柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(24) 「川牛」(4)
《原文》
牛ケ淵牛沼ノ類ハ諸國ニ多ケレドモ、必ズシモ之ヲ以テ川牛又ハ牛鬼ノ如キ珍奇ナル動物ノ産地ト目スルコト能ハズ。安藝高田郡志屋村大字志路ノ黃牛淵(アメガフチ)ノ如キハ、曾テ河童ノ爲ニ村ノ黃牛(アメウシ)ヲ此水ニ引込マレシコトアリシヨリ此地名アリ〔藝藩通志〕。【蘆毛馬】蘆毛淵(アシゲブチ)又ハ馬子淵(ウマノコブチ)ナドト稱シテ、河童ガ蘆毛馬又ハ馬ノ子ヲ引込マントセシ故跡ナリト傳フル例ハ外ニモアレド、其地名ノ由來トシテハ被害者ノ緣故ヲ引クコトハ多少不自然ノ嫌ナキニ非ズ。故ニイツト無ク牛淵ハ牛ノ居ル淵ト說明スル者多クナリタルナリ。牛ニ似タル水底ノ怪物ガ、河童乃至ハ淵猿ト同ジク、人ヲ引込ミテ殺シタリト云フ例ハ外ニモ存ス。【池】甲州北巨摩郡旭村上條北割組ノ甘利山ノ山中ニ、佐原池ト呼ブ池アリ。甘利左衞門尉ノ一子此池ニ漁シテ池ノ主ノ爲ニ命ヲ失ヒ、其亡骸ヲスラ見出スコト能ハズ。【赤牛】甘利氏ハ鄕内十村ノ百姓ヲ驅リ集メ、池ノ中へ大木ヲ投ゲ込マセ且ツ不潔ナル物ヲ沃(ソヽ)ガセタルニ、池ノ主ハ赤牛ノ姿ニ化シテ水中ヨリ走リ出デ、更ニ山奧ナル大笹池へ遁入リタリト云フ〔甲斐國志〕。【サハリ池】同郡安都玉(アツタマ)村村山北割組字八牛(ヤツウシ)ノ牛池ニモ之ニ似タル口碑アリ。昔時角ノ八箇アル赤牛此池ヨリ飛出シ、八嶽ノ方へ走リ行キシ故ニ、地名ヲ八牛トモ牛池トモ云フナリ〔同上〕。方三間バカリノ小池ナレドモ、水ノ色ノ淸濁ヲ以テ晴雨ヲ占フ風習存シ、池ノ岸ニハ應仁二年[やぶちゃん注:一四六八年。]ノ年號アル六地藏アリト云ヘバ、年久シキ靈場ナルコト疑無シ。
《訓読》
牛ケ淵・牛沼の類ひは諸國に多けれども、必ずしも之れを以つて、「川牛」又は「牛鬼」のごとき珍奇なる動物の産地と目(もく)すること、能はず。安藝高田郡志屋村大字志路の黃牛淵(あめがふち)のごときは、曾て河童の爲に村の黃牛(あめうし)を此の水に引き込まれしことありしより、此の地名あり〔「藝藩通志」〕。【蘆毛馬】蘆毛淵(あしげぶち)又は馬子淵(うまのこぶち)などと稱して、河童が蘆毛馬又は馬の子を引き込まんとせし故跡(こせき)なりと傳ふる例は外にもあれど、其の地名の由來としては、被害者の緣故を引くことは、多少、不自然の嫌ひなきに非ず。故に、いつと無く、牛淵は牛の居る淵と說明する者、多くなりたるなり。牛に似たる水底の怪物が、河童乃至(ないし)は淵猿と同じく、人を引き込みて殺したりと云ふ例は外にも存す。【池】【さはり池】甲州北巨摩郡旭村上條北割組の甘利山の山中に、佐原池(さはらいけ)と呼ぶ池あり。甘利左衞門尉の一子、此の池に漁して、池の主の爲に命を失ひ、其の亡骸(なきがら)をすら見出すこと能はず。【赤牛】甘利氏は鄕内十村の百姓を驅り集め、池の中へ大木を投げ込ませ、且つ、不潔なる物を沃(そゝ)がせたるに、池の主は赤牛の姿に化して、水中より走り出で、更に山奧なる大笹池(おおささいけ)へ遁げ入りたりと云ふ[「甲斐國志」〕。同郡安都玉(あつたま)村村山北割組字八牛(やつうし)の牛池にも、之れに似たる口碑あり。昔時(せきじ)、角の八箇ある赤牛、此の池より飛び出だし、八嶽(やつがたけ)の方へ走り行きし故に、地名を八牛とも牛池とも云ふなり〔同上〕。方三間ばかりの小池なれども、水の色の淸濁を以つて、晴雨を占ふ風習存し、池の岸には應仁二年[やぶちゃん注:一四六八年。]の年號ある六地藏ありと云へば、年久しき靈場なること、疑ひ無し。
[やぶちゃん注:「安藝高田郡志屋村大字志路の黃牛淵(あめがふち)」現在の広島県広島市安佐北区白木町大字志路(グーグル・マップ・データ)であろう。地区の中央部を西から東に河川が流れている。
