蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 滅の香
滅 の 香
やはらかき寂(さ)びに輝(かゞや)く
壁(かべ)の面(おも)、わが追憶(おもひで)の
靈(たま)の宮(みや)、榮(はえ)に飽(あ)きたる
箔(はく)おきも褪(あ)せてはここに
金粉(きんぷん)の塵(ちり)に音(おと)なき
滅(めつ)の香(か)や、執(しふ)のにほひや、
幾代々(いくよよ)は影(かげ)とうすれて
去(い)にし日(ひ)の吐息(といき)かすけく、
すずろかに燻(く)ゆる命(いのち)の
夢(ゆめ)のみぞ永劫(とは)に往(ゆ)き來(か)ひ、
ささやきぬ、はた嘆(なげ)かひぬ。
あやしうも光(ひかり)に沈(しづ)む
わが胸(むね)のこの壁(かべ)の面(おも)、
惱(なや)ましく鈍(ね)びては見(み)ゆれ、
倦(うん)じたる影(かげ)の深(ふか)みを
幻(まぼろし)は浮(うか)びぞ迷(まよ)ふ、――
つややかに、今(いま)、綠靑(ろくしやう)の
牧(まき)の氈(かも)、また紺瑠璃(こんるり)の
彩(あや)も濃(こ)き花(はな)の甘寢(うまい)よ、
更(さら)にわが思(おも)ひのたくみ、
われとわが宿世(すぐせ)をしのぶ
醉(ゑひ)ごこち、痴(し)れのまどひか、
眼(ま)のあたり牲(にへ)の仔羊(こひつじ)、
朱(あけ)の斑(ふ)の痛(いたみ)と、はたや
愛欲(あいよく)の甘(あま)き疲(つか)れの
紫(むらさき)の汚染(しみ)とまじらふ
業(ごふ)のかげ、輪𢌞(りんね)の千歳(ちとせ)、
束(つか)の間(ま)に過(す)がひて消(き)ゆれ、
幾(いく)たびか憧(あく)がれかはる
肉村(ししむら)の懴悔(ざんげ)の夢(ゆめ)に
朽(く)ち入(い)るは梵音(ぼんおん)どよむ
西天(さいてん)の涅槃(ねはん)の教(をしへ)――
埋(うづも)れしわが追憶(おもひで)や。
わづらへる胸(むね)のうつろを
煩惱(ぼんなう)の色(いろ)こそ通(かよ)へ、
物(もの)なべて化現(けげん)のしるし、
默(もく)の華(はな)、寂(じやく)の妙香(めうかう)、
さながらに痕(あと)もとどめぬ
空相(くうさう)の摩尼(まに)のまぼろし、
[やぶちゃん注:最後の読点はママ。「青空文庫」版(底本:昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」は句点。まずは句点の誤植ではあろう。
「箔(はく)おき」「箔置」で名詞。金銀の箔を被せた装飾部のこと。
「梵音(ぼんおん)」ここは「どよむ」(鳴り響く・響き亙る)からは、幻の梵鐘の音ともとれるが、しかし、ここは後の「西天(さいてん)の涅槃(ねはん)の教(をしへ)」に続くことを考えると、シンボライズされたその音(梵鐘で構わぬが)は本来の仏語で言うところの梵音(ぼんのん)、即ち、同時に「清浄な音声」「大梵天の声」「仏の、正法(しょうぼう)を説く声」の意でもあろう。
「空相(くうさう)」「般若心経」の「是諸法空相」で一般に知られる「この世の中のあらゆる存在や現象一切は総て空であるという真理様態。
「摩尼(まに)」サンスクリット語「マニ」の漢音写。「球」「宝球」などと訳される。「宝石」を指し、転じて仏法の真理に譬える。]