和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)
いぬ 龎【厖同多毛之犬】
狗【音苟】
獒【高四尺犬】
猗【去勢犬】
ケ◦ウ 【和名惠沼俗伊沼】
本綱狗叩也吠聲有節如叩物犬字象巻尾懸蹄之形狗
類甚多其用有三田犬【一名獫】長喙善獵吠犬【一名猲】短喙善
守食犬體肥供饌【凡本艸所用皆食犬也】
狂犬曰猘一子𤢭【又曰玂】二子曰獅三子𤡆
凡犬以三月而生在畜屬木在卦屬艮在禽應婁星豺見
之跪虎食之醉犬食番木鼈則死物性制伏如此
肉【鹹酸溫】 治五勞七傷益氣力安腎補胃氣【黃犬爲上黒犬白犬次之】
凡食犬不可去血去血則力少不益人【但因食穢不食者衆】術家
以犬爲地厭能禳辟一切邪魅妖術故道家不食犬【商陸
蒜菱與犬同不可食】
乳汁【白犬者良】 治十年青盲取白犬生子目未開時乳頻㸃
之狗子目開卽瘥又赤禿髮落者頻塗甚妙
京極
月淸主しらぬ岡部の里をきてとへはこたへぬ先に犬そとかむる
說文犬鳴曰吠【訓保由】王符論云一犬吠形百犬吠聲
左傳使犬聲曰嗾牽犬繩曰緤【訓岐豆奈】一名攣維犬鏁曰鋂
廣博物志云白犬烏頭白犬黒尾黒犬白耳黒犬白前足
黃犬白尾此等犬畜之共吉祥也
△按犬性喜雪怕暑惡濕知恩酬仇鼻利能齅氣能守家
不入非常人於内嚴吠防竊盜官家賤民共不可不畜
之者也其田犬則狩獵時先放入山野令齅禽獸所在
乃官家之寶獸也凡犬離栖家遠走則數遺尿於路傍
至歸齅其尿氣雖數十里不失己栖猶山行之栞也不
苦創傷如被小疵則自舐卽瘥若傷耳鼻則不能舐而
不易治急煑小豆令食則癒性喜肉腥而不害生物吃
糞穢而不舐鮾腐多食魚膓則却皮毛禿爛故魚肆癩
狗多焉常不遺糞於四壁閒却不畜犬門外犬糞多矣
凡犬子等寒暑不假人手自育早壯而速衰其一歳當
人十歳乎過十歳者希也至病死不令見其屍
如中馬錢毒者急令水吞則解
治猫犬病以烏藥汁灌之【以下藥方出菉竹堂簡便方】
治猫犬生癩用桃樹葉搗爛遍擦其皮毛隔少時洗去
之
治狗猫生虱用白色朝腦滿身擦之以桶或箱覆蓋之
少時放出其虱俱落生癬疥者好茶濃煎通夜冷洗之
凡狗舌出而尾埀者卽風狗也人被之咬用木鱉子七
個檳榔二錢水二鍾煎七分服【祕笈云碎杏仁納傷處卽愈】
所謂風狗卽猘犬也保嬰全書云凡猘犬之狀必吐舌
流涎尾埀眼赤誠易辨如所咬則毒甚
凡犬忠功勝于人者所載于史不少舉其一二
搜神記云吳孫權時有李信純家養一狗字曰黒龍愛之
一日大醉臥於草中遇太守鄭瑕出獵見草深遣人爇之
[やぶちゃん注:「爇」は底本では「「熱」が(上)「執」で、その(下)が「火」である。これは「爇」の異体字であるが、表示出来ないし、現行の「捜神記」の同話でもこの漢字を用いているので、これに代えた。]
信純不知火之來犬見乃以口拽衣而純不動臥處有一
溪相去三五十步犬卽奔往入水濕身走來臥處周迴以
身灑之獲免主人火難犬運水困乏致斃于側信純醒來
見犬已死遍身濕毛甚訝太守聞而慟哭之憫之曰犬之
報恩甚於人卽命具棺槨衣衾葬之今紀南有義犬※高
[やぶちゃん字注:「※」=(上)「苑」+(下)「土」。]
十餘丈
述異記云陸機有吳後仕洛戯語犬【名黃耳】曰家絕無音汝
能馳往否犬揺尾作聲似應之機爲書盛以竹筩繫頸犬
出驛路走向吳饑則食草經水輙依渡者上船到機家取
書看畢又向人作聲如有所求其家作書納筩仍馳還洛
後犬死葬之呼黃耳塚
本朝於河内餌香川原有被斬人數百頭身既爛姓字難
知但以衣色収取其身者爰有櫻井田部連膽渟所養
之犬嚙續身頭伏側固守使収已至乃起行之
守屋家臣捕鳥都萬之白犬亦拾主之屍頭能守飢死於
其側【載日本紀於詳河内名所】
畑六郞左衞門之犬名獅子暗夜侵敵軍犬先入陣中伺
警衞之隙速歸而掉尾告之以故得捷【詳太平記】
播州牧夫之二犬救主急難而囓殺其敵【詳播州犬寺下】
宇都右衞門五郞之犬誤所斬而其頭飛囓殺蚺蛇救主
危難【詳參州犬頭社下】
*
ゑぬ 犬【音、「圏」。】 地羊
いぬ 龎(むくいぬ)【「厖」も同じ。
多毛の犬。】
狗【音、「苟〔(コウ)〕」。】
獒(たうけん)[やぶちゃん注:闘犬。]
【高さ、四尺の犬。】
猗(へんこなしのいぬ)
【勢〔(せい)〕を去れる犬。】
ケ◦ウ 【和名、「惠沼」。俗に「伊沼」。】
「本綱」、狗は叩〔(コウ)〕なり。吠(ほ)ゆる聲、節〔(ふし)〕有りて、物を叩(たゝ)くがごとし〔なればなり〕。「犬」の字、巻きたる尾・懸-蹄(かけづめ)の形に象〔(かたど)〕る。狗の類ひ、甚だ多し。其の用、三つ、有り。「田犬〔(でんけん)〕」【一名「獫〔(けん)〕」。】は長き喙〔(くちさき)〕〔にして〕善く獵〔(か)〕る。吠犬〔(はいけん)〕【一名、「猲〔けつ)〕。】短き喙〔にして〕善く守る。「食犬〔(しよくけん)〕」は、體、肥え、饌〔(せん)〕[やぶちゃん注:神への供え物。]に供ふ【凡そ、本艸に用ふる所の〔もの〕、皆、食犬なり。】。
狂犬なるを「猘〔(せい)〕」と曰ふ。一子〔(ひとりご)〕を「𤢭〔(がう)〕」【又、「玂〔(き)〕」と曰ふ。】、二子〔(ふたご)〕を「獅」と曰ひ、三子〔(みつご)〕を「𤡆〔そう〕」と曰ふ[やぶちゃん注:この読みについては、前の「豕(ぶた)」の同様(但し、(へん)が異なる)の呼び名についての私の注を参照されたい。]。
凡そ、犬、三月〔(みつき)〕を以つて生ず。畜〔(ちく)〕[やぶちゃん注:家畜。]に在りては、「木〔(もく)〕」に屬し、卦〔(け)〕に在りては、「艮〔(こん)〕」に屬し、禽〔(きん)〕[やぶちゃん注:星座の動物(配当)の意である。]に在りては、「婁星〔(ろうせい/たたらぼし)〕」に應ず。豺〔(やまいぬ)〕、之れを見て、跪(ひざまづ)き、虎、之れを食へば、醉〔(ゑ)〕ふ。犬、番-木-鼈〔(マチン)〕を食ふときは、則ち、死す。物〔の〕性〔(しやう)の〕制伏〔(せいふく)〕[やぶちゃん注:征服・服従に於ける当事者関係。]此くのごとし。
肉【鹹、酸。溫。】 五勞七傷を治し、氣力を益し、腎を安〔(やす)〕じ、胃の氣を補す【黃犬を上と爲し、黒犬・白犬、之れに次ぐ。】。凡そ、犬を食〔ふに〕、血を去るべからず。血を去れば、則ち、力〔(ちから)〕少くして、人に益あらず【但し、食穢〔(しよくゑ)〕に因りて食はざる者、衆〔(おほ)〕し。】術家[やぶちゃん注:道教の方士。]は、犬を以つて地厭〔(ぢおん)〕[やぶちゃん注:地の邪気を払う呪術。]を爲し、能く一切〔の〕邪魅・妖術を禳-辟(はら)ふ。故に道家不に〔ては〕犬を食はず【商陸〔やまごばう〕[やぶちゃん注:後注を必ず参照のこと。]・蒜〔(のびる)〕・菱〔(ひし)〕〔は〕犬と同〔じうして〕食ふべからず。[やぶちゃん注:薬用併用及び食い合わせが極めて悪いことを言っている。]】。
乳汁【白犬の者、良し。】 十-年〔(ながねん)[やぶちゃん注:長年。]の〕青盲(あきめくら)を治す。白犬、子、生まれて、目、未だ開〔かざる〕時の〔母犬の〕乳を取り、頻りに之れを㸃ず。狗の子、目、開〔かば〕、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ。又、赤禿(〔あか〕はげ)〔て〕、髮、落〔つる〕者に頻りに塗る。甚だ妙〔なり〕。
京極
「月淸〔(げつせい)〕」
主〔(ぬし)〕しらぬ岡部〔(をかべ)〕の里をきてとへば
こたへぬ先に犬ぞとがむる
「說文」に、『犬の鳴くを、「吠(ほ)ゆ」と曰ふ【訓、「保由」。】』〔と〕。「王符論」に云はく、『一犬、形〔(かたち)〕に吠ゆれば、百犬、〔その〕聲に吠ゆといへり。』〔と〕。
「左傳」に、『犬を使ふ[やぶちゃん注:調教する際の。]聲を「嗾〔(さう)〕」と曰ひ、犬を牽〔(ひ)〕く繩を「緤(きづな)」と曰ひ【訓、「岐豆奈」。】、一名〔を〕「攣〔(れん)〕」〔とも曰ふ〕。犬を維(つな)ぐ鏁(くさり)を「鋂〔(ばい)〕」と曰ふ。』〔と〕。
「廣博物志」に云はく、『白犬にして烏〔(くろ)〕き頭〔(かしら)〕、白犬にして黒き尾、黒犬にして白き耳、黒犬にしてい白き前足、黃犬〔(わうけん)〕にして白き尾、此等(これら)の犬、之れを畜〔(か)〕へば、共に吉祥なり。』〔と〕。
△按ずるに、犬の性、雪を喜び、暑さを怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])れ、濕を惡〔(にく)〕む。恩を知り、仇を酬ふ。鼻、利〔(と)〕くして、能〔(よ)〕く氣〔(かざ)〕を齅(か)ぐ。能く家を守りて、非常の人[やぶちゃん注:普段、見かけない人。]を内に入れず、嚴しく吠えて、竊盜〔(せつたう)〕を防ぐ。官家・賤民、共に、畜はずんばあるべからざるの者なり。其の田犬、則ち、狩獵の時、先づ、山野に放ち入れ、禽獸の所在を齅(か)ゞせしむ。乃〔(すなは)ち〕、官家の寶獸なり。凡そ、犬、栖-家(すみか)を離れて、遠く走るときは、則ち、數々、尿(ゆばり)を路傍に遺し、歸るに至れば、其の尿の氣(かざ)を齅ぐ。數十里と雖も、己〔(おの)〕が栖を失はず。猶ほ、山行の栞(しをり)のごときなり。創傷を苦しまず、如〔(も)〕し、小さき疵を被むる〔ときは〕、則ち、自ら舐(ねぶ)りて、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ〔→やす〕。若〔(も)〕し、傷、耳・鼻、則、舐ること能はずして、治〔すること〕易から〔ざるは〕、急ぎ小豆〔(あづき)〕を煑て、食はしめば、則ち、癒ゆ。性、肉〔の〕腥〔(なまぐさき)〕を喜(この)めれども、生〔き〕物を害(こそな)はず、糞穢〔(ふんゑ)〕を吃(く)へども鮾-腐〔(だいふ)〕[やぶちゃん注:腐った魚肉。]を舐らず。多く魚の膓〔(わた)〕を食〔へば〕、則ち、却つて、皮毛、禿(は)げ、爛〔(ただ)〕る。故に、魚の肆(たな)[やぶちゃん注:「店(たな)」に同じ。]に癩狗〔(らいく)〕[やぶちゃん注:単に毛が抜けたり、激しい炎症を起こした犬のことを指す。「癩」には業病として激しく差別された(天罰によって生きながら地獄の業火に焼かれている等とされた)ハンセン病以外に、「薬負け・傷・疥癬(かいせん)」の意があり、ここもそれ。直ぐ後に猫や犬の後者の「癩」を治す方法が出てくることからもそれが判る。]多し。常に糞を〔栖家(すみか)の〕四壁の閒〔(あひだ)〕に遺さず。〔されば〕却つて犬を畜はざる〔家の〕門外には、犬の糞、多し。
凡そ、犬-子-等(ゑのころ)は寒暑〔に關はらず〕、人の手假(か)らずして自ら育ち、早く壯(そう)じて、速く衰ふ。其の一歳、人の十歳に當るか。十歳を過〔(すぐ)〕る者、希れなり。病死するに至りて、其の屍〔(かばね)〕を見せず。
如〔(も)〕し、馬錢(マチン)の毒に中〔(あた)〕者〔あれば〕、急ぎ水を吞ませば、則ち、解〔(げ)〕す[やぶちゃん注:解毒出来る。]。
