白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附
[やぶちゃん注:原文は昭和三九(一九六四)年集英社刊田中克己著「漢詩大系 第十二巻 白楽天」のそれに概ね従った(一部の漢字を正式な繁体字に代えた)。訓読は私が本詩篇に出逢った高校二年の時の衝撃的印象記憶に残るものに従っており、田中氏の訓読とは字空けを含み、かなり異なる。また、本詩篇は完全に一つに繋がったものであるが、読み易さを考えて。私の考えるシークエンスごとに一行を空けてある。後に附したものは、私が二十代の終りに授業用に作ったオリジナルな全篇の拙訳である。これは現在電子化注をしている「和漢三才図会」の「比翼鳥」のために急遽電子化したものである。]
長恨歌 白居易
漢皇重色思傾國
御宇多年求不得
楊家有女初長成
養在深閨人未識
天生麗質難自棄
一朝選在君王側
囘眸一笑百媚生
六宮粉黛無顏色
春寒賜浴華淸池
溫泉水滑洗凝脂
侍兒扶起嬌無力
始是新承恩澤時
雲鬢花顏金步搖
芙蓉帳暖度春宵
春宵苦短日高起
從此君王不早朝
承歡侍宴無閒暇
春從春遊夜專夜
後宮佳麗三千人
三千寵愛在一身
金屋粧成嬌侍夜
玉樓宴罷醉和春
姊妹弟兄皆列士
可憐光彩生門戶
遂令天下父母心
不重生男重生女
驪宮高處入靑雲
仙樂風飄處處聞
緩歌慢舞凝絲竹
盡日君王看不足
漁陽鼙鼓動地來
驚破霓裳羽衣曲
九重城闕煙塵生
千乘萬騎西南行
翠華搖搖行復止
西出都門百餘里
六軍不發無奈何
宛轉蛾眉馬前死
花鈿委地無人收
翠翹金雀玉搔頭
君王掩面救不得
囘看血淚相和流
黃埃散漫風蕭索
雲棧縈紆登劍閣
峨嵋山下少人行
旌旗無光日色薄
蜀江水碧蜀山靑
聖主朝朝暮暮情
行宮見月傷心色
夜雨聞鈴腸斷聲
天旋日轉𢌞龍馭
到此躊躇不能去
馬嵬坡下泥土中
不見玉顏空死處
君臣相顧盡霑衣
東望都門信馬歸
歸來池苑皆依舊
太液芙蓉未央柳
芙蓉如面柳如眉
對此如何不淚垂
春風桃李花開夜
秋雨梧桐葉落時
西宮南苑多秋草
宮葉滿階紅不掃
梨園弟子白髮新
椒房阿監靑娥老
夕殿螢飛思悄然
孤燈挑盡未成眠
遲遲鐘鼓初長夜
耿耿星河欲曙天
鴛鴦瓦冷霜華重
翡翠衾寒誰與共
悠悠生死別經年
魂魄不曾來入夢
臨邛道士鴻都客
能以精誠致魂魄
爲感君王輾轉思
遂敎方士慇懃覓
排空馭氣奔如電
升天入地求之徧
上窮碧落下黃泉
兩處茫茫皆不見
忽聞海上有仙山
山在虛無縹緲閒
樓閣玲瓏五雲起
其中綽約多仙子
中有一人字太眞
雪膚花貌參差是
金闕西廂叩玉扃
轉敎小玉報雙成
聞道漢家天子使
九華帳裏夢魂驚
攬衣推枕起徘徊
珠箔銀屛邐迤開
雲鬢半偏新睡覺
花冠不整下堂來
風吹仙袂飄颻舉
猶似霓裳羽衣舞
玉容寂寞淚闌干
梨花一枝春帶雨
含情凝睇謝君王
一別音容兩渺茫
昭陽殿裏恩愛絕
蓬萊宮中日月長
囘頭下望人寰處
不見長安見塵霧
唯將舊物表深情
鈿合金釵寄將去
釵留一股合一扇
釵擘黃金合分鈿
但令心似金鈿堅
天上人閒會相見
臨別慇懃重寄詞
詞中有誓兩心知
七月七日長生殿
夜半無人私語時
在天願作比翼鳥
