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2019/02/26

和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら) (ラバ/他にケッティ)

 

Raba

 

ら    附 駃騠 駝𩢷

 𩦺 

【音羅】

        驘【騾之古文】

ロウ

 

本綱騾狀大于驢健于馬其力在腰其後有鎖骨不能開

故不孳乳其類有五種今俗通呼爲騾矣【三才圖會其後之後字股】

牡驢交馬而生者卽騾也 牡馬交驢而生者爲駃騠【決題】

牡牛交馬而生者爲驢 牡驢交牛而生者爲駝𩢷【它陌】

牡牛交驢而生者𩦺【謫蒙】

五雜組云驘之爲畜不見於三代至漢時始有之然亦非

中國所産也匈奴北地馬與驢交合而生今北方以爲常

畜其價反倍於馬矣

駃騠爲神駿而騾爲賤畜可見人物稟氣於父不稟氣於

母也孟康曰駃騠良馬生七日而超其母

 

 

ら    附〔(つけたり)〕

       駃騠〔(けつてい)〕

       駝𩢷〔(だはく)〕

 𩦺〔(てきまう)〕

 驢〔(きよろ)〕

【音、「羅」。】

        驘〔(ら)〕【「騾」の古文。】

ロウ

[やぶちゃん注:「附〔(つけたり)〕」は「附録」の意。「古文」は「古い字」の意。]

 

「本綱」、騾、狀、驢より大にして、馬より健〔(すこや)か〕なり。其の力、腰に在り、其の後ろに、鎖骨、有り、開く能はず。故に孳乳〔(うみさか)えること〕せず。其の類ひ、五種有り。今、俗に通〔(とほ)し〕呼んで「騾」と爲す【「三才圖會」、「其の後ろ」の「後」の字を「股」と爲す。】。

牡驢〔(をすのろば)〕、馬に交はりて生〔まれし〕者を、卽ち、「騾」〔とする〕なり。

牡馬、驢と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「駃騠」【〔音、〕「決題」。】と爲す。

牡牛、馬と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「驢」と爲す。

牡驢、牛と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「駝𩢷」【〔音、〕「它陌」。】と爲す。

牡牛、驢と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「𩦺」【〔音、〕「謫蒙」。】と爲す。

「五雜組」に云はく、『驘の畜たること、三代[やぶちゃん注:夏・殷・周。紀元前一八〇〇年頃から紀元前二五六年まで。]に見えず、漢〔の〕時[やぶちゃん注:前漢の建国は紀元前二〇六年。]に至りて、始めて、之れ、有り。然も亦、中國にして産む所に非ざるなり。匈奴〔(きようど)の〕北地〔にて〕、馬と驢と交-合(つる)びて生〔まる〕。今、北方には、以つて、常に畜と爲す。其の價〔(あたひ)〕、反〔(かへ)り〕て、馬より倍す。』〔と〕。

「駃騠」〔は〕神駿〔(しんしゆん)〕たり、「騾」〔は〕賤畜たり。見るべし、人〔及び動〕物、氣を父に稟〔(う)〕け、氣、母〔よりは〕稟けざ〔れば〕なり。孟康、曰はく、『駃騠、良馬なり。生まれて七日にして其の母を超ゆ』〔と〕。

