和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 比翼鳥(ひよくのとり) (雌雄で一体の幻鳥・捏造剥製はフウチョウを使用)
ひよくのとり
比翼鳥
ヒイ イツ
三才圖會云南方有比翼鳥不比不飛謂之鶼鶼似鳬而
青赤色一目一翼相得乃飛王者有孝德而幽遠則至
拾遺記云比翼鳥多力狀如鵲啣南海之丹沉巢崑岑之
玄木遇聖則來集以表周公輔聖之祥異也
△按比翼鳥本出爾雅而宋書亦謂王者德高至其
如是則亞于鸞鳳者矣廣博物志云有鳥狀如鳬而一
翼一目相得乃飛名曰蠻蠻見則天下大水如此則非
瑞鳥而共希有之物也近來比翼鳥來於番舶有雌雄
其雄頭淡赤腹背深紅翅蒼帶赤尾長一尺餘如絲其
瑞卷曲作蕨之茁形觜黃脚蒼爪黃雌頸紅胸黑背腹
灰白尾短而卷曲羽毛美麗可愛然未見生者疑此造
成者矣
*
ひよくのとり
比翼鳥
ヒイ イツ
「三才圖會」に云はく、『南方、比翼の鳥、有り。比〔(ひ〕〕せずば[やぶちゃん注:並んでいないと。]、飛ばず。之れを「鶼鶼〔(けんけん)〕」と謂ふ。鳬〔(かも)〕に似て、青赤色。一目・一翼。相ひ得て、乃〔(すなは)〕ち、飛ぶ。王〔たる〕者、孝德有りて幽遠なれば、則ち、至る』〔と〕。「拾遺記」に云はく、『比翼の鳥、多力〔なり〕。狀、鵲〔(かささぎ)〕のごとく、南海の丹沉を啣〔(くは)〕へて、崑岑の玄木〔(げんぼく)〕に巢(すく)ふ。聖に遇へば、則ち、來〔たり〕集〔(つど)ひ〕、以つて、周公輔聖〔(しゆうこうほせい)〕の祥異〔(しやうい)〕を表はす』〔と〕。
△按ずるに、比翼の鳥、本〔(もと)は〕「爾雅」に出づ。而〔して〕「宋書〔(そうじよ)〕」に亦、謂ふ、『王〔たる〕者、德、高きときは至る』と。其れ、是くのごとく、則ち、鸞・鳳に亞(つ)ぐ者なり。「廣博物志」に云はく、『鳥、有り、狀、鳬のごとくにして、一翼・一目。相ひ得て、乃ち、飛ぶ。名づけて「蠻蠻〔(ばんばん)〕」と曰ふ。見るときは、則ち、天下、大水〔す〕』といへり。此くのごとくなれば、則ち、瑞鳥に非らず。而〔(しか)れど〕も、共に希有の物なり。近來、比翼の鳥、番〔→蕃〕舶〔(ばんはく)〕[やぶちゃん注:南蛮の貿易船。]より來たる。雌雄有り。其の雄、頭、淡赤。腹・背、深紅。翅、蒼くして赤を帶ぶ。尾の長さ、一尺餘り、絲のごとし。其の瑞(はし)、卷〔き〕曲〔りて〕、蕨〔(わらび)〕の茁(もへいづ[やぶちゃん注:ママ。])る形を作〔(な)〕し、觜、黃。脚、蒼く、爪、黃なり。雌は、頸、紅く、胸、黑く、背・腹、灰白。尾、短くして、卷曲〔(くわんきよく)〕なり。羽毛、美麗〔にして〕愛すべし。然〔(しか)れど〕も、未だ生ける者を見ず。疑ふらくは此れ、造成す〔る〕者(もの)か。
[やぶちゃん注:ああ、遂に出た! 大好きな白居易の「長恨歌」のコーダに出る、比翼の鳥だ!
