸

マアア

[やぶちゃん注:★の位置に図の下にある馬の篆書体が示されてある。] 

 

本綱馬字象頭髮尾足之形生一曰駒【和名古萬】

曰騑四其名色甚多大抵以西北方者爲良

東南者劣弱不及馬應月故十二月而生其年以齒別之

在畜屬火在辰屬午在卦爲☰乾馬之眼光照人全身者

其齒最少光愈近齒愈大馬食杜衡善走食稻則足重食

鼠屎則腹脹食雞糞則生骨眼以僵蠶烏梅拭牙則不食

得桑葉乃解掛鼠狼皮於槽亦不食遇海馬骨則不行以

豬槽飼馬石灰泥馬槽馬汗着間並令馬落駒繫猿猴於

[やぶちゃん注:東洋文庫訳に従い、訓読では前行の「間」を「門」に、「駒」を「胎」に変える。前者は「本草綱目」でもそうなっている。後者は「本草綱目」も「駒」だが、意味が通らない。]

厩辟馬病皆物理當然耳馬膝上有夜眼有此者馬能夜

行故名【三才圖會云馬八尺以上曰龍七尺以上曰騋六尺以上曰馬五尺以上曰駒】

肉【辛苦冷有毒】 除熱下氣強腰脊輕身強志【以純白牡馬爲良以冷水煑食

不可蓋釜同倉米蒼耳食必得惡病十中有九死自死

馬不可食凡食馬中毒者飮蘆菔汁食杏仁可解】

馬墨 在腎牛黃在膽造物之所鍾也【此亦牛黃狗寳之類】

馬通 馬屎曰通牛屎曰洞豬屎曰零皆諱其名也

[やぶちゃん注:「豬」は「猪」のように見えるが、「本草綱目」ではイノシシやブタを総称する「豬」で、ここは文脈からブタの意であろうと推測し、この字にした。]

馬溺【辛微寒有毒】白馬溺治消渇療積衆癥瘕及反胃

 昔有患心腹痛死者剖之得一白鼈赤眼活者試以諸

 藥納口中終不死有人乘白馬觀之馬尿堕鼈而鼈縮

 遂以灌之卽化成水後以此方治癥瘕

馬肝【有大毒】 馬肝及鞍下肉殺人不可食

 字彙云馬稟火氣而生火不能生木故有肝無膽膽者

 木之精氣也木臟不足故馬肝有大毒食之者死

                  人丸

  拾遺山科の木幡の里に馬はあれとかちよりそ行君を思へは

  古今大あらきの杜の下草生ひぬれは駒もすさめす刈る人もなし

昔有駿馬名驁以壬申日死故乘馬忌此日

△按凡跨馬曰騎走馬謂之馳【古訓波之留今稱加介留蓋馬死曰波之留故忌之】

 凡騁馬曰磬止馬控【今馬奴等毎欲騁則謂止欲止則言動其字義相反矣然馬亦

 隨其聲也用來久故不改】馬怕石不能行曰?【介之止無】馬載重難行曰

 駗驙馬行不前曰馬鳴曰嘶【訓以波由俗云以奈奈久凡馬馳時不嘶如嘶

 者也其馬卒死】馬不施鞍轡而騎曰俗云裸馬

 駿【音俊和名土岐宇萬】馬之美稱取俊傑之義 駑【音奴和名於曾岐宇萬】

 最下也 駻【音早和名波爾無萬】突惡馬也 馱【音駝】負物馬也凡

 以畜載物皆曰馱【俗作或作駄並非】和名謂之小荷馱馬【今米一斛五斗爲一駄約

 凡重六十貫目】

張穆仲安驥集云馬相有三十二相眼爲先

 馬眼如垂鈴 眶凸者佳  腦骨欲員  垂睛欲髙

 耳如削筒  頰骨欲員  項長彎細  鬃欲茸

 
髙   排按肉欲厚 脊梁欲平  腰要短

 鼻要寬大  上唇欲方  口文欲深  下唇欲員

 食槽欲寬  欲闊   膝欲員   脚欲髙

 脚大而實  前蹄欲員 後蹄欲大欲近 掌骨欲髙

 脛※骨細  肚下生節欲近      鹿節欲曲

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廷」。]

 曲池欲深  汗溝欲深  尾骨欲短  外腎欲小

 腿似琵琶

――――――――――――――――――――――

馬三十二以齒知
 
駒齒二 二齒四 三齒六 四成齒二

 五成齒四 六肉牙生 角區缺 八

 區如一 九咬下中區二齒臼 十同四齒臼

 十一六齒臼 十二同二齒平 十三四齒平

 十四同六齒臼 十五咬上中區二齒臼 十六

 
同四齒臼 十七同六齒臼 十八二齒平

 十九同四齒平 二十咬上下盡平 自二十一

 
次第齒黃至二十六咬上下盡黃 自二十七

 次第齒白至三十二上下盡白

――――――――――――――――――――――

馬之毛色

 騂【音征】赤毛馬也 音離】黒毛馬也 音愈。和名栗毛紫毛馬

駮【音愽布知】〕不純白 油馬【和名糟毛】 騮【和名鹿毛】赤馬黒鬣

烏騮【和名黑鹿毛】 黃騮【和名赤栗毛】 紫騮【和名黒栗毛】

連錢【和名連錢葦毛】靑黑斑如魚鱗 【和名葦毛】靑白襍毛

騢【和名鴾毛】赭白雜毛 赤鴾毛【赭黃馬】 和名白鹿毛黃白雜色

駱【和名川原毛】白馬黒髦 沙駱毛【和名黑川原毛】 騵【音[やぶちゃん注:欠字。]】騮馬白腹

騏【音[やぶちゃん注:欠字。]】青黒色  騧【音[やぶちゃん注:欠字。]】黃馬黒喙 駰【音[やぶちゃん注:欠字。]】淺黒而白襍色

音[やぶちゃん注:欠字。]尾白馬 和名阿之布知四骹皆白色【膝以下曰骹】

 以馬旋毛所在知吉【見于前圖如壽星帶纓乘鐙※花則

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廉」。]

 爲吉其他爲

搜神記漢文帝十二年呉地有馬生角在耳前上向右角

長三寸左角長二寸皆大二寸是臣不順之妖也

万寶全書云馬火畜也性惡濕如生疥瘡用生胡麻葉搗

汁灌之脊瘡用黃丹敷之尿血用黃芪烏藥芍藥山茵陳

地黃兜苓枇杷葉爲末灌之

△按馬之療治針灸藥方詳于馬醫書其藥中禁用貝母

 誤用之則害馬而本草載雞屎烏梅爲馬毒不及貝母

 者後人試知之乎

 相傳安閑天皇二年放牛於瀨津大隅等放馬於科野

 國望月牧霧原牧而後世不乏牛馬今則産處處者多

 矣奧州常州之爲良薩州次之信州甲州上下野州

 總州亦次之

小荷駄馬 載負貨物馬也凡以畜載物皆曰佗【今俗作或作

 ?並非也从馬从大】聖武帝【天平十一年】令天下改定馱負之重【先是】馱馬

 一匹所負之重大畧二百斤甚重勞馬蹄於是令諸州

 以百五十斤爲限今制用二十五貫目亦畧合古法

著聞集云有都築平太經家者以善御馬仕于平氏敗北

 之日爲虜於是有献駿馬於鎌倉者而人不克御之使

 囚經家乘之則如相馴者人皆感之頼朝大喜免罪爲

 厩別當嘗養馬異常毎夜半許用白色物自手令之飼

 未知何物也但日中不飼以爲異經家遂入海死惜哉

 不傳其術也

むま    阿濕婆〔(あしつば)〕【梵書】

      【和名、「無萬」。】

      隲(をむま)【牡。】 駔〔(をむま)〕

      【俗に云ふ、「丸馬」。】

       (めむま)【牝。】

      【俗に云ふ、「雜役」。】

【音、「麻」。】

★     騸(へのこなしのむま)

マアア

[やぶちゃん注:★の位置に図の下にある馬の篆書体が示されてある。「騸(へのこなしのむま)」は今まで同様、去勢された雄馬のこと。] 

 

「本綱」、馬の、頭・髮(たてがみ)・尾・足の形に象る。生まれて一を「〔(かん)〕」と曰ひ、二を「駒」と【和名、「古萬」。】曰ひ、三を「騑〔(ひ)〕」と曰ひ、四を「〔(たう)〕」と曰ふ。其の名色〔(ないろ)〕[やぶちゃん注:馬は一般に毛色で呼称分別する。それを言ったもの。]、甚だ、多し。大抵、西北の方の者を以つて良と爲し、東南の者、劣弱にして及ばず。馬、月に應ず。故に、十二〔か〕月にして生ず[やぶちゃん注:正しい。ウマの妊娠期間は十一ヶ月から十二ヶ月である。]。其の年、齒を以つて之れを別〔(わか)〕つ。畜に在りては、火に屬し、辰〔(とき)〕に在りては午〔(うま)〕[やぶちゃん注:正午前後の二時間。]に屬し、卦〔(け)〕に在りては、「☰」、乾〔(けん)〕と爲す。馬の眼光、人の全身を照らす者、其の齒、最も少なり。光、愈々、近くして、齒、愈々、大となる[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、何を言っているのかよく判らない。]。馬、杜衡〔(とこう)〕を食へば、善く走り、稻を食へば、則ち、足、重し。鼠〔の〕屎〔(くそ)〕を食へば、則ち、腹、脹〔(は)〕る。雞〔(にはとり)の〕糞を食へば、則ち、骨眼〔(こつがん)〕を生ず。〔それ、〕僵〔(し)せる〕蠶〔(かひこ)〕を以つて〔治〕す。烏梅〔(うばい)を以つて〕牙(きば)を拭〔(ぬぐ)〕ふときは、則ち、食べず。桑の葉を得ば、乃〔(すなは)〕ち、解す。鼠・狼の皮を槽(むまふね)[やぶちゃん注:「飼い葉桶」に同じ。]に掛けても亦、食はず。海-馬〔(たつのおとしご)〕の骨に遇へば、則ち、行かず。豬〔(ぶた)〕の槽〔(ふね)〕を以つて馬を飼ひ、石灰〔を以つて〕馬〔の〕槽を泥〔(よご)〕し、馬、汗〔する〕を門〔(もん)〕に着〔(つな)ぐ〕ときは、並びに[やぶちゃん注:孰れの場合も。]、馬をして胎〔(こ)〕を落とさしむ。猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く。皆、物〔の〕理〔(ことはり)〕、當に然るべきのみ。馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの。有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく【「三才圖會」に云はく、『馬の八尺以上、「龍」と曰ひ、七尺以上、「騋〔(らい)〕」と曰ひ、六尺以上、「馬」と曰ひ、五尺以上、「駒」と曰ふ』〔と〕。】。

肉【辛苦、冷。毒、有り。】 熱を除き、氣を下〔(くだ)〕し、腰・脊を強くし、身を輕〔くし〕、志〔(こころざし)〕を強くす【純白の牡馬を以つて良と爲す。冷水を以つて煑て食す。釜を蓋〔(ふた)〕すべからず。倉米・蒼耳と同じく〔して〕食〔へば〕、必ず、惡〔しき〕病ひを得。十中、九、死〔する〕有り。自死の馬、食ふべからず。凡そ、馬を食ひ、毒に中〔(あた)〕る者、蘆菔〔(だいこん)の〕汁を飮み、杏仁〔(きやうにん)〕を食へば、解すべし。】。

馬墨(〔むま〕のたま) 腎に在り。牛黃(〔うし〕のたま)は膽〔(きも)〕に在り。造物の鍾〔(あつま)れる〕所なり【此れ亦、牛黃〔(うしのたま)〕・狗寳〔(いぬのたま)〕の類ひ〔なり〕。】。

馬通(〔むま〕のふん) 馬の屎〔(くそ)〕を「通」と曰ひ、牛の屎を「洞」と曰ひ、豬〔(ぶた)〕の屎を「零」と曰ふ。皆、其の名を諱(い)むでなり。

馬溺(〔むま〕のゆばり)【辛、微寒。毒、有り。】白馬の溺り、消渇〔(しやうけち)〕を治し、積衆癥瘕〔(しやくじゆちようか)〕及び反胃〔(ほんい)〕を療す。

昔、心腹〔の〕痛みを患ひて死せる者、有り。之れを剖〔(さ)き〕て一〔つの〕白〔き〕鼈〔(すつぽん)〕の赤〔き〕眼にて活(い)きたる者を得。試みに諸藥を以つて、口〔の〕中に納〔(い)るるも〕、終〔(つひ)〕に死せず。〔この時、〕人、有り、白馬に乘りて、之れを觀る。馬、尿〔(いばり)し〕て、鼈に堕ち、而して、鼈、縮み、遂に以つて、之れを灌ぐ〔に〕、卽ち、化して、水と成る。後、此の方を以つて癥瘕を治す〔るなり〕。

馬肝〔(むまのきも)〕【有大毒】 馬の肝及び鞍〔の〕下の肉、人を殺す。食ふべからず。

「字彙」に云はく、『馬、火〔(くわ)〕の氣〔(き)〕を稟〔(う)け〕て生ず。火、木〔(もく)〕を生ずること、能はず。故に、肝、有りて、膽、無し。膽は木の精氣なり。木臟〔(もくざう)〕足らざる故、馬〔の〕肝、大毒有り、之れを食ふ者、死す』〔と〕。

                  人丸

  「拾遺」

    山科の木幡〔(こはた)〕の里に馬はあれど

       かちよりぞ行く君を思へば

  「古今」

    大あらきの杜〔(もり)〕の下草生ひぬれば

       駒もすさめず刈る人もなし

昔、駿馬〔(しゆんめ)〕有り、驁〔(がう)〕と名づく。壬申〔(みづのえさる)〕の日を以つて死す。故に、馬に乘るに、此の日を忌む。

△按ずるに、凡そ、馬に跨(またが)る「騎」と曰ひ、馬を走らすを、之れを「馳」と謂ふ【古えは「波之留〔(はしる)〕」と訓ず。今、「加介留〔(かける)〕」と稱す。蓋し、馬の死を「波之留」と曰〔へば〕、故に之れを忌む〔なり〕。】。

凡そ、馬を騁〔(は)する〕[やぶちゃん注:「騁」は「馬を走らせる」の意。]を「磬〔(けい)〕」と曰ひ、馬を止〔(とど)〕むるを「控〔(こう)〕」と曰ふ【今、馬奴〔(まご)〕等の毎〔(つね)〕に騁(は)せんと欲するときは、則ち、「止(し)」と謂ひ、止〔(とど)〕めんと欲するときは、則ち、「動〔(どう〕)」と言ふ。其の字義、相ひ反す。然れども、馬も亦、其の聲に隨ふ。用ひ來たること久しき故、改めず。[やぶちゃん注:以上は良安の割注。]】。馬、石を怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])れて、行くこと能はざるを「?(けしとむ)」【「介之止無」。】と曰ふ。馬、重きを載せて、難〔(なん)〕を行くを「駗驙〔(しんてん)〕」と曰ひ、馬、行きて、前(すゝ)まざるを、「〔(たく)〕」と曰ふ。馬、鳴くを「嘶〔(いばふ)〕」と曰ふ【訓、「以波由〔(いばゆ)〕」、俗に云ふ、「以奈奈久〔(いななく)〕」。凡そ、馬、馳する時、嘶〔(いなな)〕かず。如〔(も)〕し、嘶く者〔は〕、なり。其の馬、卒死す。】馬、鞍・轡を施さずして騎(の)るを「(はだせ)」と曰ふ【俗に云ふ、裸馬〔(はだかむま)〕。】。

駿(はやむま)【音、「俊」。和名、「土岐宇萬(ときうま)」[やぶちゃん注:「疾(と)き馬」。]。】〔は〕馬の美稱〔にして〕「俊傑」の義を取る。 駑(をそむま)【音、「奴〔(ド)〕」。和名、「於曾岐宇萬(おそきうま)」。】〔は〕最も下なり。 駻(はねむま)【音、「早」。和名、「波爾無萬」。】〔は〕突惡の馬なり[やぶちゃん注:すぐに突っかかって来て調教し難い荒馬のことである。]。 馱(につけむま)【音「駝」。】〔は〕物を負ふ馬なり。凡そ、畜を以つて物を載(の)す〔は〕、皆、「馱」と曰ふ【俗、「」に作り、或いは「駄」に作る〔は〕並びに非なり[やぶちゃん注:孰れも誤りである。]。】〔は〕和名、之れを「小荷馱馬(こにだ〔むま〕)」と謂ふ【今、米一斛五斗を、「一駄」と爲す。約するに、凡そ、重さ、六十貫目〔たり〕。】。

張穆仲〔(ちやうぼくちう)〕が「安驥集〔(あんきしふ)〕」に云はく、『馬〔の〕相、三十二、有り、眼を相(み)りを先〔(せん)〕と爲す』〔と〕。〔それに云はく、〕

[やぶちゃん注:以下、ブラウザの不具合を考え、原典を総て続いた文章として繋げて示す。原典の有意な字空けも除去した。]

馬の眼、垂るる鈴のごとし。眶(まぶた)、凸(なかたか)[やぶちゃん注:中央が膨らんでいる。]者、佳し。腦骨、員〔(まろ)き〕を欲するなり[やぶちゃん注:「員」は「圓」の通字で「丸い」の意。「欲するなり」は「良しとするものである」の意。]。垂〔るる〕睛〔(ひとみ)〕は髙きを欲す。耳、削〔れる〕筒〔(つつ)〕のごと〔きが良し〕。頰骨は員〔(まろ)〕きを欲す。項〔(うなじ)〕は長く彎〔(わん)じ〕て[やぶちゃん注:弓を引き絞ったように美しく湾曲していて。]細くす。鬃〔(たてがみ)〕は茸〔(しげ)るる〕を欲す[やぶちゃん注:毛が豊かにあるのがよい。]。〔(うなじのけ)〕は髙きを欲す。排-按(くらをきどころ[やぶちゃん注:ママ。])は、肉、厚きを欲す。脊梁(せぼね)は平〔たき〕を欲す。腰〔は〕短きを要す[やぶちゃん注:「要」は「是非とも~でなくてはならない」の意。]。鼻〔は〕寬大なるを要す。上唇〔(うはくちびる)〕は方〔(はう)〕[やぶちゃん注:がっちりと角ばったもの。]のを欲す。口の文〔(もん)〕は深きを欲す。下唇は員〔(まろ)き〕を欲す。食槽(むまのきほね)[やぶちゃん注:臼歯。]〔は〕寬〔(ひろ)き〕を欲す。〔(むね)〕[やぶちゃん注:「胸」の異体字。]は闊(ひろ)きを欲す。膝〔は〕員〔(まろ)き〕を欲す。脚は髙きを欲す。脚は大にして實〔(じつ)なり〕し〔が良し〕[やぶちゃん注:しっかりしているのがよい。]。前の蹄(ひづめ)は員きを欲す。後(うしろ)の蹄は大を欲し〔て〕近〔きを〕欲す。掌の骨[やぶちゃん注:蹄の上部であろう。]は髙きを欲す。脛※骨〔(けいていこつ)〕[やぶちゃん注:「※」=「月」+「廷」。]は細く、肚〔(はら)〕の下に逆毛を生じ、節は近きを欲す。鹿節は曲れるを欲す。曲池は深きを欲す。汗溝〔(あせみぞ)〕は深きを欲す。尾骨は短きを欲す。外腎[やぶちゃん注:思うに♂の外生殖器のことを指すものと思われる。]〔は〕小さきを欲す。腿〔(もも)〕は琵琶に似る〔を良しとす〕。

――――――――――――――――――――――

[やぶちゃん注:以下も二行目以降を同前の仕儀で訓読する。なお、東洋文庫版では、以下の部分に対して、『馬の歯は全部で牡は四十本、牝は三十六本ある。ここはそのうちの切歯(門歯、中歯、隅歯)の部分について説明しているのであろう』と注がある。]

馬〔の壽命は〕三十二。齒を以つてを知る。

の駒は齒[やぶちゃん注:乳歯。]二つ。二、齒、四つ。三、齒、六つ。四、齒[やぶちゃん注:これは永久歯を指す。]二つに成る。五、齒、四つに成る。六、肉牙、生ず。七、角區[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]、缺く。八、區を盡〔(つ)き〕て一つのごとし。九、下中區を咬〔(か)〕み、二つ〔の〕齒、臼(うす)になる。十にしては同〔じく〕四齒、臼になる。十一、六齒、臼になる。十二、同じく、二齒、平〔らと〕なり、十三、四齒、平〔らかとなる〕。十四、同じく六つの齒、平かなり。十五、上中區を咬み、二齒、臼になる。十六、同じく、四齒、臼になる。十七、同じく六齒、臼になる。十八、二つの齒、平かなり。十九、同じく四齒平かなり。二十、上下を咬み、盡〔(ことごと)〕く平かなり。二十一より、次第に、齒、黃〔となり〕、二十六に至り、上下を咬み、盡く黃〔と〕なり、二十七より、次第に、齒、白くして、三十二に至り、上下、盡く白し。

――――――――――――――――――――――

[やぶちゃん注:同前の仕儀で訓読する。]

馬の毛色

 「騂(あかむま)」【音、「征」。】、赤毛の馬なり。「(くろむま)」【音、「離」。】、黒毛の馬なり。「(くりげ)」【音、「愈」。和名、「栗毛」。】、紫毛の馬。「駮(ぶちむま)」【音、「愽〔(ハク)〕」。布知〔(ぶち)〕。】〕純白ならざるなり。「油馬(かすげ)」【和名、「糟毛」。】。「騮(かげ)」【和名、「鹿毛〔(かげ)〕」。】、赤馬〔の〕黒〔き〕鬣〔(たてがみ)〕。「烏騮くろかげ)」【和名、「黑鹿毛」。】。「黃騮(あかくりげ)」【和名、「赤栗毛」。】。「紫騮〔(くろくりげ)〕」【和名、「黒栗毛」。】。「連錢〔(れんせんあしげ)」〕」【和名、「連錢葦毛」。】、靑黑〔の〕斑〔(まだら)〕にして魚〔の〕鱗のごとし。「(あしげ)」【和名、「葦毛」。】、靑白〔の〕襍毛〔(ざつもう)〕。「騢(ひばりげ)」【和名、「鴾毛〔(つきげ)〕」。】、赭〔(しや)と〕白〔の〕雜毛。「赤鴾毛(あかひばりげ)」【赭黃〔あかぎ)〕の馬。】。「(しらかげ)」【和名、「白鹿毛」。】、黃〔と〕白〔の〕雜色。「駱〔(かはらげ)〕」【和名、「川原毛」。】、白馬〔の〕黒〔き〕髦〔(たてがみ)〕。「沙駱毛〔くろかはらげ)〕」【和名、「黑川原毛」。】。「騵[やぶちゃん注:音「ゲン・グワン(ガン)」。和訓は不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】、「騮(くろげ)馬」の白腹〔のもの〕。「騏[やぶちゃん注:音「キ・ギ」。和訓不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】、青黒色。「騧」[やぶちゃん注:音「クワ(カ)・ケ・クワイ(カイ)」。和訓は不詳。]【音[やぶちゃん注:欠字。]】。黃〔の〕馬〔にして〕黒〔き〕喙〔(くちさき)〕。「駰(くろあしげ)」【音[やぶちゃん注:欠字。]】淺黒にして白〔の〕襍色〔(ざつしよく)〕。「[やぶちゃん注:音「ラウ(ロウ)・リヤウ(リョウ)」。和訓は不詳。]」【音[やぶちゃん注:欠字。]】。尾白の馬。「(あしぶち)」【和名、「阿之布知」。】四骹〔(しかう)〕、皆、白色【膝以下、「骹」と曰ふ】。

 馬の旋毛の所在を以つて吉を知る【前圖を見よ。】壽星・帶纓〔(たいえい)〕・乘鐙〔(じやうとう)〕・臁花〔(れんくわ)〕、則ち、吉と爲し、其の他、と爲す。

「搜神記」〔に云はく〕、『漢文帝十二年[やぶちゃん注:紀元前一六八年。]、呉の地に、馬、角を生ふること、有り。耳の前の上に在り、右に向ふ角、長さ三寸、左の角、長さ二寸。皆、大いさ、二寸。是れ、臣の不順の妖なり』〔と〕[やぶちゃん注:漢代の一寸は二・二五センチメートルとやや短い。]。

「万寶全書〔(ばんぽうぜんしよ)〕」に云はく、『馬は火〔(くわ)〕の畜なり。性、濕を惡〔(にく)〕み、如〔(も)〕し、疥瘡〔(かいさう)〕[やぶちゃん注:疥癬。]を生ず〔れば〕、生〔(なま)の〕胡麻〔の〕葉〔の〕搗き汁を用ひ、之れを灌〔(そそ)〕ぐ。脊-瘡〔(たこ/くらずれ)〕[やぶちゃん注:牛馬の背に荷擦れなどによって生ずる傷。鞍傷(あんしょう)。]には黃丹〔(わうたん)〕を用ひ、之れを敷〔(ぬ)〕る[やぶちゃん注:塗る。]。尿血は黃芪〔(こうぎ)〕・烏藥〔(うやく)〕・芍藥・山茵陳〔(いんちこう)〕・地黃〔(ぢわう)〕・兜苓〔(とうれい)〕・枇杷〔(びは)の〕葉を用ひて末と爲し、之れに灌ぐ』〔と〕。

△按ずるに、馬の療治・針灸・藥方は馬醫書に詳らかなり。其の藥中に貝母〔(ばいも)〕を用ふるを禁じ、誤〔りて〕之れを用ふれば、馬を害す〔と云ふ〕。而〔れども〕「本草」に雞〔(にはとり)の〕屎〔(くそ)〕・烏梅〔(うばい)〕、馬の毒たること載す〔のみにて〕、貝母に及ばざるは、後人、試みて、之れを知るか。