[やぶちゃん注:主項の「騾」(騾馬)は実在する、

奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus

であり、その反対の交雑種である「駃騠」は、

ウマ属ケッテイEquus caballus × Equus asinus

として実在する。しかし、「本草綱目」がまことしやかに言っているウシとウマの間に出来るとする「驢」、ロバとウシとの「駝𩢷」、ウシとロバとの「𩦺」などという交雑種は昔も今も存在しない(但し、遺伝子技術の過剰な暴走の中で将来そのような呪われたハイブリッド種を、狂った「ドクター・モロー」たちが生み出さないとは言えない)。ウィキの「ラバをまず引く。『雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜で』、『北米』(英語:Mule)、『アジア(特に中国)、メキシコに多く、スペインやアルゼンチンでも飼育されている』。『逆の組み合わせ(雄のウマと雌のロバの配合)で生まれる家畜をケッテイ(駃騠、英語: Hinny)と呼ぶが、ケッテイと比べると、ラバは育てるのが容易であり、体格も大きいため、より広く飼育されてきた』。『家畜として両親のどちらよりも優れた特徴があり、雑種強勢の代表例である』。『体が丈夫で粗食に耐え、病気や害虫にも強く、足腰が強く脚力もあり、蹄が硬いため』、『山道や悪路にも適す。睡眠も長く必要とせず、親の馬より学習能力が高く調教を行いやすい。とても経済的で頑健で利口な家畜である』。『唯一』、『欠点として、「stubborn as a mule(ラバのように頑固)」という慣用句があるように、怪我させたり』、『荒く扱う等で機嫌が悪くなると、全く動かなくなる頑固で強情な性格がロバから遺伝している。それ以外は、大人しく臆病で』、『基本』、『従順である。あとは、馬よりは駆け足の速さが劣るぐらいである』。『鳴き声は馬ともロバとも異なるが、ややロバに似る』。『ラバとケッテイは』孰れも基本的には『不妊である。不妊の理由として、ウマとロバの染色体数が異なるからだと考えられている。ただ、発情期はあり、理論上は妊娠可能である。胚移植したように自然に妊娠することも稀ではあるが』、『ある』(後述)。『大きさや体の色はさまざまである。耳はロバほど長くない。頸が短く、たてがみは粗い』。『ラバは紀元前』三〇〇〇年から、二一〇〇年と一五〇〇年との間ごろには、『エジプトで知られていたと考えられている。ファラオがシナイに鉱山労働者を送る際、ラクダではなく』、『ラバで送ったという岩の彫刻が残っている。エジプトのモニュメントには、ラバにチャリオットを引かせる絵が残っており、当時から輸送に関わっていた事が分かる』。『黒海沿岸の(現代のトルコの北部と北西部の部分)パフラゴニアとニカイアの住民が、ラバの繁殖を最初に行ったと言われている。 古代における重要性は高く、ヒッタイトが隆盛を誇っていた頃は戦車用の馬の』三『倍の価値があった。紀元前』三『千年紀のシュメールの文書によれば、ロバの』七倍の二十~三十シェケル(西方で古代に長く用いられた通貨単位)、エブラは(シリア北部アレッポの南西五十五キロメートルに位置した古代都市国家。紀元前三千年紀後半及び紀元前二千年紀前半(紀元前一八〇〇年~紀元前一六五〇年)の二つの時期に繁栄を誇った)では平均六十シェケルの『高値で取引されていた。古代のエチオピアでは至上の動物として扱われ、聖書に登場するダビデ王はソロモンら王子の乗る動物に「ロイヤルビースト」としてラバを薦め、自らも愛用した。それらを含め旧約聖書の中でラバの記述は』十七回も『登場する』。『ローマ帝国でも回復力が高いラバは駄獣として駅伝制度クルスス・プブリクスなどで重用された』。『また、力が強く』、『多頭の輓用にも向いたラバは』、『ローマ軍の前線補給など、短距離輸送に活躍し』、『ウマ同様』、『騎乗用として用いられることも多かった』。『中世ヨーロッパ、巨大な馬に重装甲騎士が跨っていた頃、ラバには聖職者と階級の高い紳士が跨っていた』。十八『世紀になると、ラバの繁殖がスペイン、イタリア、フランスで一大産業となり、フランスのポワトゥー州では毎年』五十『万頭』も『生産された。地元の大型ロバ』である『ポワトゥー種が』、『畑作業で重宝する重牽引ラバの片親として適していた』ため『である』。『より大きく、強力なロバの品種改良がカタルーニャとアンダルシアで進められた直後から、スペインはラバ繁殖業界のトップグループに並んだ。スペイン帝国では、雌ラバは乗馬用に、雄ラバは銀山の輸送用として重宝されるだけでなく、国境警備にも用いられ、各前線哨戒基地や農園では独自に繁殖が行えるよう』、『最低』、『一匹』は『種ロバが確保された』という(以下、アメリカでのラバ史が詳細に綴られるが、略す)。『内燃機関の登場で軍を去ったラバは農場に迎えられた。しかし、第二次世界大戦中、信頼性の高い農業用ラバ導入が試みられたが、農村にも内燃機関の波が押し寄せていた』。『山岳が多く道路の整備が進んでない国では、今でも現役で働いている。先進国では農耕はトラクター、輸送はトラックに置き換わったが、趣味の世界である高級な馬のショーでは、どの分野でも活躍している。また、軍事の分野でも活躍している』ラバは『モータリゼーション、電撃戦の普及する以前、戦争で重要な役割である火砲や物資輸送等の兵站に関わっていた。ナポレオン』『世は騎兵の運用について天才的な戦史をいくつも残した人物だが、当人は乗馬が下手なのかラバに乗っていたとされるほか、ラバを砲兵隊で大砲を曳く馬として大量に使っていたという。ナポレオンは、砲兵の出身であるため、ラバを扱い慣れていたと考えられている』。『現在、その役割の多くをヘリや車両などが担っているが、それらが侵入できないアフガニスタンのような山岳地域等への物資輸送として活用されている』とある。