*
臨別慇懃重寄詞
詞中有誓兩心知
七月七日長生殿
夜半無人私語時
在天願作比翼鳥
在地願爲連理枝
天長地久有時盡
此恨綿綿無絕期
*
別れに臨みて 慇懃(いんぎん)に重ねて 詞(ことば)を寄す
詞中(しちゆう) 誓ひ有り 兩心のみ 知る
七月七日(しちぐわつなぬか) 長生殿
夜半 人無く 私語(しご)の時
「天に在りては 願はくは比翼の鳥と作(な)り
地に在りては 願はくは連理(れんり)の枝(えだ)と爲(な)らん」と
天長く 地久しきも 時有りて 盡(つ)く
此の恨みは 綿綿として 絕ゆるの期(とき) 無からん
*
別れぎわに、懇(ねんご)ろに歌をことづける。
そこには二人だけが知っている秘密の誓いが……。 「七月七日(しちがつなぬか)、長生殿、
夜更け、二人きりの語らいの時、
『天にあっては願わくは比翼(ひよく)の鳥となり、
地にあっては願わくは連理(れんり)の枝(えだ)となりましょう。』と。
――天地は永く続くとはいえ、いつかは、必ず、消え去ってしまう――
――しかし――この恨みは――永遠に――尽きることはない――
*
高校時代を思い出される方もおられようから、「長恨歌」原詩全文(新たに正字で起したもの)と全オリジナル訓読及びオリジナル訳(私の二十代の終りの漢文授業用の拙訳)は、先程、午前中、この注のためにこちらにアップしておいた。
さて、ここに語られている「比翼鳥」は無論、架空の妖鳥である。しかし、辞書を引くと判るが、この「ヒヨクドリ」を標準和名とする種は実在する。
スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ(風鳥)科 Paradisaeidae の内、「Clade A」(「クレード」は「分岐群」)を除く「core birds‐of‐paradise」の中の四つのクレードの内の「Clade E」 に属するCicinnurus
属ヒヨクドリCicinnurus
regius(英名:King Bird‐of‐paradise)
である。ニューギニア産で、体長は十六センチメートルほどと小型、♂は背面と喉が光沢のある赤紅色を呈し、腹部は白、胸に緑の横帯があり、胸には扇形の飾り羽があり、二本の針金状の長い尾を持つ美しい鳥で、英語では「living gem」(「生きている宝石」)とまで呼ばれる。樹洞に営巣する。亜種六種がいる。英文ウィキの「King
bird-of-paradise」の画像をリンクさせておく。フウチョウ(風鳥)類は日本ではゴクラクチョウ(極楽鳥)の別名総称でとみに知られるが、「ゴクラクチョウ」は正式な和名ではないので注意されたい。なお、次項が、その「風鳥」である。
『「三才圖會」に云はく……』ここ(左頁に図)と、ここ(右頁に解説)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像。
*
結胷國、有比翼鳥。「爾雅」云、『南方有比翼鳥。不比不飛。謂之「鶼鶼」』。注云、『似鳬青赤色。一目一翼。相得乃飛。王者有孝德于幽遠則至』。
*
とある。「結胷國」は「けっきょうこく」(現代仮名遣)で「結匈(胸)」とも書く。結胷人は古代中国に於いて南方にある国に棲んでいたとされる異人種。ウィキの「結匈人」によれば、「山海経」の「海外南経」に、『結匈国は羽民国の西北にあり、結匈人は人間の姿をしているが胸が極端におおきく突き出しているという』とし、清の李汝珍作の白話体の長編伝奇小説「鏡花縁」(一八一八年に初回発表で全百回。一八二六年頃に書き上げられたと推定される)で、『結匈国が旅の途中に舞台として登場する。結匈人たちの胸がとても大きいのは』、人々『が過度な大食いであり、食物が消化されないうちに次々と食べ続けているからであると設定されている』とある。表示字が不審だという輩は、中文ウィキの「結匈」にある、方輿彙編「古今圖書集成」のこの挿絵を見られよ。原画キャプションがちゃんと「結胷國」となってるよ。
