蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 月しろ
月 し ろ
淀(よど)み流(なが)れぬわが胸(むね)に憂(うれ)ひ惱(なや)みの
浮藻(うきも)こそひろごりわたれ黝(くろ)ずみて、
いつもいぶせき黃昏(たそがれ)の影(かげ)をやどせる
池水(いけみづ)に映(うつ)るは暗(くら)き古宮(ふるみや)か。
石(いし)の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂(さ)びぬ、
沈(しづ)みたる快樂(けらく)を誰(たれ)かまた讃(ほ)めむ、
かつてたどりし佳人(よきひと)の足(あ)の音(と)の歌(うた)を
その石(いし)になほ慕(した)ひ寄(よ)る水(みづ)の夢(ゆめ)。
花(はな)の思(おも)ひをさながらの禱(いのり)の言葉(ことば)、
額(ぬか)づきし面(おも)わのかげの滅(き)えがてに
この世(よ)ならざる緣(えにし)こそ不思議(ふしぎ)のちから、
追憶(おもひで)の遠(とほ)き昔(むかし)のみ空(そら)より
池(いけ)のこころに懷(なつ)かしき名殘(なごり)の光(ひかり)、
月(つき)しろぞ今(いま)もをりをり浮(うが)びただよふ。
[やぶちゃん注:「浮(うが)びただよふ」はママ。「うが」の植字ミスであろう。
「月しろ」は「月白」「月代」で、熟語としては、「月が登る頃おい、東の空が白んで明るく見えること」を指す。但し、中央公論社「日本の詩歌」第二巻の解説によれば、本篇は明治四〇(一九〇七)年六月号『文庫』初出であるが、そこでの標題は「月魂(つきしろ)」とあるから、ここは薄白い月の姿を限定的に挿していると読んだ方が、全体から見てもしっくりくる。]
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