 次にウィキケッティ」を引く。『ケッテイ(駃騠)は、オスのウマとメスのロバの間に生まれるウマ科の雑種動物で』、『外見は』『ラバと似ている』。『ケッテイは、平均的にラバよりわずかに小型である。この』二『種類の雑種の間に見られる体格差に関しては、多くの考察がなされている。一つはこれが単に生理学的なもので、メスのウマに比べてメスのロバの方が小さいことに起因するというものである。一方、これは遺伝的なものであると主張する人もいる。しかし、アメリカロバ・ラバ協会 (ADMS: American Donkey and Mule Society) は「ケッテイが親から受け継ぐ遺伝子はラバと全く同じである」としている』。『ウマ科の子孫の成長度は母親の子宮の大きさに影響されるが、ほとんどの場合ロバはウマより小さく、ケッテイは小さな体格となる。ラバ同様その大きさは様々であるが、これは母親となるロバが、馨甲(withers)』(きこう:ウィザーズ:牛馬などの肩甲骨間の隆起を指す語)『の部分で』約六十一センチメートル『ほどの小さなものから、ボデ・デュ・ポアトゥ (フランス語:Baudet de Poitou)のように一メートル二十六センチメートル『ほどのものまで、様々であるからだ。ケッテイの体格は最も大きな個体でも、おおよそロバの中でも最大の種の大きさまでにしかならない。これに対してラバはウマを母親とするので、ウマの中でも最大の種の大きさ程度まで成長することができる。ラバの中にはかなり巨大な個体も見られるが、それらはベルジアンのような使役馬から生まれたものである』。『体格の大きさ以外にも、ラバとケッテイの間にはしばしば差が見られる。ケッテイの頭は、ラバ以上にウマに似ている。しばしば』、『短い耳のケッテイがいるとはいえ、それでもそれらはウマの耳よりは長く、またラバよりもウマに似た』鬣『や尾を持つ。毛色の決定はオス親に依存しているため、ケッテイの毛は通常』、『ウマと同じとなる。また、逆にラバはロバの毛色と同じになるのが一般的である。一部のウマやロバが持っている、歩法などのある種の形質は、オスの親から遺伝すると考えられている。このため、多くの人が歩法のできるケッテイを作り出そうとして、歩法のできるオスのウマとメスのロバによる交雑を試みている』。『ウマとロバは染色体の数が異なっており(ロバ 』六十二『本、ウマ 』六十四『本)、ケッテイは生まれにくい。両者の雑種として生まれるケッテイの染色体数は』六十三『本となり、不妊である。染色体数が偶数でない場合、生殖機能不全となるのである。ADMSによれば、「ウマ科の雑種は、遺伝子の数が少ない側(ロバ)をオスの親に持つときに生産しやすい。したがってラバに比べてケッテイを生産するのは難しい」という』。『オスのケッテイとラバは通常、繁殖行動を抑えて管理しやすくするために去勢される。オスのケッテイやラバもメスとつがいをなすが、不妊である。オスのケッテイやラバが生殖能を有していたという報告はない』。『メスのケッテイとラバは必ずしも去勢されるわけではなく、発情するか否かはまちまちである。メスのラバは、純血種のウマやロバとつがいになると子を産むことが知られているが、これは極めてまれである』。一五二七年以降、『記録に残っているもので、メスのラバから子が生まれた事例は世界中で』六十『件強しかない。一方』、『ADMSによれば、メスのケッテイが子を産んだ事例は』一『件のみである』。『ラバのメスは母側の遺伝子を』、百%、『子孫に伝える。ラバの母親はウマであるので、一般的にラバのメスは子孫に』百%『のウマの遺伝子を伝える。このため、オスのウマと掛け合わされたメスのラバは』、百%『のウマを生み、ロバの遺伝子を全く伝えない』。一九八一年、『中国で、オスのロバに対して妊娠可能と判明したケッテイのメスが発見された。メスのラバと同様に、メスのケッテイが母側の遺伝子を』百%伝えるならば、百%のロバを生むだろう、『と科学者は予想した。しかし、この中国のケッテイをオスのロバと掛け合わせたところ』「Dragon Foal」『(龍の子)と名づけられた、ラバに似た特徴を備えてロバと似たメスの子を産んだ。生まれた子の染色体およびDNAを調べた結果によれば、これまでに文献で知られていない組み合わせであることが分かった。事前に予想されていた、オスのロバから受け継いだロバロバの遺伝子と、メスのケッテイから受け継いだ(母側のロバの遺伝子を』百%『受け渡すとするならば)ロバロバの遺伝子の組み合わせではないことが分かった。実際の遺伝子はロバロバ/ロバウマであった。つまり、メスのケッテイは父側の遺伝子と母側の遺伝子の混合を子に受け渡した』のである。二〇〇三年には『モロッコで、オスのロバと掛け合わされたメスのラバが』、七十五%がロバで二十五%がウマの『メスの子を産んだ。DNA検査によれば、中国のケッテイの子と同様』、『混合した核型であることが分かった。通常のケッテイが』六十三『本の染色体を持ち』、三十一『対のウマロバの組み合わせと』、一『本のあまりで構成されているのに対して、このモロッコのラバは』二十三『対のロバロバ染色体と』、八『対のウマロバ染色体と』、一『本のあまりを持っていることを意味する』。『モロッコでの混合した遺伝子の組み合わせの事例があることから、中国の事例での子の遺伝子が通常のものではないのは、ラバではなくケッテイが母親であるためなのか、あるいはモロッコでの事例のように何か他の要素が働いているのかは分からない』。『他にもケッテイが希少である理由がある。メスのロバとオスのウマは、メスのウマとオスのロバの組み合わせに比べて相性が合いにくい。このため』、二『頭が引き合わされても』、『つがいとならない場合がある。また、つがいとなった場合であっても、メスのウマがオスのロバと掛け合わされた場合に比べて、メスのロバはオスのウマの種を宿しづらい。さらに、大きなケッテイを生ませるためには、大きなメスのロバを必要とするので、難しい問題が生まれる。大きなロバは次第に貴重なものになってきており、危機に瀕している家畜種であると宣言されている』から『である。ロバの所有者は、純粋な大きなロバの生産に高い需要があるにもかかわらず、不妊であるケッテイの生産に貴重な生殖期間を費やしてしまうのを嫌がる』のである、とある。