「甲州北巨摩郡旭村上條北割組の甘利山」甘利山(あまりやま)は現在の山梨県韮崎市と南アルプス市との境界にある標高約千七百三十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。ピークは山梨県韮崎市旭町上條北割で、上記の地図を拡大して、少し東方向に動かすと池が見え(頂上から東南東約二キロメートルの麓で、同じく山梨県韮崎市旭町上條北割の内である)、この池を「椹池(さわらいけ)」と呼ぶ。これが柳田が言う「佐原池」であろう。しかも、甘利山頂上から南西六百四十メートルほどの位置に「大笹池」がある。さらに、サイト「甘利山倶楽部」の「甘利山の伝説」に韮崎市発行の「甘利山の自然」にある山寺仁太郎氏の文章が引用されてある。それによれば、『甘利山の中腹には、椹池(さわらいけ)がある』。標高千二百四十メートルで、面積は約一ヘクタールの、『特異な景観を持つ楕円型の池である。山梨県では珍しい高層湿原といわれる地形であって、湿原特有の植物が生育し、珍しい動物、昆虫の生息地であったが、現在はすっかり開発されて、自然の特質がかなり失われてしまったのが惜しまれるが、この池を舞台にした有名な伝説は今も残っている』とされ、
《引用開始》
この池には、昔大蛇が住んでいた。その頃の椹池は、うっそうとした森林に囲まれ、昼尚暗い、物凄い場所であった。池の底深く住んでいた大蛇は、この場所に近づくもの、この池で漁をするものを次々と引き込んで、呑み込んでしまうので、人々は恐ろしい池として、誰一人近寄るものも無かった。
この大蛇の前身は、下条婆(げじょばんば)と呼ばれる老婆であった。巨摩郡下條村(現韮崎市藤井町)に住んでいた老婆が、ある朝のこと、髪を梳こうとして鏡をのぞくと、意外にも彼女の額(ひたい)には、鬼の角の様なものが二本生え出していたのである。老婆はひどく驚き悲しんで、この様な姿を、息子や嫁や近所の人に見られてはならないと、手拭で頭を包んで自殺しようと家出をしてしまった。
裏山の笹松というところに登り、七里岩を越えて、青木の鷹の田(たかんた)の池に身を投げようとしたが、水が浅くて果たせず、鐘をつき念仏を唱えながら、鳥居峠を越え、鐘つき平を経て、甘利山中に分け入り、椹池に達して、とうとう入水してしまった。この下条婆が化身して、池中に住みつき、大蛇になったという。
天文年間(一五三二年~一五五五年[やぶちゃん注:半角アラビア数字のみを、かく書き換えさせて貰った。])、山麓甘利郷の領主、甘利左衛門尉の二人の息子が、この椹池で鮒(ふな)を釣っていると、突然、大蛇が現れて、二人の子供を池に引き込んでしまった。二人の子供の遺骸を見つけることも出来なかったので、甘利氏は大いに怒って、領民に命じて、下肥え、汚物を池に投げ込ませ、また池の周りに生えていた椹(さわら)の木[やぶちゃん注:球果植物門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera。同属のヒノキChamaecyparis obtusa とは形態的にもよく似ており、遺伝的に近く、両者間では繁殖能力のある雑種が生まれている。]を切って、池を埋めたので、遂に大蛇は居たたまらずに赤牛に化けて、池を飛び出し、甘利山の山頂の奥にある大笹池(おおささいけ)に身を隠した。けれども、この池も追われて、大蛇は大嵐(現白根町)の善応寺を通って、中巨摩郡八田村野牛島の能蔵池(のうぞういけ)に逃れ、以来その消息を絶ったという。
