蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) われ迷ふ
われ迷ふ
迷(まよ)ひぬ、ふかき「にるばな」に、
たわやの髮(かみ)は身を捲きぬ、
たゆげの夜(よる)を煩惱(ぼんなう)は
狎(な)れてむつびぬ、「にるばな」に。
壁(かべ)にゑがける執(しふ)の花(はな)――
閨(ねや)の一室(ひとま)の濃(こ)きにほひ、
奇(く)しき花(はな)びら、花(はな)しべに、
火影(ほかげ)も、嫉(ねた)し、たはれたる。
夢(ゆめ)の私語(ささやき)、たわやげる
瑪瑙(めなう)の甘寢(うまい)、「にるばな」よ、
艷(つや)も貴(あて)なる敷皮(しきがは)に
嫋(なよ)びしなゆるあえかさや。
愛欲(あいよく)の蔓(つる)まつはれる
窓(まど)の夜(よ)あけを梵音(ぼんおん)に
祕密(ひみつ)の鸚鵡(あうむ)警(いまし)めぬ、――
ああ「にるばな」よ、曉(あけ)の星(ほし)。
鏡(かがみ)は曇(くも)る、薰香(くんかう)に
まじる一室(ひとま)の呼息(いき)ごもり、
鏡(かがみ)は晴(は)れぬ、影(かげ)と影(かげ)、
覺(さ)めし素膚(すはだ)にわれ迷(まよ)ふ。
[やぶちゃん注:「むつびぬ」は底本では「むつみぬ」。底本の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」の解説書の野田宇太郎氏の解説にある、有明から渡された正誤表に従い、特異的に呈した。
「にるばな」ニルヴァーナ。サンスクリット語の「涅槃」の意の原語のひらがな音写。
「梵音(ぼんおん)」有明の好んだ語。ここは「夜あけ」や「祕密(ひみつ)の鸚鵡(あうむ)警(いまし)めぬ」という表現からは、寺院の明け六ツの梵鐘の音ともとれるが、今まで同様、総てが観念世界の表象であるとすれば、シンボライズされたその音(梵鐘で構わぬが)は本来の仏語で言うところの梵音(ぼんのん)、「清浄な音声」「大梵天の声」「仏の、正法(しょうぼう)を説く声」の幻聴でもあろうか。]