猫・犬の病ひを治す〔には〕、烏藥〔(うやく)〕の汁を以つて、之れに灌〔(そそ)〕ぐ〔べし〕【以下の藥方は「菉竹堂簡便方〔(ろくちくだうかんべんはう)〕」に出づ。】。
猫・犬の癩を生ずるを治する〔には〕、桃〔の〕樹〔の〕葉を用ひ、搗き爛らして、遍〔(あまね)〕く其の皮毛を擦〔(す)〕る。少時を隔てて、之れを洗ひ去る〔べし〕。
狗・猫〔の〕虱を生ずるを治す〔には〕、白色の朝腦[やぶちゃん注:不詳。「てうなう」と読んでおく。東洋文庫訳も『不詳』とする。但し、防虫剤に用いるクスノキの木片を水蒸気蒸留して製する「樟脳」(C10H16O)っぽい感じが私はするのだが。]滿身に之れを擦る。〔後、〕桶或いは箱を以つて之れを覆〔ひ〕蓋〔(ふた)〕す。少-時(しばら)くして、放〔ち〕出〔(いだ)〕せば、其〔の〕虱、俱に落つ。癬疥〔(せんかい)〕[やぶちゃん注:ヒトの感性症としても知られる疥癬(かいせん)。皮膚に穿孔して寄生する、節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門亜目ヒゼンダニ科 Sarcoptidae ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis による皮膚感染症。「湿瘡」「皮癬」とも称する。知られている皮膚疾患の中では掻痒は最高度。]を生ずる者は、好〔(よ)き〕茶〔を〕濃(こ)く煎じ、通夜、冷して、之れを〔以つて〕洗ふ〔べし〕。
凡そ、狗、舌を出だして、尾を埀るる者、卽ち、「風狗」[やぶちゃん注:狂犬。]なり。之れに咬まらるれば、木鱉子〔(もくべつし)〕七個・檳榔〔(びんらう)〕二錢[やぶちゃん注:一銭は三・七五グラムであるから、七・五グラム。]・水二鍾〔(しよう)〕[やぶちゃん注:一鍾(しょう)は四十九・六六四リットルであるから、九十九リットル強。かなり多い。]を用ひ、七分〔(しちぶ)〕に煎じて服す【「祕笈〔(ひきゆう)〕」に云はく、『杏仁〔(きやうにん)〕を碎き、傷の處に納〔むれば〕、卽ち、愈ゆ』〔と〕。】
所謂、「風狗」は、卽ち、「猘犬(せいけん)」[やぶちゃん注:狂犬。]なり。「保嬰〔(ほえい)〕全書」に云はく、『凡そ、猘犬の狀、必ず、舌を吐き、涎れを流し、尾を埀らし、眼、赤く、誠に辨じ易し。如〔(も)〕し咬まるれば、則ち、毒、甚だし。』〔と〕。[やぶちゃん注:狂犬病に罹患した動物は噛みつき、騒ぐ「狂騒型」(或いは狂騒期)と、空ろな目でしょんぼりとしまう「沈鬱型」(或いは狂騒期の後の麻痺期)の二種の症状(期)があるという。]
凡そ、犬の忠功〔なるものは〕、人に勝〔(すぐ)〕る。史〔書〕に載する所、少なからず。其の一、二を舉ぐ。
「搜神記」に云はく、『吳の孫權の時、李信純といふもの有り、家に一狗を養ふ。字(あざな)を「黒龍」と曰ひ、之れを愛す。一日、大いに醉ひて草の中に臥す。遇(たまたま)、太守の鄭瑕〔(ていか)〕、出でて獵りす。草の深きを見て、人をして之れを爇(や)かしむ。信純、火の來たるを知らず。犬、見て、乃〔(すなは)ち〕、口を以つて衣を拽(ひ)く。而〔(しか)れど〕も、純、臥し處〔(どころ)〕を動かず。一〔つの〕溪(たに)有り、相ひ去ること、三、五十步あり。犬、卽ち、奔り往〔(ゆ)〕きて、水に入り、身を濕(ひた)し、臥し處に走り來りて、周迴〔(しうくわい)〕し、身を以つて之れに灑(そゝ)ぐ。主人の火難を免〔(まぬか)〕ることを獲〔(う)〕。犬は、水を運(はこ)んで、困-乏し、側〔(そば)〕に斃〔(へい)〕するに致る[やぶちゃん注:倒れてしまった。]。信純、醒-來〔(めざ)め〕て、犬、已に死して、遍身、濕(ぬ)れたる毛を見、甚だ訝(いぶか)る。太守、聞きて慟-哭(な)き、之れを憫(あはれ)みて「犬の恩を報ふこと、人卽(より)も甚だし。」。〔とし〕、命じて棺槨〔(かんかく)〕[やぶちゃん注:柩(ひつぎ)。]・衣衾〔(いきん)〕[やぶちゃん注:遺体を覆う衣類や蒲団。帷子(かたびら)。]を具(そな)へ、之れを葬る。今、紀南[やぶちゃん注:現在の湖北省荊州区紀南鎮。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に「義犬〔の〕※〔はか〕」有り。高さ、十餘丈[やぶちゃん注:「捜神記」は東晋の干宝が著した志怪小説集であるから、当時の「一丈」は二・四四五メートルであるが、それでも二十五メートルほどになる巨大な墓だ。但し、残念なことに、現存はしないようだ。]。』〔と〕。
[やぶちゃん字注:「※」=(上)「苑」+(下)「土」。]
「述異記」に云はく、『陸機、吳に有り。後、洛[やぶちゃん注:西晋の首都であった洛陽。]に仕(つか)へ、戯れに犬に語りて【「黃耳〔(くわうじ)〕」と名づく。】曰はく、「家と絕(た)へて[やぶちゃん注:ママ。]音(をとぶれ)無し。汝、能く馳〔(は)せ〕て往かんや否や」〔と〕。犬、尾を揺らし、聲を作〔(な)〕して、之れに應(こた)ふるに似たり。機、書を爲し、盛〔(も)〕るに[やぶちゃん注:犬に持たせるのに。]、竹の筩(つゝ)を以つて、頸に繫ぐ。犬、驛路に出でて走りて、吳に向ふ。饑〔(うう)〕るときは、則ち、草を食〔(は)み〕、水を經(わた)れば、輙〔(すなは)〕ち、渡者(わたしもり)に依〔(より)〕て船に上(の)り、機が家に到り、〔家の者、〕書を取り〔て〕看〔(み)〕畢〔(おは)〕れば又、人に向ひ、聲を作し、求むる所、有るがごとし。其の家〔の者〕、書を作〔(な)し〕て、筩〔(つつ)〕に納(い)れしかば、仍つて、馳せて洛に還る。後、犬、死す。之れを葬る。「黃耳塚」と呼ぶ。
本朝、『河内〔(かはち)の〕餌香川原(〔ゑが〕の〔かはら〕)に於いて、斬らるる人、有り、數百の頭-身(むくろ)、既に爛(たゞ)れて、姓字〔(せいじ)〕、知れ難し[やぶちゃん注:「姓字」は「名字と名前」の意であるが、要は腐乱が進んで、誰が誰だか判らなくなっていたのである。]。但〔(ただ)〕、衣の色を以つて、其の身(むくろ)を収め取る。爰〔(ここ)〕に櫻井田部連膽渟(〔さくらゐ〕の〔たべ〕のむらじいぬか)、養ふ所の犬、身頭(むくろ)を嚙み續け、側に伏し、固く守りて、収めしむ。已に至〔れば、〕乃〔(すなは)〕ち起きて之れと行く』〔と〕。
守屋が家臣、捕鳥都萬(とつとり〔べ〕の〔よろ〕づ)が白犬も亦、主〔(あるじ)〕の屍頭〔(むくろ)〕を拾(いろ)いて[やぶちゃん注:ママ。]、能く守り、其の側に飢死す【「日本紀」に載る。河内の名所に詳らかなり。】。
[やぶちゃん挿入注:この二条の話は「田部連膽渟」(桜井田部胆渟(さくらいの たべの いぬ ?~用明天皇二(五八七)年:飛鳥時代の武人で物部守屋の家臣。連(むらじ)は正式な姓。桜井田部氏は河内国河内郡(大阪府東大阪市近辺)に起源を持つ豪族伴造(とものみやつこ)の一族。彼は河内国餌香河原(えがのがわら)で戦死している)や「守屋が家臣」の「捕鳥都萬」の名によって、用明二(五八七)年七月に、蘇我馬子や厩戸皇子(うまやどのみこ:聖徳太子)らの蘇我軍の主力が、物部守屋軍の先鋒と激戦の末に突破したとされる「餌香川原の戦い」の後の光景であることが判る。そこでは両軍ともに多くの戦死者を出している(物部軍を突破した後、難波宮の守屋の私邸の占拠に成功した)。この川は、現在の石川で、大和川水系の支流で藤井寺市の東に接して流れる。大阪府の東南部の、奈良県境にある金剛山地の西側斜面と丘陵地の水を集めて北へ流れ、市の北東部で大和川と合流する。この辺りでは、石川の中程が隣りの柏原市との境界ともなっている。この「餌香川原の戦い」の場所は、まさにその合流地点の南の部分、現在の大阪府藤井寺市国府付近の石川に比定されているらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは主に「藤井寺南小学校」公式サイト内の「大和川と石川」に拠った。以上は、「日本書紀」の崇峻天皇即位前紀用明天皇二(五八七)年七月の条の「平亂之後」のパートの、以下の部分が引用元である。
*
爰有萬養白犬、俯仰𢌞吠於其屍側、遂嚙舉頭收置古冢、橫臥枕側、飢死於前。河内國司、尤異其犬、牒上朝庭。朝庭哀不忍聽、下苻稱曰、「此犬、世所希聞、可觀於後。須使萬族作墓而葬。」。由是、萬族、雙起墓於有眞香邑葬萬與犬焉。河内國言、「於餌香川原有被斬人、計將數百。頭身既爛、姓宇難知、但以衣色收取其身者。爰有櫻井田部連膽渟所養之犬、嚙續身頭伏側固守、使收己主乃起行之。」。
*]
畑六郞左衞門の犬、「獅子」と名づく[やぶちゃん注:ママ。名は「犬獅子(けんじし)」が正しい。]。暗夜に敵軍を侵す。犬、先づ、陣中に入りて、警衞の隙〔(す)〕きを伺ひ、速やかに歸りて、尾を掉(ふ)りて之れを告ぐ。故を以つて、捷を得。【「太平記」に詳らかなり。】
[やぶちゃん挿入注:「畑六郞左衞門」は南北朝時代の南朝方新田義貞の側近であった武将畑時能(はたときよし 正安元年九(一二九九)年~興国二/暦応四(一三四一)年)のこと。ウィキの「畑時能」によれば、『武蔵秩父郡出身。義貞に従って各地を転戦し』、延元三/建武五(一三三八)年、『義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、義貞の弟脇屋義助に従い、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党』十六『騎で立て籠った。高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ』三『千の軍勢を差し向け』、十月二十二日、『斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、三日間苦しんだ後に亡くなったという』とある。同ウィキには『江戸時代に描かれた畑時能のイメージ』として歌川国芳の「武勇見立十二支・畑六良左エ門」の犬を連れた彼の絵が載り、「太平記」には、『時能が犬「犬獅子」と「所大夫房快舜」、「悪八郎」の二人の従者とともに足利氏の砦を陥とす物語がある』とキャプションがある。後注で「太平記」の当該箇所を掲げる。]
播州牧夫〔(ひらふ)〕[やぶちゃん注:「牧夫」はママ。後注参照。]が二犬、主の急難を救ひ、而も其の敵を囓み殺すと。【播州犬寺の下に詳らかなり。】
宇都(うつ)右衞門五郞が犬、誤りて斬らる。而〔(しか)れど〕も、其の頭〔(かうべ)〕、飛びて、蚺蛇(うはばみ)を囓み殺し、主の危難を救ふ【參州犬頭〔(けんづ)〕の社〔(やしろ)〕の下に詳らかなり。】。