伝説の舞台となった椹池は、椹の木を切り込まれたために名付けられたと説明されている。麓の研場(とぎば)から、急坂になってやがて平坦な鞍部になるが、この地を栗平(くりだいら)という。領民が下肥えの担棒(かつぎぼう)の肩を繰(く)るところだったから、くり平と言う様になったといわれ、頂上直下の鮒窪(ふなくぼ)は、逃亡中の赤牛の尾に喰いついていた一匹の鮒が、この池でぽとりと落としたからだと説明されている。湿原の痕跡がわずかに残っている凹地である。頂上の経塚(きょうづか)は甘利氏が、子息の供養をして経巻を埋めたところとされ、また鈴蘭(すずらん)は、遭難一周忌に甘利氏夫人が、亡き愛児の形見に咲いた花だとして、御霊草(みたまぐさ)と名づけたともいわれる。
この事件があった甘利氏は、領民の功を賞して、当時、深草山といわれた甘利山一帯を領民に与えて山租を免じた。その証文は最近まで残っていたと伝えられ、現在の甘利山財産区の起源となった。
研場を過ぎて間もなく、おお欅の下に、甘利山財産区の記念碑が建てられている。当時の知事天野久氏の胎厥孫謀(いけつそんぽう-父祖が子孫に遺すはかりごとの意-)の題字の下に、郷土史家佐藤八郎氏の文章が、氏の長兄佐藤丑蔵氏によって書かれている。
甘利山のこの伝説は、色々な形で語り継がれ修飾されていて、必ずしも一定してはいない。一説によれば、椹池を追い出された時の大蛇は赤牛ではなくて下条婆そのままの姿であって、鮒窪の鮒は、彼女の濡れそぼれた袖の中からこぼれ落ちたのだとされている。
現在、大嵐(おおあらし)の城守山善応寺にある千手観音像は、もともと大笹池のほとりに祀られていて、野火に焼かれて大火傷を負ったのを、下条婆が肩に背負って今の場所まで運んで来たのだとも語られている。途中、一休みしたところに水が湧いた。この泉をゴウジミズ(強清水か)と称して、山中憩いの場所となっている。観音様は、善応寺まで負われて来て、もう動くのがいやだと、ここに鎮座ましましたのだという。この千手観音には、現に焼損した跡が残っており、この寺にもまた湧水がある。
下条村の人が、大笹池に近づいて「大笹池の下条婆」と唱えると、村に帰り着く間に雨になるといわれている。
複雑で面白い伝説であるが、もともと下条婆の入水遍歴の説話と、山中の池に怪物が住み赤牛に化身するという説話は、別個に発生したものであったらしい。下条婆の話は、主に甘利山を遠く離れた韮崎市藤井町一帯と中巨摩郡白根町八田村一帯に伝承されており、赤牛の話は、山麓、甘利三ヶ町(旭、大草、龍岡)に伝承されていたと見られる。この二つの説話が後世複合してドラマチックな現在の様な形になったのは、案外に近い過去であったと思われるふしがある。
《引用終了》
とされた上で、柳田國男が引く、「甲斐国志」(文化一一(一八一四)年成立)が引用される。少し手古摺ったが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来た。こちらである。山寺氏の電子化されたものをベースに正字で視認電子化する(句読点は私が附した)。
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〔甘利山〕 上条北割村ニ近シ。山年貢、免除ナリ。相傳フ、昔時、甘利左衞門ノ尉ノ子、此山中、佐原池ニ漁シテ、罔象ノ爲ニ命ヲ失ヒ、其屍ヲ得ザリケレバ、甘利氏、怒リテ、其郷中十村ノ民ニ命ジテ、池中ヘ大木ヲ投シ、不潔ヲ沃カセケレバ、罔象ハ、赤牛ニ化シ、走リテ、又、其奥ノ大笹池ニ入リケリ。其賞トシテ山租ヲ免セラレ今尚之ニ仍ルト云。其西界ヲ西種山ト云、又山中ニ天狗水ト云アリ。
