和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)
ぬえ 鵺【俗】
鵼【音空】
【和名沼江】
倭名抄載唐韻云鵼恠鳥也按俗或用鵺字此鳥晝伏夜
出故然焉
白鵺 山海經云單張之山有鳥狀如雉而文首白翼黃
足名曰白鵺
△按今世稱鵼者非恠鳥而洛東及處處深山多有之大
如鳩黃赤色黑彪似鴟晝伏夜出㖡木杪其觜上黒下
黃鳴則後竅應之聲如曰休戯脚黃赤色也
近衞院【仁平三年四月】有恠鳥毎夜鳴度殿上人皆謂鵺自是
天皇有疾醫禱無驗於是命頼政射之【頼政源頼光之末參河守頼綱
之孫兵庫頭仲正之子善弓馬達和歌之道】頼政立殿上待之時恠鳥鳴黑
雲之間頼政的其聲發矢射落鵺於雲衢鳥悲鳴落殿
上頼政之家臣【名猪早太】刺殺之天皇大悅賜御劔及官女
【其女名菖蒲】
*
ぬえ 鵺【俗。】
鵼【音、「空」。】
【和名、「沼江」。】
「倭名抄」に「唐韻」を載せて云はく、『鵼は恠鳥〔(けてう)〕なり』〔と〕。按ずるに、俗に或いは「鵺」の字を用ふ。此の鳥、晝、伏し、夜、出づ。故に然り。
白鵺〔(はくや)〕 「山海經」に云はく、『單張の山に、鳥、有り。狀、雉のごとくして、文(あや)ある首、白き翼、黃なる足。名づけて「白鵺」と曰ふ』と。
△按ずるに、今の世に「鵼」と稱する者、恠鳥に非ずして、洛東及び處處の深山に多く之れ有り。大いさ、鳩のごとく、黃赤色。黑き彪(ふ)。鴟(とび)に似て、晝、伏し、夜、出でて、木の杪(こずへ[やぶちゃん注:ママ。])に㖡〔(な)〕く。其の觜の上、黒く、下、黃なり。鳴くときは、則ち、後〔(しりへ)〕の竅〔(あな)〕、之れに應ず。聲、「休戯(きゆうひい[やぶちゃん注:ママ。])」と曰ふがごとし。脚、黃赤色なり。
近衞院【仁平三年[やぶちゃん注:一一五三年。]四月。】恠鳥〔(けてう)〕有り〔て〕、毎夜、鳴きて殿上〔(てんじやう)〕を度〔(わた)〕り、人皆〔(ひとみな)〕、「鵺」と謂ふ。是れより、天皇、疾〔(やまひ)〕有り、醫・禱、驗(しるし)無し。是れに於いて、頼政に命じて之れを射さしむ【頼政は源頼光の末、參河守〔(みかはのかみ)〕頼綱の孫、兵庫頭〔(ひやうごのかみ)〕仲正が子〔なり〕。弓馬を善くして、和歌の道〔にも〕達す。】。頼政、殿上に立ちて、之れを待つ時、恠鳥、黑雲〔(こくうん)〕の間〔(かん)〕に鳴く。頼政、其の聲を的(まと)にして、矢を發〔(はな)〕ち、鵺を雲の衢(ちまた)に射落す。鳥、悲鳴して、殿上に落ちる。頼政の家臣【猪早太(〔ゐ〕の〔(はやた)〕)と名づく。】、之れを刺殺す。天皇、大いに悅び、御劔〔(ぎよけん)〕及び官女を賜ふ【其の女を「菖蒲(あやめ)」と名づく。】。
[やぶちゃん注:ハイブリッドの怪鳥「鵺」については、さんざん、諸記事の注で語った。ここは、良安が紹介する「平家物語」の「巻第四 鵼(ぬえ)」の一節を注で電子化した「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」をリンクさせておく(但し、頼政の退治した化け物は鵼の鳴き声に似ていただけで、実際に鳥ではないキマイラ系の物の怪である。詳しくはリンク先の私の注を見られたい)。夜に鳴く鳥とされ、「古事記」の「上つ巻」で、八千矛神(やちほこのかみ:大国主(おおくにぬし)の別名)が高志(こし)の国(現在の新潟県最西端の糸魚川市附近とされる)の沼河比売(ぬなかわひめ:奴奈川姫)のところに御幸(みゆき)された際の歌の中に、
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遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴
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孃子(をとめ)の 寢(な)すや板戶(いたと)を 押そぶらひ 吾(わ)が立たせれば 引こづらひ 吾が立たせれば 靑山に 鵺は鳴きぬ
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乙女の 寝ておられる板戸を 押し揺すぶり 私が立っていると 引きあけようと 私が立っていると 青い山に 鵺が鳴いている
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といった意味で(自敬表現は外して訳した)、夜鳴く「ぬえ」が登場し、「万葉集」でも、巻二の舒明天皇が讃岐国安益郡(現在の香川県綾歌(あやうた)郡)に行幸された際に従った軍王(いくさのおおきみ)が詠んだとされる長歌(五番)の一節に、