[やぶちゃん注:哺乳綱 Mammalia獣亜綱 Theria 真獣下綱 Eutheria ローラシア獣上目 Laurasiatheria 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ亜目 Fissipedia イヌ下目 Cynoidea イヌ科 Canidae イヌ亜科 Caninae イヌ族 Canini イヌ属タイリクオオカミCanis lupus 亜種イエイヌ Canis lupus familiaris。ウィキの「イヌ」によれば、『属名 Canis、種小名 lupus はラテン語でそれぞれ「犬」「狼」の意。亜種名 familiaris はやはりラテン語で、「家庭に属する」といった意味。また、英語: familiar、フランス語: familier など「慣れ親しんだ」を意味する現代語の語源でもある』。『古く日本ではヤマイヌ(狼)に対して「イエイヌ」とも言っていた。英語名 domestic dog は、伝統的な学名』Canis familiaris『(家族の-犬)を英訳にしたもので、日本では domestic dog の訳語として古来からのイエイヌの語をあてるようになった』。『また、広義の「イヌ」は広くイヌ科に属する動物(イエイヌ』・(タイリク)オオカミ・コヨーテ(イヌ属コヨーテ Canis latrans)・ジャッカル(現生種は四種で、イヌ属キンイロジャッカル Canis aureus(南アジア・中央アジア・西アジア・東南ヨーロッパ・北アフリカ・東アフリカに棲息)・アビシニアジャッカル Canis simensis(エチオピアに棲息。「アビシニアオオカミ」などとも呼び、「ジャッカル」に含めない説もある)・セグロジャッカル Canis mesomelas(南部アフリカに棲息)・ヨコスジジャッカル Canis adustus(中部アフリカに棲息)・キツネ(イヌ科キツネ属アカギツネ亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica ほか)・タヌキ(タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)・ヤブイヌ(ヤブイヌ属ヤブイヌ Speothos venaticus)・リカオン(リカオン属リカオン Lycaon pictus)『など)の総称でもあるが、日本ではこちらの用法はあまり一般的ではなく、欧文翻訳の際、イヌ科動物を表す dogs や canine の訳語として当てられるときも』、『「イヌ類」などとしてイエイヌと区別するのが普通である』。『イエイヌは人間の手によって作り出された動物群である。最も古くに家畜化されたと考えられる動物であり、現代でも、ネコ Felis silvestris catus と並んで代表的なペット』『として、広く飼育され、親しまれている』。『野生化したものを野犬といい、日本語ではあたかも標準和名であるかのように片仮名で「ノイヌ」と表記されることも多いが、野犬(やけん)を誤って訓読したため』に『生じた新語であり、分類学上は種や亜種としてイエイヌと区別される存在ではない』。『犬種については』『ジャパンケネルクラブ(JKC)では、国際畜犬連盟(FCI)が公認する』三百三十一『犬種を公認し、そのうち』、百七十六『犬種を登録してスタンダードを定めている。なお、非公認犬種を含めると』、約七百から八百の犬種がいるとされている』。『また、世界全体では』四『億匹の犬がいると見積もられている。血液型は』八『種類』ある。『イヌの染色体は』七十八『本(2n)あり、これは』三十八『対の常染色体と』一『対の性染色体からなる。これは同じイヌ』科『のドール』(ドール属ドール Cuon alpinus)・リカオン・ジャッカル類・『コヨーテ類などとも共通である。これらの種は交配可能であり、この雑種は生殖能力をもつ。ただし、これらは行動学的に生殖前隔離が起こり、また、地理的にも隔離されている。ジャッカル類は主にアフリカに、(アジアに分布の及ぶキンイロジャッカルはジャッカル類では』なく、『オオカミに近縁だとされる)、コヨーテ類は北アメリカ大陸に分布する』、『また、オーストラリア大陸と周辺地域に生息するディンゴ』(イヌ属タイリクオオカミ亜種ディンゴ Canis lupus dingo)『と、ニューギニア島に生息するニューギニアン・シンギング・ドッグ』(New Guinea Singing Dog:パプアニューギニア原産の野生化した犬種。現在、絶滅寸前。ウィキの「ニューギニアン・シンギング・ドッグ」を参照されたい)『は、人類によって約』四千『年前に持ち込まれたイヌであり、かつては別種とされていたが、現在はイエイヌとともに、タイリクオオカミの』一『亜種とされている』。『イヌの属するイヌ科は、森林から開けた草原へと生活の場を移して追跡型の狩猟者となった食肉類のグループである。待ち伏せ・忍び寄り型の狩りに適応したネコ科』Felidae『の動物に対して、イヌ科の動物は、細長い四肢など、持久力重視の走行に適した体のつくりをしている』。『また、イヌは古くから品種改良が繰り返されて、人工的に改良された品種には、自然界では極めて珍しい難産になるものも多く、品種によっては、出産時に帝王切開が必要不可欠となる(主にブルドッグ)』(以下、「生態的・形態的特徴」として「骨格」に始まり、「知能」までの十四項目がある。それぞれ、本文の叙述のよき科学的補説となるが、キリがないので総て省略する。各自で参照されたい)。以下、「イヌの起源」の項。『イヌは最も古くに家畜化された動物であり、手に仔犬(イヌかオオカミかはっきりしない)を持たせて埋葬された』一万二千年ほど『前の狩猟採集民の遺体がイスラエルで発見されている。分子系統学的研究では』一万五千年位上前に『オオカミから分化したと推定されている。イヌの野生原種はタイリクオオカミ (Canis
lupus)の亜種のいずれかと考えられている。イヌのDNAの組成は、オオカミとほとんど変わらない。イヌがオオカミと分岐してからの』一万五千年という『期間は種分化としては短く、イヌを独立種とするか』、『オオカミの亜種とするかで議論が分かれているが、交雑可能な点などから』、『亜種とする意見が優勢となりつつある』。以下、「イヌと歴史・文化」の「世界におけるイヌの歴史」。『古代メソポタミアや古代ギリシアでは彫刻や壷に飼いイヌが描かれており、古代エジプトでは犬は死を司る存在とされ(→アヌビス神)、飼い犬が死ぬと埋葬されていた。紀元前』二千『年頃の古代メソポタミアの説話』「エンメルカルとアラッタ市の領主」では、『アラッタ領主が「黒でなく、白でなく、赤でなく、黄でなく、斑でもない犬を探せ」と難題を命じる場面がある。つまり、既にこれらの毛並みの犬が一般的だったわけである。紀元前に中東に広まったゾロアスター教でも犬は神聖とみなされるが、ユダヤ教では犬の地位が下り、聖書にも』十八『回登場するが、ここでもブタとともに不浄の動物とされている。イスラム教では邪悪な生き物とされるようになった』。『イスラム圏では牧羊犬以外にイヌが飼われることは』今でも少ないようだが、』『欧米諸国では多くの犬が家族同然に人々に飼われている。日本でも』五『世帯に』一『世帯がイヌを飼っているといわれている。中世ヨーロッパの時代には、宗教的迷信により、魔女の手先(使い魔)として忌み嫌われ虐待・虐殺されたネコに対し、犬は邪悪なものから人々を守るとされ、待遇は良かった』。『古代中国では境界を守るための生贄など、呪術や儀式にも利用されていた』。『「けものへん(犬部)」を含む「犬」を部首とする漢字の成り立ち』を見ても、そうした呪的機能を担ったであろう『ことが窺われる。古来、人間の感じることのできない超自然的な存在によく感応する神秘的な動物ともされ、死と結びつけられることも少なくなかった(地獄の番犬「ケルベロス」など)。漢字の成り立ちとして、「犬」の「`」は、耳を意味している』。『中央アジアの遊牧民の間では、家畜の見張りや誘導を行うのに欠かせない犬は、大切にされた。モンゴル帝国のチンギス・カンに仕えた側近中の側近たちは、四駿四狗(』四『頭の駿馬と』四『頭の犬)と呼ばれ』、『讃えられた』。『ヨーロッパ人に「発見」される前のアメリカ大陸では、犬は唯一とも言える家畜であり、非常に重要な存在であった。人間にとってなくてはならない労働力であり、狩猟、番犬、犬ぞり、祭りでの生贄やご馳走として様々に利用された。ユイピの儀式など、祭りにおいて犬の肉は重要な存在である。また、白人によって弾圧されたインディアン諸部族の中で、シャイアン族の徹底抗戦を選んだ者たちは、Hotamétaneo'o(ドッグ・ソルジャー、犬の戦士団)という組織を作り、白人たちと戦った』。『欧米諸国では、古代から狩猟の盛んな文化圏のため、猟犬としての犬との共存に長い歴史がある。今日では特に英国と米国、ドイツなどに愛犬家が多い。英国には「子供が生まれたら』、『犬を飼いなさい。子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。」という諺がある』。『一方』、十九『世紀後半のイギリスでは狂犬病の原因を巡って大きな論争が起きた。狂犬病はイヌに噛まれることによる感染症であるという主張が流布し、不潔な下層階級の飼う犬、気性の荒い狩猟犬が特に疑いの目を向けられた。人々のヒステリックな対応により、何万匹ともいわれるイヌが』、『狂犬病予防の名目で殺されたが』、アメリカの『歴史家のハリエット・リトヴォ』(Harriet Ritvo 一九六四年~)『によれば』、十九『世紀に殺されたイヌのうち、精神に異常をきたしていたイヌは』五『パーセントに過ぎず、そのうちの四分の三は』癲癇(てんかん)或いは『風変わりな外見』であったに過ぎなかったという』。『犬は欧米や日本など世界の広い地域で一般的に親しまれている』『一方で、犬を忌み嫌ったり、虐げたりする文化圏や民族もある。サウジアラビアでは一般に嫌悪の対象である』。『コンゴのムブティ族は、犬を狩りに必要な「貴重な財産」と見なしつつも』、『忌み嫌っており、彼らの犬は馬鹿にされ』、『殴る蹴るなどされる』。『欧米では犬をペット・家族の一員と考えるため』、『犬肉食はタブー視されるが、一方、インドや中東で犬肉を食べる習慣がないのは、古代ヒンドゥー教やイスラム教では犬を卑しく汚らわしい害獣と見なしているためだと考えられる』。