柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(22) 「川牛」(2)
《原文》
諸國ノ海川ニハ、「サイ」トハ言ハザル水牛ノ住メリト云フ處アリ。其水牛モ格別人ヲ害セザルモ要スルニ怪物ナリ。土佐ノ近海ヲ航行スル船、曾テ船底ヲ水牛ノ爲ニ突カレタリ。大阪著船ノ後船體ニ折込ミ居タル水牛ノ角ヲ取リ、藥種商ニ高ク賣渡シタリト云フ〔土佐淵岳志中〕。【一角獸】此等ハ往々ニシテ犀角ト混同セラルヽ所謂「ウニコール」(一角獸)ノ所業ナリシナランカ〔六物新志〕。【水底ノ牛】併シ大隅姶良(アヒラ)郡牧園村大字中津川ニ於テ、約三十年目每ニ犬飼川ノ水底ヨリ出デタリト云フ牛ノ如キハ正眞ノ牛ナリ。最近ニ出現セシハ黃牛(アメウシ)ナリキ。角ハ短クシテ太ク、毛ハ甚ダ美麗ニシテ眼光射ルガ如シ。人近ヅキテモ遁ゲズ、人モ亦靈物トシテ敢テ侵サズ。陸上ニ遊ブコト二三日ニシテ復水中ニ還リタリ〔三國名勝圖會〕。正德四年六月ノ中旬、大阪城ノ追手門ト京橋口トノ間ノ堀ニ頭ト背トヲ水中カラ現ハセシ怪物ハ、頭ハ牝牛ノ大キサトアレド金色ノ鱗アリ。但シ堀ノ中ヲウロウロト步ミ去ルトアリテ甚ダ龍ラシカラズ〔月堂見聞集七〕。【牛ケ淵】武州秩父郡金澤村字出牛ニテハ、見馴(ミナシ)川ノ流ニ牛ケ淵アリ。昔此淵ヨリ牛出デタルコトアリテ地名ヲ出牛トハ謂フナリ〔新編武藏風土記稿〕。【牛沼】羽後平鹿郡橫手町、朝倉城址ノ南方ニ牛沼アリ。【沼ノ主】沼ノ名ノ由來トシテハ、或ハ此堤ニ築キ込メタル牛今ニ至ルマデ靈アリト云ヒ、或ハ神社建築ノ材木ヲ負ハセタル牛此沼ニ沈ムトモ云ヒ、又一說ニハ「ウシ」トハ棟木ニ用ヰル大材木ノコトナリ、其材水ノ底ニ沈ミテ其牛ト化シ、終ニ沼ノ主ト成リテ折々背ヲ現ハスコトアリトモ傳ヘタリ〔雪乃出羽路十三〕。勿論取留メタル話ニハ非ザレドモ、各地ニ於テ水中ニ靈牛住ムト云フ點ノミハ一致セリ。獨リソレノミニアラズ、牛ハ又自由ニ地下水ノ流ニ從ヒテ土中ヲモ往來スルコトアリ。【牛クヽリ】陸中和賀郡更木村大字更木ノ牛クリガ淵ハ、北上川ノ流ニ在リテ隣村平澤トノ境ニ近シ。「牛クリ」ハ卽チ「牛クヽリ」ノ轉靴ナリ。【牛野飼】或年ノ夏民家ノ牛ヲ此岸ニ放チ置キシニ、牛ハ暑サニ堪ヘズシテ淵ノ底ニ入リ、沈ミタルマヽ出デ來ラズ。牛主ハ既ニ死シタルモノト思ヒテアリシニ、水中ヲ潛リタリト見エテ同村大字臥牛(ヒソウシ)ノ觀音堂ノ下ノ淵ニ浮ビ出デ、岸ニ上リテ潛マリ居タリ。故ニ又其地ヲ「ヒソウシ」ト謂フナリ〔和賀稗貫二郡鄕村誌〕。此話ニハ河童ハ出デザレドモ、事ノ筋ニハ注意スべキ脈絡アルコト尚後段牛馬薮入ノ條ニ之ヲ說クべシ。陸奧下北郡東通村大字白糠(シラヌカ)ノ山ニハ大穴ト云フ處アリ。【窟ト牛】昔野飼ノ牛此窟ニ入リテ終ニ出デ來ラズ、遙カニ隔タリタル上北郡橫濱村ノ中ニ現ハレタリ。故ニ其地ヲ牛ノ澤ト呼ブトカヤ〔眞澄遊覽記八〕。牛ガ窟ノ中ニ入リシ話ハ今昔物語ニモアリテ、極メテ古キ來歷アルナリ。
《訓読》
諸國の海川には、「サイ」とは言はざる水牛の住めりと云ふ處あり。其の水牛も、格別、人を害せざるも、要するに、怪物なり。土佐の近海を航行する船、曾て船底(ふなぞこ)を水牛の爲に突かれたり。大阪著船(ちゃくせん)の後、船體に折り込み居たる水牛の角を取り、藥種商に高く賣り渡したりと云ふ〔「土佐淵岳志」中〕。【一角獸】此等は往々にして「犀角(サイカク)」と混同せらるゝ、所謂、「ウニコール」(一角獸)の所業なりしならんか〔「六物新志(ろくもつしんし)」〕。【水底(みなそこ)の牛】併し、大隅姶良(あひら)郡牧園村大字中津川に於いて、約三十年目每(ごと)に犬飼川の水底より出でたりと云ふ牛のごときは、正眞(しやうしん)の牛なり。最近に出現せしは、黃牛(あめうし)なりき。角は短くして太く、毛は甚だ美麗にして、眼光、射るがごとし。人、近づきても、遁げず、人も亦、靈物として敢へて侵さず。陸上に遊ぶこと、二、三日にして、復た、水中に還りたり〔「三國名勝圖會」〕。正德四年[やぶちゃん注:一七一四年。但し、後注参照。]