在地願爲連理枝
天長地久有時盡
此恨綿綿無絕期
●「長恨歌」オリジナル訓読
長恨歌 白居易
漢皇 色(いろ)を重んじ 傾國を思ふ
御宇(ぎよう) 多年求むれども 得ず
楊家に女(ぢよ)有り 初めて長成し
養はれて深閨(しんけい)に在り 人 未だ識らず
天生の麗質 自(おのづか)ら棄て難く
一朝 選ばれて 君王の側に在り
眸(ひとみ)を囘(めぐ)らして一笑すれば 百媚生じ
六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい) 顏色なし
春寒うして 浴を賜ふ 華淸(かせい)の池
溫泉 水 滑かにして 凝脂(ぎようし)を洗ふ
侍兒 扶(たす)け起すに 嬌(きやう)として力なく
始めて是れ 新たに恩澤(おんたく)を承(う)くる時
雲鬢(うんびん) 花顏(くわがん) 金步搖(きんぽえう)
芙蓉(ふよう)の帳(とばり) 暖かにして春宵を度(わた)る
春宵 苦(はなは)だ短くして 日高くして起き
此れより 君王(くんのう) 早朝(さうてう)せず
歡(くわん)を承(う)け 宴(えん)に侍して 閒暇(かんか)なく
春は春の遊びに從ひ 夜(よ)は夜を專(もつぱ)らにす
後宮の佳麗 三千人
三千の寵愛 一身にあり
金屋(きんをく) 粧(よそほ)ひ成つて 嬌として 夜に侍し
玉樓 宴(えん)罷(や)んで 酔ひて 春に和す
姊妹弟兄(しまいていけい) 皆 土(ど)を列(つら)ね
憐(あは)れむべし 光彩 門戶(もんこ)に生ずるを
遂に 天下の父母の心をして
男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ
驪宮(りきゆう) 高き處 靑雲に入り
仙樂 風に飄(ひるが)へりて 處處(しよしよ)に聞ゆ
緩歌(くわんか) 慢舞(まんぶ) 絲竹(しちく)を凝(こら)し
盡日(じんじつ) 君王 看れども足らず
漁陽の鼙鼓(へいこ) 地を動かして來たり
驚破(きやうは)す 霓裳羽衣(げいしやううい)の曲
九重(きうちよう)の城闕(じやうけつ) 煙塵(えんじん)生じ
千乘 萬騎(ばんき) 西南に行く
翠華(すゐくわ) 搖搖(えうえう) 行きては復(ま)た止(とど)まり
西のかた 都門を出づること 百餘里
六軍(りくぐん) 發せず 奈何(いかん)ともする無し
宛轉(ゑんてん)たる蛾眉 馬前に死す
花鈿(くわでん) 地に委(す)てられ 人の收むる無く
翠翹(すゐげう) 金雀 玉搔頭(ぎよくさうとう)
君主 面(おもて)を掩(おほ)ひて 救ひ得ず
囘看(くわいかん)すれば 血淚(けつるゐ) 相ひ和して流る
黃埃(くわうあい) 散漫 風 蕭索(せうさく)
雲棧(うんさん) 縈紆(えいう) 劍閣を登る
蛾媚山下 人の行くこと 少(まれ)に
旌旗(せいき) 光り無く 日色 薄し
蜀江 水 碧(みどり)にして 蜀山 靑し
聖主 朝朝暮暮(てうてうぼぼ)の情
行宮(あんぐう)に月を見れば 心を傷ましむるの色
夜雨(やう)に鈴を聞けば 腸(はらわた)を斷つるの聲(おと)