相ひ傳ふ、安閑天皇二年[やぶちゃん注:五三五年。]、放牛を瀨津[やぶちゃん注:「攝津」の誤り。]〔の〕大隅[やぶちゃん注:現在の大阪市東淀川区大隅か。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]等に放ち、馬を科野(しなの)〔の〕國[やぶちゃん注:信濃国。]に放つ。望月(もちづき)の牧[やぶちゃん注:現在の長野県佐久市望月附近。]・霧原の牧[やぶちゃん注:現在の長野県松本市東部のこの中央附近。]にて、後世、牛馬に乏しからず。今、則ち、産(う)む處處の者、多し。奧州・常州の、良と爲し、薩州、之れに次ぐ。信州・甲州・上下の野州[やぶちゃん注:上野(かみつけの)国と下野(しもつけの)国。]・總州[やぶちゃん注:前の「上下」がここにも掛かるので上総(かずさの)国と下総(しもうさの)国を指す。]も亦、之れに次ぐ。

小荷駄馬(こにだむま) 貨物(にもつ)を載-負(をは)せる馬なり。凡そ畜を以つて物を載す〔は〕皆、「佗〔(だ)〕」【今、俗、「」に作り、或いは「?」に作る〔も〕並びに[やぶちゃん注:孰れも。]非なり。「馬」に从〔(したが)〕ひ、「大」に从ふ〔が正しきなり〕。】曰ふ。聖武帝【天平十一年[やぶちゃん注:七三四年。]。】と曰ふ。天下に令して、馱負〔(だおひ)〕の重さを改定し【先づ、是れ、馱馬一匹、負ふ所の重さ、大-畧〔(ほぼ)〕、二百斤[やぶちゃん注:当時と同じとは思えないが、現行のそれの機械的換算では一斤は六百グラムであるから、百二十キログラムとなる。以下同じ。]、甚だ、馬の蹄を重勞す。是に於いて、諸州に令して、百五十斤[やぶちゃん注:九十キログラム。]を以つて限りと爲す。今の制、二十五貫目[やぶちゃん注:江戸時代の一貫は三・七五キログラムであるから、九十三・七五キログラム。]を用ふも亦、畧〔(ほぼ)〕、古法に合〔ひたり〕。】

「著聞集」に云はく、『都築(つゞきの)平太經家〔(つねいへ)〕といふ者、有り。善く馬を御するを以つて平氏に仕ふ。〔平氏〕敗北の日、虜〔(とりこ)〕と爲る。是に於いて、駿馬を鎌倉に献ずる者有り、而〔れども〕、人、之れを御〔(ぎよ)す〕ること克〔(あた)〕はず。囚(めしうど)經家をして之れに乘らし〔むれば〕、則ち、相ひ馴るる者のごとし。人皆〔(ひとみな)〕、之れに感ず。頼朝、大きに喜び、罪を免じて、厩〔の〕別當と爲す。嘗て、馬を養ひ、常に異なり、毎〔(つね)〕に夜半許り、白色の物を用ひて、自-手(てづか)ら之れをして飼はしむ。〔はの白き物は、これ、〕未だ何物といふこと、知ざるなり。但し、日中には飼はず。以-爲〔(おもへら)く、〕異〔なり〕と。〔後、〕經家、遂に海に入りて死す。惜しきかな、其の術、傳へざるなり』〔と〕。

[やぶちゃん注:「馬の眼光、人の全身を照らす者」この妖しく光る馬の眼、実は事実なのである。それについては、後の『馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの、有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく』の部分の引用まで「おあずけ」としよう。ヒントは……「タペタム」……フフフ

「杜衡〔(とこう)〕」被子植物門双子葉植物綱ウマノスズクサ(馬の鈴草)目ウマノスズクサ科カンアオイ(寒葵)属カンアオイ Asarum nipponicum の異名(旧漢名か)である。ウィキの「カンアオイ」によれば、日本固有種のギフチョウ(岐阜蝶・鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科ギフチョウ族ギフチョウ属ギフチョウ Luehdorfia japonica。懐かしいなあ! 現代文で何度か授業をやった、日高敏隆の「ギフチョウ二十三度の秘密」でも出て来たなぁ!)『幼虫の食草としても知られる』。本種もまた、『日本固有種で、本州の関東地方から近畿地方、四国』の『山地や森林の林床に生育する』。『小型の多年草。茎は短く、地面を匍匐する。葉は互生、卵形~卵状楕円形で、先端は尖り、基部は心脚、長さ』六~十センチメートル、幅四~七センチメートルで、『濃緑色で白い斑紋がある』。『花期は秋季(』十~十一『月)で地面に接して咲く。花のように見えるのは花弁ではなく』、三『枚の萼片である。萼片は基部で癒着し萼筒を形成する。萼筒は先がくびれず、直径』二センチメートル、長さ一センチメートル『程度で、暗紫色、内側に格子状の隆起線がある。萼筒の先端の萼裂片は三角形で萼筒よりも短く、濁った黄色。雄蕊は』十二『本、雌蕊は』六『本。芳香がある』。本邦には二亜種が植生するともある。

「雞〔(にはとり)の〕糞を食へば、則ち、骨眼〔(こつがん)〕を生ず。〔それ、〕僵〔(し)せる〕蠶〔(かひこ)〕を以つて〔治〕す」ここは訓読に非常に苦労した。訓点に従おうとすると、こうしか、私には読めない。ところが、東洋文庫訳はここを『鶏糞を食べれば、死んで白く固まった蚕のような形の骨眼を生じる』というオドロキの超訳をやらかしてあるのである。確かに一つの訳としては、どこか腑に落ちるように思わせるものがあることはあるが、この文字列ではこの読みは無理があると私は思った。そこで、後に治療法を添えた部分があるので、それに合わせてかく訓じてみた。大方の御叱正を俟つものではある。なお、「骨眼」なるものが実はよく判らぬ。東洋文庫の訳者も実はそうだったのではないか? と私は密かに疑ってさえおり、それを一見、辻褄が合うように見せて訳したのがそれなのではないか? と考えているのである。いろいろ考えて調べてみた。まず、「骨眼」の「眼」だ。直前で超能力的に人の全身を照らす眼光が語られているのだから、馬にとっては眼こそが大事な部分であることが判る。さすれば、この「骨眼」とは馬の眼の疾患なのではないか? と考えた。すると、それらしいものがあったのである! 馬の眼の角膜に生じた傷で、黒目の一部が白くなる症状があり、その写真を見るに、黒目の中に白い骨が生じたように見えるのである。「馬の獣医 Kawata Equine Practice」公式サイトのこちらをご覧あれ! ただ、その白っぽいものが死んで丸くなった白い蚕のようだと言われれば、それもそうだ、と肯んじそうにはなるのである。

「烏梅〔(うばい)〕」これは普通のバラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mumeの異名でもある。或いは青酸配糖体のアミグダリンやプルナシンを含んだ青い未成熟の梅の実か。或いは漢方で「烏梅」があり、梅の未熟な実を干して燻したもので、染料や下痢・腫れ物などの薬とする。本邦では「ふすべうめ」とも称する。後者か。よく判らぬ。わざわざそんなもんで歯を拭う方がおかしいやろ!?!

「海-馬〔(たつのおとしご)〕の骨」条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の干物。漢方では大型種である、タカクラタツ Hippocampus trimaculatus(全長二十二センチメートル)・クロウミウマ Hippocampus kuda(全長三十センチメートル)・オオウミウマ Hippocampus kelloggi(同前)が珍重される。これはまさに類感呪術である。

「猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く」「猿猴」は「猿」で、ここは「本草綱目」の記載なので、哺乳綱霊長目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ族マカク属 Macaca としておく。これは「猴」が特に同属を指す語であったと考えられているからである。但し、「猿」の方は「猨」と同字とした場合、中国では古くは霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科Hylobatidae のテナガザル類を特定して指し、「猴」とは厳然たる区別が行われていたらしい。しかし、後代、それらが一緒くたにされて「猿猴」と呼ばれるようになったと思われる経緯や、「猴」(音「コウ・グ」)自体も、「廣漢和辭典」では「猿」・「ましら」・「猿猴」・「獼猴」・「沐猴」と意義を記し、「説文解字」では中の(にんべん)はなく、「侯」の部分は「候」に通じ、単に「気配を覗って騒ぎ立てる」というサル類一般の義とするからには、「猿猴」は広義広汎な「猿」でよいのかも知れない(なお、ニホンザル Macaca fuscata は学名でお判りの通り、前者マカク属である)。興味のある方は、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の冒頭に、「獼猴(さる/ましら)」を始めとして、ズラリと猿類(想像上の妖猿や妖獣を含む)が並び、古い仕儀ながら、相応にそれぞれ考証しているので参照されたい。さて、何故、猿を厩に繋ぐと、馬の病いを避けられる、猿が厩の守護神なのか(本邦でも同じ習俗がある)という点であるが、これは時珍が各所で語っているところの、五行説に基づくものなのである。判り易いのは、岩手県奥州市前沢字南陣場にある「牛の博物館」の作成になる、「牛馬の守護神 厩猿信仰 岩手県前沢町から発見された今や猿をきっかけに」の中の、「牛馬と猿」のページがよい。そこに、『十二支に十二獣を配して五行との関係を見ると、木=卯(兎)、火=午(馬)、金=酉(鶏)、水=子(鼠)という関係であることが分かります。陰陽道では、三合といって世の中に存在する物全てに始まりがあり(生)、次に壮』(さか)『んになり(旺)、最後に終わる(墓)という気の循環が考えられています。そこで季節の中心にあたる兎、馬、鶏、鼠をそれぞれ木火金水の旺として順番にあてはめていくと、火の三合は虎(生)・馬(旺)・犬(墓)、水の三合は猿(生)・鼠(旺)・龍(墓)となります。すると、厩猿信仰は、馬の火(旺)を猿の水(生)で制御しようという仕組みであることが分かります。ここで疑問になるのは、なぜ水の旺である鼠ではなく』、『生じ始めの猿なのかといった点です。それは、たっぷりの水をかけて火を消すのではなく、ちょうど良く制御するためだと説明する事が出来ます。厩猿は馬と同様に厩で飼われる牛にも家畜の守り神としての力を発揮したようで、岡山県など西日本の牛の飼育が盛んだった地方では猿の頭蓋骨が牛神様と呼ばれて信仰されています。また、厩猿信仰の「火災が起きない」といった口承は、猿が水気の動物であることから来ていると考えられます。大衆芸能化した猿回しが旧暦の正月にあたる寅(火の生じ始め)に行っていた門付は、水の生じ始めとしての猿が火災防除の役割も果たすよう期待したものでした』という解説で私は納得出来る(太字下線は私が附した。この因果関係には別な説もあるが、中国での考え方はこれに尽きると私は思う)。なお、猿と馬の関係については、柳田國男が「山島民譚集」の「河童駒引」で考証しており、私は今現在、その電子化注をしている真っ最中である。但し、肝心の猿との関係性の部分は今まさに直前ではあるものの、到達していない。暫く、お待ちあれかし。

「皆、物〔の〕理〔(ことはり)〕、當に然るべきのみ」これらは、皆、この世界の物の道理(但し、陰陽五行思想)から見て、至極当然なことなのである。

『馬の膝の上に、「夜眼〔(よめ)〕」といふもの、有り。此れ有る者-馬〔(うま)〕、能く夜行〔(やかう)〕す。故に名づく』んなものがあるはずは無論ないわけだが、馬は実際に暗視能力に優れている。サイト「馬を知ろう!」の「馬の特徴:馬の眼について」に、まず、冒頭に、目の位置と馬の瞳孔が横長に開いている特徴から、彼らの視野は三百五十度にも及ぶことが書かれてあり(但し、視野の五分の四以上が片眼だけで見ているため、その部分では対象の距離判別は出来ない欠点がある)、「5」の「暗視能力」で以下のように記されてある。『馬は夜行性の動物とは言えませんが、夜目はよく利くようです』。『馬産地・日高では夜間も放牧されている馬がいますが、月明かりの下でも、彼らは苦もなく放牧地の中を走ることが出来るのです』。『馬が夜目の利く秘密は眼球の構造にあり、瞳孔から入った光は、網膜に像を結び、網膜表面の視細胞を刺激、光の刺激を受けた視細胞はその刺激を電気信号に変え、視神経を通じて脳に送るのです』。『もちろん』、『夜など、光が弱ければ視細胞に対する刺激は弱くなり、結果的には見えにくいということになりますが、馬の目の網膜の後ろ側には「タペタム(輝板)」』tapetum:視神経円板の背側部の血管板と脈絡毛細血管板の間に存在する構造物。「輝膜」とも呼ばれ、食肉類や原猿類が持つそれは細胞性輝板と呼び、輝板細胞が網膜面と平行に層板上に積み重なった構造を成している)『が存在するのです』。『タペタムは、網膜で吸収されずに透過した光を反射する役割を持っており、タペタムからの反射光は再び視細胞を刺激するのです』。『すなわち馬の視細胞はタペタムがあるために』二『回、光の刺激を受けるのです』。『タペタムはいわば』、『光の増幅装置とも言えるでしょう』。『ネコの目が夜中に光っているのを見たことがある人は多いと思います』。『馬の目もネコほどではないにしろ、同じように光ります』。『これはネコにも馬にも、網膜の後ろに光をよく反射するタペタムが存在するからです』。『タペタムがあるのは夜行性の哺乳動物ばかりとは限らず、魚類ではたいていの種類でタペタムが存在します。これは到達する光がどうしても少なくなってしまう水中で活動せざるを得ないからです』とある。これで、先の夜光る馬の眼の話が事実であることが判るのである。

『「三才圖會」に云はく……ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。前頁に図が有る。

「馬八尺以上……」明代の一尺は三十一・一センチメートルと少し長い(一寸は三・一一センチメートル)から、「八尺以上」は二メートル四十八・八センチメートル以上、「七尺以上」は二メートル十七・七センチメートル以上、「六尺以上」は一メートル八十六・六センチメートル以上、「五尺以上」は一メートル五十五・五センチメートルとなる。本邦では通常、馬の丈は脚の下(地面)から前肢の付け根の肩上部の固い骨の上(騎乗する際の前の突出部)までを言うが、これはそれではとんでもなく巨大な馬になってしまうので、これは事実上の頭部の頂きまでの長さであろう。

「肉」「熱を除き」昔は高熱を発した者には生の馬肉を載せて熱を下げた。向田邦子原作で私の忘れ難い名ドラマ「父の詫び状」(ジェームス三木脚本・杉浦直樹主演)のドラマでそのシーンが出てきたのを思い出す。

「倉米」貯蔵した新米でないものの謂いであろう。

「蒼耳」キク目キク科キク亜科オナモミ属オナモミ Xanthium strumarium知らない? 知ってるさ! とげとげの樽みたような「ひっつき虫」だよ! ほら、君たち(最初の柏陽の担任生徒たち)がグランドの掃除の時に僕の背中にメチャいっぱいつけた、あれだよ! 生薬名を(実及び全草)「蒼耳子(そうじし)」と呼び、中国最古の薬物書「神農本草経」に既に処方が記載されている。主に鎮痛・鎮痙・解熱・発汗作用があり、風邪による頭痛や発熱・神経痛・蓄膿症に効果があり、蚊や蜂に刺された場合には生葉の汁を塗ると良くなるとも言う。但し、「蒼耳子」には僅かながら毒性があり、多量に服用すると、人によっては頭痛や眩暈(めまい)を伴うことがあると、「馬場藥局」公式サイトのこちらの解説にあった。今度、蚊に刺されたら、やってみよう。

「自死の馬」原因不明で急死した馬。

「蘆菔〔(だいこん)〕」アブラナ目アブラナ科ダイコン属ダイコン Raphanus sativus var. longipinnatus。現代中国語でもこう書く。但し、「蘿蔔」の方が一般的のようではある。

「杏仁〔(きやうにん)〕」既出既注

「馬墨(〔むま〕のたま)」結石。ここは「腎に在り」と言っており、漢方の五臓六腑は現在の臓器とは比定出来ないものが多いが、これはまず腎臓結石ともてよかろう。広義の家畜類の結石類は先行する「鮓荅」(さとう)を見られたい。

「牛黃(〔うし〕のたま)」先行する「牛黃(ごわう・うしのたま)(ウシの結石など)」を見られたい。

「造物の鍾〔(あつま)れる〕所なり」人を含む動物の体内に於いていろいろな原因で作り出されて集まって凝り固まった病的なものなのである。時珍は一貫して「鮓荅」を疾患によって形成されたものという立場を採っており、良安もそれに従っていることは今までの叙述で明らかであるので、わざと「病的な」を挿入した。

「狗寳〔(いぬのたま)〕」先行する「狗寳(いぬのたま)(犬の体内の結石)」を見られたい。

「溺(ゆばり)」尿。

「消渇〔(しやうけち)〕」口が激しく渇いて尿量が異常に少なくなる状態を指す。別に排尿回数が異常に多いとするものもあり、その場合は所謂、「飲水病」、現在の糖尿病の症状とよく一致する。別に「しょうかつ」(現代仮名遣)と読んでも構わぬ。

「積衆癥瘕〔(しやくじゆちようか)〕」広義の腹部腫瘤全般を指す。

「反胃〔(ほんい)〕」食べたものをすぐ吐いてしまうような状態或いはそうした慢性的症状を指す。

「心腹」胸と腹。

「鼈〔(すつぽん)〕」カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。本種は「キョクトウスッポン」「シナスッポン」の名で呼ばれることもある。中国産も同じ。

「馬肝〔(むまのきも)〕」「肝、有りて、膽、無し」これも例外的に「肝」は肝臓、「膽」は胆嚢と採ってよい。ここにある通り、馬やラットには存在しない。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「稟〔(う)け〕て」「受けて」。応じて。

「膽は木の精氣なり。木臟〔(もくざう)〕足らざる故、馬〔の〕肝、大毒有り、之れを食ふ者、死す」五行の「木」が欠けた生物であるから、五行の調和が壊れた存在であり、だから有毒・大毒なのだと謂うのであろう。

「人丸」「拾遺」「山科の木幡〔(こはた)〕の里に馬はあれどかちよりぞ行く君を思へば」「拾遺和歌集」の「巻第十九 雑恋」に「題知らず」で、柿本人麿の歌として載せる一首(一二四三番)であるが、「万葉集」の「巻十一」の詠み人知らずの以下の一首(二四二五番)、

 山科の木幡の山は馬はあれど步(かち)ゆわが來(こ)し汝(な)を思ひかねて

の異伝に過ぎない。

「古今」「大あらきの杜〔(もり)〕の下草生ひぬれば駒もすさめず刈る人もなし」「古今和歌集」の「巻第十七 雑歌上」の詠み人知らずの一首(八九二番)であるが、表記に問題がある

 大荒木(おほあらき)の森の下草(したくさ)老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし

が正しい。「大荒木」は地名らしいが不明。これを「殯(もがり)の宮」(本葬の前に蘇生を祈って仮安置する場所)とする説がある(岩波の「新日本古典文学大系」の注に拠る。以下も同じ)。「すさめず」「心を寄せない・好まない」の意。草が年長けてしまって硬くなってしまったから、馬も喰(は)もうとせぬ、というのである。なお、この一首には後書きの異伝の上句が示されてあり、それで復元すると、

 さくら麻(あさ)麻生(をふ)の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし

となる。「さくら(櫻)麻」は実体不詳の万葉以来の枕詞。「をふ(苧生・麻生)」にかかる。「麻」と「苧(お)」は同義であるところから、「おふ(苧生:麻の生えている場所。麻畑)に掛かるのだと説明される。

『昔、駿馬〔(しゆんめ)〕有り、驁〔(がう)〕と名づく。壬申〔(みづのえさる)〕の日を以つて死す。故に、馬に乘るに、此の日を忌む』この出所は「説文解字」(最古の部首別漢字字典。後漢の許慎撰。西暦一〇〇年成立)であるようだ。『駿馬。以壬申日死、乘馬忌之。从馬敖聲』とある。

『古えは「波之留〔(はしる)〕」と訓ず。今、「加介留〔(かける)〕」と稱す。蓋し、馬の死を「波之留」と曰〔へば〕、故に之れを忌む〔なり〕』不審。小学館「日本国語大辞典」の「はしる」を引くと、本文意義には馬の死を指すと出ない。確かに、方言の項には人が『死ぬ・他界する』(壱岐の採取)及び『牛馬が死ぬ』として和歌山県西牟婁郡田並・山口県豊浦郡の採取例が載るが、寺島良安は生粋の大坂人である。このような汎用例があるとされる方は御教授願いたい。

「磬〔(けい)〕」本字は原義は「打ち石」で、中国古代の「へ」の字形をした打楽器で、後に仏教で「きん」と読み、礼拝や読経の際に打ち鳴らす仏具の意となり、また、体を楽器の磬の形のように折り曲げて礼をするの意が生じ、最後に「はせる・馬を走らせる」の意があることはある。これはやはり、疾走する際の馬の体型を楽器の「磬」に譬えたものか。

「馬、石を怕(をそ)れて、行くこと能はざる」「石」を鉱石と言い換え、五行の「金」と採るならば相剋で「金剋木(ごんこくもく)」(金属は木を傷つけて切り倒す)であるから、腑に落ちる。

?(けしとむ)」「消(け)し飛(と)む」で「消し飛ぶ」と同義。「勢いよく飛んで見えなくなる・ふっ飛ぶ」以外に「蹴躓(けつまず)く」の意があり、古語用例では馬のそれに使われているので腑に落ちる。

駗驙〔(しんてん)〕」中国語の辞書に「馬載重難行」(馬、重きを載せて難行す)とある。

〔(たく)〕」「康熙字典」に「䮓騺」として、「馬行不前貌」(馬の行くに、貌〔(かほ)〕を前せず)とあるので、馬が行き悩む、前進することを嫌がるの意と採れる。

「嘶〔(いばふ)〕」」「以波由〔(いばゆ)〕」小学館「大辞泉では」後者が原形で、「いばふ」はその転訛とする。

「以奈奈久〔(いななく)〕」「い」は馬の鳴き声のオノマトペイアで、馬が声高く鳴くことを指す。

(はだせ)」原典は「はたせ」で(但し、良安は濁点を除去することが多い)、東洋文庫訳も『はたせ』とするが、これは「裸(肌)背馬(はだせうま)」の略と考えられ、小学館「日本国語大辞典」も「はだせ」で見出しを作るので、濁音で示した。

『凡そ、畜を以つて物を載(の)す〔は〕、皆、「馱」と曰ふ【俗、「」に作り、或いは「駄」に作る〔は〕並びに非なり[やぶちゃん注:孰れも誤りである。]。】〔は〕和名、之れを「小荷馱馬(こにだ〔むま〕)」と謂ふ』しばしば認められる良安の漢字や訓へのマニアックな拘りがバクハツしているが、これは正しい。この「馱」は「駄」の正字なのである。

「一斛五斗」「斛」は「石」に同じで、単純換算では約二百七十・五リットルとなり、米一石だと、百五十キログラムであるから、四百五十キログラムになってしまうが、流石に重過ぎる。実際には俵換算で減衰する。後に「六十貫目」とあり、これだと、二百二十五キログラムで、振り分け荷としては、馬が何とか運べそうな重量ではある。

『張穆仲〔(ちやうぼくちう)〕が「安驥集〔(あんきしふ)〕」』東洋文庫書名注に、「安驥集」は『中国古代の黄帝の時の馬師皇の言辞を編したものという。馬の疾病・治療法などを説く』としつつ、但し、『本書にいう張穆仲の『安驥集』は不明』とする。しかし、検索すると、山形県米沢市の市立米沢図書館の「デジタルライブラリ」のこちらで、「司牧療馬安驥集(しぼくりょうばあんきしゅう)」(全七巻・附一巻・六冊)『金張穆仲輯』として、一五〇四年(明の弘治十七年)序の刊本が示され、『中国で唐時代に作られた馬医書で、日本にも伝わり』、『仮名で再編集された「仮名安驥集」が広く用いられた。本書は』『世界的にも古い刊本と評価されている』とあり、当該刊本をこちらで視認することが出来る。その九コマ以降に各相の詳細にして膨大な解説が載り、それを縦覧するに、冒頭(八~九コマ目)にある多量のキャプション附きの馬の図及び後に続く詳細解説と、十コマ目にある「相良馬宝金篇」を良安がここで参考にしたことは最早、間違いなく、それどころか、冒頭の図の旋毛の吉凶についても、十三~十四コマの図に「良馬旋」の図があって、続く馬の年齢等も、良安は大々的にこの本に基づいて記載していることが判る。是非、原書の記載や画像を見られたい

「食槽(むまのきほね)[やぶちゃん注:臼歯。]」意味は東洋文庫の割注に拠った。通常は馬用の飼葉桶や水桶を指す語であるが、前後から、ここに突然、入るのはおかしいし、上記の「相良馬宝金篇」にも、

   *

食槽寛浄顋無肉

   *

とあるので、しっかりと噛むための臼歯と採るのが腑に落ちる。

「脛骨〔(けいていこつ)〕」(「」=「月」+「廷」)上記原本の八コマ目の図で、向う脛の部分を指示してある。

「鹿節」上記原本の八コマ目の図で、後ろ足の脛(骨)の部分を指示してある。

「曲池は深きを欲す」同じく八コマ目の図にあるが、指示線がない。但し、人の経絡の経穴に「曲池穴(きょくちけつ)」があり、それは上肢(腕)の左右の肘の部分の外側の窪んだ部分に当たるが、図を見ると、後ろ足の右のまさにそれらしい位置に丸い窪みのようなもの(記号?)があるから、それを指しているのではないかと私は思う。

「汗溝〔(あせみぞ)〕」馬の腰の上部か下へ向かって窪んでいる部分。上記原本の八コマ目の図で示されてある。

「外腎」既に「思うにの外生殖器のことを指すものと思われる」と注したが、まさに上記原本の八コマ目の図で陰茎らしき部分を指示してある。

「馬〔の壽命は〕三十二。齒を以つてを知る」以下も総て、上記「司牧療馬安驥集」の十七と十八コマ目の引き写しである。

「馬の毛色」ウィキの「馬の毛色」に詳しく、各毛色の独立ページもリンクされているので、そちらを参照されたい。言葉よりそれらの画像で一目瞭然なれば、私は一部を除き、個々には注さない。

『「油馬(かすげ)」【和名、「糟毛」。】』粕毛(かすげ)。ウィキの「粕毛」に、『原毛色に白色毛が混毛し、体が灰色っぽく見える馬のこと、またはその状態そのものを指す。芦毛や薄墨毛と非常に混同されやすい毛色であるが、別の毛色である』。『原毛色により、栗粕毛(原毛色が栗毛系)、鹿粕毛(原毛色が鹿毛系)、青粕毛(原毛色が青毛系)と区別する』とある。リンク先に画像有り。

『「連錢〔(れんせんあしげ)」〕」【和名、「連錢葦毛」。】、靑黑〔の〕斑〔(まだら)〕にして魚〔の〕鱗のごとし』藤木ゆりこ氏のサイト「花遊戯~はなあそび~」内のこちらの一番上の写真の馬がそれ。藤木氏の同サイト内の「馬の毛色いろいろ」からも各種のそれらを見られる。必見!