「鳬〔(かも)〕」カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas を総称するもの。
「幽遠」人柄に使っているので、「世俗の汚れた部分からは遠く離れて、自らをしっかりと保ち、物事に対する思慮の核心が奥深く、俗人には到底、知り尽くせないさま」を指す。
「拾遺記」後秦(こうしん:三八四年~四一七年)の王嘉(おうか)の撰になる、中国の伝説を集めた志怪書。全十巻。神話時代の三皇五帝に始まり、西晋(せいしん)末の王石虎(せきこ)の年間にまで及ぶ。。第十巻は崑崙山・蓬莱山などの名山記である。但し、原本は散佚し、現在見られる「漢魏叢書」などに収められているものは、梁の蕭綺が再編したもの。内容は奇怪・淫乱な事柄が多く、その殆どは事実でないとされる。作者王嘉は隴西安陽の人で、容貌、醜く、滑稽を好んだが、崖に穴居したり、その言動は奇矯であったという。後趙(こうちょう)の石季竜(せききりゅう:石虎。在位:三三五年~三四九年)の末年、長安に出、終南山に隠棲、その予言はよく当たり、前秦の苻堅(ふけん)が淮南(わいなん)で敗れることを予知したという。後秦の姚萇(ようちょう)に召されたが、機嫌を損ね、殺された(以上は小学館「日本大百科全書」の記載に拠った)。同書の巻二の
「成王卽政」の「六年」の箇所に、
*
燃丘之國獻比翼鳥、雌雄各一、以玉爲樊。其國使者皆拳頭尖鼻、衣雲霞之布、如今朝霞也。經歷百有餘國、方至京師。其中路山川不可記。越鐵峴、泛沸海、蛇洲、蜂岑。鐵峴峭礪、車輪剛金爲輞、比至京師、輪皆銚銳幾盡。又沸海洶湧如煎、魚鱉皮骨堅強如石、可以爲鎧。泛沸海之時、以銅薄舟底、蛟龍不能近也。又經蛇洲、則以豹皮爲屋、於屋內推車。又經蜂岑、燃胡蘇之木、此木煙能殺百蟲。經途五十餘年、乃至洛邑。成王封泰山、禪社首。使發其國之並童稚、至京師、鬚皆白。及還至燃丘、容貌還復少壯。比翼鳥多力、狀如鵲、銜南海之丹泥、巢昆岑之玄木、遇聖則來集、以表周公輔聖之祥異也。
*
とある。
「丹沉」東洋文庫訳は割注して『丹参(たんじん)か。シソ科の薬草』(キク亜綱シソ目シソ科アキギリ属タンジン Salvia miltiorrhiza:ウィキの「丹参」によれば、『丹は朱色を意味し、参も薬用ニンジンのような赤い根っこを意味する。ウコギ科の薬用ニンジンや、野菜のニンジン(セリ科)とは、全く関係がなく、草花として親しまれているサルビアや、キッチンハーブのセージと同じシソ科アキギリ属の植物である』。『中国に分布する耐寒性の宿根草で、 草丈は』三十~八十センチメートル『くらいになる。茎は角張っていて、葉は単葉で有毛、鋸歯がある。花は初夏から秋にかけて咲き』、二センチメートル『ほどの藍色の唇形花が数輪から十数輪』、『総状花序を作る』。『中国原産であるため、中国で一番古い生薬書』「神農本草経」にも『掲載されて』は『いるが、日本で主に行われている古方派の漢方では、あまり用いられていない。時代が下るに従い』、『よく用いられる傾向があり』、「血の道」と『呼ばれていた月経不順や肝臓病、胸痛・腹痛などに用いられる。また、心筋梗塞、狭心症の特効薬として中国で近年よく用いられる「冠心II号」の主薬として用いられている』。『丹参には次の薬理作用があることが確認されている』。『血管拡張、血流増加、血圧降下、抗血栓、血液粘度低下、動脈硬化の予防・改善、抗酸化、鎮痛、抗炎症、抗菌、精神安定』とある)とするが、前に引用した中文サイトの原文でも「丹泥」で、「沉」は「沈」の異体字であるから、(さんずい)であることは間違いない(「參」は逆立ちしても「沈」「沉」と書き間違えない)と思われるから、東洋文庫「丹参」説は採らない(そもそもそこには耐寒性とあるので、「南海」とは親和性が悪い)。私は一見した際、香木の水中の「泥」に「沈」んで「丹」色となったそれを想起し、香木の一種である「沈香(じんこう)」の内で強い赤みを帯びたそれを指すのではなかろうかと推察した。