天 旋(めぐ)り 日 轉じて 龍馭(りゆうぎよ)を𢌞(めぐ)らす
此(ここ)に致りて 躊躇して 去る能はず
馬嵬坡下(ばくわいはか) 泥土の中(うち)
玉顏を見ず 空しく死せし處
君臣 相ひ顧みて 盡(ことごと)く衣(ころも)を霑(うるほ)し
東のかた 都門を望み 馬に信(まか)せて歸る
歸り來たれば 池苑(ちゑん) 皆 舊に依(よ)る
太液(たいえき)の芙蓉(ふよう) 未央(びあう)の柳
芙蓉は面(おもて)のごとく 柳は眉(まゆ)のごとし
此れに對して 如何(いかん)ぞ 淚 垂れざらん
春風(しゆんぷう) 桃李(たうり) 花開くの夜(よ)
秋雨(しうう) 梧桐(ごとう) 葉落つるの時
西宮(せいきゆう) 南苑 秋草 多く
宮葉(きゆうえふ) 階(きざはし)に滿つれども 紅(こう) 掃(はら)はず
梨園の弟子(ていし) 白髪新たに
椒房(せうばう)の阿監(あかん) 靑娥(せいが)老ゆ
夕殿(せきでん) 螢 飛んで 思ひ 悄然(せうぜん)
孤燈 挑(かか)げ盡くして 未だ眠りを成さず
遲遲たる鐘鼓(しようこ) 初めて 長き夜
耿耿(かうかう)たる星河 曙(あ)けんと欲(す)る天
鴛鴦(ゑんあう)の瓦 冷ややかにして 霜華(さうくわ)重く
翡翠(ひすゐ)の衾(しとね) 寒うして誰(たれ)とか共にせん
悠悠たる生死 別れて年を經たり
魂魄 曾て來たりて夢に入らず
臨邛(りんきよう)の道士 鴻都(こうと)の客(きやく)
能(よ)く精誠(せいせい)を以つて 魂魄を致す
君王 展轉(てんてん)の思ひに感ずるが爲(ため)に
遂に 方士をして慇懃(いんぎん)に覓(もと)めしむ
空(くう)を排(はい)し 氣に馭(ぎよ)して 奔(はし)ること 電(いなづま)のごとく
天に升(のぼ)り 地に入りて 之れを求むること 遍(あまね)し
上(かみ)は碧落(へきらく)を窮め 下(しも)は黃泉(こうせん)
両處 茫茫(ばうばう)として 皆 見えず
忽(たちま)ち聞く 「海上に仙山有り
山は虛無縹緲(きよむへうべう)の閒(かん)に在り」 と
「樓閣 玲瓏(れいろう)として 五雲 起こり
其の中(うち) 綽約(しやくやく)として 仙子(せんし)多し
中に 一人(ひとり)有り 字(あざな)は太眞(たいしん)
雪の膚(はだへ) 花の貌(かんばせ) 參差(しんし)として是れなり」と
金闕(きんけつ) 西廂(せいしやう) 玉扁(ぎよくけい)を叩き
轉じて小玉(せうぎよく)をして 雙成(さうせい)に報(ほう)ぜしむ
聞道(きくなら)く 漢家(かんけ)天子の使ひなりと
九華帳裏(きうくわちやうり) 夢魂(むこん) 驚く
衣(ころも)を攬(と)り 枕を推(お)し 起(た)ちて徘徊す
珠箔(しゆはく) 銀屛(ぎんぺい) 邐迤(りい)として開く
雲鬢(うんびん) 半ば偏(かたむ)きて 新たに睡りより覺(さ)む
花冠(くわくわん)整へず 堂より下(くだ)り來たる
風は仙袂(せんべい)を吹きて 飄颻(へうえう)として舉がり