『犬は一般に出産が軽い(安産)とされることから、日本ではこれにあやかって戌の日に安産を願い、犬張子や帯祝いの習慣が始まるようになる』。『「人間の最良の友(Man's best friend)」と言われるように、飼い主やその家族に忠実なところはプラスイメージが強い。近代日本では忠犬ハチ公の逸話が多くの国民に愛されたほか、江戸時代以前にも主人の危機を救おうとした伝説・民話も多い(秋田県大館市の老犬神社など)。他方、東西の諺や、日本語にある「犬死に」「犬侍」』『「負け犬」といったネガティブ成語・熟語に使われることも多い。また、忠実さを逆手にとって、権力や体制側に順従に従っている人物や特定の事物(思想や団体・有名人など)を盲目的に支持・信奉する人物やスパイの意味でも「犬」が用いられる。また「雌犬」は女性への侮辱語として使われる。植物の和名では、イヌタデ』(ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae 連 Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。本種は薬味として使用される、同じイヌタデ属ヤナギタデ Persicaria hydropiper に対して(ヤナギタデは異名で「マタデ」「ホンタデ」とも呼ぶ)、役に立たないものとしての「イヌ」である。しかし私はあの「あかのまんま」の花がとても好きだ)のように、本来、『その名をもつ有用な植物と』は、『似て非なるものを指すのにしばしば用いられる』。以下、「日本におけるイヌの歴史」。『日本列島においては犬の起源は不明であるが、家畜化された犬を飼う習慣が日本列島に渡ってきたと考えられている。縄文時代早期からの遺跡から犬(縄文犬)が出土している。その一部は埋葬された状態だが、多数例は散乱状態で出ており、家族の一員として飼われた犬と、そうでない犬がいたと考えられる』(縄文犬の埋葬遺跡の最初期の発見者の一人は、私の父の考古学の師であった酒詰仲男先生(明治三五(一九〇二)年~昭和四〇(一九六五)年)である。私はサイトで「土岐仲男」名義で書かれた詩集「人」を電子化注している)。『縄文早期から中期には体高』四十五『センチメートル前後の中型犬、縄文後期には体高』四十『センチメートル前後の小型犬に変化し、これは日本列島で長く飼育されたことによる島嶼化現象と考えられている』。『なお』一九九〇『年代に縄文人と犬との関係の定説に再考を迫る発見があった。霞ヶ浦沿岸の茨城県麻生町(現:行方市)で発掘調査された縄文中期から後期の於下貝塚から、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土。犬の上腕骨』一『点に、解体痕の可能性が高い切痕が確認された。調査報告では、犬を食用として解体していた物的証拠と評価しており、日本列島における犬食の起源がさらに遡る可能性が高い』。『弥生時代に犬の埋葬例は激減する』。『また、墓に供えられた壺の中に、犬の骨の一部が入っていることがあり、犬が人間の墓の供え物になったことがわかる』。『長崎県の原の辻遺跡などでは、解体された痕のある犬の骨が発見され、食用に饗されたことも窺える。遺跡からは縄文犬と形質の異なる犬も出土しており、大陸から連れてこられたと考えられる』。「日本書紀」には、『日本武尊が神坂峠を超えようとしたときに、悪神の使いの白鹿を殺して道に迷い、窮地に陥ったところ、一匹の狗(犬)が姿を現し、尊らを導いて窮地から脱出させたとの記述がある。そして、同書の天武天皇五(六七五)年四月十七日の条には、四月一日から九月三十日までの『期間、牛・馬・犬・猿・鶏の、いわゆる肉食禁止令を出しており、犬を食べる人がいたことは明らかである。なお、長屋王邸跡から出土した木簡の中に子を産んだ母犬の餌に米(呪術的な力の源とされた)を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸では、貴重な米を犬の餌にしていたらしいが、奈良文化財研究所の金子裕之は、「この米は犬を太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表し』ている、とある。『奈良時代・平安時代には貴族が鷹狩や守衛に使う犬を飼育する職として』、『犬養部(犬飼部)が存在した』。『平安京では、犬が人間の残飯や排泄物を食べていた。また、埋葬されない人の死体が放置され、犬に食われることが珍しくなかった』。『鎌倉時代には』、『武士の弓術修練の一つとして、走り回る犬を蟇目矢(ひきめや。丸い緩衝材付きの矢)で射る犬追物や犬を争わせる闘犬が盛んになった』。『肉食忌避の観念がある一方で、犬を食べる風習も廃れてはおらず、室町時代の草戸千軒町遺跡』(広島県福山市内)『からは食用にした跡が残る犬の骨が見つかっ』ている。『浄土真宗の宗祖親鸞は』、「大般涅槃経」を『参考に浄肉(食べてもよい肉)・不浄肉(食べてはいけない肉)の区別を行った際、犬肉を猿肉などとともに不浄肉に分類するなど、犬肉食を忌避する考え方も生まれた』。『南北朝時代以降には軍用犬として犬を活用する武将も現』われ、本文にも出る通り、「太平記」には『越前国鷹巣城(現・福井県高須山)攻防戦に於いて、南朝方の守将、畑時能が愛犬「犬獅子」と』二『人の従者と共に寄せ手の北朝方の砦を攻め落とす逸話が記述されており、江戸時代に歌川国芳が干支の動物と縁の深い歴史上の人物を浮世絵に描いた』、「武勇見立十二支」にて戌年に畑時能と犬獅子が描かれるなど、人々に広く知られる存在となった』(この絵の画像は以下でリンクしてある)。『戦国時代には武蔵国の武将太田資正が、岩槻城と松山城の緊急連絡手段として伝令犬を用い、北条氏康方の包囲を突破して援軍要請に成功し、度々撃退していた逸話が』「関八州古戦録」や「甲陽軍鑑」に『記述されている。太田資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」と呼ばれ、日本における軍用犬運用の最初の例とされている』。江戸『中期、江戸では野犬が多く、赤ん坊が食い殺される事件もあった』。第五『代将軍』『徳川綱吉は戌年の戌月の戌の日の生まれであったため、彼によって発布された「生類憐れみの令」』(貞享二(一六八五)年~宝永六(一七〇九)年とリンク先はするが、同令は波状的に細かく出されたもので、当初から非人間的な厳罰処置が行われたわけではなかった)『において、犬は特に保護』(「生類憐れみの令」は『人間を含む全ての生き物に対する愛護法令)され』、元禄九(一六九六)年には、『犬を殺した江戸の町人が獄門という処罰まで受けている。綱吉は当時の人々から「犬公方」(いぬくぼう)とあだ名された。綱吉自身大の愛犬家で狆を百匹飼い、駕籠(かご)で運ばせていた。この法令が直接適用されたのは幕府直轄領であったが、間接的に適用される諸藩でも』、『将軍の意向に逆らうことはできなかった。綱吉の後を継いだ徳川家宣の治世当初に生類憐れみの令は廃止された。天明の大飢饉により』、『米価が高騰し』、『深刻な米不足が起こった際、江戸北町奉行・曲淵景漸がイヌやネコの肉の価格を示して「米がないなら』、『イヌやネコの肉を食え」と発言し町人の怒りを買い、江戸市中で打ちこわしまで引き起こす結果となった』。他にもリンク先は諸事項の記載があるが、後一つだけ、「歴史に名を残した犬」一番古い部分だけを引いて終りとする。垂仁天皇八十七(五〇年?)頃、『足往(あゆき)』(『名前が記録に残る日本最古の犬』である)が、『むじな』(イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 或いはイヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)『を殺して出て来た勾玉が献上された』と、「日本書紀」の垂仁天皇の条に出る』とある。これは垂仁天皇八十七年二月五日の記事中に出るもので、
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昔丹波國桑田村有人。名曰甕襲。則甕襲家有犬。名曰足徃。是犬咋山獸名牟士那而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮。
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である。……どうもいけない……一昨年逝った三女アリスのことが思い出されてしまうのだ……注をしながら、そこここでもの狂ほしくなってゆく……ばかり…………
「ゑぬ」小学館「日本国語大辞典」によれば、この語源説は、『⑴ヱはイハ(家)の約音。ヌは詞助〔東雅〕。⑵ヱイヌ(飼犬)の約。古代に専ら犬の子を鷹、鶏の飼』(やしなう相手の意か)『にしたということからか〔大言海〕。⑶ワヌワヌという鳴声に基づいた語か〔言元梯・大言海・国語の語根と分類=大島正雄〕⑷ヱヌスミ(餌盗)の略〔名言通〕』とあるが、私は「ゑぬ」というのを初めてここで見た。
「地羊」これは犬食を隠すための換字のように私には思われる。
「懸-蹄(かけづめ)」「ケンテイ」は、本来は牛・羊などの偶蹄類の内で、地面に触れない小さな二個のひづめを指す。
「勢〔(せい)〕を去れる犬」食肉を目的として肥育される場合や、性質上の荒さや発情を削ぐために去勢されたものでもあろう。現行では、純系種は断種しないと長生きしないということはしばしば平然と言われ、私の次女のアリスも三女のアリスもそれを受けたが、私はどうも何か胡散臭い気がしている。
「食犬〔(しよくけん)〕」ウィキの「犬食文化」を参照されたい。私は引用に堪えない。因みに、私の妻は南京大学に日本語派遣教員として出向した折り、教え子が取り寄せて作ったそれを食べている。食には保守的な女性であるが、非常に美味しかったと告白している。
「凡そ、犬、三月〔(みつき)〕を以つて生ず」犬の妊娠期間は交配日から数えて約六十三日(九週間)と言われているので、科学的に正しい。
「婁星〔(ろうせい/たたらぼし)〕」現在の「おひつじ座」の西の頭部分に相当する三つの星を指す。二十八宿(前項で既注)の一つで、西方白虎七宿の第二宿で、距星(きょせい:各宿の基準点となる星)はおひつじ座β(ベータ)星。「婁」には「群衆、または天獄。塿(小さい丘)」の意がある。