「襍毛〔(ざつもう)〕」「襍」は「雜」に同じい。

『「騢(ひばりげ)」【和名、「鴾毛〔(つきげ)〕」。】、赭〔(しや)と〕白〔の〕雜毛』月毛に同じい。葦毛(白を基調に黒・茶・赤の混じったもの)の全体に赤ばんだ毛色を指す。ウィキの「月毛」を参照されたい。ほら、芥川龍之介の「藪の中」で真砂が乗っていた馬だよ。

『「搜神記」〔に云はく〕……』以下は、第六巻の以下。

   *

漢文帝十二年、地有馬生角、在耳前、上向、右角長三寸、左角長二寸、皆大二寸。劉向以爲馬不當生角、猶不當舉兵向上也、將反之變云。京房易傳曰、「臣易上、政不順、厥妖馬生角。茲謂賢士不足。」。又曰、「天子親伐,馬生角。」。

   *

自然流で訓読しておく。

   *

 漢の文帝十二年、の地に、馬、有り、角を生ず。耳の前に在りて、上向(うはむ)きて、右の角、長さ三寸、左の角、長さ二寸、皆、大(ふと)さ、二寸。劉向、以爲(おもへ)らく、「馬、當に角を生ずべからず。猶ほ、、當に舉兵し、上(かみ)に向(はむか)ふべからざるがごとし。、將に反するの變たり。」と云ふ。「京房易傳」に曰はく、「臣、上を易(あなど)り、政(まつりごと)、順ならざれば、厥(それ)、馬、角を生ずるの妖あり。茲(これ)、『賢士の足らざる』の謂ひなり。」と。又、曰はく、「天子、親伐(しんばつ)せば、馬、角を生ず。」と。

   *

「万寶全書」東洋文庫書名注に、『無名氏撰。清の毛煥文』(もうかんぶん)『増補の『増補万宝全書』がある。三十巻。百科事典のたぐい』とある。

「黃丹〔(わうたん)〕」漢方で「鉛丹(エンタン)」の別名。鉛を熱して赤褐色に酸化させた生薬。成分は四酸化三鉛(しさんかさんなまり:Pb3O4)効能は明らかでないが、外用薬(塗り薬)で、皮膚の化膿症・湿疹・潰瘍・外傷・蛇による咬傷などに用いると漢方サイトにはあった。

「黃芪〔(くわうぎ)〕」マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ(黄花黄耆)Astragalus membranaceus 或いは同属のナイモウオウギ Astragalus mongholicus の根から作られた生薬。現行では「黄耆(オウギ)」と称する。止汗・強壮・利尿・血圧降下等の作用があるとする(ウィキの「キバナオウギ」に拠る)。

「烏藥〔(うやく)〕」既出既注

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 或いは近縁種の根から製した生薬。消炎・鎮痛・抗菌・止血・抗痙攣作用を有する。

「山茵陳〔(いんちこう)〕」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属カワラヨモギ Artemisia capillaris の頭状花部分から製した生薬。消炎・利胆・解熱・利尿効果があり、黄疸・肝炎・胆嚢炎などに用いられる。

「地黃〔(ぢわう)〕」キク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の根から製した生薬。内服薬としての利用では補血・強壮・止血作用が、外用では腫れ物の熱を取り、肉芽の形成作用を有する。

「兜苓〔(とうれい)〕」「馬兜鈴(バトウレイ))」等異名が多い、ウマノスズクサ(馬の鈴草)科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ草 Aristolochia debilis 及びマルバノウマノスズクサ Aristolochia contorta などの成熟果実を原料とする生薬で、鎮咳・去痰・止血・消腫・鎮痛・呼吸改善・痔疾改善・整腸及び創傷回復などに用いると漢方サイトには確かにあったが、しかし、この如何にもな和漢名の草を馬の血尿に用いるというのは、どうも、もともとは類感呪術っぽい感じがする。

「枇杷」ナシ亜科ビワ属ビワ Eriobotrya japonica の葉は「琵琶葉(ビワヨウ)」、種子は「琵琶核(ビワカク)」と呼ばれる生薬とする。ウィキの「ビワ」によれば、ビワは「大薬王樹」とも呼ばれ、民間療薬としても『親しまれてもいる。なお、以下の利用方法・治療方法は特記しない場合、過去の歴史的な治療法であり、科学的に効果が証明されたものであることを示すものではない』。『葉には収斂(しゅうれん)作用があるタンニン』(tannin:「タンニン」という名称は「革を鞣す」という意味の英語である「tan」に由来し、本来の意味としては、製革に用いる鞣革性を持つ物質のことを指す言葉であった)『のほか、鎮咳(ちんがい)作用があるアミグダリン』(amygdalin:青酸配糖体の一種)『などを多く含み』、『乾燥させてビワ茶とされる他、直接患部に貼るなど』、『生薬として用いられる。 琵琶葉は』、九『月上旬ごろに採取して葉の裏側の毛をブラシで取り除き、日干しにしたものである』。『この琵琶葉』を『水で煎じて』『服用すると、咳、胃炎、悪心、嘔吐のほか、下痢止めに効果があるとされる』。『また、あせもや湿疹には、煎じ汁の冷めたもので患部を洗うか、浴湯料として用いられる』。『江戸時代には、夏の暑気あたりを防止する琵琶葉湯に人気があったといわれており、葉に含まれるアミグダリンが分解して生じたベンズアルデヒドによって、清涼飲料的効果が生み出されるといわれている』。『種子』も『水で煎じて服用すると、咳、吐血、鼻血に効果があるとされる』。『葉の上にお灸を乗せる(温圧療法)とアミグダリンの鎮痛作用により』、『神経痛に効果があるとされる。 ただし、アミグダリンは胃腸で分解されると猛毒である青酸を発生する。そのため、葉などアミグダリンが多く含まれる部位を経口摂取する際は、取り扱いを間違えると健康を害し、最悪の場合は命を落とす危険性がある』ともあるので、要注意

「貝母〔(ばいも)〕」単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ Fritillaria verticillata var. thunbergiiの乾燥させた鱗茎の生薬名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに用いられるが、鱗茎を始め、全草に多種のアルカロイドを含み、これは心筋を侵す作用があることから、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺を引き起こす事があり、呼吸数・心拍数低下を惹起する場合もあることから、使用時は量に注意しなくてはならない(以上はウィキの「アミガサユリ」に拠った)。

『「著聞集」に云はく……」以下は、「古今著聞集」の「巻第十 馬芸」に載る、以下の「都筑經家、惡馬を御する事」。

   *

 武藏國の住人、つづきの平太經家は、高名の馬乘り・馬飼ひなりけり。平家の郎等(らうどう)なりければ、鎌倉右大將、めしとりて、景時にあづけられにけり。其時、陸奧(みちのく)より、勢、大きにして、たけき惡馬をたてまつりたりけるを、いかにも乘るもの、なかりけり。きこえある馬乘りどもに、面々にのせられけれども、一人も、たまるものなかりけり[やぶちゃん注:乗りこなすことが出来る者はなかった。]。幕下[やぶちゃん注:源頼朝。]、思ひわづらはれて、
「さるにても、此の馬に乘るものなくてやまむ事、口惜しき事なり。いかがすべき。」
と、景時にいひあはせ給ければ、
「東八ケ國に、いまは心にくきもの[やぶちゃん注:頼みとし得る者。]、候はず。但し、召人(めしうど)經家ぞ候。」
と申しければ、
「さらば、めせ。」
とて、則ち、召しいだされぬ。
 白水干(しろすいかん)に葛(くず)の袴をぞきたりける。
 幕下、
「かかる惡馬あり。つかうまつりてんや。」
とのたまはせければ、經家、かしこまりて、
「馬は、かならず人に乘らるべき器(うつは)にて候へば、いかにたけきも、人にしたがはぬ事や候べき。」
と申ければ、幕下、入興(じゆきよう)せられけり。
「さらば、つかうまつれ。」
とて、則ち、馬を引き出だされぬ。
 まことに大きにたかくして、あたりをはらひて[やぶちゃん注:周囲に人を寄せ付けず。]、はねまはりけり。經家、水干の袖、くくりて、袴のそばたかくはさみて[やぶちゃん注:袴の腿立ちの部分を上に高く挟んで。]、烏帽子(ゑぼうし)かけして[やぶちゃん注:烏帽子の紐を顎の下で強く結んで、落ちぬようにし。]、庭におり立ちたるけしき、まづ、ゆゆしくぞ見えける。かねて存知(ぞんち)したりけるにや、轡(くつわ)をぞ、もたせたりける。その轡をはげて[やぶちゃん注:馬の口に噛ませて。]、さし繩(なは)[やぶちゃん注:手綱に添えて用いる引き綱。]とらせたりけるを、すこしも事ともせず、はねはしりけるを、さし繩にすがりてたぐりよりて乘りてけり。やがてまりあがりて出けるを[やぶちゃん注:すぐに躍り上がって庭の外へと出て行ったが。]、すこし走らせて、うちとどめて、
「のどのど。」[やぶちゃん注:馬の足音のオノマトペイア。「ぽくぽく」。]
とあゆませて、幕下の前にむけて、たてたりけり。見る物、目をおどろかさずといふ事なし。よくのらせて[やぶちゃん注:十二分に乗りこなしたので。]、
「いまは、さやうにてこそあらめ。」[やぶちゃん注:頼朝の台詞。「もう、それくらいよかろうぞ。」。]
とのたまはせける時、おりぬ。
 大きに感じ給ひて、勘當(かんだう)ゆるされて、厩(うまや)の別當になされにけり。
 かの經家が馬飼けるは、夜半ばかりにおきて、なににかあるらん、白き物を一かはらけばかり[やぶちゃん注:素焼きの鉢にすればその一盛り分ほど。]、手づからもて來りて、かならず飼ひけり。すべて、夜々(よよ)ばかり、物をくはせて、夜、あくれば、はだけ髮(がみ)[やぶちゃん注:乱れた鬣。]ゆはせて、馬の前には草一把(いつぱ)も、おかず。さわさわとはかせてぞ、ありける[やぶちゃん注:後は塵一つなく、綺麗に掃いてあったという。]。
 幕下、富士川あゐさはの狩りに出られける時は、經家は、馬、七、八疋に鞍置きて、手繩(てなは)[やぶちゃん注:下級の馬の口取りが馬を牽くために結んで使う繩。]むすびて、人も付けずうち放ちて侍りければ、經家が馬のしりにしたがひて行きけり。さて、狩庭(かりば)にて、馬のつかれたるをりには、めしにしたがひてぞ、まいらせける[やぶちゃん注:お召しがあった際には、即座に別の馬を差し上げ申し上げたという。]。
 今の代には、かくほどの馬飼ひもきこえず。その飼ひけるやうに傳へたるものなし。經家、いふかひなく入海(じゆかい)して死にければ、知る者なし。口惜しき事なり。

 

   *

「都築(つゞきの)平太經家〔(つねいへ)〕」以上の本文の参考にした新潮日本古典集成の「古今著聞集」(西尾光一・小林保治校注)の注によれば、『都筑(都築・綴喜)氏は、武蔵国都筑郡一帯を根拠とした氏族。藤原利仁の末裔で、斎藤氏の系族』で、『都筑党は武蔵七党に数えられることもあった』とある。「吾妻鏡」には三箇所で彼『都筑平太』の名を三箇所で認めることが出来るので、確かに実在した人物である。最初が、文治元(一一八五)年十月二十四日の長勝壽院の落慶供養に頼朝が出向いた際の随兵六十人(頼朝が弓馬の達者を精選したと前書する)の西方の七人目で、次が建久元(一一九〇)年十一月七日の栄えある頼朝入洛の際の、水干姿に野箭を背負った随兵二十一番(全部で四十六番まである)の三名の一人(三列一組騎馬縦隊であろう)して載り、建久六(一一九五)年三月十日の、頼朝の東大寺供養のための再上洛の際の、やはり随兵として名が出る。異様な「入海(じゆかい)して死にければ」というその理由は不明であるが、その死はこれ以降のこととなる。何か、私にはひどく気になる人物なのである。

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 沙は燬けぬ

 

  沙は燬けぬ

 

沙(いさご)は燬(や)けぬ、蹠(あなうら)のやや痛(いた)きかな、

渚(なぎさ)べの慣(な)れし巖(いは)かげに身を避(よ)けて、

磯草(いそぐさ)の斑(ふ)に敷皮(しきかは)の黃金(こがね)をおもひ、

いざここに限(かぎ)りなき世(よ)の夢(ゆめ)を見(み)む。

 

藍(あゐ)や海原(うなばら)、白銀(しろかね)や風(かぜ)のかがやき、――

眼路(めぢ)の涯(はて)(た)えて翳(かげ)らふものもなく、

ひろき潮(うしほ)に浮(うか)び來(き)て帆(ほ)ぞ照(て)りわたる

遠(をち)の船(ふね)、さながら幸(さち)の盞(さかづき)と。

 

なべての人(ひと)も我(われ)もまた(た)えず愁(うれ)へて

渚(なぎさ)べを美(うま)し醉(ゑひ)ならぬ癡(し)れ惑(まど)ひ、

どよもし返(かへ)す浪(なみ)の音(おと)、海(うみ)の胸(むね)なる

言(こと)の葉(は)に暗(くら)き思(おも)ひを溺(おぼ)らしぬ。

 

今日(けふ)や夢(ゆめ)みむ、幽玄(いうげん)の象(すがた)をしばし、

心(うら)やすし、愁(うれ)ひは私(ひそか)に這(は)ひ出(い)でて、

海知(うみし)らぬ國(くに)、荒山(あらやま)の彼方(かなた)の森(もり)に、

人住(ひとす)まぬ眞洞(まほら)覓(もと)めて行(ゆ)きぬらむ。

 

さもあらばあれ如何(いかが)せむ、心(こゝろ)しらへの

益(やく)なさを嘲(あざ)み顏(がほ)なる薰習(くんじふ)や、

劫初(ごふしよ)の朝(あさ)の森(もり)の香(か)はなほも殘(のこ)りて

染(し)みぬらし、わが素膚(すはだ)なる肉(しゝむら)に。

 

更(さら)にたどれば神(かみ)の苑(その)、噫(あゝ)そこにしも

晶玉(しやうぎよく)は活(い)きていみじく歌(うた)ひけめ、

木(こ)の葉(は)囁(ささや)き苔(こけ)薰(くん)じ、われも和毛(にこげ)の

おん惠(めぐ)み、深(ふか)き日影(ひかげ)に臥(こや)しけめ。

 

なべては壞(くづ)れ亂(みだ)されき、人(ひと)と生(うま)れて、

爭(あらそ)ひて、海(うみ)の邊(ほとり)に下(くだ)り來(き)ぬ、

なべては破(や)れし榮(はえ)の屑(くづ)、(顧(かへり)みなせそ)

人(ひと)は皆(みな)ここに劃(かぎ)られ、あくがれぬ。

 

大和田(おほわだ)の原(はら)、天(あま)の原(はら)、二重(ふたへ)の帷(とばり)

徒(いたづ)らにこの彩(あや)もなき世(よ)をつつみ、

風(かぜ)の光(ひかり)の白銀(しろがね)に、潮(うしほ)の藍(あゐ)に、

永劫(えいごふ)は經緯(たてぬき)にこそ織(お)られたれ。――

 

幽玄(いうげん)の夢(ゆめ)さもあらめ、待(ま)つに甲斐(かひ)なき

現(うつ)し世(よ)に救(すく)ひの船(ふね)は通(かよ)ひ來(こ)ず、

(帆(ほ)は照(てら)せども)、身(み)は疲(つか)れ、崩(くづ)れ崩(くづ)るる

浪頭(なみがしら)、蠱(まじ)の羽(はね)とぞ飜(ひるがへ)る。

 

虛(うつろ)の靈(たま)は涯知(はてし)らぬ淵(ふち)に浮(うか)びて、

身(み)はあはれ響動(どよも)す海(うみ)の渚(なぎさ)べに、――

またも此時(このとき)わが愁(うれひ)、森(もり)を出(い)でたる

獸(けもの)かと跫音(あしおと)忍(しの)びかへり來(き)ぬ。

 

[やぶちゃん注:「燬」は音「キ」で「火・激しい火・烈火」・「やく・やきつくす」の意。

「蹠(あなうら)」「足の裏」。源順(したごう)の「和名類聚鈔」(承平年間(九三一年~九三八年)に既に『阿奈宇良』と記載されている古語。「あ」は「足」の意、「な」は「の」の意の上代の格助詞。小学館「精選版日本国語大辞典」の語誌によれば、「新撰字鏡」(現存する本邦最古の漢和字書。全十二巻。昌住(しょうじゅう)著。昌泰年間(八九八年~九〇一年)の成立)に見られる「足乃宇良」(あしのうら)が、掌を指す「たなうら」からの類推で「あなうら」に変わったものとも考えられるとし、また、『中古、「あなうら」と「あしのうら」との両形が行なわれていた。「あなうら」は男性語として一般語化し、女性の間では、「あしのうら」が好まれていたようである。中世以降、「あしのうら」が一般語化し、「あなうら」は、主に雅語的な表現で用いられるようになった』とある。

「心(こゝろ)しらへ」自動詞ハ行四段活用の「心知らふ」の名詞化したもの。意味は「よく知っている」或いは「心遣いをする・気を配る」の意であるが、前連末の隠遁者のそれであるならば、前者である。

「薰習(くんじふ)」仏教用語。物に香りが染みつく如く、人々の精神・身体の総ての行為が、人間の心の最も奥深い部分にまで影響を与えるということ。「薰修」とも書き、「くんじゆ(くんじゅ)」とも読む。

「臥(こや)し」自動詞サ行四段活用の「臥(こ)やす」。上代語で「す」は上代の尊敬の助動詞で「臥(こ)ゆ」の尊敬語。「横におなりになる」。但し、この語、使用例の多くは、「高貴なお方が亡くなって横たわっておられる・埋葬されておられる」ことについての婉曲であり、ここもそうしたネガティヴなイメージが含まれていると私は読む。だからこそ、この連の一行目と四行目とは、尋常でない已然形で終始しているのではないか? これは「こそ」を省略した『こそ~(已然形)、……」の逆接用法』としか私には読めないからである。

「大和田(おほわだ)の原(はら)」「大曲(おほわだ)の原」で、海・湖・川などが陸地に大きく入り込んだ広大な水平地形を指す一般名詞。上代語。

「經緯(たてぬき)」縦糸と横糸。上代からある語。

「蠱(まじ)の羽(はね)」よく判らぬが、中国の幻想地誌「山海経」の「南山経」には、

   *

又東五百里、曰鹿之山、上無草木、多金石。澤更之水出焉、而南流注于滂水。水有獸焉、名曰蠱雕、其狀如雕而有角、其音如嬰兒之音、是食人。

   *

とあり、この赤子の声で鳴き、人を食うというおどろおろしい妖獣の名「蠱雕」(現代仮名遣:こちょう)の「雕」は鷲(わし)の意であるから、猛禽型の妖鳥と考えられる(後代の「山海経」の絵図で有角の四足獣となっているけれども、元型は恐らく怪鳥であろう)から、それを有明はイメージしたものかも知れない。或いは、以上は私の深読みに過ぎず、所謂、おどろおどろしい「蠱物(まじもの)」(呪(まじな)いをして相手を呪(のろ)うこと)としての「蠱(まじ)」に用いられる、呪的アイテムとしての凶鳥の羽をイメージしただけのことかも知れぬ。

「(顧(かへり)みなせそ)」後の連の「(帆(ほ)は照(てら)せども)」と同じく、変わった丸括弧表記。前者は心内に呟いた語として腑に落ちるが、後者は逆接感情の説明的付加文のように見えてしまい、どうも私には成功している仕儀とは思われない。

「響動(どよも)す」二字へのルビ。]

2019/02/24

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 穎割葉

 

 

 

日(ひ)は嘆(なげ)きわぶ、人知(ひとし)れず、

日(ひ)は荒(あ)れはてし花園(はなぞの)に、――

花(はな)の幻(まぼろし)、陽炎(かぎろひ)や、

あをじろみたる昨(きそ)のかげ。

 

日(ひ)は直泣(ひたな)きぬ、花園(はなぞの)に、――

種子(たね)のみだれの穎割葉(かひわれば)、

またいとほしむ、何草(なにぐさ)の

かたみともなき穎割葉(かひわれば)。

 

廢(すた)れ荒(すさ)みしただなかに

生(お)ひたつ歌(うた)のうすみどり、

ああ、穎割葉(かひわれば)、百(もも)の種子(たね)

ひとつにまじる香(か)の雫(しづく)。

 

斑葉(いさは)の蔓(つる)に罌粟(けし)の花(はな)、

醉(ゑひ)のしびれの盞(さかづき)を

われから賞(め)でむ忍冬(すひかづら)――

種子(たね)のみだれを、日(ひ)は嘆(なげ)く。

 

[やぶちゃん注:「穎割葉」「(かひわれば)」「かひわりば(かいわりば)」「貝割(り)葉」とも書く。草本類等の発芽したばかりの、二枚貝が開いたように見える双葉(ふたば)を指す一般名詞。

「昨(きそ)」「昨夜」の意。万葉以来の上代語で、上代には「きぞ」と濁った。但し、東国方言では清音。有明は東京出身。

「斑葉(いさは)」植物の葉に、遺伝的或いは葉緑素の欠乏その他が原因で、白や黄などの斑点や筋が生じた「斑(ふ)入りの葉」を指す一般名詞。ここは「斑葉(いさは)の蔓(つる)に」とあるから、それを持った何らかの蔓性植物をさりげなく点描しているのであるが、後に出る「忍冬(すひかづら)」は多年生の常緑蔓性木本であるから、先に名を隠してそれが示されてあるのかも知れない。

「罌粟(けし)」本邦で単に「ケシ」と呼んだ場合は、専ら阿片(アヘン:Opium:オピウム)を採取するソムニフェルム種はキンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum を指す。本種は本邦では「あへん法」によって栽培が原則禁止されている種であるが、そこはそれ、有明の〈幻想の花園〉には、あるのである。

「忍冬(すひかづら)」標準和名種ならば、マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonicaウィキの「スイカズラ」によれば、漢名は『冬場を耐え忍ぶ』様子、則ち、『常緑性で冬を通して葉を落とさない』こに由来し、和名は『「吸い葛」の意で、古くは』、『花を口にくわえて甘い蜜を吸うことが行なわれたことにちなむ』。『砂糖の無い頃の日本では、砂糖の代わりとして用いられていた。スイカズラ類の英名(honeysuckle)もそれにちなむ名称で、洋の東西を問わず』、『スイカズラやその近縁の植物の花を口にくわえて蜜を吸うことが行われていたようである』とある。モデルは実景なのかも知れぬが(但し、私は「罌粟(けし)」で注した通り、完全な有明の〈幻影の苑〉と見る)、有明は確信犯でこの和名をフェテイシュに選んで使っているものと思う。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) われ迷ふ

 

 われ迷ふ

 

迷(まよ)ひぬ、ふかき「にるばな」に、

たわやの髮(かみ)は身を捲きぬ、

たゆげの夜(よる)を煩惱(ぼんなう)は

狎(な)れてむつびぬ、「にるばな」に。

 

壁(かべ)にゑがける執(しふ)の花(はな)――

閨(ねや)の一室(ひとま)の濃(こ)きにほひ、

奇(く)しき花(はな)びら、花(はな)しべに、

火影(ほかげ)も、嫉(ねた)し、たはれたる。

 

夢(ゆめ)の私語(ささやき)、たわやげる

瑪瑙(めなう)の甘寢(うまい)、「にるばな」よ、

艷(つや)も貴(あて)なる敷皮(しきがは)に

嫋(なよ)びしなゆるあえかさや。

 

愛欲(あいよく)の蔓(つる)まつはれる

窓(まど)の夜(よ)あけを梵音(ぼんおん)に

祕密(ひみつ)の鸚鵡(あうむ)警(いまし)めぬ、――

ああ「にるばな」よ、曉(あけ)の星(ほし)。

 

鏡(かがみ)は曇(くも)る、薰香(くんかう)に

まじる一室(ひとま)の呼息(いき)ごもり、

鏡(かがみ)は晴(は)れぬ、影(かげ)と影(かげ)、

覺(さ)めし素膚(すはだ)にわれ迷(まよ)ふ。

 

