蒲原有明 有明集(初版・正規表現版) 淨妙華
淨 妙 華
夜(よ)も日(ひ)もわかず一室(いつしつ)は、げに畏(おそろ)しき電働機(モオトル)の
聲(こゑ)の唸(うな)りの噴泉(ふんせん)よ、越歷幾(エレキ)の森(もり)の木深(こぶ)けさや、
うちに靈獸(れいじゆう)潛(ひそ)みゐて靑(あを)き炎(ほのほ)を牙(き)に齒(か)めば、
ここに「不思議(ふしぎ)」の色身(しきしん)は夢幻(むげん)の衣(きぬ)を擲(なげう)ちぬ。
かの底知(そこし)れぬ海淵(かいえん)も、この現實(げんじつ)の秘密(ひみつ)には
深(ふか)きを比(くら)べ難(がた)からむ、彼は眠(ねぶ)りて寢(ね)おびれて、
唯(ただ)惡相(あくさう)の魚(うを)にのみ暗(くら)き心(こゝろ)を悸(おのゝ)かし、
これは調和(てうわ)の核心(かくしん)に萬法(ばんはふ)の根(ね)を誘(さそ)ふなる。
舊(ふる)きは廢(すた)れ街衢(まちちまた)、また新(あたら)しく榮(さか)ゆべき
花(はな)の都(みやこ)の片成(かたな)りに成(な)りも果(は)てざる土(つち)の塊(くれ)、
塵(ちり)に塗(まみ)るる草原(くさはら)の、その眞中(たゞなか)に畏(おそろ)しき
大電働機(だいモオトル)の響(ひゞき)こそ日(ひ)も夜(よ)もわかね、絕間(たえ)なく。
船(ふえん)より揚(あ)げし花崗石(くわかうせき)河岸(かし)の沙(いさご)に堆(うづたか)し、
いづれ大厦(たいか)の礎(いしずゑ)や、彼方(かなた)を見(み)れば斷(た)え續(つゞ)く
煉瓦(れんぐわ)の穹窿(アアチ)。人はこの紛雜(ふんざつ)の裡(うち)に埋(うづもれて
(願(ねがひ)はあれど名(な)はあらず)、力(ちから)と技(わざ)に勵(はげ)みたり。
嗚呼(あゝ)、想界(さうかい)に新(あらた)なる生(いのち)を享(う)くる人(ひと)もまた
胸(むね)に轟(とどろ)く心王(しんわう)の烈(はげ)しき聲(こゑ)にむちうたれ、
築(きづ)き上(あ)ぐべき柱(はしら)には奇(く)しき望(のぞみ)の實相(じつさう)を
深(ふか)く刻(きざ)みて、譽(ほまれ)なき汗(あせ)に額(ひたひ)をうるほさむ。
さあれ車(くるま)の鐵(てつ)の輪(りん)、軸(ぢく)に黃金(こがね)のさし油(あぶら)
注(そそ)げば空(そら)を疾(と)く截(き)りて大音(だいおん)震(ふる)ふ電働機(モオトル)や、
その勢(いきほひ)の渦卷(うづまき)の奧所(おくが)に聽(き)けよ靜寂(せいじやく)を、――
活(い)ける響(ひゞき)の瑠璃(るり)の石(いし)、これや「眞(まこと)」の金剛座(こんがうざ)。
奇(く)しくもあるかな、蝋石(らふせき)の壁(かべ)に這(は)ひゆく導線(だうせん)は
越歷幾(エレキ)の脈(みやく)の幾螺旋(いくらせん)、新(あらた)なる代(よ)に新(あらた)なる
生命(いのち)傳(つた)ふる原動(げんどう)の、その力(ちから)こそ淨妙華(じやうめうげ)、
法音(ほふおん)開(ひら)く光明(くわうみやう)の香(にほひ)ぞ人(ひと)に逼(せま)り來(く)る。
[やぶちゃん注:第三連の一行目の「街衢(まちちまた)」のルビは底本では「まちさまた」となっている。しかし、「衢」に「さまた」という読みはなく、当て読みとしても「さまた」に「ちまた」と同義となる意味はない。「さ」は「ち」の反転した字体であり、植字工が誤り易い活字であったし、ここはさらに細かなルビ作業であるから、植字ミスと採るのが穏当と思われ、採録する昭和五一(一九七六)年中央公論社刊「日本の詩歌」第二巻でも『ちまた』、パラルビの「青空文庫」版(底本は昭和四三(一九六八)年講談社刊「日本現代文学全集」第二十二巻「土井晚翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」)でも『ちまた』と振っている。「さまた」のままにしておいたのでは、違和感強烈にして、鑑賞・朗読に堪えぬので、特異的に誤植と断じて訂した。因みに、第二連の「悸(おのゝ)かし」のルビはママである。
「電働機(モオトル)」motor。
「越歷幾(エレキ)の」electric。「電働機(モオトル)」もこれも近代的都市風景の持つ、非情の、冷血にして、偏奇なるが故に異常の擬似的肉感をも臭わせる、機械文明の詩的イマージュであろう。
「色身(しきしん)」仏教用語であるが、二種の意味がある。原義は三十二相などを具えた生身(しょうしん)の仏をいう。法身(ほうしん)に対して、仏の肉身(にくしん:具体的に我々の目の前に仮に現わした具現身。応身(おうじん))を指したが、報身(ほうじん:菩薩であった時に願を立てて修行を積んだその正しい報いとして得た仏身)をも合わせても言う。二つ目ののそれは、そこから転じた広義の「物質的な形を持った(持っているように見えるに過ぎない仮の儚い)身。ここでは純粋な正法(しょうぼう)の上でのそれではありえず、妖艶にして異様な最後のそれである。
「片成(かたな)りに成(な)りも果(は)てざる土(つち)の塊(くれ)」未完成ながらも形を成す、という状態にさえもなることの出来ない、儚く慘めなちっぽけな土くれ。
「大厦(たいか)」有明にしてみれば、音数律に合わせぬならば、「building」をカタカナ音写したいところだろう。
「穹窿(アアチ)」arch。
「心王(しんわう)」仏教用語。心の作用の主体となるところの識(しき:認識の主体。「眼(げん)」・「耳(に)」・「鼻」・「舌」・「身」・「意」の六識を以って、それぞれの「色(しき)」・「声(しょう)」・「香」・「味」・「所触(しょそく)」・「法」の六境(客体)を、「見」・「聞」・「嗅」・「味」・「触」・「知」として認識するシステムを全般を指す。初めの五識は外界の事物に対し、第六識の「意」は内面的認識となる。大乗仏教ではこれらに自我を意識する「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)を加える)のこと。
この詩篇、抹香臭さの背後に――無論、詠んでいる有明にはそんな芸術的背景はないのだが――後のダダイスム(フランス語:Dadaïsme)やフュテュリスモ(イタリア語:Futurismo)のゴッタ煮にロシア・アヴァンギャルド(Russian avant-garde/ロシア語:Русский авангард:ルースキイ・アヴァンガールト)のスパイスをふりかけしたような印象さえ感じられて、何だか、面白い。それをまた、実に大真面目に正面からサンボリスムでやらかしているところが、如何にも――笑ってしまうほどに――凄い。]
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