ウィキの「沈香」によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属』『の植物である沈香木』『(アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)』『などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四『と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では』、『沈香と伽羅を産するほぼすべての沈香属(ジンチョウゲ科ジンコウ属』 Aquilaria 『)及び(ジンチョウゲ科ゴニスティル属』 Gonystylus 『)全種はワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」には上記のような現象により、自然に樹脂化発生した、天然沈香と、植樹された沈香樹を故意にドリルなどで、穴をあけたり、化学薬品を投入して、人工的に樹脂化したものを採集した、栽培沈香が存在する』。『当然ながら、品質は前者が格段に優れている。稀に上記の製造過程から来たと思われる薬品臭の付いてしまっているものや、低品質な天然沈香に匹敵する栽培沈香も存在する。しかし、伽羅は現在のところ栽培に成功していない』。『また』、『栽培沈香は人工的に作ったものとして人工沈香ともよばれる』。『栽培沈香は天然沈香資源の乱獲により、原産国でも一般的になりつつあり、国内でも安価な香の原材料として相当数が流通している、なお、香木のにおい成分を含んだオイルに木のかけらを漬け込んだものや、沈香樹の沈香になっていない部分を着色した工芸品は、そもそも沈香とは呼べず、香木でもない。したがって栽培沈香でもない』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)で』「アグル」又は「アガル」『と言う。油分が多く色の濃いものを』「カーラーグル」、『つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』。『また、シャム沈香』『とは、インドシナ半島産の沈香を指し、香りの甘みが特徴である。タニ沈香』『は、インドネシア産の沈香を指し、香りの苦みが特徴』。『強壮、鎮静などの効果のある生薬でもあり、奇応丸などに配合されている』。『ラテン語では古来』、「aloe」『の名で呼ばれ、英語にも aloeswood の別名がある。このことからアロエ(aloe)が香木であるという誤解も生まれた。勿論、沈香とアロエはまったくの別物である』。『中東では』『自宅で焚いて香りを楽しむ文化がある』。本邦では、推古天皇三(五九五)年四月、『淡路島に香木が漂着したのが』、『沈香に関する最古の記録であり、沈香の日本伝来といわれる。漂着木片を火の中にくべたところ、よい香りがしたので、その木を朝廷に献上したところ重宝されたという伝説が』「日本書紀」に載る。『奈良の正倉院』には長さ百五十六センチメートル、最大径四十三センチメートル、重さ十一・六キログラムという『巨大な香木・黄熟香(おうじゅくこう)(蘭奢待』(らんじゃたい)『とも)が納められている。これは、鎌倉時代以前に日本に入ってきたと見られており、以後、権力者たちがこれを切り取り、足利義政・織田信長・明治天皇の』三『人は付箋によって切り取り跡が明示されている。特に信長は、東大寺の記録によれば』、一寸四方で二個を『切り取ったとされている』。『徳川家康が』慶長一一(一六〇六)年頃から始めた『東南アジアへの朱印船貿易の主目的は』、この『伽羅(奇楠香)の入手で、特に極上とされた伽羅の買い付けに絞っていた』。これは『香気による気分の緩和を得るために、薫物(香道)の用材として必要としていたからである』とある。奇体な比翼鳥が啣えて木の上に巣作りするのなら、その辺に生えている薬草なんぞではなくて、南海地方(ズバリ、合う)の赤い沈香木の方がどんなにかマシだと私は思うのだが? 如何?