[やぶちゃん注:「むつびぬ」は底本では「むつみぬ」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「にるばな」ニルヴァーナ。サンスクリット語の「涅槃」の意の原語のひらがな音写。

「梵音(ぼんおん)」有明の好んだ語。ここは「夜あけ」や「祕密(ひみつ)の鸚鵡(あうむ)警(いまし)めぬ」という表現からは、寺院の明け六ツの梵鐘の音ともとれるが、今まで同様、総てが観念世界の表象であるとすれば、シンボライズされたその音(梵鐘で構わぬが)は本来の仏語で言うところの梵音(ぼんのん)、「清浄な音声」「大梵天の声」「仏の、正法(しょうぼう)を説く声」の幻聴でもあろうか。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 灰色

 

 灰 色

 

なべてのうへに灰(はい)いろの

靄(もや)こそ默(もだ)せ、日(ひ)の終(をはり)、

その灰(はい)いろに彩(あや)といふ

彩(あや)の喘(あへ)ぎを聞(き)くごとし。

 

冷(つめ)たく重(おも)き冬(ふゆ)の靄(もや)、

あな、わびしらや、戀(こひ)も世(よも)も

宴(うたげ)も人(ひと)もひと色」(いろ)に、

信(しん)も迷(まよひ)も身(み)も靈(たま)も。

 

死(し)の林(はやし)かとあらはなる

木立(こだち)の枝(えだ)のふしぶしは

痛(いた)みぬ、風(かぜ)に――悔(くい)の音(おと)、

執着(しふぢやく)の靄(もや)灰色(はいいろ)に。

 

過(す)ぎ去(さ)りし日(ひ)の過(す)ぎもかね、

忘(わす)れがてなるわが思(おもひ)、

朧(おぼろ)のかげのゆきかひに

をののかれぬる冬の靄(もや)。

 

[やぶちゃん注:総ての「灰」の「はい」というルビはママ。後の「晩秋」と「人魚の海」にも「灰」が出るが、一貫して「はい」とルビしているから、誤植ではなく、有明のこの時期の癖であった可能性も射程に入れておく必要がある。]

2019/02/23

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 酪(にうのかゆ)・酥(そ)・醍醐(だいご)・乳腐 (ヨーグルト/バター・精乳・乳清(私の独断)・チーズ)

 

[やぶちゃん注:以下は、「黃明膠」の後にすぐ罫線を以って続いている。しかし、これは要は「牛」の項の附録に相当するもので、図はない。各冒頭の標題項目部分は実は四つ総てが罫線の直後に縦に一列に記されているが、ここでは今までのように、それぞれを解説部の前に分けて示した。最後の「乳腐」には和訓も中国音も附されていない。]

 ――――――――――――――――――――――

 にうのかゆ

【音洛】

ロツ

 

酪【和名迩宇能可遊】本綱水牛𤚩牛犛牛羊馬駝之乳皆可酪作之

 入藥以牛酪爲勝造之法用乳半杓鍋内炒過入餘乳

 熬數十沸常以杓縱橫攪之乃傾出鑵盛待冷掠取浮

 皮以爲酥入舊酪少許紙封收之卽成矣

 乾酪法以酪晒結掠去浮皮再晒至皮盡却入釜中妙

 少時器盛曝令可作塊收用

 

 

にうのかゆ

【音、「洛」。】

ロツ

 

酪【和名、「迩宇能可遊」。】「本綱」、水牛・𤚩牛〔(しんぎう)〕[やぶちゃん注:「康熙字典」は北方の小型の水牛とする。]・犛牛〔(りぎう/からうし)〕[やぶちゃん注:ヤク。]・羊・馬・駝〔らくだ)〕の乳、皆、之れを酪に作〔(な)〕すべし。藥に入〔るるは〕、牛〔の〕酪を以って勝〔(すぐ)〕れりと爲す。之れを造る法、乳、半杓〔(しやく)〕を用ひて、鍋の内に炒り過ぐし[やぶちゃん注:十二分に炒り。]、餘乳を入れ、熬〔(がう)〕する[やぶちゃん注:「炒る・煮る」に同じ。]こと、數十沸〔(すじゆうふつ)〕[やぶちゃん注:数十回、焦げぬように沸騰を繰りかえさせることであろう。]、常に杓を以つて縱橫に之れを攪(かきまは)し、乃〔(すなは)ち〕、傾け出だし、鑵〔(かん)〕に盛り、冷ゆるを待ちて、浮きたる皮を掠〔(かす)め〕取り、以つて酥〔(そ)〕[やぶちゃん注:乳を煮詰めて濃くしたものを指す語。]と爲す。舊〔(ふる)き〕酪を少し許り入れ、紙にて封し、之れを收めて[やぶちゃん注:暫く寝かせれば。]、卽ち、成る。

 乾酪法〔は〕、酪を以つて晒〔(さら)〕し、〔凝〕結させ、浮きたる皮を掠〔め〕去〔り〕、再たび、晒し、〔表の〕皮、盡くるに至り、却〔(かへ)〕りて釜〔の〕中に入れ、妙る。少時〔(しばらく)して〕器に盛り、曝〔(さら)し〕、令可塊〔(かたまり)〕と作〔(な)〕して收〔め〕用〔ふ〕べからしむ。

[やぶちゃん注:「酪」は和訓「ちちしる」(乳汁)で、本標題の「にうのかゆ」(乳(にゅう)の粥)の読みからも判る通り、牛・水牛・ヤク・羊・馬・駱駝などの乳から作った、広義の飲料や食品である、ミルク・ヨーグルト・バター・チーズなどを広汎に指す語である。前段がヨーグルト様の飲料、後段がバターやチーズ様の固形物であるが、後に出る「醍醐」が叙述からは、私には液体の乳清(乳から乳脂肪分やカゼイン(casein:乳含まれる燐蛋白の一種。牛乳の乳蛋白質では約八十%を占める)などを除いた黄緑色をした水溶液)を、「乳腐」がチーズを想起させるので、後者はバターと採るのがよいかと私は考える。]

 

【音蘇】

ソウ

 

酥乃酪之浮靣所成令人多以白羊脂雜之不可不辨之

 造法以乳入鍋煎二三沸頒入盆内冷定待靣結皮取

 皮再煎油出去渣入在鍋内卽成酥油一法以桶盛乳

 以木安板搗半日焦沫出撤取煎去焦皮卽成也凡入

 藥以微火溶化濾浮用之

 

 

【音、「蘇」。】

ソウ

 

酥、乃ち、酪の浮〔きたる〕靣〔(おもて)〕に成る所〔のものなり〕。人、多く、白羊脂を以つて之れに雜〔(まぢ)〕へ〔たれば〕、辨んぜざるべからず[やぶちゃん注:白羊脂を混入させたものかそうでないかを見分けことが非常に大切である。]。之の造法〔は〕、乳を以つて鍋に入れ、煎りして、二、三沸、盆〔の〕内に頒け入れ、冷〔し〕定〔め〕、靣(おもて)に皮を結ぶを待ちて、皮を取り、再たび、煎り、油出〔(あぶらだし)〕し、渣〔(かす)〕を去り、鍋内に入れ在〔(お)かば〕、卽ち、酥油〔(そゆ)〕と成る。一法〔に〕、桶を以つて乳を盛り、木を以つて板に安〔(やすん)〕じて[やぶちゃん注:平たい板に円柱状の木を取り付けた簡易の杵状のものであろう。]、半日、搗く。焦〔(こげ)れる〕沫〔(あは)の如きもの〕、出づ。〔之れを〕撤〔(のぞ)き〕[やぶちゃん注:除き。]取〔(と)り〕、煎りして、焦〔れる〕皮を去り、卽ち、成るなり。凡そ、藥に入〔るるには〕、微〔かなる〕火を以つて溶-化(わか)し[やぶちゃん注:湧かし。]、濾(こ)し、浮きて〔きたるもの〕、之れに用ふ。[やぶちゃん注:原本は一部の返り点に不審があり、従っていない箇所がある。]

[やぶちゃん注:「酥」は牛や羊の乳を精錬(一般には煮詰める)し、濃くした飲料、通常のミルクの類を指す。また、「蘇(そ)」と書いて同じものだと多くの辞書類はするが、ウィキの「蘇」によれば、こちらは『古代の日本で作られていた乳製品の一種で』、『文献には見えるが』、『製法の失われた食品となっている』。『平安貴族階級の間で乳製品が広まったが、武士が台頭して来るにしたがって廃れ、江戸時代中期まで日本の酪農は廃れる』。『文武天皇が(』七〇〇『年)に蘇を税として全国で作るように使いが派遣された』。『典薬寮の乳牛院という機関が生産を担っており、薬や神饌としても使われていた。仏教祭事には蜜と混ぜられて原料として使用された様子である』。『現代では、文献を元に様々な人が蘇を復元しようとしている』『が、原料乳の生産牛種も不明でそれが本当に当時の蘇と同じものか現存しないので確認は困難である』。『このように不明な部分の多い食品ではあるが、諸説に共通しているのは「蘇は乳を煮詰めた乳製品で美味しいもの」である』とし、相当に乾燥し長期保管に耐える加熱濃縮系列の乳加工食品』『と考えられている』。『現在に残る当時の文献が少ないが、製造方法は』「延喜式」や『「政治要略」に記され、「蘇を作る方法は、乳を一斗煎じて、一升の蘇が得られる」程度の記載であり、このまま濃縮牛乳を作っただけでは、日本の気候風土から腐敗してしまうので、なんらかの処理がなされていたとも言われている』。『また、生乳の固形分は』十二%『であるため』、『厳密に原料乳比』十%『に濃縮することは不可能である』。一方、『蘇が乳を煮詰めただけの物だと腐敗してしまうので、なんらかの処理がなされたと考えるのが妥当である』からそれはチーズだとする説があり、また、「大般涅槃経」の中に『五味として順に』生酥熟酥醍醐『へとある』(次項「醍醐」を参照のこと)。『酥は醍醐の原料という説があるのはここからであるが、蘇と酥は別のものとする説がある』。『主な生産地として、摂津国・味原(あじふ)の乳牛牧(ちちうしまき、ちちゅうしまき。現在の大阪市東淀川区の一部にあたる)などが知られている。古代には東国においても多くの牛が飼育されており、『延喜式』によれば東国すべての国で蘇を貢納している』。以下、「蘇と酥が別のものとする説」の条。『蘇は牛乳を煮詰めたものであり、酥は牛乳を煮詰めるときに出る被膜(乳皮)を集めたものであるから、蘇と酥は明確に違うものを指す。蘇と酥が混同されるのは、発音が同じであり、更に乳製品が「涅槃経」の中で書かれており、後世になってから文献を本に復元された為、という説もある』(この製法部は良安の叙述(実際には前の「酪」からの続きなので、「本草綱目」の叙述である)と一致する)。以下、「その他」の条。『蘇酥同一と解釈して、様々な研究が行われて』おり、『蘇酥同一説の醍醐』として、『蘇をさらに熟成・加工して醍醐(チーズ様の乳製品)も作られたという説もあ』り、『蘇酥同一説の製法方』として、『ラムスデン現象』(Ramsden phenomenon:牛乳を電子レンジや鍋で温めたりする事により、表面に膜が張る現象を指す。これは成分中のタンパク質(β-ラクトグロブリン)と脂肪が、表面近くの水分の蒸発により熱変性することによって生ずるもので、牛乳ではなく豆乳でできる膜は「湯葉」と呼ぶ。 なお、β-ラクトグロブリンはホエータンパク質(乳清タンパク質)の一種であり、カゼインとは異なる)『によって牛乳に形成される膜を、箸や竹串などを使ってすくい取り、集めた物が蘇である(なお、同じ工程を豆乳で行った場合にできるのは湯葉[ゆば]である)。加熱するだけで、熟成を行わないため、フレッシュチーズに分類される』とあるのであるが、のウィキは冒頭で、「蘇」はこの「酥」とは同一の物ではないとガツンと一発、断言してしまっている(注記によれば、斎藤瑠美子・勝田啓子共著論文『「延喜式」に基づく古代乳製品蘇の再現実験とその保存性』(『日本家政学会誌』Vol.40 (1989) No.3 P.201-))に拠るとする)とある。但し、それは日本の食品としての「酥」と「蘇」が別物なのであって、漢語の「蘇」には、調べた限りでは、「酥」と同じ「かき集める」の意がある以外に、特殊な乳製品を指す意味は見当たらないことは言い添えておく

「白羊脂」当初、「白羊〔(しろひつじ)の〕脂〔(あぶら)〕」と訓じたが、その正体も判らぬし、白羊である必然性もピンとこないのでやめた(東洋文庫は『白羊脂』そのままで割注も何もない。東洋文庫の訳者は「白羊脂」をよくご存じのようだ。是非とも教えて戴きたいものだ)。ネットで検索しても牛乳の偽物として飲用出来る「白羊脂」は見出せなかった(白い石なら見出せる)。識者の御教授を乞う。

「焦〔(こげ)れる〕沫〔(あは)の如きもの〕」東洋文庫はやはり『焦沫』のままで読みも振らない。私は六十二年の人生の中で「焦沫」という熟語は見たことがないから、そんな訳文は訳だとは思わない。敢えて迂遠にかく語を添えて訓読しておいた。大方の御叱正を待つ。]

 

だいご

醍醐【體乎】

テイ フウ

 

醍醐是出於酥中乃酥之精液也好酥一石有醍醐三四

 升熱枰煉貯器中待凝穿中至底便津出取之極甘美

[やぶちゃん注:「枰」(棋等の遊戯盤)では意味が通らない。「本草綱目」を見ると「拌」で腑に落ちた。訓読ではこれに変えた。]

 盛冬不凝盛夏不融此物性滑物盛皆透惟雞子殼及

 壺蘆盛之乃不出

 右三物大抵性皆潤滑宜於血熱枯燥人【其功亦不甚相遠也】

 

 

だいご

醍醐【〔音、〕「體乎〔(タイコ)〕」。】

テイ フウ

 

醍醐は、是れ、酥の中〔(うち)〕より出づ。乃ち、酥の精〔なる〕液なり。好き酥、一石〔に〕醍醐〔は〕三、四升有り。熱し、拌〔(かきま)ぜ〕煉〔(ね)〕り、器の中に貯へ、凝れるを待ち、中を穿ち、底に至〔れば〕、便〔(すなは)〕ち、〔液、〕津〔(し)み〕出〔づ〕。之れを取る。極めて甘美〔なり〕。盛冬〔にも〕凝らず、盛夏に〔も〕融(とろ)けず。此の物の性〔(しやう)〕、滑かにして、物に盛るに、皆、透(す)く。惟だ、雞子(たまご)の殼(から)及び壺蘆(ひやうたん)に之れを盛れば、乃ち、出でず。

 右、三〔つの〕物[やぶちゃん注:酪・酥・醍醐。]、大抵、性、皆、潤滑〔たり〕。宜し血熱・枯燥の人に宜〔(よろ)〕し【其の功も亦、甚だ相ひ遠からざるなり。[やぶちゃん注:その効果もまた、それほど遅行性ではなく、まずまずというところである。]】。

[やぶちゃん注:まず、ウィキの「醍醐」を引く。『醍醐(だいご)とは、五味の一つ。牛乳を加工した、濃厚な味わいとほのかな甘味を持った液汁とされ』。『最も美味しい味の代名詞として使われた。すでに製法は失われており、後述のような諸説(バターのようなもの』、『又は現代で言うカルピスや飲むヨーグルトのようなもの、または蘇(レアチーズ)を熟成させたものなど』『)入り乱れ』、『実態は不明である』。一部の研究者が行った『再現実験』で『は、バターオイルのような物質であるとしている』。先にも示した通り、大乗経典「大般涅槃経」の中では五味として、順に、『乳生酥熟酥醍醐と精製され』、『一番美味しいものとして』、「涅槃経」も『同じく最後で』、『最上の教えであること』の譬えとして『書かれている。これを』「五味相生の譬(ごみそうしょうのたとえ)」という。「大般涅槃経」のそれは以下(リンク先の原文に一部手を加えた)

   *

譬如從牛出乳 從乳出酪 從酪出生蘇 從生蘇出熟蘇 從熟蘇出醍醐 醍醐最上 若有服者 衆病皆除 所有諸藥 悉入其中 善男子 佛亦如是 從佛出生十二部經 從十二部經出修多羅 從修多羅出方等經 從方等經出般若波羅蜜 從般若波羅蜜出大涅槃 猶如醍醐 言醍醐者 喩于佛性

   *

以下の訓読は私が勝手に改変(リンク先の訓読は甚だ杜撰で読むに堪えない)したもの。

   *

牛より乳を出だし、乳より酪(らく)を出だし、酪より生酥(せいそ)を出だし、生酥より熟酥(じゆくそ)を出だし、熟酥より醍醐を出だす。醍醐は最上たり。若(も)服する者有れば 衆(しゆ)の病い、皆、除く。諸藥の有する所、悉く其の中(うち)に入れり。善男子(ぜんなんし)[やぶちゃん注:あまり理解されているとは思われないので言っておくと、仏教では変生男子(へんじょうなんし)で、男でないと成仏は出来ず、女は男に生まれ変わらないと、通常は極楽往生は出来ないのが、原始仏教以来の決まりである。]、佛も亦、是(か)くのごとし。佛より「十二部經」を出だし、「十二部經」より「修多羅(しゆたら)」を出だし、「修多羅」より「方等經」を出だし、「方等經より「般若波羅蜜」を出だし、「般若波羅蜜」より「大涅槃經」を出だす。猶ほ、醍醐のごとし。醍醐と言ふは、佛性の喩へなり。

   *

『とある。これが醍醐味の語源として仏教以外でも広く一般に知られるようになった』。『延喜式では、納税に用いる蘇の製造が規定されている。蘇は醍醐を製造する前段階の乳製品であることから、蘇の製造方法を参考にしてさまざまな手法で濃縮、熟成させ、醍醐を作り出す試みが食品研究家らの手でなされている』。『ラクトー株式会社(現:カルピス株式会社)は』大正八(一九一九)年七月七日に『誕生した「カルピス」を命名する際に、カルシウムの「カル」と醍醐(サルピルマンダ)』(「醍醐味」の原語であるサンスクリット語のカタカナ音写)『の「ピル」を合わせた「カルピル」が考えられたが語感がよくないとされた。そのため五味の次位である熟酥(サルピス)の「ピス」と合わせ』「熟酥味(じゅくそみ)のサンスクリット語カタカナ音写)、『「カルピス」と命名した』ともある。因みに、「めいらくグループ」の販売している、コーヒー・フレッシュ・ミルクの「スジャータ」は釈迦が悟りを開く少し前、断食に力尽きて倒れた折り、乳粥(ちちがゆ)を差し上げて命を救ったという少女スジャーター(この出来事は釈迦が苦行放棄を旨とする契機となった)の名に基づき、ブッダガヤには「スジャータ村」が今も残ることも言い添えておこう。しかし、私は既に述べたように、以上の製法や叙述様態から見て、ここで時珍の言っている「醍醐」は乳清ではないかと考えている。ウィキの「乳清」を引いておく。「乳漿(にゅうしょう)」とも呼び、『乳(牛乳)から乳脂肪分やカゼインなどを除いた水溶液である。日本では英語風にホエイまたはホエー(英: whey』【hweɪ】『)とも呼ばれるが、英語圏では一般的に H は発音されないので』、『ウェイまたはウエイ』が正しい。『乳清は、チーズを作る際に固形物と分離された副産物として大量に作られる。また、ヨーグルトを静かに放置しておくと上部に液体が溜まることがあるが、これも乳清である。なお、固形物成分はカード(curd)と呼ばれる』。『なお、大豆由来のものは「大豆ホエイ」と呼称され、水溶性のタンパク質に富む』。『チーズ生産過程で作られた乳清の大半は廃棄されているが、高蛋白・低脂肪で乳成分由来カルシウムなどの無機栄養分やビタミンB群をはじめ各ビタミン類など栄養価が高い点、消化が速くタンパク質合成・インスリン分泌を促進する点などから、優れた食品であるとの認識が高まってきている。従来』、『大量に廃棄されていたものであり、流通さえ整えば』、『安価に提供できる点も注目されている』。『独特の甘酸っぱい味があり、乳清を加工した飲料も多く発売されている』。『粉状(ホエイパウダー)に加工しプロテインサプリメント等の原材料として用いられるほか、生クリームなどの代替として料理に用い、カロリーを大幅に抑えるなどの用途がある』。『イタリアなどでは乳清からさらにチーズを作る事もある。乳清から作られたチーズはホエーチーズと呼ばれ、リコッタ』(イタリア語(以下同じ):Ricotta)『などがその種類に属する』。『パルミジャーノ・レッジャーノ』(parmigiano reggiano:イタリア・チーズの王様と呼ばれる))『の産地であるイタリアのパルマ』(Parma)『県では同じく名産品のクラテッロ・ディ・ジベッロ』(culatello di Zibello:パルマ県特産の豚肉を用いた塩蔵食品で、私が最も愛する肉食品の一つである。ウィキの「クラテッロ・ディ・ジベッロ」を引く。特に厳しく認定された『豚の』、『尻の部分のみを使用し、ポー』(Po)『川西岸の』ジベッロ(Zibello)周辺の八『村のみで作られ』、本邦では一部のレストランのみが提供し、なかなか容易には食することが出来ない)『を生産するにあたり、原材料の豚の飼料の一つとして乳清を与えることが義務付けられている。 同様に、北海道の十勝地方などでは、食用の豚に乳清を与えて飼育することが行われている。このように飼育された豚は地域ブランドとして』「ホエー豚」『と呼ばれる。豚が健康になり、肉の旨味も増すと宣伝されており、北海道根室振興局管内に属する中標津町では「ミルキーポーク」という名前でブランド化されている』。『なお、ラットを使った実験では、大豆ホエイたん白質に血圧降下作用が認められた』『が、高齢女性に対する乳清タンパク質を長期』二『年間』に亙って『摂取させた試験では、血圧に影響は認められなかったという報告がある』。「醍醐」を「乳清」としたことについては、大方の御叱正を待つものではある。]

 

 

 

乳腐〔(にゆうふ)〕【一名乳餅】

 

乳腐【俗云乳脯】造法以牛乳一斗網濾入釜煎五沸水解之用

 醋入如豆腐法漸漸結成漉出以帛裹之用石壓成

 入鹽甕底收之【甘微寒】潤五臟利大小便益十二經脉微

 動氣治赤白痢小兒服之彌良

 

 

乳腐【俗に云ふ、「乳脯(にゆうほ)」。】造る法〔は〕、牛乳(バウトル)一斗を以つて網〔にて〕濾〔(こ)〕して釜に入れ、煎〔ること〕五沸、水にて之れを解き、醋〔(す)〕を用ひ、〔じ〕入る。豆腐〔を製する〕の法のごとし。漸漸(ぜんぜん)に、結〔び〕成〔し〕[やぶちゃん注:凝固し。]、漉〔(こ)し〕出〔(い)づるを〕[やぶちゃん注:浸潤液が十分に出たら。]、帛(きぬ)を以つて之れを裹(つゝ)み、石を用ひ、壓〔(あつ)を〕成し、鹽を入れ、甕の底に之れを收む【甘、微寒。】。五臟を潤ほし、大小便を利し、十二經脉[やぶちゃん注:「脉」は「脈」に同じ。]〔の〕微動氣に益し、赤〔(せき)〕・白痢〔(びやくり)〕を治す。小兒、之れを服せば、彌〔(いよいよ)〕良し。

[やぶちゃん注:まず、時珍の言っている「乳腐」は、現行の漢字をひっくり返した「腐乳(ふにゅう/中国語拼音:fǔ rǔ(フウー・ルウー)」とは違うので、要注意である。ウィキの「腐乳」によれば、「腐乳」は豆腐に麹を附けて塩水中で発酵させた食品であって乳製品ではない(但し、「腐乳」は『千年以上の歴史を持つ食べ物であり、中国全土で広く食べられ』、「豆腐乳」「乳腐」「南乳」『とも呼ばれる』。『醗酵臭と塩味があ』り、『炒め物、煮込み料理などに調味料として用いられる以外に、粥に入れて食べる食卓調味料として用いる。紅麹を用いた腐乳は塩辛くなく甘みがあり、そのまま爪楊枝で削って食べる方法も台湾では一般的である。一般的に腐乳は瓶詰めで流通しており、保存と調味を目的とした漬け汁に浸かっている』。『少なくとも、豆腐の発明より後の時代に生まれて』おり、『魏の時代に生まれたとする説もあるが、定かではない』。『宋の時代の文献』「清異録」には、『既に普通の食品として記載されている』とある)。しかして、謂わずもがなであるが、この「乳腐」は無論、チーズ(cheese)である。現代中国語では「奶酪(nǎi lào:ナァィ・ラァォ)」「乳酪(rǔ lào:ルゥー・ラァォ)」「干酪(gàn lào:ガァン・ラァォ)」等と表記する(「奶」(音「ノ・ナイ/ダイ」は「乳」の意)。ウィキの「チーズ」の冒頭概略のみを引く。『牛・水牛・羊・山羊・ヤクなど鯨偶蹄目の反芻をする家畜から得られる乳を原料とし、乳酸発酵や柑橘果汁の添加で酸乳化した後に加熱や酵素(レンネット)添加によりカゼインを主成分とする固形成分(カード)と液体成分(ホエー)に分離して脱水した食品(乳製品)の一種。伝統的に乳脂肪を分離したバターと並んで家畜の乳の保存食として牧畜文化圏で重要な位置を占めてきた。日本語や中国語での漢語表記は、北魏時代に編纂された斉民要術に記されているモンゴル高原型の乳製品加工の記述を出典とする乾酪(かんらく)である』。以下、非常に詳細な記載があるので参照されたい。ウィキには他に独立した「チーズの歴史」のページもあり、こちらも読み応えがある。

「乳脯(にゆうほ)」「脯」は「ほじし」等と訓じ、通常は干した鳥獣などの肉を指すが、腑には落ちる。

「牛乳(バウトル)」「バ」はママ。既に「牛」の項に出た「ボウトル」と同じである。英語の「butter」のカタカナ音写に酷似することがお判り戴けよう。実際、後のことであるが、開国後の横浜では、「バター」は「ボウトル」と呼ばれた。「牛乳」にそれを振るのは誤りではあるが、まあ、許せる錯誤の範囲とは言えよう。「第三十七 畜類 総論部・目録」でも述べたが、「チーズ」(cheese)は、ポルトガル語では「ケイジョ」(Queijo)と呼んだ。良安はその「目録」で「羊乳」に「ケイジ」というルビを振っている(この振り仮名は本文には出ない)。半可通な部分はあるが、良安は「羊の乳で作ったチーズ」と伝えきったその語を、「羊の乳」の意と誤認したのではあるまいか?