 

「其の力、腰に在り、其の後ろに、鎖骨、有り、開く能はず。故に孳乳〔(うみさえ)ること〕せず」以上の引用で見た通り、こんな物理的理由ではない。

『「三才圖會」、「其の後ろ」の「後」の字を「股」と爲す』良安が「本草綱目」と「三才圖會」を校合するのは珍しい。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。引用は「巻九 物部一」から。

「匈奴」紀元前三世紀末から紀元後一世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族。秦末の紀元前二〇九年、冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう:君主)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設。東胡(とうこ)・大月氏を征圧し、全盛となり、漢にも侵入したが、漢の武帝の遠征と内紛により、東西に分裂、紀元後四八年、さらに南北に分裂、南匈奴は漢に服属し、北匈奴は九一年、漢に討たれた。人種的にはトルコ系説が有力で、西方に移動した子孫がフン族であるとされる(小学館「大辞泉」に拠った)。

『「駃騠」〔は〕神駿たり』神霊の気を受けた、馬の中でも特別に選ばれた名馬である。既に見た通り、なかなか出生しない希少種だからである。

「見るべし、人〔及び動〕物、氣を父に稟〔(う)〕け、氣、母〔よりは〕稟けざ〔れば〕なり」調べて見たところ、これも「五雑組」から引いている。良安も賛同したからわざわざ掲げたのだろうが、謝肇淛や寺島良安が、我々のあらゆる体細胞中のミトコンドリアDNAはその総てが母由来でしかないということを知ったら、どう思うだろう? と考えると、ちょっとニヤリとしたくなったものである。

「孟康、曰はく、『駃騠、良馬なり。生まれて七日にして其の母を超ゆ』〔と〕」孟康は生没年未詳の三国時代)の魏(二二〇年~二六五年)の人で以上は彼が成した「漢書」の注の一節と思われる。]

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