甲子夜話卷之五 29 有德廟、酒井哥雅樂頭を大坂御城代に命ぜられし事
5-29 有德廟、酒井哥雅樂頭を大坂御城代に命ぜられし事
酒井雅樂頭は國家棟梁の世臣なりしが、忠臣なりしが、享保中忠□【一字忘】と云を大坂城代に命ぜられける。そのときの御諚に、稽古の爲仰付らるるとの御事なりしとぞ。是は世々四品にて、城代など勤めたること無きほどの家なれば、かくは仰られしなり。今に此御諚は、酒井家の密に規模とすることなり。御役仰付らるゝ時は、おもたゞしく並々の如き次第にて命ぜられしが、やがて別に御前へ召れける。其時は棧留の御袴を召し、小刀を持玉ひ、箸にて猿を削らせられながら御目通なり。大坂の事など樣々御噺あり。良久くして忠□退きけるを、又召返され、家老は誰を召連行ぞとの御尋なり。兼てそれ迄には思ひはからざりしが、家柄にもあり、そのとき筆頭にもあればとて、高須隼人を召連候と申上ければ、それにてよしとの仰なり。格別閥閲の人なれば迚、かく御懇遇ありしなり。忠□が身に取りて、いかばかりか難ㇾ有ことなるべし。
■やぶちゃんの呟き
「有德廟」吉宗。
「酒井哥雅樂頭」忠□(さかいうたのかみ)で、吉宗の治世に「大坂御城代」となったのは、酒井雅楽家では上野前橋藩第九代藩主・播磨姫路藩初代藩主で雅楽頭系酒井家宗家九代の酒井忠恭(ただずみ 宝永七(一七一〇)年~安永元(一七七二)年:当時、従四位下雅楽頭、後に、西丸老中・侍従となり、転じて本丸老中首座となった)であるが、彼の城代在任は元文五(一七四〇)年~寛保四(一七四四)年で、「享保中」ではない。一方で、享保(一七一六年~一七三六年)年間には、若狭小浜藩第五代藩主で小浜藩酒井家六代の酒井忠音(ただおと 元禄四(一六九一)年~享保二十(一七三五)年:当時、従四位下讃岐守。後に老中になり侍従に昇格)が大坂城代(享保八年~享保十三年)を務めているが、彼は酒井雅楽家系の別家小浜藩酒井家である。名前の一字を不明とするところから、或いは静山は既に混同に気づいていたのかも知れない。後に出る筆頭家老「高須隼人」は宗家の代々の有力重臣(老中・家老)高須家が継いだ通称であるから、ここは前者、酒井忠恭と考えてよいか。私は江戸時代には冥いので誤認があれば、ご指摘戴きたい。
「四品」(しほん)は四位に同じ。酒井家宗家は忠恭まで概ね従四位下より上は受けていない。
「城代など勤めたること無きほどの家」酒井忠恭までの二十九人の大阪城代は従四位下もいるが、従五位下の方が多いようである。
「密に」「ひそかに」。
「規模」規範。家訓。
「棧留」(さんとめ)は「桟留縞 (さんとめじま)」で「唐桟(留)(とうざん(どめ))」とも呼ぶ、木綿縞の織物の一種。「さんとめ」はインドのサントメ(コロマンデル地方のセント・トマスの訛り)から齎されたことに由来する。組織(くみおり)が緻密で、光沢があり、地合いの滑らかな織物。江戸初期からオランダ船によって輸入され、冬着の生地として流行した。江戸末期には川越付近でも生産され、輸入品の唐桟に対してこちらは「川唐」と呼んだ(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「持玉ひ」「持ち給ひ」。
「箸にて猿を削らせられ」意味不明。箸を削って猿の置き物(箸置き?)でも作っておられたんかななぁ?
「御噺」「おはなし」。
「良」「やや」。
「閥閲」「ばつえつ」。功を積んだ格式の高い家筋。酒井雅楽家の初期の宗主酒井雅楽助正親は家康青年期の重臣の一人で、三河統一の過程で西尾城主(現在の愛知県西尾市にあった)に取り立てられ、直臣最初の城主となり、その子重忠は関東で武蔵国川越(埼玉県川越市)に一万石を与えられ、重忠の子忠世は前橋藩主、老中・大老となった。また、その孫の忠清は大老となり、幕政において影響力を持ち、忠世の子孫(言うまでもなく酒井忠恭もその一人)は姫路藩十五万石の藩主となっている(ここはウィキの「酒井氏」を参照した)。
「迚」「とて」。
« 柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(24) 「川牛」(4) | トップページ | 譚海 卷之三 和哥宗匠家 »