「番-木-鼈〔(マチン)〕」「馬錢」。リンドウ目マチン科マチン属マチン Strychnos nux-vomica。ウィキの「マチン」によれば、『アルカロイド』(alkaloid:窒素原子を含み、ほとんどの場合、塩基性を示す天然由来の有機化合物の総称)『のストリキニーネ』(strychnine(オランダ語):C21H22N2O2。無色の針状結晶で、猛毒。硬直痙攣を起こさせるが、微量では神経興奮剤となる)『を含む有毒植物及び薬用植物として知られる。種小名(ヌックス-フォミカ)から、ホミカともいう』。『インド原産と言われ、インドやスリランカ、東南アジアやオーストラリア北部などに成育する。高さは』十五メートルから三十メートル以上になる高木。『冬に白い花を付け、直径』六~十三センチメートルの『橙色の果実を実らせる。果実の中には数個の平らな灰色の種子がある。マチンの学名』は、一六三七年に『マチンがヨーロッパにもたらされたとき、カール・フォン・リンネにより命名された。種小名の』nux-vomica『は「嘔吐を起こさせる木の実」という意味だが、マチンの種子には催嘔吐作用は無いとされている』。『マチンの毒の主成分はストリキニーネ及びブルシン』(brucine:C23H26N2O4 )『で、種子一個でヒトの致死量に達する。同じマチン属の』Strychnos ignatia『の種子(イグナチア子、呂宋果(るそんか))にもストリキニーネ及びブルシンが含まれる。こちらはフィリピン原産。マチン科』Loganiaceae『には他に、ゲルセミウム属』Gelsemium『(代表種はカロライナジャスミン』Gelsemium
sempervirens『)などがある』。『漢方では生薬としてマチンの種子を馬銭子(まちんし)、蕃木鼈子(ばんぼくべつし、蕃は草冠に番)、またはホミカ子と称し』、『苦味健胃薬として用いられる。インドでは、木部を熱病、消化不良の薬に用いる。日本薬局方では、ホミカの名で収録されている。ただし、前述の通り』、『マチンは有毒であり』、『素人による処方は慎むべきである』とある。
「五勞七傷」東洋文庫注に「五勞」とは『心労・肝労・脾労・肺労・腎労の五臟の病』いとし、「七傷」『は五臟の他、身體と志とを加えて、この七つを傷めることとも、また、陰寒・陽萎・裏急・精漏・精少・精清・小便数を七傷とするという説もある。いずれも、過労の積み重なりにより発病する内臓の慢性疾患である』とある。
「商陸〔やまごばう〕」被子植物門双子葉植物綱ナデシコ目ヤマゴボウ科ヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca esculenta 或いは同属の総称。本種は中国原産の薬用植物で、本邦にも帰化し植生するが(他にマルミノヤマゴボウ Phytolacca japonica・ヨウシュヤマゴボウ Phytolacca americana(別名:アメリカヤマゴボウ)も分布する)、ヤマゴボウ属は有毒であり、食用には供してはいけない。本属の根には多量の硝酸カリウムや有毒な配糖体のフィトラッカトキシン(phytolaccatoxin)・サポニンであるフィトラッカサポニン(phytolaccasaponin)が含まれている。硝酸カリウムには利尿作用があり、古くから利尿薬として利用されてきたが、有毒成分のフィトラッカトキシンのため、食べると、嘔吐や下痢が発症し、さらには中枢神経麻痺から痙攣や意識障害が生じ、重い場合は、呼吸障害や心臓麻痺によって死亡することもある。では何故、ここに出るのかと言えば、毒を以って毒を制す式のそれで、漢方では、この根に逐遂・消腫の効能があり、水腫・腹水・脚気・腫れ物などに用いるからである(「逐水」とは瀉下と利尿作用によって腹水・胸水・浮腫などを治療することを指す)。全身性浮腫を伴う喘息症状には木通・沢瀉などと配合し、肝硬変などに起因する腹水には牡蠣・沢瀉などと配合して用いる。但し、毒性が強いため、慎重に投与する必要がある。外用薬としては、新鮮な商陸に塩を加えて搗き潰したものを頑固な腫れ物に用いたりする。アメリカでは嘗て、ヨウシュヤマゴボウの根を扁桃炎・耳下腺炎・乳腺炎・水腫などの治療に用いていたとされる。さても! ここからが肝心! では、本邦で我々が山菜として「山牛蒡」(やまごぼう)と呼称している漬物は何か? これはこの標準和名ヤマゴボウの根なんぞではなく、モリアザミ(キク目キク科アザミ属モリアザミ(森薊)Cirsium dipsacolepis)・オニアザミ(アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense)・オヤマボクチ(雄山火口:キク科ヤマボクチ属オヤマボクチ Synurus pungens:和名は茸毛(じょうもう:葉の裏に生える綿毛状のもの)が嘗ては火起こし時の火口(ほくち)として用いられたことに由る)・ヤマボクチ(山火口:ヤマボクチ属ヤマボクチ Synurus palmatopinnatifidus var. indivisus)の根、及び、本物の牛蒡(ゴボウ)であるキク目キク科ゴボウ属ゴボウ Arctium lappa (余り知られていないの言っておくと、本種ゴボウは紫色のアザミによく似た、総苞に棘のある花を咲かせる)の根の通称総称なのであり、先のヤマゴボウ属ヤマゴボウ Phytolacca とは一切の類縁関係がない、全くの別物だということである。ご用心! ご用心!(以上は実は既に「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」の注で既注済なのであるが、私の周囲には勘違いしている人が多数いるので再掲した)。
「蒜〔(のびる)〕」野蒜。ヒガンバナ科ネギ亜科 Allieae 連ネギ属ノビル Allium macrostemon。小さな頃、母と一緒に裏山でよく採って食べたのを思い出す。
「菱〔(ひし)〕」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica。池沼に生える一年草で、葉が水面に浮く浮葉水草。花は両性花で、夏から秋の七~十月にかけて、葉の脇から伸びた花柄が水面に顔を出し、花の直径が一センチメートルほどの可憐な白い花を咲かせる。花期が終わると、二つある胚珠のうちの一方だけが発育し、大きなデンプンを蓄えた種子となる。食用(私の大好物である)。実を横から見ると、菱形を成し、両端に逆向きの二本の鋭い刺(とげ:蕚(がく)由来)を有する。秋に熟した果実が水底に沈み、冬を越す。私は母の実家のあった大隅半島の中央の岩川の山の池で、天然のそれを取って食べた。私の年齢で、自然の菱を採取して食べたことがあるひとは少ない。少なくとも、私は未だかってそういう私以外の思い出を持つ私から下の他人に逢ったことが、哀しいことに、ない。「青盲(あきめくら)」「明き盲」で、外見上、眼球に何らの変性を認めないにも拘らず、目が見えない症状を言うのであろう。
「子、生まれて、目、未だ開〔かざる〕時の〔母犬の〕乳」ヒトの場合、初乳には免疫システム上の、重要な成分が含まれているとされるので、それと関連するか。但し、「狗の子、目、開〔かば〕、卽ち、瘥〔(い)〕ゆ」という辺りは、フレーザーの言う、類感呪術的な非科学的なもののようにも思われる。
「京極」「月淸」「主〔(ぬし)〕しらぬ岡部〔(をかべ)〕の里をきてとへばこたへぬ先に犬ぞとがむる」「秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)」の「巻一 十題百首」の中の一首。同歌集は九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)の家集。良経は鎌倉初期の公卿で、九条家の祖で太政大臣に上り詰めた九条兼実の次男。母は藤原季行の娘。「後京極殿」とも呼ばれる。治承三 (一一七九) 年に元服し、文治四(一一八八)年、兄良通が二十二で夭折してしまい、九条家を継いだ。翌年、権中納言、次いで権大納言兼左大将、建久六(一一九五)年には内大臣に進んだが、同七年、父関白兼実が失脚したため(ウィキの「九条兼実」によれば、後白河院崩御後、新たな「治天の君」となった『後鳥羽天皇や上級貴族が厳格な兼実の姿勢に不満を抱き、一方』、『院近臣への抑圧は宣陽門院』(後白河院の末の皇女覲子(きんし)内親王が宣下された院号名)『を中心に』した『反兼実派の結集』を齎し、『門閥重視で故実先例に厳格な姿勢は中・下級貴族の反発を』も『招いた』。また、『頼朝も』長女『大姫入内のために丹後局』(宣陽門院の生母)『に接近し、兼実への支援を打ち切った』。『後鳥羽天皇との対立は深刻化し』、彼の娘で後鳥羽帝の中宮であった任子が『皇子を産まなかったことで廷臣の大半から』も『見切りをつけられ』、遂に建久七(一一九六)年十一月に『関白の地位を追われ』たとある)良経も籠居した。正治元(一一九九) 年に左大臣、建仁二 (一二〇二)年に土御門天皇の摂政となり、元久元(一二〇四)年には従一位、次いで太政大臣とはなったものの、同三年、寝所で急死した(後代、刺殺されたという説も生まれている)された。良経について、叔父慈円(同母弟)は著書「愚管抄」で「能芸、群ニヌケタリキ、詩歌・能書、昔ニハヂズ、政理・公事、父祖ヲツゲリ」と記している。「新古今和歌集」の仮名序の作者で、代表的歌人の一人であり、漢詩集「詩十体」などがある。書家としても著名で、その書風は「後京極流」と称された。一方、有職故実の研究にも力を入れ、「大間成文抄(除目大成抄)」「春除目抄」「秋除目抄」等の著書を残しているほか、日記「殿記」がある。因みに藤原定家は、もと、この良経の家司(けいし:家政を掌る職員)であった(以上は複数の信頼出来る辞書の記載をジョイントした。私は珍しく古典の歌人の中で特に好きな一人であるので、詳注させて貰った)。「日文研」の「和歌データベース」で校合した。
「說文」既出既注。
「王符論」後漢末の儒者王符の「潜夫論」のこと。十巻。「潜夫」とは在野の士という意で、王符は当時(二世紀中頃)の学者であったが、官僚として栄進することが出来ずに隠棲して本書を著わし、時勢を批判した。その立場は学問・道徳を重んじ、徳による人民教化を政治の眼目とするもので、当時の社会や政治を強く批判し、また、迷信・占いなどを排撃した(「ブリタニカ国際大百科事典」の拠る)。
「一犬、形〔(かたち)〕に吠ゆれば、百犬、〔その〕聲に吠ゆ」「一犬、形に吠ゆれば、百犬、声に吠ゆ」「一犬、虚に吠ゆれば、万犬(ばんけん)実(じつ)を伝う」等で人口に膾炙する故事成句。「一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人は、それを真実のこととして広めてしまう」ということの喩え。