「一斗」明代の十七リットル。

「十二經脈〔の〕微動氣に益し」東洋文庫注に『人体内を縦横に走っている経脈。手の少陽(三焦)、手の少陰(心)、足の少陽(胆)、足の少陰(腎)、手の太陽(小腸)、手の太陰(肺)、足の太陽(膀胱)、足の太陰(脾)、手の陽明(大腸)、足の陽明(胃)、手の厥陰(心包絡)、足の厥陰(肝)、以上を十二経脈という』とあり、この部分は『十二経脈の運動をよくするということ』とする。「微動氣」とはその十二経脈の運動の中でも、非常に微妙にして繊細な気の動きにまで良い効果を齎し、という意味なのであろう。

「赤・白痢」赤痢と白痢で採った。「赤痢」(せきり)は下痢・発熱・血便・腹痛などを伴う大腸感染症である。古くは「血屎(ちくそ)」と呼んだ。なお、従来「赤痢」と呼ばれていた疾患は現代では「細菌性赤痢」と「アメーバ性赤痢」に分けられるが、一般的に「赤痢」と呼ばれているものは赤痢菌(真正細菌ドメイン(domain)プロテオバクテリア門 Proteobacteria γプロテオバクテリア綱 Gamma proteobacteria エンテロバクター目 Enterobacteriales 腸内細菌科赤痢菌属 Shigella。懐かしい響きだ! トルコに旅行して帰国後、妻がこのD亜群に属するShigella sonnei(ソンネ赤痢菌)一相(いっそう:血清型により二つに識別される)に罹患して鎌倉の清川病院に隔離されたのだった!)による細菌性赤痢のことを指す。「白痢」は「和名類聚鈔」に既に「なめ」として出、無色の粘液様の大便で、激しい下痢症状の中の一症状を指す。]

2019/02/22

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 黃明膠(すきにかは) (製品としての透(す)き膠(にかわ))

 

Sukinikawa

 

すきにかは 牛皮膠 水膠

      海犀膏

黃明膠

      【俗云須木尒加波】

 

本綱黃明膠牛皮膠也其色黃明但非阿井水所作耳

制作不精故不入藥用止以膠物耳而功用亦與阿膠彷

彿苟阿膠難得則眞牛皮膠亦可權用

△按膠所以連綴物令相黏著者也自中華來者色黃赤

 透明形如筭木者俗稱算木手卽黃明膠也爲上濁黒

 色而濕軟者爲下品如今日本多作之其黃明膠畫家

 墨匠用之濁黒膠木匠以粘物或賤墨中入用凡物膠

 繼者得水則堅近火則解

 

 

すきにかは 牛皮膠〔(ぎうひこう)〕

      水膠〔(すいこう)〕

      海犀膏〔(かいさいかう)〕

黃明膠

      【俗に云ふ、「須木尒加波」。】

 

「本綱」、黃明膠は、乃〔(すなは)〕ち、牛の皮の膠〔(にかは)〕なり。其の色、黃に〔して〕明〔か〕なり。但だ、阿井の水にて作る所に非ざるのみ。制作、精(くは)しからざる故[やぶちゃん注:製造法が粗雑であるので。]、藥用に〔は〕入れず、止(た)ゞ、物を膠(つ)く〔るに用ふ〕のみ[やぶちゃん注:接着するために使用するだけである。]。而〔れども〕、功用、亦、阿膠〔(あきやう)〕と彷彿〔(はうふつ)〕たり[やぶちゃん注:極めて酷似しており、殆んど変わらない。]。苟〔(いや)しくも〕、阿膠、得難きときは、則ち、眞〔(まこと)の〕牛皮の膠〔(にはか)〕も亦、權〔(か)〕り〔に〕用ふべし[やぶちゃん注:仮に使用してもよい(問題ない)。]。

△按ずるに、膠は、物を連〔ぎ〕綴り、相ひ黏〔(ねば)〕り著〔(つ)〕けしむる所以(ゆゑん)にして〔→の〕者なり。中華より來たる者、色、黃赤〔にして〕透-明(すきとほ)り、形、筭木〔(さんぎ)〕[やぶちゃん注:「筭」は「算」の異体字。]のごとき者〔にして〕、俗〔も〕「算木手」と稱す。卽ち、「黃明膠」〔にて〕、上と爲す。濁〔れる〕黒色にして濕めり〔て〕軟かなる者、下品と爲す。如-今(いま)は日本にて多く、之れを作る。其の「黃明膠」は、畫家・墨匠、之れを用ふ。「濁黒膠〔(くろにかは)〕」[やぶちゃん注:私の勝手な当て訓なので注意。]は、木匠、以つて物を粘(つ)く〔に用ひ〕、或いは、賤墨(やすずみ)の中に入れ用ゆ。凡そ、物、膠にて繼〔(つ)〕ぐ者、水を得れば、則ち、堅く、火に近〔づくる〕ときは、則ち、解〔(と)〕く。

[やぶちゃん注:冒頭の「本草綱目」が言っているように、謂わば、これは、「シャンペン」(フランス語「Champagne」の英語読み。正しくは地名と同じで、そのまま「シャンパーニュ」が正しい)と「スパークリング・ワイン」(Sparkling wine/フランス語:Vin effervescent/カタカナ音写:ヴァン・エッフェルヴェソン))の違いみたようなもので、阿膠(あきやう・にかは)(製品としての膠(にかわ))が、現在の山東省聊城市東阿県内で、定められた手法で、当地の特殊な井戸水を以って製造・精製された膠のみが「阿膠(あきょう)」であり、それ以外の場所で、以下に優れた技術で製造・精製しても、それはあくまで「黃明膠(コウメイキョウ/すきにかわ)」と呼んで、厳然と区別し、常に「阿膠」こそが最上の膠であるというのである。

「筭木〔(さんぎ)〕」「算木」は本来は「卦 () 木」とも称した、中国や日本で易によって占いをする際に用いた道具を指す。筮(ぜい)によって占い出された陰・陽の爻(こう)を筆録する代りに用いられる、長さ九~十センチメートルほどの細い木製の角柱で、角の一面の中央部に溝を附けておき、溝のない二面が陽、溝のある二面が陰を表わし、六本で一卦を成すようになっている。但し、本邦では近世、別に、実際の和算で使う計算用具もかく呼んだ。その場合は、長さ約四センチメートル、約五ミリメートル角の木製の棒で、赤と黒に塗り分けられ、赤は正数、黒は負数を表わした。ここは寺島の評言部分であり、良安は本来の正式なそれをイメージして言ったとしても、後者で解釈する読者が後代には多かったと考えられる。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 底の底

 

 

 

底(そこ)の底(そこ)、夢(ゆめ)のふかみを

あざれたる泥(ひぢ)の香(か)孕(はら)み、

わが思(おもひ)ふとこそ浮(うか)べ。

 

浮漚(うきなわ)のおもひは夢(ゆめ)の

大淀(おほよど)のおもてにむすび、

ゆららかにゑがく渦(うづ)の輪(わ)。

 

滯(とどこほ)る銹(さび)の綠(みどり)に

濃(こ)き夢(ゆめ)はとろろぎわたり、

呼息(いき)づまるあたりのけはひ。

 

涯(はて)もなく、限(かぎり)も知(し)らぬ

しづけさや、――聲(こゑ)さへ朽(く)ちぬ、

あなや、この物(もの)うきおそれ。

 

浮漚(うきなわ)はめぐりめぐりぬ、

大淀(おほよど)のおもてに鈍(ね)びて

たゆまるる渦(うづ)の輪(わ)のかげ。

 

物(もの)うげの夢(ゆめ)の深(ふか)みに

魂(たましひ)の失(う)せゆくひまを、

浮漚(うきなわ)のおもひは破(や)れぬ。

 

朽(く)ちにたる聲(こゑ)張(は)りあげて

わがおもひ叫(さけ)ぶとすれど、

空(むな)し、ただあざれしにほひ。

 

涯(はて)もなきこの靜(しづ)けさや、

めくるめくおそはれごこち、

涯(はて)もなき夢(ゆめ)のとろろぎ。

 

[やぶちゃん注:「あざれたる」腐ってしまっている。

「泥(ひぢ)」「ひぢ」(現代仮名遣「ひじ」)は「埿」とも書き、特に水溜まりの泥・泥土の意。

「浮漚(うきなわ)」水の上に浮いている泡のこと。「なわ」は「水泡・水沫」の「みなわ」(元「み大淀(おほよど)なあわ」。「な」は「の」の意の格助詞)の「なわ」であるから、歴史的仮名遣は正しい。

「大淀(おほよど)」流れが停滞した大きな澱(よど)み。

「銹(さび)」「錆」に同じい。

「濃(こ)き夢(ゆめ)はとろろぎわたり」最終連でも「涯(はて)もなき夢(ゆめ)のとろろぎ」と繰り返されるが、「とろろぐ」という動詞は知らない。小学館「日本国語大辞典」にも載らぬが、そこには「とろろく」で、「すっかり溶けてどろどろになる」という意味で「古事記」の用例を示す。ここもそれか。識者の御教授を乞う。

「鈍(ね)びて」「ねびる」は「若さがなくなって年寄りじみている・老けて見える」という平安以来の古語であるから、ここは汚れて汚くなった水沫のイメージとして腑に落ちる。

「たゆまるる」「弛まるる」で、「自然、すっかり衰えてしまった」の意であろう。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 滅の香

 

 

 

やはらかき寂(さ)びに輝(かゞや)く

壁(かべ)の面(おも)、わが追憶(おもひで)の

靈(たま)の宮(みや)、榮(はえ)に飽(あ)きたる

箔(はく)おきも褪(あ)せてはここに

金粉(きんぷん)の塵(ちり)に音(おと)なき

滅(めつ)の香(か)や、執(しふ)のにほひや、

幾代々(いくよよ)は影(かげ)とうすれて

去(い)にし日(ひ)の吐息(といき)かすけく、

すずろかに燻(く)ゆる命(いのち)の

夢(ゆめ)のみぞ永劫(とは)に往(ゆ)き來(か)ひ、

ささやきぬ、はた嘆(なげ)かひぬ。

あやしうも光(ひかり)に沈(しづ)む

わが胸(むね)のこの壁(かべ)の面(おも)、

惱(なや)ましく鈍(ね)びては見(み)ゆれ、

倦(うん)じたる影(かげ)の深(ふか)みを

幻(まぼろし)は浮(うか)びぞ迷(まよ)ふ、――

つややかに、今(いま)、綠靑(ろくしやう)の

牧(まき)の氈(かも)、また紺瑠璃(こんるり)の

彩(あや)も濃(こ)き花(はな)の甘寢(うまい)よ、

更(さら)にわが思(おも)ひのたくみ、

われとわが宿世(すぐせ)をしのぶ

醉(ゑひ)ごこち、痴(し)れのまどひか、

眼(ま)のあたり牲(にへ)の仔羊(こひつじ)、

朱(あけ)の斑(ふ)の痛(いたみ)と、はたや

愛欲(あいよく)の甘(あま)き疲(つか)れの

紫(むらさき)の汚染(しみ)とまじらふ

業(ごふ)のかげ、輪𢌞(りんね)の千歳(ちとせ)、

束(つか)の間(ま)に過(す)がひて消(き)ゆれ、

幾(いく)たびか憧(あく)がれかはる

肉村(ししむら)の懴悔(ざんげ)の夢(ゆめ)に

朽(く)ち入(い)るは梵音(ぼんおん)どよむ

西天(さいてん)の涅槃(ねはん)の教(をしへ)――

埋(うづも)れしわが追憶(おもひで)や。

わづらへる胸(むね)のうつろを

煩惱(ぼんなう)の色(いろ)こそ通(かよ)へ、

物(もの)なべて化現(けげん)のしるし、

默(もく)の華(はな)、寂(じやく)の妙香(めうかう)、

さながらに痕(あと)もとどめぬ

空相(くうさう)の摩尼(まに)のまぼろし、

 

[やぶちゃん注:最後の読点はママ。「青空文庫」版(底本:昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」は句点。まずは句点の誤植ではあろう

「箔(はく)おき」「箔置」で名詞。金銀の箔を被せた装飾部のこと。

「梵音(ぼんおん)」ここは「どよむ」(鳴り響く・響き亙る)からは、幻の梵鐘の音ともとれるが、しかし、ここは後の「西天(さいてん)の涅槃(ねはん)の教(をしへ)」に続くことを考えると、シンボライズされたその音(梵鐘で構わぬが)は本来の仏語で言うところの梵音(ぼんのん)、即ち、同時に「清浄な音声」「大梵天の声」「仏の、正法(しょうぼう)を説く声」の意でもあろう。

「空相(くうさう)」「般若心経」の「是諸法空相」で一般に知られる「この世の中のあらゆる存在や現象一切は総て空であるという真理様態。

「摩尼(まに)」サンスクリット語「マニ」の漢音写。「球」「宝球」などと訳される。「宝石」を指し、転じて仏法の真理に譬える。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 癡夢

 

  癡 夢

 

陰濕(いんしつ)の「嘆(なげき)」の窓(まど)をしも、かく

うち塞(ふさ)ぎ眞白(ましろ)にひたと塗(ぬ)り籠(こ)め、

そが上(うへ)に垂(た)れぬる氈(かも)の紋織(あやおり)、――

朱(あけ)碧(みどり)まじらひ匂(にほ)ふ眩(まば)ゆさ。

 

これを見る見惚(みほ)けに心(こゝろ)惑(まど)ひて、

誰(たれ)を、噫(あゝ)、請(しやう)ずる一室(ひとま)なるらむ、

われとわが願(ねがひ)を、望(のぞみ)を、さては

客人(まらうど)を思(おも)ひも出(い)でず、この宵(よひ)。

 

唯(たゞ)念(ねん)ず、しづかにはた圓(まど)やかに

白蠟(びやくらふ)を黃金(こがね)の臺(だい)に點(とも)して、

その熖(ほのほ)いく重(へ)の輪(わ)をしめぐらし

燃(も)えすわる夜(よ)すがら、われは寢(い)ねじと。

 

徒然(つれづれ)の慰(なぐ)さに愛(あい)の一曲(ひとふし)

奏(かな)でむとためらふ思(おも)ひのひまを、

忍(しの)び寄(よ)る影(かげ)あり、誰(た)そや、――畏怖(おそれ)に

わが脈(みやく)の漏刻(ろうこく)くだちゆくなり。

 

長(なが)き夜(よ)を盲(めしひ)の「嘆(なげき)」かすかに

今もなほ花文(けもん)の氈(かも)をゆすりて、

呼息(いき)づかひ喘(あへ)げば盛(さか)りし燭(しよく)の

火影(ほかげ)さへ、益(やく)なや、しめり靡(なび)きぬ。

 

癡(し)れにたる夢(ゆめ)なり、こころづくしの

この一室(ひとま)、あだなる「悔(くい)」の蝙蝠(かはほり)

氣疎(けうと)げにはためく羽音(はおと)をりをり

音(おと)なふや、噫(あゝ)などおびゆる魂(たま)ぞ。

 

[やぶちゃん注:燃(も)えすわる」は底本では「燈(も)えすわる」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

「氈(かも)」獣毛で織った敷物。毛氈(もうせん)。

「慰(なぐ)さ」造語ではなく、古語としてある。心を慰めるもの。心を安めるもの。動詞「なぐ(和ぐ)」の終止形に接尾語「さ」を附けたもの。]

大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ)

 

【外】

麵條魚 本草ニノセス潛確類書及河閒府志ニノセタリ

 長一二寸鱠残ヨリ小ナリ甚潔白ナリ是亦白ウ

 ヲト云三月海ヨリ川ニ多ク上ル漁人梁ヲ以テ多クトル四

 月以後ハ無之味膾残魚ニ不及トイヘ𪜈新シキハ味頗

 美ナリ處〻ニ多シ又白小トモ云杜子美白小ノ詩曰

 天然二寸魚又名之曰白小白小モ麪條魚ナリト

 潛確類書ニイヘリ味淡ク乄ヨノツネノ病人ニ無妨甘平

 無毒寬中健胃合生薑作羹佳只産婦ニハ食ハシムベ

 カラス有害ト云氣ヲ上スル性アルハ順水流而上故ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

麵條魚(しろうを) 「本草」にのせず。「潛確類書」及び「河閒府志」にのせたり。長さ一、二寸、〔前條の〕鱠残魚(しろうを)より、小なり。甚だ潔白なり。是れも亦、「白うを」と云ふ。三月、海より、川に多く上〔(のぼ)〕る。漁人、梁〔(やな)〕を以つて多くとる。四月以後は、之れ、無し。味、膾残魚に及ばずといへども、新しきは、頗〔(すこぶ)〕る美なり。處々に多し。又、「白小〔(ハクシヨウ/しろこ)〕」とも云ふ。『杜子美、「白小」の詩に曰はく、「天然 二寸の魚」〔と〕。又、之れを名づけて「白小」と曰〔(い)〕ふ。「白小」も麪條魚〔(しろうを)〕なり』と「潛確類書」にいへり。味、淡くして、よのつねの病人に妨げ無し。甘、平。毒、無し。中〔(ちゆう)〕を寬〔(くつろ)〕げ、胃を健す。生薑〔(しやうが)〕に合はせ、羹〔(あつもの)〕と作〔(な)せば〕、佳〔(よ)〕し。只だ、産婦には食はしむべからず、害、有ると云ふ。氣を上〔(じやう)〕する性あるは、水流に順ひて上〔(のぼ)〕る故なり。

[やぶちゃん注:こちらは条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinaeシロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii である。ウィキの「シロウオ」によれば、『透明な体の小魚で、日本、朝鮮に分布し、食用に漁獲される』。条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科シラウオ属シラウオ Salangichthys microdon とは生態や姿が似ており、混同しやすいが(実際には生魚は素人が見ても明らかに違う種と判る)、全く異なった種であり、分布も異なっている。その分布・生態・識別等は、前条の「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを)(シラウオ)」の私の注を参照されたい。『日本での地方名としてヒウオ(氷魚。茨城・徳島)、イサザ(北陸)、ギャフ(伊勢湾沿岸)、シラウオ(関西・広島)などがある。関西地方などでの呼称は、シラウオ科のシラウオとの混称。また、北陸地方での呼称イサザは、琵琶湖産ハゼの一種の標準和名に充てられていて、琵琶湖で氷魚はアユの稚魚を指す』(寧ろ、地方名や流通での名前の混乱の方が有意に問題がある。なお、最後の部分は前条の私の注で説明した通り、益軒は致命的な大誤認をして「シラウオ」のこととしている。『朝鮮では標準名で「死白魚』『」(サベゴ)と呼ばれるが、死ぬと白く変色することによる』。『英語では氷のハゼを意味するice gobyと呼ばれる』。『成魚は全長』五センチメートル『ほどで、細長い円筒形の体形をしている。体はわずかに黒い色素細胞がある以外はほぼ透明で、眼球・うきぶくろ・脊椎等が透けて見える。ただし死ぬと体が白く濁ってしまい、体内の構造は見えなくなる。メスは腹部に黒い点が』一『列に並ぶのでオスと区別できる。吻は丸く、口は眼の後ろまで裂け、下顎が上顎より前に突き出る。顔つきはハゼ類の特徴がよく現れている』。『ハゼ科の魚は背鰭が二つあることと腹鰭が吸盤状になっているのが特徴だが、シロウオの背鰭は一つしかなく、腹鰭はごく小さい。また鱗も側線もない。充分に成長しても仔魚のような特徴を残すことからプロジェネシス』(プロジェネシス(progenesispaedogenesis:早熟・前発生:動物に於いて性的性徴・発達が加速される現象。ネオテニー(neoteny:幼態成熟:性的に完全に成熟した個体であるにも拘わらず、非生殖器官に未成熟な幼生時・幼体時の性質が残る現象)の対語)『と考えられている。ハゼ科の中では形態が特異な種類として位置づけられ』、一属一種の単型である。『北海道南部から九州南部までと朝鮮半島南部の慶尚南道周辺』『に分布する。南西諸島には分布しないが、奄美大島からの報告がある』。『日本に生息する個体は遺伝的に異なる地理的集団を形成しており』、『「日本海系統」「太平洋系統」に分けられる。また、瀬戸内海域は日本海系と太平洋系統が混合していると報告されている』。『通常は沿岸の浅い海に生息し、プランクトンを捕食しながら生活しているが、早春には成魚が川の下流域に遡上して産卵する。成魚は河口で群れをなし、満潮時の上げ潮に乗って川をさかのぼる。汽水域上限から淡水域にかけての、転石が多い区域に辿り着くと群れは解消される。一夫一妻・』一『回限りの繁殖様式とされ』一~三ミリメートル『程度の礫質底に』、『オスは各々が石の下に潜り込んで産卵室を作り、メスを誘って産卵させる。メスは産卵室の天井に長径』三ミリメートル『ほどの細長い水滴形の卵を約』三百『個産卵する。海水では孵化しない』。『産卵・受精後はオスが巣に残り、孵化するまでの』二『週間ほど何も食べずに卵を保護する。寿命は約』一『年で、メスは産卵後に、オスも卵が孵化した後に死んでしまう。孵化する仔魚は全長』五ミリメートル『ほどで、すぐに川の流れに乗って海へ下る』。『古来より川の下流域へ集まる頃の成魚が食用に漁獲され、早春の味覚として知られる。食用以外にはメバル等の肉食魚の釣り餌としても利用される』。『漁には十字に組んだ竹』二『本で四角形の網を吊るした四手網が全国的によく使われる。網を川底に吊るし、シロウオの群れが網の上を通過したときに一気に引き上げて漁獲するもので、早春の下流域で四手網を繰り出す様は春の風物詩ともなっている。他に地引網や簗』(やな:後注する)『などでも漁獲される。簗漁が行われる地域は日本各地にあるが、福岡市の室見川下流におけるシロウオの簗漁は江戸時代からの伝統があり、マスコミで取り上げられる機会も多い。南三陸町の伊里前川では川に幾何学状に積み上げた「ザワ」と呼ばれる石垣の隅におい込んで捕獲する漁をしているが、これは戦後発達した漁法で近隣地域に見られないため』、『近年「しろうお祭」と称される祭が開催されるようになった』。『近年、日本では高級食材として扱われている。死ぬと著しく風味が落ちるとされるため、流通する際は、水と酸素を充填したポリ袋に入れるなどして、殺さないように注意が払われる』。『生のシロウオを軍艦巻の寿司種にしたり、生きたまま』、『ポン酢などで食べる踊り食いなどで生食が広がりつつある。踊り食いや生食については河川の細菌や寄生虫(横川吸虫)など、衛生上の問題が一部で指摘されている。他に、天ぷら、卵とじ、吸い物の椀種、ニンジンなどと共に炊く炊き込みご飯などの料理が伝統的に食べられている』。『朝鮮では、慶尚南道や釜山でフェやムルフェと呼ばれる酢、トウガラシなどで味を付けて生食する料理や、和え物、チヂミの類、スープなどとして食べられる』とある。

「麵條魚」「麵」は言わずもがな、小麦粉をこね伸ばした食用に生地の意。後の「麪條魚」の「麪」は「麵」の異体字。

『「本草」にのせず』明の李時珍の「本草綱目」。

「潛確類書」「潜確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(一五八一年~一六三六年)が編纂した事典。

「河閒府志」この別名で最も知られる、明の樊深の撰になる「嘉靖河間府志正徳大名府」か。現在の河北省滄州市河間市附近(グーグル・マップ・データ)の地方誌であるが、同様の別名で全くの別書もあるので確かではない。しかし、この河間市は東の渤海湾から直線でも八十五~百キロメートル以上離れた内陸であり、そこに記される「麵條魚」は降海性であるシロウオ(基本的には海水魚であるが、卵は海水では孵化せず、淡水域でも棲息は出来るが、成魚は海に下る)の近縁種(中国には本邦のシロウオは棲息しない)であるとは私には思われない。ハゼ科 Gobiidae 或いはゴビオネルス亜科 Gobionellinae の別種、或いは全く違う種であろう。中文サイトで以下に掲げる杜甫の「白小」を見ると、確かに、注で「白小」が現在の「面条魚」であるとするが、中文サイトで「面白魚」を見ると、漢名を「玉筋魚」とし、これは現在の条鰭綱スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes personatus である。しかも、またまた面倒なことに、イカナゴは沿海性であって、河間市まで溯ることは考え難い。イカナゴ科 Ammodytidae は総て海水魚であるから、その仲間という訳にもいかない。ただ、これは「河閒府志」と「麵條魚(しろうを)」の連関に於ける致命的齟齬であって、後掲される杜甫の「白小」は、ここで詠まれたものではないから、問題はないと言えば言えるのである(ただ、中国にはシロウオは棲息しないし、後で注するように、杜甫の「白小」も詠まれた場所からシロウオどころかイカナゴの仲間でさえ実は、ない)。明代に「麵條魚」と呼ばれたシロウオとは全く異なる淡水魚が如何なるものであるのかが、私の疑問として残るのみではある。