猶ほ 霓裳羽衣の舞(まひ)に似たり
玉容(ぎよくよう) 寂寞(せきばく) 淚 闌干(らんかん)
梨花(りか) 一枝(いっし) 春 雨を帶ぶ
情(じやう)を含み 睇(てい)を凝らし 君主に謝す
一別 音容 兩(ふた)つながら 渺茫(べうばう)
昭陽殿裏(せうやうでんり) 恩愛 絕え
蓬萊宮中(ほうらいきゆうちゆう) 日月(じつげつ) 長し
頭(かうべ)を囘(めぐ)らし 下(しも) 人寰(じんくわん)を望む處
長安を見ず 塵霧を見る
唯だ 舊物(きうぶつ)を將(も)つて深情を表はす と
鈿合(でんがふ) 金釵(きんさ) 寄せ將(も)ち去らしむ
釵(さ)は一股(いつこ)を留(とど)め 合(がふ)は一扇(いつせん)
釵は黃金(わうごん)を擘(さ)き 合は鈿(でん)を分かつ
但(た)だ心をして 金鈿(きんでん)の堅きに似しむれば
天上 人閒(じんかん) 會(かなら)ず相ひ見(まみ)えん
別れに臨みて 慇懃(いんぎん)に重ねて 詞(ことば)を寄す
詞中(しちゆう) 誓ひ有り 兩心のみ 知る
七月七日(しちぐわつなぬか) 長生殿
夜半 人無く 私語(しご)の時
「天に在りては 願はくは比翼の鳥と作(な)り
地に在りては 願はくは連理(れんり)の枝(えだ)と爲(な)らん」と
天長く 地久しきも 時有りて 盡(つ)く
此の恨みは 綿綿として 絕ゆるの期(とき) 無からん
●「長恨歌」私訳
長恨歌
漢の帝(みかど)は色好みで、絶世の美女を求めて止まぬ。
帝の地位に就いてからというもの、ずっと求め続けたけれども、得られない。
さて。ここに楊家の娘がいた。成年になったばかり。
奥深い部屋で、大事大事に育てられてきたので、世間ではその器量は知られていなかった。
しかし、天生の美貌、そのまま打ち捨てられてはおかれない。
ある日、特に選ばれて、帝に召し出された。
瞳をめぐらして、ちょっと微笑(ほほえ)めば、ありとある魅力が生まれ、
後宮(こうきゅう)のあまたの美女も色褪(いろあ)せて見えるほど。
春まだ寒い頃、帝から華清池に入ることを許された。
温泉の湯は、白くむっちりとした肌を、滑らかにつたっていく。
上がろうとして、お付きの者が助け起こすと、のぼせて、なよなよと、力もない。
さあ、支度整い、帝の愛を受けるときがきた。
豊かな美しい髪、花のかんばせ、揺れる黄金のかんざし。
蓮の花を縫い取ったカーテンの中は、暖かだ……春の宵は過ぎてゆく……。
ああ、春の宵はひどく短い。帝はやっと昼になってお起きになる。
これより、帝は早朝の政務をおやめになった。
帝のお呼びで、うたげのお供。一人になれる暇もない。
春は春で物見遊山にお連れになり、夜は夜で貴妃一人をご寵愛。
後宮には三千人の美人。
その三千人分のご寵愛を、貴妃がすっかり独り占め。
立派な御殿は綺麗に飾られ、艶っぽく帝の夜にお付合い。
美しい高殿の宴会が終われば、その酔い姿がこれまた、まるで春に溶け込んでしまいそう。
貴妃の一族は、皆、諸候に取り立てられ、領地を得る。
ああ、うらやましい! 家の栄えぶり!