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以下、山寺氏は、『椹池は当時、佐原池』と『書かれていたのであろう。罔象は池中に棲む怪物のことである』と述べられた上、本柳田國男の「山島民譚集」本文をも引用され、「甲斐国志」「山島民譚集」『いずれも下条婆の説話には触れていない』と記された上で、昭和二二(一九四七)年、『「山島民譚集」の主題を展開させて、文化人類学者石田英一郎は「河童駒引考 比較民俗学的研究」を発表したが、この著作によって、甘利山の伝説が、実は人類文化の根源に触れる重要な文化遺産としての地位を与えられたのであった』と述べておられる。同リンク先には、その後に同じ山寺氏の書かれた、「甘利山の信仰」(韮崎市発行の「韮崎市誌」の第五章第四節)がやはり引用されてあり、前掲の記載を補填され、『罔象とあるのは、ミズチと訓ずべきで、「水中にすみ蛇に似て、角や四足をそなえ、毒気を吐いて人を害するという想像上の動物』『」と考えてよいであろう』と述べられた上、柳田國男の本書の記載の後の記載、「ミズチノ恐怖ハ久シキヲ經テ愈々深ク、神トシテ之ニ仕ヘ其意ヲ迎フルニ非ザレバ其災ヲ免ルル能ハズト信ズルニ至リシナリ」を引かれ、『椹池が水神の棲家としての聖地であったことを示唆している』と断ぜられ、
《引用開始》
椹池に住んだ水神は、異形の毒蛇のごときものであって、時に牛の形として出現するという思想は、後に、石田英一郎によって展開された。「多産生成の原始の力を代表する牛は、同時にまた水神の聖獣として、あるいは河伯の犠牲に供えられ、あるいは水精(水神)そのものが牛の姿をとるにいたった――[やぶちゃん注:注記号を略した。]」とされるのである。
椹池または大笹池には、池中に水神が毒蛇の形をもって住み、山麓民の豊凶や、降雨、水源を支配すると考えられていたことになる。その水神を祀るために、池中に牛の首や、牛の枯骨を投じるという様な風習があった。これは独り、甲州のことだけでなく、全国一般に通有な自然信仰であったとする。
この自然信仰に対して、苗敷山の僧侶あるいは修験者が、どの様に関与したかは分らない。おそらく、苗敷山開創の以前からこの信仰はあり、椹池・大笹池・経塚を中心として、密教的修法が盛大を極めた時代もあったと想像されるにすぎない。その過去の記憶が、椹池の伝説として今に伝承されたと言えるであろう。
『甲斐国志』に前述のごとく記載されている伝説は、実際にはさらに複雑な形態をとって、あるいは脚色されて現在の口碑となっている。それはおおむね次の様な形・内容で語られている。
昔、巨摩郡下条村の某家の老婆は、ある朝のこと髪をすこうとして、鏡をのぞくと、いかなる理由か、額に二本の角が生えているのを発見した。老婆この姿を家族や近隣の者に見られてはならないと、手ぬぐいをかぶって家出した。まず、裏山の高松というところに登り、七里岩を横断し、釜無川を渡って、山中に入り鷹ノ田の池に投身しようとした。この池は水が浅くて自殺することができず、鉦をつきながら鳥居峠に出た。それで、今鳥居峠の下を鉦突き平という。さらに当時は深草山と言われた甘利山に分け入り、椹池に入水した。当時この池は、その深さを知るものなく、水面はおよそ三四丁歩ぐらい、周囲は椹の密林で昼なお暗いものすごいところであった。この老婆を下條婆(げじょばんば)と言う。この下条婆が化身して池中深く住みついて池の主となった。これが罔象(ミズチ)であったとする。天文年間甘利郷の領主、甘利左衛門尉の子息(一子とも二子ともいい、その名前も旭丸とか山千代と伝えられる)が、この池で鮒を釣っていると、突然、池中の大蛇に引き込まれて、その遺骸も行方も分らなくなったという事件が起こった。甘利氏は大いに怒って、甘利郷十ヵ村の民に命じて、下肥を担がせて池に投じさせた。その領民が、下肥の担棒をくったところが、くり(栗)平とする。また池を囲む椹の密林を伐って、池を埋めたので、ついに池の主は赤牛と化して鮒窪(ふなくぼ)というところを通って、山奥の大笹池に逃れた。鮒窪を通過する時、赤牛の尻尾に喰いついていた一匹の鮒がぽとりと落ちたのでこの地点を鮒窪と名づけたと言う。