「鱠残魚(しろうを)」前条「大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを)(シラウオ)」を参照。

「梁〔(やな)〕」「簗」に同じ。川などの瀬に杭 などを八の字形に並べ、水をせき止めて一ヶ所を開けて、そこに梁簀 (やなす:篠竹を編んで作った簀(すのこ)。河川の魚道に張り立てて魚を捕らえるための装置。) を張って流れてくる魚を受けて捕る仕掛け。上り梁・下り梁などがある。

「白小〔(ハクシヨウ/しろこ)〕」読みは、前のシラウオと区別するために私が勝手に附した。

『杜子美、「白小」の詩に曰はく、「天然二寸の魚、又、之を名づけて白小と曰〔(い)〕ふ」〔と〕。「白小」も麪條魚なり』と「潛確類書」にいへり原典の記載を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で調べた。ここである。杜甫の五言律詩「白小はくしやう)」は以下。所持する一九六六年岩波文庫刊の鈴木虎雄・黒川洋一校注「杜詩」(第六冊)に拠ったが、訓読の一部は私の趣味で変えてある(「生成猶捨卵」は「生成猶拾卵」であるのを、校注者が一本に作る「捨」の字の方を採用した)。

   *

 白小

白小羣分命

天然二寸魚

微霑水族

風俗當園蔬

入肆銀花亂

傾筐雪片虛

生成猶捨卵

盡取義何如

  白小

 白小も羣(みな)命(めい)を分かつ

 天然 二寸の魚

 微にして 水族を霑(うる)ほす

 風俗 園蔬(えんそ)に當(あ)つ

 肆(みせ)に入れば 銀花 亂れ

 筐(かご)を傾くれば 雪片 虛(むな)し

 生成 猶ほ 卵(らん)を捨(お)くといふ

 盡(ことごと)く取るは 義 何如(いかん)

   *

これは中文サイトの解説に拠れば、七六六年、杜甫が寓居していた夔州(きしゅう)での詠とする。夔州(現在の重慶市附近)は中国の南部のど真ん中の内陸であり、シロウオやイカナゴの仲間とは無縁である。「白小」に校注者は安易にも『しらうおの類であろう』とするが、内陸のここではそれらであろうはずがないのである。「水族を霑(うる)ほす」他の水族の餌となる。「風俗」夔州のそれ。「園蔬(えんそ)に當(あ)つ」陸の畑の野菜の代わり、食事の「あて」にする、の意。「肆(みせ)」音「シ」で、店・市場の意。「銀花」その透き通った瑞々しく美しい「白小」魚の換喩。「筐(かご)」本来は「はこ」だが、「白小」を入れた籠の意で当て訓した。「雪片」「銀花」同様、「白小」魚の換喩。「生成 猶ほ 卵(らん)を捨(お)くといふ」「捨(お)く」は「置く」で、卵を取らずにおく、の意と校注者は注し、以下、最後の二句を、『(ただ』、『ものはいたわって用うべきものである)物の生成からいうと』、『鳥の卵でさえもこれを』、『すておいて』、『取らぬというのが聖人の仁徳である』。『しかるにこの魚をここの人』々『はすっかり取り尽くすようであるが』、『それはどういうわけである』の『か』? それはまさに『仁』の『意にそむいた』仕方『ではないか』? と訳しておられる。意味は腑に落ちる。達意の訳としては瑕疵は全くない。しかし、何となく、ここまでまさにテツテ的に、まさに籠の目の間の「白小」まで浚い取って現代語訳してしまうと、少し、淋しい気が私はするのである。

   *

「中」漢方で言う仮想の体内概念である「中焦(ちゅうしょう)」であろう。上・中・下の三焦の中部。脾胃(ひい:胃の機能を助ける仮想器官群概念。後の「胃」もそれで現代医学の内臓としての「胃」とは概念が異なるので注意)を包括した概念で、消化吸収及び腸管への伝送を行い、気血生化の源とする。

「羹〔(あつもの)〕」暖かい煮込みスープ。

「氣を上〔(じやう)〕する性あるは、水流に順ひて上〔(のぼ)〕る故なり」「順ひて」は不審。「(食すと)人の陽気を盛んにさせる性質がこの魚にあるのは、水の流れに逆らって川を溯る習性に基づくのである」の意であろう。所謂、フレーザーの言う類感呪術的解釈である。]

団三郎狸関連新情報

「古志の穴を穿つ者 団三郎貉伝説」

私に団三郎狸の資料を下さった団三郎貍の末裔の方の新たな踏査と考証がアップされた。面白い!

2019/02/21

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 阿膠(あきやう・にかは) (製品としての膠(にかわ))

 

Akyou

 

[やぶちゃん注:図の阿膠(あきょう)の表書きは(これは思うに固めた膠に模様(本文にある「雲龍」の紋である)を泊で型押ししたものの上に紙で良安も述べている製造元・製作者及び作製年月日のデータを書いて張ったものかとも見える。但し、製品名が凹押印される意匠印型を用いたものが現在の中国製の販売用の固形膠では一般的のようだし、薬に使うには紙は却って邪魔で不純物にもなるから、これもそうなっているのを、良安は読み易く白地にしただけなのかも知れない)、一部に判読が出来ない部分があるが(■で示した)、

東平刕東阿知縣呉波宗督造

 張秋鎭工■兪洪泰煎煉

  崇禎拾五年仲冬月壹

か(「呉」「壹」は別字かも知れない)「呉波」(或いは「宗」まで)「兪洪」(或いは「泰」まで。「兪」(音「ユ」)は中国では普通に見られる姓である)は製造管理監督者と製造実務責任者の姓名と推定される。「東平刕東阿知縣」(「刕」は「州」の異体字)は現在の山東省東阿県の旧名かと思われる。ここは古くから膠の名産として知られ、特に地名をとって「阿膠」と呼ばれる。「崇禎拾五年」は明代最後の皇帝第十七代毅宗(きそう)の治世中で使用された元号で、崇禎(すうてい)十五年は一六四二年。因みに、この二年後の三月に李自成により明は滅亡した。「仲冬」は旧暦十一月の異名。「月壹」は判らぬが、月の朔日で、その十一月の一日の製造年月日であることを指すものか? 判読不能字を含め、何かお判りになる方はお教え願いたい。

 

あきやう   傳致膠

にかわ

阿膠

       【和名尒加波】

アキヤ◦ウ

 

本綱東阿縣【今山東兗州府陽穀縣也】有井有官舎以其井水常煑膠

以貢之故名阿膠造法自十月至二三月閒用沙牛水牛

驢皮者爲上豬馬騾駝皮者次之其舊皮鞋履等物爲下

俱取生皮水浸四五日洗刮極淨熬煑時時攪之恒添水

至爛濾汁再熬成膠傾盆内待凝近盆底者名坌膠煎膠

水以鹹苦者爲妙大抵是牛皮後世乃貴驢皮若僞者皆

襍以馬皮舊革鞍靴之類其氣濁臭不堪入藥當以黃透

如琥珀色或光黒如漆者爲眞眞者不作皮臭夏月亦

不濕軟

味【甘微溫】肺大膓之要藥入手足少陰足厥隂經【畏大黃

衂下血血淋止痢療崩漏胎前後諸疾

△按眞阿膠色光黑形如硯大抵長六寸二分橫二寸八

 分有雲龍文書年號月日及作者名謂之硯手今多作

 此形僞賣不論牛馬鹿煑一切敗故皮作之

 

 

あきやう   傳致膠〔(でんちこう)〕

にかわ

阿膠

       【和名、「尒加波」。】

アキヤ

[やぶちゃん注:「あきやう」の読みは最後の中国音(但し、現代中国音では「阿膠」は「ā jiāo」(アー・ヂィアォ)である)を転写したもの。「にかわ」はママ。]

 

「本綱」、東阿縣【今の山東兗〔(えん)〕州府陽穀縣なり。】に、井、有り、官舎、有り、其の井の水を以つて、常に膠〔(にかは)〕を煑〔(に)〕、以つて之れを貢ず。故に「阿膠」と名づく。造る法〔は〕、十月より二、三月の閒に至り、沙-牛〔(うし)〕・水牛・驢(うさぎむま)の皮の者を用〔ふを〕上と爲し、豬(ぶた)・馬・騾〔(らば)〕・駝〔(らくだ)〕の皮は之れに次ぐ。其の舊(ふる)皮、鞋〔(けい)〕・履〔(り)〕[やぶちゃん注:この場合は孰れも皮革製の靴。]等の物、下と爲す。俱に生皮を取り、水に浸すこと、四、五日、洗ひ刮(こそ)げ、極めて淨〔(じやう)〕にして[やぶちゃん注:綺麗にして。]、熬〔(い)〕り煑〔(に)〕、時時、之れを攪〔(かきま)ぜ〕、恒に水を添へ、爛〔(ただ)〕るに至らば[やぶちゃん注:すっかり柔らかくなったら。]、汁を濾(こ)し、再たび、熬り〔て〕膠と成し、盆の内に傾け[やぶちゃん注:流し込み。]、凝〔(かたま)〕るを待つ。盆の底に近き者を「坌膠〔(ふんこう)〕」と名づく。膠を煎る水〔は〕鹹〔(しほから)く〕苦〔(にが)き〕者を以つて妙と爲す。〔用ふ皮は、〕大抵、是れ、牛皮なり。後世、乃〔(すなは)ち〕、驢〔の〕皮を貴ぶ。僞はる者のごときは、皆、襍〔(まづ)〕るに馬の皮・舊き革・鞍・靴の類ひを以つてす。其の氣〔(かざ)〕、濁-臭(わるくさ)く[やぶちゃん注:「惡る臭く」で、ひどい臭いがし、の意。]、藥に入るるに堪へず。當に黃〔に〕透〔く〕こと、琥珀の色のごとく、或いは光り、黒く漆〔(くろうるし)〕のごとき者を以つて眞と爲すべし。眞なる者は、皮の臭ひを作〔(な)〕さず、夏月も亦、濕(しめ)り〔て〕軟(やわら[やぶちゃん注:ママ。])か〔には〕ならず。

味【甘、微溫。】 肺・大膓の要藥にして、手足の少隂〔(しやういん)〕・足の厥隂經〔(けついんけい)〕に入る【大黃を畏る[やぶちゃん注:甚だ合わない。]。】吐-衂〔(はなぢ)〕・下血・血淋〔血尿を伴う淋病。〕を治し、痢を止め、崩漏〔(ぼうろう)〕[やぶちゃん注:子宮の内部が激しい炎症で糜爛し、出血すること。]・胎前後の諸疾を療す。

△按ずるに、眞の阿膠は、色、光〔り〕、黑〔く〕、形、硯のごとし。大抵、長さ六寸二分[やぶちゃん注:約十八センチ九ミリメートル。]、橫二寸八分[やぶちゃん注:約八センチ四ミリメートル。]雲龍の文〔(もん)〕有り、年號月日及び作れる者の名を書く。之れを「硯手〔(すずりで)〕」と謂ふ。今、多く、此の形に作りて、僞〔れるものを〕賣る。〔それ、〕牛・馬・鹿を論ぜず、一切の敗〔(くさ)れる〕故皮〔(ふるがは)〕を煑て、之れを作る。

[やぶちゃん注:各種の動物の骨・皮・腱などから抽出したゼラチン(gelatin:動物の前記組織の結合組織の主成分であるコラーゲンに熱を加えて抽出したもの)を主成分とする物質。木竹工芸の接着剤或いは東洋画の顔料の溶剤など用途が広い。通常は板状か棒状に乾燥させて保存し、湯煎によって適当な濃度に溶かして用いる。ウィキの「ゼラチン」の「膠(ニカワ)」の項によれば、『日本では、主に食品や医薬品などに使われる純度の高いものをゼラチン、日本画の画材』及び『工芸品などの接着剤として利用する精製度の低いものを膠(ニカワ)』、『蹄を原料とするものは hoof glue』(フーヴ・グルー:「蹄」の「膠・接着剤」の意)『と称している』。『膠には和膠と洋膠(ゼラチン)があり、和膠のほうが純度が低い分』、『吸湿性や保水性に富み、舌先で筆を湿らすだけで』、『微妙な濃度の調整ができることから、手仕事に携わる職人や美術家など、和膠を支持する層も根強くあり、保湿性をあえて加えた洋膠も出回っている』。『和膠では鹿膠が最高級品とされる』とあり、現在は『主にウシやブタの皮や骨などを利用して生産されているが、宗教上の理由などからタブーの対象となる動物を避けて素材を選定し、作られる場合もある。魚の鱗や皮の他、中国ではロバの皮から作る阿膠がある』とする。接着剤として膠は、実に五千年以上も『前の古代から利用されていたと考えられている。シュメール時代にも使用されていたとも言われており、古代エジプトの壁画には膠の製造過程が描かれ、ツタンカーメンの墓からは膠を使った家具や宝石箱も出土している。中国では、西暦』三〇〇『年頃の魏の時代にススと膠液を練った「膠墨」が作られたとされ、また』、六『世紀頃には現代とほとんど変わらない膠製造の記録も見られる。紀元前』二『世紀に書かれたとされる中国の古書『周禮・考工記』には、のちの和膠とほぼ同じ作り方』さえ『掲載されている』。『中国から日本に膠が伝わったのは『日本書紀』などの記述から推古天皇の時代、「膠墨」としてもたらされたものと考えられている。奈良時代以降、製墨原料、建築・指物用接着剤、織布の仕上げ剤、医薬品(造血剤)などの材料として普及した』。『世界的に膠の原料は畜獣が多く用いられるが、獣肉の食習慣が薄かったため』、『原料が乏しく、遊牧民などからの輸入ルートもなかった日本では魚も膠の原料とされた。「にべもない」のニベとはかつて浮き袋が膠原料として重視された魚のことである』(条鰭綱スズキ目スズキ亜目ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii)。『世紀に入り、フィルムや印画紙に吸湿性の低い高純度のゼラチンが必要になったことから、洋膠の技術導入が始まった』。『食材としての伝来は遅く、明治時代以降、欧米の食文化の到来とともにゼラチンとして知られることになったが、食用のゲル化剤としては和菓子などに用いる寒天や葛粉など多糖類系統のものが既に広く用いられていたこともあり』、昭和一〇(一九三五)年『頃、国内で』、『食品にできるだけの純度に精製する技術が確立して後、ようやく食品用ゼラチンが普及することとなった』。『現代の日本では兵庫県姫路市に製造企業が集中している』。『ただし、ゼラチンは食物アレルギーを引き起こすことがあるので、市販されているゼラチンを含む食品は、原則としてゼラチンを含む旨を表示することになっている』とある。さて、実はウィキには、ズバリ、「阿膠」があるので、ここで引いておく。読みは何故か、今も生薬名は「アキョウ」で、ラテン名「Asini Corii Collas」を学名のように持つ(邦文ウィキでは『学名』と冠し、英文ウィキではなんとまあ斜体になっている。英名は「Donkey-hide gelatin」(hide は「獣皮」の意)。『ロバの皮を水で加熱抽出して作られるにかわ(ゼラチン)のこと』。『血液機能を高める効果があり、主に貧血や婦人病への処方や、美容のために用いられている』。『中国で古くから使われている生薬の一種で、約』二千五百『年前に書かれた中国最古の医学書『五十二病方』に記載がある』。『阿膠は、作った地域によって名称が変わり、中国山東省東阿県産のものが「阿膠」と呼ばれ、中国湖南省産のものは「驢皮膠」と呼ばれる。他にも、その作り方から傅致膠、盆覆膠などと呼ばれる場合もある』。『ロバの皮膚に含まれるコラーゲンが加水分解されたタンパク質や各種アミノ酸の混合物である。他にもカルシウム、マグネシウム、鉄など』二十七『種類のミネラルやコンドロイチンを含んでいる。 豚皮ゼラチンと比べると、リジンに富み、シスチンを含むがトリプトファンを欠く点で異なる』。『阿膠の生産にはロバの皮を使用するが、古来から非常に高価であったため、一般の女性が手にすることは不可能に近かった。現在も高価な代物であり、阿膠の産地である中国では原料であるロバが年々減少していることも関係して、阿膠の市場価格が日々上昇している。しかし価格が上がる一方で、廃棄原材料を使用した安物製品も出回っている。原材料にロバの皮を使用したものに比べ、安価ではあるが』、『皮製品の切れ端や牛の皮などを使用した製品もあり、消費者を悩ませている』。『中国山東省東阿県が主な産地で名前の由来にもなっている』。『中国では、東阿阿膠社の阿膠が有名で、東阿阿膠社の製造技術は中国の無形文化財として登録されている』。『古くは『五十二病方』に記載がある他、中国最古の薬物学書である『神農本草経』には、「上品」(養命薬(生命を養う目的の薬)で、無毒で長期服用可能なもののこと』『)として記載されている。『全唐詩』には、楊貴妃が美容のために隠れて服用していたという記述もあり、身分の高い女性の間で人気があったものといえる(当時、阿膠は非常に高価であったため、一般の女性が手にすることは不可能に近い)。清代では、習慣性流産に悩んでいた西太后が阿膠を飲んで不妊治療に成功し、同治帝を産んだことでも知られる』。『また、江戸時代に書かれた『薬徴続編』(著者:村井琴山)の中で阿膠の記載があることから、日本でも使われていた可能性がある』。『効能』は『補血・滋陰・潤燥・止血・安胎』で、良安の記載と変わらない。『中医学の考えでは、血は様々な症状と密接に関わりを持っているため、効能は幅広い。具体的には、生理痛の緩和、月経不順、子宮の不正大量出血や、出産後の滋養や抜け毛の改善、便通の改善、骨粗しょう症予防などの治療効果の他、肌荒れ・乾燥の防止、新陳代謝の促進などの美容効果がある』。『また』、十六『世紀に書かれた薬学書『本草綱目』において阿膠は「聖薬」(非常に優れていて、効能のある薬)として称賛されている』。『阿膠は様々な研究がされているが、近年では美白作用についての研究もあ』り、『また、美肌の効果解明のための共同研究も始められている』。『中国では、阿膠を主原料にクルミやゴマ、干し竜眼、糖類を用いたゼリーの一種「阿膠糕」も作られており、こちらは純粋な菓子や土産物、一種の健康食品として市販されている』とある。上記出た「東阿阿膠」公式サイトでは、生薬としての史がこちらにあり、「アキョウと有名人」のページがこちらにあって、そこでは先の引用に出た楊貴妃・西太后以外に、朱熹・曹植(詩篇に阿膠を仙薬とオードしている。彼は実はまさにこの地で東阿王であったことがあり、彼の墓も彼が好んだこの東阿県近くに残されているそうである)が載る。因みに、この現在の山東省東阿県は正確には、山東省聊城(りょうじょう)市東阿県で、無論、本文の「東阿縣」「今の山東兗〔(えん)〕州府陽穀縣なり」と同一で、ここ(グーグル・マップ・データ)である。

 

「官舎、有り」と言っているから、少なくとも明代には官営或いは国が保護・管理を行っていたことが判る。

「其の井の水を以つて」後に出るように「膠を煎る水」が「鹹〔(しほから)く〕苦〔(にが)き〕者を以つて」最上とするので、この井戸水(飲用は不可)が選ばれているのである。完全な内陸なので、地下水が岩塩層等を通底して湧いているのであろう。

「驢(うさぎむま)」「兎馬」で、お判りと思うが、「驢馬」、奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ Equus asinusのことである。後で独立項「驢(うさぎむま)」(「馬」の後)が出る

「騾〔(らば)〕」騾馬で、奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus ferus caballus である。英語は「Mule」(ミュール。但し、私にはネイティヴのそれは寧ろ「ミューロ」と聴こえる)、ラテン語ではMulus」(ムールス)と呼ぶ(斜体にしたのは種として正式に認められず、不憫に私が思うからである)のロバ(学名は前者)とのウマの交雑種の家畜で不妊である。ウィキの「ラバによれば、逆の組み合わせ(のウマとのロバの交配)で生まれた家畜種を「ケッテイ」(駃騠/英語:Hinny)と呼ぶが、「ケッテイ」と比べると、「ラバ」は『育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されてきた』。『家畜として両親のどちらよりも優れた特徴があり、雑種強勢の代表例である』。後に独立項で「騾(ら)」として出るので、ここまでとしておく。

「駝〔(らくだ)〕」「駱駝」。ウシ目ラクダ科ラクダ属で、現生は西アジア原産のヒトコブラクダ Camelus dromedarius と、中央アジア原産のフタコブラクダ Camelus ferus の二種のみ。この畜類のしんがりに「駱駝(らくだのむま)」で独立項として出る

「盆」型であるが(東洋文庫はわざわざ「盆」に『はち』とルビを振っているが意味が判らない)私はある程度の大きさお深さを持った方形の型容器を想起する。

『盆の底に近き者を「坌膠〔(ふんこう)〕」と名づく』「坌」は「集まる」の意があり、想像しても、容器の底の方がより濃厚な膠が出来ると思うから、それを格別品としてかく呼ぶのは腑に落ちる。

「襍〔(まづ)〕る」この漢字は「交える」「混じる」の意である。

漆〔(くろうるし)〕」「」は音「イ」で、「黒い美しい石」の意。読みは東洋文庫訳のそれを採用した。

「手足の少隂〔(しやういん)〕・足の厥隂經〔(けついんけい)〕」手足の少陰心経と、足の少陰腎経の経絡。

「大黃」タデ目タデ科ダイオウ属 Rheum に属する一部の種(或いは雑種)群からの根茎から作られた生薬「大黄(だいおう)」。ウィキの「ダイオウによれば、『消炎・止血・緩下作用があり、瀉下剤として便秘薬に配合されるほか、漢方医学ではそれを利用した大黄甘草湯に配合されるだけでなく、活血化瘀』(かっけつかお)『作用(停滞した血液の流れを改善する作用と解釈される)を期待して桃核承気湯などに配合される』。『日本薬局方では、基原植物を』ショウヨウダイオウ Rheum palmatumRheum tanguticumRheum officanaleRheum coreanum『又はそれらの種間雑種としている』とある。

「吐-衂〔(はなぢ)〕」「衂」の単漢字で「鼻血」を意味する。

・下血・血淋〔血尿を伴う淋病。〕を治し、痢を止め、崩漏〔(ぼうろう)〕[やぶちゃん注:子宮の内部が激しい炎症で糜爛し、出血すること。]

蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 苦惱

 

   苦 惱

 

傳(つた)へ聞(き)く彼(か)の切支丹(キリシタン)、古(いにしへ)の惱(なやみ)もかくや――

影深(かげふか)き胸(むね)の黃昏(たそがれ)、密室(みつしつ)の(と)は鎖(さ)しもせめ、

戰(おのゝ)ける想(おもひ)の奧(おく)に「我(われ)」ありて伏(ふ)して沈(すづ)めば、

魂(たましひ)は光(ひかり)うすれて塵(ちり)と灰(はい)「心(こゝろ)」を塞(ふさ)ぐ。

 

懼(おそろ)しき「疑(うたがひ)」は、噫(あゝ)、自(みづから)の身(み)にこそ宿(やど)れ、

他(あだ)し人(ひと)責(せ)めも來(こ)なくに空(むな)しかる影(かげ)の戲(たは)わざ、

こは何(なに)ぞ、「畏怖(いふ)」の黨(ともがら)群(む)れ寄(よ)せて我(われ)を圍(かこ)むか。

脅(おびやか)す假(かり)裝(よそほ)ひに松明(たいまつ)の熖(ほのほ)つづきぬ。

 

聖麻利亞(サンタマリヤ)、かくも弱(よは)かる罪人(つみびと)に信(しん)の潮(うしほ)の

甦(よみがへ)り、かつめぐり來(き)て、「肉(しゝむら)」の渚(なぎさ)にあふれ、

俯伏(うつぶせ)に干潟(ひがた)をわぶる貝(かひ)の葉(は)の空虛(うつろ)の我(われ)も

敷浪(しきなみ)の法喜(ほふき)傳(つた)へて御惠(みめぐみ)に何日(いつ)かは遇(あ)はむ。

 

さもあれや、わが「性欲(せいよく)」の里正(むらをさ)は窺(うかが)ひ寄(よ)りて、

禁制(きんぜい)の外法(げはふ)の者(もの)と執(しふ)ねくも罵(のゝし)り逼(せま)り、

ひた強(し)ひに蹈繪(ふみゑ)の型(かた)を蹈(ふ)めよとぞ、あな淺(あさ)ましや、

我(われ)ならで叫(さけ)びぬ、『神(かみ)よ此身(このみ)をば磔(き)にも架(か)けね』と。

 

硫黃(いわう)沸(わ)く煙(けぶり)に咽(むせ)び、われとわが座(ざ)より轉(まろ)びて、

火(ひ)の山(やま)の地獄(ぢごく)の谷(たに)をさながらの苦惱(くなう)に疲(つか)れ、

死(う)せて又(また)生(い)くと思(おも)ひぬ、――夢(ゆめ)なりき、夜(よる)の神壇(しんだん)、

蠟(らふ)の火(ひ)を點(とも)して念(ねん)ず、假名文(かなぶみ)の御經(みきやう)の秘密(ひみつ)。

 

待(ま)たるるは高(たか)きwp洩(も)るる啓示(みさとし)の聲(こゑ)の耀(かゞや)き、――

信(しん)のみぞ其(その)證人(あかしびと)、罪深(つみふか)き内心(ないしん)ながら

われは待(ま)つ、天主(てんしゆ)の姫(ひめ)が讃頌(さんしよう)の聲(こゑ)朗(ほがら)かに、

事果(ことはて)て、『汝(なれ)を恕(ゆる)す』と宣(のたま)はむその一言(ひとこと)を。

 