遂にこの世の親に、「男なんぞ役にも立たぬ、
女を産んで玉の輿(こし)、女の子をこそもうけよう。」と思わせるようになったほど。
雲にそびえる華清宮、うたげも今や最高潮。
仙界の楽のそれかと思わせる、妙(たえ)なる音(ね)が風に乗ってそこここに聞こえ、
静かでゆったりとした歌や舞い、見事に響き合う管弦の音(ね)。
帝は、日がな一日見ていても、飽きることを知らない。
……しかし……漁陽の辺りから……攻め太鼓の低い音が……大地を揺り動かして聞こえてくる……。
……それが……折りから舞っていた……霓裳羽衣の曲を……断ち切った…………。
都の城門には、もうもうたる土ぼこり。
落ちのびる帝の長い行列は、西南の蜀を目指して行く。
帝の旗を付けた車は、ゆらゆら揺れて、ちょっと行っては、じき、止まる。
城門を出でて、西へほどなく、
帝の直属の兵たちは、貴妃の断罪を求め、一歩たりとも動かなくなった。
……もはや、どうしようもない。
美しい眉の美人は、帝の車を引く馬の前で、死んだ。
美しい花鈿は、地に捨てられて、拾う者もなく、
ああ、それだけではない、数多(あまた)の美しい髪飾り……。
帝は正視できず、面を覆うばかり……。
振り返る帝の頬を、血の交じった涙がつたってゆく……。
埃交じりの風がさびしく、
蜀の桟道は雲の中に登って行くように険しい。
峨嵋山の下、行く人もなく、
行列の旗も色褪せて、日の光も薄い。
蜀の川の水は、どこまでも緑に、蜀の山々は、どこまでも青い。
ああ、推して知るべし、朝な夕な貴妃を思う帝の心。
行宮(あんぐう)に月を見ても、心(こころ)傷つき、
夜の雨に鈴の音(ね)を聞いても、はらわたが断ち切れるような悲しみを覚える。
天が巡り、地が転じ、世情が一変して、帝の車は長安へ。
途中この地に至って、歩み進まず、立ち去ることも、出来ぬ。
馬嵬坡(ばかいは)の、泥土の中、
もはや、あの白玉のような美顔の貴妃は見えぬ……むざむざと死んでいった場所……。
君臣は互いに顔を見合わせては、皆、涙で衣(ころも)を濡らす。
帝は、東のかた、長安を望み見ながら、ただ馬の歩むにまかせて、とぼとぼと帰ってゆく。
都に戻れば、宮中の池も庭も、もとのまま。
太液池の蓮の花、未央宮の柳も、あいも変わらぬ美しさ。
その蓮の花は貴妃の顔に似て、その柳の葉は、あの人の眉のよう。
この景色に向かって、どうして涙を流さずにいられようか。
春風(はるかぜ)吹く、桃や李(すもも)の花咲くのどかな夕べも、
秋雨(あきさめ)降る、梧桐(あおぎり)の葉の寂しく散る時も、哀しみは尽きず、
上皇の御座所、西の宮殿、南の御苑は、秋ともなれば、草深く、
宮殿の木の葉は、階段(きざはし)に満ちて、紅(くれない)。訪ねる人もなく、それを掃き清める者も、いない。
梨園の音楽所で玄宗に楽曲を教わった若き楽士たちも、白髪が鬢(びん)に見え初(そ)め、
かつて皇后の御殿の女官長であった若き女房も、いまはすでに年老いてしまった。
夕暮れの御殿に飛ぶ蛍を見ては、心は淋しさにうちひしがれ、
ただひとつの燈火の芯(しん)を、掻(か)き上げ尽くし、それが消えた後(あと)も、まだ眠りにつくことが、できぬ。
時を知らせる鐘や太鼓の音(おと)も、いかにも遅く思われて、夜長(よなが)を感じ始める、秋。
銀河は淡く輝いているが、はや、夜も明けようとしている空。
屋根の鴛鴦(おしどり)をかたどった瓦も、冷ややかに、霜を置いて重たげに見え、
翡翠(かわせみ)の雌雄(つがい)が仲よく縫い取りされた夜着(よぎ)は冷たく、ただ一人寝の淋しさを、かこつ、ばかり。
