蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 甕の水
甕 の 水
甕(かめ)の水(みづ)濁(にご)りて古(ふる)し、
このゆふべ、覆(くつが)へしぬる、
甕(かめ)の水(みづ)、
惜(を)しげなき逸(はや)りごころに。
音(おと)鈍(にぶ)し、水(みづ)はあへなく、
あざれたる溝(みぞ)に這(は)ひ寄(よ)り、
音(おと)鈍(にぶ)し、
呟(つぶ)やける「夢(ゆめ)」のくちばみ。
去(い)ねよ、わが古(ふる)きは去(い)ねよ、
水甕(みづがめ)の濁(にご)き底(そこ)濁(にご)り、
去(い)ねよ、わが――
噫(あゝ)、なべて澱(をど)めるおもひ。
耀(かゞや)きぬ雲(くも)の夕映(ゆふばえ)、
いやはての甕(かめ)の雫(しづく)に、
耀(かゞや)きぬ、――
わがこころかくて驚(おどろ)く。
「戀(こひ)」なりや、雫(しづく)の珠(たま)は、
げに淸(きよ)し、ふるびぬにほひ、
「戀(こひ)」なりや、
珠(たま)は、あな、闇(くら)きに沈(しづ)む。
夜(よ)となりき、嘆(なげ)くも果敢(はか)な、
空(むな)しかる甕(かめ)を抱(いだ)きて、
夜(よ)となりき、
あやなくもこころぞ渴(かは)く。
[やぶちゃん注:「あざれたる溝」臭いを放っているような汚い溝。
「くちばみ」古語として、毒蛇の「蝮(まむし)」(有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii:語源は、蝮は卵胎生であるが、それを母蛇の腹を食い破って生まれてくると見たことからとも言う)のことを「くちはみ」「くちばみ」と呼ぶ。ここは盛り上がり、うねりながら、「溝に這ひ寄」って行った「甕の水」が、水面に滴り落ちて音を立てるその様態を『呟(つぶ)やける「夢(ゆめ)」の』蝮として象徴的に隠喩したものであろう。音数律に合わせるために「口遊(くちずさ)む」の意で「口齒(くちば)む」を名詞化した造語ととるのには甚だ無理があり、そんな自分勝手な造語感覚を有明は持っていないし、そもそもそれでは「呟(つぶ)やける」の屋上屋となってしまう。
「あやなくも」「文無くも」で「理由(わけ)も判らず」の意。]
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