蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 孤寂
孤 寂
椶櫚(しゆろ)の葉音(はおと)に暮(く)れてゆく夏(なつ)の夕暮(ゆふぐれ)、
たゆまるる椶櫚(しゆろ)のはたはた、
裂葉(さけば)よ、あはれ莖長(くきなが)く葉末(はずゑ)は折(を)れて埀(た)れ顫(ふる)へ、
天(あめ)に捧(ささ)げし掌(たなごころ)、――絕入(ぜつじゆ)の悶(もだ)え。
さもこそあらめ、淨念(じやうねん)の信士(しんし)その人(ひと)、
孤獨(こどく)なる祈誓(きせい)に喘(あえ)ぎ、
胸(むね)に籠(こ)めたる幻(まぼろし)を雲(くも)に痛(いた)みて、地(ち)のほめき――
そをだに香(かう)の燻(く)ゆるかと賴(たの)めるけはひ。
偉(おほい)なるかな空(そら)の宵(よひ)、天(あめ)の廣葉(ひろは)は
圓(まど)かにて、呼息(いき)ざし深(ふか)く、
物(もの)皆(みな)かげに搖(ゆら)めきて暗(くら)うなる間(ま)を明星(みやうじやう)や、
見(み)よ、永劫(とことは)の嚴(いづ)の苑(その)、光(ひかり)のにほひ。
ここにては、噫(ああ)、晝(ひる)の濤(なみ)、夜(よる)の潮(うしほ)と
捲(ま)きかへるこころの鹹(から)さ、
信(しん)の淚(なみだ)か、憧憬(あくがれ)の孤寂(こじやく)の闇(やみ)を椶櫚(しゆろ)の花(はな)
幹(みき)を傳(つた)ひてほろほろと根(ね)にぞこぼるる。
[やぶちゃん注:「喘(あえ)ぎ」のルビ「あえ」はママ。「呼息(いき)ざし」の「いき」は「呼息」二字へのルビ。終りから二行目の中の「
「椶櫚(しゆろ)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属
Trachycarpus の類。「棕櫚」とも漢字表記する。葉が垂れるワジュロ
Trachycarpus fortunei(中国湖北省からミャンマー北部まで分布し、本邦では九州地方南部に自生する。日本に産するヤシ科の植物の中では最も耐寒性が強く、東北地方まで栽培植生されており、中には北海道の石狩平野でも地熱などを利用せずに成木している個体もある)或いは、垂れないトウジョロ(唐棕櫚)Trachycarpus
wagnerianus(ワジュロよりも樹高や葉面が小さく、組織が固い。そのため、葉の先端が下垂しないのを特徴とする。中国大陸原産の帰化植物であるが、江戸時代の大名庭園には既に植栽されていたようである)の孰れかであるが(ここまではウィキの「シュロ」に拠った)、ここは「裂葉」のそれ(一本だけがそうなっているのでは、「天(あめ)に捧(ささ)げし掌(たなごころ)、――絕入(ぜつじゆ)の悶(もだ)え」という絶妙の絵にはならない)、以下の総てが下降する感性感覚から、前者で採りたい。
「信士(しんし)」在俗のまま受戒した男子。
「ほめき」「熱き」。熱気を持つこと。火照り。]
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