「崑岑」原文も上記の通り、ママ。「崑崙」の誤りか、確信犯の幻想地誌のズラし。
「玄木〔(げんぼく)〕」即物的な意味にとれば、「黒い樹木」であるが、これは特定の樹種を指すのではなく、「玄」、「奥深く玄妙なものに属する木」の意味で採る。だからこそ、
「聖に遇へば、則ち、來〔たり〕集〔(つど)」ふ聖鳥ともなるのである。別に「黒くて神妙な木」でもよい。そうすると、啣えていった赤い香木で巣作りするのと、うまく合うようにも思われる。
「周公輔聖〔(しゆうこうほせい)〕」周公と称号される周公旦(しゅうこう たん:生没年未詳)は中国周王朝の政治家で、姓は姫、旦は諱。魯の初代の公である伯禽の父。太公望呂尚(りょしょう)や召公奭(せき)と並ぶ、周建国の功臣の一人。周の西伯昌(文王)の四男。ウィキの「周公旦」によれば、『次兄にあたる初代武王存命中は』、『兄の補佐をして殷打倒に当たった』、『とだけ』『しかわからない』。『周が成立すると』、『曲阜に封じられて魯公となるが、天下が安定していな』かったので、『魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治にあたっていた』。『建国間もない時期に武王は病に倒れ、余命いくばくもないという状態に陥った。これを嘆いた旦は』、『自らを生贄とすることで武王の病を治してほしいと願った。武王の病は一時』、『回復したが、再び悪化して武王は崩御した』。『武王の死により、武王の少子(年少の子)の』成王(せいおう:在位・紀元前一〇四二年~紀元前一〇二一年)『が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は燕の召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた』。『その中で三監の乱』『が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は』、『旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。反乱を鎮圧した旦は』、『武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、同母弟の蔡叔度は流罪、霍叔処は庶人に落とし、蔡叔度の子の蔡仲に蔡の家督を継がせた』。『さらに、引き続き唐が反乱を起こしたので、再び旦自らが軍勢を率いて、これを滅ぼした』。『その後』、七『年が経ち』、『成王も成人したので』、『旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。その後、洛邑(洛陽、成周と呼ばれる)を営築し、ここが周の副都となった』。『また』、『旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた』「周礼(しゅうらい)」や「儀礼」を『著したとされる。旦の時代から遅れること約』五百『年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、文武両道の旦を理想の聖人と崇め、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し』たことはよく知られる。『ある時』、『夢に旦のことを見なかった(吾不復夢見周公)ので「年を取った」と嘆いたという』。『「周公」の称号については』、『旦は周の故地である岐山に封じられて周の公(君主)となったので』、『こう呼ばれるのではないかとの説もある。また、武王が崩御した後に旦は本当は即位して王になっており、その後』、『成王に王位を返したのではないかとの説もある』とある。まあ、最後の仮説は嘘臭い。東洋文庫注にある通り、『周公旦は』、『よく成王を補佐して周の制度を整え』、『国をおさめた』のであり、彼は家臣、「輔聖」とは「聖」王たる資格を持った成王を輔弼して周を理想的な仁に基づく国家成し得たという意味でなくてはならない。
