蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 癡夢
癡 夢
陰濕(いんしつ)の「嘆(なげき)」の窓(まど)をしも、かく
うち塞(ふさ)ぎ眞白(ましろ)にひたと塗(ぬ)り籠(こ)め、
そが上(うへ)に垂(た)れぬる氈(かも)の紋織(あやおり)、――
朱(あけ)碧(みどり)まじらひ匂(にほ)ふ眩(まば)ゆさ。
これを見る見惚(みほ)けに心(こゝろ)惑(まど)ひて、
誰(たれ)を、噫(あゝ)、請(しやう)ずる一室(ひとま)なるらむ、
われとわが願(ねがひ)を、望(のぞみ)を、さては
客人(まらうど)を思(おも)ひも出(い)でず、この宵(よひ)。
唯(たゞ)念(ねん)ず、しづかにはた圓(まど)やかに
白蠟(びやくらふ)を黃金(こがね)の臺(だい)に點(とも)して、
その熖(ほのほ)いく重(へ)の輪(わ)をしめぐらし
燃(も)えすわる夜(よ)すがら、われは寢(い)ねじと。
徒然(つれづれ)の慰(なぐ)さに愛(あい)の一曲(ひとふし)
奏(かな)でむとためらふ思(おも)ひのひまを、
忍(しの)び寄(よ)る影(かげ)あり、誰(た)そや、――畏怖(おそれ)に
わが脈(みやく)の漏刻(ろうこく)くだちゆくなり。
長(なが)き夜(よ)を盲(めしひ)の「嘆(なげき)」かすかに
今もなほ花文(けもん)の氈(かも)をゆすりて、
呼息(いき)づかひ喘(あへ)げば盛(さか)りし燭(しよく)の
火影(ほかげ)さへ、益(やく)なや、しめり靡(なび)きぬ。
癡(し)れにたる夢(ゆめ)なり、こころづくしの
この一室(ひとま)、あだなる「悔(くい)」の蝙蝠(かはほり)
氣疎(けうと)げにはためく羽音(はおと)をりをり
音(おと)なふや、噫(あゝ)などおびゆる魂(たま)ぞ。
[やぶちゃん注:「燃(も)えすわる」は底本では「燈(も)えすわる」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。
「氈(かも)」獣毛で織った敷物。毛氈(もうせん)。
「慰(なぐ)さ」造語ではなく、古語としてある。心を慰めるもの。心を安めるもの。動詞「なぐ(和ぐ)」の終止形に接尾語「さ」を附けたもの。]
« 大和本草卷之十三 魚之上 麵條魚(しろうを) (シロウオ) | トップページ | 蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 滅の香 »