「左傳」「春秋左氏傳」。「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」と合わせて春秋三伝の一つ。孔子と同時代の左丘明が孔子の「春秋」の正しい意味が失われることを恐れ、本書を作り、また「国語」を著わしたと伝えられているが、実際は漢代の学者が「国語」その他の伝承史料により、「春秋」の編年体に合せて編集したものと考えられている。「公羊伝」の政教主義を捨て、「春秋」の背景の史実をのびのびとした文章で記述し、これに義例を加えて倫理道徳の教えを展開したもの(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「犬を使ふ」調教する。
「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)撰になる古今の書物から不思議な話を蒐集したもの。全五十巻。
「其の一歳、人の十歳に當るか」ペットフード・ペット用品通販の「日優犬高松」公式サイト犬の「犬の年齢を人間に換算」によれば、孰れの品種も生後一年で十五歳(私は嘗ては十七歳と聴いた記憶があるが)となり、生後二年で二十四歳で、以下、小型犬は、三年目で二十八歳、中型犬は三年目で二十九歳、大型犬は三年目で三十歳、超大型犬は三年目は三十二歳とする。、小型犬は一年ごとに四歳ずつ、歳を取るような感じで、中型犬・大型犬はもう少しペースが速くなるとある。一昨年の十月二十六日に脳腫瘍で安楽死させた私の三女のアリスは十二年と一ヶ月生きたが、この計算だと、六十五歳を越えていたことになる。そんなおばあさんじゃなかったよね、可愛いアリス……六十の僕の方が……もっとずっと爺さんだったよ…………
「猫・犬の病ひを治す〔には〕」東洋文庫ではこの訳文相当の箇所に注して、『ここは一般的な犬や猪という意味にもとれるが、狆(ちん)(猫犬』(ねこいぬ)『とも狗猫(いぬねこ)ともいう)のことかもしれない。狆は外來種の犬で特別扱いされた唯一の室内犬であった』とする。
「烏藥〔(うやく)〕」クスノキ目クスノキ科クロモジ属クロモジ節 Lindera の常緑低木。中国原産で日本の暖地の山地にも野生する。高さ約三メートル。葉は薄い革質の広楕円形で先がすぼまっており、三本の主脈がはっきりしている。若葉のころは長くて柔らかい毛がある。雌雄異株で、春、淡黄色の小さい花が葉腋(ようえき)にかたまって咲く。実は長さ一センチメートルほどの楕円形で、緑色から赤褐色を経て、黒く熟し、油がとれる。根は暗褐色の長い塊状で香気をもち、健胃剤とする(ここまでは小学館「日本国語大辞典」に拠る)。テンダイウヤク Lindera strychnifolia が知られ、この「烏」というのは本種の根がカラスの頭に似ているため、或いは果実がカラスのように黒いことからとされる。また、和名「天台烏薬」の「天台」とは、中国南部の浙江省の天台地方で良い品質のものがとるためで、ボルネオール(borneol:C10H18O:「竜脳」「ボルネオショウノウ」とも呼ばれる二環式モノテルペン(Monoterpene:C10H16:テルペンの分類の一つで、二つのイソプレン単位からなり、環を持つタイプ。テルペン(terpene)とはイソプレン(isoprene:二重結合を二つ持つ炭化水素を構成単位とする炭化水素)を構成単位とする炭化水素で、植物・昆虫・菌類などによって作り出される生体物質の一つ)などの成分を含み、整腸作用があり、一般用漢方製剤二百九十四処方のうち、「烏薬順気散」・「烏苓通気散」など、五処方に配合されている、と「武田薬品工業株式会社」の「京都薬用植物園」公式サイト内のこちらにあった。
「菉竹堂簡便方〔(ろくちくだうかんべんはう)〕」東洋文庫版の「書名注」では、「菉竹堂簡便諸方」『か。全二巻。明の徐陟』(じょちょく)『撰。医書』とする。
「木鱉子〔(もくべつし)〕」ウリ目ツルレイシ属ナンバンカラスウリ Momordica cochinchinensis。ウィキの「ナンバンカラスウリ」より引く。『中国南部からオーストラリア北東部、タイ王国、ラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナムに分布する』蔓『植物で』、『別名ナンバンキカラスウリ、モクベツシ(木鼈子)。ベトナム語の名称からガック』『とも呼ばれる』。『雌雄異株の』蔓『植物で、果実は普通』、長さ十三センチメートル、直径十センチメートル『ほどの球形から楕円形』で、『熟した果実の表面は暗橙色で短い刺におおわれ、内部の仮種皮は暗赤色である。収穫期は比較的短く』、十二月から一月が『最盛期となる。農村部の家の玄関や庭園の垣にからんで生えているのが』、『よく見られる』。『ナンバンカラスウリの実は垣根に這わせている植物や自生している植物から収穫される。利用されるのは仮種皮と種子で、もち米と炊き込んでソーイ・ガック』『という濃い橙色の甘いおこわにすることが多い』。『ソーイ・ガックは、旧正月(テト)や結婚式などの慶事に供される料理で』、『米などと混ぜる前に、仮種皮と種子を取り出し、度数の高い酒をふりかけて下処理をすると』、『仮種皮の赤色がより鮮やかになり、種子が外れやすくなる』。『ナンバンカラスウリの果実は薬用としても利用される』。『ナンバンカラスウリの果実はビタミンAの前駆体であるβ-カロテン』(β-carotene)『のようなカロテノイド』(carotenoid:黄・橙・赤色などを示す天然色素の一群)『を豊富に含む』。『ナンバンカラスウリ由来のβ-カロテンを含む米料理を食べたベトナムの子供たちは、対照群と比較してβ-カロテンの血中濃度が高かった』。『ナンバンカラスウリの仮種皮に含まれる油脂には高濃度のビタミンEが溶けている』。『仮種皮の油に含まれる脂肪酸には、カロテノイドのような脂溶性の栄養素の吸収を促進する効果があるかもしれない』。『仮種皮はβ-カロテンとリコペン』(lycopene:カロテンの一種で鮮やかな赤色を呈す有機化合物)『を豊富に含むため』、『ナンバンカラスウリの抽出物はソフトカプセルに入ったサプリメントやミックスジュースとして販売されている。ナンバンカラスウリの果実はリコペンとβ-カロテンの他にも、ガン細胞の増殖を抑える効果がある可能性を持つタンパク質を豊富に含んでいる』とある。
「檳榔〔(びんらう)〕」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の種子を原材料とした漢方薬剤であろう。アルカロイドを含み、一般には「檳榔子(びんろうじ)」と呼ばれる。ウィキの「ビンロウ」によれば、『檳榔子の粉は単独では歯磨剤や虫下しに使用される。漢方方剤では、女神散(にょしんさん)、九味檳榔湯(くみびんろうとう)などに配合される。日本では薬局方にも記載されている』とある。
「祕笈〔(ひきゆう)〕」東洋文庫の割注に、『明の陳眉公の叢書の名』とある。
「杏仁〔(きやうにん)〕」ウィキの「杏仁」によれば、バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ Prunus armeniaca の『種子の中にある仁(さね)を取り出したもの。長さは』一・一~一・五ミリメートルと極小で、『形状は扁平の先の尖った卵円形』を成すが、『基部は左右対称ではない』。『古くからバラ科植物の仁は生薬や食用に利用され、杏仁(アンズ)のほか、桃仁(モモ)、梅仁(ウメ)、アーモンドなど』のそれがある。『杏仁には苦みの強い苦杏仁(くきょうにん』『Prunus maximowiczii)と、甘みのある甜杏仁(てんきょうにん)があり、前者は薬用に、後者は杏仁豆腐(あんにんどうふ)、アマレットなどの材料として用いられている』。生薬としての『杏仁は、三国時代(三世紀)頃に編纂されたもっとも古い漢方薬書である』「傷寒論」に載り、「麻黄湯」「大青竜湯」等の『重要な処方に配剤されている大切な薬味である』。『古くから「毒のある薬味」とされており、処方する際は分量を慎重に決めるものとされていた。現在では、分解されると』、『青酸を発生するアミグダリン』(amygdalin:C20H27NO11:青酸配糖体の一種。梅干の種にも含まれる)『が含まれていることがわかっている』。『漢方では鎮咳剤として多く用いられている』。『なお、バラ科植物の仁の区別はアーモンドなどを除き』、『極めて』難しく、「本草辨疑」には『桃仁は見分けやすいが、杏仁と梅仁はよく似ているため、杏仁と梅仁が混じって売られていることがあると記されている』。『現実の生薬市場では』前掲書で『見分けやすいとされている桃仁にも』、『杏仁が混入している場合がある』とある。
「保嬰全書」東洋文庫の「書名注」に、医学書「保嬰撮要」『二十巻のことか。明の薛鎧(せつがい)撰。小児の諸種の病状と原因、治療について述べたもの。伝本は稀』とある。
「搜神記」六朝時代の文語志怪小説集。四世紀の晋の干宝の著になる志怪小説集。神仙・道術・妖怪などから、動植物の怪異・吉兆・凶兆の話等、奇怪な話を記す。著者の干宝は有名な歴史家であるが、身辺に死者が蘇生する事件が再度起ったことに刺激され、古今の奇談を集めて本書を著したという。もとは 三十巻あったと記されているが、現在伝わるものは系統の異なる二十巻本と八巻本である。当時、類似の志怪小説集は多く著わされているが、本書はその中でも、比較的、時期も早く、歴史家らしい簡潔な名文で、中国説話の原型が多く記されており、後の唐代伝奇など、後世の小説に素材を提供し、中国小説の萌芽ということが出来る(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。以下の話は、「第二十巻」の以下。
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孫權時李信純、襄陽紀南人也、家養一狗、字曰黑龍、愛之尤甚、行坐相隨、飲饌之間、皆分與食。忽一日、於城外飮酒、大醉。歸家不及、臥於草中。遇太守鄭瑕出獵、見田草深、遣人縱火爇之。信純臥處、恰當順風、犬見火來、乃以口拽純衣、純亦不動。臥處比有一溪、相去三五十步、犬卽奔往入水、濕身走來臥處、周囘以身灑之、獲免主人大難。犬運水困乏、致斃於側。俄爾信純醒來、見犬已死、遍身毛濕、甚訝其事。睹火蹤跡、因爾慟哭。聞于太守。太守憫之曰、「犬之報恩、甚於人、人不知恩、豈如犬乎。」卽命具棺槨衣衾葬之、今紀南有義犬葬、高十餘丈。