[やぶちゃん注:「戰(おのゝ)ける」のルビの「お」、「畏怖(いふ)」のルビの「い」、「弱(よは)かる」のルビの「は」は総てママ。最終連一行目の中の「高(たか)きを洩(も)るる」は底本では「高(たか)き洩(も)るる」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。

大和本草卷之十三 魚之上 鱠殘魚(しろうを) (シラウオ)

 

鱠殘魚 本草ニ王餘魚トモ銀魚トモ云潔白ニシテ銀

 ノコトシ大坂伊勢所〻ニアリ味ヨシホシテ串ニサシタル

 ヲ目サシト云遠ニヲクル珍味トス本草時珍云曝乾乄

[やぶちゃん注:「ヲクル」はママ。]

 以貨四方ト云如シ倭俗膾殘魚ヲキスコト訓ス甚誤

 レリ本草四十四卷膾残魚ノ集解ヨリ見ルヘシシロウヲ

[やぶちゃん注:ここのみ「残」の字体。]

 ナル叓明白ナリ無鱗但目有黒尒其外ノモ皆

 白魚ナリキスコニ非スキスコハ大ナル者七八寸ニ乄鱗アリ時

 珍食物本草註云膾殘魚味甘平無毒寛中健胃

 利水潤肺止欬作乾食之補脾○江州田上堅田

 ナトニ冬月捕之冰魚ト云又鰷魚之苗冬春在海

 者亦可謂冰魚

○やぶちゃんの書き下し文

鱠殘魚(しろうを) 本草に「王餘魚」とも「銀魚」とも云ふ。潔白にして銀のごとし。大坂・伊勢、所々にあり、味、よし。ほして、串にさしたるを「目ざし」と云ひ、遠くにをくる。珍味とす。「本草」、時珍、云はく、『曝〔(さら)〕し乾して以つて四方に貨(う)る』と云ふ〔が〕ごとし。倭俗、膾殘魚を「きすご」と訓ず。甚だ誤れり。「本草」四十四卷「膾残魚」の「集解」より見るべし、「しろうを」なる叓(こと)、明白なり。鱗、無く、但だ、目に黒有るのみ。其の外のも、皆、白魚なり、「きすご」に非ず。「キスゴ」は大なる者、七、八寸にして、鱗、あり。時珍「食物本草」註に云はく、『膾殘魚、味、甘、平、無毒。中〔(ちゆう)〕を寛〔(くつろ)げ〕、胃を健〔かにし〕、水を利し、肺を潤〔(うるほ)〕し、欬〔(せき)〕を止む。乾し作〔(な)して〕、之れを食ふ。脾を補す』〔と〕。○江州の田上(たなかみ)・堅田〔(かたた)〕などに、冬月、之れを捕る。「冰魚(ひうを)」と云ふ。又、鰷-魚〔(あゆ)〕の苗〔(こ)〕、冬・春、海に在る者〔も〕亦、「冰魚」と謂ふべし。

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科シラウオ属シラウオ Salangichthys microdon(本邦に棲息する四種は後掲)。時に全くの別種であるスズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので、注意が必要(シロウオは正しくは漢字表記で「素魚」と表記し、シラウオ「白魚」とは区別されるが、素人は文字通り、素も白もいっしょくたにしてしまう)。孰れも死ぬと、白く濁った体色になって見分けがつきにくくなるが、生体の場合はシロウオ Leucopsarion petersii の方には体にわずかに黒い色素細胞があり、幾分、薄い黄味がかかる。主に参照したウィキの「シラウオ」の記載と、シロウオ漁で知られる和歌山県湯浅市公式サイトのちらのページが分かり易い。その図を見ても判然とするように、シラウオの口は尖っていて、体型が楔形をしていて鋭角的な印象であるのに対し、シロウオやそれに比較して全体が丸味を帯びること、シラウオの浮き袋や内臓がシロウオの内臓ほどにははっきりとは見えないこと、また形態的な大きな違いとして、シラウオには背鰭の後ろに脂びれ(背鰭の後ろにある小さな丸い鰭。この存在によってシラウオガアユ・シシャモ・ワカサギ(総てキュウリウオ目 Osmeriformes)などと近縁であることが分かる)があることが挙げられる(なお、「大和本草」の次項が、その「麵條魚(しろうを)となっている)。ウィキの「シラウオ」を引いておく。『東アジアの汽水域周辺に生息する半透明の細長い小魚で』、『体は細長いが、後ろに向かって太くなり尾びれの前で再び細くなるくさび形の体形である。死ぬと白く濁った体色になるが、生きている時は半透明の白色で、背骨や内臓などが透けてみえる。腹面に』二『列に並ぶ黒色の点があり、比較的、目は小さく口は大きい』。『従来の説では、シラウオは春に川の河口域や汽水湖、沿岸域など汽水域の砂底で産卵し、孵化した稚魚は翌年の春まで沿岸域でプランクトンを捕食しながら成長』し『、冬を越した成体は産卵のために再び汽水域へ集まって産卵するが』、『産卵した後は』♂♀ともに一『年間の短い一生を終えると考えられていた。しかし』、二〇一六『年現在、シラウオは産卵のために汽水域に集まるのではなく、汽水域で一生を過ごすという新しい説が提唱されている』。『古来より沿岸域へ産卵に集まる頃の成魚が食用に漁獲され、早春の味覚として知られる。かつては全国で漁獲された』。二〇一六『年現在、北海道、青森県、秋田県、茨城県、島根県などが主な産地となっており』、『比較的、東日本に多い。漁はシロウオと同じように』、『四角形の網を十字に組んだ竹で吊るした「四つ手網」がよく使われるが、霞ヶ浦などの大きな産地ではシラウオ用の刺し網や定置網などもある』。『日本のみならず、中国や東南アジアでも食用にされる。日本では高級食材として扱われている』。『シラウオは非常に繊細で』、『漁で網から上げて空気にふれると』、『ほとんどがすぐに死んでしまうため、生きたまま市場に出回ることはほとんどない』『(活魚として出回るシロウオとは対照的である。)』『料理方法としては、煮干し、佃煮、酢の物、吸い物、卵とじ、天ぷら、炊き込みご飯などがあげられる』。『また、刺身、寿司などとして生で食べることもある』。『江戸前寿司のネタとしては、コハダやアナゴとならんで最古参にあげられる』。但し、『シラウオは寄生虫(横川吸虫)の中間宿主となっている場合があるので』、『市販の生シラウオを含むシラウオの生食には注意を要する』。『少数の寄生では重篤な症状は出ないが、多数の寄生によって軟便、下痢、腹痛などの消化器障害が起こる可能性がある』。『シラオ、シラス、トノサマウオ、シロウオ、シロオ』などの別名を有する。『「トノサマウオ」』『は、野良仕事をしない領主(殿様)のきれいな手をシラウオになぞらえたものという説がある。また、細長く半透明の優美な姿から、女性の細くて白い指を「シラウオのような指」とたとえることがある。なお、シラウオは「銀魚」、「鱠残魚」という漢字を用いる場合もある』。『中国では銀魚、面條魚と呼ぶ』。『銀魚干(干し銀魚)、冷凍銀魚の形で販売される。太湖の銀魚は、白魚、白蝦』『と共に「太湖三白」として有名である』。『キュウリウオ目シラウオ科の魚は東南アジアから東シベリアまで』六属十四種『が分布している。なかには体長が』十五センチメートル『以上になる種類もいる』。『日本には』三属四種『が分布するが、アリアケシラウオとアリアケヒメシラウオは有明海周辺だけに分布している。この』二『種類は』、『分布が極めて局地的な上』、『絶滅寸前というところまで個体数が減っているため、どちらも絶滅危惧IA類(CR)(環境省レッドリスト)に指定されている』。

シラウオ Salangichthys microdon(体長八センチメートルほど。東シベリア・朝鮮半島・中国・日本(北海道~九州北部)に分布)

イシカワシラウオ Salangichthys ishikawae(体長八センチメートルほど。日本固有種で上記シラウオと同じく北海道から九州北部に分布。シラウオに似ており、漁獲・流通でも特にシラウオと区別しない)

アリアケシラウオ Salanx ariakensis(体長十五センチメートルほどにもなる大型のシラウオで、有明海と朝鮮半島に分布する。有明海沿岸域では漁獲・食用にされていたが、現在は漁獲が激減し、絶滅が心配されている)

アリアケヒメシラウオ Neosalanx reganius(体長五センチメートルほどのやや小型のシラウオで、丸い頭部とずんぐりした体型を持ち、別種のシロウオに似ている。有明海に注ぐ筑後川と熊本県の緑川及び緑川支流の浜戸川のみにしか分布しない日本固有種である。さらに二つの棲息地では体長や鰭の大きさなどに差があり、それぞれが独立した地域個体群と考えられている。川の下流域に棲息するが、食用にされていないにも関わらず、個体数が減り続けている。減少の理由は筑後大堰などの河川改修や汚染等による河川環境の変化と考えられている)

なお、以上四種は福岡から殆んど出ることがなかった益軒が実見し得る範囲内に総てが棲息している。なお、私の古い仕儀である、寺島良安和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚の「鱠殘魚(しろいを)」も是非、参照されたい。彼も後に掲げる「本草綱目」から抄出している。この表記から、シラウオ(或いは「鱠殘魚」の和訓)は江戸前中期には「しろいを」とも呼んでいたことが判る。

「鱠殘魚(しろうを)」(「鱠」は「なます」と和訓するが、細かく切った魚の生肉、即ち、刺身を指す(それらを酢に漬ける加工品は本邦での謂いである))この漢名は、中国古来の伝承で、春秋時代の呉の第六代の王闔閭(紀元前四九六年~紀元前四九六年:在位:紀元前五一四年から没年まで:名臣孫武・伍子胥らの助けを得て、呉を一大強国へと成長させ覇を唱えたが、越王勾践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて没した)が大河(恐らくは長江)を舟で行く途中、魚鱠(なます)を食べ、その残りを川に捨てたところ、それが化して魚になったのを「鱠殘魚」と名付けたことによる。原文の一つは、「文選」に所収する、名編の誉れ高い、晋の左思「三都の賦」の一篇、「呉都賦」に「雙則比目、片則王餘。」(雙は、則ち、「比目(ひもく)」、片は、則ち、「王餘(わうよ)」。:両の目を並び持つ魚は「比目」と言い、片目しか持たない魚は「王餘」と言う。)に劉淵林が注した、「比目魚、東海所出。王餘魚、其身半也。俗云、越王鱠魚未盡、因以殘半棄水中爲魚、遂無其一面、故曰王餘也。」(「比目魚」は東海に出づる所のものなり。「王餘魚」は其の身、半なり。俗に云ふ、『越王、鱠魚(くわいぎよ)を未だ盡さざるに、因りて以つて、殘半を水中に棄つるに、魚と爲る。遂に、其の一面、無し。故に「王餘」と曰ふなり。』と。:比目魚は東海に産するものである。王餘魚はその魚体が丁度半分しかない。俗に伝えるところでは、『越王が膾(なます)にした魚を食べ尽くさないうちに(呉王が奇襲をかけてきたため)、その残りの半身を水中に棄てたところ、それが生きたまま魚となった。しかし、それは丁度その魚体の半分がなかった。故に王の余した魚と名づけたのである。』と。))(ここでは「越」王となっている)等がある。さても本邦ではこれをシラウオの漢名のように記すが、以上の狭義のシラウオ種群の現行の分布から考えて、その魚は本邦のシラウオではない。しかし、中文ウィキ「シラウオ科」(中文名「銀魚科」Salangidae)に古称を「鱠殘魚」としてあり、太湖・洪沢湖・巣湖・洞庭湖に棲息するとし、多くの種を挙げているが、例えば、太湖新銀魚 Neosalanx taihuensis とあるので、一部は同じシラウオ属ではあることは判る。

『本草に「王餘魚」とも「銀魚」とも云ふ』明の李時珍の「本草綱目」の「巻四十四」の「鱗之三」の「無鱗魚」に、

   *

鱠殘魚【「食鑑」。】

釋名王餘魚【「綱目」】。銀魚。時珍曰、按「博物志」云、王闔閭江行、食魚鱠、棄其殘餘於水、化爲此魚、故名。或又作越王及僧寶誌者、益出傅會、不足致辯。

集解時珍曰、鱠殘出蘇、松・浙江。大者長四五寸、身圓如筯、潔白如銀、無鱗、若巳鱠之魚、但目有兩黑。彼人尤重小者、曝乾以貨四方。淸明前有子、食之甚美。淸明後子出而瘦、但可作鮓腊耳。

氣味甘、平、無毒。

主治作羮食、寛中健胃【寗源。】

   *

とある。

『ほして、串にさしたるを「目ざし」と云ひ、遠くにをくる』う~ん、あの大きさのシラウオの「目刺し」って、作るの手間掛かりそう。でも、食べてみたい!

「貨(う)る」「賣る」(売る)に同じ。

「きすご」スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス(鱚)類、或いは同科キス属シロギス Sillago japonica の別名である。

「鱗、無く」厳密には誤りである。シラウオには鱗は殆んどないが、の尻鰭より有意に大きいので性差判別のポイントとなる)の基底部付近に尻鰭鱗がある大阪府立環境農林水産総合研究所公式サイトシラウオページの画像で視認出来る。

「中」漢方で言う仮想の体内概念である「中焦(ちゅうしょう)」であろう。上・中・下の三焦の中部。脾胃(ひい:胃の機能を助ける仮想器官群概念)を包括した概念で、消化吸収及び腸管への伝送を行い、気血生化の源とする。

「欬〔(せき)〕」「咳」。

「江州の田上(たなかみ)」現在の大津市の瀬田川が琵琶湖から流れ下る、附近の広域旧地名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、非常な問題がある。次注参照。

「堅田」滋賀県大津市堅田た)であるが、ここで益軒は「冰魚(ひうを)」=シラウオと認識しているが、これはシラウオではない。そもそもが完全な淡水である琵琶湖やそこから出る瀬田川の上流部に汽水産のシラウオがいるはずがないのである。琵琶湖で現在も「氷魚(ひうお)」と呼ばれる殆んど透明な小さな魚はいる。しかしそれは、二~三センチメートルほどの稚鮎(ちあゆ:条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis の幼魚)を指すのである。また、やっちゃいましたね、益軒先生。

「鰷-魚〔(あゆ)〕」現行では多くの場面で「鰷」を「はや」(複数種の川魚を指す総称)と読むが、益軒はアユをこれに当てる。「和漢三才図繪会」でも寺島良安は「鰷」を「あゆ」と読んでいる。

「苗〔(こ)〕」幼魚・若魚。]

譚海 卷之三 和哥宗匠家

和哥宗匠家

○和歌宗匠家と稱するは、和歌堪能の仁(ひと)にあれば御製(ぎよせい)を直し被仰付(おほせつけられ)御製へをかけ奉るより、堂上一般に和歌の宗匠(そうしやう)と仰ぎ、詠藻を其仁へ見せ點を乞(こふ)るゝ事に成(なる)故、點勅許の人とも稱する也。世俗歌所(うたどころ)と覺えたるも此(この)事也。宗匠家と稱するは何れの家にも限らず、とかく堪能の仁あれば許(ゆるさ)るゝ也。普通には上冷泉(かみれいぜい)・飛鳥井(あすかゐ)兩家代々勅撰の家なれば、宗匠家と申也。禁裏御會(ごくわい)の和歌題は、此兩家の出(いだ)さるゝに限る事也。故に點削勅許なき人は、猥(みだり)に他の詠藻に點かくる事成(なり)がたき事也。内々讀歌直し貰ても、和歌相談と稱する事とぞ。

[やぶちゃん注:「上冷泉」冷泉家(れいぜいけ)は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家で、代々、近衛中将に任官された。家名は冷泉小路に由来する。歌道の宗匠家の内の一つで、冷泉流歌道を伝承する。参照したウィキの「冷泉家の「室町時代―江戸時代の上冷泉家」によれば、『室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった』。『冷泉為尹』(ためまさ)は応永二三(一四一六)年、『次男・持為に播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するために為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった』。『戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された』天正一四(一五八六)年『には勅勘を蒙り、再び地方に下った。このまま地下家として埋もれてしまう可能性もあったが、秀吉が亡くなった』慶長三(一五九八)年、『徳川家康の執成しによって都へ戻り』、『堂上家に戻る事が出来たとされる』。『かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである』。『江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった』とある。

「飛鳥井」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流。ウィキの「飛鳥井家」によれば、『鎌倉時代前期、難波頼経の子雅経に始まる。代々和歌・蹴鞠の師範を家業とした。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府』二『代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で雅経は後鳥羽上皇に近侍し藤原定家などとともに『新古今和歌集』を撰進し、和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。 応仁の乱で、一族が近江国や、長門国に移住し、家業を広めた』。『室町時代には将軍家に近侍した雅世・雅親父子が歌壇の中心的歌人として活躍した。飛鳥井雅世は、『新続古今和歌集』の撰者となり、飛鳥井雅親は、和歌・蹴鞠のほかに書にも秀で、その書流も蹴鞠と同じく飛鳥井流と称される。雅親の弟・飛鳥井雅康(二楽軒)も歌人としての名声が高く、足利将軍家や若狭守護武田元信などの有力な武家と深い親交があった』。この二人によって、以後、飛鳥井家は二条家・冷泉家と並ぶ歌道家と目されるに至った(この挿入のみは平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。『戦国時代から江戸時代初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。江戸時代の家禄は概ね』九百二十八『石であった』とある。

「御會」歌会を敬って言う語。]

甲子夜話卷之五 29 有德廟、酒井哥雅樂頭を大坂御城代に命ぜられし事

5-29 有德廟、酒井哥雅樂頭を大坂御城代に命ぜられし事

酒井雅樂頭は國家棟梁の世臣なりしが、忠臣なりしが、享保中忠□【一字忘】と云を大坂城代に命ぜられける。そのときの御諚に、稽古の爲仰付らるるとの御事なりしとぞ。是は世々四品にて、城代など勤めたること無きほどの家なれば、かくは仰られしなり。今に此御諚は、酒井家の密に規模とすることなり。御役仰付らるゝ時は、おもたゞしく並々の如き次第にて命ぜられしが、やがて別に御前へ召れける。其時は棧留の御袴を召し、小刀を持玉ひ、箸にて猿を削らせられながら御目通なり。大坂の事など樣々御噺あり。良久くして忠□退きけるを、又召返され、家老は誰を召連行ぞとの御尋なり。兼てそれ迄には思ひはからざりしが、家柄にもあり、そのとき筆頭にもあればとて、高須隼人を召連候と申上ければ、それにてよしとの仰なり。格別閥閲の人なれば迚、かく御懇遇ありしなり。忠□が身に取りて、いかばかりか難ㇾ有ことなるべし。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」吉宗。

「酒井哥雅樂頭」忠□(さかいうたのかみ)で、吉宗の治世に「大坂御城代」となったのは、酒井雅楽家では上野前橋藩第九代藩主・播磨姫路藩初代藩主で雅楽頭系酒井家宗家九代の酒井忠恭(ただずみ 宝永七(一七一〇)年~安永元(一七七二)年:当時、従四位下雅楽頭、後に、西丸老中・侍従となり、転じて本丸老中首座となった)であるが、彼の城代在任は元文五(一七四〇)年~寛保四(一七四四)年で、「享保中」ではない。一方で、享保(一七一六年~一七三六年)年間には、若狭小浜藩第五代藩主で小浜藩酒井家六代の酒井忠音(ただおと 元禄四(一六九一)年~享保二十(一七三五)年:当時、従四位下讃岐守。後に老中になり侍従に昇格)が大坂城代(享保八年~享保十三年)を務めているが、彼は酒井雅楽家系の別家小浜藩酒井家である。名前の一字を不明とするところから、或いは静山は既に混同に気づいていたのかも知れない。後に出る筆頭家老「高須隼人」は宗家の代々の有力重臣(老中・家老)高須家が継いだ通称であるから、ここは前者、酒井忠恭と考えてよいか。私は江戸時代には冥いので誤認があれば、ご指摘戴きたい。

「四品」(しほん)は四位に同じ。酒井家宗家は忠恭まで概ね従四位下より上は受けていない。

「城代など勤めたること無きほどの家」酒井忠恭までの二十九人の大阪城代は従四位下もいるが、従五位下の方が多いようである。

「密に」「ひそかに」。

「規模」規範。家訓。

「棧留」(さんとめ)は「桟留縞 (さんとめじま)」で「唐桟(留)(とうざん(どめ))」とも呼ぶ、木綿縞の織物の一種。「さんとめ」はインドのサントメ(コロマンデル地方のセント・トマスの訛り)から齎されたことに由来する。組織(くみおり)が緻密で、光沢があり、地合いの滑らかな織物。江戸初期からオランダ船によって輸入され、冬着の生地として流行した。江戸末期には川越付近でも生産され、輸入品の唐桟に対してこちらは「川唐」と呼んだ(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「持玉ひ」「持ち給ひ」。

「箸にて猿を削らせられ」意味不明。箸を削って猿の置き物(箸置き?)でも作っておられたんかななぁ?

「御噺」「おはなし」。

「良」「やや」。

「閥閲」「ばつえつ」。功を積んだ格式の高い家筋。酒井雅楽家の初期の宗主酒井雅楽助正親は家康青年期の重臣の一人で、三河統一の過程で西尾城主(現在の愛知県西尾市にあった)に取り立てられ、直臣最初の城主となり、その子重忠は関東で武蔵国川越(埼玉県川越市)に一万石を与えられ、重忠の子忠世は前橋藩主、老中・大老となった。また、その孫の忠清は大老となり、幕政において影響力を持ち、忠世の子孫(言うまでもなく酒井忠恭もその一人)は姫路藩十五万石の藩主となっている(ここはウィキの「酒井を参照した)。

「迚」「とて」。

2019/02/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(24) 「川牛」(4)

 

《原文》

 牛ケ淵牛沼ノ類ハ諸國ニ多ケレドモ、必ズシモ之ヲ以テ川牛又ハ牛鬼ノ如キ珍奇ナル動物ノ産地ト目スルコト能ハズ。安藝高田郡志屋村大字志路ノ黃牛淵(アメガフチ)ノ如キハ、曾テ河童ノ爲ニ村ノ黃牛(アメウシ)ヲ此水ニ引込マレシコトアリシヨリ此地名アリ〔藝藩通志〕。【蘆毛馬】蘆毛淵(アシゲブチ)又ハ馬子淵(ウマノコブチ)ナドト稱シテ、河童ガ蘆毛馬又ハ馬ノ子ヲ引込マントセシ故跡ナリト傳フル例ハ外ニモアレド、其地名ノ由來トシテハ被害者ノ緣故ヲ引クコトハ多少不自然ノ嫌ナキニ非ズ。故ニイツト無ク牛淵ハ牛ノ居ル淵ト明スル者多クナリタルナリ。牛ニ似タル水底ノ怪物ガ、河童乃至ハ淵猿ト同ジク、人ヲ引込ミテ殺シタリト云フ例ハ外ニモ存ス。【池】甲州北巨摩郡旭村上條北割組ノ甘利山ノ山中ニ、佐原池ト呼ブ池アリ。甘利左衞門尉ノ一子此池ニ漁シテ池ノ主ノ爲ニ命ヲ失ヒ、其亡骸ヲスラ見出スコト能ハズ。【赤牛】甘利氏ハ鄕内十村ノ百姓ヲ驅リ集メ、池ノ中へ大木ヲ投ゲ込マセ且ツ不潔ナル物ヲ沃(ソヽ)ガセタルニ、池ノ主ハ赤牛ノ姿ニ化シテ水中ヨリ走リ出デ、更ニ山奧ナル大笹池へ遁入リタリト云フ〔甲斐國志〕。【サハリ池】同郡安都玉(アツタマ)村村山北割組八牛(ヤツウシ)ノ牛池ニモ之ニ似タル口碑アリ。昔時角ノ八箇アル赤牛此池ヨリ飛出シ、八嶽ノ方へ走リ行キシ故ニ、地名ヲ八牛トモ牛池トモ云フナリ〔同上〕。方三間バカリノ小池ナレドモ、水ノ色ノ淸濁ヲ以テ晴雨ヲ占フ風習存シ、池ノ岸ニハ應仁二年[やぶちゃん注:一四六八年。]ノ年號アル六地藏アリト云ヘバ、年久シキ靈場ナルコト疑無シ。

 

《訓読》

 牛ケ淵・牛沼の類ひは諸國に多けれども、必ずしも之れを以つて、「川牛」又は「牛鬼」のごとき珍奇なる動物の産地と目(もく)すること、能はず。安藝高田郡志屋村大字志路の黃牛淵(あめがふち)のごときは、曾て河童の爲に村の黃牛(あめうし)を此の水に引き込まれしことありしより、此の地名あり〔「藝藩通志」〕。【蘆毛馬】蘆毛淵(あしげぶち)又は馬子淵(うまのこぶち)などと稱して、河童が蘆毛馬又は馬の子を引き込まんとせし故跡(こせき)なりと傳ふる例は外にもあれど、其の地名の由來としては、被害者の緣故を引くことは、多少、不自然の嫌ひなきに非ず。故に、いつと無く、牛淵は牛の居る淵と明する者、多くなりたるなり。牛に似たる水底の怪物が、河童乃至(ないし)は淵猿と同じく、人を引き込みて殺したりと云ふ例は外にも存す。【池】【さはり池】甲州北巨摩郡旭村上條北割組の甘利山の山中に、佐原池(さはらいけ)と呼ぶ池あり。甘利左衞門尉の一子、此の池に漁して、池の主の爲に命を失ひ、其の亡骸(なきがら)をすら見出すこと能はず。【赤牛】甘利氏は鄕内十村の百姓を驅り集め、池の中へ大木を投げ込ませ、且つ、不潔なる物を沃(そゝ)がせたるに、池の主は赤牛の姿に化して、水中より走り出で、更に山奧なる大笹池(おおささいけ)へ遁げ入りたりと云ふ[「甲斐國志」〕。同郡安都玉(あつたま)村村山北割組八牛(やつうし)の牛池にも、之れに似たる口碑あり。昔時(せきじ)、角の八箇ある赤牛、此の池より飛び出だし、八嶽(やつがたけ)の方へ走り行きし故に、地名を八牛とも牛池とも云ふなり〔同上〕。方三間ばかりの小池なれども、水の色の淸濁を以つて、晴雨を占ふ風習存し、池の岸には應仁二年[やぶちゃん注:一四六八年。]の年號ある六地藏ありと云へば、年久しき靈場なること、疑ひ無し。