一説によれば、池中を追い出された池の主の姿は、再び下條婆であって、ぬれそぼれたたもとの中に入っていた鮒がここで落ちたのだという。大笹池に到った池の主は、ここもまた追われて、大嵐(現白根町)の城主山善応寺をとおり、野牛島(現八田村)の能蔵池に到り、その後は分からないという。
大嵐側の語り方に従えば、大笹池のそばには、観音様が立っていて、それが野火で焼けた。下条婆は大笹池を逃散する時、この観音様を背負って大嵐に向かった。途中一服したとことに水が湧いた。今ゴウジミズ(強清水か)の泉という。さらにオバガイド(姥之懐か)をとおって善応寺のところへくると観音様は、もう疲れたからここでおろしてくれという。それで善応寺に今、観音様が祀られているのだという。この寺の前にも清冽な湧水がある。
甘利氏の子息の法要は、甘利山頂の広河原で行われ、千駄の薪を焚き、読経し、その経文は経筒に封じて今の経塚に埋めたという。
伝説の大要は前記のとおりであるが、伝説であるだけに、いろいろな形で語られ、内容も少しずつ変化しているのが認められ、定形を得ることは困難である。最も詳細にこれを伝えたのは、向山浅次郎[やぶちゃん注:注記号を略した。]であるが、その他に北巨摩郡教育会[やぶちゃん注:同前。]、河村秀明[やぶちゃん注:同前。]、韮崎市教育委員会[やぶちゃん注:同前。]、韮崎市商工観光課[やぶちゃん注:同前。]等がこの伝説を採集・収録している。
ここで考えられるのは、この一連の伝説は、もともと二つの説話を合成して語られていることである。一つは、『甲斐国志』の記載した山中の池沼に水神が住んでいたという記事、もう一つは、巷間に伝えられた下条婆の入水遍歴の説話である。この二つはもともと別個のものであった。別の時代に、それぞれの地域に発生したもので、共通しているのは、鮒を道連れにして、鮒窪で落としたという点である。
前者は山中の池中に水神が住むという自然信仰の痕跡を示し、後に、その水神が零落してゆく過程を示している。
水神を零落させたのは恐らく苗敷山の修験者・僧侶の力であって、その背後に同山に対する甘利氏の厚遇・崇敬という事実が隠されているのではないかと思われる。自然信仰に基づく水神が、仏教修験者の法力によって漸次無力化して、領主の威光が顕現する。さらに領主は、その領林を郷民の共有地・入会地というような形に移行させて経営をはかったと考えられるのである。この間の事情は、偶々昭和三九(一九六四)[やぶちゃん注:アラビア数字を漢数字に代えた。]年に甘利山登山道の入口研場に建立された胎厥孫謀(いけつそんぽう)と題する甘利山財産区の碑によっても、推定できるものと考える。
後者の下条婆の入水遍歴は、藤井村下條地区の農民が、高松・鷹ノ田・椹池・鮒窪・大笹池・ゴウジミズ・大嵐・能蔵池と祈雨の効果を求めて経由してゆく、雨ごいの道であったと考えられる。中巨摩の野牛島方面の農民は、この逆経路をたどって大笹池・椹池に至ったものであろう。その近くにある千頭星山・甘利山頂経塚などは、雨ごいの行事の一つである千駄焚・千把焚が行われた可能性もある[やぶちゃん注:注記号を略した。]。事実現在でも、下条地区の人たちが、甘利山頂に登り、大笹池を俯瞰して「大笹池の下条婆」と呼ぶと、かれらが下山して帰村するまでに降雨があると言われている。いずれにしても、甘利山一帯は、かつて雨ごい行事の舞台であった。