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なお、同書では、これに続いて、今一件の忠犬譚が載るので、それも引いて、自己流の訓読を附しておく。
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太興中、吳民華隆、養一快犬、號的尾、常將自隨。隆後至江邊伐荻、爲大蛇盤繞、犬奮咋蛇、蛇死。隆僵仆無知、犬彷徨涕泣、走還舟、復反草中。徒伴怪之、隨往、見隆悶絕。將歸家。犬爲不食。比隆復蘇、始食。隆愈愛惜、同于親戚。
(太興中[やぶちゃん注:東晋の元帝の年号。三一八年から三二一年。]、吳の民に華隆あり。一快犬[やぶちゃん注:賢い犬。]を養ひ、「的尾」と號し、常に自づから隨はせて將(ひきゆ)く。隆、後、江邊(かはべ)に至りて荻を伐るに、大蛇、盤繞(ばんねう)を爲す。犬、奮として蛇を咋(は)み、蛇、死す。隆、僵-仆(たふ)れて、知る無し[やぶちゃん注:昏倒して意識がない。]。犬、彷徨し、涕泣して、舟に走り還り、復た、草中に反(か)へる。徒伴(とはん)のもの[やぶちゃん注:舟中にいたこの日の華隆の連れの者。]、之れを怪しみ、隨ひ往き、隆の悶絕せるを見る。家に將きて歸る。犬、食(ものく)はず[やぶちゃん注:主人のことを心配して物を食おうとしない。]。隆、復た蘇(よみがへ)れる比(ころ)、始めて食ふ。隆、愈々、愛惜し、親戚に同じうす[やぶちゃん注:肉親同様に扱った。]。)
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本文の最後で良安も挙げる、「諸國里人談卷之一 犬頭社(けんとうのやしろ)」(リンク先は私の電子化注)等で知られる、大蛇から主人を救う話柄の最も古形の(ハッピー・エンドの)一つである。
「孫權」(一八二年~二五二年)は三国時代の呉の第一代皇帝(在位:二二二年~二五二年)。呉郡富春(現在の浙江省富陽県)の人。孫堅の子。二〇〇年、兄孫策の急死により、跡を継いだ。孫権は土着豪族及び北から南下した名士の支持を得て、巧みな政治的外交的手腕を揮(ふる)い、遂に江南支配を達成した。劉備と連合して曹操の南下を食止めた「赤壁の戦い」はその間に起ったものである。二二二年、呉王となり、建元して黄武といったが、その時は実際にはまだ、魏の封策を受けていた。二二九年には皇帝の位について独立、建業を首都とした。
「述異記」南斉の祖沖之が撰したとされる志怪小説集。以下が原文。
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陸機少時、頗好游獵、在吳豪盛客獻快犬名曰黃耳、機後仕洛、常將自隨。此犬黠慧能解人語、又嘗借人三百里外、犬識路自還、一日至家。機羈旅京師、久無家問、因戲語犬曰、「我家絕無書信、汝能齎書馳取消息不。」。犬喜搖尾、作聲應之。機試爲書、盛以竹筒、系之犬頸。犬出驛路、疾走向吳、飢則入草噬肉取飽。每經大水、輒依渡者弭耳掉尾向之、其人憐愛、因呼上船。裁近岸、犬卽騰上、速去如飛。逕至機家、口銜筒作聲示之。機家開筒取書、看畢、犬又向人作聲、如有所求、其家作答書內筒、複系犬頸。犬既得答、仍馳還洛。計人程五旬、而犬往還裁半月。後犬死、殯之、遣送還葬機屯南、去機家二百步、聚土爲墳、屯人呼爲「黃耳塚」。
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「陸機」三国時代から西晋にかけての文学者・政治家・武将であった陸機(二六一年~三〇三年:呉(江蘇省呉県)の人。祖父遜は呉の宰相、父抗は大司馬となった名門の出身。 二十歳の時、呉が滅びると、暫く別荘に引き籠っていたが、太康の末に、弟の陸雲とともに晋に仕えた。宰相張華に認められ、また賈謐(かひつ)のもとに集まる文学集団にも加わり、北方文人とも交わった。やがて恵帝の代となって政局が不安定となり、八王の乱が起ったとき、そのなかに巻込まれ、陸雲とともに殺された。その詩は修辞に重きを置き、華麗な言葉や対句の技巧を用い、六朝の華美な詩風の先駆けとなった。また、「文賦」は彼の文学批評の方法を述べたものとして著名である。作品は「陸士衡集」十巻に纏められている。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の家は呉の都建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったらしい(ウィキの「陸機」に拠る)。建業は嘗ての呉の首都であったから、取り敢えず上海よりは洛陽に近いこことしても、その距離は、直線でも、六百五十キロメートルを超える。また、「『三国時代の文学スレッド』まとめサイト」のこちらに、「晉書」の「陸機伝」及び、良安が参照したと思われるものとほぼ同じ(より詳しい)、「芸文類聚」巻九十四の原文・書き下し文・訳が贅沢に載るので、必見。そこの「スレッド」の書き込みでは、陸機の故郷である華亭(上海市松江県)までの直線距離を示してあり、ざっと一千キロメートルとする。なお、「黃耳塚」も残念なことに現存しないようである。
『「太平記」に詳らかなり』「太平記」の巻第二十二の巻頭にある「畑六郎左衞門事」であるが、全体はかなり長い。冒頭から彼の「犬獅子」に関わる所までを以下に引く。底本は新潮日本古典集成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示し、一部の注は同書の傍注や頭注を参照した。
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さる程に京都の討手大勢にて攻下しかば、杣山城(そまやまのしろ)も落とされ、越前・加賀・能登・越中・若狹五箇國の間に、宮方(みやがた)[やぶちゃん注:南朝方。]の城、一所も無かりけるに、畑六郞左衞門時能(ときよし)、僅に二十七人籠りたりける鷹巢城(たなのすのしろ)ばかりぞ相殘りたりける。一井兵部少輔(いちのゑひやうぶのせう)氏政は、去年、杣山城より平泉寺へ越えて、衆徒(しゆと)を語ひ、旗を擧げんと議せられけるが、國中(こくちゆう)、宮方、弱うして、與力する衆徒も無かりければ、これも同く鷹巢城へぞひき籠りける。
「時能が勇力(ゆうりよく)、氏政が機分(きぶん)、小勢なりとてさしおきなば、いかさま天下の大事に成るべし。」
とて、足利尾張守高經・高(かうの)上野介師重、兩大將として、北陸道七箇國の勢七千餘騎を率して、鷹巢城の四邊を千、百重(ひやくぢゆう)に圍まれ、三十餘箇所の向ひ城(じろ)をぞ取つたりける。
かの畑六郞左衞門と申すは、武藏國の住人にてありけるが、歳十六の時より相撲を好んで取りけるが、坂東八箇國に更に勝つ者、無かりけり。腕の力、筋(すぢ)太うして、股のむら肉(じし)厚ければ、かの薩摩の氏長[やぶちゃん注:薩摩隼人で後に平氏を名乗った、仁明天皇の御代(天長一〇(八三三)年~嘉祥三(八五〇)年)の相撲の名人。]もかくやと覺えておびただし。その後、信濃國に移住して、生涯、山野江海、獵り・漁(sなど)りを業(げふ)として、年久しくありしかば、馬に乘つて惡所・岩石を落とす事、あたかも神變を得るが如し。ただ、造父(ざうほ)[やぶちゃん注:周の穆(ぼく)王に仕えた馬術の名人。]が御(ぎよ)を取つて、千里に疲れざりしも、これには過ぎずとぞ覺えたる。水練は、また、憑夷(ふい)[やぶちゃん注:「憑夷」が正しい。中国の治水神の名。]が道を得たれば、驪龍頷下(りりようがんか)の珠(たま)[やぶちゃん注:黒龍の顎の下にあるとされた宝珠。]をもみづから奪ふべし。弓は養由(やういう)[やぶちゃん注:春秋時代の弓の名人。]が迹を追ひしかば、弦(つる)を鳴して、遙なる樹頭(じゆとう)の栖猿(せいゑん)をも落しつべし。謀(はかりごと)巧みにして、人を眤(むつ)び、氣、すこやかにして心たわまざりしかば、戰場に臨むごとに敵を靡(なび)け、堅きに當たる事、樊噲(はんくわい)・周勃[やぶちゃん注:漢の高祖に従い、漢建国に功績があった。]が得ざる道をも得たり。されば、物は類を以つて聚まる習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜(ところのだいふばうくわいしゆん)とて、少しも劣らざる惡僧あり。また、中間(ちゆうげん)に惡八郞とて、缺脣(いぐち)[やぶちゃん注:兎口(みつくち)。]なる大力(だいりき)あり。又、「犬獅子(けんじし)」と名を付けたる不思議の犬、一疋、有りけり。此三人の者ども、闇にだになれば、或いは帽子冑(ばうしかぶと)[やぶちゃん注:鉢が丸く、帽子のように見える兜。]に鎖を著て、足輕に[やぶちゃん注:素早く。]出で立つ時もあり。或いは大鎧(おほよろひ)に七つ物持つ時もあり。さまざまに質(だて)[やぶちゃん注:方法。]を替へて敵の向ひ城に忍び入る。先づ、件(くだん)の犬を先立てて、城の用心の樣(さま)を伺ふに、敵の用心きびしくて、隙(ひま)を伺ひ難き時は、此の犬、一吠、吠えて、走り出で、敵の寢入り、夜𢌞りも止む時は、走り出でて、主に向ひて尾を振つて告げける間、三人ともに此の犬を案内者にて、屛(へい)をのり越え、城の中へ打ち入つて、喚(をめ)き叫んで、縱橫無碍(むげ)に切りて𢌞りける間、數千の敵軍、驚き騷いで、城を落されぬは無りけり。「夫(それ)、犬は守禦(しゆぎよ)を以つて人に養はる」といへり。誠に心無き禽獸も、報恩・酬德の心有るにや、斯かる事は先言(せんげん)にも聞きける事あり。昔、周の世衰へんとせし時、戎國(じゆうこく)亂れて王化に隨はず、兵を遣はして是れを責む雖も、官軍、戰ひに利無く、討たるる者、三十萬人、地を奪はるる事、七千餘里、國、危く、士、辱しめられて、諸侯、皆、彼に降(くだ)らん事を乞ふ。爰(ここ)に周王、是を愁へて、扆[やぶちゃん注:玉座。元は王座の後ろに立てた屏風。]を安じ給はず。折節、御前に犬の候ひけるに、魚肉を與へ、
「汝、若(も)し心有らば、戎國に下つて、竊かに戎王を喰ひ殺して、世の亂(みだれ)を靜めよ。然らば、汝に三千の宮女を[やぶちゃん注:「から」の意。]一人下して、夫婦となし、戎國の王たらしめん。」