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霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝(むらぎも)の 心を痛み 鵺子鳥(ぬえこどり) うらなけ居れば
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と出(「わづきも知らず」は未詳であるが、「わけも判らず」の意か。後の部分は「鵺の鳴くように、私が泣いていると」の意。「ぬえこどり」の原文は「奴要子鳥」である)、知られた巻五の山上憶良の「貧窮問答歌」(八九二番)の一節にやはり泣いていることの隠喩で、
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父母は 枕の方に 妻子(めこ)どもは足の方に 圍み居(ゐ)て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈(かまど)には 火氣(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巢懸(か)きて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて 鵺鳥(ぬえどり)の 呻吟(のどよ)ひ居(を)るに
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と出(「甑」は飯を蒸す道具。「鵺鳥」の原文は「古事記」と同じ「奴延鳥」)、「万葉集」全体で「鵺」と同定出来るものが登場するのは六首ある。この鳴き声の鳥は、概ね、本邦では、古来、鳩ほどの大きさで、黄赤色をした鳥とされていたようだが、現在では、
ズズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma
に同定するのが定説である。ウィキの「トラツグミ」によれば、『学名の内種名のdaumaはインドの部族名に因んでつけられたもの』という。『シベリア東南部から中国東北部、朝鮮半島などで繁殖し、冬季はインド東部からインドシナ半島、フィリピンなどに渡りをおこない越冬する。オーストラリア、ニュージーランドにも分布している』。『日本では留鳥または漂鳥として周年生息し、本州、四国、九州の低山から亜高山帯で繁殖する。北海道には、夏鳥として渡来する』。『体長は』三十センチメートル『ほどでヒヨドリ並みの大きさ。頭部から腰までや翼などの体表は、黄褐色で黒い鱗状の斑が密にある。体の下面は白っぽい。嘴は黒く、脚は肉色である。雌雄同色である』。『主に丘陵地や低山の広葉樹林に好んで生息するが、林の多い公園などでも観察されることがある。積雪の多い地方にいるものは、冬は暖地へ移動する』。『食性は雑食。雑木林などの地面で、積もる落ち葉などをかき分けながら歩き、土中のミミズや昆虫類などを捕食することが多い。冬季には、木の実も食べる』。『繁殖形態は卵生。木の枝の上に、コケ類や枯れ枝で椀状の巣を作り、4-7月に3-5卵を産む』。『さえずりは「ヒィー、ヒィー」「ヒョー、ヒョー」。地鳴きは「ガッ」。主に夜間に鳴くが、雨天や曇っている時には日中でも鳴いていることがある』(You Tube のShoh
Mafune(Mafuo
Production)氏の「トラツグミの鳴き声」(音声のみ)をリンクさせておく。鳥体はグーグル画像検索「トラツグミ」を見られたい。山登りをして、テントで寝ている最中に、この鳴き声を聴くと、しかし、確かにキビ悪いことは事実である。)。『森の中で夜中に細い声で鳴くため鵺(ぬえ)または鵺鳥(ぬえどり)とも呼ばれ、気味悪がられることがあった。「鵺鳥の」は「うらなけ」「片恋づま」「のどよふ」という悲しげな言葉の枕詞となっている。トラツグミの声で鳴くとされた架空の動物は』、『その名を奪って』、『鵺と呼ばれ』、『今ではそちらの方が有名となってしまった』(ちょっと可哀そうだね。鳥自身は可愛いんだけどなぁ)。本邦には、
本亜種トラツグミ Zoothera dauma aurea
の他に、
オオトラツグミ Zoothera dauma major (奄美大島に棲息。天然記念物で絶滅危惧Ⅱ類(VU)及び国内希少野生動植物種(「種の保存法」)に指定されている。尾羽の枚数、囀りが異なるため、本亜種とは別種とする説もある)