この二つの説話が合成されたのは、意外に近い過去であって、大正の末年から昭和初年にかけて起こったこの山の観光開発の必要性からでは無かったかと思われる[やぶちゃん注:注記号を略した。]。
以上の様に甘利山における山岳信仰は、その残存が、伝説という形で残っていて、実際の信仰行事は、近い過去までは、雨ごいの様な極めて民間信仰的なもののみであったとみなければならない。
椹池近くにある甘利神社は、古い神社ではない。昭和一一(一九三六)[やぶちゃん注:アラビア数字を漢数字に代えた。]年五月二五日に上棟式が行われた。毎年五月五日に山開きを兼ねた祭典が行われるが、その祭神は甘利左衛門尉である。その祝詞によると、甘利公の遺徳を顕彰して、甘利山経営の進展と、住民の安全を祈願するという建前になっているが、観光的繁栄を求める気持も含まれているらしい。社殿中央の神鏡は甘利公を象徴するものであるが甘利神社と書かれた木札の彫刻は、異様な動物を表すものであって、伝説の大蛇と思われる。
甘利山中には、各所に山の神・水の神を祀る祠があったと思われる。今、椹池から三六か村の山へ[やぶちゃん注:注記号を略した。]ゆく山路には、二基の石祠がある。一つは「文化二年乙丑正月十七日 山口組」、一つには「文□□午二月 武川筋若尾村」と刻まれている。このほかに大笹池から大嵐に下る途中に村名だけ「百々村」と彫った石祠もある。椹池畔にも昔二基あったが、今は、一基の屋根だけが残っている。これは、椹池の水神を祀ったとも、また甘利氏の子息を祀ったとも伝えられていた。これらはかつて、それぞれの祭日に祭祀が行われたと考えられるが、信仰の衰退と、祭祀の煩わしさのために、甘利神社に合祀したということが考えられる。山中に住む、山神・水神・魑魅魍魎のことごとくを新しい神社に封じ込めたと考えてもよいであろう。妙になまなましく彫られた木札の彫刻はそんなことを想像させる。
甘利神社が菓子組合の信仰するとこととなったのは、甘いものを売って利を得るという単なる語呂合わせに過ぎない。それにしても昭和初年、観光宣伝の始まった時代に、新しく建てられた神社というものは、古い信仰と新しい現世利益を混合した不思議な信仰に維持されているという感が強い[やぶちゃん注:注記号を略した。]。
韮崎市の山岳信仰について、鳳凰山・苗敷山・甘利山の三か所の信仰の概略を述べたが、多くの山岳に富む当市には、なお多くの山岳信仰として採り上げねばならぬものがある。その一つは、茅ヶ岳であり一つは、穂坂町上今井の山の神である。両者とも『甲斐国志』を始め、記載する地誌もあるので、さらに資料を収集して、これを考察するのは今後の課題といえよう。
《引用終了》
最後に、多量に引用させて戴いた(これで私のここでに屋上屋の注は不要と考える)山寺仁太郎氏に御礼申し上げる。因みに、頭書の「【さはり池】」は、本文に出ないが、これは、この「佐原池」に「潔なる物を沃(そゝ)がせ」たりした、「障(さは)」りのある「池」というの注目を指示するための、柳田國男の勝手な目立ちたがり屋のやるそれととっている。正直、「厭な感じ」というのが私の感想である。
「同郡安都玉(あつたま)村村山北割組字八牛(やつうし)の牛池」現在の山梨県北杜市長坂町長坂上条にある長坂牛池と推定される(グーグル・マップ・データ)。但し、旧安都玉村村山北割組は、もっと東に当たるので断定は出来ない。「水の色の淸濁を以つて、晴雨を占ふ風習」があったこと、及び、「池の岸には應仁二年の年號ある六地藏あり」が決定打になろうが、私には調べ得なかった。悪しからず。識者の御教授を切に乞うものである。]
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