六月の中旬、大阪城の追手門と京橋口との間の堀に、頭と背とを水中から現はせし怪物は、頭は牝牛の大きさとあれど、金色の鱗(うろこ)あり。但し、堀の中をうろうろと步み去るとありて、甚だ龍らしからず〔「月堂見聞集」七〕。【牛ケ淵】武州秩父郡金澤村字出牛にては、見馴(みなし)川の流れに牛ケ淵あり。昔、此の淵より、牛、出でたることありて、地名を出牛とは謂ふなり〔「新編武藏風土記稿」〕。【牛沼】羽後平鹿郡橫手町、朝倉城址の南方に牛沼あり。【沼の主】沼の名の由來としては、或いは、此の堤に築き込めたる牛、今に至るまで靈ありと云ひ、或いは、神社建築の材木を負はせたる牛、此の沼に沈むとも云ひ、又、一說には、「ウシ」とは棟木に用ゐる大材木のことなり、其の材、水の底に沈みて、其の牛と化し、終に沼の主と成りて、折々、背を現はすことあり、とも傳へたり〔「雪乃出羽路」十三〕。勿論、取り留めたる話には非ざれども、各地に於いて、水中に靈牛住むと云ふ點のみは一致せり。獨りそれのみにあらず、牛は又、自由に地下水の流れに從ひて、土中をも往來することあり。【牛くゝり】陸中和賀郡更木村大字更木(さらき)の牛くりが淵は、北上川の流れに在りて、隣村平澤との境に近し。「牛くり」は、卽ち、「牛くゝり」の轉靴なり。【牛野飼】或り年の夏、民家の牛を此の岸に放ち置きしに、牛は暑さに堪へずして、淵の底に入り、沈みたるまゝ出で來たらず。牛主は既に死したるものと思ひてありしに、水中を潛りたりと見えて、同村大字臥牛(ひそうし)の觀音堂の下の淵に浮び出で、岸に上りて潛(ひそ)まり居たり。故に又、其の地を「ひそうし」と謂ふなり〔「和賀稗貫二郡鄕村誌」〕。此話には河童は出でざれども、事の筋には注意すべき脈絡あること、尚ほ、後段「牛馬藪入(うしうまやぶいり)」の條に之れを說くべし。陸奧下北郡東通(ひがしどほり)村大字白糠(しらぬか)の山には大穴と云ふ處あり。【窟(いはや)と牛】昔、野飼の牛、此の窟に入りて、終に出で來たらず、遙かに隔たりたる上北郡橫濱村の中に現はれたり。故に、其の地を牛の澤と呼ぶとかや〔「眞澄遊覽記」八〕。牛が窟の中に入りし話は、「今昔物語」にもありて、極めて古き來歷あるなり。
[やぶちゃん注:「犀角(サイカク)」サイ科 Rhinocerotidae(詳細既注)のサイ類の角を用いた漢方薬(生薬名なので現行通り、カタカナ表記とした)。中国古代の「神農本草経」(三国時代(一八四年~二八〇年)に成立。神農氏の後人の作とされるが、実際の撰者は不詳。三百六十五種の薬物を「上品」・「中品」・「下品」の三つに分類して記述する。「上品」は無毒で長期服用が可能な養命薬、「中品」は毒にもなり得る養生薬、「下品」は毒が強く長期服用が不可能な急性期治病薬を指す)では中品に収載されている。粉末或いは薄片に削って解熱・解毒などの薬効で使用する。利用される角はインドサイ属インドサイ Rhinoceros unicornis のものが良品とされ、「烏犀角(ウサイカク)」と称されるが、現在では生息数が少なく、動物保護の点からも希品である。また、アフリカに棲息するクロサイ属クロサイ Diceros bicornis のものは「水犀角(スイサイカク)」と呼ばれ、烏犀角に比して質がやや密で、劣品とされる。角は体毛の束が変化したものであるが、その有効成分は未詳。民間では麻疹(ましん:はしか)の特効薬として煎じて用いられる。本邦へは、インドから中国大陸を経て伝来し、武家故実の「掛物図鏡」には『もろもろの毒を消すものゆへ(犀角の掛物を)座敷の飾に用ふるなり』と記す(以上は辞書等の諸記載を参考に纏めた)。
『「ウニコール」(一角獸)』ポルトガル語「unicorne」の音写。もとは想像上の動物である一角獣(ユニコーン)を指すが、ここはイッカク哺乳綱鯨偶蹄目イッカク科イッカク属イッカク