と戲れて仰せられたりけるを、此の狗、勅命を聞きて、立つて、三聲、吠えけるが、則ち、萬里の路を過ぎて、戎國に下りて、偸(ひそ)かに戎王の寐所へ忍び入りて、忽ちに戎王を喰ひ殺し、其の頸を咆(くは)へて、周王の御前へぞ進(まゐ)りける。等閑(なほざり)に戲れて勅定(ちやうぢやう)ありし事なれども、
「綸言(りんげん)改め難し。」[やぶちゃん注:皇帝の仰せを覆すことは出来ない。]
とて、后宮(こうきゆう)を一人、此の狗に下されて、夫婦と爲(な)し、戎國を其の賞にぞ行はれける。后(きさき)三千の列に勝(すぐ)れ、一人(いちじん)の寵(ちよう)厚(あつ)かりし其の恩情を棄てて、勅命なれば力無く、かの犬に伴ひて、泣々、戎國に下りて、年久しく住み給しかば、一人の男子を生めり。其の形、頭(かしら)は犬にして、身は人に變はらず。子孫相續いて戎國を保ちける間、之れに依つて、かの國を「犬戎國」とぞ申しける。彼(かれ)を以つて之れを思ふに、此の「犬獅子」が行くをも、珍しからずとぞ申しける。されば、此の犬、城中に忍び入りて、機嫌[やぶちゃん注:攻め込むに相応しい時機。]を計りける間、三十七箇所に城を拵へ分かつて、逆木(さかもぎ)を引き、屛(へい)を塗りたる向ひ城ども、每夜、一つ二つ打ち落され、物具(もののぐ)を捨て、馬を失ひ、恥をかく事多ければ、敵の強きをば顧みず、御方(みかた)に笑はれん事を恥ぢて、偸(ひそ)かに兵粮(ひやうらう)を入れ、忍び忍び、酒・肴を送りて、
「然るべくは、我が城を夜討になせそ。」
と、畑を語(かた)らはぬ者[やぶちゃん注:頼んで懇請をしない者。]ぞ無かりける。[やぶちゃん注:以下、略。]
*
『播州牧夫〔(ひらふ)〕が二犬、主の急難を救ひ、而も其の敵を囓み殺すと』本邦の犬塚(義犬墓)を渉猟した非常に優れた考察である必見の日本獣医史学会理事長小佐々学氏の論文「日本愛犬史 ―ヒューマン・アニマル・ボンドの視点から―」(PDF。なお、「Human Animal Bond」は「人と動物の絆」の意。略して「HAB(ハブ)」とも呼ばれる)に、「播州犬寺(いぬでら)の義犬塚」として(ピリオド・コンマを句読点に、アラビア数字を漢数字に代えさせて戴いた)、
《引用開始》
蘇我入鹿に従軍した播磨の長者枚夫(ひらふ)(または秀夫(しゅうふ))を殺そうとした下僕を咬み殺して主人を救った白犬と黒犬の二頭を弔うために、枚夫が犬寺(金楽山法楽寺)と墓碑を建立したとされている。福本の義犬墓〔七世紀初期〕の話、兵庫県神河町福本〕は、「白犬石塔」という梵字以外無銘の宝筺印塔(ほうきょういんとう)と「黒犬石塔」という無銘の五輪塔がある。また、長谷の義犬塚〔同時代の話、同県神河町長谷〕には、枚夫の二頭の義犬のうち一頭がこの地で死んだため弔ったとされる無銘の犬塚がある。これらの墓は後世の作で犬の墓とする確証はなく、二頭の犬に三カ所の墓があることになる。
《引用終了》
とある。「播州犬寺」の異名を自称される兵庫県神崎郡神河町中村にある真言宗法楽寺(ここ(グーグル・マップ・データ))の公式サイトのこちらにも「縁起」と、詳しい「播州犬寺物語」が載るので参照されたい。それによれば、事件は大化年間(六四五年~六五〇年)とする。但し、そこで枚夫が入鹿の要請で都に上ったとする解説部分では、これは蘇我入鹿が斑鳩宮の聖徳太子の子山背大兄王を襲撃させた時の出陣命令かと推定している。だとすると、それは皇極天皇二年十一月一日(六四三年十二月二十日)であるから、ズレがある。なお、以上から良安の「牧夫」は「枚夫」の誤認と考えられる。次注も参照されたい。
「播州犬寺の下に詳らかなり」本「和漢三才図会」の「第七十七巻」の「播磨」の「犬寺」の項を指す。以下に電子化する。
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犬寺 在書寫山之奥
播州牧夫【蘇我入鹿之從者】之妻與僕密通僕却欲弑主語曰
山中有鹿猪集處不令他人知君與我潜往獵之牧夫
大喜行焉有二黑犬相從入深山僕上高處彎弓曰我
紿倡來今奪命而能濟君身後牧夫解所帶畋粮與犬
曰我死於此汝等囓其屍莫令有遺餘矣二犬埀耳聴
已一犬躍行囓斷僕之弓絃一犬嚼僕之喉斃之牧夫
將二犬還家乃逐其妻又以爲二犬如猶子我資財皆
是二犬之有也然畜齡短不幾二犬自斃牧夫歎曰前
言不可渝也便捨田貨建伽藍安千手大悲像薦冥福
祠二犬爲地主神桓武帝聞之勑爲官寺
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犬寺(いぬでら) 書寫山の奥に在り
播州の牧夫(かみが)[やぶちゃん注:総てママ。]【蘇我入鹿の從者。】の妻、僕(めしつかひ)と密かに通づ。僕、却つて主〔(あるじ)〕を弑(し)せんと欲し、語りて曰はく、「山中に、鹿・猪の集まる處、有り。他人をしてしらしめずして、君と我と、潜〔(ひそか)にに往きて之れを獵〔(と)〕牧らん」〔と〕。牧夫、大いに喜んで行く。二つに黑犬、有り。相ひ從へて深山に入る。僕、高〔き〕處に上り、弓を彎(ひ)いて、曰はく、「我、紿(あざ)むき、倡〔(ともな)〕い[やぶちゃん注:ママ。]來たる。今、命を奪ひて、能く君の身後〔(しんご)〕を濟(すく)はん[やぶちゃん注:後生を弔って差し上げましょうぞ。]」〔と〕。牧夫、帶ぶる所の畋-粮〔ゑさ〕[やぶちゃん注:狩りの際に携帯する糧食。]を解き、犬に與へて曰はく、「我れ、此に死す。汝等、其の屍(しかばね)を囓(うはへ)て、遺餘有らしむること莫〔(なか)〕れ」と。二犬、耳を埀れて聴き、已に一犬、躍り行くには、僕が弓の絃〔(つる)〕を囓(く)ひ斷(き)る。一犬、僕が喉を嚼(か)みて之れを斃〔(たふ)〕す。牧夫、二犬を將〔(ひきい)〕て家に還りて、乃〔(すなは)〕ち、其妻を逐(をひや)り、又、以爲(おもへ)らく、『二犬、猶子のごとし。我が資財、皆、是れ、二犬の有(ゆう)なり』〔と〕。然れども、畜の齡(よはひ)、短く、幾(いくばく)ならず〔して〕、二犬、自-斃(し)す。牧夫、歎して曰はく、「前言、渝(かは)るべからず」と。便〔(すなは)〕ち、田貨を捨て[やぶちゃん注:寺に喜捨し。]伽藍を建てて、千手大悲の像を安じ、冥福を薦〔(ささ)げ〕、二犬を祠り、地主の神と爲す。桓武帝、之れを聞き、勑して官寺と爲す。
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東洋文庫訳では、割注で二匹の犬の名を『大黒・小黒』とし、また、最後に以上の良安の解説は「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ:鎌倉後期の仏教書。全三十巻・目録一巻。虎関師錬(こかんしれん)著。元亨二(一三二二)年成立。仏教渡来から七百年間の高僧四百余名の伝記と史実を漢文体で記したもの)に拠る旨の割注が附されてある。
「宇都(うつ)右衞門五郞が犬、誤りて斬らる。而〔(しか)れど〕も、其の頭〔(かうべ)〕、飛びて、蚺蛇(うはばみ)を囓み殺し、主の危難を救ふ」先にも掲げた「諸國里人談卷之一 犬頭社(けんとうのやしろ)」の本文及び注で、人物やロケーションを仔細に述べてあるので参照されたい。なお、次の注も見られたい。
「參州犬頭〔(けんづ)〕の社〔(やしろ)〕の下に詳らかなり」本「和漢三才図会」の「第七十七巻」の「參河」の「犬頭社(けんづのやしろ)」の項を指す。以下に電子化する。
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犬頭社 在上和田森崎
犬尾社在下和田天正年中領主宇津左門五郞忠茂
[やぶちゃん注:「左門」はママ。訓読では「衞」を補った。]
一時獵入山家有白犬從走行到一樹下忠茂俄爾催
睡眠犬在傍咬衣裾引稍寤復寐犬頻吠于枕頭忠茂
怒妨熟睡拔腰刀切犬頸頭飛于樹梢嚙着大蛇頸主
見之驚切裂蛇而還家感犬忠情埋頭尾於兩和田村
立祠祭之 家康公聞之甚感嘆焉且以有徃徃靈驗
賜采地蓋宇津氏大久保一族先祖也【犬有忠功也多詳于狗之下】
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犬頭(けんづの)社 上和田森崎に在り。
犬尾〔(けんび)の〕社は下(しも)和田に在り。天正年中[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。]に、領主宇津左衞門五郞忠茂、一時(あるとき)、獵(かり)して山に入る。家に白犬有りて從ひて走り行く。一樹の下に到りて、忠茂、俄-爾(にはか)に睡眠を催(もよほ)し、犬、傍に在っりて、衣の裾(すそ)を咬(くは)へて、引く。稍〔(やふや)〕く寤(さ)めて〔→むるも〕、復た、寐(ね)る。犬、頻(しきり)に枕頭に吠ゆ。忠茂、熟睡を妨(さまたぐ)ることを怒りて、腰刀を拔きて、犬の頸(くび)を切る。頭〔(かしら)〕、樹の梢に飛んで、大蛇の頸(くびすぢ)に嚙(く)ひ着(つ)く。主、之れを見て驚き、蛇を切り裂き、家に還る。犬の忠情を感じ、頭尾を兩和田村に埋(いづ)み、祠(ほこら)を立て、之れを祭る。 家康公、之れを聞(きこしめ)して、甚だ感嘆あり。且(そのうへ)、徃徃(わうわう)靈驗〔(れいげん)〕有るを以つて采地を賜ふ。蓋し、宇津氏は大久保一族の先祖なり【犬、忠功有るや、多し。詳狗の下に詳(つまびら)かなり。】。
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ここで忠茂が俄かに眠くなってしまうのは、樹上の蟒蛇(うわばみ)が邪悪な霊力を以ってしたことであることは言うまでもない。また、ここで忠茂が首を刎ねたことを、暗愚と思うのは読みが浅いと言わざるを得ない。寧ろ、この犬は、主人に首を刎ねてもらうために、敢えて裾を引いたのかも知れぬ、ということに気づかねばならない。そうでなくては、樹上の高い位置に潜む大蛇の、その急所たる首筋に咬みつくことは、犬には到底、不可能だからである。急所を押えれば、死にはせずせずとも、主人に掛けた麻酔の術は中断されて解けるからである。さても、既にお判りの方もあろう。これは中国の「干将莫耶(かんしょうばくや)の剣と眉間尺(みけんじゃく)」に纏わる、かの数奇異様な伝奇伝承のエンディングの首が闘う凄惨な(一面からはブットビ過ぎて滑稽とも言える)シークエンスが淵源にあるのではないかと私は踏むからである。この話を御存じない方は、私の「柴田宵曲 續妖異博物館「名劍」(その1)」の本文や私の注を参照されたい。]
―本電子化注を亡き三女アリスに捧ぐ―
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