コトラツグミ Zoothera dauma horsfieldi(西表島の他、台湾にかけて棲息。生態は殆んど知られておらず、生きている個体を見た者はいないとも言われている。但し、死体標本は国立科学博物館筑波研究施設に保管されている)
がいる。良安は「鵼」は実在しており、京都の東の山林や日本各地の深山に多くいる、と言っているのだから、トラツグミと考えてよい。
『「倭名抄」に「唐韻」を載せて云はく、『鵼は恠鳥〔(けてう)〕なり』〔と〕』巻十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一に、
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鵼 「唐韻」云、『鵼』【音「空」。「漢語抄」云『沼江』。】。恠鳥也。
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「此の鳥、晝、伏し、夜、出づ。故に然り」昼間は隠れていて、夜になると、出現する。だからかく「鵺」という字を用いる、の意。
「白鵺〔(はくや)〕」「山海経」の「北山経」に、
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又北百八十里、曰單張之山、其上無草木。有獸焉、其狀如豹而長尾、人首而牛耳、一目、名曰諸犍、善吒、行則衘其尾、居則蟠其尾。有鳥焉、其狀如雉、而文首、白翼、黃足、名曰白鵺、食之已嗌痛、可以已痸。櫟水出焉、而南流注于杠水。
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とあり、中国の「鵺」はキジに似た実在する(した)鳥を指すようだ。同じものとして我々が使っている「鵼」は、中国では、しかし、あくまで怪鳥の意である。さすれば、「鵺」はトラツグミ辺りがモデルで(遠目で見ると、雌のキジの小さな感じと言えなくもない)、「鵼」は幻想上の怪鳥とすべきであろうか。
「杪」この場合は「梢(こずえ)」に同じい。
「㖡〔(な)〕く」既出。夜に鳴く、の意。
「後〔(しりへ)〕の竅〔(あな)〕」尻の穴。鳥の総排泄腔。
「之れに應ず」鳴くに伴って、その尻の穴を開いたり、窄(すぼ)めたりする、ということ。
「休戯(きゆうひい[やぶちゃん注:ママ。])」「戯」を「ひい」と読むのは初見。現代中国語では「xì」(シィー)でかなり近いから、中国音か?
「醫・禱」医術や祈祷。
「頼政」源頼政(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)。「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の私の「源三位賴政」の注を参照。
「源頼光」(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)は平安中期の武将。満仲の長男。摂関家藤原氏と結び、左馬権頭(さまのごんのかみ)となった。弓術にすぐれ、大江山の酒呑童子退治の伝説で知られる。
「參河守〔(みかはのかみ)〕頼綱」(万寿元(一〇二四)年~永長二(一〇九七)年) 平安中・後期の武士で官僚。源頼光の孫。下総守・三河守。承暦(じょうりゃく)三()年の比叡山僧徒の強訴を鎮圧したことで知られる。、曽祖父満仲(多田満仲)以来の由緒ある名乗りである「多田」を家号とし、多田頼綱とも名乗った。歌人としても知られ、「六条斎院歌合」などに参加しており、「後拾遺和歌集」などの勅撰集に採録されている。
「兵庫頭〔(ひやうごのかみ)〕仲正」これは源仲政(生没年未詳)の誤り。平安後期の武将で歌人。馬場仲政とも称した。源頼綱の次男で、官位は従四位下・下野守。
「其の聲を的(まと)にして」その声を頼りに。その声のするところを目がけて。
「雲の衢(ちまた)」この場合の「ちまた」は「物事の境目・分かれ目」の意で、雲の切れているところの意。