「祥異〔(しやうい)〕」目出度い兆しを意味するもの。
「爾雅」著者不詳。紀元前 二〇〇年頃に成立した、現存する中国最古の類語辞典・語釈辞典。「釋鳥」に『鶼鶼、比翼』とあり、「釋地」に、
*
南方有比翼鳥焉。不比不飛、其名謂之鶼鶼。
*
と出、同書の郭璞の注に『似鳧、靑赤色』とある。
「宋書〔(そうじよ)〕」南朝宋一代の紀伝体歴史書。正史の一つ。全百巻からなる。著名な文人であった沈約(しんやく 四四一年~五一三年)が、四八七年に南斉(なんせい)武帝の勅命を奉じて編纂、「本紀」十巻と「列伝」六十巻は先行の稿本を基に僅か一年で完成したが、「志」三十巻の稿了には十数年を費やした。父の沈璞(しんはく)を殺した孝武帝とその功臣に悪口を書き連ねるなど、古来、曲筆が批判されているが、人物・事柄の個別性、記載対象の豊饒さを重んじた南朝貴族の精神を反映して、叙述は詳細。詔勅・上奏文・私信・文学作品等を数多く採録し、また「志」は、諸制度の変遷を、漢や三国時代に溯って検証していて貴重である。但し、唐以降、簡潔な歴史叙述が尊ばれると、李延寿の「南史」や司馬光の「資治通鑑(しじつがん)」の出現もあって、あまり読まれなくなり、一部が散逸した。「夷蛮伝」の「倭国」の条には「倭五王」の記事が載る(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「鸞」先行する「山禽類 鸞(らん)(幻想の神霊鳥/ギンケイ)」を参照されたい。
「鳳」先行する「山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)」を参照されたい。
「亞(つ)ぐ」「次ぐ」に同じい。
「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)の撰になる志怪小説集。全五十巻。同四十八巻「鳥獣五」に、
*
有鳥焉。其狀如鳬而一翼一目。相得乃飛。名曰蠻蠻。見則天下大水。
*
と確かにある。
「天下、大水〔す〕」大洪水に見舞われる。
「此くのごとくなれば、則ち、瑞鳥に非らず」実は前と酷似した内容が、「山海経」の「西山経」に、
*
曰崇吾之山、在河之南、北望冡遂、南望䍃之澤、西望帝之搏、獸之丘、東望䗡淵。有木焉、員葉而白柎、赤華而黑理、其實如枳、食之宜子孫。有獸焉、其狀如禺而文臂、豹虎而善投、名曰舉父。有鳥焉、其狀如鳧、而一翼一目、相得乃飛、名曰蠻蠻、見則天下大水。
*
と出る。ところが、同時に同じ「山海経」の「海外南経」に、以下の二つの記載が載る。
*
『比翼鳥在其東、其爲鳥靑、赤、兩鳥比翼。一曰在南山東。』
『羽民國在其東南、其爲人長頭、身生羽。一曰在比翼鳥東南、其爲人長頰。』
*
これは孰れも、地誌的位置と奇体な一解釈を語るだけで、吉凶を語らないフラットな記載が載り、また同書の「大荒経」にも、
*
有巫山者。有壑山者。有金門之山、有人名曰黃姖之尸。有比翼之鳥。有白鳥靑翼、黃尾、玄喙。有赤犬、名曰天犬、其所下者有兵。
*
と書かれてあるで、実は古くから、吉凶とは無関係に、いたとされていることは事実なのである。まあ、楊貴妃の願いの通り、私には遠い遠い先の、めぐり逢いの吉兆である。私はそんなものは求めないけれども。
