蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 秋のこころ
秋のこころ
黃(きば)みゆく木草(きぐさ)の薰(かを)り淡々(あはあは)と
野(の)の原(はら)に、將(は)た水(みづ)の面(も)にただよひわたる
秋(あき)の日(ひ)は、淸(きよ)げの尼(あま)のおこなひや、
懺悔(ざんげ)の壇(だん)の香(かう)の爐(ろ)に信(しん)の心(こゝろ)の
香木(かうぼく)の膸(ずゐ)の膏(あぶら)を炷(た)き燻(く)ゆし、
きらびやかなる打敷(うちしき)は夢(ゆめ)の解衣(ときぎ)、
過(す)ぎし日(ひ)の被衣(かつぎ)の遺物(かたみ)、――靜(しづ)やかに
垂(た)れて音(おと)なき繡(ぬひ)の花(はな)、また襞(ひだ)ごとに、
ときめきし胸(むね)の名殘(なごり)の波(なみ)のかげ、
搖(ゆら)めきぬとぞ見(み)るひまを聲(こゑ)は直泣(ひたな)く――
看經(かんぎん)の、噫(あゝ)、秋(あき)の聲(こゑ)、歡樂(くわんらく)と
悔(くい)と念珠(ねんじゆ)と幻(まぼろし)と、いづれをわかず、
ひとつらに長(なが)き恨(うらみ)の節(ふし)細(ほそ)く、
雲(くも)の翳(かげり)にあともなく滅(き)えてはゆけど、
窮(きは)みなき輪廻(りんね)の業(ごふ)のわづらひは
落葉(おちば)の下(もと)に、草(くさ)の根(ね)に、潜(ひそ)みも入(い)るや、――
その夕(ゆふべ)、愁(うれひ)の雨(あめ)は梵行(ぼんぎやう)の
亂(みだ)れを痛(いた)みさめざめと繁(しじ)にそそぎぬ。
[やぶちゃん注:実は六行目「きらびやかなる打敷(うちしき)は夢の解衣(ときぎ)、」は、底本では、
きらびやかなる打敷(うちしき)は夢の解衣(とき),
となっている。則ち、ルビ「とき」はママ(但し、「解」の右にのみ附されてあり、音数律からも脱字であることは容易に類推出来る)で、末尾の「コンマ」もママなのである。しかし、それでは流石に私の電子化を読まんとされる読者はここで躓いてこけてしまう。されば、諸本を確認し、以上の文字列の誤植(脱字)であることを確認した上で、「正規表現版」と名打ってはいるが、特異的に訂することとした。
なお、本詩篇は、明治四〇(一九〇七)年十一月号初出である。
「看經(かんぎん)」(「キン」は唐音)禅宗などで、声を出さないで経文を読むこと。後に声を出して経文を読むこと、読経と同義になったが、私は原義で採る。則ち、後の「秋(あき)の聲(こゑ)、歡樂(くわんらく)と/悔(くい)と念珠(ねんじゆ)と幻(まぼろし)と、いづれをわかず、/ひとつらに長(なが)き恨(うらみ)の節(ふし)細(ほそ)く、/雲(くも)の翳(かげり)にあともなく滅(き)えてはゆけど、/窮(きは)みなき輪廻(りんね)の業(ごふ)のわづらひは/落葉(おちば)の下(もと)に、草(くさ)の根(ね)に、潜(ひそ)みも入(い)るや、――」は総てが、詩人にとっての「秋」という季節の持つ寂滅のイメージの「聲」「音」なのだと思うのである。
「梵行(ぼんぎやう)」淫欲を断つ修行。本語は一般に仏道修行をも指すが、ここは前者で採る。]