「猪早太(〔ゐ〕の〔(はやた)〕)」ウィキの「猪早太」を引く。『生没年不詳』の平安末期の武将。「井早太」「猪隼太」「猪野早太」『などとも表記する。源頼政に郎党として仕えた。遠江国猪鼻湖』(いのはなこ:浜名湖の支湖。大崎半島で浜名湖と仕切られ、幅百二十メートルの瀬戸水道で浜名湖に通じている。ここ(グーグル・マップ・データ))『西岸』『(現在の静岡県浜松市北区三ヶ日町)、または近江国猪鼻』『(現在の滋賀県甲賀市土山町猪鼻』(こうかしいつちやまちょういのはな:ここ(グーグル・マップ・データ))『)を領したことから猪鼻を苗字としたという。また、多田源氏で』、『父は太田伊豆八郎広政(廣政)といい、名は高直であったともされる』、『(後年の浮世絵などでは名を広直(廣直)あるいは忠澄とするものも見られる。)』「播磨鑑」(江戸中期の地誌。著者は播磨国印南郡平津村(現在の兵庫県加古川市米田町平津)の医師で暦算家でもあった平野庸脩(ようしゅう)であるが、完成時期は不明)では、『頼政の知行地であった播磨国野村の』生れとする。「平家物語」等に見える、この『頼政の鵺(鵼)退治の際にただ一人随行し、頼政が射落とした鵺にとどめを刺した、という伝説で著名』で、「源平盛衰記」によれば、この時、『早太が用いた刀は、頼政が彼に預けた短刀「骨食」』(ほねくい/ほねかみ)『である。また、とどめを刺すに当たっては「喉を一突きにした」、「九回刺した」など異同がある』。『なお、江戸時代後期の儒者・志賀理斎(忍)は著書』「理斎随筆」に『おいて、鵺退治伝説は頼政がまじないのため』、『四方に鏑矢を放ったのが実態である(いわゆる奉射神事)とした上で、猪早太の名と鵺のいわゆる』「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎(異同もある)」『という奇怪な姿とを関連付け、それぞれ「頭が猿=未申(南西)」「尾が蛇=辰巳(南東)」「手足が虎=丑寅(北東)」「猪早太=戌亥(北西)」を意味するとし、方角を埋め合わせるため彼の名を入れた、という推察を行っている』(下線太字は私が附した)。『事跡については上記の鵺退治伝説のほかは特に記載されたものはなく、実在を疑う見方もある』。なお、治承四(一一八〇)年の以仁王の挙兵とその敗退を以って、『頼政が自害した後の猪早太の動向については、以下のように全国各地に伝承がある』。『愛媛県上浮穴郡久万高原町中津では、早太が頼政の位牌を奉じて同地に潜伏し、大寂寺に安置したといわれ、早太が植えたとされる大杉、早太のものとされる墓も残る』。『広島県東広島市西条町御薗宇では、早太が頼政の側室・菖蒲前およびその子とともにこの地に逃れ、「勝谷右京」と名を改め、菖蒲前が頼政供養のため開基した観現寺を守り』、建保四(一二一六)年に八十四歳で『没したと伝わり、早太(隼太)の墓とされる宝匡印塔が同寺に残る(市重要文化財となっている)』。『三重県名張市箕面中村の伝承においては、同地にて平家の追手に討たれ、村人により埋葬されたとされる』。『岐阜県関市春近古市場南屋敷の県道高富関線沿いにも猪早太の墓とされる五輪塔が残る。伝承では頼政の自害の後、その首級を背負って』、『同市千疋植野の蓮華寺に葬った後、この地に居住したとされる』。『兵庫県西脇市野村町のJR加古川線の西脇市駅構内の隣地にも「猪早太供養碑」がある。猪早太の末裔によって建てられ、現在もその一族により供養が続けられている』。『このほか、曲亭馬琴も自らの先祖として猪早太に強い関心を抱いていた』とある。馬琴の先祖とは、面白い!
「菖蒲(あやめ)」ウィキの「香道」の夏に行われる組香の一つである「菖蒲香(あやめこう)」についての由来によれば、『鳥羽院の女房に菖蒲前という美人がおり、頼政は一目ぼれをしてしまう。頼政は菖蒲前に手紙をしばしば送るが、返事はもらえなかった。そうこうしているうちに三年が経過し、このことが鳥羽院に知られてしまう。鳥羽院は菖蒲前に事情を聞くが、顔を赤らめるだけではっきりとした返事は得られない。そこで、頼政を召し、菖蒲前が大変美しいというだけで慕っているのではないか、本当に思いを寄せているのかを試したいと発願する』。『そこで、菖蒲前と年恰好、容貌がよく似ている女二人に同じ着物を着せ、頼政に菖蒲前を見分けて二人で退出するように申し付けた。頼政は、どうして院の御寵愛の女を申し出ることができようか、ちょっと顔を見ただけなのに見分ける自信がない。もし間違えれば、おかしなことになり、当座の恥どころか末代まで笑いものになってしまうと困って躊躇していると、院から再び仰せがあったので、「五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引きぞわづらふ」という歌を院に奉る』。『院はこれに感心し、菖蒲前を頼政に引き渡』した、という別ヴァージョンの話が載る。菖蒲御前については、個人ブログ「安芸・石見地方神楽紀行」の「源頼政側室 菖蒲御前(あやめの前)東広島西条・伝説地紀行【前篇】」及び「後篇」が怖ろしく詳細に書かれてある。必見!]
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