[やぶちゃん注:「安藝高田郡志屋村大字志路の黃牛淵(あめがふち)」現在の広島県広島市安佐北区白木町大字志路(グーグル・マップ・データ)であろう。地区の中央部を西から東に河川が流れている。

「甲州北巨摩郡旭村上條北割組の甘利山」甘利山(あまりやま)は現在の山梨県韮崎市と南アルプス市との境界にある標高約千七百三十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。ピークは山梨県韮崎市旭町上條北割で、上記の地図を拡大して、少し東方向に動かすと池が見え(頂上から東南東約二キロメートルの麓で、同じく山梨県韮崎市旭町上條北割の内である)、この池を「椹池(さわらいけ)」と呼ぶ。これが柳田が言う「佐原池」であろう。しかも、甘利山頂上から南西六百四十メートルほどの位置に「大笹池」がある。さらに、サイト「甘利山倶楽部」の「甘利山の伝説に韮崎市発行の「甘利山の自然」にある山寺仁太郎氏の文章が引用されてある。それによれば、『甘利山の中腹には、椹池(さわらいけ)がある』。標高千二百四十メートルで、面積は約一ヘクタールの、『特異な景観を持つ楕円型の池である。山梨県では珍しい高層湿原といわれる地形であって、湿原特有の植物が生育し、珍しい動物、昆虫の生息地であったが、現在はすっかり開発されて、自然の特質がかなり失われてしまったのが惜しまれるが、この池を舞台にした有名な伝説は今も残っている』とされ、

   《引用開始》

 この池には、昔大蛇が住んでいた。その頃の椹池は、うっそうとした森林に囲まれ、昼尚暗い、物凄い場所であった。池の底深く住んでいた大蛇は、この場所に近づくもの、この池で漁をするものを次々と引き込んで、呑み込んでしまうので、人々は恐ろしい池として、誰一人近寄るものも無かった。

 この大蛇の前身は、下条婆(げじょばんば)と呼ばれる老婆であった。巨摩郡下條村(現韮崎市藤井町)に住んでいた老婆が、ある朝のこと、髪を梳こうとして鏡をのぞくと、意外にも彼女の額(ひたい)には、鬼の角の様なものが二本生え出していたのである。老婆はひどく驚き悲しんで、この様な姿を、息子や嫁や近所の人に見られてはならないと、手拭で頭を包んで自殺しようと家出をしてしまった。

 裏山の笹松というところに登り、七里岩を越えて、青木の鷹の田(たかんた)の池に身を投げようとしたが、水が浅くて果たせず、鐘をつき念仏を唱えながら、鳥居峠を越え、鐘つき平を経て、甘利山中に分け入り、椹池に達して、とうとう入水してしまった。この下条婆が化身して、池中に住みつき、大蛇になったという。

 天文年間(一五三二年~一五五五年[やぶちゃん注:半角アラビア数字のみを、かく書き換えさせて貰った。])、山麓甘利郷の領主、甘利左衛門尉の二人の息子が、この椹池で鮒(ふな)を釣っていると、突然、大蛇が現れて、二人の子供を池に引き込んでしまった。二人の子供の遺骸を見つけることも出来なかったので、甘利氏は大いに怒って、領民に命じて、下肥え、汚物を池に投げ込ませ、また池の周りに生えていた椹(さわら)の木[やぶちゃん注:球果植物門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera。同属のヒノキChamaecyparis obtusa とは形態的にもよく似ており、遺伝的に近く、両者間では繁殖能力のある雑種が生まれている。]を切って、池を埋めたので、遂に大蛇は居たたまらずに赤牛に化けて、池を飛び出し、甘利山の山頂の奥にある大笹池(おおささいけ)に身を隠した。けれども、この池も追われて、大蛇は大嵐(現白根町)の善応寺を通って、中巨摩郡八田村野牛島の能蔵池(のうぞういけ)に逃れ、以来その消息を絶ったという。

 伝説の舞台となった椹池は、椹の木を切り込まれたために名付けられたと説明されている。麓の研場(とぎば)から、急坂になってやがて平坦な鞍部になるが、この地を栗平(くりだいら)という。領民が下肥えの担棒(かつぎぼう)の肩を繰(く)るところだったから、くり平と言う様になったといわれ、頂上直下の鮒窪(ふなくぼ)は、逃亡中の赤牛の尾に喰いついていた一匹の鮒が、この池でぽとりと落としたからだと説明されている。湿原の痕跡がわずかに残っている凹地である。頂上の経塚(きょうづか)は甘利氏が、子息の供養をして経巻を埋めたところとされ、また鈴蘭(すずらん)は、遭難一周忌に甘利氏夫人が、亡き愛児の形見に咲いた花だとして、御霊草(みたまぐさ)と名づけたともいわれる。

 この事件があった甘利氏は、領民の功を賞して、当時、深草山といわれた甘利山一帯を領民に与えて山租を免じた。その証文は最近まで残っていたと伝えられ、現在の甘利山財産区の起源となった。

 研場を過ぎて間もなく、おお欅の下に、甘利山財産区の記念碑が建てられている。当時の知事天野久氏の胎厥孫謀(いけつそんぽう-父祖が子孫に遺すはかりごとの意-)の題字の下に、郷土史家佐藤八郎氏の文章が、氏の長兄佐藤丑蔵氏によって書かれている。

 甘利山のこの伝説は、色々な形で語り継がれ修飾されていて、必ずしも一定してはいない。一説によれば、椹池を追い出された時の大蛇は赤牛ではなくて下条婆そのままの姿であって、鮒窪の鮒は、彼女の濡れそぼれた袖の中からこぼれ落ちたのだとされている。

 現在、大嵐(おおあらし)の城守山善応寺にある千手観音像は、もともと大笹池のほとりに祀られていて、野火に焼かれて大火傷を負ったのを、下条婆が肩に背負って今の場所まで運んで来たのだとも語られている。途中、一休みしたところに水が湧いた。この泉をゴウジミズ(強清水か)と称して、山中憩いの場所となっている。観音様は、善応寺まで負われて来て、もう動くのがいやだと、ここに鎮座ましましたのだという。この千手観音には、現に焼損した跡が残っており、この寺にもまた湧水がある。

 下条村の人が、大笹池に近づいて「大笹池の下条婆」と唱えると、村に帰り着く間に雨になるといわれている。

 複雑で面白い伝説であるが、もともと下条婆の入水遍歴の説話と、山中の池に怪物が住み赤牛に化身するという説話は、別個に発生したものであったらしい。下条婆の話は、主に甘利山を遠く離れた韮崎市藤井町一帯と中巨摩郡白根町八田村一帯に伝承されており、赤牛の話は、山麓、甘利三ヶ町(旭、大草、龍岡)に伝承されていたと見られる。この二つの説話が後世複合してドラマチックな現在の様な形になったのは、案外に近い過去であったと思われるふしがある。

   《引用終了》

とされた上で、柳田國男が引く、「甲斐国志」(文化一一(一八一四)年成立)が引用される。少し手古摺ったが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来た。である。山寺氏の電子化されたものをベースに正字で視認電子化する(句読点は私が附した)。

   *

〔甘利山〕 上条北割村ニ近シ。山年貢、免除ナリ。相傳フ、昔時、甘利左衞門ノ尉ノ子、此山中、佐原池ニ漁シテ、罔象ノ爲ニ命ヲ失ヒ、其屍ヲ得ザリケレバ、甘利氏、怒リテ、其郷中十村ノ民ニ命ジテ、池中ヘ大木ヲ投シ、不潔ヲ沃カセケレバ、罔象ハ、赤牛ニ化シ、走リテ、又、其奥ノ大笹池ニ入リケリ。其賞トシテ山租ヲ免セラレ今尚之ニ仍ルト云。其西界ヲ西種山ト云、又山中ニ天狗水ト云アリ。

   *

以下、山寺氏は、『椹池は当時、佐原池』と『書かれていたのであろう。罔象は池中に棲む怪物のことである』と述べられた上、本柳田國男の「山島民譚集」本文をも引用され、「甲斐国志」「山島民譚集」『いずれも下条婆の説話には触れていない』と記された上で、昭和二二(一九四七)年、『「山島民譚集」の主題を展開させて、文化人類学者石田英一郎は「河童駒引考 比較民俗学的研究」を発表したが、この著作によって、甘利山の伝説が、実は人類文化の根源に触れる重要な文化遺産としての地位を与えられたのであった』と述べておられる。同リンク先には、その後に同じ山寺氏の書かれた、「甘利山の信仰」(韮崎市発行の「韮崎市誌」の第五章第四節)がやはり引用されてあり、前掲の記載を補填され、『罔象とあるのは、ミズチと訓ずべきで、「水中にすみ蛇に似て、角や四足をそなえ、毒気を吐いて人を害するという想像上の動物』『」と考えてよいであろう』と述べられた上、柳田國男の本書の記載の後の記載、「ミズチノ恐怖ハ久シキヲ經テ愈々深ク、神トシテ之ニ仕ヘ其意ヲ迎フルニ非ザレバ其災ヲ免ルル能ハズト信ズルニ至リシナリ」を引かれ、『椹池が水神の棲家としての聖地であったことを示唆している』と断ぜられ、

   《引用開始》

 椹池に住んだ水神は、異形の毒蛇のごときものであって、時に牛の形として出現するという思想は、後に、石田英一郎によって展開された。「多産生成の原始の力を代表する牛は、同時にまた水神の聖獣として、あるいは河伯の犠牲に供えられ、あるいは水精(水神)そのものが牛の姿をとるにいたった――[やぶちゃん注:注記号を略した。]」とされるのである。

 椹池または大笹池には、池中に水神が毒蛇の形をもって住み、山麓民の豊凶や、降雨、水源を支配すると考えられていたことになる。その水神を祀るために、池中に牛の首や、牛の枯骨を投じるという様な風習があった。これは独り、甲州のことだけでなく、全国一般に通有な自然信仰であったとする。

 この自然信仰に対して、苗敷山の僧侶あるいは修験者が、どの様に関与したかは分らない。おそらく、苗敷山開創の以前からこの信仰はあり、椹池・大笹池・経塚を中心として、密教的修法が盛大を極めた時代もあったと想像されるにすぎない。その過去の記憶が、椹池の伝説として今に伝承されたと言えるであろう。

 『甲斐国志』に前述のごとく記載されている伝説は、実際にはさらに複雑な形態をとって、あるいは脚色されて現在の口碑となっている。それはおおむね次の様な形・内容で語られている。

 昔、巨摩郡下条村の某家の老婆は、ある朝のこと髪をすこうとして、鏡をのぞくと、いかなる理由か、額に二本の角が生えているのを発見した。老婆この姿を家族や近隣の者に見られてはならないと、手ぬぐいをかぶって家出した。まず、裏山の高松というところに登り、七里岩を横断し、釜無川を渡って、山中に入り鷹ノ田の池に投身しようとした。この池は水が浅くて自殺することができず、鉦をつきながら鳥居峠に出た。それで、今鳥居峠の下を鉦突き平という。さらに当時は深草山と言われた甘利山に分け入り、椹池に入水した。当時この池は、その深さを知るものなく、水面はおよそ三四丁歩ぐらい、周囲は椹の密林で昼なお暗いものすごいところであった。この老婆を下條婆(げじょばんば)と言う。この下条婆が化身して池中深く住みついて池の主となった。これが罔象(ミズチ)であったとする。天文年間甘利郷の領主、甘利左衛門尉の子息(一子とも二子ともいい、その名前も旭丸とか山千代と伝えられる)が、この池で鮒を釣っていると、突然、池中の大蛇に引き込まれて、その遺骸も行方も分らなくなったという事件が起こった。甘利氏は大いに怒って、甘利郷十ヵ村の民に命じて、下肥を担がせて池に投じさせた。その領民が、下肥の担棒をくったところが、くり(栗)平とする。また池を囲む椹の密林を伐って、池を埋めたので、ついに池の主は赤牛と化して鮒窪(ふなくぼ)というところを通って、山奥の大笹池に逃れた。鮒窪を通過する時、赤牛の尻尾に喰いついていた一匹の鮒がぽとりと落ちたのでこの地点を鮒窪と名づけたと言う。

 一説によれば、池中を追い出された池の主の姿は、再び下條婆であって、ぬれそぼれたたもとの中に入っていた鮒がここで落ちたのだという。大笹池に到った池の主は、ここもまた追われて、大嵐(現白根町)の城主山善応寺をとおり、野牛島(現八田村)の能蔵池に到り、その後は分からないという。

 大嵐側の語り方に従えば、大笹池のそばには、観音様が立っていて、それが野火で焼けた。下条婆は大笹池を逃散する時、この観音様を背負って大嵐に向かった。途中一服したとことに水が湧いた。今ゴウジミズ(強清水か)の泉という。さらにオバガイド(姥之懐か)をとおって善応寺のところへくると観音様は、もう疲れたからここでおろしてくれという。それで善応寺に今、観音様が祀られているのだという。この寺の前にも清冽な湧水がある。

 甘利氏の子息の法要は、甘利山頂の広河原で行われ、千駄の薪を焚き、読経し、その経文は経筒に封じて今の経塚に埋めたという。

 伝説の大要は前記のとおりであるが、伝説であるだけに、いろいろな形で語られ、内容も少しずつ変化しているのが認められ、定形を得ることは困難である。最も詳細にこれを伝えたのは、向山浅次郎[やぶちゃん注:注記号を略した。]であるが、その他に北巨摩郡教育会[やぶちゃん注:同前。]、河村秀明[やぶちゃん注:同前。]、韮崎市教育委員会[やぶちゃん注:同前。]、韮崎市商工観光課[やぶちゃん注:同前。]等がこの伝説を採集・収録している。

 ここで考えられるのは、この一連の伝説は、もともと二つの説話を合成して語られていることである。一つは、『甲斐国志』の記載した山中の池沼に水神が住んでいたという記事、もう一つは、巷間に伝えられた下条婆の入水遍歴の説話である。この二つはもともと別個のものであった。別の時代に、それぞれの地域に発生したもので、共通しているのは、鮒を道連れにして、鮒窪で落としたという点である。

 前者は山中の池中に水神が住むという自然信仰の痕跡を示し、後に、その水神が零落してゆく過程を示している。

 水神を零落させたのは恐らく苗敷山の修験者・僧侶の力であって、その背後に同山に対する甘利氏の厚遇・崇敬という事実が隠されているのではないかと思われる。自然信仰に基づく水神が、仏教修験者の法力によって漸次無力化して、領主の威光が顕現する。さらに領主は、その領林を郷民の共有地・入会地というような形に移行させて経営をはかったと考えられるのである。この間の事情は、偶々昭和三九(一九六四)[やぶちゃん注:アラビア数字を漢数字に代えた。]年に甘利山登山道の入口研場に建立された胎厥孫謀(いけつそんぽう)と題する甘利山財産区の碑によっても、推定できるものと考える。

 後者の下条婆の入水遍歴は、藤井村下條地区の農民が、高松・鷹ノ田・椹池・鮒窪・大笹池・ゴウジミズ・大嵐・能蔵池と祈雨の効果を求めて経由してゆく、雨ごいの道であったと考えられる。中巨摩の野牛島方面の農民は、この逆経路をたどって大笹池・椹池に至ったものであろう。その近くにある千頭星山・甘利山頂経塚などは、雨ごいの行事の一つである千駄焚・千把焚が行われた可能性もある[やぶちゃん注:注記号を略した。]。事実現在でも、下条地区の人たちが、甘利山頂に登り、大笹池を俯瞰して「大笹池の下条婆」と呼ぶと、かれらが下山して帰村するまでに降雨があると言われている。いずれにしても、甘利山一帯は、かつて雨ごい行事の舞台であった。

 この二つの説話が合成されたのは、意外に近い過去であって、大正の末年から昭和初年にかけて起こったこの山の観光開発の必要性からでは無かったかと思われる[やぶちゃん注:注記号を略した。]。

 以上の様に甘利山における山岳信仰は、その残存が、伝説という形で残っていて、実際の信仰行事は、近い過去までは、雨ごいの様な極めて民間信仰的なもののみであったとみなければならない。

 椹池近くにある甘利神社は、古い神社ではない。昭和一一(一九三六)[やぶちゃん注:アラビア数字を漢数字に代えた。]年五月二五日に上棟式が行われた。毎年五月五日に山開きを兼ねた祭典が行われるが、その祭神は甘利左衛門尉である。その祝詞によると、甘利公の遺徳を顕彰して、甘利山経営の進展と、住民の安全を祈願するという建前になっているが、観光的繁栄を求める気持も含まれているらしい。社殿中央の神鏡は甘利公を象徴するものであるが甘利神社と書かれた木札の彫刻は、異様な動物を表すものであって、伝説の大蛇と思われる。

 甘利山中には、各所に山の神・水の神を祀る祠があったと思われる。今、椹池から三六か村の山へ[やぶちゃん注:注記号を略した。]ゆく山路には、二基の石祠がある。一つは「文化二年乙丑正月十七日 山口組」、一つには「文□□午二月 武川筋若尾村」と刻まれている。このほかに大笹池から大嵐に下る途中に村名だけ「百々村」と彫った石祠もある。椹池畔にも昔二基あったが、今は、一基の屋根だけが残っている。これは、椹池の水神を祀ったとも、また甘利氏の子息を祀ったとも伝えられていた。これらはかつて、それぞれの祭日に祭祀が行われたと考えられるが、信仰の衰退と、祭祀の煩わしさのために、甘利神社に合祀したということが考えられる。山中に住む、山神・水神・魑魅魍魎のことごとくを新しい神社に封じ込めたと考えてもよいであろう。妙になまなましく彫られた木札の彫刻はそんなことを想像させる。

 甘利神社が菓子組合の信仰するとこととなったのは、甘いものを売って利を得るという単なる語呂合わせに過ぎない。それにしても昭和初年、観光宣伝の始まった時代に、新しく建てられた神社というものは、古い信仰と新しい現世利益を混合した不思議な信仰に維持されているという感が強い[やぶちゃん注:注記号を略した。]。

 韮崎市の山岳信仰について、鳳凰山・苗敷山・甘利山の三か所の信仰の概略を述べたが、多くの山岳に富む当市には、なお多くの山岳信仰として採り上げねばならぬものがある。その一つは、茅ヶ岳であり一つは、穂坂町上今井の山の神である。両者とも『甲斐国志』を始め、記載する地誌もあるので、さらに資料を収集して、これを考察するのは今後の課題といえよう。

   《引用終了》

最後に、多量に引用させて戴いた(これで私のここでに屋上屋の注は不要と考える)山寺仁太郎氏に御礼申し上げる。因みに、頭書の「【さはり池】」は、本文に出ないが、これは、この「佐原池」に「潔なる物を沃(そゝ)がせ」たりした、「障(さは)」りのある「池」というの注目を指示するための、柳田國男の勝手な目立ちたがり屋のやるそれととっている。正直、「厭な感じ」というのが私の感想である。

「同郡安都玉(あつたま)村村山北割組八牛(やつうし)の牛池」現在の山梨県北杜市長坂町長坂上条にあ長坂と推定される(グーグル・マップ・データ)。但し、旧安都玉村村山北割組は、もっと東に当たるので断定は出来ない。「水の色の淸濁を以つて、晴雨を占ふ風習」があったこと、及び、「池の岸には應仁二年の年號ある六地藏あり」が決定打になろうが、私には調べ得なかった。悪しからず。識者の御教授を切に乞うものである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(23) 「川牛」(3)

 

《原文》

 神ガ川牛ノ背ニ乘リテ出デラレタル話アリ。【水神】下總北相馬郡文(フミ)村大字押付ノ水神社ハ蠶養(コカヒ)川ノ岸ニ在リ。此神ノ正體ハ川牛ニ乘リタル木像ニシテ、其牛ノ右ノ角折レタリ。御影ノ版畫モ亦此ノ如シ。其由來ハ昔隣村ノ大字大平(タイヘイ)ニ御大平樣ト云フ異人アリ。今日大平權現(オホヒラゴンゲン)ト稱シテ村ニ祭ル者卽チ是ナリ。【神ノ爭】此御大平樣、アル日水神ノ社ノ下ニ來テ釣ヲ垂レタルヲ、水神怒リテ川牛ニ乘リテ出現シ其釣竿ヲ奪ヒ取ラントス。異人ハ驚キテ傍ノ藤蔓ヲ取リ之ヲ投附ケタルニ、川牛ノ頭ニ引掛リテ右ノ角折レタリ。ソレ故ニ神體ノ牛ニ片角無キナリ〔利根川國志二〕。日本ニテハ珍シキ話ナレド支那ニハ之ニ似タル川牛アリ。勾漏縣ト云フ地方ニハ大江ノ中ニ水牛ノ如キ獸住シ、水ヨリ出デテヨク鬪爭ス。其角ハ陸ニ在リテハ軟キコト押付水神社ノ川牛ノ如ク、江水ニ却リ入レバ角堅クナリテ復出ヅトアリ〔酉陽雜爼續集八〕。【石ノ窪】【鹽】東京小石川ノ牛天神ノ牛石ハ、石ノ上ニ窪ミアリテ昔ハ之ニ鹽ヲ供ヘタリト云フ。或ハ又海中ヨリ出現セシ天神ノ乘物ノ化石シタルニハ非ザルカ。同市向島ノ牛御前(ウシゴゼン)ナドハ川牛ノ記念トシテ一箇ノ牛ノ玉ヲ保存セリ。【牛鬼】若シ彼社ノ緣起ノ文ニ誤無シトスレバ、昔建長ノ二年ニ淺草川ノ底ヨリ牛鬼ノ如キ物飛ビ出シ、天下ニ疫病ヲ流行セシム。【牛頭天王】牛頭(ゴヅ)天王ノ降魔ノ力ニ由リテ、右牛鬼類似ノ物ハ此社ニ飛込ミ、一國忽チニシテ平穩ニ復スト云フ〔十方菴遊歷雜記第二編中〕。此社ノ神體ハ卽チ牛頭天王降魔ノ異形ト云フコトナルガ、ソレニシテハ被征服者ノ名ヲ以テ其御社ニ名ヅクルコト、聊カ解シ難キニ似タリ。

 

《訓読》

 神が川牛の背に乘りて出でられたる話あり。【水神】下總北相馬郡文(ふみ)村大字押付の水神社は蠶養(こかひ)川の岸に在り。此の神の正體は川牛に乘りたる木像にして、其の牛の右の角、折れたり。御影(みえい)の版畫も亦、此(かく)のごとし。其の由來は、昔、隣村の大字大平(たいへい)に御大平樣と云ふ異人あり。今日、大平權現(おほひらごんげん)と稱して村に祭る者、卽ち、是れなり。【神の爭(あらそひ)】此の御大平樣、ある日、水神の社の下に來(きたり)て、釣を垂れたるを、水神、怒りて、川牛に乘りて出現し、其の釣竿を奪ひ取らんとす。異人は驚きて、傍らの藤蔓(ふじづる)を取り、之れを投げ附けたるに、川牛の頭に引き掛りて、右の角、折れたり。それ故に、神體の牛に片角無きなり〔「利根川國志」二〕。日本にては珍しき話なれど、支那には、之れに似たる川牛あり。勾漏縣(こうろうけん)と云ふ地方には大江の中に水牛のごとき獸、住し、水より出でて、よく鬪爭す。其の角は、陸に在りては、軟(やはらか)きこと、押付水神社の川牛のごとく、江水(かはみづ)に却(かへ)り入れば、角、堅くなりて復(ま)た出づ、とあり〔「酉陽雜爼續集」八〕。【石の窪】【鹽(しほ)】東京小石川の牛天神の牛石は、石の上に窪みありて、昔は之れに鹽を供へたりと云ふ。或いは又、海中より出現せし天神の乘物の化石したるには非ざるか。同市向島の「牛御前(うしごぜん)」などは川牛の記念として一箇の牛の玉を保存せり。【牛鬼(うしおに)】若(も)し彼(か)の社の緣起の文(ふみ)に誤り無しとすれば、昔、建長の二年[やぶちゃん注:一二五〇年。]に淺草川(あさくさがは)の底より、牛鬼のごとき物、飛び出だし、天下に疫病を流行せしむ。【牛頭天王(ごづてんわう)】牛頭(ごづ)天王の降魔の力に由りて、右牛鬼類似の物は此の社に飛び込み、一國、忽ちにして平穩に復すと云ふ〔「十方菴遊歷雜記第二編」中〕。此の社の神體は、卽ち、牛頭天王降魔(がうま)の異形(いぎやう)と云ふことなるが、それにしては、被征服者の名を以つて其の御社に名づくること、聊か解し難きに似たり。

[やぶちゃん注:「下總北相馬郡文(ふみ)村大字押付の水神社」現在の茨城県北相馬郡利根町の北西部。この附近(グーグル・マップ・データ)。「利根町立文小学校」に名が残るのが確認出来る。ここで言う「水神社」は茨城県北相馬郡利根町布川(旧押付本田地区)に現存する押付本田水神宮と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。直近には「水神宮」が複数あるが、tanupon氏のサイト「タヌポンの利根ぽんぽ」の「タヌポンの利根ぽんぽ行 押付本田の水神宮」(非常に緻密な考証と現地踏査を行っておられ、写真も