生きている者と死んだ人とは、果てしなく遠く隔たり、別れて長く、年を経た。
貴妃の魂が玄宗の夢にも入って来ぬのは、まことに、淋しい限り。
蜀の臨邛(りんきょう)の道士が、長安に旅人として来ていた。
不思議な精神力で、よく魂を招くことが出来るという。
おそばの者は、玄宗の毎夜の煩悶に、同情し、
ついにこの方術の行者(ぎょうじゃ)に、貴妃の魂を心をこめて尋ねさせることとなった。
方士は、風を押し開き、雲霧に乗り、電光の如く奔り、
天に登り、地に入って、あまねく、捜した。
上は青空の奥まで、下は黄泉の国まで尋ねたが、
どちらも、果てしなくぼんやり遠く霞んで、貴妃の霊は見えぬ。
ふと聞いた。「東海の彼方に仙山がある。
その山は、この世を超えた、物影一つ見えない、虚(むな)しい、この世から果てしなく遠い所にある」と。
「林立する高殿は玉の如く輝き、五色の雲が湧いている。
その中に、たおやかな仙女が沢山いる。
中に一人、字(あざな)を太真(たいしん)と呼ぶものがおり、
雪の肌(はだえ)、花のかんばせ、まずは、この者らしい。」と。
道士は仙山に至り、黄金の闕のある宮殿の西の袖(そで)部屋に行き、白玉の閂(かんぬき)を叩いて案内を乞うた。
もと呉王夫差の女であった小玉(しょうぎょく)から、もと西王母の侍女であった雙成(そうせい)にと、次々に取りつがれ、太真のもとへと告げられた。
太真は「漢の朝廷の帝のお使い」と聞いて、沢山の花模様のある幄(とばり)の内で見ていた夢も驚き醒め、
紗(うすぎぬ)の衣を打ちかけて裾(すそ)をつまみ、枕を押しやって立ち上がり、「どうしよう」と戸惑って部屋を歩く。
玉の簾(すだれ)や銀の屏風が、連なって折れ曲がり、押し開かれ、ついに彼女が現われた。
雲のように豊かな黒髪は半ば傾き、今やっと眠りから醒めた風(ふう)。
花の冠も整わぬまま、広間から降りて来る。
風が衣のそでに吹いて、ひらひらと挙がり、
やはり、生前に舞った霓裳羽衣の舞の手ぶりに、それは似ていた。
その美しい顔は、寂しげで、涙は、止めどなく、はらはらと、こぼれる。
喩(たと)うれば、一枝(ひとえだ)の梨の花が春雨に濡れているよう。
太真は情をこめた目で、凝(じ)っと見つめ、帝の厚いお情けを謝して、言った。
「一たびお別れ申してより、お言葉もお顔も、果てしなく遠いものとなり、
昭陽殿であなた様から頂いた恩愛も絶え、
この蓬莱の宮中では仙境のことゆえ、月日は永遠。
振り返って下方の人の世を遠く望んでも、
長安は見えず、ただ塵と霧。
思い出の品で、せつない私の思いをお示しすることしかできません。
この青貝(あおがい)を鏤(ちりば)めた香盒(こうごう)と、金のかんざしを、お使いの者に預け、持って行って頂きまする。
かんざしは黄金(きん)も二つに裂き、香盒は青貝の飾りも半分に外(はず)して。
ただ、お互いを思う心を黄金や青貝の如く、堅く変わらぬものにしている限り、
天上と人の世を超え、きっと私たちはお会いすることが出来ましょう。」と。
別れぎわに、懇(ねんご)ろに歌をことづける。
そこには二人だけが知っている秘密の誓いが……。
「七月七日(しちがつなぬか)、長生殿、
夜更け、二人きりの語らいの時、
『天にあっては願わくは比翼(ひよく)の鳥となり、
地にあっては願わくは連理(れんり)の枝(えだ)となりましょう。』と。
――天地は永く続くとはいえ、いつかは、必ず、消え去ってしまう――
――しかし――この恨みは――永遠に――尽きることはない――
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