「近來、比翼の鳥、蕃舶〔(ばんはく)〕より來たる。雌雄有り。其の雄、頭、淡赤。腹・背、深紅。翅、蒼くして赤を帶ぶ。尾の長さ、一尺餘り、絲のごとし。其の瑞(はし)、卷〔き〕曲〔りて〕、蕨〔(わらび)〕の茁(もへいづ)る形を作〔(な)〕し、觜、黃。脚、蒼く、爪、黃なり。雌は、頸、紅く、胸、黑く、背・腹、灰白。尾、短くして、卷曲〔(くわんきよく)〕なり。羽毛、美麗〔にして〕愛すべし。然〔(しか)れど〕も、未だ生ける者を見ず。疑ふらくは此れ、造成す〔る〕者(もの)か」「蕃舶より來たる」とは、近年、南蛮貿易に於ける異国からの貿易船が、本邦に多数(雌雄をかく良安が正確に観察出来るのはかなりの量のそれが流入したことを物語っている)の「比翼鳥」の剥製を齎(もたら)している、というのである。良安の言うように、実在する鳥を奇形生物のように切除したり結合したりして捏造したおぞましき「比翼鳥」である。この項の電子化にかかった当初から、『その人非人の業者の犠牲になった実在する鳥を調べるのは、ちょっと気が重いな』と思っていた(意外かも知れぬが、その程度には私は繊細な神経を持ってはいる)。そこで、目に就いたこれで勘弁して貰う。愛知県の「西尾市岩瀬文庫」「岩瀬文庫コレクション」公式サイトの「本草写生図」である。その解説に『筆者は紀州藩士で本草学者の坂本浩然』寛政一二(一八〇〇)年~嘉永六(一八五三)年)で、天保四(一八三三)年七月の『識語があります。イギリスの博物図鑑の銅版挿図から写したと思われる珍しい南国の動植物や鉱物、貝類、そして琉球の花の写生図を、絹地に岩絵の具という日本の伝統的な画法で描いた画帖です』。『上は南国ニューギニアを中心に生息する風鳥(フウチョウ)の図です』。『十八~十九『世紀のヨーロッパでは、風鳥は』、『風を食べて生き、木にとまることなく』、『飛びつづける不思議な鳥』、『と考えられていました。当時、ヨーロッパでは美しい風鳥の剥製は鑑賞品として珍重されましたが、これらの剥製は脚が切り落とされていたため、こうした伝説が生まれたといいます。また、極彩色の美しい姿から楽園に住む鳥「極楽鳥」の名もあります』。『この図譜の絵では鳥らしくない、虫のような奇妙な姿に描かれていますが、写真のない時代ですので、珍しい動植物の写生図は転写に転写を重ねてゆくため、こうしたズレが生じてしまうのです』(と記者は言っておられるが、実際にこんな風に見えるのだ! 嘘だと思ったら、サイト「WIRED」の「華麗なる、極楽鳥たちの世界」の一番下の動画を見られよ! これは画像タイトルに「Wilson's Bird-of-Paradise」とあるので、まさしく! フウチョウ科ヒヨクドリ属(!)のアカミノフウチョウ Cicinnurus respublica であることが判る!)。『南の楽園にすむ美しい謎の生き物たち。日本、欧州を問わず当時の学者たちは大きな期待と驚きを胸に、この未知の世界を見つめていたことでしょう』とある。この図を是非ともよく見て貰いたい。これはまさに、良安が「尾の長さ、一尺餘り、絲のごとし。其の瑞(はし)、卷〔き〕曲〔りて〕、蕨〔(わらび)〕の茁(もへいづ)」(「萌え出づる」に同じ)「る形を作〔(な)〕し」ているというのと恐ろしいまでに一致しているではないか! そうして同じことが、同ページの下方に掲げられた「比翼鳥」の剥製、山本溪山筆とする「禽品」の『大通寺宝物「比翼鳥」の剥製の写生図』の絵でもしっかり合致するのである!(そこには『風鳥(比翼鳥)の剥製は』、『しばしば江戸時代の日本にも舶載された』(太字は私が施した)と言い添えられてさえいる!) フウチョウ(風鳥)科 Paradisaeidae の彼らが犠牲になっていたのだな。鳥好きなら、その絵で種を同定出来るだろう、俺は厭だ! 勝手にあんたがやればいい!……可哀想な風鳥(ふうちょう)たち……時空を越えて、邪悪なヒト種が滅んだ静かな地球へ翔んでおくれ!]
« 白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附 | トップページ | 和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 風鳥(ふうちやう) (フウチョウ) »