蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 夏の歌
夏 の 歌
薄(うす)ぐもる夏(なつ)の日(ひ)なかは
愛欲(あいよく)の念(おもひ)にうるみ
底(そこ)もゆるをみなの眼(め)ざし、
むかひゐてこころぞ惱(なや)む。
何事(なにごと)の起(おこ)るともなく、
何(なに)ものかひそめるけはひ、
執(しふ)ふかきちからは、やをら、
重(おも)き世(よ)をまろがし移(うつ)す。
窓(まど)の外(と)につづく草土手(くさどて)、
きりぎりす氣(き)まぐれに鳴(な)き、
それも今(いま)、はたと聲(こえ)絕(た)え、
薄(うす)ぐもる日(ひ)は蒸(む)し淀(よど)む。
ややありて茅(かや)が根(ね)を疾(と)く
靑蜥蜴(あをとかげ)走(はし)りすがへば、
ほろほろに乾(かは)ける土(つち)は
ひとしきり崖(がけ)をすべりぬ。
なまぐさきにほひは、池(いけ)の
上(うは)ぬるむ面(おも)よりわたり、
山梔(くちなし)の花は墜(お)ちたり、――
朽(くち)ちてゆく「時(とき)」のなきがら。
何事(なにごと)の起(おこ)るともなく、
何(なに)ものかひそめるけはひ、
眼(ま)のあたり融(と)けてこそゆけ
夏(なつ)の雲(くも)、――空(そら)は汗(あせ)ばむ。
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