Monodon monoceros を指す。「六物新志(ろくもつしんし)」当該部分は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の同書の画像の十七から二十八までで、一角(「烏泥哥爾(ウニコール)」他、呼称・表字、多数)の図を含め、非常に詳細である。必見。但し、ウィキの「イッカク」にある通り、『イッカクが見られる海域は北極海の北緯』七十『度以北、大西洋側とロシア側で』、『多くはハドソン湾北部、ハドソン海峡、バフィン湾、グリーンランド東沖、グリーンランド北端から東経』百七十『度あたりの東ロシアにかけての帯状の海域(スヴァールバル諸島、ゼムリャフランツァヨシファ、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島など)などで見られる。目撃例の最北端はゼムリャフランツァヨシファの北、北緯』八十五『度で、北緯』七十『度以南で観察されることは稀である』から、前掲の大坂の廻船を襲ったのは、イッカクではあり得ない。恐らくは、その上顎が剣のように長く鋭く伸びて槍上になった吻を持ち、舵木(かじき」船の舵を執る硬い木板)をも突き通すことから「舵木通(かじきどおし)」或いは「かじどおし」と呼ばれる、条鰭綱スズキ目カジキ亜目 Xiphioidei のカジキ類が衝突したものと私は推定する。
「大隅姶良(あひら)郡牧園村大字中津川」現在の鹿児島県霧島市牧園町(まきぞのちょう)上中津川(グーグル・マップ・データ)。南西方向に下る川が「犬飼川」(現在は中津川と呼ぶ。下流で天降川に合流)である。地区域外の南西下流に「犬飼の滝」があるが、ここは坂本龍馬が妻お龍とともに日本初の新婚旅行で訪れた地として知られる。
「黃牛(あめうし)」「あめうじ」とも。飴色、黄色の毛色の牛で、古くは神聖にして立派な牛として貴ばれたというのが辞書的解説であるが、飴色の「あめ」とは「雨」で、大陸では、雨乞の際、天空の神に神聖な黄色の牛を生贄として捧げたことに由来するようであり、さればこそ、「水」と縁が深いのである。
「大阪城の追手門、上月橋口との間の堀」グーグル・マップ・データのこちらの「西外濠」に相当。「月堂見聞集」第七のこちらに載る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。同書は元禄十(一六九七)年から享保十九(一七三四)年までの見聞雑録で、別に「岡野随筆」「月堂見聞類従」とも称する。本島知辰(ともたつ:号・月堂)著。全二十九巻。江戸・京都・大坂を主として諸国の巷説を記し、その内容は政治・経済から時事風俗にまで亙り、自己の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記してある)。そこには、以下のように目撃内容が記されてある。
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[やぶちゃん注:前略。]長さ四、五間[やぶちゃん注:約七・三~九・一メートル。]、胴の太さ、三.四尺廻り、頭は牝牛の頭の大さ程、尾は水中に深く入候而(いりさふらふて)碇と[やぶちゃん注:「諚と」の誤記か。「しかと」。]相見え不ㇾ申候、七、八寸程見え申し候、鱗の、金(こがね)のすりはがし抔(など)申(まうす)樣(やう)に、水中にてきらきらと光り候由、鱗の間に水中はへ候て在ㇾ之樣に相見え申候、是鱗に藻のかゝりて候可ㇾ有ㇾ之哉(や)、水際より水中へ、七、八寸計(ばかり)入候て、そろそろと追手門之御門の方へ參候て、御城の馬塲通りかゝり候跡を見請(みうけ)申候由[やぶちゃん注:以下略。目撃者の名その他の記載がある。因みに、この後には、江戸深川の七尺もある鼠色の七寸もある毛が生えた、鼠のような頭部をした異魚やら、奥州に出現した、鼈甲色で、頭は蛇形にして首は鳥、四尺八寸もの長い耳、尾は剣の切っ先のようで二間二尺(四メートル二十四センチ!)、全長実に六尺八寸、吹く息は火炎の如く、啼く声は雷の如しというトンデモ異鳥を鉄砲十挺を以って仕留めたという、異常生物の記載が二件続く。面白いこと限りない。必見!]
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私はこれは、年を経た、黄色で背が盛り上がっていること、牛のような頭部という点から、巨大化したスッポン(カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis)の誤認ではないかと踏む(鱗とサイズからは、別に、現生する条鰭綱スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科カムルチー Channa
argus のアムール亜種(北海道には江戸時代に棲息していたという)の巨大固体も考えたが、大阪城外堀に、この当時、同種がいた可能性は極めて低いと判断し、外す)。
に、頭と背とを水中から現はせし怪物は、頭は牝牛の大きさとあれど。金色の鱗(うろこ)あり。
「甚だ龍らしからず」柳田先生、記者は一言も「龍」だなんて、言っていませんよ。
「武州秩父郡金澤村字出牛」現在の埼玉県秩父郡皆野町(みなのまち)金沢(かねざわ)出牛(じゅうし)(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、これ、河童や水牛なんぞ、目じゃない! ここは隠れキリシタンの地なのだ! そこに「出牛」だ! これは元は「でうし」「でうす」で「Deus」=ヤハウェ(神)ではなかったか? 個人サイト「武州の城」の「秩父山中に逃げ込んだ隠れ切支丹(キリシタン)」にその証左があった! 『神川町渡瀬において切支丹(キリシタン)宗門布教の罪で殺害された山口平之進の従者で切支丹(キリシタン)宗門寺院善明寺の門前百姓と成った中金、竹内の』二名のうちの一名が、『難を逃れて秩父山中に逃げ込んだと記録にあります、彼は秩父郡金沢(皆野町)の出牛で隠れ切支丹(キリシタン)と成り新に布教活動を再開します』。『出牛地区の南側に大正』六(一九一七)『年に立てられた道標が在り』、『「児玉町、本庄町に至る」、「秩父町、小鹿野町に至る」と刻まれています、古来出牛地区には神川方面と秩父方面を結ぶ街道筋通っていたのでしょう、隠れ切支丹(キリシタン)と成った山口兵之進の従者はその街道筋を通り出牛に入ったと考えれます』。『出牛地区の出牛とは戦国末期から江戸期にかけてゼウス(Deus)を訳してあてた漢字と云われています』。『また』、『出牛の何処かに南蛮地蔵と呼ばれる地蔵が祀られているそうです』とあった!
「羽後平鹿郡橫手町、朝倉城址の南方に牛沼あり」「牛沼」は現行の朝倉城址の東麓に現存する。この中央の池沼(グーグル・マップ・データ。以下同じ)である。
『「ウシ」とは棟木に用ゐる大材木のことなり』「牛梁(うしばり)」のことで、重量の懸かる部分に用いる太い梁を確かに「うし」と呼ぶことが、小学館「日本国語大辞典」に載る。
「取り留めたる話には非ざれども」(どれも一つ一つは、甚だ荒唐無稽なものもあり)殊更に注目して明記しておくべき話ではないけれども。
「陸中和賀郡更木村大字更木(さらき)の牛くりが淵」「更木村」は現在の北上市更木で北上川の東岸地区、その東に接して猿ケ石川の南岸に、北上市臥牛(ひそうし)がある。「隣村平澤」は、以上の旧二村の南に北上市平沢としてある。しかも、興味深いことに、臥牛地区の更木や平沢の境に近い位置には「水乞山」があるのである。
「同村大字臥牛(ひそうし)の觀音堂」同地区のここに現存する一天山願行寺である。ここは別名自体を「臥牛(がぎゅう)寺」とも呼び、当国観音霊場第二十二番札所である(幾つかの記事を見たところ、住職は常時は在住していない模様である)。
「陸奧下北郡東通村大字白糠(しらぬか)」現在の青森県下北郡東通村白糠。下北半島の太平洋側。
「大穴と云ふ處あり」確認出来ない。「おほあな」と一応、読んでおく。
「上北郡橫濱村」青森県上北郡横浜町。白糠の南西方向の、陸奥湾東岸。
「牛の澤」青森県上北郡横浜町牛ノ沢。
『牛が窟の中に入りし話は、「今昔物語」にもあり』これは「今昔物語集」巻第五の「天竺牧牛人入穴不出成石語第三十一」(天竺(てんぢく)の牧牛(うしかひ)の人、穴に入りて出でず石(いは)と成る語(こと)第三十一)であろう。岩波の新日本古典文学大系本を参考に、読み易く書き換え、恣意的に漢字を正字化した。
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今は昔、天竺に、佛(ほとけ)、未だ出給はざる時、一人の牛飼ふ人、有りけり。數百頭の牛を飼ひて、林の中に至るに、一つの牛、共(とも)を離れて獨り去りて、常に失す。行く所を知らず。牛を飼ひて、日暮に成りて、返らむと爲るに、此の一つの牛を見れば、他の牛にも似ず、殊に美麗なる姿なり。亦、鳴き吠ゆる事、常に似ず。亦、他の諸(もろもろ)の牛、皆、此の牛に恐(お)ぢて、近付かず。
此くのごとくして、日來(ひごろ)有るを、此の人、怖(あやし)び思ふと云へども、其の故を知らず。然(さ)れば、此の人の、『牛の行く所を見む』と思ひて、伺ひ見るに、此の牛、片山に一の石の穴、有り、其の穴に入る。此の人、亦、牛の尻に立ちて入る。
四、五里許り入りて、明かなる野、有り。天竺にも似ず、目出たき花、盛りに開(ひら)けて、菓(くだもの)滿ちたり。牛を見れば、一つの所にして、草を食(じき)して立ちたり。此の人、此の菓樹(くだもののうゑき)を見るに、赤く黃にして、金(こがね)のごとし。菓(くだもの)一果(いつくわ)を取りて、貪り愛(め)づと云へども[やぶちゃん注:とても気に入ったのではあったが。]、恐れて、食(じき)せず。
而る間に、牛、出でぬ。此の人も、亦、牛に次ぎて返り出づ。石の穴の所に至りて、未だ出でざる間に、一(ひとり)の惡鬼、出で來て、其の持ちたる菓(くだもの)を奪ふ。此の人、此の菓を口に含みつ。鬼、亦、其の喉を搜(さぐ)る。其の時に、此れを飮み入れつ。菓、既に腹に入りぬれば、其の身、卽ち、大きに肥えぬ。
穴を出づるに、頭(かしら)は既に出づと云へども、身、穴に滿ちて、出づる事を得ず。通る人に助くべき由を云へども、更に助くる人、無し。家の人、此れを聞きて、來たりて見るに、其の形、變じて、恐(お)ぢずと云ふ事無し[やぶちゃん注:家人は一人残らず、皆、恐怖した。]。其の人(ひと)、穴の内にして有りつる事を語る。家の人、諸(もろもろ)の人を集めて、引き出ださむと爲(す)れども、動く事、無し。國王、此の事を聞きて、人を遣して掘らしむるに、亦、動く事、無し。日來(ひごろ)を經(ふ)るに、死ぬ。年月(としつき)積もりて、石(いは)と成りて、人の形と有り。
其の後(のち)、亦、國王、「此れは仙藥を服(ぶく)せるにりてなり」と知りて、大臣に語りて云はく、「彼(こ)れは既に藥に依りて身を變ぜるなり。石(いは)なりと云へども、其の體(かたち)、既に神靈なり。人を遣はして、少し許りを削り取りて來たるべし」と。大臣、王の仰せを奉(うけたまは)りて、工(たくみ)と共に其の所に行きて、力を盡して削ると云へども、一旬[やぶちゃん注:十日。]を經(ふ)るに、一片も削り得ず。其の體(かたち)、今も猶ほ有り、となむ語り傳へたるとや。
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